2010年12月9日木曜日

戦国女性人名辞典

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【あ】

青木於富【あおきおとみ(1492~1560)】

三河国刈谷城主水野忠政の室。青木弌宗の娘(寺津城主大河内元綱の養女)。別名「華陽院」。松平清康の継室。水野忠政に嫁いで水野忠重、於大の方ら三男一女を生んだ。岡崎城主松平清康がその美しさに目をつけて、松平清康が水野忠政を打ち破った際、和議の条件として譲り受けた。松平清康の病没後、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河国の諸豪族に次々に嫁ぐが、いずれも夫に先立たれた。松平元康が今川義元に人質として駿府に送られるとその養育にあたった。水野忠政を含めて五人の夫をもつことなった。

饗庭局【あえばのつぼね(15??~1615)】

淀殿の乳母。父浅井亮政の養子田屋明政。母は浅井亮政の唯一の嫡女海津殿(栖松院)。姉は海津局。息子は木村重成の番頭内藤長秋。交渉に長けて、淀君の名代として度々使者として遣わされた。1600年「関ヶ原の役」では、淀君の名代としてお初(常高院)のいる大津城へ京極龍子と共に遣わされ、高台院の名代である孝蔵主、高野山の使者木食応其と共に大津城の開城を成功させた。1614年「方広寺の鐘銘事件」では、大蔵卿局と共もに駿府国に下向し松平元康と会談した。1615年「大坂冬の陣」の講和の際も、松平元康のもとへ血判を求めに常高院と共に使者に立った。

明石亜矢【あかしあや(15??~15??)】

明石守重の娘(次女)。洗礼名「レジーナ」。1600年「関ヶ原の役」後は、母モニカ麻耶と共に黒田孝高に匿われた。1614年「大坂冬の陣」では、父明石守重と大坂城にで籠城した。明石亜矢はフェレイラ神父と共に南蛮医術で負傷した兵士の治療を行った。1615年「大坂夏の陣」で大坂城が落城すると、市中で捕らえられて尋問を受けたが後に開放された。長崎で医術を学び澳門で阿蘭陀人医師の勧めで東インド会社経営の医師養成所で学び外科医学を修得し外科医師の資格を得た。

秋篠於藤【あきしのおふじ(15??~1622)】

羽柴秀長の室。秋篠伝左衛門の娘。別名「智雲院」。大和国出身で法華寺の興俊尼という比丘尼であったが羽柴秀長が興俊尼を見初めた。懐妊した興俊尼は寺に留まれず、菊田家邸でにて大善院を出産し、羽柴秀長の室となった。羽柴秀長に嫁ぐ際に、還俗し於藤となる。羽柴秀長との間には一男二女を儲けた。嫡男羽柴小一郎は早世した。長女は毛利秀元の室(大善院)。次女は羽柴秀保の室(於菊)。羽柴秀長の病没後には興福院の尼を務めた。

秋山美和【あきやまみわ(15??~15??)】

武田勝頼の側室。秋山光次の娘。※「武田勝頼」by新田次郎。

秋山都摩【やきまやつま(1564~1591)】

松平元康の側室。秋山虎康の娘(穴山信君の養女)。通称下山殿。別名秋山夫人。1582年、松平元康の側室となった。1583年、武田信吉を産んだ。

奥野早百合【おくのさゆり(15??~1584)】

佐々成政の側室。1584年、富山城主佐々成政は、松平元康と羽柴秀吉の和議の真意を問質すため、北アルプス中の隘路といわれた厳冬の立山、佐良峠を越えて浜松城主松平元康の元に訪れた。羽柴秀吉との和議が整った松平元康は、反羽柴秀吉を協同歩調を取ることを拒み、佐々成政は越中国へと帰るほかはなかった。佐々成政には、奥野早百合という寵愛の侍女がいたが、佐々成政の愛を一身にあつた早百合は他の側室の嫉妬を買っていた。「佐々成政が佐良越えの留守中に早百合が小姓岡島金一郎と密通した」と他の側室たちに讒言され、裏切られたと思った佐々成政は、早百合の言い訳も聞かず斬り捨ててしまった。早百合は「もし、立山に黒百合の花が咲いたら、佐々家は滅亡するであろう」と言い残し息絶えた。

明智小見姫【あけちおみひめ(1513~1551)】

長井規秀の室。恵那郡明智城主明智光継の娘。織田信長の室(濃姫)と次男斎藤孫四郎を産んだ。若くして病没した。

明智革手姫【あけちかわてひめ(15??~15??)】

明智秀満の室。明智光廉の娘(明智光秀の養女)。荒木村重の嫡男荒木村安の室となったが、荒木村重の謀反後に離縁されて父明智光廉の元に戻った。その後、三宅弥平次と称していた明智秀満と再婚した。明智秀満は明智家の家督を相続した。1582年「山崎の戦い」に敗れたのちに坂本城に戻った夫明智秀満と共に自刃した。

明智珠姫【あけちたまひめ(1563~1600)】

細川忠興の室。明智光秀の娘。別名「細川ガラシャ」。1582年「本能寺の変」で、明智光秀が羽柴秀吉に討取られると、明智珠姫は「逆臣の娘」となるが、細川忠興は珠姫と離縁せず、丹後国の味土野に隔離、幽閉した。1600年「関ヶ原の役」で、細川忠興が松平元康方に属して「越後長尾家討伐」に出陣すると石田三成方は、大坂城下の玉造細川屋敷に居た彼女を人質するため大阪城に入城するように使者を派遣したが珠姫は拒否した。石田三成方の兵が玉造細川屋敷を囲んだ。キリスト教の教えにより、自害することができず、家臣小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて死んだ。辞世の歌「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」。2011年のNHK大河ドラマ「お江」ではミムラが演じた。

浅井蔵屋【あざいくらや(15??~1568)】

浅井亮政の室。浅井直政の娘。浅井亮政の側室である尼子馨庵と共に小島権現再興にあたっていることなど、嫡女として、浅井亮政の室として、浅井亮政の奥向を治めた。浅井明政の室(鶴千代)と浅井政弘を産んだ。孫娘には海津局と饗庭局(共に鶴千代の娘)がいた。

浅井文姫【あざいふみひめ(1542~1561)】

斎藤義龍の室。浅井亮政の娘。美濃国の長井規秀との関係保全のため政略結婚。浅井長政が六角義治と争うようになると、斎藤義龍から離縁された。斎藤龍興を産んだ。

浅井松市御料【あざいまついちごりょう(15??~15??)】

三田村定頼の室。浅井亮政の娘。松市御料を迎えて浅井家の親類衆となった。三田村定頼は三田村城を本拠とし、元々は京極家の被官であったが浅井亮政の台頭とともに浅井亮政に仕えた。枝連衆の三田村国定は横山城を大野木秀俊らと共に守備していたが「姉川の戦い」で討死した。三田村定頼、三田村光頼父子は「小谷城の戦い」で、討死した。

浅井鶴千代【あざいつるちよ(15??~1602)】

浅井明政の室。浅井亮政の娘。通称海津殿。別名「栖松院」。浅井明政に輿入れして海津局、饗庭局、近江局の三姉妹を産んだ。嫁いだ後は、浅井明政が海津城主だったため海津殿と称された。海津局は淀殿に仕え「大坂夏の陣」後は、於江に仕えた。饗庭局は淀殿の乳母となり「大坂夏の陣」で自刃した。近江局も於江に仕えた。織田信長と浅井長政の「小谷城の戦い」では、浅井明政が討死にし、浅井鶴千代は宗正寺にて出家した。出家した後は娘二人と共に淀殿に仕えた。1600年「大津城の戦い」で、姪の京極マリアとその娘京極龍子、淀殿の妹初姫が窮地に陥ると助け出すため使者として大津城まで赴いた。1615年、淀殿に仕えた饗庭局は「大坂夏の陣」で自刃した。

浅井阿久【あざいあく(1538~1585)】

浅井久政の娘(浅井亮政の養女)。別名「見久尼」。浅井久政の長女であるが、庶女のため祖父浅井亮政の養女となった。彼女は身長が五尺八寸(176cm)あり、体重が二十八貫(105kg)の大女であったため、嫁入りをあきらめて出家した。実宰院境内には花一輪に二個ずつ実をつけるという双子の梅があるが、それは阿久が出家するときに浅井長政が姉に贈ったものである。小谷落城の際、浅井長政は娘の茶々姫、初姫、小督姫を城から出して、阿久にその養育を依頼した。羽柴秀吉によって実宰院に庵料として50石の田畑を与えられ、三霊殿を創営して浅井家三代を霊を祀った。

浅井福姫【あざいふくひめ(1541~1681)】

京極高吉の室。浅井久政の娘(次女)。洗礼名「ドンナ・マリア」。別名「京極マリア」。小谷城で京極高次、京極高知、京極龍子を産む。1573年、京極高吉は嫡男の京極高次を織田信長に人質として送り上平寺に隠居しており、そこで共に暮らした。1581年、京極高吉と共に安土城城下でグネッキ・ソルディ・オルガンティノ神父より洗礼を受けるが、その数日後に京極高吉は病没した。1587年、羽柴秀吉から「バテレン追放令」が発せられた後も信仰を貫き、羽柴秀吉の側室となった京極龍子を除く四人の子が洗礼を受けた。京や大坂での布教活動を行った。1600年「関ヶ原の役」後、次男京極高知が丹後国に移り住みその庇護の下此御堂という建物を中心に布教活動を行い、更なる信仰を深めた。

浅井茶々【あざいちゃちゃ(1567~1615)】

羽柴秀吉の側室。浅井長政の娘(長女)。別名淀君。1573年、伯父織田信長勢の攻撃により小谷城が落城、父浅井長政と祖父浅井久政が自刃した。母於市と浅井三姉妹は藤掛永勝に救出され、織田信長の元で養育された。1582年「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉らによって、織田家後継者を決める「清洲会議」が開かれ、於市は柴田勝家と再婚し、浅井三姉妹と共に越前国北ノ庄城へ移った。
1583年、羽柴秀吉と対立した柴田勝家は「賤ヶ岳の戦い」で争うも敗北。北ノ庄城の落城の際、於市は柴田勝家と共に自刃したため、三姉妹は羽柴秀吉の庇護を受けた。1588年、羽柴秀吉は三姉妹の中では市の面影を一番よく受け継いでいた長女の茶々を側室に迎えた。1589年、鶴松を懐妊すると、喜んだ羽柴秀吉から山城国淀城を賜り「淀の方」と称された。1593年、鶴松は病没したが、こんどは羽柴秀頼を産み羽柴秀吉の病没後、羽柴秀頼の後見人として大蔵卿局、饗庭局らを重用して家政の実権を握った。1600年「関ヶ原の役」では、直接は兵力を動かさなかったが、役後羽柴秀吉が全国各地に設定した蔵入地を没収され、摂津国、河内国、和泉国650,000石を領した。松平元康は、羽柴秀頼に臣従を求めるが、浅井茶々を中心とする大坂方は現状を認識できずに松平元康勢との戦になった。1615年「大坂夏の陣」では、松平元康勢に敗北し大坂城落城時に羽柴秀頼や大野治長らと共に自刃した。2011年のNHK大河ドラマ「お江」では宮沢りえが演じた。

浅井初姫【あざいはつひめ(1570~1633)】

京極高次の室。浅井長政の娘(次女)。別名「常高院」。1573年、伯父織田信長勢の攻撃により小谷城が落城、父浅井長政と祖父浅井久政が自刃した。母於市と浅井三姉妹は藤掛永勝に救出され、織田信長の元で養育された。1582年「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉らによって、織田家後継者を決める「清洲会議」が開かれ、於市は柴田勝家と再婚し、浅井三姉妹と共に越前国北ノ庄城へ移った。
1583年、羽柴秀吉と対立した柴田勝家は「賤ヶ岳の戦い」で争うも敗北。北ノ庄城の落城の際、於市は柴田勝家と共に自刃したため、三姉妹は羽柴秀吉の庇護を受けた。1587年、羽柴秀吉の計らいにより、京極高次に輿入れした。1614年「大坂冬の陣」では松平元康の使者として淀君を説得して和議を実現させた。1615年「大阪夏の陣」では、羽柴秀頼の助命を松平元康に願い出たが聞き届けられることはなかった。浅井初姫は他の姉妹が天下統一を果たした家系に嫁いでいるために、三姉妹のなかで目立った功績はあまり知られていないが、姉と妹が嫁いだ羽柴家と松平家は武家では正統派ではない。初が嫁いだ、京極家は室町時代には、出雲、南近江の守護職を務めた、四職に列した名門であり、家格的には一番上の家に嫁いだ。2011年のNHK大河ドラマの「お江」では水川あさみが演じた。

浅井小督姫【あざいおごうひめ(1573~1626)】

松平秀忠の室。浅井長政の娘(三女)。通称於江。別名「崇源院」。1573年、伯父織田信長勢の攻撃により小谷城が落城、父浅井長政と祖父浅井久政が自刃した。母於市と浅井三姉妹は藤掛永勝に救出され、織田信長の元で養育された。1582年「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉らによって、織田家後継者を決める「清洲会議」が開かれ、於市は柴田勝家と再婚し、浅井三姉妹と共に越前国北ノ庄城へ移った。1583年、羽柴秀吉と対立した柴田勝家は「賤ヶ岳の戦い」で争うも敗北。北ノ庄城の落城の際、於市は柴田勝家と共に自刃したため、三姉妹は羽柴秀吉の庇護を受けた。はじめの婚姻相手は佐治一成だが、羽柴秀吉によって離縁させられ、羽柴秀吉の甥羽柴秀勝の元へ嫁がされた。1592年、羽柴完子を産むが「文禄の役」に参陣した羽柴秀勝は巨済島で病没した。1595年、松平元康の三男松平秀忠と再婚する。羽柴秀勝との子である完子は、茶々の猶子として引き取られた。1597年、松平秀忠との間に千姫、松平家光、松平忠長など二男五女を産んだ。2011年のNHK大河ドラマ「お江」では上野樹里が演じた。

浅井くす【あざいくす(15??~15??)】

浅井長政の娘(庶女)。京極龍子の侍女。異母姉妹には茶々(淀殿)、於初(常高院)、於督(崇源院)。松の丸殿、京極高次、京極高吉らは従妹。彼らの生母養福院は父方の伯母。羽柴秀吉の妾芳壽院の乳母なった。1573年、浅井長政が討死すると伯母養福院に引き取られた。三方郡金山村で龍澤寺を建立した。京極龍子の侍女となった。

朝倉東姫【あさくらあずまひめ(1558~1614)】

朝倉義景の娘。

芦名葵姫【あしなあおいひめ(1541~1626)】

白河義親の室。芦名盛氏の娘。

足利詩姫【あしかがうたひめ(1545~1573)】

三好義継の室。足利義晴の娘。

足利氏姫【あしかがうじひめ(1574~1620)】

小弓公方足利国朝の室。古河公方足利義氏の娘。「氏」という名の姫ではなく、実名が不明であるため足利氏姫と称された。1583年、父古河公方足利義氏が病没すると、弟足利義氏が他界していたため、古河足利家の家督を相続した。1590年「小田原の役」によって後北条家が滅んだ際、古河城が破却されたことにより、古河公方館に入った。1591年、羽柴秀吉の命により、祖父の代より敵対していた小弓公方足利義明の孫足利国朝と結婚した。これにより、足利義明が擁立された80年ぶりに両家は統一された。足利国朝は羽柴秀吉に喜連川城400貫を与えられ古河公方館に在住した。

足利嶋姫【あしかがしまひめ(15??~15??)】

倉ヶ崎城主塩谷惟久の室。後に羽柴秀吉の側室。足利頼澄の娘。通称古河姫君。別名「月柱院」。嶋姫は、関東管領、古河公方家の分家である小弓公方喜連川家の姫君。羽柴秀吉の側室達の中では最も高い家柄の出。於嶋の最初の夫である塩谷惟久も、嶋姫の実家と同じく源義家の血を引き、源頼朝から塩谷郡に20,000石の領地を与えられた名家。1590年「小田原の役」後、羽柴秀吉勢が北関東に進出と塩谷惟久は室を置いて逃亡した。実家の古河城120,000石は没収され、古河城からも退去を命じられ、古河城近くの鴻巣御所周辺に332石を与えられた。嶋姫は羽柴秀吉の側室になった。後に松平元康の養女、振姫の侍女となった。嶋姫は夫塩谷惟久ではなく、実家の救済を羽柴秀吉に嘆願した。1582年、嶋姫の弟足利義明の孫足利国朝と、古河公方家の足利義氏の娘である足利氏姫を結婚させ、足利義氏の病没によって断絶してしまっていた鎌倉公方足利家を復興させた。羽柴秀吉は嶋姫に喜連川家領3,800石の化粧料を与えた。

古河公方足利梓姫【あしかがうずさひめ(1548~1578)】

里見義弘の継室。古河公方足利晴氏の娘。

安宅しん【あたけしん(15??~15??)】

仁木蔵人の室。安宅家は紀伊国熊野に根拠地を置く熊野海賊衆。1526年、安宅実俊が病没するが、息安宅安定が幼少のため、一時的に弟安宅定俊に家督を譲った。ところが安宅安定が元服しても、家督を譲らず二派に分かれての内乱が勃発した。安宅しんの実家と仁木蔵人の実家も敵味方に分かれ戦った。安宅しんは、夫仁木蔵人を救うために身代わりの自身の頸を実家に差し出した。

阿知於久【あちおひさ(15??~15??)】

本多忠勝の室。阿知玄銕の娘。1569年、松平元康の媒酌により婚姻。本多忠政、本多忠朝の他に娘一人を産んだ。

油川恵理姫【あぶらかわえりひめ(1528~1571)】

武田晴信側室。油川信守の娘。仁科盛信、葛山信貞、菊姫、松姫を産み武田晴信の婚姻政策の大きな役割を担った。油川家は武田家の支流で、武田信縄の弟油川信恵を祖。武田晴信は枝連衆を征服した有力氏族の養子にして懐柔を図っているが、油川夫人の子である仁科盛信は信濃の豪族仁科家を葛山信貞は駿河の葛山家の家督を相続した。1567年、松姫は織田信長の嫡男織田信忠と婚約したが、五年後に破談になった。1576年、菊姫は越後長尾景勝の室となった。※「武田信玄」by新田次郎。

尼子みつ【あまこみつ(15??~15??)】

尼子晴久の継室。尼子国久の娘。父尼子国久を敬愛しており尼子晴久と対立した。1554年、尼子晴久に父尼子国久を謀殺されると尼子晴久に対して、恨みを抱くようになった。のち、恨みを捨てたふりをして尼子晴久を欺いて謀殺に及び、父尼子晴久を敬っていた嫡男尼子義久との関係に溝が生じた。毛利元就の策略により、尼子義久が河副久信を裏切り者として謀殺した際は「尼子晴久と同じ事をしたのだ」と尼子義久を嘲笑った。1997年のNHK大河ドラマ「毛利元就」では岩崎ひろみが演じた。

有馬奈津姫【ありまなつひめ(1566~1589)】

龍造寺政家の室。有馬義貞の娘。1584年、父有馬晴信が龍造寺家から離反すると、龍造寺政家は養父龍造寺隆信から有馬家討伐を命じられるが、有馬奈津姫が有馬義貞の娘でもあり、これに消極的であったため龍造寺隆信が「有馬家討伐」に向かい龍造寺政家は留守を守った。この龍造寺隆信は「沖田畷の戦い」で討死した。

飯坂の局【いいざのつぼね(1569~1634)】

伊達政宗の側室。飯坂城主飯坂宗康の娘(次女)。伊達政宗の側室となって米沢城に入り飯坂の局と称された。「伊達政宗」by山岡荘八では、伊達政宗との対面でねずみを捕まえたことから「ねこ御膳」と称された。1591年、伊達秀宗を産んだ。米沢城から松森に移って隠棲し「松森の局」と称された。1604年、生母の新造の方を亡くした伊達政宗の三男伊達宗清を引き取って養子とし実家の飯坂家を相続させた。1616年、伊達宗清が吉岡城主となったためそれに伴って吉岡に移った。1987年のNHK大河ドラマ「伊達政宗」では、秋吉久美子が演じた。

飯田須和【いいだすわ(1555~1637)】

松平元康の側室。飯田直政の娘。通称阿茶局。別名「雲光院」。はじめ神尾忠重に嫁いで男児を産むが神尾忠重が討死すると、松平元康に仕えた。戦場においても松平元康の身の回りの世話した。1548年、懐妊中に「小牧、長久手の戦い」に参陣して流産した。松平元康との間に子供は無かった。西郷局の没後は松平秀忠、松平忠吉を養育した。才知に長け、奥向きの諸事一切を松平元康より任されており「大坂の役」の際には和議の使者を勤めた。松平秀忠の娘東福門院和子入内の時には母代わりを務めた。「影武者徳川家康」by隆慶一郎では影武者と知りつつ松平家存続のため松平秀忠と対立した。

井伊直虎【いいなおとら(15??~1582)】

遠江国引佐郡井伊谷城主井伊直盛の娘。1544年、父井伊直盛に嫡男がいなかったため、井伊直盛の従兄弟井伊直親を婿養子に迎える予定であったが、家老小野道高の讒言により、井伊直満が今川義元に謀反の疑いをかけられて自刃させられた。井伊直親は信濃国に落延びた。1560年「桶狭間の戦い」では、井伊直盛が討死し井伊直親が井伊家の家督を相続したが、小野道好の讒言によって今川氏真に謀殺された。1563年、曽祖父井伊直平が天野家の犬居城攻めに向かう途中、曳馬城主飯尾連竜の室お田鶴の方(椿姫)に毒茶を呑まされ謀殺された。1564年、引間城の飯尾連竜を攻撃した際、家臣新野左馬助と中野越後守が討死した。1568年、井伊直虎は井伊谷三人衆(近藤康用、鈴木重時、菅沼忠久)と共に松平元康に属して井伊谷城にあった小野道好を討取り井伊谷領を回復した。1575年、井伊直虎は家督を井伊直政に譲った。

伊賀マリア【いがまりあ(1576~1635)】

筒井順慶の娘。洗礼名「マリア」。内藤如安の妹、内藤ジュリアと親交が深く、宣教師の記録には「ジュリアの最初の友である」と記載されている。内藤ジュリアが修道会を建設しようとした時、伊賀マリアは支援を行った。1596年、伊賀マリアはキリスト教に入信した。洗礼の折は内藤ジュリアが代母を担当した。キリシタンとしての活動は熱心であり、彼女に感化されて彼女の母、祖母、そして実家の大名家の後継ぎがキリスト教に入信した。1612年、禁教令に触れるところとなり、高山右近らと共にマニラへと配流された。その後はマニラのサン・ミゲル修道院で信仰に余生を費やした。

井口阿古【いぐちおふる(1527~1573)】

浅井久政の室。伊香郡の豪族衆井口経元の娘。1573年、織田信長勢の攻撃を受け小谷城は落城、浅井久政、浅井長政が自刃し、於市と娘三人と共に織田信長に降った。しかし、毎日手の指を一本ずつ切り落とされ、指の無くなった翌日に頸を斬られた。

生駒吉乃【いこまきつの(1528~1566)】

織田信長の側室。生駒家宗の娘。馬借を家業としていた生駒家宗の娘。はじめは土田弥平次に嫁いだ。1556年、夫土田弥平次が討死し、実家に戻っていたところを織田信長に見初められ側室となった。織田信忠、織田信雄、織田徳姫を産んだが産後の肥立ちが悪くまもなく病没した。織田信長から香華料として660石が贈られた。織田信長の正室濃姫には子がない為、その養子となった生駒吉乃の男織田信忠が嫡男とされ、実質上の正室に準じる扱いを受けていた。

池田せん【いけだせん(15??~15??)】

森長可の室。池田恒興の娘。別名「安養院」。森長可に嫁ぎ、その討死後は中村一氏と再婚した。200人の女鉄砲武者の鉄砲隊を組織し戦場に出た。

池田ぬい【いけだいぬ(15??~15??)】

京極家の家臣池田修理亮の娘。足利義昭の侍女として四十九年の間仕えた。著書に「くばう記」。

生駒吉乃【いこまよしの(15??~1566)】

織田信長の側室。尾張の豪族生駒家宗の娘。初めは土田弥平次に嫁ぐ。1556年、夫土田弥平次が討死し、実家の生駒家に戻っていたところを織田信長に見初められ側室となった。織田信長が最も愛したと伝えられ実質的には正室的存在だった。嫡男織田信忠、次男織田信雄、織田徳姫を生んだが産後の肥立ちが悪くまもなく病没した。

石井彦鶴姫【いしいひこつるひめ(1541~1629)】

鍋島直茂の室。石井常延の娘。別名「陽泰院」。兄石井常忠は龍造寺隆信の馬廻衆で勇将。長姉は法性院(石井忠俊室)、弟は龍造寺政家の家老石井賢次、妹は日喜尼(杉町信房の室)。彦鶴姫は、龍造寺家の家臣納富信澄に嫁いだが、納富信澄が討死したため、一人娘を連れて実家に戻っていた。龍造寺隆信、鍋島直茂が石井常延の屋敷で彦鶴姫を見初めて婚姻した。鍋島直茂も初婚ではなく、慶円という前室がいたがそのために離縁された。鍋島直茂の後室となった彦鶴姫は、前妻慶円による「後妻討ち」を受けることになった。彦鶴姫は、慶円を穏やかな態度で迎え、茶菓子などで丁寧にもてなした。接待された慶円も彦鶴姫に穏やかな態度で接した。長女千鶴(多久安順の室)、次女彦菊(諫早直孝の室)、嫡男鍋島勝茂、次男鍋島忠茂を生んだ。前夫納富信澄との間に儲けた娘は、鍋島直茂の養女して太田茂連に嫁いだ。

石谷菜々【いしたになな(15??~1583)】

長宗我部元親の室。石谷光政の娘。美濃国斎藤家の石谷頼辰と斎藤利三の父違いの兄弟。1563年、土佐国へ輿入れの際には長宗我部元親が京都へ上洛した。その後長宗我部信親、親和、親忠、盛親、一条内政正室、吉良親実正の室、佐竹親直正の室、吉松十左衛門正の室を生んだ。1582年「本能寺の変」後、長宗我部元親による四国統一を目前に他界した。※「夏草の賦」by司馬遼太郎で「菜々」という名前が付けられている。

石田辰姫【いしだたつひめ(1592~1623)】

津軽信枚の室。石田三成の娘(三女)。別名「荘厳院」。1598年、羽柴秀吉の死後に高台院の養女とった。1600年「関ヶ原の役」で父石田三成が敗れると、高台院の庇護のもと成長した。1610年、津軽信枚に嫁いだ。1613年、松平元康が養女満天姫(異父弟松平康元の娘)を津軽信枚に降嫁させた。津軽家は松平家をはばかって満天姫を正室として迎え、辰姫は側室に降格となる。側室となってからも津軽信枚と辰姫の仲はよく津軽信義をもうけた。

出雲の阿国【いずものおくに(1572~1659)】

出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘で出雲大社の巫女。歌舞伎の祖。もともと京四条河原で始めた彼女演ずる「かぶき踊り」は後に全国に知られるようになり、結城秀康からは「天下一の女」と言われた。出雲の阿国一座は、女性だけで男役も女性が演じた。女性の美しさを強調して演ずるスタイルに、武将や宮中まで招かれるようになった。 1603年、北野天満宮に舞台をかけて興行を行った。男装して茶屋遊びに通う伊達男を演じるもので、京都で大変な人気を集めた。阿国は四条河原などで勧進興行を行った。阿国一座が評判になるとこれを真似た芝居が遊女によって盛んに演じられるようになり、遊女歌舞伎となった。1607年、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後消息がとだえた。2006年NHK金曜時代劇「出雲の阿国」では菊川怜が演じた。

伊勢於菊【いせおきく(1590~1615)】

伊勢貞為の娘。羽柴秀頼の侍女。別名「阿古御局」。羽柴秀頼の侍女で大上臈。1612年、羽柴秀頼のもとへ出仕した。羽柴秀頼と共に参内した。公家衆より武士の娘を参内するとはと非難されたが、陽光院勅定により平重盛の子孫のため仮親を立てずとも参内可能という特例を得た。1615年「大坂夏の陣」では、山里曲輪の糒蔵にて羽柴秀頼、淀殿と共に命運を共にした。

