2011年5月29日日曜日

戦国土佐国人名辞典

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【あ】

赤松飛騨守【あかまつひだのかみ(15??~1563)】

吉良親貞家臣。赤松正則の男。官途は飛騨守。一条教房に従い土佐国に赴き吉良親貞に仕え神母山館80石を領した。参考文献:「南帝ラヂヲ」byToshi。

安芸元親【あきもとちか(1482~15??)】

安芸郡安芸城主。官途は備後守。1526年、「安芸城の戦い」で香宗我部親秀勢と戦い香宗我部秀義を討取る戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

安芸元泰【あきもとやす(15??~1544)】

安芸元親の男。官途は山城守。室は与松元盛の娘。継嗣の安芸泰親が早世したため、次男の安芸国虎が安芸家の家督を相続した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

安芸泰親【あきやすちか(15??~15??)】

安芸元泰の男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
安芸国虎【あきくにとら(1530~1569)】

安芸元泰の次男。官途は備後守。室は一条房基の娘。与松元盛の後見を受け安芸家の家督を相続した。1563年、「夜須館の戦い」で長宗我部元親の家臣吉田重俊勢と戦い反撃を受け撃退された。1569年、「八流川の戦い」で長宗我部元親勢と戦い大敗した。「安芸城の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け一条兼定の後詰も無く、城内の井戸に毒を入れられるなどしたため、浄貞寺で自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安芸弘恒【あきひろつね(1557~1582)】

安芸国虎の男(矢野備後守の養子)。官途は飛騨守。通称彦左衛門。別名矢野又六。室は矢野備後守の男。1569年、「安芸城の戦い」で父の安芸国虎が長宗我部元親勢と戦い浄貞寺で自刃したため、畑山元氏とともに阿波国の矢野備後守のもとに落延びた。1582年、「阿波中富川の戦い」で矢野備後守に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。
 
安芸家友【あきいえとも(1562~1634)】

安芸国虎の次男(安芸左京進の養子)。通称三郎左衛門。別名祖成山三郎左衛門。1569年、「安芸城の戦い」で父の安芸国虎が長宗我部元親勢と戦い自刃したため、阿波国に落延びた。土佐成山村で長宗我部元親の妹養甫尼に養育された。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕えた。1601年、七色紙を献上し御用紙方役、幡多郡代官に任ぜられた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安芸左京進【あきさきょうしん(15??~15??)】

安芸国虎家臣。1563年、「夜須館の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親の家臣吉田重俊勢と戦い反撃を受け撃退された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安宗実刻【あきむねさねくに(15??~1574)】

一条房基家臣。幡多郡安宗館主。官途は因幡守。1574年、一条兼定が追放されたため、奈良長門守、竹葉権頭、伊与田淡路守らと結び長宗我部元親勢に対抗した。「安宗館の戦い」で長宗我部元親に属した小島政章、中脇美作守らと和議を結び安宗館から出たところを小島政章勢に謀殺された。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

秋山刑部丞【あきやまぎょうぶのじょう(15??~15??)】

吾川郡秋山館主。1540年、一条房冬に仕えた。1557年、「秋山館の戦い」で本山茂辰勢の攻撃を受け降伏した。1560年、「秋山館の戦い」で長宗我部国親勢の攻撃を受け降伏して長宗我部国親に仕えた。参考文献:「長宗我部家武将列伝」by作者不明。

芦田主馬太夫【あしどしゅめいだいふ(15??~15??)】

香宗我部親泰家臣。陰陽師。1600年、長宗我部盛親が改易処分を受けため、山内一豊に仕え算所頭、博士頭を務めた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

飛鳥井頼孝【あすかいよりたか(15??~15??)】

一条房家家臣。別名飛鳥井自楽。室は一条兼定の姪。家門五家。和歌、蹴鞠を家業とした。土佐国に下向して一条房家に寄食した。1565年、山城京都に戻った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

飛鳥井雅量【あすかいまさかず(15??~1587)】

飛鳥井頼孝の男。別名飛鳥井関内。歌人、蹴鞠家。1563年、津野定勝に鞠道八足の図を与え蹴鞠の秘儀を教えた。1565年、父の飛鳥井頼孝は山城京都に戻ったが、一条兼定に仕えた。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、長宗我部元親に仕え鞠道と和歌を教えた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

飛鳥井雅春【あすかいまさはる(1582~1662)】

飛鳥井雅量の男。通称弥右左衛門。1587年、「豊後戸次川の戦い」で父の飛鳥井雅量が長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死したため、飛鳥井家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安並直敏【あなみなおとし(15??~15??)】

一条房基家臣。官途は和泉守。通称忠兵衛。室は飛鳥井雅量の娘。一条家四家老。1573年、家老職の羽生道成、為松若狭守とともに一条兼定を隠居させ一条内政に家督を相続させた。1574年、長宗我部元親の支援を受け一条兼定を豊後国へ追放した。「中村城の戦い」で羽生道成、為松若狭守とともに長宗我部元親の支援を受けた加久見左衛門尉、大岐左京進、江口玄蕃、橋本和泉守、山路出雲守、伊与田対馬守、伊与田国安、上山重正、上山源助、小島政章、和田兵衛、依岡左京、依岡右京進、野町四郎丸、沖長四郎、大塚八木右衛門勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安並有次【あなみありつぐ(15??~1621)】

安並直敏の男。通称久左衛門。1561年、一条兼定の意向を受け伊予国の土居清良のもとに赴いた。1574年、一条兼定が豊後国に追放されたため、長宗我部元親に仕えた。1600年、長宗我部盛親が改易処分を処されたため、藤堂高虎に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で藤堂高虎に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安並弥三【あなみよぞう(15??~15??)】

高岡郡安並館主。1517年、「姫野々館の戦い」で一条房家の意向を受け津野国泰の家臣中平元忠勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

安並玄蕃【あなみげんば(15??~15??)】

片岡直光家臣。1585年、「伊予金子城の戦い」で片岡光綱に従い小早川景隆勢と戦い片岡光綱が討死したため、竹内又左衛門、上村孫左衛門とともに片岡光綱の亡骸を黒岩館に持帰った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

天野屋清左衛門【あまのやせいざえもん(15??~15??)】

佐竹義直家臣。1571年、「蓮池城の戦い」で佐竹義直に従い長宗我部元親の家臣吉良親貞勢と戦い落城した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

有井玄蕃【ありいげんば(15??~15??)】

安芸国虎家臣。安芸郡十二人衆。参考文献:「長宗我部家武将列伝」by作者不明。

有岡安房守【ありおかあわのかみ(15??~15??)】

幡多郡加持有岡館主。参考文献:「高知県の観光」by高知県の観光。

有沢重貞【ありさわしげさだ(15??~1569)】

安芸国虎家臣。官途は石見守。別名有沢重親。1569年、安芸国虎が長宗我部元親との戦い浄貞寺で自刃する錯を務め、殉死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

伊尾木権左衛門【いおぎごんざえもん(15??~15??)】

安芸国虎家臣。安芸郡有井館主。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い安芸国虎が滅亡したため、長宗我部元親に降伏して有井館から退去した。参考文献:「隠居の暇つぶし」by石州の人。

五百蔵清光【いおろいきよみつ(15??~1583)】

長宗我部元親家臣。香美郡五百蔵館主。官途は筑後守。長宗我部元親に降伏した。参考文献:「長宗我部家武将列伝」by作者不明。

五百蔵佐渡守【いおろいさどのかみ(15??~1582)】

五百蔵清光の男。通称左門次郎。1582年、「阿波中富川の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

五百蔵盛光【いおろいもりみつ(15??~1582)】

五百蔵清光の次男。通称左馬進。1582年、「阿波中富川の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

五百蔵光広【いおろいみつひろ(15??~1586)】

五百蔵清光の三男。通称六之進。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:「長宗我部家武将列伝」by作者不明。

五百蔵左馬進【いおろいうまのしん(15??~1615)】

桑名親光の次男(五百蔵盛光の養子)。別名桑名藤次郎。室は五百蔵盛光の娘。1600年、「関ヶ原の戦い」で甥の五百蔵重光とともに長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い大坂に退却した。長宗我部盛親が改易処分に処されたため、浅野良重に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で羽柴秀頼に属した長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で松長宗我部盛親に従い平元康勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

五百蔵重光【いおろいしげみつ(15??~1615)】

長宗我部元親家臣。通称亦五郎。1600年、「関ヶ原の戦い」で五百蔵左馬進とともに長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い大坂城に退却した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

井口勘解由【いぐちかげゆ(15??~1560)】

本山茂辰家臣。土佐郡井口館主。1560年、「井口館の戦い」で吉田周孝勢の攻撃を撃退するが、追撃戦で中野新八の反撃を受け弓矢に倒れると劣勢となり落城した。参考文献:「忠兵衛ぐでんぐでん日記」byぐでのすけ。

池内真武【いけうちまさたけ(15??~16??)】

香宗我部秀通家臣。官途は肥前守。筆頭家老職を務め、400石を領した。香宗我部親秀とともに香宗我部家の養子に長宗我部国親の三男香宗我部親泰を迎えたが、池内玄蕃が反対した。長宗我部元親に池内玄蕃を讒言して自刃に追込んだ。1569年、「安芸城の戦い」で香宗我部親泰に従い安芸国虎勢と戦い戦功を挙げた。1581年、「阿波一宮城の戦い」で長宗我部元親に従い一宮成祐勢と戦い戦功を挙げ一宮城を領した。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、所領を失った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

池内神左衛門【いけうちかみざえもん(15??~15??)】

池内真武の男。参考文献:「長宗我部家武将列伝」by作者不明。

池内玄蕃【いけうちげんば(15??~15??)】

香宗我部秀通家臣。香宗我部親泰の入養に反対して池内真武と対立した。池内真武の讒言を受け自刃に追込まれた。参考文献:「長宗我部家武将列伝」by作者不明。

池頼定【いけよりさだ(15??~15??)】

長岡郡池館主。細川定輔の次男。官途は豊前守。浦戸種崎湊を領して大坂堺と交易を積極的に行い高い経済力を誇った。1547年、「池館の戦い」で長宗我部国親勢と戦い中島親吉の調略を受け池万五郎が内応した。岩松経重も討死したため、降伏に追込まれた。長宗我部国親の娘を池頼和の内室に迎え和議を結んだ。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

池頼和【いけよりかず(15??~1593)】

池頼定の次男。通称四郎左衛門。室は長宗我部国親の娘(次女)。長宗我部元親の土佐海賊衆を率いた。1590年、「伊豆下田城の戦い」で長宗我部元親に従い安宅船(大黒丸)で下田城を攻撃して戦功を挙げた。1593年、内室と不仲となり、謀叛の嫌疑を受け自刃した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

池六右衛門【いけろくざえもん(15??~15??)】

池頼定家臣。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

池慶乗【いけけいじょう(15??~15??)】

池頼和家臣。一向宗浦戸道場を開山した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石谷重信【いしがいしげのぶ(15??~15??)】

天竺花氏家臣。土佐郡金山館主。蚊井田重芳の男。官途は民部少輔。通称右衛門亮。室は本山茂辰の娘。継室は吉田右近の娘。1547年、「大津城の戦い」で天竺花氏が長宗我部国親勢と戦い討死したため、長宗我部国親に仕え土佐神社の神職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

一条房家【いちじょうふさいえ(1475~1539)】

幡多郡土佐中村城主。一条教房の男。官途は左近衛少将。土佐国司。室は日野資冬の娘。公家勢力。独自勢力を築き、土佐中村を「小京都」と称されるほどの繁栄を誇った。1508年、「岡豊城の戦い」で長宗我部兼序が本山養明、大平元国、吉良宣経、山田元秀らに討取られたため、長宗我部国親を保護して旧領に復帰させた。次男の一条房通を京都一条惣領家の養子に送り込んだ。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一条房冬【いちじょうふさふゆ(1498~1541)】

一条房家の男。官途は左近衛大将。室は伏見宮邦高親王の娘(玉姫)。側室は大内義興の娘。弟一条房通が京都の一条宗家を相続するため、父の一条房家とともに上洛していた二年間は、土佐中村城留守居役を務めた。継嗣の大内晴持は、大内義隆の養子に迎えられた。1540年、「敷地藤康の乱」で敷地藤安を謀叛の嫌疑をかけ自刃させた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一条房通【いちじょうふさみち(1509~1556)】

一条房家の次男。官途は左大臣。室は一条冬良の娘。1517年、左中将に叙せられた。京都の一条惣領家を相続するため、父の一条房家とともに上洛した。1545年、養父の一条冬良と同じく関白職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一条房基【いちじょうふさもと(1522~1549)】

一条房冬の男。官途は左近衛中将。室は大友義鑑の娘。智勇に優れた人物。1541年、父の一条房冬が病没したため、一条家の家督を相続した。1543年、「姫野々館の戦い」で大平元国、津野基高勢と戦い戦功を挙げ高岡郡を領した。1546年、「須崎の戦い」で大平元国、津野基高勢と戦い戦功を挙げた。1549年、突如として自刃した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一条兼定【いちじょうかねさだ(1543~1585)】

一条房基の男(一条房通の養子)。官途は左近衛少将。室は宇都宮豊綱の娘。継室は大友義鎮の娘。1549年、父の一条房基が自刃したため、祖父の一条房通の後見を受け土佐一条家の家督を相続した。1558年、宇都宮豊綱の娘を離別して、大友義鎮の娘を内室に迎えた。、1568年、「伊予高島、鳥坂峠の戦い」で宇都宮豊綱を支援して河野通宣勢と戦い敗退した。1569年、土居家忠を無実の罪で謀殺したため、家臣の信望を失った。1573年、家老職の安並直敏、羽生道成、為松若狭守らに隠居に追い込まれ、一条内政に家督を譲った。1574年、追放処分に処されたため、大友義鎮のもとに落延びた。1575年、「四万十川の戦い」で大友義鎮、法華津範延、御荘越前守の支援を受け長宗我部元親勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一条内政【いちじょうただまさ(1557~1580)】

一条兼定の男。官途は左近衛中将。室は長宗我部元親の娘。別名「大津御所」。1574年、父の一条兼定が安並直敏、羽生道成、為松若狭守らに追放処されたため、長宗我部元親の支援を受け一条家の家督を相続した。1580年、波川清宗の謀反を支援した嫌疑を受け追放処分に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一条政親【いちじょうまさちか(15??~16??)】

一条内政の男。官途は摂津守。別名「久礼田御所」。1580年、父の一条内政が謀叛の嫌疑を受け長宗我部元親に追放処分に処されたため、長宗我部元親の家臣久礼田道佑に養育された。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処せられたため、宗家を頼り上洛した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一円氏直【いちえんなおうじ(15??~15??)】

一条房家家臣。一条房家とともに土佐国幡多郡に下向した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一円隼人【いちえんはやと(15??~15??)】

一円氏直の男。通称民部。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一円但馬守【いちえんたじまのかみ(15??~15??)】

一円隼人の男。1560年、「長浜の戦い」で長宗我部国親に従い本山茂辰勢と戦い戦功を挙げた。1569年、「安芸城の戦い」で長宗我部元親に従い安芸国虎勢と戦い安芸郡羽根砦8町を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

一円帰部【いちえんかもん(15??~15??)】

一円隼人の次男。通称五郎兵衛。室は国沢越中守の娘。1582年、「勝瑞城の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い負傷した。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、所領を失った。1614年、「大坂冬の陣」で長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で松長宗我部盛親に従い平元康勢と戦い阿波国黒石に落延び橋本小兵衛に仕え100石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一円右京【いちえんうきょう(15??~15??)】

一円隼人家臣。官途は山城守。1582年、「勝瑞城の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い負傷した一円掃部を助けて帰還した。参考文献:「長宗我部家武将列伝」by作者不明。

稲毛三郎左衛門【いなげさぶろうざえもん(15??~15??)】

土佐郡保宇館主。1560年、「保宇館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

井上又四郎【いのうえまたしろう(15??~15??)】

吾川郡加田館主。1556年、「加田館の戦い」で本山茂辰勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

井原源七郎【いのはらげんしちろう(15??~15??)】

安芸国虎家臣。安芸郡馬ノ上館主。1569年、安芸国虎から感状を受けた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

井口勘解由【いのくちかげゆ(15??~1560)】

土佐郡井口館主。1560年、「井口館の戦い」で長宗我部元親の家臣吉田周孝勢の攻撃を受け撃退するが、追撃戦で中野新八に左脇腹を射られ討死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

井町権頭【いのまちごんのかみ(15??~15??)】

和食親忠家臣。1550年、和食親忠が病没したため、長崎内蔵介、安芸国虎と結び安芸郡内で勢力を拡大した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

井町源七郎【いのまちげんしちろう(15??~15??)】

井町権頭の男。父の井町権頭が病没したため、後見役の長崎内蔵助に補佐を受けた。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い敗退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

猪野長義【いのながよし(15??~15??)】

山田元秀家臣。香美郡猪野館主。通称兵部丞。家老職を務めた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

猪野正義【いのまさよし(15??~15??)】

猪野長義の男。通称民部。1549年、「楠目館の戦い」で山田義元に従い長宗我部国親勢と戦い山田元義が滅亡したため、常陸国に落延び笠間時友に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

今井貞邦【いまいさだくに(15??~15??)】

本山茂辰家臣。土佐郡今井館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

今井左馬助【いまいうまのうけ(15??~15??)】

今井貞邦の男。1563年、「朝倉館の戦い」で長宗我部元親に従い本山茂辰勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

今城伊豆守【いましろいずのかみ(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

伊与田家実【いよたいえざね(14??~15??)】

一条教房家臣。堀川信隆の男。幡多郡伊與木館主。官途は対馬守。別名伊与木宗実。1479年、父の堀川信隆が一条教房に仕え1,200石を領した。1536年、熊野神社に棟札銘を奉納した。参考文献:「日本の城めぐり」byリアライズ。

伊与田隆祐【いよたたかすけ(15??~15??)】

伊予田家実の男。通称玄蕃。別名伊与木隆祐。1571年、「仁淀川の戦い」で津野勝興とともに一条兼定に従い長宗我部元親勢と戦い敗退した。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、長宗我部元親に降伏した。参考文献:「日本の城めぐり」byリアライズ。

伊与田高康【いよだたかやす(15??~1574)】

伊与田隆祐の男。官途は淡路守。別名伊与木隆康。1571年、「仁淀川の戦い」で父の伊与田隆祐とともに長宗我部元親勢と戦い敗退した。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、安宗実刻、奈良長門守、竹葉権頭らと結び長宗我部元親勢に対抗した。1575年、「伊与田館の戦い」で長宗我部元親勢の小島政章の攻撃を受け降伏した。1583年、「伊予三滝館の戦い」で長宗我部元親に従い北之川親安勢と戦い戦功を挙げ1,800石を領した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

伊与田国安【いよだくにやす(15??~1592)】

伊与田高康の男。通称弥平次。別名伊与木忠実。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い敗退した。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げたが、まもなく疱瘡を患い病没した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

伊与田実能【いよたさねひろ(15??~15??)】

伊与田忠実の男。通称新助。別名伊与木実能。参考文献:「日本の城めぐり」byリアライズ。

伊与田隆直【いよたたかなお(15??~15??)】

伊与田実能の男。通称玄蕃。別名伊与木隆直。参考文献:「日本の城めぐり」byリアライズ。

入江左近【いりえさこん(15??~15??)】

一条兼定家臣。幡多郡横瀬館主。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、一条兼定とともに豊後国に落延びた。1575年、「四万十川の戦い」で一条兼定に従い長宗我部元親勢と戦い敗退した。1578年、長宗我部元親の意向を受け一条兼定の謀殺を図ったが失敗した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

入野五兵衛【いりのごへい(15??~16??)】

一条房基家臣。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、長宗我部元親に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」で長宗我部盛親が討死したため、山内一豊に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

入交蔵人【いりまじりくらうど(15??~1587)】

長宗我部元親家臣。検地奉行職を務めた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

入交信【いりまじりしん(15??~15??)】

一条房基家臣。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、長宗我部元親に仕えた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

入交惣左衛門【いりまじりそうざえもん(15??~1645)】

入交信の男。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、伊予宇和島城主藤堂高虎に仕え200石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で藤堂高虎の家臣桑名一孝に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で桑名一孝に従い羽柴秀頼勢と戦い敗退した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

入交重信【いりまじりしん(15??~1613)】

入交信の次男。官途は豊後守。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、長宗我部元親に仕えた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、伊予宇和島城主藤堂高虎に仕えた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

入交重俊【いりまじりしげとし(15??~16??)】

入交重信の男。通称助左衛門。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、藤堂高虎に仕え500石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で藤堂高虎の家臣桑名一孝に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

岩越吾兵衛【いわこしごんべい(15??~1544)】

一条房基家臣。幡多郡竹島館主。1544年、「竹島館の戦い」で間崎孫右衛門勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岩崎安行【いわさきあんぎょう(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。通称兵庫助。検地奉行職を務めた。高岡郡波介、戸波を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

岩松経重【いわまつつねしげ(15??~1547)】

池頼定家臣。家老職を務めた。1547年、「池館の戦い」で池頼定に従い長宗我部国親勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

上野平太夫【うえのへいだいふ(15??~15??)】

細川定輔家臣。室は長宗我部盛親の娘。1600年、長宗我部盛が改易処分に処されたため、立花左近将監に仕え300石を領した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

上村親行【うえらちかゆき(15??~1575)】

山田元義家臣。香美郡植村館主。官途は越前守。1549年、「楠目館の戦い」で長宗我部国親勢と戦い山田元義が滅亡したため、長宗我部国親に仕えた。1575年、「栗本館の戦い」で長宗我部元親に従い津島勘助勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

上村親貞【うえむらちかさだ(15??~15??)】

上村親行の男。通称兵庫助。1575年、「栗本館の戦い」で長宗我部元親に従い津島勘助勢と戦い討死したため、上村家の家督を相続した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

宇賀平兵衛【うがひらへいべい(15??~1560)】

本山茂辰家臣。1560年、「長浜の戦い」で本山茂辰に従い長宗我部国親勢と戦い浜田久左衛門を討取る戦功を挙げるが、浜田久左衛門の弟の浜田善左衛門に討取られた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

鵜来巣弾正忠【うぐるすだんじょうちゅう(15??~15??)】

本山茂辰家臣。土佐郡鵜来巣館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

馬路長正【うまじながまさ(15??~1569)】

安芸国虎家臣。安芸郡馬路館主。通称蔵人守。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い敗退した。「馬路館の戦い」で長宗我部元親に降伏した安田鑑信勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

馬路隆正【うまじたかまさ(15??~1569)】

馬路長正の男。官途は若狭守。1569年、「馬路館の戦い」で父の馬路長正とともに安田鑑信勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

江口六太夫【えぐちろくだいふ(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡狼内館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

江村親政【えむらちかまさ(15??~15??)】

長岡郡江村館主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

江村親家【えむらちかいえ(15??~15??)】

吉田重俊の次男(江村親政の養子)。官途は備後守。室は利岡辰巳の娘。1551年、「雪ヶ峰城の戦い」で山田元義の家臣山田長秀勢と戦い山田長秀を討取る戦功を挙げた。1568年、「黒瀬城の戦い」で長宗我部元親の意向を受け一条兼定勢を支援して西園寺実充勢と戦い戦功を挙げた。家老職を務め、3,500石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

江村親俊【えむらちかとし(15??~15??)】

江村親家の男。通称孫左衛門。1582年、本願寺顕如との取次役を務めた。1585年、「阿波一宮城の戦い」で谷忠澄とともにに長宗我部元親の意向を受け一宮城に籠城して羽柴秀長勢と戦い戦功を挙げた。長宗我部元親が羽柴秀吉に降伏したため、人質として津野親忠とともに上洛した。1592年、「晋州城の戦い」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦功を挙げた。若年寄衆を務め、1,500石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

大岐左京進【おおきさきょうのしん(15??~15??)】

一条房基家臣。大岐館主参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大窪美作守【おおくぼみさくのかみ(15??~15??)】

本山茂宗の次男。土佐郡長浜館主。1560年、「長浜館の戦い」で本山茂辰に従い長宗我部国親勢と戦い敗退した。参考文献:「足利氏(戦国大名、足利氏について)bykuhoin。

大窪勘十郎【おおくぼかんじゅうろう(15??~1560)】

大窪美作守の男。1560年、「長浜館の戦い」で父の大窪美作守とともに従い長宗我部国親勢と戦い討死した。参考文献:「足利氏(戦国大名、足利氏について)bykuhoin。

大黒範宗【おおぐろのりむね(15??~15??)】

本山茂辰家臣。土佐郡杓田館主。通称太郎左衛門。鏡川流域(尾立、梅木、行川)を領した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

大黒親周【おおぐろちかす(15??~15??)】

大黒範宗の男。官途は備前守。通称主計。室は吉良親貞の娘。1565年、「朝倉館の戦い」で本山茂辰が長宗我部国親勢と戦い敗退したため、長宗我部国親に仕えた。著書に『大黒備前守親周記』。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

大黒親寛【おおぐろちかひろ(15??~1565)】

大黒親周の男。1565年、「朝倉館の戦い」で本山茂辰に従い長宗我部国親勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

大黒親慶【おおぐろちかのり(15??~15??)】

大黒親寛の男。官途は美作守。1565年、「朝倉館の戦い」で父の大黒親寛が本山茂辰に従い長宗我部国親勢と戦い討死したため、大黒家の家督を相続した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

大塚八木右衛門【おおつかやぎえもん(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡下長谷館主。一条家三十六人衆。1574年、「中村城の戦い」で加久見左衛門らとともに長宗我部元親の支援を受けた安並直敏、羽生道成、為松若狭守勢を討取る戦功を挙げた。1575年、「四万十川の戦い」で一条兼定に従い長宗我部元親勢と戦い敗退した。参考文献:「高知県の観光」by高知県の観光。

大谷道直【おおたにみちなお(15??~16??)】

山田元義家臣。香美郡大谷館主。官途は出雲守。1549年、「楠目館の戦い」で長宗我部国親勢の攻撃を受け山田元義が滅亡したため、所領を失った。1600年、山内一豊の家臣五藤為重に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大塚八木右衛門【おおつかやげえもん(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡下長谷館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

大野家貞義【おおのやさだよし(15??~1575)】

安芸国虎家臣。安芸郡佐喜浜館主。通称源内左衛門。1569年、「第一次佐喜浜の戦い」で周辺豪族衆を糾合して長宗我部元親勢を撤退に追い込んだ。1574年、「羽根の戦い」で周辺豪族衆とともに抵抗し長宗我部元親を撤退させた。1575年、「第二次佐喜浜の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け長宗我部元親の家臣沢田太郎左衛門に討取られた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大平国雄【おおひらくにたか(14??~15??)】

高岡郡蓮池館主。大平国藤の男。官途は山城守。土佐の七雄。宇佐湊を発展させ交易で利益を上げ佐川、越知、浦ノ内から鴨部まで勢力を拡大した。1489年、山城禅昌院で細川政国が主催した詩歌の会に列席した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

大平元国【おおひらもとくに(15??~15??)】

大平国雄の男。官途は隠岐守。1508年、「岡豊城の戦い」で本山養明、吉良宣経、山田元秀とともに長宗我部兼序を討取る戦功を挙げた。1519年、庄田の鯨坂八幡宮や吾川郡芳原村の若一王子社を修造した。1543年、「姫野々館の戦い」で津野基高を支援して一条房基勢と戦い敗退した。1546年、「須崎の戦い」で津野基高とともに一条房基勢と戦い降伏した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大平国文【おおひらくにふみ(15??~1566)】

大平元国の男。官途は山城守。通称権頭。1557年、「森山館の戦い」で本山茂辰勢の攻撃を受け敗退して蓮池城、秋山館を失った。1560年、「蓮池城の戦い」で一条兼定の支援を受け本山茂辰勢と戦い蓮池城を奪還した。1566年、「蓮池城の戦い」で吉良親貞勢の攻撃を受け戸波館に落延びた。「戸波館の戦い」で吉良親貞勢の追撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大平信家【おおひらのぶいえ(15??~15??)】

大平国藤の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

大平元俊【おおひらもととし(15??~15??)】

大平国雄の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

大平国修【おおひらくののり(15??~15??)】

大平国雄の三男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

大平国興【おおひらくにおき(15??~15??)】

大平元国の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

大平国雅【おおひらくによし(15??~15??)】

吾川郡弘岡館主。官途は伊予守。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大平国祐【おおひらくにすけ(1538~1603)】

大平国雅の男。官途は伊賀守。室は香川元景の娘(妙通姫)。1562年、「土佐弘岡館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け香川元景のもとに落延び獅子ノ鼻館を領した。1563年、「善通寺の戦い」で斎藤師郷、香川左馬助、香川伊勢守、朝比奈弥太郎、秋山良泰、三野菅左衛門尉らとともに香川元景に従い香西元成勢と戦い戦功を挙げた。1573年、「金倉館の戦い」で香川元春、三野栄久とともに金倉顕忠勢と戦い金倉顕忠、為忠将監を討取る戦功を挙げた。1578年、「讃岐獅子ノ鼻館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け敵中を突破し落延びた。1585年、仙石秀久に仕えた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で仙石秀久に従い島津義久勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大平主膳【おおひらじゅぜん(1561~15??)】

大平国祐の男。1578年、「阿波重清館の戦い」で十河存保に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大平国常【おおひらくにつね(1569~1586)】

大平国祐の次男。1587年、「豊後戸次川の戦い」で大平国祐とともに仙石秀久に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大平国久【おおひらくにひさ(15??~15??)】

大平国雅の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大平国秀【おおひらくにひで(15??~15??)】

大平国雅の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大藪紀伊守【おおやぶきいのかみ(15??~15??)】

本山茂辰家臣。土佐郡本川之館主。官途は紀伊守。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大藪祐茂【おおやぶすけしげ(15??~15??)】

大藪紀伊守の男。別名伊藤祐茂。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊の家臣山内一照に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大脇越後守【おおわきえちごのかみ(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡輝之【おかてるゆき(15??~15??)】

幡多郡岡宗館主。官途は和泉守。別名岡宗輝之。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡源次郎【おかげんじろう(15??~15??)】

一条房基家臣。高岡郡宇佐浦館主。後白河院からの「船霊祭文」の巻物一貫を拝領し、飛騨流の木割術を家伝とした。船大工頭を務め、一条房基に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡三郎左衛門【おかさぶろうざえもん(15??~15??)】

岡源次郎の男。長宗我部元親の意向を受け宇佐浦館から種崎館に転封した。1594年、松平元康の意向を受け関東で御座船一艘を建造した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡三郎左衛門【おかさぶろうざえもん(15??~16??)】

岡三郎左衛門(父と同名)の男。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕えて船大工頭(飛騨流)を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡崎与左衛門【おかざきよえもん(15??~15??)】 

本山茂辰家臣。1563年、「岡豊城の戦い」で本山茂辰に従い長宗我部元親勢と戦い撃退された。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡式部【おかしきぶ(15??~15??)】

津野親忠家臣。高岡郡下分館主。通称式部。津野親忠に仕え岡本館を守備した。参考文献:「高知県の観光」by高知県の観光。

岡林将監【おかばやししょうげん(15??~15??)】

安芸国虎家臣。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い横山紀伊守、専光寺右馬允、小谷正次、小川新左衛門らとともに長宗我部元親に内応して先導役を務め、安芸国虎を降伏に追込んだ。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡林左衛門【おかばやしさえもん(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡村元重【おかむらもとしげ(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。通称与三郎。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部信親に従い島津義久勢と戦い敗退した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

岡村与七郎【おかむらよしちろう(15??~15??)】

岡村元重の男。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

小川新左衛門【おがわしんざえもん(15??~15??)】

安芸国虎家臣。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い横山紀伊守、岡林将監、専光寺右馬允、小谷正次らとともに長宗我部元親に内応して先導役を務め、安芸国虎を降伏に追込んだ。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

沖長門守【おきながとのかみ(15??~15??)】

幡多郡入野館主。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部信親の意向を受け臼杵に布陣した。長宗我部信親が島津義久勢と戦い討死したため、臼杵を守備した。羽柴秀長とともに渡海した長宗我部元親に収容された。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

奥宮扶盛【おくみやよしもり(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。官途は主膳守。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

奥宮盛治【おくみやもりはる(15??~1583)】

奥宮扶盛の男。官途は若狭守。通称太郎左衛門。1575年、「式地館の戦い」で織部正之ともに敷地藤康の家臣敷地相模守勢と戦い敷地相模守を討取る戦功を挙げた。1583年、「伊予北川館の戦い」で長宗我部元親に従い北川親安勢と戦い戦功を挙げ幡多郡塩塚城代職に任じられたが、まもなく病没した。参考文献:「四国の観光」by高知県の観光。

奥宮正之【おくみやまさゆき(15??~1614)】

奥宮扶盛の次男。通称織部。中村郷敷地を領した。1614年、奥宮伝兵衛と奥宮孫清九朗の中村城襲撃未遂に連座して自刃した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

奥宮盛之【おくみやもりゆき(15??~1614)】

奥宮正之の男(奥宮盛治の養子)。通称治部。1578年、「讃岐藤ノ目城の戦い」で奥宮盛治とともに長宗我部元親の意向を受け斎藤師郷を支援したが香川之景、奈良勝政、長尾大隈守、羽床伊豆守勢の攻撃を受け敗退した。1583年、「伊予北川館の戦い」で桑名親光勢の先陣を務め、北川親安勢と戦い戦功を挙げた。叔父の奥宮盛治が病没したため、奥宮家の家督を相続した。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、所領を失った。1614年、「土佐中村城の戦い」で祖父江一秀勢と戦い捕縛され自刃した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

奥宮定盛【おくみやさだもり(15??~16??)】

奥宮正之の次男(奥宮盛之の養子)。通称太郎左衛門。1614年、「大坂冬の陣」で吉田弥右衛門、三宮十助、喜多川助之丞、国吉五郎左衛門らとともに長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1615年、堀田盛家に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

奥宮正家【おくみやまさいえ(1554~1586)】

奥宮正之の三男。通称蔵人。長宗我部元親の意向を受け阿波国境を守備した。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

奥宮盛房【おくみやもりふさ(15??~1614)】

奥宮盛之の男。通称清九朗。1614年、「土佐中村城の戦い」で父の奥宮盛之とともに祖父江一秀勢と戦い捕縛され自刃した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

奥宮喜右衛門【おしのかわくらのすけ(15??~1615)】

長宗我部元親家臣。通称喜右衛門。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親に従い藤堂高虎勢と戦い討死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

奥宮加右衛門【おくみやかざえもん(15??~16??)】

長宗我部元親家臣。通称加右衛門。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親に従い藤堂高虎勢と戦い敗退した。藤堂高虎に仕えた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

押之川内蔵助【おしのかわくらのすけ(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡押之川館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

押之川正重【おしのかわまさしげ(15??~16??)】 

押之川内蔵助の男。官途は玄蕃。通称権左衛門。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、長宗我部元親に仕えた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、藤堂高虎の家臣藤堂良重に仕えた。1614年、「大坂夏の陣」で羽柴秀頼勢と戦い負傷した藤堂良重を助けて帰還した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小島政春【おじままさはる(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡小島館主。通称右近。四家老職。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。 

小島政章【おじままさあき(1539~1591)】

小島政春の男。官途は出雲守。1569年、「和井館の戦い」で一条兼定の意向を受け和井舎人佑勢と戦い和井館を攻落とす戦功を挙げ和井館を領した。1574年、一条兼定が為松若狭守、安並直敏、羽生道成らに追放処分に処されたため、長宗我部元親の支援を受け為松若狭守、安並直敏、羽生道成を討取る戦功を挙げた。長宗我部元親に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

小島政倶【おじままさよし(15??~15??)】

小島政章の男。通称民部佑。1574年、父の小島政章とともに長宗我部元親に仕えた。1587年、小島政章が隠居したため、小島家の家督を相続した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

小島伊賀守【おじまいがのかみ(15??~15??)】

小島政春の次男。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

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【か】

蚊井田重隆【かいたしげたか(1543~1598)】

蚊井田重宗の男。香美郡蚊井田館主。官途は修理亮。通称彦助。室は細川内膳の娘。父の蚊井田重宗が病没したため、叔父の蚊井田重貞の後見を受け蚊井田家の家督を相続した。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親に従い安芸国虎勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

蚊井田重胤【かいたしげたね(1559~1637)】

蚊井田重隆の次男。通称久助。父の蚊井田重隆が隠居したため、蚊井田家の家督を相続した。1588年、吾川郡大野郷引田村に転封した。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い負傷した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

蚊井田重貞【かいたしげさだ(15??~15??)】

蚊井田重宗の弟。兄の蚊井田重宗が病没したため、甥の蚊井田重胤の後見役を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

加久見宗孝【かくみむねたか(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡加久見城館主。官途は土佐守。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

加久見宗頼【かくみむねより(15??~15??)】

加久見宗孝の男。通称源左衛門尉。父の加久見宗孝とともに勧進帳に署名した。1573年、「中村城の戦い」で長宗我部元親の支援を受けた安並直敏、羽生道成、為松若狭守と討取る戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

梶佐古道尋【かじさこどうしん(15??~1592)】

長宗我部元親家臣。香美郡佐古館主。柳瀬五郎兵衛の三男。通称源左衛門。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い敗退した。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

加地又五郎【かじまたごろう(15??~15??)】

大平国祐家臣家臣。1587年、「豊後戸次川の戦い」で大平国祐に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柏井如光【かしわいにょうこう(15??~15??)】

高岡郡三ノ塀館主。三宮親庸の次男。官途は越後守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

片岡直光【かたおかなおみつ(15??~15??)】

大平元国家臣。高岡郡黒岩館主。官途は尾張守。別名片岡茂光。室は長宗我部兼序の娘(理春尼)。1546年、「須崎の戦い」で津野基高とともに一条房基勢と戦い滅亡したため、本山茂宗に仕えた。1568年、「瓜生野館の戦い」で本山親茂に従い長宗我部元親勢と戦い敗退したため、長宗我部元親に仕えた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

片岡光綱【かたおかみつつな(15??~1585)】

片岡直光の男。官途は下総守。別名片岡親光。1585年、「伊予金子城の戦い」で花房新兵衛とともに長宗我部元親の意向を受け金子元宅を支援するため、金子城に籠城して小早川景隆勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

片岡光政【かたおかみつまさ(15??~1587)】

片岡光綱の甥(片岡光綱の養子)。官途は民部大輔。別名片岡直親。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

片岡久助【かたおかひさつけ(15??~16??)】

片岡光政の男。通称久助。1587年、「豊後戸次川の戦い」で父の片岡光政が長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死したため、片岡家の家督を相続した。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕えた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

片岡民部【かたおかみんぶ(1586~1659)】

片岡光政の次男。通称熊之助。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、伊予松山に落延びた。1615年、「大坂夏の陣」で長宗我部盛親に従い松平元康の家臣藤堂高虎勢と戦い敗退したため、山内忠義に仕えた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

片山大夫【かたやまだいふ(15??~15??)】

吾川郡芳原館主。1540年、「芳原館の戦い」で一条房冬勢攻撃を受け降伏した。1557年、「芳原館の戦い」で本山茂辰勢の攻撃を受け降伏した。1561年、「芳原館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

兼松宇兵衛【かねまつうべい(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡平林館主。参考文献:「高知県の観光」by高知県の観光。

上岡正高【かみおかまさかた(1546~1600)】

津野親忠家臣。通称茂左衛門。1600年、津野親忠が長宗我部盛親に謀殺されたため、殉死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

上村孫左衛門【かみむらまござえもん(15??~15??)】

片岡直光家臣。1585年、「伊予金子城の戦い」で片岡光綱に従い小早川景隆勢と戦い片岡光綱が討死したため、竹内又左衛門、安並玄蕃とともに片岡光綱の亡骸を黒岩館に持帰った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

上山十兵衛【かみやまじゅうべい(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。1615年、「大坂夏の陣」で長宗我部盛親に従い松平元康の家臣藤堂高虎勢と戦い敗退したため、山内忠義に仕え24石を領した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

上山重正【かみやましげまさ(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡田野々館主。官途は出羽守。通称左衛門。1574年、「中村城の戦い」で長宗我部元親の支援を受けた加久見左衛門尉とともに安並直敏、羽生道成、為松若狭守勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「高知県の観光」by高知県の観光。

上山田良兵衛【かみやまだりょうべい(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

加茂十郎兵衛【かもじゅうべい(15??~15??)】

小笹民部家臣。安芸郡権現館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

川井宗勝【かわいむねかつ(15??~15??)】

長岡郡吉岡館主。官途は勘解由。通称次郎兵衛。駿河国から土佐国に転封した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

川井丹後守【かわいたんごのかみ(15??~15??)】

川井宗勝の男。阿波勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

川井右京進【かわいうきょうのしん(15??~1578)】

川井丹後守の男。本山氏と共に長宗我部元親に降伏した。
1578年、「讃岐藤ノ目の戦い」で長宗我部元親の意向を受け斎藤師郷を支援して香川之景、奈良勝政、長尾大隈守、羽床伊豆守勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

川井勝重【かわいかつしげ(15??~15??)】

川井丹後守の次男。通称左衛門。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕え下名村の庄屋職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

川窪定氏【かわくぼさだうじ(15??~15??)】

香美郡川窪館主。官途は左衛門尉。1544年、「潮江館の戦い」で長宗我部国親に従い本山茂宗、和田若狭守勢と戦い戦功を挙げた。長宗我部国親から許可を取り真宗に帰依した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

川竹弥八郎【かわたけよはちろう(15??~15??)】

安芸国虎家臣。安芸郡新城館主。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「隠居の暇つぶし」by石州の人。

川田守宗【かわたもりむね(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

川田修理【かわたしゅり(15??~1586)】

川田守宗の男(和田主計の養子)。通称修理。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

川田守時【かわたもりとき(15??~16??)】

川田修理の男。通称平右衛門。1587年、「豊後戸次川の戦い」で乳の川田修理が長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死したため、川田家の家督を相続した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

河村四郎左衛門【かわむらしろうざえもん(15??~15??)】

本山茂辰家臣。1560年、「長浜の戦い」で本山茂辰に従い長宗我部国親勢と戦い戦功を挙げた。1568年、「瓜生野館の戦い」で本山親茂に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「足利氏(戦国大名、足利氏について)bykuhoin。

神田勘助【かんだかんすけ(15??~15??)】

本山茂辰家臣。土佐郡石立館主。1561年、「神森館の戦い」で本山茂辰に従い長宗我部元親勢と戦い敗退したため、石立館を放棄して本山茂辰のもとに落延びた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

北川道清【きたがわみちきよ(15??~15??)】

安芸国虎家臣。安芸郡鳥ヶ森館主。官途は玄蕃頭。1569年、「鳥ヶ森館の戦い」で小笹民部と結び長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

北代佐渡守【きたしろさどのかみ(15??~15??)】

大平元国家臣。吾川郡北代館主。通称常喜。長宗我部親元に仕え検地奉行職を務めた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

北代四郎左衛門【きたしろしろうざえもん(15??~1588)】

長宗我部元親家臣。1588年、「蓮池城の戦い」で長宗我部元親の意向を受け吉良親実の家臣勝賀野実信勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北代市左衛門【きたしろいちざえもん(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。1588年、「蓮池城の戦い」で長宗我部元親の意向を受け吉良親実の家臣勝賀野実信を謀殺した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北村関斎【きたむらかんさい(15??~15??)】

香宗我部親泰家臣。1576年、阿波吉田城主に任じらされた。香宗我部親泰を補佐して池内真武とともに戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北川玄蕃【きたがわげんば(15??~15??)】

安芸国虎家臣。安芸郡北川館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北村関斎【きたむらかんさい(15??~15??)】

香宗我部親泰家臣。1576年、阿波吉田城主に任じらされた。香宗我部親泰を補佐して池内真武とともに戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北村三郎左衛門【きたむらさぶろうざえもん(15??~15??)】

北村関斎の男。別名浅木三郎左衛門。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処せられたため、藤堂高虎に仕え200石を領した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北村宗長【きたむらむねなが(15??~15??)】

山田元義家臣。官途は遠江守。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

北村宗淑【きたむらむねとも(15??~15??)】

北村宗長の男。官途は肥後守。長宗我部元親の家臣吉田周孝の策略を受け山田基道から自刃に追込まれた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

北村宗親【きたむらむねちか(15??~15??)】

北村宗淑の男。通称宗左衛門。山田教道に仕えた。1551年、「楠目館の戦い」で山田教道に従い長宗我部国親勢と戦い韮生に落延びた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

木塚左衛門【きづかさえもん(15??~15??)】

大平元国家臣。高岡郡木塚館主。1540年、「木塚館の戦い」で一条房基勢の攻撃を受け芳原館、諸木館、森山館とともに降伏した。1560年、「木塚館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

桐島仁兵衛【きりしまじえもん(15??~15??)】

一条房基家臣。山田桐島館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

吉良宣経【きらのぶつね(14??~15??)】

吾川郡吉良峰館主。吉良宣忠の男。官途は伊予守。室は大高坂経久の娘。1508年、「岡豊城の戦い」で本山養明、大平元国、山田元秀とともに長宗我部兼序を討取る戦功を挙げた。周防国から南村梅軒を招き、土佐南学の基礎を築いた。参考文献:「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」by講談社。

吉良宣直【きらのぶなお(15??~1540)】

吉良宣経の男。1540年、「吉良峰館の戦い」で如来堂島で酒宴中に本山茂辰勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」by講談社。

吉良宣義【きらのぶよし(14??~15??)】
 
吉良宣経家臣。通称は右近。大高坂経久とともに吉良宣直の後見役を務めた。吉良宣直が政治を疎かにしたため、所業を改めるように諫言したが逆に蟄居処分に処された。参考文献:「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」by講談社。

吉良親貞【きらちかさだ(1541~1576)】

長宗我部国親の次男。官途は播磨守。1560年、「長浜の戦い」で父の長宗我部国親、兄の長宗我部元親とともに本山茂辰勢と戦い戦功を挙げた。1563年、長宗我部元親の意向を受け吉良家の相続を相続した。1575年、「四万十川の戦い」で長宗我部元親に従い一条兼定勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

吉良親実【きらちかざね(1563~1588)】

吉良親貞の男。官途は左京進。通称新十郎。室は長宗我部元親の娘。1576年、父の吉良親貞が病没したため、吉良家の家督を相続した。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部信親が島津義久勢と戦い討死したため、長宗我部家の後継者を誰にするかで対立が起った。吉良親実は長宗我部元親の次男香川親和、久武親直は四男の長宗我部盛親を擁立した。1588年、長宗我部元親が長宗我部盛親を後継者にしたため、自刃を命じられた。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

魚梁瀬修理亮【ぎょやなせしりのすけ(15??~15??)】

安芸郡魚梁瀬館主。1569年、「安芸城の戦い」で安芸国虎が長宗我部元親勢と戦い滅亡したため、安芸国虎の継嗣安芸千寿丸を匿った。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

楠目隼人【くすのめはやと(15??~15??)】

山田元義家臣。通称右京。1549年、「楠目館の戦い」で長宗我部国親勢の攻撃を受け山田元義が滅亡したため、下田頼隆と結び長宗我部国親に対抗した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

楠目右兵衛門【くすのめさえもん(15??~15??)】

楠目隼人の男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

楠目新之丞【くすのめしんのじょう(15??~15??)】

楠目隼人の次男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

窪内芳威【くぼうちよしい(15??~15??)】

香宗我部親秀家臣。通称孫左衛門。長宗我部国親の内室の附家老職を務め、長宗我部国親に仕えた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

窪内庄衛門【くぼうちしょうざえもん(15??~1587)】

窪内芳威の男。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

窪内庄衛門次郎【くぼうしょうべいじろう(15??~15??)】

窪内芳威の次男。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

窪川宣澄【くぼかわますみ(15??~15??)】

津野元実家臣。高岡郡窪川館主。官途は備後守。別名山内宣澄。仁井田五人衆。窪川城2,600貫を領した。1546年、「須崎の戦い」で津野基高に従い一条房基勢と戦い敗退したため、津野基高とともに降伏した。1571年、長宗我部元親に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

窪川俊光【くぼかわとしみつ(15??~1579)】

窪川宣澄の男。官途は外記。別名山内俊光。1579年、「伊予岡本館の戦い」で久武親信に従い土居清良勢と戦い長宗我部親信とともに討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

窪川七郎兵衛【くぼかわしろうべい(15??~1592)】

窪川俊光家臣。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親の家臣難波権之丞、福良助兵衛らに従い李氏朝鮮勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

窪川七郎左衛門【くぼかわしちろうざえもん(15??~1592)】

窪川七郎兵衛の弟。1592年、「文禄の役」に兄の窪川七郎兵衛とともに長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い窪川七郎兵衛が討死したため、窪川家の家督を相続した。難波権之丞に従い朝鮮国に赴くがまもなく討死した。内室は窪川七郎左衛門に嫁いで二日と一緒に過ごす事なく夫をなくしてしまい、まもなく病没した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

久保貞弘【くぼさだひろ(15??~15??)】

山田元秀家臣。香美郡久保館主。官途は越中守。1551年、「楠目館の戦い」で山田元義が長宗我部国親勢と戦い敗退した山田元義を匿った。「久保館の戦い」で長宗我部国親勢と戦い降伏した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

久保宗安【くぼむねやす(15??~15??)】

久保貞弘の男。官途は肥前守。1578年、検地奉行に任ぜられた。1592年、「朝鮮の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

久保貞吉【くぼさだよし(15??~1587)】

久保宗安の男。官途は駿河守。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

久保宗吉【くぼむねよし(15??~15??)】

久保貞吉の男。通称新助。1585年、「豊後戸次川の戦い」で父の久保貞吉が長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死したため、久保家の家督を相続した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

久保重光【くぼしげみつ(15??~15??)】

久保宗吉の男。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕え616石を領した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

久保家盛【くぼいえもり(15??~15??)】

久保宗吉の次男。1600年、兄の久保宗吉とともに山内一豊に仕えた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

久万俊親【くまとしちか(15??~15??)】

本山茂辰家臣。土佐郡久万館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

久万俊宗【くまとしむね(1518~1599)】

久万俊親の男。官途は豊後守。1560年、「久万館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け高岡郡浦ノ内に落延びた。長宗我部元親の家臣吉良親貞に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

久万俊政【くまとしまさ(15??~15??)】

久万俊宗の男。通称兵庫。力士衆。1573年、力士の小島源蔵が岡豊城下に訪れ、その怪力を自慢したため、長宗我部元親の意向を受け小島源蔵との上覧相撲を開催した。五尺七寸(157cm)の久万俊政が六尺五寸(197cm)の小島源蔵を手玉にとり圧勝した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

久万俊朝【くまとしより(1598~1615)】

久万俊政の男。官途は豊後守。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処せられたため、藤堂高虎に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で藤堂高虎のもとを退去して長宗我部盛親に従い大坂城に入城したが、病のため出陣できず自刃した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

公文正信【くもんまさのぶ(15??~15??)】

天竺花氏家臣。香美郡徳善館主。1547年、「大津城の戦い」で下田頼隆、横山友隆とともに天竺花氏に従い長宗我部国親勢と戦い敗退したため、徳善館に退却した。下田頼隆、横山友隆とともに長宗我部国親に降伏した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

公文重忠【くもんしげただ(15??~16??)】

石谷重信の男(公文正信の養子)。官途は将監。通称深三郎。1547年、「大津城の戦い」で石谷重信、公文正信、下田頼隆、横山友隆とともに天竺花氏に従い長宗我部国親勢と戦い敗退したため、長宗我部国親に降伏して仕えた。1600年、長宗我部元親が改易処分に処されたため、帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

国沢能明【くにさわよしあき(15??~16??)】

吾川郡国沢館主。官途は将監。通称蔵人。土佐国四家。1556年、「秦泉寺館の戦い」で大高坂経之とともに秦泉寺茂景を支援して長宗我部国親勢と戦い敗退した。1560年、「長浜の戦い」で本山茂辰とともに長宗我部国親勢と戦い敗退したため、長宗我部国親に降伏した。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、香美郡山田村に隠棲した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

国沢能春【くにさわよしはる(15??~1627)】

国沢能明の男。室は豊永藤兵衛の娘。通称右近。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、国沢能明のとともに香美郡山田村に隠棲した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

国沢能直【くにさわよしなお(15??~15??)】

国沢能春の男。通称猪之助。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

国沢能正【くにさわよしまさ(15??~15??)】

国沢能春の次男。通称四郎兵衛。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

国沢能則【くにさわよしのり(15??~15??)】

国沢能春の三男。通称藤次郎。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

国真左馬亮【くにまさまのじょう(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。長宗我部信親の意向を受け浦戸衆(中内左近衛門尉、三宮重平衛尉ら)とともに津野城に派遣され、津野城奉行衆を務めた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

国吉親綱【くによしちかつな(15??~1588)】

長宗我部国親家臣。香美郡王子館主。官途は備前守。通称甚左衛門。別名上村親綱。家老職を務め、3,700石を領した。1578年、「讃岐財田館の戦い」で長宗我部元親に従い財田常久勢と戦い戦功を挙げ讃岐国の陣代職を務めた。長宗我部元親の意向を受け検地奉行職を務め、土佐国内で検地を行い248,000石の石高を確定させた。参考文献:「忠兵衛ぐでんぐでん日記」byぐでのすけ。

国吉幸親【くによしよしちか(15??~1616)】

国吉甚左衛門の次男。官途は備後守。通称五左衛門。別名上村幸親。室は大黒主計の娘。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、堀田正吉に仕え500石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親に従い藤堂高虎勢と戦い敗退した。参考文献:「忠兵衛ぐでんぐでん日記」byぐでのすけ。

久礼田孝之【くらだたかゆき(15??~1578)】

長宗我部国親家臣。官途は豊前守。別名久礼田定祐。蜷川道標から連歌を学んだ。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

久礼田道祐【くらだみちすけ(15??~15??)】

久礼田孝之の男。1578年、父の久礼田孝之が病没したため、久礼田家の家督を相続した。一条親政とその内室(長宗我部元親の娘)を引き取った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

蔵橋伯耆守【くらはしほうきのかみ(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

黒岩越前守【くろいわえちぜんかみ(15??~1569)】

安芸国虎家臣。安芸国虎に長宗我部元親との和議を進言したが、拒否された。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い金岡館に籠城して長宗我部元親の家臣比江山親興勢と戦い安芸城に落延びた。安芸国虎が自刃したため、長宗我部元親に降伏したが安芸国虎の墓前で殉死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

黒岩種直【くろいわたねなお(15??~1582)】

黒岩越前守の男。通称掃部。1569年、「安芸城の戦い」で安芸国虎が長宗我部元親勢と戦い滅亡したため、長宗我部元親に仕えた。1582年、「阿波中富川の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

黒岩治部左衛門【くろいわじぶざえもん(1564~16??)】

黒岩種直の男。1582年、「阿波中富川の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い戦功を挙げた。1583年、「讃岐引田の戦い」で長宗我部元親に従い羽柴秀吉の家臣仙石秀久勢と戦い井上太郎左衛門、多田和泉守を捕縛する戦功を挙げた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処せられたため、山内一豊に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

黒岩玄蕃【くろいわげんば(15??~16??)】
黒岩種直の次男。1586年、「阿波中富川の戦い」で父の黒岩種直、兄の黒岩治部左衛門とともに長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い戦功を挙げた。長宗我部元親の意向を受け志和勘助を謀殺した。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内康豊に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で羽柴秀頼に属した長宗我部盛親勢に従い大坂城に入城した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

黒岩安太夫【くろいわあすだいふ(15??~15??)】

黒岩治部左衛門の男。室は長宗我部五左衛門の娘。長宗我部元親に従い山城伏見城に赴き、人と諍いを起こし自刃した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

桑河内源左衛門【くわのこうちげんざえもん(15??~15??)】

津野基高家臣。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

桑川久助【くわがわくすけ(15??~15??)】 

本山茂宗家臣。別名河村兵庫助。1565年、「岡豊城の戦い」で中島新介、高石与七、岡崎与左衛門らとともに本山親茂に従い泰泉寺大和守勢と戦い敗退した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

桑名重定【くわなしげさだ(15??~15??)】

長宗我部国親家臣。官途は丹後守。室は吉田重俊の娘。家老職を務めた。1569年、「八流川の戦い」で長宗我部元親に従い安芸国虎勢と戦い戦功を挙げ奈半利館8,500石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

桑名親光【くわなちかみつ(1551~1587)】

桑名重定の男。通称太郎左衛門。中島与市兵衛とともに京都に赴き小笠原流弓術を極めた。1578年、「第一次讃岐藤ノ目館の戦い」で浜田善右衛門、江村孫左衛門、中内藤左衛門とともに長宗我部元親の意向を受け斎藤師郷を支援するため、藤ノ目館に籠城した。「第二次讃岐藤ノ目館の戦い」で長宗我部元親に従い奈良勝政の家臣新目弾正忠勢と戦い戦功を挙げた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で羽柴秀吉の家臣仙石秀久に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

桑名平右衛門【くわなへいざえもん(15??~15??)】

桑名重定の次男。参考文献:フリー百科事典by「ウィキペディア(Wikipedia)」。

桑名親勝【くわなちかかつ(15??~1592)】

桑名重定の三男。通称将監。若年寄衆を務め、甲浦館1,200石を領した。1587年、「豊後戸次川の戦い」で兄の桑名親光が長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死したため、桑名家の家督を相続した。1592年、「朝鮮熊川の戦い」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

桑名藤蔵人【くわなとうくらうど(15??~15??)】

桑名重定の弟。通称藤太郎。吉良親貞の家老職を務め、1,350石を領した。1574年、吉良親貞が病没したため、長宗我部元親に仕え中村城代職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

桑名吉成【くわなよしなり(1551~1615)】

中内和泉守の男(桑名藤蔵人の養子)。通称弥次兵衛。若年寄を務め、1,550石を領した。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い敗退した。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、藤堂高虎に仕えた。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で藤堂高虎に従い長宗我部盛親勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

桑野義明【くわのよしあき(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。1576年、長宗我部元親の意向を受け阿波桑野館を守備した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

下司忠重【げしただしげ(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。香美郡久枝館主。通称九郎左衛門。物部川河口の久枝を領した。1593年、久枝八幡宮の造営した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

下司安左衛門【げしやすざえもん(15??~15??)】

下司忠重の男。1597年、「サンフェリペ号漂着事件」で長宗我部元親の意向を受け奉行職を務めた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

香宗我部通長【こうそかべみちなが(15??~15??)】

香美郡香宗館主。室は細川勝元の娘。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

香宗我部親秀【こうそかべちかひで(1471~15??)】

香宗我部通長の男。通称右衛門尉。1526年、「安芸城の戦い」で安芸元親勢と戦い継嗣の香宗我部秀義が討死したため、隠居して弟の香宗我部秀通に香宗我部家の家督を譲った。長宗我部国親と結び安芸元親に対抗した。1556年、香宗我部秀通と対立したため、香宗我部秀通を謀殺した。1558年、長宗我部国親の三男香宗我部親泰を養嗣子として迎えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
 
香宗我部秀通【こうそかべひでみち(1510~1556)】

香宗我部通長の次男(香宗我部親秀の養子)。通称孫十郎。室は細川定輔の娘。1526年、「安芸城の戦い」で甥の香宗我部秀義が討死したため、兄の香宗我部親秀の継嗣に迎えられた。1556年、香宗我部親秀と対立したため、謀殺された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

香宗我部秀義【こうそかべひでよし(15??~1526)】

香宗我部親秀の男。1526年、「安芸城の戦い」で安芸元親勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

香宗我部親泰【こうそかべちかやす(1543~1593)】

長宗我部国親の三男(香宗我部親秀の養子)。官途は安芸守。室は香宗我部秀通の娘。知勇兼備。1558年、父の長宗我部国親の意向を受け養子として香宗我部親秀のもとに赴き香宗我部家の家督を相続した。1569年、「八流川の戦い」で長宗我部元親に従い安芸国虎勢と戦い戦功を挙げ安芸城主に任じられた。1575年、長宗我部元親の意向を受け織田信長のもとに赴き盟約を結んだ。1582年、「阿波中富川の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げたがまもなく病没した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
 
香宗我部親氏【こうそかべちかうじ(1572~1592)】

香宗我部親泰の男。通称弥七郎。1592年、「文禄の役」で父の香宗我部親泰とともに李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げたがまもなく病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
 
香宗我部貞親【こうそかべさだちか(1591~1660)】

香宗我部親泰の次男。官途は左近大夫。通称源右衛門。別名中原喜左衛門。1593年、父の香宗我部親泰が病没したため、香宗我部家の家督を相続した。中山田泰吉、中山田秀政が後見役を務めた。1600年、長宗我部盛親が
改易処分に処されたため、寺沢広高に仕え500石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

合田助十郎【ごうだすけじゅうろう(15??~1587)】

大平国祐家臣。1587年、「豊後戸次川の戦い」で大平国祐に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

神森出雲守【こうのもりいずみのかみ(15??~1561)】

本山茂宗家臣。土佐郡神森館主。1561年、「神森館の戦い」で長宗我部元親の家臣福留親政、中島親吉勢の攻撃を受けた。水手を断たれたため、白米で馬を洗い、水の豊富さを福留親政勢に見せつけた。福留親政は騙された振りをして軍勢を撤退させたが、伏兵を用いて城に火を放ち混乱した神森出雲守勢を討取る戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

小笹民部【こざさみんぶ(15??~15??)】

北川道清家臣。安芸郡加茂館主。1569年、「加茂館の戦い」で北川道清と結び長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

小谷正春【こたにまさはる(15??~15??)】

安芸元泰家臣。通称四郎左衛門。参考文献:「日本氏族大鑑」byTokiwa Kanenari。

小谷正次【こたにまさつぐ(15??~1587)】

小谷正春の男。通称左近右衛門。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い横山紀伊守、岡林将監、専光寺右馬允、小川新左衛門らとともに長宗我部元親に内応した。1587年、「豊後戸次川の戦い」で羽柴秀吉に属した長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:「日本氏族大鑑」byTokiwa Kanenari。

小谷正重【こたにまさしげ(15??~15??)】

小谷正春の次男。通称左近右衛門。1592年、「文禄の役」で羽柴秀吉に属した長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本氏族大鑑」byTokiwa Kanenari。

小谷与十郎【こたによじゅうろう(15??~15??)】

安芸郡川口館主。長宗我部元親の意向を受け高知館から川口館に転封した。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本氏族大鑑」byTokiwa Kanenari。

児島三郎兵衛【こだまさぶろうべい(15??~15??)】

北川道清家臣。安芸郡小島館主。参考文献:「隠居の暇つぶし」by石州の人。

米森元高【こめもちもとたか(15??~1570)】

大平元国家臣。高岡郡斗賀野館主。通称玄蕃。1570年、「斗賀野館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

惟宗国長【これむねくになが(15??~15??)】

安芸国虎家臣。安芸郡野根館主。官途は右衛門佐。通称半三郎。別名安田政長。1575年、「野根館の戦い」で盆踊り見物に出た隙を狙われ、長宗我部元親勢の攻撃を受け甲浦館に落延びた。甲浦館が長宗我部勢に囲まれると阿波国に落ちた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

惟宗右衛門【これむねさえもん(15??~1587)】

惟宗国長の男。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

惟宗出羽守【これむねでわのかみ(15??~15??)】

惟宗国長家臣。安芸郡甲浦館主。1575年、「野根館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け落延びた惟宗国長を匿った。「甲浦館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け惟宗国長とともに阿波国に落延びた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

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【さ】

斎藤河内守【さいとうかわちのかみ(15??~15??)】

安芸国虎家臣。1579年、「山川館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い降伏した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

坂本重久【さかもとしげひさ(15??~15??)】

天竺花氏家臣。通称新左衛門。天竺四家老職を務めた。1547年、「大津城の戦い」で長宗我部国親勢の攻撃を受け天竺花氏が滅亡したため、長宗我部元親家臣の光富権介に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

坂本重次【さかもとしげつぐ(15??~1601)】

坂本重久の男。通称太郎兵衛。1587年、「豊後戸次川の戦い」で羽柴秀吉に属した長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い敗退した。1590年、「小田原城の戦い」で長宗我部元親に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」で大坂城留守居役を務めた。長宗我部盛親が改易処分に処されたため、帰農した。戦傷がもとで病没した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

坂本弥太郎【さかもとよたろう(15??~15??)】

坂本重次の男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

佐竹義之【さたけよしゆき(15??~15??)】

一条房基家臣。高岡郡久礼館主。別名久礼掃部。通称掃部少輔。東の安和から南の上ノ加江を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹義直【さたけよしなお(15??~1581)】

佐竹義之の男。官途は信濃守。1571年、「蓮池城の戦い」で長宗我部元親に内応して長宗我部元親に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

佐竹親辰【さたけちかたつ(1563~15??)】)

佐竹義直の男。通称兵部少輔。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、堺で「店だな」を開いた。旧臣の中城平次郎、天野屋清左衛門らと書簡を交わし佐竹家再興を願った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

佐竹義秀【さたけよしひで(15??~1581)】

佐竹義之の次男。高岡郡上ノ加江館主。通称太郎兵衛尉。1582年、「伊予高森、深田館の戦い」で長宗我部元親に従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

佐竹親直【さたけちかなお(1566~1615)】

佐竹義秀の男。官途は蔵人佐。室は長宗我部元親の娘(阿古姫)。1582年、「伊予深田の戦い」で父の佐竹義秀が討死したため、佐竹家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」で羽柴秀頼に属した長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

佐竹朝意【さたけとももと(1609~1671)】

佐竹親直の次男(柴田宗朝)。通称外記。別名賀江忠次郎。室は柴田実信の娘(申姫)。1614年、「大坂冬の陣」で父の佐竹親直が長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で佐竹親直が長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い敗退したため、伊達政宗勢に捕縛された。その後、伊達政宗に仕え3,000石を領した。1671年、「伊達騒動」で原田宗輔を謀殺したが、酒井忠清の家臣に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹右兵衛【さたけうへい(15??~15??)】

安芸国虎家臣。1579年、「山川館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

三宮左兵衛門【さんのみやさえもん(1565~1587)】

長宗我部元親家臣。高岡郡日下葛掛館主。通称平衛門。下葛掛館1,800石を領した。1582年、「伊予高森、深田館の戦い」で長宗我部元親に従い小早川隆景勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

三宮親俊【さんのみやちかとし(15??~15??)】

三宮左兵衛の男。通称平右衛門。1582年、「勝瑞城の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い戦功を挙げた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

三宮親庸【さんのみやちかやす(15??~15??)】

高岡郡柏井館主。官途は筑後守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

三宮親虎【さんのみやちかとら(15??~15??)】

三宮親庸の男。官途は越前守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

三宮重平衛尉【さんぐうじゅうべいのじょう(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。長宗我部信親の意向を受け浦戸衆(国真左馬亮、中内左近衛門尉ら)とともに津野城に派遣され、津野城奉行衆を務めた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

敷地藤康【しきちふじやす(1469~1540)】

一条房基家臣。幡多郡塩塚館主。官途は民部少輔。1540年、「敷地藤康の乱」で入野家重から申し込まれた縁談を断ったため、一条房冬に讒言され、追討令を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

敷地官兵衛【しきちかんべい(15??~15??)】

敷地藤康家臣。幡多郡柚ノ木館主。1540年、「敷地藤康の乱」で一条房冬勢に追われた敷地藤康の娘(椿姫)を匿った。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

敷地相模守【しきちさがみのかみ(15??~1575)】

本山茂辰家臣。1575年、「式地館の戦い」で長宗我部元親の家臣奥宮盛治、織部正之勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

出間九郎兵衛【しつまくろうべい(15??~15??)】

高岡郡出間館主。1517年、「姫野々館の戦い」で一条房家の意向を受け津野国泰の家臣中平元忠勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

篠田宗円【しのだそうえん(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

柴岡尾張守【しばおかおわりのかみ(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡柴岡館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

島崎利明【しまざきとしあき(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。通称与左衛門。別名立花林慶。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

島親益【しまちかます(15??~1571)】

長宗我部国親の四男。別名長宗我部親益。1560年、「長浜の戦い」で長宗我部元親とともに本山茂辰勢と戦い戦功を挙げた。1571年、療養のため有馬の湯に向う途中、阿波国那佐湊で安芸国虎の残党に襲われ討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

島村徳重【しまむらとくしげ(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。通称左近進。1594年、長浜の若宮八幡宮の造営奉行職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

下田頼隆【しもだよりたか(15??~15??)】

公文正信家臣。石谷重信の次男。1547年、「大津城の戦い」で横山友隆とともに天竺花氏に従い長宗我部国親勢と戦い戦功を挙げたが、反撃を受け降伏した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

下山丹後守【しもやまたんごのかみ(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡下山館主。参考文献:「高知県の観光」by高知県の観光。

下元正直【しももとまさなお(15??~15??)】

津野勝興家臣。通称孫九郎。1571年、「仁淀川の戦い」で津野勝興に従い長宗我部元親勢と戦い降伏した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

下元直良【しももとなおよし(15??~1624)】

岡良辰の男(下元正直の養子)。通称九郎兵衛。別名岡平右衛門。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。唐島で兄の岡勘助、吉田政重とともに虎退治をして勇名をはせた。1600年、「関ヶ原の戦い」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い敗退した。長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

下元正良【しももとまさよし(15??~15??)】

下元直良の男。通称九郎兵衛。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

勝賀野実信【しょうがのさねのぶ(15??~1588)】

吉良親実家臣。通称次郎兵衛。領内700町の検地を実施した。1588年、「蓮池城の戦い」で吉良親実が長宗我部元親と対立して自刃したため、蓮池城に手勢とともに籠城した。長宗我部元親の家臣土居勝行、塩見野弥惣、野中源兵衛、北台市左衛門、北台四郎左衛門勢の攻撃を受け北代四郎右衛門、塩見惣兵衛、野中源三兵衛を討取ったが力尽き討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

白河兼親【しらいしかねちか(15??~15??)】

一条房冬家臣。高岡郡土岐館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

白河富親【しらいしとみちか(15??~15??)】

白河兼親の男。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

志和宗貞【しわむねさだ(15??~15??)】

高岡郡志和館主。通称孫次郎。仁井田五人衆。志和館3,600石を領した。考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

志和宗茂【しわむねしげ(15??~1595)】

志和孫次郎の男。通称権之助。別称難波権之助。1562年、「志和館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い降伏した。1582年、「勝瑞城の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「文禄に役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1595年、梼原で長宗我部元親の家臣船渡三郎左衛門、松原蔵人に謀殺された。考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

志和勘助【しわかんすけ(15??~1595)】

志和宗貞の次男。通称勘助。別名難波孫次郎。腕力が強く健脚。笛の名手。1582年、「勝瑞城の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い兄の志和宗茂とともに戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」で志和宗茂とともに長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1595年、兄の志和宗茂が梼原で長宗我部元親の家臣黒岩玄蕃(船渡三郎左衛門、松原蔵人)に謀殺された。「志和館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け討死した。考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

志和甚右衛門【しわじんざえもん(15??~15??)】

志和勘助の男。通称又之丞。1595年、「志和館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け父の志和勘助が討死したため、毛利勝信のもとに落延びた。1614年、「大坂冬の陣」で羽柴秀頼の家臣毛利勝永に従い戦功を挙げた。山内忠義に300石で仕えた。考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

秦泉寺大和守【じんせんじやまとのかみ(15??~15??)】

本山茂宗家臣。土佐郡秦泉寺館主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

秦泉寺茂景【じんせんじしげかげ(15??~15??)】

秦泉寺大和守の男。官途は掃部頭。1556年、「秦泉寺館の戦い」で国沢能明、大高坂経之らの支援を受け長宗我部国親勢と戦い敗退した。長宗我部国親に仕えた。1560年、秦泉寺館から万々館に転封した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

秦泉寺秦惟【じんせんじやすこれ(15??~15??)】

秦泉寺掃部の男。官途は豊後守。長宗我部元親の兵法指南役を務めた。1560年、「長浜の戦い」で長宗我部元親に槍の使い方を教え初陣で飾らせた。1588年、「万々館の戦い」で長宗我部元親から謀反の嫌疑を受け中島親吉勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

宿毛甚左衛門【すくもじんざえもん(15??~1619)】

長宗我部元親家臣。長岡郡野田館主。別名長宗右衛門大夫。室は本山茂辰の娘。若年寄衆を務め、1,200石を領した。1600年、「伊勢安濃津城の戦い」で長宗我部元親家に従い富田信高、分部光嘉勢と戦い戦功を挙げた。長宗我部盛親が改易処分に処されたため、藤堂高虎に仕え1,500石を領した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

専当章貞【せんとうあきさだ(15??~15??)】 

香美郡槙山館主。通称四郎左衛門。槙山郷専当の名主職を務めた。長宗我部兼序と親交を結んだ。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

専当秀家【せんとうひでいえ(15??~15??)】 

専当章貞の男。通称左京亮。1551年、「韮生館の戦い」で長宗我部国親に従い本山茂辰の家臣萩野織部勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

専当安家【せんとうやすいえ(15??~15??)】

専当秀家の男。通称左衛門大夫。1553年、「熊山館の戦い」で長宗我部国親に従い弟の岡内左京、中谷川新助とともに久保貞弘勢と戦い戦功を挙げた。長宗我部元親に従い阿波国、讃岐国を転戦して戦功を挙げ再び専当を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

専当乗家【せんとうのりえい(15??~16??)】

専当安家の男。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

専光寺右馬允【せんこうじうまのじょう(15??~15??)】

安芸国虎家臣。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い敗退したため、横山紀伊守、岡林将監、小川新左衛門、小谷正次とともに長宗我部元親に内応して先導役を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

専当左馬丞【せんとうさうまのじょう(15??~15??)】

安芸国虎家臣。1563年、「岡豊城の戦い」で一条定兼の支援を受け長宗我部元親勢と戦い長宗我部元親の家臣吉田重俊勢の反撃を受け敗退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

宗円八郎左衛門【そうえんはちぜえもん(15??~1569)】

香美郡宗円館主。長宗我部国親に仕え63石を領した。1569年、「八流川の戦いで長宗我部元親に従い安芸国虎勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

宗円平左衛門【そうえんへいざえもん(15??~15??)】

宗円八郎左衛門の男。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

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【た】

高石与七【たかいしよしち(15??~15??)】 

本山茂宗家臣。1565年、「岡豊城の戦い」で本山茂宗に従い長宗我部元親勢と戦い撃退された。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高石左馬之助【たかいしさまのすけ(15??~16??)】

長宗我部元親家臣。長岡郡一領具足衆。北山村を中心に5ヶ村500石を領した。1603年、「滝山一揆」で一領具足衆や百姓を束ね山内一豊の家臣永原一照勢と戦い讃岐国に落延びた。参考文献:「忠兵衛ぐでんぐでん日記」byぐでのすけ。

高石吉之助【たかいしきちのすけ(15??~16??)】

高石左馬之助の弟。1603年、「滝山一揆」で兄の高石左馬之助とともに山内一豊の家臣永原一照勢と戦い讃岐国に落延びた。参考文献:「忠兵衛ぐでんぐでん日記」byぐでのすけ。

高島正重【たかしままさしげ(15??~16??)】

一条兼定家臣。長岡郡高島館主。通称新三郎。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、長宗我部元親に仕えた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕えた。著書に『元親記』。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

高島孫右衛門【たかしままござえもん(15??~16??)】

高島正重の男。1600年、参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

高野助兵衛【たかのすけべい(15??~15??)】 

津野勝興家臣。長岡郡鹿児館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

高野六郎兵衛【たかのろくろうびょうえ(15??~1615)】

高野助兵衛の男。1592年、「朝鮮熊川の戦い」で津野親忠に従い李氏朝鮮勢と戦い敵船二艘を乗っ取り、三艘を焼くという戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

高野嘉義之助【たかのかぎのすけ(15??~16??)】

高野六郎兵衛の男。1600年、津野親忠が改易処分に処されたため、長宗我部盛親に仕えた。長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕え須江村の庄屋に任じられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高野道也【たかのみちや(15??~15??)】

高野六郎兵衛の次男。通称源右衛門。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高橋壱岐守【たかはしいきのかみ(15??~15??)】 

本山茂宗家臣。高岡郡雀ヶ森館主。福島浦館から雀ヶ森館に転封した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

高橋又左衛門【たかはしまたざえもん(15??~1582)】

長宗我部元親家臣。安芸郡一領具足衆。1582年、「勝瑞城の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

竹内惣右衛門【たけうちそうえもん(15??~1601)】

長宗我部元親家臣。土佐郡一領具足衆。長宗我部元親から信頼され、軍議に列席した。1600年、「浦戸一揆」で一揆衆とともに桑名吉成勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

竹内八右衛門【たけうちはちざえもん(15??~1675)】

長宗我部元親家臣。弓術家。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、所領を失った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

竹崎豊後守【たけさきぶんごのかみ(15??~15??)】

香美郡竹崎館主。室は寺石河内守の娘。別名桑名豊後守。1562年、「寺内館の戦い」で寺石河内守とともに長宗我部元親の家臣五百蔵藤五郎、萩野織部勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

竹崎定治【たけさきさだはる(15??~16??)】

津野親忠家臣。通称助左衛門。1600年、津野親忠が長宗我部盛親に謀殺されたため、高岡郡の北川宮谷に転封した。1601年、紀伊高野山で明神正作の弟子を務めた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

竹中弥右衛門【たけなかやえもん(15??~15??)】 

本山茂宗家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

竹葉権頭【たけはごんのかみ(15??~1574)】

一条房基家臣。幡多郡竹葉館主。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、安宗実刻、奈良長門守、伊与田淡路守らと結び長宗我部元親勢に対抗した。「竹葉館の戦い」で長宗我部元親に属した小島政章勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「宿毛市史」by宿毛市教育委員会。

武元兵庫【たけもとひょうご(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡上長谷館主。別名武光兵庫。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

田島次郎【たじまじろう(15??~15??)】

松梛盛宗家臣。1540年、「吉良峰館の戦い」で松梛盛衛門に従い本山茂辰勢と戦い落延びた。参考文献:「高知市春野郷土資料館」by春野町。

立川五郎右衛門【たちかわごろうざえもん(15??~15??)】

本山茂宗家臣。立川館主。別名本山五郎右衛門。1560年、「長浜の戦い」で長宗我部国親勢と戦い敗退したため、長宗我部元親に仕えた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、立川で帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

立石右京進【たていしうきょうのしん(15??~15??)】

一条兼定家臣。幡多郡立石館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

立石摂津守【たていしせっつのかみ(15??~1574)】

立石右京進の男。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、加久見左衛門と結び一条内政の後見役を務めた。1574年、一条内政の処遇を家を悲しみ自刃した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

立石正賀【たていしまさよし(1565~1659)】

立石右京進の次男。通称助兵衛。1580年、「伊予三瀧館の戦い」で久武親信に従い北ノ川左衛門勢と戦い戦功を挙げた。1582年、「伊予高森、深田館の戦い」で久武親信に従い竹林院実親の家臣深田太兵衛勢と戦い深田太兵衛勢を討取る戦功を挙げた。中内兵庫、町又五郎、豊永藤五郎、長宗我部盛親らとともに長宗我部元親から遺言の書状を受けた。1600年、横山新兵衛とともに長宗我部盛親の意向を受け松平元康との取次役を務めた。長宗我部盛親が改易処分に処されたため、細川忠興に仕えて1,500石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団竹崎定治【たけさきさだはる(15??~15??)】

津野親忠家臣。通称助左衛門。1600年、津野親忠が長宗我部盛親に謀殺されたため、高岡郡の北川宮谷に転封した。1601年、紀伊高野山で明神正作の弟子を務めた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。辞典(西国編)』by新人物往来社。

立田九郎左衛門【たてたくろうざえもん(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

伊達入道【だてにゅうどう(15??~15??)】

土佐郡大河内館主。1563年、「大河内館の戦い」で吉松光勝勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

田所猪助【たどころいのすけ(15??~1599)】

長宗我部元親家臣。横浜、長浜で50石を領した。1599年、同輩を謀殺して逃亡したため、長宗我部元親の意向を受けた堀内善左衛門に討取られた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

田所善兵衛【たどころぜんべい(15??~1599)】

長宗我部元親家臣。別名堀内善左衛門。1599年、同輩を謀殺して逃亡した田所猪助を討取る功を上げ、長宗我部元親の意向を受け田所家の家督を相続した。長宗我部元親が京で病没したため、自ら剃髪し岡豊山で自刃した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

谷式部左衛門【たにしきぶざえもん(15??~15??)】

久万俊親家臣。1560年、「久万館の戦い」で久万俊宗とともに久万館に籠城したが長宗我部元親勢の攻撃を受け内応して長宗我部元親勢を万久館に引き入れた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

谷神右衛門【たにがみうざえもんn(1588~1660)】

福留親政家臣。別名神七郎。室は福留親政の娘。才幹あふれる人物。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊の家臣野中兼山に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

谷忠澄【たにただずみ(1544~1600)】

長宗我部元親家臣。通称忠兵衛。もと土佐一之宮の神職。非有、栄音とともに長宗我部元親に仕え外交方面で活躍した。1585年、「阿波一宮城の戦い」で江村親俊とともに一宮城に籠城して羽柴秀長勢と戦い戦況を見極め、羽柴秀長の勧告を受け入れ長宗我部元親元親に降伏を勧めた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い長宗我部信親が討死したため、島津義弘のもとに赴き長宗我部信親の亡骸の返還交渉を行った。その後、中村城代職を務め、囚人を使役して入野浜に松を捕植させるなど善政を尽くした。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

谷彦十郎【たにひごじゅうろう(15??~1587)】

谷忠澄の男。1587年、「豊後戸次川の戦い」で父の谷忠澄とともに島津義久勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

谷加兵衛【たにかへい(15??~16??)】

谷忠澄の三男。1600年、父の谷忠澄が病没したため、谷家の家督を相続した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

谷村六郎【たにむらろくろう(15??~15??)】

安芸国虎家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

田上善衛門【たのうえぜんざえもん(15??~15??)】 

本山茂宗家臣。1565年、加田館を守備した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

玉木左兵衛【たまきさえもん(15??~1574)】

安宗実刻家臣。1574年、「安宗館の戦い」で安宗実刻が小島政章と和議を結んで竹葉館から出たところを謀殺されため、傷を受けながら囲みを破り、館に戻り安宗実刻の内室を自害させると城に火を放ち自刃した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

田村重光【たむらしげみつ(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。田村光忠の男。幡多郡下ノ加江館主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田村忠重【たむらただしげ(15??~16??)】

田村重光の男。通称平兵衛。室は江口藤兵衛の娘。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、帰農した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

為松若狭守【たんまつわかさのかみ(15??~15??)】

一条房基家臣。一条家四家老職を務めた。1573年、家老職の安並直敏、羽生道成とともに一条兼定を隠居させ一条内政に一条家の家督を相続させた。1574年、長宗我部元親の支援を受け一条兼定を豊後国へ追放した。「中村城の戦い」で安並直敏、羽生道成とともに長宗我部元親の支援を受けた加久見左衛門尉勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

近沢親春【ちかざわちかはる(15??~15??)】

大平国元家臣。高岡郡尾川館主。近沢広正の男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

近沢祐清【ちかざわすけきよ(1541~1615)】

近沢親春の男。官途は将監。通称弥左衛門。別名尾川兵部。1546年、「尾川館の戦い」で大平元国に従い一条房基勢の攻撃を受け敗退した。1566年、「尾川館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した。長宗我部元親のもとで祐筆役を務めた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕え200石を領した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

近沢嘉兵衛【ちかざわかへい(15??~1587)】

近沢祐清の男。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

近沢越後守【ちかざわえちごのかみ(15??~15??)】

長宗我部国親家臣。高岡郡具同館主。近沢兼親の孫。江村衆。弓鉄炮の指南役を務めた。1562年、土佐一宮神社を再建した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

近沢掃部【ちかさわかもん(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

千屋貞堯【ちやさだたか(15??~15??)】

細川勝益家臣。香美郡千屋館主。通称文大夫。土佐国四家。1507年、「永正の錯乱」で細川政元が香西元長、薬師寺長忠に謀殺され細川政益、細川国益が京都に帰国したため、独立勢力化した。長宗我部国親に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

長宗我部兼序【ちょうそかべかねつぐ(14??~1508)】

細川政元家臣。長岡郡岡豊城主。長宗我部雄親の男。官途は信濃守。室は祥鳳。智勇兼備の武将。1478年、父の長宗我部雄親が病没したため、長宗我部家の家督を相続した。1507年、「永正の錯乱」で細川政元が香西元長、薬師寺長忠らに謀殺されたため、権威の後ろ盾を失った。1508年、「岡豊城の戦い」で本山茂宗、山田基道、大平元国、吉良宣経勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

長宗我部国親【ちょうそかべくにちか(1504~1560)】

長宗我部兼序の男。室は細川国隆の娘。1508年、「岡豊城の戦い」で父の長宗我部兼序とともに本山茂宗、山田基道、大平元国、吉良宣経勢の攻撃を受け討死したため、一条房家のもとに落延びた。1544年、本山茂宗と和議を結び岡豊城に復帰した。1547年、「大津城の戦い」で久武親定、吉田重俊、中島親吉ともに天竺花氏勢と戦い天竺花氏を討取る戦功を挙げた。1560年、「長浜の戦い」で本山茂辰勢と戦い長浜城、浦戸館を攻落とす戦功を挙げた。直後に病を得て急死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

長宗我部元親【ちょうそかべもとちか(1539~1599)】

長宗我部国親の男。官途は土佐守。室は石谷光政の娘。別名「姫若子」。1560年、「長浜の戦い」で父の長宗我部国親とともに本山茂辰勢と戦い戦功を挙げた。長宗我部国親が病没したため、長宗我部家の家督を相続した。1568年、「瓜生野館の戦い」で本山親茂勢と戦い本山親茂を降伏に追い込んだ。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎勢と戦い戦功を挙げ安芸国虎を討取る戦功を挙げた。1571年、「仁淀川の戦い」で津野勝興勢と戦い津野勝興を降伏に追込んだ。1574年、安並直敏、羽生道成、為松若狭守らを支援して一条兼定を追放処分に処した。1575年、「四万十川の戦い」で弟の吉良親貞とともに一条兼定勢と戦い戦功を挙げ土佐国を統一した。1579年、「岩倉城の戦い」で三好康俊勢と戦い降伏に追込んだ。1580年、織田信長が十河存保、三好康長勢を支援したため、織田信長と対立した。1582年、「阿波中富川の戦い」で十河存保勢と戦い戦功を挙げ阿波国を統一した。1584年、「引田の戦い」で羽柴秀吉の家臣仙石秀久勢と戦い戦功を挙げた。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で羽柴秀吉の家臣羽柴秀長、宇喜多秀家、黒田孝高、小早川隆景、吉川元長勢の反撃を受け降伏に追込まれた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で羽柴秀吉に属して島津義久勢と戦い敗退したため、長宗我部信親が討死した。1588年、三男の長宗我部盛親を後継者に指名したため、次男の香川親和や三男の津野親忠、比江山親興、吉良親実らと対立した。1592年、「文禄の役」で羽柴秀吉に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1599年、京都伏見屋敷で病没した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

長宗我部信親【ちょうそがべのぶちか(1565~1587)】

長宗我部元親の男。通称弥三郎。室は石谷頼辰の娘。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で父の長宗我部元親とともに羽柴秀吉勢と戦い降伏した。1587年、「豊後戸次川の戦い」で羽柴秀吉の意向を受け仙石秀久に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

長宗我部盛親【ちょうそがべもりちか(1575~1615)】

長宗我部元親の四男。官途は土佐守。室は長宗我部信親の娘。1587年、「豊後戸次川の戦い」で兄の長宗我部信親が島津義久勢と戦い討死したため、長宗我部家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成に属して松平元康勢と戦い敗退したため、改易処分に処された。1614年、「大坂冬の陣」で羽柴秀頼に従い松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で羽柴秀頼に従い藤堂高虎勢と戦い壊滅させる戦功を挙げたが井伊直孝勢の反撃を受け敗退した。京都八幡の橋本で蜂須賀至鎮の家臣長坂三郎左衛門に捕縛され、京都市中引き回しのうえ斬頸に処された。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

長宗我部盛恒【ちょうそかべもりつね(15??~1615)】

長宗我部盛親の男。1614年、「大坂冬の陣」で父の長宗我部盛親とともに松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親とともに藤堂高虎勢と戦い壊滅させる戦功を挙げたが井伊直孝勢の反撃を受け敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

長宗我部盛胤【ちょうそかべもりたね(15??~1615)】

長宗我部盛恒の男。1614年、「大坂冬の陣」で父の長宗我部盛親とともに松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親とともに藤堂高虎勢と戦い壊滅させる戦功を挙げたが井伊直孝勢の反撃を受け捕縛され斬頸に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

長宗我部盛高【ちょうそかべもりたか(15??~16??)】

長宗我部盛親の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

長宗我部盛信【ちょうそかべもりのぶ(15??~16??)】

長宗我部盛親の三男。1614年、「大坂冬の陣」で父の長宗我部盛親とともに松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親とともに藤堂高虎勢と戦い壊滅させる戦功を挙げたが井伊直孝勢の反撃を受け土佐国に落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

長宗我部盛定【ちょうそかべもりさだ(15??~1615)】

長宗我部盛親の四男。通称右衛門四郎。1614年、「大坂冬の陣」で父の長宗我部盛親とともに松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親とともに藤堂高虎勢と戦い壊滅させる戦功を挙げたが井伊直孝勢の反撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

長宗我部親吉【ちょうそかべちかよし(15??~1585)】

長宗我部兼序の四男。通称新右衛門尉。1585年、「阿波脇城の戦い」で長宗我部元親に従い羽柴秀吉勢と戦い長宗我部元親が降伏したため、土佐国に撤退した。貞光川の栂橋で小野寺吉家勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

長宗我部右近大夫【ちょうそかべうこんだいふ(1583~1615)】

長宗我部元親の五男。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、加藤清正に仕えた。長宗我部盛胤を養育した。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で兄の長宗我部盛親が松平元康勢と戦い捕縛され斬頸に処されたため、兄に殉じて自刃した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

長宗我部康豊【ちょうそかべやすとよ(1599~16??)】

長宗我部元親の六男。官途は民部。通称信九郎。別名足立七左衛門。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、所領を失った。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で兄の長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い落延びた。酒井忠利に仕え1,500石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

長安総【ちょうやすふさ(15??~15??)】

山本茂辰家臣。長岡郡立川館主。官途は越前守。馬廻衆。1560年、「長浜の戦い」で本山茂辰に従い長宗我部国親勢と戦い敗退した。1562年、「朝倉館の戦い」で本山茂辰に従い長宗我部国親勢と戦い16人を射殺する戦功を挙げた。参考文献:「足利氏(戦国大名、足利氏について)bykuhoin。

長左近左衛門尉【ちょうさこんさえもんのじょう(15??~15??)】

長安総の男。参考文献:「足利氏(戦国大名、足利氏について)bykuhoin。

津島勘助【つしまかんすけ(15??~15??)】

一条兼定家臣。幡多郡栗本館主。1575年、「四万十川の戦い」で一条兼定に従い長宗我部元親勢と戦い敗退した。

津野元実【つのもとざね(14??~15??)】

高岡郡姫野々館主。津野元勝の男。官途は刑部少輔。知勇兼備。1517年、「戸波館の戦い」で一条房家の家臣福井玄蕃、佐竹掃部頭勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

津野国泰【つのくにやす(1517~1538)】

津野元実の男。通称弥次郎。1517年、「戸波館の戦い」で父の津野元実が一条房家の家臣福井玄蕃勢と戦い討死したため、津野家の家督を相続した。「姫野々館の戦い」で家臣の中平元忠が安並弥三、出間九郎兵衛勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

津野基高【つのもとたか(1503~1553)】

山内摂津守の男(津野元実の養子)。通称弥次郎。1538年、津野国泰が病没したため、津野家の家督を相続した。1543年、「姫野々館の戦い」で一条房基勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1546年、「須崎の戦い」で一条房基勢と戦い敗退したため、降伏した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

津野定勝【つのさだかつ(1521~1616)】

津野基高の男。官途は中務少輔。室は一条兼定の娘。1568年、、「伊予高島、鳥坂峠の戦い」で宇都宮豊綱とともに一条兼定に従い河野通宣勢と戦い敗退した。1569年、「蓮池館の戦い」で長宗我部元親の家臣吉良親貞勢の攻撃を受け一条兼定勢が敗退したため、劣勢に立たされた。長宗我部元親から降伏勧告を拒否したため、津野親房らから追放処分に処された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

津野勝興【つのかつおき(15??~1578)】

津野定勝の男。1569年、父の津野定勝は長宗我部元親から降伏勧告を拒否したため、津野親房らから追放処分に処された。津野家の家督を相続した。1571年、「名古屋坂の戦い」で一条兼定の支援を受け長宗我部元親勢と戦い戦功を挙げ蓮池館を奪還した。「仁淀川の戦い」で長宗我部元親、吉良親貞勢と戦い一条兼定の家臣土居治部が内応したため、大敗した。長宗我部元親に降伏して長宗我部元親の三男津野親忠を養子に迎えた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

津野親忠【つのちかただ(1572~1600)】

長宗我部元親の三男(津野勝興の養子)。通称孫次郎。1571年、「仁淀川の戦い」で津野勝興が長宗我部元親、吉良親貞勢と戦い敗退したため、津野家の養子に迎えられた。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で父の長宗我部元親が羽柴秀吉勢と戦い敗退したため、人質として大坂城に赴いた。1586年、「豊後戸次川の戦い」で兄の長宗我部信親が島津義久勢と戦い討死したため、四弟の長宗我部盛親が長宗我部家の家督を相続した。1600年、久武親直の讒言を受け長宗我部盛親に謀殺された。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

津野親房【つのちかふさ(15??~16??)】

津野定勝家臣。通称藤内蔵。1569年、「蓮池館の戦い」で長宗我部元親の家臣吉良親貞勢の攻撃を受け一条兼定勢が敗退したため、津野定勝を追放して津野勝興を擁立した。1571年、「仁淀川の戦い」で津野勝興が長宗我部元親、吉良親貞勢と戦い敗退したため、長宗我部元親の三男津野親忠を津野家の養子に迎えその後見役と務めた。1600年、久武親直と結び津野親忠を謀殺した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

津野七左衛門【つのしちざえもん(15??~15??)】

津野基高の三男。通称孫次郎。1569年、兄の津野定勝とともに長宗我部元親からの降伏勧告を拒否したため、津野親房らから追放処分に処された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

寺尾内蔵介【てらおくらのすけ(15??~15??)】

安芸元盛家臣。安芸郡新庄館主。1555年、安芸元盛の意向を受け新城館を築館し館主に任じられた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

寺石河内守【てらいしかわちのかみ(15??~15??)】

香美郡寺内館主。室は桑名丹後守の娘。1562年、「寺内館の戦い」で竹崎豊後守とともに長宗我部元親の家臣五百蔵藤五郎、萩野織部勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

天竺花氏【てんじくはなうじ(15??~15??)】

細川勝益家臣。長岡郡大津城主。通称二位少将。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

天竺花氏【てんじくはなうじ(15??~1547)】

天竺花氏の男(同名)。通称孫十郎。1547年、「大津城の戦い」で長宗我部国親の家臣久武親定、吉田重俊、中島親吉勢の攻撃を受け滅亡した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

天竺兵部少輔【てんじくひょうびぶしょうゆ(15??~15??)】

天竺花氏の男。通称兵部少輔。1547年、「大津城の戦い」で父の天竺花氏が長宗我部国親勢と戦い討死したため、山城国に落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

土居家忠【どいいえただ(1512~1573)】

一条房基家臣。幡多郡中村上谷館主。官途は近江守。別名「宗珊」。筆頭家老職。智勇兼備。1573年、一条兼定に素行の悪さを諫言したため、一条兼定に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

土居家通【どいいえみち「(15??~15??)】

土居家忠の男。官途は安房守。別名今城通興。1574年、一条兼定が安並直敏、羽生道成、為松若狭守らに追放処分に処されたため、長宗我部元親に仕えた。1583年、長宗我部元親の意向を受け伊予北ノ川城を守備した。1585年、藤野川村に蟄居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

土居通治【どいみちはる(15??~15??)】

土居家通の男。通称藤大夫。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

土居通豊【どいみちとよ(15??~15??)】

土居家通の次男。通称彦右衛門。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕え岩門、芽生、藤川を領した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

土居勝行【どいかつゆき(1552~16??)】

一条房基家臣。官途は肥前守。通称孫太郎。1569年、「蓮池館の戦い」で長宗我部元親の家臣吉良親貞勢の攻撃を受け内応して高岡郡塚地館主に任じられた。1588年、「蓮池城の戦い」で長宗我部元親の意向を受け吉良親実の家臣勝賀野実信を謀殺した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

徳久亀之助【とくひさかめのすけ(15??~1601)】

本山茂宗家臣。土佐郡大高坂館主。一領具足衆。1560年、「長浜の戦い」で本山茂辰とともに長宗我部国親勢と戦い敗退したため、長宗我部元親に仕えた。1600年、「浦戸一揆」で一揆衆とともに桑名吉成勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

徳弘三郎左衛門【とくひろさぶろうざえもん(15??~1624)】

山田元義家臣。香美郡立田館主。1549年、「楠目館の戦い」で山田元義に従い長宗我部国親と戦い山田元義が滅亡したため、長宗我部元親に仕えた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

徳弘弾正忠【とくひろだんじょうちゅう(15??~15??)】

徳弘三郎左衛門の男。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

利岡辰巳【としおかたつみ(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡利岡館主。1574年、一条兼定が安並直敏、羽生道成、為松若狭守らに追放処分に処されたため、長宗我部元親に仕えた。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で長宗我部元親に従い羽柴秀吉勢と戦い敵に股間を射抜かれ、福留親政に助けられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

利岡彦兵衛【としおかひこべい(15??~16??)】

利岡辰巳の男。1600年、「浦戸一揆」で一揆衆とともに桑名吉成勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

戸田長右衛門【とだちょうえもん(15??~15??)】

津野基高家臣。1543年、津野基高から高岡郡大野見館主に任じられた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

富家刑部【とみいえぎょうぶ(15??~15??)】

本山茂宗家臣。1557年、森山館を守備した。1560年、「森山館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

鳥屋源兵衛【とりやげんべい(15??~15??)】

一条兼定家臣。幡多郡栗本館主。1575年、「四万十川の戦い」で一条兼定に従い長宗我部元親勢と戦い敗退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【な】

中内藤左衛門【なかうちとうざえもん(15??~1581)】

長宗我部国親家臣。長岡郡森館主。官途は石見守。1578年、「讃岐財田館の戦い」で長宗我部元親に従い財田常久勢と戦い戦功を挙げ讃岐財田館代を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

中内源兵衛尉【なかうちげんべいのじょう(15??~1615)】

中内藤左衛門の男。通称藤吉郎。別名桑名一友。1578年、「讃岐財田館の戦い」で父の中内藤左衛門とともに長宗我部元親に従い財田常久勢と戦い戦功を挙げた。1582年、「阿波中富川の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い戦功を挙げた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、兄の桑名一孝とともに藤堂高虎に仕え200石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で桑名一孝とともに藤堂高虎に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で藤堂高虎に従い長宗我部盛親勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

中内三由【なかうちさんゆ(1505~1582)】

長宗我部家臣。官途は兵庫亮。室は香宗我部山城守の娘。勇将としてしられ、阿波白地城主に任じされた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

中内重由【なかうちしげゆ(15??~15??)】

中内三由の男。通称与三右衛門。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

中内三安【なかうちさんざい(15??~1624)】

中内三由の次男。通称惣右衛門。室は久武内蔵助の娘。1562年、「吉良峰城の戦い」で長宗我部国親に従い吉良親貞勢と戦い戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い敗退した。長宗我部元親が改易処分に処されたため、所領を失った。1614年、「大坂冬の陣」で羽柴秀頼に属した長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。1615年、「大坂夏の陣」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い京都八幡に落延び蜂須賀至鎮の家臣長坂三郎左衛門に長宗我部盛親とともに捕縛された。参考文献:「忠兵衛ぐでんぐでん日記」byぐでのすけ。

中内弥五左衛門【なかうちよござえもん(15??~16??)】

中内三安の男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

中内左近衛門尉【なかうちさこんざえもんのじょう(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。長宗我部信親の意向を受け浦戸衆(国真左馬亮、三宮重平衛尉ら)とともに津野城に派遣され、津野城奉行衆を務めた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

中越吉高【なかごしよしたか(15??~15??)】

高岡郡鷲ヶ森館主。官途は豊前守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

中越吉長【なかごしよしなが(15??~15??)】

中越吉高の男。官途は三河守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

中越吉家【なかごしよしえ(15??~15??)】

中越吉長の男。官途は甲斐守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

長崎内蔵介【ながさきくらのすけ(15??~15??)】

和食親忠家臣。1550年、和食親忠が病没したため、安芸国虎と結んで勢力を拡大した。1562年、安芸国虎の意向を受け馬ノ上館を築館した。「第一次馬ノ上館の戦い」で長宗我部元親の家臣吉田重俊勢の攻撃を受け落延びた。1563年、「第二次馬ノ上館の戦い」で安芸国虎の支援を受け吉田重俊が留守の馬ノ上館を攻撃したが、吉田重俊の内室が薙刀を奮って留守兵を鼓舞したため、撃退された。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

長崎磯之進【ながさきいそのすけ(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

中島親吉【なかじまちかよし(15??~15??)】

長宗我部国親家臣。官途は大和守。1547年、「池館の戦い」で長宗我部国親に従い池頼定勢と戦い戦功を挙げた。1561年、「神森館の戦い」で福留親政とともの本山茂宗の家臣神森出雲守勢と戦い戦功を挙げた。1560年、「秦泉館の戦い」で長宗我部元親に従い本山茂宗の家臣吉松光久勢と戦い戦功を挙げた。1562年、「朝倉館の戦い」で長宗我部元親に従い本山茂辰勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

中島重勝【なかじましげかつ(15??~1583)】

中島親吉の男。通称与市兵衛。1574年、「羽根館の戦い」で長宗我部元親に従い大野家貞義勢と戦い敗退した。1579年、香川之景との取次役を務めた。1582年、「阿波中富川の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い戦功を挙げた。1583年、「讃岐引田城の戦い」で香川信景に従い羽柴秀吉の家臣仙石秀久勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

中島重房【なかじましげふさ(15??~16??)】

中島重勝の男。通称与市兵衛。1587年、「豊後戸次川の戦い」で羽柴秀吉に属した長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い敗退した。1592年、「普州城の戦い」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、藤堂高虎に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で羽柴秀頼に属した長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い敗退した。山内忠義に仕え300石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

中島孫右衛門【なかじままござえもん(15??~16??)】

中島重勝の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中島可之助【なかじまべくのすけ(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。1575年、長宗我部元親の意向を受け織田信長のもとに赴き長宗我部信親の烏帽子親を織田信長に依頼した。織田信長の「長宗我部元親は無鳥島の蝙蝠だな」という問いに「蓬莱宮の寛典に候」と回答した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

中島新介【なかじましんすけ(15??~15??)】

本山茂宗家臣。1565年、「一宮館の戦い」で高石与七、岡崎与左衛門、桑川久助らとともに本山茂宗に従い泰泉寺大和守勢と戦い敗退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

中城平次郎【なかしろへいじろう(15??~15??)】

佐竹義直家臣。1571年、「蓮池城の戦い」で佐竹義直に従い長宗我部元親の家臣吉良親貞勢と戦い落城した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

中平元忠【なかひらひょうごのすけ(14??~15??)】

津野元実家臣。高岡郡半山館主。通称兵庫助。筆頭家老職を務めた。1517年、「戸波館の戦い」で津野元実が一条房家の家臣福井玄蕃、佐竹掃部頭勢と戦い討死したため、津野国泰の後見役を務めた。1543年、「姫野々館の戦い」で安並弥三、出間九郎兵衛勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1546年、「須崎の戦い」で津野基高の陣代を務め、一条房基勢を撃退する戦功を挙げた。1546年、「須崎の戦い」で一条房基勢と戦い敗退したため、降伏した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

中平之房【なかだいらゆきふさ(1518~1605)】

中平元忠の男。官途は駿河守。1571年、「仁淀川の戦い」で津野勝興が長宗我部元親、吉良親貞勢と戦い敗退したため、津野親忠に仕えた。1600年、津野親忠が自刃したため、藤堂高虎にその事実を伝えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

中平忠清【なかだいらただきよ(15??~15??)】

中平之房の男。通称清兵衛。別名中平近房。1600年、津野親忠が長宗我部盛親に謀殺されたため、父の中平之房から津野親忠の遺品を預かった。長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕え庄屋職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

中平光義【なかひらみつよし(1565~1642)】

中平之房の次男。官途は左京亮。1592年、「文禄の役」で津野親忠に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。針樅の苗木を朝鮮から持ち帰り檮原の三嶋神社に植栽した。1600年、山内一豊に仕え庄屋に任じられた。1614年、「大坂冬の陣」で長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

中平経利【なかひらつねとし(15??~15??)】

津野基高家臣。官途は豊前守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

中平重熊【なかひらしげくま(15??~15??)】

高岡郡四手館主。官途は隠岐守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

中平壱岐守【なかひらいきのかみ(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡口屋内館主。参考文献:「高知県の観光」by高知県の観光。

中村花清【なかむらかすが(15??~15??)】

天竺花氏の次男。通称三郎左衛門。1547年、「大津城の戦い」で父の天竺花氏が長宗我部国親勢と戦い討死したため、香美郡に落延び山田元義に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中村荘太郎【なかむらそうたろう(1534~1547)】

天竺花氏の三男。1547年、「大津城の戦い」で父の天竺花氏が長宗我部国親勢と戦い討死したため、長岡郡才谷村に落延びたが長宗我部国親勢の捕縛され謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中村信義【なかむらよしのぶ(15??~15??)】

長岡郡松尾館主。官途は越前守。1571年、「松尾館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

中村兵庫【なかむらひょうご(15??~15??)】

中村信義の男。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」で長宗我部盛親の内室を警護して伏見城に赴いた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

中村秀憲【なかむらひでのり(15??~15??)】

中村兵庫の男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

中山田泰吉【なかやまだやすよし(1541~1613)】

香宗我部秀通の男。通称左衛門佐。別名香宗我部泰吉。室は一条兼定の養女。知勇兼備。1556年、父の香宗我部秀通が伯父の香宗我部親秀に謀殺されたため、細川宗輔のもとで養育され香美郡中山田、新宮、兎田を領した。1558年、長宗我部国親の三男香宗我部親泰が香宗我部家を相続したため、中山田館に転封した。香宗我部親泰の補佐役を務めた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、土佐国で帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。
 
中山田秀長【なかやまだひでなが(15??~15??)】

中山田泰吉の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中山田宣時【なかやまのぶとき(15??~15??)】 

中山田泰吉の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
 
中山田秀政【なかやまだひでまさ(1544~1619)】

香宗我部秀通の次男。通称親助。1556年、父の香宗我部秀通が伯父の香宗我部親秀に謀殺されたため、兄の中山田泰吉とともに細川宗輔のもとで養育された。香宗我部貞親の後見役を務めた。兄の中山田泰吉の養子に迎えられ中山田家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
 
中山田政氏【なかやまだまさうじ(1571~1647)】

中山田秀政の男。通称五郎左衛門。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、香宗我部貞親とともに堺に赴いた。香宗我部貞親が寺沢広高に仕えたため、土佐国に戻り山内忠義に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中山田直治【なかやまだなおはる(1572~1643)】

中山田秀政の次男。通称五郎左衛門。1600年、「関ヶ原の役」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い負傷した。長宗我部盛親が改易処分に処されたため、屋敷に隠遁した。1608年、山内忠義に仕え15人扶持を給された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中山元就【なかやまもとなり(15??~15??)】

大平国雄の四男。別名大平元就。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

中山信滋【なかやまのぶしげ(15??~15??)】

中山元就の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

中脇左京亮【なかわきさきょうのじょう(15??~1615)】

一条兼定家臣。幡多郡中脇館主。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、長香宗我部元親に仕えた。1574年、「安宗館の戦い」で小島政章とともに安宗実刻勢と戦い和議を結び館から出た安宗実刻を慶福寺で謀殺した。1600年、「関ヶ原の戦い」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い敗退した。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中脇美作守【なかわきみさくのかみ(15??~1615)】

中脇左京亮の男。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、父の中脇左京亮とともに長宗我部元親に仕えた。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で中脇左京亮とともに長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

那須外記【なすげき(15??~15??)】

幡多郡那須館主。弓の達人で名馬「鉄炮黒」を保有した。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、長宗我部元親に仕えた。長宗我部元親へ鉄炮黒を献上した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

鍋島修理【なべしましゅり(15??~1563)】

細川定輔家臣。家老職と務めた。1561年、神田館主に任じられた。1563年、「朝倉館の戦い」で長宗我部元親に属した細川定輔に従い本山茂辰勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

波越亀太夫【なみこしかめだいふ(15??~1586)】 

森孝頼家臣。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。森頼実はその死を惜しみ、波越亀太夫の娘を瀬戸次郎に配した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

奈良長門守【ならながとのかみ(15??~1574)】

一条房基家臣。幡多郡奈良館主。1574年、一条兼定が追放に処されたため、安宗実刻、竹葉権頭、伊与田淡路守らと結び長宗我部元親勢に対抗した。「奈良館の戦い」で長宗我部元親に属した小島政章勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

南部太郎左衛門【なんぶたろうざえもん(15??~1615)】

津野定勝家臣。高岡郡大野見館主。1569年、「蓮池館の戦い」で長宗我部元親の家臣吉良親貞勢の攻撃を受け降伏した。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊の家臣山内備後守に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

南部源左衛門【なんぶげんざえもん(15??~15??)】

南部太郎左衛門の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

西原清延【にしはらきよのぶ(14??~15??)】

高岡郡中江館主。通称左衛門尉。別名吉村清延。仁井田五人衆。新在家郷12ヶ村(道徳、平野、土居、黒石、奈路、弘見、数家、神野々、八千数、飯ノ川、本堂、親ヶ内)を領した。1497年、紀州熊野神社を勧誘し熊野神社を創建した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

西原則重【にしはらのりしげ(15??~15??)】

西原清延の男。1571年、「中江館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した1585年、「伊予喜多川の戦い」で長宗我部元親に従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

西原重吉【にしはらしげよし(15??~15??)】

西原則重の男。1585年、「伊予喜多川の戦い」で父の西原則重とともに長宗我部元親に従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

西原重助【にしはらしげすけ(15??~15??)】

西原清延の次男。通称藤兵衛。室は志和則延の娘(於万姫)。1585年、「伊予喜多川の戦い」で兄の西原則重が長宗我部元親に従い小早川隆景勢と戦い討死したため、西原家の家督を相続した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

西原貞清【にしはらさだきよ(15??~15??)】

西原清延の三男。官途は紀伊守。兄の西原重助が病没したため、西原家の家督を相続した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

西原清直【にしはらきよなお(15??~1592)】

西原重清の男。通称新五衛門。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。陣中で毒の入った水を飲んで病没した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

西原清澄【にしはらきよずみ(15??~16??)】

西原清直の男。官途は左近衛門。通称権助。1592年、「文禄の役」で西原館留守居役を務めた。1600年、「浦戸一揆」で一揆衆とともに桑名吉成勢と戦い落延びた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

西原清康【にしはらきよやす(15??~16??)】

西原清直の次男。1600年、長宗我部盛親が改易処分の処されたため、山内一豊に仕えた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

西宗澄【にしみねみず(15??~15??)】

津野定勝家臣。高岡郡本在家館主。東忠澄の次男。官途は和泉守。別名福良宗澄。仁井田五人衆。1568年、家督を西宗勝に譲り隠居した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

西宗勝【にしむねかつ(15??~1592)】

西宗澄の男。官途は和泉守。1562年、「本在家館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した。1592年、「文禄の役」で仁井田五人衆の(窪川七郎左衛門、西原清澄、志和宗茂、東宗澄)四家は長宗我部元親勢に従い出陣したが、西宗勝は留守居役に任じられた。大雨で増水した中越川で溺死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

西十兵衛【にしじゅうべい(15??~16??)】

西宗勝の三男。通称十兵衛。1614年、「大坂冬の陣」で長宗我部盛親に従い大坂城に籠城した。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親に従い藤堂良勝勢と戦い敗退した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

西内道昭【にしうちみちあき(15??~15??)】

山田元義家臣。香美郡鳥森館主。官途は越前守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

西内常陸介【にちうちひたちのすけ(15??~1557)】

西内道昭の男。吉田重俊にして「勇気あり智慧深く、礼譲厚くして人を尊げ、軍士を使う事手足の如し」と言わしめた名将。山田元義の公家化を諌めたため、蟄居を命じられた。1557年、長宗我部元親に討取られた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

西内源左衛門【にしうちげんざえもん(15??~15??)】

西内道昭の次男。長宗我部元親に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

西内周防守【にしうちすぼうのかみ(15??~15??)】

西内常陸介の男。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

西内喜兵衛門【にしうちきざえもん(15??~15??)】

西内左近の男。1570年、香宗我部親泰に仕え安芸城代職を務めた。1574年、「野根館の戦い」で惟宗国長の隙を衝いて野根館を攻落す戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

西小路房忠【にしこうじふさただ(15??~15??)】

一条房家の三男。一条五家。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。

西小路兼頼【にしこうじかねより(15??~15??)】

西小路房忠の男。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。

西森源内【にしもりげんない(15??~1571)】

高岡郡和泉館主。通称源内。1570年、津野親忠の領内で乱暴狼藉を働いたため、同僚の名本弥三兵衛らに討取られた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

西和田茂直【にしわだしげなお(1552~1623)】

本山茂辰の三男(西和田越後守の養子)。通称勝兵衛。別名本山治部少輔。1568年、「瓜生野館の戦い」で兄の本山親茂が長宗我部元親勢と戦い敗退したため、本山親茂、本山茂慶とともに長宗我部元親に仕えた1600年、長宗我部盛親が改処分に処されたため、石見国に転封した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

仁谷岡源左衛門尉【にたにおかげんざえもん(15??~15??)】

安芸国虎家臣。1563年、「岡豊城の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

二宮房資【にのみやふさしげ(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡二宮館主。参考文献:「宿毛市史」by宿毛市教育委員会。

二宮惟宗【にのみやこれむね(15??~1575)】

二宮房資の男。官途は治部少輔。1575年、「四万十川の戦い」で一条兼定に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「宿毛市史」by宿毛市教育委員会。

布玄蕃【ぬのげんば(15??~1575)】

一条房基家臣。幡多郡布館主。1575年、「布館の戦い」で長宗我部元親の攻撃を受け討死した。参考文献:「宿毛市史」by宿毛市教育委員会。

布加賀守【ぬのかがのかみ(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

野川勘解由【のがわかげゆ(15??~15??)】

北川道清家臣。安芸郡野川館主。参考文献:「隠居の暇つぶし」by石州の人。

野口寄長【のぐちよりなが(15??~15??)】

山田元秀家臣。通称総左衛門。公家化の進める山田元義が領内に八王子宮の建設を決めたため、近江国坂本の八王子宮からみたまを運んだ。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

能勢宗兵衛【のせそうべい(1540~16??)】

香宗我部親泰家臣。通称新右衛門。別名門田康澄。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い敗退したため、長宗我部盛親とともに落延びた。その後、土佐国に帰郷し隠居した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

野田正永【のだまさえい(15??~1649)】

長宗我部元親家臣。長岡郡野田館主。通称太兵衛。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処せられたため、山内忠義の家臣深尾重昌に仕え330石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

野田正元【のだまだもと(15??~16??)】

野田正永の男。通称太兵衛。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

野友左京進【のともさきょうのしん(15??~15??)】

北川道清家臣。安芸郡野友館主。参考文献:「隠居の暇つぶし」by石州の人。

延清四郎左衛門【のべきよしろうざえもん(15??~15??)】

高岡郡大忍館主。長宗我部元親に降伏して旧所領のうち中西川から口西川にかけた4町5反の所領を安堵された。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

延清惣左衛門【のべきよそうざえもん(15??~1617)】

延清四郎左衛門の男。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処せられたため、山内一豊に仕え山田郷大庄屋に任じられた。灌漑用水の事で山内忠義の家臣と争いを起こし、磔刑に処され、相手も自刃を命じられた。延清惣左衛門の娘(伊曾)は山内忠義に仕えて寵愛されていたが、後藤内蔵介に預けられ自害した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

野村孫右衛門【のむらまごうえもん(15??~1600)】

香宗我部親秀家臣。野村家惣領職。1558年、香宗我部親泰が香宗我部家の家督を相続したため、香宗我部親泰に仕えた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処せられたため、所領を失った。1600年、「浦戸一揆」で吉川善介、一揆衆らとともに桑名吉成勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

野中貞吉【のなかさだよし(15??~15??)】

山田元秀家臣。香美郡吉野館主。官途は肥後守。1549年、「楠目館の戦い」で山田元義に従い長宗我部国親と戦い山田元義が滅亡したため、長宗我部元親に仕えた。1560年、「長浜の戦い」で長宗我部国親に従い本山茂辰勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

野中重治【のなかしげはる(15??~1587)】

野中貞吉の男。通称右近。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

野中頼綱【のなかよりつな(15??~15??)】

野中貞吉の次男。通称市正。1578年、「第一次讃岐藤ノ目館の戦い」で桑名親光、江村孫左衛門、中内藤左衛門とともに長宗我部元親の意向を受け斎藤師郷を支援するため、藤ノ目館に籠城して討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

野中親孝【のなかさだよし(15??~15??)】

野中貞吉の三男。通称三郎左衛門。林田、大倉谷、佐古藪、陰野で2町歩を開拓した。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処せられたため、所領を失った。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い敗退したため、落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

野中貞俊【のなかさだとし(15??~15??)】

野中貞吉の四男。通称源助。長宗我部元親に仕え37石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

野中源兵衛【のなかげんべい(15??~1588)】

野中貞俊の男。1588年、「蓮池城の戦い」で長宗我部元親の意向を受け吉良親実の家臣勝賀野実信勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

野並亀千代【のなみかめちよ(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【は】

波川清宗【はかわきよむね(15??~1581)】

長宗我部国親家臣。土佐郡波川館主。通称玄蕃。室は長宗我部国親の娘。1573年、安並直敏、羽生道成、為松若狭守らに調略を行い一条兼定を隠居に追込む功を上げ幡多郡山路館主に任じられた。1573年、「鳥坂峠の戦い」で長宗我部元親と内応してた大野直之を支援して宇都宮豊綱勢と戦い戦功を挙げた。1579年、「地蔵ヶ嶽城の戦い」で大野直之とともに河野通直勢と戦い小早川隆景と和議を結び土佐国に落延びた。1580年、謀反を企て露見したため、阿波国に落延びた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

萩野織部【はぎのおりべ(15??~15??)】

山田元義家臣。香美郡韮生館主。家老職を務めた。1549年、「楠目館の戦い」で山田元義が長宗我部国親勢と戦い滅亡したため、本山茂辰と結び長宗我部国親との戦いを継続した。1560年、「長浜の戦い」で本山茂辰が長宗我部国親勢と戦い敗退したため、長宗我部国親に降伏した。1562年、「寺内館の戦い」で長宗我部元親の家臣五百蔵藤五郎に従い寺石河内守、竹崎豊後守勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

畑山元明【はたけやまもとあき(15??~15??)】

安芸国虎家臣。安芸郡畑山館主。官途は大和守。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
畑山元氏【はたけやまもとうじ(15??~1582)】

畑山元明の男。官途は越後守。1569年、「安芸城の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い安芸弘恒とともに矢野国村のもとに落延びた。1582年、「阿波中富川の戦い」で十河存保に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

畑山実忠【はたけやまさねただ(15??~1589)】

畑山元氏の男。通称内蔵尉。1569年、「安芸城の戦い」で父の畑山元氏とともに安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い矢野国村のもとに落延びた。後に長宗我部元親の家臣野中三郎左衛門の仲介で長宗我部元親に仕えた。1589年、長宗我部元親に安芸城北木戸で自刃を命じられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

畑山実春【はたけやまさねはる(1571~1589)】

畑山内蔵尉の男。官途は右京介。1589年、父の畑山実忠とともに長宗我部元親に自刃を命じられた。「畑山館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

畑山内蔵次丸【はたけやまくらのすけつぎまる(15??~15??)】

畑山実春の男。1589年、「畑山館の戦い」で父の畑山実春が長宗我部元親勢と戦い討死したため、竹林に落延びた。長宗我部元親の家臣竹崎木工左衛門に捕縛され謀殺された。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
畑山右京太夫【はたけやまうきょうだいふ(15??~1582)】

畑山元氏の次男。1569年、安芸千寿丸を連れて阿波国の矢野国村のもとに落延びた。1582年、「阿波中富川の戦い」で十河存保に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
畑山元康【はたけやまもとやす(1557~1642)】

畑山元氏の三男。通称左近尉。別名安芸長宗。1589年、兄の畑山実春が長宗我部元親に謀殺されたため、阿波国に落延びた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

畑山重房【はたけやましげふさ(15??~16??)】

畑山元康の男。通称忠左衛門。別名安芸忠左衛門。1610年、父の畑山元康が隠居したため、畑山家の家督を相続した。羽柴秀長に仕え2,000石を領した。1591年、羽柴秀長が病没すると、山内一豊に仕え600石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で羽柴秀頼勢に従い松平元康勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。
 
畑山元利【はたけやまもととし(15??~15??)】

畑山元康の次男。通称孫之丞。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
畑山元経【はたけやまもとつね(15??~15??)】

畑山重房の男。通称次左衛門。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

浜口直乗【はまぐちなおのり(15??~1587)】

長宗我部元親家臣。香美郡手結浦館主。通称興三右衛門。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。浜口直乗の薙刀は、鰐丸と名づけられ、岩井王洲之が詩を作り家宝とした。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

浜田善右衛門【はまだぜんざえもん(15??~1578)】

長宗我部元親家臣。1578年、「第一次讃岐藤ノ目館の戦い」で桑名親光、江村孫左衛門、中内藤左衛門とともに長宗我部元親の意向を受け斎藤師郷を支援するため、藤ノ目館に籠城した。香川之景、奈良勝政、長尾大隈守、羽床伊豆守勢の攻撃を受け斎藤師郷が館から落延びたため、土佐国に撤退した。「第二次讃岐藤ノ目館の戦い」で長宗我部元親に従い奈良勝政の家臣新目弾正忠勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

浜田久左衛門【はまだきゅうざえもん(15??~15??)】

長宗我部国親家臣。香美郡田村館主。1560年、「長浜城の戦い」で長宗我部国親に従い本山茂辰の家臣宇賀平兵衛勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

浜田善左衛門【はまだぜんぜんざえもん(15??~15??)】

浜田久左衛門の男。1560年、「長浜城の戦い」で兄の浜田久左衛門とともに長宗我部国親に従い本山本山茂辰の家臣宇賀平兵衛勢と戦い浜田久左衛門が討死した。浜田善左衛門は宇賀平兵衛を討取る戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

羽生道成【はぶみちなり(15??~1574)】

一条房基家臣。幡多郡羽生館主。通称監物。1573年、家老職の安並直敏、為松若狭守とともに一条兼定を隠居させ一条内政に一条家の家督を相続させた。1574年、長宗我部元親の支援を受け一条兼定を追放処分に処した。「中村城の戦い」で安並直敏、為松若狭守らとともに長宗我部元親の支援を受けた加久見左衛門尉勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

浜宇津国俊【はまうつくにとし(15??~15??)】

北川道清家臣。通称十郎左衛門。参考文献:「隠居の暇つぶし」by石州の人。

葉山甚左衛門【はやまじんざえもん(15??~1598)】

吉良親実家臣。通称安之丞。1598年、吉良親実の介錯を務め、殉死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

葉山五郎右衛門【はやまごろうざえもん(15??~16??)】

葉山甚左衛門の男。1592年、「文禄の役」で吉良親実に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1598年、吉良親実が長宗我部元親の謀殺されたため、長宗我部盛親と不和になった。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

比江山親興【ひえやまちかおき(1557~1588)】

長宗我部国康の次男。若年寄衆の筆頭職を務めた。1586年、「四国討伐(天正の陣)」で長宗我部元親に従い阿波岩倉城を守備した。長宗我部元親が降伏したため、津野親忠とともに人質として羽柴秀吉のもとに赴いた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部信親が島津義久勢と戦い討死したため、長宗我部家の後継者に津野親忠を擁立した。長宗我部元親、久武信直らが長宗我部盛親を擁立したため対立した。1588年、長宗我部元親に妻子とともに謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

東忠澄【ひがしただずみ(15??~15??)】

津野基高家臣。東三河守の男。高岡郡本在家館主。官途は伊賀守。別名福良忠澄。仁井田五人衆。1546年、「須崎の戦い」で津野基高に従い一条房基勢と戦い降伏した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

東宗澄【ひがしむねずみ(15??~1592)】

東忠澄の男。官途は丹後守。別名福良宗宣。1571年、「本在家館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い討死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

東宗隆【ひがしむねたか(15??~1600)】

東宗澄の男。通称助兵衛。別名福良助兵衛。1600年、「浦戸一揆」で一揆衆とともに桑名吉成勢と戦い落延びたが、捕縛され謀殺された。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

東小路教行【ひがしこうじのりゆき(15??~15??)】

一条房家の次男。別名一条教行。1549年、従五位下に叙任された。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。

久武親定【ひさたけちかさだ(1489~1583)】

長宗我部兼序家臣。官途は肥後守。通称昌源。1560年、「久万館の戦い」で長宗我部元親に従い久万俊宗勢と戦い戦功を挙げ久万館主に任じられた。1575年、「四万十川の戦い」で長宗我部元親に従い一条兼定勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

久武親信【ひさたけちかのぶ(15??~1579)】

久武親定の男。官途は内蔵助。智勇兼備。高岡郡佐川城40,000石を領した。1577年、伊予国の陣代職に任じられた。1579年、「伊予岡本館の戦い」で土居清良勢の反撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

久武親直【ひさたけちかなお(15??~15??)】

久武親定の次男。通称内蔵助。策謀家。1579年、「伊予岡本城の戦い」で兄久武親信が討死したため、久武家の家督を相続した。1580年、「河後森館の戦い」で河原渕教忠を河後森館から追落とす功を上げた。1582年、「伊予高森、深田館の戦い」で長宗我部元親に従い小早川隆景勢と戦い戦功を挙げた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部信親が島津義久勢と戦い討死したため、長宗我部元親の四男長宗我部盛親を擁立して反対派の吉良親実、比江山親興を粛清した。1600年、長宗我部盛親に松平元康への恭順を勧めた。長宗我部盛親が兄の津野親忠を謀殺したため、その責を問われ改易処分に処された。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

久武千助【ひさたけせんすけ(15??~16??)】

久武親直の男。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、加藤清正に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

姫倉右京【ひめくらうきょう(15??~15??)】

安芸元泰家臣。安芸郡奈半利館主。通称右衛門尉。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い敗退した。「姫倉館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け継嗣の姫倉豊前守を人質に差し出し長宗我部元親に降伏した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

姫倉豊前守【ひめくらぶぜんのかみ(15??~1569)】

姫倉右京の男。長宗我部元親の家老職を務め、4,300石を領した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

姫倉親幸【ひめくらちかゆき(15??~15??)】

姫倉豊前守の男。通称太郎左衛門。若年寄衆を務め、1,070石を領した。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処せられたため、所領を失った。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

平野正直【ひらのまさなお(15??~15??)】

長宗我部国親家臣。高岡郡平野館主。官途は加賀守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

平野親政【ひらのちかまさ(15??~15??)】

平野正直の男。通称弥惣兵衛。別名北添弥惣兵衛。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

平野五郎左衛門【ひらのごろうざえもん(15??~15??)】

平野親政の男。別名北添五郎左衛門。長宗我部元親の意向を受け和倉館に転封した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

広井将俊【ひろいまさとし(15??~15??)】

長宗我部国親家臣。官途は修理亮。通称甚内。1559年、長岡郡西島館から香美郡佐岡館に転封した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

広井俊政【ひろいとしまさ(15??~15??)】

広井将俊の男。通称六郎右衛門。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

広井俊国【ひろいとしくに(15??~15??)】

広井俊政の男。通称三郎右衛門。長宗我部元親に仕え地検奉行職を務め、300石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

平尾新十郎【ひらおしんじゅうろう(15??~15??)】

佐竹義直家臣。1571年、「蓮池城の戦い」で佐竹義直に従い長宗我部元親の家臣吉良親貞勢と戦い落城した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

弘田伊賀守【ひろたいがのかみ(15??~15??)】

吾川郡芳原館主。1540年、「第一次芳原館の戦い」で一条房冬勢の攻撃を受け降伏した。1557年、「第二次芳原館の戦い」で本山茂辰勢の攻撃を受け降伏した。1561年、「第三次芳原館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

弘田伸経【ひろたのぶつね(15??~15??)】

細川勝益家臣。香美郡田村館主。官途は筑後守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

弘田伸秦【ひろたのぶひろ(15??~1600)】

弘田伸経の男。通称四郎兵衛。1560年、「長浜の戦い」で長宗我部国親に従い本山茂辰勢と戦い戦功を挙げた。1561年、「神森館の戦い」で長宗我部元親に従い本山茂辰勢と戦い戦功を挙げ 吉田三郎右衛門とともに石立館代職に任じられた。1600年、「浦戸一揆」で一揆衆とともに桑名吉成勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

福井兵庫守【ふくいひょうごのかみ(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

福留房照【ふくとめふさてる(14??~15??)】

長宗我部兼序家臣。長岡郡田辺島館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

福留房吉【ふくとめふさよし(14??~15??)】

福留房照の男。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

福留親政【ふくどめちかまさ(1511~1577)】

福留房吉の男。官途は飛騨守。別名福留儀実。1563年、「本山城の戦い」で長宗我部元親に従い岡豊城の留守居役を務めた。「岡豊城の戦い」で安芸国虎勢の攻撃を撃退する戦功を挙げた。1582年、「伊予黒瀬城の戦い」で長宗我部元親に従い西園寺公広勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

福留儀重【ふくとめよししげ(1549~1587)】

福留親政の男。官途は隼人佐。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部信親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

福留政親【ふくとめまさちか(15??~16??)】

福留儀重の男。通称半右衛門。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、加藤嘉明、井伊直孝らに仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で羽柴秀頼に属した長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

藤岡源助【ふじおかげんすけ(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。1580年、波川清宗が謀反の嫌疑を受け阿波国に落延びたため、波川館を守備した。吾川郡伊加田館を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

藤岡次郎左衛門【ふじおかじろうざえもん(15??~15??)】

藤岡源助の男。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、所領を失った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

藤田政平【ふじたまさひら(15??~1585)】

片岡直光家臣。通称馬之祐。家老職を務めた。1585年、「伊予金子城の戦い」で小早川景隆勢と戦い討死した片岡光綱の葬儀後、瑞泉寺で殉死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

別役重忠【べつやくしげただ(15??~1587)】

香美郡土居館主。通称七左衛門。土居館(東川、西川、和食、夜須、馬ノ上の五ヶ村)520石を領した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

別役勝久【べつやくかつひさ(15??~1587)】

別役重忠も男(槙山小松の養子)。通称七郎兵衛。別名槙山勝久。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

別役三郎左衛門【べつやくさぼろうざえもん(15??~1587)】

別役重忠の次男。兄の別役勝久が槙山小松の養子となったため、別役家の家督を相続した。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

別役義重【べつやくよししげ(15??~16??)】

別役重忠の三男。通称三吉郎。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、所領を失い帰農した。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、所領を失い帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

別役重勝【べつやくしげかつ(15??~16??)】

別役義重の男。通称道遊。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

戸波親武【へわちかたけ(15??~15??)】

長宗我部国康の男。別名長宗我部親武。1569年、「戸波城の戦い」で長宗我部元親に従い一条兼定勢と戦い戦功を挙げ戸波館主に任ぜらた。1584年、「讃岐十河城の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い戦功を挙げ十河城主に任じられた。1585年、「讃岐植田城の戦い」で羽柴秀吉勢の攻撃を受け植田館に籠城したが、長宗我部元親が降伏したため、降伏した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

戸波親清【へちわちかきお(15??~16??)】

戸波親武の男。通称十兵衛。別名宿毛右衛門太夫。1584年、「讃岐十河城の戦い」で父の戸波親武とともに十河存保勢と戦い戦功を挙げた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、所領を失った。1615年、「河内八尾の戦い」で長宗我部盛親に従い藤堂高虎勢と戦い敗退した。柳生新陰流を学び藤堂高虎の剣術指南役を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

傍士内蔵介【ほうしくらのすけ(15??~15??)】

山田元義家臣。官途は内蔵介。1549年、「楠目館の戦い」で山田元義に従い長宗我部国親と戦い山田元義が滅亡したため、山田元義を匿った。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕え300石を領した。喧嘩に巻き込まれて免職となった。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

遠州細川勝益【ほそかわかつます(14??~1502)】

細川政元家臣。香美郡田村館主。細川持益の男。土佐守護代職。官途は遠江守。通称三郎。1501年、土佐田村荘に曾祖父の細川頼益の菩提を弔うため、桂昌寺を建立した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

遠州細川政益【ほそかわまさます(14??~15??)】

細川勝益の男。1502年、父の細川勝益が病没したため、遠州細川家の家督を相続した。1507年、「永正の錯乱」で細川政元が香西元長、薬師寺長忠らに謀殺されたため、京都に退去した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

遠州細川益氏【ほそかわますうじ(1503~1573)】

細川勝益の次男。通称彦千代治。別名細川定氏。1507年、兄の細川政益が京都に退去したため、田村館を領した。「田村館の戦い」で長宗我部国親勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

遠州細川元全【ほそかわもとよし(1486~1523)】

細川勝益の三男(細川元治の養子)。通称源五郎。1507年、「永正の錯乱」で養父の細川元治とともに細川澄之勢と戦い戦功を挙げた。1510年、細川元治が隠居したため、細川玄蕃頭家の家督を相続した。1511年、京都の邸宅が全焼した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

遠州細川氏実【ほさかわうじざね(1546~1586)】

細川益氏の男。通称治三郎。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

十市細川家俊【ほそかわいえとし(15??~15??)】

細川政元家臣。長岡郡十市栗山館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

十市細川国隆【ほそかわくにたか(15??~15??)】

細川家俊の男。1544年、「十市栗山館の戦い」で長宗我部国親勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

十市細川定輔【ほそかわさだゆき(15??~15??)】

細川国隆の男。官途は備後守。別名細川宗桃。1562年、「朝倉館の戦い」で長宗我部元親に従い本山茂辰勢と戦い敗退した。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、幡多郡吉奈城主に任じられた。蜷川親長から連歌を学んだ。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

十市細川正頼【ほそかわまさより(15??~1600)】

細川定輔の男。官途は備前守。通称新右衛門。別名十市親隆。室は香宗我部親泰の娘。若年寄衆として1,100石を領した。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い敗退した。1600年、「関ヶ原の戦い」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い行方不明になった。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

十市細川正久【ほそかわまさひさ(15??~15??)】

細川正頼の男。通称喜兵衛。別名十市縫殿助。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処せられたため、山内一豊に仕え用石村で1町8反を領する庄屋に任じられた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

堀内九郎兵衛【ほりうちくろびょうえ(15??~15??)】

一条康政家臣。一条康政に従い各地を転戦して戦功を挙げた。一条兼定が追放処分に処されたため、長宗我部元親に仕えた。吾川郡中村郷喜津賀を領した。本山家との戦いで活躍した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

本井藤八郎【ほんいとうはちろう(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【ま】

前田正征【まえだまさのり(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。通称平左衛門。一領具足衆。1572年、戦功を挙げ120石を領した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

前田正義【まえだまさよし(15??~15??)】

前田正征の男。長宗我部元親の物頭を務め、600石を領した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

前田正光【まえだまさみつ(15??~15??)】

前田正義の男。通称忠右衛門。1600年、長宗我部親盛が改易処分に処されたため、松平元康に仕え3,000石を領した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

間崎越後守【まざきえちごのかみ(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡間崎館主。一条房基の意向を受け蓮池城を守備した。戸波で2町を領した。1540年、一条房冬に従い六人衆を討取る戦功を挙げた。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。

間崎孫次郎【まざきまごしろう(1548~15??)】

間崎越後守の男。1569年、「伊予高島、鳥坂峠の戦い」で一条兼定に従い河野通宣、村上通康勢と戦い戦功を挙げた。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、長宗我部元親に仕え間崎村田て5町を領した。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。

間崎太郎兵衛【まざきたろうびょうへ(15??~15??)】

間崎孫次郎の男。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。

町顕量【まちけんりょう(15??~15??)】

一条房家家臣。室は一条房家の娘。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

町顕古【まちあきふる(15??~15??)】

観修寺顕冬の男(町顕量の養子)。1548年、従五位下に叙任した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

松内景連【まつうちかへつら(15??~1577)】

一条房家家臣。通称権太夫。1575年、「朝立館の戦い」で厚朴定信を討取る戦功を挙げた。1577年、「朝立館の戦い」で厚朴春信勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

松岡四郎左衛門【まつおかしろうざえもん(15??~15??)】

岡和泉守の男。幡多郡松岡館主。参考文献:「宿毛市史」by宿毛市教育委員会。

松沢刑部允【まつざわぎょうぶのじょう(15??~15??)】

西原清延家臣。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

松沢善兵衛尉【まつざわぜんべいのじょう(15??~1595)】

松沢刑部允の男。通称善兵衛尉。1595年、「藤ノ川の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

松田神左衛門【まつだかみざえもん(15??~15??)】

香宗我部親泰家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

松田与左衛門【まつだよざえもん(15??~16??)】

松田神左衛門の男。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で長宗我部盛親に従い藤堂高虎の家臣藤堂仁右衛門勢と戦い藤堂仁右衛門を討取る戦功を挙げその薙刀を奪った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

松田彦太夫【まつだひこだいふ(15??~15??)】

松田与左衛門の男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

松田九郎右衛門【まつだくろうえもん(15??~15??)】

松田与左衛門の次男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

松田島主殿頭【まつだしましでん(15??~15??)】

安芸国虎家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

松梛盛宗【まつなぎもりむね(15??~15??)】

安芸元親家臣。安芸元親のもとを退去して吉良宣直に仕えた。参考文献:「高知市春野郷土資料館」by春野町。

松梛盛衛門【まつなぎもりえもん(15??~15??)】

松梛盛宗の男。1540年、「吉良峰館の戦い」で吉良宣直に従い本山茂辰勢と戦い落延びた。参考文献:「高知市春野郷土資料館」by春野町。

松本和泉守【まつもといずみのかみ(15??~15??)】

幡多郡弘見館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

水口弥惣左衛門【みずぐちやぞうえもん(15??~15??)】

津野定勝家臣。土佐郡横浜館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

水口次郎左衛門【みずぐちじろうえもん(15??~15??)】

水口弥惣左衛門の男。1560年、「長浜の戦い」で本山茂辰に従い長宗我部国親勢と戦い敗退した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

溝淵九郎兵衛【みぞぐちくろうべい(1521~1605)】

山田元義家臣。通称九郎兵衛。別名小笠原貞隆。1549年、「楠目館の戦い」で山田元義に従い長宗我部国親と戦い山田元義が滅亡したため、長宗我部国親に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

溝淵四郎左衛門【みぞぐちしろうえもん(15??~15??)】

溝淵九郎兵衛の弟。1549年、「楠目館の戦い」で山田元義に従い長宗我部国親と戦い山田元義が滅亡したため、兄の溝淵九郎兵衛とともに長宗我部国親に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

手洗川掃部【みたらいかもん(15??~1575)】

幡多郡手洗川館主。1575年、「四万十川の戦い」で一条兼定に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「宿毛市史」by宿毛市教育委員会。

光富権之助【みつとみごんのすけ(15??~1593)】

一条兼定家臣。幡多郡佐賀館主。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、長宗我部元親に仕えた。1575年、佐賀館を領した。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い渡海して李氏朝鮮勢と戦い重傷を負い、帰国途次に没した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

光富次郎兵衛【みつとみじろべい(15??~15??)】

一条兼定家臣。幡多郡山地館主。参考文献:「高知県の観光」by高知県の観光。

源康任【みなもとやすこれ(15??~15??)】

幡多郡秋利館主。源康俊の男。室は伏見宮邦高親王(専信尼)の娘。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。

源康政【みなもとのやすまさ(15??~15??)】

源康任の男。1557年、一条兼定が上洛したため、家政を担当した。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、一条兼定に従い伊予国に落延びた。1575年、「四万十川の戦い」で一条兼定に従い長宗我部元親勢と戦い敗退した。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。

源康次【みなもとやすつぐ(15??~15??)】

源康任の次男。通称市正。別名秋利康次。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。

宮崎貞樹【みやざきさだき(15??~15??)】 

一条兼定家臣。通称勘解由。室は加久見因幡守の娘。参考文献:「宿毛市史」by宿毛市教育委員会。

宮崎貞久【みやざきさだひさ(1573~1613)】

宮崎貞樹の男。通称勘兵衛。室は国沢能直の娘。参考文献:「宿毛市史」by宿毛市教育委員会。

宮崎直品【みやざきなおしな(15??~15??)】

宮崎貞久の男。通称仁右衛門。参考文献:「宿毛市史」by宿毛市教育委員会。

宮地吉久【みやじよしひさ(15??~16??)】

天竺花氏家臣。通称五郎左衛門。1547年、「大津城の戦い」で天竺花氏が長宗我部国親勢と戦い討死したため、長宗我部国親に降伏して所領を安堵された。検地奉行職を務め、戸波郷内に加増を受けた。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げ吾川郡木塚、吉原、仁野の加増を受けた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内康豊に仕え国内鎮撫役を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

宮田甚内【みやたじんない(15??~15??)】

松梛盛宗家臣。1540年、「吉良峰館の戦い」で松梛盛衛門に従い本山茂辰勢と戦い落延びた。参考文献:「高知市春野郷土資料館」by春野町。

村田新六左衛門【むらたしんろくざえもん(14??~1526)】

香宗我部親秀家臣。1526年、「香宗館の戦い」で香宗我部親秀に従い安芸元親勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

明神正作【めいしんしょうさく(15??~16??)】

津野親忠家臣。高岡郡北川館主。通称佐近之助。1590年、高野山で修験を積み、明王院の住職を務めた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

本山養明【もよやまとうめい(14??~15??)】

長岡郡本山館主。別名八木実茂。1508年、「岡豊城の戦い」で大平元国、吉良宣経、山田元秀とともに長宗我部兼序を討取る戦功を挙げた。1527年、朝倉池内天神社に棟札を与えた。土佐北部から経済的に豊かな土佐中央部へ侵攻し勢力を拡大した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

本山茂宗【もとやましげむね(1507~1555)】

本山養明の男。官途は左近大夫。通称梅渓。別名本山清茂。武勇に優れた武将。本山館から朝倉城に転封して領国経営を行った。1540年、「吉良峰館の戦い」で吉良宣直勢と戦い吉良宣直を討取る戦功を挙げた。1544年、「姫野々館の戦い」で津野国泰を支援して一条房基勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

本山茂辰【もとやましげとき(1525~1564)】

本山茂宗の男。官途は式部少輔。別名本山安政。室は長宗我部国親の娘。1555年、父の山本茂宗が病没したため、本山家の家督を相続した。「蓮池館の戦い」で一条兼定勢と戦い戦功を挙げた。1556年、長宗我部国親が同盟を破棄した。1560年、「長浜の戦い」で長宗我部国親勢と戦い敗退したため、浦戸館を失った。1562年、「鴨部宮前の戦い」で長宗我部元親勢と戦い戦功を挙げたが多くの家臣が討死した。1563年、平野部の朝倉城から山間部の本山城に転封した。1564年、本山城から瓜生野館に落延びまもなく病没した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

本山貞茂【もとやまさだしげ(1545~1586)】

本山茂辰の男。官途は将監。通称太郎左衛門。1560年、「長浜の戦い」で父の本山茂辰とともに長宗我部国親勢と戦い敗退したため、長岡郡平野部を失った。1562年、「鴨部宮前の戦い」で本山茂辰とともに長宗我部元親勢と戦い戦功を挙げた。1564年、叔父の本山茂定の瓜生野館に落延びた。長宗我部元親に降伏して長宗我部信親の家老職を務めた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部信親に従い島津義久勢と戦い長宗我部信親とともに討死した。参考文献:「足利氏(戦国大名、足利氏について)bykuhoin。

本山茂定【もとやましげさだ(15??~15??)】

本山養明の次男。1564年、「瓜生野館の戦い」で甥の本山貞茂とともに長宗我部元親ぜに降伏して長宗我部信親の家老職を務めた。参考文献:「足利氏(戦国大名、足利氏について)bykuhoin。

本山茂慶【もとやましげよし(15??~15??)】

本山茂辰の次男。通称内記。1564年、長宗我部元親に降伏して吉良親貞に仕えた。参考文献:「足利氏(戦国大名、足利氏について)bykuhoin。
 
本山茂直【もとやましげなお(15??~15??)】

本山茂辰の三男。通称又四郎。別名西和田勝兵衛。室は西和田越後守の娘。馬廻衆。参考文献:「足利氏(戦国大名、足利氏について)bykuhoin。

本山茂房【もとやましげふさ(15??~15??)】

本山貞茂の男。官途は佐渡守。1568年、「瓜生野館の戦い」で本山親茂に従い長宗我部元親勢と戦い本山親茂とともに長宗我部元親に降伏した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

本山茂安【もとやましげやす(15??~15??)】

本山茂房の男。通称左衛門佐。室は吉松光勝の娘。1568年、「瓜生野館の戦い」で父の本山貞茂とともに長宗我部元親勢と戦い長宗我部元親に降伏した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

本山次郎兵衛【もとやまじろべい(15??~15??)】

本山茂房の次男。長宗我部元親に仕えた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

本山彦四郎【もとやまひこしろう(15??~1587)】

本山茂房の三男。通称彦四郎。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

本山采女【もとやまうねめ(15??~15??)】

本山因幡守の男。1564年、本山貞茂とともに長宗我部元親に降伏して8町7反の本領を安堵された。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処せられたため、伊予国で帰農した。参考文献:「足利氏(戦国大名、足利氏について)bykuhoin。

本山茂治【もとやましげはる(15??~15??)】

本山采女の男。通称与右衛門。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処せられたため、山内一豊から立川上名で庄屋に任じられた。参考文献:「足利氏(戦国大名、足利氏について)bykuhoin。

本山右京【もとやまうきょう(15??~15??)】

本山茂宗家臣。土佐郡薊野館主。1563年、「朝倉城の戦い」で本山茂辰に従い長宗我部元親勢と戦い本山茂辰が滅亡したため、長宗我部元親に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

本山左馬丞【もとやまさまのじょう(15??~1568)】

本山茂辰家臣。本山阿波守の男。1568年、「瓜生野館の戦い」で本山親茂に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「足利氏(戦国大名、足利氏について)bykuhoin。

本山政貞【もとやままささだ(15??~15??)】

本山茂辰家臣。1564年、本山茂辰が病没したため、本山親茂の後見役を務めた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

森頼実【もりよりざね(15??~1544)】

土佐郡潮江館主。1544年、「潮江館の戦い」で本山茂宗、和田若狭守勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

森孝頼【もりたかより(15??~15??)】

森頼実の男。官途は近江守。室は吉田重俊の娘。土佐国四家。1544年、「潮江館の戦い」で父の森頼実が本山茂宗、和田若狭守勢の攻撃を受け討死したため、家臣山本三郎兵衛に守られ長宗我部国親のもとに落延びた1560年、「長浜の戦い」で長宗我部国親に従い本山茂辰勢と戦い戦功を挙げ旧領の潮江館を回復した。「本山城の戦い」で長宗我部元親従い本山茂辰勢と戦い戦功を挙げた。1578年、「讃岐藤ノ目城の戦い」で長宗我部元親の意向を受け斎藤師郷を支援したが病のため、陣代の桑名親光、浜田善右衛門を派遣した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

森弾正左衛門【もりだんじょうざえもん(15??~15??)】

森孝頼の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

森山越後守【もりやまえちごのかみ(15??~1560)】

吉良親実家臣。土佐郡森山館主。1540年、一条房基に属した。1560年、「森山館の戦い」で本山茂辰勢の攻撃を受け落城した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

森下忠左衛門【もりしたちゅうざえもん(15??~1578)】

長宗我部元親家臣。一領具足衆。3町を領した。1578年、「讃岐藤ノ目城の戦い」で奥宮盛治らとともに長宗我部元親の意向を受け斎藤師郷を支援したが香川之景、奈良勝政、長尾大隈守、羽床伊豆守勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

森下彦兵衛【もりしたひこべい(15??~15??)】

森下忠左衛門の男。1578年、「讃岐藤ノ目城の戦い」で父の森下忠左衛門が香川之景勢と戦い討死したため、森下家の家督を相続した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

森山越後守【もりやまえちごのかみ(15??~15??)】

土佐郡山館主。1540年、「森山館の戦い」で一条房基勢の攻撃を受け芳原館、諸木館、木塚館とともに降伏したため、軍監として富家刑部が入館した。1560年、「森山館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

森沢兵庫【もりさわひょうご(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【や】

安田益信【やすだまさのぶ(15??~15??)】

安芸元泰家臣。安芸郡安田館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

安田親信【やすだちあのぶ(15??~15??)】

安田益信の男。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

安田鑑信【やすだあきのぶ(15??~15??)】

安田親信の男。官途は三河守。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い安芸国虎が滅亡したため、長宗我部元親に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安田泰綱【やすだやすつな(15??~1635)】

安田鑑信の男。通称弥次郎。別名「波斎」。1600年、「関ヶ原の戦い」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い和泉国に落延びた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

安田弥次郎【やすだよじろう(15??~16??)】

安田泰綱の男。通称権大夫。1600年、「関ヶ原の戦い」で長宗我部盛親に従い松平元康元康勢と戦い戦功を挙げた。1614年、「大坂冬の陣」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い敗退した。考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

安田彦左衛門【やすだひこざえもん(15??~16??)】

安田弥次郎の男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

安岡道清【やすおかみちきよ(15??~15??)】

安芸元泰家臣。安芸郡乗台岡館主。「岡館の戦い」で山崎甲斐守勢と戦い山崎甲斐守を討取る戦功を挙げ岡館を領した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

安岡重盛【やすおかしげもり(15??~15??)】

安岡道清の養子。官途は出雲守。別名安岡虎頼。安芸国虎の意向を受け安岡道清の養子になり岡館を領した。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い安芸国虎が滅亡したため、吉良川館に落延びた。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

安岡重義【やすおかしげよし(15??~15??)】

安芸国虎家臣。安芸郡吉良川館主。1574年、「吉良川館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

安倉左兵衛【やすくらさへえ(15??~15??)】

北川道清家臣。安芸郡安倉館主。参考文献:「隠居の暇つぶし」by石州の人。

安丸国義【やすまるくによし(15??~15??)】

山田元義家臣。土佐国香美郡安丸館主。別名山内国義。1551年、「楠目館の戦い」で山田元義が長宗我部国親勢と戦い滅亡したため、長宗我部元親に仕えた。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

安丸国重【やすまるくにしげ(15??~15??)】

安丸国義の男。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

柳瀬貞重【やなせさだしげ(15??~15??)】

山田元義家臣。香美郡柳瀬館主。通称五郎兵衛。別名柳瀬道重。1547年、「和食館の戦い」で和食親忠と結び安芸元泰勢と戦い敗退した。1551年、「楠目館の戦い」で山田元義が長宗我部国親勢と戦い滅亡したため、長宗我部国親に仕えた。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

柳瀬孝重【やなだたかしげ(15??~16??)】

柳瀬貞重の男。通称吉右兵衛。一領具足衆。6町を領した。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕えた。韮生郷笹口加番役、柳瀬組老役、柳瀬村の庄屋を伝えた。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

柳瀬兵部左衛門【やなせひょうぶさえもん(15??~15??)】

安芸国虎家臣。安芸十二人衆。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

山川親徳【やまかわちかとく(15??~15??)】

香美郡山川館主。国吉甚左衛門の男。通称五郎左衛門。吉田孫左衛門、黒岩治部左衛門とともに長宗我部元親の意向を受け安芸郡和食村の根来衆(専式坊)の残党を討取る戦功を挙げた。1575年、「四万十川の戦い」で吉良親貞、久武親信らとろもに長宗我部元親に従い一条兼定勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

山川親政【やまかわちかまさ(15??~16??)】

山川親徳の男。通称助之進。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、小出秀政に仕え500石を領した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

山川親方【やまかわちかかた(15??~15??)】

山川親徳の次男。通称清右衛門。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

山崎兵庫【やまざきひょうご(15??~15??)】

香美郡村山崎館主。一領具足衆。1562年、「陰山館の戦い」で長宗我部元親の家臣野中親孝に従い本山茂辰勢と戦い戦功を挙げ香美郡正延館60石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山崎山重【やまざきやましげ(15??~1583)】

山崎兵庫の男。通称勘解由左衛門。1583年、「讃岐引田館の戦い」で長宗我部元親に従い依光頼光を討取る戦功を挙げ130石を加増された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山崎盛高【やまざきもりたか(15??~1587)】

山崎山重の男。官途は玄蕃丞。通称勘解由左衛門。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山崎盛治【やまざきもりはる(15??~1587)】

山崎山重の次男。通称四郎左衛門。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山崎勘解由左衛門【やまざきかげゆざえもん(15??~15??)】

山崎山重の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山崎四郎兵衛【やまざきしろうえもん(15??~15??)】

山崎山重の四男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山崎惣兵衛【やまざきそうべい(15??~1587)】

山崎山重の五男。1587年、「豊後戸次川の戦い」で兄の山崎盛高とともに長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山崎盛信【やまざきもりのぶ(15??~15??)】

山崎山重の六男。通称源左衛門。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山崎七郎次郎【やまざきしちろうじろう(15??~15??)】

山崎山重の七男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山崎八郎左衛門【やまざきはちろうざえもん(15??~15??)】

山崎山重の八男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山崎九郎左衛門【やまざきくろうざえもん(15??~15??)】

山崎山重の九男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山崎祐明【やまざきすけあき(15??~1536)】

山田元義家臣。通称藤大夫。1551年、「楠目館の戦い」で山田元義が長宗我部国親勢の攻撃を受け韮生に落延びたため、長宗我部元親に仕え岡豊八幡宮の下司職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

山崎祐節【やまざきすけせつ(15??~15??)】

山崎祐明の男。通称藤大夫。1536年、父の山崎祐明が病没したため、山崎家の家督を相続した。韮生郷白石に転封して轡館主を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

山崎祐品【やまざきすけしな(15??~15??)】

山崎祐節の男。通称九郎右衛門。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処れたため、山内一豊に仕え白石村の庄屋職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

山崎甲斐守【やまざきかいのかみ(15??~15??)】

安芸郡岡館主。「岡館の戦い」で安岡道清勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

山田元秀【やまだもとひで(14??~15??)】

香美郡楠目館主。官途は下総守。別名山田頼元。1508年、「岡豊城の戦い」で本山養明、大平元国、吉良宣経とともに長宗我部兼序を討取る戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山田元義【やまだもとよし(15??~1551)】

山田元秀の男。官途は河内守。別名山田基道。猿楽を好んで武道を好まず、西内常陸介、山田長秀らの家臣を遠ざけた。1551年、「楠目館の戦い」で長宗我部国親勢の攻撃を受け韮生に落延びた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山田基義【やまだもとよし(15??~15??)】

山田元義の男。官途は治部少輔。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山田頼秀【やまだよりひで(15??~15??)】

山田元義の次男。官途は筑後守。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山田長秀【やまだながひで(15??~1551)】

山田元秀の次男。香美郡雪ヶ峰館主。官途は監物。別名山田高道。勇猛な武将。西内常陸とともに山田元義の公家化を愁い何度も諌めた。1551年、「雪ヶ峰館の戦い」で長宗我部元親の家臣江村備後守勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山田教道【やまだよしみち(15??~15??)】

山田元秀の三男。官途は丹波守。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山田道直【やまだみちなお(15??~15??)】

山田元秀の四男。官途は出雲守。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山田修理亮【やまだしゅりのじょう(15??~15??)】

山田頼秀の男。1551年、「楠目館の戦い」で山田元義に従い長宗我部国親と戦い山田元義が滅亡したため、五百蔵村で帰農した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山内能祐【やまのうちくのすけ(15??~15??)】

津野基高の次男。通称兵部。別名津野能祐。1569年、兄の津野定勝が長宗我部元親からの降伏勧告を拒否したため、家臣団から追放処分に処された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山内定俊【やまのうちさだとし(15??~15??)】

津野定勝の次男。通称刑部。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山内摂津守【やまのうちせっつのかみ(15??~15??)】

津野元勝の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山内祐経【やまのうちすけつね(15??~15??)】

山内能祐家臣。香美郡梶ヶ谷砦主。通称次郎兵衛。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山内三郎左衛門【やまのうちまぶろうびょいえ(15??~15??)】

山内祐経の男。長宗我部元親に仕え奉行職を務めた。久万次郎、豊永藤五郎とともに9町3反を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

山本頼重【やまもとよりしげ(15??~15??)】

片岡直光家臣。通称伝次郎。1571年、「片山館の戦い」で片岡直光に従い長宗我部元親勢と戦い降伏した。参考文献:「スコブル」bychotarogai。

山本広重【やまもとひろしげ(15??~15??)】

山本頼重の男。通称主馬助。1587年、「豊後戸次川の戦い」で片山光綱に従い島津義久勢と戦い戦功を挙げた。長宗我部元親に仕え140石を領した。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処せられたため、所領を失った。参考文献:「スコブル」bychotarogai。

山本兵庫頭【やまもとひょうごのかみ(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

横山紀伊守【よこやまきいのかみ(15??~15??)】

安芸国虎家臣。安芸郡長正寺の住職。安芸国虎の意向を受け還俗して安芸国虎に仕えた。1569年、「八流川の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親勢と戦い敗退したため、岡林将監、専光寺右馬允、小川新左衛門、小谷正次とともに長宗我部元親に内応して先導役を務めた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

横山民部【よこやまみんぶ(15??~15??)】

横山紀伊守の男。1569年、「安芸城の戦い」で長宗我部元親勢が安芸城に迫ると内応し城内の井戸に毒を投下した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

横山友隆【よこやまともたか(15??~1615)】

公文正信家臣。長岡郡花熊館主。石谷重信の三男。官途は左京亮。通称九郎兵衛。別名横山道範。1547年、「大津城の戦い」で下田頼隆とともに天竺花氏に従い長宗我部国親勢と戦い戦功を挙げたが、反撃を受け降伏した。1569年、「八流川の戦い」で長宗我部元親に従い安芸国虎勢と戦い戦功を挙げ1,200石を領した。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い浦戸城留守役を務めた。1615年、「大坂夏の陣」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

横山時継【よこやまときつぐ(15??~15??)】

土佐郡横山館主。1547年、「横山館の戦い」で長宗我部国親勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。

横山孫大夫【よこやままごだいふ(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。長岡郡富崎館主。内室は日頃から倹約に務め、蓄財に励んだ。戦費に悩む長宗我部元親に500貫を献納した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

横山隼人【よこやまはやと(15??~15??)】

一条房基家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

吉井修理【よしいしゅり(15??~1568)】

本山茂辰家臣。1568年、「瓜生野館の戦い」で本山親茂に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「足利氏(戦国大名、足利氏について)bykuhoin。

吉井庄大夫【よしいしょうだゆう(15??~1587)】

吉井修理の男。1568年、「瓜生野館の戦い」で父の吉井修理が本山親茂に従い長宗我部元親勢と戦い討死したため、長宗我部元親に仕えた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

吉門民部太夫【よしかどみんぶだいふ(15??~15??)】

津野親忠家臣。通称民部太夫。長宗我部元親の意向を受け香川親和の回復の祈願を行った。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

吉田孝頼【よしだたかより(1494~1563)】

長宗我部国親家臣。長岡郡江村館主。吉田則弘の男。官途は備中守。室は長宗我部元秀の娘。家老衆筆頭職を務め、10,000石を領した。1518年、長宗我部国親が岡豊城に復帰したため、長宗我部国親の妹を内室として迎え勢力拡大の貢献した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

吉田貞重【よしださだしげ(15??~15??)】

吉田孝頼の男。通称次郎左衛門。家老職を務め、3,500石を領した。1563年、「岡豊城の戦い」で福留親政らとともに長宗我部元親に従い安芸国虎勢と戦い戦功を挙げた。1569年、「八流川の戦い」で長宗我部元親に従い安芸国虎勢と戦い重傷を負った。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、所領を失った。「浦戸一揆」で桑名吉成と一揆衆の取次役を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

吉田重親【よしだしげちか(15??~1615)】

吉田貞重の男。通称内匠頭。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、父の吉田貞重とともに所領を失った。1614年、「大坂冬の陣」で長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で増田盛次らとともに松平元康勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

吉田重俊【よしだしげとし(1498~1570)】

吉田則弘の次男。官途は備後守。通称大備後。智勇兼備。1547年、「大津城の戦い」で長宗我部国親に従い先陣を務め、天竺花氏勢と戦い戦功を挙げた。1558年、上夜須城主に任ぜられた。1569年、「八流川の戦い」で吉田孝俊らとともに長宗我部元親に従い安芸国虎勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

吉田重康【よしだしげやす(15??~1615)】

吉田重俊の男。官途は伊賀守。家老職を務め、3,800石を領した。1560年、「長浜の戦い」で長宗我部国親に従い本山茂辰勢と戦い戦功を挙げた。1563年、「岡豊城の戦い」で長宗我部元親に従い安芸国虎勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1566年、「馬之上館の戦い」で内室が安芸国虎勢の攻撃を撃退する戦功を挙げた。1568年、「上夜須館の戦い」で安芸国虎勢を撃退後、安芸国虎を追撃して敗走させる戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

吉田孝俊【よしだたかとし(15??~15??)】

吉田重康の男。室は鶏冠木大膳太夫の娘。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

吉田康政【よしだやすまさ(1565~1634)】

吉田孝俊の男。通称孫左衛門。別名吉田康俊。1579年、「阿波小松島の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い負傷した桑名親勝とともに救出する功を上げた。1582年、「阿波中富川の戦い」で長宗我部元親に従い十河存保勢と戦い戦功を挙げた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、所領を失った。1614年、「大坂冬の陣」で長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

吉田政重【よしだまさしげ(1568~1628)】

吉田俊政の男。通称市左衛門。室は秦泉寺掃部の娘。継室は梶原外記の養女。身の丈六尺二寸の偉丈夫で、武勇に優れていた。1582年、「阿波中富川の戦い」で長宗我部盛親に従い十河存保勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、所領を失った。1614年、「大坂冬の役」で長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

吉田平左衛門【よしだへいざえもん(1591~16??)】

吉田政重の男。1614年、「大坂冬の陣」で長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

吉田猪兵衛【よしだいのべい(1592~1660)】

吉田政重の次男。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、福島正則に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

吉田三郎右衛門【よしださぶろうえもん(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。1561年、「神森館の戦い」で長宗我部元親に従い本山茂辰勢と戦い戦功を挙げ弘田四郎兵衛とともに石立館代職に任じられた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

吉松光義【よしまつみつよし(15??~15??)】

秦泉寺掃部家臣。土佐泰泉寺館主。官途は播磨守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

吉松光久【よしまつみつひさ(15??~15??)】

吉松光義の男。官途は備後守。通称十右衛門。別名吉松茂景。室は長宗我部元親の娘。1556年、「泰泉寺館の戦い」で本山茂辰に従い長宗我部国親勢の攻撃を撃退した。1560年、「泰泉寺館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け降伏した。土佐国内を転戦して戦功を挙げ万々館に転封した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

吉松光勝【よしまつみつかつ(15??~15??)】  

吉松光久の男。官途は筑後守。通称四十右衛門。1563年、「大河内館の戦い」で伊達入道勢と戦い戦功を挙げ5,000貫を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

吉本与藤兵衛【よしもとよとうへい(15??~15??)】

津野親忠家臣。通称与藤兵衛。1592年、「文禄の役」で使者として朝鮮半島に渡海して、戦功を挙げ加増された。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、帰農した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

依岡左京進【よりおかさきょうのしん(15??~1586)】

一条兼定家臣。幡多郡添ノ川館主。1574年、「土佐中村城の戦い」で一条兼定が追放処分に処されたため、加久見左衛門らと結び為松若狭守、安並直敏、羽生道成ら家老衆を討取る戦功を挙げ500町を領した。1581年、「北之川城の戦い」で桑名親光に従い北之川親安を討取る戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」で京畿にあって情勢を長宗我部元親に報せた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部信親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

依岡源兵衛【よりおかげんべい(15??~15??)】

依岡左京進の男。幡多郡才津野館主。通称弥次郎。1587年、「豊後戸次川の戦い」で父の依岡左京進が長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死したため、依岡家の家督を相続した。参考文献:「宿毛市史」by宿毛市教育委員会。

依光越中守【よりみつえっちゅうのかみ(15??~1586)】

川窪定氏の男。官途は越中守。父の川窪定氏から所領48町を相続した。川窪定氏が一向宗徒を信仰していたため、長宗我部元親から処分を受けた。1582年、「阿波中富川の戦い」で長宗我部元親に従い十河在保勢と戦い戦功を挙げた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

依光蔵進【よりみつくらのしん(15??~15??)】

川窪定氏の三男。通称蔵進。長宗我部元親に仕え13町5反を領した。佐竹古閑、松田宗四郎とともに華道の免許を得た。1575年、「四万十川の戦い」で長宗我部元親に従い一条兼定勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」で長宗我部元親に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

依岡近江守【よりおかおうみのかみ(15??~15??)】

一条兼定家臣。幡多郡伊予野館主。参考文献:「高知県の観光」by高知県の観光。

依岡伯耆守【よりおかほうきのかみ(15??~1575)】

一条兼定家臣。幡多郡宿毛館主。1575年、「宿毛館の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「宿毛市史」by宿毛市教育委員会。

和井舎人佑【わいとねりのじょう(15??~1559)】

一条兼定家臣。幡多郡和井館主。放蕩な性格が一条兼定の怒りに触れ討伐令を受けた。1569年、「和井館の戦い」で小島政章勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

和食親忠【わじきちかただ(14??~1550)】

安芸郡和食館主。通称左衛門太夫。1496年、御田八幡宮の鳥居を造立した。1547年、「和食館の戦い」で柳瀬貞重と結び安芸元泰勢と戦い敗退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

和食次郎太郎【わじきじろうたろう(15??~15??)】

和食親忠の男。1550年、父の和食親忠が病没したため、和食家の家督を相続した。家臣の井上権頭、長崎内蔵助らが勢力を拡大した。長宗我部元親に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

和食彦兵衛【わじきひこべい(15??~15??)】

和食親忠家臣。長宗我部元親に仕え検地奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
和食了喜【わじきりょうぜん(15??~15??)】

和食親忠家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
和食左介【わじきさすけ(15??~15??)】

和食親忠家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

和田義清【わだよしきよ(15??~15??)】

長宗我部元親家臣。土佐郡和田館主。官途は越前守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

和田勝右衛門【わだかつざえもん(15??~1636)】

和田義清の男。通称彦之丞。別名高野義光。1585年、「伊予金子城の戦い」で長宗我部元親の意向を受け金子元春を支援するため、金子城に籠城した。毛利輝元勢の攻撃を受け土佐国に落延びた。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、所領を失った。土佐郡高野村の道番を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

和田兵衛【わだひょうえ(15??~15??)】

一条房基家臣。幡多郡和田館主。参考文献:「高知県の観光」by高知県の観光。
 
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【資料Ⅰ】

土佐国(7郡/248,000石)

幡多郡(48,000石):中村城、宿毛城。
高岡郡(46,000石):蓮池城、姫野々城、黒岩館、志和館、上加江館、久礼館、尾館館、佐川丸山館、葛懸館。
吾川郡(20,000石):吉良城、押ノ川城。
土佐郡(18,000石):秦泉寺城、浦戸砦、波川館、杓田館、大高坂館、国沢館、嘉武保宇館、万久館、一宮館、池館、十市栗山館。
長岡郡(28,000石):岡豊城、本山城。
香美郡(30,000石):香宗城、山田城。
安芸郡(20,000石):安芸城、金剛砦、室津砦。

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【資料Ⅱ】

一条五家【いちじょうごけ】

東小路教行、西小路房忠、入江左近、飛鳥井雅量、白河兼親の五家。

一条家四家老【いちじょうけよんかろう】

土居家忠、羽生道成、為松若狭守、安並直敏の四家。

土佐国七雄【とさこくしちゆう】

幡多郡中村城主一条兼定(32,000石)、高岡郡蓮池城主大平元国(8,000石)、高岡郡姫野々城主津野親忠(10,000石)、吾川郡吉良城主吉良親貞(10,000石)、長岡郡岡豊城主長宗我部国親(6,000石)、長岡郡本山城主本山茂宗(10,000石)、香美郡香宗城主香宗我部親泰(8,000石)、安芸郡安芸城主安芸国虎(10,000石)。

土佐国四家【とさこくよんけ】

土佐郡潮江館主森孝頼、土佐郡国沢館主国沢能明、千屋館主千屋貞堯、長岡郡蚊井田館主蚊居田修理の四家。土佐国で七雄に次ぎ4,000石程度の領地を持つ国衆。

仁井田五人衆【にいだごにんしゅう】

本在家館主東宗澄、影山館主西宗勝、中江館主西原清延、川窪館主窪川俊光、志和館主志和宗茂。

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【資料Ⅲ】

土佐国【とさのくに】

四国の南端に位置する海南道の国。東は紀伊水道方面から海路紀伊国に通じ、西は豊後水道を経て豊後国を望む。北は東西に伸びる四国山地を境に伊予国と長い国境を持ち、北東は中国山地の東隅から南に阿波国に境を接する。南は長い海岸線で土佐湾に面する。三方を海に囲まれ、国土の八割は山地という山がちの国であるが、北に流れる吉野川と、南に流れる四万十川、安芸川、物部川などの大河が国内を流れ、その流域の平野部には古来から豊かな穀倉地帯が広がる。四万十川流域の中村平野、安芸川流域の安芸平野、物部川流域の香長平野、仁淀川流域の弘岡、高岡平野などがある。平野部の農業、沿岸部の水産業、山間部の林業と各産業が発達した。

土佐中村【とさなかむら】

幡多郡の四万十川の下流域に位置し、土佐一条家の本拠として栄えた城下街。中村には他にも多くの河川が集中しており、同郡の交通、経済の中心地であった。中村は古くから一条家の家領幡多荘の中心にあり、前関白一条教房が下向して中村御所を構えて以降、土着した土佐一条家の本拠地となった。16世紀、一条家は朝廷や本願寺などの権門に何度も献金や贈与を行った。その献金額は平均千疋にものぼり、さらに贈り物には南蛮水指や緞子など舶来品も含まれており、一条家と本拠土佐中村の経済発展がうかがえる。1479年、四万十川上流から運ばれた材木が「土佐御所」から堺に輸送されており、中村が同河川の物資集積地であり、堺への木材資源の供給地であった。1536年、幡多郡で材木が切り出され、その後、本願寺の要請で派遣されてきた堺の技術者によって渡唐船が建造され堺に回航された。

土佐浦戸【とさうらど】

浦戸湾に位置し、土佐中央部の内陸地域と外洋の結節点として古くから栄えた湊街。

一領具足【いちりょうぐそく】

平時には田畑を耕し、農民として生活をしているが、領主からの動員がかかると、一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を携えて、直ちに召集に応じることを期待されていた。突然の召集に素早く応じられるように、農作業をしている時も、常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたため、一領具足と呼称された。

汗葦毛【あせあしげ】

幡多郡伊与木村から長宗我部元親に献上された馬軍。戦陣で長宗我部元親勢が危機に陥ると汗を流すくせを持っていた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で、内記黒とともに長宗我部元親を無事に戦線離脱せしめた。

鉄炮黒【てっぽうぐろ】

家臣の那須外記が長宗我部元親に献上した軍馬。鉄炮の音を聞いても驚かない所から鉄炮黒と命名された。

内記黒【ないきぐろ】

長宗我部元親が羽柴秀吉から拝領した軍馬。土佐駒と呼ばれる馬が使用されていた。この土佐駒は力が強く、持久力があり農作業には適していたが戦には適さない馬であった。1587年、「豊後戸次川の戦い」で汗葦毛とともに長宗我部元親を無事に戦線離脱せしめた。

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戦国人名辞典は、1467年、「応仁の乱」から1637年、「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

豊臣秀吉は羽柴秀吉、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、徳川家康は松平元康、由良成繁は横瀬成繁に統一しました。

城と館の違いは、城は10,000石以上の領主の居城。館、砦は9,999石以下の領主の居城としました。館と砦の違いは平地にある場合は館、山岳地帯、諸島にある場合は砦としてました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名家臣団辞典』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。「城郭放浪記」byPEI.、「宿毛市史」by宿毛市教育委員会、「美須麻流之珠」by立花利康、「高知県の観光」by高知県の観光。

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