2011年2月17日木曜日

戦国磐城国人名辞典

------------------------------------------------------

【あ】

飯野隆至【いいのたかよし(15??~15??)】

岩城家麾下の国人領主。官途は式部大輔。禰宜職の安堵などをされている。伊達家宛書状の奉者を務めている。

石川稙光【いしかわたねみつ(1494~1530)】

石川郡三芦城主。1534年、石川稙光は伊達稙宗、二階堂晴行、芦名盛舜とともに岩城重隆、結城晴綱を攻める。

石川晴光【いしかわはるみつ(1528~1580)】

石川稙光の男。1530年、父石川稙光の死去にともない家督を相続する。1543年「天文の乱」では近隣諸侯の多くと同様に伊達稙宗方として参戦。天文の乱終結以後、田村隆顕、芦名名盛氏らの勢力圏が石川郡内にまで及ぶようになると、この両者の抗争に巻き込まれる形で次第に所領を削り取られ、さらには、常陸国の佐竹義昭が1560年、白河結城家から高野郡を奪取すると、奥州への進出を図り石川領に兵を進めた。1563年、諸勢力の圧迫を受けて窮地に陥った石川晴光は、伊達家の庇護を求めるため、実子石川光専には家督を継がせず、伊達晴宗の四男石川昭光を養子に迎えた。1568年、石川昭光に家督を譲って隠居した。

石川昭光【いしかわあきみつ(1550~1622)】

伊達枝連衆。伊達晴宗の四男。石川晴光の養子。官途は大和守。1568年、石川晴光の養嗣子となる。実父伊達晴宗や兄伊達輝宗に従って田村家や佐竹家のと戦った。1574年、芦名盛氏が佐竹義重と白川郡、石川郡の領有権をめぐって戦い、芦名家が同地を失うと、石川晴光、石川昭光は佐竹義重への服属した。1575年、芦名家は安積郡大槻城を田村勢に攻められが、芦名勢が北部の久保田を攻め返した。1576年、田村清顕は佐竹家とともに芦名方の長沼城を攻めた。1585年「人取橋の戦い」では、南奥諸大名と共に義兄の佐竹義重についた。1589年「摺上原の戦い」以降は再び伊達家に属した。1590年、須賀川城を与えられたが、奥州仕置にて羽柴秀吉に小田原への不参陣を咎められ、三兄留守政景らと共に改易された。

石川家臣団【いしかわけかしんだん】

円谷内記、大寺主殿之助安吉、塩沢備後茂貞、鈴木若狭之介保澄、矢内内蔵之助重房、益子久兵衛金正、大木伊賀之助吉貞、森新左衛門別金。

泉田胤直【いずみだたねなお(15??~15??)】

標葉郡泉田城主。泉田隆家の男。標葉隆成家臣。1492年、行方郡で相馬高胤が陣中で没し、相馬盛胤が相馬家惣領家を相続した。同年、相馬盛胤は標葉郡に泉田隠岐守隆直を攻めた。泉田隆直は、君主に標葉隆成失望して相馬勢に降伏した。

泉田胤清【いずみだたねきよ(15??~15??)】

泉田胤直の男。標葉衆25騎を率いた。

泉田胤雪【いずみだたねゆき(15??~15??)】

泉田胤清の男。官途は隠岐守。泉田胤雪は智将として知られ、嫡男泉田胤清とともに伊達勢の侵攻をよく防いだ。1588年、伊達政宗が小手森城・石沢城などに攻め寄せた。相馬義胤は、大越城の大越顕光に援将として泉田胤雪を入れ、伊達、田村家の来襲に備えた。伊達政宗の猛攻に耐え落城することはなかった。

泉田胤清【いずみだたねきよ(15??~1602)】

泉田胤雪の男。泉田胤清は相馬長門守義胤に従って各地を転戦した。1589年「坂本城の戦い」で相馬義胤の後陣として標葉衆300を率いた。1602年、病死したが、泉田胤清には跡継ぎの男子がなく、娘聟の泉藤右衛門胤政が泉田城主となった。

泉胤定【(15??~1568)】

通称は左衛門太夫。泉村の泉家菩提寺宝月山東泉院を再興し、中興開基となった。東泉院はもともと下総国相馬郡泉村の泉屋敷の東に建てられていた寺院で、泉家が相馬重胤とともに陸奥国行方郡に移り住んだ際、東泉院もともに移り、泉家の菩提寺として続いた。後嗣がなく、三春城主・田村一族の中津川家より中津川大膳が泉家を相続し、泉大膳亮胤秋を称した。

泉胤秋【いずみたねあき(15??~1587)】

通称は大膳。三春城主田村一族で、もとは中津川大膳亮。1585年、最上義光が相馬義胤臣の「伊泉大膳亮」へ宛てた書状が残っているが、この「伊泉大膳亮」が泉胤秋であるとされる。もともと泉胤秋は相馬顕胤の弟堀内近胤の娘を娶り、堀内家を相続していたが、彼女とそりが合わず堀内家を出た。小浜城主畠山伊勢守尚義の娘を娶った。嫡男の泉胤政が泉家を相続したが幼少であったために泉胤秋も相馬家へ属し、泉胤政の後見人として泉大膳と改める。

泉胤政【いずみたねまさ(15??~1633)】

中郷泉館主。泉胤秋の男。通称藤右衛門。泉家に養子として入り、3,000石を領した。しかし幼かったため、父泉胤秋が泉胤政の後見人として相馬家に入った。1597年、相馬義胤は居城を小高城を牛越城に移すにあたり、泉胤政も人夫を差し出したが、相馬義胤と泉胤政の人夫奉行が口論に及んだ。結果、泉胤政が謀反を企てたとして、相馬義胤は泉胤政追討勢を泉館に発した。泉胤政は相馬勢が来る前に館を焼いて相馬を出奔。会津の柳津へ逃れた。

岩城由隆【いわきよしたか(15??~1542)】

磐前郡平城主。岩城常隆の男。官途は民部大輔。岩城常隆に家督を譲られたのは兄の岩城盛隆であったが、まもなく岩城由隆が当主として活動するようになる。祖父の岩城親隆と父岩城常隆と同様、岩城由隆も父と共同統治の形態をとり活動した。

岩城成隆【いわき(15??~15??)】

岩城由隆の男。岩城由隆の跡は岩城成隆が継ぎ、岩城重隆は分家して白土家を起こした。岩城成隆は江戸家と結び佐竹家に軍事的圧力をかけ常陸に勢力を伸ばそうとしたが失敗した。岩城成隆は死去し岩城重隆が家督を相続した。