一条喜多姫【いちじょうきたひめ(1546~1569)】

一条房基の娘。伊東義益に嫁ぎ、伊東義賢、伊東祐勝、阿虎(伊東祐兵の室)を産んだ。伊東義益の病没後、島津義久勢によって伊東家が日向国から追放されると、縁を頼って大友義鎮を頼り落延びた。

一色久芳院【いっしきくほういん(15??~15??)】 

藤堂高虎の室。一色義直の娘。別名「久芳院」。藤堂高虎に先立ち津城で没し四天王寺に葬られた。

伊東京姫【いとうみやこ(1535~1571)】

肝付良兼の室。伊東義祐の娘。

今泉美代姫【いまいずみみよひめ(15??~15??)】

百武賢兼の室。今泉永矩の娘。別名「円久尼」。龍造寺隆信の仲介で百武賢兼に輿入れした。夫百武賢兼に劣らぬ女傑で、大力で荒馬を乗りこなすのを得意とし、大薙刀を得物に戦陣にも立つ女丈夫であった。1584年、夫百武賢兼の討死を知ると直ちに髪を下ろして円久尼と称したが、引き続き蒲船津城にあって城主の務めを果たした。1584年、筑後国奪回を目指す戸次鑑連、高橋鎮理勢が蒲船津城を囲んだが、円久尼は城兵を督励してこれを撃退した。

今川田鶴姫【いまがわたづひめ(15??~1568)】

遠江国引馬城主飯尾連龍の室。1560年、飯尾連龍の父飯尾乗連は「桶狭間の戦い」で討死した。飯尾連龍は今川家から離反した。今川氏真は二度に渡り、引馬城を攻撃するも落とせず、和睦に見せかけ駿府に飯尾連龍を呼び出し謀殺した。城主飯尾連龍を失った引馬城内は反今川方と親今川方で対立し城内の士気も低下した。1568年、松平元康は引馬城を攻めた。落城寸前の城から田鶴姫は十八人の侍女とともに討って出て壮絶に討死した。

今川嶺姫【いまがわみねひめ(1541~1612)】

武田義信の室。今川義元の娘。別名「嶺松院」。甲相駿三国同盟の一環として、武田義信と婚姻した。嶺松院の母の定恵院は武田信虎の娘である。1550年、甲駿同盟を婚姻関係から担保していた定恵院は死去した。甲駿同盟の継続維持、強化のため、嶺松院と武田義信の結婚が決められた。1552年、嶺松院は駿府を発って甲斐に向かい、武田義信と結婚して躑躅ヶ崎館に住んだ。1560年、今川義元が「桶狭間の戦い」で敗死すると、今川領国への進出を志向する武田晴信と甲駿同盟の維持を志向する武田義信との間に派閥対立が生じた。1565年、武田義信は東光寺に幽閉された。このとき武田義信と離縁させられたが甲斐国に留まった。

今出川典子【いまでがわのりこ(15??~1613)】

真田昌幸の室。今出川晴季の娘。別名「山手殿」。長身で夫真田昌幸より背が高く、細身で、切れ長の両眼、高い鼻梁の美女。真田信幸を溺愛した。真田昌幸との諍いが絶えなかった。真田昌幸の九度山配流の際、落飾して寒松院。最後はお互い心を許しあうようになった。※「真田太平記」by池波正太郎

今出川久乃【いまでがわひさの(15??~15??)】

樋口鑑久の室。今出川晴季の娘。山手殿の実の妹。樋口鑑久との間に、樋口角兵衛を生んだ。※「真田太平記」by池波正太郎

岩城久保姫【いわきくぼひめ(15??~15??)】

伊達晴宗の室。岩城重隆の娘。奥州一の美女で伊達晴宗の室で伊達政宗の祖母。伊達晴宗は、鷹狩りの際、久保姫を見て一目惚れした。岩城重隆に内室にほしいと申し入れたが、久保姫はすでに白河城主結城義綱の嫡男結城清綱と婚約していたので断られた。1534年、伊達晴宗は婚礼の日に阿武隈山中で待ち伏せして、婚礼の行列から久保姫を奪い取った。久保姫を奪われた岩城重隆は激怒したが、久保姫から再三にわたり伊達晴宗を許してほしいと訴えられて嫡男のいない岩城重隆のため久保姫に男子が生まれたら、第一子を岩城家の跡目とすることを条件に和解した。このため、白河結城家と岩城家との間では三代にわたり戦乱が続いた。伊達晴宗と久保姫の長男岩城親隆は岩城家の養子となり、次男伊達輝宗が伊達家を家督を相続した。夫人は十一人の子を産み岩城親隆、伊達輝宗、留守政景、杉目直宗、石川昭光、国分盛重、二階堂盛義の室(阿南姫)、芦名盛興の室(彦姫)、佐竹義重の室(宝寿院)等の後嗣または室となった。

入来院雪窓【いりきいんゆきそう(15??~1544)】

島津貴久の継室。入来院重聡の娘。島津貴久と長年に渡って対立していた入来院重聡の娘。入来院雪窓と島津貴久の婚姻は島津忠良が強く要望したもの。島津貴久との間に島津義久、島津義弘、島津歳久の三人の子を産む。1544年、早世した。入来院雪窓の婚姻により、入来院重聡が島津家側に付いたために薩摩国の情勢は安定し、島津家の勢力拡大に貢献した。島津義久は、彼女の三十回忌に同母兄弟である島津義弘、島津歳久と連名で彼女の菩提寺である雪窓院を建立した。羽柴秀吉に降伏する際、この雪窓院で出家している。

岩瀬御台【いわせおみだい(15??~15??)】 

佐竹義宣の側室。芦名盛隆の娘(次女)。別名「昌寿院」。二階堂盛義の継後の阿南方を請うて二階堂行親の養女とした。阿南方は二階堂行親の亡きあと、この姫に婿を取らせ二階堂家の家督を相続さる予定だった。1589年、須賀川城が落城すると阿南方の共に伊達輝宗、岩城親隆、佐竹義重の元を転々とした。佐竹義宣が出羽国に転封されたのち佐竹義宣の側室となるが、不縁となり若くして隠居し久保田城から横手城の須田盛秀に預けられた。

岩室殿【いわむろどの(15??~15??)】 

織田信秀の愛妾。熱田社家加藤図書の弟岩室次盛の娘。

扇谷上杉於満津【うえすぎおまつ(15??~15??)】

武田晴信の室。扇谷上杉朝興の娘。武田晴信が十三歳にときに武田晴信に輿入れした。まもなく懐妊したが出産前に病没した。

植村小夜姫【うえむらさよひめ(15??~15??)】

本多忠高の室。植村氏義の娘。 本多忠勝の父本多忠高の討死後も気丈だったため「本多の後家」として城主松平元康の不在の苦しい時代の岡崎城下でも有名だった。後家を貫いたわけではなく後年再婚し、本多忠勝の妹を産んだ。

宇喜多モニカ【うきたもにか(15??~15??)】

明石景盛の室。宇喜多直家の娘。洗礼名「モニカ」。1614年、明石景盛は「大坂冬の陣」で、数人のバテレンと、宇喜多モニカ、明石亜矢を入城させ傷病兵の看護にあたらせた。

碓井だし【うすいだし(15??~15??)】

荒木村重の室。土田弥平次の娘。織田信長は、室の生駒吉乃と先夫(土田弥平次)の娘(だし)を木村村重に輿入れさせた。1578年、荒木村重が織田信長に謀反を起こした。1579年、荒木村重が単身で有岡城を脱出して尼崎城へ移ってしまった。織田信長は「尼崎城と花熊城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を荒木久左衛門らと取り交わした。織田久左衛門らは織田信長への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の荒木村重を説得に行ったが、荒木村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった。有岡城に残された女房衆122人が尼崎城において鉄砲や長刀で殺された。2014年、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、桐谷美玲が演じた。

内海照日【うちのみてるよし(15??~15??)】

肥前国東彼杵郡内海城主内海政通の娘。兄内海政広と共に後藤貴明勢と争った。呪術によって敵兵を惑わし、撤退させた。1575年、後藤貴明が三条城を攻めると、大村純忠の命で呪詛を行った。

馬込於雪【うまごめおゆき(15??~16??)】

三浦按針ことウイリアム・アダムスの室。大伝馬町の名主馬込勘解由の養女。二人の子を産んだ。

江戸鶴姫【えどつるひめ(15??~1521)】

結城秀康の室。江戸重通の娘(結城晴朝の養女)。別名「蓮乗院」。鶴姫は結城晴朝の養子となった松平元康の次男結城秀康の室となった。1607年、結城秀康の病没後は、公家烏丸光広の室となった。

園光院【えんこういん(15??~15??)】

武田義信の娘。1567年、父武田義信が自刃すると、今川嶺姫と共に駿河国へ送還された。

円信院殿【えんしんいんどの(15??~1573)】

島津義久の継室。種子島時尭の娘(次女)。花舜夫人の死後、島津義久に嫁した。玉姫(島津彰久室)、亀寿姫(島津久保の室)を産んだ。

遠藤千代【えんどうちよ(1557~1619)】

山内一豊の室。美濃国八幡城主遠藤盛数の娘。別名「見性院」。嫁入りの持参金で山内一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)を購入し、織田信長の馬揃えの際に織田信長の目につき加増された話やまな板代わりに枡を裏返して使い倹約した話など「内助の功」で夫を支えた話や「関ヶ原の役」の前哨戦において石田三成挙兵を伝えた「笠の緒の密書」も有名である。山内一豊との間には娘(与祢)が生まれたが「天正大地震」により幼くして失い、それ以降は子供には恵まれていない。与祢姫の供養のため参りに訪れた妙心寺の門前で見性院に拾われた「拾(湘南宗化)」を養子同然に養育した。湘南宗化を山内家の世継ぎにしようとするが、枝連衆と家臣に反対され断念した。山内一豊は弟山内康豊の子山内忠義を土佐山内家跡目養子にしていた。1605年、山内一豊が病没すると見性院は、山内康豊に山内忠義を後見させて土佐国を引き払って、湘南宗化のいる京都の妙心寺近くに移り住んでそこで余生を過ごした。2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」では、仲間由紀恵が演じた。

遠藤白縫姫【えんどうしらぬいひめ(15??~1572)】

遠藤盛胤の娘。白縫姫は赤崎伊予守と許婚となっていたが、飯盛城主松浦九郎親が、烏帽子岳の狩りの帰りに、但馬館を訪れた。但馬館では、宴席を設け、白縫姫に舞いを舞わせてもてなした。松浦九郎親は、姫の舞いの姿をみて、一目で恋をしてしまった。松浦九郎親は姫を諦めることができず、松浦九郎親は「但馬謀叛」に事よせて但馬館を急襲し、姫を奪おうとした。但馬館は炎に包まれ、落城した。姫は但馬館を抜け出し、追っ手を逃れ将冠岳の岩穴に身をひそめた、夜が明け追っ手が岩穴に近づいたところ白い煙と共に真っ白い大蛇が現れ驚く兵たちを尻目に赤崎の方へ向かっていき途中の小島でふっつりと消え二度と現れることはなかった。

大井の方【おおいのかた(1497~1552)】

武田信虎の室。大井信達の娘。別名「瑞雲院」。武田家と国衆との抗争が続いていた戦国期のおいて、西郡国衆の大井信達は今川氏親と結び武田信虎との抗争を続けた。1517年、大井信達は武田信虎と和議の証として娘を輿入れさせた。武田信虎との間には、嫡男武田晴信、武田信繁、武田信廉が産まれた。のちに岐秀元伯を大井家の菩提寺である長禅寺に招き、武田晴信に四書五経、孫子、呉子等を学ばせた。1541年、武田信虎が武田晴信によって駿河に追放されるが、後も武田信虎に随行することなく甲斐国に留まった。1548年、武田晴信と村上義清が「上田原の戦い」で争い大敗した後にも在陣を続ける武田晴信に退陣を勧める文を出した。1988年のNHK大河ドラマ「武田信玄」で若尾文子が演じた。大井夫人が番組の終わりに言う「今宵はここまでに致しとうござりまする」は流行語にもなった。

大浦戌【おおうらいぬ(1550~1628)】

大浦(津軽)為信の室。大浦為則の娘。別名「阿保良(おうら)」。大浦為信の叔父大浦為則の娘で、大浦為信が婿養子として家督をついだ時、婚姻。良妻として知られ、大浦為信の津軽統一を影から支え続けた。

大崎殿【おおさきどの(15??~15??)】 

最上義光の室。大崎義隆の娘。最上義康、最上家親ほか三女を産んだ。

大谷於利世【おおたにおりよ(15??~1649)】

真田信繁の室。浅野内蔵之助の娘(大谷吉継の養女)。別名「竹林院」。1594年、真田信繁に輿入れした。大谷利世は真田信繁にとって最初の室ではないが、嫡男を産んだために正室として扱われた。

太田於梶【おおたおかじ(1578~1642)】

松平元康の側室。太田康資の娘。別名「英勝院」。1590年、松平元康の側室となった。1600年、松平元康に寵愛され戦陣にも供奉し「関ヶ原の役」にも参陣した。娘市姫を早逝させたあと、結城秀康の次男松平忠昌、松平元康の十一男松平頼房、松平元康の孫振姫などを養育した。1614年「大坂冬夏の両陣」にも松平元康に供をした。1616年、松平元康の没後、落飾して英勝院と称し鎌倉扇ヶ谷に英勝寺を建立した。

太田小少将【おおたこしょうしょう(1565~1592)】

太田氏房の室。太田氏資の娘。1567年、父の岩槻城主太田氏資が討死したため、北条氏政の三男を婿養子に迎えて、岩槻太田家の家督を相続させた。

太田妙姫【おおたたえひめ(1549~1612)】

太田資正の娘。

大友桐姫【おおともきりひめ(1527~1581)】

河野道宣の室。大友義鑑の娘。

大友清姫【おおともきよひめ(1555~1585)】

一条兼定の室。大友義鎮の娘(次女)。1564年、一条兼定は宇都宮豊綱の娘を娶っていたが離別して、大友義鎮の次女を娶り大友義鎮と結んだ。

大友桂姫【おおともけいひめ(1570~1648)】

毛利秀包の室。大友義鎮の娘(七女)。洗礼名は「マセンシア」。1585年、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父や乳母のカタリナに影響されキリスト教に入信する。乳母カタリナは彼女へ信仰面で援助と影響を大きく与えた人物。1587年、毛利秀包に輿入れした。父大友義鎮が病没すると、キリスト教の信仰を禁止されたが、マセンシアはキリスト教への熱心な信仰を持ち続けた。1588年、久留米城でペドロ・ラモン神父から告解を聞く。1600年「関ヶ原の役」の際、マセンシアは子供達と共に筑後国にいたが、加藤清正、鍋島直茂、黒田孝高の軍勢に攻められ生命の危険に晒されたが、黒田惣右衛門の尽力で脱出に成功し毛利秀包のいる滝部へ落延びた。毛利輝元はキリスト教を嫌いマセンシアにも棄教を要求してきたが、逆に宣教師の来訪を容認するよう毛利輝元に具申し彼女の信仰を黙認した。毛利元鎮、毛利元貞を産んだ。

大橋安【おおはしやす(15??~15??)】

山本貞幸の室。大橋入道の娘。1473年、大林貞次の仲介で前室の光禅尼を亡くして三河国宝飯郡牛窪浪人していた山本貞幸に嫁いだ。三男二女を儲けた。その末子が武田晴信の軍師の山本勘助である。

大平常盤姫【おおひらときわひめ(15??~15??)】

吉良頼康の側室。大平出羽守の娘。近隣に聞こえた美女だった。吉良頼康の側室として輿入れした。吉良頼康の寵愛を受け、吉良頼康の子を懐妊するが、それを妬む他の側室があらぬ噂を流した。常盤姫はやがて、身の危険を感じ世田谷城から落延びるが追っ手に追われ、辞世の句をしたためた後、常盤橋でお腹の子共々謀殺された。

大政所【おおまんどころ(1513~1592)】

木下弥右衛門の室。関兼員の娘。別名「関弥なか」。大政所というのは本来「大北政所」の略で摂政関白職にある者の母親への尊称。1513年、尾張国愛知郡御器所村に鍛冶屋を営み、武家でもあった関兼員の娘として産まれた。織田信秀の足軽組頭を勤めた木下弥右衛門のもとに嫁ぎ、羽柴秀吉を生む。夫が病没すると織田信秀の同朋衆とされる竹阿弥と再婚した。羽柴秀長と朝日姫を産んだ。1585年、羽柴秀吉が関白になったのに際し大政所と称された。羽柴秀吉は長浜城主となった時に母を城に迎えているが、終生母を大事にした。嫁にあたる高台院との仲も非常に良かった。1592年「文禄の役」の最中に聚楽第で病没した。

大村その【おおむらその(1575~1657)】

松浦久信の室。大村純忠の娘(五女)。洗礼名は「メンシア」。別名「松東院」。1586年、龍造寺隆信に対して松浦鎮信と大村純忠は同盟を結び、その契約として松浦鎮信の嫡男松浦久信との間に政略結婚が行われた。松浦鎮信は、キリスト教を嫌う舅との不和に悩まされた。松浦久信にも棄教を勧めらえたが棄教に応じることはなかった。1591年、松浦隆信を産んだことで松浦家中で重きを為すようになった。熱心なキリシタンであった彼女は、松浦家臣でこれまた熱心なキリシタンであった籠手田安経の未亡人(洗礼名「ドナ・イサベラ」)に命じて子供達全員に洗礼を授けた。1602年、松浦久信が急死すると嫡男松浦隆信が跡目を相続したものの、後見として政務を取り始めた舅松浦鎮信との対立や、キリシタン及び松浦家に厳しい目を向ける江戸幕府との間で対応に苦境に立たされた。1599年、籠手田一族が平戸から追放されていたため、大村そのが平戸のキリシタンを支援した。1630年、江戸幕府は松浦隆信にを松浦そのを浄土宗広に徳寺幽閉させた。

大祝鶴姫【おおほうりつるひめ(1526~1543)】

伊予国大山祇神社の大宮司大祝安用の娘。大祝家は代々神職として戦場に立つことはなかったが、戦が起きた場合は枝連衆を陣代として派遣していた。1534年、大内家が瀬戸内に侵攻してきた際には、兄大祝安舎が陣代として参陣して大内義隆勢を撃退した。1541年、大内義隆勢の警固衆白井房胤らが侵攻すると、神職となった大祝安舎に代わって大祝安房が陣代となった。大祝安房は河野通直や村上通康と連合して迎撃した。大内義隆勢を撤退させることはできたものの、大祝安房は討死した。再び大内義隆勢の海賊衆が侵攻すると、大祝鶴姫が陣代として参陣し大内義隆勢の小原隆言を討取った。1543年、大内義隆は、陶隆房を派遣、鶴姫の右腕で恋人とも言われる越智安成も討死した。鶴姫は残存の兵力を集結させて反撃を行い大内義隆勢を敗走させた。鶴姫は勝利を収めたが恋人の越智安成が討死したことを儚み自刃した。辞世の句は「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」。1993年の日本テレビ「鶴姫伝」では、後藤久美子が熱演した。

大野小袖【おおのこそで(15??~1515)】

淀殿の側近。丹後国の地侍大野佐渡守の室。別名「大蔵卿局」。高台院とその従者の孝蔵主が去った後、大野三兄弟の大野治長、大野治房、大野治胤と共に羽柴秀頼のもとで権勢を振るった。1614年「方広寺鐘銘事件」では駿府の大御所松平元康と交渉した。松平元康は「離間の計」を仕掛け、大蔵卿局に対し、殊勝な態度で甘い要求を出し、穏健派の片桐且元に対しては、厳しい要求を突きつけ松平元康の離間策に翻弄された。大坂城落城時には、追いつめられ自刃した羽柴秀頼や淀殿に殉じる形で、大野治長と共に大蔵卿局も自刃を遂げた。

小笠原万姫【おがさわらまんひめ(1592~1666)】

蜂須賀至鎮の室。小笠原秀政の娘(松平元康の養女)。別名「敬台院」。一男二女(蜂須賀忠英、三保姫(池田忠雄正室)、正徳院(水野成貞正室))を産んだ。蜂須賀に嫁いでからは日精上人に深く帰依し、大石寺御影堂の建立寄進、江戸鳥越、法詔寺建立、大石寺朱印状下附の実現、総本山二天門の建立、日精上人の公儀年賀における乗輿の免許、大石寺基金七百両の寄進、「細草檀林」設立に当たっての支援などに貢献した。

小笠原千代姫【おがさわらちよひめ(1597~1649)】

細川忠利の室。小笠原秀政の娘(松平秀忠の養女)。別名「保寿院」。1608年、中津城主細川忠興の男細川忠利に嫁いだ。1619年、嫡男細川光尚を産んだ。

岡本小少将【おかもとしょうしょう(15??~15??)】

細川持隆の室。岡本牧西の娘。美女であった。細川持隆の討死後、細川持隆を滅ぼした三好義賢の室となり三好長治、十河存保を産んだ。三好義賢の死後は三好義賢の家臣篠原実長(篠原長房の弟)の室となり、その死後は長宗我部元親の側室となった。それも政略結婚ではなく、自身の判断で世を渡り歩いた烈女であった。

奥平阿和姫【おくだいらあわひめ(15??~15??)】

奥平久兵衛の娘。三河国作手城主奥平貞昌との婚約が整っていたが、武田勝頼が阿和姫を見初め側室にした。奥平貞昌には武田信豊の娘を配すようにするが、松平元康は山家三方衆の味方に引き込むために、奥平貞昌に娘(築山殿の娘)を室と3,000貫の新領地を条件に奥平貞能味方に引き入れた。※「武田勝頼」by新田次郎。

奥原於鍋【おくはらおなべ(15??~15??)】

柳生宗厳の室。奥原助豊の娘。別名「春桃御前」。柳生宗厳に嫁ぎ、五男六女を産んだ。柳生宗巌と結婚した時期はわからない。1549年、筒井勢のために柳生城が落城後、柳生利巌を産んだ。柳生宗厳は、筒井家、松永家、織田家と転々と所属を変え、本領を没収されるなど苦難の歴史が続くが、剣の道への道だけは一生変えず、それが柳生家の浮上につながる。柳生宗厳を助け、柳生巌勝の戦傷、五郎右衛門の討死にも耐え、柳生家枝連衆をまとめた。1614年「大坂夏の陣」での柳生宗矩のでの活躍を聞いてから柳生庄で病死した。

小倉武姫【おぐらたけひめ(15??~15??)】

南部利直の室。小倉行隆の娘(蒲生氏郷の養女)。会津若松城主なった蒲生氏郷が伊達政宗を北から牽制するため、武姫と南部利直の婚姻を重視して、武姫に蒲生家の家宝を持参させた。蒲生氏郷の先祖が大ムカデを討取った時の矢の根(鏃)を南部家に持参した。武姫は以後「お武の方」と呼ばれ嫡男南部重直を産んだ。遺体に異様な形の変色が見られしかもそれはムカデに似ていた。「矢の根に残っていた大ムカデの呪いと思われ」彼女のの墓の周囲には堀がめぐらされた(ムカデは水を嫌うから)。ところが墓に架けた橋は壊れてしまうので、何度も架け替えられたという。武姫は、ムカデ姫と称された。

阿古御局【おこごのつぼね(1590~1615)】

羽柴秀頼の侍女で大上臈を称した。

織田於市【おだおいち(1547~1583)】

浅井長政の室。織田信秀の娘。絶世の美女。はじめ浅井長政に輿入れし一男三女を産んだ。1573年、浅井家が兄織田信長に滅ぼされると三人の娘とともに織田信包の元で静かに生活していた。1581年「本能寺の変」で兄織田信長が討死すると、羽柴秀吉と柴田勝家が織田家の主導権をめぐり激しく対立した。1582年「清洲会議」の結果、於市は柴田勝家と再婚した。1583年柴田勝家が「賤ヶ岳の戦い」で大敗、柴田勝家と共に越前北ノ庄城内で三人の娘を城から落とした後に自刃した。 2011年のNHK大河ドラマ「お江」では鈴木保奈美が演じた。

織田於犬【おだおいぬ(15??~1582)】

尾張国大野城主佐治信方の室。織田信秀の娘。後に京兆細川昭元の室。佐治信方に嫁ぎ、佐治一成を産んだ。1574年、佐治信方は討死した。このとき、兄織田信長より下京地子銭が送られている。1577年、管領細川晴元の嫡男で山城国槙木島城主の細川昭元と再婚。細川昭元との間には、細川元勝、長女(秋田実季正室)、次女(前田利常の室珠姫の侍女)をもうけた。長男の佐治一成は、小督姫と結婚するも、羽柴秀吉と対立したため離縁させられ、後に織田信長の娘である於振と再婚した。

織田犬山殿【おだいぬやまどの(15??~15??)】

織田信清の室。織田信秀の娘。通称犬山殿。1549年、犬山城主織田信清が織田信秀の所領に侵攻したため敵対関係にあったが、織田信長は協調体制をとり、織田信長は姉を織田信清に嫁がせた。1564年、織田信長の攻撃により犬山城は落城し、犬山殿は織田信長の庇護下に置かれた。織田信清との間には女児があった。1575年、織田信長その女児に美濃福光郷の段銭50貫文を扶助した。1582年、織田信長が「本能寺の変」で討死すると、織田信雄の庇護下に置かれ、化粧料を与えられて余生を過ごした。

織田於つや【おだおつや(15??~1575)】

岩村城主遠山景任の室。1571年、織田信長の叔母で岩村城主遠山の室だったが遠山景任は子供が無いまま病死したため、おつやの方は織田信長の五男坊丸を養嗣子としたが、坊丸はまだ幼かったので、おつやの方が岩村城の女城主となった。1572年、武田晴信勢の秋山信友の攻撃を受け落城し、和睦の条件として秋山信友の夫人となった。後に秋山信友が織田信長に降伏開城したとき織田信長の激怒に触れて岐阜で処刑された。

織田於徳【おだおとく(1559~1636)】

松平信康の室。織田信長の娘(長女)。母は生駒の方。松平元康の嫡男松平信康に嫁ぐが、夫と姑が武田家に内通との報を織田信長に送って知らせ、これがもとで両者とも失った。後に兄織田信雄から羽柴秀吉の人質に出され、最終的には京で没した。

織田於冬【おだおふゆ(1558~1641)】

蒲生氏郷の室。織田信長の娘(次女)。別名「相応院」。蒲生秀行の母で非常な美女だった。蒲生氏郷没後に羽柴秀吉から召し出されるがこれを拒否、その使者の前で髪を下ろして出家した。

織田秀子【おだひでこ(1567~1632)】

筒井定次の室。織田信長の娘(三女)。1578年、筒井順慶の養嗣子筒井定次へ嫁いだ。筒井定次は伊賀国上野城200,000石を領した。1600年「関ヶ原の戦い」では、松平元康勢に属して役後に所領を安堵された。1608年、突如幕命により改易された。1615年「大坂夏の役」での羽柴家内通を咎められ筒井定次と男筒井順定は自刃した。

織田於永【おだおえい(1574~1623)】

前田利長の室。織田信長の娘(四女)。別名「玉泉院」。1581年、前田利家の嫡男前田利長の室となった。1582年、父織田信長に呼ばれ前田利長と共に本能寺を目指していたが途中で「本能寺の変」の急報を聞き、前田家の旧領尾張荒子城に逃げる。1600年「関ヶ原の役」では、姑のまつとともに江戸に人質として送り込まれかけるが、後に前田利長の元に返された。二人の仲は良好だったが、嗣子を産むことはできなかった。「どんな女でも良いから夫の子を産んで欲しい」という悲痛な言葉も残している。前田利長は弟の前田利常を順養子として迎え家督を譲って隠居した。1614年、前田利長が越中国高岡城で死去すると、於永は金沢城に戻って剃髪し玉泉院と称した。

織田三の丸【おださんのまる(15??~1603)】

羽柴秀吉の側室。織田信長の娘(蒲生氏郷の養女)。別名「韶陽院」。羽柴秀吉の晩年に側室となった。羽柴秀吉側室としての説話は少なく、羽柴秀吉からの手紙なども残っておらず、彼女が史実に登場するのは羽柴秀吉の没する半年あまり前に開かれた醍醐寺での花見だけである。伏見城三の丸に住んでいたことから「三の丸殿」と称され、四番目の輿で花見に向かいました。1599年、二条昭実と婚姻したがまもなく病没した。

