2011年2月17日木曜日

戦国磐城国人名辞典

----------------------------

【あ】

愛澤清左衛門【あいざわきよざえもん(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で相馬義胤に従い亘理重宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

会田遠江守【あいだとうとみのかみ(15??~15??)】   

田村隆顕家臣。田村郡蒲谷館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

青木玄蕃允【あおきげんばのしょう(15??~15??)】

懸田俊宗家臣。1571年、伊達実元に内応した。1576年、「川俣の戦い」で戦功を挙げた。

青木胤綱【あおきたねつな(15??~15??)】

青木玄蕃允の男。官途は弾正忠。伊達実元に仕え田村清顕との取次役を務めた。

青木綱広【あおきつなひろ(15??~15??)】

青木胤綱の男。官途は備前守。1586年、「人取橋の戦い」では、小浜城留守居を務めた。1595年、伊達成実が出奔すると、伊達政宗に仕え200石を領した。

青田常久【あおたつねひさ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。新山館主。通称右衛門尉。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

青田常義【あおたつねよし(1498~1525)】

青田常久の男。通称孫四郎。1525年、「白戸館の戦い」で相馬顕胤に従い岩城重隆勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

青田常高【あおたつねたか(1514~1542)】

青田常義の男。通称左衛門尉。官途は能登守。智勇兼備の将。1540年、「三春城の戦い」では、寡兵をもって岩城由隆勢を壊滅させた。1542年、「掛田城の戦い」で伊達晴宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

青田常清【あおたつねきよ(1540~1589)】

青田常高の男。通称右衛門尉。1589年、「新地館の戦い」で伊達政宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

青田常治【あおたつねはる(15??~16??)】

青田常清の男。山沢館主。通称孫左衛門。1602年、相馬義胤が減封処分に処されると、中村城下に転封した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

青田高治【あおたたかはる(15??~16??)】

青田常治の男。通称孫左衛門。137石を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

青田治之【あおたはるゆき(15??~15??)】

青田常義の次男。通称六郎。相馬盛胤に仕えて宇多郡富沢城主に任じられた。伊達輝宗勢との戦いで戦功を挙げた。

青田胤清【あおたたねきよ(15??~15??)】

青田常久の次男。官途は信濃守。通称太郎右衛門。別名青田胤治。1525年、「白戸館の戦い」で兄青田常義が討死したため、青田家の家督を相続した。1543年、相馬顕胤の意向を受け江井胤治とともに黒木信房、中村義房、黒木知房を謀殺した。1543年、木幡盛清と対立したため、草野直清と結んで相馬盛胤に謀反を起こした。1563年、「黒木城の戦い」で宇多郡中村城代草野直清と結んで相馬盛胤に謀反を起こし、伊達晴宗の家臣舟山豊前守、大谷地掃部勢を領内に引き込んだ。「礒部館の戦い」で舟山豊前守、大谷地掃部勢は、礒部館を守る佐藤好信に撃退された。「貝殻坂、石積坂の戦い」で舟山豊前守、大谷地掃部勢とともに高田内膳と戦ったが敗れ中村城に退却した。田村清顕のもとに落延びた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

青田顕治【あおたあきはる(15??~15??)】

青田常義の三男。官途は信濃守。

青田常治【あおたつねはる(15??~15??)】

青田顕治の次男。通称修理亮。

青田石見守【あおたいわみのかみ(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1576年、「冥加山の戦い」で湯村備後守を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

赤坂貞光【あかさかさだみつ(15??~15??)】

東白川郡赤坂館主。官途は宮内大輔。通称左馬助。別名赤坂政光。1560年、東義久に内応して佐竹義重勢に属した。東義久勢に従い北関東、南奥州を転戦した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

赤坂朝光 【あかさかあさみつ(1555~16??)】

赤坂貞光の男。官途は下総守。智勇兼備の将。1588年、「常陸玉里の戦い」では、大塚成貞勢と戦った。1590年、佐竹義宣から所領を安堵された。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤坂光忠【あかさかみつただ(1538~15??)】

赤坂貞光の次男。白河郡渡瀬館主。官途は右馬助。

赤坂光次【あかさかみつつぐ(15??~15??)】

赤坂貞光の三男。白河郡山王山館主。

赤石沢美濃守【あかいしざわみののかみ(15??~15??)】

石沢修理亮家臣。家老職を務めた。1589年、「常盤城の戦い」で相馬盛胤、岩城親隆勢の攻撃を受けると、相馬盛胤に内応して城内に火を放ち、相馬盛胤勢を引き込んだ。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

赤沼弾正忠【あかぬまだんじょうちゅう(15??~15??)】 

田村郡赤沼館主。田村家四十八館。250石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

赤橋元胤【あかはしもとたね(15??~15??)】

相馬顕胤の四男。戦に出れば先陣を務め「槍の赤橋」と恐れられた。初陣で頸級十二をあげる戦功を挙げた。剛の者だが軍略にも通じていた。

阿久津右京【あくつうきょう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡阿久津館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

浅川義純【あさかわよしずみ(15??~15??)】

石川郡浅川城主。官途は大和守。石川晴光、佐竹義重と結び、白河結城義親、田村隆顕らと戦った。1573年、石川晴光と佐竹義重が争うと、仲裁に奔走して和議を結ばせた。1577年、「浅川城の戦い」で佐竹義重勢の攻撃を受け浅川城を追われた。1582年、継嗣の浅川豊純とともに浅川城に復帰した。1589年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が伊達政宗に滅ぼされると、石川昭光とともに伊達政宗に降伏した。1590年、「奥州仕置」で石川昭光とともに改易処分に処され、伊達政宗に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

浅川豊純【あさかわとよずみ(15??~15??)】

浅川 義純の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

芦沢修理太夫【あしざわしゅりだいふ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡芦沢館主。東方衆50騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

足羽太郎兵衛【あしわたろうべい(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡下枝館主。西方衆50騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

足立刑部【あだちぎょうぶ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

穴沢新助【あなさわしんすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡三城目館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。  

安部善四郎【あべぜんしろう(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

安倍清任【あべきよさだ(15??~1582)】

大寺清光家臣。官途は備後守。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い副将を務め、油殻平で石川昭光勢の挟み撃ちに遭い討死した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

安倍常任【あべつなこれ(15??~15??)】

大寺清光家臣。官途は但馬守。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

荒井式部【あらいしきぶ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡荒井館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。    

荒藤八郎【あらふじはちろう(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

荒縫殿助【あらぬいどのすけ(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。1576年、「冥加山の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢の沼部玄蕃を討取り、赤地に白巴の旗を奪い取る戦功を挙げた。1580年、伊達輝宗勢の二騎を討取る戦功を挙げた。1589年、「鳥海の戦い」で亘理重宗の家臣鷲足掃部を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

荒掃部助【あらかもんのすけ(15??~1568)】

相馬盛胤家臣。1568年、「小野金谷の戦い」で討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

粟野易意【あわのえきい(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称右近。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

飯野隆至【いいのたかよし(1504~1578)】

岩城成隆家臣。官途は式部大輔。禰宜職を安堵された。伊達晴宗との取次役を務めた。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

飯淵九郎左衛門【いいぶちころうざえもん(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で伊達政宗勢の追撃を受け相馬盛胤の馬が橋を踏み抜いて動けなくなったところを馬上に引き上げて救出する功を上げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

石井甚七郎【いしいじんしちろう(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い田村兵部少輔の鉄炮衆を率いて大内定綱勢と戦った。「糠沢の戦い」で大内定綱の家臣大内弥右衛門を討取る戦功を挙げた。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

石川稙光【いしかわたねみつ(1494~1530)】

石川郡三芦城主。室は田村隆顕の娘。1524年、伊達稙宗、二階堂晴行、芦名盛舜らと結び岩城重隆、結城晴綱勢に対抗した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川晴光【いしかわはるみつ(1528~1580)】

石川稙光の男。官途は修理大夫。通称小太郎。室は石川胤光の娘。1530年、父石川稙光の病没により石川家の家督を相続した。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属して伊達晴宗勢と戦った。乱以後、田村隆顕、芦名盛氏の勢力争いに巻き込まれ所領を削られた。1560年、「寺山城の戦い」で佐竹義昭が結城晴綱から白川郡を奪取すると、赤坂貞光が佐竹義昭に内応した。1563年、伊達晴宗と結び、伊達晴宗の四男石川昭光を養子に迎え石川家の存続を図った。1568年、石川昭光に家督を譲って隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川昭光【いしかわあきみつ(1550~1622)】

伊達晴宗の四男(石川晴光の養子)。官途は大和守。通称小二郎。室は石川晴光の娘(照子)。1568年、養父の石川晴光が隠居したため、石川家の家督を相続した。実父伊達晴宗や兄伊達輝宗勢に属して、田村清顕、佐竹義重勢と戦った。1574年、芦名盛氏が佐竹義重と白川郡、石川郡を巡って争い、芦名盛氏が石川郡の支配権を失うと、佐竹義重勢に属した。1585年、「人取橋の戦い」では、佐竹義重勢に属して参陣した。1589年、「摺上原の戦い」で芦名義広が滅亡すると、伊達政宗に従った。1590年、「奥州仕置」で改易処分に処され伊達政宗に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川義宗【いしかわよしむね(1577~1610)】

石川昭光の男。1590年、「奥州仕置」で父石川昭光が改易処分に処されると、石川昭光とともに伊達政宗に仕えた。1595年、伊具郡角田城に任じられ12,000石を領した。1603年、父石川昭光の隠居により石川家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川宗敬【いしかわむねたか(1607~1668)】

石川義宗の男。官途は駿河守。室は伊達政宗の娘(牟宇姫)。1610年、父石川義宗が病没すると、祖父石川昭光が後見役を務めた。1621年、石川家の家督と角田城12,000石を相続した。1638年、阿武隈川治水工事の惣奉行職を務めた。堤防工事は総延長2,792間に及び、その後の領地内の新田開発のもととなった。1644年、刈田郡湯原館に転封した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川末光【いしかわすえみつ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。通称松之助。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

石川弾正忠【いしかわだんじょうちゅう(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

石沢修理亮【いしざわしりのじょう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。1,800石を領した。常盤城主の常盤貞久が田村清顕から疎まれ、相馬盛胤のもとに落延びると、常盤城代に任じられた。1586年、田村清顕が病没すると、その後継者を巡り家中が対立すると、伊達政宗を支援した。1589年、「常盤城の戦い」で相馬盛胤、岩城親隆勢の攻撃を受け、城兵600余りとともに防戦したが、赤沢美濃守が内応したため落城した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

石沢茂太夫【いしざわしげだいふ(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

石盛因幡守【いしもりいなばのかみ(15??~15??)】

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光が大寺清光を降伏に追い込むと、中野館、塩沢館、山小屋館を割譲させると、山小屋館を領した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

泉田胤直【いずみだたねなお(14??~15??)】

標葉隆成家臣。標葉郡泉田館主。泉田隆家の男。官途は隠岐守。1492年、「泉田城の戦い」で相馬盛胤勢の攻撃を受けが、標葉隆成から援軍を得ることができず降伏に追い込まれた。その後、相馬盛胤に仕えた。

泉田胤清【いずみだたねきよ(1563~1602)】

泉田胤直の男。官途は甲斐守。猛将。標葉衆25騎余りを率いた。1589年、「新地城の戦い」で伊達政宗の家臣亘理重宗勢の攻撃を受け相馬盛胤もとに落延びた。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

泉田胤雪【いずみだたねゆき(1563~15??)】

泉田胤清の男。官途は隠岐守。智勇兼備の将。継嗣の泉田胤清とともに伊達政宗勢の攻撃を何度も防いだ。1588年、「小手森館の戦い」では、相馬義胤の意向を受け大越顕光とともに小手森城を守備した。伊達政宗、田村清顕らの猛攻に耐え抜いた。

泉田胤清【いずみだたねきよ(15??~1602)】

泉田胤雪の男(祖父と同名)。1589年、「坂本館の戦い」で相馬義胤勢の後陣(標葉衆300余り)を率いて参陣した。1602年、病没したが継嗣がなく、娘聟の泉胤政が泉田館主に任じられた。

泉胤定【いずみたねさだ(15??~1569)】

行方郡泉館主。通称は左衛門太夫。泉村3,000石を領した。泉家の菩提寺宝月山東泉院を再興した。1569年、「丸森城の戦い」で伊達輝宗勢との戦い討死を遂げたため、田村清顕の家臣泉胤秋(中津川大膳亮)が堀内近胤の娘を娶り泉家を相続した。

泉胤秋【いずみたねあき(15??~1587)】

中津川兵衛左の男(泉胤定の養子)。通称は大膳。別名中津川大膳亮。室は堀内近胤の娘。継室は畠山尚義の娘。相馬顕胤の弟堀内近胤の娘を娶り、堀内家を相続していたが、内室とそりが合わず堀内家を退去した。小浜城主畠山尚義の娘を娶った。継嗣の泉胤政が泉家を相続したが幼少のため後見役を務めた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

泉胤政【いずみたねまさ(15??~1633)】

泉胤秋の男。通称藤右衛門。1597年、相馬義胤は居城を小高城を牛越城に移すにあたり、泉胤政も人夫を差し出したが相馬義胤と泉胤政の人夫奉行が口論に及んだ。泉胤政が謀反を企てたとして、相馬義胤は泉胤政追討勢を泉館に発した。泉胤政は相馬義胤勢が来る前に館を焼いて出奔した。

泉藤六郎【いずみとうろくろう(15??~1590)】

相馬盛胤家臣。1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

伊東祐勝【いとうすけかつ(15??~1583)】

白河郡三城目館主。1583年、「三城目館の戦い」で中畠晴辰勢の攻撃を受け討死した。

井戸川清則【いどがわきよのり(15??~1524)】

相馬盛胤家臣。官途は大隅守。標葉六騎衆。1524年、「鎌田川の戦い」で相馬顕胤に従い岩城重隆勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

井戸川正則【いどがわまさのり(15??~1570)】

相馬盛胤家臣。官途は将監。1570年、「丸森城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

猪狩親満【いのかりちまみつ(15??~15??)】

田村顕基家臣。通称中務。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

猪狩下野守【いのかりしもつけのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡牧野館主。350石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

猪俣濁清【いのまただくせい(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称彦右衛門。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

今泉山城守【いまいずみやましろのかみ(15??~15??)】

田村郡高倉館主。1,000石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

今田六郎【いまだろくろう(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岩城盛隆【いわきもりたか(14??~15??)】

磐前郡平城主。岩城常隆の男。父岩城常隆から岩城家惣領職の家督を譲れたが、弟の岩城由隆とともに共同統治体制で岩城家の家政を動かした。

岩城由隆【いわきよしたか(15??~1542)】

岩城常隆の次男。官途は民部大輔。兄岩城盛隆とともに岩城家の家政を動かした。1514年、「永正の乱」で足利政氏、足利高基親子が争うと、佐竹義舜とともに足利政氏勢に属し足利高基に属した宇都宮忠綱や結城政朝と戦った。結城顕頼と那須政資の争うと、結城顕頼勢に属して那須政資と戦った。足利高基と那須政資の勝利により、南奥州の覇権を握ることは出来なかった。

岩城成隆【いわきなりたか(15??~15??)】

岩城由隆の男。1542年、父岩城由隆が病没すると岩城家の家督は次男の岩城重隆が相続して岩城成隆は分家して白土家を興した。岩城成隆は江戸忠通と結び佐竹義篤と争い常陸国への勢力拡大を図ったが失敗した。

岩城重隆【いわきしげたか(15??~1569)】

岩城由隆の次男。通称二郎太郎。官途は左京大夫。結城晴綱と結び、伊達稙宗と結んで勢力を拡大するの相馬盛胤や田村隆顕と対抗した。娘の久保姫の嫁ぎ先を巡って伊達晴宗と相馬盛種が対立したが、久保姫は伊達晴宗に嫁いだ。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属して伊達稙宗勢に属した相馬盛胤や田村隆顕と争い、後に伊達晴宗勢に内応した芦名盛氏とともに南奥州各地を転戦した。伊達晴宗と田村隆顕や畠山義国の内部抗争を誘発させ、弱体化を図るなど調略も駆使した。伊達輝宗、芦名盛氏、佐竹義昭らの諸家との間で外交を駆使し生き残りを図った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩城親隆【いわきちかたか(1537~1594)】  

伊達晴宗の男(岩城重隆の養子)。官途は左京大夫。室は佐竹義昭の娘。1534年、伊達晴宗と岩城重隆との約束により、岩城重隆の養嗣子となって岩城家の家督を相続した。田村清顕や石川家の領土を侵したり、二階堂盛義の援助のため出兵するなどの小規模の軍事活動がみられるが、養父岩城重隆の外交重視路線を世襲した。1568年、岩城重隆が病没後、岩城親隆も病に倒れた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩城常隆【いわきつねたか(1567~1590)】

岩城親隆の男。官途は左京大夫。1568年、父岩城親隆が病に倒れると、佐竹家出身の岩城親隆夫人が後見役を務めたことにより岩城家の実権は、佐竹義重が握った。1578年、岩城常隆が岩城家の家督を相続するが、佐竹義重の家中に対する影響力は変わらなかった。1586年、「人取橋の戦い」では、佐竹義重勢に属して参陣して、家臣の窪田十郎が伊達政宗の家臣鬼庭良直を討取った。1589年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が滅亡すると、岩城常隆、石川昭光らは伊達政宗勢に属した。「小田原の役」に参陣して所領を安堵を受けた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩城政隆【いわきまさたか(1590~1615)】  

岩城常隆の男。通称長次郎。1589年、「小田原の役」の参陣した父岩城常隆が病没すると、岩城家惣領職の家督は佐竹義重の三男岩城貞隆が相続したため、岩城家から追放された。1607年、伊達政宗に仕えた。

岩城貞隆【いわきさだたか(1583~1620)】

佐竹義重の三男(岩城常隆の養子)。1589年、「小田原の役」で岩城常隆が病没し、岩城家惣領職の家督は羽柴秀吉の介入を受け佐竹義重の三男岩城貞隆が相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、兄佐竹義宣勢に従い参陣しなかったため、改易処分に処された。この処分に対して佐竹義宣に挙兵まで促したが拒絶された。松平元康に岩城家再興を嘆願した結果、本多正信に仕えた。1616年、信濃中村城10,000石を領して諸侯に列した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上野但馬守【うえのたじまのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

上野延命【うえのえんめい(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称善九郎。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

鹽田銀之助【えんたぎんのすけ(15??~15??)】

渡邊又左衛門家臣。1576年、「坂本城の戦い」で扇の大地紙の指物で伊達輝宗勢に斬り込み、武勇を振る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

江井胤治【えいたねはる(1504~1589)】

相馬顕胤家臣。標葉郡江井館主。官途は河内守。標葉郡四七人衆。1543年、相馬顕胤の意向を受け青田胤清とともに黒木信房、中村義房、黒木知房を謀殺した。1589年、「三春城の戦い」で相馬義胤に従い田村顕盛勢と戦い討死した。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

遠藤良知【えんどうよしとも(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通所半内。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

遠藤四郎左衛門【えんどうしろうざえもん(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

遠藤右近【えんどうさこん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡手代木館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。   

大井胤重【おおいたねしげ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡大井館主。通称太郎左衛門。標葉郡四七人衆。中郷で107貫文を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大井太郎左衛門【おおいたろうざえもん(15??~15??)】

大井胤重の男。通称太郎左衛門。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大井胤元【おおいたねもと(15??~15??)】

大井太郎左衛門の男。通称一学。相馬義胤に召しだされ200石を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大内胤通【おおうちたねみち(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。行方郡大内館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大内胤玄【おおうちたねげん(15??~15??)】

行方郡大内南館主。通称三郎。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大内胤正【おおうちたねまさ(15??~15??)】

大内胤玄の男。官途は丹波守。勇将。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大内胤信【おおうちたねのぶ(15??~15??)】

大内胤正の男。官途は越前守。相馬顕胤、相馬盛胤に仕え戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大内信顕【おおうちのぶあき(15??~15??)】

大内胤信の男。通称治兵衛。相馬義胤に仕えて戦功を挙げた。1617年、訴訟に加わり浪人した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大内胤房【おおうちたねふさ(15??~1576)】

相馬盛胤家臣。官途は上野守。1576年、「坂本城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大浦雅楽【おおうらうらく(15??~15??)】

藤崎摂津守家臣。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で亘理重宗勢の攻撃を受け藤崎摂津守とともに相馬盛胤のもとに落延びた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大浦下総介【おおうらしもふさのすけ(15??~1576)】

相馬盛胤家臣。1576年、「坂本城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大浦監物【おおうらけんもつ(15??~1576)】

相馬盛胤家臣。1576年、「坂本城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大河原丹後守【おおかわらたんごのかみ(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡耕田館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

大木吉貞【おおきよしさだ(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称伊賀之助。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

大越常光【おおごえつねみつ(15??~1543)】

田村隆顕家臣。官途は山城守。田村郡大越館主。田村家四天王。大越館10,000石を領して東方衆50騎余りを率いた。1543年、「安積の戦い」で田村隆顕に従い伊東佑継勢と戦い討死した。

大越利顕【おおごえとしあき(15??~15??)】  

大越常光の男。官途は摂津守。

大越顕光【おおごえあきみつ(1525~1589)】  

大越利顕の男。官途は紀伊守。室は大越甲斐守の妹。別名大越信貫。1586年、田村清顕が病没すると、相馬義胤勢に属して伊達政宗勢と戦ったが敗れた。1588年、「大越館の戦い」では、伊達政宗の家臣伊達成実勢の攻撃を受け、他の相馬義胤派とともに岩城常隆もとに落延びた。1589年、伊達政宗は、追放とした相馬義胤派諸将の赦免を行った。大越顕光、田村顕盛らとともに帰参を図ったが、岩城常隆に露見して捕縛され自刃に追い込まれた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大越紀伊守【おおごえきいのかみ(15??~15??)】  

大越利顕の次男。田村郡西方館主。別名千葉紀伊守。西方館316石を領した。

大越甲斐守【おおごえかいのかみ(15??~15??)】  

大越顕光家臣。1582年、「守山館の戦い」では、橋本顕徳、常葉讃岐守、浅川右馬介、大越修理亮等らとともに二階堂行親勢を撃退した。1589年、大越顕光が岩城常隆に謀殺されると大越城代に任じられた。

大越孫七郎【おおごえまごしちろう(15??~15??)】  

大越顕光家臣。田村郡広瀬館主。東方衆50騎余りを率いた。

大越新五郎【おおごえかいのかみ(15??~15??)】  

大越顕光家臣。鉄砲大将を務め、鉄砲足軽50余りを率いた。

大越八郎左衛門【おおごえはちろうざえもん(15??~15??)】  

大越顕光家臣。

大多和泉守【おおたいずみのかみ(15??~15??)】

田村郡中山館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 

太田越後守【おおたえちごのかみ(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。1576年、「冥加山の戦い」で杉目将監を槍で突き落とし、頸を上げる戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大竹秀延【おおたけひでのべ(15??~15??)】 

田村隆顕家臣。田村郡阿生田館主。官途は筑後守。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 

太田信濃守【おおたしなのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡春山館主。1,500石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

大塚綱久【おおつかつなひさ(15??~1541)】

佐竹義舜家臣。1505年、結城顕頼に内応して羽黒山城代に任じられた。1541年、佐竹義篤の家臣渋江内膳勢の攻撃を受け斑目広基、河東田大膳らとともに迎撃したが、衆寡敵せず討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚国久【おおつかくにひさ(15??~15??)】  

大塚綱久の男。

大塚吉久【おおつかよしひさ(15??~15??)】  

大塚国久の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚為久【おおつかためひさ(15??~1578)】  

大塚国久の次男。1564年、「羽黒山城の戦い」で佐竹義昭勢の攻撃を受け落延びた。1578年、「浅川城の戦い」で浅川義純を攻撃して弓で射られ討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚政成【おおつかまさなり(1504~1563)】  

岩城重隆家臣。大塚行成の男。官途は信濃守。佐竹義昭に内応した。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

大塚尾張守【おおつかおわりのかみ(15??~15??)】  

田村隆顕家臣。田村郡羽出庭館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

大塚蔵人【おおつかくらうど(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大塚甚助【おおつかじんすけ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大坪勘解由【おおつぼかげゆ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大寺清光【おおでらきよみつ(15??~15??)】

石川郡大寺城主。官途は中務大輔。1582年、「油殻の戦い」で中野館の所領問題か石川昭光と対立して謀反を起こした。家老職の大野行宗を総大将に石川昭光勢と戦ったが、石川昭光勢の挟み撃ちに遭い安倍清任、野口金光らが討死して大敗した。石川昭光勢の追撃を受け、大野宗高、安倍常任らとともに降伏した。千用寺秀芸と長泉寺泰念を仲介に中野、塩沢、山小屋の三ヶ村を石川昭光に割譲して和議を結んだ。1588年、二階堂盛義、岩城常隆らと結んで巻き返しを図ったが、伊達政宗と結んだ石川昭光に対抗できず没落した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大寺安吉【おおでらやすよし(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称主殿之助。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

大寺安房守【おおでらあわのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡谷田川館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

大野宗高【おおのむねたか(15??~15??)】

大寺清光家臣。官途は筑前守。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

大野行宗【おおのゆきむね(15??~15??)】  

大寺清光家臣。官途は修理殿介。家老職を務めた。1582年、「油殻の戦い」で総大将として石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

大悲山民部【おおひやまみんぶ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。1543年、小高郷出騎衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大悲山民部丞【おおひやまみんぶのじょう(15??~15??)】

大悲山民部の男。相馬義胤に仕えた。1592年、31貫905文を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大悲山杢左衛門【おおひやましょうざえもん(15??~16??)】

大悲山民部丞の男。通称九左衛門。別名大久杢左衛門。1602年、相馬義胤が減封に処されると、北郷内で36石を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大村豊後守【おおむらぶんごのかみ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岡崎彦六郎【おかざきひこしろう(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

小笠原彦七郎【おがさわらひこしちろう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡大倉館主。665石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

岡田義胤【おかだよしたね(14??~15??)】 

行方郡岡田館主。官途は安房守。1492年、「権現堂城の戦い」で相馬盛胤に従い標葉清隆の権現堂城を攻撃した。標葉清隆の家臣泉田隆直が内応すると、標葉六騎七人衆、標葉隆豊、牛渡九郎兵衛らも内応した。相馬盛胤が権現堂城を攻落とすと、権現堂城主に任じられた。継嗣の岡田重胤に家督と岡田館を譲り、次男の岡田胤連とともに権現堂城に転封した。

岡田茂胤【おかだしげたね(15??~15??)】 

岡田義胤の男。通称は治部大輔。室は大槻義治の娘。小高衆の筆頭として25騎余りを率いて相馬顕胤、相馬盛胤に仕えた。

岡田直胤【おかだなおたね(1560~1591)】 

岡田茂胤の男。相馬盛胤勢で20騎以上を率いるのは、他に泉田胤清(標葉郷大将)、泉胤政(中郷大将)の二人のみであった。1563年、伊達晴宗に内応じて謀反を起こした草野直清の娘を育て、岡田直胤と娶わせた。また娘は泉胤政に嫁いだ。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岡田胤景【おかだたねかげ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。岡田茂胤の次男。草野館主。官途は治部太輔。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岡田胤景【おかだたねかげ(1565~1620)】

岡田胤景の男。官途は兵庫助。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岡田胤清【おかだたねきよ(1595~1620)】

岡田胤景の男。官途は主膳。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岡田胤通【おかだたねみち(15??~1543)】

相馬顕胤家臣。大甕館主。1543年、「大森城の戦い」で相馬顕胤に従い伊達晴宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岡田豊後守【おかだぶんごのかみ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

小川隆勝【おがわたかかつ(15??~15??)】

岩城常隆家臣。岩城常隆の使者として羽柴秀吉に謁見した。返書が増田長盛より小川隆勝に返書が送られた。

小川上総介【おがわかずさのすけ(15??~15??)】

岩城常隆家臣。1589年、芦名盛重から参陣を要請を受けた。

小川大蔵丞【おがわおおくらのじょう(15??~15??)】

小川上総介の男。1584年、下野国で北条氏直勢と戦いで戦功を挙げた。

鬼生田惣右衛門【おにうだそうえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡鬼生田館主。官途は弾正忠。田村家四十八館。鬼生田館1,500石を領して西方衆25騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

小野備前守【おのびぜんのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

小原宗綱【おばらむねつな(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。刈田郡小原館主。1542年、「伊達天文の乱」で伊達稙宗勢に属して伊達晴宗勢と戦った。伊達稙宗の敗北により家督を継嗣の小原元継に譲って隠居した。

小原元継【おばらむねつぐ(15??~15??)】

小原宗綱の男。1542年、「伊達天文の乱」で父小原宗綱が伊達稙宗に属して戦った。伊達稙宗の敗北により家督を小原元継に譲って隠居した。

小原定綱【おばらさだつな(1555~1592)】

伊達政道家臣。小原宗綱の次男。通称縫殿之助。伊達輝宗の次男である伊達政道の傅役を務めた。1591年、伊達政道が謀反を嫌疑を受け、伊達政宗に謀殺されると、その遺骸の埋葬場所を求めて各地を流浪した。埋葬後、墓前で殉死した。

折笠左近【おりかささこん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡道渡館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 

----------------------------

【か】

貝山藤兵衛【かいやまとうべい(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡貝山館主。700石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

河東田重治【かとうだしげはる(15??~15??)】

結城晴綱家臣。白河郡河東田館主。

河東田重清【かとうだしげきよ(1542~1606)】

河東田重治の男。官途は上総介。領内に善政を敷き、民衆に支持された。伊達輝宗との取次役を務めた。1576年、「赤館城の戦い」では、結城義親に従い参陣して佐竹義重勢と戦った。1589年、結城義親が伊達政宗に降伏すると、佐竹義重への備えとして関和久城を守備した。1590年、結城義親が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えた。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

河東田親顕【かとうだしげきよ(15??~15??)】

河東田重清の男。

河東田河内守【かとうだかわちのかみ(15??~15??)】

結城義親家臣。1575年、「白河城の戦い」で佐竹義重勢の攻撃を受け降伏した。東義久に従い所領を安堵された。

河東田備前守【かとうだびぜんのかみ(15??~15??)】

河東田河内守の男。官途は兵部少輔。1575年、父河東田河内守とともに東義久に従い30貫文の所領を安堵された。赤館城に在番した。

門沢式部【かどさわしきぶ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡門沢館主。600石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

門沢右馬助【かどさわさまのすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡栗出館主。360石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

金沢胤重【かなざわたねしげ(15??~1524)】

相馬盛胤家臣。通称右馬助。1524年、「七里ヶ浜の戦い」で相馬顕胤に従い岩城重隆勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

金沢主水【かなざわもんど(15??~1524)】

金沢胤重の男。1524年、「七里ヶ浜の戦い」で父金沢胤重に従い岩城重隆勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

金沢大学【かなざわもんど(15??~1524)】

金沢胤重の男。1524年、「七里ヶ浜の戦い」で父金沢胤重に従い岩城重隆勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

金沢胤清【かなざわたねきよ(15??~1532)】

金沢胤重の弟。官途は石見守。別名「存入」。1524年、「七里ヶ浜の戦い」で兄金沢胤重が岩城重隆勢と戦い討死したため、還俗して金沢家の家督を相続した。1532年、「古小高俊胤の乱」で相馬顕胤に従い先陣を務め討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

金沢備中守【かなざわびっちゅうのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡四七人衆。牛越城番を務めた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

金内八十郎【かねうちはちじゅうろう(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

金田式部少輔【かねだしきぶしょうゆう(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。東方衆50騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

神又久四郎【かみまたしさしろう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡神又館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

萱野甚四郎【かやのじんしろう(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

苅屋戸出雲守【かりやどいずものかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

川曲宮内太夫【かわまがりくないだいふ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡川曲館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

神主玄蕃頭【かんぬしげんばのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡守山館主。西方衆80騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

菊池兵部太夫【きくちようぶだいふ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡南宇津志館主。523石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

喜多八十右衛門【きたやそえもん(15??~15??)】

黒木丹波守家臣。1581年、「大条館の戦い」で伊達輝宗の家臣富塚近江守勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

木村信常【きむらのぶつね(15??~1579)】

田村清顕家臣。田村郡木村館主。官途は内記。1579年、「木村館の戦い」で畠山義継に内応して新城少弼、遊佐下総守勢を木村館に引き入れが、田村清顕の家臣鬼生田弾正忠勢の反撃を受け滅亡した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

久我主膳【くがしゅぜん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡白岩館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

草野直清【くさのなおきよ(1514~1563)】

相馬顕胤家臣。官途は式部。標葉郡四七人衆。相馬顕胤から信頼され中村城代に任じられた。相馬顕胤が病没すると、相馬盛胤に冷遇された。1563年、「中村城の戦い」で青田顕治らとともに伊達輝宗勢に内応した。「貝殻坂、石積坂の戦い」で青田胤治、舟山豊前守、大谷地掃部勢らとともに相馬盛胤の家臣高田内膳勢と戦い敗れて道明寺掃部勢の追撃を受け討取られた。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

草野晴清【くさのはるきよ(15??~1563)】

草野直清家臣。通称小市郎。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い草野直清勢と戦った。「坪田八幡の戦い」で草野直清勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

草野伴右衛門【くさのともえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡小塩庭館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

熊田兼氏【くまがいかねうじ(14??~15??)】

結城政朝家臣。白河郡伊賀館主。官途は若狭守。結城義親が伊賀館を領して小峰家を相続すると、木之内館に転封した。参考文献:「秋田の中世を歩く」by秋田城介。

熊耳太郎左衛門【くまがみたろうざえもん(15??~15??)】  

田村隆顕家臣。田村郡熊耳館主。693石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

熊川隆光【くまがわたかみつ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡熊川館主。標葉郡七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

熊隆重【くまたかしげ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡熊館主。標葉郡四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

黒木信房【くろきのぶふさ(15??~1543)】

宇多郡黒木城主。通称弾正忠。別名黒木正房。1542年、「田中城の戦い」で伊達晴宗勢に属して伊達稙宗勢の田中城を攻撃したが敗退した。1543年、「中村城の戦い」で伊達稙宗勢の相馬顕胤勢の攻撃を受け降伏した。勝善原で相馬顕胤勢に謀殺された。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

黒木宗俊【くろきむねとし(15??~15??)】

相馬義胤家臣。官途は中務。1580年、堀内宗和とともに相馬盛胤に謀反を起こしたが、失敗して伊達政宗にもとに落延びた。1590年、「中村城の戦い」で佐藤藤右衛門、国分右衛門尉らとともに亘理重宗に従い相馬隆胤勢と戦った。

黒木対馬守【くろきつしまのかみ(15??~15??)】

黒木信房の男。1575年、「名取沙留川の戦い」で相馬義胤が鎧袖に熊手をかけられたとき、川に飛び込んで敵の腕を打ち落とし、相馬義胤を救う戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

黒木知房【くろきともふさ(15??~1543)】

黒木信房家臣。通称左馬允。1543年、相馬顕胤の意向を受けた青田胤清、江井胤治らに黒木信房、中村義房らとともに謀殺された。

黒木丹波守【くろきたんばのかみ(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1581年、「大条館の戦い」で相馬義胤勢を率いて小梁川盛宗の家臣小梁川行秀勢と戦ったが、伏兵の攻撃を受け撤退した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

黒木光安【くろきみつやす(15??~15??)】

黒木丹波守家臣。通称大炊介。1581年、「大条館の戦い」で吉田主水正とともに小梁川盛宗の家臣小梁川行秀の陣地を急襲したが、小梁川盛宗の家臣大里主馬介、三枝将監勢の攻撃を受け撤退した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

黒木大膳【くろきだいぜん(15??~15??)】   

田村隆顕家臣。田村郡黒木館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。   

郡司敏良【ぐんじとしよし(15??~1589)】

田村清顕家臣。田村郡飯豊館主。官途は豊前守。娘が輿入れする愛姫の侍女として米沢城に付き添った。1586年、田村清顕が病没すると、田村顕盛とともに相馬義胤勢に属して、伊達政宗勢に属した田村顕頼らと対立した。1589年、「下枝城の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。

郡司敏貞【ぐんじとしさだ(15??~1589)】

郡司敏良の男。官途は雅楽頭。1589年、「下枝館の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受け父郡司敏良とともに討死した。

郡司喜右衛門【ぐんじきちえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡小戸神館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。  

郡司左馬介【ぐんじさまのすけ(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

欅三左衛門【けやきさんざえもん(15??~15??)】

黒木丹波守家臣。1581年、「大条館の戦い」で伊達輝宗の家臣富塚近江守勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

小池春憲【こいけはるのり(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。通称弥七郎。相馬盛胤のもとを辞して、佐々成政に仕えた。佐々成政が肥後国に転封になると飛騨国高山へ移住した。剣の達人として金森長近に仕えた。

小泉繁【こいずみしげる(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称主膳。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

郷石見守【ごういわみのかみ(15??~15??)】

結城晴綱家臣。1575年、結城義顕が結城義親に白河城を追われると、結城義顕を田島館に匿った。

郷土佐守【ごうとさのかみ(15??~15??)】

郷石見守の男。1575年、結城義顕が結城義親に白河城を追われると、父郷石見守とともに結城義顕を支援した。

桑折久家【こおりひさいえ(15??~1543)】

相馬顕胤家臣。1543年、「田中城の戦い」で黒木信房、中村義房、東郷胤光勢の攻撃を受け田中館から出たところを黒木弾正の計略で討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

桑折清家【こおりきよいえ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。1543年、「田中城の戦い」で黒木信房、中村義房、東郷胤光勢の攻撃を受け桑折久家が討死したため、田中城代に任じられた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

桑折直家【こおりなおいえ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。上海老輪蔵館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

桑折太郎右衛門【こおりたろうえもん(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。田中城代。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で草野直清、青田顕治の謀反を田中城に伝え、草野直清、青田顕治勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

桑折小左衛門【こおりこざえもん(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。1558年、「丸森城の戦い」で伊達晴宗勢を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

古賀胤康【こがたねやす(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。1542年、「伊達天文の乱」で、相馬顕胤に従い伊達晴宗勢と戦い戦功を挙げた。

古小高俊胤【ここだかとしたね(15??~1532)】

相馬盛胤家臣。小高館主。通称帯刀。1532年、「古小高俊胤の乱」で相馬顕胤を起こした。相馬顕胤の家臣金沢胤清勢の攻撃を受けたが、計略を用いて金沢胤清を討取るが、金沢胤清勢の反撃を受け討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

小綱木因幡守【こつなぎいなばのかみ(15??~15??)】

蓬田法光家臣。

木幡盛清【こばたもりきよ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。通称主水正。黒木城代を務めた。青田顕治から謀反を企ててると讒言され、相馬盛胤に謀殺された。

木幡直清【こばたなおきよ(15??~15??)】

木幡盛清の弟。官途は肥前守。相馬盛胤の意向を受け還俗して木幡家の家督と目々澤村87貫文を相続した。

木幡継清【こばたつぐきよ(1534~1618)】

相馬盛胤家臣。官途は因幡守。相馬盛胤に従い磐城国を転戦して戦功を重ねた。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

木幡高清【こばたたかきよ(1537~1642)】

木幡継清の弟。官途は駿河守。検地奉行職や相馬利胤の傅役を務めた。故事にも詳しく史書の編纂にも貢献した。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

木幡清吉【こばたきよよし(15??~1665)】

木幡高清の男。相馬盛胤に仕え中村城下街の普請奉行職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

木幡清定【こばたきよさだ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡渋川館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡光清【こばたみつきよ(15??~1575)】