岩城重隆【いわきしげたか(15??~1569)】

岩城由隆の次男。通称二郎太郎。官途は左京大夫。岩城重隆は白河結城家と同盟関係を固めることにより、伊達稙宗の縁戚となって勢力が盛んとなっていた近隣の相馬家や田村家と対抗した。娘の久保姫の嫁ぎ先をめぐって伊達家や相馬家と対立し、軍事的な争いにまで発展した結果、岩城重隆が敗れ、久保姫を伊達晴宗に輿入れすることになった。伊達晴宗と久保姫との子を岩城家の養子に迎えることを約束させたという。鶴千代丸(岩城親隆)が誕生している。1542年「伊達天文の乱」で岩城重隆は伊達晴宗方となり伊達稙宗方の相馬家や田村家と抗争し、後に伊達晴宗方に寝返った葦名盛氏と共にその勇戦ぶりを伊達晴宗に賞賛された。伊達晴宗と田村家や二本松畠山家の内部抗争を誘発させ、弱体化を図るなど調略も駆使した。「天文の乱」後も田村家や相馬家との抗争を継続した。伊達、芦名、佐竹諸家との間で外交を駆使し生き残りを図った。周辺の石川家や白河結城家が佐竹家への従属度を深めていくと、岩城重隆は継嗣の岩城親隆に家督を譲り、その室に佐竹義昭の娘を迎え友好関係を結んだ。佐竹義昭、佐竹義重父子の南奥への勢力拡大をおさえることはできなかった。

岩城親隆【いわきちかたか(1537~1594)】  

伊達晴宗の男。岩城重隆の養子。官途は左京大夫。1534年、伊達晴宗と岩城重隆との約束により、岩城重隆の養嗣子となって岩城家の家督継承者になった。養父の伊達重隆の隠居後、当主に就任する。田村家や石川家の領土を侵したり、二階堂盛義の援助のため出兵するなどの小規模の軍事活動がみられるが、基本的には養父岩城重隆以来の外交重視路線を世襲した。佐竹義昭は、石川家や白河結城家の従属化を図り、友好的であった岩城家との関係も悪化した。岩城親隆は佐竹義昭の娘を室に迎えていたにも関わらず関係は改善しなかった。1568年、佐竹家と軍事衝突を起こす最中、養父岩城重隆は病死し、岩城親隆も病に倒れ人事不省となるとなる。佐竹家出身の岩城親隆夫人が実権を握り、佐竹義重が岩城家の政治に介入するようになる。1578年、岩城常隆が当主に就任し、岩城親隆夫人がその後見役を務めた。

岩城常隆【いわきつねたか(1567~1590)】

岩城親隆の男。官途は左京大夫。父岩城親隆が病に倒れ人事不省となると、佐竹家出身の岩城親隆夫人が後見人となり、岩城家の実権は佐竹義重に握られることになった。1578年、岩城常隆が当主になるが、佐竹家の家中に対する影響力は変わらなかった。伊達政宗が勢力を広げると、岩城常隆は静観したが、伊達政宗が岩城家と対立する田村家より室を迎えると、岩城家は再び佐竹家よりとなり、石川家などと共に伊達家と対立する。1586年「人取橋の戦い」においては佐竹家側で参戦し、家臣窪田十郎が伊達家の鬼庭良直を討ち取る。1589年「摺上原の戦い」に勝利し芦名家を滅ぼすと岩城家は石川家と共に伊達政宗に臣従する。1590年「小田原の役」に参陣することで所領を安堵されたが、まもなく病に倒れ、鎌倉で死去した。岩城常隆には岩城政隆という実子がいたが、幼少であったため、羽柴秀吉の意向もあり佐竹義重の三男である岩城貞隆が養嗣子として岩城家の家督を相続した。

岩城政隆【いわきまさたか(1590~1615)】  

岩城常隆の男。通称長次郎。1590年「小田原の役」の参陣中に父岩城常隆が病死し、岩城家の家督は羽柴秀吉の介入で、佐竹義重の三男岩城貞隆が相続した。岩城政隆は、岩城家より追放された。1607年、伊達政宗に仕えた。

岩城貞隆【いわきさだたか(1583~1620)】

佐竹義重の三男。岩城常隆の養子。1590年「小田原の役」の参陣中に父岩城常隆が病死し、岩城家の家督は羽柴秀吉の介入で、佐竹義重の三男岩城貞隆が相続した。1600年「関ヶ原の役」では、兄佐竹義宣の命に従って、越後長尾景勝征伐に参加しなかったため、1602年、兄佐竹義宣と共に処分を下された。佐竹家は減封で済んだが、岩城貞隆は全ての所領を没収された。岩城貞隆はこの不当な仕打ちに対して、兄佐竹義宣に挙兵まで促したが拒絶された。岩城貞隆は室の実家の相馬家が再興したことに希望を見出し、自らも岩城家再興を願うべく江戸に登り、浅草で浪人し、再興運動に尽瘁、飯野八幡宮に度々祈願した。土井利勝の内意を受け、松平元康に再興を嘆願した結果、本多正信の組となり300人扶持となる。1616年、信濃国中村に10,000石を与えられ、大名として復帰した。

大越顕光【おおごえあきみつ(15??~15??)】  

田村郡大越館主。田村家の枝連衆。田村家中で第二の大身して文武に渡って田村家を支え続けてきた武将。1586年、田村清顕が病死して家中に伊達派と相馬派の争いが起きると、大越顕光は相馬義胤の従兄弟でもあった関係から相馬派の指導者として主導権争いに敗北、他の相馬派のメンバーともども地理的に近かった岩城家の軍門に下っていた。1589年、伊達政宗は田村家の旧領全域を確保するため、ら三春城への出仕を禁じて追放とした親相馬派メンバーの全面赦免に踏み切り、大越顕光と行動を共にしていた田村梅雪らが応じて田村家に帰参し親相馬派は瓦解した。

大越家臣団【おおごしけかしんだん】

大越八郎左衛門、大越紀伊守、大越孫七郎。

大寺清光【おおでらきよみつ(15??~1589)】

石川郡大寺城主。官途は中務大輔。1582年、大寺清光は所領争いから石川昭光と対立し、母畑油殻平で石川勢と合戦に及びましたが、これに敗退し大寺城に籠城しました。追撃してきた石川勢の攻撃に抗しきれず、大寺清光は降伏を余儀なくされ、大寺毛の勢力は急速に衰退した。その後、大寺清光は勢力回復を企て二階堂、岩城家と結び再び石川昭光に抗した。1589年、大寺清光の籠る須賀川城は伊達政宗の攻撃を受けて落城、大寺家は没落した。

大寺家臣団【おおでらけかしんだん】

塩沢高平、大野行宗、吉村金貞、安部金光。

小川隆勝【おがわたかかつ(15??~15??)】

岩城家臣。

小川上総介【おがわかずさのすけ(15??~15??)】

岩城家臣。1589年、伊達政宗の策謀を受けた芦名義広から出陣を要請された。

小川大蔵丞【おがわおおくらのじょう(15??~15??)】

小川上総介の男。1584年、下野において北条氏直と戦い、戦功を佐竹義重に賞された。

岡田義胤【おかだよしたね(15??~15??)】 

行方郡岡田館主。官途は安房守。相馬家臣。1492年、相馬盛胤は、権現堂城に標葉左京大夫清隆を攻めた。岡田義胤も従軍している。相馬盛胤は泉田村渋井に布陣していた標葉枝連衆筆頭泉田隆直を寝返らせ、隆直は相馬勢の先陣となって権現堂に攻め寄せた。標葉清隆の嫡子標葉隆成の評判は非常に悪かったといい、泉田隆直の内応はこれに反発したことによるものという。泉田隆直の寝返りをみた城内は動揺し、標葉家の中核を占めている標葉六騎七人衆のほとんど、さらに一族標葉小四郎隆豊や家老牛渡九郎兵衛が内通。城門を開いて相馬勢を招き入れると、城内に火を放った。こうして鎌倉以来の標葉郡領主標葉家は滅び、代わって相馬家が支配者となった。権現堂城を岡田義胤に任じた。岡田義胤は嫡男岡田重胤に家督を譲って、次男岡田将監胤連とともに権現堂に移り住んだ。

岡田茂胤【おかだしげたね(15??~15??)】 

岡田義胤の男。相馬岡田家。通称は治部大輔。室は大槻義治(二本松畠山家臣)娘。小高郷筆頭として「岡田館 岡田兵衛太夫直胤 二十五騎」とあり、相馬顕胤、相馬盛胤に仕えた。

岡田直胤【おかだなおたね(1560~1591)】 

岡田茂胤の男。相馬盛胤、相馬義胤に仕えた。小高衆25騎を率いた。相馬勢で20騎以上を率いるのはほかに泉田胤清(標葉郷大将)、泉胤政(中郷大将)の二人のみで、いずれも一門上位の家格である。泉胤政は岡田家と同族であり、泉田家は縁戚にあたる。1563年、伊達家に通じて謀反を起こした草野式部直清が討たれたが、相馬盛胤は彼の16歳になる娘を育て、岡田直胤と娶わせた。また娘は一族の泉藤右衛門胤政に嫁いでいる。

------------------------------------------------------

【か】

上遠野秀永【かどおのひでなが(15??~15??)】

岩城家臣。官途は右衛門大夫。のちに佐竹義昭に服属した。

上遠野秀宗【かどおのひでむね(1561~1637)】

上遠野秀永の男。通称源五郎。官途は隠岐守。永禄期に佐竹義喬に属して陸奥赤館付近に住す。1589年、太平で伊達政宗と戦い、戦後隠岐守の官途を与えられた。

河東田河内守【かとうだかわちのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。1575年、佐竹義重により白河城が攻略されると主家を離れて佐竹家に従い、経営を任された佐竹義久に属して所領を安堵された。

河東田備前守【かとうだびぜんのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。河東田河内守の男。官途は兵部少輔。1575年、父とともに佐竹義久に属した。同年三十貫文を与えられ、陸奥赤館城に在番した。

河東田重清【かとうだしげきよ(15??~15??)】

河東田城主、河東田重治の男。官途は上総介。白河結城家臣。白河結城義親の命で伊達家との交渉に当たった。武勇に優れ、佐竹家との戦いなどで活躍する一方、領内に善政を敷いたので民衆はよく服したという。1576年、佐竹家に奪われていた赤館城を奪回するため、白河勢が最前線の河東田城に集結した。河東田清重も佐藤忠秀に従いこの戦いで奮戦している。1589年、白河結城義親が伊達家に降ると、河東田清重は佐竹家への備えとして関和久城の警護に当たった。1590年、結城白河家が羽柴秀吉により改易される。白河結城義親に従って伊達家に仕えた。

河東田親顕【かとうだしげきよ(15??~15??)】

河東田重清の男。

黒木信房【くろきのぶふさ(15??~15??)】

中村城主。通称弾正。中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ支配していた。1532年「伊達家の天文の乱」で伊達晴宗に組した黒木家は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗した。1543年、伊達稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。

黒木丹波守【くろきたんばのかみ(15??~15??)】

相馬家臣。伊達政宗が初陣したさい、相馬方の大将としえ兵3,700余りを率いて大条城を攻撃した。大条城主小梁川行秀は兵100余りで反撃するが、黒木丹波守の伏兵に会い敗走した。

黒木家臣団【くろきけかしんだん】

黒木大炊介光安、黒木中務、古田主水正。

木幡継清【こばたつぐきよ(15??~1618)】

木幡高清の兄。相馬盛胤、相馬義胤、相馬利胤三代に仕えた老臣。度々合戦で軍功があったという。

木幡高清【こばたたかきよ(1537~1642)】

木幡継清の弟。官途は駿河守。相馬五代に仕えた。検地代官や相馬利胤の傅役も務めた。

木幡清吉【こばたきよよし(1570~1665)】

木幡高清の男。相馬盛胤から相馬忠胤までの相馬五代に仕えた。中村城下街のなわばり奉行を務めた。

桑折久家【こおりひさいえ(15??~15??)】

北郷田中館主。

近藤和泉守【こんどういずみのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。1570年、佐竹家に転仕し、佐竹東家義久の麾下に属した。

近藤対馬守【こんどうつしまのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。南奥山際地方を領した。1570年、枝連衆と共に佐竹家に転仕し、東家義久の麾下に属す。1585年、屋敷山乱入禁止の制札を与えられた。

近藤豊後守【こんどうぶんごのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。通称掃部助。1570年、佐竹家に転仕して東義久の麾下に属す。1574年、東義久から所領安堵を受けた。

草野直清【くさのなおきよ(1514~1563)】

相馬家臣。伊達輝宗に内通、相馬義胤勢の佐藤好信と戦ったい討死した。

小池春憲【こいけはるのり(15??~15??)】

相馬家臣。通称弥七郎。相馬家を辞し、佐々成政に召抱えられた。佐々成政が羽柴秀吉に下ると飛騨高山へ移住した。武功の臣で、剣の達人として飛騨を領した金森家に仕えた。

------------------------------------------------------

【さ】

佐藤好信【さとう よしのぶ(1511~1556)】

伊具郡小斎城主。相馬家臣。楢葉郡富岡城にいた岩城家臣であったが、相馬家の武勇を慕い富岡右京進、富岡美濃守らと共に相馬領へ来て相馬顕胤、相馬盛胤の二代に仕えた。草野直清、青田顕治の反乱鎮圧戦などで活躍し、軍奉行として優れ、数多くの功績を立てたが、桑折左馬之助の讒言に遭い、軍奉行職を解かれたうえ、所領を没収された。

佐藤為信【さとうためのぶ(15??~1591)】

佐藤好信の男。官途は紀伊守。通称左衛門。父佐藤好信が桑折左馬之助(郡左馬助)の讒によって失領し、さらにその領知は桑折に与えられた。1582年、佐藤為信は伊達勢に小斎城を攻められたが、援軍に来た桑折を殺害、息子佐藤勝信を人質とし、亘理元宗を介して伊達政宗に降伏した。その後も相馬戦などに活躍するが、1591年「佐沼城の戦い」で討死した。

佐藤勝信【さとうかつのぶ(15??~15??)】

佐藤為信の男。伊達家への投降に際し、人質として差し出された。

佐藤忠秀【さとうただひで(15??~1579)】

佐藤忠量の男。官途は大隈守。白河結城義綱に仕官して、双石館を居館とした。智勇に優れ,伊達家との交渉に当たったほか、佐竹家との合戦では軍師役を務めた。1576年、佐竹家に奪われていた支城赤館城の奪回戦では軍団の総大将を務めた。佐藤忠秀は夜襲を決行し、一度は城の奪還に成功するが、後に再び佐竹家に大軍をもって奪われてしまう。佐竹家の攻勢で本拠の白河城が危機に陥った際、佐藤忠秀は全軍を撤退させ白河城を空城にし、佐竹勢が入ったところを大挙して押し寄せこれを撃破するという策を進言した。白河結城義親はそれを受け入れ、鶴生まで退いて譜代の将や郎党、土豪を集結させ、芦名家に後詰を求めた。しかし、城下が荒れるのを恐れた神社の神官や仏閣の僧侶が和平を嘆願し、入城した佐竹勢もそれを受け入れたため、策が実行されることはなかった。最後は合戦坂での佐竹勢との戦いで戸村和泉守他5名の首を討ち取ったが、後軍破れ討死した。

志賀武治【しがたけはる(15??~15??)】

白石実綱【しらいしさねたね(15??~15??)】

刈田郡白石城主。伊達家臣。1544年「天文の乱」では伊達晴宗に属して功績を挙げた。

白石宗利【しらいしむねとし(15??~15??)】

白石実綱の男。1570年、中野宗時、牧野久仲親子が謀反を起こした際に自領の白石を通過した中野宗時らを捕らえられなかった事により伊達輝宗の怒りを買い赦免された。

白石宗実【しらいしむねざね(1553~1599)】

白石宗利の男。白石宗実は勇将で、伊達輝宗、伊達政宗父子に従って相馬家との戦いに従軍。1585年「人取橋の戦い」、1589年「摺上原の戦い」、1593年「文禄の役」など多くの合戦に参加して武功を挙げて活躍した。また武功だけでなく、二本松城の畠山家と激しい抗争を繰り広げていた伊達家に対し、相馬義胤から和睦勧告の提示があり、白石宗実はこれを伊達政宗に取り次ぎ和睦成立に貢献した。1586年、大内定綱の旧領・安達郡塩松33邑を加増され、宮森城主となった。1591年「葛西大崎一揆」鎮圧後、伊達家が岩出山城に移封となった際に安達郡を没収されたため、代わりに胆沢郡水沢城主となり15,000石の所領を与えられた。

白石宗直【しらいしむねなお(1577~1629)】

梁川宗清の男。白石宗実の養子。室は白石宗実の娘。1599年、白石宗実の養子となり、白石宗直と名乗った。1600年「関ヶ原の戦い」では越後長尾景勝の領土となっていた「白石城の戦い」「出羽合戦」で最上義光の援軍として活躍した。伊達政宗の命を受け、南部家に反乱を起こした和賀忠親を支援する。伊達政宗から登米を与えられ入部。城下町の発展や河川の整備などに積極的に取り組み、領地を大いに発展させた。1614年「大坂の陣」では宇和島で伊達秀宗を出迎え「道明寺の戦い」などで大いに功をあげた。

白石家臣団【しらいしけかしんだん】

調査中。

志賀武治【しがたけはる(15??~15??)】

岩城家臣。通称甘釣斎玄胡。佐竹、伊達間の調停、岩城、伊達の和睦など、外交的役割を担っていた。

白土隆通【しらとたかみち(15??~15??)】

岩城家臣。官途は摂津守。甘釣斎と共に伊達家との折衝にしばしばあたっている。佐竹家から岩城貞隆を迎える為に尽力、増田長盛を通じて羽柴秀吉の許可を取り付け、岩城家の存続を得た。白土家は岩城枝連衆である。

白土隆良【しらとたかよし(15??~15??)】

白土隆通の男。官途は右馬助。

白土隆顕【しらとたかあき(15??~15??)】

官途は下総守。白土隆通、白土隆良父子との関係は不明。

白土左近【しらとさこん(15??~15??)】

白河結城家臣。天正初期に佐竹家に従い、佐竹東家義久の麾下に属した。1584年、佐竹義久の命で所領を赤館城番の将士に与えた。

白土弾正忠【しらとだんじょうのちゅう(15??~15??)】

白河結城家臣。1575年、佐竹家に転仕して佐竹東家義久に属した。佐竹義久の命を受け、陸奥南郷、赤館方面で足軽衆を指揮した。

相馬顕胤【そうまあきたね(1508~1549)】

相馬郡小高城主。相馬盛胤の男。隣接する岩城重隆と争い、岩城城下にまで攻めこんで和睦。伊達稙宗の女を室に迎えており、「天文の乱」では伊達稙宗方について伊達晴宗と戦った。岩城重隆は相馬家への対抗上伊達晴宗側について田村顕胤を攻めたが敗北。

相馬盛胤【そうまもりたね(1529~1601)】

相馬顕胤の男。室は伊達稙宗の弟伊達義宗の女。また妹は田村清顕の室となり、後伊達政宗の室となる愛姫を産んでいる。このような婚姻関係があるものの、伊達晴宗との直接関係はなく、伊達晴宗、伊達輝宗とは激しい戦いを繰り返した。1564年、名取郡で伊達晴宗と激闘、その後も丸森城奪取するなど伊具郡に積極的に侵攻した。伊達輝宗の代にはこれまで防戦一方であった戦いを侵略にまで推し進めた。1549年、妹を田村清顕の室に入れて縁戚を結び、略取した田村領を返還するなど外交にもしたたかであった。

相馬義胤【そうまよしたね(1548~1635)】

相馬盛胤の男。1564年、伊具郡に侵入して伊達軍と激しく争い、二本松畠山家、大内家らと結ぶなど伊達包囲網の一角をなして大いに伊達勢を苦しめたが、伊達政宗が当主となって以後はその猛攻により次々と同盟者は滅亡し、相馬領にも侵攻してくるなど劣勢は否めず、家臣の離反や弟相馬隆胤の討死など、軍事的にも窮地に立たされていた。1589年「小田原の役」に参陣したことにより、行方郡、宇多郡、標葉郡に48,000石余を安堵された。1598年、小高城より牛越城に移る。1600年「関ヶ原の役」では当初日和見をして形勢確定後越後長尾領である安達郡を攻略しようとして失敗、戦後罪に問われて改易された。その後伊達政宗の斡旋と世子相馬利胤の奔走によって相馬利胤に領地が与えられた。

相馬隆胤【そうまたかたね(1551~1590)】

相馬盛胤の次男。草野直清の討死後には中村城代を務めた。伊達勢と激闘を繰り返したがついに討死した。

相馬利胤【そうまとしたね(1581~1625)】

相馬義胤の三男。1600年「関ヶ原の役」で失領した。1602年、父の隠居による家督相続と所領の獲得に至り、1609年に本領へ復帰を果たし、60,000石を領した。1611年、小高城より中村城に本城を移す。1614年「大坂の役夏の陣」では徳川秀忠の先陣を務めて奮戦した。

相馬郷胤【そうまさとたね(15??~1601)】

相馬盛胤の四男。田中城代。

相馬隆胤【そうまたかたね(1551~1590)】

相馬義胤の五男。1563年、中村城代となる。1590年、伊達家との戦いで討死した。勇猛であったが猪突猛進型の武将であった。

------------------------------------------------------

【た】

竹貫隆光【たけぬきたかみつ(15??~15??)】

岩城家臣。石川家の庶家であったが岩城家臣となり、重臣として重きをなした。

竹貫広光【たけぬきひろみつ(15??~15??)】

竹貫隆光の男。1541年、佐竹、白川結城家との抗争の調停を岩城家が行ったとき折衝に当たった。

田中隆定【たなかたかさだ(15??~15??)】

岩城家臣。官途は越中守。岩城常隆に仕えた。1590年、隠居の佐竹義重に仕えた。1591年、山尾城の門、橋の普請に当たった。

田村義顕【たむらよしあき(15??~1561)】

田村盛顕の男。室は岩城常隆の娘。当初は守山城を本拠としていたが、1504年、三春城を築き居城とした。田村氏発展の基礎を築いた人物とされる。1532年、田村隆顕に家督を譲って隠居した。

田村隆顕【たむらたかあき(15??~1574)】

田村義顕の男。1532年、父田村義顕から家督を相続したとき、田村家は相馬家、岩城家、佐竹家、葦名家などの諸大名に囲まれて苦しい立場にあったが、田村隆顕は伊達稙宗の娘を室として迎え、伊達勢の援助を得ることで田村家の命脈を保った。「天文の乱」においては伊達稙宗派に属す。1547年、伊達稙宗派、芦名盛氏と不和を生じ、芦名盛氏が伊達晴宗派に転じると、乱終結後の1549年には伊達稙宗派であった相馬顕胤の娘(盛胤の妹)を自身の嫡男田村清顕の室として迎え、相馬と和平を結んで後顧の憂いを断った。田村隆顕は外交戦略に優れた人物であった。1560年、佐竹家と手を結んで芦名家を攻めた。1572年、佐竹家が攻めて来ると芦名家と手を結んで撃退するなどしている。まさに小領主ながら優れた武将だった。

田村清顕【たむらきよあき(15??~1586)】

田村隆顕の男。室は相馬顕胤の娘(於北方)。英明な武将として知られ、父田村隆顕の死後、田村家の家督を相続する。佐竹家や葦名家に対抗するため、一人娘の愛姫を伊達政宗の室として嫁がせ、伊達勢の援軍を得ることで独立を保持した。伊達家と室の実家である相馬家との領土問題では、相馬義胤を説得し丸森城を伊達輝宗に返還させ両者の和睦に成功した。田村清顕には愛姫以外に子供ができなかった。1586年、田村清顕が没するとその後釜をめぐって田村家中、及び伊達家と相馬家の間で再び争いが起った。

田村顕頼【たむらあきより(1492~15??)】

田村盛顕の次男。官途は宮内少輔。通称月斎聖休。1559年、田村隆顕とともに出陣、二階堂家から奪った小泉城の城代に任ぜられた。田村清顕死後の家中騒動では伊達方につく。合戦で戦功が多かったた。

田村顕基【たむらあきもと(15??~15??)】

田村郡小野城主。田村盛顕の次男。官途は右馬頭。通称梅雪斎。家中騒動では田村清顕未亡人と共に相馬方につく。娘は田村清康の室。父田村義顕より小野郷を与えられて新町城主となった。

田村顕基家臣団【たむらあきもとけかしんだん】

田村兵部人政顕、郡司豊前守敏良、郡司雅楽頭敏貞、猪狩中務人親満、野内伊予守正兼。

田村清通【たむらきよみち(15??~15??)】

田村顕基の男。官途は右馬頭。

田村顕長【たむらあきなが(15??~15??)】

田村顕基の次男。「三春四老之内」。

田村清康【たむらきよやす(15??~15??)】

田村郡船引城主。官途は右衛門大夫。田村清顕死後の一門談合体制に参加した。

田村重顕【たむらしげあき(15??~1579)】

田村清顕の弟。1579年、二階堂家を攻めたとき討死した。

田村重時【たむらしげとき(1499~1572)】

田村直顕の弟、重顕の孫。父は重為。

田村氏顕【たむらうじあき(15??~1579)】

田村清顕の弟。1579年、岩瀬郡に侵攻し、二階堂家と合戦した結果、田村勢230人が討たれたが、田村氏顕も討死した。

富岡隆時【とみおかたかとき(15??~15??)】

岩城由隆の弟。岩城家臣。

富岡隆宗【とみおかたかむね(15??~15??)】

富岡隆時の男。1547年、伊達家の竹貫城攻めに対して城を守った。

常葉光貞【ときわみつさだ(15??~15??)】

田村家臣。官途は摂津守。

常葉清重【ときわきよしげ(15??~15??)】 

常葉光貞の男。官途は伊賀守。1544年、大越顕光と共に石川家と田村家の和解に努力することを約している。常葉清重は『奥陽仙道表鑑』に、橋本とともに芦名、二階堂両家の田村郡侵入を撃退した武将として記されている。

常葉貞之【ときわさだゆき(15??~15??)】

常盤館主。官途は甲斐守。天正年間に田村清顕に仕えたが、相馬義胤に討滅された。常葉光貞、常葉清重との関係は不明。

------------------------------------------------------

【な】

中津川親宗【なかつがわちかむね(15??~15??)】 

田村家臣。通称兵衛太輔。田村一族であるという。田村氏系図の家臣書き上げに記される「中津川次郎右衛門大夫」や片倉家の記録に「中津川兵衛佐」関係があると思われる。

中畠(畑)晴常【なかはたはるつね(15??~15??)】

官途は上野介。結城晴綱の庶子。母方の中畠家を相続したため、中畠姓を称した。義親が白河城に入ったときに、晴常も晴綱の後継者の資格があったために晴常派家臣も多数存在し、義親派家臣団と深刻な対立を呈したという。

中畠晴辰【なかはたはるたつ(15??~15??)】 

中畠晴常の男。白河結城枝連衆。白河家中において重きをなした。父と義親との対立も中畠晴辰の頃には解決していたようである。

中畠晴時【なかはたはるとき(1570~1590)】

中畠晴辰の養子。官途は大学助。羽柴秀吉が小田原落城後会津に向かった際、「馬尾滝」において狙撃。しかし弾が当たらなかったため逃走した。1589年、蒲生氏郷に従って「九戸一揆」に出陣、討死した。

新田信政【にったのぶまさ(15??~15??)】

田村家臣。官途は美作守。「田村宿老」の一人。

------------------------------------------------------

【は】

芳賀綱勝【はがつなかつ(15??~15??)】

白河結城家臣。官途は左衛門。斑目家より家格が高い重臣。

芳賀因幡守【はがいなばのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。官途は兵部少輔。1575年、佐竹義重に転仕し、白河城攻略を援けた。東(佐竹)義久より白河長坂に知行を得て、佐竹義重から因幡守の官途を与えられた。

芳賀讃岐守【はがさぬきのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。官途は玄蕃允。1575年、佐竹義重に転仕し、白河城攻略に寄与。東(佐竹)義久より増見の地を安堵された。佐竹義重から讃岐守の官途を与えられた。1595年、知行割替では白河玉野などに70石を領した。

橋本顕徳【はしもとあきのり】

田村家臣。官途は刑部少輔。家中騒動の時に伊達方についた。田村清顕の病没後の家中を田村一門とともに運営した。田村家中が相馬方と伊達方に二分しているのをまとめ、伊達家への接近を図った。子の但馬(諱は不明)は伊達政宗の室、北夫人に仕えた。なお、片倉家文書の田村家臣団記録中では「田村宿老」には四人が記され、その中の一人が「橋本伊予守」となっているが、田村顕徳との関係は不明。顕徳はその下の格(大越顕光らと同格)で与力五十騎を任されている。

標葉隆成【はようたかなり(15??~1492)】

標葉郡熊野堂城主。標葉郡惣領職。1492年、相馬盛胤に攻められ熊野堂城に籠城した標葉隆成は、相馬勢の攻撃に頑強に抵抗したが、標葉家一門衆の藤橋小四郎隆豊と家老の牛渡九郎兵衛尉が相馬勢に内応したことで落城、標葉隆成は自刃した。

藤橋紀伊守【ふじはしきいのかみ(15??~15??)】

相馬家臣。1564年、谷地小屋城代。1566年、金山城代となった。1568年、金山城は伊達家に攻略された。

藤橋胤泰【ふじはしたねやす(1507~1579)】

泉田胤重の次男。藤橋胤隆の養子。官途は紀伊守。永禄、元亀年間に金山城代となる。

船尾隆輔【ふなお(15??~15??)】

岩城家枝連衆で、岩城由隆の弟。

船尾隆直【ふなおたかなお(15??~15??)】

船尾隆輔の男。官途は下野守。1558年、佐竹家に通じた。1576年、息子船尾昭直とともに佐竹東家義久と起請文を交換するなど、たびたび佐竹家と起請文を交わした。

船尾昭直【ふなおあきなお(15??~15??)】

船尾隆直の男。通称九郎三郎。官途は山城守。1550年、佐竹家に属し、南奥における佐竹家の先鋒として活動した。1575年、滑津城に在番。1578年、白河結城義広が白河結城家に入嗣すると、これに同道して補佐に当たる。1590年、南郷川上に戻る。1595年、知行割替では常陸茨城郡に1600石を知行した。

船尾義綱【ふなおよしつな(15??~15??)】

佐竹家臣。船尾昭直の男。通称三七。官途は右兵衛尉。滑津城に在城し、父とともに白河結城義広を補佐した。1587年、葦名義広が葦名家に入嗣する際、これまでの忠節を賞された。1592年、佐竹義宣とともに肥前名護屋に在陣。1602年、秋田転封により、父とともに同地へ赴いた。

深谷顕衡【ふかやあきひら(15??~1521)】

常陸獅子城主。白河結城家臣。官途は伊豆守。1506年、佐竹義舜に降るが、のちに白河結城晴綱が侵攻すると再び結城家の幕下に属した。1521年、佐竹義篤の侵攻を受けて落城、討ち死した。

堀内俊胤【ほりうちとしたね(15??~1569)】

相馬上野介近胤の次男。通称は右兵衛尉。1569年、伊達家との戦いで討死を遂げ、堀内家は断絶した。この断絶を惜しんだ相馬弾正大弼盛胤は自分の義弟に当たる掛田兵庫義氏に俊胤の娘を嫁がせて堀内家を再興させた。

堀内義氏【ほりうちよしうじ(15??~15??)】

掛田兵庫頭義宗の三男。通称は兵庫。室は堀内右兵衛尉俊胤娘。惣領の相馬弾正大弼盛胤とは義兄弟にあたる。1569年、堀内右兵衛尉俊胤が討死を遂げたため、娘婿だった堀内義氏が堀内家を相続した。しかし義氏と堀内俊胤娘はいさかいが絶えず、堀内義氏は堀内家を出奔して宇多郡に移り住んだ。

堀内大膳【ほりうちだいぜん(15??~1587)】

田村枝連衆の中津川家の出身。室は堀内右兵衛尉俊胤娘。小浜城主の岩角畠山伊勢守尚義(四本松式部大輔久義)の娘を娶った。泉大膳胤秋。大膳は堀内家の家督を継承したが、室の堀内家とは相性があわず、大膳は堀内家を出てしまった。子の胤政が泉家の後嗣となったため、大膳はその後見人となって泉大膳胤秋を称している。1585年に最上義光が相馬義胤臣の「伊泉大膳亮」へ宛てた書状が残っている。

堀内晴胤【ほりうちはるたね(15??~1633)】

掛田伊達一族の藤田七郎晴近入道齊庵の男。通称は四郎。舅の相馬三郎胤乗は相馬惣領相馬盛胤の叔父に当たり、相馬晴胤の父藤田晴近と盛胤は従兄弟となる。実家の掛田家は伊達家の一族であり、祖母は伊達稙宗娘であった。こうしたことから、次第に伊達家からの調略の手が延びた。宗和と兄の黒木城主、黒木中務宗俊は謀反の計画を立てた。1580年、堀内晴胤の兄黒木宗俊は父で馬場野城主藤田七郎晴近に謀反の計画を告げて、ともに立つことを勧めたが、晴近はこれに激怒。宗俊を捕らえて自害させようとしたが、宗俊は城を脱出して黒木城に引き上げてしまった。晴近は二人の実子、黒木宗俊、堀内晴胤の不届きな計画に厳格に対処すべく、両名が謀反の心を抱いていることを早馬に乗せて小高城の新惣領相馬義胤に報告した。これを聞いた相馬義胤は、隠居の相馬盛胤にも出陣を求め、黒木城を急襲して攻め落とし、両者を捕らえた。このとき、建昌寺という寺院の住職が陣中を訪れ、二人の助命を願い出たことから、堀内義胤は彼らの父藤田晴近の忠義に免じて、相馬領から追放とされた。

------------------------------------------------------

【ま】

斑目広基【まだらめひろもと(15??~1576)】

白河結城家臣。官途は信濃守。兄斑目広綱と共に勇猛な武将として知られ、佐竹家との戦いで活躍した。陸奥と常陸の国境付近にある東館城主。1541年、佐竹家の攻撃により落城し、白河に引き上げた。1576年、佐藤忠秀に従って佐竹家に奪われていた赤館城を奪い返すが、 後に結城義親に謀反を疑われて斑目広綱と共に暗殺された。赤館城を落とした際に捕らえた佐竹家臣渋江氏光の幼い娘を佐竹家に送り返し、その返礼として佐竹氏が斑目領のみ青田刈りを行わなかったのを白河結城義親に疑われたためといわれる。

町田右馬助【まちだうめのすけ(15??~15??)】

白河結城家臣。主家に衰退により佐竹家に属すして、東家義久に仕えた。1590年、佐竹義久が常陸鹿島郡を与えられると、佐竹義久より知行を得た。

三坂隆次【みさかたかつぐ(15??~15??)】

岩城家臣。官途は越前守。伊達家との交渉役を担っていた。

水谷胤重【みずたにたねしげ(1538~1606)】

相馬家臣。水谷胤氏の男。1542年、父が伊達家との合戦に討死し、叔父水谷胤清に養育された。長じて天正年中、度々合戦に従う。1600年、伊達政宗がわずかな手兵で相馬を通り仙台に帰る時、相馬で一泊したいと申し出、この隙に襲撃するべきとの家中の意見に対し、「仇敵でも、このように頼ってきている者を討つのは武士ではない」と発言したという。相馬義胤はこの意見を容れ、伊達政宗は一夜を無事に過ごし仙台に帰った。この出来事のために相馬家は改易されたあと、伊達家のとりなしを得て本領を回復できたのだという。

【や】

亘理宗元 【わたりむねもと(1472~1531)】

亘理郡亘理城主。亘理元胤の男。兄亘理元実が早世していたことから、亘理家の家督を継承した。伊達家との戦いに敗れて麾下に加わっていたが、その後は伊達家から離反し抗争を続けていた。亘理宗元の代にふたたび伊達家の麾下に加わった。

亘理宗隆【わたりぬねたか(1493~1556)】 

亘理宗元の男。亘理宗隆には嫡男がなく、伊達稙宗と一人娘(天窓慶普信女)の間に生まれた彦四郎(綱宗)と乙松丸(元宗)を養子に迎え、伊達稙宗は涌澤弾正、千石大炊助を兄弟につけて送り遣わした。1544年、亘理綱宗が、亘理宗隆の家督を継ぐ前の「天文の大乱」の掛田の役にて討死を遂げたため、その実弟の乙松丸(元宗)が亘理家を継ぐこととなった。

亘理綱宗【わたりつなむね(1526~1544)】

伊達稙宗の男。亘理宗隆養嗣子。母は亘理宗隆娘。1544年、亘理綱宗は、父伊達稙宗と兄伊達晴宗の父子争いである「天文の大乱」の動乱に巻き込まれ「穂原掛田の戦い」で討死を遂げた。

亘理元宗【わたりもとむね(1530~1594)】

伊達稙宗の男。亘理宗隆養嗣子。1544年、兄亘理綱宗に討死したため亘理家の家督を相続した。1565年の名取郡「沙留川の戦い」では、相馬家の侍大将富田丹波守を討取り佩刀「角柄生」を手に入れた。

亘理重元【わたりしげもと(1552~1620)】

亘理元宗の男。

亘理家臣団【わたりけかしんだん】

菱沼時久、坂本俊常、村岡胤信、亘理盛景、山寺蔵人盛純、寺内丹後守、小泉主膳繁、米谷下総延常、大塚蔵人、鷲足主水清久、遠藤半内良知、宍戸刑部方則、星與三左衛門玄親、鈴木七郎左衛門義久、上野善九郎延命、斎源内胤行、粟野右近易意、糠田内膳、大塚甚助、砂金藤四郎、西山源兵衛、安部善四郎、足立刑部、佐藤次郎右衛門、松浦助六郎、遠藤四郎左衛門、猪俣彦右衛門濁清、鈴木九郎左衛門豊住、岡崎彦六郎、大村豊後守、高野本太郎知久、門間助九郎、萱野甚四郎、條又十郎友成。

和知直頼【わちなおより(15??~15??)】

白河結城家臣。官途は美濃守。和知家は白河家の重臣を務めた家柄である。結城義顕を白河城から追放し、小峰義親の入城を手引きした。1535年、白河氏10代結城義綱の近津大明神への寄進状の添状を発給している。この文書の付箋に「白河宿老」と記載されており、上級家臣であることがうかがえる。

白河結城顕頼【ゆうきあきより(1470~1543)】

結城政朝の男。官途は宮内少輔。通称左兵衛佐。室は田村直顕の娘。父結城政朝が葦名家から後室をめとり生まれた子(五郎)を寵愛して、老齢になっても結城顕頼に家督を譲ろうとしなかった。1510年、一族の小峰直常や岩城家の援助を受けて父と五郎を追放し家督を継いだが、この内紛で白河結城家の力は衰退し、所領を多く失った。古河公方の内乱がおこると足利政氏方に味方している。後に那須家の当主として養子になった弟那須(結城)資永が内紛の末自刃した。1520年、報復のため岩城家を誘って挙兵し下野に侵略して那須資房と争ったが、岩城家が那須家と和睦したため果たせなかった。

白河結城義綱【ゆうきよしつな(1500~1559)】

結城顕頼の男。官途は左兵衛佐。白河結城家は、佐竹家の内紛に乗じて勢力を拡大し、佐竹家の本拠近くまで所領を広げたが、結城義綱の代には佐竹家の反攻に遭い、次第に勢力を削られていった。1534年、岩城重隆の娘と嫡男晴綱との婚姻をめぐって伊達家と対立し、伊達家と伊達側についた芦名、石川、二階堂、相馬家らと争う「滑井合戦」が敗北し、岩城家との婚儀は果たせず、所領の一部も失った。そのためか、次代の結城晴綱は「天文の乱」で伊達晴宗から田村隆顕を背後から牽制するように要請を受けたが、結城晴綱はそれに応じず、積極的にこの乱に参加しなかった。

白河結城晴綱【ゆうきはるつな(1520~1573)】

結城義綱の男。官途は左京大夫。近隣の二階堂家や田村家、石川家と和戦を繰り広げた。岩城家とは友好関係を保ち、佐竹家と抗争が起きた際には何度か調停を受けている。1544年、伊達家の「天文の乱」に結城晴綱は積極的に介入しなかった。1545年、伊達晴宗から友好を求められたこと、二階堂輝行(稙宗婿)の領地を侵した。1546年、伊達晴宗から田村義顕、田村隆顕(稙宗婿)父子を背後から牽制するように要請を受けたことなどが知られており、伊達晴宗派であったと思われる。1539年、那須政資、那須高資父子が争った際、下総結城家の結城政勝、小山高朝に協力して高資を支援した。1551年、二本松義国と共同して、対立していた芦名家と田村家を仲介し講和を成立させた。1555年、内訌を克服し領内に侵攻してきた佐竹家に対抗すべく、枝連衆筆頭の小峰義親の室に芦名盛氏の娘を迎え、芦名家と同盟し、また小田原の後北条家とも同盟して佐竹家と争うが、那須家との争いも勃発するなどして、次第に勢力を失っていった。1571年、重病の床に伏した。嫡男の勇気義顕は幼少だったため、白河結城家は小峰義親が家政を執り行うこととなった。

白河結城義顕【ゆうきよしあき(1567~1613)】

結城晴綱の男。官途は治部大輔。1574年、小峰結城義親による白河城攻略により、常陸国に落延びた。

白河結城(小峰)義親【ゆうきよしちか(1541~1626)】

白河結城顕頼の男。室は芦名盛氏の娘。「永正の変」により断絶していた白河結城家の庶流である小峰家の家督を相続した。1573年、宗家の結城晴綱が病死し幼少の結城義顕が家督を継ぐと、その後見人となって白河結城家を取り仕切った。1575年、家老の和知美濃守と図って白河結城義顕を追放し、結城(白河)姓を名乗って自らが白河結城家の当主となる「天正の変」。1579年、佐竹義重の次男佐竹義広を養子に迎え、小峰義親は入道し不説斎と号し佐竹家に恭順の意を示して芦名義広の後見人となった。1587年、佐竹義広が芦名家を継いだため、再び小峰義親が白河結城家の当主となった。佐竹家に従って伊達家としばしば争った。1589年、芦名家が滅ぼされると佐竹家を離れ伊達家に帰順した。1590年「小田原の役」において、伊達政宗に参陣を止められていたため、伊達政宗に託して羽柴秀吉に貢物を贈ったが、参陣しなかったために許されず、所領を没収され改易された。

白河結城家臣団【ゆうきけかしんだん】

調査中。

------------------------------------------------------

【資料Ⅰ】

磐城国(14郡/)

相馬三郡(行方、宇多、標葉郡)
岩城四郡(磐城、磐前、菊多、楢葉郡)

伊具郡:角田城、丸森城。(26,000石)
亘理郡:亘理城、坂元城。(16,000石)
刈田郡 :白石城。(20,000石)
宇多郡:中村城、中館。(22,000石)
行方郡:小高城、牛越城。(24,000石)
標葉郡:真壁城。(18,000石)
楢葉郡:真壁城。(12,000石)
磐城郡:岩城平城。(36,000石)
磐前郡:。(24,000石)
菊多郡:平潟湊。(24,000石) 
田村郡:三春城、。(82,000石)
石川郡:二芦城、大寺城。(32,000石)
白河郡(西白河郡):小峰(白河)城、雲霧城(36,000石)
白川郡(東白川郡):棚倉城(12,000石)

------------------------------------------------------

【資料Ⅱ】

標葉六騎七人衆【はようろっきななにんしゅう】

六騎衆:井戸川将監、山田、小丸主水、熊隆重、下浦常清、上野但馬守。 
七人衆:室原清隆、郡山、樋渡、苅宿、熊川、牛渡、上浦。 

標葉郡四七人衆【はようぐんよんじゅうななにんしゅう】

室原清隆、樋渡重則、酒井将監、羽鳥伊賀守、紺野美濃守、紺野伊賀守、江井胤治、金沢備中守、高平壱岐守、杉盛重、滝迫日向守、杉目掃部、杉目三河守、大井胤重、金場加賀守、飯崎左近、渡辺越前守、百槻右兵衛、飯淵九郎左衛門、日下石美濃守、今田六郎、藤崎摂津守、藤崎久長、高田内膳、小野越前守、大坪勘解由、渋田見遠江、井戸川将監、井戸川大隅守、苅屋戸出雲守、上野但馬守、小丸主水、天神堂法師、寺内式部、草野直清、古賀胤康、桑折久家、桑折清家、掛田俊宗、掛田義宗、栃窪胤光、四本松定義、四本松尚義、岩角伊勢守、熊隆重、東郷胤光、下浦常清。

------------------------------------------------------

【資料Ⅲ】

磐城国【いわしろのくに】


調査中。

------------------------------------------------------

戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

(※)印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

------------------------------------------------------

0 件のコメント: