2011年2月9日水曜日

戦国但馬国人名辞典

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【あ】

赤木丹後守【あかぎたんごのかみ(15??~15??)】

城崎郡上野城主。1577年、「水生城の戦い」で羽柴秀吉勢が但馬国に侵攻すると、轟城主垣屋宗時、水生城主西村丹後守、林甫城主長越前守、伊福城主下津屋新三郎、国分寺城主大坪又四郎、宮井城主篠部伊賀守、国分寺城主大坪又四郎、宿南城主宿南修理太夫、浅間城主佐々木義高、八木城主藤井左京、上山城主上山平左衛門、坂本城主橋本兵庫、朝倉城主朝倉大炊らとともに羽柴秀吉勢への奇襲攻撃を企てるが、篠部伊賀守の内応により失敗に終わった。

朝倉大炊【あさくらだいぜん(15??~15??)】

養父郡朝倉城主。1577年、羽柴秀吉勢の攻撃を受け、八木城主八木豊信らとともに降伏した。

足羽是高【あすわこれだか(15??~15??)】

太田垣朝延家臣。朝来郡山内城主。通称九郎次郎。1577年、竹田城主太田垣輝延に従って、物部城主物部治政、岩洲城主太田垣出雲守らとともに播磨国の赤松広秀勢を迎え撃つが敗走した。1580年、太田垣輝延が羽柴秀吉勢の攻撃を受け滅亡すると、これと運命をともにした。

阿瀬重家【あせしげいえ(15??~15??)】

八木豊信家臣。美方郡大野城主。官途は石見守。もと六角義賢の家臣。1573年、「観音寺城の戦い」で六角義賢が滅亡すると、但馬国に落延び八木豊信に仕えた。大野城主に任じられた。1580年、「第二次鳥取城の戦い」では、羽柴秀吉勢の先導役を務めた。

足立盛貞【あだちもりさだ(15??~15??)】

気多郡篠森城主。官途は筑前守。

居相政煕【いあいまさひろ(15??~15??)】

養父郡田和城。官途は肥前守。

居相政貞【いあいまささだ(15??~15??)】

居相政煕の男。通称孫作。1581年、羽柴秀長の家臣藤堂高虎に仕え30石を領した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」に参陣した。1595年、藤堂高虎が伊予国を領すると1,000石を領した。

磯部豊直【いそべとよなお(15??~16??)】

朝来郡夜久野城主。山名康煕の男。通称兵部大輔。別名山名康氏。五人張りの弓を引くことができた武将だった。1571年、「丹波黒井城の戦い」では、山名祐豊勢に属して、山垣城主足立基助と戦った。1581年、、「第二次鳥取城の戦い」では、羽柴秀吉勢に属して智頭郡景石城を攻略して、城主に任じられた。因幡国が平定されると木下重堅に属して智頭郡用瀬城3,000石を領した。その後、約20年間にわたって用瀬城下街を整備し領内を発展させた.。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したため、改易処分に処された。その後、鹿野城主亀井茲矩に仕え500石を領した。

伊秩重久【いちつしげひさ(15??~15??)】

山名致豊家臣。官途は大和守。山名致豊の側近を務めた。

猪熊佐介【いのくまさすけ(15??~15??)】

太田垣輝延家臣。1573年、太田垣輝延から生野銀山奉行に任じられた。

塩冶綱高【えんやつなたか(15??~15??)】

美方郡芦屋城主。塩冶綱吉の男。官途は若狭守。通称左衛門尉。

塩冶高清【えんやたかきよ(15??~1581)】

塩冶綱高の次男。官途は周防守。1569年、但馬国に侵攻した羽柴秀吉勢に属した。武田高信勢の攻撃を受け毛利元就勢に属した。1581年、羽柴秀吉勢に芦屋城を追われた塩冶高清は吉川経家勢に属した。「第二次鳥取城の戦い」では、鳥取城の北方に雁金城を築き、奈佐日本之介の守る丸山城とともに鳥取城の兵站線を守備した。兵糧の欠乏により兵が消耗、雁金山城は落城、鳥取城に撤退した。兵糧攻めにより鳥取城がり降伏すると、吉川経家、奈佐日本之介、佐々木三郎左衛門らとともに自刃した。

