2010年12月26日日曜日

戦国北信濃国人名辞典

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【あ】

相木常林【あいきじょう りん(15??~15??)】

佐久郡相木城主。独立した国人領主であったが家老職として大井貞隆に属した。1536年、武田信虎の「佐久郡侵攻」では、村上義清に属して武田信虎と戦った。1540年、村上義清から離反して、武田信虎に属したが、武田信虎が武田晴信に駿河国へ追放されると、相木常林をはじめとする佐久郡豪族衆は、村上義清属した。

相木昌朝【あいきまさとも(1516~1567)】

相木常林の男。大井貞隆家臣。官途は能登守。1543年、武田晴信の「佐久郡侵攻」では、武田晴信に内応し大井貞隆を滅ぼした。その後は、武田晴信に仕えた。武田晴信の信頼も厚く、騎馬80騎持ちで佐久郡田口城代に任じられた。1561年「川中島の戦い」では、春日虎綱、真田幸隆らと共に妻女山の長尾景虎勢の本陣を突く別働隊の一隊を指揮した。長女が真田幸隆の次男真田昌輝に嫁ぎ、次男相木昌信が山県昌景の娘婿となった。その後は、山県昌景の寄騎衆として信濃各地を転戦した。

相木頼房【あいきよりふさ(15??~1589)】

相木昌朝の男。官途は長門守。通称市兵衛。別名相木常祐。室は武田信廉の娘。1582年、武田勝頼が討死すると、佐久衆のひとりとして織田信長勢の滝川一益に属した。 織田信長が「本能寺の変」で討死すると、相木頼房は北条氏直に属した。松平元康勢の依田信蕃から攻撃を受け、北条氏直に援軍を求めるが、北条氏直は松平元康と和議を結び相模国に撤退した為、北条氏直の元に落延びた。1589年、佐久郡への復帰を図り、伴野貞長と共に挙兵するが、依田康国に敗れ武蔵国に落延びた。

相木昌信【あさきまさのぶ(15??~15??)】

相木昌朝の次男。室は山県昌景の娘。鉄砲の名手。1569年、北条氏政との「小田原城の戦い」では、御湯見城主御湯見薩摩守を討取る戦功を挙げた。1582年、武田勝頼が討死すると真田昌幸に仕えた。

相木善量【あさきぜんりょう(15??~15??)】

相木昌朝の三男。通称七良右衛門。

青柳清長【あおやぎきよなが(15??~1569)】

安曇郡青柳城主。仁科盛国の男。小笠原長時家臣。官位は伊勢守。1548年、小笠原長時は「塩尻峠の戦い」で、武田晴信勢に敗れると、筑摩郡の諸城を次々に失い村上義清を頼って落延びた。1550年、小笠原長時は、村上義清の支援を受け筑摩郡に侵攻して、青柳清長と共に武田晴信勢と対抗した再び敗れ、長尾景虎と頼って落延びた。1553年、青柳清長は、武田晴信に降ると、が長尾景虎勢の侵攻を受け攻撃を受けた。武田晴信の後ろ盾で麻績城を奪い筑摩郡での勢力を伸張させた。 兄に仁科盛能、弟に古厩盛兼、飯森盛春、渋田見盛家がいた。

青柳頼長【あおやぎよりなが(15??~1587)】

青柳清長の男。官途は伊勢守。1550年、小笠原長時が武田晴信に敗れて長尾景虎を頼った際、父青柳清長と共に武田晴信に降った。1573年、青柳頼長は、父青柳清長の菩提を弔うため清長寺を創建した。1580年、青柳頼長は麻績宿から青柳宿の街道を整備した。1582年、小笠原貞慶は長尾景勝に敵対していたが、青柳頼長は、小笠原貞慶に属した。長尾景勝が越後国に撤退したため、小笠原貞慶は勢力を回復した。青柳頼長も青柳城、麻績両城を奪還した。1583年、長尾景勝と小笠原貞慶の両者は戦い小笠原貞慶は敗北、青柳頼長も所領を失った。1587年、長尾景勝に内通したとし嫡男青柳長迪と共、松本城内で謀殺された。

青柳長迪【あおやぎながみち(15??~1587)】

青柳頼長の男。1582年、武田勝頼が天目山ぜ討死すると、父青柳頼長と共に小笠原貞慶に仕えた。1587年、長尾景勝に内通したとして父青柳頼長と共に松本城で謀殺された。

赤池修理亮【あかいけしゅりのすけ(15??~15??)】

村上義清家臣。1547年「上田原の戦い」で、武田晴信勢に馬を刺され落馬した村上義清に自身の馬を譲った。村上義清は三度も落馬し、そのときに鼻を負傷した。

赤沢政経【あかざわまさつね(15??~15??)】

筑摩郡塩崎城城主。赤沢朝経の男、官途は伊豆守。京兆細川高国家臣(内衆)の父赤沢朝経が上洛した後も、自身は信濃塩崎城を守った。1507年、父赤沢朝経が「永正の錯乱」で討死した。1507年、討死した父赤沢朝経に替り上洛して細川高国勢として河内国高屋城の城将になった。1508年、高屋城が畠山尚順の攻撃を受け落城すると、信濃国に帰還した。

赤沢経智【あかざわつねとも(15??~15??)】

赤沢政経の男。赤沢経智は、小笠原長時と武田晴信が合戦を繰り返すようになると、小笠原長時に属して信濃国を転戦した。小笠原長時が武田晴信に敗れ越後国に落ち延びると、赤沢政智は嫡男赤沢長勝、次男赤沢貞経と共に小笠原長時に属して、京都の三好長慶に寄寓した。1558年「北白川の戦い」で、嫡男赤沢長勝が討死し、次男赤沢貞経は磐城国の相馬義胤に仕えた。

赤沢経康【あかざわつねやす(15??~1583)】

筑摩郡稲倉城主。小笠原時長家臣。通称左衛門尉。小笠原長時が赤沢経康の持城洞山砦を井深城主後庁重常に与えたため、赤沢経康は恨みを持った。小笠原長時が武田晴信に敗れると、赤沢経康は手勢を二手に分け一手は井深城を攻め落とし、もう一手は洞山砦を攻め落とした。赤沢経康は、小笠原長時が越後国に落延びると武田晴信に仕えた。1582年、武田勝頼が討死すると、信濃国に復帰した小笠原貞慶に仕えた。1583年、塔原城主海野幸貞、小岩巓城主古厩盛勝らと共に長尾景虎に通じて謀反を企てたが露見し、松本城にて謀殺された。

赤沢清経【あかざわきよつね(15??~1583)】

赤沢経康の男。通称式部少輔。1582年、武田勝頼が討死すると、父赤沢経康と共に小笠原貞慶に仕えた。1583年、父赤沢経康の他、塔原城主海野幸貞、小岩巓城主古厩盛勝らと共に長尾景虎に通じて謀反を企てたが露見し、松本城にて謀殺された。

浅野久右衛門【あさのきゅうえもん(15??~15??)】

安曇郡借馬城主。小笠原貞慶家臣。1583年、小笠原貞慶の安曇郡、筑摩郡平定戦に参陣した。小笠原貞慶によって所領の安堵を受けた。

芦田信常【あしだのぶつね(15??~15??)】

佐久郡芦田城主。大井貞隆家臣。独立した国人領主であったが大井貞隆に属した。

芦田信守【あしだのぶもり(15??~1575)】

芦田信常の男。官途は下野守。通称四郎左衛門。1541年、関東管領山内上杉憲政が佐久郡へ侵攻すると、和睦した諏訪頼重に降った。1542年、諏訪頼重が武田晴信に自刃させられると、大井家に帰参した。1543年、武田晴信が長窪城主大井貞隆を攻撃すると、相木昌朝と共にこれに内応し長窪落城に協力して、以後は武田晴信に仕えた。武蔵国、駿河国などを転戦した。1572年、武田晴信が、遠江国に侵攻すると二俣城代を務めた。1575年「長篠の戦い」で勝利した松平元康に、二俣城を包囲され城中で没した。

芦田信蕃【あしだのぶしげ(1548~1583)】

芦田信守の男。官途は右衛門佐。室は跡部勝資の娘。1575年「長篠の戦い」後、芦田信蕃は父芦田信守と共に二俣城を守備した。松平元康の攻勢が始まると、まもなく病床にあった父芦田信守は病没した。芦田信蕃は僅かな手勢で半年近く、二俣城を守ったが将兵の助命を条件に開城、田中城に落延びた。1582年、織田信長による「武田家征伐」が始まると、田中城も松平元康の攻撃を受けるが再び守り通した。武田勝頼が自刃後、穴山信君の説得を受け開城した。「天正壬午の戦い」が起こると、松平元康に属して戦功を挙げ、小諸城主に任じられた。1583年、北条氏直に属する岩尾城主大井行吉との戦いで、銃撃を受け討死した。

芦田信幸【あしだのぶゆき(15??~1583)】

芦田信守の次男。父芦田信守や兄芦田信蕃と行動を共にした。1582年、武田勝頼が討死すると、兄芦田信蕃と共に松平元康に仕えた。1583年、兄芦田信蕃に属して「岩尾城の戦い」に参陣した。この際に兄芦田信蕃と共に討死した。

芦田康国【あしだやすくに(1570~1590)】

芦田信蕃の男。官途は修理大夫。通称源十郎。別名依田康国。1583年、芦田信蕃の討死により芦田家の家督を相続した。父芦田信蕃の戦功により、芦田康国は小諸城60,000石を領した。1585年「第一次上田城の戦い」に初陣するも、松平元康勢は真田昌幸勢に大敗した。1587年、相木昌朝、伴野貞長らの佐久郡旧領主が兵を集め挙兵したが「木次原の戦い」で撃破った。1590年「小田原の役」では、松平元康家臣のまま前田利家勢に属して「松井田城の戦い」で戦功を挙げた。「石倉城の戦い」で、寺尾左馬助(石倉治部)に討取られた。

芦田康勝【あしだやすかつ(1574~1623)】

芦田信蕃の次男。官途は右衛門大夫。別名依田康勝。1590年「小田原の役」では、松平元康勢に属して兄芦田信蕃と共に参陣した。兄芦田信蕃が「石倉城の戦い」で討死すると、芦田家の家督を相続した。と小諸城60,000石を領した。松平元康が関東に転封になると、上野国藤岡城30,000石を領した。1600年、囲碁が原因で小栗三助と口論となり小栗三助を謀殺した。芦田康勝は、高野山で謹慎するが改易処分を受けた。浪人後、結城秀康に仕え、越前国大野郡木本城5,000石を領した。

雨宮正利【あめのみやまさとし(1493~1548)】

小県郡唐崎城主。通称刑部。清野清秀の男(雨宮昌秀の養子)。村上家臣。通称三郎兵衛。村上家の枝連衆で、村上義清に属した。1548年、北信濃豪族衆の高梨政頼、須田満親、島津規久、小田切清定、井上清政、栗田国時らと共に村上義清に属して上田原で武田晴信と戦った。「上田原の戦い」では、村上義清も西条義忠、屋代道斎、森村清秀、小島権兵衛ら多くの討死したが、武田晴信勢も板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの猛将が討死し、死傷者は村上義清勢を上回った。

有賀又左衛門【ありがまたざえもん(15??~15??)】

小笠原長時家臣。1542年「大門峠の戦い」で、小笠原長時の馬廻衆として参陣した。武田晴信勢の頸を十三級挙げたが重症を負った。1582年、小笠原貞慶の信州復帰戦に旧臣達の纏め役を担った。

安中一藤太【あんなかずへいた(1481~1565)】

村上義清家臣。1547年「上田原の戦い」で、板垣信勢に属して、曲渕小左衛門、三科肥後守、広瀬郷左衛門らと戦い、 弟八木惣八をはじめ、原田十郎左衛門、相野一斎らを討取られたが、侍大将上条織部との奇襲によって板垣信を討取った。

安中惣八【あんなかそうはhし(1485~1547)】

村上義清家臣。安中一藤太の弟。別名八木惣八。1547年「上田原の戦い」で、板垣信方、曲渕小左衛門、三科肥後守、広瀬郷左衛門ら武田家勢と戦い討取られた。

飯森春盛【いいもりはるもり(15??~1557)】

北安曇郡平倉城主。仁科盛国の四男。官途は日向守。通称十郎。1556年、山県昌景が北安曇郡に進攻すると、飯森春盛は戦わず、越後国に落延びた。長尾景虎の支援を受け平倉城で兵を挙げた飯森盛春は、小谷に勢力を持っていた「小谷五人衆(太田土佐守、田原主馬、山田左近、細野織部、山岸豊後守)」に援軍を求めた。山岸豊後守以外の四人は長尾景虎に属することに反対した。山岸豊後守は、強行派の田原主馬を謀殺して他の三人を本意を翻そうとした。田原主馬は、事に次第を山県昌景に知らせた。1557年、山県昌景勢は雪解け待って平倉城を攻撃、油淵庄左衛門によって討取られた。

石井棟喜【いしいむねよし(15??~15??)】

海野棟綱家臣。1547年「海野平の戦い」後、海野棟綱に従い山内上杉憲政の元に頼り落延びた。真田幸隆が北信濃の旧領を回復すると、武田晴信に属した。

石川長昌【いしかわながまさ(1470~1550)】

村上顕国家臣。屋代国定の男。通称三郎。村上義清の傅役を務めた。1553年、真田幸隆が孤落城主大須賀政信を調略したことで、更科郡の石川長昌をはじめ、埴科郡屋代城主屋代政国、室賀城主室賀信俊、塩崎八郎、大日向長利、西条義忠、南条の耕雲寺乾巨、牧之島城主香坂有宗らが次々に、武田晴信に降伏して村上義清を孤立させた。

石川長高【いしかわながたか(15??~15??)】

石川長昌の男。1511年、村上義清の近習となった。

市河信綱【いちかわのぶつな(1500~1550)】

下高井郡志久見城主。官途は治部少輔。通称新六郎。市河家は南北朝以降、高梨家としばしば衝突していたこともあり、高梨澄頼が長尾景虎に降ると、長尾景虎に属した。村上義清が武田晴信に北信濃国を追われると武田晴信に属して、旧領の安堵と加増を受けた。

市河信房【いちかわのぶふさ(1518~1582)】

市河信綱の男。通称孫三郎。武田晴信が信濃侵攻を本格化させ、善光寺平以南を制圧すると奥信濃に侵攻すると、村上義清ら北信豪族を支援する長尾景虎との間で戦いが起った。北信豪族衆は、双方に属して戦った。1556年、市河信房は武田晴信に降った。1557年、武田晴信は、長尾景虎の侵攻を撃退した市河信房を謝状を与えた。1582年、武田勝頼の討死すると長尾景勝に仕えた。

市河房綱【いちかわふさつな(15??~1614)】

市河信房の男。官途は治部少輔。長尾景虎に仕えて3,349石を領した。1599年、会津塩之森城代として6,700石を領した。1614年「大坂冬の陣」に参陣したが「鴫野口の戦い」で討死した。