木幡継清家臣。通称藤重郎。1575年、「名取沙留川の戦い」で相馬盛胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡常兼【こばたつねかね(15??~1575)】

木幡継清家臣。通称藤十郎。1575年、「名取沙留川の戦い」で相馬盛胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡四郎左衛門【こばたしろうざえもん(15??~1575)】

木幡継清家臣。木幡武清の男。1575年、「冥加山の戦い」で相馬盛胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡友清【こばたともきよ(15??~1575)】

木幡継清家臣。通称十郎兵衛。1575年、「名取沙留川の戦い」で相馬盛胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡武清【こばたたけきよ(15??~1575)】

木幡継清家臣。通称彦市。1575年、「名取沙留川の戦い」で相馬盛胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡尚清【こばたなおきよ(15??~1576)】

木幡継清家臣。通称雅楽。赤井館代を務めた。1576年、「雉尾川の戦い」で討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡因幡守【こばたいなばのかみ(15??~1589)】

木幡継清家臣。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で相馬隆胤に従い敗走する相馬隆胤の殿を務め、伊達政宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡與惣兵衛【こばたおきそうえもん(15??~1563)】

相馬盛胤家臣。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い
参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡作助【こばたさくすけ(15??~1589)】

木幡継清家臣。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で相馬隆胤に従い伊達政宗勢との戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

小林筑後守【こばやしちくごのかみ(15??~15??)】

中畠晴辰家臣。富久保館主。1588年、「泉崎館の戦い」で中畠晴辰が辺見主膳正を追落とすと、泉崎館の城将に任じられた。

小針頼広【こばりよりひろ(15??~1588)】

結城晴綱の男。白河郡滑津館主。官途は山城守。

小針政頼【こばりまさより(15??~15??)】

小針頼広の男。1590年、「奥州仕置」で結城義親が改易処分に処されると没落した。

小丸主水【こまるもんど(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

小峰義名【こみねよしな(15??~1589)】

結城顕頼の次男。通称善七郎。官途は左近大夫。小峰家を継いでいた兄結城義親が白河結城家の家督を相続したため、小峰家の家督を相続した。1575年、結城義親が佐竹義重勢に捕縛されると、佐竹義重により白川結城家の惣領職に擁立された。1589年、「須賀川城の戦い」で結城義親の陣代として伊達政宗に従い参陣した。

小峰朝景【こみねともかげ(15??~15??)】

結城義綱の男(小峰義名の養子)。

小山左馬之助【こやまさまのすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡御祭館主。550石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

近藤和泉守【こんどういずみのかみ(15??~15??)】

結城義親家臣。1570年、佐竹義重の家臣東義久勢に属した。

近藤対馬守【こんどうつしまのかみ(15??~15??)】

結城義親家臣。1570年、佐竹義重の家臣東義久勢に属した。1585年、屋敷山乱入禁止の制札を与えられた。

近藤豊後守【こんどうぶんごのかみ(15??~15??)】

結城義親家臣。通称掃部助。1570年、佐竹義重の家臣東義久勢に属した。1574年、東義久から所領安堵を受けた。

金堂右衛門【こんどうさえもん(15??~15??)】  

田村隆顕家臣。田村郡石森館主。760石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

紺野伊賀守【こんのいがのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡北屋形館主。標葉六騎七人衆参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

紺野美濃守【こんのみののかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡津嶋館主。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

----------------------------

【さ】

斎胤行【さいたねゆき(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称源内。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

斎藤大膳【さいとうだいぜん(15??~15??)】

田村郡斎藤館主。350石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

斎藤源蔵【さいとうげんぞう(15??~15??)】

亘理元宗家臣。官途は越中守。通称作兵衛。騎馬衆。大鼓の名手。伊達成実が亘理元宗からもらい受け仕えた。参考文献:『蕨宍戸家文書』by亘理郷土史研究会。

斎藤修理【さいとうしゅり(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

酒井忠興【さかいただおき(15??~1570)】

相馬盛胤家臣。通称将監。標葉四七人衆。1525年、「白土城の戦い」で岩城重隆勢と戦い青田常義が討死したため、新山西館代に任じられた。1570年、「羽生川の戦い」で相馬義胤に従い伊達晴宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

坂元俊常【さかもととしつね(15??~15??)】

亘理元宗家臣。通称木工助。1565年、「名取沙留川の戦い」で亘理元宗に従い相馬盛胤の家臣富田丹波守を討取り佩刀の角柄生を奪ったが討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

坂元伊予守【さかもといよのかみ(15??~15??)】

亘理重宗家臣。1577年、信夫郡杉目城主伊達晴宗のもとに亘理重宗の名代として病気見舞いに遣わされた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

坂元大膳【さかもとだいぜん(15??~1571)】

亘理元宗家臣。官途は三河守。1571年、「愛宕山城の戦い」で相馬盛胤勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

坂元俊久【さかもととしひさ(15??~1589)】

坂元大膳の男。。官途は三河守。1571年、「愛宕山城の戦い」で相馬盛胤勢の攻撃を受け亘理城に落延びた。1589年、「駒峰城の戦い」で相馬義胤勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

笹山五郎兵衛【ささやまごろうべい(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡笹山館主。693石を領した。

佐藤好信【さとうよしのぶ(1511~1563)】

相馬顕胤家臣。伊具郡小斎城主。富岡右京進、富岡美濃守らとともに軍奉行職を務めた。1563年、「中村城の戦い」では、草野直清、青田顕治らと戦い戦功を挙げた。桑折左馬之助の讒言を受け、軍奉行職を解任され改易処分に処された。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐藤清信【さとうきよのぶ(15??~15??)】

佐藤好信の男。官途は勘解由。室は岡田茂胤の娘。1563年、父佐藤好信が桑折左馬之助の讒言を受け改易処分に処された。1582年、「小斎城の戦い」で弟の佐藤為信が伊達政宗勢に内応して、援将の桑折左馬之助、金沢美濃守を謀殺するが、佐藤清信は相馬盛胤に従った。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐藤為信【さとうためのぶ(1543~1591)】

佐藤好信の次男。官途は紀伊守。通称左衛門。1563年、父佐藤好信が桑折左馬之助の讒言を受け改易処分に処された。1582年、「小斎城の戦い」で伊達政宗勢に内応して、援将の桑折左馬之助、金沢美濃守を謀殺した。伊達政宗に仕え南奥州各地を転戦して戦功を挙げた。1591年、「佐沼城の戦い」で伊達政宗に従い葛西晴信勢と戦い討死した。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

佐藤勝信【さとうかつのぶ(15??~15??)】

佐藤為信の男。1582年、「小斎城の戦い」で父佐藤為信が伊達政宗に内応すると、人質として伊達政宗のもとに送られた。

佐藤忠秀【さとうただひで(15??~1579)】

結城義綱家臣。白河郡双石館主。佐藤忠量の男。官途は大隈守。別名佐藤忠胤。諸国遍歴中に軍配者として結城義綱に仕え双石館を領した。1555年、芦名盛氏の娘と小峰義親との婚儀をまとめた。1560年、「新城館の戦い」で二階堂盛義に内応した新城備後守、須田源次郎らと戦ったが援軍の保土原行藤勢の反撃を受け白石刑部大輔、新小萱篤綱が討死した。1576年、「赤館城の戦い」では、佐竹義重勢から赤館城を奪還した。佐竹義重勢の反撃を受けると、鶴生まで退却して芦名盛氏の後詰を待ったが、援軍を得ることができなっかった。1579年、佐竹義重の家臣戸村和泉守を討取る戦功を挙げたが、後詰が敗退したため討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐藤忠経【さとうただつね(15??~15??)】

佐藤忠秀の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐藤忠泰【さとうただやす(15??~15??)】

佐藤忠秀の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐藤忠直【さとうただなお(15??~15??)】

佐藤忠秀の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐藤忠久【さとうただひさ(15??~15??)】

佐藤忠秀の四男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐藤万七【さとうまんしち(15??~1590)】

相馬盛胤家臣。1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐藤文七郎【さとうぶんしちろう(15??~1590)】

相馬盛胤家臣。1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐藤孫兵衛【さとうまごべい(15??~1590)】

相馬盛胤家臣。1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐藤隠岐守【さとうおきのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡菅谷館主。2,000石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

佐藤次郎右衛門【さとうじろうえもん(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐藤繁信【さとうしげのぶ(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。官途は河内守。金山城代。1576年、「冥加山の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐原内蔵之助【さわらくらのすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡金屋館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

三本木十郎右衛門【さんぼんぎじゅうろうえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡海老根館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

塩沢高平【しおざわたかひら(15??~15??)】

大寺清光家臣。石川郡中野館主。官途は丹後守。1582年、石川昭光の家臣曲木信光が中野館を奪うため、石川昭光に年貢を納めさせようとした。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光が大寺清光を降伏に追い込むと、中野館、塩沢館、山小屋館を割譲させると、石川昭光に従った。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

塩沢茂貞【しおざわしげさだ(15??~15??)】

塩沢高平の男。官途は備後守。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

塩田伊勢守【しおだいせのかみ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

塩田堅物【しおたけんもつ(15??~15??)】  

田村隆顕家臣。田村郡赤沼館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

志賀隆義【しがたかよし(15??~15??)】

岩城重隆家臣。通称四郎右衛門。1541年、岩城重隆の娘(久保姫)を巡って、相馬顕胤と伊達晴宗が争うと、岩城重隆に愛想を尽かし、伊達実元に仕えた。参考文献:『蕨宍戸家文書』by亘理郷土史研究会。

志賀隆正【しがたかまさ(15??~15??)】

志賀隆義の男。官途は備後守。1574年、「八丁目館の戦い」で畠山義国勢から伊達実元が八丁目館を奪還すると、伊達輝宗のもとに使者として赴いた。参考文献:『蕨宍戸家文書』by亘理郷土史研究会。

志賀備後守【しがびんごのかみ(15??~15??)】

志賀隆正の男。通称大炊左衛門。別名加藤大炊左衛門。騎馬衆。1586年、「渋川っ館の戦い」で伊達成実に従い鹿子田和泉守勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」に伊達成実に従って参陣した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、伊達政宗の意向を受けた伊達成実に従って山形城を接収した。参考文献:『蕨宍戸家文書』by亘理郷土史研究会。

志賀武治【しがたけはる(15??~15??)】

岩城貞隆家臣。別名「甘釣斎玄胡」。佐竹義重と伊達政宗や岩城貞隆と伊達政宗との和議の取次役を務めた。

鹿又太蔵【しかまたおおくら(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡長外路館主。409石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

鹿又備前守【しかまたびぜんのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡新舘館主。790石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

宍戸方則【ししどかたのり(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称刑部。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

條又友成【しのまたともなり(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称十郎。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

柴原助左衛門【しばはらすけざえもん(15??~15??)】

田村郡柴原館主。350石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

渋田見遠江守【しぶたみとうとみおみのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。

下浦泰清【しもうらやすきよ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡下浦館主。官途は常陸介。標葉六騎衆。1524年、「木戸館の戦い」で相馬顕胤に従い先陣を務め、岩城重隆勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

下浦常清【しもうらつねきよ(15??~15??)】

下浦泰清の男。

白土隆通【しらとたかみち(1551~1600)】

岩城常隆家臣。官途は摂津守。志賀武治とともに伊達輝宗との取次役を務めた。1590年、岩城常隆が病没すると、佐竹義重の三男岩城貞隆を養子に迎え増田長盛を通じて羽柴秀吉からの朱印状を取り付け、岩城家を存続させた。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

白土隆良【しらとたかよし(15??~15??)】

白土隆通の男。官途は右馬助。

白土隆顕【しらとたかあき(15??~15??)】

岩城常隆家臣。官途は下総守。

白土左近【しらとさこん(15??~15??)】

結城義親家臣。佐竹義重の家臣東義久に従った。1584年、佐竹義久の意向を受け赤館城番を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

白土弾正忠【しらとだんじょうのちゅう(15??~15??)】

結城義親家臣。1575年、佐竹義重の家臣東義久に従った。東義久の意向を受け、天神林玄蕃允、鹿子玄蕃とともに南郷、赤館城方面で足軽衆を指揮した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

白石実綱【しろいしさねたね(15??~15??)】

刈田郡白石城主。伊達晴宗家臣。官途は大和守。通称藤四郎。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗に属して戦功を挙げた。1546年、伊達晴宗を白石城に迎え入れた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

白石宗利【しろいしむねとし(15??~15??)】

白石実綱の男。官途は大和守。通称藤四郎。1570年、「伊達元亀の乱」で謀反を起こした中野宗時、牧野久仲らの捕縛に失敗して、伊達輝宗から怒りを買い罷免されたが、その後赦免された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

白石宗実【しろいしむねざね(1553~1599)】

白石宗利の男。官途は若狭守。通称右衛門大輔。1584年、「金山城の戦い」で伊達輝宗に従い相馬義胤との戦い戦功を挙げた。1585年、「人取橋の戦い」では、伊達政宗に従い佐竹義重勢と戦った。畠山義継、相馬義胤との取次役を務めた。1586年、安達郡宮森城主に任じられた。1589年、「摺上原の戦い」で伊達政宗に従い芦名盛重勢と戦い戦功を挙げた。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封すると、胆沢郡水沢城15,000石を領した。1593年、「文禄の役」で伊達政宗に従い渡海した。1599年、朝鮮からの帰国直後、山城国伏見で病没した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

白石宗直【しろいしむねなお(1577~1629)】

梁川宗清の男(白石宗実の養子)。室は白石宗実の娘(心月院)。1600年、「白石城の戦い」では、長尾景勝勢が守る白石城を攻撃した。「長谷堂城の戦い」では、留守政景に従い最上義光の援軍として参陣した。南部信直領に侵攻した和賀忠親を後方から支援した。役後、登寺池城15,000石を領した。城下街の発展や北上川の整備などに積極的に取り組み、20,000石余り増加した。1614年、「道明寺の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白石宗貞【しろいしむねさだ(15??~15??)】

白石宗直の男。別名伊達宗貞。伊達政宗から隠居を命じられ、西野館に家臣60余りとともに移り住んだ。

白岩主膳正【しろいわしゅぜんのしょう(15??~15??)】    

田村清顕家臣。田村郡白岩館主。西方寄騎衆50騎余りを率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

新飯肥前守【しんいいづかひぜんのかみ(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡新殿館主。北方衆50騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

新城宮内【しんじょうくない(15??~15??)】

田村隆顕家臣。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

杉目掃部【すぎのめかもん(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡杉野目館主。標葉郡四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

杉目三河守【すぎめみかわのかみ(15??~1589)】

相馬顕胤家臣。標葉郡杉野目西館主。官途は甲斐守。標葉郡四七人衆。1589年、「新地城の戦い」で伊達政宗の家臣亘理重宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

杉盛重【すぎもりしげ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡杉館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

鈴木保澄【すずきやすずみ(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称若狭之介。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

鈴木豊住【すずきとよずみ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称九郎左衛門。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

鈴木義久【すずきよしひさ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称七郎左衛門。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

鈴木杢之助【すずきじょうのすけ(15??~1575)】

鈴木忠治家臣。1575年、「名取沙留川の戦い」で相馬盛胤に従い先陣を務め、二騎を討取るも伊達輝宗勢の反撃を受け討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

鈴木源右衛門【すずきげんえもん(15??~15??)】

佐藤宮内家臣。1576年、「坂本城の戦い」で佐藤宮内に従い伊達輝宗勢と戦い坂本城代後藤三河守を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

砂金藤四郎【すながねとうしろう(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

関本太郎右衛門【せきもとたろうえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡関本館主。300石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

瀬谷宗太夫【せやにむねだいふ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

瀬谷丹波守【せやたんごのかみ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

相馬盛胤【そうまもりたね(1476~1521)】

行方郡小高城主。相馬高胤の男。官途は大膳大夫。通称孫次郎。別名相馬定胤。室は芦名盛舜の娘。1492年、「第一次権現堂城の戦い」で父相馬高胤が標葉隆成との戦いで陣没したため、相馬家惣領職を相続した。家督を相続すると家中を態勢を立て直して標葉隆成の戦いを再開した。「第二次権現堂城の戦い」で標葉隆成を討取って標葉郡を掌握した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

相馬顕胤【そうまあきたね(1508~1549)】

相馬盛胤の男。通称孫次郎。室は伊達稙宗の娘。1542年、「伊達天文の乱」では、懸田俊宗、懸田義宗らとともに伊達稙宗を支援して伊達晴宗勢と戦った。1543年、「大森城の戦い」では、伊達晴宗勢を多数討取る戦功を挙げた。1547年、芦名盛舜、芦名盛氏、二階堂照行、田村義顕、田村隆顕らとともに伊達晴宗勢に属した、黒木正房、中村義房らを討取る戦功を挙げた。宇多郡、行方郡、標葉郡の三郡を掌握した。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

相馬盛胤【そうまもりたね(1529~1601)】

相馬顕胤の男。官途は弾正大弼。通称孫次郎。室は懸田義宗の娘。1549年、田村清顕と和議を結び、妹を田村清顕の内室とした。1560年、伊達稙宗の娘(越河御前)を継嗣の相馬義胤の内室に迎えた。1563年、「貝殻坂、石積坂の戦い」で青田顕治、青田胤治、草野直清らが謀反を起こしたが、相馬義胤、佐藤好信らの活躍によりこれを鎮圧した。1564年、「陸前北目城の戦い」亘理元宗を支援して粟野宗国勢と戦った。1565年、「丸森城の戦い」で伊達晴宗勢から丸森城を奪い伊具郡まで勢力を拡大した。1566年、「金津城の戦い」では、亘理元宗と結び伊達晴宗勢と戦った。1578年、相馬家惣領職を継嗣の相馬義胤に譲り隠居した。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

相馬義胤【そうまよしたね(1548~1635)】

相馬盛胤の男。官途は長門守。通称孫次郎。室は伊達稙宗の娘(越河御前)。継室は長江盛景の娘。1564年、畠山義継、大内定綱らと結び伊達輝宗勢と戦った。1585年、「小手森城の戦い」で畠山義継、大内定綱らが伊達政宗勢に敗れると、家臣の離反や弟の相馬隆胤が討死するなど、軍事的に窮地にたたされた。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に参陣して行方郡、宇多郡、標葉郡の三郡(48,000石)の所領を安堵された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したため、改易処分に処された。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

相馬隆胤【そうまたかたね(1551~1589)】

相馬盛胤の次男。官途は兵部大輔。武勇に優れた猛将だったが、血気盛んで慎重さを欠く性格だった。1563年、「中村城の戦い」で草野直清が謀反を起こし、これを討取ると、中村城代に任じられた。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で伊達政宗勢との戦いで劣勢を顧みず突撃して討死した。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

相馬利胤【そうまとしたね(1581~1625)】

相馬義胤の男。官途は大膳亮。室は芦名盛隆の娘(江戸崎御前)。1600年、「関ヶ原の役」では、父相馬義胤が佐竹義宣とともに石田三成勢に属したため、改易処分に処された。1601年、内室の江戸崎御前が病没すると、松平秀忠の仲介により、馬廻衆の岡田元次の娘を継室に迎えた。1602年、伊達政宗の奔走によって相馬利胤が旧領に復帰した。1615年、「大坂夏の陣」で松平秀忠勢の先陣を務め戦功を挙げた。中村の城下街を京のような碁盤の目のような街並みを作った。家臣に陶芸を学ばせ相馬駒焼の基礎を作り出すなど、政治的に優れた政策を行った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

相馬郷胤【そうまさとたね(15??~1601)】

相馬盛胤の四男。通称忠次郎。別名田中郷胤。父相馬盛胤の隠居地、田中館を守備した。相馬盛胤が中村城に転封すると、田中館代を務め、1,300石を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

相馬胤乗【そうまたねのり(15??~15??)】

相馬盛胤の次男。黒木館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

添田吉村【そえだよしむら(15??~15??)】  

石川昭光家臣。通称兵庫之佐。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

添田弥右衛門【そえだよへい(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

----------------------------

【た】

高田六郎【たかだろうくろう(15??~1576)】

相馬盛胤家臣。1576年、「冥加山の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

高田内膳【たかだないぜん(15??~15??)】

草野直清家臣。標葉郡四七人衆。1563年、「中村城の戦い」で草野直清が青田胤治と結んで相馬盛胤に謀反を起こしたが、従わず相馬盛胤勢に属した。「貝殻坂、石積坂の戦い」で青田胤治、舟山豊前守、大谷地掃部勢の攻撃を撃退する戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

高野知久【たかのともひさ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称本太郎。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

高橋文右衛門【たかはしぶねもん(15??~15??)】

飯崎安元家臣。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で飯崎安元に従い伊達晴宗勢と戦い大谷地掃部を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

高平壱岐守【たかひらいきのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

滝迫胤治【たきさこたねはる(15??~15??)】

木幡胤清の次男。標葉郡滝迫館主。官途は日向守。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

滝迫清詮【たきさこきよあき(15??~15??)】

滝迫清詮の男。官途は日向守。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い草野直清勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

竹貫隆光【たけぬきたかみつ(15??~15??)】

石川晴光家臣。石川郡竹貫館主。官途は三河守。1534年、「三芦城の戦い」で石川晴光が田村隆顕、二階堂晴行、結城晴綱らの攻撃を受けると、石川晴光からの離反して岩城重隆勢に属した。1541年、「東館城の戦い」で佐竹義昭と結城義綱が争うと、岩城重隆の意向を受け和議の仲介役を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

竹貫広光【たけぬきひろみつ(1508~1557)】

竹貫隆光の男。1541年、「東館城の戦い」で佐竹義昭と結城義綱が争うと、父竹貫隆光とともに、和議の仲介役を務めた。1574年、「竹貫城の戦い」では、伊達輝宗の家臣長尾越前守らの攻撃を受けたが、富岡隆宗、大塚親成、車義秀、白土長門守、大高新左衛門らとともに伊達輝宗勢を撃退した。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

竹貫重光【たけぬきしげみつ(15??~1601)】

竹貫広光の男。官途は三河守。1589年、「須賀川城の戦い」で須田盛秀に従い須賀川城に籠城して伊達政宗勢と戦った。須賀川城が落城すると、牛ヶ城に籠城して戦い続けた。「小田原の役」では、岩城常隆に従い参陣した。1600年、岩城貞隆が改易処分に処されると所領を失った。1601年、「富岡城の戦い」で富岡城に籠城するが、松平秀忠から派遣された千本義定勢の攻撃を受け自刃した。

田島信濃守【たじましなののかみ(15??~1575)】

結城義顕家臣。白河郡田島館主。1575年、結城義顕が結城義親に白河城を追われると、郷石見守とともに結城義顕を匿った。「田島館の戦い」で結城義親勢の攻撃を受け、結城義顕を落延びさせるため、田島館に籠城して討死した。

立谷越前守【たちたにえちぜんのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

田中隆定【たなかたかさだ(15??~15??)】

岩城常隆家臣。官途は越中守。1590年、隠居した佐竹義重に仕えた。1591年、山尾城の門、橋の普請奉行を務めた。

谷沢兵庫之頭【たにさわひょうごのかみ(15??~15??)】  

石川晴光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

田村義顕【たむらよしあき(1472~1561)】

田村郡三春城主。田村盛顕の男。官途は大膳大夫。室は岩城常隆の娘。1487年、父田村盛顕の病没後、田村家惣領職の家督を相続した。1504年、三春城を築き居城とした。1532年、田村隆顕に家督を譲って隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田村隆顕【たむらたかあき(1489~1574)】

田村義顕の男。官途は安芸守。室は伊達稙宗の娘。猛将。1532年、父田村義顕の隠居により田村家惣領職の家督を相続した。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属して伊達晴宗勢と戦った。1547年、伊達稙宗勢に属していた芦名盛氏が伊達晴宗勢に寝返ると劣勢に立たされた。1549年、相馬顕胤と和議を結び、相馬顕胤の娘を田村清顕の内室として迎えた。1560年、佐竹義昭と結んで芦名盛興と戦った。1572年、佐竹義重勢から攻撃を受けると、芦名盛隆と結んで対抗した。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

田村清顕【たむらきよあき(1526~1586)】

田村隆顕の男。室は相馬顕胤の娘(於北方)。1574年、父田村隆顕の病没後、田村家の家督を相続した。愛姫を伊達政宗の内室として嫁がせ、伊達輝宗勢の支援を受けた。伊達輝宗と相馬義胤が争うと、和議の仲介役を務めた。1584年、「千石森の戦い」で大内定綱勢と戦い大敗した。1586年、田村清顕が病没すると、継嗣がおらず家督相続問題で家中が混乱した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田村宗顕【たむらむねあき(1574~1648)】

田村氏顕の男(田村清顕の養子)。田村郡牛縊館主。通称五郎兵衛門。別名牛縊定顕。350石を領した。1586年、田村清顕が病没すると、田村家中が伊達政宗勢と相馬盛胤勢に分かれて勢力争いを繰り広げた。伊達政宗に擁立され、田村家惣領家の家督を相続した。1590年、「奥州仕置」で改易処分に処され、白石城下で隠棲した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田村定広【たむらさだひろ(15??~15??)】

田村宗顕の男。別名片倉定広。

田村宗良【たむらむねよし(16??~16??)】

伊達忠宗の三男(田村宗顕の養子)。1648年、田村宗顕が病没すると、田村家の家督は一時断絶した。1652年、田村家惣領職の家督を相続した。

田村顕頼【たむらあきより(1492~15??)】

田村盛顕の次男。田村郡鹿又館主。官途は宮内少輔。別名「月斎聖休」。鹿又館1,460石を領した。1559年、「今泉城の戦い」で田村隆顕に従い参陣して二階堂盛義勢を追落とす戦功を挙げ今泉城代に任じられた。1586年、田村清顕が病没すると、伊達政宗勢に属して相馬義胤勢の大越顕光と対立して大越顕光勢を三春城から追落とした。1589年、「須賀川城の戦い」でば、伊達政宗に従い参陣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田村顕基【たむらあきもと(15??~15??)】

田村郡小野館主。田村盛顕の次男。官途は右馬頭。通称「梅雪斎」。別名田村顕盛。田村家四宿老職。1586年、田村清顕が病没すると、田村清顕の未亡人とともに相馬義胤勢に属した。

田村清通【たむらきよみち(15??~15??)】

田村顕基の男。官途は右馬頭。

田村顕長【たむらあきなが(15??~15??)】

田村顕基の次男。

田村憲顕【たむらのりあき(15??~15??)】

田村郡船引館主。田村義顕の次男。船引館7,300石を領した。

田村清康【たむらきよやす(15??~15??)】

田村憲顕の男。官途は右衛門大夫。1586年、田村清顕が病没すると、田村顕基、田村顕頼、橋本顕憲らと田村家の指導権を争った。1588年、敗れて相馬義胤のもとに落延びた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村秀明【たむらひであき(15??~15??)】

田村清康の男。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村重顕【たむらしげあき(15??~1579)】

田村隆顕の次男。1579年、「木村館の戦い」で田村清顕に従い二階堂盛義勢と戦い討死した。

田村氏顕【たむらうじあき(15??~1584)】

田村隆顕の四男。通称善九郎。別名田村友顕。1584年、「千石森の戦い」で田村清顕に従い大内定綱勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田村重時【たむらしげとき(1499~1572)】

田村重為の次男。官途は下野守。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

田村政顕【たむらまさあき(15??~15??)】

田村顕基家臣。通称兵部。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村相模守【たむらさがみのかみ(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡守山山中館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村兵部少輔【たむらひょうぶしょうほ(15??~15??)】

田村清顕家臣。鉄炮衆。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦った。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

田村宮内太夫【たむらくないだいふ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡上宇津志館主。700石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村左馬之助【たむらさまのすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡小野新町城。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。  

田村右衛門【たむらさえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡石沢館主。730石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村民部【たむらみんぶ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田母神玄蕃頭【たのがみげんばのかみ(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡田母神館主。南方衆50騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村彦七郎【たむらひこしちろう(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い橋本刑部少輔ととも、敗走する大越紀伊守勢の殿を務めた。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

為源次【ためもとつぐ(15??~15??)】

田村郡浮金館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

俵口光貞【たわらぐちみつさだ(15??~15??)】

相馬義胤家臣。通称吉左衛門。相馬義胤の近習を務めた。参考文献:『慶長・元和の大津波 奥州相馬戦記』by近衛龍春。

丹伊田玄蕃【たんいだげんば(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡丹伊田館主。1,300石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 

円谷内記【つぶらやないき(15??~15??)】  

大寺清光家臣。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

寺内式部【てらうちしきぶ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

寺内丹後守【てらうちたんごのかみ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

天神堂法師【てんしんどうほうし(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

東郷胤光【とうごうたねみつ(15??~1543)】

相馬顕胤家臣。通称治部。室は木幡胤清の娘。標葉六騎七人衆。1543年、「田中城の戦い」で伊達晴宗と結び中村義房、黒木信房らとともに相馬顕胤に謀反を起こした。1543年、「田中城の戦い」で相馬顕胤の家臣桑折久家勢を攻撃してこれを討取る戦功を挙げた。「広野原の戦い」で相馬顕胤、岡田直胤、堀内近胤勢と戦い敗退した。木幡胤清の屋敷の招かれ謀殺された。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

百槻胤正【どうづきたねまさ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。通称右兵衛。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

常盤勝定【ときわかつさだ(15??~15??)】

田村清顕家臣。官途は伊賀守。1586年、田村清顕が病没すると、伊達政宗に従った。

常盤与惣兵衛【ときわよそうえもん(15??~15??)】

常盤勝定の男。官途は伊賀守。

常盤実定【ときわさねさだ(1580~15??)】

常盤与惣兵衛の男。官途は信濃守。通称隼人。1592年、伊達成実に仕えた。1598年、伊達成実が出奔すると、それに従った。伊達成実が亘理郡を領すると、宇佐美長光とともに伊達政宗に太刀を献上した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、伊達政宗の意向を受けた伊達成実に従い山形城を接収した。

常盤吉定【ときはよしさだ(15??~16??)】

常盤実定の男。官途は但馬守。通称内蔵助。1606年、伊達成実に従い江戸屋敷に赴き愛姫から小袖を賜った。

常盤元定【ときはもとさだ(1609~1646)】

常盤実定の次男。通称権六。別名常盤元安。1646年、伊達成実に従い殉死した。辞世の句は「月の入るあとをしたいてやがて身は 同じ道にと行くすえの空」。

常盤景定【ときわかげさだ(16??~16??)】

常盤実定の三男。官途は縫殿丞。伊達成実の側近を務めた。

栃窪胤光【とちくぼたねみつ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。通称蔵人。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

栃窪胤清【とちくぼたねきよ(15??~15??)】

門馬貞経の次男(栃窪胤光の養子)。通称勘兵衛。別名門馬胤清。室は栃窪胤光の娘。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

富岡隆時【とみおかたかとき(15??~15??)】

岩城常時の五男。日向館主。官途は大和守。1534年、「日向館の戦い」で相馬顕胤勢の攻撃を受け落城した。

富岡隆宗【とみおかたかむね(1554~1610)】

富岡隆時の男。石川郡竹貫館主に任じられた。1574年、「竹貫館の戦い」で伊達輝宗勢の攻撃を撃退する戦功を挙げた。1600年、岩城親隆が改易処分に処されると、松平元康に仕え3,000石を領した。

富田右近【とみたうこん(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦った。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

常盤貞之【ときわさだゆき(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡常盤館主。官途は甲斐守。常盤館5,000石を領して東方衆50騎の寄騎衆を率いた。

常盤貞久【ときはさだひさ(15??~15??)】

常盤貞之の男。官途は甲斐守。田村清顕から疎まれ、相馬盛胤のもとに落延びた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

常盤彦右衛門【ときはきこえもん(15??~15??)】    

常盤貞久家臣。北方衆4騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

常盤久四郎【ときはひさしろう(15??~15??)】

常盤貞久の弟。田村郡神股館主。神股館880石を領して小野城下衆を率いた。

常盤光貞【ときわみつさだ(15??~15??)】

田村清顕家臣。官途は摂津守。1544年、大越顕光とともに石川稙光と田村隆顕の和議の取次役を務めた。

常盤清重【ときわきよしげ(15??~15??)】 

常葉光貞の男。官途は伊賀守。1560年、橋本顕光とともに田村清顕に従い芦名盛興と戦った。

富沢玄蕃【とみざわげんば(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡富沢館主。1,200石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

富沢丹波守【とみざわたんばのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡下広瀬館主。850石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

富沢伊賀守【とみざわいがのかみ(15??~15??)】    
 
田村隆顕家臣。田村郡富沢館主。北方衆50騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

----------------------------

【な】

永井五郎【ながいごろう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡駒枝館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

永窪越後守【ながくぼえちごのかみ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

永谷豊前守【ながたにぶぜんのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡水谷館主。276石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

中津川親宗【なかつがわちかむね(15??~15??)】 

田村清顕家臣。通称兵衛太輔。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

中津川右衛門【なかつがわうえもん(15??~15??)】 

田村郡細田館主。600石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

中津川兵衛左【なかつがわさへいさ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡中津川館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

中津川兵部【なかつがわひょうぶ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡中津川館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

中野道満【なかのみちみつ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡波籠石館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。    

長野一露斎【ながのいちろさい(15??~15??)】

相馬義胤家臣。軍配者。1576年、「冥加山の戦い」で相馬義胤勢を指揮して城主六人、騎馬400、兵1,731余りを討取る戦功を挙げた。長者岡で頸実検を行い、勝鬨を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

中畠晴常【なかはたはるつね(15??~15??)】

結城晴綱の男。白河郡国神館主。官途は上野介。1575年、「白河城の戦い」では、結城義顕勢に属して結城義親勢と戦ったが、結城義親を支援する佐竹義重勢の攻撃を受け降伏した。1579年、佐竹義重の次男芦名盛重を結城家の養子に迎えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中畠晴辰【なかはたはるたつ(15??~1590)】 

中畠晴常の男。官途は上野守。1583年、「三城目城の戦い」で伊東祐勝を追落とした。1588年、「泉崎館の戦い」で辺見主膳正を攻撃してこれを討取った。1590年、「奥州仕置」で結城義親が改易処分に処されると、中畠晴辰も所領を失った。相馬義胤を頼って落延びる途中、落武者狩りに襲われ討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中畠晴時【なかはたはるとき(1570~1591)】

中畠晴常の次男。官途は大学助。1590年、兄中畠晴辰が討死したため、中畠家の家督を相続した。馬尾滝で羽柴秀吉を狙撃したが失敗し逃走した。1591年、「九戸政実の乱」で蒲生氏郷に従い九戸政実勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中畠晴倶【なかはたはるとも(15??~16??)】

中畠晴時の男。別名相楽晴倶。1591年、「九戸政実の乱」で父中畠晴時が討死したため、家臣の相楽総三に養育された。1627年、岩代黒川城を領した加藤嘉明に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中村壱岐守【なかむらいきのかみ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

中村義房【なかむらよしふさ(15??~1543)】

宇多郡中村館主。黒木信房の弟。別名黒木大膳。1542年、「田中城の戦い」で兄黒木信房とともに田中城の相馬顕胤の家臣桑折久家勢を攻撃するが敗退した。1543年、「中村館の戦い」で相馬顕胤勢の攻撃を受け降伏した。勝善原で相馬顕胤勢に黒木信房とともに謀殺された。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

中村胤高【なかむらたねたか(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。上浦館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

中村隆政【なかむらたかまさ(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。通称助右衛門。猩々緋の鉄砲頭として高名。天正年中には合戦ごとに武功抜群。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

中山太郎右衛門尉【なかやまたろううえもんのじょう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡上石館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 

七草木新助【ななくさきしんすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡七草木館主。500石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

新小萱篤綱【にこがやあつつな(15??~1560)】

結城義綱家臣。白河郡新小萱館主。官途は雅楽頭。1544年、鹿王山最勝寺に銅鐘を結城義綱、結城晴綱、和知直頼、斑目広基、南恵綱らとともに奉納した。1560年、「新城館の戦い」では、二階堂照行に寝返った新城備後守と須田源次郎と戦った。保土原行藤勢の攻撃が受け白石刑部大輔が討死し、新小萱篤綱も負傷した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

西山源兵衛【にしやまげんべい(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

西山新兵衛【にしやましんべい(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で相馬義胤に従い亘理重宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

西山蔵人【にしやまくらうど(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で相馬義胤に従い亘理重宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

西胤次【にしたねつぐ(15??~1525)】

相馬盛胤家臣。通称右衛門尉。1525年、「仁井田館の戦い」で相馬顕胤勢に従い岩城重隆勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

日下石隆忠【にっけしたかただ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。官途は美濃守。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

新田信政【にったのぶまさ(15??~15??)】

田村清顕家臣。官途は美作守。田村家四宿老職。

新田蔵助【にったくらのすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡蛇澤館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。   

二瓶主膳正【にへいしゅぜんのしょう(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡小野館主。東方衆15騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

二本松国綱【にほんまつくにつな(15??~15??)】

相馬義胤家臣。官途は右馬頭。相馬義胤の近習を務めた。参考文献:『慶長・元和の大津波 奥州相馬戦記』by近衛龍春。

糠田内膳【ぬかたないぜん(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

額田悪七衛門【ぬかたあくしちべい(15??~15??)】

黒木丹波守家臣。1581年、「大条館の戦い」で伊達輝宗の家臣富塚近江守勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

實澤山城守【ぬきさわやましろのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡實澤館主。1,300石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

沼澤孫兵衛【ぬまさわまごべい(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡沼澤館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。   

根本豊次【ねもととよつぐ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡和名田館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

野内光房【のうちみつふさ(15??~15??)】

矢吹行重の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

野内正兼【のうちまさかね(15??~15??)】

田村顕基家臣。官途は伊予守。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

 野口金光【のぐちかねみつ(15??~1582)】

大寺清光家臣。官途は丹波守。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い石川昭光勢と戦い討死した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

野崎筑前守【のざきえちぜんのかみ(15??~15??)】

中畠晴辰家臣。白河郡根岸館主。1588年、「泉崎館の戦い」で中畠晴辰が辺見主膳正を追落とすと、泉崎館の城将に任じられた。

----------------------------

【は】

芳賀綱勝【はがつなかつ(15??~15??)】

結城晴綱家臣。通称左衛門。

芳賀因幡守【はがいなばのかみ(15??~15??)】

結城晴綱家臣。官途は兵部少輔。1575年、「白河城の戦い」で佐竹義重に内応して戦功を挙げた。東義久から所領を安堵された。

芳賀讃岐守【はがさぬきのかみ(15??~15??)】

結城晴綱家臣。官途は玄蕃允。1575年、「白河城の戦い」で佐竹義重に内応して戦功を挙げた。東義久から所領を安堵された。1595年、知行割替では白河玉野などで70石を領した。

橋本顕徳【はしもとあきのり(15??~15??)】

田村清顕家臣。田村郡下枝館主。官途は刑部少輔。筆頭家老職を務め、西方衆の旗頭として1,100石を領した。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い田村彦七郎ととも、敗走する大越紀伊守勢の殿を務めた。1586年、田村清顕が病没すると、田村顕頼、田村顕基、田村清康とともに伊達政宗勢に属して田村家を家政を司った。1588年、「三春城の戦い」で田村顕盛が三春城に相馬義胤勢を引き入れると、橋本顕徳勢がこれを撃退した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

橋本但馬守【はしもとたじまのかみ(15??~15??)】

橋本顕徳の男。1579年、愛姫が伊達政宗に輿入れすると、附家老職として伊達輝宗に仕えた。

橋本修理【はしもとしゅり(15??~15??)】

橋本顕徳家臣。田村郡芦沢館主。1,700石を領した。

橋本和泉守【はしもといずみのかみ(15??~15??)】

橋本顕徳家臣。田村郡柴原館主。

長谷胤重【はせたねしげ(15??~15??)】

亘理元胤の三男。

長谷重景【はせしげかげ(15??~15??)】

亘理宗隆の次男(長谷胤重の養子)。室は桑折宗季の娘。

畑右衛門正【はたうえもんのじょう(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡堀田館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

羽鳥伊賀守【はとりいがのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡羽鳥館主。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

羽根田主膳【はねだしゅぜん(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で相馬義胤に従い亘理重宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

羽根田源左衛門【はねだげんざえもん(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で相馬義胤に従い亘理重宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

馬場掃部【ばばかもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡小川館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。    

標葉隆成【はようたかなり(14??~1492)】

標葉郡熊野堂館主。標葉郡惣領職。1492年、「熊野堂館の戦い」で相馬盛胤勢の攻撃を受けた。相馬盛胤勢の攻撃に頑強に抵抗した。家臣藤橋隆豊と牛渡九郎兵衛尉が相馬盛胤に内応したため滅亡した。

原味弥平左衛門【はらみよへいざえもん(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

燧内大学【ひきりうちだいがく(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡湯沢館主。560石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

菱沼時久【ひしぬまときひさ(15??~1544)】

亘理綱宗家臣。官途は弾正忠。1544年、「穂原掛田の戦い」で亘理綱宗とともに討死した。

広瀬今泉守【ひろせいずみのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡上広瀬館主。2,000石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

樋渡隆則【ひわたりたかのり(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。官途は摂津守。標葉郡四七人衆。1525年、「白土城の戦い」で岩城重隆勢と戦い青田常義が討死したため、標葉郡新山館主に任じられた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

樋渡重則【ひわたりしげのり(15??~15??)】

樋渡隆則の男。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

樋渡藤八郎【ひわたりとうざえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡樋渡館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

藤崎摂津守【ふじざきせっつのかみ(15??~1589)】

相馬盛胤家臣。駒ヶ嶺館主。藤崎胤寿の男。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で伊達政宗の家臣亘理重宗勢の攻撃を受け相馬盛胤もとに落延びた。「坂元城の戦い」で伊達政宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

藤崎久長【ふじざきひさなが(15??~15??)】

藤崎摂津守の男。通称治部丞。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で伊達政宗の家臣亘理重宗勢の攻撃を受け父藤崎摂津守とともに相馬盛胤もとに落延びた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

藤田晴近【ふじたはるちか(1537~1592)】

懸田俊宗の次男。1553年、「懸田館の戦い」で中島宗忠、桜田右兵衛、桜田玄蕃が内応、父懸田俊宗、兄懸田義宗が討死しため、相馬盛胤を頼り落延びた。相馬盛胤に忠節を尽くした。

藤田胤近【ふじたたねちか(15??~15??)】

藤田晴近の男。

藤橋隆豊【ふじはしたかとよ(14??~15??)】

標葉隆成家臣。標葉郡藤橋館主。1492年、「熊野堂館の戦い」で藤橋隆豊に従い熊野堂館に籠城したが、相馬盛胤勢の攻撃を受けると牛渡九郎兵衛尉とともに相馬盛胤に内応した。

藤橋胤隆【ふじはしたねたか(15??~15??)】

藤橋隆豊の男。官途は紀伊守。1564年、谷地小屋城代を務めた。1566年、金山城代に任じられた。1568年、「金山城の戦い」で伊達晴宗勢の攻撃を受け落城した参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

藤橋胤泰【ふじはしたねやす(1507~1579)】

泉田胤重の次男(藤橋胤隆の養子)。官途は紀伊守。1566年、「小斎城の戦い」では、伊達晴宗勢に内応して城代の八替七郎兵衛を討取った。

船尾隆輔【ふなおたかのり(15??~15??)】

岩城常隆の次男。

船尾隆直【ふなおたかなお(15??~15??)】

船尾隆輔の男。官途は下野守。1550年、佐竹義昭勢に属して、磐城国内を転戦して戦功を挙げた。1576年、東義久と起請文を交換した。

船尾昭直【ふなおあきなお(15??~16??)】

船尾隆直の男。官途は山城守。通称九郎三郎。1550年、父船尾隆直とともに佐竹義昭勢に属して、磐城国内を転戦して戦功を挙げた。1575年、滑津城に任じられた。1578年、芦名盛重が白河結城義親に入嗣すると、附家老職に任じられた。1590年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が伊達政宗に敗れると、南郷川上に戻った。1595年、常陸茨城郡内で1,600石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

船尾義綱【ふなおよしつな(15??~16??)】

船尾昭直の男。官途は右兵衛尉。通称三七。父船尾昭直とともに芦名盛重を補佐した。1587年、芦名盛重が芦名家に入嗣すると、その附家老職を務めた。1589年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が伊達政宗に敗れると、南郷川上に戻った。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従い肥前名護屋城を守備した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

辺見主膳正【へんみしぜんのしょう(15??~15??)】

白河郡泉崎館主。1588年、「泉崎館の戦い」では、中畠晴辰の次男中畠右馬頭を養子に迎えようとしたが、那須資晴の反対を受け否決されると、中畠晴辰勢の攻撃を受け落城した。

星與玄親【ほしよげんちか(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称三左衛門。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀内近胤【ほりうちちかたね(15??~15??)】

相馬盛胤の次男。別名相馬近胤。官途は上野介。通称次郎太夫。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀内俊胤【ほりうちとしたね(15??~1569)】

相馬近胤の次男。通称右兵衛尉。1569年、「小島の戦い」で伊達晴宗勢と戦い討死したため、堀内家は断絶した。この断絶を惜しんだ相馬盛胤は自身の義弟堀内義氏に堀内俊胤の娘を嫁がせて堀内家を再興させた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀内義氏【ほりうちよしうじ(15??~15??)】

掛田義宗の三男(堀内俊胤の養子)。通称兵庫。別名掛田義氏。室は堀内俊胤の娘。1569年、「小島の戦い」で義父堀内俊胤が討死したため、堀内義氏が娘婿となり堀内家の家督を相続した。堀内俊胤の娘と諍いが絶えず、堀内家を出奔した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀内晴胤【ほりうちはるたね(1556~1633)】

藤田晴近の次男。通称四郎。別名堀内宗和。1580年、「黒木城の戦い」で黒木宗俊とともに謀反を企て父藤田晴近に支援を求めたが、反対を受けため黒木城に落延びた。「黒木城の戦い」で相馬義胤勢の攻撃を受け黒木宗俊とともに捕縛され、改易処分に処された。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀内胤政【ほりうちたねまさ(15??~15??)】

泉田胤清の男。官途は播磨守。室は藤田晴近の娘(相馬義胤の養女)。1580年、堀内晴胤が謀反して改易処分に処されたため、堀内家は断絶した。相馬義胤の意向を受け藤田晴近の娘を娶り堀内家の家督を相続して宇多郡丸森城主に任じられた。1581年、「丸森城、金丸城の戦い」で伊達輝宗に内応した佐藤為信勢の攻撃を受け、佐藤清信とともに伊達輝宗勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀内胤泰【ほりうちたねやう(15??~1633)】

堀内胤政の男。通称十兵衛。1602年、他の家臣とともに所領を収公された。1617年、改めて557石を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀越尾張守【ほりこしおわりのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡七郷堀越館主。650石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

本田孫兵衛【ほんだまごべい(15??~15??)】  

大越顕光家臣。

----------------------------

【ま】

舞木出雲守【まいきいずものかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡舞木館主。

曲木信光【まがりぎのぶみつ(15??~15??)】

石川晴光家臣。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

牧備中守【まきびっちゅうのかみ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。石川郡御藪館主。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

益子金正【ますこかねまさ(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称久兵衛。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

斑目広綱【まだらひろつな(15??~15??)】

結城顕頼家臣。猛将。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

斑目広基【まだらめひろもと(15??~1576)】

結城義綱家臣。官途は信濃守。斑目広綱の弟。1541年、「赤館城の戦い」で佐竹義昭勢の攻撃を受け、白河城に撤退した。1544年、鹿王山最勝寺に銅鐘を結城義綱、結城晴綱、和知直頼、新小萱篤綱、南恵綱らとともに奉納した。1576年、佐藤忠秀に従って赤館城を奪還するが、結城義親から謀反の疑いを受け兄斑目広綱とともに謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

斑目基庸【まだらもとつね(15??~15??)】

斑目広基の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

町田右馬助【まちださまのすけ(15??~15??)】

結城晴綱家臣。結城晴綱が衰退すると、佐竹義重勢に属して東家義久に仕えた。1590年、東義久が鹿島郡に転封すると、それに従い常陸国鹿島郡鉾田内で150石を領した。東義久の蔵入地680石を預けられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

松浦助六郎【まつうらすけろくろう(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

松崎主膳【まつざきしゅぜん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡行合館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。   

三浦修理頭【みうらしゅりのかみ(15??~15??)】

蓬田法光家臣。

三浦修理大夫【みうらしゅりだいふ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

三坂隆次【みさかたかつぐ(15??~15??)】

岩城由隆家臣。官途は越前守。伊達輝宗との取次役を務めた。

水谷胤氏【みずたにたねうじ(15??~1542)】

相馬義胤家臣。1542年、「伊達天文の乱」で相馬義胤に従い参陣して伊達晴宗勢と戦い討死した。

水谷胤重【みずたにたねしげ(1538~1606)】

水谷胤氏の男。官途は式部丞。1542年、「伊達天文の乱」で父水谷胤氏が伊達稙宗勢と戦い討死すると、叔父水谷胤清に養育された。1600年、伊達政宗が少数の手勢で相馬家領内を通過すると、、多くの家臣が相馬義胤に伊達政宗を討取るべきと進言する中、これに反対した。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

三善常光【みぜんつねみつ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡西向館主。官途は中納言。1,200石を領した。常光寺を建立した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

溝井義信【みぞいのぶよし(1532~1590)】

石川晴光家臣。通称六郎右衛門。家老職を務めた。1589年、「小田原の役」で羽柴秀吉から参陣を求められると、使者を送ることを石川昭光に勧めるが否決された。1590年、「溝井館の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

南恵綱【みなみよしつな(15??~15??)】

結城義綱家臣。通称左馬頭。1544年、結城義綱、結城晴綱、和知直頼、斑目広基、新小萱篤綱らとともに鹿王山最勝寺に銅鐘を奉納した。

三村若狭守【みむらわかさのかみ(15??~15??)】

中畠晴辰家臣。中の内館主。1588年、「泉崎館の戦い」で中畠晴辰が辺見主膳正を追落とすと、泉崎館の城将に任じられた。

三森十郎右衛門【みもりじゅうろうえもん(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

宮田惣兵衛【みやたそうべい(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡宮田館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

村岡胤信【むらおかたねのぶ(15??~15??)】

亘理宗隆の三男。

村松薩摩守【むらまつさつまのかみ(15??~15??)】

藤崎摂津守家臣。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で亘理重宗勢の攻撃を受け藤崎摂津守とともに相馬盛胤のもとに落延びた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

室原清隆【むろはらきよたか(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡行津館主。標葉郡四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木目沢式部【もくめざわしきぶ(15??~15??)】

田村郡木目沢館主。500石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

森別金【もりべつかね(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称新左衛門。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

門馬貞経【もんまさだつね(15??~1590)】

相馬盛胤家臣。通称上総介。1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢の矢田但馬の鉄砲に狙撃されて負傷したため、門馬貞経勢は敗走した。

門馬定経【もんまさだつね(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡佐山館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

門馬甚左衛門【もんまじんざえもん(15??~1563)】

相馬盛胤家臣。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い草野直清勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

門馬治右衛門【もんまちえもん(15??~1563)】

相馬盛胤家臣。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い草野直清勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

門馬助九郎【もんますけくろう(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

----------------------------

【や】

矢内重房【やうちしげふさ(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称内蔵之助。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

矢崎加左右衛門【やざきかさえもん(15??~15??)】      

田村隆顕家臣。東方足軽衆150余りを率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

先崎周防守【やざきすぼうのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡小野山神館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

先崎徳近【やざきとくちか(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡大倉館主。通称主水介。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

安原下野守【やすはらしもつけのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡安原館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

矢吹行重【やぶきいくしげ(15??~15??)】

石川晴光家臣。石川郡袖ヶ館主。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

矢吹光頼【やぶきみつより(15??~15??)】

矢吹行重の男。官途は薩摩守。別名矢吹光信。1577年、「浅川城の戦い」で浅川義純が佐竹義重に浅川城を追われると、浅川城代に任じられた。1589年、「須賀川城の戦い」で石川昭光が伊達政宗勢とともに須賀川城を攻落とすと、須賀川城代に任じられた。1590年、「奥州仕置」で石川昭光が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

柳沼門主【やなぎぬまもんしゅ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡大善寺館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

山田源兵衛【やまだげんべい(15??~15??)】

相馬義胤家臣。別名石上源兵衛。1576年、「冥加山の戦い」で泉田景時、亘理盛景を鉄砲で撃取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

山寺盛純【やまでらもりずみ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。亘理郡山寺館主。通称蔵人。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

蓬田法光【よもぎだほうみつ(15??~15??)】

石川晴光家臣。石川郡蓬田館主。官途は隠岐守。別名蓬田有信。1570年、石川昭光から離反、伊達輝宗、田村隆顕勢に属した。1581年、伊達政宗、田村隆顕と芦名盛氏、佐竹義重、石川昭光らが争うと、石川昭光に帰参した。1589年、石川昭光が伊達政宗に降伏すると、それに従った。参考文献:「秋田の中世を歩く」by秋田城介。

蓬田利光【よもぎだとしみつ(15??~15??)】

蓬田法光の男。官途は下野守。1589年、石川昭光が伊達政宗に降伏すると、父の蓬田法光とともに降伏した。1590年、石川昭光が陸前国に転封になるとそれに従った。参考文献:「秋田の中世を歩く」by秋田城介。

白河結城顕頼【ゆうきあきより(1470~1543)】

白河郡白河城主。結城政朝の男。官途は宮内少輔。通称左兵衛佐。室は田村直顕の娘。1490年、「山入一揆」では、山入義藤を支援して北常陸まで勢力を拡大した。1510年、父結城政朝が次男の結城五郎を寵愛して、結城顕頼に家督を譲らなかったため、小峰直常、岩城常隆らの支援を受けて父結城政朝と結城五郎を追放し結城家の家督を相続した。1514年、那須資親が実子の那須資久に那須家惣領職を相続させようとしたため、養子に迎えられていた弟の那須資永が那須資久を謀殺した。那須資房、大田原資清らの攻撃を受け自刃した。1521年、岩城常隆と結んで那須資房と争ったが、岩城常隆と那須資房が和議を結んだため、撤退した。1531年、長雲山智徳院を再興した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義綱【ゆうきよしつな(1500~1559)】

結城顕頼の男。官途は左兵衛佐。1506年、「太田城の戦い」で山入氏義が討死すると、佐竹義舜勢の反撃を受け、勢力を後退させた。1534年、「滑井の戦い」では、伊達晴宗勢に属した芦名盛氏、石川晴光、二階堂輝行、相馬顕胤らと戦い敗れた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城晴綱【ゆうきはるつな(1520~1573)】

結城義綱の男。官途は左京大夫。1545年、伊達晴宗の意向を受け二階堂輝行勢と戦った。1539年、那須政資と那須高資が争うと、結城政勝、小山高朝とともに那須高資を支援した。1551年、畠山義国とともに芦名盛氏と田村義顕を仲介し和議を成立させた。1555年、結城義親の内室に芦名盛氏の娘を迎え、佐竹義昭に対抗した。那須高資とも争い勢力を失った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義顕【ゆうきよしあき(1567~1613)】

結城晴綱の男。官途は治部大輔。1573年、父結城晴綱が病没すると、結城義親の後見を受けた。1574年、「白河城の戦い」で結城義親勢の攻撃を受け、常陸国に落延びた。1582年、芦名盛隆の支援を受け、結城義親から切岸城を返還されたが、白河結城家惣領職の家督を相続することはできなかった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城朝綱【ゆうき ともつな(15??~1656)】

結城義顕の男。通称治部左衛門。1614年、「大坂冬の陣」では、白河結城家の再興のため、参陣を望んだが病のため参陣できなかった。1616年、羽後久保田城主佐竹義宣に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義親【ゆうきよしちか(1541~1626)】

結城顕頼の男。官途は上野介。通称左衛門佐。室は芦名盛氏の娘。別名小峰義親。1573年、結城晴綱が病没すると、結城義顕の後見役を務めた。1575年、和知美濃守と図って結城義顕を追放して白河結城家の家督を継承した。1579年、佐竹義重の次男芦名盛重を養子に迎えその後見役を務めた。1587年、芦名盛重が芦名家の家督を相続したため、再び結城義親が白河結城家の家督を相続した。佐竹義重勢に属して伊達政宗勢と戦った。1589年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が滅亡すると、伊達政宗勢に降伏した。「奥州仕置」で改易処分に処され所領を失った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義里【ゆうきよしさと(15??~1635)】

結城義親の男。別名藤巻正成。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義名【ゆうきよしみょう(15??~1589)】

結城顕頼の男。別名小峰義名。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義綱【ゆうきよしつな(1587~1634)】

結城義名の男(結城義親の養子)。別名白河義総。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義実【ゆうきよしざね(1619~1653)】

結城義綱の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城朝綱【ゆうきともつな(1590~1656)】

結城義顕の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柚木多左衛門【ゆずきたざえもん(15??~1565)】

相馬盛胤家臣。1565年、「北目の戦い」で相馬義胤に従い粟野宗国勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

吉田主水正【よしだもんどのしょう(15??~15??)】

黒木丹波守家臣。1581年、「大条館の戦い」で吉田主水正とともに伊達輝宗の家臣小梁川行秀の陣地を急襲したが、小梁川盛宗の家臣大里主馬介、三枝将監勢の攻撃を受け撤退した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

吉田宮内【よしだくない(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡雁股田館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

吉野辺外記【よしのべげき(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡吉野辺館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。  

吉村金貞【よしむらかねさだ(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称民部之介。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い副将を務め、石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

米谷延常【よねたねのぶつね(15??~1590)】

亘理元宗家臣。官途は下総介。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

彌平次【よへいじ(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。1576年、「冥加山の戦い」で入間田近江、入間田孫三郎の二人を長刀で討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

鷲足清久【わしあしきよひさ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。亘理郡鷲足館主。通称主水。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

早稲川修理亮【わせがわしりのじょう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡早稲川館主。463石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

渡邊越前守【わたなべえちぜんのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。栃久保館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

渡邊豊後守【わたなべぶんごのかみ(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い草野直清勢と戦った。「百槻川の戦い」で伊達晴宗の家臣船山豊前守を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

亘理宗元【わたりむねもと(1472~1531)】

亘理郡亘理城主。亘理元胤の次男。兄亘理元実が早世したため、亘理家惣領職の家督を継承した。伊達稙宗に敗れたが、その後も帰順と離反を繰り返した。

亘理宗隆【わたりぬねたか(1493~1556)】 

亘理宗元の男。官途は右近将監。亘理宗隆には継嗣がなく、伊達稙宗と娘(天窓慶普信女)の間に生まれた亘理綱宗を養子に迎えた。1536年、「大崎天文の乱」では、伊達稙宗の意向を受け、大崎義直のもとに派遣された。1544年、「穂原掛田の戦い」で亘理綱宗が討死したため、その弟亘理元宗を養子に迎えた。

亘理綱宗【わたりつなむね(1526~1544)】

伊達稙宗の十三男(亘理宗隆の養子)。別名伊達綱宗。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗に従い伊達晴宗勢と戦った。1544年、「穂原掛田の戦い」で伊達晴宗勢と戦い討死した。

亘理元宗【わたりもとむね(1530~1594)】

伊達稙宗の十四男(亘理宗隆の養子)。官途は兵庫頭。別名伊達元宗。室は国分盛氏の娘(月光院)。1544年、「穂原掛田の戦い」で兄亘理綱宗が討死したため、亘理家惣領職の家督を相続した。1552年、伊達晴宗の意向を受けて上洛したすると、武田信虎から佩刀「綱広」を拝領した。1565年、「沙留川の戦い」で相馬盛胤の家臣富田丹波守を討取り、佩刀の「角柄生」を手に入れた。1570年、相馬盛胤のもとに落延びる中野宗時らを討取る戦功を挙げた。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守勢の援軍として参陣した。1578年、「御館の乱」で伊達輝宗が越後国方面に参陣したため、伊具郡方面の陣代を務め、相馬義胤勢と戦った。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封すると、遠田郡涌谷城8,850石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

亘理重元【わたりしげもと(1552~1620)】

亘理元宗の男。官途は美濃守。室は相馬盛胤の娘(真如院)。1583年、「丸森城の戦い」で明護山砦を築いて相馬義胤勢の分断する功を挙げた。1586年、「人取橋の戦い」で父亘理元宗に従って参陣して佐竹義重勢と戦った。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で相馬義胤勢の反撃を撃退する戦功を挙げた。「童生淵の戦い」では、相馬隆胤を討る戦功を挙げた。1591年、「陸中佐沼城の戦い」では、亘理元宗とともに先陣を務めたが負傷した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

亘理定宗【わたりさだむね(1578~1652)】

亘理重宗の男。伊達安芸守の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、父亘理重元の陣代として伊達政宗に従って参陣した。1604年、亘理重宗の隠居により亘理家惣領職を相続した。1614年、「大坂冬の陣」で伊達政宗に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。

亘理盛景【わたりもりかげ(15??~15??)】

亘理元宗家臣。通称又七郎。1571年、「大仏浅川の戦い」で亘理元宗に従い相馬盛胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

亘理盛景【わたりもりかげ(15??~15??)】

亘理元宗家臣。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

和知直頼【わちなおより(1496~1562)】

結城義綱家臣。官途は右馬助。家老職を務めた。1535年、結城義綱の近津大明神への寄進状の添状を発給した。1544年、結城義綱が鹿王山最勝寺に銅鐘を奉納した際、奉行職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

和知美濃守【わちもののかみ(15??~15??)】

結城義綱家臣。官途は美濃守。結城義顕を白河城から追放し、結城義親を白河城に引き入れた。1535年、結城義綱の近津大明神への寄進状の添状を発給した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

----------------------------

【資料Ⅰ】

磐城国(13郡/)

伊具郡:角田城、丸森城、小斎館、金山館。(26,000石)
亘理郡:亘理城、坂元城。(16,000石)
刈田郡:白石城。(20,000石)
宇多郡:中村城、駒ヶ嶺城、中館。(22,000石)
行方郡:小高城、牛越城。(24,000石)
標葉郡:磐城真壁城。(18,000石)
楢葉郡:城。(12,000石)
磐城郡:岩城平城。(50,000石)
菊多郡:平潟湊。(24,000石) 
田村郡:三春城。(62,000石)
石川郡:二芦城、大寺城。(32,000石)
白河郡(西白河郡):小峰(白河)城、雲霧城(36,000石)
白川郡(東白川郡/高野郡):棚倉城(12,000石)

相馬三郡(行方、宇多、標葉郡)66,000石
岩城三郡(磐城、菊多、楢葉郡)120,000石

----------------------------

【資料Ⅱ】

標葉六騎七人衆【はようろっきななにんしゅう】

六騎衆:井戸川正則、山田、小丸主水、熊隆重、下浦常清、上野但馬守。
七人衆:室原清隆、郡山、樋渡隆則、苅宿戸出雲守、熊川隆光、牛渡九郎兵衛、上浦。

標葉郡四七人衆【はようぐんよんじゅうななにんしゅう】

室原清隆、樋渡重則、酒井忠興、羽鳥伊賀守、紺野美濃守、紺野伊賀守、江井胤治、金沢備中守、高平壱岐守、杉盛重、滝迫胤治、杉目掃部、杉目三河守、大井胤重、金場加賀守、飯崎左近、渡辺越前守、百槻胤正、飯淵九郎左衛門、日下石美濃守、今田六郎、藤崎摂津守、藤崎久長、高田内膳、小野越前守、大坪勘解由、渋田見遠江、井戸川清則、井戸川正則、井戸川大隅守、苅屋戸出雲守、上野但馬守、小丸主水、天神堂法師、寺内式部、草野直清、古賀胤康、桑折久家、桑折清家、掛田俊宗、掛田義宗、栃窪胤光、四本松定義、四本松尚義、岩角伊勢守、熊隆重、東郷胤光、下浦常清。

----------------------------

【資料Ⅲ】

磐城国【いわしろのくに】

東北地方の南に位置する東山道の国。北は陸前、南は常陸、西は岩代、東は長い海岸線で太平洋に面する国。

----------------------------

戦国人名辞典は、1467年、「応仁の乱」から1637年、「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、徳川家康は松平元康、木下藤吉郎は羽柴秀吉、豊臣秀頼は羽柴秀頼、津軽為信は大浦為信に名前を統一しました。

城と館の違いは、城は10,000石以上の領主の居城。館、砦は9,999石以下の領主の居城としました。館と砦の違いは平地にある場合は館、山岳地帯、諸島にある場合は砦としてました。

参考文献:『津軽秋田安東一族』by新人物往来社、『東北大名の研究(戦国大名論集2)』by吉川弘文館、『会津芦名一族』by歴史春秋社、『最上義光(戦国の驍将)』by新人物往来社、『奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)』by宝文堂、『会津芦名四代』by歴史春秋、『伊達政宗(全8巻)』by講談社、『天を衝く(全3巻)』by講談社文庫、『独眼竜伊達政宗』by時代小説文庫、『津軽風雲録』by時代小説文庫、『政宗に睨まれた二人の老将』by宝文堂、『秋田「安東氏」研究ノート』by無明舎、『(史伝)伊達政宗』by学研M文庫、『独眼竜政宗』by講談社文庫、『奥羽永慶軍記(全2巻)』by新人物往来社、『津軽南部の抗争(南部信直)』by無明舎出版、『秋田の中世浅利氏』by無明舎出版、『独眼龍政宗』by文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、『陸奥南部一族』by新人物往来社、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『戦国人名事典』by新人物往来社、『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『慶長・元和の大津波 奥州相馬戦記』by近衛龍春、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」、「三春昭進堂」byryuichi、「千葉一族」bychiba-ichizoku、「野木沢風土記 中野編」by矢吹広実。

----------------------------

0 件のコメント: