2010年12月20日月曜日

戦国甲斐国人名辞典


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【あ】

相川甚五兵衛【あいかわじんごへい(15??~15??)】

武田家臣。目付衆のひとり。1569年「三増峠の戦い」では、伊藤玄蕃と北条方四人を生け捕る戦功を挙げた。

餐場越前守【あいばえちぜんのかみ(15??~1541)】

武田家臣。1541年「瀬沢の戦い」で討死した。

青木義虎【あおきよしとら(1460~1537)】

韮崎の白山城主。青木安遠の男。武川十二騎衆の筆頭。武田家の庶流で、一条、武川、東条の諸家を枝連衆に持つ。青木信種や青木信定の父であり、孫の青木信立、山寺信明、青木満懸らは、武田晴信に仕え活躍した。弟柳沢信興ら柳沢枝連衆をも束ね、柳沢貞興、柳沢信房、柳沢信景らも武田晴信に仕えた。枝連衆の折居昌勝らも活躍した。

青木信種【あおきのぶたね(1480~1541)】

青木義虎の男。武田信縄、武田信虎、武田晴信に仕えた。嫡男青木信立や孫の青木信時、横手信国、青木信久、青木信俊、青木信実、曲淵信次、青木信秀らの武川衆を束ね甲斐国各地を転戦した。武川衆の一翼を担い、教来石家らと並んで諏訪郡への抑えをつとめた。

青木信立【あいきのぶたて(1500~1590)】

青木信種の男。官途は尾張守。武田信繁に仕えた。1561年「第四次川中島の戦い」では、武田信繁の後見人を勤めるが重傷を負った。1575年「長篠の戦い」での退却時、武田勝頼が武田信豊に与えた幌を敵に奪われないように、幌衣だけを頸に巻き持ち帰り、武田勝頼を安堵させた。武田勝頼の滅亡後は松平元康に仕えた。

青木信時【あおきのぶとき(1520~1590)】

青木信立の男。1582年、松平元康から甲斐国青木郷300貫を安堵された。

青木信安【あおきのぶやす(15??~15??)】

青木信時の男。

青沼昌忠【あおぬままさただ(15??~15??)】

武田家臣。勘定奉行衆。通称助兵衛。騎馬15騎、足軽30人。武田晴信、武田勝頼の二代に仕えた。1560年、初鹿野源五郎と北条氏康の援軍に派遣された。1563年、諏訪郡代、のちに上野国松井田城で城代を務めた。

赤池家実【あかいけいえみ(15??~15??)】

赤池屋敷主。穴山家臣。

赤口関左衛門【あかぐちせきざえもん(15??~1547)】

武田家臣。寺川四郎右衛門と喧嘩したとき脇差しも抜かず、寺川四郎右衛門に急所を蹴られ気絶した。周りから臆病な武士と言われ、武田晴信に召し捕られて雁坂峠下で斬首された。

秋山信任【あきやまのぶこれ(1507~1548)】

秋山光任の男。加賀美、小笠原、常葉、下山、山田らを枝連衆に持つ。父秋山光任が油川信恵に属して武田信虎と戦ったが、油川信恵が討たれた後は、武田信虎に属した。枝連衆の秋山忠国、秋山光英、秋山光明、秋山光清、秋山光次ら枝連衆を束ね各地を転戦した。

秋山信友【あきやまのぶとも(1527~1575)】
 
秋山信任の男。官途は伯耆守。1542年、諏訪頼重攻めで初陣した。1547年、伊奈福与城攻めで戦功を挙げた。敵将の藤沢頼親を捕縛するという大手柄により侍大将に任じられた。1555年「木曽福島城の戦い」で戦功を挙げた。1556年、伊奈郡代に抜擢された。1573年、東美濃に攻め入り岩村城を陥落させ、前城主遠山景任の未亡人で織田信長の叔母おつやの方(岩村殿)を室として迎えた。岩村城の養子になっていた織田勝長を保護して甲斐国に護送した。1575年、織田勢の攻撃により、生け捕りにされおつやと共に謀殺された。

秋山昌詮【あきやままさのり(15??~15??)】

金丸虎義の四男。秋山信友の養子。通称は左衛門佐。勇猛で知られ駿河国、上野国を転戦して活躍したが若くして病死した。家督は弟秋山親久が相続した。兄弟に金丸昌直、土屋昌続、土屋昌恒、秋山親久がいた。

秋山親久【あきやまちかひさ(15??~1582)】

金丸虎義の六男。 秋山信友の養子。兄秋山昌詮の病没後、秋山家の家督を相続した。1582年、武田勝頼が織田信長に攻められて居城が陥落し、自刃した際に共に殉じた。

秋山家臣団【あきやまけかしんだん】

秋山十郎兵衛、春近衆(伊那郡の豪族衆)。

秋山光次【あきやまみつつぐ(15??~1582)】

武田勝頼家臣。武田晴信の信任厚く、武田勝頼の補佐を命じられた。1582年「天目山の戦い」で武田勝頼に殉じた。
 
秋山正次【あきやままさつぐ(15??~1582)】

武田勝頼家臣。武田信虎に仕え、今川家に幽閉される際にも付き従った。後に武田家に戻り、武田勝頼に仕えた。1582年、武田勝頼の滅亡時に討死した。

秋山正重【あきやままさしげ(15??~15??)】

秋山正次の男。武田信豊家臣。

秋山虎康【あきやまとらやす(15??~15??)】

海野信親家臣。官途は越前守。通称源四郎。騎馬30騎。1582年「甲州崩れ」の際に松平元康に降った。穴山信君が松平元康に降ったときに連れて来た二人の美女のひとり、おつま(信吉の母)は穴山信君自身の娘といわれてるが、実は秋山虎康の娘。

浅利虎在【あさりとらあり(1506~1564)】

武田信虎家臣。室は武田信縄の娘。逸見家の流れを汲み、八代郡浅利郷を領した。枝連衆に浅川家、八代家など持った。浅利虎在は武田信縄の娘婿であったことから、武田信虎の義弟として重く用いられた。

浅利信種【あさり のぶたね(15??~1569)】

八代郡浅利城主。浅利信種の部隊は赤備えで統一された。武田晴信、信濃国、上野国攻略戦において活躍した。上野の箕輪城を攻略後、真田幸綱、真田信綱父子、甘利左衛門尉の後を受けて箕輪城将となり、関東方面の責任者となった。1568年、武田晴信が駿河の今川氏真を攻めると、今川家に味方した北条氏康と交戦状態となった。1569年、北条家の介入により、武田晴信の「第一次駿河攻略」は失敗した。そのため、駿河国の北条家勢を退かせるべく、北条家の居城である相模小田原城等を攻めた。武田勢は小田原城攻囲は四日で解き、甲斐国への帰路へ付いた。その途上、北条氏照、北条氏邦が、武田家勢の帰路を塞ぎ小田原城の軍勢との挟撃を図って「三増峠の戦い」が発生した。峠上に布陣する北条氏照、北条氏邦勢と峠を登る武田家勢との間で激しい戦闘となった。この戦闘で流れ弾が馬上で部隊の指揮を執っていた浅利信種に当たり、浅利信種は討死した。軍監として陣中にあった曽根内匠が浅利家隊の指揮を引き継ぎ、指揮官を失った浅利隊をよくまとめた。

浅利昌種【あさりまさたね(15??~15??)】

浅利信種の男。1569年「三増峠の戦い」で父浅利信種が討死にしたため、浅利家の家督を相続した。父浅利信種の被官、同心のうち半数の60騎のみを継いだ(残りは土屋昌次の被官、同心となる。)後に残りの半数も引継ぎ120騎持ちとなった。1582年、武田家滅亡後は松平元康家臣本多忠勝に配された。松平家臣の本多重次が「武田家中で尊敬されていた浅利殿が今では本多忠勝の配下となり、松下一党や向坂一党の下座にへつらい居るのを常々みかけ哀れに思う。」という意味の発言を残した。

芦沢元辰【あしざわもとたつ(15??~1597)】

穴山家臣。官途は伊賀守。信州芦沢の出身で穴山信君、穴山勝千代の二代に仕えた。穂坂常陸介とともに陣代となった。のちに松平元康の子で秋山越前守の娘が生んだ武田信吉に仕えた。

跡部信秋【あとべのぶあき(1500~1570)】

跡部信長の男。跡部家は信濃守護小笠原家庶流で信濃国跡部郷に発した。室町時代の跡部景家のころは甲斐守護代として権勢を持っていた。跡部景家は武田家の討伐を受けて没落した。跡部信秋には、嫡男跡部信業、次男跡部勝資。 弟跡部行忠や跡部勝忠、跡部行次、跡部昌忠、跡部昌秀、跡部昌長ら跡部枝連衆を束ね重く用いられた。跡部勝資は武田晴信に仕え、武田家朱印状の奉者をつとめ、武田勝頼の近侍をつとめた。

跡部勝資【あとべかつすけ(1547~1582)】

武田勝頼家臣(勝頼衆)。跡部信秋の男。武田家の譜代奉行衆の跡部勝忠、跡部昌忠とは別系。武田勝頼が武田家の家督を相続すると、吏僚派(勝頼派)と武断派の対立が表面化する。跡部勝資は武田家で最大級の動員力を誇る侍大将であり、一概に内務臣僚ということは出来ない。対織田信長、松平元康連合と戦うためには、武田家は中世的な武田家臣団を中央集権的政権に構造改革を進めるが、跡部勝資は武田勝頼を補佐した。政治力、経済感覚、行政手腕等の能力は優れていた。1578年「御館の乱」においては長尾景勝との甲越同盟の取次を務めた。実際の長尾家との交渉は、北信、東信の責任者である武田信豊が行っていたが、長尾家では武田勝頼の側近である両者に接触することで、交渉を有利に進める狙いがあった。1582年、武田家滅亡時には武田勝頼と共に天目山で自刃した。

跡部勝忠【あとべかつただ(1520~1582)】

武田義信家臣(義信衆)。跡部泰忠の男。跡部家の庶流で譜代家老衆。同人衆15騎を率いた。1582年「武田家討伐」では、織田信長に謀殺された。

跡部昌忠【あとべまさただ(1544~1606)】

武田義信家臣(義信衆)。跡部勝忠の男。初め使番頭を務め、のちに近衆番頭を務めた武田勝頼の側近家臣。武田家滅亡後は、松平元康に仕え甲斐四奉行のひとりとして甲斐国支配に大きな役割を担った。

穴山信風【あなたまぼぶかぜ(15??~1528)】

南巨摩郡下山城主。武田家枝連門衆。穴山信懸の男。1513年、守護武田信縄が病没して武田信虎が家督を継ぐと、武田信虎の叔父油川信恵との間で抗争が勃発した。父穴山信懸は、今川家に帰属して武田信縄と敵対したが武田信虎とは和睦した。穴山家中においては武田宗家と敵対的な駿河今川家への帰属を望む反穴山信懸派が存在した。穴山信懸は嫡男穴山清五郎により謀殺された。1513年、穴山信懸の死後に家督を相続した。西郡河原部で、今井信業、栗原兵庫、飯富虎昌、諏訪頼満らの連合軍を武田信虎が撃破した「河原部の戦い」が起き、連合軍に属して討死した。

穴山信友【あなやまのぶとも(1506~1561)】

穴山信風の男。官途は伊豆守。通称彦六郎。室は武田信虎の次女(南松院)。穴山信友は甲斐国守護職武田信虎、武田晴信の二代にわたって仕えた。1535年、武田信虎と今川氏輝は、河内領の万沢郷で戦った。1536年、今川義元が今川家の家督を相続すると武田家と和睦して「甲駿同盟」を結んだ。1541年、武田晴信が武田家の家督を相続すると武田家は信濃国に侵攻した。1542年、諏訪頼重との戦いで戦功を挙げた。1545年、信濃国伊那郡藤沢頼親攻めに参陣した。和睦後、小山田信有、勝沼信友と共に藤沢頼親弟藤沢権次郎を人質とした。「平沢(大門峠)の戦い」「海野平の戦い」「碓氷峠の戦い」「川中島の戦い」「塩尻峠の戦い」などに参陣して戦功を挙げた。1558年、家督を穴山信君に譲り、隠居した。

穴山信君【あなやまのぶきみ(1541~1582)】

穴山信友の男。室は武田晴信の娘(見性院)。穴山信友は下山城を本拠に河内地方を領し、領内において武田家にとは系統が異なる独自の家臣団や行政組織を持っていた。駿河国は武田領国化されるが、穴山信君は山県昌景の後任として江尻城代となり、支城領としての「江尻領」を形成した。1582年織田信長の甲斐侵攻に際しては河内領、江尻領の安堵、武田家宗家の継承を条件に織田家方に内通し、松平元康を通じて織田信長に内応した。同年には織田信長への御礼言上のため家康に随行して上洛し、近江国安土城において織田信長に謁見する。松平元康と堺を遊覧している最中に「本能寺の変」が起こり、松平元康と別行動で帰国途中、山城国綴喜郡で落ち武者狩りの土民に襲撃されて謀殺された。

穴山信嘉【あなやまのぶよし(15??~1567)】

穴山信友の次男。武田義信家臣。1567年、武田義信が自刃した際に連座して切腹した。

穴山信治【あなやまのぶはる(1572~1587)】

穴山信君の男。通称勝千代。幼少時から幅広い教養を身につけ、穴山信君の後継として育てられた。武田家遺領をめぐり松平元康と後北条家が争った「天正壬午の乱」において河内領は松平元康によって抑えられた。穴山信君も松平家方として武田遺臣の懐柔に務めた。1582年、穴山信君の死後、松平元康は穴山信治に父穴山信君の重臣をつけて武田家の名跡を継がせたがまもなく病没した。これにより甲斐国の穴山家および武田家は絶えた。

穴山家安土随行衆【あなやまけあづちどうこうしゅう】

穴山五郎左衛門、馬場丹後守忠次、満沢主税助、中山隼人佐、田中一波斉、佐野右衛門佐、三浦十左衛門、大石弥五郎、跡部因幡守、窪三太夫、柳沢主計信久、内藤右近。※穴山信君が安土城において織田信長に謁見する際同行した家臣。

穴山家臣団【あなやまけかしんだん】

宇山無辺之助、若林三郎兵衛、佐野内膳、川手惣太夫、芹沢九郎右衛門、依田六左衛門、川口与左右衛門、大野佐渡守、辻清左衛門信秋、望月善左衛門尉、望月伴左衛門、望月神左衛門尉、望月新右衛門尉、望月三郎兵衛尉、村田善九郎、大野宮内丞、望月清左衛門尉、望月藤左衛門、若尾左衛次郎君豊、佐野新左衛門、佐野十右衛門、佐野将監、佐野日向守、以春軒、宗威軒、菊養軒、蒲庵、横田内匠助、奥津河内守、奥津修理亮、岩間十兵衛、後藤作太夫、三輪杉之丞、若林善兵衛、弓気多又左衛門、諏訪部三郎左衛門尉、羽桐九郎二郎、波切源右衛門、吉田長兵衛、竹川金左衛門、若林外記、大志万与次郎、青柳二右衛門尉、市川掃部助。

安倍宗貞【あべむねさだ(15??~1582)】

武田家臣。通称五郎左衛門。武田勝頼に付属された侍大将のひとり。1582年、織田信長の「武田家討伐」では、武田勝頼と共に討死した。

甘利虎泰【あまりとらやす(1498~1548)】

板垣信方、飯富虎昌、原虎胤らとともに武田信虎時代から仕えた。1541年、武田晴信による武田信虎追放の主導的役割を果たし、武田家の宿老で、最高職位「両職」を務めた譜代家臣。1538年、諏訪頼重、小笠原長時が甲斐国に攻め込んだ「韮崎の戦い」で二番合戦で手柄を上げた。武田晴信が家督を継いだ直後に諏訪頼重、小笠原長時、村上義清が侵攻してきた。1542年「瀬沢の戦い」でも奮戦した。1547年、佐久郡北部の「志賀城攻め」に参陣した。関東管領上杉憲政が後詰の援軍を派遣したため、甘利虎泰は板垣信方とともに別動隊を編成して伏撃し「小田井原の戦い」で大勝した。1548年、武田晴信が小県郡に侵攻して村上義清と戦った「上田原の戦い」において、板垣信方を討取って意気上がる村上家勢から武田晴信を守り、初鹿野伝右衛門らと共に討死した。

甘利昌忠【あまりまさただ(1534~1569)】

甘利虎泰の男。父の甘利虎泰は板垣信方とともに武田家の最高職位とされる「両職」を務めた。父甘利虎泰に似て軍事巧者として数々の合戦で活躍した。1548年、父甘利虎泰が「上田原の戦い」で討死した。甘利家の家督を相続して、板垣信憲とともい「両職」になった。武田晴信の外交取次として活躍し、信濃侵攻においては信濃木曽家、西上野侵攻においては上野国衆大戸浦野家や鎌原家の取次を務めているほか美濃国、飛騨国方面の取次にも携わった。特に西上野計略では本軍の主力的役割を果たし、前線拠 点の構築や攻略地域の戦後処理などにも務めた。武田晴信に厚く信頼され活躍した。

甘利信康【あまりのぶやす(15??~1575)】

甘利虎泰の次男。通称郷左衛門。1570年、兄甘利昌忠の死後家督を相続した。武田家の鉄砲隊将として活躍した。1575年「長篠の戦い」では、武田勝頼隊に属した。鉄砲隊を率いて織田信長、松平元康連合軍と対峙、左翼の山県昌景を支援した。兵数の差はいかんともし難く、山県昌景が討死して、弾薬が尽きると敵陣に突入し討死にした。

甘利信益【あまりのぶます(1518~1542)】

甘利虎泰の三男。父甘利虎泰を補佐し信濃侵攻戦で各地を転戦した。1542年「諏訪郡の戦い」で討死した。

雨宮家次【あまみやいえつぐ(15??~15??)】

武田義信家臣(義信衆)。通称十兵衛。1565年、武田義信が謀反の疑いで自刃したあとは、武田家を追放され北条家に仕えた。後北条家で、戦功を重ね七度感状を受けた。高坂昌信を介して再び武田晴信に仕えた。1575年、高坂昌澄の麾下で「長篠の戦い」に参陣したが討死した。松平元康の家臣小栗忠政に討たれた。そのとき、雨宮家次は刀を小栗忠政に託した。

有泉信閑【ありいずみのぶかん(15??~15??)】

穴山信君家臣(穴山衆)。

有泉昌輔【ありいずみまさ(15??~15??)】

有泉信閑の男。

飯尾助友【いいおすけとも(15??~1575)】

河窪武田信実麾下の浪人衆。1575年「長篠の戦い」で浪人衆の組頭として、鳶ヶ巣砦群のひとつ中山砦に名和無理之助とともに布陣した。酒井忠次らの奇襲攻撃を受け討死した。

飯尾祐国【いいおすけくに(15??~15??)】

飯尾助友の弟。河窪武田信実麾下の浪人衆。

飯田虎春【いいだとらはる(1490~1550)】

逸見家枝連衆。荻原昌勝や加藤虎景とならび武田信虎に信頼されるほどの実力者で、幼少の武田晴信に弓馬を指南した。

諫早了碩【いさはやりょうせき(15??~1561)】

山本晴幸家臣。通称佐五郎。大仏学心とともに山本家隊の足軽組頭。1561年「第四次川中島の戦い」では、諫早了碩は、山本晴幸、大仏学心と共に法師武者姿で長刀を振りかざして戦ったが矢を浴び、本庄家勢に討たれた。山本晴幸隊は、柿崎景家勢の萩田与三郎、吉田喜四郎、河田軍兵衛、坂木磯八らによって包囲され、坂木磯八に討取られた。※「山本勘助」by南原幹雄。

石原治部右衛門【いしはらじぶざえもん(15??~15??)】

武田家臣。軍馬を診る獣医の頭。

板垣信方【いたがきのぶかた(1489~1548)】

板垣信種の男。武田家臣。1540年、武田信虎の信濃国佐久郡侵攻の際に敵城十数を落とす活躍をした。武田信虎は武田晴信を疎んじて次男武田信繁に家督を譲ろうとした1541年、武田晴信が家臣団とともに謀反を起こして武田信虎を駿河国へ追放した。武田晴信が家督を相続すると、板垣信方と甘利虎泰は武田家最高職の「両職」に任じられた。1542年、武田晴信は高遠頼継と結んで諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、諏訪頼重は板垣郷東光寺で自害させられた。1542年、諏訪家惣領職を望む頼継は藤沢頼親と結んで諏訪郡へ侵攻して上原城を落した。晴信は直ちに信方を先陣とする救援の軍を送り「安国寺の戦い」で頼継を打ち破った。高遠頼継を追い、藤沢頼親を屈服させた。1543年、板垣信方を諏訪郡代に任じて占領地の統治を任せた。1545年、武田晴信は高遠城を攻め落とし高遠頼継は討死した。武田晴信は再び背いた藤沢頼親の福与城を攻めるが藤沢頼親は信濃守護小笠原長時と結んで抵抗した。板垣信方は藤沢頼親、小笠原長時に与する龍ヶ崎城を攻め落とし、孤立した藤沢頼親は降伏した。1547年、武田晴信は信方率いる諏訪衆とともに大軍で佐久郡に侵攻し、志賀城の笠原清繁を包囲した。関東管領上杉憲政は金井秀景に西上野衆を率いさせ救援の軍を差し向けた。晴信は信方と甘利虎泰に別動隊を編成させて迎撃にあたらせる。板垣信方は「小田井原の戦い」で関東管領軍を撃破し、3000余を討取る大勝をおさめた。救援の望みを失った志賀城は落城し、武田晴信の佐久郡の平定を完了した。1548年、武田晴信は村上義清を討つべく小県郡へ出陣、「上田原の戦い」で武田軍は敗北し、板垣信方は甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門と共に討死した。

板垣信憲【いたがきのぶのり(1523~1557)】

板垣信方の男。1548年「上田原の戦い」で父板垣信方が討死したため、板垣家の家督を相続して諏訪城代となった。200騎の同心、被官を率いて両職の地位にあった。父板垣信方と違って有能ではなく、武田晴信からは疎まれていた。1552年、武田晴信から七箇条にわたる詰問状を突きつけられ、従来の不行跡を理由に城代を解任されたうえ、甲府長禅寺に押し込めに処せられた。1553年、父板垣信方が草履取りから取り立てた曲淵吉景だけが長禅寺にも従って来た。曲淵吉景の隙を衝いて本郷八郎左衛門が板垣信憲を謀殺した。

板垣信安【いたがきのぶやす(15??~1575)】

板垣信憲の養子。1557年、板垣信方の嫡男板垣信憲が不行跡を理由に武田晴信により改易されたため、板垣家が断絶した。1558年、板垣信方の娘婿にあたる於曾信安が、武田晴信の命によって名跡を継ぎ板垣家を再興した。1567年、起請文では既に板垣姓を称した。武田家の親族衆として120騎を有した。内藤昌秀の討死後、内藤昌月が上野国箕輪城代就任するまでの間、在城した。1572年、駿河国田中城主を務め「田中の板垣殿」と呼ばれた。

板垣家臣団(板垣衆)【いたがきけかしんだん】

小熊豊前守、石和甚三郎、塩津与兵衛、下総国浪人山上六郎左衛門、下総国浪人八木原新蔵、上野国浪人古川宮内右衛門、武蔵国浪人成毛又左衛門。

板垣法印【いたがきほういん(15??~15??)】

武田家臣。元室町幕府の侍医で僧侶でもあった。武田晴信が駒場で病没するまで健康管理を行なった。

石黒将監【いしぐろしょうげん(15??~15??)】

諸角虎定家臣。通称五郎兵衛。1561年「川中島の戦い」で諸角虎定が討死するとその頸級を奪還した。その後、山県昌景の麾下に属した。1582年、武田家が滅ぶと松平元康に降り、所領を安堵され井伊直政の家臣となった。

市川等長【いちかわ ともなが(15??~15??)】

武田晴信家臣。室は小幡虎盛。別名市川梅隠斎。足軽大将で騎馬10騎、足軽50人を率いた。1553年、原与左衛門と共に北信濃海津に砦を築き、海津城の礎とした。海津城では市川昌忠とともに二の曲輪を守衛した。その後長沼城に移り長尾景虎勢と対峙した。1558年、武田晴信の命により、信州国更級郡大岡城の番将を青柳清長と共に務めた。

市川昌忠【いちかわまさただ(15??~15??)】

市川等長の男。官途は備後守。通称平左衛門。武田家四奉行。武田信虎、武田晴信、武田勝頼の三代に仕えた。武田晴信の病没後には剃髪して以清斎元松と称した。1582年、武田家滅亡後、松平元康に仕えた。

市川内膳正【いちかわないぜんのしょう(15??~1575)】

市川昌忠の男。武田晴信、武田勝頼に仕えた。1575年「長篠の戦い」で討死した。

市川昌倚【いちかわまさより(15??~15??)】

駒井勝英の三男。市川昌忠の養子。通称宮内。1582年、武田家滅亡後、松平元康、松平秀忠に仕えた。

市川満友【いちかわみつとも(1572~1637)】

市川内膳正の男。通称茂左衛門。室は駒井昌長の娘。1572年、父市川内膳正が「長篠の戦い」討死すると市川家の家督を相続した。1586年、松平元康に仕えた。「小田原の役」「九戸の乱」「関ヶ原の役」「大坂の両陣」に共奉し、関東入国後は、武蔵国高麗郡に陣屋を構えた。後に大番となった。

市川家光【いちかわいえみつ(15??~15??)】

武田家臣。武田晴信の側近家臣として活躍した。1582年、武田家滅亡後は松平元康に仕え、関東移封まで甲斐四奉行のひとりとして、甲斐国支配の担った。

市川昌房【いちかわまさふさq(15??~15??)】

市川家光の男。勘定奉行のひとりで同人衆30騎持。吉田信生に代わって信濃諏訪郡代を務め、高島城に在城した。1575年「長篠の戦い」で討死した。家督は嫡男市川助一郎が相続した。

市川武兵衛【いちかわぶへい(15??~15??)】

穴山信君家臣(穴山衆)。

一条信龍【いちじょうのぶたつ(15??~1582)】

武田信虎の九男。甲斐国上野城主。武田家枝連衆。甲斐源氏武田信義の二男一条忠頼を祖とする一条家の名跡を継承した。枝連衆として騎馬200騎、相備え組衆は依跡10騎、大津10騎を有し、本願寺及び松永久秀等畿内勢力との外交を担当した。「駿河侵攻」では田中城代を務めた。1575年「長篠の戦い」で佐久間家勢に攻撃を加えて二重の柵を破るまでの活躍を見せ、敗走する武田家勢の中で馬場信春勢と戦場に留まり、武田勝頼の戦線離脱を見極めた後で退却した。後に田中城代を子の一条信就に譲り、武田信堯(信友の子)とともに駿府城代に転じた。1582年「甲州崩れ」では、駿河国を撤退して上野城に戻るが、同方面より侵攻した松平元康の三河勢に上野城を包囲され、三河勢10,000余りに対して300余で突撃して一条信就と共に討死にした。

一条信就【いちじょうのぶなり(15??~1582)】

一条信龍の男。1582年、父一条信龍と共に討死した。

一条信龍家臣団【いちじょうのぶたつかしんだん】

依路十騎衆、大津十騎衆、石黒五郎右衛門、和田新左衛門、内山新之丞、相沢弥兵衛。

一条信龍浪人衆【いちじょうのぶたつろうにんしゅう】

浅見清太夫、堀無手右衛門、中根七右衛門。この三人は三河国浪人で武田晴信によって一条信龍に付された。1579年、上野国「膳城攻め」で活躍した。

今井信是【いまいのぶこれ(15??~1531)】

北巨摩郡獅子吼城主。今井信慶の男。北巨摩郡を領した国人領主。1530年、武田信虎は北条家との対立から扇谷上杉朝興と結び、朝興の叔母で上杉憲房後室を側室にしようとしたことから、親北条家の今井信是と対立した。1531年、飫富兵部少輔らとともに甲府を出奔し御岳に立て籠もった。これに大井信業、栗原信友ら甲斐国人衆が加わり、諏訪郡の諏訪頼満も介入し大規模な内乱に発展した。諏訪家勢は武田信虎が下社牢人衆を集めて立て籠もっていた笹尾塁を自落させて進軍したが、大井信業、今井備州らが相次いで討死した。「韮崎河原辺の戦い」では栗原兵庫ら兵800余りを失い、反武田信虎勢は壊滅的打撃を受けた。1532年、今井信元は獅子吼城を開城降伏した。

今井信元【いまいのぶもと(1484~1575)】

今井信慶の次男。兄今井信是と共に度度武田信虎に反抗をしていた。1531年、兄今井信是が討死しても抵抗を続けた。1532年、本拠地の獅子吼城を開城した。武田信虎の軍門に降ってからは武田家に忠誠を尽くした。

今井信隣【いまいのぶちか(1486~1575)】

今井信慶の三男。兄今井信是と共に度々武田信虎に反抗した。1531年、兄今井信是が討死するが抵抗を続ける。1532年、本拠地の獅子吼城を開城を開城した。武田信虎の軍門に降ってからは武田家に忠誠を尽くした。

今井虎意【いまいとらい(1497~1548)】

今井信是の男。1531年、父今井信是と共に武田信虎に反旗を翻し、1532年、巨摩郡小倉の浦城に籠城した。武田信虎に攻められ降伏した。本拠地の獅子吼城も開城した。武田信虎の軍門に降ってからは忠誠を尽くした。

今井貞恵【いまいじょうえ(1500~1548)】

今井信是の次男。1531年、父今井信是と共に武田信虎に反旗を翻した。1532年、巨摩郡小倉の浦城に籠るが、武田信虎に攻められ降伏した。本拠地の獅子吼城も開城した。武田信虎の軍門に降ってからは忠誠を尽くした。

今井信員【いまいのぶかず(1511~1575)】

今井信元の男。1531年、父今井信元と共に武田信虎に抵抗を続けた。1532年、本拠地の獅子吼城を開城した。武田信虎の軍門に降ってからは武田家に忠誠を尽くした。

今井信昌【いまいのぶまさ(1503~1575)】

今井信隣の男。武田信虎、武田晴信に仕え旗本武者奉行をつとめた。

今井信俊【いまいのぶとし(1521~1595)】

今井信昌の男。通称九兵衛。使番十二人衆を経て足軽大将衆足軽十人持ちとなった。1582年、武田家滅亡後松平元康に仕えのち駿河国田中城代を勤めた。

今井信甫【いまいのぶすけ(1485~1575)】

今井信乂の次男。1515年、兄今井信房の討死により今井家の家督を相続した。武田信虎に仕え奉行なども務め活躍した。曽根信利、曽根政利父子が『羽州』と称されていたのに並び『相州』と称され、武田家を代表する武将となった。

今井虎甫【いまいとらすけ(1489~1575)】

今井信乂の三男。兄今井信甫を補佐し、武田信虎に属して甲斐国内各地で転戦した。

今井信良【いまいのぶよし(1511~1575)】

今井信甫の男。武田信虎、武田晴信に仕えた。父今井信甫を補佐し、武田晴信に属して信濃国各地を転戦した。

今井信衡【いまいのぶひら(15??~15??)】

今井信隣の男。通称新左衛門尉。山梨郡今井郷の領主。旗本武者奉行。

今井勝澄【いまいかつずみ(15??~1584)】

今井信俊の男。通称七右衛門。松平元康に仕えた。1583年「小牧、長久手の戦い」で討死した。

今井(高尾)昌俊【いまいまさとし(1556~1593)】

今井信俊の男。高尾伊賀守の養子。通称惣十郎。松平元康に仕えた、1583年「小牧、長久手の戦い」で討死した。

今井兵部【いまいひょうぶ(15??~15??)】

武田信虎家臣。武田信虎の暴虐に抗議して他国へ落延びた。武田晴信が父武田信虎を追放すると帰参を願い出た。今井兵部は振矩師(測量士)の百川数右衛門(鉱山の測算、縄張り、坑道の掘削)、山師の丹波弥十郎、採掘師の大蔵宗右衛門を連れて帰参し黒川金山を開いた。※「武田信玄」by新田次郎。

今福友清【いまふくともきよ(1513~1582)】

武田家臣。官途は石見守。通称浄閑斎。今福家は甲斐源家の一族奈古家を遠祖とする武田家の庶家。譜代家老70騎持。1553年、武田晴信は「信濃侵攻」を本格化させ「筑摩郡侵攻」において今福石見守が狩谷原城主となり、知行地を巡り信濃国衆の海野下野守と争論が発生した。深志城主馬場信房、平瀬城主原虎胤が甲府参府中に、横田康景とともに在番と仁科衆への監視を務めた。1561年「川中島の戦い」では嫡男今福虎孝が参陣した。1577年、駿河国久能城主となった。

今福虎孝【いまふくとらたか(15??~1582)】

今福友清の男。官途は丹後守。通称善十郎。1570年、原甚四郎改易に伴いその同心を付され侍大将。1582年、武田勝頼の滅亡時は駿河久能山城代で、城を出て近くの村松という所で男今福善十郎と共に自刃した。

今福昌和【いまふくまさかず(15??~1582)】

今福友清の次男。市川昌房に代わって諏訪郡代を務め、高島城に在城した。1576年、木曽家追討にあたるが失敗した。高遠城で織田家勢に謀殺された。

今福昌常【いまふくまさつね(15??~1582)】

今福友清の三男。御槍奉行を務め、騎馬15騎、足軽10人持。武田勝頼の側近のひとりとして活躍した。1582年、織田信長の「武田家討伐」では自刃した。

岩崎勝秀【いわさきかつひで(1500~1550)】

岩崎信為の男。駒井高白斎の甥。1457年、跡部景家との「小河原の戦い」で敗北し、岩崎家一族は滅亡した。岩崎信為は武田信虎に仕え、勝沼信友とともに小山田家や後北条家への抑えの役割を担った。嫡男岩崎政長や次男岩崎勝盛らを束ね各地を転戦した。

岩崎政長【いわさきまさなが(1520~1550)】

岩崎勝秀の男。

岩間大蔵左衛門【いわしたおおくらざえもん(15??~15??)】

武田家臣。公事奉行衆。合戦には参陣しないが、武田家領内での悪事摘発の一切を任された。

岩手信友【いわてのぶとも(1497~1550)】

岩手縄美の男。父岩手縄美が油川信恵とともに武田信虎に背き「坊ヶ峯の戦い」で討死すると、武田信虎に忠誠を近い旗奉行衆としてに仕えた。

上原虎満【うえはらとらみつ(1495~1579)】

武田家臣。信濃佐久郡平賀の出身。嫡男上原昌辰と共に「信濃佐久郡侵攻戦」に参陣した。嫡男上原昌辰は武田信虎から絶大な信頼を受け、武田の守将として名を馳せた。上原虎満は上原吉勝の嫡男上原虎種やその子たち上原種吉、上原種長、上原種知らをまとめあげ、上原家一族を統率した。

上原昌辰【うえはらまさとら(1514~1552)】

上原虎満の男。板垣信方や飫富虎昌の副将として、ともに信濃国佐久郡侵攻戦に参陣した。城を守ることにかけては優れた武将であり、武田信虎から絶大的な信頼を受け、武田家の守将として名を馳せた。上原昌成、上原昌貞、上原盛昌ら弟たちも天文年間の合戦で活躍した。

上原能登守【うえはらのとのかみ(15??~15??)】

小山田信茂家臣。1573年「三方ヶ原の戦い」で先陣を任された小山田信茂は、上原能登守に命じて松平元康勢へ物見を行い、その動きを本陣に知らせた。

上野原七騎衆【うえのはらななきしゅう】

上野原城主加藤虎景麾下の辺境武士団。富田、安藤、野崎、中島、上条、石井、市川の諸家。

上野豊後守【うえのぶんごうのかみ(15??~15??)】

板垣信方家臣。板垣信方の陣代、のちに山県昌景の麾下に属した。

牛田真綱【うしだまさつな(15??~15??)】

小山田家臣。1567年武田晴信は 長男武田義信を謀反の理由で自害させた。国内の動揺を押さえるため、家臣に起請文をださせる。小山田信茂並びに小山田家被官の奥秋加賀守房吉、小林和泉守房実、河村治部左衛門尉房秀、牛田善右衛門尉真綱等に武田晴信に起請文提出させた。

遠藤伊勢守【えんどういせのかみ(15??~15??)】

穴山信家臣(穴山衆)。

漆戸虎光【うるしどとらみつ(1512~1575)】

武田義信家臣(義信衆)。

永順【えいじゅん(15??~15??)】

武田晴信家臣。右筆衆。別名釈永順。内藤昌豊の従兄弟で、武田晴信の右筆の主要なものは彼が書いたものが多った。

恵林寺宗智【えりんじそうえい(15??~15??)】

武田信虎の七男。恵林寺僧侶。快川紹喜和尚で有名な恵林寺に入り僧となった。

大井信達【おおいのぶたつ(1474~1552)】

甲斐国西部の西郡を領した国人領主。大井信包の長男。上野城、富田城を居城とした。今川氏親に属して度々武田信虎と戦い武田家を苦しめた。1517年、武田信虎と和睦し娘(瑞雲院殿)を室に差し出し降伏するも再び反旗を翻した。1531年、武田信虎との戦いで嫡男大井信業を失い完全に麾下に属した。文化人としても知られ「歌道執心の法師」と評された。

大井信業【おおいのぶなり(15??~1531)】

大井信達の男。武田晴信の生母大井の方の実兄。父大井信達の隠居により、大井家の家督を相続した。大井信達と共に武田信虎と抗争を続けた。1517年、今川氏親が武田信虎と和睦した際、大井信業も武田信虎と和睦した。1520年、今井家や栗原家らの反逆に呼応する形で武田信虎と再び敵対したが「上諏訪の戦い」で武田信虎に大敗を喫して降伏した。以後は武田信虎の麾下に属した。1531年、武田信虎による「栗原家討伐戦」に参陣したていたときに討死した。嫡男大井信為は幼少のため、一時的に弟大井信常が家督を相続した。

大井信為【おおいのぶため(1530~1549)】

大井信業の男。武田信虎の娘婿。大井家は大井信為の祖父にあたる大井信達期に駿河今川家と結び守護武田家と抗争した。大井信達は武田信虎と和睦して武田家の麾下に属した。1531年、父大井信業は甲斐国衆今井家らと武田信虎に反旗して討死した。幼少である家督を継ぐわけにもいかず一時的に大井信業の弟大井信常が家督を継いで陣代を務めた。1538年、大井信常も死去したため家督を継いで当主となった。

大井信常【おおいのぶつね(1496~1551)】

大井信達の次男。父大井信達や兄大井信業とともに武田信虎に敵対していたが、兄大井信業死後は甥大井信為を補佐し武田信虎に仕えた。大井信為死後家督を継承しているが父大井信達より早く死去した。嫡男大井信舜、次男吉田信家、三男大井信禀らも武田晴信に仕え武田家を支えた。

大井(武藤)信堯【おおいのぶかた(1502~1553)】

大井信達の三男。大井六兄弟のひとり。大井虎昌、大井虎成、大井常昭ら弟たちと共に大井信業や大井信常ら兄たちを補佐し、武田家に仕えた。

大井虎昌【おおいとらまさ(1504~1560)】

大井信達の四男。

大井虎成【おおいとらなり(1505~1561)】

大井信達の五男。

大井(武藤)信昭【おおいのぶあき(15??~15??)】

大井信達の六男。

大蔵信安【おおくらのぶやす(15??~15??)】

武田家臣。猿楽師の大蔵太夫十郎信安は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、大蔵信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。大蔵信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田晴信お抱えの猿楽師として仕えた。

大蔵新之丞【おおくらしんのじょう(15??~1575)】

大蔵信安の男。大久保岩見守長安の兄。1575年「長篠の戦い」で討死した。

大蔵長安【おおくらちょうあん(1545~15??)】

大蔵信安の次男。官途は石見守。別名大久保長安。室は下間頼龍の娘。継室は大久保忠為の娘。大蔵長安は武田晴信から家臣として取り立てられ、土屋昌続の寄騎衆に任じられた。大蔵長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事した。武田晴信の病没後は武田勝頼に仕えた。1575年「長篠の戦い」では、兄大蔵新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死した。大蔵長安は参陣しなかった。1582年、織田信長、松平元川康連合軍の「武田家討伐」によって、武田家滅亡後、大蔵長安は松平元康の家臣として仕えた。

大蔵彦十郎【おおくらひこじゅうろう(15??~15??)】

大蔵信安の三男。役者を嫌って高坂虎綱の寄騎衆になり、合戦でも手柄をあげるが、負傷して合戦に出られなくなってからは、高坂虎綱の右筆となった。

小笠原慶安斎【おがさわらけいあんさい(15??~15??)】

武田晴信家臣。御とぎ衆。甲斐国の代表的な文化人。1566年、武田晴信主催の歌会を取り仕切った。

小笠原源与斎【おがさわらげんよさい(15??~15??)】

武田晴信家臣。武田晴信に仕えた陰陽師。山本晴幸の台頭とともに地位が低下した。※「戦国軍師人名辞典」by川口素生。

荻原昌勝【おぎわらまさかつ(1461~1535)】

荻原慶忠の男。官途は常陸介。山梨郡荻原村を領した。巨勢、倉科、山宮、古屋、小原家を枝連衆に持つ。武田信昌、武田信縄、武田信虎と三代にわたって仕え、武田信虎の傅役をつとめ、弓矢の指南役もつとめる。若き武田信虎に合戦を教授した。「相図の小旗」「相図の物見」などの戦法を創始した。「智略の師」と武田信虎をふくめ多くの家臣たちに尊敬された。1535年、信州境川で諏訪頼満との戦いで殿軍を努め討死した。

荻原昌忠【おぎわらまさただ(15??~15??)】

荻原昌勝の男。

荻原昌明【おぎわらまさあき(1509~1581)】

荻原昌忠の男。通称弥右衛門。祖父荻原昌勝から荻原家の家督を相続した。祖父荻原昌勝の討死後は、弟荻原昌信、荻原信基たちとともに叔父板垣信方の寄騎衆として活躍した。武田晴信の代になると、横目付衆や武田晴信の館番役、甲斐各街道の普請奉行をつとめる。合戦時は目付衆、近習とともに馬廻として武田晴信の護衛にあった。1564年、武田義信の謀反の疑いを武田晴信に通報した。

荻原昌之【おぎわらまさゆき(1529~1600)】

荻原昌明の男。父荻原昌明に従い板垣信方の配下として信濃侵攻戦で各地を転戦した。

萩原虎重【おぎわらとらしげ(1490~1541)】

萩原昌重の長男。

奥秋長吉【おくあきながよし(15??~15??)】

小山田家臣。官途は加賀守。

奥秋房吉【おくあきふさよし(15??~15??)】

奥秋長吉の男。1567年、武田晴信は嫡男武田義信を謀反の理由で謀殺させた。国内の動揺を押さえるため、家臣に起請文をださせる。小山田信茂並びに小山田家被官の奥秋加賀守房吉、小林和泉守房実、河村治部左衛門尉房秀、牛田善右衛門尉真綱等にも武田晴信に起請文提出させた。

小沢昌光【おざわまさみつ(1508~1549)】

武田家臣。「武川十二騎衆」。山高信方から分かれた一族衆。山高、島原、白須、牧原の諸家を一族に持つ。小沢昌長ら一族を束ね各地を転戦した。

小沢貞利【おざわさだとし(1528~1575)】

小沢昌光の男。

小沢式部【おざわしきぶ(15??~1550)】

小山田信有家臣。1550年「砥石崩れ」の際に横田高松、渡辺雲州らとともに村上義清勢に討たれた。

小沢善大夫【おざわぜんだいふ(15??~15??)】

武田家臣。「武川十二騎衆」。牧原内飯田分4貫文を知行した。

小幡虎盛【おばたとらもり(1490~1561)】

武田家臣。小畠虎次の男。官途は山城守。通称孫十郎。武田家足軽大将五人衆のひとり。北条綱成の父、福島正成を討ち、武田信虎から一字を与えられる。1538年「韮崎の戦い」では三度の接戦の全てに一番槍を功名をし、四度目の接戦では自らも敵陣に入り大将首を取った。全身四十一ヶ所の傷のうち、七ヶ所はこのときのものという。愛馬も赤く血に染まっていたことから、月毛の馬が栗毛になるまで戦わねばならぬ、と若武者は語り合った。三十八通の感状を貰い、武田信虎も小幡虎盛の武勇を今川義元に自慢した。高坂昌信の副将として海津城にあったが「第四次川中島の戦い」直前に没した。遺言である九文字の戒め「よくみのほどをしれ」は有名。

小幡惣七郎【おばたそうしちろう(15??~1550)】

小畠虎次の次男。1550年「海野平の戦い」で討死した。

小幡弥宗右衛門【おばたよそうざえもん(15??~15??)】

小畠虎次の三男。馬場信房の副将格で、留守役をつとめた。

小幡光盛【おばたみつもり(15??~15??)】

小畠虎次の四男。官途は下野守。通称弥左衛門尉。はじめ兄の虎盛らとともに甲斐武田家に仕えた。1561年、信濃国海津城番として春日虎綱を補佐していた兄が死去すると、甥小幡昌盛が跡を継ぐが、小幡昌盛は武田晴信の馬廻衆として古府中へ出仕したため、海津城番の後任を務めた。1582年、武田家が滅亡すると、派遣されてきた織田家臣森長可の麾下に属した。「本能寺の変」後は長尾景勝を頼った。飯山城に配されたが、後に越後国に移った。

小幡昌盛【おばたまさもり(1533~1582)】

小幡虎盛の男。官途は山城守。通称弥左衛門尉。室は原虎胤の娘。1548年「塩尻峠の戦い」で父小幡虎盛とともに得意とする夜襲で敵陣を急襲し功名をあげる。連戦につぐ連戦で「鬼虎のうしろに小鬼あり」「末頼もしき若武者よ」と評され原虎胤からも将来を期待される。従兄小幡信広、小幡家長らを束ね海津城代をつとめた。

小幡昌盛【おばたまさもり(1534~1582)】

小幡虎盛の次男。官途は豊後守。通称又兵衛。室は原虎胤の娘。小幡昌盛は小幡虎盛とともに海津城に在番した。1561年、父小幡虎盛は「第四次川中島の戦い」直前に病没したため、春日虎綱の補佐を行った。小幡昌盛は武田晴信の馬廻衆におさまることを望み訴訟を行い、武田晴信の怒りを買い甲府妙音寺に蟄居となり切腹を命じられるが、諏訪勝頼や土屋昌続の懇願により赦免され、足軽大将に留まった。1582年、織田信長、松平元康連合軍が甲斐に侵攻すると、小幡昌盛は病床にあったため参戦できなかった。

小幡虎昌【おばたとらまさ(1507~1575)】

小幡盛次の三男。父小幡盛次死後は、兄小幡虎盛をよく補佐し、武田信虎、武田晴信に仕え各地を転戦した。

小原広勝【おはらひろかつ(15??~1582)】

武田勝頼家臣(勝頼衆)。1562年、武田勝頼を伊那郡代、高遠城代に任じられた際に、武田勝頼の八人の補佐役のひとり。弟小原下総守とともに任じられ、補佐役としての役割を遺憾なく発揮した。武田勝頼に付されるとき武田晴信から「武道以外のこと、小原兄弟と秋山光次が相談して、致せ」といわれた思慮深い人物であった。1582年「天目山の戦い」では弟小原下総守は武田勝頼と最期をともにし、小原広勝とともに従ってきた婦人たちを介錯し、武田勝頼に従い討死した。
 
小原下総守【おばらしもふさのかみ(15??~1582)】

武田勝頼家臣(勝頼衆)。小原広勝の弟。武田勝頼と最後をともにし、兄小原広勝に付き従ってきた婦人たちを介錯した。

帯金定継【おびがねさだつぐ(15??~1561)】

穴山信君の家臣。

帯金信行【おびがねのぶゆき(15??~1584)】

帯金定継の男。

帯金信房【おびがねのぶふさ(15??~1601)】

帯金信行の男。

帯金信右【おびがねのぶう(15??~1607)】

帯金信房の男。

飯富虎昌【おぶとらまさ(1504~1565)】

武田義信家臣(義信衆)。1529年、諏訪家と共謀して武田信虎に今井信元、栗原兵庫とともに謀反を起こすも失敗した。1541年、武田家宿老であり有力国人であった板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌と共に武田晴信を擁立して武田信虎を駿河に追放し武田晴信政権を樹立した。武田義信傅役になる。1536年、北条家との「御殿場の戦い」に先陣を勤め北条家勢を破る。1565年、武田晴信と対立した武田義信を守るために自刃した。

大仏庄左衛門【おぶつしょうざえもん(15??~1561)】

山本晴幸家臣。1561年「第四次川中島の戦い」で山本晴幸と共に討死した。

小山田信有【おやまだのぶあり(1488~1552)】

都留郡岩殿城主。官途は越中守。通称孫三郎。家系は桓武平氏の一流である秩父党の小山田家の庶家。戦国期の甲斐国では守護武田家と有力国人衆の間で抗争が発生しており、郡内領主の小山田家も守護武田信虎や領国と接する駿河国の今川家、相模国の後北条家と争いを繰り広げていたが、小山田信有の父にあたる小山田信有は武田家との和睦が成立し、姻戚関係を結び、小山田信有は武田家の女子を母として誕生した。1530年、猿橋において北条家勢と対陣した。「矢坪坂の戦い」で北条氏綱と戦い敗走した。1547年、武田晴信が「志賀城攻め」で捕虜約3,000人を親類縁者があるものは身請けさせた。その際、敵将笠原清繁の夫人を身請けした。

小山田虎親【おやまだとらちか(1508~1541)】

小山田信有の男。1541年、亡くなったため、弟小山田信有が家督を継いだ。

小山田信有【おやまだのぶあり(1540~1565)】

小山田信有の次男。1542年、高遠頼継攻めでは、幼少での初陣ながら戦功をあげ武田晴信より感状を受けた。父小山田虎親の死後に小山田家の家督を相続した。1561年「第四川中島の戦い」では、病に犯され参陣出来なかった。1565年、病没したため小山田家の家督は弟小山田信茂が家督を相続した。

小山田信茂【おやまだのぶしげ(15??~1582)】

小山田信有の次男。1557年「第三次川中島の戦い」で初陣を果した。1561年「第四次川中島の戦い」では、騎馬200騎、雑兵900余りを引きて、妻女山に向かった高坂昌信率いる別働隊に属した。長尾景虎方の奥信濃衆の押さえとして置かれ、大きな損害を出した。1569年、後北条家攻めでは、小田原城の支城である滝山城攻城戦の前哨戦で北条氏照勢を打ち破った。1572年、武田晴信による西上作戦の「三方ヶ原の戦い」では兵3,500余りを率いて松平勢の石川数正隊と戦端を切り、勝ち鬨の音頭取りと言う最大の栄誉を与えられた。1578年、武田家と北条家の同盟が破棄されると、北条家の抑えを務めている。1575年「長篠の戦い」では家中最大の兵3,200余りを率いて約1,000余りが討死にした。1582年、織田信長の「武田家討伐」が始まると、武田勝頼に新府城から岩殿山城に逃れるように勧めたが途中で裏切り、武田勝頼らを郡内に入れず、結果的に滅亡へ追いだ。

小山田昌輝【おやまだまさてる(15??~15??)】

小山田信有の三男。

小山田義武【おやまだよしたけ(15??~15??)】

小山田信有の四男。

小山田元重【おやまだもとしげ(15??~15??)】

小山田義武の男。

小山田次重【おやまだつぐしげ(15??~15??)】

小山田義武の次男。

小山田行村【おやまだいくむら(15??~15??)】

小山田信有の五男。初め使番十二人衆の後、近習を経て士隊将となる。1582年、織田信長に誅殺された。

小山田平左衛門【おやまだへいざえもん(15??~15??)】

小山田信茂の従兄弟。鉄砲の名人で、武田滅亡時、小山田弥助と共に活躍した。

小山田有誠【おやまだありなり(15??~15??)】

都留郡倉見堺城主。小山田信茂の相備として都留郡を守備した。

石田小山田昌辰【おやまだまさとき(15??~1552)】

武田家臣。内山城代。武田信虎時代からの侍大将。官途は備中守(古備中)。郡内の小山田家とは別系であり、混同しないために所領地と居館が甲府石田にあったことから「石田の小山田」と称された。城攻め、築城、守備の名手といわれ、敵方の城を陥落させた後は、必ずその城の守将を命じられた。武田晴信による信濃南佐久から北信濃方面への侵攻では板垣信方の副将を勤めた。1540年、海尻城を開城させて城代となった。その直後の村上家臣室賀光氏の来襲では本丸をよく守り、援軍が来るまで持ちこたえた。葛尾城攻略のため、武田晴信は戸石城再興のために出陣するとの偽りの情報を流すよう命令じた。1552年「常田の戦い」で討死した。