織田於振【おだおふり(15??~1643)】

水野忠胤の室。織田信長の娘。小河城主水野忠重の次男水野忠胤に輿入れして一男二女(水野勝信、南條宣政の室、丹羽氏信の室)を産んだ。1609年、水野忠胤が改易切腹になり、安濃津城主織田信包の家臣佐治一成と再婚した。

織田姫路姫【おだひめじひめ(15??~1642)】

羽柴秀吉の側室。織田信包の娘。小谷落城後、母お市と茶々ら姉妹は織田信包の伊勢国上野城に長く住まった。羽柴秀吉が姫路殿を寵愛したとき大いに憤り、屋敷に留置いて返さなかったという。それが怨みで、上野城主であった織田信包を近江の小藩に移した。称の由来は羽柴秀吉が築いた播磨姫路城。「中国征伐」の時に召されたという。「大坂の陣」まで茶々は「老犬斎」と号した織田信包の後見を頼みとした。

織田鶴姫【おだつるひめ(15??~15??)】

中川秀政の室。織田信長の娘。中川秀政に嫁いだ。1592年、中川秀正は「文禄の役」で討死した。子供もなく織田家に帰された。

織田小姫【おだおひめ(1585~1641)】

松平秀忠の室。織田信雄の娘(羽柴秀吉の養女)。母は千代御前(北畠具教の娘)。1584年、羽柴秀吉の養女になった。1590年、上洛した松平秀忠と結婚した。父織田信雄と羽柴秀吉が不和になったため松平秀忠から離縁された。1590年、父織田信雄の改易によって織田家に復籍し、その後佐々一義と再婚した。

織田いぬゐ【おだいぬゐ(15??~1527)】

織田信定の室。織田良頼の娘。別名「含笑院」。織田信秀の母。兄弟にあたる織田藤左衛門は清州三奉行のひとり。1510年、織田信定に嫁いだ。

小田麗姫【おだれいひめ(1539~1603)】

龍造寺長信の室。小田政光の娘。

阿玉の局【おたまのつぼね(15??~15??)】 

淀殿の上臈。1614年、淀殿命で「大阪冬の陣」の和睦後の松平方の内堀埋め立てに抗議に赴いた。

小槻おさいの方【おつきおさいのかた(15??~15??)】

大内義隆の継室。小槻伊治の娘。大内義隆の室である万里小路貞子に仕える上臈であった。1545年、懐妊して嫡男大内義尊を生んだ。大内義隆の愛情を一身に集め、万里小路貞子と離縁した後は事実上の室となり、万里小路貞子の居住していた御殿に移り住んだ。このためおさいの権勢が大内家中で高まり、群小の家臣の多くが追従したり取り入って家政は紊乱し、後の「大寧寺の変」の遠因を作った。1551年「大寧寺の変」では、大内義隆や大内義尊らと共に法泉寺に逃れたが、大内義隆の勧めで泣く泣く山を越えて宮野の妙喜寺に落延び光厳寺で出家した。

於徳【おとく(15??~1590)】

真田昌幸の室。前夫の岡内喜六は、真田昌幸家の鉄砲足軽であったが、沼田平八郎を謀殺したときに討死した。於徳は寡婦となり、沼田城に奉公にあがり、真田昌幸の側めとなり、於菊を産んだ。※「真田太平記」by池波正太郎。

小野於通【おののおつう(1568~1631)】

小野正秀の娘。詩歌や琴、書画など万藝に秀でた才女だが、その出自や経歴については諸説ある。美濃国の地侍小野正秀の娘で、浅井茶々に仕えた。「真田太平記」では、真田信幸との純愛物語が語られている。娘の宗鑑尼は、真田信政の側室で嫡男真田信就を生んだ。

於万の方【おまんのかた(15??~15??)】

松平元康の室築山殿の侍女。別名「小督局」。松平元康の子を懐妊して側室となった。松平元康の次男結城秀康(於義丸)の母。結城秀康死後に松平元康の許しを得ず出家し「長勝院」と称した。

小見氏【おみし(15??~15??)】

諏訪頼重の側室。武田勝頼の祖母にあたる。小笠原長時の家臣小見(麻績)家の娘。1565年、高遠城主武田勝頼に引き取られ、御大方様(祖母)と称され共に高遠城で暮らしていた。1578年、小見家の大工池上清左衛門がよく奉公してくれたため、武田勝頼の側近小原継忠、跡部勝忠に依頼し、五貫文の所領を与えてくれるように頼み実現させた。実家の麻績家枝連衆の青柳清長(麻績城に入り麻績清長と改名)が武田晴信の配下の武将として活動した。

おむに【おむに(15??~15??)】

松平忠直の側室。別名「一国」。美濃国の「おむに」という問屋の娘。松平忠直は一目見るなり気に入り、「お前なら一国と引き換えにしてもいいくらいだ」ということで一国と名づけ寵愛した。書物では、松平忠直が改易された理由として、おむにの残虐性が要因とされている。

小山田香具姫【おやまだかぐひめ(15??~15??)】

内藤忠興の側室。小山田信茂の娘。香具姫は武田勝頼に人質に出されていた。1582年、織田信長勢の攻撃で、武田勝頼が討死すると、松姫と共に八王子に落延びた。父小山田信茂は織田信長によって処刑された。香具姫は松姫と共に松平元康に養育され、磐城平城主内藤忠興に側室として嫁いだ。内藤忠興の正室(酒井家次の娘)がいたが、男子に恵まれなかった。1619年、香具姫は嫡男内藤頼長を産んだ。

於雪【おゆき(15??~15??)】

武蔵国秩父郡日尾城主諏訪部定勝の室。別名「妙喜尼」。武田晴信勢の攻城前に酒を飲んで眠り込んだ夫諏訪部定勝の変わりに城兵を指揮して武田晴信勢を撃退した。

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【か】

勧修寺藤子【かじゅうじふじこ(1464~1535)】

後柏原天皇の典侍で、後奈良天皇の母。准大臣勧修寺教秀の娘。母は飛鳥井雅永の娘。姉の勧修寺房子が後土御門天皇の典侍として女子を儲け、更に勝仁親王の養育を任されていた。1484年、勝仁親王に上臈として入内する。1500年に勝仁親王が践祚するにあたり「御阿茶之局」に「藤子」の名が与えられて従五位下が授けられた。1526年、後柏原天皇崩御に際して髪を降ろして「東洞院殿」と称した。

海津局【かいづのつぼね(15??~1656)】

淀殿の侍女。浅井亮政の養子浅井明政の娘。生母は浅井亮政の唯一の嫡女海津殿(栖松院)。鶴千代の母(饗庭局の祖母)は浅井亮政の正室浅井蔵屋で、この女性は亮政の先代浅井直政の一人娘なので、海津局は女系ながら直政の血を引いていた。妹は饗庭局。

蔭山於万【かげやおまん(1580~1653)】

松平元康の側室。勝浦城主正木頼忠の娘(蔭山氏広の養女)。別名「養珠院」。熱心な日蓮宗の信者であった。父正木頼忠は勝浦城主正木時忠の次男。実兄は三浦為春。母は北条氏尭の娘。小田原城に人質として滞在していたが、蔭山氏広との生母との間に兄三浦為春と於万を産んだ後、急死した実兄の正木時通の後を継ぐため上総国に戻った。於万と三浦為春の生母は蔭山氏広と再婚した。於万はこの蔭山氏広の元で育てられる事になった。於万は松平元康に見初められ側室となった。1609年、蔭山於万が産んだ、松平頼宣は駿府城500,000石、松平頼房は水戸城250,000石を領した。

蠣崎圭姫【かきざきけいひめ(1545~1579)】

安東茂季の室。蠣崎季広の娘(六女)。蠣崎季広の政略結婚の一環として、安東茂季に嫁いだ。蠣崎季広は近隣の諸豪族と姻戚関係になることで、主筋に当たる安東茂季との関係改善を図った。

笠間岩姫【かさまいわひめ(15??~15??)】 

前田利家の側室。前田利家の家臣笠間与七の娘。別名「隆興院」。

勧修寺藤子【かじゅうじふじこ(1464~1535)】

後柏原天皇の典侍。勧修寺教秀の娘。後奈良天皇の母。別名「豊楽門院」。母は飛鳥井雅永の娘。姉勧修寺房子が後土御門天皇の典侍として女子を儲け、更に勝仁親王(のちの後柏原天皇)の養育を任されていた。1484年、勝仁親王に上臈(後に典侍)として入内した。1504年、尊鎮入道親王を産んだ。1500年、勝仁親王が践祚した。1526年、後柏原天皇崩御に際して髪を降ろして「東洞院殿」と称せられた。

片倉喜多【かたくらきた(1539~1610)】

伊達政宗の乳母。父鬼庭良直は猛将として知られていたが嫡男に恵まれなかったため喜多の母本沢直子は離縁された。本沢直子は喜多を連れて片倉景重に再嫁した。本沢直子は片倉景長の嫡男片倉景綱を産んだ。その後、伊達輝宗の命により、伊達政宗の養育係を務めた。伊達政宗の成長後は愛姫に仕えた。羽柴秀吉の人質となった愛姫と共に上洛した。伊達政宗の勘気を受け佐沼城下に蟄居した。1987年のNHK大河ドラマ「伊達政宗」では竹下景子が演じ不動明王について教えられた伊達政宗がその養育係である喜多に語った「梵天丸もかくありたい」という台詞は流行語となった。

勝沼松葉【かつぬままつば(1530~1611)】

雨宮良晴の室。勝沼信友の娘。別名「理慶尼」。1560年、兄勝沼信元は長尾景虎の関東侵攻の際、調略により武田晴信に謀反を企てたが発覚、武田晴信に誅殺された。雨宮良晴は、雨宮家に累が及ぶことを懸念して雨宮良晴は勝沼松葉を離縁した。松葉は、勝沼にある大善寺の慶紹を頼り、剃髪して尼となり理慶尼と称した。

加藤安姫【かとうやすひめ(15??~15??)】

奥村永福の室。1587年、能登国末森城主奥村永富が佐々成政の攻撃を受け末森城に籠城した。佐々成政勢は兵15,000余り、籠城勢は兵300余りだった。戦況は不利だったが、安の方は城兵たちを励まし続け、籠城戦下、薙刀を携行した安が侍女を率いて城中を見回り、負傷した兵たちの介護、粥の炊き出しなどを行い士気を高めた。前田慶次が援軍に駆け佐々勢を引き付け、前田利家勢の勝利のきっかけを作った。※『花の慶次』by原作:隆慶一郎、絵:原哲夫。

加藤伊都【かとういと(15??~15??)】

加藤清忠の室。加藤清正の母。熱心な日蓮教徒であり、この影響で加藤清正も日蓮信者となった。尾張国愛知郡中村の鍛冶屋清兵衛の娘(伊都)。で加藤清忠に輿入れした。加藤清正の幼いときに加藤清忠が病没したため、伊都とともに津島に移った。

蒲池徳子【かまちのりこ(1566~1632)】

朽網鑑房の室。蒲池鎮漣の娘。龍造寺隆信に父蒲池鎮漣が謀殺され、それに続く「柳川の戦い」での柳川城の落城の時、乳母たちに守られ、からくも長崎の有馬晴信のもとに落ち延びる。その後、豊後国に移り、大友家重臣の朽網宗暦の子の朽網鑑房の室となり、朽網宗暦をもうける。朽網宗暦は大友家臣だったが、北上する島津家に組したため討たれ、朽網宗暦は若くして浪人となった。筑後国に移り、母蒲池徳子の生家の蒲池家の菩提寺である崇久寺の食客となる。朽網宗暦の男蒲池鎮明は蒲池家の名跡を継ぎ、徳子流蒲池家の祖となった。

蒲生虎姫【がもうとらひめ(15??~15??)】

羽柴秀吉の側室。蒲生賢秀の娘。1583年「賤ヶ岳の戦い」の後、日野城を訪れた羽柴秀吉の側室となった。蒲生氏郷の養女三の丸殿も側室となった。蒲生氏郷はのちに会津若松城1,000,000石を領した。

神尾於静【かみおおしず(15??~15??)】

松平秀忠の側室。神尾栄加の娘。別名「浄光院」。保科正之を産んだ。

上木千世【かみきちよ(15??~15??)】 

前田利家の側室。朝倉義景の家臣上木新兵衛の娘(三女)。別名「寿福院」。前田利家の室まつの侍女として仕えた。前田利家が名護屋在陣中に世話役としてつき、前田利家の手が付き懐妊、その子は前田長種夫妻によって養育された。江戸城に人質となっていた芳春院と入れ替わって江戸へ行った出府、神田の前田家藩邸で病没した。

河原喜玖【かわはらきく(1522~1593)】 

真田幸隆の室。河原隆久の妹。別名「恭雲院」。海野棟綱の家臣河原隆正の妹。真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信伊を産んだ。1593年、真田昌幸の上田城で病没した。

川副徳子【かわぞえとくこ(15??~15??)】

羽柴秀吉の側室。孝蔵主の姪。

菊の前【きくのまえ(15??~1585)】

山田城主山田筑後守辰業の室。別名「御菊御前」。1585年、宇都宮国綱は、那須資晴を討つため、芳賀高武、壬生義雄、紀清両党ら2400余りを率いて、菷川を渡って薄葉ヶ原に進軍した。那須資晴は池沢左近、小滝増信ら家臣及び大関高増、大関美作守清増、大田原山城守綱清、大田原晴清、大田原増清、福原安芸守資孝、 福原中務丞資広、伊王野下野守資宗、伊王野資信、芦野大和守資泰、芦野盛泰、千本常陸介資俊、千本十郎資政、千本松宅斎道長、塩谷惟吉、塩谷孝信ら1500余り率いて進軍した。「薄葉ヶ原の戦い」で、山田辰業が討死し、居城の山田城は那須資晴勢に攻められ落城する。この際、菊の前は家老山田新左衛門とともに城を脱出するが、山田新左衛門は菊の前を守って討死し、菊の前は花見どやと呼ばれる山に逃れる。しかし、さらに追っ手に追われると、菊の前は菊の前に従ってついてきた11人の侍女たちとともに、太鼓岩と呼ばれる崖の上から山の北下を流れる箒川に身を投げ自刃した。

貴志弥生姫【きしやよいひめ(15??~15??)】

原兼道の室。貴志美作守の娘。1565年、貴志美作守の娘(弥生姫)は、八ツ沼城主原忠重の嫡男原兼道との婚約が成立していたが、和合城主和合秋広が横槍をいれて、弥生姫を我物にしようとしたが失敗。和合秋広は、最上義光に八ツ沼城主原忠重と鳥屋ヶ森城主貴志美作守が謀反を企ていると讒言した。最上義光は兵5,000余りを率いて出陣し「五百川の戦い」が起きた。原忠重勢は家老小関加衛門、客僧羽黒弁寛共に戦ったが多勢無勢で、八ツ沼城、鳥屋ヶ森城び両城が落城、原兼道は討死、弥生姫も城の崖から飛び降り自刃した。

北川殿【きたがわどの(15??~15??)】 

今川義忠の室。伊勢新九郎長氏(北条早雲)の姉または妹、駿河守護の今川義忠の室となった。

北の方【きたのかた(15??~15??)】

富田信高の室。1600年「関ヶ原の役」前哨戦として、毛利秀元を大将に、長宗我部盛親、毛利勝永、安国寺恵瓊、長束正家、吉川広家、鍋島勝茂の諸将は伊勢国安濃津城へ攻め込んだ。安濃津城には分部光嘉と古田重勝らの援将が入城した。伊勢の諸城主たちは10,000~50,000石程度の小領主たちで、城兵は全部合わせて約1700余。攻城戦中毛利家の宍戸元次と分部光嘉が万石クラス大将級の一騎打ちを演じます。富田信高も自ら槍を振るって勇戦しますが、多勢に無勢、次第に追いつめられていきます。富田信高が敵勢に囲まれたとき、一人の美しい若武者(北の方)が紺威の鎧、槍をひっさげて姿を見せ、信高の前へ進み出て敵5、6人を突き伏せた。その中には毛利秀元の家臣中川清左衛門も含まれていました。結局、富田信高は本丸まで追いつめられるに至り、高野山の木喰上人の仲介のもと開城し剃髪しました。東軍が勝利した事で再び安濃津に返り咲き、のちに伊予国宇和島城120,000石の領主になった。

加藤八十姫【かとうやそひめ(1601~1666)】

紀州松平頼宣の室。加藤清正の娘(次女)。別名「瑤林院」。母は松平元康の養女清淨院(水野忠重の娘)。1609年、松平元康と加藤清正の合意により婚約。1610年、松平家より結納使として松平頼宣の伯父三浦為春が肥後国に下って納幣。1617年、肥後国より駿河駿府藩主徳川頼宣に輿入れした。1619年、松平頼宣が紀州藩主となると夫とともに紀州に入る。1633年、江戸の紀州藩邸に移るまで14年間和歌山城で暮らした。

木下智子【きのしたともこ(1534~1625)】

三好吉房の室。木下弥右衛門の娘。羽柴秀吉の姉。別名「瑞龍院」。尾張国の土豪である三好吉房に嫁いだ。1568年、から羽柴秀次、羽柴秀勝、羽柴秀保らを産む。1591年、羽柴秀吉が嫡男の鶴松を亡くすと、その養子に羽柴秀次、羽柴秀勝を入れ、三男羽柴秀保は羽柴秀長の養子に入れた。1592年、羽柴秀勝は朝鮮渡海中に参陣中に病没した。1595年、羽柴秀次は関白となったが謀反の疑いをかけられ自刃、夫三好吉房も連座して讃岐国に流され、羽柴秀保までもが病死した。木下智子は出家して京都嵯峨野の村雲に瑞龍寺を建立した。瑞龍寺の寺号は後陽成天皇から下賜されたもので、寺地には1,000石の寺領を寄進され、後代には皇女が門跡となる尼門跡として、「村雲御所」と称される格式高い寺院となった。1615年「大坂夏の陣」で。1615年、羽柴秀頼が滅亡すると、真田信繁の御田姫(五女)を自分のもとに避難させた。

杵付豊姫【きねつきとよひめ(15??~15??)】

竹の尾城主杵付頼直の娘。豊姫が十九歳の春に安岐城主田原権九郎親治との婚約がまとまった。姫のよからぬ噂が立ち、その噂は婚約者の田原権九郎親治の耳にも入り破談になっていまいました。この事を知った姫は嘆き悲しみのあまり轟の滝に身を投じてしまいまった。

京極龍子【きょうごくたつこ(15??~1634)】

若狭国守護職武田元明の室。後に羽柴秀吉の側室。京極高吉の娘。通称松の丸殿。別名「寿芳院」。武田元明は織田信長に属して大飯郡石山城3,000石を領した。1600年、京極高次と武田元明は「本能寺の変」で、明智光秀勢に属した武田元明は、羽柴秀吉によって討取られた。京極龍子は捕らえられた後、羽柴秀吉の側室となった。小田原城や名護屋城に羽柴秀吉が伴っていったり、醍醐の花見でも三番目の輿を使ったり、淀殿と杯の順番を争ったことなどは後の世まで受け継がれた。2011年のNHK大河ドラマ「お江」では、鈴木砂羽が演じた。

京極阿菊【きょうごくおきく(15??~15??)】 

尼子義久の室。京極修理大夫の娘。側室小宰相の局が寵愛されるにつれ遠ざけられた、尼子義久降伏後尼となった。

京極南殿【きょうごくみなみどの(15??~15??)】

羽柴秀吉の側室。京極家の娘。「竹生嶋奉加帳」に記載された女性。羽柴秀吉の近江長浜時代の側室。羽柴秀吉の男児石松丸秀勝の生母。1576年、石松丸秀勝は幼くして早世した。

鏡清院【きょうせいいん(1545~1591)】

伊達実元の室。伊達晴宗の娘(次女)。母は岩城氏久保姫。伊達輝宗の妹。1568年、伊達成実を産んだ。

北畠小姫【きたばたけおひめ(1585~1591)】

松平秀忠の室。織田信雄の長女(羽柴秀吉の養女)。1590年、松平秀忠に嫁いだ。父織田信雄と羽柴秀吉が不和になったために離縁された。

吉川妙玖【きっかわみょうきゅう(1499~1545)】

毛利元就の室。安芸小倉山城主吉川国経の娘。毛利元就の糟糠の室。毛利隆元、吉川元春、小早川隆景、五龍局の母。生前の名は不明で妙玖は法名。毛利元就は後の手紙にも「妙玖が生きていたら」と記されたいる。典型的な良妻賢母型の女性であった。

吉川於久【きっかわおひさ(15??~15??)】 

尼子経久の室。吉川経基の娘(長女)。別名「吉川夫人」。吉川経基の娘は、尼子経久に嫁いだ於久の他に、笠間刑部少輔の室、小河内清信の室、綿貫忠澄の室、多賀某の室、三須清成の室、波根泰次の室、気比大宮司某の室、万里小路賢房の室に嫁いだ。1486年、尼子経久は京極政経に謀反を起こし月山富田城主塩冶掃部介の居城を奪い取った。吉川経基は尼子経久の才を見込んで、娘の吉川於久を尼子経久に嫁がせた。尼子政久、尼子国久塩冶興久などを生んだ。

清原マリア【きよはらマリア(15??~15??)】

公卿清原枝賢の娘。細川藤孝の生母がマリアの大伯母に当たる縁から細川家に奉公し奥向きの総括に努めた。後に細川忠興の正室明智珠の侍女となる。1587年、大坂の教会で洗礼を受け、マリアと称する。明智珠姫に自ら洗礼を授け、明智珠姫はガラシャと称した。この時剃髪し、明智珠あらためガラシャに忠誠を誓った。1600年、細川ガラシャが自刃した時には別の場所にした。

木山於京【きやまおきょう(15??~1588)】

肥後国赤井城主木山惟久の室。1588年、肥後国は北半分は加藤清正と南半分は小西行長とに分割統治されることになった。小西行長が統治する天草郡において「天草一揆」が発生。一揆勢の木山惟久は加藤清正勢と戦うも木山惟久は加藤清正に討ち取られてしまう。一揆勢の残存兵力は木戸城に籠城するも、加藤、小西勢に包囲された。加藤清正に30騎ばかりの徒歩武者とともに 木山於京が襲いかかったが、木山於京は梅木の枝に兜がひっかかり、体勢を崩したところを、討取られてしまった。

櫛橋力姫【くちはしりきひめ(1545~1613)】

播磨国佐用郡上月城主上月景貞の室。印南郡志方城主櫛橋伊定の娘(長女)。別名「妙寿尼」。1560年、上月景貞に嫁ぎ、その後二人(平岡頼勝室と黒田正好)の子を産んだ。1577年、上月城では羽柴秀吉勢と毛利輝元勢との間で約七ヶ月間にわたり数度の攻防戦が繰り返された。1578年、毛利輝元勢に属した上月景貞は、羽柴秀吉勢の猛攻えを受け、家臣江原兵庫助の謀反により落城した。上月景貞は負傷しながらも城外へ脱出し、わずかな手勢を率いて高倉山の羽柴秀吉の本陣を攻撃したが討死した。力姫は二人の子と共に義弟黒田孝高の陣中を頼った。後に力姫は出家して妙寿尼と称し、また二人の子のうち、娘は小早川秀秋の家老平岡頼勝に嫁ぎ、弟は黒田正好と称した。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では酒井若菜が演じた。

櫛橋光姫【くしはしてるひめ(15??~15??)】

黒田孝高の室。櫛橋伊定の娘(次女)。別名「照福院」。1567年、黒田孝高は、父黒田職隆から家督を相続した。黒田孝高は小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光姫を室に迎えた。政略結婚ではあるが、黒田孝高は側室はもたず生涯両者は生涯互いを慕い続けた。1600年「関ヶ原の戦い」では、西軍の包囲を脱して夫の下へ逃れた。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では中谷美紀が演じた。

熊谷新庄【くまがいしんじょう(15??~1606)】

吉川元春の室。熊谷信直の娘。別名「慈光院」。1547年、毛利元就の次男吉川元春と婚姻。長男吉川元長、次男吉川元氏、三男吉川広家らを産んでいる。吉川元春は新庄を深く愛し、他に側室を持つことは無かった。毛利元就の娘で宍戸隆家の妻となっていた五龍局と険悪な雰囲気があったらしく、家中の和を望む毛利元就に三子教訓状でその事をたしなめられた。

宮内卿局【くないきょうのつぼね(15??~1615)】 

木村重茲の室。青木俊矩の娘。木村重武、木村重成の母。夫と長男は「羽柴秀次事件」に連座し自刃した。宮内卿局は木村重成を連れ、近江国坂田郡馬渕村に逃亡した。後に許され、羽柴秀頼の乳母となり、木村重成は羽柴秀頼の小姓となった。1615年「大坂夏の陣」で大坂城落城時に淀殿、羽柴秀頼らとともに自刃した。

鞍谷小宰相【くらやこしょうしょう(15??~15??)】

朝倉義景の継室。鞍谷副知の娘。近衛稙家の娘の後、朝倉義景は側室の小宰相を寵愛した。1561年、小宰相は朝倉義景との間に初めての男児である阿君丸を生んだ。ところがその後、小宰相は病死した。1568年、阿君丸も早世してしまった。嫡男阿君丸と寵愛した小宰相の死去、さらに家臣の離反など、相次ぐ不幸が義景の関心を政治から遠ざけたとされる。義景は小少将を側室に迎えた後、酒池肉林に溺れた。『朝倉始末記』においては義景と小少将の関係について、「此女房(小少将)紅顔翠戴人の目を迷すのみに非ず、巧言令色人心を悦ばしめしかば、義景寵愛斜ならず」、「昼夜宴をなし、横笛、太鼓、舞を業とし永夜を短しとす。秦の始皇、唐の玄宗の驕りもこれに過ぎず」とある。姉川の戦いの際には、朝倉義景は小少将を寵愛して一乗谷に引き籠った。

慶光院周養【けいこういんしゅうよう(15??~15??)】

伊勢国の尼寺慶光院の四世院主。三世院主清順の遺志を継ぎ、皇大神宮と豊受大神宮の遷宮を成し遂げた。宇治橋の勧進聖というと、慶光院、守悦、清順、周養、周清の四上人(尼)が有名である。「お伊勢様が荒廃して、宇治橋も流れたままになっており参拝するのも困難です。大神様に申し訳ないことです。」と「伊勢内宮大橋勧進札」と引き換えに諸国を巡歴し募財をおこない、織田、羽柴家を感銘させ、羽柴秀吉の天下統一後は、羽柴秀吉の命により橋奉行まで定められるようになった。初代橋奉行は、海賊武将で名高い九鬼義隆である。

慶寿院【けいじゅいん(1493~1571)】

本願寺円如の室。本願寺蓮如の六男本願寺蓮淳の娘。本願寺蓮如の法を嗣いだ実如の子円如と結婚。1521年、円如病没により出家し融誓と称す。10歳で本願寺を継職した本願寺証如を補佐した。さらに12歳で継職した証如の長男、本願寺顕如の補佐を勤める。北国(加賀一揆)の和平、本願寺の門跡勅許について公家、武家との交渉に当たるなど、本願寺の護持と発展に尽力する。1539年、朝廷より『栄華物語』を贈られた。1540年、青蓮院尊鎮親王より「慶寿院」の院号と「鎮永」の法名を受けた。

慶寿院【けいじゅいん(1514~1565)】

足利義晴の室。関白近衛尚通の娘。1534年、足利義晴に嫁いだ。足利将軍家の正室は足利義満以来、日野家から迎えられてきたが、初めて摂関家から正室を迎えた。1536年、南禅寺において嫡男足利義輝を生んだ。1550年、足利義晴は亡命先の近江国にて「水腫」のために病没すると、出家して慶寿院と称した。その後、慶寿院は足利義輝の後見人として政務を行った。1565年、松永久秀と三好三人衆が二条御所の足利義輝の二条御所を襲撃した際、足利義輝は討死し、慶寿院も自ら火中に身を投じて自刃した。

桂峯院【けいほういん(15??~15??)】

丹羽長秀の室。織田信広の娘。1563年、叔父織田信長の養女となり丹羽長秀に嫁いだ。1571年、丹羽長秀との間に嫡男丹羽長重(鍋丸)を産んだ。他に二人の娘がおり、稲葉典通の室として嫁いだ。

小石姫【こいわひめ(15??~15??)】

羽柴秀頼の側室。成田甲斐姫の侍女。血縁の小石が若い秀頼の寵愛を受け、一女(天秀法泰尼)を産んだ。1614年「大坂夏の陣」で大坂城が落城の際、小石姫と共に東慶寺に移り住んだ。