塩冶安芸守【えんやあきのかみ(15??~15??)】

塩冶高清の男。1581年、父塩冶高清の自刃後、吉川元春に仕え60石を領した。

塩冶右京亮【えんやうきょうのじょう(15??~15??)】

塩冶高清の次男。山田利兵衛に討取られた。

塩冶高久【えんやたかひさ(15??~1633)】

塩冶高清の三男。1581年、父塩冶高清の自刃後、兄塩冶安芸守とともに吉川元春に仕えた。

塩冶秀国【えんやひでくに(15??~1558)】

美方郡銘山城主。塩冶秀詮の男。通称左衛門尉。1529年、「養山城の戦い」では、奇襲攻撃を行ない城主丹生長近を討取った。1558年、「貴船川の戦い」で丹生長近の次男丹生熊之助に討取られた。

太田垣俊朝【おおたがきとしあさ(1479~1558)】

朝来郡竹田城主。太田垣宗朝の男。別名太田垣宗寿。1521年、太田垣宗朝の隠居により太田垣家の家督を相続した。

太田垣朝延【おおたがきあさのぶ(1506~1570)】

太田垣俊朝の男。官途は能登守。1538年、山名祐豊の意向を受け、父太田垣俊朝が生野銀山を開発した。1556年、山名祐豊から生野銀山領有権を奪った。1559年、「新井河原の戦い」では、家臣の足羽是高が戦功を挙げた。1564年、太田垣家の家督を太田垣輝延に譲り、隠居した。

太田垣輝延【おおたがきてるのぶ(1536~1585)】

太田垣朝延の男。1569年、毛利元就の意向を受け山名祐豊の排除を図ったが失敗に終わった。羽柴秀吉勢の但馬国侵攻により、生野銀山をはじめ此隅山城から垣屋の楽々前城など十日のうちに十八城を攻落とされた。1573年、播磨国置塩城主赤松則房勢神吉長秀、泥直正、別所直介ら3,000余りの攻撃を受けた。鈴木正春、杉原家次、物部治政、笠垣武祐、大田垣定延、梶原一正、笠垣盛本らで迎え撃ったが敗退した。吉川元春勢が因幡国に侵攻し、山名豊国が降伏すると、但馬国の出石城主山名祐豊、亀崎城主垣屋豊続、鶴ヶ峯城主垣屋播磨守、竹田城主太田垣輝延らも降伏した。1577年、「竹田城の戦い」では、羽柴秀吉勢の攻撃を受け、因幡国に落延びた。

太田垣信喬【おおたがきのぶあき(15??~15??)】

太田垣朝延次男。1570年、太田垣輝延、太田垣信喬、太田垣宗喬が織田信長に目通りを求め献上品と祝詞を述べました。織田信長は生野銀山に今井宗久と長谷川宗仁を派遣して、生野銀山を奪還させた。

太田垣宗喬【おおたがきむねあき(15??~15??)】

太田垣朝延三男。

太田垣定延【おおたがきさだのぶ(15??~15??)】

大田垣朝延家臣。1573年、播磨国置塩城主赤松則房、神吉長秀、泥直正、別所直介ら3,000余りの攻撃を受けた。鈴木正春、杉原家次、物部治政、笠垣武祐、梶原一正、笠垣盛本らとともに太田垣輝延に従って赤松則房勢と戦ったが敗退した。

大坪又四郎【おおつぼまたしろう(15??~15??)】

美方郡国分寺城主。1577年、「水生城の戦い」に参陣して羽柴秀吉勢と戦った。

小野木正光【おのぎまさみつ(15??~15??)】

美方郡井上城主。通称玄蕃。

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【か】

垣屋続成【かきやつぐなり(1482~1570)】

気多郡鶴ヶ峰城主。山名祐豊家臣。但馬国守護代職。田結庄是義が毛利元就勢に属すると、織田信長勢に属して山名家家中を二分して抗争を繰り返した。1570年、山名祐豊が毛利輝元勢に属したため、田結庄是義勢の攻撃を受け自刃した。

垣屋光成【かきやみつなり(1520~1592)】

垣屋続成の男。1570年、父垣屋続成が田結庄是義勢に討取られると畿内に落延びた。1572年、尼子勝久と結んで毛利輝元勢の武田高信を攻撃した。1575年、織田信長勢に属して田結庄是義を討取った。その後、山名祐豊を織田信長勢に属させた。1575年、山名祐豊が毛利輝元勢と和議を結ぶと、織田信長勢に敵対すると、山名祐豊を見限って織田信長勢に属した。1581年、「第二次鳥取城の戦い」では、羽柴秀吉勢に属して吉川経家勢と戦った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

垣屋恒総【かきやつねふさ(15??~1600)】

垣屋光成の男。1581年、「第二次鳥取城の戦い」では、父垣屋光成とともに羽柴秀吉勢に属した。1582年、「本能寺の変」後も羽柴秀吉勢に属した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して参陣した。「関ヶ原の戦い」で、石田三成勢が壊滅すると、高野山に落延び自刃した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

垣屋続貫【かきやつぐつら(15??~15??)】

垣屋続成の男。別名宿南保。

垣屋宗時【かきやむねとき(15??~15??)】 

垣屋光成家臣。城崎郡轟城主。

笠垣武祐【かさがきたけすけ(15??~15??)】

太田垣朝延家臣。通称次郎。1573年、播磨国置塩城主赤松則房、神吉長秀、泥直正、別所直介ら3,000余りの攻撃を受けた。鈴木正春、杉原家次、物部治政、大田垣定延、梶原一正、笠垣盛本らとともに太田垣輝延に従って赤松則房勢と戦ったが敗退した。

笠垣盛本【かさがきもりもと(15??~15??)】

大田垣朝延家臣。通称三郎兵衛。大田垣朝延の軍配者を務めた。

梶原一正【かじわらかずまさ(15??~15??)】

大田垣朝延家臣。朝来郡比治城主。通称森之丞。

加陽国親【かやくにちか(1531~15??)】

朝来郡物部城主。山名祐豊家臣。官途は美濃守。1575年、織田信長勢に対抗するため山名祐豊と毛利輝元との間の和議締結に尽力した。

日下部朝定【くさかべともさだ(14??~15??)】 

山名祐豊家臣。日下部忠説の男。連歌師。父日下部忠説を通じて高山宗砌を教えを受けた。著書に『連歌の覚悟』『童子問答』。

栗坂主水【くりさかもんど(15??~15??)】

田結庄是義家臣。海老手城主。1575年、「海老手城の戦い」で垣屋光成勢の攻撃を受け落城した。

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【さ】

佐々木義高【ささきよしたか(1525~1600)】

山名祐豊家臣。養父郡浅間城主。佐々木近江守の次男。官途は近江守。室は松浦宗房の娘。1573年、播磨国置塩城主赤松則房、神吉長秀、泥直正、別所直介ら3,000余りの攻撃を受けると、これと戦った。1580年、「浅間城の戦い」では、羽柴秀長勢4,000余りの攻撃を受け降伏した。以後前野長泰に仕えた。

佐々木高清【ささきたかきよ(15??~1616)】

足立盛貞の次男(佐々木義高の養子)。官途は肥前守。通称清右衛門。別名足立盛重。室は佐々木義高の妹。1573年、播磨国置塩城主赤松則房、神吉長秀、泥直正、別所直介ら3,000余りの攻撃を受けると、これと戦った。1580年、「浅間城の戦い」では、羽柴秀長勢の攻撃を受け養父佐々木義高とともに降伏した。以後前野長泰に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して前野長泰が改易処分に処されると帰農した。