市河房忠【いちかわふさただ(15??~15??)】

市河房綱の三男。1614年、父市河房綱が「大坂冬の陣」で討死すると、市河家の家督を相続した。

井上政満【いのうえまさみち(1497~1549)】

水内郡飯山城主。通称五郎左衛門。別名井上清忠。井上家が惣領家となり綿内井上左衛門尉、小柳井上満直、楡井井上頼久、狩田井上、八町井上、水内郡の長池井上、高田井上などに庶子家を分出している。綿内は井上家の穀倉地帯となる重要な所領であり南に備える前線でもあった。井上政満は、出浦国則の福将格として海尻城の防備を務めた。1540年、武田信虎が侵攻された際、出浦国則、出浦清種父子不在だった為、海尻城は落城、井上城に落延びた。

井上清政【いのうえきよまさ(1517~1573)】

井上政満の男。村上義清に属して信濃国各地を転戦して戦功を挙げた。1556年、武田晴信が北信濃国に侵攻して来ると、井上政満は綿内城主井上左衛門尉、小柳城主井上満直らと共に武田晴信に対抗した。1582年「本能寺の変」後に長尾景勝が信濃侵入を図った際、これに従った。

井上昌満【いのうえまさみつ(15??~15??)】

水内郡井上城主。通称左衛門大夫。1561年、長尾景虎は兵18,000余りを率いて川中島に侵攻、武田晴信勢兵20,000余りと八幡原において激突した。長尾景虎の先鋒には、村上義清、高梨政頼、井上昌満、須田満親、島津忠直ら北信豪族衆が指名された。はじめは長尾景虎勢が優勢であったが、やがて武田晴信勢が盛り返し、長尾景虎は越後国へ撤退した。この戦いでも、両勢の先陣を務めたのは信濃衆で損害も多かった。

井上満達【いのうえみつたつ(15??~15??)】

水内郡小口城主。1582年、武田勝頼が討死すると、長尾景勝は旧北信豪族衆を北信濃四郡(埴科郡、更科郡、高井郡、水内郡)の制圧ために派兵した。北信濃諸将は旧領を与えられ井上満達は井上小口城主に復帰した。1598年、長尾景勝が越後から会津へ転封になるとそれに従った。

芋川正章【いもかわまさあき(15??~15??)】

水内郡若宮城主。1556年、武田晴信の「信濃侵攻」で降伏し武田晴信に属した。

芋川親正【いもかわちかちか(1539~1608)】

芋川正章の男。官途は越前守。通称右衛門尉。1578年、武田勝頼と長尾景勝との間で「甲越同盟」が結ばれると、奥信濃国にも一時的な平穏が訪れた。1582年、武田勝頼が討死すると北信濃四郡(埴科郡、更科郡、高井郡、水内郡)は、織田信長勢の森長可が領有した。森長可が、禁制の発布や降伏した北信濃国人衆に所領安堵の沙汰などを行った。芋川親正は長沼城主島津忠直らと連携して、森長可に属さず長尾景勝に属して、領内の一向宗門徒、反織田信長を掲げる信濃国人衆を煽動して兵8,000余りを集め大倉城で蜂起した。一揆勢は、稲葉貞通の守る飯山城を包囲したが森長可勢の反撃を受けて壊滅、長尾景勝を頼って落延びた。織田信長が「本能寺の変」で討死すると、長尾景虎勢は再び北信濃四郡に侵攻、芋川親正は牧之島城4,486石を領し、松本城主小笠原貞慶に備えた。1598年、長尾景勝が会津に転封となると、白河小峰城6,000石を領した。

芋川親守【いもかわちかもり(15??~1575)】

芋川正章の次男。1575年、武田勝頼に属して三河国に参陣「長篠の戦い」で討死した。

芋川元親【いもかわもとちか(15??~16??)】

芋川親守の男(芋川正章の養子)。1614年、長尾景勝勢の武将として「大坂冬の陣」に参陣した。

芋川綱親【いもかわつなちか(15??~15??)】

芋川親正の男。

犬甘政徳【いぬかいまさのり(1511~1560)】

筑摩郡犬甘城主。小笠原長時家臣。通称大炊助。1548年、小笠原長時が「塩尻峠の戦い」で大敗すると、家臣の多くが武田晴信に降伏した。平瀬義兼、二木重高の諸家らと共に最後まで、小笠原長時に忠義を尽くした。1550年、小笠原長時が、葛尾城主村上義清を頼って落延びた後も、犬甘政徳と平瀬城主平瀬義兼だけは、深志城代馬場信春と戦った。物見のため、犬甘城から出撃したところを、馬場信春勢に包囲され、平瀬城へ落延びた。城主不在の犬甘城は、馬場信春勢の攻撃を受け落城した。村上義清が「砥石城の戦い」で、武田晴信が大敗すると、小笠原長時は平瀬城で兵を挙げたが、武田晴信に大敗し長尾景虎を頼って落延びた。

犬甘政信【いぬかいまさのぶ(15??~1582)】

犬甘政徳の男。1582年、小笠原貞慶の信濃奪還戦に参陣した。1582年、筑摩郡で木曾義昌と戦いで討死した。

犬甘貞知【いぬかいさだとも(15??~15??)】

犬甘政徳の次男。官途は主馬助。1582年「本能寺の変」後、小笠原貞慶に属して深志城奪還で活躍した。1585年、小笠原貞慶が会田城を攻撃した際、犬甘貞知も参陣した。

犬甘久知【いぬかいひさとも(1545~1615)】

犬甘政徳の三男。通称半左衛門。1582年、兄犬甘政信が筑摩郡での木曾義昌との戦で討死にし、犬甘久知が犬甘家の家督を相続した。1582年「本能寺の変」後、日岐盛武拠る筑摩郡日岐城攻めに参陣した。1585年「会田城の戦い」「高遠の戦い」など領内を統一するまで侍大将として活躍した。1582年、小笠原貞慶より所領を安堵された。小笠原秀政の代には筆頭家老として1,600石を領した。1614年「大坂の陣」には、嫡男犬甘久信が、小笠原秀政に属して参陣した。

岩岡織部【いわおかおりべ(15??~15??)】

小笠原貞慶家臣。1582年「本能寺の変」後、長尾景勝の支援を受けて深志城に入った小笠原貞種に属した。のち松平元康の支援を受けた小笠原貞慶が信濃に入ると小笠原貞種を追って小笠原貞慶を属して、安曇郡に所領を得た。以後、小笠原貞慶の安曇郡、筑摩郡平定戦に従って信濃各地を転戦した。著書に「岩岡家記」。

岩井満長【いわいみちなが(15??~15??)】

高井郡山口城主。長尾景虎家臣。官途は民部少輔。1553年、高梨政頼と共に石山本願寺証如を訪問した。武田晴信の北信濃国侵攻を受け兄岩井大和守とともに、越後長尾景虎のもとに落延びた。1578年、兄岩井大和守の病没により、岩井家の家督を相続した。1578年、武田勝頼と長尾景勝の同盟が結ばれると、飯山城に在番して武田勝頼に属した。1582年、武田勝頼が滅ぶと再び長尾景勝に仕えた。

岩井信能【いわいのぶよし(1553~1620)】

岩井満長の男。官途は備中守。1563年、父岩井満長が武田晴信との争いに敗れて長尾景虎に仕えた。1578年「御館の乱」が起こると叔父岩井成能などと袂を分かち合い、長尾景勝方に属した。「御館の乱」の論功行賞の不満で毛利秀広によって、直江信綱と山崎秀仙が謀殺されると、岩井信能は毛利秀広を討取った。1582年、岩井信能は、長尾景勝から奥信濃城の守備を任せられ、飯山城に在城した。1584年、長尾景勝方である新発田重家の討伐に参陣し、数々の戦功を挙げた。行政手腕に優れていたため、長尾景勝が領国を留守にする際には、政務を任された。1602年、直江兼続の主催によって、大国実頼、安田能元、前田利益などと共に亀岡文殊堂で歌会を行った。

上原種正【うえはらたねまさ(15??~15??)】

佐久郡八反田城主。1536年、武田信虎の信濃佐久進攻に海ノ口城を後詰した。

上原種吉【うえはらたねよし(15??~15??)】

佐久郡の豪族。1536年、武田信虎の信濃佐久進攻に海ノ口城を後詰した。

上原吉勝【うえはらよしかつ(15??~15??)】

佐久郡深堀城主。1536年、武田信虎の信濃佐久進攻に海ノ口城を後詰した。

海野棟綱【うんのむねつな(15??~15??)】

小県郡太平寺城主。官途は信濃守。1541年、村上義清は、諏訪頼重と武田信虎と連合して小県郡への侵攻を開始した。海野棟綱ら滋野一族(海野棟綱、禰津元直、望月昌盛、真田幸隆、矢沢綱頼など)との間で行われた。海野棟綱は、山内上杉憲政に援軍を求めたが、援軍を得る前に敗退した。上野国吾妻郡羽尾城主羽尾幸全を頼って落延びた。海野棟綱の要請で、箕輪城主長野業政が佐久郡に出兵したが、領地回復は出来なかった。

海野幸義【うんのゆきよし(15??~1541)】

海野棟綱の男。通称小太郎。1541年、村上義清との「神田川の戦い」で討死した。

岩村田大井貞隆【おおいさだたか(1514~1547)】

小県郡長窪城主。大井忠孝の次男(大井忠重の養子)。1493年、兄大井忠重の養子となり、本家の岩村田大井家合わせて相続した。諏訪郡の諏訪頼重や、諏訪家と同盟関係にある武田信虎と敵対した。1536年、武田信虎の「佐久郡侵攻」では、海ノ口城の後詰をした。1540年、諏訪頼重に長窪城を奪われた。1541年、武田晴信が諏訪頼重と対立し、諏訪頼重が敗れると、大井貞隆はこれに乗じて長窪城を奪回した。諏訪郡を確保した武田晴信は、さらに信濃侵攻を本格化させた。小県郡へ侵攻し長窪城を攻囲し、大井貞隆は抗戦するが家臣相木昌朝や芦田信守の内応で、長窪城は開城、自身も捕えら甲府へ連行され自刃した。岩村田大井家は弟大井貞清が相続した。

岩村田大井貞清【おおいさだきよ(15??~15??)】

南佐久郡内山城主。大井忠孝の三男。通称左衛門尉。1546年、武田晴信は「佐久郡侵攻」を行い、大井貞清、大井貞重父子が守る内山城を攻撃した。内山城は水の手を断たれ落城を待つのみとなった。小笠原長時の仲介により大井貞清は降伏した。1547年、大井貞清は躑躅ヶ崎館への出仕を促され、駒井高白斎を仲介として生命の安全を条件に武田晴信に属した。

岩村田大井貞重【おおいさだしげ(15??~15??)】

大井貞清の男。通称助左衛門。1547年、父大井貞清と共に内山城に籠城したが武田晴信勢の攻撃を受けて落城した。

岩村田大井貞景【おおいさだかげ(15??~15??)】

大井貞清の次男。

内山大井貞清【おおいさだきよ(15??~15??)】

南佐久郡内山城主。大井貞隆の男。通称左衛門尉。1546年、武田晴信は「佐久郡侵攻」を行い、大井貞清、大井貞重父子の守る内山城は、水の手を断たれ落城を待つのみとなった。小笠原長時の仲介により、大井貞清は降伏した。1547年、大井貞清は、躑躅ヶ崎館への出仕を促され、駒井高白斎を仲介として生命の安全を条件に武田晴信に属した。

内山大井貞重【おおいさだしげ(15??~15??)】

大井貞清の男。通称助左衛門。1547年、父大井貞清と共に内山城に籠城したが武田晴信勢の攻撃を受けて落城した。

内山大井貞景【おおいさだかげ(15??~15??)】

大井貞清の次男。

耳取大井政継【おおいまさつぐ(1511~1547)】

佐久郡耳取城主。大井貞隆家臣。1536年、武田信虎の信濃佐久進攻に海ノ口城の後詰した。1543年、武田晴信の「佐久郡侵攻」により、大井政継は武田晴信に降った。

耳取大井政成【おおいまさなり(1538~1615)】

大井政継の男。1582年、大井政成は武田勝頼が討死しすると、佐久郡へ侵攻した松平元康の武将芦田信蕃に降り小諸城主となった芦田信蕃その子、芦田康国に仕えた。1590年、松平元康の関東移封に伴い、芦田康真が上野国藤岡へ転封となるとそれに従った。

岩尾大井行頼【おおいゆきより(1509~1572)】

佐久郡岩尾城主。大井行真の男。官途は弾正忠。別名岩尾弾正。室は望月城主望月駿河守の娘。信濃国守護代の大井家の庶家岩尾大井家の出身。1536年、武田信虎が佐久郡海ノ口城の平賀玄信を攻めた時、平賀玄信を援け相共に防戦した。1539年、父大井行真が病没したため、大井家の家督を家督を相続した。1543年、武田晴信の侵攻により、真田幸隆の勧めに従って佐久郡の他の諸将と共に武田晴信に降った。1547年「志賀城の戦い」「上田原の戦い」など、武田晴信の信濃攻略の先鋒として戦った。 1561年「第四次川中島の戦い」では、武田晴信勢に属して嫡男大井行吉と共に戦った。

小諸大井光忠【おおいみつただ(15??~15??)】

佐久郡小諸城主。大井光照の男。官途は伊賀守。1487年、小諸の地に鍋蓋城を築城した。 後大井光忠の嫡男大井光忠が鍋蓋城の支城として乙女城を築き、小諸城の原形となった。

小諸大井忠成【おおいただなり(15??~15??)】

大井光忠の男。1553年、武田晴信によって落城した。

大須賀政信【おおすがまさのぶ(1514~1570)】

村上義清家臣。通称久兵衛。1553年、真田幸隆の調略によって武田晴信に属した。埴科郡孤落城において謀反を起こし、孤落城代小島兵庫助を討取った。

太田資忠【おおたすけただ(15??~1553)】

苅谷原城主。官途は長門守。通称弥助。1553年「第一次川中島の戦い」で、武田晴信勢が苅谷原城を攻撃した際、城兵は激しく抵抗したが、武田晴信勢は鉄砲玉よけの竹束を使って城に攻め入り、刈谷原城は陥落、太田資忠は討死した。

太田弥兵衛【おおたよへい(15??~15??)】

太田長門守の男。

大日向長利【おおひなたながとし(15??~15??)】

上水内郡古山(小川)城主。村上義清家臣。別名大日向長政。1508年、大日方長利は香坂忠宗の支援を受けて、古山城主小川貞綱を追落し、居城とした。

大日向直忠【おおひなたなおただ(15??~15??)】

大日向長利の男。1555年、大日向家は、武田晴信への恭順派と、抗戦派に二分した。大日向直忠の嫡男大日向直経は徹底抗戦を唱えたが、残る四人の弟大日向直武、大日向直長、大日向直龍、大日向直親は恭順派だった。弟たちは謀議によって文道古城城主大日向直経を襲撃し、大日向直経は重傷を負って自刃した。大日向家は武田家への恭順した。武田晴信の「千見城の戦い」で戦功を挙げて、武田家臣長坂虎房の麾下に属した。1582年、武田勝頼の滅亡後は長尾景勝に仕えた。1583年、海津城主屋代政国の叛乱に際しては千見城を守備した。

大日向直長【おおびなたなおなが(15??~15??)】

北安曇郡飯田城主。官途は佐渡守。1556年、山県昌景の攻撃により落城した。1583年、長尾景勝は大日向佐渡守に千見城の守備を命じた。

大日向主税助【おおびなたしぜいのすけ(15??~15??)】

大日向佐渡守家臣。1555年、武田晴信は、千見城を攻略した戦功により大日向主税助に感状を出した。

大日向長辰【おびなたながたつ(15??~1556)】

北安曇郡千見城主。仁科家臣。通称源吾。1556年、安曇野郡へ侵入した山県昌景の攻撃を受け、城将の大日向長辰は討死した。

大和田盛久【おおわだもりひさ(15??~15??)】

仁科盛国家臣。安曇郡大和田城主。通称大蔵丞。1532年、大和田盛久は、大和田城を築城した。

大峰蔵人【おおみねくらうど(15??~15??)】

落合治吉家臣。水内郡大峰山城主。1553年、大峰山城は、長尾景虎と武田晴信の川中島争奪戦に際し、長尾景虎勢の城砦のひとつとして利用された。1561年「第四次川中島の戦い」後、武田晴信に属した。

小笠原長棟【おがさわらながむね(1492~1542)】

筑摩郡深志城主。小笠原貞朝の次男。信濃国守護職。官途は信濃守。通称又次郎。1533年、伊那郡松尾城主小笠原貞忠を攻め、次男小笠原信定を松尾城に入れ、小笠原家一族を統一した。この戦いで、下条信氏の元にあった小笠原家伝来の「家宝、書籍」は小笠原長棟の物となった。1539年、諏訪頼重と和睦して領国の安定化を図った。1541年、出家し小笠原家の家督小笠原長時に譲った。

小笠原定政【おがさわらさだまさ(15??~15??)】

小笠原貞朝の三男。官途は左衛門尉。1551年、二木重高の安曇郡中塔城に籠城する小笠原長時に対し、武田晴信からの使者として降伏勧告のため訪ねたが、小笠原長時はこれを拒否した。小笠原長時が長尾景虎を頼った際、小笠原定政も同行した。

小笠原長時【おがさわらながとき(1514~1583)】

小笠原長棟の男。通称又二郎。官途は大膳大夫。武田晴信の信濃侵攻に際してこれと激しく戦った。1548年、小笠原長時は、諏訪郡西方衆(花岡忠常、矢島満清、小坂藤三、糊沢、有賀泰時の諸家)と結び武田晴信に対抗した。小笠原長時は、兵5,000余りを率いて塩尻峠に陣を引いたが武田晴信勢の動きをつかむことができなかった。小笠原長時勢は武田晴信勢の奇襲を受け1,000名を超える討死し敗走した。1550年、本拠林城も失陥した。1552年、信濃国を脱して長尾景虎を頼った。その後、三好長慶、足利義輝に仕えた。1568年、織田信長の上洛戦に三好党は敗れたため、再び長尾景虎に属した。長尾景虎没後には会津芦名盛氏を頼った。最期は家臣坂西勝三郎によって謀殺された。

小笠原貞種【おがさわらさだたね(15??~15??)】

小笠原長棟の次男。通称清蔵。武田晴信により兄小笠原長時が信濃国を追われると、小笠原貞種も流浪した。1582年、織田信長の信濃侵攻すると、長尾景勝の支援を受け小笠原家旧臣らと深志城を奪還した。松平元康の支援を受けた甥小笠原貞慶が三河国から信濃国に侵攻すると、深志城を明け渡し、小笠原貞種は越後国へ退去した。

小笠原長隆【おがさわらながたか(15??~1572)】

小笠原長時の男。父小笠原長時と共に武田晴信に抗するもついに本拠林城を失陥して越後の長尾景虎を頼った。その後、長尾景虎に属して各地を転戦。信濃国還往を願いがうも、越中国富山で討死した。

小笠原貞慶【おがさわらさだよし(1546~1595)】

小笠原長時の次男。官途は右近大夫。通称喜三郎。室は高畠長成の娘(日野輝資の養女)。1553年、父小笠原長時と共に、長尾景虎を頼って落延びた。三好長慶の病没後は。三好三人衆に属し「六条の戦い」に参陣するが敗れ、再び長尾景虎を頼った。1575年、織田信長より川尻秀隆を介して信濃国復帰への支援を取り付けた。1581年、京都馬揃えでは吉田兼和に必要な武具を借りて参陣した。織田信長による甲信平定後も小笠原貞慶は信濃国に領地を与えられることは無かった。1582年「本能寺の変」後、松平元康の支援を受けて信濃国に復帰した。小笠原貞種が変後の混乱に乗じて長尾景勝の支援のもと木曾義昌から奪取していた深志城を攻撃して無事これを攻略した。1583年、木曾義昌の居城木曽福島城を攻略した。1584年、小笠原貞慶は、羽柴秀吉に通じ、松平元康麾下の高遠城主保科正直をに攻撃した。羽柴秀吉、松平元康が和睦すると小笠原貞慶は松平元康の寄騎衆となった。

小笠原秀政【おがさわらひでまさ(1569~1615)】

小笠原貞慶の男。官途は信濃守。室は松平信康の娘(登久姫)。1585年、父小笠原貞慶が石川数正と共に松平元康の元もとを出奔した際は、これに属して羽柴秀吉の家臣となった。父小笠原貞慶が改易されると松平元康に再び属した。1590年、松平元康がの関東転封になると下総国古河城30,000石を領した。1613年、信濃国松本城60,000石に転封した。1614年「大坂冬の陣」では参陣したが戦功を挙げることが出来なかった。最期は、討死覚悟で羽柴秀頼勢に突入戦傷を負い病没した。嫡男小笠原忠修も討死した。遺児小笠原忠政は豊前国小倉城170,000石を領した。

小笠原忠修【おがさわらただなが(1594~1615)】

小笠原秀政の男。官途は信濃守。室は本多忠政の娘(亀姫)。1607年、父小笠原秀政に出家より小笠原家の家督を相続した。1614年「大坂冬の陣」では、小笠原家勢を率いて参陣したが、兵糧が不足して十分は働きを挙げることが出来なかった。1615年「大坂夏の陣」では、父小笠原秀政が小笠原家勢を率いて参陣した。松本城の留守居役であった小笠原忠脩は無断で参陣した。「天王寺、岡山の戦い」で、父小笠原秀政と共に羽柴秀頼勢と戦って討死した。

小笠原忠真【おがさわらただざね(1596~1667)】

小笠原秀政の次男。室は本多忠政の娘(亀姫)。1615年「大坂夏の陣」で、父小笠原秀政と兄小笠原忠脩が討死した為、小笠原家の家督を相続し、松本城80,000石を領した。小笠原忠脩の未亡人(亀姫)を室とした。豊前国小倉城150,000石に転封された。1637年「島原の乱」の際、長崎守備の任を果たした。茶人でもあり、茶湯隆盛の基盤を築いた。上野焼の育成に尽力した外、茶人の古市了和を召し抱えて小笠原家茶道古流を興した。

小笠原長次【おがさわらながつぐ(1615~1666)】

小笠原忠脩の男。官途は信濃守。室は松平康重の娘。1615年、父小笠原忠脩が「大坂夏の陣」で討死した後に小笠原長次が産まれた。小笠原家の家督は小笠原忠脩の小笠原忠真が相続した。1626年、小笠原長次は播磨龍野城50,000石と本多忠刻の室(千姫)の化粧料100,000石のうち10,000石を合わせて60,000石を領した。1637年「島原の乱」で、戦功を挙げた。内政では新田開発に尽力した。

小倉小笠原貞正【おがさわらさだまさ(15??~1585)】

小笠原貞慶家臣。安曇郡小倉城主。官途は但馬守。小笠原貞慶より安曇郡内の政務を任された。

小笠原貞頼【おがさわらさだより(15??~15??)】

小笠原長隆の男。官途は民部少輔。通称彦七郎。1590年「小田原の役」に参陣した。1593年「文禄の役」では、軍検使として渡海した。その後、松平元康から伊豆国に領地を与えられ、無人島探索に赴いた。1593年、小笠原諸島を発見して羽柴秀吉から安堵された。

小笠原頼貞【おがさわらよりさだ(15??~15??)】

小笠原長時家臣。1550年、小笠原長時に属して、武田晴信との「野々宮の戦い」に参陣した。「中塔城の戦い」にも参陣した。1582年、小笠原貞慶の信濃国平定戦に活躍し、日岐城攻めに参陣した。1583年、長尾景勝との「小谷の戦い」では侍大将して参陣した。1585年「麻績城の戦い」でも参陣した。

小草野隆吉【おぐさのたかよし(15??~15??)】

海野棟綱家臣。官途は若狭守。別名奥座隆在。1541年、海野棟綱の家臣団は「海野平の戦い」で、武田信虎、村上義清の連合軍に敗れて四散した。その後、武田晴信に仕えた、真田幸隆に属した。村上義清との戦いでは、弟小草惣左衛門と共に村上義清に偽装投降して、戦功を挙げた。1561年、海野家の名跡を継承した海野信親の家老職を務めた。

尾崎重歳【おざきしげとし(1494~1572)】

水内郡飯山城主。泉晴平の男。官途は弾正忠。通称弥七郎。別名泉弥七郎。室は市河信房の娘(光浄院)。1528年、父泉晴平の名代として上洛し、近江の朽木稙綱の館で将軍足利義晴に拝謁した。1531年、父泉晴平の病没により、家督を相続した。1553年、武田晴信の侵攻を受けると、長尾景虎を頼って落延びた。以後は嫡男尾崎重信と共に長尾景虎に属し戦功を挙げた。娘(蘭子)は樋口兼豊に嫁いだ。

尾崎重信【おざきしげのぶ(15??~15??)】

尾崎重歳の男。

小佐原信次【おさはらのぶつぐ(15??~15??)】

 高梨政頼家臣。佐原城主。通称源蔵。岩井家枝連衆。

小田井長澄【おだいながずみ(15??~15??)】

小田井城主。通称小次郎。

小田井信親【おだいのぶちか(1518~1543)】

小田井長澄の男。別名御台又六郎。1543年、武田晴信は佐久地方で八つの城を攻略したが、小田井城主小田井信親は、弟小田井信治と共に頑強に抵抗した。1544年、武田晴信は小田井城を攻撃したが小田井信親、小田井信治兄弟は武田家勢の隙に乗じて夜襲をかけたが、板垣信方と山本晴幸と共に夜襲を予見して防備を固めていたので小田井信親、小田井信治は敗走し城内に撤退した。兵力的に劣勢な小田井信親勢は武田晴信勢を押し返すとこが出来ず小田井信親、小田井信治兄弟は討死した。

小田井信治【おだいのぶはる(1520~1543)】

小田井長澄の次男。通称次郎左衛門。別名小田井又七郎。兄小田井信親と共に武田晴信に対抗した。1543年、兄小田井信親と共に武田家勢の隙に乗じて夜襲をかけたが、板垣信方と山本晴幸と共に夜襲を予見して防備を固めていたので小田井信親、小田井信治は敗走し城内に撤退した。兵力的に劣勢な小田井信親勢は武田晴信勢を押し返すとこが出来ず、小田井信親、小田井信治兄弟は討死した。

小田切幸長【おだぎりよしなが(1515~1561)】

水内郡深沢城主。官途は駿河守。別名小田切清定。1548年「上田原の戦い」に参陣した。1557年、葛山城主落合治吉を支援して葛山城に籠城した。真田幸隆の調略により、落合一族の落合遠江守、落合三郎左衛門尉が寝返った。牧之島城主馬場信春が率いる武田家勢8,000余りの猛攻を受け落城した。小田切幸長は室賀兵部の家臣山岸清兵衛と戦って討死した。小田切幸長の麾下には、小田切家七騎衆(青木刑部、朝日右近、長嶺大蔵、久保寺大学、平林内蔵允、布施太左衛門)と称される氷鉋斗女郷の在地武士団がいた。

小田切信清【おだぎりのぶきよ(15??~1592)】

小田切幸長の男。通称小田切民部少輔。1592年「文禄の役」では、村上国清家臣として渡鮮し討死した。

落合治吉【おちあいはるよし(1494~1557)】

水内郡葛山城主。村上義清家臣。武田晴信の「北信侵攻」に抵抗した。1557年、落合治吉は小田切幸長の支援を受けて葛山城に籠城した。真田幸隆の調略により、落合家枝連衆の落合弘吉、落合弘昌が寝返った。牧之島城主馬場信春が率いる武田晴信勢8,000余りの猛攻を受け落城、落合治吉は討死した。

落合弘吉【おちあいひろよし(1494~1557)】

落合治吉家臣。官途は遠江守。善光寺抑えとして堅固をほこった葛山城主落合治吉は武田晴信勢に頑強に抵抗した。1557年、落合治吉は小田切幸長の支援を受けて葛山城に籠城した。真田幸隆の調略により、落合弘吉は枝連衆の落合弘昌と共に武田晴信に寝返った。牧之島城主馬場信春が率いる武田晴信勢8,000余りの猛攻を受け落城、落合治吉と共に討死した。

落合弘昌【おちあいひろまさ(15??~15??)】

落合治吉家臣。通称三郎左衛門尉。善光寺抑えとして堅固をほこった葛山城主落合治吉は武田晴信勢に頑強に抵抗した。1557年、落合治吉は小田切幸長の支援を受けて葛山城に籠城した。真田幸隆の調略により、落合弘昌は枝連衆の落合弘吉と共に武田晴信に寝返った。牧之島城主馬場信春が率いる武田晴信勢8,000余りの猛攻を受け落城、落合治吉と共に討死した。

おりょう【おりょう(15??~15??)】

佐久郡志賀城主笠原信繁の室於愛の方の侍女喜佐の娘。1547年、志賀城落城のおり、人買いに売られるところを霞の佐平次によって買い取られた。望月城で修行を積み、小山田家配下の忍び衆の歩き巫女として諸国の情報を集めた。※「信玄狙撃」by新宮正春。

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【か】

笠原清繁【かさはらきよしげ(1515~1547)】

佐久郡志賀城主。通称新三郎。1547年、笠原清繁は上野国平井城に拠っていた関東管領の山内上杉憲政に救援を要請し、菅原城主高田憲頼の援軍を得て、武田晴信から離反した。山内上杉憲政はさらに金井秀景ら西上野衆を援軍に派遣するが、武田晴信は「小田井原の戦い」において山内上杉憲政勢を撃退した。小田井原での敗戦後に相木昌朝が寝返り城内に火を放った、笠原清繁は荻原昌之に討取られ、高田憲頼は小出越前守に討たれ落城した。室は小山田信有に二十貫で買われ側室とされ、家臣300余りも全て甲斐国へ連行され女子供が競売にかけられ遊女などにさせられた。

加藤段蔵【かとうだんぞう(15??~15??)】

忍び衆。別名「飛び(鳶)加藤」。戦国期で最も異能の忍者のうちのひとり。長尾景虎に仕えるべく越後国へ行くが、そのあまりの異能ぶりに追い出され、続いて武田晴信のもとへ行くがやはり魑魅魍魎の類と見なされ、土屋昌次に斬られた。