広徳院御新造【こうとくいんごしんぞ(15??~15??)】

大内義隆の側室。広橋兼秀の娘。はじめは大内義隆の祖父大内政弘の妹に当たる比丘尼弘宙が住んだ広徳院に入り喝食となる。だが大内義隆に見初められて情を通じ、大内義隆は正式に彼女を側室に迎えた。おさいが大内義隆の継室になって本殿に居を移すと、それまでおさいが住んでいた殿舎を与えられて東の御殿と称された。1551年「大寧寺の変」が起こると、再び広徳院に入って尼になった。

皎月院【こうげついん(15??~1600)】

石田三成の室。宇多頼忠の娘。石田重家、石田重成、辰姫ら三男三女を産んだ。羽柴秀吉政権の中心にあった石田三成の室であるにもかかわらず、逸話などはほとんど残っていない。1600年「関ヶ原の役」の際、父宇多頼忠や石田三成の枝連衆と共に佐和山城にいた。石田三成勢が敗れると、松平元康は小早川秀秋らに佐和山城を攻撃させた。城方も奮戦するものの数に敵わず、宇多頼忠、宇多頼重らは自刃、土田桃雲が皎月院ら婦女を刺殺し天守に火を放った。

孝蔵主【こうぞうす(15??~1626)】

蒲生氏郷家臣川副勝重の娘。高台院付きの筆頭上臈、後に松平秀忠付き上臈。1590年、謀反の疑いをもたれた伊達政宗に対し羽柴秀吉の代理として詰問の書状をった。1597年「蔚山城の戦い」における失態で小早川秀秋の筑前国から越前国へ懲罰的移封が決定した際、実務を取り仕切った。羽柴秀吉より謀反の疑いをかけられた羽柴秀次を説得する使者を務めた。孝蔵主の権限は五奉行にも匹敵するほどで「表のことは浅野長政が、奥のことは孝蔵主が」と言われるほどの権威を持っていた。1599年、高台院と共に大坂城を退去、京に移る。その後は高台院執事として大津城の戦いの講和交渉役や徳川家康との折衝役などを務める。1614年、突如高台院の元を離れ江戸城に移り、松平秀忠に仕えた。

光徳院【こうとくいん(15??~1573)】

朝倉孝景の室。若狭国守護職武田元信の娘。1573年「刀禰坂の戦い」で、織田信長に大敗を喫した朝倉義景は、朝倉景鏡と共に大野に落延びた。愛息愛王丸とその母小少将それに朝倉義景の母光徳院の三人も共に洞雲寺に入ったが平泉寺の支援は得らず、朝倉景鏡の裏切りにあい、朝倉義景は六坊賢松寺で高橋景倍、鳥居景近と共に自刃した。愛王丸、小少将、光徳院は朝倉景鏡に捕らえられ、朝倉義景の頸と共に織田信長勢に引渡される途中、丹羽長秀に謀殺された。

小侍従【こじじゅう(15??~15??)】

平田因幡守の室。明智珠の侍女。明智珠姫が細川忠興に嫁ぐ際に、明智光秀がつけた侍女。1582年、明智光秀が「本能寺の変」後の「山崎の戦い」で、明智光秀が羽柴秀吉勢に討取られると、娘である明智珠は細川忠興によって味土野に幽閉されると、小侍従はそれに従い、味土野にて出家した。後に羽柴秀吉の許しが出て、大坂に戻ると羽柴秀吉に拝謁し、小袖を賜った。その後、細川忠興の命を受け家臣平田因幡守に嫁いだ。後に娘ややを産んだ。嫁いだ後も度々、ガラシャと手紙のやり取りをしていた。平田因幡守の病没後は、出家し妙寿と称した。夫の甥松本彦之進を婿養子に迎えた。

児玉周姫【こだまかねひめ(1572~1604)】

毛利輝元の側室。児玉元良の娘。通称二の丸殿。別名「清泰院」。はじめ杉元宣の室。幼少の頃に自宅門前で遊んでいたところ、美少女故に通りがかった毛利輝元の目に留まり、その後、毛利輝元はしばしば児玉元良の自宅を訪問した。児玉元良は児玉周姫を杉元宣に嫁がせた。毛利輝元は諦めることなく佐世元嘉らに命令し、強奪して側室とした。1589年、杉元宣は羽柴秀吉に訴えようとするが小早川隆景に謀殺された。側室となった児玉元良の娘は広島城二ノ丸に住み、毛利輝元の寵愛を受けた。毛利秀就、竹姫、毛利就隆を産んだ。

近衛前子【このえさきこ(1575~1630)】

後陽成天皇女御。近衛前久の娘。羽柴秀吉の猶子。1586年、羽柴秀吉の猶子として入内した。後陽成天皇女御となった。五摂家からの入内は久しく無く、南北朝期以来の女御再興となった。1620年、准三宮となった。

近衛豊姫【このえとよひめ(15??~15??)】

朝倉義景の継室。五摂家の筆頭近衛稙家の娘。朝倉義景の継室として近衛稙家の娘を迎えた。この室は「容色無双ニシテ妖桃ノ春ノ園ニ綻ル装イ深メ、垂柳ノ風ヲ含メル御形」(朝倉始末記)と評された美女であったが、朝倉義景との間に子ができなかったため、離縁されて実家に送り返された。

小りん【こりん(15??~15??)】

甲賀の忍。織田家の動向を探るため山内一豊に接近した。誘惑に負けた山内一豊は肉体関係を結んだ上、機密を漏らしまった。しかし小りんは山内一豊の正直さに惚れ、度々戦場に現れては山内一豊を救った。山内一豊の家にもぐりこみ、千代の黙認の下、山名一豊の子どもを産もうと画策していた。山内一豊にはねつけられた上、千代が懐妊したこともあり、山内家を去った。荒木村重の謀反の際、山内一豊のために別所長治の城に忍び込むが兵糧攻めに遭い失明。戦の後に山内一豊と再会するも、真っ直ぐな性格だった山内一豊が羽柴秀吉の命とはいえ、正攻法ではない兵糧攻めを実行したことに幻滅し、姿を消した。2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」では、長澤まさみが演じた。

小西マリア【こにしまりや(15??~1605)】

小西行長の娘。対馬国宗義智の室。洗礼名の「マリア」。父小西行長同様に熱心な切支丹。羽柴秀吉の命で宗義智に嫁いだ。1600年「関ヶ原の役」では、父小西行長が討死した。改宗した夫宗義智から棄教を求められたのを拒否して離縁され、長崎の地で病死した。

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【さ】

西郷局【さいごうのつぼね(1562~1589)】

松平元康の側室。戸塚忠春の娘(叔父西郷清員の養女)。西郷正勝は、三河国での影響力は皆無に等しく、今川義元に属して命脈を保っているに過ぎなかった。成長して最初の夫西郷義勝に嫁したものの、先立たれて寡婦となっていた。そこを、同じく正室に先立たれた従兄西郷義勝の継室に望まれた。その西郷義勝との間に一男一女を産んだ。1571年、武田晴信の秋山信友の南進を阻むため、縁戚野田菅沼家に協力した「竹広の戦い」で、不運にも西郷義勝が討死し、またしても未亡人となった。その後、西郷清員の養女として松平元康の側室になり、二代将軍松平秀忠、松平忠吉の生母となった。

宰相殿【さいしょうどの(15??~15??)】

羽柴秀吉の側室。於寧の侍女。

宰相殿【さいしょうどの(15??~1607)】

島津義弘の継室。園田清左衛門の娘(広瀬助宗の養女)。別名「宰相殿」。島津義弘との間には男子五人、女子1人を産んだが、天寿を全うできたのは島津忠恒と島津御下のニ名だけであった。1572年「木崎原の戦い」では、島津義弘の代理として50人余りの兵で加久藤城に籠城した。上方に人質に出されていた折りには義兄島津義久から都度都度書状を送られた。島津忠恒と伊集院忠真の対立した「庄内の乱」の頃から病気がちとなり、島津義弘に先立って病没した。

斎藤帰蝶【さいときちょう(1535~1582)】

織田信長の室。長井規秀(斎藤道三)の娘。母は明智光継の娘小見の方。1549年、政略結婚で斉藤家から織田信長に嫁いだ。二人の間には子ができなかった。織田信長の閨房における醜聞が一切表に出ずきちんと取り仕切られていたことから、決して無能な女性ではなく一正室多側室多愛妾多伽係という当時の奥制度をきちんと管理出来る女性だった。婿である織田信長を美濃国の後継者と定めた斎藤道三の国譲状がある以上は、濃姫を室としておくことが織田信長にとっても必要不可欠であった事もあり、その斎藤道三と対立した、兄斎藤義龍との諍いにより離縁して実家に返したという可能性は考えられない。美濃国攻略後に美濃衆や加治田衆が尾張衆と同様に待遇されていることからも、濃姫が美濃攻略前に病気などで亡くなったという可能性も少ないと思われる。1988年のNHK大河ドラマ「武田信玄」では麻生祐未が演じた。

斎藤小少将【さいとうこしょうしょう(15??~1573)】

朝倉義景の側室。斎藤兵部少輔の娘。別名「諏訪殿」。1568年、朝倉義景の嫡男阿君丸が病没した後、側室になった。朝倉義景は阿君丸の死後、悲しみの余り政務を省みず、老臣らは政務の停滞と世子のいないことを心配して悲しみを和らげて世継をもうけるために美しい女性が必要だとして小少将を側室にすることを進めた。1570年、愛王丸を産んだ。1573年、朝倉義景が「刀根坂の戦い」に敗れ、一乗谷を放棄して大野郡へ落ち延びるとこれに随う。朝倉景鏡の裏切りにより朝倉義景が自刃後、愛王丸、光徳院と共に捕らえられ、丹羽長秀に謀殺された。

斎藤福姫【さいとうふくひめ(1579~1643)】

斎藤利三の娘。稲葉重通の養女。小早川秀秋家臣稲葉正成の継室。別名「春日局」。1582年「山崎の戦い」で父斎藤利三が討死すると苦難の日々を送り、公家の三条西家のもとで教養を積み、公家の素養である書道、歌道、香道等の教養を身につけた。1604年、二代将軍松平(徳川)秀忠の子竹千代(後の三代将軍家光)の乳母となるため江戸城に入る。松平秀忠の室小督姫が竹千代の弟国松(松平忠長)を溺愛し、国松を三代将軍に付けるべく画策した。1615年、駿府にいた大御所松平元康に竹千代の世継を確定させるように直訴した。江戸城における江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に松平家光を支えた「鼎の脚」のひとり。

相良良姫【さがらよしひめ(1535~1617)】

島津義弘の室。相良晴広の娘。

相良千代菊【さがらちよぎく(1543~1620)】

相良義陽の室。相良義滋の娘(四女)。相良義滋の家督継承抗争への協力の見返りとして、上村頼興は、上村(相良)晴広を相良家の家督を相続させた。相良家の家督相続の中で、相良晴広の嫡男相良義陽に嫁いだ。相良千代菊の家系は、山田永留家流。相良義陽の血筋は、上村家流。相良千代菊は、永留家と上村家を繋ぐ、大きな紐帯としての役割を果した。

榊原鶴姫【さかきばらつるひめ(15??~15??)】

池田利隆の室。榊原康政の娘。松平秀忠の養女。

佐久間虎姫【さくまとらひめ(1564~1610)】

中川秀成の室。佐久間盛政の娘(新庄直頼の養女)。羽柴秀吉のはからいにより中川清秀の二男秀成の室となり、嫡子中川久盛をはじめ七人の子の母となった。中川清秀は「賤ヶ岳の戦い」で佐久間盛政の急襲を受けて討ち死にした武将であり、虎姫は父を仇とする家に嫁いだことになる。この経緯から中川家中、特に姑から嫌われたため、結婚後夫の領地に帰ることなく終生畿内暮らした。

佐々輝子【さっさてるこ(15??~1630)】

佐々清蔵の室。佐々成政の娘。別名「岳星院」。はじめ従兄弟の佐々清蔵に嫁ぎ、五郎四郎を儲けるも「本能寺の変」で佐々清蔵と死別後、実家に戻った。後に関白鷹司信房の継室となる。鷹司信房との間に鷹司信尚、鷹司孝子(徳川家光の室)など七人の子供を儲けた。甥に狩野探幽。

佐藤八重緑【さとうやえりょく(15??~1565)】

佐藤忠能の娘(岸信周の養女)。織田信長の斎藤龍興領に侵攻に対抗するため、中美濃三城の関城主長井道利、堂洞城主岸信周、加治田城主佐藤忠能は盟約を結び、長井道利の勧めで佐藤忠能の娘八重緑は岸方の養女(人質)として差し出された。佐藤忠能は家臣の梅村良澤を犬山城の丹羽長秀を通して織田信長に内通した。「堂洞合の戦い」前夜、この事を知った岸信周は、八重緑を刺殺し竹の串に貫いて、加治田城に面した長尾丸に立てた。佐藤忠能の家臣、西村治郎兵衛が忍び、姫の亡骸を奪い取り龍福寺へ葬った。

真田於菊【さなだおきく(15??~15??)】

小県郡長窪の石合重定の室。真田信繁の娘(長女)。祖父堀田興重によって養育された。1614年、堀田興重は「大坂夏の陣」で討死した。

真田於市【さなだおいち(15??~15??)】

真田信繁の娘(次女)。母は家臣高梨内記の娘。配所の九度山で病没した。1614年、高梨内記は「大坂夏の陣」で討死した。

真田於梅【さなだおうめ(15??~15??)】

片倉重綱の後室。真田信繁の娘(三女)。母は高梨内記の娘。別名「泰陽院」。1615年「大坂夏の陣」で父真田幸村に従って大坂城に入城した。片倉重綱は、伊達政宗勢の先鋒として数々の戦功をあげた。「道明寺口の戦い」では、真田信繁勢に対して奮戦した。大坂落城の際、城中から白綾の鉢巻に白柄の長刀を杖にした美少女が、片倉重綱の陣の前へ出てきたので、彼はその少女を捕まえ、連れて帰って侍女とした。この少女が片倉重綱の後室となった真田信繁の娘の於梅。片倉重綱の後室となった於梅は、片倉景長の養母として片倉家を盛り立てた。

真田あぐり【さなだあぐり(15??~15??)】

蒲生郷喜の室。真田信繁の娘(四女)。母は越前敦賀城主大谷吉継の娘。1615年。あぐりは大坂落城後、真田信繁の妹が滝川一積の室(於菊)であった縁で、滝川一積の養女となった。その後、あぐりは会津の蒲生忠郷家臣蒲生源左衛門郷喜の室となった。後年、この婚姻が敵の娘をかってに嫁がせたという理由で、蒲生忠知家の内紛の一因となり、滝川一積の改易の処分を受けるという結果となった。

真田御田姫【さなだ(なほ)おたひめ(15??~15??)】

岩城宜隆の室。真田信繁の娘(五女)。母は三好秀次の娘。1615年。大坂落城を前にして、真田御田姫は京都に住む羽柴秀吉の姉瑞龍院日秀尼の許へ落ち延びた。日秀尼は三好法印一露の室で羽柴秀次の母。真田御田姫は成人して岩城宜隆に嫁いだ。岩城家は秋田城主佐竹家の庶家。御田姫は岩城重隆を産んだ。

真田於菖蒲【さなだおしょうふ(15??~15??)】

伊達政宗の家臣田村定広の室。真田信繁の娘(六女)。母は越前敦賀城主大谷吉継の娘。九度山で産まれた。姉で片倉重綱の後室の於梅に引き取られ、伊達政宗の家臣田村定広に嫁いだ。

真田おかね【さなだあかね(15??~15??)】

石川貞清の室。真田信繁の娘(七女)。母は越前敦賀城主大谷吉継の娘。九度山で産まれた。犬山城主石川備前守貞清が「関ヶ原の役」で失領し京都で石川宗休と称していたときに嫁いだ。石川宗休は京都大珠院に真田信繁夫妻の墓を建てた。

真田於菊【さなだおきく(15??~15??)】

滝川三九郎一績の室。真田昌幸と於徳との娘。別名於妙。名胡桃城で生まれた。1590年、名胡桃城の落城を経験して母於徳も失った。上田城に引き取られ、山手殿に愛されて、成長した。於徳ゆずりの豊かな体つきで、ふっくりと愛らしい面立ちをしていた。石田三成の義弟宇多河内守頼重と婚約した。1600年「関ヶ原の役」により宇多頼重が討死した。上田城から滝川一績によって連れ出されそのまま室となった。1985年のNHK大河ドラマ「真田太平記」では岡田有希子が演じた。

真田村松殿【さなだむらまつどの(15??~15??)】

真田昌幸の家臣小山田壱岐守茂誠の室。真田昌幸の娘(長女)。

佐々輝子【さっさてるこ(15??~1630)

佐々清蔵の室。佐々成政の娘。1582年、佐々清蔵が「本能寺の変」で二条御所で討死したため、後に佐久間安政、さらに鷹司信房に嫁いだ。

三条の方【さんじょうかた(15??~15??)】

細川晴元の室。三条公頼の娘(長女)。三条家は清華七家のひとつで、摂関家に次ぐ家柄であり極官は太政大臣。1537年、六角定頼の猶子となっ細川晴元に嫁いだ。

三条の方【さんじょうのかた(1521~1570)】

武田晴信の室。三条公頼の娘(次女)。三条家は清華七家のひとつで、摂関家に次ぐ家柄であり極官は太政大臣。姉には細川晴元室、妹には顕如の室の如春尼。笛と装束の家として知られている。1536年、武田晴信に嫁ぐ。武田義信、黄梅院(北条氏政夫人)、武田信親(龍宝)、武田信之、見性院(穴山梅雪夫人)と三男二女をもうける。武田家の近習衆のなかには警護等を務めていたと思われる御料人衆がおり、五味新右衛門をはじめ十人が付けられた。父三条公頼の斬殺、義信の謀反、信親の盲目、信之の夭折、黄梅院の離縁と27歳にしての病死など、度重なる不運に見舞われた。姉には細川晴元夫人、妹には本願寺顕如夫人の如春尼がいる。1988年のNHK大河ドラマ「武田信玄」では紺野美紗子が演じた。

三条如春尼【さんじょうにょしゅんに(1544~1598)】

本願寺顕如の室。三条公頼の娘(三女)。別名「如春尼」。三条家は清華七家のひとつで、摂関家に次ぐ家柄であり極官は太政大臣。1544年、,細川晴元の養女となり本願寺第11世顕如と婚約した。1557年、六角義賢の猶子として本願寺顕如に嫁いだ。1570年、織田信長との「石山城の戦い」では、本願寺顕如と共に石山本願寺に籠城した。本願寺顕如が病没すると、地嫡本願寺教如 が本願寺家の家督を相続するが本願寺,顕如の遺書が発見されたとして三男の本願寺准如が相続権を主張、羽柴秀吉の裁断により本願寺教如を引退させ、本願寺の東西分派(のち、本願寺教如は松平元康から寺地を寄進され東本願寺を創設した。

慈眼院【じげんいん(15??~1641)】

北条氏直の婚約者。織田信長の娘。1580年、北条氏政は武田勝頼との対抗上から使者を安土城に送り、織田信長に織田、北条両家で縁組を成立させる代わりに北条家の所領安堵を願い出た。1582年、氏政が伊豆三島社に願文を納めて信長息女の輿入れが速やかに実現される事を願った。
1582年、織田信長が「本能寺の変」で討死すると、その後の「天正壬午の乱」で北条氏直は松平元康の次女(督姫)を室に迎えた為、この縁組は消滅した。

篠原まつ【しのはらまつ(1547~1617)】

前田利家の室。篠原一計の娘。別名「芳春院」。1550年、父篠原一計が没し、母が尾張守護斯波家の家臣高畠直吉と再婚すると、まつは前田利家の父前田利昌に養育されることになる。1558年、従兄弟である前田利家に嫁ぐ。1559年、長女幸姫(前田長種室)。1562年、長男利長(初代加賀藩主)。1563年、次女蕭姫(中川光重室)。1573年、三女摩阿姫(羽柴秀吉側室)。1574年、四女豪姫(宇喜多秀家室)。1577年、五女与免(浅野幸長婚約者、夭折)。1578年、次男利政。1580年、六女千世(細川忠隆室)など二男九女を産んだ。女性が産む子供の数が多かったとされる戦国時代にあっても十一人の実子がいる女性は少ない。1583年「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が敗北すると、羽柴秀吉に会って和議をまとめ前田利家の危機を救った。1584年、佐々成政に末森城を強襲された際には、蓄財に努めていた前田利家に対し「金銀を召し連れて槍を突かせたら」と皮肉って鼓舞した。1599年、前田利家が病により没すると出家し芳春院と称した。1600年、前田家に松平元康から謀反の嫌疑がかけられた際には、交戦を主張する前田利長を宥め、自ら人質となって江戸に下るり、その後14年間、江戸で過ごした。1614年、前田利長の病没により金沢へ帰国した。2002年のNHK大河ドラマ「利家とまつ」では松嶋菜々子が演じた。

島於珠【しまおたま(15??~15??)】 

柳生利厳の室。島左近の末娘。1600年「関ヶ原の役」後、乳母と共に逃げ流浪の後に京の武蔵屋伊兵衛に匿われた。

島津亀寿【しまづかめじゅ(1571~1630)】

島津家久の室。島津義久の娘(三女)。1587年、羽柴秀吉の「九州討伐」で島津家が降伏すると、島津義久は亀寿を人質として大阪城に差し出された。1589年、帰国し島津久保と婚姻した。1593年、島津久保は「文禄の役」で討死した。1594年、島津久保の弟島津家久と再婚した。1600年の「関ヶ原の役」の際には、大阪城に人質として留め置かれていたが、石田三成勢の敗戦後島津義弘と共に帰国した。1611年、父島津義久の亡くなったあとは、島津家久とは国政を巡って対立、国分に移り住んだ。

島津於南【しまづおなみ(1511~1581)】

肝付兼続の室。島津忠良の娘(長女)。大隅の肝付兼続に嫁ぎ、二男、二女を産み薩摩国と大隅国の安定に貢献した。島津家と肝付家が対立するとその板挟みとなり、辛苦を舐め尽くした。その後肝付家は島津家の家臣となったが、実子肝属良兼に男子が無く、肝付家の後継者問題を差配したため、実質的に肝付本家の衰亡を招いた。賢女か悪女か見解が別れる人物。父島津忠良の死に際して息子肝付良兼と共に菩提寺を建立するなど、父親とのつながりが非常に強い女性であった

島津於隅【しまづおすみ(1511~15??)】

島津忠良の娘(次女)。

島津花舜【しまづかしゅん(15??~1559)】

島津義久の室。島津忠良の娘(四女)。

島津実窓【しまづじっそう(15??~1607)】

島津義弘の室。島津義弘の室。島津忠恒の生母。夫との仲は非常に良く、島津義弘から何通もの手紙を受け取った。1600年、島津義弘が「関ヶ原の役」で敵中突破した際に、家臣たちは早期の帰国を進めたが、島津義弘は大坂に救出に向かった。

島津於平【しまづおひら(1551~1603)】

島津義虎に室。島津義久の娘(長女)。五男を産んだ。

島津於玉【しまづおたま(1563~1641)】

島津彰久の室。島津義久の娘(次女)。

島津御下【しまづおした(1584~1649)】

伊集院忠真の室。島津義弘の娘(次女)。伊集院忠棟の嫡男である伊集院忠真に嫁いだが、兄島津家久が伊集院忠棟を謀殺したことにより伊集院忠真が島津家に対して反乱を起こした。結果、伊集院家は80,000石から10,000石に減封された。1602年、兄島津家久は、伊集院忠真を謀殺した。1611年、松平元康の命により島津家久の名代として江戸で人質となった。1619年、父島津義弘の病没により人質の任を解かれて鹿児島に帰還した。島津家久の命により娘を松平定行の後室とした。帰国後、島津久元の後室となるが、島津久元の先室は、無理矢理離婚させるた。3,000石の化粧料をもらい、兄島津家久の相談にあずかるなど権勢は絶大な物があった。

島守小柳姫【しまもりこやなぎはな(1571~1588)】

羽後国秋田郡浦城主三浦盛永の室。島守信広の娘。1588年「第三次湊合戦」で安東実季と豊島道季が対立すると、三浦盛永は豊島家に味方して浦城に籠城する。安東実季の家臣石岡主膳の攻撃によって浦城は落城する。三浦盛永は討死した。小柳姫は千代若とともに落延びる途中、女中七人と共に自刃した。

志水亀姫【しみずかめひめ(1573~1642)】

松平元康の側室。石清水八幡宮の祀官家田中家の分家である京都正法寺志水宗清の娘。別名「相応院」。初めは竹腰正時に嫁ぎ、竹腰正信を生む。夫と死別後、奥勤めに入る。1594年、松平元康に見初められ側室に入った。1600年、松平義直を産んだ。松平元康の病没後、相応院と称して、松平義直と共に名古屋城で暮らした。

清水御前【しみずごぜん(15??~15??)】 

最上義光の側室。清水城主清水義氏の娘。幼少のときんじ両親を相次いでなくし、家臣たちによって養育された。成長すると、晃麗才媛となり十九歳の時に、最上義光に輿入れをした。最上義光が病没するまで、清水御前と称され敬愛された。「羽柴秀次事件」や「関ヶ原の役」など、最上家の危機の際も最上義光を支えた。1614年、最上義光が病没すると、最上家の家督を巡り、家臣団が争うようになった。清水御前は、故郷に戻り、草庵を建て、尼となり最上義光の菩提を弔った。その後、最上家は改易になったが、松平元康の配慮により清水御前は5,000石を領した。

城井鶴姫【しろいつるひめ(1574~1588)】

黒田長政の室。城井鎮房の娘。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」では、城井鎮房は羽柴秀吉に属した。城井鎮房は伊予国への転封を命じられたが、鎮房鎮房はこれを拒絶し、本領安堵に固執したため、羽柴秀吉の家臣黒田孝高と対立した。天嶮の要害城井谷城に籠もって頑強に抵抗したが、城井鎮房の娘鶴姫を孝高に嫁がせることを条件に和睦が成立した。1588年、黒田長政は城井鎮房を中津城に呼び出して騙し討ちにした。嫡男城井朝房も謀殺され、さらに居城を攻められ枝連衆もことごとく謀殺され、城井鶴姫も磔刑にされた。

ジュリアおたあ【じゅりあおたあ(1592~1598)】

李氏朝鮮の両班の娘。朝鮮の平壌近郊から日本に連行されてきた朝鮮人の女性。小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで育てられる。小西行長夫人の教育のもと、とりわけ小西家の元来の家業と関わりの深い薬草の知識に造詣を深めたと言われる。のち、主君行長が関ヶ原の戦いに敗れて石田三成とともに京六条河原で斬首された後、おたあの才気を見初めた松平元康によって駿府城の大奥に身柄を召し上げられ、松平元康付きの侍女として側近く仕え、松平元康の寵愛を受けた。昼に一日の仕事を終えてから夜に祈祷し、聖書を読み、他の侍女や家臣たちをキリスト教信仰に導いた。キリシタン棄教の要求を拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示したため禁教令により駿府より追放された。追放後も熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人に献身的に尽くした。

宗像菊姫【しょうぞうきくひめ(15??~1551)】

宗像氏雄の室。宗像正氏の娘。1551年、陶晴賢の謀反で、菊姫の夫宗像氏雄は大内義隆とともに自刃した。大内家の実権を握った陶晴賢は、宗像氏貞を名乗らせ、宗像大宮司家を相続させるため白山城に送り込んだ。宗像家は混乱し山田局と菊姫側は蔦岳城に籠城、宗像氏雄の実弟千代松丸に宗像家を継がせようとしたが宗像貞側の勝利に終った。1552年、宗像氏貞は重臣石松但馬守に命じ山田局と菊姫を蔦岳城で謀殺した。

定恵院【じょうけいいん(1519~1550)】

今川義元の室。武田信虎の娘(長女)。1537年、今川義元に嫁いだ。1536年、今川義元は「花倉の乱」を経て今川家の家督に相続した直後であり、武田家との甲駿同盟を強固にするための婚姻であった。この婚姻に武田家と敵対関係にあった北条氏綱が激怒し、駿河国に侵攻して興津辺りまでを焼き払うった。武田信虎が今川義元支援のため須走口まで出馬するが、富士川以東は北条家に占領され、駿相の敵対関係は10年近く続くことになる。1538年、定恵院は義元との間に長男今川氏真を生んだ。その後、娘の嶺松院、隆福院が生まれている。1541年、父信虎は娘夫婦と会うために駿河を訪問しているが、武田晴信によって帰国を拒絶され、そのまま駿河に滞在することとなった。

