2011年2月17日木曜日

戦国羽前国人名辞典


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【あ】 

合貝志摩守【あいがいしまのかみ(14??~1565)】

最上郡合海館主。1565年、「本合海の戦い」で武藤義増に属して清水義高勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

秋保治郎作【あきほじろうざ(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡古口館主。官途は飛騨守。1614年、「清水城の戦い」で清水義親が最上家親と戦って討死すると、最上家親に仕えた。

秋保正則【あきほまさのり(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。通称與三左衛門。
 
秋保政光【あきほまさあき(15??~15??)】

秋保正則の男。通称與三左衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処され、楯岡満茂が酒井忠勝に預けられると、佐竹義宣に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

秋保出雲守【あきほいずものかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」で長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。1601年、「酒田城の戦い」に参陣した。1603年、由利郡で一揆が起こると、鑓13余りを率いて参陣した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に仕えた。
 
秋保蔵人【あきほくらうど(15??~15??)】

最上義光家臣。4,000石を領した。
 
秋保義元【あきほよしもと(15??~16??)】

秋保蔵人の男。通称九郎右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、加藤嘉明に仕えた。1643年、加藤明成が改易処分に処されると再び浪人となった。その後、牧野親成に仕え家老職として250石をで領した。

秋保親常【あきほちかつね(15??~15??)】

秋保義元の男。酒井忠勝に仕えた。

阿久津豊前守【あくつぶぜんのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。1569年、大浦為信との取次役を務めた。1569年、大浦為信のもとに赴き槍300本、弓20張、鉄炮30挺を贈った。1572年、大浦為信が家臣16名とともに最上義光のもとを訪れ、羽黒山で戦勝祈願をした。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉からの参陣命令を大浦為信に伝達した。

朝比奈讃岐守【あさひなさぬきのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。北村山郡井出館主。1585年、「井出館の戦い」で最上義光が城主の太田外記を滅ぼすと、井出館主に任じられ2,000石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安喰光信【あじきあきのぶ(15??~1617)】

最上義光家臣。最上郡中里館主。官途は大和守。1589年、「摺上原の戦い」では、伊達政宗勢の援軍として兵100余りを率いて参陣した。『最上義光分限帳』では、5,000石を領した。1608年、山寺立石寺に経巻を寄進した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安喰信重【あじきのぶしげ(1613~1677)】

安食光信の男。通称七兵衛。1617年、父安喰光信が病没すると、安喰家の家督を相続した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、南光坊天海の仲介で水戸松平頼房に仕えた。

安喰重近【あしきしげちか(15??~1667)】

安喰光信の次男。通称治右衛門。別名安恵重近。最上義光に仕え150石を領した。山形城で諜報や火防の任にあたる伊賀衆を率いた。

安喰久右衛門【あじききゅううえもん(15??~1681)】

安食光信の三男。別名安恵久右衛門。兄安喰重近と同じく伊賀衆を率いて最上義光に仕え200石を領した。1622年、最上義俊の改易後も山形城下に留まり、兄安恵重近とともに伊賀衆を率いて鳥居忠政に仕えた。

安喰丹波守【あじきたんばのかみ(15??~1602)】

清水義氏家臣。最上郡片平館主。

安喰平右衛門【あじきへいざえもん(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡安喰館主。清水義氏の領国の内四分の一(5,000石)を領した。

安喰長門守【あじきながとのかみ(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡大館主。

安喰治部【あじきじぶ(15??~15??)】

猿羽根義舜家臣。1589年、猿羽根義舜が最上義光の謀殺されると猿羽根館を領した。

安達昌勝【あだちまさかつ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。

安達昌友【あだちまさとも(15??~16??)】

安達昌勝の男。通称彦右衛門。1622年、最上義俊の改易後、楯岡満茂が酒井忠世に預けられるとこれに従った。

安達昌實【あだちまだかん(15??~16??)】

安達昌友の男。佐竹義宣に仕えた。

左沢満政【あてらざわみつまさ(14??~15??)】

寒河江孝広家臣。左沢政勝の次男。官途は式部少輔。白岩広直、吉川満教らとともに寒河江孝広を補佐した。1504年、最上義定が再三に渡って寒河江家領に侵攻してきたが、左沢満政らは、寒河江孝広を補佐して最上義定勢を撃退した。

左沢氏政【あてらざわ(15??~15??)】

左沢満政の男。1574年、「天正最上の乱」では、寒河江兼広が最上義光勢に属したのに対し、左沢氏政、白岩義広、溝延氏勝らは伊達輝宗、最上義守勢に属した。左沢氏政、白岩義広、溝延氏勝らは、寒河江兼広が籠城する寒河江城を白鳥長久、天童頼貞などとともに攻撃して落城寸前まで追い詰めた。最上義光の勢力が拡大すると、寒河江兼広とともに対抗を続けた。1584年、「中野城の戦い」で寒河江高基が最上義光に大敗すると、最上義光に降伏した。

安孫子俊春【あびことしはる(15??~15??)】

溝延茂信家臣。

安孫子泰時【あびこやすとき(15??~1590)】

安孫子俊春の男。官途は紀伊守。別名溝延長老。慈恩寺に帰依し、城代家老職を弟安孫子春明に譲り医王山南上院で出家した。1584年、「中野原の戦い」で寒河江高基が討死すると溝延城も落城、安孫子泰時は慈恩寺の聞持院に移り住んだ。1590年、最上義光に謀殺された。

安部越中守【あべえっちゅうのかみ(15??~1615)】

最上義光家臣。川北三奉行衆。1614年、「一栗高春の乱」で志村光惟が討死すると、斎藤筑後守、高橋伊賀守とともにとして庄内川北地域を治めた。川北奉行に任じられて間もなく病没した。後任の川北奉行には寺内近江守が選ばれた。

阿部良輝【あべよしてる(15??~15??)】

武藤義氏家臣。飽海郡磐井出館主。伊氏波神社別当職。出羽三山に数えられていた鷹尾山の伊氏波神社別当職を務め鷹尾山衆徒を率いた。1533年、磐井出館を築城した。別当職として鷹尾山衆徒をまとめ上げ、羽黒山別当職武藤義氏に属した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿部貞嗣【あべさだつぐ(15??~1588)】

阿部良輝の男。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で阿部貞嗣が最上義光勢と戦い討死すると、鷹尾山衆徒は蕨岡館へ移った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿倍頼保【あべよりやす(15??~15??)】

阿部良輝家臣。1591年、「磐井出館の戦い」で甘粕備後守の家臣志田修理勢の攻撃を受け落延びた。

安保能形【あぼよしかた(15??~1575)】

櫛引郡余目館主。1575年、安保能形が病死すると、武藤義氏が余目城に侵攻した。安保能形の弟で田尻館主安保与次郎が城兵を率いて戦ったが武藤義氏に敗れ討死した。

安保与次郎【あぼよじろう(15??~1575?)】

田川郡田尻館主。余目城の阿保太郎の弟。1575年、武藤義氏との戦い討死にした。

姉崎能登守【あねさきのとのかみ(15??~15??)】

延沢満延家臣。平岡館主。1,000石を領した。1584年、延沢満延が最上義光に内応すると、延沢満延とともに最上義光に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

荒楯十郎【あらだてじゅうろう(15??~15??)】

延沢満延家臣。尾花沢郡荒楯砦主。尾花沢郡代を務めた。天正年間、長瀞城主遠山外記の攻撃を受け討死した。

有路但馬守【ありじたじまのかみ(15??~15??)】

延沢満延家臣。家老職を務め、笹原石見守とともに延沢満延を支えた。1622年、最上義俊の改易後、畑沢にて帰農した。

鮎貝盛宗【あゆかいもりむね(15??~15??)】

置賜郡鮎貝城主。官途は兵庫頭。鮎貝城35,000石を領した。1542年、「天文伊達の乱」では、伊達植宗勢に属し、最上義守の支援を受けて南下した。伊達晴宗勢を一旦は破ったが、伊達晴宗勢は、宮村館主片倉伊賀守を中心に力を盛り返した。伊達晴宗勢は野川を越え鮎貝盛宗を攻め、成田の飯沢館、五十川の諸館を攻落し、鮎貝盛宗勢を蚕桑村まで押し戻した。伊達晴宗は、宮一円、小山一円、火神台一円三ヶ所の安堵状を与えた。乱後は、所領安堵と「守護不入」の特権が認められた。

鮎貝宗重【あゆかいむねしげ(1555~1624)】

鮎貝盛宗の男。官途は安房守。通称日傾斎。別名鮎貝盛次。1574年、「芋川の戦い」で戦功を挙げた。家督を伊達政宗に譲った伊達輝宗を、隠居城の館山城が完成するまで私邸に迎えた。1589年、「小田原の役」後、伊達政宗が岩出山城に転封になると、これに従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鮎貝茂平【あゆかいもりひら(15??~15??)】

鮎貝盛宗の次男。高玉城主。

鮎貝宗信【あゆかいわむねのぶ(15??~15??)】

鮎貝宗重の男。官途は摂津守。通称藤太郎。別名鮎貝忠旨。室は最上義守の娘。1587年、継嗣の鮎貝宗信が、最上義光に内応して謀反を起こすと、弟の高玉城主高玉茂兵衛のもとに落延びた。「鮎貝城の戦い」では、伊達政宗勢の湯目景康、泉田重光、宮沢元実らの攻撃を受けた。最上義光のもとに落延び延沢光茂に仕えた。鮎貝城に残された家臣100余りは伊達政宗勢に討取られた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鮎貝宗益【あゆかいむねます(15??~15??)】

鮎貝宗重の次男。官途は兵庫頭。通称長七郎。1587年、兄鮎貝宗信が伊達政宗に謀反を起し没落すると、鮎貝家の家督を相続した。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封になるとそれに従い一家の家格の筆頭となった。本吉郡松崎で1,000石を領し、泊浜唐船番所の海防警備を務めた。

鮎貝覚左衛門【あゆかいかくざえもん(15??~1660)】

鮎貝宗信の男。室は中山朝正の娘。最上義光の四男山野辺光茂に仕えた。1622年、最上義俊が改易処分に処された後も山野辺光茂に従った。後に山野辺光茂の仲介により水戸松平頼房に仕えて100石を領した。

飯田讃岐守【いいださぬきのかみ(15??~15??)】

武藤義氏家臣。武藤義氏の病没後一時流浪したがのち復帰した。1588年、本荘繁長の攻撃を受けて降伏したが、所領は安堵された。1589年、長尾景勝の検地にして一揆を起こしたが、敗れ真室に落延びた。1600年、再び庄内に戻って一揆を起こしたが敗北した。のち最上義光家臣志村光安に仕えて100石を領した。

飯田綱親【いいだつなちか(15??~15??)】

村山郡飯田城主。天童八楯。1580年、最上義光は東根頼景を降伏に追い込んだ。さらに楯岡城主楯岡満英を自刃に追い込み、成生伯耆守、飯田綱親、六田定兼らを降伏させた。

飯田信兼【いいだのぶかね(15??~1600)】

最上義光家臣。官途は播磨守。1600年、最上義光の意向により、谷柏相模守、富並忠右衛門、日野伊賀守、江口五兵衛らを率いて畑谷城の救援に向かった。途中、畑谷城が落城したことを知ったが引き返さず、追われて逃げてくる領民の救出にあたり、それを逃がすため、樋口兼続勢と戦い討死した。谷柏相模守は討死覚悟で、樋口兼続勢へ突入して追い散らし、討ち捨てられた飯田信兼の頸を探し出して山形城へ引き上げた。

石垣河内守【いしがきかわちのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。宮田館主。別名板垣河内守。武藤義氏を支持し最上義光とは敵対していた。1600年、「関ヶ原の役」後、庄内地方が最上義光領となるとそれに仕え1,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると帰農した。

石川重久【いしかわしげひさ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は若狭守。

石川重政【いしかわしげまさ(15??~15??)】

石川重久の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると佐竹義宣に仕えた。

池田盛国【いけだもくに(15??~15??)】

武藤氏義家臣。飽海郡朝日山城主。寄騎衆50騎を従え3,000町歩余りを領した。

池田盛周【いけだもりほ(15??~15??)】

池田盛国の男。官途は讃岐守。通称悪次郎。1582年、武藤義氏が家臣の謀反により自刃すると、最上義光に内応して武藤義興に抵抗した。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で最上義光勢に属して参陣した。武藤義勝を擁する本荘繁長勢に降伏し所領は安堵された。1590年、羽柴秀吉の検地に対する一揆が起こるとこれに寄騎したが敗れて鮭延秀綱のもとに落延びた。1600年、「朝日山城の戦い」では、継嗣の池田盛邦、弟池田忠内とともに籠城して志駄義秀と戦い敗れた。役後に志村光安に仕えて100石を領した。

池田盛邦【いけだもりくに(1590~1653)】

池田盛周の男。通称刑部左衛門。長尾景勝に仕えたが謀反を起こした。最上義光家に仕え、新田開発を積極的に行った。1600年、「朝日山城の戦い」では、長尾景勝勢の志田義秀と戦った。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、庄内に入部した酒井忠勝に仕え100石を領した。

池田忠内【いけだただない(15??~15??)】

池田盛周の次男。1600年、「朝日山城の戦い」では、兄池田盛邦とともに朝日山城に籠城して長尾景勝勢の志田義秀と戦った。

池田盛屋【いけだもりや(15??~15??)】

池田盛邦の男。1600年、「朝日山城の戦い」では、父池田盛邦とともに朝日山城に籠城して長尾景勝勢の志田義秀と戦った。

石川茂政【いしかわしげまさ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は丹後守。100石を領した。

石川政光【いしかわまさみつ(15??~15??)】

石川茂政の男。通称又兵衛。
 
石川茂利【いしかわしげとし(15??~1651)】

石川政光の男。官途は又兵衛。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕え大番頭を務めた。

石川茂甫【いしかわしげやす(15??~15??)】

石川茂利の男。
 
石川満倫【いしかわみつとし(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。通称刑部左衛門。石川村番代。1592年、楯岡満茂が湯沢城代となるとこれに属した。1601年、楯岡満茂が由利本庄に転封すると、これに従った。

石川満坑【いしかわみつこう(15??~15??)】

石川満倫の男。

石川満富【いしかわみつとみ(15??~15??)】

石川満倫の次男。佐竹義宣の鷹匠を務めた。
 
石川重久【いしかわしげひさ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は若狭守。

石川重政【いしかわしげまさ(15??~15??)】

石川重久の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると佐竹義宣に仕えた。

板垣兼富【いたがきかねとみ(1539~1564)】

武藤氏義家臣。飽海郡菅里城主。伊氏波神社別当職を務めた。1564年、「清水城の戦い」で武藤義増に従って参陣したが、清水義高勢と戦い討死した。

板垣河内守【いたがきかわちのかみ(15??~16??)】 

武藤氏義家臣。飽海郡宮田館主。1581年、「清水城の戦い」では、武藤義氏勢に属して参陣した。武藤義氏が家臣東禅寺義長の裏切りに遭い自刃すると、武藤義興を支援して最上義光勢と戦った。1584年、武藤義興が自刃すると、武藤義勝に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光勢に属して戦った。1622年、最上義俊が改易処分に処されると帰農した。

井上道朔【いのうえどうさく(15??~1659)】

楯岡満茂家臣。井上道圓から医術を学ぶ。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、陸奥国津軽に移り街医者となった。松前家臣蠣崎蔵人の治療にあたった。

井上玄秀【いのうえげんひで(15??~15??)】

井上道朔の男。医術を学び、家系は代々津軽家に仕えた。

井上綱知【いのうえつなとも(15??~1615)】

鮭延貞綱の次男。官途は将監。最上郡岩鼻館主。1581年、鮭延秀綱が最上義光勢に寝返ると、岩鼻館主に任じられ1,000石を領した。

井上義綱【いのうえよしつな(15??~15??)】

井上綱知の男。父井上綱知の病没により井上家の家督を相続した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、伯父鮭延秀綱に従い、古河城主土井利勝に仕えた。のちに土井利勝の推挙により、松平秀忠に仕えることになったが、直前に病没した。

井上牛之介【いのうえうしのすけ(15??~16??)】

下次右衛門家臣。1601年、「酒田城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。下次次右衛門とともに最上義光に使え1,000石を領した。

伊良子監物【いらごけんもつ(15??~15??)】

大山光隆家臣。通称貞之助。1,000石を領した。

伊良子道牛【いらごみちぎゅう(15??~15??)】

伊良子監物の男。長崎で西洋医学を学び外科医となった。

伊良子宗牛【いらごそうぎゅう(15??~15??)】

最上義光家臣。1578年、「柏木山の戦い」で伊達輝宗が上山満兼と結んで最上義光を攻撃すると、最上義光の意向を受け成沢城を守備した。最上義光は鉄砲隊で侵入した伊達輝宗勢を撃退した。

伊良子弾正【いらごだんじょう(15??~15??)】

最上義光家臣。門伝館主。娘がふたりおり、姉は高野蔵人、妹は長沢頼母に嫁いだ。1600年、「関ヶ原の役」では、門伝館主を務めた。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

伊良子信濃守【いらごしなののかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。1592年、「文禄の役」では、山形城留守居役を務めた。最上義光は滞陣していた肥前名護屋から、「命のうちにいま一度、最上の川地を踏み申したく候、水を一ぱい呑みたく候」と書いた書状を伊良子信濃守宛に出した。

伊良子長門守【いらごながとのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。山形城三の丸の十一口を守備して1,000石を領した。

伊良子大和守【いらごやまとのかみ(15??~1597)】

楯岡満茂家臣。小野寺義道との取次役を務めた。1595年、「湯沢城の戦い」で楯岡満茂が湯沢城を攻落とすと、関口城を守った。1597年、「大島原の戦い」で小野寺義道勢と戦って討死した。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

入間勝訓【いるまかつのり(15??~1584)】

寒河江高基家臣。村山郡入間館主。1584年、「寒河江城の戦い」で寒河江高基が最上義光勢の攻撃を受け御楯山に落延び寒河江高基とともに自刃した。

氏家定直【うじいえさだなお(1504~1570)】

最上義守家臣。官途は伊予守。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属した最上義守を補佐して戦功を挙げた。最上義守の意向を受け度々陣代を務めた。1570年、最上義守、最上義光の間に争いが起こると最上義光を支援して家中の調停を行い、和議を成立させ、最上義光への家督譲渡を実現した。

氏家守棟【うじいえもりむね(1534~1591)】

氏家定直の男。官途は尾張守。謀略の才があり、最上義守、最上義光らから厚く信任を受けた。天童頼貞や白鳥長久の討伐や延沢満延の内応工作なども担当した。1574年、最上義守と最上義光が不和になると、伊達輝宗の介入を招いたが、その取次役を務めた。1581年、「真室城の戦い」では、鮭延秀綱の家臣庭月広綱を内応させ、鮭延秀綱の戦意を喪失させた。1586年、「観音寺城の戦い」で戦功を挙げた。

氏家光棟【うじいえみつむね(15??~1588)】

氏家守棟の男。官途は尾張守。室は最上義光の娘(竹姫)。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で本庄繁長勢と戦い討死した。

氏家光氏【うじいえみつうじ(15??~15??)】

成沢道忠の男(氏家守棟の養子)。官途は尾張守。通称左近。別名成沢光氏。室は最上義光の三女(竹姫)。勇猛な人物。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で継嗣の氏家光棟が討死したため、氏家光棟の未亡人竹姫を内室に迎え家老職を務め、18,000石を領した。1584年、「八沼城の戦い」では、苦戦する最上義光勢の中にあって果敢に貴志美作守勢を撃退する戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、長谷堂城をめぐって越後長尾景勝勢と戦い撃退した。最上義光の病没も、国内の政務を担当しながら家中の混乱を制御した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、毛利輝元に仕えた。

氏家親定【うじいえちかさだ(1595~1538)】

成沢道忠の三男。官途は隠岐守。室は最上義光の娘(竹姫)。兄氏家尾張守が若くして病没したため、未亡人の竹姫を娶り氏家家の家督を相続した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、萩城主毛利輝元に預けられた。

氏家光房【うじいえあきふさ(15??~15??)】

氏家定直家臣。官途は相模守。平清水の大日堂に諸願成就を感謝して鉄鉢を寄進した。

内海乗政【うつみのりまさ(15??~15??)】

最上義光家臣。通称帯刀。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

内海乗元【うつみのりもと(15??~15??)】

内海乗政の男。

浦山源左衛門【うらやまげんざえもん(1575~1603)】

最上義康家臣。最上義康が父最上義光から高野山への退去を命ぜられると、高野山に同行した。その道中、何者かに鉄炮で狙撃され浦山源左衛門は討死、最上義康も負傷し、自刃した。

漆山九郎兵衛【うるしやまくろうひょうえ(15??~16??)】

最上義光家臣。剛の者。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝の家臣上泉泰綱に組みかかったが谷川に転げ落ちてしまい、金原七蔵が上泉泰綱を討取った。

浦山筑後守【うらやまちくごのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。最上義光の意向を受け三条河原で処刑される駒姫の最期を見届けるために上洛した。雑兵の手にかかる前に姫君の頸を打落とした。復命後、自刀を図るが最上義光に留めおかれた。

浦野孫右衛門【うらのまごえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。鉄炮衆のひとり。1584年、「寒河江城の戦い」で、寒河江高基の家臣柴橋頼綱を撃取るために、鉄炮衆20余りを率いた。退却した最上義光勢を追撃してきた、柴橋勘十郎を狙撃してこれを討取る戦功を挙げた。柴橋勘十郎の討死により寒河江高基は戦意を喪失した。

江口光清【えぐちみつきよ(15??~1600)】

最上義光家臣。通称五兵衛。連歌に長けた人物。里村派の連歌師たちは春の連歌会に際し、最上義光に発句を依頼した。そのまま連歌会に出席した文禄年間から最上義光の側近として京都での活動した。畑谷城8,000石を領した。1600年、「畑谷城の戦い」では、最上義光は山形城に兵力を集中させるため、畑谷城からの退却を命じたが江口光清は畑谷城に籠城した。直江兼続勢20,000余りの攻撃を受け、城兵300人とともに討死した。

江口時直【えぐちとみなお(15??~1600)】

江口光清の男。通称小吉。1600年、「畑谷城の戦い」では、父江口光清とともに畑谷城に籠城するも樋口兼続勢の攻撃を受け、江口光清や甥松田忠作とともに討死した。
 
江口将監【えぐちしょうげん(15??~16??)】

江口光清の次男。通称長三郎。

江口次郎左衛門【えぐちじろうざえもん(15??~16??)】

江口将監の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に仕えた。

江口源右衛門【えぐちげんえもん(15??~16??)】

江口光清の三男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、継嗣の江口源助とともに酒井忠勝に仕えた。

江口長三郎【えぐちちょうさぶろう(1598~16??)】

江口光清の四男。1600年、「畑谷城の戦い」で父江口光清が討死したため、稲葉因嶽と乳母に守られて畑谷城から落延び、乳母に匿われて養育された。後に酒井忠勝に仕えた。

大風右衛門【おおかぜうえもん(15??~16??)】

最上義光家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」では、援軍として派遣され、樋口兼続勢の包囲を破って入城した。横尾勘解由らとともに、樋口兼続勢に夜襲をかけ、春日元忠の陣を大混乱に陥れる戦功を挙げた。

大久保主馬【おおくぼしゅめい(15??~15??)】

最上義光家臣。宝鏡寺館主。宝鏡寺300石を領した。

太田左仲【おおたさなか(15??~15??)】

村山郡井出館主。1520年、太田左仲は菩提寺を創建した。井出館の城下街、最上川舟運の河湊を整備して善政を敷いた。

太田外記【おおたげき(15??~1585)】

太田左仲の男。1585年、「井出館の戦い」で最上義光勢の攻撃を受け落城、討死した。

大谷元秀【おおたにもとひで(15??~15??)】

寒河江義広家臣。村山郡真木山城主。通称彦次郎。1584年、「寒河江城の戦い」で寒河江高基が最上義光が滅ぼされると最上義光に降伏せず、平塩池之坊に落延びた。

大堀河内守【おおほりかわちのかみ(15??~15??)】

延沢満延家臣。村山郡二藤袋館主。二藤袋館2,000石を領した。

大沼八兵衛【おおぬまやひょうえ(15??~15??)】

最上義光家臣。馬廻衆。1600年、「谷地城の戦い」に参陣した。

大山満因【おおやまみつたね(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は筑前守。室は楯岡満茂の姉(南昌院)。1600年、「長谷堂城の戦い」では、楯岡満茂とともに増田城を守備した。

大山光因【おおやまあきたね(15??~15??)】

大山満因の男。官途は筑前守。室は楯岡満茂の娘(香林院)。最上義光の六男大山光隆を養子に迎えた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、楯岡満茂とともに酒井忠勝に預けられた。

大山光隆【おおやまみつたか(15??~1623)】

最上義光の六男(大山光因の養子)。官途は筑前守。1600年、「関ヶ原の役」後、父最上義光が山形城570,000石を領すると、大山城主に任じられ21,000石を領した。1514年、兄最上家親が最上惣領家の家督を相続すると、27,000石に加増された。1617年、「最上騒動」では、兄山野辺義忠にも甥最上義俊にも属さず中立を維持した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に預けられた。

大山隆房【おおやまたかふさ(15??~15??)】

大山光因の男。通称右京之進。大山光隆に仕えた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に預けられた。

岡野孝以【おかのたかもち(15??~1659)】

鮭延秀綱家臣。官途は主馬。通称九郎左衛門。室は鮭延秀綱の娘。家老職として400石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、鮭延秀綱に従い土井利勝に仕えた。

荻袋甲斐守【おぎぶくろかいのかみ(15??~1588)】

寒河江兼広家臣。村山郡荻袋城主。1588年、「長崎城の戦い」で中山朝正が本庄繁長勢が攻撃を受けると、援軍として派遣されたが討死した。

荻袋広信【おぎぶくろひろのぶ(15??~15??)】

荻袋甲斐守の男。

小国因幡守【おぐにいなばのかみ(15??~15??)】

武藤晴時家臣。小国城主。小国城500石を領した。

小国光忠【おぐにみつただ(15??~1631)】

最上義光家臣。倉津守俊の男。官途は日向守。別名倉増光基。室は最上義守の娘。小国城8,000石を領した。鉄炮に関心を持ち、鉄炮鍛冶を呼び寄せ「日向筒」という鉄炮を製造したほか、三間鑓である「日向鑓」を導入するなど、非常に才能豊かな人物であった。また、領内の産業振興にも努め、優れた民政家でもあった。

小国親元【おぐにちかもと(15??~15??)】

倉津守俊の次男。別名西監物。室は日野薩摩守の娘。500石を領した。兄小国光忠の館の西側に住んでいたことから、西殿と称した。

小国元俊【おぐにもととし(15??~1637)】

小国親元の男。別名西監物。室は高井親重の娘。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、岳父小国親重と弟二人らとともに羽後国仙北郡刈和野村に蟄居した。その後、佐竹義宣に仕えた。

小国親景【おぐにちかかげ(15??~1624)】

小国光忠の男。官途は大膳亮。倉津城主を務めた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、谷地森伯耆守、川熊壱岐守らとともに長谷堂城に籠城した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、父小国光忠、継嗣の小国源三郎とともに鍋島勝茂に預けられた。

小国摂津守【おぐにせっつのかみ(15??~15??)】

小国光忠家臣。最上義光に仕えて4,000石を領した。

奥村常陸介【おくむらひたちのすけ(15??~16??)】

最上義光家臣。4,000石を領した。1603年、最上義康を謀殺した土居半左衛門を討取るため、小国日向守ら馬廻衆36騎衆とともに討手として派遣された。

小栗正吉【おぐりまさよし(15??~16??)】

最上義光家臣。通称頼母介。鳥屋ヶ森城2,500石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、府中松平忠長に仕えた。

落合伯耆守【おちあいほうきのかみ(15??~15??)】

延沢満延家臣。置賜郡落合館主。1572年、最上義光に降伏した。山形城北面を守備した。熊野神社を厚く信奉した。

小野丹波守【おのたんばのかみ(15??~15??)】

矢口能登守家臣。最上郡小倉館主。

小野寺道元【おのでらみちもと(1560~1632)】

最上義光家臣。官途は刑部。北条氏康、武田勝頼、真田昌幸、長尾景勝らを渡り歩き、数々の戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、最上義光に仕え鉄炮奉行を務めた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、府中松平忠長に仕えた。

小野又右衛門【おのまたざえもん(1584~16??)】

志村光安家臣。1600年、「酒田城の戦い」に参陣して、頸一級を挙げた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に仕えて260石を領した。

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【か】

糟谷延元【かすやのぶもと(15??~15??)】

延沢満延家臣。官途は出雲守。

加藤清次【かとうきよつぐ(15??~1600)】

最上義光家臣。悪戸楯主。最上義姫の警護役を務めた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、江口光清が畑谷城で討死したことに憤激し樋口兼続勢と戦ったが、長谷堂城の北方で討死した。

加藤源右衛門【かとうげんえもん(15??~1601)】

最上義光家臣。1601年、「酒田城の戦い」では、里見義近とともに軍奉行に任じられた。酒田城を攻めた際、守りが堅く攻めあぐねていたため、諸将に先駆けて塀を乗り越えようとしたところを、鉄炮vで眉間を打ち抜かれ戦死した。

金野右馬充【かねのさうまじょう(15??~15??)】

武藤氏義家臣。金野右馬充の男。武勇に優れていた。1588年、最上義光勢に属して本庄繁長と戦うが敗れ浪人となった。1590年、「藤島城の戦い」では、羽柴秀吉勢による検地に反対して一揆を先導した。長尾景勝勢の攻撃を受け佐渡国に落延びた。

上山義房【かみのやまよしふさ(15??~1520)】

最上義定家臣。村山郡上山城主。別名最上義房。1514年、最上義定が、伊達稙宗に敗北し伊達稙宗の傘下となると、山上義房は伊達稙宗に対して叛旗をひるがえした。伊達稙宗勢に上山義房は惨敗し、山上義房はわずかな家臣と落延び天童城に潜伏した。伊達稙宗は最上義定に養子を出して完全な傀儡にしようとした。1520年、山上義房は再び挙兵して、寒河江兼広、天童頼長らとともに伊達稙宗と戦うが討死した。

上山義忠【かみやまよしただ(15??~15??)】

上山義房の男。別名武衛義忠、武永義忠。1528年、「高楯城の戦い」で城主小梁川貞伴を追い落とし高楯城を居城とした。1535年、上山城を築城して本城を移した。

上山満兼【かみのやまみつかね(15??~1580)】

上山義節の男。室は中野義清の娘。伊達晴宗と結び領内の安定化を図った。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守勢の伊達晴宗勢が領内通過を黙認したため、最上義光と対立した。1578年、上山満兼は伊達輝宗、天童頼貞と結び最上義光勢を攻撃した。1580年、最上義光の家臣氏家守棟、谷柏直家らの調略を受けた上山満兼の家臣里見義近、里見民部らが最上義光に内応、里見民部は里見内蔵助を謀殺した。上山満兼は最上義光の攻撃を受け里見民部が内部から攻撃して山上満兼は討死した。

上山義直【かみのやまよしなお(1594~1622)】

最上義光の五男。官途は兵部大夫。別名最上光広。上山城主里見民部、里見正光ら里見家枝連衆が最上義康殺害の事件で追放されると、上山城21,000石を領した。最上家枝連衆では兄山野辺義忠を抜き、兄清水義親、弟大山光隆、従兄松根光広に次ぐ石高だった。1622年、最上義俊の改易後、黒田忠之にお預けの身となったが、まもなく自刃した。

木戸周防守【きどすおうのかみ(15??~1614)】

清水義氏家臣。清水義氏は八向館主合海志摩守を討取り、木戸周防守を館主に任じた。清水家筆頭家老職を務め1,000石を領した。

貴志義忠【きしよしただ(15??~15??)】

村山郡鳥屋森城主。官途は美作守。室は出羽吉川政時の娘。別名岸美作守。1565年、和合秋広が八ツ沼城主原忠重と鳥屋ヶ森城主貴志義忠が謀反を企ていると最上義光に讒言した。「五百川の戦い」では、最上義光勢5,000余りと戦い八ツ沼城、鳥屋ヶ森城び両城が落城した。貴志義忠は助命された。

北楯利長【きただてとしなが(1548~1625)】

最上義光家臣。通称大学。1601年、田川郡狩川城3,000石を領した。1612年、庄内三郡(田川郡、櫛引郡、遊佐郡)を支配する最上義光の命で、田川郡の水不足を解消するために新堰の開削に着手した。最上義光の家臣団からは反対意見が出たが、新関久正の賛成により工事を開始、約半年で全長34キロにも及ぶ堰が完成すると30,000石の新田が開かれた。1622年、最上義康の改易により、新たに庄内領主となった酒井忠勝が北楯利長を召抱えようとしたが固辞した。その功績を讃えられ、北楯神社に祀られ、この堰は北楯利長の名を取って北楯大堰と称された。

北楯正久【きただてまさひさ(15??~15??)】

北楯利長の男。通称助次郎。1622年、最上義俊の改易処分に処されると、酒井忠勝に仕えて300石を領した。。

出羽吉川政周【きっかわまさちか(14??~1514)】

村山郡吉川城主。左沢政勝の三男(吉川満教の養子)。官途は兵部少輔。1514年、「長谷堂城の戦い」では、楯岡満英、長瀞左衛門、山辺刑部らとともに伊達稙宗勢を迎え撃ったが最上義定の参陣が遅れたため、大敗を喫し1,000余りとともに討死し長谷堂城も落城した。

出羽吉川広政【きっかわひろまさ(15??~15??)】

吉川政周の男。通称少輔彦太郎。

出羽吉川政時【きっかわまさとき(15??~15??)】

吉川広政の男。官途は民部少輔。

出羽吉川元綱【きっかわもとつな(15??~15??)】

吉川政時の男。

出羽吉川隆広【きっかわたかひろ(15??~1584)】

吉川元綱の次男。1584年、最上氏義光に柴橋頼綱が討取られると寒河江城も落城、吉川隆広は寒河江高基とともに貫見城に落延びるがそこで自刃した。

出羽吉川良光【きっかわよしみつ(15??~15??)】

吉川隆広の男。

来次時秀【きつぎときひで(1543~15??)】

飽海郡観音寺城主。観音寺城2,500石を領した。庄内地方は武藤義氏、来次時秀、土佐林禅棟、砂越義氏が勢力を拡大したが、武藤義氏が勢力を伸ばすとそれに属した。1568年、最上義光や本荘繁長の勢力拡大などに悩まされた武藤義興からの攻撃を受けた。

来次氏秀【きつぎうじひで(15??~16??)】

来次時秀の男。官途は出雲守。由利郡の諸豪族や安東愛季への使者に立った。1579年、武藤義氏に対して謀叛を起したが鎮圧された。1582年、武藤義氏が、最上義光勢の攻撃を受けると、鮭延秀綱からの意向を受け中立を維持した。1583年、東禅寺義長と結んで武藤義氏を自刃に追い込んだ。1587年、最上義光が武藤義氏の跡を継いだ武藤義興を討取った。1588年、「十五里ヶ原の戦い」では、本庄繁長、武藤義勝勢に属して最上義光勢と戦ったが敗れた。1589年、「小田原の役」では、長尾景勝勢に属して参陣した。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が敗れ、長尾景勝が米沢城300,000石に減封されると、来次氏秀もそれに従った。

木戸周防守【きどすおうのかみ(15??~1614)】

清水義氏家臣。八向館主。筆頭家老職を務め1,000石を領した。

金原七蔵【きんばらしちぞう(1585~15??)】

里見民部家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」で里見民部は、金原七蔵に戦功を挙げさせるため、剛力の足軽衆を従わせた。漆山九郎兵衛が長尾景勝の家臣上泉泰綱と組み戦っているところに飛びかかり上泉泰綱の頸級を上げた。

草刈虎之助【くさかりとらのすけ(15??~1588)】

天童頼貞家臣。中山朝正らとともに庄内地方に派遣された。1588年、「十五里ヶ原の戦い」では、本庄繁長勢を撃破ち、東禅寺義長が討死後も最後まで奮戦した。最上義光勢がことごとく討たれると、自刃した。

草刈虎正【くさかりとらまさ(15??~1600)】

草刈虎之助の男。官途は志摩守。最上義光に仕えた。1600年、「上山城の戦い」では、上山城に援軍に赴き直江兼続勢と戦った。「物見山の戦い」では、上山城将里見民部とともに直江兼続勢の本村親盛を討取る戦功を挙げた。「広河原の戦い」で敗走する直江兼続勢を追撃するが反撃を受け討死した。

草刈将監【くさかりしょうげん(15??~15??)】

天童頼貞家臣。猪ノ沢館主。官途は備前守。天童頼貞に仕えるが最上義光に敗れ、流浪の後に武藤義興に仕えた。最上義光に内応して武藤義興らの情報を伝えた。武藤義興の討死後は、最上義光に仕えた。

草刈重右衛門【くさかりしげえもん(15??~16??)】

楯岡満茂家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

草刈専右衛門【くさかりせんえもん(15??~15??)】

草刈重右衛門の弟。

草刈忠左衛門【くさかりちゅうざえもん(15??~16??)】

草刈重右衛門の男。

沓沢忠久【くつさわただひさ(15??~15??)】

最上郡差首鍋城主。官途は但馬守。最上義定の支援を受けた。

沓沢忠国【くつさわただくに(15??~15??)】

沓沢忠久の男。官途は掃部介。1581年、鮭延秀綱勢に属して最上義光の攻撃を受けて衰亡した。

沓沢忠家【くつさわただいえ(15??~16??)】

沓沢忠国の男。官途は兵庫介。1581年、「差首鍋城の戦い」では、最上義光が鮭延秀綱を攻撃すると、差首鍋城を攻撃して鮭延秀綱を支援した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、庄内で帰農した。

沓沢玄蕃【くつさわげんば(15??~15??)】

沓沢忠国家臣。最上郡野崎館主。1581年、沓沢忠国が、最上義光勢の攻撃を受け滅亡すると、沓沢忠家が家督を相続しようとするが、幼少のため沓沢玄蕃が差首鍋城主を務めた。

熊沢主税介【くまざわちからのすけ(15??~15??)】

最上義光家臣。1584年、「谷地城の戦い」では、50余りの槍衆を率て参陣した。

蔵増光忠【くらますひつただ(15??~15??)】

天童頼澄家臣。田川郡蔵増城主。官途は安房守。別名倉津守俊。最上義光勢に内応した。1581年、「万騎ヶ原の戦い」では、最上義光に従って参陣して細川直元勢と戦い戦功を挙げ小国城を領した。1584年、「天童城の戦い」で天童城が落城すると天童頼澄は陸奥に落延びた。

蔵増光基【くらますみつもと(15??~1631)】

蔵増光忠の男。官途は日向守。別名小国光基。民政家で、石高8,000石だった小国領を産業を奨励して16,000石まで高めた。また、鉄炮に関心を持ち、鉄炮鍛冶を呼び寄せ「日向筒」という鉄炮を製造した、三間鑓である「日向鑓」を導入するなど、非常に才能豊かな人物であった。1596年、小野寺義道が楯岡満茂が籠城する湯沢城を攻めた際、救援に赴いた。1622年、最上義俊の改易後は鍋島勝茂に預けられた。

蔵増親景【くらますちかかげ(15??~1624)】

蔵増光基の次男。官途は大膳亮。別名小国大膳。1600年「関ヶ原の役」では、谷地森伯耆守、川熊壱岐守らと共に長谷堂城に援軍として入った。1622年、最上義俊の改易により、父蔵増光基、嫡男蔵増源三郎とともに鍋島勝茂に預けられた。

蔵増親元【くらますちかもと(15??~15??)】

蔵増光忠の次男。別名小国親元。室は日野薩摩守。兄蔵増光基の館の西側に住み500石を領した。西殿と呼ばれ、西監物を称した。

蔵増元俊【きらますもととし(15??~1637)】

蔵増親元の男。通称兵右衛門。別名小国元俊。室は高井親重の娘。父蔵増親元と同じく西監物を称した。1622年、最上義俊の改易後、義父高井親重と弟二人らと共に仙北郡刈和野村に蟄居した。その後、佐竹義宣に仕えたが、佐竹家には東西南北の御一門四家があったことから、西野と称した。

小泉讃岐守【こいずみさぬきのかみ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。家老衆を務め3,000石を領した。1601年、「酒田城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。

高坂中務【こうさかなかむ(15??~1586)】

武藤義氏家臣。田川郡高坂館主。武藤義氏と対立し、武藤義氏を自刃に追い込む。その後、高坂玄蕃頭に家督を譲った。

高坂玄蕃頭【こうさかげんばのかみ(15??~15??)】

高坂中務の男。長尾景虎、最上義光と仕え所領を守った。1585年、「高坂城の戦い」で長尾景勝勢の攻撃を受け落城した。

郡山彌五左衛門【こうりやまよござえもん(15??~16??)】

楯岡光直家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に仕え100石を領した。酒井忠勝の江戸屋敷でて狼藉者を討取る戦功を挙げた。

牛房野三七【ごぼうのさんしち(15??~15??)】

村山郡午房野館主。午房野館2,000石を領した。1581年、「小国城の戦い」では、最上義光の先導役を務め、細川直元勢を攻撃した。

小松原盛定【こまつばらもりさだ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は右馬丞。
 
小松原盛種【こまつばらもりたね(1599~1664)】

小松原盛定の男。通称源四郎。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕え三人扶持銀90目を給された。

小柳重保【こやなぎしげやす(15??~1584)】

最上義光家臣。通称外記。1581年、最上義光の仙北攻めで先手を務め、戦功により薄井村など七ヶ村を領した。1584年、小野寺義道との戦いで討死、四歳のひとり娘が残された。最上義光は、楯岡満茂に娘を養育するよう命じ、後に秋保主馬の弟秋保重治が娘を娶り、小柳家の婿養子になった。
 
小柳重治【こやなぎしげはる(15??~1659)】

秋保主馬の弟(小柳重保の養子)。通称左馬之助。室は小柳重保の娘。小柳家の家督を相続した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、浪人となり本庄に居住した。

小柳治重【こやなぎはるしげ(15??~16??)】

小柳重治の男。佐竹義宣に仕えた。  

近藤壱岐守【こんどういきのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。山形城三の丸小田口を守備して2,500石を領した。小田口には重要とされる煙硝庫があった。

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【さ】

斎藤光則【さいとうみつのり(15??~16??)】

楯岡光直家臣。官途は伊予守。村山郡谷地城代として4,000石を領した。1606年、民政、治水事業において優れた手腕を発揮し、新田開発や最上川の水運開発に優れた功績を残した。1606年、最上川の難所における開削の奉行として大いに手腕を発揮し、最上川の水運を最上家領内における流通を改革した。1611年、里見民部、正光親子、原八右衛門、下吉忠らが最上家親を擁立して実権を握るため、最上義康を謀殺する事件が起きた。斎藤光則は、最上義光に謀殺に関わる陰謀事件の調査を命じられた。最上義光の弟最上光直が楯岡城主になると、その附家老として高櫤城で5,500石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると所領を失った。

斎藤伯耆守【さいとうほうきのかみ(15??~15??)】

白鳥長久の弟。1584年、白鳥長久が最上義光に討取られると、山野辺光茂に仕え、城代家老職を務めた。

斎藤忠頼【さいとうただより(15??~16??)】

白鳥長久の孫(斎藤伯耆守の養子)。養父斎藤伯耆守の家督を相続して城代家老職を務めた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、山野辺光茂に従い、のちに水戸松平頼房に仕えた。

寒河江宗広【さがえむねひろ(15??~15??)】

村山郡寒河江城主。1514年、「長谷堂城の戦い」では、最上義定勢に属して伊達稙宗勢と戦ったが吉川政周ら1,000余が討死する敗北を喫した。

寒河江広種【さがえひろたね(1501~1546)】

寒河江宗広の五男。官途は兵部大輔。室は楯岡義輔の娘。1520年、最上義定に従って伊達稙宗勢と戦うが、伊達稙宗勢の攻撃を受けると降伏した。1524年、継嗣だった弟寒河江孝広の病没により、還俗して寒河江家の家督を相続した。

寒河江孝広【さがえたかひろ(1502~1527)】

寒河江宗広の六男。室は館岡義輔の娘。

寒河江兼広【さがえかねひろ(15??~15??)】

寒河江広種の男。室は吉川政時の娘。1560年、最上義守勢の攻撃を受けたが撃退した。継嗣をもうけることができず、最上義光と最上義康を婿にして寒河江家の家督を継がせる約束があったが、これを反故にして寒河江高基を婿養子に迎えた。

寒河江高基【さがえたかもと(15??~1584)】

吉川基綱の男(寒河江兼広の養子)。室は寒河江兼広の娘。婿養子に迎えられ、寒河江家の家督を相続したが、最上義光や家臣の左沢氏政、溝延氏勝らの反発を招いた。1583年、武藤義氏から援軍を求められたが、支援が間に合わず武藤義氏が討死した。1584年、「中野原の戦い」では、寒河江勘十郎、柴橋頼綱らが最上義光勢と戦ったが敗れ寒河江勘十郎が討死した。貫見に落延びたが最上義光勢の追撃を受け自刀した。

寒河江勘十郎が【さがえあきとし(15??~15??)】

寒河江高基家臣。1584年、「中野原の戦い」では、寒河江高基に従って最上義光勢と戦った敗れて討死した。

寒河江光俊【さがえみつとし(15??~15??)】

寒河江高基家臣。官途は外記。1584年、「中野原の戦い」で寒河江高基が敗北すると、最上義光に降伏して寒河江城主に任じられた。1588年、本庄繁長の侵攻を不当であると羽柴秀吉に訴えたが、訴えは退けられた。1589年、最上義光の意向を受け松平元康に鷹三羽を贈った。1591年、「仙北一揆」が起ると、鮭延秀綱らとともにこれを鎮圧した。

寒河江広俊【さがえひろとし(15??~1614)】

寒河江高基家臣。寒河江広秋の男。官途は肥前守。1584年、「中野原の戦い」で寒河江高基が討死すると、最上義光に降伏して山野辺城27,000石を領した。1614年、最上義光が病没すると殉死した。

寒河江元茂【さがえもとしげ(1560~1614)】

最上義光家臣。通称十兵衛。1584年、父寒河江広俊とともに最上義光に降伏して1,500石を領した。最上義光の近習と争いごとを起こしたが、自刀は免れた。1592年、「文禄の役」に参陣して赦免された。1614年、最上義光が病没すると、寒河江広俊、山家河内守、長岡但馬守らとともに殉死した。

寒河江俊長【さがえとしなが(15??~15??)】

寒河江広俊の次男。通称新次郎。父寒河江広俊と兄寒河江元茂が最上義光に従って殉死したため、寒河江家の家督を相続した。

寒河江俊重【さがえとししげ(15??~16??)】

寒河江俊長の男。通称惣右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、福井松平忠直に仕えた。

寒河江親俊【さがえちかとし(15??~15??)】

寒河江広秋の次男。官途は監物。

寒河江信安【さがえのぶやす(15??~15??)】

寒河江親俊の男。通称甚右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、黒田長政に仕えた。1637年、「島原の乱」で戦功を挙げた。福井松平忠直に仕えて600石を領した。

寒河江親清【さがえちかきよ(1588~1642)】

草苅薩摩守の次男(寒河江元茂の養子)。通称織部。室は寒河江元茂の娘。鶴ヶ岡城の詰番を務めた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、蒲生忠郷、加藤嘉明らに仕えた。

坂光秀【さかあきひで(15??~1616)】

最上義光家臣。官途は紀伊守。室は志村光安の娘。1600年「関ヶ原の役」では長谷堂城をめぐって直江兼続と戦い長谷堂城を守り切った。役後は酒田東禅寺城主となった志村光安に代わって長谷堂城13,000石を領した。最上義光の側近として、松平元康や公家などへの使者をたびたび務めた。1622年、最上義俊の家改易の後、跡を継いだ坂光重はまもなく帰農した。

坂備前守【さかびぜんのかみ(15??~1616)】

坂光秀の弟。狸森楯主。

坂光重【さかあきしげ(1576~1663)】

坂備前守の男(坂光秀の養子)。別名坂重内。1616年、坂光秀が病没すると、坂家の家督と相続して長谷堂城主に任じられた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、帰農した。

坂光吉【さかあきよし(1595~1680)】

坂光重の男。通称九郎右衛門。父坂光重とは別に140石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、長谷堂に居住した。1637年、父坂光重とともに置賜郡荒砥に移住した。

坂茂左衛門【さかしげざえもん(15??~15??)】

志村光安家臣。1600年「関ヶ原の役」では志村光安に属して亀ヶ崎城を攻撃した。1622年、最上義俊の改易後、酒井忠勝に仕えて150石を領した。

坂本忠重【さかもとただしげ(15??~16??)】

楯岡満茂家臣。通称三右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、秋田に移った。

坂本忠郷【さかもとたださと(15??~16??)】

坂本忠重の男。佐竹義宣に仕えた。

鮭延貞綱【さけのべさだつな(1516~1568)】

小野寺景道家臣。最上郡鮭延城主。別名佐々木貞綱。武藤晴時や最上義定と領有を争っていた最上地方全域の領有を図るため、小野寺景道から岩花城主に任じられた。1563年、「岩花城の戦い」で最上義定勢の攻撃を受け落城した。

鮭延秀綱【さけのべさだつな(1562~1646)】

鮭延貞綱の次男。官途は越前守。通称典膳。人質として武藤義増のもとに送られた。1581年、「鮭延城の戦い」では、最上義光の家臣氏家守棟勢の攻撃を受け落城した。敗北後、最上義光に仕え来次氏秀など庄内の豪族に調略を行った。1590年、湯沢城代に任じられた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、樋口兼続勢の攻撃を受けると城主志村光安、清水義親、楯岡光直らとともにこれを撃退した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると土井利勝に預けられた。

鮭延左衛門尉【さけのべさえもんのじょう(1586~1612)】

鮭延秀綱の男。通称左右衛門。1600年、「長谷堂城の戦い」で樋口兼続勢と戦い戦功を挙げた。1612年、鮭延家の家督を継ぐことなく病没した。

砂越氏雄【さごしうじたか(15??~1513)】

飽海郡砂越城主。砂越氏益の男。武藤澄氏家臣。官途は信濃守。上洛して足利義尚から信濃守の官途を受け飽海郡内で30,000石を領した。1512年、武藤澄氏と戦い勝利を上げたが1,000余りの損害を受けた。1513年、「大宝寺城の戦い」で武藤澄氏勢を攻撃したが、反撃を受け討死した。

砂越氏維【さごしうじふさ(15??~1513)】

武藤政氏の男。1518年、武藤澄氏の意向を受け砂越家の家督を相続した。1531年、「藤島城の戦い」で土佐林禅棟が滅亡すると、庄内北部を掌握する勢力に成長した。1532年、「鶴ヶ岡城の戦い」では、武藤晴時を尾浦城に追い落とした。武藤晴時と和議を結び臣従した。

砂越二郎【さごしじろう(15??~15??)】

砂越氏維の男。1588年、「十五里ヶ原の戦い」では、最上義光勢の属したが本庄繁長勢に敗れ、砂越宗恂の娘の嫁ぎ先である安東愛季のもとに落延びた。

砂越宗恂【さごしそうじゅん(15??~15??)】

砂越氏維家臣。安東愛季との取次役を務め、娘は安東愛季に嫁いだ。

左近宗倶【さこんむねとも(15??~15??)】

鮎貝盛宗の三男。

佐々木文右衛門【ささきぶんざえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると秋田城下に移り、平元隼人の屋敷にて暮らした。

佐々木正名【ささきまさな(15??~15??)】

佐々木文右衛門の男。佐竹義宣に仕えた。

笹原昌良【ささはらまさよし(15??~15??)】

延沢満延家臣。官途は石見守。別名篠原石見守。有路但馬守とともに延沢満延の家老職を務めた。「能登内に有路笹原なかりせば最上義光にくびを延沢」という狂歌を残した。

佐竹與三左衛門【さたけきょうさんざえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。室は進藤勘解由左衛門の娘。1,000石を領した。隠居料として200石を領した。

佐竹正勝【さたけまさかつ(15??~1636)】

佐竹與三左衛門の次男。通称太郎左衛門。別名進藤正勝。父佐竹與三左衛門の隠居領200石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、津軽信枚に100石で仕えた。

佐竹正吉【さたけまさよし(15??~1653)】

斎藤正行の次男(佐竹正勝の養子)。通称甚右衛門。室は佐竹正勝の娘。

佐藤次郎右衛門【さとうじろうえもん(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。

佐藤茂頼【さとうしげより(15??~16??)】

延沢満延家臣。佐藤次郎右衛門の男。通称勘七郎。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

佐藤茂貞【さとうしげさだ(15??~16??)】

佐藤茂頼の男。
 
佐藤景正【さとうかげまさ(15??~15??)】

佐藤次郎右衛門の次男。通称勘三郎。1622年、最上義俊が改易処分に処されると佐竹義宣言に仕えた。

佐藤景光【さとうかげみつ(15??~15??)】

佐藤景正の男。

佐藤信基【さとうのぶもと(15??~1581)】

鮭延秀綱家臣。最上郡野崎館主。官途は大和守。1581年、「鮭延城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受けると鮭延秀綱に従って弟佐藤信包、継嗣佐藤信稚、佐藤信秀、佐藤義次、履沢忠国とともに応戦したが敗れて館に火を放ち自刃した。

佐藤信雅【さとうのぶまさ(15??~1581)】

佐藤信基の男。官途は右京。1581年、「鮭延城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受けると父佐藤信基に従って参陣したが討死した。

佐藤信秀【さとうのぶひで(15??~15??)】

佐藤信基の次男。官途は美濃守。

佐藤義次【さとうよしつぐ(15??~15??)】

佐藤信基の三男。官途は備中守。

佐藤信包【さとうのぶかね(15??~1581)】

佐藤信基の弟。官途は下野守。1581年、「鮭延城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受けると兄佐藤信基に従って参陣したが討死した。

佐藤憲茂【さとうのりしげ(15??~1600)】

最上義光家臣。樋幡城主。官途は豊後守。通称理兵衛。1600年、「長谷堂城の戦い」で討死した。

里村理兵衛【さとむらりへい(15??~15??)】

東根頼景家臣。

里村利兵衛【さとむらりへい(15??~15??)】

里村理兵衛の男。

里見義近【さとみよしちか(15??~1614)】

上山満兼家臣。官途は越後守。1574年、「天正最上の乱」では、上山満兼とともに最上義光勢に属した。最上義守勢の伊達輝宗の家臣小梁川盛宗の攻撃を受けた。1578年、最上義光に内応して次男の里見民部とともに上山満兼と継嗣の見内蔵助を謀殺した。この戦功により上山城21,000石を領した。1600年、「長谷堂城の戦い」では、山形城で軍奉行職を務めた。最上義康の廃嫡事件に関わり、最上義光のもとを退去した。

里見内蔵助【さとみくらのすけ(15??~15??)】

里見義近の男。1578年、最上義光に内応した父里見越後守と弟里見民部に上山満兼とともに謀殺された。

里見民部【さとみみんぶ(15??~1614)】

里見義近の次男。官途は民部少輔。1578年、父里見義近とともに最上義光に内応して上山満兼と兄里見内蔵助を謀殺した。1600年、「長谷堂城の戦い」では、上山城を守備し、直江兼続勢の上泉泰綱を討取った。その後、下吉忠らとともに最上家親擁立を画策した。1603年、最上義康を謀殺したため、最上義光から怒りを買い、加賀国に落延びたが盗賊に襲われ継嗣の里見正光とともに討死した。

里見正光【さとみまさみつ(15??~1614)】

里見民部の男。官途は越後守。最上義康謀殺に関わり、最上義光のもとから出奔した。前田利長のもとの落延びたが、最上義光に引き渡される途中、盗賊に襲われ父里見民部とともに討死した。

里見主水【さとみもんど(15??~15??)】

里見越後守の次男。1600年、「長谷堂城の戦い」では、樋口兼続勢を兄里見民部らとともに奇襲し撃退した。

里見市正【さとみいちのかみ(15??~15??)】

里見正光家臣。2,300石を領した。

里見義親【さとみよしちか(15??~15??)】

最上義光家臣。官途は掃部。最上義光、最上家親の二代に仕え1,000石を領した。

里見親宗【さとみちかむね(1594~1678)】

里見義親の男。通称四郎左衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、黒田長政に仕えた。水戸松平頼房に300石で仕えた。

坂弥兵衛【さかやひょうえ(15??~15??)】

里見民部家臣。1,500石を領した。1600年、「物見山の戦い」で長尾景勝の家臣本村親盛を討取る戦功を挙げた。上山城を攻撃していた長尾景勝勢は壊滅した。

猿羽根義舜【さるはねよしきよ(15??~1589)】

最上郡猿羽根館主。猿羽根義舜は最上義光勢の攻撃を受け降伏した。1589年、謀反の嫌疑を受け長瀞で自刃した。

信太市之進【しだいちのしん(15??~15??)】

鮭延秀綱家臣。蔵岡薬師館主。1581年、鮭延秀綱が最上義光勢に寝返ると、それに従い蔵岡薬師館を守備した。

柴橋頼綱【しばはしよりつな(15??~1584)】

寒河江兼広家臣。村山郡柴橋城主。出羽吉川元綱の三男。別名橋間勘十郎。寒河江兼広の執政となり、寒河江兼広病没後男子がなかったことから、兄寒河江高基に寒河江兼広の娘に合わせ、寒河江家の家督を相続させた。寒河江兼広と最上義光の間には、最上義康を婿として寒河江家を継がせる約束があったことから、両家の間には確執が起こった。1584年、「谷地城の戦い」では、白鳥長久を謀殺して最上氏義光が谷地城を攻撃した。寒河江高基も柴橋頼綱勢を援軍として送っが、白鳥長国が守備する谷地城は落城した。最上義光が寒河江城に押し寄せると、柴橋頼綱勢は後方の中野城を攻撃した。最上義光は策を巡らせ、偽りの退却と鉄炮隊の伏兵によって柴橋頼綱は討取られた。

篠田市之進【しのはらいちのしん(15??~1600)】

最上郡薬師館主。鮭延貞綱家臣。1563年、武藤義氏に敗れたさい真室城に移った。1563年、鮭延義光の攻撃を受けて降伏すると、最上義光の属城となり、最上川の水運を監視する城になった。1600年、「長谷堂城の戦い」に参陣して討死した。

清水義高【しみずよしうじ(?~1565)】

最上郡清水城主。最上川舟運の拠点清水を支配し、内陸進出を狙う武藤義増から度々攻められた。1563年、武藤義増が最上郡に侵攻、鮭延貞綱を降すと、清水義高勢の諸城を攻略した。1565年、「本合海の戦い」で、武藤義増勢の攻撃を受け討死した。

清水義氏【しみずよしうじ(1547~1586)】

清水義高の男。通称孫三郎。1565年、父清水義高が武藤義増に敗れ、討死したことにより清水家の家督を相続した。清水義氏には嫡子がなく、娘(清水姫)が婿養子を迎えるはずであったが、最上義光の三男清水義親を養子として迎え入ることとなった。清水義氏の娘(清水姫)は内室と死別していた最上義光の側室として嫁いだ。清水義氏は娘(於辰姫)を最上義光の継室にして最上義光の力を後ろ盾にした。1582年、武藤義氏に攻撃され、これ以降最上義光と武藤義氏の対決になっていった。清水家の家督は最上義光の三男最上義親が継いだ。

清水義親【しみずよしちか(1582~1614)】

最上義光の三男(清水義氏の養子)。官途は大蔵大輔。最上郡清水城23,000石を領した。羽柴秀吉の人質となった経緯から羽柴秀頼派であった。1600年、「長谷堂城の戦い」では、楯岡光直とともに戦った。のち兄最上家親と対立した。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼への内通の嫌疑をかけられ、最上家親勢の延沢光昌、日野将監の攻撃を受けて落城、継嗣の清水義継とともに自刃した。清水義親は羽柴秀吉に人質になったのに対し、最上家親は松平元康に仕えた立場にあり、兄弟仲はあまり良くなかった。

清水義継【しみずよしつぐ(15??~1614)】

清水義親の男。1614年、「大坂冬の陣」で父清水義親が羽柴秀頼への内通の嫌疑を受け、最上家親の家臣延沢光昌、日野将監らの攻撃を受けて落城、清水義親とともに自刃した。

志村光清【しむらみつきよ(15??~15??)】

最上義光家臣。

志村光安【しむらみつやす(15??~1609)】

志村光清の男。官途は伊豆守。1600年、「長谷堂城戦い」では、樋口兼続勢が20,000余りの攻撃を受けると、鮭延秀綱らとともに伏兵などを駆使して樋口兼続勢を撃退した。1601年、「東禅寺城の戦い」では、志駄義秀勢と戦い戦功を挙げた。役後、亀ヶ崎城30,000石を領した。

志村光清【しむらみつきよ(15??~1614)】

志村光安の男。通称九郎兵衛。別名志村光惟。1609年、父志村光安の病没により亀ヶ崎城(東禅寺城)30,000石を領した。1614年、「一栗高春の乱」では、鶴ヶ岡城代新関久正の屋敷で一栗高春勢の攻撃を受け下吉忠とともに討死した。

志村藤右衛門【しむらとうえもん(15??~1600)】

最上義光家臣。1584年、「谷地城の戦い」では、最上義光に従い50挺組の足軽大将として参陣した。1600年、「長谷堂城の戦い」で撤退する樋口兼続勢を追撃するが、鉄炮隊の反撃を受け討死した。

下吉忠【しもよしただ(15??~1614)】

最上義光家臣。官途は対馬守。通称次右衛門。別名下康久。もと北条氏政に仕えた。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、長尾景勝に仕え樋口兼続の寄騎衆を務めた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、樋口兼続勢が退却したため、最上義光勢に包囲され谷地城に籠城した。降伏後、最上義光に仕えた。1601年、「酒田城の戦い」では、先陣を務め戦功を挙げ尾浦城主12,000石を領した。

下秀実【しもひでざね(15??~16??)】

下吉忠の男。通称次右衛門。1614年、父下吉忠の病没後に家督を継ぎ、尾浦城主となった。最上義光の逝去後、最上家親の家督相続に反対した一栗兵部高春に、鶴ケ岡城下の新関久正の屋敷で一栗高春勢の攻撃を受け討死した。

下本国【しももとくに(15??~1622)】

伊井忠左衛門の男(下吉忠の養子)。官途は長門守。通称勘七郎。1600年、「長谷堂城の戦い」後、下吉忠とともに最上義光に仕え1,000石を領した。1614年、「一栗高春の乱」で下吉忠が討死すると最上義光のもとを辞した。

下秀政【しもひでまさ(15??~16??)】

江本大膳の男(下吉忠の養子)。官途は美作守。通称源六郎。1600年、「長谷堂城の戦い」後、下吉忠とともに最上義光に仕え1,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、長尾景勝に仕えた。

白岩宗広【しらいわむねひろ(15??~15??)】

寒河江兼広家臣。田川郡白岩城主。寒河江兼広、溝延氏勝らとともに慈恩寺旦那衆を務めた。 

白岩義広【しらいわよしひろ(15??~15??)】

白岩宗広の男。官途は備前守。通称四郎八郎。1574年、「天正最上の乱」では、寒河江兼広が最上義光に属したのに対し、白岩義広、左沢氏政、溝延氏勝は伊達輝宗、最上義守に属した。三家は寒河江兼広が籠城する寒河江城を白鳥長久、天童頼貞などとともに攻め落城寸前まで追い詰めた。1582年、真室川で武藤義氏との争いの際、白岩義広が武藤義氏との婚姻関係を理由に謀反を起こしたため、鮭延秀綱への救援が遅れた。しかし、最上義光に降り甥松根光広を婿養子とした。

白岩光広【しらいわあきひろ)(1589~1672)】

長瀞義保の男(白岩義広の養子)。官途は備前守。別名松根光広。1615年、松根城12,000石を領した。白岩光広は六十里越街道の入口で両要所を支配し、六十里越街道を押え善政を敷いた。1622年、最上家親が病没すると、楯岡光直が毒殺を図ったとして、最上義俊を擁立した。延沢義忠を擁立する鮭延秀綱らと対立した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、立花宗茂に預けられた。

白鳥義久【しらとりひしひさ(15??~15??)】

村山郡白鳥城主。白鳥義春の男。白鳥義久はもともと白鳥城にいたが、中条家を滅ぼして谷地城に進出した。1512年、山形城主最上義守は、砂越城主砂越氏雄を内応させ武藤澄氏を攻撃した。白鳥義久は最上義守に属した。1514年、伊達稙宗の「村山郡侵攻」では、最上義守、天童頼貞、寒河広種江連合軍に属して、長谷堂城の伊達稙宗勢を攻撃した。村山郡が伊達稙宗の支配下になると、白鳥義久は天童頼貞と結んで反最上義守の立場を取った。

白鳥長久【しらとりながひさ(15??~1584)】

白鳥義久の男。室は吉川政時の娘。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗と最上義守との取次役を務めた。1574年、「最上天正の乱」では、最上義守と最上義光との取次役を務め、和議の成立に尽力した。1577年、織田信長に鷹や馬を贈って中央政権との結びつきを図った。内政では、農業はもとより諸工業生産の保護奨励にも力を入れ、城下に鋳物師や刀鍛冶、大工などの職人を集めた。1584年、最上義光が仮病を使い、白鳥長久を山形城に誘き寄せ謀殺した。

白鳥長国【しらとりながくに(15??~15??)】

白鳥義春の次男。長女が寒河江兼広、次女が溝延氏勝に嫁いだ。

白鳥義広【しらとりひしひろ(15??~15??)】

白鳥義春の三男。娘が天童頼貞に嫁いだ。

東海林四郎大夫【しょうじしろうだいふ(15??~15??)】

武藤義氏家臣。田川郡山館主。1588年、「十五里ヶ原の戦い」に参陣した。本庄繁長、武藤義勝率いる越後長尾家勢と東禅寺義長、東禅寺勝正兄弟、池田盛周、草刈虎之助率いる最上義光勢と戦い戦功を挙げた。武藤義興が滅亡すると、最上義光に仕えた。

東海林昌種【しょうじまさたね(15??~15??)】

白鳥長久家臣。村山郡沼ノ平館主。通称隼人佐。別名東海林成盛。1584年、白鳥長久が最上義光に謀殺されると、最上義康に嫁していた白鳥長久の娘日吉姫は、難を逃れて夜通し山道を越えて、沼ノ平館に落延びた。「沼ノ平館の戦い」では、最上義光勢の攻撃を撃退した。日吉姫が、最上義光勢に捕縛されると、降伏して最上義光に仕えた。

東海林昌勝【しょうじまさかつ(15??~15??)】

東海林成盛の男。通称二郎。 
 
東海林光勝【しょうじみつかつ(15??~15??)】

東海林昌勝の男。官途は豊後守。1622年、最上義俊が改易処されると、酒井忠勝に仕えた。

東海林光信【しょうじみつのぶ(15??~15??)】

東海林光勝の男

新関久正【しんかいひさまさ(1568~1624)】

最上義光家臣。村山郡若木館主。官途は因幡守。1574年、「最上天正の乱」では、最上義守勢に属した。1602年、櫛引郡藤島城主に任じられ6,500石を領した。1607年、赤川右岸に因幡堰を開削し、庄内平野の水田を潤した。1611年、北楯利長のもとで立谷沢川の水を田川郡北辺の平野部に用水を引いた。1614年、「一栗高春の乱」で志村光清、下吉忠が謀殺されると、一栗高春を追討した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、土井利勝に預けられ、古河で病没した。

進藤安清【しんどうやすきよ(1554~1614)】

志村光安家臣。進藤館主。官途は但馬守。家老職を務め1,500石を領した。1611年、領内検地で川北地方を担当した。1614年、「一栗高春の乱」では、一栗高春勢の攻撃を受け鶴ヶ岡城下の新関因幡守の屋敷で進藤安清ととものに討死した。

須川三次郎【すがわさんじろう(15??~16??)】

楯岡満茂家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

鈴木光弘【すずきみつひろ(15??~15??)】

最上義光家臣。官途は備後守。家老職を務め漆山館1,500石を領した。斎藤光則とともに新田開発を指令する文書を発給した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えた。

鈴木治右衛門【すずきじえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。『最上義光分限帳』では、1,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されたあとも最上義俊に仕えた。

須藤茂矩【すどうしげのり(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は伊予守。通称市兵衛。
 
須藤茂實【すどうしげみ(15??~15??)】

須藤茂矩の男。通称市右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

角川与次郎【すみかわよじろう(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡阿部館主。

関三郎兵衛【せきさぶろうひょうえ(15??~1600)】

最上義光家臣。1600年、「鳥屋ヶ森城の戦い」では、樋口兼続勢の攻撃を受け衆寡敵せず討死した。

芦沢織部【せりざわおりべ(15??~15??)】

村山郡芦沢館主。最上義光が尾花沢盆地に勢力を拡大すると最上義光に仕えた。1622年、最上義康が改易処分に処されると、帰農した。

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【た】

高楯正福【たかだてまさとみ(1559~1615)】

村山郡高楯城主。官途は遠江守。高楯城2,500石を領した。1614年「大坂夏の陣」には、最上家親に属して参陣した。

高楯俊福【たかだてとしとみ(15??~15??)】

高楯正福の男。官途は遠江守。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、最上義俊に従って近江国大森に赴いた。高楯俊福の娘は、最上義俊の次男である最上義長に嫁いだ。

高玉茂兵衛【たかたまもへい(15??~15??)】

鮎貝盛宗の次男。1587年、甥の鮎貝宗信が謀反を起こすと、兄鮎貝宗重を匿った。

高橋石見守【たかはしいわみのかみ(15??~15??)】

延沢満重家臣。村山郡上柳渡戸館主。延沢満重が尾花沢盆地に勢力を拡大する過程で、延沢満重に属した。上柳渡戸館は延沢銀山を押さえるとともに、古来より陸奥国と出羽国を結ぶ軽井沢越えの交通要所として重要な役割を果たした。

高橋但馬守【たかはしたじまのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。1,000石を領した。高橋但馬守の娘が最上義光の継嗣最上義康に嫁いだ。1622年、最上義俊が改易処分に処されと、帰農した。

高橋伊賀守【たかはしいがのかみ(15??~1644)】

最上義光家臣。川北三奉行。安部越中守、斎藤筑後守とともに川北三奉行として活躍した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、松平忠長に仕えた。

竹井時友【たけいときとも(15??~15??)】

土佐林禅棟家臣。1571年、「谷地館の戦い」では、謀反を起こし谷地館に籠城したが、武藤義氏勢勢の反撃を受け捕縛された。

出羽武田兵庫介【たけだひょうごのすけ(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡築館主。

出羽武田河内守【たけだかわちのかみ(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡京塚館主。

楯岡満茂【たておかみつしげ(1547~1639)】

村山郡楯岡城主。官途は豊前守。1586年、「有野峠の戦い」では、小野寺義道の侵攻を最上義康とともに苦戦しながらも撃退した。1595年、「湯沢城の戦い」では、最上義光勢の総大将として小野寺義道勢の湯沢城を奪取し居城とした。1600年、「長谷堂城の戦い」では、小野寺義道に対する押さえとして楯岡城を守備した。役後、雄勝郡は佐竹義宣の所領になり由利郡が最上義光領となった。1603年、赤尾津城45,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠世に預けられた。

楯岡光直【たておかみつなお(1565~15??)】

最上義守の四男(楯岡満茂の養子)。官途は甲斐守。治水、開削、内政などに手腕を発揮した。1600年、「長谷堂城の戦い」では、楯岡光直は700挺の鉄炮隊を含む1000余りを率いて甥清水義親とともに参陣して志村光安を支援した。1618年、楯岡城16,000石を領した。最上家親が鷹狩りの後楯岡城に立ち寄った。最上家親は楯岡光直の饗応を受けたが、その夜最上家親が急死した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、細川忠利に預けられた。

楯岡満広【たておかみつひろ(15??~16??)】

楯岡満茂の弟。官途は長門守。1600年、「長谷堂城の戦い」後、矢島城3,000石を領した。兄楯岡満茂も由利郡40,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、楯岡満茂、楯岡満広兄弟は酒井忠世に仕えた。
 
楯岡信義【たておかのぶよし(15??~16??)】

寺内遠江守の男(楯岡満広の養子)。室は楯岡満広の娘。

楯岡弘盛【たておかひろもに(15??~16??)】

楯岡信義の次男(細井弘盛の養子)。渋江政光の内室に養育された。

谷柏直家【たにやなおいえ(1551~1610)】

最上義守家臣。村山郡谷柏館主。官途は相模守。谷柏館4,000石を領した。1570年、伊達晴宗、伊達輝宗への斡旋の使者として最上義守より派遣され、和解工作を行うなど外交面で活躍した。1574年、最上義光、伊達輝宗の和議の場にも列席した。1600年、「谷柏城の戦い」で樋口兼続勢の攻撃を受けたが城を守り抜いた。

丹政直【たんまさなお(15??~15??)】

最上義光家臣。通称惣左衛門。金山城3,000石を領した。金山城は仙北地域の小野寺家に対する備えとしてを築城された。1600年「関ヶ原の役」では、金山城を守備した。「越後長尾景勝討伐」のため山形城に参集した奥羽諸将が自領に戻ろうとするのを、寡兵にて足留めした。

筑紫喜叶斎【つくしきうんさい(15??~1600)】

最上義光家臣。兵法者として諸国をまわり、その後最上義光に仕えた。1600年、「長谷堂の戦い」に参陣したが、長尾景勝勢が撤退する際、臆病者と罵倒されたため、最上義光の前で討死した。参考文献:『戦国時代人物事典』by学研。

鳥海信道【ちょうかいのぶみち(15??~1600)】

最上義光家臣。通称勘兵衛尉。1594年、湯沢城主小野寺孫七郎の弟小野寺孫作を討取る戦功を挙げた。1598年、鮭延秀綱の仲介により、最上義光の内室(北の方)の女房衆(花輪)を内室に迎えた。1600年、「長谷堂城の戦い」に参陣して鮭延秀綱を守るため樋口兼続勢と戦って討死した。花輪は、鳥海信道の葬儀後、自害した。参考文献:『戦国時代人物事典』by学研。

角沢伊勢守【つのざわいせのかみ(15??~1614)】

最上義光の三男。角沢館主。1603年、清水義親の附家老職を務めた。1614年、父最上義光が病没すると、清水義親は兄最上家親と対立した。「清水城の戦い」で清水義親が討死すると念仏坂で自刃した。

手塚源右衛門【てづかげんえもん(15??~15??)】

鮎貝盛宗家臣。置賜郡平吹館主。1542年、「伊達天文の乱」では、鮎貝盛宗とともに伊達植宗勢に属した。1591年、伊達政宗の岩出山城転封には従わず帰農した。

寺内近江守【てらうちおうみのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。川北三奉行。1616年、川北三奉行の安部越中守が病没すると、その後任を務めた。1622年、最上義俊が改易処分に処されるまで、川北三奉行は、斎藤筑後守、高橋伊賀守、寺内近江守の三名体制となった。

寺津秀清【てらづひできよ(15??~1584)】

村山郡寺津城。官途は甲斐守。1584年、天童頼澄に属して最上義光に討たれた。

天童頼長【てんどうよりなが(1499~1564)】

村山郡舞鶴城主。天童頼道の男。最上八楯。1514年、「長谷堂城の戦い」で伊達稙宗が最上義定を攻撃すると天童頼長は、最上義定勢に従って戦ったが敗れた。1521年、「舞鶴城の戦い」では、伊達稙宗、芦名盛滋勢の攻撃を受け落城した。最上義守が最上家の家督を相続すると、これを支援した。

天童頼貞【てんどうよりさだ(1533~1583)】

天童頼道の次男。官途は和泉守。室は白鳥義広の娘。継室は国分盛氏の娘。天童頼長の病没後、天童家の家督を相続した。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守、中野義時勢に属した。最上義守と最上義光が和議を結ぶと、これを不服として反乱を起こした。1574年、「寒河江城の戦い」では、延沢城主延沢満延、村山飯田城主飯田綱親、尾花沢城主尾花沢頼国、楯岡城主楯岡満茂、長瀞城主長瀞義保、六田城主六田定兼、成生城主成生伯耆守、援軍の伊達輝宗勢とともに寒河江城を攻落とした。1577年、最上義光の天童城侵攻を跳ね返し、最上義光は天童頼貞の娘(綾姫)を側室として迎えて和睦した。

天童頼澄【てんどうよりずみ(15??~15??)】

天童頼貞の男。官途は甲斐守。別名天童頼久。室は細川直元の娘。天童頼澄は最上義光と対立を続け、舞鶴城の堅固さを誇って臣従を拒否した。天童家臣で剛勇の武将、延沢満延に嫡男延沢光昌と最上義光の娘の縁組を持ち掛けて内応させた。1584年、最上義光は八楯を切り崩し、天童頼澄は敗北、千代城主国分盛重の元に落延び伊達政宗に仕えた。1585年、天童頼澄は「人取橋の戦い」で戦功を挙げた。天童頼澄の跡は留守政景の次男留守重頼が継いだ。

東禅寺義長【とうぜんじよしなが(1544~1588)】

飽海郡東禅寺(酒田)城主。武藤晴時家臣。官途は筑前守。別名前森蔵人。室は武藤義氏の娘。1541年、武藤晴時の病没後、土佐林禅棟らと共に武藤義氏を擁立した。武藤義氏の度重なる外征や酒田湊の利権を巡って不満を募らせ、ついには反旗を翻し尾浦城の義氏を攻めて自害に追い込んだ。1583年、最上義光に内応して弟東禅寺勝正と共に主武藤義氏を謀殺した。この際、庄内の諸豪族、国人衆のほとんどがこれに同調した。武藤義氏の弟武藤義興と対立した。1587年、最上義光勢の援助を得ることで武藤義興も謀殺し、本庄繁長の子を養子(武藤義勝)に迎えて長尾景勝との結びつきを強めた。その後、最上義光によって庄内支配を任されが、恩賞配分に対する不服などから、庄内の国人衆に反発された。1588年、本荘繁長、武藤義勝による「庄内侵攻」を受け「十五里ヶ原の戦い」で討死した。

東禅寺勝正【とうぜんじかつまさ(1549~1588)】

東禅寺義長の弟。官途は右馬頭。1583年、兄東禅寺義長と共に武藤義興を謀殺した。その後、尾浦城を東禅寺義長から任された。1588年、本荘繁長による「庄内侵攻」を受け「十五里ヶ原の戦い」で敗北した。本庄繁長に一太刀浴びせようと名刀「正宗」と味方の頸を片手に敵陣へ潜入し、頸実検装い、本庄繁長に斬りつけたが「明珍」の甲冑に阻まれ、逆に本庄繁長に討取られた。東禅寺勝正の名刀「正宗」は本庄の手に渡り「本庄正宗」と呼ばれ、のち徳川紀州家に伝えられた。

富樫七右衛門【とがししちろうざえもん(15??~15??)】

北楯利長家臣。富樫道益の弟。1614年、一栗高春が謀反を起こすと「添川城の戦い」に参陣した。一栗高春の家臣二名の頸を取る戦功を挙げた。その後、酒井忠勝に仕え150石を領した。

土佐林禅棟【とさばやしぜんとう(15??~1571)】

田川郡藤島城主。官途は能登守。土佐林家は羽黒山の別当職を務めていた家柄で、武藤家と同等の勢力を誇っていたが、武藤晴時との抗争に敗れて臣従し、その筆頭家老となった。1541年、武藤晴時が帰洛後、病没したとき、武藤義増を家督に相続させるために奔走した。1568年、武藤義増と長尾景虎の和議により春日山城に人質として赴いた。武藤義増が継嗣武藤義氏に家督を譲ったため、その補佐として庄内に留まった。1571年、武藤義氏勢の攻撃を受けて討死した。

土佐林氏頼【とさばやしうじより(15??~1570)】

土佐林禅棟の男。官途は宮内少輔。父土佐林禅棟より先に病没した。

土佐林時助【とさばやしときすけ(15??~15??)】

土佐林禅棟家臣。官途は掃部助。1569年、本庄繁長が謀叛を起こすと、これを討伐するため越後国に赴き戦功を挙げた。

土佐林明三【とさばやしめいさん(15??~15??)】

土佐林禅棟家臣。通称荷雲斎。1572年、武藤義氏の意向を受け使者として小野寺義通のもとに赴いた。

鳥越武種【とりごえたけたね(15??~15??)】

清水義氏家臣。鳥越館主。通称九右衛門。別名小田嶋武種。馬上衆47人衆筆頭として1,300石を領していた。1614年、清水城主清水義親が最上家親によって謀殺された後、最上家親に馬廻衆として5,000石を領した。1622年、最上義俊が改易になり近江国大森に転封となった際もこれに従った。

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【な】

長岡但馬守【ながおかたじまのかみ(15??~1614)】

最上義光家臣。最上義光に仕え200石を領した。1614年、最上義光が病没すると、その墓前で殉死した。

長岡番内【ながおかばんない(15??~15??)】

長岡但馬守の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に150石で仕えた。

長沢祐種【ながさわすけたね(15??~15??)】

最上義守家臣。村山郡長沢館主。官途は監物。

長沢常陸守【ながさわひたちのかみ(15??~15??)】

長沢祐種の男。最上義光に仕えた。継嗣のめぐまれず、最上義光の意向を受け羽黒山衆徒の長沢仁兵衛尉を養子に迎えた。

長沢仁兵衛尉【ながさわじんひょうえのじょう(15??~15??)】

長沢常陸守の養子。1622年、最上義俊が改易処分に処されると帰農した。

長澤光勝【ながさわみつかつ(15??~1631)】

楯岡満茂家臣。官途は若狭守。1622年、最上義俊の改易処分の処されると、佐竹義宣に仕えた。

長澤光定【ながさわみつさだ(15??~15??)】

長澤光勝の男。

中条長昌【なかじょうながまさ(15??~15??)】

村山郡谷地城主。中条長昌嫡子が無く、白鳥城主白鳥長久に谷地城を譲った。

長瀞左衛門【ながとろさえもん(15??~1584)】

天童頼貞家臣。村山郡長瀞城主。最上八楯。1584年、「天童城の戦い」で天童頼澄が最上義光勢に敗れ国分盛重のもとに落延びると、長瀞城も攻撃を受け討死した。

長瀞義保【ながとろみつただ(15??~1591)】

最上義守の三男。1584年、「天童城の戦い」で天童頼澄が国分盛重のもとに落延びると、兄最上義光の意向を受け、長瀞家の家督を相続した。

長瀞光忠【ながとろあきただ(15??~15??)】

長瀞義保の男。1596年、「湯沢城の戦い」で楯岡満茂が小野寺義道勢の攻撃を受けると、小国光基とともに救援に赴いてこれを撃退した。

中野義清【なかのよしきよ(15??~15??)】

村山郡中野館主。中野義建の男。1514年、「長谷堂城の戦い」で最上義定が伊達稙宗勢に敗れると、最上義定は中野義清の継嗣、最上義守を養子に迎え、最上惣領家の家督を相続させ隠居した。1534年、焼失した立石寺の再建を行った。

中野義時【なかのよしとき(1550~1575)】

最上義守の次男(中野義清の養子)。父最上義守の実家の中野家の家督を相続した。最上義守が中野義時に家督を譲ろうとしたが、氏家定直の調停により、最上義守が隠居し、最上義光が最上惣領家の家督を相続することになった。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守が次男中野義時を擁立されて、最上義光と争ったが、伊達輝宗勢が最上義光を支援したため、天童頼貞、白鳥長久、蔵増頼真、延沢満延らが離反した。1575年、「中野城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受け自刃した。

中村玉五郎【なかむらたまごろう(15??~15??)】

蔵増光忠家臣。要害館主。蔵増光忠の叔父。

中山朝政【なかやままよりまさ(1516~1583)】

寒河江兼広家臣。村山郡長崎城主。官途は玄蕃頭。渋谷懐良に乗っ取られていた長崎城を奪還した。領民からの尊崇厚く「玄蕃様」と慕われていた。

中山朝正【なかやまともまさ(15??~16??)】

中山朝政の男。官途は玄蕃。別名中山播磨守。父中山朝政の跡を継いで長崎城主。1581年、「」最上義光が寒河江高基を攻めた際、寒河江高基に属したが敗北した。1584年、寒河江家滅亡により最上義光に仕えた。1586年、「尾浦城の戦い」では、東禅寺義長らとともに武藤義興を攻め滅ぼし尾浦城主となった。1588年、「十五里ヶ原の戦」では、本荘繁長勢と戦い大敗した。1600年、「長崎城の戦い」では、長崎城を守備したが、樋口兼続勢の攻撃を受けて落城した。

中山光信【なかやまあきのぶ(15??~1641)】

中山朝正の男。官途は主膳。通称七左衛門。父中山朝正とは別に1,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、阿部正次に仕えて家老職を務めた。

鍋倉秀道【なべくらひでみち(15??~1635)】

最上義光家臣。通称治兵衛。室は高倉盛次の娘。200石で仕えた。1622年、最上義俊の改易処分に処されると、佐竹義宣に80石で仕えた。

鍋倉盛成【なべくらもりなり(1606~1682)】

鍋倉秀道の次男(高倉盛次の養子)。別名高倉為盛。室は高倉盛次の娘。後に大浦家家老職を務めた。1622年、母方の祖父高倉盛次の養子となって、大浦信枚に仕えた。高倉盛次が大浦信枚の叱責を受け改易に処された。1640年、大浦信義に300石で仕えた。1649年、家老職に任じられ800石を領した。1656年、大浦信義が病没すると、大浦信英の黒石分地を円満に解決した。

行沢式部【なめさわしきぶ(15??~15??)】

延沢満延家臣。行沢館主。行沢館1,000石を領した。

成生伯耆守【なりせいほうきのかみ(15??~15??)】

天童頼貞家臣。村山郡成生館。1577年、「天童城の戦い」では、天童頼貞らとともに最上義光勢を撃退した。1584年、「天童城の戦い」では、延沢満延、倉津安房守らとともに最上義光勢に内応した。

成沢道忠【なりさわみちただ(1548~1617)】

最上義光家臣。成沢城5,000石を領した。武藤義氏の属将余目城主安保余太郎兄弟と戦いこれを破った。1578年、「山形城の戦い」では、伊達輝宗、上山満兼勢の攻撃を受けると、最上義光、伊良子宗牛らとともに籠城してこれを撃退した。1580年、鮭延秀綱とともに庄内に侵攻して、安保能形勢と戦った。1614年、最上義光の病没後、一栗高春らとともに清水義親を擁立して最上家親と争った。謀反は失敗に終わり一栗高春らとともに落延びた。

新関久正【にいぜきひさまさ(15??~16??)】

最上義光家臣。官途は因幡守。原美濃守とともに最上義光の隠居城である鶴ヶ岡城築城の奉行を務め、鶴ヶ岡城代6,500石を領した。1607年、治水工事も重要性を認識していた北楯利長によって進められた。庄内赤川灌漑を行った新関久正の作った堰は「因幡大堰」と称された。1614年、一栗高春が謀叛を起こすと鎮定に赴いた。

新関成正【にいぜきなりまさ(15??~16??)】

新関久正の男。官途は豊後守。1614年、「添川館の戦い」では、先陣として駆けつけ一栗隆春勢と戦い戦功を挙げた1622年、最上義俊が改易処分に処されると、父新関久正とは別れて庄内に残り、鼠ケ関の郷士となったが、のちに酒井忠勝に仕えて150石を領した。

新田公平【にったきみへい(15??~15??)】

寒河江高基家臣。村山郡新田館主。1584年、「寒河江城の戦い」では、寒河江高基に従って最上義光勢と戦ったが敗れ常陸国に落延びた。

庭月綱任【にわつきつなこれ(15??~15??)】

鮭延貞綱家臣。最上郡庭月城主。官途は和泉守。1565年、鮭延貞綱が侵攻した尾浦城主武藤義増に敗れて、本城を真室城に移し、庭月城主に庭月綱任を任じた。最上義光の支援を受けた清水城主清水義氏が侵入し、庭月館は清水家領との「境目の城」となった。1581年、小国郷を制圧した最上義光は、鮭延郷制圧した。

庭月広綱【にわつきひろつな(15??~1650)】

庭月綱任の男。通称理右衛門。1581年、鮭延秀綱が最上義光に寝返ると、最上義光の誘いを受けたが、断ったために氏家守棟の攻撃を受けた。1622年、最上義俊が改易改易処分に処されると、庭月城1,200石を失った。

庭月道綱【にわつきみちつな(15??~15??)】

庭月綱任の次男。

庭月綱親【にわつきつなちか(15??~15??)】

庭月綱任の三男。

沼沢藤左衛門【ぬまざわとうざえもん(15??~15??)】

延沢満延家臣。1622年、最上義俊の改易により延沢光昌は加藤家にお預けとなり、これに供をして熊本に移ったが、後に羽前国に帰国した。1626年、延沢光昌が熊本にて病死した際、沼沢藤左衛門の弟沼沢助左衛門がその最期を看取り、遺骨を持ち帰った。

沼沢新左衛門【ぬまさわしんざえもん(15??~15??)】

清水義氏家臣。沼沢館主。馬上衆47人衆。1614年、清水城主清水義親が最上家親によって滅ぼされた後、最上家親に仕えた。

根清光【ねきよみつ(15??~15??)】

白鳥長久家臣。1577年、白鳥長久は根清光を上洛させ、織田信長に白雲雀という良馬を献じてそ の機嫌を伺った。織田信長信長は大いに喜び、種々答礼の品々を贈り、更に鶴取り、鴻取りの逸物の鷹を所持 していることを聞いて所望した。

延沢満重【のべさわみつしげ(1503~15??)】

天童頼長家臣。最上郡延沢城主。官途は薩摩守。最上八楯の旗頭。領内には延沢銀山があり石高以上の実力を持っていた。天人清水に現れた天女の羽衣を隠して内室とした。1547年、延沢城を築城した。

延沢満延【のべさわみつのぶ(1544~1591)】

延沢満重の男。官途は能登守。別名野辺沢満延。武勇に優れ、最上義光を天童頼澄らとともに何度も撃退した。1584年、最上義光は、延沢満延を内応させるため娘の松尾姫を延沢光昌に嫁がせた。延沢満延は降伏の条件として天童頼澄の助命を願い出た。延沢満延を失った最上八楯は崩壊し、天童城は陥落し、天童頼澄は国分盛重を頼って落延びた。1590年、最上義光に従って上洛した京都で病没した。

延沢光昌【のべさわあきまさ(1568~16??)】

延沢満延の男。官途は遠江守。通称又五郎。別名野辺沢康満。室は最上義光の娘(松尾姫)。1591年、父延沢満延の病没にともない延沢城20,000石の家督を相続した。1600年、「長谷堂合の戦い」に参陣した。1609年、「清水城の戦い」では、清水義親が籠城する清水城を攻撃して、清水義親を自刃に追い込んだ。1622年、最上義俊の改易処分に処されると、加藤忠広に預けられた。

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【は】

原忠重【はらただしげ(15??~1565)】

村山郡八ッ沼城主。官途は甲斐守。1565年、和合秋広が最上義光に八ツ沼城主原忠重と鳥屋ヶ森城主岸美作守が謀反を企ていると讒言した。最上義光は兵5,000余りを率いて出陣し「五百川の戦い」が起きた。原忠重勢は家臣の小関加衛門、客僧羽黒弁寛とともに戦ったが多勢無勢で、八ツ沼城、鳥屋ヶ森城び両城が落城、原忠重は討死した。

原兼道【はらかねみち(15??~1565)】

原甲斐守の男。通称半兵衛。1565年、鳥屋ヶ森城主貴志美作守の娘(弥生姫)との婚約が成立していたが、和合城主和合秋広が弥生姫を奪おうとしたが失敗。和合秋広が最上義光に八ツ沼城主原忠重と鳥屋ヶ森城主貴志美作守が謀反を企ていると讒言した。最上義光は兵5,000余りを率いて出陣し「五百川の戦い」が起きた。原忠重勢は家老小関加衛門、客僧羽黒弁寛共に戦ったが多勢無勢で、八ツ沼城、鳥屋ヶ森城び両城が落城、原兼道は討死、弥生姫も城の崖から飛び降り自刃した。

半田助左衛門【はんだすけざえもん(15??~15??)】

東根頼景家臣。1600年、「東根城の戦い」では、直江兼続の家臣下吉忠勢の攻撃を受けた。東根景佐は山形城に籠城していたため、半田助左衛門が奇略を用いて下吉忠勢を度々撃退した。新関新五右衛門を一騎打ちで討取る戦功を挙げた。

東根景息【ひがしねかげそく(15??~15??)】

置賜郡東根城主。東根景宗の男。

東根頼景【ひがしねよりかげ(15??~1581)】

天童頼貞の次男(東根景息の養子)。最上八楯。延沢満延が最上義光に内応すると、天童頼澄勢の他の国人衆も次々に最上義光勢に寝返った。東根頼景は、最上義光勢との戦いを継続した。1581年、家臣東根景佐の謀反に遭い謀殺された。

東根景佐【ひがしねかげさ(15??~16??)】

東根景息の男。官途は薩摩守。通称源右衛門。別名里見源右衛門。室は小国日向守の娘。1581年、最上義光に内応して東根頼景を討取り、東根城主となった。

東根親宜【ひがしねちかのり(15??~1663)】

東根景佐の男。通称源右衛門。室は最上義光の四女(禧久姫)。父東根景佐の家督を継いで東根城12,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、蜂須賀家政に預けられた。後に蜂須賀家政に仕え、中老職を務め1,000石を領した。

日野光綱【ひのあきつな(1577~1666)】

村山郡新庄城主。天童頼澄家臣。官途は将監。別名日野定重。最上四十八館のひとり。天童頼澄の滅亡後、最上義光に仕え3,000石を領した。1584年、寒河江高基が討死、枝連衆沼田城主日野左京亮も最上義光に降り最上義光に降った。1614年、延沢光昌と共に清水義親を攻め自刃させ、清水義親の遺領は最上家の蔵入地となったが、日野光綱が管理した。1622年、最上義俊の改易後は藤堂高虎に仕えた。

日野光久【ひのびっちゅうのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。塩ノ沢館主。官途は備中守。室は中山玄蕃の娘。1612年、庄内川南地域と由利郡の検地を担当し、庄内支配の実務を担った。由利郡の検地では54,800石を打ちだし「備中棹」の異名を取ったが、苛酷に過ぎて矢島の百姓らは仙北郡に逃散した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、藤堂高虎に仕えた。

日野栄信【ひのさきのぶ(15??~16??)】

日野光久の男。通称十兵衛。別名休甫入道。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、伊達政宗家臣の片倉重長に仕え家老職を務めた。

日野親直【ひのちかなお(15??~16??)】

日野光久の三男。通称彦市郎。別名富並親直。室は谷柏光直の娘。谷柏相模守光直の娘を娶り富並城3,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、浪人となり伊達郡桑折で病没した。

日野数馬【ひのかずま(15??~15??)】

最上義光家臣。日野光久枝連衆。1,000石を領した。1622年、最上義俊の改易後は、鳥居忠政に150石で仕えた。

日野惣左衛門【ひのそうざえもん(15??~15??)】

日野光綱家臣。3,000石を領した。

日向将監【ひむかいしょうげん(1584~1640)】

日向越中守の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると浪人となった。叔父の北楯利長が酒井忠勝から仕官を断り、日向将監を推挙した。酒井忠勝に仕え御郡奉行として100石を領した。

平山忠方【ひらやまただかた(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は将監。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、楯岡満茂が酒井忠世に預けられうとそれに従った。
 
平山忠安【ひらやまただやす(15??~15??)】

平山忠方の男。通称仁兵衛。1622年、最上義俊の改易後、楯岡満茂が酒井忠世に預けられるとそれに従った。楯岡満茂が酒井忠勝に仕えると、再び家臣として庄内に戻った。楯岡満茂の病没後、酒井家を離れて秋田に移り、佐竹義宣に仕えた。

古館女三【ふるやかたにょさん(15??~15??)】

最上義光家臣。法師武者として最上義光に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光が築いた古館城主で2,000石を領した。

広川喜右衛門【ひろかわきちざえもん(15??~15??)】

志村光安家臣。志村光安の男。通称彦五郎。り数々の戦いに参陣して戦功を挙げた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると酒井忠勝に仕えた。

平山忠方【ひらやまただかた(15??~16??)】

楯岡満茂家臣。官途は将監。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、上州厩橋に楯岡満茂がに流されるとそれに従った。

平山忠安【ひらやまただやす(15??~16??)】

平山忠方の男。通称仁兵衛。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、上州厩橋に楯岡満茂が流されるとそれに従った。楯岡満茂が酒井忠勝に仕官すると、再び楯岡満茂に仕えた。楯岡満茂が病没すると佐竹義宣に仕え茶屋免許大番組を務めた。

宝幢寺尊海【ほうどうじそんかい(15??~15??)】

宝幢寺住職。別名宝幢御坊。1574年、最上義光の使者を務め、伊達輝宗のもとに赴いた。1584年、「天童城の戦い」では、最上義光勢が立谷川を増水のため進軍ができないでいたところが、尊海の祈祷により増水が収まった。天童頼澄勢が喜太郎狐の幻術を使って最上義光勢を惑わしたのを、犬を使ってこれを打ち破った。この戦功により、天童愛宕神社の別当に任じられ1,370石の寺領を領した。

小国細川直元【ほそかわなおもと(15??~1581)】

最上郡小国城主。官途は摂津守。天童頼澄ら最上八楯とともに最上義光と対立した。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守、中野義時勢を支援したが敗れ、降伏した。1581年、「小国城の戦い」では、最上義光の家臣蔵増光忠に率いられた3,500余りの攻撃を受けた。「万騎ヶ原の戦い」では、弟の細川直茂らとともに350余りで迎撃したが大敗を喫して小国城も落城した。

小国細川直茂【ほそかわなおもり(15??~1581)】

最上郡志茂手館主。官途は帯刀。1581年、「万騎ヶ原の戦い」では、兄小国細川直元とともに最上義光勢と戦うが討死した。

堀喜吽【ほりきうん(15??~1600)】

最上義光家臣。別名筑紫喜吽。御伽衆。兵法家として諸国を巡り、今判官と称した。連歌にも長じており、最上義光とともに京での連歌会に出席した。1600年、「関ヶ原の役」では、撤退する直江兼続勢に対し自ら先頭に立って追撃する最上義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため単騎で突撃したところを、鉄炮隊に撃ち抜かれ、最上義光の前で討死した。

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【ま】

丸岡民部大輔【まるおかみんぶだうふ(15??~15??)】

武藤晴時家臣。田川郡宮内館主。一ノ宮大物忌社司職。

溝延時茂【みぞのべときもり(15??~15??)】

寒河江兼広家臣。村山郡溝延城主。溝延孝政の男。1561年、寒河江城主兼広、白岩城主宗広とともに慈恩寺の檀家衆。1574年、「天正最上の乱」では、寒河江兼広の家臣ながら謀反を起すなど独自性を強かった。

溝延茂信【みぞのべもりのぶ(15??~15??)】

溝延時茂の男。室は白鳥長国の娘。1584年、「寒河江城の戦い」で寒河江高基が討死すると、最上義光が溝延越中守を5,000石で配した。

水戸太郎左衛門【みとたろうざえもん(15??~15??)】

東海林昌種家臣。村山郡水沢館主。1587年、谷地城主白鳥長久の娘(日吉姫)奪還する際、東海林昌種が水戸太郎左衛門に守備を命じた。

宮内内蔵丞【みやうちくらのじょう(15??~15??)】

最上義光家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」後、高櫤城主に任じられ4,000石を領した。馬上八騎、鉄炮二十挺、弓四張、鑓四十八本の軍役を負担した。

向田光之【むこうだあきゆき(15??~1600)】

最上義光家臣。通称八郎左衛門。1600年、「畑谷城の戦い」で最上義光の意向を受け、援軍として派遣された。畑谷城が落城したため、山形城に撤退した。鬼越の地まで戻ってきた時、霞で煙った山形城を見て落城したものと勘違いし、その場で自刃した。

武藤晴時【むとうはるとき(1512~1541)】

田川郡鶴ヶ岡城。大宝寺澄氏の男。官途は左京大夫。別名大宝寺時氏。羽黒山別当職を務め、羽黒山の権威を利用して勢力を拡大した。1518年、砂越家の家督を相続した砂越氏維が、安保能形や来次時秀と結び武藤晴時と戦った。1533年、「大宝寺城の戦い」で砂越氏維勢の攻撃を受け大宝寺城が焼失した。幕府への貢物が功を奏し左京大夫に任官され、後に上洛して将軍に謁見したが、帰国してまもなく早逝した。

武藤義増【むとうよします(15??~1581)】

武藤左京亮の男。1541年、武藤晴時から武藤惣領家督を相続した。1568年、「本庄繁長の乱」では、本庄繁長勢に属して長尾景虎勢と戦ったが、敗れて武藤義氏を人質に出し和議を結んだ。1565年、「本合海の戦い」では、清水城主清水義高を討取
る戦功を挙げた。

武藤義氏【むとうよしうじ(1551~1583)】

武藤義増の男。官途は出羽守。通称四郎次郎。長尾景虎勢の支援を受け最上義光、安東愛季らと戦った。1579年、馬、鷹を中央の織田信長に献上するなど、外交も重視した。領内には重い税負担を強いたため、領民から「悪屋形」と称された。1583年、「尾浦城の戦い」では、最上義光勢に内応した東禅寺義長勢の攻撃を受け自刃した。

武藤義興【むとうよしおき(15??~1587)】

武藤義増の次男。官途は兵庫頭。別名丸岡兵庫。1583年、武藤義氏が討死したため、武藤家の家督を相続した。1587年、本荘繁長の次男本荘義勝を養子に迎え、長尾景勝と結んだ。1587年、「東禅寺城の戦い」で東禅寺氏永を追い詰めるが、最上義光勢の攻撃を受け討死した。

武藤義勝【むとうよしかつ(1573~1623)】

本庄繁長の次男(武藤義興の養子)。1587年、養父武藤義興が最上義光に寝返った東禅寺義長勢に討取られると、小国城に落延びた。1588年、「十五里ヶ原の戦い」では、本庄繁長の支援を受けて東禅寺義長、東禅寺勝正らを討取った。1588年、羽柴秀吉に拝謁し、太刀などを献上した。1591年、一揆を扇動した嫌疑を受け改易処分に処された。1592年、「文禄の役」に参陣して、長尾景勝に仕えた。

最上義定【もがみよしさだ(1492~1520)】

村山郡山形城主。最上義淳の男。室町幕府羽州探題職。室は山野辺直広の娘。継室は伊達尚宗の娘。1504年、寒河江宗広が内紛を起すと、介入してこれを降伏させた。1514年、「長谷堂城の戦い」で伊達稙宗勢の攻撃を受け山野辺直広、吉川政周らが討死した。1515年、伊達尚宗の娘を娶って和議を結ぶが、以後は伊達稙宗の影響力により最上義定の勢力は衰退した。

最上義守【もがみよしもり(1521~1590)】

中野義清の男(最上義定の養子)。官途は右京大夫。室は大崎義兼の娘(蓮心院)。1520年、養父の最上義定が嗣子の無いまま没すると、伊達稙宗勢が最上家に勢力を伸ばした。「上山城の戦い」では、上山義房が寒河江孝広、天童頼長らとともに伊達稙宗から離反した。1522年、最上義守が最上惣領家の家督を相続した。1560年、「寒河江城の戦い」で寒河江兼広を攻撃したが大敗した。1574年、「天正最上の乱」では、次男の中野義時を擁して継嗣の最上義光と戦ったが、敗れて最上義光に家督を譲って隠居した。

最上義光【もがみよしあき(1546~1614)】

最上義守の男。官途は出羽守。通称二郎太郎。室は大崎義直の娘(釈妙英)。1574年、「天正最上の乱」では、父最上義守が弟中野義時を擁して最上義光と戦った。最上義光が最上惣領家の家督相続して、最上義守の隠居により内戦が終結した。1577年、天童頼澄らを滅ぼして強力な権力集中を図った。1583年、庄内に侵攻して武藤義氏、武藤義興と争ったが、本荘繁長勢に大敗した。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉のもとに参陣して本領を安堵される。1594年、羽柴秀次に娘駒を側室として差し出した。1595年、「羽柴秀次事件」で駒姫が処断されて最上義光も謹慎を命ぜられた。最上家親を通じて松平元康に接近した。1596年、小野寺義道と戦った。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康に属した。「長谷堂城の戦い」では、直江兼続勢の攻撃を受けた。1601年、「酒田城の戦い」では、長尾景勝の家臣志駄義秀を追い落した。役後田川郡、飽海郡、由利郡330,000石の加増を受け570,000石を領した。

最上義康【もがみよしやす(1575~1603)】

最上義光の男。1586年、「有屋峠の戦い」では小野寺義道と。1600年、「長谷堂の戦い」では、伊達政宗へ救援依頼に赴き、また越後長尾景勝勢の追撃戦にも参陣した。最上義光の嫡男であったが、最上義光は松平元康に近しい最上家親へ家督を譲ろうと考えた。1603年、父最上義光の意向を受け高野山に向うが、その途次庄内で謀殺された。

最上家親【もがみいえちか(1582~1617)】

最上義光の次男。官途は駿河守。通称太郎四郎。別名最上義親。1594年、松平元康に出仕した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平秀忠勢に属して上田城を攻撃した。1614年、父最上義光の病没したため、最上惣領家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、弟の清水義親が羽柴秀頼と内通したとしてこれを討取った。

最上義俊【もがみよしとし(1606~1632)】

最上家親の男。通称源五郎。1617年、父最上家親が急死したため急遽家督を継ぐが、幼少のこともあって家中は分裂、国政は蔑ろにされた。1622年、家中取締不行届として近江国に減転封された。

望月隼人正【もちづきはやとのしょう(15??~1600)】

最上義光家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、八ッ沼城を守備した。主力が山形城防衛のため不在の中、直江兼続勢の攻撃をよく防いだものの、衆寡敵せず落城、自刃した。

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【や】

谷柏直家【やがしわなおいえ(1551~1610)】

最上義光家臣。谷柏館主。官途は相模守。別名片桐蔵人。最上義光に仕え谷柏館を築いて4,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、飯田信兼らとともに畑谷城救援に向かったが、落城したことを知り、追われて逃げてきた領民を保護した。直江兼続勢の追撃を防ぐために殿として戦っていた飯田信兼が討取られたこと知ると、引き返して飯田信兼の頸を奪い返した。

矢口氏広【やぐちうじひろ(15??~15??)】

砂越氏維家臣。最上郡田沢館主。官途は讃岐守。通称内記。田沢館は、武藤義氏、鮭延秀綱、清水義氏による激しい争奪の場となり、最終的に清水義親から客将として迎えられ鮭延秀綱勢を押えるため、川口館を築いて守備した。

矢口氏忠【やぐちうじただ(15??~1614)】

矢口氏広の男。父矢口氏広の跡を継いで川口館主となった。1614年、「清水城の戦い」で最上義親勢の攻撃を受け清水義親が自刃すると、清水興源院で自刃した。

矢口氏益【やぐちうじます(15??~15??)】

矢口氏忠の男。

矢口権十郎【やぐちぎんじゅうろ(15??~15??)】

清水義氏家臣。

矢口能登守【やぐちのとのかみ(15??~1616)】

清水義氏家臣。升形館主。

矢口長門守【やぐちながとのかみ(15??~15??)】

矢口能登守家臣。家老職を務めた。

山野辺刑部【やまのべぎょうぶ(14??~15??)】

村山郡山野辺城主。1514年、「長谷堂城の戦い」で伊達稙宗勢と戦い討死した。

山野辺直広【やまのべなおひろ(15??~15??)】

山野辺刑部の男。室は寒河江宗広の娘。娘は最上義定に嫁いだが、伊達稙宗と和議を結び伊達稙宗の妹を内室に迎えたため、離縁された。

山野辺義忠【やまのべよしただ(1588~1664)】

最上義光の四男。官途は右衛門大夫。1600年、「関ヶ原の役」では、人質として松平元康のもとに送られた。役後、山野辺家の家督を相続して山野辺城19,300石を領した。山野辺城の拡張改修、城下街の建設と市の開設、釣樋堰に見られるような治水事業、神社仏閣や交通網の整備を行い善政に努めた。1617年、「最上家騒動」では、甥の最上義俊が最上家惣領職を相続したが、人望がなく、鮭延秀綱、楯岡光直らが最上惣領職に山野辺義忠を擁立した。最上義俊の家臣松根光広を追放して事態の収拾を図ったが失敗の終わった。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、松平頼房に仕え10,000石を領して家老職を務めた。

山家師兼【やんべもろかね(15??~1614)】

最上義光家臣。山家城主。官途は河内守。山家城は最上四十八楯のひとつで3,000石を領した。1614年、最上義光が没した際、その墓前にて殉死した四人のうちのひとり。

山家主計【やんべかずえ(15??~15??)】

山家河内守の男。楯岡満茂に仕えた。1622年、最上義俊の改易後は、楯岡満茂に従って酒井忠世に仕え200石を領した。

小山家師時【やんべもろとき(15??~15??)】

小山家城主。山家師兼の弟。室は土肥道近の姉。小山家館700石を領した。1584年、最上義光が天童城を落として天童頼澄を追った後、北部の豪族衆が不穏な動きを示した為、この地に山家師時を配して監視させた。1600年、小山家師時は、夫人の実家増田城主土肥道近を頼って増田へ移住し、後に帰農した。

結城将監【ゆうきしょうげん(15??~15??)】

新城山館主。天童頼澄家臣。1584年、最上義光が天童頼澄を討ち破って天童頼久を滅亡させると最上義光に仕えた。

横尾勘解由【よこおかげゆ(15??~15??)】

志村光安家臣。室は志村光安の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、大風右衛門らと共に直江兼続勢に夜襲をかけ、春日元忠の陣を大混乱に陥れた。

吉田藤右衛門【よしだとうざえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」では、上泉主水と鑓を交えた。1601年、「酒田城の戦い」では、頸一級を挙げる戦功を挙げた。1622年、最上義俊の改易後、酒井忠勝に仕えた。

吉田景長【よしだかげなが(15??~15??)】

最上義守家臣。官途は監物。
 
吉田景定【よしだかげさだ(15??~15??)】

吉田景長の男。太郎左衛門。最上義光に仕えた。
 
吉田定清【よしださだきよ(15??~15??)】

吉田景定の男。通称太右衛門。最上家親に仕えた。1622年、最上義俊の改易後、佐竹義宣に仕えた。

米沢秀久【よねざわひでひさ(15??~15??)】

武藤晴時家臣。1541年、銘の夜燈棹を寄進した。

和田秀友【わだひでとも(15??~1584)】

白鳥長久家臣。通称六郎左衛門。1584年、白鳥長久を守って最上義光勢と戦い討死した。

立石寺円海【りゅうしゃくじえんかい(15??~15??)】

最上郡立石寺住職。1521年、伊達家と最上、寒河江家らと諸族の戦乱がおこり、立石寺が伊達家に味方したことにより天童頼長が立石寺を攻撃し、寺領を侵略し寺中はことごとく破滅した。1543年、立石寺円海(沙門一相坊円海)がその荒廃をなげき、最上義守の実母春還芳公禅尼を大檀那に、比叡山根本中堂の常燈火を立石寺根本中堂に移し、慶長時代に諸堂を修築した。1571年、織田信長の比叡山焼き討ちにより延暦寺の法灯が焼失したさい、逆に分灯した。

出羽留守義氏【るすよしうじ(15??~15??)】

飽海郡新田目城主。武藤晴時家臣。官途は遠江守。1521年、武藤晴時が台頭すると、留守義氏はその麾下に属した。1582年、東禅寺城の東禅寺義長が最上義光に内応してて武藤義氏に謀反を起こした際には、武藤義氏に属した。1586年、武藤義氏が新田目城の北方で戦いに及んだ際には、留守家臣今井兵庫が討死した。1589年、庄内が越後長尾景勝領となると甘粕景継に仕えた。1601年、東禅寺城が最上家に攻められ浪人。以後、帰農した。

六田定兼【ろくたさだかね(15??~15??)】

最上郡六田館主。通称兵衛。天童八楯。1580年、最上義光は東根頼景を降伏に追い込んだ。さらに楯岡城主楯岡満英を自刃に追い込み、成生伯耆守、飯田綱親、六田定兼らを降伏させた。

若木小左衛門【わかきこざえもん(15??~16??)】)

楯岡満茂家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、岩崎村で帰農した。

若木理助【わかきりすけ(15??~16??)】

若木小左衛門の男。佐竹義宣に鷹匠として仕えた。

和合秋広【わごうあきひろ(15??~15??)】

村山郡和合城主。官途は但馬守。1565年、鳥屋ヶ森城主貴志美作守の娘(弥生姫)との婚約が成立していたが、和合城主和合秋広が弥生姫を奪おうとしたが失敗。和合秋広が最上義光に八ツ沼城主原忠重と鳥屋ヶ森城主貴志美作守が謀反を企ていると讒言した。最上義光は兵5,000余りを率いて出陣し「五百川の戦い」が起きた。原忠重勢は家老小関加衛門、客僧羽黒弁寛共に戦ったが多勢無勢で、八ツ沼城、鳥屋ヶ森城び両城が落城、原兼道は討死、弥生姫も城の崖から飛び降り自刃した。

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【資料Ⅰ】

羽前国(6郡/320,000石)

田川郡:鶴ヶ岡(大宝寺)城、丸岡城、小国城、羽黒山。
最上郡:山形城、長谷堂城、天童城、上山城、畑谷城、立石寺。 
北村山郡:鮭延城、清水城、小国城、庭月城。
南村山郡:寒河江城、延沢城、東根城、谷地城、楯岡城、向川寺。
東置賜郡:米沢城、高畠城、館山城、林泉寺、大聖寺、北条街、
西置賜郡:長井城、鮎貝城、萩生城、小国城、遍照寺。

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【資料Ⅱ】

最上八楯【もがみはったて】

延沢城主延沢満延、村山飯田城主飯田綱親、尾花沢城主尾花沢頼国、楯岡城主楯岡満茂、長瀞城主長瀞義保、六田城主六田定兼、成生城主成生伯耆守らの七家と佛向寺の僧兵。

酒田湊三十六人衆【さかたみなとさんじゅうろくにんしゅ】

酒田湊を支配した会合衆。1521年、酒田といわれた袖の浦地区から当酒田へ移転を開始して、砂質の荒蕪地を開拓整備しながら本街を中心とした市街地づくりを行い、屋敷街に居を定めた商人達を酒田三十六人衆と称した。酒田湊から積み出さわる移出品の主なものは、米、大豆、紅花、青苧などであり、移入品には播磨の塩、京都、大阪、堺、伊勢から木綿、出雲の鉄、美濃の茶、南部、津軽、秋田の木材などがあった。

川北三奉行【かわきたさんぶぎょう】

安部越中守、斎藤筑後守、高橋伊賀守。

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【資料Ⅲ】

羽前国【うぜんのこく】

調査中。

酒田湊【さかたみなと】

酒田湊は、羽前国の北部酒田にあり最上川の河口に位置する。藤原秀衡の妹とも後室とも言われる徳尼公が酒田に落ち延びた際に随伴した家臣三十六人により開かれたと言われる。その時の家臣が「酒田三十六人衆」と呼ばれ、その子孫は、後に酒田を代表する大商人になった。西回り航路では、酒田港は西回り航路の起点となった。最上川の舟運より運ばれた紅花や米、各地の特産物が北前船に積まれ、日本海から瀬戸内海を廻って、西国、東国に運ばれた。「西の堺、東の酒田」と呼ばれ、「酒田三十六人衆」でもある鐙屋や本間家は大商人になった。

最上川【むがみがわ】

最上川は、羽前国を流れる最上川水系の本川。1583年、武藤義氏が滅亡すると、庄内地方は長尾景勝が治め、東禅寺城に甘粕景継を守将として置いた。庄内地域の収穫向上を図るため最上川支流の相沢川に井堰を建設し、そこから用水路を引き庄内平野の灌漑を行った。1600年、「関ヶ原の役」後、最上義光が庄内地方を領すると、灌漑整備を更に進めた。1612年、北楯利長が最上義光の意向を受け用水路建設を実施した。北楯大堰用水路によって急速に農地は拡大、次第に集落も形成されて行くようになった。

佛向寺【ぶっこうじ】

最上八楯の役割を担った寺院。天童城の西側を防御した。1287年、一向俊聖によって創建された。広大な寺社領と僧兵を擁して、天童家や最上八楯に協力した。1584年、「天童城の戦い」では、最上義光勢の攻撃を受け堂宇を焼失してた。

成就院【せいしょくいん】

宝憧院、柴野来吽院らとともに最上義光の意向を受け天童頼久を呪詛した。成就院の僧は拒んだために謀殺され、宝憧院、柴野来吽院の僧は最上義光に従った功により、若松観音別当として330石の寺領を領した。

延沢銀山【のべさわぎんざん】

佐渡銀山や石見銀山、生野銀山に匹敵する銀の生産量を誇った。1456年、金沢の人、儀賀市郎左衛門が発見、西山での採掘を開始した。1598年、延沢銀山で産出した銀を羽柴秀吉に上納した。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

出展図書は図書名を示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。

個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、津軽為信は大浦為信に統一。

参考文献:『津軽秋田安東一族』by新人物往来社、『東北大名の研究(戦国大名論集2)』by吉川弘文館、『会津芦名一族』by歴史春秋社、『最上義光(戦国の驍将)』by新人物往来社、『奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)』by宝文堂、『会津芦名四代』by歴史春秋、『伊達政宗(全8巻)』by講談社、『天を衝く(全3巻)』by講談社文庫、『独眼竜伊達政宗』by時代小説文庫、『津軽風雲録』by時代小説文庫、『政宗に睨まれた二人の老将』by宝文堂、『秋田「安東氏」研究ノート』by無明舎、『(史伝)伊達政宗』by学研M文庫、『独眼竜政宗』by講談社文庫、『奥羽永慶軍記(全2巻)』by新人物往来社、『津軽南部の抗争(南部信直)』by無明舎出版、『秋田の中世浅利氏』by無明舎出版、『独眼龍政宗』by文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、『陸奥南部一族』by新人物往来社、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『戦国人名事典』by新人物往来社、『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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