佐津信辰【さつのぶたつ(15??~15??)】

美方郡勢多端城主。通称兵庫。

篠部伊賀守【しのべいがのかみ(15??~15??)】

美含郡宮井城主。1580年、轟城主垣屋豊続は、水生城主西村丹後守、林甫城主長越前守、上野城主赤木丹後守、伊福城主下津屋新三郎、国分寺城主大坪又四郎、宮井城主篠部伊賀守らとともに迎い撃つ体制を整えた。篠部伊賀守は、長越前守、西村丹後守らに恨みを持っていたので、羽柴秀吉勢に内応した。

下津屋新三郎【しもつやしんざぶろう(15??~15??)】

伊福城主。官途は伯耆守。下津屋安芸守、宮下野守らとともに和泉国堺に落延びたいた山名祐豊が、織田信長の支援を受け但馬国に討ち入ると、山名祐豊勢に属して参陣した。

宿南輝俊【しゅくみなみうきょう(15??~15??)】

養父郡宿南城主。官途は修理太夫。1577年、羽柴秀長が赤松左兵衛を先導役に前野将右衛門、宮部継潤ら4,100余り率いて朝来郡に侵攻すると、岩州城主物部治政、竹田城主太田垣輝延を落とし、養父郡八木城主八木豊信、坂本城主橋本兵庫介、国分寺城主大坪又四郎、朝倉城主朝倉大炊、三方城主三方左馬之介らが降伏した。「下小田の戦い」で、継嗣の宿南輝直と枝連衆とともに羽柴秀長勢と戦うが敗退した。

宿南輝直【しゅくみなみてるなお(15??~15??)】

宿南輝俊の男。通称十郎左衛門。1577年、「下小田の戦い」で、父宿南輝俊とともに羽柴秀長勢と戦うが敗退した。

宿南直政【しゅくみなみなおまさ(15??~15??)】

宿南輝俊の男。通称主馬助。

杉原家次【すぎはらいえつぐ(15??~15??)】

太田垣朝延家臣。通称七郎左衛門。1573年、播磨国置塩城主赤松則房、神吉長秀、泥直正、別所直介ら3,000余りが但馬国に侵攻すると、鈴木正春、物部治政、笠垣武祐、大田垣定延、梶原一正、笠垣盛本らとともに太田垣輝延に従って赤松則房勢と戦ったが敗退した。1558年、太田垣朝廷から生野銀山奉行に任じられた。

鈴木正春【すずきまさはる(15??~15??)】

太田垣朝延家臣。官途は甲斐守。1573年、播磨国置塩城主赤松則房、神吉長秀、泥直正、別所直介ら3,000余りの攻撃を受けた。杉原家次、物部治政、笠垣武祐、太田垣定延、梶原一正、笠垣盛本らとともに太田垣輝延に従って赤松則房勢と戦ったが敗退した。

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【た】

田結庄右近将監【たいのしょうさこんのじょうげん(15??~15??)】

城崎郡鶴城主。山名祐豊家臣。

田結庄是義【たいのしょうこれよし(15??~1575)】

田結庄右近将監の男。官途は左近将監。城崎郡惣領職。別名田結庄是清。朝来郡太田垣輝延、養父郡八木豊信、成気多郡鶴ヶ峰城垣屋光らとともに但馬国を四分して勢力を拡大した。垣屋光成とは美含郡の支配権を巡って激しく争った。1569年、羽柴秀吉勢が但馬国に侵攻すると、山名祐豊は織田信長勢に属したが、但馬山名家中では織田信長派と毛利元就派に分かれ抗争が起きた。1570年、田結庄是義は、毛利元就勢の垣屋続成を奇襲によって自刃させ、但馬山名家の主導権を握った。1575年、垣屋光成が田結庄是義勢の栗坂主水の海老手城を攻落すると、海老手城を奪還するため野田に侵攻した。「野田の戦い」では、垣屋光成勢の奇襲攻撃を受け大敗を喫して討死した。

田結庄盛延【たいのしょうもりのぶ(15??~15??)】

田結庄是義の男。

高岡国正【たかおかくにまさ(15??~15??)】

山名祐豊家臣。

高岡国定【たかおかくにさだ(1533~1581)】

高岡国正の次男。官途は筑前守。

田路胤直【とうじたねなお(15??~1579)】

山名氏政家臣。朝来郡高倉山城主。官途は大和守。家老職を務めた。丹波国赤井城主赤井直正が但馬国に侵攻すると、これを撃退する戦功を挙げた。「丹波夜久城の戦い」では、赤井直正勢の夜久城を攻落とす戦功を挙げた。1579年、「田路城の戦い」で討死した。

田路胤純【とうじたねづみ(15??~1558)】

田路胤直の男。官途は隠岐守。1538年、丹波国草置城を築城した。広瀬城主長水親茂に仕えた。

田路胤親【とうじたねちか(15??~15??)】

田路胤純の男。官途は若狭守。

田路貞政【とうじさだまさ(15??~15??)】

田路胤純の次男。官途は信濃守。

田路貞村【とうじさだむら(15??~15??)】

田路胤純の三男。通称五左衛門。

田路光朝【とうじみつとも(15??~15??)】

田路胤純の四男。通称傳兵衛。

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【な】

長信行【ながのぶゆき(15??~15??)】

山名祐豊家臣。美方郡林甫城主。

長越前守【ながえちぜんのかみ(15??~15??)】

長信行の男。官途は越前守。通称弥次郎。1540年、父長信行が塩冶周防守に謀殺されると、轟城主垣屋宗時の支援を受け塩冶周防守から林甫城を奪還した。

奈良宗孟【ならむねたけ(15??~1555)】

美方郡温泉城主。官途は右近将監。1571年、「庭中の戦い」では、塩冶高清勢に属した。1581年、「第二次鳥取城の戦い」で鳥取城が落城すると、没落した。

奈良左近将監【ならさこんしょうげん(15??~15??)】

奈良宗孟家臣。飯野城主。

西村丹後守【にしむらたんごのかみ(15??~15??)】 

但馬国多気郡水生城主。1580年、轟城主垣屋豊続は、水生城主西村丹後守、林甫城主長越前守、上野城主赤木丹後守、伊福城主下津屋新三郎、国分寺城主大坪又四郎、宮井城主篠部伊賀守らとともに迎い撃つ体制を整えたが、篠部伊賀守が羽柴秀吉に内応したため、失敗に終わった。

西村忠宗【にしむらただむね(15??~15??)】 

西村丹後守の男。通称平八郎。

丹生長近【にゅうながちか(15??~1529)】

養山城主。官途は美作守。1529年、初老の宴中、塩冶秀国に奇襲を受けて討死した。内室と継嗣の丹生鶴若丸も花見峠を落延びる途中、追撃され討死した。

丹生長保【にゅうながやす(15??~15??)】 

丹生長近の弟。出家し、正釈庵を建てて丹生家の菩提を弔った。

丹生又八【にゅうまたはち(15??~15??)】 

丹生長近の弟。森村に落延びて庄屋の岡本次郎兵衛の養子となった。

丹生熊之助【にゅうくまのすけ(15??~15??)】 

丹生長近の次男。山伏となり諸国を遍歴後、羽柴秀吉に仕えた。1558年、「貴船川の戦い」で林甫城主長越前守とともに塩冶秀国を討取った。

沼田長信【ぬまたながのぶ(15??~15??)】

長信行家臣。美方郡相谷城主。通称左衛門尉。

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【は】

橋本兵庫介【はしもとひょうごのすけ(15??~15??)】 

養父郡坂本城主。1577年、「坂本城の戦い」では、羽柴秀長勢の攻撃を受け降伏した。

久下泰光【ひさしたやすみつ(15??~15??)】

美方郡佐古山城主。通称次郎左衛門尉。

枚田八郎【ひらたはちろう(15??~15??)】

太田垣朝延家臣。枚田城主。太田垣朝延勢に従い、伯耆国に参陣して討死した。

枚田光春【ひらたみつはる(15??~15??)】

枚田八郎の弟(枚田延盛の養子)。通称勘蔵。

福富甲斐守【ふくとみかいのかみ(15??~15??)】

朝来郡高生田城。1577年、「高生田城の戦い」で羽柴秀長勢の攻撃を受け落城した。

藤井伊助【ふじいいすけ(15??~15??)】

篠部伊賀守家臣。1580年、篠部伊賀守が羽柴秀吉に内応すると、使者として羽柴秀吉のもとに赴いた。

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【ま】

松岡盛祐【まつおかもりすけ(15??~1560)】

朝来郡衣笠城主。1559年、内室が病没すたため、菩提寺の玉林寺に田地を寄進した。

三方正秀【みかたまさひで(15??~15??)】

養父郡三方城主。官途は大蔵丞。1569年、「第一次但馬国侵攻」に羽柴秀吉勢に降り、以後宮部継潤の寄騎衆として山陰各地を転戦した。

物部頼久【もののべよりひさ(15??~15??)】

太田垣朝延家臣。岩州城主。

物部治政【もののべはるまさ(15??~15??)】

物部頼久の男。官途は出雲守。通称次郎左衛門。1573年、播磨国置塩城主赤松則房、神吉長秀、泥直正、別所直介ら3,000余りの攻撃を受けた。鈴木正春、杉原家次、物部治政、笠垣武祐、太田垣定延、梶原一正、笠垣盛本らとともに太田垣輝延に従って赤松則房勢と戦ったが敗退した。1577年、「岩州城の戦い」では、羽柴秀頼勢の攻撃を受け降伏した。

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【や】

八木直信【やぎなおのぶ(15??~15??)】

養父郡八木城主。山名致豊家臣。通称宗松。1512年、垣屋光成、太田垣輝延、田結庄是義ら但馬国人衆と謀って山名致豊を追放して、山名誠豊を但馬国守護職に擁した。以後、垣屋光成、太田垣輝延、田結庄是義らが但馬国を四分割して統治した。

八木豊信【やぎとよのぶ(15??~15??)】

八木直信の男。毛利輝元勢に属して、織田信長勢に属した垣屋光成や田結庄是義と戦った。1577年、羽柴秀吉勢が但馬国に侵攻すると、織田信長勢に属した。1578年、「第一次鳥取城の戦い」では、因幡国若桜鬼ヶ城の守備を任され、羽柴秀吉から因幡智頭郡で所領を与えれた。1581年、「若桜鬼ヶ城の戦い」では、吉川経家勢の攻撃を受け落城した。

八木信貞【やぎのぶさだ(15??~15??)】

八木直信の次男。

八木信慶【やぎのぶよし(15??~15??)】

八木豊信の男。

但馬山名致豊【やまな おきとよ(15??~1536)】

出石郡此隅山城主。山名政豊の男。山名家惣領職。但馬国、備後守護職。1512年、「山名家四天王」と称される、垣屋光成、太田垣輝延、八木豊信、田結庄是義ら有力国人衆に離反を起こされた。山名致豊の弟山名誠豊を擁し、但馬国において強い影響力を及ぼすようになった。

但馬山名誠豊【やまな のぶとよ(15??~1528)】

山名政豊の四男。1512年、垣屋続成、田結庄是義、八木豊信、太田垣朝延ら但馬国人衆に擁立され、山名家惣領職を相続した。但馬国、備後国の守護職に任じられた。因幡国守護職の山名豊治と対立し、山名豊治が病没すると、その後継嗣争いに介入し、山名誠通に因幡山名家の家督を相続させた。1522年、浦上村宗と浦上祐宗の内紛に乗じて、播磨国に侵攻したが、敗退した。1523年、甥の山名祐豊を養子にした。

但馬山名祐豊【やまなすけとよ(1511~1580)】

山名致豊の次男(山名誠豊の養子)。官途は右衛門督。別名山名韶熙。室は一色義秀の娘。1528年、養父山名誠豊の病没により家督と但馬国守護職を相続した。1542年、生野銀山を経営するため、生野城を大規模に改修した。1548年、因幡守護職の山名誠通を討取り、弟の山名豊定を因幡守護代職に任じた。1560年、山名豊定が病没すると、継嗣の山名棟豊を守護代職に任じた。1561年、山名棟豊が病没したため、甥の山名豊数を守護代職に任じた。1564年、「布勢天神山城の戦い」で武田高信を攻撃するが失敗して鹿野城に退いた。1569年、尼子勝久、山中幸盛らが出雲国に侵攻すると、これを支援して毛利元就勢と戦った。「有子山城の戦い」では、羽柴秀吉勢の攻撃を受け和泉国堺まで落延びた。1570年、今井宗久の仲介により織田信長と和議を結び、但馬国出石郡の領有を認められた。丹波国の赤井忠家の攻撃を受け竹田城、此隅山城が落城した。1571年、織田信長勢の支援を受けて丹波国氷上郡に侵攻した。1572年、山中幸盛らとともに毛利元就勢に属した武田高信を討取った。1579年、太田垣輝延が吉川元春に内応したため、羽柴秀吉勢の攻撃を受け降伏した。

但馬山名棟豊【やまなむねとよ(1544~1561)】

山名祐豊の男。通称次郎。1560年、父山名祐豊から因幡守護代職に任じられたが、まもなく病没した。

但馬山名堯熙【やまな あきひろ(15??~1612)】

山名祐豊の次男。官途は右衛門佐。通称慶五郎。兄山名棟豊がに亡くなったため、継嗣として育てられた。隠居した父山名祐豊の後見を受け、山名家惣領職、但馬国守護職を相続した。1579年、太田垣輝延が吉川元春と和議を結んだため、織田信長から毛利輝元勢と見なされた。1580年、「有子山城の戦い」で羽柴秀吉勢の攻撃を受け降伏した。その後、羽柴秀吉に馬廻衆として仕えた。1582年、播磨国に領地を与えられた。

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【資料Ⅰ】

但馬国(8郡/126,000石)

朝来郡:竹田城、生野城、生野銀山。
養父郡:八木城
出石郡:
気多郡:楽々前城
城埼郡:鶴城
美含郡:
七美郡:村岡城
二方郡:

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【資料Ⅱ】

山名四天王【やまなしてんのう】

垣屋続成、田結庄是義、八木豊信、太田垣輝延。※山名家の衰退とともに独立色を強め、毛利元就、織田信長勢に属して抗争を繰り広げた。

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【資料Ⅲ】

但馬国【たじまのくに】

山陰道の国。北は広く日本海に面し、南は中国山地が播磨国との境を作る。東は丹波国、丹後国に中国山地、丹後山地で接し、西は氷ノ山の山系が因幡国との国境を作る。東部流れる円山川、西部を流れる矢田川などの流域に、豊岡盆地などの平地があるが、氷ノ山などの高峰が大部分を占める山国であり、長い海岸線も断崖が多いために良湊には恵まれず、陸上海上ともに交易に向かない。生野銀山や明延銅山など鉱山資源が豊富である。

生野銀山【いくにぎんざん】

生野銀山は平安時代初期の開鉱された。1542年、但馬国守護職山名祐豊により、石見銀山から採掘、精錬技術を導入し、本格的な採掘が始まった。織田信長、羽柴秀吉、松平元康はこの鉱山を直轄地とした。松平元康は、佐渡金山、石見銀山とともに重要な財源とした。

明延銅山【あけのべこうざん】

奈良東大寺の大仏、鋳造時にここから銅が献上された。複数の鉱物を産出していたが、特に錫の産出が盛んで、一時期は国内随一の産出量を誇っていた。

矢田川【やだがわ】

但馬国北西部を流れる川。氷ノ山に源を発し、中部の川会で湯舟川を合わせて北流し、日本海に注ぐ。流域の大半が山地で、平地は中流部の小段丘面と河口の小三角州のみ。

円山川【まるやまがわ】

播磨国の境界近く、朝来郡円山に源を発し、出石郡、城崎郡流れ、但馬国北部で日本海に注ぐ。下流域の豊岡盆地は但馬国では最大の平地で、穀倉地帯となっている。

氷ノ山【ひょうノせん】

但馬国と因幡国の境にある山。中国山地では大山に次ぐ標高を誇る。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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