青岳尼【しょうがくに(15??~15??)】

里見義弘の室。小弓公方足利義明の娘。1538年「第一次国府台の戦い」で、父小弓公方足利義明が討死した後、安房国に移って里見義堯の保護を受ける。1551年、太平寺住持となる。1556年、北条氏康支配下の鎌倉を攻撃した里見義弘は彼女に恋焦がれる余り、太平寺にいた青岳尼を訪れて還俗して自分の室になるように勧めた。彼女もこれに応じて江戸湾を渡り、里見義弘の居城のあった上総国佐貫城に入って間もなくその室となった。

正栄尼【しょうえいに(15??~15??)】 

毛利勝永の室。山内家の家臣柏原長兵衛の娘。山内一豊の室に仕えていた。毛利勝家を生んだ。

正栄尼【しょうえいに(15??~1615)】

渡辺昌の室。明智光秀の娘。別名萩の御前。渡辺昌の室となり渡辺糺、つるを産んだ。後に羽柴秀頼の乳母となった。1614年、京都方広寺の鐘銘問題を機に豊臣家と徳川家康との関係が悪化すると、大蔵卿局と共に幕府との折衝により、家康と直接面会して弁解することに成功した。大坂に戻った後、意見の食違った片桐且元を糾弾した。1615年「大坂夏の陣」にて、淀殿、羽柴秀頼に先立ち、渡辺糺を介錯し、自刃した。

寿桂尼【じゅけいに(15??~1568)】

今川氏親の室。大納言中御門宣胤の娘。1505年、今川氏親に嫁ぐ。病床の今川氏親を補佐した。1526年、制定された今川家の分国法である『今川仮名目録』の制定にも関わっている。1526年、今川氏親が病死して今川氏輝が家督を継いだとき、今川氏輝はまだ若年であり、二年間は寿桂尼が公的文書を発給し、今川家の政務を取り仕切った。寿桂尼は武田晴信と三条家の縁談の斡旋を努めた。1536年、今川氏輝が死去すると寿桂尼は、出家して栴岳承芳と名乗っていた今川義元を還俗させ、側室の子である玄広恵探との間で家督争い「花倉の乱」が起った。1560年、今川義元が「桶狭間の戦い」で討死した後も政治に関与した。

照葉【しょうよう(15??~15??)】 

大宮司職宗像正氏の側室。陶晴賢の姪。宗像氏貞の母。家督相続争いで室の山田ノ局とその子菊姫を謀殺した。

松寿院【しょうじゅいん(15??~15??)】 

藤堂高虎の側室。長連久の娘。1600年「関ヶ原の役」では石田三成方の人質となった。

白井の局【しらいのつぼね(15??~1565)】

武蔵国忍城主成田長泰の室。長尾景春の娘。1553年、京都に下り足利義輝の近侍となった。1565年、松永久秀と三好三人衆が二条城を急襲した際、薙刀で奮戦した。

末森殿【すえもりどの(15??~15??)】 

佐久間盛次の室。柴田勝家の妹。佐久間盛政の母、柴田勝家の北ノ庄城落城前に城を落ちる、しかし尾山城に落ちる途中に自刃した。

瑞渓院【ずいけいいん(15??~1590)】、

北条氏康の室。駿河国守護今川氏親の娘。別名「於瑞御前」。1535年、北条氏康との婚姻した。夭折した長男新九郎(天用院殿)、次男北条氏政、三男北条氏照、四男北条氏邦、五男北条氏規。女子では今川氏真室の早川殿、足利義氏室の浄光院殿を産んだ。今川義元との「河東一乱」があり今川家と断交があっても時期でも実家に戻ることなかった。

杉大方【すぎのおおかた(15??~1545)】

毛利弘元の継室。高橋久光の娘。1501年、毛利弘元の室福原殿の病没後に継室に迎えられた。1506年、夫毛利弘元が没すると、杉大方は幼少の毛利元就を不憫に思い実家にも帰らずそのの養育に専念した。家臣の井上元盛に多治比の所領を横領され、生活が困窮を極めた際も、幼少の毛利元就を支えた。杉大方は毛利元就に朝日を拝む念仏信仰を教え、毛利元就は終生この朝の念仏を欠かさなかった。1997年のNHK大河ドラマ「毛利元就」では松坂慶子が演じた。

杉原寧々【すぎはらねね(1549~1624)】

羽柴秀吉の室。杉原定利の娘(次女)。叔母の嫁ぎ先尾張国海東郡津島の浅野長勝の養女。別名「高台院」。1561年、織田信長の家臣羽柴秀吉に嫁ぐ。夫羽柴秀吉の立身出世を支えた糟糠の室。羽柴秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として加藤清正と福島正則らを養育した。1574年、長浜城120,000石となった羽柴秀吉に従い 羽柴秀吉の生母なかと共に城内に暮らした。1582年「本能寺の変」の際には近江長浜城に居り、一時難を避けて領内の大吉寺に身を寄せた。1585年、羽柴秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所と称する。関白の室として、朝廷との交渉や人質として集められた諸大名の妻子を監督するなどの役割を担った。1588年、後陽成天皇が聚楽第に行幸、従一位に陞叙。1598年、羽柴秀吉が没すると、淀殿と連携して羽柴秀頼の後見にあたった。1599年、大坂城西の丸を退去し、古くから仕えてきた孝蔵主らとともに京都新城へ移り、朝廷との交渉や豊国社や方広寺の運営などの任にあたった。1600年「関ヶ原の役」後に京都新城が破却されると、三本木の屋敷に隠棲したが15,000石の領地は引き続き安堵されている。1603年、羽柴秀吉の遺言であった羽柴秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾、高台院湖月尼と称した。

杉原ふく【すぎはらふく(15??~1603)】

浅野長勝の室。杉原家利の娘。別名七曲殿。姉に朝日殿、兄に杉原家次。浅野長勝との間に子はいないが、朝日殿の子、寧々、長生院、浅野長政を養子とした。杉原寧々と羽柴秀吉の結婚の際は、姉が反対したが、浅野長勝とともに賛成した。1594年、大坂城二の丸にて能の興行でも姉朝日殿とともにわた五十把をもらった。1603年、養女高台院が、豊国神社にて七曲殿の病平癒祈祷をした。

杉原ひこ【すぎはらひこ(15??~1598)】

杉原定利の室。杉原家利の娘。別名「朝日殿」。朝日殿という名は尾張国朝日村からそう称された。杉原定利に嫁ぎ木下家定、くま、寧々、ややをもうけた。寧々とややはすぐに妹の七曲殿とその夫浅野長勝の養女とした。1561年、杉原寧々が羽柴秀吉と結婚。しかし朝日殿は結婚前からの同棲、娘よりも十歳ほど年上の羽柴秀吉が気にいらなかった。羽柴秀吉の離婚歴もその理由であった。 後に羽柴秀吉が関白就任後も木下家が寧々の実家であるのに20,000石程度であったことも二人の確執のひとつであった。ちなみに浅野家は210,000石を領していた。1615年「大坂夏の陣」で羽柴家が滅亡した後も木下家は大名家として残った。

杉原於あこ【すぎはらおあこ(15??~1628)】

木下家定の室。丹波国福知山城主杉原家次の娘。別名「雲照院」。小早川秀秋らの母。

杉原やや【すぎはらやや(15??~1616)】

浅野長政の室。杉原定利の娘。別名長生院。母は朝日殿。兄弟に木下家定、ねね、くま。姉於寧々と共に浅野長勝、叔母七曲殿の養女となり、浅野長政に嫁いだ。浅野長政との間には浅野幸長、浅野長晟、浅野長重、豊姫(杉原長房室)、堀親良室、智相院(松平定綱室)を産んだ。1594年、浅野長重と共に上洛した。1611年。浅野長政の病没後は出家し長生院と称した。

諏訪湖衣姫【すわこいひめ(1530~1555)】

武田晴信の側室。諏訪上原城主諏訪頼重の娘。1542年、諏訪頼重が武田晴信に滅ぼされた後、その側室となった。1546年、諏訪(武田)勝頼を産んだ。武田晴信、最愛の側室というのが通説だが彼女の人物像を伝えてくれるような史料は存在していない。武田晴信が正室三条の方と不仲であり、諏訪御料人と勝頼を溺愛したため、正室との他の息子達を差し置き、勝頼に武田家相続をと考えついには諏訪(勝頼)勝頼が武田家を継ぐ事になったという説だが、これは正室の三条の方の息子達の武田義信、海野信親、武田信之がそれぞれ、謀反、失明、夭折という理由のため武田家の家督を継ぐことができなくなった結果である。武田晴信は、武田家の通字「信」を勝頼には与えておらず、諏訪家の通字「頼」を称されていることから、諏訪勝頼には諏訪家を継がせるつもりだった。1988年のNHK大河ドラマ「武田信玄」では南野陽子が演じた。

養徳院【せいとくいん(1515~1608)】

織田信秀の側室。池田政秀の娘。織田信長の乳母。池田恒利の室となり池田恒興を生んだ。夫池田恒利の主君織田信秀の嫡男織田信長の乳母となった。後に、池田恒利とは離縁して織田信秀の側室となり娘小田井殿を生んだ。

正徳院【せいとくいん(15??~15??)】

松平元康の家臣水野成貞の室。蜂須賀至鎮の娘。別名「お萬の方」。水野成貞の没後に蜂須賀家に戻った。水野成之、水野忠丘を生んだ。

清涼院【せいりょういん(15??~15??)】  

結城秀康の室。松平忠直の母。人質として江戸住まいをしていたが、松平忠直が幕府からお咎めを受けると、説得して豊後国配流へ従わせた。

関口瀬名【せきぐちせな(1542~1579)】

松平元康の室。今川家臣関口親永の娘。唐人減敬という医者を通じ武田家に内通した罪で長男松平信康と共に織田信長から咎めを受け、松平元康の手により遠江富塚の地で謀殺された。

千宗恩【せんそうおん(15??~15??)】

千利休の継室。千少庵の実母。日吉申楽の能役者宮王三郎三入の室であったが、その死後に千利休の室となった。千利休に内助の功を尽くした女性、大津袋は宗恩が近江の大津から京へ送る米袋にヒントを得て仕立てた。

宋雲尼【そううんに(15??~15??)】

高橋鎮種の室。斎藤長実の娘。高橋鎮種と宋雲尼の間には二男四女の子供が産まれた。結婚前に疱瘡を患い醜女となり破談になりそうになったが、『容貌が変わろうとも、心も変わろうはずが無い』と紹運は言いきり無事結婚。家臣団からは母の如く慕われた。岩屋城落城後に島津家勢に娘と共に捕らえられた。羽柴秀吉の「九州征伐」により島津家より返された。 長男は後に「西国無双の勇士」と謳われる立花宗茂、次男は紹運の跡を継ぎ高橋家を相続した立花直次。

宗恩【そうおん(15??~1600)】

千利休の継室。元は能役者の宮王三入の室。一男(後の少庵)を産んだ。1553年、夫に先立たれた。1578年、千利休が前年に室を亡くしていたため、千利休と再婚した。宗恩は新たな袱紗さばき提案するなど、自身茶の湯に精通し、千利休のよい補佐役、理解者であった。

相馬於北【そうまおきた(15??~15??)】

田村清顕の室。相馬顕胤の娘。相馬顕胤は娘の於北嫁がせるに際して、化粧料として標葉郡のうち、南津島、葛尾、岩井沢、古道の四か村を田村清顕に譲った。ひとり娘は伊達政宗の室の愛姫。

北庵茶々【そのざきちゃちゃ(15??~15??)】

島清興の室。北庵法印の娘。1585年、筒井定次の伊賀国に転封になると、島清興も従ったが枝連衆は平群に残った。金勝寺の復興を成し遂げた島清興は、平群の領民から慕われた領主だった。医者の北庵法印は領民たちに病人が出ると施術治療した。父北庵法印は北庵茶々のところへ度々出かけ、娘は父の具合が悪くなると見舞いに駆けつけるといった、仲の良い親子だった。

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【た】

高田種姫【たかだたねひめ(15??~15??)】

伊達政宗の側室。高田次郎右衛門の娘。美しい女性で、梅の花の香りが好きだった事から「香の前」と称された。羽柴秀吉の側室だったが、羽柴秀吉が伊達政宗の家臣鬼庭綱元との碁に敗れた際、鬼庭綱元に下された。伊達政宗に見初められ側室となり一男一女を生んだ。

鷹司孝子【たかつかさたかこ(1602~1674)】

松平家光の室。鷹司信房の娘。別名「本理院」。1623年、松平家光が征夷大将軍宣下を受けるための上洛中に江戸城へ下り、松平秀忠の継室の江(崇源院)の猶子となった。1624年、祝言が行われ江戸城本丸に入り、御台所と称した。松平家光との仲は悪く、婚姻後程なくして事実上離縁され、中の丸様と称され吹上の広芝に設けられた邸宅で長期にわたる軟禁生活を送った。1651年、松平家光の病没した際、形見分けとして鷹司孝子に渡されたのは50領と幾つかの道具類のみであった。落飾して本理院と称した。松平家綱は、生母に準じる手厚い庇護と敬意を孝子に贈り続けていた。1664年、京都へ上洛し後水尾上皇に拝謁した。

高畑於鍋【たかはたおなべ(15??~1612)】

織田信長の側室。高畑源十郎の娘。別名「興雲院」。蒲生定秀の攻撃を受けて討死した八尾山城主小倉実澄の室。織田信長を頼って岐阜城にやってきたところ、織田信長の手がつき側室となった。七男織田信高、八男織田信吉、於振の母。1582年「本能寺の変」後は、羽柴秀吉から化粧料を与えられた。織田信吉と共に住む。1600年「関ヶ原の役」では、織田部高と織田信吉が石田三成勢に属したため改易され京に閑居、従姉妹淀君より50石の知行を与えられた。

高梨於フ子【たかなしおふね(15??~1553)】

村上義清の側室。中野城主高梨澄頼の娘。北信濃で村上義清と並んで勢力を誇った高梨政頼の姉妹にあたる。1550年、高梨政頼と村上義清の和睦より、村上義清に嫁ぐ。1553年、葛尾城が武田晴信によって陥落すると城から脱出した。途中の千曲川で、機転を利かせた家臣によって対岸に渡ることに成功し、お礼に自ら船頭に笄を渡した。村上義清の討死の報(誤報)を聞いて、千曲川に身投げし自害した。

高山ルチア【たかやまるちあ(15??~15??)】

横山康玄の室。高山重友の娘。洗礼名「ルチア」。前田家老横山長知の嫡男横山康玄に嫁いだ。父高山重友のマニラ追放に同行、高山重友の没後に帰国した。

滝川つね【たきがわつね(15??~15??)】

前田利久(前田利家の兄)の室。滝川一益の甥滝川益氏に嫁ぎ、前田利益を生んだ。その後、前田利久の継室となった。

竹野たつ【たけのたつ(15??~15??)】

前田利家の母。竹野家の出身。別名「長齢院」。前田利家の室、まつの母親は姉にあたる。

武田南松院【たけだみなみまついん(15??~15??)】

穴山信友の室。武田信虎の娘(次女)。別名「南松院」。南松院は、恵林寺にも住した、京都の妙心寺の天桂玄長の肖像画に対する讃によると、容姿は馬郎(仙女)のように美しく、眼は達磨大師の弟子の総持尼のように聡明だった。

武田禰々姫【たけだねね(1528~1543)】

諏訪郡上原城主諏訪頼重の室。武田信虎の娘(三女)。別名「禰々御料人」。1533年、禰々の父武田信虎と諏訪頼満は抗争状態にあった。1535年、武田信虎と諏訪頼満は和睦した。1539年、諏訪頼満が死去すると、嫡孫にあたる諏訪頼重が継承した。1540年、政略結婚により諏訪頼重に嫁いだ。1541年、諏訪頼重は武田信虎と共同で軍事行動を行っているなど両者の関係は良好であったが、武田信虎は武田晴信より駿河国へ追放され武田晴信が家督を相続すると関係が悪化した。1542年、禰々との間に男子が誕生した。武田晴信は諏訪家庶流の高遠頼継と共同で諏訪侵攻を開始し、武田方に降伏した諏訪頼重は甲府に連行され、東光寺で自刃した。諏訪頼重の自刃後は高遠頼継が武田方に対して敵対するが、武田晴信は寅王を推戴して諏訪一族を結束させたが高遠頼継を撃退している。禰々は寅王とともに甲府へ戻っているが、まもなく病没した。

武田波瑠姫【たけだるりひめ(1543~1569)】

北条氏政の室。武田晴信の娘(長女)。別名「黄梅院」。1554年、今川、武田、後北条家の三国同盟のために、北条氏康の嫡男北条氏政に嫁いだ。その輿入れ行列は、一万人ものお供の者が付き従い、大変豪華であった。1557年、武田晴信は波瑠姫のために安産の神である「富士御室浅間神社」に安産祈願をしている。1555年、男子(名前不明、夭折)。1556年、女子を産む。1562年、嫡男北条氏直を出産し、北条氏房、北条直重、北条直定を産むなど夫婦仲は良好だった。1568年、父武田晴信の「駿河進攻」により三国同盟は破綻。「駿河侵攻」に激怒した北条は波瑠姫を甲斐国に送り返した。1986年のTBSドラマ「女風林火山」では林寛子が演じた。

武田佐保姫【たけださほひめ(1545~1622)】

穴山信君の室。武田晴信の娘(次女)。別名「見性院」。穴山信君は甲斐南部河内地方の国人衆で、武田親族衆の筆頭の家格。信君は信玄・勝頼期に重用され、河内郡、駿河江尻領を領する分郡領主となる。1575年、見性院は嫡男勝千代の産んだ。1582年、織田信長、松平元康連合軍の甲斐侵攻において穴山信君は織田、松平方に通じ、戦後はその功績から武田宗家の継承を認められるが「本能寺の変」が発生すると上方にいた信君も宇治田原において横死した。穴山、武田宗家は穴山勝千代が当主となるが、早世したため穴山家は断絶した。見性院は、松平元康に保護されて江戸城北の丸に屋敷を与えられた。松平秀忠が侍女のお静に生ませた子(幸松、保科正之)を養育した。1986年のTBSドラマ「女風林火山」では岡田奈々が演じた。

武田真理姫【たけだまりひめ(1550~1547)】

木曾義昌の室。武田晴信の娘(三女)。別名「眞龍院」。1555年、木曾義康が武田晴信に降ったとき、武田晴信は信濃と美濃国、飛騨国との境を守る重要拠点を支配する木曾家の存在を重く見て、木曾義康の嫡木曾男義昌の室に真理姫を与え木曾家を親族衆とした。木曾義昌との間には嫡男木曾義利らが生まれていた。1582年、織田信長による「武田家征伐」が始まると、木曾義昌が武田勝頼を離反して織田信長と結んだため、木曾義昌と離別して木曾山中に隠遁し三男木曾義一と暮らした。1986年のTBSドラマ「女風林火山」では比企理恵が演じた。

武田松姫【たけだまつひめ(1561~1616)】

武田晴信の娘(五女)。別名「信松尼」。1567年、武田晴信は松姫と織田信長の嫡男織田信忠との婚約が成立させる。1572年、武田晴信が三河国、遠江国方面への大規模な侵攻である西上作戦を開始すると、織田家の同盟国である三河の松平元康との間で「三方ヶ原の戦い」が起こと同盟関係にある織田信長は援軍を送り、武田、織田両家は手切れとなり、松姫との婚約も解消される。1582年、織田、松平家連合軍による甲斐への侵攻が開始され、兄仁科盛信を高遠城において、武田勝頼は新府城から天目山へ逃れともに自刃し甲斐武田家は滅亡する。仁科盛信により新府城へ逃がされた松姫は武田勝頼一行と別行動を取り、仁科盛信の娘である小督姫を連れ、武蔵国多摩郡の金照庵に入る。武田家の滅亡後、八王子に落ち延びていた松姫のもとに織田信忠から迎えの使者が訪れるが、織田信忠も「本能寺の変」で討死する。松姫は出家して信松尼と称し、武田一族と織田信忠の冥福を祈った。1986年のTBSドラマ「女風林火山」で織田信忠を一途に想う松姫を鈴木保奈美が演じた。

武田菊姫【たけだきくひめ(1563~1604)】

越後長尾(上杉)景勝の室。武田晴信の娘(六女)。1575年「長篠の戦い」で武田勝頼が織田信長に敗れて以降、武田家の勢力が衰退し越後長尾家と同盟を結んで織田信長に対抗するため甲越同盟の締結が行なわれた。1579年、両家の同盟の証として越後長尾(上杉)景勝に嫁いだ。婚約が成立したのは越後長尾(上杉)景勝と長尾景虎による「御館の乱」の最中のことであった。越後長尾(上杉)景勝と婚約が成立する以前に長島一向宗の願証寺の僧と婚約していたとされる。嫁いだ後は上杉家中から甲斐御寮人と呼ばれ、質素倹約を奨励した才色兼備の賢夫人として敬愛され、第二代藩主上杉定勝を始めとする後世の歴代藩主たちも武田家を丁重に扱った。1986年のTBSドラマ「女風林火山」では伊藤かずえが演じた。

武田貞姫【たけださだひめ(1578~1659)】

宮原義久の室。武田勝頼の娘。1582年、武田勝頼が討死すると、松姫と共に八王子に落延びた。その後、松平元康に保護され、高力正長に養育された。1603年、松平元康の命により宮原義久の嫁いだ。1606年、宮原晴克を産んだ。宮原家は鎌倉公方足利基氏の嫡流で、高家として松平秀忠の側近として仕えた。1602年、兄宮原義照の病没により、高家宮原家を相続した。

立花誾千代【たちばなぎんちよ(1569~1602)】

立花(高橋)宗茂の室。戸次(立花)鑑連の娘。傅役は城戸豊前守。1575年、立花誾千代は、父戸次(立花)鑑連から立花家の家督を譲られた。戸次(立花)鑑連は娘に家督を継がせるため、大友家の許しを得た上で、彼女を立花家の当主とした。1581年、高橋紹運の長男立花(高橋)宗茂を婿に迎える。羽柴秀吉の命により宗茂が柳川城へ移ると、立花山城の明け渡しに反対して宮永館へ別居、「宮永殿」と呼ばれた。1600年「関ヶ原の役」では、鎮西へ撤退してきた立花宗茂を自ら出迎えた。加藤清正が立花宗茂に開城を説得すべく、九州に進軍した折、「街道を進むと、宮永という地を通ることになりますが、ここは立花宗茂夫人の御座所です。柳川の領民は立花家を大変に慕っており、宮永館に軍勢が接近したとあれば、みな武装して攻め寄せてくるでしょう」と聞かされたため、宮永村を迂回して行軍した。立花宗茂が改易されると肥後国玉名郡腹赤村に隠居した。

伊達蛍姫【だてほたるひめ(1548~1607)】

相馬義胤の室。伊達稙宗の娘(長女)。別名「屋形御前」。1547年「天文の乱」が勃発、伊達稙宗は伊達晴宗に桑折西山城へ幽閉されるが、娘婿の相馬顕胤は懸田俊宗と共に伊達稙宗を西山城から救出して小高城に送り届けた。

伊達花姫【だてはなひめ(1516~1580)】

芦名盛氏の室。伊達稙宗の娘。

伊達阿南【だておなみ(1563~1602)】

岩代国岩瀬郡須賀川城主二階堂盛義の室。羽前国置賜郡米沢城主伊達晴宗の娘(長女)。阿南は二階堂盛義の継室として嫁ぐ。1561年、二階堂盛隆を出産。1565年、二階堂盛義が葦名盛氏に敗れ、二階堂盛隆は人質として、黒川城に送られる。1581年、二階堂盛義が死去。1584年、葦名家の家督を継いでいた、二階堂(葦名)盛隆も死去。伊達政宗が葦名家を下し、岩瀬郡に侵攻しても、須賀川城に籠城して伊達政宗を苦戦させた。

伊達益穂姫【だてますほひめ(1546~1617)】

小梁川盛宗の室。伊達晴宗の娘(三女)。別名「天光院」。小梁川宗重の母。

伊達彦姫【だてひこひめ(1552~1588)】

芦名盛興の室。羽前国置賜郡米沢城主伊達晴宗の娘(四女)。別名「瞳姫」。初め芦名盛興に嫁ぐが男子無く死別した。長姉阿南姫の二階堂家から人質に取っていた甥芦名盛隆が芦名家の家督を相続すると、その正室となった。芦名盛隆が痴情のもつれから謀殺されると遺児芦名亀王丸を擁して伊達小次郎の入嗣を阻んだ。芦名亀王丸が夭折すると、五妹宝寿院の佐竹家から芦名義広を娘と併せて芦名家を相続させた。ところが心労が祟って自らも早世。彦姫の病没後、芦名義広は「摺上原の戦い」に敗れて滅亡した。

伊達芳姫【だてよしひめ(1552~1631)】

佐竹義重の室。伊達晴宗の娘(五女)。別名「宝寿院」「小大納言」。佐竹義宣、芦名義広、岩城貞隆他を産んだ。長兄佐竹(岩城)貞隆を岩城家に婿入りさせた。長姉二階堂家滅亡後に大乗院を庇護。四姉の嫁ぎ先である芦名家に芦名義広を婿入りさせた。五弟国分盛重を庇護した。佐竹義宣と岩城貞隆が対立した際には仲を取り成しをした。

伊達五郎八姫【だていろはひめ(1594~1661)】

松平忠輝の室。伊達政宗の娘(長女)。母は伊達政宗の室愛姫(田村清顕の娘)。1594年、京都の聚楽第屋敷にて生まれた。伊達政宗と正室の愛姫との間に結婚15年目にして初めて授かった待望の嫡出子であり、当然夫妻は伊達家後継者となる男児誕生を熱望していたであろうが、生まれた子は女だった。このため、男子名の名である五郎八しか考えていなかった伊達政宗が、そのまま五郎八姫と命名した。五郎八姫は、聚楽第から伏見、大坂と各地を転々としたが、1599年、有力大名との関係を深めようとする松平元康の策謀の一つとして六男松平忠輝と婚約した。1606年、松平忠輝と結婚した。松平忠輝とは仲睦まじかったが子供は生まれなかった。1616年、松平忠輝が改易されると離縁され父の伊達政宗のもとに戻り、以後は仙台で暮らした。仙台城本丸西館に住んだことから、西館殿と呼ばれた。1987年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」では沢口靖子が演じた。

伊達牟宇姫【だてむうひめ(1608~1683)】

石川宗敬の室。伊達政宗の娘(次女)。母は側室の於山方(柴田宗義の娘)。1619年、伊具郡角田城主石川宗敬に嫁いだ。このとき小桧山佐藤佐衛門と太田休佐衛門の二人が附人となり、石川家家臣となった。婚礼の際、伊達政宗は石川家の仙台屋敷を訪れた。その後、石川宗弘、石川宗信、石川貞弘、千代鶴姫、正菊姫の三男二女を授かった。1636年、父伊達政宗が没した後、牟宇姫の実母でもある於山方が仙台城を出て角田城に住んだ。牟宇姫は母のために御堂を建て、於山方はそこで余生を過ごした。

伊達岑姫【だてみねひめ(1616~1632)】

涌谷伊達宗実の室。伊達政宗の娘(三女)。母は側室の勝女姫(多田吉広の娘)。1627年、伊達家枝連衆(涌谷伊達家)の伊達宗実に嫁いだ。婚礼の際、父伊達政宗は涌谷伊達宗実に祝儀として脇差しを贈り、祝宴を開いた。1632年、嫡男を得ないまま病没した。

種子島妙蓮【たねがしまみょうれん(15??~1572)】

島津義久の継室。種子島時堯の娘(次女)。島津義久は、島津忠良女を室としていたが早世した。種子島時尭の次女を継室とした。1563年、次女(後の島津新城)。1571年、三女(島津亀寿)を産んだが、種子島妙蓮も亀寿出産の二年後に早世した。島津義久が跡継ぎとなる子供も儲けなかったことは島津家の家督争いに大きな影を落とした。

種子島一之臺【たねがしまいちのだい(1537~1619)】

種子島妙連の女房。種子島家臣国上時通の娘。島津義久の継室亡き後、島津義久より、大奥の治令を掌握するように命じられた。その後、その功績により小濱村で1,000石を領した。島津義久より伊勢貞清の次男北条時盛を養子にして一之臺の名跡を相続した。

田村愛姫【たむらめごひめ(1568~1653)】

伊達政宗の室。田村郡三春城主田村清顕の娘。別名「陽徳院」。1579年、伊達政宗に嫁ぐ。1594年、京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、五郎八姫(松平忠輝室)を出産。それから、伊達忠宗、伊達宗綱、伊達竹松丸と、伊達政宗との間に四人の子をもうけた。田村家には愛姫以外の子女がいなかったため、政宗との結婚の際、二人の次男を田村家の養子に約定があったが、次男伊達宗綱は16歳で夭折。後の竹松丸も夭折したため、田村家の復興は伊達忠宗の三男伊達宗良の代まで待つことになった。1987年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」では後藤久美子が演じた。

千野福姫【ちのふくひめ(15??~15??)】

武田勝頼の側室。千野昌繁の娘。一女武田真樹姫を産んだ。※「武田勝頼」by新田次郎。

長慶院【ちょうけいいん(15??~15??)】 

由島三雪の室。羽柴秀吉の姉。通称「於久万」。由島三雪という鍼医にとついだが死別して出家した。

津田於まさ【つだおまき(15??~15??)】

福島正則の室。織田信長の家臣津田長義の娘。別名「梅の丸殿」。美貌であり、福島正則が羽柴秀吉に泣きついて室にしたため福島正則は頭が上がらなかったという、薙刀の名人で、和歌についても造詣が深かった。

土田御前【つちやごぜん(1512~1594)】 

織田信秀の室。織田信秀は十二男十二女子をもうけた。土田御前を母とするのは 織田信長、織田信行、織田秀孝の三人。土田御前は織田信行を溺愛したが、それが織田家臣団の反織田信長派とあいまって後の織田信行逆心へと繋がる一因となった。

椿井妙【つばいたえ(15??~15??)】 

島清興の室。別名妙善院。島清興の子を産んだが幼少で亡くし出家した。

千葉伊勢姫【ちばいせひめ(15??~15??)】

上野国平井城主千葉釆女の娘。長尾景虎の関東出兵の際、父千葉采女の意によって越後長尾景虎の元へ人質に出された。長尾景虎は伊勢姫を気に入ったため側室に置こうと試みるが、柿崎景家の強い反対で断念した。その後、青龍寺で出家し程なくして没した。

妻木煕子【つまきひろこ(1530~1576)】

明智光秀の室。妻木城主妻木広忠の娘。1545年、明智光秀と婚約するが、その後疱瘡にかかり体中にあばたが残ってしまった。妻木範煕は、妻木煕子と瓜二つの妹を、妻木煕子の代わりに明智光秀のもとに嫁がせるが、明智光秀は妻木煕子を室として迎えた。その後の多難な日々の中で、妻木煕子は自分の黒髪を売って、明智光秀を助けた。明智光秀もまた、妻木煕子存命中は側室も置かず妻木煕子を大切にした。

天秀尼【てんしゅうに(15??~15??)】 

羽柴秀頼の娘。1615年「大坂夏の陣」で、大阪城落城後助命された。羽柴秀頼の室松平千姫によって養育された。後に駆込寺としても著名な鎌倉東慶寺二十世となった。

土井清【どいきよ(15??~15??)】

朝倉宣正の室。土井利昌の娘(土井利勝の養女)。別名「昌清尼」。牧野儀成室、朝倉宣親、朝倉正世、朝倉宣季、屋代忠興、朝倉正高、伊東祐豊室、加藤明利室を生む。後に駿河大納言松平忠長の乳母となった。朝倉宣正は松平忠長の御附家老となった。松平忠長が蟄居となると朝倉宣正は酒井忠行にお預けとなった。1632年、松平忠長が改易されると朝倉宣正も連座して改易された。土井清は松平忠長の自刃後、松平忠長の室織田昌子(松孝院)と共に出家して昌清尼と称した。浄土宗、昌清寺を建立した。

砥石の方【といしのかた(15??~15??)】 

宇喜多興家の室。宇喜多興家の病死後、天神山城主浦上宗景の奥方に仕えた。

遠山雪姫【とおやまゆきひめ(15??~1571)】

武田勝頼の室。苗木城主遠山信友の娘(織田信長の養女)。通称「龍勝院」。1565年、織田信長が織田一安を使者に立て武田晴信に遠山雪姫と武田勝頼の縁談を持ちかけ武田勝頼に嫁いだ。1567年、武田信勝を産んだ難産のため間もなく病没した。

遠山覚姫【とおやまかきらひめ(1542~1588)】

太田康資の室。遠山綱景の娘(北条氏康の養女)。別名「法性院」。

問田の大方【といたのおおかた(15??~1619)】

小早川隆景の室。沼田小早川正平の娘。父小早川正平が討死したため、小早川繁平が沼田小早川家の家督を継いだ。1550年、小早川繁平は幼少の上に病弱だったため、尼子晴久の侵攻が始まった際、大内義隆に尼子晴久と内通を疑われ、強制的に隠居に追い込まれた。1551年、竹原小早川家を継いでいた毛利元就の三男小早川隆景に沼田小早川家の家督も継がせるために小早川隆景と結婚した。二人の間に子はなかったが、小早川隆景は側室を置かず、夫婦仲は睦まじいものであった。毛利元就の末子である小早川秀包に小早川家の家督を相続させた。

徳大寺維子【とくだいじふさこ(1481~1566)】

関白近衛尚通の室(北政所)。太政大臣徳大寺実淳の娘。二男五女をもうけた。1536年、近衛稙家が関白藤氏長者に任ぜられたの興福寺には、関白就任の奏慶を控えた近衛稙家の代理として興福寺を訪れた。将軍足利義晴の室となった慶寿院の後見的立場にあった。慶寿院が足利義輝を生んだ際に立ち会っている。将軍後継者である足利義輝の外祖母として幕政にも影響を与えた。

戸田真喜姫【とだまきひめ(15??~15??)】

松平広忠の側室。田原城主戸田康光の娘。別名「田原御前」。於大の方を離縁した松平広忠に嫁ぎ田原御前と称された。子はなかったが松平広忠没後も岡崎城にとどまった。

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【な】

内藤綾の方【ないとうあやのかた(15??~15??)】

大内義興の室。内藤弘矩の娘。嫡男大内義隆には甘い。1997年のNHK大河ドラマ「毛利元就」では東ちづるが演じた。

内藤寿姫【ないとうすずひめ(1527~1572)】

毛利隆元の室。長門国守護代内藤興盛の娘(三女)。通称尾崎局。別名「小侍従局」。1549年、大内義隆の養女として毛利元就の嫡男毛利隆元に嫁ぎ、毛利輝元及び津和野局(吉見広頼室)の二人を生む。文人としても名高い父の影響もあり、高い教養を身につけていたという。郡山城内の尾崎丸に住したことから「尾崎の局」と称する。毛利家中では、守護代という格上の家から迎えた室として厚遇される。大内家との外交の窓口としての役割も果たした。毛利元就が井上一族を粛正した際、尾崎局を通じて大内家の意向を図るなど、政治面でも活躍した。大内家の滅亡により、実家である内藤家が断絶した後、弟内藤隆春を毛利家に仕えさせ、家名再興を許された。1563年、毛利隆元と病別した。毛利輝元の養育に意を注ぎ、舅毛利元就の補佐をして毛利一族の宥和に尽力した。1997年、NHK大河ドラマ「毛利元就」では大塚寧々が演じた。

内藤ジュリア【ないとうじゅりあ(1566~1627)】

内藤宗勝(松永長頼)の娘。洗礼名は「ジュリア」。1587年、夫は死去した。1595年、キリスト教に改宗。大名夫人たちへの布教活動を行い、豪姫を改宗させた。1606年、女子修道会を結成する。1614年、禁教政策により兄内藤如安や高山右近らと共に呂栄に追放される。配流後も聖ミカエル会を結成するなど、日本人のキリスト信仰に貢献した。

直江於船【なおえおせん(1557~1637)】

直江信綱の室。越後国与板城主直江景綱の娘。別名「貞心尼」。直江景綱には男児が無かったため、跡継ぎとして総社長尾家の長尾藤九郎を於船の婿として迎え、直江信綱と名乗らせた。1577年、直江景綱が病没すると直江信綱が家督を相続した。1581年、春日山城内で毛利秀広によって山崎秀仙と共に謀殺されてしまった。長尾景勝の命で樋口兼続と再婚、樋口兼続が婿養子として直江家の家督を相続した。樋口兼続は生涯、側室を持つことがなかった。1595年、豊臣秀吉の人質となった長尾景勝室の菊姫とともに京都伏見の上杉屋敷に移り、1598年、樋口兼続が秀吉より米沢城300,000石を与えられると、樋口兼続に従って米沢城に移った。1604年、長尾景勝の側室四辻氏が長尾景勝唯一の子長尾定勝を産んだが、武田菊姫が病没、さらに四辻氏自身も病没したため、直江夫妻が長尾定勝の養育を担当した。1619年、樋口兼続が病没すると、剃髪して貞心尼と称した。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」では常盤貴子が演じた。

中川糸子【なかがわいとこ(15??~1615)】

池田輝政の室。中川清秀の娘。嫡男池田利隆を生んだが、病にかかったために実家に戻り快復しないまま離縁された。その後は中川家にとどまって、豊後国岡城で余生を送った。

長野正【ながのまさ(15??~15??)】

小幡信貞の室。長野業正の娘(長女)。長野業正の娘は12人(小幡景純の室(次女)。忍城主成田家室(三女)、山名城主木部定朝室(四女)、大戸城主大戸左近兵衛の室(五女)、和田城主和田業繁の室(六女)、倉賀野城主金井秀景の室(七女)、羽尾城主羽尾修理亮の室(八女)、浜川城主藤井家の(箕輪長野家家老)室(九女)、厩橋城主長野家の室(十女)、板鼻鷹巣城主依田家の室(十一女)、室田鷹留城主長野業固の室(十二女))。1560年、国峰城が枝連衆の小幡景純に奪われた際、小幡信貞と共に武田晴信を頼って甲斐国に落ち延びた。1561年、小幡信貞は国峰城を回復した。※「剣の天地」by池波正太郎。

長野富【ながのとみ(15??~1561)】

小幡景純の室。長野業正の娘(次女)。上泉秀綱より剣術を学び国峰城落城の際には、1561年小幡信貞が武田軍とともに国峰城を奪還する際、夫小幡景純とともに白絹の女鉢巻と女鎧で身をかため薙刀をかこいこみ陣太刀を佩いて戦うが国峰城は落城し討死した。※「剣の天地」by池波正太郎。

長船角屋姫【ながふねかくやひめ(1511~1603)】

宇喜多能家の室。長船綱直の娘。宇喜多能家に寵愛され、のちその命によって家臣戸川定安に嫁し一男一女を生んだ。のち宇喜多興家に仕え、その三男宇喜多忠家の乳母となり権勢をふるった。

長尾綾姫【ながおあやひめ(1524~1609)】

坂戸城主長尾政景の室。別名「仙桃院」。長尾景虎の姉で、長尾景勝の母。長尾義景は10歳で早世、次男が長尾景勝。長女は上杉景虎の室、次女は上条政繁の室。次男長尾景勝は後に越後長尾景虎の養子になる。1578年「御館の乱」をへて越後長尾の家督を相続、現代まで越後長尾(上杉)の家系を受け継いでいる。直江兼続を長尾景勝の近習に推薦したのは仙桃院である。1578年、越後長尾景虎の死後の「御館の乱」では長尾(北条)景虎の春日山城退去に従い長尾三郎景虎の室である娘ともに御館に籠城、戦後には春日山城に戻った。1598年、長尾景勝の転封に従い、会津に赴く。1601年、長尾景勝の米沢城転封にも随行した。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」では高島礼子が演じた。

古志長尾虎姫【ながおとらひめ(1512~1568)】

越後国守護代長尾為景の継室。栖吉城主長尾顕吉の娘。別名「青巌院」。長尾景虎が仏門に入ったのはこの虎御前の影響が大きいとされる。長尾為景没後の消息は不明。

長尾華姫【ながおはなひめ(1556~1579)】

長尾三郎景虎の継室。長尾政景の娘(長女)。別名「華渓院」。1570年、越相同盟が成立し北条氏康の子、長尾三郎景虎に嫁いだ。1571年、嫡男道満丸を出産した。1578年、越後長尾景虎が春日山城で病没すると、その養子である夫長尾(北条)景虎と実弟長尾景勝の間で家督争い「御館の乱」が起こる。長尾景虎とともに御館に籠城した。長尾景勝勢の攻撃により御館は落城、自刃しようとする長尾景虎を御館より逃し、自身は長尾景勝からの降伏勧告を拒んで御館に留まり自刃した。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」では相武紗季が演じた。

中山栄子【なかやまえいこ(15??~15??)】

吾妻郡名胡桃城主鈴木重則の室。吾妻郡中山城主中山安芸守の娘。中山栄子は、男子二人と女子二人をもうけるが病没してしまい鈴木忠重だけが育った。鈴木重則は真田昌幸の信頼篤く、名胡桃城を硬く守っていた。中山栄子は真田昌幸の側室於徳が名胡桃城に移されると世話をした。1589年、羽柴秀吉の謀略により、鈴木重則が偽の書状で城から誘い出され、留守中に後北条家臣猪俣邦憲に諜略された。中山実光勢に城を完全に奪われた。鈴木重則は城の外れの正覚寺で自刃した。中山栄子は鈴木忠重、於菊と共に名胡桃城に捕らわれた。

名護屋広子【なごやひろこ(1573~1637)】

羽柴秀吉の側室。名護屋経勝の娘。別名「広沢局」。1592年、名護屋広子は二十歳だったがまだ独身で「朝鮮出兵」のため、名護屋城に来た羽柴秀吉の側室になった。古河姫君同様、肥前滞在時のみの妾。とはいえそのことで厚遇を受けたらしい。羽柴秀吉の最後の妻妾といわれている。その後、羽柴秀吉は山里丸の一角に広沢寺を建立した。広沢局が眼病治癒のお礼に仏像を祀ったのがきっかけだとされる。1593年、羽柴秀吉は大阪に帰り、名護屋城には二度と戻ってこなかった。1598年、彼女はなおも名護屋城の山里丸に住んでいたが、羽柴秀吉が病没すると、兄名護屋経述が死去していたこともあり出家した。

那須正姫【なすまさひめ(1570~1619)】

佐竹義宣の室。烏山城主那須資胤の娘(三女)。別名「正洞院」。1585年、佐竹義宣に嫁いだ。しかし、結婚生活わずか五年、二十四歳にして自刃を遂げこの世を去った。

奈多夫人【なだふじん(15??~1587)】

大友義鎮の継室。奈多八幡宮の大宮司奈多鑑基の娘。1550年、大友義鎮と婚姻。大友義鎮は七人の側室を持ち、家臣の美人の室を奪って自分の側室にするなどしており、彼女は好色な夫に悩まされ、大友義鎮の浮気の虫を鎮めるため、国中の僧侶達や山伏達に調伏をさせた。また、大友義鎮がキリスト教に傾倒するようになってからは、奈多八幡宮の娘であり神道を信じる彼女と大友義鎮はキリスト教の信仰を巡って度々争うようになった。1578年、大友義鎮は臼杵城の外へ新しい館を建て、そこに新しく側室にした女性のジュリアを住ませ奈多夫人と離婚した。

成田甲斐姫【なりたかいひめ(1572~15??)】

羽柴秀吉の側室。忍城主成田氏長の娘。異腹妹が巻姫のちの敦姫。甲斐姫は東国随一の美女と言われ、兵法、武芸に秀でた姫君。1591年「小田原の役」では、忍城に籠城するし石田三成を主将とする羽柴家勢に攻められれるが、甲斐姫自ら兵を率いて討って出、敵将三宅高繁をはじめとして幾多の頸を討ち取り、寄せ手の侵入を阻止したという。 小田原城が開城すると父成田氏長から「忍城も開城するように」という指示があり、甲斐姫たちは矛を収め、堂々と城を出た。

奈良屋の娘【ならやのむすめ(15??~15??)】 

長井規秀の室。京の油商奈良屋又兵衛の娘。父奈良屋又兵衛は庄五郎の出世を金銭面から助けた。

成田余吾【なりたよご(15??~15??)】

羽柴秀頼の側室。成田助直の娘。通称「余吾の方」と呼ばれた。羽柴国松、泰姫の二人を産んだ。

三戸南部緑姫【なんぶみどりひめ(1544~1591)】

九戸実親の室。三戸南部晴政の娘(次女)。

南呂院【なんりょいん(15??~15??)】

宇都宮広綱の室。佐竹義昭の娘(次女)。宇都宮国綱の母。1576年、夫宇都宮広綱が病没病すると、宇都宮家の家督を相続した宇都宮国綱が幼かったため、家臣の壬生義雄や皆川広勝の内乱が活発化した。さらに北条氏政の侵攻が激化し、実家の兄佐竹義重の後見を受けながら、宇都宮国綱が成人するまで南呂院が家政を取り仕切った。

新納常盤【にいろときわ(1472~1525)】

櫛間城主新納是久の娘。新納是久の養嗣子となって新納是久の娘常盤の婿になっていた伊作島津久逸は長男の伊作島津善久を伴い伊作城へと引き上げた。島津善久に嫁いだ常盤は、新納家の元には残らず、島津善久を追って伊作城へと入城した。1492年、島津忠良を出産。1495年、島津善久が家臣の謀殺される。1501年、島津久逸が薩州家の島津忠興と加世田城主島津忠福との合戦に加勢し討死してしまう。若く美貌の備わった常盤は健気にも菊三郎元服までは、伊作島津家の存続を図る。田布施城主相州島津運久が常盤の美貌と器量を惚れ込み、連日、使者を遣わしては口説き、常盤を娶らんと躍起になってきた。常盤は意中の方でもないのに一緒にはなれないと、「うきふしに 沈みもやらで 河竹の 世にためしなき 名をや流さむ」と書き送り、やんわりと断った。しかし、相州島津運久はどうしても常盤を娶りたいと自ら伊作城へ来訪してきた。時は乱世、女手一つでは到底乗り越えられず、また、少々乱暴な運久からは逃れられないと悟った常盤は、相州島津運久に菊三郎元服の折には相州家の所領を悉く伊作家の菊三郎に譲渡することを条件に再嫁することで合意した。この相州家の島津運久は、なかなか男気のある武将で、本当に常盤を大切に思っていたのだろう、菊三郎が元服すると常盤との約束を守って、相州家の所領すべてを島津忠良に譲渡って隠居した。伊作家と相州家の所領を併呑した島津忠良の勢力は薩州島津実久に次ぐものとなった。

二階堂和姫【にかいどうあいひめ(1575~1613)】

二階堂盛隆の娘。

仁科督姫【にしなとくひめ(1579~1608)】

仁科盛信の娘。別名「生弌尼」。1582年、武田勝頼が「天目山の戦い」で討死すると、松姫と共に八王子に落延びた。松姫が八王子に信松院を創建すると、督姫も僧坊を開き、法蓮寺で出家して生弌尼と称した。

沼田麝香【ぬまたじゃこう(1544~1618)】

細川藤孝の室。若狭国熊川城主沼田光兼の娘。洗礼名は「マリア」。1601年、細川忠興の家臣小倉入部に影響され洗礼した。細川幽斎は側室を持たず、麝香との間の子に細川忠興、細川興元、一色義有のち吉田兼治室の伊也、細川幸隆、長岡孝以のち小笠原長良室の於千、細川孝之、木下延俊室の加賀子、長岡好重室の小栗らがいる。戦のときは具足を付けて留守を守るほどの勝気な気性の女性だった。

禰津里美【ねづさとみ(15??~15??)】

武田晴信の側室。小県郡の豪族禰津元直の娘(三女)。1542年、禰津家が武田晴信の傘下に入った時に輿入れした。利発で闊達、男勝りな性格といわれた。1548年「塩尻峠の戦い」で女武者として小笠原長時勢を引き付ける重要な役割を担った。※「武田信玄」by新田次郎。

野間細姫【のまほそひめ(15??~15??)】

美濃国守護代斎藤利国(妙純)の室。野間入道の娘(甘露寺親長の養女)。斎藤利国没後は利貞尼と称す。1491年、斎藤利国の娘は朝倉氏景の男朝倉貞景の元へ嫁がせ、朝倉家との連携は益々強固なものとした。

乃美大方【のみのかた(15??~1601)】

毛利元就の側室。乃美隆興の娘。通称さよ。1548年、毛利元就の室妙玖の病没後、老境に入った毛利元就に小早川隆景が乃美隆興に命じて嫁がせた。穂井田元清(四男)、天野元政(七男)、毛利秀包(九男)を産んだ。1997年のNHK大河ドラマ「毛利元就」では田中広子が演じた。

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【は】

萩の御前【はぎのごぜん(1500~15??)】

浅井亮政の室。別名「尼子馨庵」。 萩の御前との婚儀は、湖南の六角家との境界に当たる犬上郡を領する尼子家の勢力を引き入れるため行われた。浅井長政の時代まで「大方さま」と敬称され、浅井家に暗然たる勢力を保持していた。正室の浅井蔵屋との間も、共に仏事を行うなど対立していた様子は無く、至って穏やかだった。

羽柴朝日【はしばあさひ(1543~1590)】

佐治日向守の室。羽柴秀吉の異父妹(羽柴秀長の実妹)。別名「旭姫」。1586年、初め佐治日向守の室であったが羽柴秀吉から離縁させられて松平元康の正室とされた。駿河御前と呼ばれた。1588年、大政所の病気見舞いに上洛した際に病を得てそのまま京都にとどまった。

羽柴智子【はしばあさひ(1534~1625)】

三好吉房の室。木下弥右衛門の娘。別名「瑞龍院」。尾張国の土豪である後の三好吉房に嫁いだ。羽柴秀次、羽柴秀勝、羽柴秀保の母。1591年、羽柴秀吉が嫡子鶴松を亡くすと、その養子に羽柴秀次、羽柴秀勝を入れる。三男の羽柴秀保は羽柴秀長の養子になる。1592年、羽柴秀勝は朝鮮渡海中に出陣で病死した。羽柴秀次は関白となる。1595年、謀反の疑いをかけられ切腹、夫三好吉房も連座して讃岐国に流された。羽柴秀長の養子、羽柴秀保までもが病死すた。ともは出家して京都嵯峨野の村雲に瑞龍寺を建立した。瑞龍寺の寺号は後陽成天皇から下賜されたもので、寺地には1,000石の寺領を寄進され、後代には皇女が門跡となる尼門跡として、「村雲御所」と称される格式高い寺院となった。1615年「大坂夏の陣」で、羽柴宗家が滅亡すると、真田信繁の御田姫(五女)を保護した。

羽柴完子【はしばさだこ(1592~1658)】

九条忠栄の室。羽柴秀勝の娘。1592年「文禄の役」で父羽柴秀勝が病没したため小督姫は姉淀殿のもとで完子を生んだ。1595年、母小督が羽柴秀忠と再々婚したことで、伯母の淀殿に引き取られ養われた。1604年、九条忠栄に嫁いだ。婚儀に際しては淀殿が万事整え、京の人々を驚かせた。また義弟羽柴秀頼名義で豪華な九条新邸を造営した。1608年日、九条忠栄が関白に任官し、従三位北政所。1615年、羽柴家が滅亡して以降は、母の嫁ぎ先である松平秀忠の養女となった。松平家に対しても九条忠栄は完子の母の小督が松平家に縁づいていることから、公家と武家の貴重な仲介役になった。

羽柴倨姫【はしばおりいひめ(1588~1609)】

毛利秀元の室。羽柴秀長の娘(長女)。別名「大善院」。羽柴秀吉の養女として毛利秀元に嫁いだ。

羽柴於菊【はしばおきく(15??~15??)】

羽柴秀保の室。羽柴秀長の娘(次女)。

長谷川於奈津【はせがわおなつ(15??~15??)】 

松平元康の側室。伊勢国北畠家臣長谷川三十郎藤道の娘。別名「清雲院」。兄長谷川藤広が松平元康に仕えていたため、召し出され寵愛を受けた。長崎奉行に抜擢された兄長谷川藤広とともに外国貿易にも関与、また於梶の方とともに松平元康から駿府城の金銭出し入れを任された。松平元康没後に落飾して清雲院と称した。

畠山於感【はたけやまおかん(15??~15??)】

九戸政実家臣畠山重勝の娘。1589年、畠山重勝は「九戸政実の乱」において討死した。畠山重勝の室と於感は従者と共に脱出を果たした。従者三平と結ばれ、畠山於感は盛岡城に住まいさだめた。三平は事故により働けなくなってしまった。家族を養う為に於感は普請場の炊き出しの下女働きを始めた。元々武家の娘である、立ち振る舞いは自然と下女の中では目立ってしまった。人足頭の高瀬軍太は於感を見初め、強引な手段で於感を求めた。抵抗できないと感じた於感は、高瀬軍太に条件(夫を殺し)を出した。高瀬軍太は三平の寝込みを襲い謀殺し、布団を剥ぎ取るとそこにいたのは於感であった。

畠山波姫【はたけやまなみひめ(15??~15??)】

別所吉親の室。自ら戦場で太刀を振るうも居城に追い込まれ、子を殺した刀で自刃した。

波多野充姫【はたのみつるひめ(1558~1580)】

三好長慶の室。波多野晴通の娘。1548年、三好長慶が波多野充姫と離縁したため、細川晴元と結び、三好長慶と対立することになる。波多野晴通には父波多野稙通ほどの能力が無かったため、八上城に籠城したが次第に三好長慶の侵攻に追い詰められ、松永久秀と丹波守護代の内藤(松永)長頼の侵攻で降伏した。

波多野照姫【はたのてるひめ(1558~1580)】

三木城主別所長治の室。波多野秀治の娘。1578年、夫別所長治がふたりの叔父別所吉親と別所重棟の勢力争いに翻弄され、羽柴秀吉と対立するようになった。毛利輝元と結び三木城に籠城した。約1年の籠城後、別所長治は籠城兵の助命と引き換えに自ら自刃。照姫、別所友之の室(山名豊恒の娘)、長女竹姫、次女虎姫、嫡男千代丸、次男松丸を自ら手をかけ自刃した。

八戸祢々【はちのへねね(15??~1644)】

八戸直政の室。根城八戸直栄の娘。別名「清心尼」。父八戸直栄が嫡男を得なかったため、その弟八戸直政に輿入れした。1591年、羽柴秀吉の「奥州仕置き」によって八戸直政は南部家の家臣という位置づけ受けたが南部家の家中では最大の勢力を保持していた。南部利直から、越後国高田城の城普請を命じられます。南部利直は名代として八戸直政を派遣したが越後国で病死した。八戸直政には八戸久松がいたが八戸直政の葬儀が終わった一週間後に久松も病死した。南部利直は、南部宗家の者に八戸家の家督を相続させると八戸家臣団が反発する恐れがあるため八戸直政の室であった八戸祢々に八戸家の家督を相続した。南部利直は八戸祢々に婿を取らせようとしたが、八戸祢々は剃髪して清心尼と称した。1627年、南部利直は八戸家に遠野城への転封を命じられた実質4,000石の大幅減封だった。女の殿様として遠野城へやってきます、八戸家臣団は厳しい財政運営を強いられますが八戸祢々は見事な政治力と才量を発揮して遠野城の領内をまとめていった。

初芽局【はつめのつぼね(15??~15??)】

松平元康が石田三成に送り込んだ「くノ一」。石田三成の側近くに仕えた。敵として憎んでいた石田三成の人柄などに惚れこんで、側室のような存在になった。松平元康を裏切り「関ヶ原の役」後は出家した。※「関ヶ原」by司馬遼太郎。1981年のTBSドラマ「関ヶ原」では松坂慶子が演じた。

服部伏屋姫【はっとりふくやひめ(15??~15??)】

明智光秀の側室。柘植城主服部保章の娘(次女)。1582年「本能寺の変」後、服部保章は明智光秀の遺児明智保之を引き取り、喜多村に隠匿した。

花井於茶阿【はないおちゃあ(15??~15??)】

松平元康の側室。花井家の娘。別名「朝覚院」。もと遠州金谷の鋳物師の室。松平元康の松平忠輝(六男)、松千代(七男)、於八(のちに花井遠江守の室)。金谷の代官に言い寄られ断ったが、夫が代官に謀殺された。この件を松平元康に直訴した際、側室となった。豊満な美女だが利己的で身勝手な性格。

稗貫於三【ひえぬきおさん(15??~15??)】

稗貫広忠の室。稗貫輝家の娘(稗貫御前)。別名「月庵尼」。1591年、稗貫広忠は和賀義忠と共に反乱を起こして和賀義忠の居城だった二子城を奪還したが、羽柴秀吉勢に攻められ、和賀義忠は討死、稗貫広忠は落延びたがまもなく病没した。稗貫広忠の没後、於三は出家し月庵尼と称したが、稗貫家を再興すべく三戸城を訪れ、南部信直に見初められて還俗し、稗貫御前と呼ばれる側室になったが稗貫家を再興することは出来なかった。

土方殿 【ひじかたどの(15??~15??)】

織田信長の側室。土方雄久の娘。織田信貞(九男)を産んだ。

姫路殿【ひめじどの(15??~1614)】

羽柴秀吉の側室。織田信包の娘。1577年「中国征伐」の頃、羽柴秀吉の側室となった。羽柴秀吉が姫路殿を側室にした際、身分の低い羽柴秀吉を嫌い、織田信包の屋敷へ引き取り一時期返さなかった。姫路殿の称は、羽柴秀吉が築城し、姫路殿の住まった播磨国姫路城に由来する。

平手於清【ひらておせい(15??~15??)】 

織田長益(有楽斎)の室。平手政秀の娘。別名「雲仙院」。

福島明蔵主【ふくしまみょうぞうず(15??~15??)】 

今川氏親の側室。福島正成の娘。今川氏親の死後に出家して「明蔵主」と称した。今川氏親の側室で玄広恵探(今川良真)の母。1536年、今川氏輝と弟の彦五郎が相次いで急死したため、今川氏親の正室であった寿桂尼の子の栴岳承芳が還俗して、今川義元を名乗り家督を継ごうとした。これに反対して、玄広恵探は福島正成に擁されて挙兵し「花倉の乱」花倉城に拠るが、承芳派に攻められて自刃した。

藤代御前【ふじよおごぜん(15??~15??)】

陸奥国津軽地方にある藤代村の肝煎りであった藤代家の室であった藤代御前が大浦為信に見初められ、ちょうど彼が南部信直に叛旗を翻して石川城主石川高信や浪岡城主北畠顕村を攻略、津軽独立戦争に勝利した時期であった。大浦為信には既に糟糠の室、お戌の方(戌姫)が室がいたが、藤代を正室に迎えるために戌姫を側室に降格させようとまでしたが、津軽信牧をはじめとした家臣たちに諌められて思いとどまっている。藤代を我が物としたい津軽為信は、藤代の夫を謀殺させた。肝煎りが殺されたとあって、藤代村では老若男女、牛馬犬猫にいたるまで総動員して武装させ、藤代自身もまた南蛮胴の甲冑に一丈五尺の大薙刀を携えて津軽為信の行列を待ち構えた。戦いは藤代勢の奇襲によって火蓋が切って落とされ、考え付く限りの奇策や罠を巡らすことによってまともな武装をしていなかった津軽勢は、担いできた藤代用の嫁入り道具を捨てて退却、一度は戦いに勝利できたものの、もはや二度目はなかった。藤代勢のは農民を中心に約200に対して津軽勢は完全武装の兵5000で村を完全包囲した。大浦為信は最後にチャンスをやることにした。欲しいのは藤代一人であって、自国の領民の殲滅ではなかった。藤代村民は藤代とその一人息子を残して降伏、命は助けられたが藤代の意志は変わらず大薙刀を振り回して津軽勢5000の中へ斬り込み八人の兵を倒したが討死した。

藤田大福御前【ふじただいふくごぜん (15??~1593)】

北条氏邦の室。武蔵国天神山城主藤田康邦の娘。藤田家存続のため北条氏邦に嫁いだ。1589年、鉢形城が羽柴秀吉勢によって落城した際、御前は落延びた。夫北条氏邦が加賀国金沢へあずけられたため仏門に入ったが前途を悲観し自刃した。

藤原るり【ふじわらるり(15??~1579)】

伊予国米津城主藤原行春の室。米津城は長宗我部元親の攻撃を受け落城。藤原行春は自刃。藤原るりは2人の娘(九重姫、八重姫)と嫡子尊雄丸を連れて、落延びる途中追い詰められ尊雄丸と共に自刃した。

藤原一の台【ふじわらいちのだい(1561~1595)】

羽柴秀次の側室。菊亭晴季の娘。一の台は若い時から絶世の美女として謳われた。はじめ公家衆の三条顕実に嫁ぐがまもなく三条顕実が病没。出戻った一の台は、父菊亭晴季によって羽柴秀吉の側室として差し出された。菊亭晴季は羽柴秀吉の関白就任に奔走した人物でもあり、娘も羽柴秀吉との結びつきを強めようとした。側室となってまもなく一の台は体調を崩し実家に再び戻った。健康を取り戻すとこんどは、羽柴秀次の側室として差し出された。1595年「羽柴秀次事件」に連座して、三条河原で娘とともに打ち頸になった。辞世の句は「ながらへて ありつるほどの 浮世とぞ 思へばなかる 言葉もなし」。

古市胤子【ふるいちたねこ(1583~1658)】

足利義昭の嫡男足利義尋の室大和国駒崎城主古市胤栄娘。母は関白近衛前久の娘。別名「桂光院」。はじめ足利義尋に嫁いで、足利義尊( 実相院門跡)、足利常尊( 円満院門跡)を産んだ。1605年、夫足利義尋が病没した後は、母方の親戚である後陽成天皇女御の近衛前子の縁で宮中に出仕し、茶々局、三位の局の女房名で呼ばれた。その後、後陽成天皇の召人となり、冷雲院宮、道晃法親王(聖護院門跡)、空華院宮を産んだ。後陽成院の晩年まで傍に仕えており、院が危篤の際には、見舞いにきた後水尾天皇との面会を取り次ぎ、これが院と天皇との最後の対面となった。1638年、実相院のある岩倉に閑居し宮中を退いた。

報恩院【ほうこくいん(1574~1653)】

丹羽長重の室。織田信長の娘(五女)。1580年、織田信長の命によって丹羽長重と婚約。丹羽長重の父丹羽長秀は信長の異母兄織田信広の娘を室としていたので、織田家と二重の婚姻で結ばれた。1585年、丹羽長重は父丹羽長秀の領地を継ぎ、若狭国、越前国、加賀国の1,000,000石の大名となったが、羽柴秀吉の策略により次第に減封された。1600年「関ヶ原の役」で石田三成勢に属したた、め松平元康に所領を没収された。

北条早川姫【ほうじょうはやかわどの(1537~1613)】

今川氏真の室。北条氏康の娘。別名「蔵春院」。甲相駿三国同盟の一環として、今川氏真の室となった。後北条家と駿河の今川家はもともと同盟関係(駿相同盟)にあったが1537年、今川義元が北条家と敵対関係にあった武田家と駿甲同盟を結んだことから敵対関係に入り、富士川以東をめぐる争奪戦が約10年にわたり繰り広げられていた(河東の乱)。1554年、武田、北条、今川家の間で甲相駿三国同盟が結ばれると、早川殿はその婚姻政策の一環として今川義元の嫡子氏真の許に嫁いだ。1570年、長男今川範以を出産。1571年、父北条氏康が死去し、甲相同盟の復活によって今川氏真の駿河帰国が頓挫すると、今川氏真とともに小田原城を出奔し、浜松城の松平元康を頼った。

北条可那姫【ほうじょうかなひめ(1564~1582)】

武田勝頼の継室。北条氏康の娘(六女)。別名「桂林院」。武田晴信と北条氏康、今川義元は三国同盟を形成しそれぞれ婚姻関係を持っていたが、武田晴信の駿河侵攻を契機に甲相同盟、婚姻関係も解消されていた。1575年、武田勝頼が「長篠の戦い」で大敗すると、東の守りを固めるため甲相同盟を復活させ、北条可那姫が武田勝頼の室として嫁いだ。1578年、越後国で長尾景虎が病没すると後継者を巡り、長尾景勝と長尾三郎景虎との間で「御館の乱」が勃発した。武田勝頼は、北条氏政の要請で長尾三郎景虎を支持したが越中国、越後国、上野国が北条氏政の勢力圏になると、北条家の国力が大きくなりすぎるため外交方針を転換して長尾景勝と甲越同盟を結だ。長尾三郎景虎は敗れ自刃したことで甲相同盟は破綻した。1582年、織田信長、松平元康連合軍の「武田家討伐」では、武田勝頼は小山田信茂の居城の岩殿城を目指して落ち延びたが、天目山の近くの田野で、滝川一益勢の追撃を受け北条可那姫は武田勝頼らと共に自刃した。辞世の句は「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒」。

北条菊姫【ほうじょうきくひめ(15??~15??)】

里見義朝の室。北条氏康の娘。北条氏康と里見家が和睦した際、早世した鶴姫の後を受けて、里見義朝の室となった。彼女が没すると、北条家と里見家の争いが再燃した。

北条光姫【ほうじょうひかりひめ(1540~1578)】

玉縄城主北条氏繁の室。北条氏康の娘。通称七曲殿。玉縄城の大手口七曲坂付近に居住したため七曲殿と称された。北条氏勝、北条繁広、北条氏舜を生んだ。

北条睦姫【ほうじょうむつきひめ(1551~1567)】

北条氏康の娘。

北条円姫【ほうじょうまどかひめ(1557~1591)】

北条氏康の娘。

北条鶴姫【ほうじょうつるひめ(1559~1579)】

里見義頼の室。北条氏政の娘。別名「龍寿院」。北条家と里見家が和睦した際に里見義頼の室となったが早世した。

北条誉姫【ほうじょうほまれひめ(1516~1588)】

北条綱成の室。北条氏綱の娘。別名「大頂院」。福島(北条)綱成の武勇に惚れ込んだ北条氏綱により、福島(北条)綱成を北条枝連衆に迎えるために誉姫を嫁がせた。

北条唯姫【ほうじょうゆいひめ(1522~1561)】

古河公方足利晴氏の室。北条氏綱の娘。別名「芳春院」。足利義氏の母。

北条苗姫【ほうじょうむつきひめ(1545~1600)】

北条氏規の室。北条綱成の娘。別名「高源院」。

北条貞姫【ほうじょうさだひめ(1558~1580)】

北条氏政の娘。

芳春院【ほうしゅんいん(15??~1561)】

古河公方足利晴氏の継室。北条氏綱の娘。母は近衛尚通の娘。足利義氏の母。

法秀院【ほうしゅういん(15??~15??)】 

山内盛豊の室。別名「法秀院」。山内一豊の母。夫山内盛豊が討死したあと出家した。宇賀野の長野家の屋敷の一隅で近在の子女に針の業(裁縫)や行儀作法を教えていた、そのときの習子に山内一豊の室となった遠藤千代がいた。

宝心妙樹【ほうしんみょうじゅ(15??~1577)】

千利休の室。1542年、千利休に嫁ぎ、一男三女を産んだ。しかし夫婦仲は円満ではなかった。

細川綾姫【ほそかわあやひめ(1533~1557)】

朝倉義景の室。細川晴元の娘。1548年、朝倉義景に嫁いだ。細川綾姫は女児を出産したが産後の肥立ちが悪く病没した。

細川伊也【ほそかわいや(15??~15??)】

一色義俊の室。細川藤孝の娘。一色義俊死後は細川家に戻った、のちに細川家臣篠原五右衛門の室となった。

細川めし【ほそかわめし(1463~15??)】 

赤松政則の継室。細川勝元の娘。別名「洞松院」。細川勝元が建立した龍安寺の尼僧。1493年、弟細川政元の意向により還俗して播磨守護職赤松政則の後添えとして嫁いだ。この婚姻は細川政元の家臣上原元秀と赤松政則の家臣別所則治の強い働きかけで実現した。1496年、赤松政則が病没すると、枝連衆の赤松政資の嫡男赤松義村を娘(小めし)の婿養子に迎え赤松家の家督を相続させた。幼少赤松義村の後見人として浦上則宗が権勢を振るった。1499年、浦上則宗に対して浦上村国らが赤松勝範を擁立して挙兵すると、別所則治は細川めしを支援して三つ巴の戦いになった。1502年、浦上則宗が病没すると、細川めしが赤松義村の後見となり、播磨国、備前国、美作国の三ヶ国で、所領安堵や諸役免除の許可はすべて細川めしが行った。1507年、細川政元が謀殺されると、細川高国は足利義材と結んで、細川澄元と足利義澄を京都から追放した。細川めしは足利義澄の嫡男足利義晴を養育した。細川澄元が兵を挙げると、赤松義村もこれに属して、足利義材、細川高国、大内義興と戦うが「船岡山の戦い」で大敗した。細川めしは自ら細川高国の陣所へ赴いて談判し和議を結んだ。赤松義村は、浦上村宗と結んだ細川めしと対立するようになった。赤松義村は挙兵するが、浦上村宗に敗れて赤松晴政が赤松家の家督を相続した。以後も細川めし赤松家の実権を握り続けた。

本多国姫【ほんだくにひめ(1595~1649)】

日向国延岡城主有馬直純の継室。本多忠政の娘。別名「栄寿院」。1610年、外會祖父松平元康の養女となり、堀忠俊に嫁すが、堀家の改易によって離別。1615年、有馬直純に再嫁し、二男三女をもうけた。

本多亀姫【ほんだかめひめ(1597~1643)】

信濃国松本城主小笠原忠脩の室。本多忠政の次女(松平元康の養女)。別名「円照院」。母は松平信康の次女熊姫。1615年、夫小笠原忠脩が「大坂夏の陣」で討死すると、その弟小笠原忠真と再婚されられた。

本多小松【ほんだこまつ(1573~1620)】

真田信之の室。本多忠勝の娘。別名「稲姫」「大蓮院」。1586年、松平元康の養女として真田信之に嫁ぐ。賢夫人として知られ「関ヶ原の戦い」の際に敵となった義父真田昌幸が孫の顔を見たいと上田城に立ち寄るが、これを峻拒した。義父真田昌幸が九度山に追放になると食料や日常品を送り続けた。「真田太平記」by池波正太郎では、小松姫が嫁ぐ際に本多忠勝の娘として既に名が知られていたために、見合い相手の男を一堂に並べて男の髷を持ち侮辱するような選び方をしその男たちの中で唯一その対応に拒否を示した真田信幸に惚れ込み嫁いだ。1985年のNHK大河ドラマ「真田太平記」では紺野美沙子が演じた。

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【ま】

前田幸姫【まえださちひめ(1559~1616)】

前田長種の室。前田利家の娘(長女)。1559年、尾張国荒子城で前田利家、まつ夫妻の長女として産まれる。尾張国前田家の前田長種に嫁す。前田長種と共に異母弟の前田利常を教養する。子女は前田直知ほか一男と溝口善勝室。

前田蕭姫【まえだしょうひめ(1563~1603)】

中川光重の室。前田利家とまつの娘(次女)。中川光重の室。

前田摩阿姫【まえだまあひめ(1579~1605)】

羽柴秀吉の側室。前田利家の娘(三女)。初めは羽柴秀吉の側室になり、後に万里小路充房に嫁ぐ。1582年、摩阿姫は柴田勝家の家臣、佐久間十蔵と婚約し北ノ庄城に入る。 1583年「賤ヶ岳の戦い」で、柴田勝家は秀吉に敗れ、十蔵も自害してしまう。摩阿姫は城外に脱出し、前田家に戻った。1585年、羽柴秀吉の側室になり「加賀殿」と呼ばれるようになる。彼女は体が弱く、実家の前田邸で過ごす事が多かった。 1598年、羽柴秀吉が催した醍醐の花見に、正室や他の側室達と共に出席した。このとき、五番目の輿に乗った。その時に摩阿が詠んだ和歌。「あかず見む幾春ごとに咲きそふる 深雪の山の花のさかりを」 この後、彼女は病気を理由に、羽柴秀吉の側室を辞した。その後は公家の万里小路充房の元に嫁ぐ。前田利忠を産むが、万里小路充房とは離婚した。1605年、加賀国金沢城で死去。息子の前田利忠は前田藩に仕えた。2008年のNHK大河ドラマ「利家とまつ」では佐藤藍子が演じた。

前田豪姫【まえだごうひめ(1574~1634)】

宇喜多秀家の室。前田利家の娘(四女)。別名「樹正院」。羽柴秀吉の養女となり、1588年、宇喜多秀家の室となる。1600年「関ヶ原の戦い」で宇喜多秀家が改易、二人の息子とともに八丈島へ流された。前田家へ戻り1500石の化粧料を与えられた。

前田千世姫【まえだおちよひめ(1580~1641)】

細川忠隆の室。前田利家の六女。別名「春香院」。1597年、細川忠興の嫡男忠隆と結婚する。1600年「故あって(義母ガラシャとともに自刃しなかったことを指す)細川家から離縁」。のちに前田加賀八家の村井長次に再嫁した。1613年、村井長次が病没したあとは、落飾して村井家で穏やかな後半生を過ごした。

前田保智姫【まえだほちひめ(1595~1614)】

篠原貞秀の室。前田利家の側室於岩の娘(九女)。別名「清妙院」。松平信吉婚約者のちに篠原貞秀室となった。

馬杉於江【ますぎおこう(1558~15??)】

真田家の草の者。戦忍び(いくさしのび)」として働くことのできる、稀有の体力と腕力、智謀を有する女忍び。父馬杉市蔵は、武田家に仕えた数少ない「甲賀忍び」のうちのひとり。武田家の滅亡から、真田家の上田から松代への移封まで、すべてを見届けることになった。真田昌幸に忠節を誓い、その後は、真田幸村のもとで働く。1600年「関ヶ原の役」では松平元康の輿を襲撃するが失敗した。※「真田太平記」by池波正太郎。1985年のNHK大河ドラマ「真田太平記」では遥くららが演じた。

益田マルタ【ますだまるた(15??~15??)】

益田甚兵衛の室。益田(天草)四郎時貞の母。洗礼名は「マルタ」。「島原の乱」のとき、城外に隠れているところを幕府方に捕らえられる、戦後に天草四郎の頸実験をさせられ「神の子である四郎が人に頸を取られるはずがない」と言ったが、同じ年頃の頸を幾つも見せられたとき、ある頸の前で泣き崩れたことから天草四郎の頸が判明した、数日後に打ち頸となった。

松下おりん【まつしたおりん(15??~15??)】
 
柳生宗矩の室。松下石見守重綱の娘。松下重綱の父松下之綱は遠江国頭蛇城主、羽柴秀吉が仕えた今川家臣松下嘉兵衛の男。松下重綱は今川滅亡後、羽柴秀吉に仕え石高7,000石を領した。その後、柳生宗矩に嫁ぎ柳生十兵衛と柳生宗冬を産んだ。

松下乙女【まつしたおとめ(15??~15??)】

本多忠勝の側室。 松平家臣の松下弥一の娘。乙女は幼くして父を無くし本多忠勝が幼年時代に孫子の兵法を習いに通ったとされる妙源寺に預けられていた。1566年、本多忠勝が青年騎馬隊隊長として岡崎城黒御門内に侍屋敷を拝領すると同時に、母小夜と共に転入し、実質的な夫婦となる。本多忠勝との間には、小松の他に三人の娘をもうけた。桑名城へ転封される際、於久は大多喜城主となった次男本多忠朝の許に残し、乙女だけを桑名に伴った。

松平春姫【まつだいらはるひめ(15??~15??)】

松平清康の室。松平昌安の娘。別名「西郷於波留」。1524年、岡崎城主松平昌安は、松平清康の攻撃を受け、岡崎城とその所領を明け渡した。山中城攻略は大久保忠茂の調略によるものであった。岡崎城の地を明け渡すとともに、春姫を松平清康に嫁がせ、自らは大草に隠遁した。

松平碓氷【まつだいらうすい(15??~1613)】

酒井忠次の室。松平清康の娘。母は於富の方(華陽院)は松平清康の室となる前は水野忠政の室であり、家康の母於大の方の実母であるから、酒井忠次は松平元康にとっては父母双方の妹の夫、義理の叔父。もとは松平康高に嫁いでいたが、夫と死別したのち、酒井忠次と再婚した。酒井忠次とのあいだにもうけた酒井家次が酒井家をつぎ、三河吉田城主となった。酒井家次、本多康俊を産んだ。酒井家の家督を相続した酒井家次は下総臼井城主30,000石から越後高田城主100,000石となった。

松平市場姫【まつだいらいちばひめ(15??~1593)】

八ツ面城主荒川義広の室。松平広忠の娘。市場姫は松平広忠と田原城主戸田康光の娘真喜姫との間にできた娘。別名「不退院」。岡崎城主松平広忠は、松平元康が幼少のころには、松平家は今川家麾下の地方領主となっていた。松平広忠は、於大の実家が織田家麾下の城主の娘の為、於大と離縁、戸田康光の娘真喜姫を継室として迎え、市場姫が誕生した。松平広忠には六人の子がいたが、正室の子は松平元康と市場姫だけである。松平元康は妹の市場姫を八ツ面城主の荒川義広の所へ嫁がせる。三河国に一向一揆が起こると、荒川義広は、一向一揆方に荷担し、松平元康と戦った。一揆の収束後、松平元康は荒川義広を八ツ面城から追放処分した。

松平亀姫【まつだいらかめひめ(1560~1525)】

奥平信昌の室。松平元康の娘(長女)。1575年「長篠の戦い」後、奥平信昌に嫁いだ。1600年の「関ヶ原の戦い」の戦勝により夫奥平信昌が、美濃国加納城100,000石に封じられ加納御前と称された。

松平督姫【まつだいらとくひめ(1565~1615)】

北条氏直の室。松平元康の娘(次女)。別名「播磨御前」「良正院」。武田家亡き後の信濃国分割の和議のための政略結婚として嫁いだ。1589年「小田原城の開城」によって北条家も滅び、夫北条氏直が病死したので羽柴秀吉の媒酌で池田輝政と再婚した。池田輝政の姫路転封で姫路城に移り、三男二女をもうけて池田家繁栄の基礎を築きました。息子はそれぞれ播磨、備前、淡路の国を与えられ松平家の西国の要となった。彼女のお陰で池田家の松平家権勢下での繁栄がもたらされた。

松平千姫【まつだいらせんひめ(1597~1666)】 

羽柴秀頼の室。松平秀忠の娘。別名「天樹院」。1597年、於江が人質として暮していた伏見屋敷で生まれた。1603年、松平元康と羽柴秀頼の和議の証として羽柴秀頼に嫁いだ。1615年の「大坂夏の陣」で大坂落城する際に救出された。1616年、本多忠刻と再嫁、姫路城に移り住み100,000石の化粧料が与えられた。

松平満天姫【まつだいらまんてんひめ(15??~15??)】

福島正之の室。松平康元の娘(松平元康の養女)。別名「葉縦院」。福島正則の嫡男福島正之に嫁ぎ福島直秀を生んだ。福島家の改易後は、松平元康の命で津軽信枚に嫁いだ。津軽信枚の病没後、福島家再興を図る福島直秀を謀殺した。

松平勝姫【まつだいらかつひめ(1601~1672)】

松平忠直の室。松平秀忠の娘(三女)。別名「天崇院」。1601年、江戸城西の丸で生まれた。1611年、従兄弟松平忠直に輿入れした。1622年、松平忠直は心を病み、勝姫を斬り殺そうとした。この時は、勝姫の侍女二人が身代わりとなって助かった。1623年、松平忠直は乱行のかどで秀忠から豊後国での隠居を命じられた。勝姫はこれに同行せず、江戸の高田屋敷に子供三人と共に移り住んだ。勝姫は大変気の強い女性だったといわれ、勝姫の孫に当たる国姫(光長娘)の嫁ぎ先である福井藩の松平光通の後継者問題に松平光長と共に介入、松平光通と国姫が共に自殺するという悲劇を招いた。

松平登久姫【まつだいらとくひめ(1576~1607)】

小笠原秀政の室。松平信康の娘(長女)。別名「峯高院」。松平信康と織田五徳との間の娘。登久姫が四歳の時に父松平信康が自刃し、母が実家に帰ったため、登久姫と妹熊姫は祖父松平元康に養育された。1589年、羽柴秀吉の仲介で小笠原秀政と結婚し、六男二女を産んだ。

松平熊姫【まつだいらくまひめ(1577~1626)】

本多忠政の室。松平信康の娘(次女)。別名「妙光院」。松平信康と織田五徳との間の娘。父松平信康が若くして自刃、母も織田家に戻り、残された彼女は徳川四天王のひとり本多忠勝の嫡男本多忠政と結婚した。本多忠政との間には嫡子本多忠刻、次男本多政朝、三男本多忠義ほか国姫(堀忠俊正の室)、亀姫(小笠原忠脩正の室)を生んだ。伊勢国桑名城100.000石から播磨国姫路城に転封によりその地で病没した。

松平阿姫【まつだいらくまひめ(1595~1632)】

山内忠義の室。松平定勝の次女(松平元康の養女)。松平元康の養女になり山内忠義に嫁いだ。この際、松平元康より化粧料として豊後国山田郷1,000石を賜った。山内忠義との間に山内忠豊、山内忠直、喜与姫(松下長綱正室)の二男一女を産んだ。

松平花姫【まつだいらはなひめ(15??~1639)】

井伊直政の室。松平康親の娘(松平元康の養女)。別名「唐梅院」。1582年、松平元康の養女となった。1584年、井伊直政に輿入れした。井伊直政との間に井伊直勝らを産んだ。1602年、井伊直政が病没すると、出家し唐梅院と称した。出家後は、井伊直勝を後見した。

真野青柳【まのあおやぎ(15??~15??)】

木村重成の室。大坂七手組頭の真野頼包の娘。1615年「大坂夏の陣」で木村重成が討死し後はゆかりを頼って近江国蒲生郡馬淵村に落ち、男子を出産した。後に髪をおろした。1616年、夫の命日を選んで自刃して果てた。その子孫は馬淵村で栄え、多くの江州商人が出て、大阪の江州系商人の木村姓の大半は木村重成の子孫。

万里小路貞子【までのこうじさだこ(1510~15??)】

大内義隆の室。万里小路秀房の娘。1524年、大内義隆の室となった。性格は理知的で気性が強く、賢婦人のようであった。しかし気性の強さのためか、義隆との夫婦生活は円満ではなかった。それを示す逸話として義隆が密通した女性に恋文を送った際、侍女が間違えて万里小路貞子にその恋文を渡してしまい、万里小路貞子は密通した女性と大内義隆にそれぞれ自らの歌を送ってその行為を批判した。大内義隆の寵愛を失い、大内義隆は貞子に仕えていた侍女のおさいを溺愛した。大内義隆とおさいの間に嫡男大内義尊が生まれると、大内義隆とと万里小路貞子の夫婦関係は完全に破綻し、離婚して京都に戻った。

三浦於福【みうらおふく(1549~15??)】

美作国真庭郡高田城主三浦貞勝の室。別名「円融院」。美作国の地頭三浦の一族として生まれた。別名「円融院」。1559年、高田城主三浦貞勝に嫁いだ。1565年、三村貞勝が三村家親に攻められ自刃。お福は家臣の牧藤左衛門と江川小四郎に護られて、息子「桃寿丸」と共に加茂川村下土居の土井家に落ち延びた。備前沼城主宇喜多直家と再婚。1572年、宇喜多秀家を出産した。1581年、宇喜多直家が病死すると年お福は備中高松城攻めの往路、復路の羽柴秀吉を岡山城に迎え、お福は幼い八郎の行く末を案じる思いを秀吉に訴えた。羽柴秀吉は後に、八郎は養子と向かえ大きな庇護と寵愛を与えた。

水野於大【みずのおだい(1528~1602)】

松平忠広の室。三河刈屋城主水野忠政の娘。松平元康の母。1541年、松平広忠に嫁いだ。1544年、兄水野信元が松平忠広と敵対したため離縁。のちに久松下俊勝と再婚した。1602年、京都伏見で病没した。

水野かな【みずのかな(1582~1656)】

加藤清正の継室。三河国刈谷城主水野忠重の娘(松平元康の養女)。別名「清浄院」。1599年、加藤清正に嫁いで大坂屋敷に入った。1600年「関ヶ原の役」では、合戦を前に加藤清正の待つ熊本へ脱出した。八十姫(瑤林院)を産んだ。加藤清正没後も熊本城にあって化粧料10,000石を与えられ、幼年の二代加藤忠広を支えた。加藤忠広の室に将軍松平秀忠の養女崇法院を熊本に迎え、あま姫(本浄院)を阿部正次の嫡男阿部政澄の室に出し、八十姫(瑤林院)と松平頼宣の結婚を履行させるなど加藤清正と松平元康の絆を結ぶことに尽した。1632年、加藤忠広の不慮の改易後も京都の菩提寺本圀寺門前に住み、加藤清正の菩提を弔って余生を過ごした。

水原長姫【みずはらおさひめ(1553~1623)】

栗太郡関津城主宇野清治の次男宇野源之丞国治の室。蒲生郡豊浦館主水原重久の娘。宇野国治の嫡男右近を生んだのもつかの間、夫水原国治が病死した。長姫は瀬田城主山岡景隆と再婚した。1582年、山岡景隆は「本能寺の変」で織田信長を倒した明智光秀の誘降をことわり、瀬田橋を焼いて安土城への進軍をふさいだことで知られる。長姫は30歳。夫と山岡景佐は瀬田城中で謀反の報に接し、明智光秀と敵対する。山岡景隆は瀬田城を退いたが、なおも堀秀政らと結んで明智秀満に対抗した。

三田笛姫【みたふえひめ(15??~15??)】

北条氏照の側室。武蔵国多摩郡勝沼城主三田綱秀の娘。主家の扇家上杉家が滅びたあとも三田綱秀は北条氏康と戦い続けた。1563年、北条氏照によって三田綱秀は自刃、勝沼城は落城した。笛姫は北条氏照の側室として迎えられるが、室の比佐の方(大石定久女)に謀殺された。側室に迎えられてわずか半年後のことであった。

三村鶴姫【みむらつるひめ(1543~1575)】

上野隆徳の室。三村家親の娘。1575年、常山城は毛利勢8,000余りに包囲された。常山城の城兵はわずか300余。攻城戦が展開され城方は上野隆徳の好采配で善戦したが数日の戦いで消耗していった。鶴姫は甲冑を身に付け太刀を腰に巻き白柄の長刀を抱え毛利勢渦巻く中に飛び出して戦った。鶴姫は銀の采配を手に指揮し城方は猛然と戦い劣勢を挽回するかと思われたが相手は多勢であり徐々に押され討ち取られていった。もはやこれまでを悟ると鶴姫は毛利勢の浦宗勝に一騎打ちを挑んだが、浦宗勝は鶴姫と刃を交えることなく負けを認めた。姫もこれを受け入れた。三村家重代太刀を、浦宗勝殿に譲り、上野隆徳と侍女たちとともに自刃した。

宮崎於仙【みやざきおせん(15??~15??)】 

松平元康の室。信濃国駒場村の宮崎泰景の娘。別名「泰栄院」。天正年間に召し出され松平元康の側室となった。

妙印尼【みょうしょうあん(1514~1594)】

横瀬成繁の室。館林城城主赤井重秀の娘。1578年、横瀬(由良)成繁の死後家督を継いだ息子横瀬国繁は、北条家に服属せず小田原で拘束された。横瀬家臣達は横瀬国繁の母である妙印尼を擁立して籠城したが降伏、城を失った。1598年、北条家滅亡後、羽柴秀吉は妙印尼の働きを讃え、その子孫に常陸国牛久城を与えた。

妙林尼【みょうりんいん(15??~15??)】

吉岡鑑興の室。林左京亮の娘。1578年、吉岡鑑興が「耳川の戦い」で討死したため出家し妙林尼と称した。1586年、島津家は豊後国侵攻を開始した。羽柴秀吉は援軍に四国勢を中心とする軍を差し向けるが「戸次川の戦い」で敗退。島津家久は大友義鎮のいる臼杵城へ向けて進軍させ、野村文綱、白浜重政、伊集院久宣らに兵3,000余を与え、鶴崎城を攻略するよう命令した。鶴崎城の城主は吉岡鑑興の男吉岡統増であったが吉岡統増は大友義鎮に従って臼杵城に籠城していたため、鶴崎城の指揮はた妙林尼が執った。城内には老兵と女や子供しかいなかったが、妙林は籠城決意した。1586年、野村文綱を中心とした島津家勢の計十六度に及ぶ攻撃を退け籠城を続けた。島津家勢は和睦を提案した。兵糧が底を突きかけていた妙林尼も城兵の助命を条件に和睦。妙林尼は島津家勢を手厚くもてなした。1587年、羽柴秀吉の「九州討伐」が開始されると、豊後国にいる島津勢に撤退命令が出ると、妙林尼は野村文綱の屋敷を訪れて島津勢にお酒を飲ませた。出立した島津勢を背後から攻撃した「寺司浜の戦い」。白浜重政、伊集院久宣ら63の大将首を得た。主将の野村文綱は矢傷がもとで日向国で没した。妙林尼は討ち取った大将頸を臼杵城の大友義鎮に送った。武勲を聞いた羽柴秀吉は会いたいと申し出たが妙林尼はそれを断わった。

宮塚くに【みやづかおくに(15??~1515)】

真田家の草の者。宮塚才蔵の妹。真田の庄を出て、関東諸国を回りながら、地方の情報を又五郎に届ける役目を果たしていた。白い肌に、濡れたような黒い瞳、すらりと背が高く、しなやかな体つきの、あかぬけた女性。与七に含められ佐助に、はじめて女の体の手ほどきをした。佐助よりは10余り年上。1600年「関ヶ原の役」では、草の者同士のつなぎ役をつとめた。役後、別所の湯で佐助と再会。兄宮塚才蔵と共に、京の夜泣峠の忍び小屋を守った。1615年「大坂夏の陣」で松平家方の忍びに捕らえられ自刃した。「真田太平記」by池波正太郎。

妙向尼【みょうこうに(15??~15??)】 

森可成の室。森可成の家臣林通安の娘。森長可、蘭丸らの生母。熱心な一向宗の信者、織田信長と本願寺と和睦に貢献した。

深芳野【みよしの(15??~15??)】 

土岐頼芸の愛妾。丹後国一色右京大夫の娘。土岐頼芸が美濃国守護職に就くとその戦功により、深芳野は長井規秀に譲り渡された。その前に土岐頼芸の男斎藤義龍を身籠っており、長井規秀のもとで斎藤義龍を産んだ。

三輪まつ【みわまつ(15??~15??)】

蜂須賀正勝の室。北畠具教の家臣三輪五郎左衛門の娘。国司北畠具教の許にあがり北畠具教の子を身籠ったが、北畠具教の夫人が嫉妬深かったため身を引いて実家に戻った。その後蜂須賀正勝に嫁いだ。

民部卿局【みんぶきょうのつぼね(15??~16??)】

浅井於江(崇源院)の乳母。実家は雁金屋。織田於市に侍女として仕えた。浅井長政と室於市との間に於江が生まれた際に乳母となった。於江の佐治一成、羽柴秀勝との婚礼にも付き従った。松平秀忠に於江が嫁いだ際も従った。大奥入りした後は崇源院の筆頭女中として千姫の乳母刑部卿局も共に仕えた。

武者小路徳子【むしゃのこうじとくこ(15??~15??)】 

堀越公方足利政知の継室。武者小路隆光の娘。足利政知の前室が病没した後、その室となった。足利政知の次男足利潤丸と嫡男足利茶々丸との家督争いで足利潤丸と共に謀殺された。

向井もよ【むかいもよ(15??~15??)】

向井佐平次の室。真田家の草の者赤井喜六の娘。両親はもよが幼いとき亡くなっており、真田の庄の草屋敷を束ねる叔父横沢与七に養育された。向井佐平次の室なり、向井佐助と向井はるを産んだ。1614年、大坂城に入城した真田信繁のもとへ向う向井佐平次に戦支度をさせて送り出した。※「真田太平記」by池波正太郎。

向井はる【むかいはる(15??~15??)】

向井佐平次の娘。※「真田太平記」by池波正太郎。

村上加芽【むらかみかめ(15??~15??)】

村上虎吉の娘。野田次郎の恋人。1997年のNHK大河ドラマ「毛利元就」では葉月里緒菜が演じた。

村井はる【むらいはる(15??~15??)】 

佐々成政の室。村井貞勝の娘。別名「慈光院」。1584年、佐々成政のアルプス越えに従うが、途中で佐々成政とはぐれ、後に肥後国に下った佐々成政との関係が一時断絶した。1588年、佐々成政の自刃後は出家し慈光院を称した。2002年のNHK大河ドラマ「利家とまつ」では天海祐希が演じた。

村田於万【むらたおまん(15??~1619)】

松平元康の側室。伊勢国の神職あがりの大坂の町医者村田意竹の娘。通称お督の局。別名「長勝院」。松平元康の室築山殿の侍女であったが、松平元康の側室になった。於義丸(後の結城秀康)を産んだ。

毛利五龍局【もうりごりゅうつぼね(15??~1574)】

宍戸隆家の室。毛利元就の娘。別名「五龍局」。毛利元就、妙玖夫婦はこの娘を溺愛した。1534年、毛利元就が宍戸隆家と和議を結んだ際、宍戸隆家に輿入れした。 勝気な女性であったため吉川元春の室、新庄局と険悪になり、毛利元就の三子教訓状でその事をたしなめられた。1997年のNHK大河ドラマ「毛利元就」では高橋由美子が演じた。

最上義姫【もがみよしひめ(1548~1623)】

伊達輝宗の室。最上義守の娘。別名「保春院」。1578年、出前国上山城主上山満兼と伊達輝宗が最上義光を攻撃した際、伊達輝宗勢の前に立ちはだかり、伊達輝宗勢を撤退させた。1584年、伊達輝宗は次男伊達政道に伊達家の家督を相続させようと画策する最上義姫に機先を制して、伊達家の家督を伊達政宗に譲り隠居した。1585年、畠山義継に伊達輝宗が謀殺され未亡人になった。1589年、最上義姫が伊達政宗の毒殺を企てたことになっているが確認できる文献はない。1987年のNHK大河ドラマ「伊達政宗」では、岩下志麻が演じた。

最上竹姫【もがみたけひめ(1573~1627)】

氏家光氏の室。最上義光の娘(長女)。

最上松尾姫【もがみまつおひめ(1578~1606)】

延沢光昌の室。最上義光の娘(次女)。母は大崎釈妙英。

最上駒姫【もがみこまひめ(1581~1595)】

羽柴秀次の側室。最上義光の娘(三女)。駒姫はその類いまれな美しさから溺愛されて育った。羽柴秀次は、東国一の美少女と名高かった駒姫の噂を聞き、側室に差し出すよう最上義光に迫った。最上義光は十五歳になったら娘を京へと嫁がせると約束した。1595年、駒姫は京に到着し、最上屋敷で長旅の疲れを癒していたところ、羽柴秀次は高野山で自刃させられ、駒姫も他の側室達と共に三条河原に引き立てられ処刑された。辞世の句は「罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」。

最上禧久姫【もがみきくひめ(15??~1664)】

東根親宜の室。最上義光の娘(四女)。1622年、最上義俊の改易後、東根親宜は蜂須賀家政に仕えて1,000石の中老職となった。

望月千代【もちづきちよ(15??~15??)】

信濃国北佐久郡望月城主望月盛時の室。禰津元直の娘(次女)。1561年「第四次川中島の戦い」で、望月盛時が討死した後、武田晴信に仕えた。小県郡禰津村古御館に住み甲斐国、信濃国の巫女の統帥を命じられた。孤児、捨て子などの少女を集め、彼女らに強い仲間意識と忠誠心、女であることを生かしての情報収集、色香で男を惑わす法を教えこんだ。そして諸国を往来できるよう巫女としての修行も積ませ、各地に送り込み情報を武田晴信に伝えた。※「信玄狙撃」by新宮正春。

問注所仁志【もんちゅうじょにし(15??~15??)】

安武鎮則の室。問注所鑑豊の娘。別名「宝樹院」。夫安武鎮則が大友義鎮から離反して籠造寺隆信に属したため離縁となった。実家に引き取られた仁志は改めて一男一女を連れて戸次鑑連の後室となった。そして、仁志は戸次鑑連との間に長女(誾千代)を産んだ。

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【や】

八坂若狭【やさかわかさ(15??~15??)】

種子島の刀鍛冶八板清定の娘。鉄炮複製に不可欠なねじの製法習得のため葡萄牙人に嫁がされた。

矢島鶴姫【やじまつるひめ(1589~15??)】

仁賀保挙誠の室。矢島満安の娘(長女)。別名「妙月」。1588年、仁賀保挙誠と矢島満安が和議を結ぶと、その証として鶴姫は仁賀保挙誠の元へ嫁だ。1600年「関ヶ原の役」では、長尾景勝の支援を受けて矢島満安の旧臣佐藤三右衛門が矢島鶴姫を仁賀保城から連れ出し、矢島鶴姫を擁立して蜂起し八森城を奪回しようと図った。佐藤三右衛門らは籠城したが、衆寡敵せず討死を遂げた。鶴姫は妙月と称して父矢島満安の菩提を弔った。

矢島藤姫【やじまふじひめ(1589~15??)】

楯岡長門守の室。矢島満安の娘(次女)。1592年、仁賀保挙誠を旗頭とする由利十二頭は矢島満安領に侵攻、豪勇を誇る矢島満安も衆寡敵せず、室の実家である西馬音内城主小野寺茂道のもとへ落延びた。1593年、小野寺茂道が小野寺義道の攻撃を受け、矢島満は小野寺茂道と共に自刃した。矢島藤姫と乳母は、矢島満安とはぐれ夜半鳥海山で仁賀保挙誠勢に捕えられた。仁賀保挙誠の前に引き出されたが、乳母の里へ帰ることを許された。矢島藤姫は乳母の里で養育さられた。最上義光が厄歳破いのため羽黒山へ夫婦で祈願に詣でた時、能楽堂で無心に鈴を振りながら神楽を舞っていた少女を見初め、六男最上光隆の養女として、矢島館主楯岡長門守に嫁がせた。

山岸千草【やまぎしちぐさ(15??~15??)】

明智光秀の側室。山岸光信の娘。父山岸光信は、西美濃十八人衆のひとり。、明智城が落城すると明智光秀は母方の兄山岸光信に室と子どもを預け、諸国を放浪した。明智光秀の庶長子山岸光連は、山岸光信の養子となった。

山田おあん【やまだおあん(15??~15??)】

石田三成の家臣山田去暦の娘。1600年「関ヶ原の役」では、おあんは父山田去暦に従って佐和山城に籠城した。落城不安がつのるある日、松平元康勢から矢文が届き『去暦は家康様御手習い師匠であったので、逃がす』と伝えてきた。おあんは父母らと一緒に塀の近くの松から堀へ降りたらい舟で落ち延びた。土佐国に渡り、自身の体験を「おあん物語」として語った。

山田尊栄【やまだたかえ(15??~15??)】

筒井順昭の室。山田道安の娘。1550年、筒井城主筒井順昭は、療養先の奈良市の円証寺で病没し、室の尊栄(たかえ)は未亡人となった。夫の菩提を弔うため尼となり「芳秀宗英大禅尼」と称し幼少の筒井順慶を後見した。松永久秀の目を欺くために黙阿弥を影武者にしたて、筒井順昭の死を長らく隠匿した。艱難辛苦の末筒井順慶は、松永久秀を討取るが筒井順慶もまもなく病没した。我が子の死を悼んだ尊栄は、菩提寺に「香華院」を創建した。

山名茜姫【やまなあかねひめ(1566~15??)】

羽柴秀吉の側室。因幡国鳥取城主因幡山名豊国の娘。別名「南の局」。1580年、山名豊国は毛利輝元に属する際、山名茜姫を人質として毛利輝元に差し出した。毛利輝元は人質(室や娘の茜姫の他、森下道裕、中村春次ら家臣家族二十人余り)を鹿野城に収容した。羽柴秀吉は鹿野城を攻撃、陥落させ人質を鳥取城に連行した。羽柴秀吉は人質を助命を条件に開城を迫ったが、山名豊国が応じなかったため、見せしめとして家臣の家族達を磔にし処刑していった。山名豊国は次々と家臣の家族達が処刑されていっても開城には応じなかったが茜姫が磔にされると開城に応じた。1581年、山名豊国は家臣の中村春続、森下道裕らに追放され、因幡山名家は滅亡した。後に山名茜は羽柴秀吉の側室となった。

山内薄雲姫【やまのうちうすぐもひめ(1574~1595)】

土佐国窪川城主山内常清の娘。薄雲姫は美しかったので、争いの火種のなることを恐れた山内常清は、伊予国の伊藤祐晴の預けた。薄雲姫は風透荘に住まうが、寝所に若武者が現れるようになった。薄雲姫はその若武者と恋に落ちるが、若武者は身分を明かそうとしない。ある日、薄雲姫が若武者の後をつけると、近隣の沼の大蛇の化身だとわかり、悲しみのため「薄雲を 透山に 吹き下ろし 桜とともに 散りぬべきかな」と辞世句を残して自刃した。

山内於合【やまのうちおごう(15??~15??)】

野中益継の室。山内一豊の妹。

山内与祢姫【やまのうちよねひめ(1580~1586)】

山内一豊の娘(長女)。1580年、山内一豊とその室見性院との長女として近江国で生まれた。1585年、山内一豊が近江国長浜城主となり、城内で暮らすが「天正大地震」で城が全壊し命を落とした。

山中八重【やまなかやえ(15??~15??)】

吉和義兼の室。山中幸盛の娘(長女)。別名「盛江」。夫吉和義兼は山陽地方の有力商人。草津城主児玉就方は商人の吉和義兼を重臣並みに優遇した。1579年、児玉就方が仲人となり、吉和義兼と毛利輝元からあずかっていた山中幸盛に娘八重を嫁がした。吉和義兼は醸造業などを営むなどして分限者となった。八重との間に嫡男彌右衛門常祐(範信)と次男孫兵衛(鴻池家始祖山中幸元)を産んだ。

容光院【ようこういん(1573~1591)】

吉川広家の室。宇喜多直家の娘(羽柴秀吉の養女)。母の血を受け継いだ美女であったとされ羽柴秀吉の養女となった。1588年「備中兵乱」で死闘を繰り広げた毛利輝元の家臣吉川広家に嫁いだ。吉川広家は、容光院を大切にした。1591年、容光院が病没すると、吉川広家は兄吉川元長の菩提寺である万徳院に墓所を築いて弔った。吉川広家は継室を迎えることなく、容光院の菩提を弔った。1600年、毛利輝元が防長転封されると吉川広家も岩国城に転封した際、吉川広家は容光院の墓所を移転させず他の吉川家枝連衆ともどもこの大朝の地に墓を残した。

養孝院【ようこういん(15??~15??)】 

戸次親家の継室。臼杵長景の娘。戸次鑑連の義母として戸次鑑連を九州でも屈指の武将に育て挙げた。

養徳院【ようとくいん(1515~1608)】

池田恒利の室。池田政秀の娘。織田信長の乳母。父池田政秀には嫡男がおらず、養徳院は滝川貞勝の次男池田恒利を養嗣子として迎えた。1536年、池田恒興を生み、夫池田恒利が仕える織田信秀の嫡男織田信長の乳母となった。後に、池田恒利とは離縁して織田信秀の側室となり、小田井殿(織田信直の室)を産んだ。

吉弘菊姫【よしひろきくひめ(15??~1595)】

大友義統の室。吉弘鑑理の娘。洗礼名は「ジュスタ」。大友義統との間に四人の子を生んだ。1587年、大友義鎮の命により基督教に改宗した。1592年「文禄の役」の際、羽柴秀吉の命により上坂し、大坂城下の大友家屋敷にて人質となった。1593年、夫大友義統の改易により大坂を追放、夫の配所への同行も許されず、幼い子供三人を連れ旧領の豊後国を供もなく放浪した。 柳川城主立花宗茂の元に身を寄せ筑後国下妻郡禅院村に屋敷を与えられるが、程なく病没した。

四辻与津子【よつつじよつこ(15??~1639)】

後水尾天皇の典侍。四辻公遠の娘。別名「明鏡院」。はじめ新上東門院に仕え綾小路と称した。1618年、後水尾天皇に出仕し典侍となり、賀茂宮(夭逝)、文智女王(梅宮)を生んだ。東福門院松平和子が後水尾天皇の中宮として入内する際、松平元康から圧力を受けて天皇から遠ざけられ内裏より追放され、落飾して明鏡院と称し嵯峨に隠棲した。

理応院【りおういん(15??~1625)】

田原久光の室。宇喜多秀家の家臣小原信忠の娘。田原久光との間に四男を産んだ。宮本武蔵は義理の弟。後に宮本武蔵の養子となった伊織貞次は二男。

龍造寺千世【りゅうぞうじちよ(1509~1600)】

龍造寺周家の室。村中龍造寺胤和の娘。別名「慶誾院」。龍造寺周家との間に嫡男の龍造寺隆信を生んだ。1545年、少弐家臣馬場頼周の謀略で夫龍造寺周家は謀殺された。1556年、龍造寺家純の父龍造寺家兼に見込まれ、鍋島清房の継室として嫁ぎ嫡男鍋島直茂の継母となった。1570年、佐嘉城が大友義鎮勢の大軍に包囲されると、龍造寺隆信や鍋島信生らは大友義鎮との和議を結ぶことを考えた。このときに薙刀を持った彼女が龍造寺隆信らの前に現れ「あなたたちは男でありながら敵の大軍を前にして恐れている鼠のようではないか。男なら死生二つの道をかけて、大友義鑑勢と戦いなさい」と叱咤した。鍋島信生は「今山の戦い」で、大友家本陣に夜襲をかけ大友義鎮勢を討ち破った。1584年「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信が討死すると鍋島直茂に国政を預かるように依頼し自らも政務に関与した。

龍造寺於安【りゅうぞうじおやす(1545~1624)】

肥前蓮池城主小田鎮光の室。龍造寺隆信の養女。別名「妙安院」。小田鎮光が龍造寺隆信に謀反を起こして謀殺された後、波多親と再婚した。波多親が羽柴秀吉の不興をかい流罪を命ぜられると妙安寺を建立して出家した。

霊照院殿【れいしょういんどの(15??~1588)】

山中頼元の室。北条氏照の娘。

六角辰姫【ろっかくたつひめ(1528~1576)】

北畠具教の室。六角定頼の娘。

六角艶姫【ろっかくつやひめ(1539~1593)】

畠山義綱の室。六角義賢の娘。

亘理登勢【わたりとせ(1573~1595)】

伊達成実の側室。亘理重宗の娘。別名「玄松院」。伊達定宗の姉。1586年、伊達成実に嫁いだ。1595年、伊達成実が羽柴秀吉から伏見で賜った屋敷で病没した。

渡辺みね【わたなべみね(15??~15??)】

荒木又右衛門の室。渡辺内蔵助の娘。

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【資料Ⅰ】 

皇后【こうごう】

天皇の正妃(正室)、およびその人物に与えられる称号。一夫多室制のもとでは、天皇の複数の室のうち最上位の者。

政略結婚【せいりゃくけっこん】

日本の戦国時代においては、敵対する勢力同士の和睦や臣従、同盟関係の締結などにおいて政略結婚としての婚姻が行われており、織田信長の妹であるお市の方(浅井長政へ)など、広く行われていた。時には十歳に満たない者が、嫁に出されることさえあった。羽柴秀吉政権下において、松平元康、毛利輝元、前田利家、宇喜多秀家、越後長尾景勝の五大名の連名で「大名間の私婚の禁止」の文書が諸大名に通達されたが、家康と伊達政宗によって破られた。江戸幕府では、これにより大名同士の結束が強まることを恐れたため、武家諸法度で大名同士の結婚には幕府の許可を要するようにするなど強く規制した。

典侍【てんじ】

律令制における官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)。長官は、尚侍であったが、後に后妃化して設置されなくなったため、典侍が実質的に長官となった。准位では、従四位であったが、実際には女叙位を受けて二、三位に昇る者も多かった。中世後期になると、典侍や掌侍になる女性が特定の公家出身者に固定化される一方、財政上の理由や摂関の地位が持ち回りとなって外戚関係の有無によってその地位が影響されることが無くなったために摂家が自分の娘を立后することに消極的になった。天皇の正配(皇后、中宮、女御)及び同様の地位となった尚侍が立てられることがほとんどなくなった。このため、天皇に一番近くにいる女性となった典侍や掌侍が天皇の寵愛を受けてその子供を儲けることが多くなった。後奈良天皇から後陽成天皇まで四世代連続で勧修寺流(勧修寺家、万里小路家)出身の典侍を生母した。戦国時代には勧修寺、万里小路両家は娘を典侍として、代々の天皇の外戚となる家系であった。

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【資料Ⅱ】

薙刀【なぎなた】

日本の長柄武器の一種で、平安時代に登場した武具。応仁の乱の頃より戦闘の主流が足軽による集団戦に変わると、“振り回す”形で使う武器は密集した隊列を組んで行う戦闘において不便であり、やがて槍に取って代わられていった。その後戦国時代に鉄砲が伝来すると長柄武器そのものが衰退し、薙刀は僧侶、婦女子の用いる武具となってた。「筑紫薙刀」「袋薙刀」「日本式眉尖刀」などの種類がある。

紺糸裾素懸威胴丸【こんいとすそすがけおどしどうまる】

大山祇神社の宝物殿には、河野通信、河野通有、源頼朝、源義経の甲冑の中に、日本でも唯一と謂れる女性用の胴丸が残されている。其の名は「紺糸裾素懸威胴丸」。胸の部分が膨らみ、胴回りが引き締まつた、如何にも女性用らしい優美な姿を見せてゐる。大山祇神社の大宮司の社家大祝家の娘であつた、鶴姫の所領の胴丸である。

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【資料Ⅲ】

くノ一【くのいち】

くノ一(女忍)は、主に力一辺倒では太刀打ちできない相手に対して下女などと偽って送り込まれ、機密情報の収集や暗殺などを請け負った。籠絡する相手に真剣に惚れ込んだり、裏切ったりするなどの危険が付きまとっていたため、それを防ぐために連絡役兼監視役の忍者が常に行動を監視し、裏切りの気配を見せたときには容赦無く謀殺した。戦国時代において、男性は土地に縛られる(農民でも武士でも)が、女性は自由にどこにでも行けた。ルイス・フロイスの文献に、ほぼすべてにおいて自由もともと諜報活動に向いている性でもある。遊女や傀儡子、白拍子等の女性の遍歴者は、合戦時の神事として帷幕の中にまで呼ばれることが多かった。

後家【ごけ】

夫と死別し、再婚しないで暮らしている女性。寡婦。未亡人。

御陣女郎【ごじんじょろう】

武士と共に戦場に赴いた女性達。桂女と呼ばれた遊女たちが、武士団の戦いに参加した。彼女たちは必ず櫛を二枚さしていた。一枚は凶事に、一枚は己れの化粧に使う。凶事とは斬りとられた敵将の頸を洗い、その髪をなでつけることである。

白拍子【しらびょうし】

古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われている。神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったという。このうち、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していき、そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになった。白い直垂、水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさすという男装で歌や舞を披露した。伴奏には鼓、時には笛などを用いた。後に、猿楽などへと変貌していった。後に早歌や曲舞などの起こる素地ともなった。また延年にも取り入れられ、室町時代初期まで残った。白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い人が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など貴紳に愛された白拍子も多い。また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多い。

比丘尼【びくに】

諸国を遍歴し仏法を説いた尼を比丘尼といったが、形態を真似て専ら色を売ることを業とする者(色比丘尼)が現れた。

後妻討ち【なぶりうち】

後妻討ちは、離婚した夫が新たな室を娶ったとき、先室が後室のもとに押しかけて乱暴狼藉をはたらくという日本古来の慣習。別名を「嫐討ち」と言った。先室側は仲間(全員女)を集め、ホウキとナベで武装して後室の家に攻撃をかける。後室の家には前もって宣戦布告を通達し、後室側に迎撃準備の時間を与えた。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。女性の名は不明が多いので、不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。また伝説、空想上の姫君を含みます。

※武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、大友宗麟は大友義鎮、豊臣秀吉は羽柴秀吉、立花道雪は戸次鑑連、斎藤道三は長井規秀、菊亭晴季は今出川晴季、尼子詮久は尼子晴久に統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東、西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東、西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「戦国美麗姫図鑑」PHP、「戦国激女100人伝」徳間書店、「戦国の女たち」学研M文庫、戦国女性系譜(巻之一)毎日新聞社、「戦国人名辞典」新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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