2011年4月20日水曜日

本多忠勝家臣団辞典

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【あ】

荒川甚太郎【あらかわじんたろう(15??~1573)】

本多忠勝の家臣。1573年「三方ヶ原の戦い」で討死。

植村氏義【うえむらうじよし(15??~15??)】

本多忠勝の外祖父。通称新五郎。娘の小夜は本多忠高に嫁ぎ、本多忠勝を産んだ。

植村氏明【うえむらうじあき(1520~1552)】

植村氏義の男。通称新六郎。松平家三代(清康・広忠・家康)に仕えた家臣で、不毛の豪傑であり槍・刀の名手で、剣術は鞍馬流の奥義を極めていた。1535年、主君・松平清康が森山崩れで阿部正豊に斬られた時も、阿部正豊をその場で斬っている。1549年、松平広忠が刺客の岩松八弥に斬られた時も、逃げてきた八弥と組み合った末堀に落ち、松平信孝が鑓で突こうとしたが、結局植村氏明が首を斬り、感状を与えられた。1552年、尾張国沓掛城で織田勢と戦い討死した。

植村家存【うえむらいえさだ(1541~1577)】

植村氏明の男。官位は出羽守。通称新六郎。1549年から松平元康に仕える。1552年、父植村氏明が死去したため家督を相続した。1562年「清洲同盟」を結ぶため清洲城に赴いた松平元康の護衛を務めた。織田信長についてゆき、一行が書院に入ろうとしたが、植村家存が松平元康の刀を持ったまま入室しようとした為、警固の者に何者かと咎められた。これに対して植村家存の方は、「我は植村出羽守なり。主君の刀を持って参ったのを、そのように大袈裟に咎めてくれるな」と荒々しく言い放った。会見後、織田信長は護衛役の植村家存に二振りの行光の太刀を与えた。その後、酒井忠次、石川家成、石川数正らと共に家老職となる。1572年、織田信長と越後長尾景虎の同盟の仲介を行い、長尾景虎から長光の刀と山伏出立の具足を贈られた。

植村家次【うえむらいえつぐ(1567~1599)】

植村家存の男。室は依田信蕃の娘。通称新六郎。1577年、父植村家存を亡くし、松平信康の小姓となるが、罪を受けて松平信康が切腹すると、流浪の身となる。榊原康政の推挙により、再び松平元康に仕え、上野国邑楽郡500石を給される。息の植村家政は松平秀忠の小姓から、大名に出世している。

植村安重【うえむらやすしげ(15??~15??)】

植村氏義の次男。本多忠勝の叔父。

植村安政【うえむらやすまさ(15??~15??)】

植村安重の男。本多忠勝の従兄弟。永禄九年、本多忠勝に附けられる。

植村小夜【うえむらさよ(15??~15??)】

植村氏義の娘。 本多忠高の室。 「本多の後家」として城主、松平元康の不在の苦しい時代の岡崎城下でも有名だったと伝えられる。後家を貫いたわけではなく、後年再婚し、本多忠勝の妹を生んでいる。


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【か】

梶勝忠【かじかつただ(1549~15??)】

本多忠勝の家臣。通称金平。都築家と共に家老として代々本多家を支えてきた梶家。その祖は松平家一族である能見松平光親の次男・親友とされ、本多勝忠はその親友の曾孫にあたる。松平元康に使い番として仕えていたが、1566年、本多忠勝が旗本先手役に任命されると寄騎衆として本多隊に組み込まれる。本多忠勝隊の中心として多くの合戦に従軍。1600年「関ヶ原の戦い」では、敵兵の放った矢によって愛馬「三国黒」を失いながらも徒立ちで奮戦する本多忠勝に自分の馬を差し出し、本多忠勝の窮地を救った。1601年、本多忠勝の桑名移封の際には先発隊として桑名城に入城した。

河合政光【かわいまさみち(15??~1573)】

本多忠勝の家臣。通称又五郎。1573年、「三方ヶ原の戦い」で討死した。旗本先手役に抜擢された本多忠勝の寄騎衆50騎の1人。知行5000石(内、与力給2500石を含む)。実弟・河合政一が又五郎の通称と家督を継いでいる。


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【さ】

桜井勝次【さくらいかつつぐ(15??~1581)】 

通称庄之助。遠江国浜松城に居住。本多忠勝の寄騎衆。「姉川の戦い」「三方原の戦い」などで軍功をたてた。遠江国豊田郡に知行地をあたえられた。

桜井勝成【さくらいかつなり(1575~1659)】

桜井勝次の男。本多忠勝・忠政親子、ついで田中吉政に仕える。松平元康のもとで活躍した父桜井勝次の軍功により,幕府の書院番、使番をつとめた。


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【た】

都築秀綱【つくしひでつな(15??~15??)】

遠江国引佐郡都築城主。都築秀景の男。通称惣左衛門。子に弥左衛門為政。浜名湖北岸に所領を有する国人衆として今川家に仕えた。1560年「桶狭間の戦い」の敗戦で今川領内が動揺しても変わらずに仕えていた。1566年、今川氏真から所領安堵の判物を拝領している。1568年、松平元康が遠江国に侵攻。松平元康が浜名湖北岸へ派遣した本多忠勝、戸田忠次らに降伏。500貫の所領は、改めて安堵されている。松平元康の直属軍強化のために新設した旗本先手役の一員に加えられ寄騎衆として本多忠勝に属した。本多忠勝が大喜多城に転封されると、本多家の付け家老として配される。3500石に寄子給2500石を合わせた6000石を領した。

【な】

長坂信宅【ながさかのぶたく(15??~15??)】

通称彦五郎。松平清康の頃から松平家に仕え、本多忠勝と出会うまでに既に首級93を挙げていたといわれる本多隊きっての猛将「血鎗九郎」。叔父の本多忠真から武士道の教育を受け、長坂彦五郎から武道の教育を受けた。1590年、松平元康の関東移封に際し、本多忠勝が大多喜城を拝領するに当たって、長坂彦五郎は中根平右衛門信元と共に本多家の家老の職に就く。

長坂忠尚【ながさかただなお(15??~15??)】

長坂信宅の次男。通称源吉郎。父長坂信宅の後を継ぎ本多忠勝~四代本多政勝に仕えた。

中根正照【なかね まさてる(15??~15??)】

三河国の豪族衆中根正昭の男。松平家の譜代家臣で松平信康の付け家老。二俣城主を務めた。1568年、松平元康が遠江国に侵攻して二俣城を奪い、中根正照を城主、青木貞治・松平康安らを寄騎衆として入城させた。1572年、武田晴信に攻められ降伏・開城した。二俣城には武田方の芦田信守・信蕃父子が入城する。中根正照は開城後浜松城に帰城した。松平元康は、開城を知らず二俣城に向かい武田勢と激突し惨敗して浜松城に敗走した。中根正照は二俣城開城の恥辱を雪がんとして「三方ヶ原の戦い」で奮戦するも討死を遂げた。

中根忠実【なかねただざね(15??~1610)】

官位は越中守。別名織田信照(平右衛門)。織田信秀の九男。母の実家(熱田の商家)の中根忠貞の養子となった。1582年、織田信長が死去した後は織田信雄の家臣となった。1584年「小牧・長久手の戦い」にも参戦したが、羽柴勢の攻勢に敗れて捕虜となった。しかし、織田信長の弟であるということから一命は助けられた。織田信照は、本多忠勝に仕え家老となった。養父である中根忠貞の実弟・中根正照のが「三方ヶ原の戦い」で討死したため、中根家の家督を相続した。1600年「関ヶ原の戦い」では大多喜城の留守居を嫡子・源次郎忠晴と務めた。伊勢国桑名城への転封後は、縄張り・町割りなど城下の再整備に活躍した。1610年、本多忠勝に殉じて追い腹を切った。

中根忠晴【なかねただはる(15??~15??)】 

中根忠実の男。

中根重定【なかねしげさだ(15??~15??)】

中根忠実の枝連衆。1566年、本多忠勝に付けられた。


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【は】

浜名三郎兵衛【はまなさぶろうびょうえ(15??~15??)】

浜名頼広の男。本多忠政に仕えた。1615年「大坂の冬陣」に出陣「道明寺口の戦い」で功があった。

久貝正好【ひさかいまさよし(15??~1587)】

久貝政勝の男。1577年、今川家に仕官。後に松平家に仕えた。1573年、本多忠勝隊に属して「三方ヶ原の戦い」で首二つを挙げる。子は正俊。

本多忠豊【ほんだただとよ(15??~1544)】

額田郡蔵前城主。本多助時の男。松平清康の家臣。1544年、織田勢に占領された安祥城を奪還すべく、松平広忠は軍勢を起こす。1545年「安祥畷の戦い」で、松平広忠を助けるため、身代わりとなって敵陣へ踊り込む。仁王の如く奮戦するも、松平広忠の兜をかぶったまま針鼠のように無数の矢を身体に受けたまま絶命した。

本多忠高【ほんだただたか(1526~1549)】

本多忠豊の男。室は植村氏義の娘。1547年、松平一族で、家督を狙う松平信孝が反乱に出陣した。1548年、織田信秀勢が三河国に侵攻すると、今川家の太原雪斎とともに松平広忠が出陣し「小豆坂の戦い」で、織田勢と戦い、勝利を収めた。1549年、松平広忠が岡崎城内で岩松八弥に暗殺され、松平家や三河国人衆は大きく動揺した。今川義元は三河国人衆が織田家に寝返ることを恐れ、太原雪斎を送って織田家の三河国の拠点であった安祥城を攻めた「第三次安城の戦い」。守将の織田信広は城をよく守ったため、本多忠高は大久保忠俊らとともに夜襲に及び、戦果を収めたが、翌日の戦いにて敵の矢に当たって討死した。

本多忠真【ほんだただまさ(1530~1572)】

本多忠豊の次男。本多忠高の男。本多忠勝が四歳の時から、叔父本多忠真の許に預けられ、武士としての教育を受けた。本多忠真は、読み書きや武士としての作法、松平家臣としての心得等、本多宗家の後継ぎとして必要な知識を、討死した兄本多忠高に成り代わって本多忠勝に教育した。
本多忠勝が駿府で人質となっている家康の許へ小姓として近習する1557年までの間、約六年続いた。1560年「桶狭間の戦い」後、松平元康が岡崎城主に返り咲いてから、再び本多忠勝は叔父の許で修行を積むことになった。本多忠勝は松平元康の馬廻衆を勤め、本多隊は、本多忠勝が旗本先手衆と叔父の指揮する二隊に分かれていた。1572年「三方ヶ原の戦い」から、本多忠真隊も本多忠勝隊に組み込まれ、一隊を編成したが、本多忠真は、殿軍を買って出た本多忠勝隊にあって、本多忠真は道の左右に旗指物を突き刺し「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言って追走する武田勢を迎撃するも討死した。

本多忠勝【ほんだ ただかつ(1548~1610)】

本多忠高の男。安祥松平家(徳川本家)の最古参の安祥譜代家臣。1549年、二歳の時に父本多忠高が討死し、叔父本多忠真に養育される。年少の頃から松平元康に仕えた。1560年「桶狭間の戦い」の前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。1563年「三河国一向一揆」では、多くの本多一族が一向宗(浄土真宗)側に参戦するなか、浄土宗に改宗して松平元康側に残り武功を挙げた。1566年、榊原康政や本多正重、都築秀綱らとともに旗本先手役に抜擢されて、寄騎衆50騎を率いた。本多忠勝は常に松平元康の元にあり、旗本部隊の将として活躍した。1570年「姉川の戦い」にも参加し、松平本陣に迫る朝倉勢10,000に対して本多隊を引きいて、朝倉勢を食い止めた。1572年「二俣城の戦い」の前哨戦の「一言坂の戦い」で殿軍を努め、馬場信春の部隊を相手に奮戦し、松平元康率いる本隊を撤退を援護した。1572年「三方ヶ原の戦い」にも参戦した。1575年「長篠の戦い」にも参加する。1582年「本能寺の変」が起きたとき、松平元康は本多忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していたが、元康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを本多忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせた。1584年「小牧・長久手の戦い」での活躍などにより、羽柴秀吉からも東国一の勇士と賞賛された。1590年、家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜城100,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では松平元康本軍に従軍し、諸大名に書状を送って東軍方につける工作にも活躍した 。1601年、伊勢国桑名城100,000石に移されると、旧領・大多喜城は50,000石の減封のうえ次男本多忠朝に与えられた。晩年は、戦乱の収束により本多正純などの吏僚派が松平家の家政を取り仕切り、本多忠勝のような武功派は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられた。

本多忠政【ほんだただまさ(1575~15??)】

本多忠勝の男。1590年「小田原の役」に初陣する。1600年、松平秀忠勢に属して「第二次上田城の戦い」に従軍するも、真田勢の足止めに合い本戦の「関ヶ原の戦い」には参加できなかった。1609年、父本多忠勝が隠居したため、本多家の家督を相続して桑名藩の第二代藩主となる。1614年「大坂の陣」にも参加し、数々の武功を挙げている。冬の陣の休戦和議締結で大坂城の堀を埋め立てた際、埋め立て奉行を松平忠明達と担当している。1617年、姫路城150,000石を領した。本多忠政の室は松平信康の次女・熊姫。本多忠政の男、本多忠刻の室は豊臣秀頼の室だった千姫。

本多忠朝【ほんだ ただとも(1582~1615)】

本多忠勝の次男。父本多忠勝に劣らぬ勇将。1600年「関ヶ原の役」に父本多忠勝と共に従軍して活躍した。父本多忠勝が伊勢桑名藩に移封されると、旧領・上総大多喜50,000石を領した。1610年、父本多忠勝が亡くなると、遺領は兄本多忠政が領したが、本多忠朝、異議を唱えなかった。1614年「大坂冬の陣」でも活躍したが、酒を飲んでいたために不覚をとり、敵の猛攻に遭って敗退した。1615年「大坂夏の陣」のとき、汚名を返上しようと「天王寺・岡山の戦い」で先鋒を務め、毛利勝永勢に正面から突入し、奮戦したが討死した。死の間際、「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と無念の言葉を残した。

本多忠刻【ほんだただこく(1596~1626)】

本多忠政の男。官途は中務大輔。通称平八郎。1614年「大坂冬の陣」で初陣を果たす。1616年、千姫を娶る。1617年、播磨国100,000石。遺領のうち50,000石は弟本多政朝が相続。弟本多忠義に40,000石、小笠原長次に60,000石に分割された。

本多政朝【ほんだまさより(1599~1638)】

本多忠政の次男。官途は甲斐守。通称鍋之助。1614年「大坂冬の陣」で初陣を果たす。叔父本多忠朝が討死すると、その娘を娶り遺領を相続。上総大多喜城50,000石。1617年、播磨国龍野城に転封。1626年、兄本多忠刻が没すると遺領のうち50,000を相続した。旧領龍野城は小笠原長次が知行することになった。父本多忠政の姫路城150,000石に転封。旧領50,000石のうち10,000石は弟本多忠義に分与。40,000石は養子の本多政勝に分与した。

本多忠義【ほんだただよし(1602~1676)】

本多忠政の三男。1626年、兄本多忠刻の遺領のうち40,000石を相続。1649年、20,000石を加増されて奥州白河城主。

本多政勝【ほんだまさかつ(1614~1671)】

本多忠朝の次男。入道丸、内記。従四位下侍従。剛力のため鬼内記と呼ばれた。1615年、父本多忠朝は「大坂冬の陣」で討死したが、本多政勝は幼少のため家督を継ぐことが出来ず、本多政朝の養子となった。1631年、本多政朝から姫路城40,000石を与えられた。1539年、本多政朝が没すると遺領を相続。大和国郡山城に転封された。

本多家臣団【ほんだけかしんだん】

阿佐美清兵衛、新屋清左衛門、依田内蔵介、伊奈伊左衛門忠安、植村土佐泰忠、江原市内、大鐘彦市政広、大原作右衛門、大原惣右衛門、大原与五左衛門、小野田与市、影山弥三郎、勝屋甚五兵衛利政、河原与右衛門、小泉孫八郎、向坂与五右衛門、小坂助六、近藤八左衛門、柴田五郎左衛門、下里藤八郎、多門伝十郎重信、土屋甚介重俊、内藤平十郎、内藤源太左衛門、永坂甚平勝重、長坂太郎左衛門重信、永田覚右衛門、中根五助重定、中村与惣富重、蜂須賀彦助政刻、原田九郎兵衛種道、日置小左衛門正光、福尾淡路守、二橋藤大夫、本多三左衛門正重、本多甚六、本多平三郎、松下源五郎、松下久左衛門景綱、松下三十郎元綱、松下七兵衛、三浦竹蔵、水野弥三郎、山口嘉平治、山本唯右衛門、渡辺半兵衛真綱、渡部墨右衛門吉綱。

本多小松【ほんだこまつ(1573~1620)】

通称稲姫。本多忠勝の長女。松平元康の養女として真田信之に嫁いだ。大蓮院。


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【ま】

松下乙女【まつしたおとめ(15??~15??)】

松下弥一の娘。本多忠勝の側室。正室の阿知和於久より先に嫁いだ。幼くして父松下弥一を亡くし妙源寺に預けられた。1566年、本多忠勝が騎馬隊長として36,000石と岡崎城内に侍屋敷を拝領すると、母松下小夜と共に転入し、実質的な夫婦となる。本多忠勝との間には、真田真之の室となる小松の他に三人の娘をもうけた。



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【や】

阿知和於久【わちわおひさ(15??~15??)】

阿知和右衛門玄銕の娘。本多忠勝の室。1569年、松平元康の媒酌により婚姻。本多忠政、忠朝の他に娘一人をもうける。本多忠勝が大多喜城から桑名城に転封になったとき、大多喜城に留まった。見星院。

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本多信重【ほんだのぶしげ(15??~1529)】 

三河国碧海郡土居城主。豊後守系本多家嫡統。安城松平家の松平長親に臣従し三河譜代衆となる。1529年、本多信重は松平清康の東三河遠征に従軍し「御油縄手の戦い」で討死した。

本多広孝【ほんだひろたか(1528~1598)】 

本多信重の男。官途は豊後守。通称彦三郎。室は東条松平義春の娘。本多広孝は、1535年「森山崩れ」の松平清康横死以後の混乱・危機の時期も忠節を続けた。今川義元に駿府で人質として留め置かれている松平竹千代の岡崎帰城を頻りに嘆願したが、結局は今川義元の在世中にその望みは受け入れられなかった。1561年、東条吉良家との「藤波畷の戦い」には、劣勢となった松平勢を支えて奮戦し、吉良義昭勢の勇将富永忠元を討ち取り形勢を逆転、吉良家を降伏に追い込み一躍勇名を馳せた。1563年「一向一揆の戦い」では、本多広孝は嫡子康重を忠節の証として元康に差し出し、自らは土居の城館を拠点一向宗と戦った。1572年、武田晴信との「三方ヶ原の戦い」では浜松城より取って返し、武田勢の追撃を防いで味方の敗走を助た。1575年「長篠の戦い」では別働隊として鳶の巣山砦を酒井忠次たちと攻め守将の武田信実を討取った。1577年、家督を本多康重に家督を譲る。1590年、松平元康の関東入部にともない、本多康重とともに上野国白井城20,000石に封ぜられた。

本多康重【ほんだやすしげ(1554~1611)】 

本多広孝の男。室は石川家成の娘。官途は豊後守。通称は彦次郎。1572年、武田晴信との「三方ヶ原の戦い」で戦功を挙げた。1590年「小田原の役」後に松平元康が関東に移されると、上野国白井城20,000石を与えられた。1600年「関ヶ原の戦い」後の三河国岡崎城50,000石を与えられた。

本多左馬之介【(15??~15??)】 

本多広孝の家臣。1569年、掛川城攻めで戦功を挙げた。

吉見孫八郎【(15??~15??)】 

本多広孝の家臣。1569年、掛川城攻めで戦功を挙げた。

山下庄左衛門【(15??~15??)】 

本多広孝の家臣。1575年「長篠の戦い」で、本多康重と共に姥ヶ懐で三枝守友を討ち取る。

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本多重次【ほんだしげつぐ(1529~1596)】 

本多重正の男。通称本多作左衛門。室は鳥居元忠の妹。松平元康に従って各地を転戦し、その勇猛ぶりから鬼作左の異名をとる。1563年「三河一向一揆」の際、自ら宗門を改め松平元康に誓詞を差し出した。諸合戦でも一軍の将として戦功を重ねた。1565年、三河統一後は、高力清長・天野康景と三河三奉行に任ぜられた。剛直・果敢をもって民政を司った。本多重次は厳格な人でもあったが、公平な判断を下せる人であった。本多重次が長篠の戦いの陣中から室に宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は有名。1585年、三河国岡崎城代となるが、岡崎に人質として下向していた羽柴秀吉の母なかの処遇に不手際があったことを咎められた。1590年の松平元康の関東入りの後、上総国古井戸にて蟄居させられ、晩年を不遇のうちに過ごした。1596年、古井戸より下総井野に移された。

本多成重【ほんだ なりしげ(1572~1674)】

本多重次の男。官途は飛騨守従五位下。室は土岐定政の娘。幼名は仙千代(「一筆啓上。お仙泣かすな」のお仙)。1613年、松平忠直の付家老となり、丸岡城40,000石を領して若年の松平忠直を本多富正と共に補佐した。1615年「大坂の夏陣」では武功を挙げた。松平忠直が改易されると独立した大名に昇格した。1624年、6300石の加増され藩政の基礎を固めるために城下街の建設や治水工事などに手腕を発揮した。

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本多忠俊【ほんだただとし(15??~1564)】

三河国宝飯郡伊奈城主。1556年、今川義元から離反した奥平貞勝を鎮圧する「雨山の戦い」に参戦した。1560年、今川義元の尾張侵攻では、自らは参戦せずに嫡男の本多光忠を代将として派遣した。松平元康が独立すると、今川家を離反し松平元康方に転じた。1563年「一向一揆の戦い」では、自らは、豊川の東岸で三河支配権回復の機を窺う今川家の吉田城に備え、岡崎城へは本多光忠を支援に向かわせた。

本多忠次【ほんだただつぐ(1547~1613)】

本多忠俊の三男。通称は隼人佑。室は菅沼定村の娘。1564年「吉田城の戦い」に父本多忠俊と共に参陣した。1565年、父本多忠俊が病死するが、兄本多光忠は家督を継がず、本多忠次が代わって家督を相続した。1565年、本多忠次は家臣・戸田小栗を派遣して今川方の小原鎮実が守る吉田城主を攻略した。これにより松平元康は東三河を勢力下に置くことに成功した。これに対する本多忠次の功績は大きいとして忠次と兄光忠の所領加増ならびに弟の本多光典・家臣戸田小栗にそれぞれ50貫文の地の恩賞を与えた。1570年「姉川の戦い」に酒井忠次の寄騎衆として参陣した。1575年、松平信康の初陣に随い「足助城の戦い」で戦功を挙げる。1575年「長篠の戦い」では別働隊として鳶の巣山砦を酒井忠次たちと攻め守将の武田信実を討取った。1579年「高天神城の戦い」では、落城に際して武田方の首級21を討ち獲った。1579年、酒井忠次の次男康俊を迎え養子とした。1581年、松平元康の娘が北条氏直に嫁ぐ際、その御輿添えとして相模国に随従した。

本多康俊【ほんだやすとし(1569~1612)】 

酒井忠次の次男。本多忠次の養子。室は菅沼定盈の娘。1575年、織田信長の人質として織田家のもとへ赴いた。1580年、本多忠次の養子となった。1600年「関ヶ原の役」の戦功により三河国西尾城に20,000石を与えられた。1614年「大坂冬の陣」では近江国膳所城を守備した。1615年「大坂夏の陣」では天王寺・岡山の戦いに参加して首級を105個も挙げた。その戦功により、膳所城30,000石が与えられた。

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本多正信【ほんだまさのぶ(1538~1616)】 

本多俊正の次男。官途は佐渡守。鷹匠として松平元康に仕えた。1563年「三河一向一揆」が起こると、一揆方の武将として松平家に敵対した。一揆衆が鎮圧されると、諸国を放浪したが1575年、前後に大久保忠世を通じて松平家に帰参した。1582年「本能寺の変」に際しては、松平元康とともに堺にあり「伊賀越え」に同行した。織田信長の横死によって、空白地となった甲斐・信濃国を併合すると、奉行に任じられて両国の統治を担当した。1590年「小田原の役」の後、松平元康が関東に転封になると、相模国玉縄城10,000石が与えらた。松平元康の諜略面を担当するようになった。1600年「関ヶ原の役」では、第二軍の松平秀忠勢30,000に従い中山道平定戦にあたるが「上田城の戦い」で真田昌幸の知略に嵌まり「関ヶ原の戦い」の本戦に参戦することができなかった。1601年、京都の朝廷と松平元康の将軍職就任の政治工作を担当した。1603年、松平元康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると側近として幕政を実際に主導するようになった。しかし権勢を得たことは本多忠勝、大久保忠隣ら武功派の不満を買うことにもつながり、幕府内は正信の吏僚派と忠隣の武功派に分かれて権力抗争を繰り返すようになる。1613年「大久保長安事件」で大久保長安一党らを失脚させ、政敵・大久保忠隣らを失脚させた。1614年「大坂冬の陣」では、羽柴家を滅亡に追いやるために数々の諜略を行った。

本多正重【ほんだまさしげ(1545~1617)】 

本多俊正の四男。本多正信の弟。1563年「三河一向一揆」が起こると、兄本多正信と共に一揆方の武将として松平家に敵対した。一揆衆が鎮圧されると、一時放浪したがまもなく松平家に帰参した。「掛川城の戦い」「姉川の戦い」「一言坂の戦い」「三方ヶ原の戦い」「長篠の戦い」などで活躍した。再び松平家を去り、滝川一益に属し「神吉城の戦い」、前田利家に属して佐々成政と戦うなどした後に、蒲生氏郷に仕える。1596年、蒲生氏郷と喧嘩をし再び徳川家に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では検使を務め、その功で近江坂田郡内に1,000石を与えられる。1614年「大坂冬の陣」では松平秀忠の参謀として活躍した。

本多正純【ほんだまさずみ(1565~1637)】

本多正信の男。父本多正信が諸国を放浪している期間、本多正純は大久保忠世の元で養育された。父本多正信が松平家に帰参すると、父と共に松平元康の諜略面を担当するようになった。1600年「関ヶ原の役」では本戦にも参加した。1603年、松平元康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、さらに重用されるようになる。1605年、松平元康が将軍職を三男の松平秀忠に譲って大御所となり、二元政治が始まると、江戸城には大久保忠隣が、駿府城には正純が、そして正純の父本多正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。本多正純は松平元康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。1614年、政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった(大久保長安事件)。1614年「大坂冬の陣」では、羽柴家を滅亡に追いやるために数々の諜略を行った。

本多政重【ほんだまさしげ(1580~1647)】

本多正信の次男。倉橋長右衛門の養子。1597年、松平秀忠の乳母大姥局の息子岡部荘八を斬り殺して出奔し、大谷吉継の家臣となった。その後宇喜多秀家の家臣となり、20,000石を与えられ。1600年「関ヶ原の戦い」では宇喜多勢の武将として奮戦したが敗走した。その後福島正則に仕えたがすぐに辞去し、前田利長に30,000石で召し抱えられたがまもなく前田家を離れた。1604年、越後長尾景勝の家臣・直江兼続は本多政重を娘・於松の婿養子に迎えた。1605年、於松が病死したが養子縁組は継続された。1609年、直江兼続は弟大国実頼の娘・阿虎を養女にして嫁がせた。1611年、越後長尾家から離れ、藤堂高虎の取りなしで前田家に帰参した。本多政重は前田利常の補佐し、松平将軍家との交渉に当たった。1614年「大坂冬の役」では、真田信繁に真田丸に誘い込まれた末に敗れ、真田信繁に名を成さしめた。

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【資料】

鹿角脇立兜【かづのわきだてかぶと】

本多忠勝愛用の兜。鉄黒漆塗十二間の筋鉢兜で、四段の錣は鉄板札黒塗皺韋包みの黒糸素懸威。木彫黒漆塗の獅噛前立。最大の特徴である鹿の角をあしらった脇立は、何枚もの和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固めたもの。

黒糸威胴丸具足【くろいとおどしどうまるぐそく】

本多忠勝愛用の具足。肩から袈裟懸けされた大数珠が特徴的で、これは木製金箔押しである。胴は鉄製黒漆塗の切板札黒糸素懸威。草摺は皮製黒漆塗の切付。板札は七間五段下がり。籠手等の金具部分は青漆。動き易さを重視して軽く造られている。

蜻蛉切【とんぼきり】

本多忠勝愛用の槍。柄の長さ一丈三尺(約390cm)、刃の長さ一尺四寸二分(約43cm)。全長4mを越す長槍で藤原正真の作と言われている。鋭い切れ味で止まったトンボが真っ二つに切れてしまった事からこの名前が付いた。

三国黒【みくにぐろ】

本多忠勝の愛馬。戦国時代の馬としては、前田慶次郎の「松風」と並んで有名。1600年「関ヶ原の戦い」にて西軍の放った矢によって倒れた。

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