石田小山田昌行【おやまだまさゆき(15??~1582)】
 
小山田昌辰の男。官途は備中守。海津城代。1575年「長篠の戦い」では、松平方の松平主殿助を討取った。1582年、織田信長、松平元康連合軍が武田家領国である信濃への侵入を開始すた、小山田昌行は信濃伊那郡高遠城主仁科盛信の相備衆として救援に向い、仁科盛信の副将として織田信忠が率いる大軍に対して籠城し、仁科盛信や弟小山田昌盛と戦い討死した。

石田小山田茂誠【おやまだしげまさ(1567~1642)】

石田小山田昌行の男。官途は壱岐守。通称六左衛門。室は真田昌幸の娘(村松殿)。1582年「高遠城の戦い」で、父小山田昌行と兄小山田昌盛、叔父小山田昌貞は討死したが小山田茂誠は落延びた。その後、真田昌幸に仕えた。真田信之が沼田城主になると真田信之に仕えた。1614年「大坂の役」では、病に臥せていた真田信之の名代の真田信吉、真田信政兄弟に属して、嫡男小山田之知とともに参陣した。1622年、真田信之の松代城移封に従い松代に住し代々次席家老となった。

石田小山田昌盛【おやまだだいがくのすけ(15??~1582)】

小山田昌辰の次男。通称大学助。武田晴信、武田勝頼二代に仕えた。侍大将として騎馬10騎の他、信州衆35騎、遠江衆10騎、上野衆15騎の計70騎を率いた。1568年「蒲原城の戦い」では兄小山田昌行と共に戦功を挙げた。1582年「高遠城の戦い」では兄小山田昌行ら共に籠城したが落城し、城主仁科盛信らと共に自刃した。

折居次久【おりいつぎひさ(15??~1556)】

折居次俊の男。「武川十二騎衆」。1509年。父折居次俊に継いで折居を知行し、武田信虎、武田晴信に仕えた。

折居次昌【おりいつぐまさ(15??~15??)】

折居次久の男。父折居次久の死後家督を継ぎ武田晴信、武田勝頼に仕えた。足軽隊を預かり、戦功により武田晴信から兜を賜った。1582年、武田勝頼の滅亡すると、折居次昌は米倉忠継らとともに松平元康に仕えた。

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【か】

快川紹喜【かいせんじょうき(15??~1582)】

京都妙心寺派の僧。美濃の崇福寺住職。武田晴信に招かれて甲斐恵林寺に入山し、武田晴信の母大井夫人の年忌を務めた。恵林寺を武田晴信の菩提寺と定める。美濃斉藤龍興と武田晴信の同盟を画策した。武田晴信の病没後の恵林寺における葬儀の導師を務め、七回忌法要の際には香語を読んでいる。1582年、織田信長の「武田家討伐」では、織田信長に反抗して恵林寺で討死した。その際の「心頭滅却すれば…」の言葉は有名。1581年、正親町天皇より大通智勝国師の国師号を賜った。

加賀美虎光【かがみとらみつ(1490~1529)】

甲斐国巨摩郡加賀美庄領主。加賀美光清の流れを汲み、於曽、伴野、阿刀部家などを枝連衆を持つ。馬場虎貞らと並び豪傑と名高い。武田信虎の重臣として重んじられたが、勘気に触れ斬首された。

春日源之丞【かすがげんのじょう(15??~15??)】

武田信繁家臣。1561年「第四次川中島の戦い」では武田信繁に属して参戦した。長尾景虎勢の攻撃を受け、武田信繁が討死を覚悟すると春日源之丞を呼んで、兄武田晴信の自筆の「金文字法華経陀羅尼」の書かれた母衣と自身の髻を預けて、嫡子武田信豊に渡すように頼んだ。春日源之丞は一度は辞退したが撤退した。

春日元忠【かすがもとただ(15??~1608)】

武田家臣。はじめ武田勝頼に仕えた。1582年、織田信長、松平元康によって武田勝頼が討死すると、長尾景勝のもとに落延びた。1584年、信濃国青柳城代となった。1591年、直江兼続に属して「庄内一揆」残党平定後、村上城主となった。1600年「関ヶ原の役」では、最上家領に侵攻したが「長谷堂城の戦い」において志村光安の前に大敗を喫した。1601年、米沢転封後は執事兼奉行、郡代となり、直江体制の元で郷村支配を初めとした藩政を統括し「直江家被官の棟梁」などと称された。

霞の佐平次【かすみのさへいじ】

小山田信有の忍び衆。富士山麓の上吉田に館を構え、富士導者として富士講中に集まってくる巡礼者を案内する仕事を生業としながら、富士導者を素っ破に仕立て、檀那を名目に諸国の情報を集めた。※「信玄狙撃」by新宮正春。

三科形幸【かたゆきなりゆきとも(15??~15??)】

山県家臣(山県衆)。官途は肥前守。通称伝右衛門。1575年「長篠の戦い」で負傷した。後に井伊家に仕え甲州侍の代表格。武田家の山県衆としてその名を知られる。広瀬美濃守とともに松平元康にもその名を知られ、広瀬美濃守、三科肥前守の旗指物は敵にも知れ渡っているものであると評価された。武田家滅亡後、松平家に仕え井伊直政の寄騎衆となった。

加藤虎景【かとうとらかげ(1492~1566)】

都留郡上野原城主。武田信虎、武田晴信の二代に仕えた。1550年「戸石城の戦い」の時は劣勢挽回に尽力し、諸角虎定らを促し逆襲を成功させた。津久井口を守備した。都留郡は、武田家の重臣でもあった小山田家の支配が全域に行き届いていた。相模国との国境である上野原一帯は富田、安藤、野崎、中島、上条、石井、市川の「上野原七騎」と称される武士団を率いる加藤家が支配権を握った。

加藤景忠【かとうかげただ(1542~1582)】

加藤虎景の男。官途は丹後守。武田勝頼に仕えた。1582年、武田家滅亡の際に相模国津久井口を守った。武蔵国箱根ヶ崎で討死した。

加藤信邦【かとうのぶくに(15??~15??)】

加藤虎景の次男。官途は駿河守。加藤信邦の六男加藤昌久は、初鹿忠次を嗣ぎ初鹿信昌と改名した。

勝津野昌世【かつのまさよ(15??~1567)】

武田義信家臣(義信衆)。勝津野昌忠の男。1567年、武田義信事件に連座し自刃した。

勝沼信友【かつぬまのぶとも(1495~1535)】

武田信縄の次男。官途は安芸守。別名武田信友。郡内小山田家を監視する重要な任務にあたった。一族と骨肉の家督争いを制し、若くして当主となった武田信虎のただひとりの弟して最も信頼された。1535年、武田信虎の命により今川家との戦いのため甲駿国境に出陣し、今川家と後北条家の連合軍と戦いで討死した。

勝沼信元【かつぬまのぶもと(1526~1560)】

勝沼信友の男。武田晴信出陣中の留守居役。1560年、長尾景虎の関東侵攻の際に、長尾景虎の調略により謀反を企てた。武田晴信に捕えられ成敗された。

葛山信貞【かつらやまのぶさだ(15??~1582)】

武田晴信の六男。葛山氏元の養子。別名武田信貞。1571年、後北条家との同盟成立によって本領を回復した。政務は葛山家の枝連衆の御宿友綱が執った。葛山信貞は武田家滅亡時に甲府善光寺で謀殺された。

金丸虎義【かねまるとらよし(15??~15??)】

金丸虎嗣の男。金丸家は武田信重の男、武田光重が金丸右衛門尉を称し、甲州西郡徳永村を領した清和源氏流に始まる。金丸光重に男子なく、一色藤直の男一色藤次が跡を継ぎ金丸伊賀守となった。金丸藤次の孫が金丸虎義。使番十二人衆のひとり。武田晴信の傳役。

金丸昌直【かねまるまさなお(1540~1560)】

金丸虎義の男。通称平三郎。弟に土屋昌次、秋山昌詮、金丸定光、土屋昌恒、金丸正直、秋山親久がいる。武田晴信に奥近習として仕え、横目役を務めた。1560年、落合彦助が奉行に暴言を吐いたためそれを報告し、それが元で落合の母は牢に入れられ、そのまま獄死した。それが落合の恨みを買い落合彦助に謀殺された。

上九一色衆【かみくいししゅう】

甲斐国と駿河国を結ぶ中道往還沿いの上九一色や精進地区などに広く分布する土地に住む辺境武士団。

河窪信実【かわくぼのぶみ(15??~1575)】

武田信虎の十男。通称兵庫介。別名武田信実。1571年、兄武田信是の死後、嫡男河窪信俊がその遺跡を継承すると、武田信是の遺領もあわせて管轄した。1575年「長篠の戦い」では、酒井忠次勢から無警戒の背後への奇襲を受けた河窪信実は、三枝守友と共に鳶ノ巣砦など以外に四つの砦を守備したが兵力不足により劣勢に立たされた。河窪信実は家臣の小宮山信近と共に、酒井忠次麾下の松平伊忠、菅沼定盈などを四度は押し返した。東条松平家忠らの攻撃も撃退した。苦戦が続く中、姥ヶ懐砦、君ヶ伏所砦を壊滅させた松平清宗や本多広孝などの別働軍が増援に加わると、フ防ぎきれず討死した。

河窪信俊【かわくぼのぶとし(1564~1539)】

武田信実の男。別名武田信俊。1571年、叔父松尾信是の死後その家督を相続した。1575年、父河窪信実が「長篠の戦い」で討死すると、その遺領もあわせて継承した。1583年、松平元康に仕えた。

河村秀盛【かわむらひでもり(15??~15??)】

小山田家臣。1533年、宝鏡寺を再興した。

河村房秀【かわむらふさひで(15??~15??)】

河村秀盛の男。1567年、武田晴信は長男武田義信を謀反の理由で自刃させた。国内の動揺を押さえるため、家臣に起請文をださせる。小山田信茂並びに小山田家被官の奥秋加賀守房吉、小林和泉守房実、河村治部左衛門尉房秀、牛田善右衛門尉真綱等に起請文提出させた。

河原村伝兵衛【かわはらむらでんべい(15??~15??)】

山県家臣。1570年「伊豆韮山城の戦い」で山県家勢が苦戦しているところを援護し助けた。武田晴信に甲州金三すくいの褒美を与えられた。

神田大学【かんだだいがく(15??~15??)】

穴山家臣。富士宮浅間神社神官神田伊豆守重光の男。

倉見新九郎【くらみしんくろう(15??~15??)】

都留郡倉見城主。小山田家枝連衆。1529年、小山田信有の母は、武田信虎との対立に備え、今川家の支援を求めるため、遠州に行き柿と対面した。帰路に、小林貞親の屋敷と小林尾張守、倉見新九郎の屋敷にそれぞれ一泊した。倉見家は、相州三浦家の流れをくみ、新九郎は小林和泉を父に、小山田弾正の娘を母に持ち、この倉見家の名跡を継いだ。倉見新九郎の病没後は、河村家の婿に入った倉見新九郎の弟倉見一帯を治めた。

岐秀元伯【ぎしゅうげんぱく(15??~1562)】

甲斐長禅寺住持。臨済宗妙心寺派の禅僧。大宗玄弘に師事してその法嗣となっていたが、甲斐国守護の武田信虎の室である大井夫人に招かれて西郡の長禅寺(古長禅寺)に移った。岐秀は武田信虎の嫡男である武田晴信の養育に貢献した。後に長禅寺は城下街として整備されていた甲府に移す事を許された。

教来石信保【きょうらいしのぶほ(1495~1560)】

武田家臣。「武川十二騎衆」の一旗頭として武田信虎の代から武田家に仕える。一条長広の長男教来石広政からはじまる武田家の枝連衆。

教来石信房【きょうらいしのぶふさ(1515~1575)】

教来石信保の男。別名馬場信春。教来石郷を本貫とし、「武川衆十二騎」の一旗頭として武田信虎の代から武田家に仕えた。一条長広の長男教来石広政からはじまる武田家の枝連衆。1546年、武田晴信に侍大将に抜擢され、馬場虎貞の名跡を嗣ぎ、馬場信春と称した。教来石昌房、教来石氏勝、教来石信義、教来石房勝、教来石昌松、教来石信忠ら教来石昌房、教来石氏勝、教来石信義、教来石房勝、教来石昌松、教来石信忠ら枝連衆を束ねた。諏訪郡、伊那郡での戦いで戦功を挙げた。1546年、武田信虎に馬場虎貞が謀殺されたために名跡が絶えていた、甲斐武田家譜代の名門である馬場家を継ぐことを許された。1561年「第四次川中島の戦い」では、長尾景虎の背後を攻撃する別働隊の指揮を任された。1568年「駿河討伐」に参陣した。1569年「三増峠の戦い」では、先鋒として北条勢と戦い戦功を挙げた。1572年、武田晴信の「西上作戦」にも参陣し、武田晴信から一隊の指揮を任されて只来城を攻略した「三方ヶ原の戦い」でも戦功を挙げた。1573年、武田晴信が病没すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐した。1575年「長篠の戦い」では織田、松平連合軍との決戦では武田勢右翼の中核に配されるが、味方は敵の防御陣を突破できずにいた。数で劣る味方の攻勢が長続きする訳がなく、次第に崩れだした武田家勢の戦線は崩壊。大敗を喫した武田勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた。追撃の織田信長勢と戦い討死した。

教来石信頼【きょうらいしのぶより(1517~1575)】

教来石信保の次男。

工藤昌祐【くどうまさすけ(1520~1582)】

武田信廉家臣(信廉衆)。工藤虎豊の男。父工藤虎豊の死により武田家を出奔した。武田晴信の家督により甲斐に復帰した。復帰後に武田信廉に仕えた。弟工藤祐長(内藤昌豊)。

栗原信友【くりはらのぶとも(1504~1575)】

山梨郡栗原郷領主。栗原信真の男。譜代家老衆百騎持。布施、下条を一族に持つ。栗原政長、栗原忠重、栗原清次、栗原忠正、栗原忠次ら栗原一党を束ね、武田晴信や武田勝頼からも一目を置かれた。甥栗原詮冬に家督を譲った。

栗原昌清【くりはらまさきよ(1505~1552)】

栗原信真の次男。官途は左兵衛尉。武田信虎時代を支えた主要武将。1543年「小田井原の戦い」で戦功をあげた。1550年、上原昌辰とともに「地蔵峠の戦い」に出陣し総崩れ寸前の味方の危機を救った。1552年「常田の戦い」で奮戦するもこのときの負傷した傷がもとで没した。

栗原詮冬【くりはらあきふゆ(1525~1575)】

栗原昌清の男。官途は伊豆守。通称左兵衛尉。1552年「常田の戦い」で父栗原昌清が討死、栗原家の家督を相続した。百騎持の侍隊将として各地を転戦した。白地に黒の枠を染め抜いたかたちを旗印に栗原一党を束ね活躍した。

栗原信盛【くりはらのぶもり(15??~15??)】

栗原詮冬の男。1575年「長篠の戦い」に参陣するが戦わず逃走した。その後は、松平元康に仕えた。

楠浦昌勝【くすうらまさかつ(1485~15??)】

楠浦昌胤の男。

楠浦虎常【くすうらとらつね(1509~1565)】

楠浦昌勝の次男。武田義信家臣(義信衆)。

顕了道快【けんりょうどうかい(1574~1643)】

武田竜芳の男。別名武田信道。1582年、織田信長の「武田家討伐」では実了師慶に伴なわれ信濃国に逃れたが、松平元康が甲斐国を領するに及び、僧となり長延寺に住した。1614年、大久保長安の事件に連座し、顕了は嫡男武田信正とともに伊豆大島に流され、その地で没した。1663年、武田信正は、許されて江戸に戻った。

高坂昌信【こうさかまさのぶ(1527~1578)】

武田晴信家臣。別名春日虎綱。甲斐国八代郡の百姓春日大隅守の男。1542年、父春日大隅守が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴して身寄りが無くなるが、武田晴信の奥近習として召抱えられた。1552年、足軽大将となり、春日弾正忠を名乗った。1553年に信濃佐久郡小諸城代、1556年には同水内郡海津城代となり、川中島衆を率いて長尾景虎に対する最前線にあたる海津領の守将を任された。1575年「長篠の戦い」には参戦せずに海津城を守備していたが、嫡男高坂信達が討死している。1578年、長尾景虎の病没後に発生した「御館の乱」では、武田信豊とともに長尾景勝との取次を努め、甲越同盟の締結に携わった。1578年、海津城において病死した。

高坂昌澄【こうさかまさずみ(1551~15??)】

高坂昌信の長男。武田晴信、武田勝頼に仕えた。1575年、三河遠征では、越後国の長尾景虎の抑えとして出陣できない父の代理として「長篠の戦い」参陣した。籠城する奥平勢の抵抗は頑強で早期陥落を果たせず、織田信長や松平元康の長篠城救援軍到達を許してしまう。武田勝頼は、織田信長、松平元康の後詰勢との決戦を採択。籠城軍への警戒に若干の軍勢を残し、主戦力を設楽原へ移動させた。そこで高坂昌澄は警戒軍として長篠城の西岸、有海村での待機を命ぜられた。織田信長が派遣した酒井忠次率いる連合軍の別働奇襲隊によって長篠城の南岸警備軍(鳶ヶ巣山の守備隊)を壊滅させられてしまう。しかも、攻撃の手を緩めない連合軍奇襲隊は、高坂昌澄の有海村駐屯軍へも襲い掛かった。高坂昌澄は抗戦を示すも兵数で圧し潰され、討死した。

高坂昌元【こうさかまさもと(15??~15??)】

高坂昌信の次男。兄高坂昌澄が1575年「長篠の戦い」で討死した。1578年、父高坂昌信が死去により、高坂家の家督を相続した。武田勝頼からはそのまま海津城代の職を引き継ぐことを許された。長尾家との和平交渉もそのまま引継ぎ、成立に漕ぎ着けた。長尾家との和睦成立後は海津城の守備兵を沼津城へ派遣した。1582年、織田信長による「武田家征伐」が開始されると、高坂昌元は沼津城を放棄して本国である甲斐防衛の為に新府城に馳せ参じるが、戦わずして沼津城を明け渡した事を武田勝頼に疑われ海津城へと帰された。織田信長に降伏し武田家滅亡後に北信濃の領主となった森長可に属した。1582年「本能寺の変」で織田信長が死去し、さらに旧武田家臣団による一揆などで森長可が領地を捨てて逃亡しようとすると高坂昌元は信濃国人衆を母体とした一揆勢を率いてその撤退を阻止した。森長可は高坂昌元の裏切りを深い恨みを持った。高坂昌元は長尾景勝に属したが、真田昌幸や北条氏直らと内通したことが発覚して、長尾景勝によって誅殺された。これにより、高坂家嫡流は滅亡した。1600年、再び北信濃に入った森長可の弟、森忠政によって信濃に残っていた高坂昌元の一族は残らず探し出され磔刑に処された。

高坂昌定【こうさかまささだ(15??~15??)】

高坂昌信の三男。1582年、海津城が落城した後、越後国に逃れて小幡光盛を頼り、その後信濃国下伊那天竜川辺に蟄居した。嫡男高坂昌国は、保科正之に300石で仕えた。

高坂家臣団【こうさかけかしんだん】

駒沢主税助、春日惣次郎、大蔵彦十郎、高坂又九郎、高坂助之進、飯嶋長左衛門、渡部六郎左衛門、川井八兵衛、川井次郎兵衛、外記孫八郎、駒沢新左衛門、金井清八郎、長崎与七郎、平出出羽守、川崎七郎左衛門、綿内市之丞、雨宮忠左衛門、戸田崎江右衛門、塩野市右衛門、広沢九右衛門、小倉五郎右衛門、河野丹後守、小幡因幡守、小幡豊後守。

小杉左近【こすぎさこん(15??~15??)】

武田家臣。1572年、武田晴信は上洛するため躑躅ヶ崎館を出陣した。武田晴信は山県昌景に兵5,000余りを三河国に、秋山信友に伊那衆兵2,000余りを美濃国へと派遣した。北条氏政からの援軍も合わせた総勢30,000余りの軍勢で三河国に侵攻した。松平元康は内藤信成、本多忠勝を別働隊として出陣せ、松平元康も兵3,000余りを率いて浜松城を出陣した。内藤隊、本多忠勝隊と武田勢が遭遇した。本多忠勝は、本隊と内藤隊を逃がす為、自ら殿を引き受けた。これを見た小杉左近は「家康ニ過ギタルモノガ二ツアリ、唐ノ頭ニ本多平八」と称した。

小菅信景【こすげのぶかげ(15??~15??)】

小菅城主。武田晴信、武田勝頼の足軽大将。武田家滅亡後、嫡男小菅忠元は織田信忠に殺された。小菅信有、小菅信久、小菅九兵衛などは、郡内へ侵攻した北条家を撃退したので、松平元康の馬廻衆とになり、甲斐国に領地を貰った。小菅信景の家臣で小菅七騎衆といわれた小泉、亀井、青柳の諸家は帰農した。  

小菅忠元【こすげただもと(15??~1582)】

小菅信景の男。山県家臣(山県衆)。通称五郎兵衛。1571年、山県昌景とともに三河国に入り、山県衆が家康方の酒井左衛門尉衆とせりあったとき、槍下の功名をし、のち足軽大将に昇進した。1575年「長篠の戦い」後、山県昌景の嫡男山県昌満の陣代を勤めた。1582年、小山田信茂に組みして、武田勝頼に背いた疑いから織田信忠に謀殺された。

小林道光【こばやしみちみつ(1470~1535)】

小山田家臣。小林尾張守家。河口湖舟津に居館を構えていた。1466年、小林和泉家より分家した。甲斐加藤家一族加藤吉信を祖とされる。小山田信有の重臣。1515年、今川氏親の支援をえた大井信達と戦い大敗した武田信虎は 恵林寺に一時逃げるまでに窮地に立たされて、今川氏親が甲斐を侵攻していた。 1517年、小林道光が吉田城を落したことで、今川氏親の退路を断ち、さらに駿河国でも問題を抱えていた今川氏親は撤退を余儀なくされた。和睦を提案された武田信虎も応じ、今川氏親勢は駿河国へ撤兵した。 大井信達も今川氏親が撤退した以上は反抗をつづけられないとし降伏した。

小林昌喜【こばやしまさき(1490~1550)】

小林道光の男。小山田家枝連衆。1516年、吉田山城へ出陣し今川氏親勢と激突した。1541年、北条氏綱が病没後したことで、それまで争いの絶えなかった後北条家との関係改善を行った。1544年、武田晴信は小山田家臣小林貞親を小田原城へ遣わせた。

小林貞親【こばやしさだちか(15??~15??)】

小山田家臣。小林昌喜の男。小林和泉家。小林和泉家と小山田弾正家の縁組により小山田家の枝連衆となった。

小林房実【こばやしふさみ(15??~1529)】

小林貞親の男。

小林宮内助【こばやしくない(15??~15??)】

小林房実の男。1560年、小山田家の陣代として信濃国各地を転戦した。

駒井政武【こまいまさたけ(1481~1561)】

要害山城主。武田家臣。通称高白斎。駒井家は甲斐源家武田家の庶流。武田信虎の軍師であり側近であり右筆でもあった。政治に長け、外交官としても活躍した。さらに「伊那侵攻戦」などにも活躍し、武将としても武田家を支えている。武田晴信が家督を相続してからは、内外両面における多様な活動が見られる。1542年「諏訪郡攻め」で、高遠頼継攻略の先陣を務めた。藤沢頼親が籠城する信濃国伊那郡福与城を陥落させた。降伏した信濃国衆との取次や調略にも携わり、村上義清との和睦交渉を行ったが、これは実現していない。三条西実澄、四辻実遠、冷泉為和ら公卿の接待も行い、対朝廷外交にも携わっている。1550年、武田晴信名代として今川義元夫人の見舞、葬儀に赴いた。1552年、武田義信と今川義元の娘との縁談に奔走し約定を取り付け、三国同盟の成立にも携わった。『高白斎記』の著者。

駒井昌直【こまいまさなお(1511~1595)】

駒井政武の男。父駒井政武と共に伊那郡地方を転戦した。また政治や外交にも活躍した。嫡男駒井親直や次男駒井昌時らとともに武田晴信、武田勝頼の二代に仕えた。

駒井政直【こまいまさたけ(1542~1595)】

駒井政武の次男。深澤城主城代。官途は右京亮。1582年、武田家滅亡後、松平元康に仕え、榊原康政の麾下に属した。

五味貞氏【ごみさだうじ(15??~1575)】

河窪信実麾下の浪人衆。1575年「長篠の戦い」で浪人衆の組頭として、鳶ヶ巣砦群のひとつ中山砦に名和無理之助とともに布陣した。酒井忠次らの奇襲攻撃を受け討死した。

小宮山信近【こみやまのぶちか(15??~1575)】

河窪信実家臣。通称隼人助。小宮山信近は河窪信実とともに善戦し、酒井忠次の麾下の松平伊忠や菅沼定盈などを相手に三度も押し返した。東条松平家勢に防衛線を突破されると乱戦に陥った。そして、君ケ臥床、姥ガ懐などの支砦を陥落させた松平清宗、本多広孝などが加勢に加わり、鳶ヶ巣山砦も陥落した。河窪信実は松平家忠の家臣平岩権太夫に、小宮山信近は菅沼定盈の家臣小坂井弥兵衛に討取られた。

小宮山昌友【こみやままさとも(1519~1572)】

武田家臣。佐久進攻で飫富虎昌や上原昌辰とともに活躍した。永禄年間は諏訪城代となり、南信濃の守備隊長をつとめた。高島城代や松井田城代もつとめた。武田晴信から岩村田を与えられている。1572年、武田晴信上洛戦の途次で遠江国二俣城攻めのとき、教来石信房(馬場信房)と先陣を争って城内になだれ込み、突破口を開くが討死した。

小見山茂左衛門【こみやましげざえざえもん(15??~15??)】

小山田信茂家臣。古屋源之助を組頭に寄子五人を持つ小頭。畑を二十町歩、山林を三十町歩を持つ小地主。父小見山茂左衛門は「上田原の戦い」のとき、村上義清勢に追われて敗走中に討死した。寄子の黍畑与右衛門は「川中島の戦い」で甘粕近江守の家臣風間助左衛門を討取る手柄を上げ恩賞を得た。※「きびだんご侍」by新田次郎。

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【さ】

才間信綱【さいまのぶつな(15??~1548)】

武田家臣。官途河内守。武田晴信に仕えた。1548年「上田原の戦い」で村上義清と交戦した際に参陣した。村上勢の猛攻により甘利虎泰、初鹿根伝右衛門らとともに討死した。

西之海八人衆【さいのうみはちにんしゅう】

武田家臣。本栖城の在番と材木等の奉行を勤めて冨士山麓周辺の警備を行う。小林九郎左衛門尉、小林民部左衛門尉、渡辺左近丞、渡辺清左衛門尉、渡辺七郎左衛門尉、渡辺右近丞、渡辺縫殿右衛門尉、渡辺弥右衛門尉。

三枝守綱【さえぐさもりつな(1491~1564)】

石原守種の次男。官途は丹波守。別名石原守綱。三枝家は元々甲斐旧族で、武田信虎が同族の石原守綱を入れて再興した。

三枝虎吉【さえぐさちらきち(1511~1584)】

武田信虎家臣。三枝守綱の男。官途は土佐守。室は永井豊後守の娘。三枝家は武田氏譜代家老の山県昌景を寄親とし三枝虎吉嫡男の三枝昌貞は山県昌景の娘婿になった。1564年「上野国侵攻」「駿河侵攻」後には駿河国田中城に在城した。嫡男三枝昌貞は武田晴信側近として仕えているが「長篠の戦い」で討死した。三枝昌貞嫡男の三枝守吉は幼年であったため、叔父三枝昌吉が陣代を務めた。三枝虎吉は武田家滅亡後まで存命し織田信長の「武田家征伐」のころは依田信蕃と駿河田中城を守備していた。武田家滅亡後は甲斐国を確保した松平元康に仕え、知行宛行状において工藤喜盛、市川元松、石原昌明らと初期の甲斐四奉行に就任した。

三枝守友【さえぐさ もりとも(1537~1575)】

三枝虎吉の男。駿河国侵攻の「花沢城の戦い」で一番槍の戦功を挙げた武田晴信から感状を、山県昌景から名刀「吉光」を与えられるほどに賞賛された。1575年「長篠の戦い」では、河窪信実を主将とした長篠城を監視する鳶ノ巣山の砦を守備する別働隊に配属された。そこでの三枝守友は、鳶ノ巣山の山麓に当たる「姥が懐」という所に設けられた支砦の守備を弟たちと担当していた。河窪信実と同様に主戦場から離れていたが、織田信長の命で送り出された酒井忠次が率いる織田家、松平家の別働隊による襲撃を受け討死した。

三枝昌吉【さえぐさまさよし(1550~1624)】

三枝虎吉の次男。はじめ奥近習、のち使番十二人衆のひとり、百足差物衆。1582年、織田信長の「武田家討伐」後は松平元康に仕えた。

三枝家臣団【さえぐさかしんだん】

三枝守義、三枝守光、草刈隼人助、宍戸大膳。

佐野泰光【さのやすみつ(15??~15??)】

穴山信君家臣(穴山衆)。穴山信君は佐野泰光に駿河宍原より夫馬を徴し、荷物を運送させた。

塩津治部【しおつじぶ(15??~15??)】

穴山信君家臣(穴山衆)。

志村光家【(しむらみついえ15??~15??)】

山県家臣(山県衆)。1575年「長篠の戦い」で、討死した山県昌景の頸を甲州に持ち帰った。

下山信正【しもやまのぶまさ(15??~15??)】

穴山信君家臣。下山家は南部地方の名家で、穴山家の家臣団にあって別格的家臣。領内の仕置きについて相談に応じた。武田家とは無役地頭として出仕した。

曽根昌長【そねまさなが(1483~1540)】

武田信昌の家臣。武田信昌、武田信縄、武田信虎の三代に仕えた。武田信虎の代になっても重臣として仕え奉行衆に名を連ねた。武田信虎の甲斐統一のため、甲斐各地を転戦し武田信虎を支えた。

曽根縄長【そねつななが(1503~1531)】

曽根昌長の男。下曽根経家の跡を嗣いだ。武田信虎に仕え、今川家や後北条家、村上家と戦い甲斐各地を転戦し活躍した。1521年、武田晴信が生まれると蟇目役に抜擢され見事につとめた。

曽根虎長【そねとらなが(1504~1560)】

曽根縄長の男。1531年、父曽根縄長が討死したため、曽根家の家督を相続した。「曽根三虎(曽根兄弟)」のひとり。武田信虎追放後は武田晴信に仕えた。曽根一党を束ね武田信虎に従い甲斐各地を転戦。信濃侵攻戦でも活躍。早い時期から家督を子の曽根昌世に譲って隠居している。1561年、西上野侵攻においては跡部勝資や原昌胤、土屋昌続らと西上野国衆の取次を務めており、曽根虎長は安中家との取次を担当した。

曽根虎盛【そねとらもり(1505~1565)】

曽根昌長の三男。武田義信家臣(義信衆)。官途は周防守。「曽根三虎(曽根兄弟)」のひとり。兄曽根虎長と同じく武田信虎から一字「虎」を賜る。長兄曽根縄長死後は次兄曽根虎長を補佐し、武田信虎に従い甲斐各地を転戦。今川家や後北条家との戦いで活躍。1564年、長坂昌国らと談合し、武田義信の逆心を招いた。1565年「武田義信事件」に連座して長坂昌国と共に自刃を命じられた。

曽根虎吉【そねとらよし(1507~1582)】

曽根昌長の四男。「曽根三虎(曽根兄弟)」のひとり。兄曽根縄長死後は次兄曽根虎長に従い武田晴信の「信濃国侵攻戦」などに参陣し戦功を挙げた。

曽根昌世【そねただよ(15??~15??)】

曽根虎長の男。官途は下野守。武田晴信の奥近習衆を経て足軽大将となり、騎馬15騎、足軽30人を与えられた。真田昌幸とともに愛され、武田晴信から「我が両眼の如」と評された。武田義信による「武田義信事件」の際、武田義信の乳人子であった曽根昌世の嫡男曽根周防守も死罪となったため、連座して一時的に蟄居した。1569年、北条氏康との「三増峠の戦い」では、退却する武田勢の殿軍を務めていた浅利信種が討死した後、軍監であった曽根昌世が部隊の指揮を引継ぎ、撤退を見事に成功させている。1570年、駿河「花沢城の戦い」で二番槍。武田晴信の病没後は武田勝頼に仕えた。1575年「長篠の戦い」に参陣した。1582年、武田勝頼が織田信長、松平元康の連合軍に攻められて滅亡すると、松平家に仕えた。1582年「本能寺の変」による織田信長の死後、松平元康は一揆勢の蜂起で空白地となっていた甲斐国へ侵攻したが、曽根昌世もこれに参陣し活躍した。またこの時に同じく武田旧臣である駒井政直などと共に武田遺臣を松平元康に味方させるべく起請文のまとめ役となり、対後北条家戦に大きく貢献した。1582年「天正壬午の乱」後、興国寺城主となった。

曽根信利【そねのぶとし(1489~1540)】

曽根信友の男。信濃侵攻戦で各地を転戦し活躍した。下曽根家のなかでも曽根信利、曽根政利父子は武田信虎、武田晴信からの信頼も厚く、足軽大将として旗本武者奉行もつとめた。

曽根政利【そねまさとし(1518~1583)】

曽根信利の男。今井信甫が『相州』と称されていたのに並び、曽根政利は『羽州』と称され、武田家を代表する武将。足軽大将として旗本武者奉行もつとめる。武田勝頼の代になり小諸城代をつとめるが、武田家の衰退のなかで織田信長や松平元康に内通し、武田信繁の次男武田信豊を謀殺した。

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【た】

大仏庄左衛門【だいぶつしょうざえもん(15??~1561)】

山本晴幸家臣。山本晴幸と同郷元三河国浪人。諫早佐五郎とともに山本隊の足軽組頭。1561年「第四次川中島の戦い」で山本勘助とともに討死した。※「山本勘助」by南原幹雄。

武田信虎【たけだのぶとら(1494~1575)】

山梨郡躑躅ヶ崎館主。武田信縄の男。室町幕府甲斐守護職。官途は大膳大夫。1507年家督相続。父武田信縄と弟油川信恵が家督を狙い争いが絶えなかったが、武田信虎は1508年に油川信恵を倒した。次いで都留郡の国人領主小山田信有と戦火を交えるが、姉を小山田信有に嫁がせて和睦して,国内の安定を図った。1508年に石和から躑躅ケ崎に居館を移し、家臣を城下に集めて現在の甲府の基を築いた。1532年、反対勢力の有力国人も一掃し、甲斐統一を成し遂げている。1527年、信濃佐久郡へ出兵。1540年、今川家の家督争いに関与して駿河に出兵,娘を今川義元に嫁がせている。1544年、別の娘を諏訪頼重の室とし同盟を図った。1550年、武田信虎の専制化を恐れる家臣たちは嫡男武田晴信を擁立、武田信虎を駿河国に追放した。武田信虎は暴君のイメージがあるが、有力国人衆が割拠して内乱状態であった甲斐国を統一、信濃国の村上家、諏訪家、小笠原等の諸家との同盟、古府中の城下街を建設するなど内政、外交に強い政治力を示し、武田家の基盤を築いた人物としてもう少し高い評価を得ても良いと思う。

武田晴信【たけだはるのぶ(1521~1573)】

武田信虎の男。官途は大膳大夫。別名武田信玄。室は扇谷上杉朝興の娘、継室は三条の方、側室は諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人。長禅寺で岐秀元伯の教えを受けて成長した。扇谷上杉朝興の娘を室にするが死別した。1536年、室町幕府将軍足利義晴の諱を得て元服し、京都の公家三条公頼の娘を継室とする。甘利虎泰、板垣信方の両職の支持えを得て、父武田信虎を駿河国に追放後武田家の家督を相続した。同盟関係にあった諏訪郡主諏訪頼重を滅ぼし、佐久郡、伊那方面に攻勢をかけた。北信濃の村上義清、中信濃の小笠原家と対立「砥石城の戦い」で村上義清に敗れるも「塩尻峠の戦い」で小笠原家を撃破した。三国同盟を武田、今川、北条家と締結、北信濃国に侵入する長尾景虎に対抗した。五回に渡る「川中島の戦い」を経て北信濃を把握、木曾地方の木曾家、東信濃地方の仁科家を制圧すると、飛騨国、上野国に侵攻。1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に討たれると、駿河国侵攻を画策すると、今川義元の娘を室とする嫡子武田義信と対立するようになる。1565年、西に領土を接する織田信長の養女を四男武田勝頼に迎えた。1566年、上野国箕輪城主長野家を滅ぼし、西上野を支配下に置いた。1565年、武田義信を幽閉して、武田家中の武田義信一派粛清した。武田家臣団が動揺する中、家臣達から起請文を徴し、手堅く内部の結束を強化した。今川氏真と断交して娘を織田信長の子織田信忠に配し、織田信長、松平元康と結んで、遠江国を松平家と二分した。1566年、駿河国を占領して、今川氏真を遠江国へ追った。1567年、伊豆国へ攻め入って北条氏政と対峙した。北条氏政は、長尾家と「越相同盟」を締結、武田家と対抗した。北の長尾景虎と南の北条氏政から邀撃を受けるが、越後国の本庄家や越中の一向一揆を煽動し、長尾家を牽制した。小田原城を攻め、追撃する北条氏政勢を「三増峠の戦い」で撃破した。1571年、上野国を巡り、長尾景虎と北条氏政が対立すると、再び北条家と手を結び、足利将軍家、本願寺、一向一揆、浅井、朝倉、毛利家とともに織田信長包囲網を形成した。1573年、病を押して遠江国へ出陣、松平元康、織田信長連合軍を「三方ヶ原の戦い」で破った。1574年、三河国野田城を包囲するが、病が悪化し甲府へ帰陣の途中、信濃国駒場で生涯を終えた。

武田信繁【たけだのぶしげ(1525~1561)】

武田信虎の四男。官途は左馬助。通称古典厩。別名吉田信繁。室は望月盛昌の娘。1541年、武田晴信が父武田信虎を駿河国の今川家追放した。原因は、武田信繁は幼少期から武田信虎に寵愛され、信虎は嫡男である晴信を廃して信繁に家督を譲ろうとしていた為という。1551年、武田信繁は武田家庶流の吉田家を相続した。武田晴信は信濃侵攻を本格化させ、村上義清をはじめとする信濃国衆や越後国の長尾景虎と対立。五度に渡る「川中島の戦い」が勃発する。武田信繁はこの時期において武田晴信の補佐役として信濃経略に従事している。1553年、甲斐衆今井石見守に対し落城した信濃国苅屋原城主任命を通達した。攻略した村上方の葛尾城に在城していた秋山虎繁に対しても上位を通達している。武田家は征服した信濃諸族に対し一族を養子にし懐柔させる方策を取っているが、武田信繁の男も信濃佐久郡の望月家の養子となった。1561年「第四次川中島の戦い」で柿崎景家勢と戦い討死した。

武田義信【たけだよしのぶ(1538~1567)】

武田晴信の男。通称太郎。傅役は飯富虎昌。室は今川義元の娘(嶺松院)。1554年、初陣、南信濃知久家攻略。1561年「第四次川中島の合戦」において敗走、武田信繁討死の原因を作った。1558年、武田晴信が信濃守護に補任された際には「准三管領」としての待遇を受けた。1565年、武田晴信暗殺を企てた謀反にかかわったとされ甲府東光寺に幽閉された。1567年、東光寺で謀殺された。武田義信の室は駿河へ帰国した。

武田信親【たけだのぶちか(1541~1582)】

武田晴信次男。別名海野信親。盲目のため出家。武田義信の弟。塔原家の養子となった。

武田信之【たけだのぶゆき(1543~15??)】

武田晴信の三男。別名西保三郎。1553年、夭折した。

武田勝頼【たけだかつより(1546~1582)】

武田晴信四男。官途は大膳大夫。別名四郎。別名諏訪勝頼。1562年、母の実家諏方家の家督を相続諏訪四郎勝頼と称し高遠城主となった。1565年、織田信長の養女遠山直廉の娘を室に迎えた。1565年、兄武田義信の自刃によって武田晴信の嫡男となった。1571年、躑躅ヶ崎館に移り名字を諏訪四郎勝頼から武田勝頼に改めた。1573年、武田晴信の病没により武田家の家督を相続したが、武田信勝が元服するまでの陣代という形を取った。1577年、織田信長、松平元康連合軍と「長篠の戦い」において大敗を喫した。1580年、北条氏政の妹を後妻に迎えたが、1583年「越後御館の乱」で長尾景勝と同盟したため、織田信長、松平元康の他に北条氏政とも敵対することになり、東西からの脅威に晒されることになった。1581年、韮崎に新府城を築城し、躑躅ヶ崎館より未完成の新府城に移転した。1582年、織田信長の「武田家討伐」によって討死した。

武田信清【たけだのぶきよ(1560~1642)】

武田晴信の七男。通称大勝。室は甲府長延寺実了の娘、継室は平田常範の娘。母は信濃小県郡の禰津氏の娘である禰津御寮人。1567年、巨摩郡加賀美の法善寺に入り、玄竜と称した。後に兄武田勝頼の命令で還俗し、甲斐源氏の旧族である安田家の名跡を継承し安田三郎信清と称して、海野城の城主となった。1582年、武田家滅亡後、長尾景勝の室となっていた異母姉である菊姫の縁を頼って長尾家に寄寓し、上杉家枝連衆、高家衆筆頭として3300石を領した。1614年「大久保長安の事件」で幕府から嫌疑を受けるも、事実無しとされ帰領した。

武田信勝【たけだのぶかつ(1567~1582)】

武田勝頼の男。1579年、武田勝頼らと共に討死した。

武田勝親【たけだかつちか(1572~1584)】

武田勝頼の次男。通称勝千代。1582年、父武田勝頼や異母兄の武田信勝は「天目山の戦い」で自刃したが、武田勝親は家臣小宮山友晴とともに落延び池田恒興にかくまわれた。それから数年後には病没した。

武田信友【たけだのぶとも(15??~1582)】

武田信虎の五男。武田信虎が駿河追放後に駿河で生まれた。今川家に仕えた。1568年、武田晴信の駿河侵攻が始まると今川家から離反してこれに従った。1577年「長篠の戦い」の後に隠遁した。1582年、武田家滅亡時に織田信忠によって斬首された。

武田信堯【たけだのぶたか(1554~1582)】

武田信友の男。駿府城代。1581年、織田家の侵攻により駿河国より撤退。1582年、織田信忠によって甲斐国善光寺で斬首された。

武田盛信【たけだもりのぶ(1557~1582)】

武田晴信の五男。官途は薩摩守。通称五郎。別名仁科盛信。室は武田信繁の娘、武田信廉の娘、仁科盛政の娘、福知新右衛門の娘。1532年、武田晴信は「信濃侵攻」を本格化し、信濃国人衆の被官化が進められていた。1552年、安曇郡を領する仁科家は、武田方に帰属し、安曇郡は仁科盛政支配期を経て直轄領化された。武田晴信の信濃支配では、征服した信濃名族と婚姻関係を結び親族衆に列することで懐柔させることが行われていた。仁科盛信も父武田晴信の意向で仁科家の名跡を相続した。1573年、仁科家当主として諸役免許や知行安堵を行っており、武田領国と敵対する越後国との国境警備を指揮している。武田晴信の死後は当主となった異母兄である武田勝頼に仕え、甲越同盟の締結後にも国境警備を務めた。1581年、信濃国高遠城の守備を任された。1582年、織田信長の命により織田軍による武田攻めが始まると、兵3,000余りが籠もる高遠城は織田信忠率いる50,000余りの大軍に包囲された。織田信忠は仁科盛信に降伏を勧告したが、仁科盛信は勧告を拒否した。降伏の使いに来た僧侶の耳をそぎ落として追い払った。高遠城は織田軍の猛攻に晒され、武田盛信は奮闘した後、約500名余りの家臣も共に討死にして高遠城は陥落した。

武田信豊【たけだのぶとよ(1549~1582)】

武田信繁の次男。武田信豊の二歳年長の庶兄武田信頼は信濃国望月家の名跡を継いで親類衆となった。武田信豊の母が正室であったため嫡男として扱われていた。1561年「第四次川中島の戦い」において父武田信繁が討死し、武田信豊は後を継いで親族衆に列する。望月信頼が「川中島の戦い」で戦病死してたので、武田信繁の三男武田(望月)信永が継承している。1567年、駿河侵攻を巡り、武田晴信と嫡男武田義信が対立、武田義信が廃嫡される「義信事件」が起こる。1571年、武田信豊にとって従兄にあたる諏訪勝頼(武田勝頼)が世子と定められた。武田信豊は小諸城を中心として東信濃経営を行った。1575年「長篠の戦い」では左翼四番手として出陣したものの、武田方の劣勢を察して早々に退却をしている。山県昌景、馬場等宿将が多数討死する中、親族衆を処罰することは、武田家の弱体化に繋がり、実行することが出来なかった。長尾景虎の死後に起きた「御館の乱」では、はじめ長尾三郎景虎支援を目的に信越国境へ派遣された。「御館の乱」後、長尾景勝との甲越同盟では取次役を務めた。1581年、武田勝頼は穴山信君と約束していた穴山信君の嫡男穴山勝千代と次女の婚約を破棄し、武田信豊の嫡男武田雅楽と婚約させた。1582年、木曾谷領主木曾義昌が織田信長へ内通して武田家に反旗を翻した。武田勝頼は武田信豊を将とする討伐軍を木曾谷へ派遣するが、武田信豊は織田信忠の援軍を得た木曾によって鳥居峠にて敗北する。武田信豊は家臣20騎程と共に小諸城へ逃れて再起を図った。しかし城代の下曽根信恒に叛かれ、二の丸に火を掛けられ嫡男や生母、家臣とともに自刃した。

武田信廉【たけだのぶかど(1532~1582)】

武田信虎の六男。官途は刑部少輔。武田晴信死後に出家して逍遥軒信綱と称した。1570年内藤昌秀に代わって信濃国深志城代、1579年には武田勝頼に代わって信濃高遠城主を務めた。1580年からは信濃大島城に在城した。1581年織田家の信濃侵攻の際には籠城策を取るための兵力が集まらず甲斐に退却。織田信忠によって斬首された。

武田信澄【たけだのぶずみ(1560~1576)】

武田信廉の男。通称平太郎。

武田信友【たけだのぶとも(15??~15??)】

武田信虎の十一男。武田信友は甲斐国へ行くこともなく駿河国で今川家臣団に加わり今川義元、今川氏真に仕えた。1560年「桶狭間の戦い:で今川義元が討死後に武田晴信の外交方針が南進路線に転じると、葛山氏元や瀬名信実とともに兄武田晴信に属した。今川氏真によって武田信虎が駿河国から追放されると、武田信友は甲斐国に落延びた。1568年「駿河国侵攻」にも呼応した。武田家の駿河国支配では駿府城支配を任され、武田晴信の死後も武田勝頼に仕えた。1582年、織田信長による「武田家征伐」が開始され、織田信忠が甲府を占領すると武田信友は捕縛され処刑された。

武田家奥近習六人衆【たけだけおくきんじゅうろくにんしゅう】

土屋右衛門尉、三枝勘解由、曽根内匠、武藤喜兵衛(真田昌幸)、甘利左衛門尉、長坂源五郎。※・武田晴信の側近であり、将来の幹部候補となるべき人材として活動した六名の武将。

武田家二十四将【たけだけにじゅうよんしょう】

秋山信友、穴山信君、甘利虎泰、板垣信方、一条信龍、小幡虎盛、小幡昌盛、飯富虎昌、小山田信茂、高坂昌信、三枝守友、真田信綱、真田幸隆、武田信繁、武田信廉、多田満頼、土屋昌次、内藤昌豊、馬場信春、原虎胤、原昌胤、山県昌景、山本勘助、横田高松。※資料によって異なります。

多田常昌【ただつねまさ(1480~1540)】

武田信昌の家臣。武田信虎に仕え諏訪家との戦いで戦功を挙げた。諏訪郡方面の抑えとして抜擢され築城された先達城主をつとめた。

多田満頼【ただみつより(1501~1563)】

多田常昌の男。武田足軽大将五人衆のひとり。生涯で全身二十七ヶ所に疵を負った。虚空蔵山城城番時代に鬼をも斬ったという剛の者。虚空蔵山と言う地名は虚空蔵菩薩を祀ったことに由来する。信州岩鼻和合城が有力だが、虚空蔵山付近一帯を示したものとする説もある。平賀源心との合戦では横田高松と共に八度も槍を入れたという。夜襲戦を得意とし、夜襲の采配、多田満頼の右に出る者なしと評された。1540年、甲州八ヶ岳山麓での小荒間合戦で村上義清勢を迎撃し戦功を挙げた。

多田昌治【ただまさはる(1521~1575)】

多田満頼の男。として弟多田昌頼、多田昌俊ら多田一党をよく束ね、信濃侵攻戦で各地を転戦した。1575年「長篠の戦い」で討死した。

多田昌勝【ただまさかつ(15??~1582)】

多田昌治の男。1582年、織田信長に捕らえられるが仕官を断り自刃した。多田昌俊の嫡男多田昌綱は「天目山の戦い」で討死した。

津金衆【つかねしゅう】

甲斐国北巨摩郡と信濃国南佐久郡との国境地帯に所領を持つ辺境武士団。在名をとって津金衆と称した。津金家からは、小尾、比志、小池、箕輪、村山、八巻、清水、井出、鷹見沢、河上等の諸家が分出した。津金衆の中心的人物は津金胤久、小池信胤、小尾祐光等である。小池家は津金家の分流だが、小尾家は塩川上流域に栄えた一族で、武田家の庶流。

津金胤時【つかねたねとき(1511~1575)】

津金胤秀の男。長男小尾祐光や次男津金胤久、三男津金久次、四男津金久清ら津金一党を束ね、武田信虎、武田晴信に仕え各地を転戦する。小尾、比志、小池、跡部、箕輪、村山、八巻、清水、井出、鷹見沢、河上の諸家を統率した。

辻盛昌【つじもりまさ(1532~1575)】

山県家臣(山県衆)。辻六郎兵衛の男。富士宮での北条家との合戦で、猪子才蔵とともに先頭を切って進み、半月の指物をした武士を討取り、木戸を破った。また、遠州高天神城では、槍下の功名をし、膝頭を弓で射られたが、その矢を抜かずに敵の頸をとって三郎兵衛の所に持ってきた。「味方が戻ってこないうちに、もう帰ってきたのか、この馬鹿者!」と三郎兵衛に怒鳴られたので、矢を抜いて駆けて行き、再度の功名をした。

辻盛信【つじもりのぶ(1552~1575)】

辻盛昌の男。

土屋昌次【つちやまさつぐ(1544~1575)】

金丸虎義の次男。山県昌景や原昌胤、跡部勝資や曽根虎長、甘利信忠らとともに取次を務め徴収を行っている。以降は武田晴信側近、奉行衆としての活動した。1568年、今川領国への侵攻「駿河侵攻」に際しては武田晴信側近として戦時禁制や朱印状奏者を独占的に務めており駿河富士山本宮浅間大社や岡部家、朝倉家、狩野家、松木家など駿河国衆との取次を務めた。1561年「西上野侵攻」において領国化された西上野においては跡部勝資、原昌胤、曽根虎長とともに上野国衆との取次を務め、土屋昌続は浦野家や和田家を担当している。信濃領国においては玉井家、市川家、海野家ら東信国衆との取次を担当している。対外的には太田家や梶原家、里見家など関東方面の外交を担当している。土屋昌続は三枝守友、曽根昌世、武藤喜兵衛(真田昌幸)、甘利昌忠、長坂昌国らと「奥近習六人衆」のひとりとして武田晴信の傍近くに仕えた。1561年「第四次川中島の戦い」では、一時越後長尾勢の攻勢により武田晴信本陣まで危機に晒されたが、武田晴信の傍を離れずに越後長尾勢に応戦し、この戦功により侍大将に抜擢された。「三増峠の戦い」で箕輪城代浅利信種が討死すると、浅利同心衆も相備えとして付けられると同時に甲斐名門の土屋家を継ぎ、「三方ヶ原の戦い」では、松平方の鳥居信之と一騎打ちで頸級をあげた。1575年「長篠の戦い」では、敵の三重柵の二重まで突破したところで一斉射撃を受け討死した。 