木辻別右衛門【きつじべつざえもん(15??~15??)】

苅屋原城主太田長門守家臣。鉄砲の名手。1551年、太田長門守が武田晴信の攻撃を受け落城した際、真田幸隆の家臣相木森之助に生け捕られ、真田幸隆に仕えた。太田長門守の家臣本間九郎と坂井名八は筧十兵衛に討取とられ、中根宇右衛門は増尾新蔵に討取られた。1582年、武田勝頼が天目山で討死すると、織田信長勢に対抗して真田昌幸は砥石城に籠城した。織田信長勢の梁田出羽守や金森五郎八らに砥石城を包囲された際、木辻別右衛門の放った鉄砲の弾は織田信忠の右腕の小手の隙間をかすめた。 

木辻元之助【きつじもとのすけ(15??~1615)】

木辻別右衛門の男。1614年「大阪冬の陣」で戦功を挙げた。

杵渕国季【きねぶちくにすえ(15??~15??)】

村上義清家臣。官途は左京亮。杵渕家は代々村上家に仕えた。1547年、村上義清と武田晴信の戦いでは殿軍を務めた。

神田将監【かんだしょうげん(15??~15??)】

小笠原長棟家臣。智謀に優れ、弓の名手。小笠原長時の後見役を務めた。1547年「塩尻峠の合戦」に参陣した。1547年、武田晴信の家臣多田昌澄の夜襲を受け討死した。

清野清秀【きよのきよひで(15??~1565)】

埴科郡清野城主。清野国俊の男。官途は伊勢守。通称道寿軒。別名清野信秀。村上家三大老のひとり。1518年、村上頼平は隠居に際して三大老を村上義清の補佐に任じた。1532年、村上義清に叛いた海野幸善と戦いその戦功により海尻城主に任じられた。1546年、武田晴信に内通した相木昌朝により海尻城は落城し更級郡に落延びた。村上義清は兵5,000を率いて海尻城を囲み、真田幸隆は城を開け渡すが直後に夜襲を行い奪還した。村上義清と共に越後国に落延びた。

清野満成【きよのみつなり(1565~1629)】

清野信秀の孫。官途は越中守。武田晴信、武田勝頼に仕えた。1582年、武田勝頼の討死後は芦田信蕃の家臣と同じく松平元康に出仕した。松平康真(加藤宗月)に従って上野国藤岡に居住した。松平康真が人を切って高野山に逃れたときにも従った。1600年「関ヶ原の役」に参陣し、のち藤岡に帰って病没した。

清野友澄【きよのとも(15??~1547)】

清野清秀家臣。通称六郎次郎。別名清野清運。1547年、松尾城を攻めるが、真田幸隆の密命を受けて村上家に属した、春原若狭守、春原惣左衛門兄弟の裏切りにより、薬師寺清三らと共に討死した。

桐原長真【きりはらちょうしん(15??~15??)】

犬甘政徳家臣。桐原城主。1550年、武田晴信勢は村井城に入り、小笠原長時の属城を攻撃した。埴原城を陥落させて勝ち鬨を挙げると、小笠原長時の属城は林城、深志城、岡田城、桐原城、山家城の五ヶ城が相次いで落城した。小笠原長時は平瀬城に入城したが、のちに村上義清を頼って塩田城に落延びた。桐原長真は周囲が武田晴信に内通する中、小笠原長時に人質を出して忠節を尽くした。

桐原真基【きりはらさねもと(15??~15??)】

桐原真貞の男。通称織部。1553年、武田晴信勢の攻撃を受け落城した。

黒澤重慶【くろさわしげあつ(15??~15??)】

南佐久郡根子屋城主。官途は駿河守。別名黒沢景家。

草間時信【くさまときのぶ(15??~1550)】

二木重高家臣。1550年「埴原城の戦い」で討死した。

草間綱俊【くさまつなとし(15??~15??)】

二木政久の男(草間時信の養子)。官途は肥前守。通称源五郎。三家老(三職城代)のひとり。1550年「埴原城の戦い」で討死した、草間時信を名跡を相続した。1582年、小笠原貞慶に属して深志城の長尾景虎勢を攻め、和議をもって開城させた。

草間大炊助【くさまおおいのすけ(15??~15??)】

高梨澄頼家臣。1513年、中野家残党が村上頼平、島津貞忠の支援によって小島田にて挙兵した。夜交景国、小島高盛らは高梨政盛が病没して、高梨澄頼が家督を相続して間もない時期にに謀反した。草間大炊助は、奇襲を行い夜交景国、小島高盛を討取った。

栗田寛高【くりたひろたか(15??~15??)】

水内郡旭山城主。栗田寛慶の男。善光寺、戸隠山顕光寺別当職。1496年、栗田寛高が父栗田寛慶の遺命を受けて寛慶寺を移直した。

栗田寛安【くりたひろやす(1525~1599)】

栗田寛高の男。官途は刑部大輔。栗田寛安は村上義清に属した。1553年、村上義清が武田晴信に敗れて、長尾景虎を頼って落延びると、長尾景虎に属した。1555年、調略に応じて武田晴信方に寝返った。武田家では60騎の足軽大将としなって旭山城に寄った。1555年「川中島の戦い」では、旭山城に籠城した。このとき武田晴信から鉄砲三百挺を与えられた。信濃善光寺周辺は武田晴信と長尾景虎との戦いの最前線となり栗田寛安は旧領をうしなった。1558年、善光寺が甲府に移転させられると、栗田寛安もこれに伴って本尊を奉じて甲府へ移住した。

栗田寛久【くりたかんきゅう(1551~1581)】

栗田寛安の男。通称刑部丞。別名栗田鶴寿。信濃国善光寺及び甲斐善光寺別当。室は山県昌景の長女(福姫)。1568年、甲斐善光寺支配を許された。1570年、旧領を回復し、水内郡を領した。1579年、松平元康に対抗するため遠江国高天神城に派遣された。1581年、松平元康の攻撃によって高天神城落城し討死した。高天神城落城の際、松平元康勢に幸若舞大夫の幸若義成がいると聞いて冥土の土産に幸若舞を見たいと所望し、松平元康はこれに応じて義成に「高舘」を舞わせた。

栗田国時【くりたくにとき(15??~1600)】

栗田寛安の次男。通称刑部丞。別名栗田寛秀。北信濃国人衆は、村上義清に属して武田晴信と戦ったが、武田晴信の勢力が北信濃国に及ぶと栗田国時は長尾景虎の共に落延びて、長尾景虎、越後長尾景勝に仕えた。長尾景勝の会津移封に伴い、信夫郡大森城主8,300石を領した。1600年、松平元康が越後長尾景勝討伐へ出陣した際、栗田国時は長尾景勝を見限る藤田信吉と共謀し松平元康と内通するが露見、共に出奔した。信夫郡の国境で150人余と共に追っ手によって謀殺された。藤田信吉ら250人余は脱出に成功し長尾景勝謀反を松平元康に訴えた。

香坂宗利【こうさかむねとし(15??~15??)】

上水内郡牧之島城主。香坂家は信濃の名族滋野家の流れを汲む、根津家の庶家。

香坂宗重【こうさかむねしげ(15??~1561)】

香坂宗利の男。官途は筑前守。室は高坂昌信の娘。1556年、武田晴信から川中島八郎丸に所領を安堵された。1557年「第三次川中島の戦い」に香坂宗重も武田晴信方として参陣した。1561年、長尾景虎との内通の嫌疑により海津城で謀殺された。武田晴信家臣の春日虎綱は香坂宗重の娘を娶った。

小泉重成【こいずみしげなり(15??~15??)】

小県郡小泉城主。村上義清家臣。官途は豊後守。通称宗三郎。1548年、小泉重成は村上義清に属して「上田原の戦い」で、武田晴信勢と戦った。1553年、小泉城主小泉重成、出浦守清、布下雅朝らが相次いで武田晴信降ると、村上義清は葛尾城を維持できず、長尾景虎と頼って越後国に落延びると、、武田晴信に属した。嫡男小泉昌宗が鉄砲の普及について武田勝頼に進言を行った。1582年、武田勝頼が滅亡すると、浪人した。

小泉宗昌【こいずみむねまさ(15??~15??)】

小泉重成の男。1548年、父小泉重成と共に村上義清に属して「上田原の戦い」で、武田晴信勢と戦った。1553年、小泉城主小泉重成、出浦守清、布下雅朝らが相次いで武田晴信に降ると、村上義清は葛尾城を維持できず、長尾景虎と頼って越後国に落延びた。その後、武田晴信に属した。鉄砲の普及について武田勝頼に進言を行った。1582年、武田勝頼が討死すると浪人した。

小泉昌家【こいずみまさいえ(15??~15??)】

小泉宗昌の男。

小島五郎左衛門【こじまごろうざえもん(15??~1550)】

村上義清家臣。1550年「砥石城の戦い」で横田彦十郎に討取られた。

小島重成【こじましげなり(15??~1553)】

村上義清家臣。埴科郡狐落城主。官途は兵庫助。通称権兵衛。1553年、真田幸隆の調略によって、狐落城の援将大須賀久兵衛が謀反を起こし、弟小島小四郎、小島与四郎と共に討たれた。

小島高盛【こじまたかもり(15??~15??)】 

高梨澄頼家臣。1513年、中野家残党が村上頼平、島津貞忠の支援によって小島田にて挙兵した際、小島高盛はそれに乗じて高梨澄頼に謀反した。

後庁久親【ごちょうひさちか(15??~15??)】

三村長親家臣。岡田伊深城主。官途は出羽守。洗馬荘は三村長親の弟伊深城主後庁家の養子になっていた後庁久親が支配し、三村長親の嫡子後庁(三村)長行が後庁久親が養子となった。

後庁長行【ごちょうながゆき(15??~15??)】

三村長親の男(後庁久親の養子)。1582年、武田勝頼が討死すると府中を奪還した小笠原貞慶に仕えた。小笠原貞慶の深志復帰に尽力し、その功を賞されて奉行人となった。

駒沢刑部【こまさざわぎょうぶ(15??~1534)】

駒沢城主。1534年、村上義国の攻撃を受け落城し討死した。

小山筑後守【こやまちくご(15??~15??)】

村上義清家臣。小山城主。1543年、武田晴信勢の攻撃を受け降伏した。

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【さ】

西条義忠【さいじょうよしさだ(15??~1548)】

村上義清家臣。北信濃国豪族衆。他にも森村清秀、屋代道斎、楽岩寺光氏など重臣。1548年、武田晴信との「上田原の戦い」で討死した。

三溝三右衛門【さみぞさんうえもん(15??~1584)】

小笠原貞慶家臣。三溝三右衛門の男。1584年、小笠原貞慶に属して「麻績城の戦い」に参陣したが惨敗し、敗走する小笠原貞慶勢の殿軍を務め、筑摩郡立峠において討死した。

沢渡盛方【さわんどもりかた(15??~1570)】

北安曇郡沢渡城主。仁科盛康の男(沢渡盛方の養子)。通称兵部。1545年、仁科盛康の沢渡盛方が養子に入りった。武田晴信に仕えた。1570年「駿河花沢城の戦い」で討死した。

沢渡盛忠【さわんどもりただ(15??~15??)】

小笠原貞慶家臣。通称九八郎。1582年、武田勝頼が討死すると、沢渡盛忠は松本城に復帰した小笠原貞慶に仕えた。1583年、逆心ありとして小笠原貞慶に捕らえられたがのちに釈放された。長尾景勝方小田切四郎太郎が仁科表へ侵攻したとき迎撃した。その戦功により沢渡家を相続することを許された。1584年、安曇郡千見城に在番し、長尾景勝勢の侵入に備えた。1588年、神明社本殿が沢渡盛忠と牛乗父子によって造営された。1590年、小笠原貞慶が下総国古河城30,000石に転封となると、沢渡盛忠もこれに従った。

塩島勝雄【しおじまかつお(15??~15??)】

仁科盛国家臣。北安曇郡塩島城主。官途は但馬守。1556年、山県昌景の攻撃を受け塩島城は陥落した。

長沼島津長忠【しまづながただ(15??~1536)】

上水内郡長沼城主。1524年、高梨政頼は長尾家を後楯として信濃に帰国し、中野に本拠を構えて北信濃におけるみずからの領主的立場を強めていったのである。これに対して島津家は、村上家を後楯として反高梨の旗幟を明確にしていた。1536年、島津貞忠が病没すると島津長忠が継ぎ兵庫介を称した。

長沼島津忠直【しまづただなお(1534~1604)】

島津長忠の男。官途は淡路守。通称月下斎。村上義清、高梨政頼らと共に武田晴信の北信濃侵攻に抵抗した。1557年、武田晴信は高梨政頼を攻撃、高梨政頼は中野城から飯山城に落延び、長尾景虎に支援を求めた。このとき、島津忠直も長沼城から大蔵城に居を移した。島津忠直は長尾景虎勢の加勢のため水内郡鬼無里を夜襲した。1561年、長尾景虎は兵18,000余りを率いて川中島に侵攻した。武田晴信は兵20,000余りを率いて八幡原で決戦を行った。長尾景虎勢は村上義清、高梨政頼、井上昌満、須田満国、島津忠直らが先鋒となった。緒戦は長尾景虎勢の優勢に展開したが、別働隊が八幡原に戻ると武田晴信勢が盛り返し、長尾景虎勢は越後国に撤退した。この戦いによって長尾景虎の北信濃国回復はならず、武田晴信の北信濃国支配は確定し、北信濃国衆の信濃復帰は断たれた。1582年、武田勝頼の討死後、北信濃の領主となった森長可の麾下に入ることを強要されたがこれを拒み、芋川親正と共に反抗したが敗れて、長尾景勝を頼り越後国へと落ち伸びた。1582年「本能寺の変」後、森長可が退去した事により長尾景虎が北信濃を所領に組み込んだ際に長沼城に復したがまもなく、島津家の家督を嫡男島津義忠に譲った。

長沼島津義忠【しまづよしただ(15??~1598)】

島津忠直の男。1596年、父島津忠直の隠居により長沼島津家の家督を相続した。1598年、長尾景勝の会津移封の際にはそれに従って信濃国を去り、陸奥長沼城を領した。1598年、島津義忠が死去したため、岩井信能の岩井利忠を島津義忠の娘婿にして家督を継承させた。

渋田見政長【しぶたみまさなが(15??~15??)】

仁科盛国の男。北安曇郡渋田見城。官途は伊勢守。別名長生寺長盛。初め僧籍にあった長誓寺にあったが還俗して仁科盛国に仕えた。1567年、武田晴信に起請文を提出した。1582年、小笠原貞慶の深志城を回復すると渋田見政長はいち早く降り、以後部将のひとりとして安曇郡の北部や筑摩郡北部の平定戦に属した。「日岐城の戦い」では、渋田見政長は古厩家らと共に戦った。1584年、水内郡鬼無里城、筑摩郡千見城を攻撃し、小笠原貞慶の青柳城攻撃を支援した。その後千見城に在番した。

島立貞知【しまだてさだとも(15??~15??)】

小笠原長時家臣。1548年「塩尻峠の戦い」に参陣した。1550年、武田晴信の林城攻めの際は、小笠原長時方には参陣せず、後に武田晴信に降伏した。村上義清の援軍を得て小笠原長時が安曇郡に侵入すると再びこれに属した。

島立貞方【しまだてさだかた(15??~15??)】

島立貞知の男。小笠原秀政の侍大将として仕えた。

須沢清左衛門【すざわせいざえもん(15??~1550)】

小笠原長棟家臣。小笠原長棟に馬廻衆として仕えた。1550年「埴原城の戦い」で、武田晴信勢の攻撃を受けて討死した。

大岩須田満国【すだみつくに(1513~1564)】

高井郡大岩城主。須田満国は村上義清と共に武田晴信の北信濃侵攻に対抗した。1553年、武田晴信に敗れ村上義清と共に長尾景虎を頼った。以後は長尾景虎に仕えた。1561年、長尾景虎は兵18,000余りを率いて川中島に侵攻した。武田晴信は兵20,000余りを率いて八幡原で決戦を行った。長尾景虎勢は村上義清、高梨政頼、井上昌満、須田満国、島津忠直らが先鋒となった。緒戦は長尾景虎勢の優勢に展開したが、別働隊が八幡原に戻ると武田晴信勢が盛り返し、長尾景虎勢は越後国に撤退した。この戦いによって長尾景虎の北信濃国回復はならず、武田晴信の北信濃国支配は確定し、北信濃国衆の信濃復帰は断たれた。

大岩須田満親【すだみつちか(1526~1598)】

須田満国の男。長尾景虎没後は長尾景勝に仕えた。須田満親は信濃の一向宗と親しかったため、長尾景虎からは北陸地方の一向宗との交渉役として用いられることが多かった。河田長親の病没後、越中方面の総指揮官となって松倉城に入り、佐々成政との戦い越中各地を転戦した。1583年、魚津城主となるが、佐々成政の攻撃を受け城を明け渡して退去し、海津城代に転じた。長尾景勝領の北信四郡(高井郡、水内郡、更級郡、埴科郡)の押さえに任じられた。1585年、真田昌幸が松平元康と対立して長尾景勝方に転じた際には、真田昌幸との交渉役を務め、真田昌幸の次男真田信繁を人質として預かった。「第一次上田城の戦い」で、真田昌幸が松平元康勢に攻められると、尾長尾景勝勢の指揮を執った。1598年、嫡男須田満胤(室は直江兼続妹)が、直江兼続を総奉行とする伏見城舟入普請において不手際が有ったとして本庄顕長、高梨頼親ら多くの家臣と共に改易され、長尾家から追放された。

大岩須田満泰【すだみつやす(15??~15??)】

須田満親の兄。

大岩須田長義【すだながよし(15??~15??)】

須田満親の男。1598年、長尾景勝の会津転封に伴い梁川城代となった。1600年「関ヶ原の役」では福島口で伊達政宗勢と戦いこれを討ち破った。

臥竜山須田信頼【すだのぶより(15??~15??)】

高井郡須田城主。

臥竜山須田信正【すだのぶまさ(1513~1585)】

須田信頼の男。武田晴信の北信進出によりその麾下に属した。1582年、武田勝頼が討死すると長尾景勝に属して所領を安堵された。1584年、長尾景勝が千見城を小笠原貞慶から奪取すると、須田信正に千見城の在番が命ぜられたが、小笠原貞慶勢の攻撃を受け落城した。1585年、長尾景勝の出兵要求に応じなかった為、謀殺された。

春原若狭守【すのはらわかさのかみ(1521~1579)】

海野棟綱家臣。官途は若狭守。別名小草野隆吉。1541年「海野平の戦い」で、海野棟綱が村上義清、武田信虎、諏訪頼重の連合軍に敗れて上野国に落ち延びると、武田晴信に仕えた。村上義清との戦いでは、弟春原惣左衛門とともに村上義清に偽装投降して、薬師寺右近之進を討取る戦功を挙げた。村上義清は楽岩寺右馬助を真田幸隆討伐に差し向けたが、真田幸隆の戦略にかかって敗れ討死した。1561年、武田晴信の次男武田信親によって海野家が再興されると家老職を務めた。

春原惣左衛門【すのはらそうざえもん(1524~1587)】

海野棟綱家臣。兄は海野信親の家老小草野隆吉。1541年「海野平の戦い」で、村上義清、武田信虎、諏訪頼重連合軍に敗れ、海野棟綱は上野国へ落ち延びた。その後、武田晴信に仕え、真田幸隆に属して、村上義清の戸石城攻めで謀略に貢献した。武勇にも優れ、信濃各地を転戦して戦功を挙げた。

春原孫右衛門【すのはらまござえもん(1544~1615)】

春原惣左衛門の男。1614年「大阪冬の陣」では羽柴秀頼勢に属した。

春原角八【すのはらすみはち(1546~1615)】

春原惣左衛門の次男。1614年「大阪冬の陣」では羽柴秀頼勢に属した。

春原勘左衛門【すのはらかんざえもん(1547~1592)】

春原惣左衛門の三男。真田昌幸に使えた。

春原右衛門【すのはらうざえもん(1567~1615)】

春原勘左衛門の男。1614年「大阪冬の陣」では羽柴秀頼勢に属した。

征矢野宗信【そやのむねのぶ(15??~15??)】

小笠原長時家臣。千見城主。

征矢野宗澄【そやのむねずみ(15??~15??)】

征矢野宗信の男。官途は大炊助。小笠原長時に馬廻衆として仕えた。1582年「会田城の戦い」に参陣した。1584年、千見城の在番を務めた。

征矢野宗功【そやのむねゆき(15??~1569)】

征矢野宗信の次男。通称甚助。小笠原長時が武田晴信に信濃国を追われた際、これに従って京畿に赴いた。1569年、三好長逸に属していた。小笠原長時の嫡男小笠原貞慶が「本圀寺の戦い」に敗北し、小笠原貞慶を落ち延びさせたのち、自らが身代わりとなって自刃した。

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【た】

高梨澄頼【たかなしすみより(1492~1547)】

高井郡中野城主。高梨政盛の男。室は長尾能景の娘。1513年、父高梨政盛の病没にともない高梨家の家督を相続した。高梨家は越後国守護代長尾為景と古くから縁戚関係があったが、長尾為景と守護職上杉定実との対立が激化した。北信濃豪族衆の長沼島津家、井上家、須田家などが上杉定実に属する中、高梨澄頼は長尾為景に属して孤立した。また南の村上義清からの攻撃を受け、所領を減らした。1524年、上杉定実を抑えた長尾為景の支援を受けて、高梨澄頼は、勢力を回復した。

高梨政頼【たかなしまさより(15??~1576)】

高梨澄頼の男。官途は刑部大輔。室は岩井成能の娘。1550年、村上義清との交戦中に武田晴信は村上方の砥石城を攻めたが、それを知った村上義清は高梨政頼と急遽和睦して砥石城救援に向かった。村上義清は「上田原の戦い」で武田晴信勢を撃破して多くの頸級を挙げた。武田晴信の「信濃経略」により村上義清、小笠原長時が逐われると、高梨政頼も領地を支えられず飯山城に退いた。1553年、長尾景虎のもとに落延びた。1561年、関東出兵では春日山城の留守居を務めた。1561年「第四次川中島戦い」では、旧領回復を図り先鋒を務めたが奪還には至らなかった。

高梨頼治【たかなしよりはる(15??~1555)】

高梨政頼の男。通称源五郎。室は村上義清の娘。高梨頼治は北信濃の有力国人であり、近隣の村上義清と勢力を競っていたが、武田晴信が信濃に進出すると和睦して、武田晴信と戦った。のちに両家の和睦してて高梨頼治は村上義清の娘を娶った。1555年「第二次川中島の戦い」で討死した。

高梨秀政【たかなしひでまさ(1528~1572)】

高梨政頼の次男。1555年、高梨秀政は「第四次川中島の戦い」に参陣し戦功を挙げたが、高梨家の旧領回復はならなかった。後長尾景虎から離れ、遠江国高天神城主小笠原長治に属した。1572年「第一次高天神城の戦い」で武田晴信と戦ったが敗れ討死した。

高梨頼親【たかなしよりちか(15??~15??)】

高梨政頼の三男。下水内郡安源寺城主。通称弥五郎。1555年「第四次川中島の戦い」に参陣した。1578年、長尾景虎病没後に勃発した「御館の乱」では、長尾三郎景虎と長尾景勝の跡目争で、高梨頼親は長尾景勝に属した。1582年「本能寺の変」後、北信を制圧した越後長尾景勝により北信濃の所領中野城に復帰した。1597年、斎藤景信や柿崎憲家らと共に、改易処分となった。

高梨盛光【たかなしもりみつ(15??~15??)】

高梨政頼家臣。上高井郡間山城主。1560年、武田晴信勢の攻撃を受け落城した。

高梨房光【たかなしふさみつ(15??~15??)】

高梨政頼家臣。上高井郡小内城主。1559年、武田晴信勢の攻撃を受け落城した。

高梨豊前守【たかなしぶぜんのかみ(15??~15??)】

高梨政頼家臣。上高井郡壁田城主。別名山田豊前守。1559年、武田晴信勢の攻撃を受け降伏した。

高梨忠直【たかなしただなお(15??~15??)】

高梨政頼家臣。上高井郡山田城主。中野高梨政盛に攻められ攻略された。

高梨国政【たかなしくにまさ(15??~15??)】

高梨政頼家臣。上高井郡桝形城主。別名山田国政。

滝沢盛政【たきざわもりまさ(15??~15??)】

村上義清家臣。埴科郡御堂城。

田口長慶【たぐちながよし(15??~15??)】

佐久郡田口城主。1536年、武田信虎の信濃佐久進攻に海ノ口城を後詰した。

田口長能【たぐちながよし(15??~1548)】

田口長慶の男。1548年、武田晴信が「上田原の戦い」で板垣信方、甘利虎泰、初鹿野伝右衛門らを失って大敗すると、佐久郡の城主達に動揺が起こった。1548年、田口城の田口長能も武田に反旗を翻した。1548年「塩尻峠の戦い」で小笠原長時を破った武田晴信は小山田信有を大将として田口城を攻撃した。武田晴信が佐久郡に侵攻して村上義清勢によって奪われた佐久郡の諸城を奪還した際、小山田信有勢の攻撃を受け田口城も陥落し討死した。

武石信広【たけいしのぶひろ(15??~15??)】

大井光照家臣。武石城主。大井光照の五男。別名大井信広。1545年、武田晴信勢の攻撃を受け落城した。

多室藤信【たむろふじのぶ(15??~15??)】

高梨政頼家臣。大川日陰城主。

滝沢盛政【たきざわもりまさ(15??~15??)】

村上義清家臣。埴科郡御堂城。

竹鼻虎正【たけはなとらまさ(15??~15??)】

村上義清家臣。小県郡武場名城。

土屋盛俊【つちやもりとし(15??~1551)】

仁科盛親家臣。北安曇郡城ヶ峰城主。通称十郎。1551年、小岩嶽城主仁科盛親と共に武田晴信勢によって討たれた。

出浦国則【でうらくにのり(15??~15??)】

村上義清家臣。埴科郡出浦城。官途は周防守。村上義清の傅役。室は村上義清の乳母。

出浦清種【でうらきよたね(1522~1570)】

出浦国則の男。官途は主計頭。通称左衛門尉。1536年、武田信虎は海尻城を包囲したが、出浦清種は室賀光氏と共に救援に赴いてこれを撃退した。1538年、長尾晴景が北信濃国に侵攻した際にも参陣した。1540年、海尻城を留守にしている間に、武田晴信勢の攻撃を受け落城した。のち国人衆らを動員してこれを奪い返した。

出浦清正【でうらきよまさ(1542~1561)】

出浦清種の男。官途は下野守。1538年、長尾晴景の北信濃国に侵攻すると七つの頸を挙げる戦功を挙げた。村上義清と共に越後国に落延びた。1555年、村上国清の傅役に任じられた。

出浦盛清【でうらもりきよ(1546~1623)】

出浦清種の次男。官途は対馬守。村上義清が越後国の落ち延びると武田晴信に属した。横谷幸重と共に吾妻郡忍者集団の頭領の双璧として並び称され、麾下の忍び衆を統率して戦功を挙げた。1582年「本能寺の変」後は、真田昌幸に属して嶽山城を守備した。後に真田信幸に仕え、岩櫃城に居住し、岩櫃城代や吾妻郡奉行に就いた。1590年「小田原の役」では「忍城の戦い」で戦功を挙げた。

出浦幸吉【でうらまさよし(1566~1650)】

出浦盛清の男。官途は上総介。通称半平。真田昌幸の上州攻略の陣立てで武者奉行及び足軽隊を務めた。1582年「大戸城の戦い」で戦功を挙げた。1590年「小田原の役」に参陣した。1597年、岩櫃城代を務めた。真田信幸の家老職となり1,000石を領した。

寺尾重頼【てらおしげりょり(15??~15??)】

村上義清家臣。寺尾城主。1550年、真田幸隆の調略によって武田晴信勢に属したが、村上義清勢から攻撃受けた。真田幸隆が援軍に向かった。

東条信広【とうじょうのぶひろ(15??~15??)】

村上義清家臣。埴科郡雨飾城主。官途は遠江守。娘を村上義清に嫁がせた。1556年、武田晴信は長尾景虎との川中島合戦に備え、長尾景虎勢の軍事拠点である雨飾城を真田幸隆と春日正忠に攻略させた。東条信広は長尾景虎の元に落延びた。後に枝連衆の東条利光が長尾景勝に属して所領を回復した。

塔ノ原長門守【とうのはらながとのかみ(15??~15??)】

安曇郡塔ノ原城主。1550年、武田晴信は、塩尻峠を越え小笠原長時が籠城する村井城を攻撃すると、小笠原長時は村上義清の元へ落延びた。村井城が落城すると付近の大城城、深志城、岡田城、桐原城、山家城の五城も降った。武田晴信は深志城を惣普請し、城代として馬場信春、日向是吉を置き、深志城周辺の在地領主を攻略した。塔ノ原長門守、平瀬義兼、古厩因幡守は、武田晴信に抵抗した。1551年、平瀬城落城。1552年、小岩嶽城落城。1553年、刈屋原城落城、塔ノ原城落城した。1553年、塔ノ原長門守は武田晴信に属して「第三次川中島の戦」に参陣した。

塔ノ原三河守【とうのはらみかわのかみ(15??~15??)】

塔ノ原長門守の男。1582年、武田勝頼が滅亡し、織田信長が「本能寺の変」で横死すると、府中には松平元康の支援を受けた小笠原貞慶が侵攻し、在地勢力の攻略を開始しました。塔ノ原三河守は攻略以前に小笠原貞慶に降伏し、日岐城攻略の先鋒となりました。小笠原貞慶に反感を抱いていた塔ノ原三河守は小岩嶽城主古厩因幡守、稲倉城主赤沢経康と共に謀反を企てた。1583年、赤沢経康は切腹、塔ノ原三河守と古厩因幡守は松本城で謀殺された。この時、塔ノ原城は小笠原勢に急襲され落城した。

常田綱旨【ときたつなむね(1483~1568)】

海野棟綱家臣。通称右衛門。1541年「海野平の戦い」以後、山内上杉憲政の元に落ち延びたが、 真田幸隆が小県郡を回復すると、真田幸隆を頼って武田晴信に属した。

伴野貞祥【とものさだよし(1471~1559)】

佐久郡前山城主。伴野光信の男。大井と対立して、武田晴信に属して信濃平定戦に協力した。1543年、武田晴信は長窪城主大井貞隆を攻めるため前山城に入城した。1546年、武田晴信は再び「佐久侵攻」を行ない、前山城に布陣して内山城の大井貞清、大井貞重父子を攻撃した。大井貞清は内山城を開城し、野沢城に蟄居した。1548年、武田晴信が「上田原の戦い」で村上義清に敗れると抗いきれずに村上義清に降った。1548年「塩尻峠の戦い」後、武田晴信に帰属した。武田晴信は、佐久衆に占拠された前山城を攻め落として奪還、敵数百人を討ち取り、村上義清方の城十三ヶ城が自落した。1549年、野沢城主伴野信是も武田晴信に降伏した。1550年、武田晴信は砥石城の攻略に失敗、村上義清は再び佐久郡に侵攻し野沢周囲を放火、武田晴信の拠点である桜井山城を攻撃したが、武田晴信勢の城で落城したものはなかった。

伴野信守【ともののぶもり(15??~1582)】

伴野貞祥の男。1582年、武田勝頼が討死すると、織田信長勢に属した。1582年「本能寺の変」で、織田信長が討死すると北条氏直勢が佐久郡に侵攻した。伴野信守と伴野貞信は北条氏直に属した。松平元康は依田信蕃に佐久郡、小県郡の在地土豪の懐柔を命じたが、伴野信守はこれに属さず抵抗した為、依田信蕃の攻撃され前山城は落城、伴野信守は討死した。

伴野貞信【ともさだのぶ(15??~15??)】

伴野信守の男。

伴野貞慶【とものさだよし(15??~15??)】

小笠原長時家臣。官途は刑部少輔。小笠原長時が越後に落延びると、武田晴信に仕えた。

伴野又一郎【ともまたいちろう(15??~1582)】

伴野貞慶の男。武田信勝の小姓。1582年「天目山の戦い」で武田信勝に殉じた。

等々力定厚【とどろきさだあつ(15??~15??)】

仁科盛明家臣。等々力城主。官途は豊前守。通称治右衛門尉。1553年、武田晴信が筑摩郡に侵攻すると、仁科盛明は降伏して武田晴信の五男仁科盛信を養子に迎えた。1552年、仁科盛信に起請文を提出した。1580年、仁科盛信から領地の安堵状を得た。

等々力治右衛門尉【とどろきじざえもんのじょう(15??~16??)】

等々力定厚の男。1582年、武田勝頼が討死すると、松本城に復帰した小笠原貞慶に属した。1614年「大坂冬の陣」には小笠原忠脩に属して参陣した。

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【な】

中沢清季【なかざわきよすえ(15??~15??)】

村上義清家臣。杵渕国季の男。中沢清季は、村上義清が長尾景虎の元に落延びる際、村上義清と共に越後国に赴くことを望んだが、村上義清は武田晴信に仕えるように諭した。

中沢久吉【なかざわひさよし(1546~1620)】

中沢清季の男。1582年、武田勝頼が討死すると、北条氏直勢に属して信濃国岩村田城守備した。その後、小田原城に母ら人質がいることを省みず、松平元康勢の芦田信蕃に内応した。嫡男中沢久次は「関ヶ原の役」では、松平秀忠に属して「上田城の戦い」で戦功を挙げ、上野国藤岡城を領した。1614年「大坂冬の陣」に参陣した。

中島明延【なかじまあきのぶ(15??~1591)】

小笠原長時家臣。中島宗延の男。通称茶屋四郎左衛門。若い時分に病を患い、大永期に京都へ出て風流の生活を送ったとゆう。武田晴信に信濃を追われた小笠原長時が同宗である三好長慶を頼って1553年に京都へ逃れ、三好長慶の斡旋で将軍足利義輝の弓馬師範となったとき、主従の縁でしばしば明延宅を訪ねて茶会を催した。このため「茶屋」と称したといわれる。豪商茶屋四郎次郎清延の父祖とされる。

成相源三【なるあいげんざ(15??~15??)】

小笠原貞慶家臣。1582年、堀内与三左衛門ら会田衆らが長尾景勝に通じた際、小笠原貞慶勢として「会田の戦い」に参陣した。

南条右馬助【なんじょううまのすけ(1518~1571)】

村上義清家臣。耕雲寺住職。別名乾巨。森村清秀、屋代道斎、楽岩寺光氏など並ぶ家臣。真田幸隆の調略によって、武田晴信に降った。

仁科盛国【にしなもりくに(15??~15??)】

北安曇郡森城主。仁科盛明の男。官途は弾正少弼。仁科家は代々安曇郡の国人領主。 枝連衆を安曇野郡周辺に分家させて勢力を拡大した。青柳清長、古厩盛兼、飯森盛春、渋田見盛家や弟丸山盛慶。

仁科盛明【にしなもりあき(15??~15??)】

仁科盛国の男。官途は安芸守。娘は小笠原長時の室。1548年「塩尻峠の戦い」の際、小笠原長時に下諏訪郡の拝領を願って断られた為、戦線を離脱し、小笠原長時勢崩壊の切っ掛けを作った。小笠原長時が越後国に落延びると、武田晴信に属した。1550年、仁科盛政と共に駒井高白斎と会見し、小笠原長時が越後国に落延びると武田晴信に属した。

仁科盛政【にしなもりまさ(15??~1561)】

仁科盛明の男。仁科盛政は、小笠原長時に属して小笠原長時や村上義清などと共に「塩尻峠の戦い」などで武田晴信と度々戦った。1543年、武田晴信に降り、後に長尾景虎に寝返った。1561年、武田晴信によって謀殺された。仁科盛政の死後、武田晴信の五男、仁科盛信が養子として仁科家を継いだ。

仁科盛信【にしなもりのぶ(15??~15??)】

武田晴信の五男(仁科盛政の養子)。別名武田盛信。

仁科信基【にしなのぶもと(1574~1623)】

仁科盛信の男。通称は勝五郎。1582年、織田信長の「甲州侵攻」が開始され、仁科盛信の守備する高遠城に侵攻してくると、仁科信基は仁科盛信の妹松姫と仁科信基の妹督姫、武田勝頼の娘の貞姫と武田家臣小山田信茂の娘香具姫と共に、武蔵国八王子へと落延びた。身体があまり健康では無く、武田勝頼の滅亡後は、八王子の心源院で過ごした。その後、松平元康と対面した時に仁科家の存続と仁科盛信の家系を名乗ることを願い出て、それを許され、以降は仁科家嫡流として松平元康の馬廻衆に列し3,100石を領した。

仁科信貞【にしなのぶさだ(15??~15??)】

仁科盛信の次男。通称は源兵街。1582年、武田勝頼が討死すると、兄仁科信基とは別行動で祖母方の油川家の元に逃れ、油川家を称した。後に松平元康に謁見した時にも、仁科家を隠したままであった。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康に属した。

仁科信久【にしな のぶひさ(15??~15??)】

仁科盛信の四男。母は福知新右衛門の娘。松平元康に謁見した時に仁科盛信の四男と称した。

仁科信久【にしな のぶひさ(15??~15??)】

仁科盛信の四男。松平元康に謁見した際、仁科盛信の四男と称した。

西牧信道【にしまきのびみち(15??~15??)】

安曇郡西牧城主。通称四郎右衛門。1548年、武田晴信は「上田原の戦い」で村上義清に大敗した。この敗北により諏訪西方衆らが反乱を起こした。小笠原長時が塩尻峠に布陣した。武田晴信は、情報収集や内応工作をしながら上原城に進出した。翌朝の武田晴信勢は塩尻峠に奇襲攻撃と、小笠原軍後陣の三村長親、西牧信道、山家昌治、二木重高の内応によって、小笠原長時勢は敗走した。1582年、武田勝頼が討死すると、飛騨に逃れていた小笠原貞慶が松本城に入城した。西牧家は小笠原貞慶によって討たれた。

禰津元直【ねづもとなお(1495~1575)】

小県郡禰津城主。官途は宮内大輔。通称常安斎。1541年、武田信虎の戦いに破れ、諏訪頼重を通じて降伏した。1542年、娘(禰津御寮人)が武田晴信に嫁いだ。1545年、武田晴信に仕え、禰津政直に家督を譲った。「諏訪の戦い」「砥石城の戦い」で戦功を挙げ、旧領を回復した。「岩櫃城の戦い」の戦功を挙げた。1575年「長篠の戦い」で討死した。

禰津勝直【ねづかつなお(15??~1575)】

禰津元直の男。1575年、禰津勝直が「長篠の戦い」で討死した。

禰津政直【ねづまさなお(1535~1590)】

禰津元直の次男。官途は宮内少輔。1541年「海野平の戦い」で、海野棟綱が村上義清、武田信虎、諏訪頼重の連合軍に敗れて上野国に落ち延びると、真田幸隆らと共に上野国吾妻郡に落延びた。1545年、武田晴信に仕え、武田家の勢力拡大を支えた。1575年、兄禰津勝直が「長篠の戦い」で討死したため本領を弟禰津根津信忠の嫡男禰津信光に譲って隠居した。1582年、織田信長による「武田家征伐」の際は飯山城に在番していたため、難を逃れた。1583年、禰津政直は松平元康に仕えた。松平元康の関東転封後、上野国豊岡城に5,000石を領した。

禰津信忠【ねづのぶただ(15??~15??)】

禰津元直の三男。1575年、兄禰津勝直が「長篠の戦い」で討死したため、禰津信忠の嫡男禰津信光が禰津宗家を相続した。

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【は】

羽田幸清【はだうききよ(1520~1554)】

大井信隆家臣。佐久郡和田城主。大井家五騎衆のひとり。1545年、武田晴信に攻撃を受け大井信隆勢は全軍討死した。 羽田幸清は、大井信定に属して武田晴信に抵抗を続けた。1554年、武田晴信の「信濃侵攻」により落城した。羽田幸清は下和田の矢崎城において、大井信定と共にに戦い、武田晴信勢に討たれた。

羽田竹久【はだたけひさ(15??~15??)】

羽田幸清の男。官途は筑後守。別名羽田武久。武田晴信の「信濃侵攻」で、降伏した。1582年、武田勝頼が討死すると、真田昌幸に仕えた。

坂西時重【さかにしとにしげ(15??~1583)】

小笠原長時家臣。1583年、富田氏実邸に招待されるが、そこで小笠原長時夫妻と子供を斬殺した。逃れようとするところを芦名盛国の家臣に斬られた。

林常重【はやしつねしげ(15??~15??)】

小県郡和合城主。村上義清家臣。官途は能登守。村上家十八人衆のひとり。武田晴信勢の攻撃によって落城、小泉五郎左衛門が城主に任じられた。

東条信広【ひがしじょうのぶひろ(15??~15??)】

埴科郡尼巌(雨飾)城主。官途は遠江守。娘を村上義清に嫁がせた。武田晴信の北信濃侵攻に抵抗した。1556年、武田晴信勢の真田幸隆に攻められて落城し、長尾景虎の元へ落ち延びた。後に枝連衆の東条利光が長尾景勝に属して所領を回復した。

日岐盛次【ひおきもりつぐ(15??~15??)】

筑摩郡日岐城主。日岐盛高の男。小笠原長時家臣。官途は丹波守。

日岐盛直【ひおきもりなお(15??~15??)】

日岐盛次の男。別名松田盛直。1582年、弟日岐盛武と共に長尾景勝に属したが、松平元康の援護を受けた小笠原貞慶が深志城に復帰し、このため日岐盛武は川中島、日岐盛直は更級郡八幡へ退去して両者は対峙した。1583年、小笠原貞慶と日岐盛直、日岐盛武は和睦した。1584年、長尾景勝は、日岐盛直には稲荷山在城を命じ、八幡神領一円を預けた。日岐盛直は小笠原貞慶につかず、長尾景勝に属し更級郡、筑摩郡境の警備をしていた。1598年、長尾景勝の会津移封に伴い日岐盛直も会津へ移った。その時、日岐縫殿助に屋敷に移り、従前どおり八幡宮を祀るよう神主職を預けた。会津では1,500石を領した。

日岐盛武【ひきもりたけ(15??~15??)】

日岐盛次の次男。官途は丹波守。1582年、筑摩郡下生坂日岐城主である兄日岐盛直とともに長尾景勝に属した。日岐大城の城主織部佐盛直は長尾景虎の元へ落ち延びた。残った日岐盛武が生坂谷を守備した。南信から松平元康の援護を受けた小笠原貞慶が深志城に復帰し、このため日岐盛武は川中島、日岐盛直は更級郡八幡へ退去して両者は対峙した。1583年、小笠原貞慶と日岐盛直、日岐盛武は和睦した。以後小笠原貞慶に属した。

平瀬義兼【ひらせよしかね(15??~1551)】

安曇郡平瀬城主。小笠原長時家臣。通称甚平。1550年、武田晴信が、埴原城を陥落させて勝ち鬨を挙げると、小笠原長時方の林城、深志城、岡田城、桐原城、山家城の五ヶ城が相次いで落城した。小笠原長時は林城を捨てて、平瀬義兼が守備する平瀬城に逃れた後、葛尾城の村上義清を頼って落ち延びたが、その後も犬甘政徳らと共に武田晴信に抵抗した。武田晴信が「砥石城の戦い」で村上義清に大敗すると、小笠原長時は再び平瀬城に入ると筑摩郡、安曇郡の豪族衆が参陣した。深志城主馬場信春、日向是吉は籠城の態勢を整えて甲府に報じた。武田晴信勢が小県郡に侵入すると村上義清は筑摩郡から撤退した。村上義清が撤退すると、旧臣諸将の脱落が相次いだ。「野々宮の戦い」で、武田晴信勢を撃退するも、体勢は翻らなかった。1551年、武田晴信は、小笠原長時の拠点、平瀬城を攻撃、平瀬義兼以下二百四名を討ち取り平瀬城は落城した。

平林正直【ひらばやしまさなお(15??~15??)】

上水内郡上尾城主。平林正直(同名)の男。嫡男平林正頼が幼少の為、弟平林直長に家督を譲るが、平林正頼が元服しても家督を譲らず、お家騒動になった。平林直長が破れ、平林正頼が家督を相続した。

平林正家【ひらばやしまさいえ(15??~15??)】

平林正直の男。武田家臣。武田晴信の「北信濃侵攻」が始まると、平林正家は武田晴信に属し、牧野原城主馬場信春に従い、牧野島城の副将となった。1582年、織田信長勢によって上尾城は攻められ、いったん上尾城に退いたが、再び奪い返し、その後は長尾景勝に 属し、会津への転封により白河小峯城へ移った。

平林正恒【ひらばやしまさつね(1550~1622)】

平林正家の男。1582年、織田信長、松平元康連合軍により「天目山の戦い」で武田勝頼が討死すると越後国に落ち延び長尾景勝に仕えて250石を領した。直江兼続に算勘を腕を買われ1,000石を領した。長尾景勝が会津若松城に転封になるとそれに従った。1598年、白河小峰城代に任じれた。1601年、福島城二の丸に入り、伊達郡、信夫両郡の奉行となった。1608年、春日元忠が病没すると、その後を継いで郡代と奉行を兼ねた執政となり、直江兼続の下で藩政諸般を統括した。

平林弥右衛門【ひらばやしやうえもん(15??~15??)】

小笠原貞慶家臣。1582年「本能寺の変」後、松平元康の支援を受けた小笠原貞慶に属して三河国から信濃国に侵攻した。1582年、芦名盛重に寄食していた小笠原貞慶に対し、深志城に迎える為の使者を務めた。

平賀成盛【ひらがなりもり(15??~1540)】

南佐久郡海ノ口城主。通称平賀玄信。大井家の庶流で岩村田大井家の出身。岩村田大井家の枝連衆平賀家を継いで平賀城主となった。大井家の先鋒として武田信虎と争った。1535年、武田信虎は諏訪家と和睦、今川義元と甲駿同盟を結び佐久郡侵攻を本格化させた。1540年「佐久郡侵攻」が行われ、平賀成盛は海ノ口城で武田信虎勢の攻撃を撃退したが、武田晴信の奇策により落城し平賀成盛は討死した。

平賀政勝【ひらがまさかつ(15??~15??)】

佐久郡の豪族衆。1536年、武田信虎の「佐久郡侵攻」では海ノ口城の後詰行った。

平賀元徳【ひらがげんとく(15??~15??)】

佐久郡の豪族衆。1536年、武田信虎の「佐久郡侵攻」では海ノ口城の後詰行った。

平賀元貞【ひらがもとさだ(15??~15??)】

佐久郡の豪族衆。1536年、武田信虎の「佐久郡侵攻」では海ノ口城の後詰行った。

平賀元成【ひらがげんせい(15??~15??)】

佐久郡の豪族衆。1536年、武田信虎の「佐久郡侵攻」では海ノ口城の後詰行った。

平原全真【ひらはらぜんしん(15??~15??)】

佐久郡平原城主。1540年、武田晴信の「佐久郡侵攻」の際、平原全真も武田晴信に降伏した。1547年、武田晴信が「上田原の戦い」で、村上義清と戦って敗れると、佐久郡の豪族衆は動揺して武田晴信から離反した。平原全真も離反したが、武田晴信勢は佐久郡の諸城を次々に攻略した。平原全真は再び武田晴信に属した。1582年、武田勝頼の討死後は、北条氏直に属した。その後松平元康の家臣芦田信蕃が佐久郡に侵攻すると、平原全真と甥平原盛繁は戦わずして芦田信蕃に降った。

深井棟広【ふかいむねひろ(1490~1563)】

海野棟綱家臣。通称右衛門尉。別名深井棟廣。1541年「海野平の戦い」で、村上義清、武田信虎、諏訪頼重連合軍に敗れ、海野棟綱は上野国へ落ち延ると、真田幸隆に仕えた。深井棟広の娘(むね)は真田幸隆の兄真田綱吉に嫁いだ。

福沢顕昌【ふくざわあきまさ(15??~15??)】

村上義清家臣。官途は修理亮。1541年「海野平の戦い」で、村上義清、武田信虎、諏訪頼重連合軍に敗れ、海野棟綱は上野国へ落延るた。所領の一部を伊勢大神宮に寄進した。

福田美作守【ふくだみさくのかみ(15??~15??)】

南佐久郡福田城主。武田晴信勢の侵攻を受け福田城は陥落した。

二木重高【ふたつぎしげたか(1503~1565)】

安曇郡西牧中塔城主。二木重信の男。小笠原長時家臣。官途は豊後守。1548年「塩尻峠の戦い」で、弟二木政久、二木宗末らと共に参陣した。小笠原長時勢が塩尻峠に布陣すると武田晴信は、情報収集や内応工作をしながら上原城に進出した。翌朝の武田晴信勢は塩尻峠に奇襲攻撃と、小笠原長時勢の三村長親、西牧信道、山家昌治、二木重高の内応によって、小笠原長時勢は敗走した。1550年、武田晴信に属して「野々宮の戦い」で戦功を挙げた。流浪する小笠原長時を援助した。1555年、深志城代馬場信房が三村長親の攻撃を受けた際、これと戦って戦功を挙げた。

二木重吉【ふたつぎしげよし(1530~1611)】

二木重高の男。官途は豊後守。1545年、小笠原長時に属して、武田晴信の攻撃を受けた箕輪藤沢頼親救援に赴いた。1554年、父二木重高と共に武田晴信に属した。1582年、弟二木盛正、嫡男二木重次らと共に小笠原貞慶に仕えた。小笠原貞種が長尾景勝の支援を受けて深志城に入城すると、二木重吉らは小笠原貞慶を支援し小笠原貞種を深志城から追い落としようやく小笠原貞慶の深志復帰が成った。1583年、小笠原貞慶は、西牧城主西牧信道を滅亡に追いやると、その遺領の代官職を命ぜられた。1584年「麻績城の戦い」では、深志城の留守役を務めた。1611年、小笠原秀政の諮問に応じるため「二木家記」を著した。

二木重次【ふたつぎしげつぐ(15??~15??)】

二木重吉の男。通称八右衛門。1582年、西牧金松寺に小笠原貞慶を訪ねた。1582年「本能寺の変」後、信濃に平定を進める小笠原貞慶に属して信濃各地を転戦した。1584年「麻績城の戦い」に参陣した。

二木政実【ふたつきまさざね(15??~15??)】

二木重信の次男。小笠原貞慶家臣。歩行頭役のひとり。

二木宗久【ふたつきむねひさ(15??~15??)】

二木重信の三男。小笠原貞慶家臣。歩行頭役のひとり。

古厩盛兼【ふるまやもりかね(15??~1552)】

仁科盛国の三男。安曇郡小岩嶽城主。通称平兵衛。兄に仁科盛能、青柳清長、弟に飯森盛春、渋田見盛家。安曇郡の国人衆で信濃国守護職小笠原長時に属した。武田晴信の「信濃侵攻」では、村上義清に属して抵抗した。1551年、武田晴信勢の攻撃を受けて支城の宿城が落城。1552年、小岩嶽城も落城し自刃した。

古厩盛勝【ふるまやもりかつ(1530~1583)】

古厩盛兼の男。官途は因幡守。1552年、父古厩盛兼が討死すると武田晴信に属した。1582年、小笠原貞慶が深志城に復帰するとこれに仕えた。「日岐城攻め」には三男古厩成利が参陣した。1583年、塔原城主海野幸貞、苅谷城主赤沢経康と共に謀反を企図し、深志城で誘殺された。

古厩盛時【ふるまやもりとき(1550~1583)】

古厩盛勝の男。1583年「細野郷の戦い」で討死した。

古厩盛親【ふるまやもりちか(1552~1583)】

古厩盛勝の次男。小笠原秀政に仕えて足軽大将を務めた。

古厩成利【ふるまやなりとし(1555~1600)】

古厩盛勝の三男。

古厩伝右衛門【ふるまやでんざえもん(1556~1615)】

古厩盛勝の四男。

古畑重家【ふるはたしげいえ(15??~15??)】

木曽家庶流。官途は伯耆守。1582年、深志城代であった木曾義昌に属した。1584年、小笠原貞慶の「木曾侵攻」により捕虜となったが、二木重吉らの仲介で小笠原貞慶に属した。1585年、小笠原貞慶の「高遠城の戦い」に参陣した。

星川備前守【ほしかわびぜんのかみ(15??~15??)】

高梨政頼家臣。大川沢端城主。

星野盛通【ほしのもりみち(15??~1553)】

北安曇郡星野城主。通称内膳正。1553年、武田晴信に属して「第一次川中島の戦い」に参陣したが討死した。

細萱長知【ほそがやながとも(15??~15??)】 

小笠原長時家臣。官途は河内守。武田晴信による信濃平定により仁科盛信に属した。1580年、仁科盛信の命を受けて大町に参陣した。1582年、武田勝頼が討死すると、深志城に復帰した小笠原貞慶に仕えた。「日岐城の戦い」「塔原城の戦い」「古厩城の戦い」に参陣した。1583年、北信濃国の小谷へ参陣し、謀反した沢渡盛忠を捕らえた。1584年、羽柴秀吉、柴田勝家の対立では羽柴秀吉方の長尾景勝を助勢するた参陣した。

穂高盛員【ほだかもりかず(15??~15??)】 

小笠原長時家臣。通称内膳佐。室は日岐盛武の妹。1582年、北信濃国を巡る長尾景勝、小笠原貞慶の争いでは、穂高盛員は日峡盛武と共に日岐盛直(盛武の兄)の拠る日岐城に籠城し、小笠原貞慶に対抗したが敗れて川中島へ落延びた。穂高盛員の室は小笠原貞慶に捕らえられ、のち小笠原頼貞に側室となった。その後、深志城を拠点に勢力拡大する小笠原貞慶に属した。1590年「小田原の役」に参陣した。

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【ま】

曲尾常光【まがりおつねみつ(1499~1566)】

曲尾城主。 曲尾政常の男。官途は越前守。通称源右衛門。1542年、武田晴信に降伏した。 1553年、武田晴信から松本郷200貫を賜り配下の水出治郎右衛門ほか三名を引き連れて移った。

曲尾重光【まがりおしげみつ(15??~1592)】

曲尾常光の男。通称源右衛門。

曲尾昌光【(まがりおまさみつ15??~1562)】

曲尾重光の男。通称平助。

松田盛直【まつだもりなお(15??~15??)】

仁科盛国家臣。安曇郡稲荷山城主。1582年、松田家の旧跡の一部を長尾景勝が遠山丹波守に知行させた。1584年、仁科姓から松田家の名跡を継がせた松田盛直に長尾景勝は稲荷山在城を命じ、八幡神領一円を預けた。松田盛直は小笠原貞慶につかず、長尾景勝に属し更級郡、筑摩郡境の警備をしていた。1598年、長尾景勝の会津転封に伴い松田盛直も会津り1,500石を領した。

真々部盛幸【ままべもりゆき(15??~15??)】

仁科盛国家臣。安曇郡真々部館。官途は尾張守。1550年、真々部館は、真々部盛幸によって築かれた。

真々部真光【ままべまさみつ(15??~15??)】

真々部盛幸の男。官途は尾張守。武田晴信の女婿。1555年、安曇郡が武田晴信の勢力下になると、真々部真光も仁科盛政と共に武田晴信の麾下に属した。以後は、仁科盛信に従って信濃計略に協力した。1582年、旧領回復のため安曇郡西牧金松寺に小笠原貞慶が侵攻するとこれに属した。以後は譜代衆として小笠原貞慶に仕えた。

丸山貞政【まるやまさだまさ(15??~15??)】

平瀬義兼家臣。1551年、武田晴信に敗れ、京畿に逃れて和泉に流浪し、のち織田信長の保護を受けた。

丸山政知【まるやままさとも(15??~15??)】

丸山貞政の男。官途は丹後守。1551年、武田晴信に敗れ、父丸山貞政と共に京畿に逃れて、織田信長の保護を受けた。1577年、信濃安曇郡吉野郷に戻った。1582年、織田信長の「武田討伐」で、北信濃国の武田勝頼勢力が減退すると共に、織田信長から吉野郷を安堵され。1590年、小笠原秀政から吉野郷、寺所郷において50貫文の知行を与えられた。

丸山盛秀【まるやまもりひで(15??~15??)】

仁科盛国家臣。北安曇郡千速城主。官途は内蔵助。

三村長親【みむらながちか(15??~1555)】

筑摩郡妙義山城主。官途は駿河守。小笠原長時に属して武田晴信に対抗した。1548年「塩尻峠の戦い」で、小笠原長時勢であった国人衆仁科盛国、山家昌治、西牧信道らと共に武田晴信の調略に応じて寝返った。武田晴信勢の奇襲で動揺していた小笠原長時勢は、三村長親の突然に反旗にもはや耐えることが出来ず壊滅した。この勝利により武田晴信は「上田原の戦い」での敗戦の痛手から回復「北信濃侵攻」の勢いを完全い取り戻した。三村長親は兵200余りと共に甲斐府中の一蓮寺に宿をとったが、武田晴信勢の突然の焼き討ちを仕掛けられ、三村長親を始めとした三村一党は為す術も無く皆殺しにされ、一蓮寺と共に焼かれた。

耳塚元直【みみづかもとなお(15??~1582)】
 
小笠原長時家臣。通称作左衛門。1582年、小笠原貞慶が西牧金松寺に侵攻すると参陣して100貫文の領地を安堵された。小笠原貞慶が長尾景勝の支援を受ける日岐盛直を攻撃すると、耳塚元直は日岐盛直に属して小笠原貞慶と戦ったが討死した。

宮森信親【みやもりのぶちか(15??~15??)】

尾崎重歳家臣。水内郡犬飼城主。1553年、武田晴信の侵攻を受けると、尾崎重歳と共に長尾景虎に元に落延びた。

村上義清【むらかみよしきよ(1503~1573)】

更科郡葛尾城主。村上顕国の男。官途は信濃守。室は小笠原長棟の娘。武田晴信の信濃侵攻を阻んだ猛将。1541年、武田信虎、諏訪頼重らと共に小県郡の海野棟綱、真田幸隆らを上野国に追落した。1548年「上田原の戦い」では板垣信形、甘利虎泰らを討取った。1550年「砥石城の戦い」では、横田高松を討取った。武田晴信は正攻法での砥石城を攻略をあきらめ、小県郡への復帰を狙う真田幸隆の策を容れて謀略による北信制覇を進めた。1551年、堅城を誇った砥石城も真田幸隆の謀略によって攻略された。1550年、安曇郡林城主小笠原長時が城追われると、北信濃の勢力図は、親武田晴信勢力に傾き、村上義清勢の諸豪族も武田晴信に属するようになった。1553年、村上義清は長尾景虎を頼り越後国に落延びた。1553年、長尾景虎の支援を受け、葛尾城を奪還したが、小県郡、更科郡の武田晴信の勢力を駆逐できず、再び越後国へ落延びた。以後、長尾景虎と武田晴信は北信濃国の覇権を巡って続く「川中島の戦い」が続いた。村上義清は何度も本拠奪還のため長尾景虎と共に北信濃国に侵攻するがその都度阻まれ、旧領回復を夢見ながらも越後国で没した。

村上政国【むらかみまさくに(15??~15??)】

村上義清の男。1553年、父村上義清と共に越後国に落延び、長尾景虎に仕えた。長尾景虎の病没は長尾景勝に仕えた。1590年、弟村上国清と共に長尾景勝勢に属し、羽柴秀吉の「小田原の役」で先鋒を務めた。

村上景国【むらかみかげくに(1546~1603)】

村上義清の次男。通称蔵人。別名山浦国清。室は長尾景虎室の養女(朝倉義景の娘)。1553年、父村上義清と共に越後国に落延び長尾景虎に仕え、その猶子となり、長尾景虎の養女を娶った。越後国北蒲原郡の山浦上杉家の家督を相続して山浦国清と称した。1572年、越中で一向一揆と戦った。1577年、能登国に参陣して末森城を守備するなど、北陸方面で活動した。1579年「御館の乱」では、長尾三郎景虎との戦いで戦功を挙げた。1582年「本能寺の変」で、信濃国が混乱に陥ると、長尾景勝は北信濃国に侵攻、村上景国を海津城代に任命じた。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、長尾景虎勢の先鋒を務めて戦功を挙げた。1598年、長尾景勝の会津若松城の転封に従って塩之森城代となった。

村上義利【むらかみよしとし(15??~1561)】

村上義清の三男。1561年「川中島の戦い」で討死した。

室賀盛清【むろがもりきよ(15??~1540)】

小県郡室賀城主。室賀宗国の男。官途は下総守。室賀盛清は中世信濃埴科地方を支配した屋代政国の庶家で、室賀谷に入部し室賀川流域を支配した。室賀城は室賀川上流部に位置して、室賀峠を越えて坂城に向かう街道が通っており交通の要衝地でもあった。

室賀信俊【むろがのぶとし(15??~1575)】

室賀盛清の男。官途は山城守。1548年「上田原の戦」では、村上義清に属して武田晴信と戦った。1553年、村上義清が武田晴信に追われると、武田晴信に属して「第四次川中島の戦い」参陣した。1582年、武田勝頼の討死後、真田昌幸の謀略によって謀殺された。

室賀勝永【むろがかつなが(15??~15??)】

屋代正重の次男(室賀信俊の養子)。室賀信俊の四男室賀秀正(勝永)を屋代政国の養子とし、五男室賀満俊が室賀家の家督を継いだ。室賀満俊の養子、室賀正俊(屋代忠正の弟)は、松平綱吉の家老に附属されて7,300石を領した。

望月昌頼【もちづきまさより(15??~15??)】

信濃国望月城主。望月盛昌の男。官途は遠江守。1543年、長窪城主大井貞隆と共に武田晴信の侵攻に抵抗するが、大井貞隆は敗れて落城した。ほどなく望月城も攻撃を受けて落城した。小諸城主大井高政を頼って逃れるが、旧領復帰を果たす事なく没した。望月家の家督は枝連衆の望月信雅が継承した。

望月信雅【もちづきのぶまさ(1518~15??)】

望月昌頼家臣。1543年、長窪城主大井貞隆と共に武田晴信の侵攻に抵抗するが、敗れて長窪城、さらに望月城が落城した。弟の新六らと共に布引城へ逃れた。1548年、真田幸隆の仲介を得て武田晴信に降伏し、望月家惣領を継承した。武田晴信の弟武田信繁の子武田義勝(望月信頼)を養子とした。1564年、望月信頼が急逝すると、その実弟信永を養子として家督を譲り自身は出家した。1575年「長篠の戦い」で望月信永が討戦すると、その実兄武田信豊と共に望月領を治めた。1582年、武田勝頼が滅亡すると、後北条家に仕えるが間もなく芦田信蕃の斡旋で松平元康に仕えた。

望月千代【もちづきちよ(15??~15??)】

佐久郡望月城主望月盛時の室。小県郡豪族禰津家の次女。1561年「第四次川中島の戦」で望月盛時が討死した後、武田晴信に仕えたという。甲斐、信濃の巫女の統帥を命じられ、信州小県郡禰津村古御館に定住。孤児、捨て子などの少女を集め、彼女らに強い仲間意識と忠誠心、女であることを生かしての情報収集、色香で男を惑わす法を教えこんだ。そして諸国を往来できるよう巫女としての修行も積ませ、一人前になると各地に送り、知り得た情報を集め、有力な情報を武田晴信に伝えた。※「信玄狙撃」by新宮正春。

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【や】

薬師寺清三【やくしじせいざん(15??~1547)】

小県郡横尾城主。官途は右近進。1540年、海尻城代に任じられたいた。武田晴信勢の攻撃を受け和議を結び城を明け渡した。1546年、村上義清は長尾景虎との和議を結び、薬師寺清三の進言により魚沼郡の領地を返還させた。1547年、真田幸隆の元を出奔した春原若狭守、春原惣左衛門兄弟を任され、松尾城を攻撃した。二の曲輪まで攻め込んだとき、策略通りに春原若狭守らが離反して門を閉め、弓の雨を降らせた。これにより薬師寺清三は討死し村上義清勢は大敗した。

屋代正重【やしろまさしげ(15??~15??)】

村上義清家臣。埴科郡屋代城主。信濃埴科郡屋代郷を支配していた豪族衆で、村上義清に仕えた。

屋代政国【やしろまさくに(1520~1582)】

屋代正重の男。官途は越中守。通称左衛門尉。室は村上義清の養女。武田晴信の信濃侵攻に対抗した。1548年「上田原の戦い」では嫡男屋代基綱が討死した。1553年、村上義清から離反して武田晴信に降伏、塩崎六郎次郎と共にその家臣となった。1575年「長篠の戦い」で次男屋代正長(清綱)を喪い、甥の屋代秀正を養子に迎えて家督を相続させた。1582年、武田晴信が織田信長によって滅ぼされると、織田信長に降伏してその家臣となり、森長可の寄騎衆となった。

屋代基綱【やしろもとつな(15??~1548)】

屋代政国の次男。1548年「上田原の戦い」で討死した。

屋代満正【やしろみつまさ(15??~15??)】

屋代政国の三男。兄屋代政国と共に武田晴信と戦うが、村上義清の信濃脱出後は兄屋代政国とともに武田晴信に降った。

屋代秀正【やしろひでまさ(1558~1623)】

室賀満正の四男。官途は左衛門尉。別名屋代勝永。室は屋代正国の娘。1575年「長篠の戦い」で屋代正国の養嗣子で屋代秀正の兄屋代正長が討死したため、屋代秀正が屋代正国の養嗣子となった。1576年、屋代家の家督を譲られて武田勝頼の家臣となる。1582年、武田勝頼が滅ぶと織田信長配下の森長可、次いで長尾景勝に仕え、海津城代の山浦景国の寄騎衆となった。松平元康が信濃に侵攻してくるとこれに内応し荒砥城に籠城するが長尾景勝に追われ所領を失った。以後は松平元康に属した。1614年「大坂の役」では、松平元康勢の旗奉行を務めた。1622年、松平秀忠の命令で松平秀忠の次男松平忠長附家老に任じられ小諸城主となった。

山田国政【やまだくにまさ(15??~15??)】

村上義清家臣。更科郡荒砥城。1550年「砥石城の戦い」で籠城し、武田晴信勢を打ち破り、武田家鉄砲隊から20挺隊を奪い取る戦功を挙げた。しかし恩賞(奪い取った鉄砲の分配)の分配で矢沢総重との関係が悪くなり、矢沢総重によって謀殺された。

山家昌治【やまべまさはる(15??~1555)】

小笠原長時家臣。山家城主。官途は薩摩守。通称近松斎。1548年、小笠原長時に属して武田晴信に対抗していた。1548年、小笠原長時勢にあった国人衆の三村長親、山家昌治、西牧信道らと共に、武田晴信の調略に応じて寝返った。武田晴信勢からの不意打ちにただでさえ動揺していた小笠原長時勢は、この三村長親らの突然に反旗にもはや耐えることが出来ず壊滅。以降は武田晴信、武田勝頼の二代に仕えた。

吉沢光義【よしざわみつよし(15??~15??)】

吉沢城主。塩田家臣。官途は民部之介。1548年、武田晴信の「北信濃侵攻」で、武田晴信勢攻撃を受け落城寸前まで追い詰められた。吉沢義光は、知略により武田晴信勢を撃退した。武田晴信は山本晴幸を派遣して吉沢光義を寝返らせた。

吉沢光綱【よしざわみつつな(15??~15??)】

吉沢光義の男。官途は民部之介。1582年「本能寺の変」で、信濃国が空白地になると、南から松平元康勢が、東から北条氏直が侵攻した。吉沢光綱は、北条氏直勢に属した。

横尾采女正【よこおうねめのしょう(15??~15??)】

村上義清家臣。横尾城主。横尾采女正は村上義清に属して武田晴信と戦うが「上田原の戦い」で討死した。

楽巌寺雅方【らくがんじまさたか(15??~1554)】

佐久郡布引城主。官途は駿河守。別名室賀光氏。釈尊寺の末寺楽巌寺の僧侶。1536年、海尻城が武田信虎に包囲されると兵5,000余りを率いて撃退した。1540年、海尻城は武田晴信勢の攻撃により落城するが、佐久郡国人衆勢力が武田晴信から離反した。楽巌寺雅方は海尻城を奪還するため兵300余りを率いて出陣したが、本丸攻略に手間取り、援軍の武田晴信勢によって撃退された。1546年、海尻城、内山城が相次いで陥落すると、村上義清の命で兵3,000余りを率いて奪回に向かうが撃退された。1548年、武田晴信によって攻撃を受け、隣接する村上義清の元に落延びた。1550年「砥石城の戦い」では、砥石城に籠城した。1553年、村上義清が長尾景虎の元に落延びると武田家晴信に降伏した。村上義清の信濃復帰のために長尾景虎と内通するが、使者が馬場信房の家臣に捕らえられ、内通の罪により自刃させられた。

若槻清尚【わかつききよなお(15??~1548)】

村上義清家臣。官途は左京亮。1538年、北信濃に侵攻した長尾晴景勢と「稲附原にて戦い」で戦功を挙げた。その後、村上義清は信濃攻略を狙う武田晴信と対立した。1548年、雌雄を決すべく村上義清は反武田晴信の勢力を結集し、産川下流の西方の天白山に陣を張り、武田晴信勢と「上田原の戦い」で戦った。村上義清勢は辛くも勝利し武田晴信勢を敗走させるも、若槻清尚は討死した。

若槻清継【わかつききよつぐ(15??~15??)】

若槻清尚の男。官途は左京進。1548年、父若槻清尚の討死により、若槻家の家督を相続した。武田晴信勢の攻勢で村上義清と共に越後国に落延びた。

若槻信寿【わかつきのぶとし(15??~15??)】

若槻国景の男。1506年、村上義清の近習となった。

和名宗安【わなむねやす(15??~15??)】

佐久郡の豪族衆。1536年、武田信虎の信濃佐久進攻に海ノ口城の後詰した。

割ヶ嶽図書介【わりがたけずしょのすけ(15??~1561)】

安曇郡割ヶ嶽城主。1553年、武田晴信と長尾景虎の戦いでは長尾景虎勢に属した。1561年、武田晴信の攻撃を受け、割ヶ嶽図書介は寡兵ながら善戦するが、奮戦叶わず落城した。

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【資料Ⅰ】

北信濃国(7郡/186,000石)

水内郡:横山城、飯山城、野尻湖、芋川城、牧之島城、善光寺、戸隠神社。
高井郡:長沼城、山田城、高梨城、井上城、須田城。
安曇郡:小谷城、森城、小岩嶽城、塔之原城、等々力城。
更級郡:更科城、牧之島城、荒砥城。
埴科郡:海津城、葛尾城、旭山城。
小県郡:砥石城、尾山城、長窪城。
佐久郡:海ノ口砦、小田井城、前山城、志賀城、小諸城、大井城。

北信濃(更級郡、高井郡、埴科郡、水内郡)、東信濃(小県郡、佐久郡)、中信濃(安曇郡、筑摩郡)、南信濃(諏訪郡、伊那郡)。

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【資料Ⅱ】

村上家十八将【むらかみけじゅうはっしょう】

屋代政国、清野清秀、楽岩寺光氏、須田満親、山田国政、高梨政頼、井上政満、綿内満行、出浦清種、室賀盛清 、竹鼻虎正、滝沢盛政、吾妻清兼、薬師寺清三、林常重、内山清宗、笠原雅真、平賀成盛。

村上家八人衆【むらかみけはちにんしゅう】

西条義忠、森村清秀、信田隆生、屋代道斎、塩崎八郎、五加重成、石川高清、高坂範重。

滋野三家【しげのさんけ】

海野棟綱、望月昌頼、禰津元直。

小谷五人衆【おじやごにんしゅう】

太田土佐守、田原主馬、山田左近、細野織部、山岸豊後守。

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【資料Ⅲ】

北信濃国【きたしなのこく】

信濃国は、本州の中央に位置する東山道の国。南北に長い内陸国で北部と南部では気候も風俗も異なる。北信濃国は、周囲を南信濃国、飛騨国、越後国、上野国と接している。戦略的には、北に越後国、東に上野国、西に南信濃国と周囲を強国に囲まれ侵入を受けやすい。国土防衛には不利な位置にあるが、標高の高い山岳地帯で形成された山がちな国で、険しい峠を越えないと領国に侵入できない。平地は安曇郡を中心とした安曇平野と、小県郡の海野平等の平野はわずかで防衛線をはるのは難しくない。東は白根山、浅間山、妙高山などの山系で上野国、関東山地で武蔵国、赤石山脈で甲斐国と国境を接し、西は飛騨山脈が越中国、飛騨国、和田峠、塩尻峠、鳥居峠で南信濃国との国境を形成する。

信濃善光寺【ぜんこうじ】

善光寺平は「信濃侵攻」を行う武田晴信と北信国衆を庇護する長尾景虎の争いの舞台となり、寺は兵火を被り荒廃した。善光寺仏は、善光寺の焼失を懸念した武田晴信により本尊は善光寺別当の栗田家と共に甲府へ移され、甲斐善光寺を建立した。長尾景虎も善光寺を保護し、本尊は越後国直江津に移され、その寺跡には十念寺が大本願別院とした。本尊は、さらに織田信長の手で岐阜城へ、羽柴秀吉により京の都へ、更に松平元康の手で尾張国へ移された。1598年、信濃国へ帰された。

戸隠山顕光寺【けんこううじ】

北信濃地域は「信濃侵攻」を行う武田晴信と北信濃豪族衆の後ろ盾となった長尾景虎の争乱に巻き込まれた。善光寺の支配者でもあった栗田寛高が分裂するなど、両軍によって絶えず危機に晒された。衆徒らは、水内郡小川城主大日方長利の庇護を受けた。「川中島の戦い」では、多くの修験者と信仰者集団を抱えていた戸隠神社や飯綱神社は武田晴信、長尾景虎勢の双方にとって味方につけたい存在であり、修験者は広く各地の情報に通じ多くの人々を牽引し戦況を占い、何より薬草の知識は従軍医師としての需要がたかった。このため善光寺や、戸隠、飯綱を味方にするか敵に回すかは極めて重要であったため、これらをめぐって戦火に巻き込まれ熾烈な戦闘が繰り返された。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「戦国関東名将列伝」隋想社、「(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧」秋田書院、「武田信玄(全4巻)」文春文庫、「武田信玄(全3巻)」講談社、「武田勝頼(全3巻)」講談社、「甲州武田家臣団」新人物往来社、「信濃須田一族」総合出版社歴研。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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