土屋家臣団【つちやけかしんだん】

脇又市、小尾監物、一宮左太夫照信、土屋二郎右衛門、那須野喜兵衛、関甚八郎、辻弥宗(総)、今村藤蔵、青柳庄助、津木善蔵、市之瀬右衛門。

富田郷左衛門【とみたごうざえもん(15??~15??)】

武田の忍び衆。三ツ者の中心的人物。山伏。三ツ者は商人などに変装し、他国の情勢を探った。

土橋大蔵丞【どばしおおくらじょう(15??~15??)】

九一色衆十七騎衆。九一色衆のひとりとして、渡辺因獄佑、内藤雅明などとともに主に駿河国境警備などにあたっていたり、また諸商売特権を武田家から請け負った。

鳶二位【とびにい(15??~15??)】

山県家臣(山県衆)。鳶大弐の弟。もと根来法師。1559年「三増峠の戦い」のおり、旗からの検使、武藤喜兵衛が馬場美濃の備えで一番槍をしたので、二番槍は嫌だとして槍をすて、刀を抜いて敵武者八人を倒した。臑を払い、あるいは首をたたいてその働きは抜群のものであった。

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【な】

内藤雅明【ないとうまさあき(15??~15??)】

武田家臣。官途は肥前守。九一色衆十七騎衆のひとりとして、渡辺因獄佑、土橋大蔵丞などとともに主に駿河国境警備などにあたっていたり、また諸商売特権を武田家から請け負った。九一色衆は、甲斐と駿河を結ぶ中道往還沿いの上九一色や精進地区などに広く分布する土地に住む武士団です。他の武士集団としては武川衆、御岳衆、津金衆などがあった。

内藤雅綱【ないとうまさつな(15??~15??)】

内藤雅明の男。通称孫三郎。

内藤虎資【ないとうとらすけ(1495~1537)】

内藤昌盈の男。1537年、武田信虎の駿河出兵について直諫したことで、工藤虎豊とともに誅殺された。

内藤昌豊【ないとうまさとよ(1522~1575)】

工藤虎豊の次男。工藤虎豊が武田信虎の勘気に触れて内藤虎資と共に誅殺されたため、難を逃れて兄工藤昌祐と共に武田家から出奔し、諸国を流浪した。武田信虎が武田晴信によって追放された。1546年、工藤家の旧領と家督を継ぐことを許された。1561年「第四次川中島の戦い」では、長尾勢の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍した。1566年「箕輪城攻め」で抜群の戦功を挙げたため、箕輪城代に任じられ、上野方面経営の指揮を執った。1572年の西上作戦にも参加し「三方ヶ原の戦い」で武功を挙げた。1575年「長篠の戦い」で討死した。

内藤昌月【ないとうまさあき(1550~1588)】

保科正俊の三男。内藤昌豊の養子。1575年「長篠の戦い」で内藤昌豊が討死すると、内藤家の家督を相続した。内藤昌豊が務めていた上野箕輪城代などの職は武田勝頼に取り上げられた。内藤昌月は武田勝頼の側近として仕えて寵愛された。1579年、箕輪城代に任命され、大和守を称した。1582年、織田信長の武田征伐で武田勝頼が自刃すると織田信長に仕えた。1582年「本能寺の変」で織田信長が横去し、直後に旧武田領を任されていた滝川一益も敗走すると、北条氏直の家臣として仕えた。後北条家では他国衆として遇された。

内藤家臣団【ないとうけかしんだん】

道寺久助、花形民部左衛門、木部駿河守、町田兵庫(待田兵庫助)、神名図書、寺尾豊後守、矢嶋久左衛門、土屋善太夫、台原勘五良、服部又右衛門、高須源之丞、大原四郎左衛門、井上半左衛門。

長坂十左衛門【ながさかじゅうさえもん(15??~15??)】

山県家臣(山県衆)。1571年「吉田城攻め」で戦功を挙げた。金の制札の指物で名高い豪の者。このような時代、武辺者によくある独身主義で、死後子もなく名跡を立てる縁者もいなかった。その金の指物には武田晴信以来の「其徐如林、不動如山」という武田晴信の好んだ孫子の語句に「天下無双長坂十左衛門」と記してあった。

長坂光堅【ながさかみつかた(1513~1582)】

武田勝頼家臣(勝頼衆)。官途は筑前守。通称釣閑斎。1543年、諏訪郡代となった板垣信方を補佐する上原在城衆となり上原城に入城した。1548年「上田原の戦い」において板垣信方が討死すると後任の諏訪郡代となった。1549年、諏訪郡支配の新拠点となる高島城へ入城した。1553年、跡部信秋らと牧之島の国衆香坂家のもとへ派遣された。1554年、遠江国の国衆天野景泰への使者を務めた。1557年「第三次川中島の戦い」においては、日向虎頭(大和守)とともに越後国の長尾景虎の侵攻に備えた北信地域の探索を命じられた。1562年、武田勝頼が高遠城主となると、長坂光堅はこれを武田家嫡男武田義信へ伝える使者を務めた。1573年、武田晴信が病没すると、武田信豊、跡部勝資らとともに武田勝頼に重用された。武田勝頼に代替わりしたことにより、旧家臣団に属する山県昌景、内藤昌豊、馬場信春らの宿老と対立した。1582年、織田信長の「武田家征伐」が始まると、長坂光堅は武田勝頼に従い殉死した。

長坂昌房【ながさかまさふさ(1493~1531)】

長坂頼信の男。武田信昌、武田信虎の重臣。甲斐逸見筋長坂郷を領した。室が武田晴信の乳母となった。

長坂虎房【ながさかとらふさ(1513~1582)】

長坂昌房の男。武田義信家臣(義信衆)。室は真田幸隆の娘。母は武田晴信の乳母であったことから武田晴信の乳兄弟として育つ。武田晴信にとっては兄のような存在。板垣信方の配下として「信濃侵攻戦」「佐久郡侵攻」「諏訪侵攻」で戦功を重ね、諏訪郡代も務めた。外交官としても活躍しており、武田勝頼にも重く用いられた。

長坂昌国【ながさかまさくに(15??~1567)】

武田義信家臣(義信衆)。1567年、武田義信事件に連座し自刃した。

南部宗秀【なんぶむねひで(1490~1549)】

巨摩郡南部城主。南部定秀の男。官途は下野守。武田信虎、武田晴信に仕えていた。1523年、小山城主穴山信永を破り小山城代となった。1548年、乱行により甲斐国から追放され会津で病没した。

南部満秀【なんぶみつひで(15??~1575)】

南部宗秀の男。1575年、「長篠の戦い」で討死した。河西満秀と名乗っており、河西は南部の庶家の後胤にあたる。

仁科清八【にしなきよはち(15??~15??)】

小山田信有家臣。佐久志賀城攻略の際、敵の頸を取って感状をもらった。

名和重行【なわしげゆき(15??~1575)】

河窪信実麾下の浪人衆。別名名和無理之助。名和無理之助とは縄無理介とも書き、姓にかけて縄で編んだ陣羽織を身にまとって、どんな無理でも通す無理之助と豪語する豪傑。

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【は】

馬場信忠【ばばのぶただ(15??~15??)】

穴山信君家臣(穴山衆)。

馬場信輝【ばばのぶてる(15??~15??)】

馬場信忠の男。

馬場忠時【ばばただとき(1534~1614)】

馬場信輝の男。通称八左衛門。1561年「第四次川中島合の戦い」に参陣した穴山信君七人衆のひとり。「三方ヶ原の戦い」や「長篠の戦い」両合戦にも参陣した。1573年、馬場忠時が「三方ヶ原の戦い」で戦功を挙げたという武田家感状がある。1602年、松平元康の五男武田信吉が水戸城250,000石を領して、武田家が再興されると馬場忠時は武田家旧臣のひとりとしてその付家老に任命され3,000石を領した。1603年、武田信吉が早世すると、家臣団で争いが起り、罪を得て小田原城主大久保忠隣に預けられた。

馬場虎貞【ばばとらさだ(1490~1529)】

武田信虎家臣。官途は伊豆守。1522年、平賀源心斎(大井成頼)が村上義清の支援をえて甲斐国若神子へ侵入してきたときに 迎え撃ち、村上義清らを敗走させたことで「武田信虎の家臣に猛将馬場虎貞あり」と称された。1529年、武田信虎が一族加賀美虎光を討ったのを諌めたために斬首された。

馬場昌房【ばばまさふさ(1538~1582)】

武田家臣。馬場信春の男。通称民部少輔。1575年「長篠の戦い」で馬場信春が討死後に馬場家の家督を相続した。信濃深志城の城代を務めた。1582年「武田家征伐」では戦わずして降伏した。

早川幸豊【はやかわまさとよ(1533~1571)】

武田信光の九男早川信平からはじまる早川家。一条、馬淵、山田、一宮、上条、円井垣の諸家らを一族に持つ。戦国期に早川幸豊は武田晴信に仕え各地を転戦している。

早川幸豊【はやかわさちとよ(15??~1600)】

山県家臣(山県衆)。通称三左衛門。1569年「小田原城攻め」で、馬場信房と内藤昌秀との軍中使者となり鉄炮傷を二ヶ所負った。武田家滅亡後は松平家に仕官。山本勘助流軍学を教授された。井伊隊に配属された広瀬景房とともに彦根城を築城した。 

早川半兵衛【はやかわさちとよ(15??~1600)】

山県家臣(山県衆)。早川幸豊の弟。武田滅亡後、松平家に仕えた。

孕石泰時【はらみいしやすとき(15??~1615)】

山県家臣(山県衆)。1570年「駿河花沢城の戦い」で一番槍。1571年「吉田城の戦い」でも勇名を馳せる。孕石泰時は梅毒を患い、歩行困難になっていたが「三方ヶ原の戦い」では家人に背負われて戦場に出て、這い出して行き一番槍を遂げた。このときの証人は山県昌景であった。武田晴信が "秘蔵の家人" として山県昌景に付けた。武田家滅亡後は井伊直政に仕えた。

原虎胤【はらとらたね(1497~1564)】

武田家臣。官途は美濃守。武田家の五名臣のひとり足軽大将。1517年「小弓城の戦い」で足利義明勢に敗北して小弓城を奪われ、父原友胤とともに甲斐国に落延び武田信虎に仕えた。1521年「飯田河原の戦い」では今川勢の福島正成を討取る戦功を挙げた。武田信虎追放後は、武田晴信に仕えた。小笠原家との戦いで活躍し、平瀬城の城代を任されるなど重用されていた。1553年、宗旨問題で武田晴信に浄土宗に改宗するように迫られて拒絶したため、一時期甲斐を追放され、後北条家に身を寄せ善得寺の会盟の際に帰参した。北条氏康は原虎胤に対し惜別の念を表した。1561年「割ヶ嶽城の戦い」で負傷した。1561年「第四次川中島の戦い」には参戦せず、以後は第一線を退いた。

原康景【はらやすかげ(1524~1575)】

原虎胤の男。中間頭横目付20人頭をつとめた。横田高松の養嗣となり横田康景(横田綱松)と称した。武田晴信や武田勝頼に仕え、原重胤(勝重)や原親胤、原盛胤(原昌胤)ら弟たちを束ね、清水城代をつとめた。

原昌俊【はらまさとし(1488~1549)】

武田家臣。陣馬奉行という要職をつとめる。智謀の武将たちも数多い武田家中にあって「きれ者」と称される。陣馬奉行の能力いかんによって戦いの結果にも大きな影響を与えるというきわめて責任の重い要職。武田晴信は原昌俊の長男原昌胤に「その方の父原昌俊は忠節忠功ある家老。その父の名を汚すことなく忠勤に励め」と話したほどの武将。

原昌胤【はらまさたね(1526~1575)】

原昌俊の男。陣取りの名手と名高く陣馬奉行として卓越した才能を発揮。武田晴信からの信頼は非常に厚く「陣取りのことは隼人に任せよ」と言わしめた。「原昌胤は敵国深く攻め込む際も後備にて優れた陣取りを行い、他国にて山中など道知らぬ所でさえも一目で見分けること、武田家中にこの人一人」と絶賛されている。

判兵庫【ばんひょうご(15??~15??)】

武田晴信家臣。武田晴信に仕えた陰陽師で、花押の筆勢や形状で卜占を得意とした。※「戦国軍師人名辞典」by川口素生。

広瀬景房【ひろせかげふさ(15??~15??)】

板垣家臣団(板垣衆)。官途は美濃守。通称郷左衛門。1543年「佐久郡尾台城の戦い」で、武田晴信に城主小田井信親の金の馬鎧をかけた馬を奪ってみせると豪語し、城に乗り込んでその言葉通りに奪って見せた。1569年、北条勢との駿河「八幡平の戦い」で功があった。1571年、「三方ヶ原の戦い」で、武田晴信が吉田城に松平元康を攻めたとき、城門にまで迫って敵を討ち取り、惣構門の櫓から家康に名を尋ねられて「山県家、被官広瀬郷左衛門でござると」名乗った。武田晴信もその働きを賞して、武具の咽喉輪を外して与えた。武田勝頼時代は足軽大将になり、美濃守に改めた。武田家滅亡後、松平元康は広瀬郷左衛門を召しだし、吉田城の働きを改めて賞した。松平家では井伊直政麾下に属した。

日向三郎四郎【ひゅうがさぶろうしろ(15??~15??)】

武田信虎家臣。奉行衆ひとり。武田信虎と対立して甲斐を追放された。武田晴信が家督を相続すると帰参を願い出たが許されずに再び浪人した。のちに鉄砲の絵図面を持ち帰り帰参が叶った。※「武田信玄」by新田次郎。

古屋満忠【ふるやみつただ(1485~1548)】

武田信虎家臣。倉科信則の次男。武田信虎に従い甲斐国各地を転戦した。

古屋昌満【ふるやまさみつ(1505~1548)】

古屋満忠の男。倉科、山宮、小原家を枝連衆に持つ。武田信虎に従い信濃各地を転戦した。長男古屋昌安も武田晴信に仕えた。弟小原満長、小原光継らも兄古屋昌満を補佐し活躍した。

古屋満長【ふるやみちなが(1510~1548)】

古屋満忠の男。弟小原光継とともに武田信虎、武田晴信に仕えた。武田晴信に従い信濃各地を転戦した。1582年、武田勝頼に最後まで仕え「天目山の戦い」で討死した。

古屋昌安【ふるやまさやす(1525~1575)】

古屋昌満の男。武田晴信に属して信濃国各地を転戦した。

穂坂忠文【ほさかただふみ(15??~1585)】

穴山信君家臣(穴山衆)。官途は常陸介。武田勝千代の陣代。1582年「本能寺の変」後の「武田家蜂起」の際、大村加賀守の一党を討ち、松平元康から感状を貰った。「小牧の役」にも穴山勝千代とともに出陣し、松平元康は小幡城を甲州勢の穴山勝千代の代将、穂坂忠文に兵300余りを附し小幡城を守らせた。

穂坂掃部【ほさざかもん(15??~15??)】

穴山信君家臣。穂坂忠文の弟。駿河興福寺城の城代をつとめた。

本城時頼【ほんじょうときより(15??~15??)】

本城城主。穴山家臣(穴山衆)。

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【ま】

前原筑前守【まえはらちくぜんのかみ(15??~15??)】

武田晴信家臣。武田晴信に仕えた兵法家で、剣術流派、京流の達人。中国兵法書の奥義を極め「周之武王日記」を武田晴信に献上した。出陣日の「吉凶」を占う「日取り」は小笠原源与斎、山本勘助の三人衆が一目置かれる存在だった。※「戦国軍師人名辞典」by川口素生

前島繁勝【まえじましげかつ(15??~15??)】

武田信虎家臣。甲斐国人衆。1536年、今川義元に謀反を起こした福島正成が甲斐国に落延びてきたとき、前島繁勝は福島一族を匿った罪で、前島一族のことごとくが自刃させられた。

曲淵吉景【まがりぶちよしかげ(1518~1594)】

板垣家臣団(板垣衆)。通称庄左衛門。板垣信方に見出され、草履取りから出世して板垣隊の足軽大将にまでになった。1543年「小田井城の戦い」で広瀬景房と武功を競い合った剛の者。それよりも奇行の人物として有名。板垣信方の死後、跡をついた子の板垣信憲が本郷八郎左衛門に慮外をして斬られたことを武田晴信の差し金を思いこみ命を狙ったが、誤解であると知り、信玄もその忠誠心を誉めた。生来の訴訟癖で、生涯七十五度の訴訟をして勝ったことが一回、和解が一回で他は全て負けた。奉行衆との仲は極めて悪く、他にも大変なケチであった。1575年「長篠の戦い」にも参陣した。武田家滅亡は松平元康に仕えた。

松尾信賢【まつおのぶかた(1478~1538)】

武田信昌の四男。武田信虎の叔父。山梨郡松尾郷を領す。弟諸角虎定とともに甥武田信虎に忠節を尽くし、重臣として仕えた。娘(松尾殿)が武田信虎に嫁いでいる。松尾殿が生んだ五男武田信是が松尾信賢の跡を継がせている。

松尾信是【まつおのぶこれ(15??~1571)】

武田信虎の七男。別名武田信是。松尾家の家督を相続した。1571年、死去したため、家督は弟武田信実の嫡男武田信俊が武田信是の娘を娶って継承した。

万沢君泰【まんざわいみやす(15??~1570)】

穴山信君家臣。官途は遠江守。1555年、武田晴信が駿河国に侵攻した際、甲駿国境警備の代償として95貫文の知行を宛行われた。万沢家は穴山家の被官であると同時に武田家の直轄支配も受けていた。

万沢君基【まんざわきみもと(15??~15??)】

万沢君泰の男。

宮脇種友【みやわきたねとも(15??~15??)】

武田家臣。武川十二騎衆のひとり。

武川十二騎衆【むかわじゅうにきしゅう】

武田家の枝連衆の一条氏家の流れを汲む、武川筋の辺境武士団。精鋭の一族で、武川十二騎衆と称した。戦国時代には武田家臣団に加わり、甲斐守護武田信虎後期から晴信期にかけて信濃侵攻が本格化したため、武川衆は甲信国境の防衛を担当した。

望月信頼【もちづきのぶより(1544~1561)】

武田信繁の男。望月信雅の養子。通称三郎。1560年、信濃国佐久郡望月城主望月信雅の養子となった。1561年「第四次川中島の戦い」に参陣するが戦傷によりまもなく亡くなった。

望月信永【もちづきのぶなが(1551~1575)】

武田信繁の三男。望月信雅の養子。望月信雅から家督を相続した。以後、望月城主として武田家枝連衆として60騎を率いた。1575年「長篠の戦い」で討死にした。武田家の衰退により隠居した望月信雅が復帰した。

諸角虎城【もろずみとらしろ(1460~1537)】

諸角直政の男。

諸角虎定【もろずみとらさだ(1480~1561)】

武田信昌の六男。武田信虎の叔父。武田信縄に仕えた諸角虎城の名跡を継ぎ諸角家を名のる。養父諸角虎城とともに武田信虎の重臣として仕え、諸角虎定は先を読む力に長け、武勇は飫富虎昌の『赤備え』と並び賞賛された。1561年「第四次川中島に戦い」で討死した。

諸角虎登【もろずみとらとう(1495~1564)】

板垣信斉の次男。通称玄蕃允。武田信虎の叔父で、嫡男のなかった諸角虎定の養嗣子に入り、諸角姓を名のった。 兄板垣信方を補佐し、信濃侵攻戦で活躍。 兄板垣信方死後は兄にかわって上原城城代をつとめた。

諸角昌守【もろずみまさもり(1515~1575)】

諸角虎登の男。父諸角虎登とともに武田信虎、武田晴信に仕え、板垣信方の配下として信濃侵攻戦で大いに活躍する。諸角昌守は使番をへて侍大将となるが、1570年、原盛胤と喧嘩をしたため改易された。麾下の被官衆50騎と知行衆は一条信龍に付された。

諸角重政【もろずみしげまさ(1517~1575)】

諸角虎登の次男。通称彦大夫。父諸角虎登とともに武田信虎、武田晴信に仕え、板垣信方の麾下として信濃侵攻戦で活躍した。

諸角頼重【もろずみよりしげ(15??~15??)】

諸角重政の男。

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【や】

安田信清【やすだのぶきよ(15??~15??)】

武田晴信の七男。1555年、加賀国美法善寺に入って玄竜と号した。1578年、武田勝頼の命により還俗し安田信清と称した。武田家滅亡時には僧姿に変装して高野山無量光院に逃れ、その後姉菊姫を頼り長尾景勝の家臣となった。

山県昌景【やまがたまさかげ(1529~1575)】 

飯富道悦の次男。武田晴信の近習として仕え、続いて使番となる。信濃国伊奈郡攻めにおいて初陣を果たし、神之峰城攻めで一番乗りの戦功を挙げた。1552年、信濃攻めの功績により騎馬150持の侍大将に抜擢された。その後も飯富虎昌に勝るとも劣らない武者振りを発揮した。1565年、武田義信と傅役だった兄飯富虎昌が謀反を起こすと武田晴信に訴え、飯富虎昌を謀殺した。飯富虎昌の赤備え部隊を引き継ぐとともに、山県家の名跡を継いだ。板垣、甘利の両老臣亡き後、原昌胤と共に家老職を務めた。武田晴信に従って主な戦いに参戦して戦功を重ねた。武勇だけではなく内政、外交の感覚に優れ、竜朱印奏者となり武田家の軍政の中枢に位置した。1569年、駿河江尻城代に任じられた。1572年、武田晴信が上洛作戦を開始すると、別働隊5,000を率いて、信濃国から三河国に侵攻した。三河国八名郡柿本城、更に越国して遠江国井平城も落とした。1573年「三方ヶ原の戦い」において松平元康本陣に突進し、武田勢の背後を狙ったはずの松平元康勢を返討ちにした。その後も効果的な追撃戦を展開した。1575年「長篠の戦い」で討死した。

山県昌次【やまがたまさつぐ(1548~1575)】

山県昌景の男。1575年「長篠の戦い」で、父山県昌景の討死を知り、山県昌景の元へ向かったが、山県昌景の頸級は家臣志村又右衛門光家が敵に奪われない樣に持ち去っていた。山県昌次は周りを敵に囲まれたため自刃した。山県昌次の頸級は家臣名取又左衛門道忠が持ち去った。

山県昌満【やまがたまさみつ(15??~1582)】

山県昌景の次男。1575年「長篠の戦い」で、父山県昌景と兄山県昌次が討死したため、山県家の家督を相続した。父山県昌景のように名将ではなかったため、父山県昌景が担当していた駿河江尻城代の職は武田勝頼によって、穴山信君に引き渡された。1582年、織田信長の「武田征伐」によって捕縛され、甲斐国で処刑された。

山県家臣団【やまがたけかしんだん】

西巻監物、二木弥右衛門、猪子才蔵、古畑伯耆守、二木源三郎、渡部三左衛門、北地五郎左衛門、和田加助、石黒将監、久保勘左衛門、越石主水、小崎三四郎、滝三郎左衛門、今福求馬介、長坂宮内左衛門、河原伝兵衛、志村又右衛門光家、名取又左衛門道忠。

山高親之【やまだがちかゆき(1509~1566)】

武田信繁家臣。武川十二騎衆の筆頭。1561年「川中島の戦い」で、武田信繁が討死すると、山高親之はその敵を討ち取り武田信繁の頸を取り戻し、武田晴信に献じた。

山高信親【やまだかのぶちか(1531~1572)】

山高親之の男。1569年の「小田原城の戦い」「三増峠の戦い」で戦功を挙げた。

山寺信明【やまでらのぶあき(1505~1561)】

武田信繁家臣。武川十二騎衆のひとり。1561年、武田信繁の麾下の武将として「第四次川中島の戦い」で壮烈な討死をとげた。

山寺昌吉【やまでらまさよし(15??~15??)】

山寺信明の男。

山本晴幸【やまもと(1493~1561)】

武田晴信家臣。別名山本勘助。武田晴信に仕えた独眼で片足が不自由な軍師。三河国牛窪の出身。1543年、板垣信方の推挙によって武田晴信に仕え、足軽大将五人衆と称れた。1561年「第四次川中島の戦い」で、啄木鳥戦法を指揮して失敗した責任を取って討死にした。

山本信供【やまもとのぶとも(1556~1575)】

山本晴幸の男。通称勘蔵。父山本晴幸と同じく武田晴信、武田勝頼に仕えた。1575年「長篠の戦い」では高坂昌澄らとともに長篠城監視隊として寒挟川沿いに備えていたが、武田勝頼から設楽原に集結せよと命じられた。設楽原に参陣時には既に武田家勢は総崩れしていた。そこで、松平元康本陣への単騎突入を目指すも渡辺守綱に阻まれ討取られた。

柳沢信勝【やなぎさわのぶかつ(15??~15??)】

武田家臣。武川十二騎衆のひとり。1582年、松平元康から柳沢郷70貫を安堵された。

柳沢信俊【やなぎさわのぶとし(1548~1614)】

青木信立の三男。武川衆十二騎のひとり。1570年、兄横手信国が駿河花沢で討死すると、横手家の家督を相続する。北巨摩郡武川村柳沢を領し、柳沢を名字とした。子の信忠は徳川家に仕え、孫の柳沢吉保は徳川綱吉の側近になった。

油川信守【ゆかわのぶもり(1496~1550)】

油川信恵の次男。父油川信恵と兄油川信貞が武田信虎に討たれてからは忠誠を誓い「信濃侵攻」などに参陣し、各地を転戦し活躍した。娘(油川殿)は武田晴信に嫁ぎ、武田盛信(仁科盛信)を生んだ。

油川信連【ゆかわのぶつら(1521~1561)】

油川信守の男。武田晴信に忠誠を誓い勝沼信元や武田信廉とともに後北条家への抑えとして勝山城を守った。信濃侵攻戦でも各地を転戦し活躍。1561年「川中島の戦い」で討死した。妹が武田晴信に嫁いでおり五男仁科(武田)盛信を生んだ。武田盛信の四男武田信貞が油川家を継承。

横田高松【よこたたかとし(1487~1550)】

武田信虎家臣。官途は備中守。通称十郎兵衛。武田の五名臣のひとり。弓矢巧者で、足軽大将として甘利虎泰の相備えとなり、各地で戦功を挙げた。1546年「志賀城の戦い」では、関東管領山内上杉憲政が派遣した後詰の軍勢を撃退した。1548年「上田原の戦い」で板垣信方、甘利虎泰の両宿将を失った。1550年、武田晴信は、村上義清の拠点である砥石城を包囲した。横田高松も参陣して攻撃を開始するが、難攻不落の様相を呈する天然の要害に手を焼き、武田家勢はやむなく退却を始めた。ここで村上軍が退却する武田勢に襲い掛かり大混乱に陥った。「砥石城の戦い」では、横田高松は混乱する自軍を殿軍として支えて村上勢を一手に引き受けて討死した。

横田康景【よこたやすかげ(1525~1575)】

原虎胤の男。横田高松の養子。通称十郎兵衛尉。室は横田高松の娘。横田康景は武田家足軽大将である横田高松の婿養子になった。1550年「砥石城の戦い」では父横田高松が討死したために、横田家の家督を相続した。足軽大将として騎馬30騎、足軽100人を率いた。武田晴信の病没後は武田勝頼に仕えた。1575年「長篠の戦い」で討死した。

横田尹松【よこたただとし(1554~1635)】

横田康景の男。通称十郎兵衛尉。室は山県昌景の娘。1554年、原虎胤の男で横田高松の娘婿である横田康景の嫡男。1572年「三方ヶ原の戦い」に参陣した。1575年、父横田康景が「長篠の戦い」で討死したため横田家の家督を相続した。1579年、岡部元信と共に遠江高天神城の守将に任じられた。1581年、松平元康の攻撃を受けて落城すると甲斐国に戻った。1582年、織田信長による「武田家征伐」で武田家が滅亡すると、松平元康の家臣となり軍監に任じられた。

横手信国【よこてのぶくに(1522~1570)】

武田家臣。武川十二騎衆のひとり。青木信立の次男。1570年「駿河国花沢城の戦い」で討死した。

横手信俊【よこてのぶとし(15??~15??)】

横手信国の弟。武川十二騎衆のひとり。

米倉重純【よねくらしげずみ(1480~1540)】

武田信昌の重臣。武田信昌、武田信縄、武田信虎の三代に仕えた。

米倉重継【よねくらしげつぐ(1519~1575)】

米倉信継の次男。武川十二騎衆のひとり。武田信虎二十人衆徒歩若党。甘利虎泰の寄騎衆の足軽頭となり、合戦で数々の戦功を挙げ名を馳せた。武田晴信の馬廻衆五人衆にも加えられ、七人の足軽隊将のうちのひとりとなった。1552年「信州苅屋原の戦い」で新兵器の竹束を考案した。1575年「長篠の戦い」で討死した。

米倉晴継【よねくらはるつぐ(15??~1569)】

米倉重継の男。1565年「松山城の攻防」で深手を負った。1569年、駿河国で後北条勢と戦い討死した。

米倉忠継【よねくらただつぐ(1544~1599)】

米倉重継の次男。1582年、武田家滅亡後、松平家に仕えた。

依田義忠【よりだよしただ(15??~15??)】

南巨摩郡依田館主。武田家臣。官途は出雲守。信濃国小県郡の豪族衆だったが、武田晴信の「信濃攻略」により武田家に仕えた。武田晴信のもとで戦功を重ね南巨摩郡宮木を領した。

渡辺雲州【わたなべうんしゅう(15??~1550)】

小山田信有家臣。1550年「砥石崩れ」の際に横田高松、小沢式部らとともに村上義清勢に討たれた。

渡辺守【わたなべまもる(15??~1582)】

本栖城城主。通称囚獄佑。九一色衆十七騎衆の筆頭。武田晴信は国境の要に「御番城」を築かせ守備させている。渡辺守は松平元康の甲斐入国に際し新府城に案内した。1582年「天正壬午の戦い」では九一色衆十七騎を率いて後北条勢を撃退した。

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【資料Ⅰ】

甲斐国(四郡/246,000石)

山梨郡:躑躅ヶ崎館。
八代郡:勝山城。
北巨摩郡:獅子吼城。
南巨摩郡:下山城。
北都留郡:岩殿城、上野原城。
南都留郡:栖本城。

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【資料Ⅱ】

武田家四天王【たけだけしてんのう】

馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信(春日虎綱)。

武田家五名臣【たけだのごめいしん】

原虎胤、小幡山城守、横田備中守、多田満頼、山本晴幸。

武田家奥近習六人衆【たけだけおくきんじゅうろくにんしゅう】

土屋右衛門尉、三枝勘解由、曽根内匠、武藤喜兵衛(真田昌幸)、甘利左衛門尉、長坂源五郎。※武田晴信の側近であり、将来の幹部候補となるべき人材として活動した六名の武将。

武田家二十四将【たけだけにじゅうよんしょう】

秋山信友、穴山信君、甘利虎泰、板垣信方、一条信龍、小幡虎盛、小幡昌盛、飯富虎昌、小山田信茂、高坂昌信、三枝守友、真田信綱、真田幸隆、武田信繁、武田信廉、多田満頼、土屋昌次、内藤昌豊、馬場信春、原虎胤、原昌胤、山県昌景、山本勘助、横田高松。※資料によって異なります。

上野原七騎衆【うえのはらななきしゅう】

加藤虎景麾下の辺境武士団。富田、安藤、野崎、中島、上条、石井、市川の諸家。

武川十二騎衆【むかわじゅうききしゅう】

教来石信保、米倉重継、島原、白須、山高親之、牧原、青木信立、折井、柳沢信勝、山寺信明、宮脇種友、横手信国の諸家。

米倉信継の次男。「武川十二騎衆

九一色衆十七騎衆【かみくいしじゅうななきしゅう】

渡辺因獄佑守、内藤肥前守雅明、土橋大蔵丞。

西之海衆【さいこしゅう】

小林九郎左衛門尉、小林同民部左衛門尉、渡辺左近丞、渡辺清左衛門尉、渡辺七郎左衛門尉、渡辺右近丞、渡辺同縫殿右衛門尉、渡辺弥右衛門尉。

小尾衆【おびしゅう】

小尾豊信。

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【資料Ⅲ】

甲斐国【かいのくに】

中部地方と関東地方の境に位置する東海道の国。北は秩父山地で信濃国、武蔵両国に接し、南は富士山などの山系を境に駿河国と接する。東は関東山地が関東、相模両国との境となり、西は赤石山脈、白根山など信濃、駿河両国との境を形作る。四方を高山系に囲まれた内陸国で、自然と他国との交流も薄くなり地域的独立性が高い。さらに国内は大菩薩峠と御坂山地によって西の国中、東の郡内に二分されている。国土の中央に広がる甲府盆地を中心する国中は、甲斐国の中心地であり、長く甲斐守護職武田家の勢力下に置かれた。甲斐国の穀倉地帯である国中は、日本三大急流のひとつとなって相模湾に注ぐ釜無川と笛吹川の流域で、度々洪水にみまわれ安定的な収穫を得られないことが多かった。甲斐国は平地が少ない土地柄、農作物の生産性も低く、国境に難所が多く交易も不活発であったが、塩などの必需物資も他国からの輸入に頼らなければならなかった。平安時代から、甲斐の黒駒として知られる名馬の産地でもある。また国内には良質な鉱山が多く、多量の金を産出した。
 
黒川金山【くろかわきんざん】

鉱物資源の豊富であった甲斐国においては戦国時代に稼働した金山が数多く分布し、武田領国化された周辺諸国においても武田家により開発された金山が分布する黒川金山の立地する県北東部のほか、武田一族の穴山家が領した県南部の河内地方では富士川流域の湯之奥金山や早川流域の諸金山など。黒川金山は湯之尾金山とともに特に戦国期に稼動した。

甲斐三大河川【かいさんだいかせん】

富士川、釜無川、笛吹川。

三箇の大難場【さんこのだいなんしょ】

笛吹川の万力林(まんりきばやし)、近津堤(ちかつてい)、釜無川の竜王堤(りゅうおうづつみ)。

富士四湖【ふじしこ】

本栖湖、西湖、河口湖、山中湖。

鬼鹿毛【おにかげ】

鬼鹿毛は武田晴信の父武田信虎の愛馬。若き武田晴信は鬼鹿毛を所望したが父武田信虎は頑として聞き入れなかった。

黒雲【くろくも】

武田晴信の黒毛の愛馬。気性が非常に荒く、武田晴信にしか乗りこなすことができなかった。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城砦などの名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※武田信玄は武田晴信で、上杉謙信は長尾景虎で統一しています。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「戦国関東名将列伝」隋想社、「(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧」秋田書院、「武田信玄(全4巻)」文春文庫、「武田信玄(全3巻)」講談社、「武田勝頼(全3巻)」講談社、「甲州武田家臣団」新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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