2011年6月4日土曜日

戦国伊予国人名辞典

------------------------------------------------------

【あ】

赤畝加賀守【あかうねかがのかみ(15??~15??)】

因島(村上)家臣。星ヶ浜城主。

東右近助【あずまさこんのすけ(15??~15??)】

能島(村上)家臣。家老職で100石を領した。1601年「関ヶ原の役」の敗戦により、能島(村上)武吉は減封の処分を受けたため、家臣団に対して従来の知行を維持することができなくなった。能島(村上)家臣の多くは、海賊衆として他家へ仕官したが、東右近助は出奔した。

東筑前守【あずまちくぜんのかみ(15??~15??)】

藤森城主。大除城主大野山城守直昌の弟。

明日丹後守【(あけひたんごのかみ15??~1585)】 

浮穴郡大平城主。官途は丹後守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて討死した。  

家藤信種【いえふじのぶたね(15??~15??)】

西園寺家臣。通称監物。1580年、板島丸串(宇和島)城主。後に道免城主。

池原(河野)通吉【いけはら(こうの)みちよし(15??~15??)】

野間郡池原館主。河野家枝連衆。官途は近江守。1575年、三好長慶勢を撃退した。息子の牛福丸(河野通直)が河野通宣の養子として河野家の家督を相続した。河野通直が幼少のため国事に介入した。

池原通成【いけはらみちなり(15??~15??)】

高仙山城主。河野家臣。1572年、河野家と共に安芸国で毛利元就と戦った。1579年、村上通総に攻められるが撃退した。1581年、二神豊前守と来島通総の謀略によって殺されかかったが、逃げおおした。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて落城し、池原通成は自刃した。

伊予石川道清【いしかわみちきよ(15??~15??)】 

新居郡高峠城主。官途は伊予守。河野家臣。近隣の黒川通堯への備えとして、高尾城を築城した。1558年、讃岐と伊予の「境目城」の城主である石川道清は、河野家臣であったが三好長慶の娘を娶った。1572年、三好長慶は石川道清を先陣に伊予国へ侵攻した。河野通吉はこれを察知して高峠城に攻め寄せ、三好勢を讃岐国に撃退した。

伊予石川通清【いしかわみちきよ(15??~1584)】 

石川道清の男。官途は備後守。金子元宅の後見を受ける。1582年、長宗我部元親に攻められ降伏し、金子家、妻鳥家らと共に長宗我部家の伊予七人衆の一人として河野家と対抗した。

伊予石川虎竹丸【いしかわかつしげ(1578~1585)】

石川通清の男。父石川通清の死後、枝連衆の近藤尚盛の支持を受け、石川家の家督を相続した。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、石川虎竹丸はまだ幼く、重臣の金子元宅の意見が通り高尾城に籠って小早川隆景と対することとなった。金子元宅は金子城を弟金子元春に守らせ自身は総大将として高尾城に入り、宇高城主高橋政輝を麓の里城に籠らせた。小早川隆景率いる30,000余りともいわれる軍勢が怒涛の攻撃を仕掛け、金子元宅らは良く防戦したが多勢に無勢で城に火を放って自刃した。高尾城に籠城した石川勢800余名もほとんどが討死した。石川虎竹丸を土佐国へ落ち延びた。

石川源太夫【いしかわげんだいふ(15??~15??)】

新居郡高尾城主。石川家臣。石川源太夫は新居郡高峠城主石川道清の枝連衆だったが、己の剛勇を鼻にかけ宗家の石川伊予守を侮ることが少なくなかった。石川道清の重臣からは疎まれ、中でも船形城主の近藤但馬守は憤懣やるかたなく、ついには石川源太夫を討ち取ることにした。近藤但馬守は源太夫を船形城まで呼び出し、西条郊外の木曳野で待ち伏せさせた200の兵で石川源太夫と近習六人を討取った。

伊予石川越後守【いしかわえちごのかみ(15??~1572)】

石川源太夫の男。1572年、三好長慶の「河野家征伐」により、高尾城を攻められ自刃した。

伊予石川通清家臣団【いしかわけかしんだん】

佐吹上ノ城主:塩出左衛門、木曳原城主:石川源太夫、福武山城主 :石川越後守、轆城主:大西道誉、黒岩城主:越智信濃守、早川城主:泰備前守、里ノ城主:高橋美濃守。野津子城主:工藤兵部祐重。

今岡伯耆守【いまおかほうきのかみ(15??~15??)】

甘崎城主。村上武吉家臣。官途は民部太夫。1552年、陶晴賢は大内義隆が村上隆重に認めていた厳島における駄別料徴収権の停止を村上武吉ととともに命じられた。1541年、白井房胤ら大内方警固衆が甘崎城に攻め寄せたが撃退した。能島村上家は反大内の惣領家村上義益と、大内方で村上武吉を当主に推す村上隆重ら庶子家が分裂状態にあり、今岡伯耆守は惣領家に属して大内方水軍と戦った。1563年、今岡伯耆守は没落した。

今岡家臣団【いまおかけかしんだん】

今岡治郎之亟、東左近太夫、東条籐兵衛尉、小笠原主馬、白石隼人頭、岩城左衛門太夫。

今城(有馬)能親【いましろよしちか(15??~15??)】

宇和郡戸雁金山城主。官途は肥前守。西園寺十五将の一人で、成妙郷の九ヵ村4,700石を領した。1537年、今城能親は風流武将として知られ、京にて連歌の会を行う。この会には、関白近衛稙家が出席した。今城能親は、連歌に秀で後奈良院の叡覧にそなえたこともあった。土佐一条家の東小路法行勢800余りの攻撃を受けるが、背後から伏兵を仕掛け撃退した。

今城能信【いましろよしのぶ(15??~15??)】

今城能親の男。1546年、南伊予国に侵攻してきた大友宗麟勢を土居清員、竹林院(深田)真清、河野(中野)通宗らと共に撃退した。

井上重秀【いのうえしげひで(15??~15??)】 

宇都宮(萩森)房綱の家臣。中尾城主。通称善兵衛。井上重房は、海賊が出没していた中尾城領を良く治め年々繁盛し小城下街を形成した。
1579年、長宗我部元親は大軍を率いて宇和、喜多二郡に侵入しために、宇都宮豊房と宇都宮(萩森)房綱は敗走した。1582年、再び長宗我部元親が侵入、このとき西園寺公廣も降る。中尾城は長宗我部勢の攻撃を受け落城、井上重房は豊前国に落ち延びた。

井上経盛【いのうつねもり(15??~15??)】

温泉郡飯野山城主。官途は備後守。1576年、井上経盛は長宗我部元親の攻撃を受けて落城した。息子は井上治部大夫。

伊予郡豪族衆【いよぐんごうぞくしゅう】

高市図書允、石川蔵人、岡田五郎兵衛尉、高市治部之亟、武智弥五郎、中之子右京允、土居大和守、中根修理允、山崎六郎兵衛尉、大竹九郎太夫、黒田無心、寺町兵庫介、寺町豊前守、大政右衛門尉、中渕彦三郎、松崎次郎。

因島(村上)尚吉【いんのしまなおよし(15??~15??)】

瀬戸内海賊衆。官途は加賀守。1541年、因島(村上)尚吉は、大内義隆と敵対する厳島神主友田興藤をを支援した。これにより、大内警固衆が因島(村上)家の拠点に攻撃を受け足。1544年、因島(村上)尚吉は大内義隆から備後国鞆浦の領地を与えられた。これは、尼子方の備後国神辺城主山名理興を討伐するため、海上輸送、海上警固について因島(村上)尚吉の合力を必要とし、瀬戸内海賊衆を自陣営へ引き入れる目的もあった。大内義隆の奉行人陶隆満と小早川隆景が因島(村上)尚吉から贈られた刀一腰について礼を述べている。

因島(村上)吉充【いんのしまよしみつ(15??~15??)】

村上尚吉の男。室は乃美宗勝の妹。通称又三郎。因島村上家は能島村上家・来島村上家と並ぶ瀬戸内海を支配した海賊衆で、父因島(村上)尚吉の頃より毛利家寄りの政策を取った。1555年「厳島の戦い」で、毛利元就から加勢を求められ、末長景道率いる因島村上海賊衆を派遣し、小早川家警固衆の乃美宗勝の指揮下で毛利方の勝利に大きく貢献した。その後も毛利家に属し、防長経略では関門海峡を封鎖するなどの活躍をした。1561年「門司城の戦い」で乃美宗勝の指揮下、大友勢を撃退した。1576年「第一次木津川口の戦い」では、織田水軍を壊滅させ兵糧米を石山本願寺に運びこんだ。因島(村上)吉充には子がなかったため、因島(村上)亮康の子、因島(村上景隆)を養子に迎えたが早世したため、その弟の因島(村上)吉亮を後嗣に迎えている。1600年「関ヶ原の役」後、毛利家の減封に伴って長門国へ転封になり1800石を領した。

因島(村上)亮康【いんのしますけやす(15??~1608)】

因島(村上)尚吉の三男。瀬戸内の要衝鞆城主。因島村上家の枝連衆として活躍した武将。「第一次木津川口の海戦」にも参陣した。1569年、藤井皓玄が備後国神辺城を占拠した際には、三吉隆亮と共に神辺城を奪回した。後に毛利家を頼ってきた足利将軍義昭を三好家の干渉を跳ね除け関船で出迎えた。鞆では警護役として足利義昭の直臣扱いとなった。毛利家と足利家の両方から知行を得ている。1582年、来島通総が織田信長に寝返ると、村上吉充、村上隆吉と共に毛利輝元に改めて忠誠を誓い、恩賞として100貫の知行を加増されている。

因島(村上)景康【いんのしまかげやす(15??~1587)】

因島(村上)亮康の男。伯父因島(村上)吉充の養子。1587年「九州征伐」の陣中で病没した。

因島(村上)吉亮【いんのしまよしすけ(15??~1596)】

因島(村上)亮康の三男。通称。新左衛門。室は浦宗勝の娘。兄因島(村上)景康が病没したため、因島村上吉充の養子となり因島(村上)家の家督を相続したがまもなく病没した。

因島(村上)元充【いんのしまもとみつ(15??~15??)】

因島(村上)吉亮の嗣子。1600年「関ヶ原の役」の「伊予松山城の戦い」では幼少であったため、因島(村上)吉忠が名代として出陣した。戦後、因島(村上)吉充とともに備後国を去り、周防三田尻に居住。毛利家船手組番頭。

因島(村上)吉忠【いんのしまよしただ(15??~1600)】

因島(村上)亮康四男。1600年「関ヶ原の役」の「伊予松山城の戦い」では、因島(村上)元充の名代として因島村上海賊衆を率いた。能島(村上)元吉の麾下に入るが、加藤嘉明家臣の佃十成の夜襲により討死した。

因島(村上)吉国【いんのしまよしくに(15??~15??)】

因島(村上)吉忠の男。1600年、父因島(村上)吉忠が討死すると因島(村上)吉充の養子となる。

因島(村上)吉之【いんのしまよしゆき(15??~15??)】

因島(村上)家臣。1557年、村上吉充が余崎城に移ると、長崎城守将となる。

因島(村上)吉満【いんのしまよしみつ(15??~15??)】

因島(村上)家臣。因島(村上)治部少輔の男。岡島城主。通称又三郎。

因島(村上)義房【いんのしまよしふさ(15??~15??)】

因島(村上)家臣。寺崎城主。官途は丹後守。

因島(村上)吉高【いんのしまよきたか(15??~1580)】

因島(村上)枝連衆。葛籠屑城主。官途は内蔵大夫。1580年、来島通総に加勢したとして、河野家に攻められ自刃した。

因島(村上)弘正【いんのしまひろまさ(15??~15??)】

因島村上家臣。明沢城主。官途は信濃守。

魚成通親【うおなしみちちか(15??~15??)】

宇和郡龍ヶ森城主。魚成玄親の男。官途は豊後守。西園寺十五将の一人で1,000石を領した。

魚成親能【うおなしちかよし(15??~15??)】

魚成通親の男。官途は上総守。1573年、長宗我部元親による攻撃で龍ヶ森城は落城した。

臼坂弾正【うすさかだんじょう(15??~15??)】 

黒川通博家臣。文台城守将。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川景隆に攻められ落城した。

浮穴郡豪族衆【うきあなぐんごうぞくしゅう】

浅井新左衛門尉、寺町弥六左衛門尉、浮穴新左衛門尉、高野宮内之允、白石新太夫、大熊刑部之亟、白石左衛門尉、牛渕美作守、田窪八郎、石崎与一、定力左衛門尉、奴田新太夫、東籐内蔵、高井小太郎。    

宇都宮清綱【うつのみきよつな(1500~1540)】

喜多郡大洲城主。宇都宮清綱が嫡男の宇都宮豊綱に大洲城を譲った際、次男の宇都宮房綱らを連れて萩森城に隠居して7,800石を知行した。

宇都宮豊綱【うつのみやとよつな(1519~1585)】

宇都宮清綱の男。室は大野直之の娘。喜多郡大洲城は、道後方面を支配する守護家河野家と宇和郡を支配下に置く西園寺家に挟まれる位置にあり、また土佐国から土佐の一条家、豊後国から大友家、中国地方の大内家、後に毛利家といった諸勢力が伊予国に侵攻するごとに戦場となり、難しい領国経営を強いられた。西園寺家との戦いでは、西園寺実充の子公高を討ち取る武勇を見せた。1560年、以降姻戚関係にあった土佐一条家と結んで勢力の拡大を図るが、河野家との対立が目立つようになった。1568年、毛利家の援軍を受けた河野家との「鳥坂峠の戦い」で大敗を喫し、毛利方に捕らえられ備後国で病没した。

宇都宮房綱【うつのみやふさつな(15??~15??)】

宇都宮清綱の次男。通称彦右衛門尉。1540年、父宇都宮清綱と共に地蔵獄城を築城。1549年、天神山城主摂津親宣と争う。

宇都宮(野村)乗綱【うつのみやのりつな(15??~15??)】

喜多郡野村白木城主。官途は左近尉。西園寺十五将の一人で2,000石を領した。白木城を緒方蔵人に任せ、自らは鎌田城に居住した。1540年、枝連衆の宇都宮直綱が長宗我部家に内通したため、西園寺家から蟄居を命じられる。

宇都宮直綱【うつのみやなおつな(15??~15??)】

宇都宮乗綱の枝連衆。鎌田城主。1581年、長宗我部家に内通したため、西園寺家に攻められた。

宇都宮道信【うつのみやみちのぶ(15??~15??)】  

朝立城主。官途は備前守。1582年、長宗我部元親に攻められ、朝立城は落城した。

宇都宮春信【うつのみやはるのぶ(15??~15??)】  

宇都宮道信の孫。慶長年間に宇都宮家を再建した。

宇都宮家臣団【うつのみやけかしんだん】  

梶谷景則、大塚助兵衛、二宮新助、二神権之介、得能主税、大久主馬、梶谷修理、兵頭喜右衛門、大塚嵐之助、梶谷久米之助、二宮市右衛門、谷喜兵衛、堀江右馬之介、城戸源右衛門、村上与三兵衛、続谷覚之介、北村甚五郎、向井源蔵、窪田作兵衛、久保田平助、木瀬半右衛門、滝下六左衛門、滝下小作、菊池平兵衛、豊田勘左衛門、戸田六助、菊池喜右衛門、大塚新兵衛、小出平右衛門、小出新兵衛、加藤治部之介、安藤甚三郎、野田与七、矢野源左衛門 木村杢之介 寺井市之丞、門田仁介、岡孫右衛門、水野太兵衛、豊間作右衛門、玉津半太夫、松原与右衛門、吉見新三郎、桜山馬之介、若山八右衛門、林田善右衛門、武田九兵衛、信村助蔵、松本市右衛門 森田平助、佐良喜作、阿部半助、脇谷伊右衛門、一色与三右衛門、桜井八蔵、宇多津九兵衛、矢部兵介、金田杢右衛門、熊尾喜左衛門、結城与一郎、田村徳右衛門、駒山仁右衛門、土居新右衛門、秋山三右衛門、河原与兵衛、伊藤助三郎、鹿田助七、長谷林右衛門、村尾茂兵衛、遠藤三右衛門、宮川市蔵、清家次兵衛、大角隈源助、津田久兵衛、大谷八郎兵衛、下村与七郎、岸村覚之助、沢辺新七、三宅善三郎、野村助之進、斉藤勘右衛門、石山九郎介、本東谷伊右衛門、山本小右衛門。 

宇野又八郎【うのまたはちろう(15??~15??)】

河野家臣。1600年「関ヶ原の役」では、加藤嘉明に加勢した。

大内信泰【おおうちのぶやす(15??~15??)】

和気郡塩森城主。官途は伊賀守。

大内家臣団【おおうちけかしんだん】

松浦籐右衛門尉、高松美濃守、栗田右衛門尉、福角隼人、井上三与右衛門尉、沢田惣次郎、北左衛門尉。                  

大塚助兵衛【おおつかすけのひょうえ(15??~15??)】 

高森城主。

大久範足【おおひさのりあし(15??~15??)】

土居城主。通称主馬。

大野利直【おおのとしなお(1493~1580)】

浮穴郡大除城主。河野家臣。官途は紀伊守。嫡男大野友直に家督を譲って隠居したが、大野友直が早世したため再び政務を執る。1553年、平岡家と対立してこれを攻撃した。1553年、四男の大野直昌に家督を譲って隠居した。

大野友直【おおのなおしげ(15??~15??)】

大野利直の男。大野家の家督を相続したあと早世した。

大野直之【おおのなおゆき(15??~15??)】

大野利直の次男。官途は上総介。菅田城主。1573年、長曽我部家に通じて河野家に叛いたが敗退。1574年、再び長曽我部家と謀って兄大野直昌の殺害を目論むが失敗。その後河野家に帰参した。1585年「四国征伐(天正の陣)」では河野通直の降伏後も頑強に抵抗した。

大野隆直【おおのたかなお(15??~15??)】

大野利直の三男。兄庶だったため、大野家の家督を相続することができず、能島家に仕えた。

大野直昌【おおのなおしげ(15??~15??)】

大野利直の四男。官途は山城守。長兄大野友直が早世し、兄の大野隆直と大野直秀が庶子であった為、大野利直の嫡子であった四男の大野直昌が家督を相続した。河野家の政務は「御一門三十二将」と呼ばれる、譜代国人衆と国人衆の同族的結合によって執行されていた。河野通直に重用され家老となった。足利将軍家から「毛氈鞍覆白傘袋」を許されるほどの地位を持ち、河野家とは一線を画す国人衆であった。武勇に優れ、一条家が手勢500で攻めてきた際に200の兵で撃退し、毛利家との戦いでも奮戦した事から、河野通直の家臣として家老衆の筆頭にまでなった。大野直昌が、宇都宮家に仕えた弟大野直之が長宗我部元親勢と侵攻したきたさい、配下の将兵の多くを失った。1585年「四国征伐(天正の陣)」の際に河野通直とともに降伏し、河野通直の安芸国竹原城の転封に従う。「雲龍閣事件(秀吉暗殺未遂事件)」にも関与した。

大野直之【おおのなおゆき(15??~1579)】

宇和郡大除城主大野利直の六男。伊予宇都宮家臣。官途は上総介。長宗我部家と通じ宇都宮豊綱を討つ。1579年、河野家に討たれた。

大祝安用【おおほうりやすもち(15??~1531)】

河野家臣。大三島大山祇神社第三十一代大祝職。大祝家は代々神職として戦場に立つことはなかったが、戦が起きた場合は一族の者を陣代として派遣していた。

大祝安舎【おおほうり(15??~15??)】

大祝安用の男。大三島大山祇神社第三十二代大祝。父の陣代として大内家に備える。1534年、大内家が侵攻してきた際には、陣代として出陣し、大内勢を撃退した。山陰地方の尼子勢が安芸国に侵攻すると、大三島もその戦火に巻き込まれたが、村上通康らの加勢によって尼子勢を撃退した。

大祝安房【おおほうり(15??~1541)】

大祝安用の次男。父大祝安舎の死後、三島城陣代となる。1540年、大内勢の白井膳胤、小原中務丞が大三島を攻める。その際、防戦して討死した。 

大祝鶴姫【おおほうりつるひめ(1524~1541)】

大祝安用の娘。1540年、大内家臣白井膳胤らの大三島攻めに抵抗。小原中務丞を討つ。1541年、大内家の攻撃を退けた後に自害した。辞世の句は「わが恋は 三島の浦のうつ うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」。越智安成と恋仲だった。今も大山祇神社には鶴の着用したと云う紺絲裾素懸威銅丸が残されている。

岡田経孝【おかだつねたか(15??~15??)】 

花見城主。河野家臣。

岡田通孝【おかだみちたか(15??~15??)】 

河野通宣の男。岡田経孝の養嗣子。未開拓地の堀江村を開拓し「新須賀」と名付け、城を築いて居城とした。

岡田通郷【おかだみちさと(15??~15??)】 

岡田通孝の男。通称九郎兵衛。

岡田通政【おかだみちまさ(15??~15??)】 

岡田通郷の男。農政面に優れた才能をもち重用された。

緒方惟定【おがたこれさだ(15??~15??)】

宇都宮乗綱家臣。白木城代。通称蔵人。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景に降伏した。後に宇和島城へ藤堂高虎の仕えた。1614年「大坂夏の陣」で活躍した。

小野頼元【おのよりもと(15??~1585)】 

新居郡田所城主。官途は上野守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて落城し、小野頼元は自刃した。

越智通繁【おちみちしげ(15??~15??)】

宇和郡天ヶ森城主。西園寺家臣。官途は安芸守。1575年、一条兼定に加勢し「四万十川の戦い」で長宗我部家と争う。1580年、長宗我部家に攻められ自刃した。

越智左近大夫【おちさこんだいふ(15??~15??)】

河野家臣。好味城代。

越智安成【おちやすなり(1522~1543)】

越智左近大夫の男。1543年、大内家との合戦で討死した。大祝鶴姫と恋仲だった。

越智道能【おちみちよし(15??~1585)】

浮穴郡鷹森城主。官途は美濃守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて討死した。 

温泉郡豪族衆【おんせんぐんごうぞくしゅう】

持田左京之允進、逸見源太夫、高田山雅楽介、白石五郎、大野因幡守、鈴木治部之亟、鈴木掃部頭、鈴木神三郎、佐川玄蕃、大篭道三、進藤帯刀、崎山四郎左衛門尉、一色佐イ左衛門尉、関谷縫殿助。

------------------------------------------------------

【か】

戒能通運【かいのうみちゆき(1482~1546)】

浮穴郡小手ヶ滝城主。河野家五家老。河野十八将のひとり。官途は伊賀守。1552年、大野利直に敗れ、大熊城に逃れる。大野家とは何度も争っており、撤退する大野勢に追撃をかけて大打撃を与えたり、平岡房実や和田通興の助力を得て撃退したこともあった。

戒能通森【かいのうみちもり(1517~1587)】

戒能通運の男。官途は備前守。家老を務めた主家没落後、河野家の社参には必ず供奉した。

戒能家臣団【かいのうけかしんだん】

宇和川伝右衛門尉、北山備中守、小山兵庫正、大平新右衛門尉、上野兵庫介、江戸平太、野口左衛門尉、樫尾四郎兵衛尉、森平内左衛門尉、南新蔵人、吉井主水介、山前勘解由、大野右近、戒能伊織。

梶尾伊豆守【かじおいずのかみ(15??~15??)】

高森城主。宇都宮房綱家臣。1576年、宇都宮家臣大野直之に攻められ落城、河野家のもとを頼る。臨終の際、三人の子に高森城奪回が最良の供養であり、他の必要がないと言い残した。

梶尾中務丞【かじなかむのじょう(15??~15??)】

梶尾伊豆守の男。1578年、弟の左衛門尉、修理と共に高森城奪回に成功した。

観修寺基詮【かじゅうじもとあき(15??~15??)】

常盤城主。官途は兵庫介。西園寺十五将のひとり。御庄殿。1558年、大友宗麟の攻撃を受けた。1575年、長宗我部元親の攻撃を受けた。土佐一条家を援護して逆に土佐国に侵入した。1583年、長宗我部勢10,000余りに支城の猿越城と緑城を落とされ降伏した。1587年、新領主の戸田勝隆から下城を余儀なくされた勧修寺基栓は京に上った。

勧修寺基詮家臣団【かじゅうじもとあきけかしんだん】

上岡玄蕃允和光、満蔵加賀守、尾崎籐兵衛尉。  

加藤民部正【かとうみんぶのしょう(15??~15??)】 

新居郡御代島城主。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「野々市の戦い」で、小早川隆景と戦い討死した。   

兼頭修理【かねがしらしゅり(15??~15??)】 

黒川通博家臣。文台城守将。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川景隆に攻められ落城した。

金子元成【かねこもとなり(15??~15??)】 

新居郡金子山城主。通称十郎。高尾城主石川家の内乱を鎮圧。知に優れた将で、一時は河野家をもしのぐ勢力を誇った。

金子元宅【かねこもといえ(15??~1585)】 

金子元成の男。官途は備後守。1585年「四国討伐(天正の陣)」で宇摩、新居二郡の将兵率いて出陣。長宗我部勢の援軍とともに小早川隆景と戦ったが、「氷見原の戦い」で奮戦の末するも三村紀伊守に討たれた。金子元宅は残存兵力まとめ高尾城に籠城した。籠城した武将は、弟金子元春と家老の伊藤嘉右衛門家定、金子の枝連衆の鷲津、桜井、野々山、安蘇、小幡と薦田枝連衆の下山九郎。長宗我部家からの援将片岡下総守光綱率がいる500余と花房親兵衛が率いる50余りでした。片岡光綱は、北谷口で討死し、亡骸は家臣達によって土佐国に運ばれてた。また、花房親兵衛は、馬淵口で小早川秀包に討取られた。

金子元春【かねこもとはる(15??~16??)】 

金子元成の次男。官途は対馬守。1585年、「四国討伐(天正の陣)」において兄金子元宅の討死後、金子家の家督を相続する。小早川隆景が再び侵攻すると丸山城主黒河広隆の手引きによって、金子山城は奇襲を受け落城した。落城後は金子元春は出家して慈眼寺の関掩本徹和尚となった。関掩本徹和尚は名僧として明正天皇より御輪旨と三世安禅思長和尚を賜り、本堂の屋根の棟に16弁菊の紋章を付ける事も許可された。 

金子家綱【かねこいえつな(15??~1585)】

金子元成の三男。通称孫八郎。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川景隆勢との戦いで兄金子元宅が討死すると、残された郎党と共に金子山城に籠城するも落城した。

金子専太郎【かねこせんたろう(15??~15??)】

金子元宅の男。人質として土佐国におもむいた。

金子家臣団【かねこけかしんだん】

岡崎城主:藤田大隈守、林下ノ城主:松木三河守、大保木城主:寺川丹後守、垣上ノ城主:徳永修理之允、横山城主:近藤四郎五郎、河ノ江城主:妻鳥采女正、長田城主:川上但馬守安勝、周布郡獅子鼻城主:宇野隼人、大頭鹿花城主:今井三郎左衛門、:松尾城主:越智式部、笹ヶ頭城主:出渕筑後守、桑村郡菊ヶ森城主:山内若狭守、桑村郡藤森城主:櫛部伊賀守入道。。

河上安勝【かわかみやすかつ(15??~1585)】

河野家臣。1574年、仏殿城主妻鳥光家が長宗我部元親に通じたため、河野通直から討伐を命じられる。討伐を果たすと、恩賞として仏殿城を賜る。1585年、長宗我部元親に滅ぼされた。

河内吉行【かわちよしゆき(15??~15??)】

曽根宣高家臣。官途は駿河守。竜王城周辺を治めた。

河原渕(渡辺)政忠【かわらぶちのりさだ(15??~15??)】

松丸川後森城主。官途は越後守。嗣子無く、土佐一条一門東小路法行の次男を養子とする。

河原渕(渡辺)教忠【かわらぶちのりさだ(15??~15??)】

宇和郡河後森城主。一条房家の甥。家系としては大内晴持の甥でもある。土居清良と共に幼少期を送った。一条兼定の伊予進出の布石として、西園寺氏の重臣である渡辺政忠の養嗣子となる。西園寺十五将筆頭の16,500石を領した。一条家が南伊予に侵攻した際に戦意をみせなかった。1567年、西園寺公広に攻められ、入質して許された。一条家の土佐追放後は長宗我部家に敢闘する。河後森の若城主と呼ばれ評判になるが、度重なる戦乱により家臣の分裂を生み、長宗我部家に寝返った芝一覚によって月見の夜に城を追われた。

管善兵衛【かんぜんべえ(15??~1585)】

石川家臣。徳永甚九郎とともに虎竹丸に仕えた。1585年「四国討伐(天正の陣)」で、小早川隆景に高尾城を攻められ討死した。

梶屋修理【かじやしゅり(15??~15??)】 

飯森城主。

北之川(紀)経安【きたのかわつねやす(15??~1581)】

宇和郡窪野三滝城主。官途は式部卿。北之川家は紀貫之の庶家。西園寺十五将のひとり。1581年、長宗我部家臣久武親直、桑名太郎左衛門に攻められる。合戦の最中、依岡左京に討たれた。

北之川(紀)親安【きたのかわちかやす(15??~1583)】

北之川(紀)経安の男。通称左衛門大夫。父北之川(紀)経安の後を継いで式部卿を称した。長宗我部元親の娘婿波川玄蕃の息女を側室に迎えるが、波川玄蕃が長宗我部元親に対して謀反を起こしてしまい、北之川親安自身は謀反に加担していない旨の起請文を長宗我部元親に提出するが「謀反加担は明白なのに起請文を寄越したからには起請の罰が与えられる」と言う無茶苦茶な論理から長宗我部元親に攻められて三滝城は落城、北之川親安は討死した。嫡男北之川正親は岡豊城で謀殺された。

木塔三郎兵衛【きとうさぶろうべえ(15??~15??)】 

里之城主。

城戸直盛【きどなおもり(15??~1574)】 

龍王城主。大野家の枝連衆。河野家臣。領民に慕われる名君だった。1574年、長宗我部家の加勢を受けた曾根城主曾根宣高と戦い龍王城は落城し討死した。 

城戸直宗【きどなおむね(15??~15??)】 

城戸直盛の男。1574年、父城戸直盛が討死すると、若い城戸直宗を家臣の床崎綱実が後見して、河野家の支援のもと龍王城を奪還した。
1577年、曾根宣高によって再び落城し、床崎綱実は討死、城戸直宗は没落して帰農したという。

櫛部兼氏【くしべかねうじ(15??~15??)】

桑村郡象ヶ森城主。道前平野一帯に勢力を持つ。

櫛部兼久【くしべかねひさ(15??~1580)】

櫛部兼氏の男。1579年、長宗我部元親に属した金子元宅に攻められ、甲賀原に出陣。劣勢になったため象ヶ森城に籠城するも落城。近田ヶ原城主近田経治を頼る。1580年、金子元宅勢の近田ヶ原城攻めにより、近田経治と共に討死した。

櫛部家臣団【くしべけかしんだん】

越智兵庫介、竹田右京進、藤原五郎、渡辺四郎兵衛、牧野備前守、宇佐美主水正、長井三四郎、近藤永寿、杉原衛士助、藤原五郎、大沢新太郎、鎌田将監、渡部四郎兵衛尉、高瀬{左衛門尉、芥川源兵衛尉。  

忽那通乗【くつなみちのり(15??~1585)】

温泉郡忽那山城主。河野家臣。1544年、忽那通乗は大内海賊衆を引いた白井家が忽那島に来襲すると一族を率いて防戦。これを撃退することに成功している。1560年、伊予厳島神社に忽那通乗が股肱の勇卒数十名を引率しこの地にきて兵を練ったとき、神主藤原喜春をして安芸国佐伯郡より厳島神社を勧請し、武運の長久を祈った。1556年、大友義鎮家臣若林鎮興が忽那山に来襲。忽那通乗、忽那通著や忽那通恭と共に若林鎮興を撃破した。

忽那通著【くつなみちあき(15??~1579)】

忽那通乗の男。官途は式部少輔。1565年、大友義鎮が再び伊予国に侵攻すると、河野家の指示を受け、来島通康、村上武吉らとともに大友勢を撃退した。1573年、大野家が長宗我部元親に降ると、その討伐に出陣した。1580年、畿内を制圧した織田信長の軍勢が中国地方にも進出し、各地で毛利家と衝突を繰り返すようになった。忽那通著は村上海賊衆らとともに毛利家の支援を行い、大友家の牽制のために豊後国周辺にも出陣している。1579年、大野直之が長宗我部元親に通じて河野家に謀反を起こすと、その鎮圧に出陣したが「花瀬城の戦い」で討死した。

忽那通恭【くつなみちのり(15??~1585)】

忽那通乗の次男。忽那通著の嫡男が幼かったため、弟の忽那通恭が家督を相続した。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高峠城の戦い」で小早川隆景の勢と激戦の末、忽那通恭は討死した。弟の忽那通実も金子城にて討死を遂げ、一族のほとんどは滅亡した。

忽那家臣団【くつなけかしんだん】

忽那新右衛門尉、忽那豊前守、忽那四郎兵衛、西久左衛門尉、矢野兵庫介、法花津四郎左衛門尉。                      

久保照信【くぼてるのぶ(15??~15??)】

黒山城主。通称左兵衛。

久保好武【くぼよしたけ(15??~15??)】

久保照信の男。通称縫殿助。1580年、長宗我部元親に攻められるも撃退した。1585年「四国討伐(天正の陣)」由並本尊城救援に向かうも落城。本城の黒山城に60余名でに籠城した。

久米郡豪族衆【くめぐんごうぞくしゅう】

佐伯強右衛門尉、玉井武蔵守、玉井将監、志津川修理之允、堀江雅楽助、平井左衛門尉、海垣太郎、姫池善太、山内九郎三郎、得久源三郎、高須賀左京右兵衛、中村兵衛四郎、根川六郎太夫、野口又四郎、大篭蔵神兵衛尉、中村九郎左衛門尉。

桑原泰国【くわはらやすくに(15??~1585)】

鷺ノ森城主。金子家臣。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景に攻められ討死した。

黒瀬道之【くろせみちゆき(15??~1585)】 

浮穴郡由流城主。官途は飛騨守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて討死した。   

黒川通堯【くろかわみちあき(15??~15??)】

周布郡剣山城主。長宗我部兼序の男。室は黒川通冬の娘。官途は民部少輔。黒川家は河野家庶流。長宗我部通尭は、兄長曽我部国親と不仲で、家を飛び出し黒川家の下に身を寄せ、時の黒川家当主山城守通矩に見込まれ妹婿となった。伊予国剣山城主として周辺の城主を攻略版図を広げた。1574年、長男黒川通長を壬生川通国攻めで失った。1544年、嫡男黒川通俊を戎能通運攻めにて失った。正岡通純二男、黒川(正岡)通博が跡を継いだ。

黒川通長【くろかわみちなが(15??~15??)】 

黒川通堯の男。通称宗太郎。1574年、黒川通長が壬生川通国の招きで壬生川の万福寺で猿楽の宴に呼ばれた、宴会も終わり宗太郎を送る為、通国は見送りに出口まで出た時にいきなり宗太郎が抜刀し通国を斬った。宗太郎は外に待たせておいた家臣と駿馬に乗り、榎城に逃げ帰った。壬生川通国の家臣、稲井等はその日の内に軍勢を整えて、約500騎で榎城を夜襲し、黒川通長以下全員が討死した。

黒川通博【くろかわみちひろ(15??~15??)】

幸門城主正岡通純の次男。黒川通堯の養子。官途は山城守。河野晴通の娘を娶ったため、河野一門に列せられた。正岡家は河野一族であり、黒川元春は黒川(正岡)通博の養子入りなどで河野家との関係を深めた。1572年、黒川通博は石川家の高尾城を攻め落とす。1574年、黒川通博は壬生川通国を攻め長期戦になり、大曲砦と鷺森城とで睨み合いになった。河野本家より調停の使者が入り水入りと成った。1575年、金子元宅と黒川通博が鷺ノ森城を攻撃、 壬生川通国は討死した。1576年、黒川通博は毛利の援軍要請を受けた河野家の配下として家臣団(櫛部、宇野家)を率いて福山へ従軍する。 1585年、小早川勢に攻められ敗走した。

黒川通俊【くろかわみちひろ(15??~1544)】

黒川通堯の男。官途は対馬守。1544年、戎能通運を攻めるも逆に討死した。

黒川通博家臣団【くろかわみちひろけかしんかん】

佐伯伊賀守雄之、桑島四郎佐衛門尉、曽我部左近、戸田{采女正、曽我部修理之允、久米五郎右衛門尉、兼頭日向守、桑村又左衛門尉、臼坂三郎兵衛尉、今井玄蕃、野口四郎太夫、垂水彦三郎、玉井又十郎。 

来島(村上)通康【くるしまみちやす(1519~1567)】

来島城主。河野家臣。官途は出雲守。室は河野通直の娘。来島村上家で能島村上武吉、因島村上吉充と同世代。河野家では、有力家臣の正岡家、重見家の反乱が続き、これらの鎮圧の任にあたった来島(村上)通康は、河野家の家中で大きな勢力を持つようになる。1541年、大山祇神社がある大三島が大内家の警固衆によって襲撃を受けた。河野通直の命を受け来島(村上)通康は得居、平岡、今岡らの海賊衆とともに出陣した。能島村上武吉の援軍も得て、神官大祝家らとともに大内家の警固衆を撃退した。河野通直に厚く信任され娘婿の一人となった。河野通直が子の河野晴通と対立した際には河野通直の側につき、河野家の家督継承者として選ばれたが、河野家臣団の多くは河野晴通を支持したため河野通直と共に湯築城を逃れた。居城の来島城を攻撃されたが守り抜き、河野家臣と和睦。後継者にはなれなかったが、河野枝連衆として内政、外交、軍事の各方面での中心的役割を果た。1555年「厳島の戦い」では、海賊衆を率いて毛利元就の援軍として参陣した。その後も毛利元就に積極的に協力し、対大内、大友家戦で海賊衆を率いて活躍した。1567年、宇都宮家との対陣中に病没した。

来島(得居)通幸【くるしま(とくい)みちゆき(1557~1594)】 

来島(村上)通康の男。嫡男として生まれたが得居家の家督を相続した。1582年、織田信長の配下として中国攻略にあたっていた羽柴秀吉の調略を受け、来島通総と共に河野家から離反した。来島家老であった村上吉継、村上吉郷らは河野家に残留した。河野家も毛利家の協力を得て来島家への攻撃を開始した。能島(村上)武吉、村上元吉親子を尖兵にして来島勢力に向けて攻撃を続けた。1583年、来島通総は京へ落ち延びたが、来島(得居)通幸の鹿島城へ攻撃は続いたが、籠城して守り抜いた。1584年、来島通総の再進出がは図られ、忽那島周辺で海戦が行われた。1586年、毛利輝元との和睦が行われ、羽柴秀吉の「四国討伐」が開始されると、小早川隆景、吉川元長などの軍勢とともに伊予国人衆と戦った。戦役後、来島(得居)通幸は3,000石を領した。「九州討伐」「小田原の役」「文禄の役」にいずれも羽柴家配下の船手衆として参陣した。1594年「文禄の役」で朝鮮水軍と戦って討死した。後嗣がないため所領は来島通総に加えられた。

来島(村上)通清【くるしまみちきよ(1563~1638)】

来島(村上)通康の次男。羽柴秀吉の諜略によって来島(村上)宗家が織田信長方に寝返ると、来島(村上)通清は来島家の名代として、羽柴秀吉と誓紙を取り交わした。この結果、来島(村上)宗家は毛利勢に攻められる事となり、兄来島通総らは京へ落ち延びたが、来島(村上)通清は日高城に籠城し頑強に抵抗した。毛利家との和睦後、羽柴秀吉によって海賊禁止令が出ると来島家を辞し、黒田家に仕えたが、まもなく辞しした。1600年「関ヶ原の役」では西軍に属して、淡路国人領主の菅達長と共に伊勢国鳥羽で戦ったが役後に失領した。福島正則に仕え2500石を領した。備後国三原城城代を務め、大堤防を築くなど治世に貢献した。

来島(村上)通総【くるしまみちふさ(1561~1597)】

来島(村上)通康の四男。官途は出雲守。通称助兵衛。室は平賀広相の娘。1567年、父来島通康の病死により家督を相続する。毛利家が大友家を攻めた際援軍として派遣されたが、能島村上武吉は赴かず、来島通総は苦戦して以後武吉と疎遠になった。来島通総の時代に至り、それらが噴出したとゆう見方もできる。1582年、来島通総は毛利陣営より離反し、織田信長に加勢したため、能島、因島両村上海賊衆と毛利警固衆の攻撃を受け、来島通総は織田信長の元へ逃れた。1582年「本能寺の変」後は、羽柴秀吉に仕えたえ風早郡鹿島城14,000石を領した。「九州征伐」「小田原の役」にも従軍した。1592年「文禄の役」では兄得居通之とともに渡海。1597年、弟得居通年とともに再び渡海したが、全羅道鳴梁で討死した。

来島(村上)長親【くるしまながちか(1582~1612)】

来島(村上)通総の男。通称右衛門。1579年、父来島通総が朝鮮全羅道鳴梁で討死したため、家督を相続して風早郡14,000石の領主となる。1600年「関ヶ原の役」では西軍から東軍に寝返ったが、戦役中、東海道沿岸の東軍諸将の所領に対して略奪行為を行ったことを咎められ戦役後失領した。
のち福島正則の執り成しで、豊後国玖珠郡で14,000石を与えられた。所領に海はなく、海賊衆としての力は絶えた。最後の来島村上海賊衆の頭領。

粟上左衛門尉【くりうえさえもんのじょう(15??~15??)】

宅並城主。1582年、粟井川の利権を巡り、南通方を謀殺する。

栗上通宗【くりうえみちむね(15??~15??)】 

松山城主。河野家臣。官途は因幡守。

栗上通閑【くりうえつうかん(15??~15??)】 

河野家臣。但馬守。

鴻上山城守【こうかみやましろのかみ(15??~15??)】 

新居郡船木伊保城主。

厚朴定信【こうぼくさだのぶ(15??~1575)】

宇和郡朝立城主。西園寺家臣。1575年、西園寺家臣松内景連に討たれた。

厚朴春信【こうぼくはるのぶ(15??~15??)】

厚朴定信の男。1557年、松内景連を討ち、朝立城を奪回。長宗我部家に攻め滅ぼされた。

河野(刑部大輔)通宣【こうのみちのぶ(15??~1519)】

湯築城主。河野教通の男。官位は刑部大輔。分家である予州家との対立は継続しており、一時河野通篤に居城を追われたがまもなく奪回した。

河野(弾正少弼)通直【こうのみちなお(1500~1572)】

河野(刑部大輔)通宣の男。官途は弾正少弼。1519年、父河野(刑部大輔)通宣が死去したため家督を相続した。1540年には室町幕府御相伴衆に加えられる。自身に嗣子がなかったため、娘婿で水軍の頭領として有能であった村上通康を後継ぎに迎えようとしたが、家臣団の反発と、予州家の当主河野通存が家督をめぐって争ってきたため、来島(村上)通康とともに湯築城から来島城へと退去することになる。その後、家督を河野通存の子河野通政に譲って権力を失うが、河野通政の早世後には河野家の実質的な当主の座に復帰した。

河野通政【こうのみちまさ(1522~1543)】

河野通存の男。河野(弾正少弼)通直の養子。 河野通存の子で、河野氏の分家である予州河野氏の当主であった。しかし本家の当主であった河野通直が、娘婿で水軍の頭領として有能であった来島村上氏の村上通康に家督を譲ろうとしたことに反発し、通直と対立する。この争いは来島騒動ともよばれる軍事抗争にも発展するが、通政は河野氏の家臣団の支持を集め、また豊後の大友義鑑の仲介もあって、通直を隠居させ、河野氏本家の当主となった。しかし1543年、突如として急死した。嗣子が無かったため、後を弟の河野通宣が継いだ。

河野(左京大夫)通宣【こうのみちのぶ(1522~1581)】

河野通存の次男。官位は左京大夫。1543年、河野通政が早世したため、家督を相続した。しかし若年であったため、河野通直の後見を受けることとなる。通宣が家督を継いだ頃の河野氏は、家臣の謀反や豊後国の大友氏、土佐国の一条兼定の侵攻を受け、国内では宇都宮豊綱とも対立し、領内はまさに危機的状態にあった。重臣の村上通康や平岡房実が遠征を繰り返し、鎮圧に及んだが、もはや国内を独力でまとめる力もなかった通宣は、以前より姻戚関係であった毛利元就と従属的同盟を結び、小早川隆景を中心とする毛利軍の支援によって、土佐一条氏や伊予宇都宮氏を撃退している(毛利氏の伊予出兵)。しかし、伊予国内への相次ぐ侵略や家臣団の離反など、内憂外患が続き心労がたたったのか、通宣は病に倒れる。嗣子が無かったため、1568年、家督を一族の河野通直(伊予守)に譲って隠居した。

河野(伊予守)通直【こうのみちなお(1564~1587)】

池原(河野)通吉の男。官途は伊予守。1568年、河野(左京大夫)通宣に嗣子が無かったため、養嗣子となり家督を相続したが、幼少だったため、成人するまでは実父河野通吉が政治を取り仕切った。河野(伊予守)通直が家督を相続した時期には河野家は衰退しきっており、隣国からの浸入や長宗我部元親に内通した大野直之らの内乱に苦しんでいた。毛利輝元からの支援で、命脈を保っている常態であった。河野通直は、若年の武将ではあったが、人徳厚く、多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、河野通直に降伏後、その人柄に心従したという。1585年「四国討伐(天正の陣)」が始まると、河野家は進退意見がまとまらず「小田原評定」の如く湯築城に籠城する。小早川隆景の勧めもあって湯築城は開城した。河野通直は、城兵の助命嘆願のため自ら先頭に立って、小早川隆景に謁見したという。河野通直は命こそ助けられたが、所領は没収された。河野家の家督は、小早川家臣宍戸元秀の次男を後継者とし養子に迎え、河野通軌と称した。

河野家臣団【こうのけかしんだん】

枝松太郎光栄、由並壱岐守通賢、栗上左衛門尉通妙、栗上因幡守通宗、栗上但馬入道通閑、別府宮少輔通興、大祝日向守安勝、垣生加賀守盛周、大野山城守直昌、村上掃部頭武蔵、村上備前守吉光、村上出雲守通康、忽那式部少輔通著、得居半右エ門尉通久、大内伊賀守信泰、平岡遠江守通倚、南美作守通師、土居兵庫守通建、松末美濃守通為、久枝肥前守宣盛、桑原三郎兵衛泰国、戒能備前守通森、今岡民部大輔、中川常陸守通任、重見弥孫七郎通俊、正岡右近太夫経政、黒川美濃守通博、和田山城守通勝  河野左門通冬  
土居左馬介通利、櫛部肥後守宣武、得能遠江守通能。

薦田義清【こもたよしきよ(15??~1585)】

宇摩郡渋柿城主。河野家臣。官途は冶部少輔。1577年「野々市の戦い」では松尾城主真鍋通近と共に、大西元武を打ち破る。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、金子元宅と共に「野々市の戦い」で討死した。

薦田成道【こもたなりみち(15??~15??)】

宇摩郡畑野城主。通称四郎兵。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて高尾城で討死した。

近藤尚盛【こんどうひさもり(15??~1585)】 

船形横山城主。石川家臣。官途は長門守。石川勝重の死後、石川虎竹丸を後見する。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、羽柴秀吉に降ろうとしたが、金子元宅らに阻まれた。弁舌にすぐれた。横山城は高峠城の支城の一つで「四国討伐(天正の陣)」の当時の城主は近藤尚盛であった。高峠城主石川虎竹丸は幼少のため、近藤尚盛は1,000余騎を率い、十倍以上の軍勢をよく迎撃したが、城は陥落、横山城も共に焼失した。

------------------------------------------------------

【さ】

西園寺実充【さいおんじさねみつ(1510~1565)】

宇和郡黒瀬城主。西園寺公家の男。官途は従五位下左近衛少将。伊予国南部で最大勢力を誇った。1556年、宇都宮豊綱と領土をめぐって争い、その中で息子の西園寺公高が討死するという敗北を喫した。河野通宣の仲介を受けて宇都宮豊綱と和睦する。1560年、従五位下左近衛少将に叙任された。1565年、上洛し西園寺公朝の屋敷における和歌の会に列席した。

西園寺公高【さいおんじきんたか(1538~1556)】

西園寺実充の男。1556年、宇都宮豊綱が飛鳥城に来襲した。城代上甲光康は狩り出ていた西園寺公高に知らせると、西園寺公高は狩のいでたちのまま、宇都宮豊綱勢と得意の槍を持って奮戦するも、敵の矢を受け討死した。

西園寺公宣【さいおんじのぶきみ(15??~15??)】

西園寺公家の次男。

西園寺公広【さいおんじきんひろ(1537~15??)】

西園寺公宣の男。1556年、伊予国来住寺で僧籍にあったが、西園寺実充の実子西園寺公高が討死したため、西園寺実充の養嗣子として迎えられて還俗し、実充の娘の西姫の婿になり、家督を継承した。1568年、土佐国の一条兼定を攻める。1568年、毛利家、河野家と手を結んで一条兼定、宇都宮豊綱、津野家を攻めて勝利した。1572年、一条家を攻めたが、逆に一条家と縁戚関係にあった大友宗麟の攻撃を受けて大敗した。1584年、長宗我部元親の猛攻を受けて降伏した。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、小早川隆景に降伏した。その後は居城の黒瀬城のみを残され、新領主の小早川隆景に属し「九州討伐」に参陣した。1587年、宇和の領主となった羽柴秀吉家臣戸田勝隆に謀殺された。

西園寺宣久【さいおんじのぶひさ(15??~1580)】

宇和郡丸串(宇和島)城主。西園寺公宣の次男。 西園寺十五将。官途は志摩守。板島殿。1575年、それまで居城としていた家藤信種(監物)が道免城へ帰城し、板島丸串城(宇和島城の前身)の城主となり板島殿と称され、宇和島周辺を領した。文才があり、和歌紀行文「伊勢参宮海陸の記」を著した。辞世の句は、「朝な夕な何に心を尽くしてやいたづら事にけふとこそなれ」。

西園寺信久【さいおんじのぶひさ(15??~15??)】

西園寺宣久の男。

西園寺公家【さいおんじきんいえ(15??~15??)】

西園寺公季の男。伊予松葉城主。

西園寺家臣団【さいおんじけかしんだん】

中村播磨守永時、上村修理進利信、梅本無心宗信、三善治部右衛門尉、宇都宮越前守、宇都宮左近之亟、山崎助太良通国、薬師寺五郎三郎、松浦四郎左衛門尉、薬師寺伝左衛門尉、渡部兵右衛門尉、鎌居弥籐次郎、宇都宮善右衛門尉、松浦右衛門尉、大富海次良、公文太郎兵衛尉、松本弥五郎、岡崎太郎右衛門尉、関大介、松田宇右衛門尉、小島又五郎、土橋弥五郎、猪袴五郎右衛門尉、井上兵吉郎、清家郷右衛門尉、田原徳右衛門尉、三浦五郎八、川胯兵之助、松浦善助、真田兵八郎、太田市良兵衛尉、小関織部、有馬十介、日野根五助。

西園寺家馬廻七人衆【さいおんじけうままわりななにんしゅう】

岡田越中守、赤松肥前守、大森日向守、宇都宮越後守、市川右衛門尉、板島志摩守、勧修寺左馬頭。   

桜井武蔵【さくらいたけぞう(15??~15??)】 

土居家臣。土居清良の軍師。

重見通種【しげみみちたね(15??~1555)】

風早郡近見山城主。官途は因幡守。1522年、大内義隆勢が大三島に攻め込むと、今岡治部丞、高山将監らと共に撃退。1523年、河野家に叛いた鷹取山城主正岡経貞を攻める。1530年、叛意有りとして河野家に攻められ大内義隆の元に落ち延びた。1555年「厳島の戦い」では、陶方の右翼一手として塔ヶ岡本陣右に陣を張ったが、毛利元就に打ち破られ、重見通種は捕縛され自害した。重見通種の子である、木原通繁、小原通兼、栗原通員は毛利家に仕えた。

重見通遠【しげみみちちか(15??~15??)】

近見山城主。重見通種の弟。1530年、重見通種が大内義隆の元に落ち延びると重見家の家督を相続した。1572年、三好長慶との戦いに参陣。1573年、大野直之討伐軍にも参陣した。

重見通晴【しげみみちはる(15??~1585)】

重見通遠の男。1573年、父重見通遠とともに大野直之討伐軍にも参陣した。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景に降った来島通総、得居通久らの攻撃を受け、近見山城は落城し、一族の多くは自害した。

芝政輔【しばまさすけ(15??~15??)】

前身は河上村の百姓四郎右衛門。河原渕(渡辺)教忠が開いた川狩りで、見事な鵜飼を見せたことから召し抱えられる。後に鳥屋ヶ森城を預けられる。

芝源四郎【しばげんしろう(15??~15??)】

芝政輔の四男。河原渕(渡辺)教忠の重臣。1580頃、河原渕(渡辺)教忠を追放し、河後森城主となる。長宗我部家への内通を疑われ、土居家らに攻められる。逆心無しの起請文を記し許された。1585年「四国征伐(天正の陣)」後に改易された。

島吉利【しまよしとし(15??~15??)】

能島(村上)家臣。家老職。官途は越前守。1568年、備前国本太城を守り、三好長慶の攻撃を退けた。

島吉知【しまよしとも(15??~15??)】

島吉利の男。通称又兵衛。1600年「関ヶ原の役」後、次男の島吉方が村上家に仕えが、島吉知は三男の島吉氏は、来島(村上)家から知行400石の家老として迎えられた。能島(村上)家から退去するさい、能島(村上)武吉に挨拶をすることもなく去ったため、父島吉利は激怒し二人の息子と断交した。

白石元綱【しらいしもとつな(15??~1585)】

金子家臣。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、老齢ながらも奮戦し討死した。

菅家道広【すがわらみちひろ(15??~15??)】

都合城主。官途は河内守。

摂津(南方)実親【せっつさねちか(15??~15??)】

宇和郡天神山城主。官途は豊後守。西園寺十五将の一人で4800石を領した。家系は公家の家柄。1540年、宇都宮房綱と争い「萩ノ森の戦い」で討死にした。京都の公家衆で「摂津譲状」を残した。

摂津(南方)親安【せっつちかやす(15??~15??)】

摂津(南方)実親の次男。1572年、以降長宗我部勢の侵攻をうけて居城を失なった。

摂津親宗【せっつちかむね(15??~15??)】  

摂津(南方)家臣。周木館主。通称久五郎。

摂津(南方)大和守【せっつやまとのかみ(15??~15??)】  

摂津(南方)家臣。今城城主。南方殿。

摂津(南方)親綱【せっつちかつな(15??~15??)】  

摂津(南方)大和守家老。周治ヶ城主。官途は伊豆守。

摂津親家【せっつちかいえ(15??~15??)】  

摂津(南方)親綱の男。通称主水。

曾根高昌【そねたかまさ(15??~1556)】

曾根城主。官途は左衛門尉。1543年、大内義隆を頼り近江国愛知郡から周防に移住。1544年、河野家の招きにより伊予に移住。曾根城主。1556年、西園寺家と宇都宮家が争うと、宇都宮家に加勢して討死した。

曾根宣高【そねのぶたか(15??~15??)】

曾根高昌の子。丹後守。1577年、龍王城主城戸直宗と争う。大除城主大野氏が城戸直宗を加勢すると、立山境付近で僧に念仏を唱えさせ、高昌はすでに討死したと大野勢に虚報を伝える。気を緩めた大野勢を強襲し撃退に成功している。龍王城を攻め取り、家臣の河内吉行を入城させる。これにより、二十三ヶ村16,000石を領する。1585年「四国討伐(天正の陣)」では小早川隆景に降伏。小早川隆景が筑前国に転封後、戸田勝隆に改易される。

------------------------------------------------------

【た】

高橋光圀【たかはしみつくに(15??~1585)】

新居郡不富土居城主。官途は丹後守。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、金子元宅に合力したが討死した。

高橋種茂【たかはしたねしげ(15??~1585)】

高橋光圀の弟。官途は美濃守。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、兄とともに金子元宅に合力したが討死した。

高橋伊賀守【たかはしいがのかみ(15??~1585)】

新居郡大生院城主。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて討死した。  

宇高種光【うだかたねみつ(15??~1585)】

高橋光圀、種茂の弟。官途は左馬之助。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、兄とともに金子元宅に合力したが討死した。

宇高種明【うだかたねあき(15??~15??)】

高橋光圀兄弟の末弟。左京佐。1585年「四国征伐(天正の陣)」後も生き延び、出家して「玄亮」と名乗り、西正寺を開基した。

高橋左右衛門太夫【たかはしそうえもんのたゆう(15??~15??)】 

高橋光圀の男。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、生き延びて後南条一統、鳥羽一統を生み出した。

高橋政輝【たかはしまさてる(15??~1585)】

浮穴郡高尾城主。官途は美濃守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて高尾城で討死した。

武井宗意【たけいむねい(15??~15??)】

河野家臣。1585年「四国討伐(天正の陣)」で河野家滅亡すると、戸田勝隆に仕えた。喜多郡で新田開発を行った。1600年「関ヶ原の役」では、村上武吉から毛利家に加勢するよう求められた。

伊予武田信勝【たけだのぶかつ(15??~1585)】

龍門山城主。河野家臣。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、小早川隆景によって竜門山城は落城自刃した。

伊予武田信吉【(たけだのぶよし15??~15??)】

武田信勝の男。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、小早川隆景によって竜門山城は落城、菩提寺の無量寺に逃れた。

伊予武田備後守【たけだびんごのかみ(15??~15??)】 

黒川通博家臣。文台城守将。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川景隆に攻められ落城した。

丹下平兵衛【たんげへいぞう(15??~1585)】

櫛部家臣。櫛部兼久の討死後も、象ヶ森城一帯を拠点に金子元宅と対抗した。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川景隆に攻められ落城した。

竹林院(深田)真清【ちくりんいんまさきよ(15??~15??)】

宇和郡是延一ノ森城主。右衛門佐。西園寺十五将の一人、深田の地頭として2106石を領した。1558年、深田郷の地頭となって京より下向した竹林院家は真清、公義、実親と続いた。

竹林院(深田)公義【ちくりんいんきみよし(15??~15??)】

竹林院真清の男。土佐一条家や長宗我部家から侵攻を受けるようになった。1583年、長宗我部元親の部将久武親直が是延一ノ森城主に兵糧を行なった。

竹林院(深田)実親【ちくりんいんさねちか(15??~15??)】

竹林院公義の男。1570年、土佐一条氏に攻められ、西園寺公広に援軍を要請したが援軍を得られず、一条家に降伏した。抵抗せず降伏した竹林院家に怒った西園寺公広は竹林院実親を土佐国へ追放して大森城主土居清良を一ノ森城の城代とした。

津島通顕【つしまみちあき(15??~15??)】

宇和郡高田釈ヶ森城主。官途は越前守。西園寺十五将の一人、10,000石を領した。のちに天ヶ森城を築いて移った。

津島通孝【つしまみちたか(15??~15??)】

津島通顕の男。通称弥三郎。

津島通顕家臣団【つしまみちあきけかしんだん】 

岩藤与右衛門尉繁昌、西新蔵人入道、曽根近江入道通之、上高田善介通宗。     

寺川祐家【てらかわすけいえ(15??~1585)】

浮穴郡大保木山城主。官途は丹後守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて討死した。  

土居清宗【どいきよむね(1483~1560)】

宇和郡大森城主。成妙郷五ヶ村2600石を領していた土居清良の居城。西園寺十五将の一人。通称宗雲。伊予国の土居家には越智家、河野家の庶家と穂積家、紀伊鈴木家の庶家があるが、土居清宗は穂積家、紀伊鈴木家系の属する。1546年、土居清宗は、西園寺実充の命で大森城から石城に移り、海賊衆を擁して大内、大友家らと戦った勇将。土居清宗は大友家や土佐の国司である土佐一条家との戦いで功績を挙げたため、西園寺実充から厚い信任を受け、土居清宗の男土居清晴に西園寺実充の娘を与えられている。1560年、大友宗麟の攻撃を受けて石城は落城し、土居清宗は土居清晴と共に討死した。

土居清晴【どいきよはる(15??~1560)】

土居清宗の男。室は西園寺実充の娘。1560年、大友家の攻撃を受けて石城は落城し、土居清晴は父土居清宗と共に討死した。

土居清良【どいきよよし(1546~1629)】

土居清晴の男。農政書「親民鑑月集」を記すなど、知勇兼備と評される。1560年、大友家の侵攻によって祖父の土居清宗や父は討死して一家は没落した。土佐一条家への人質となり河後森城主となる渡辺教忠とともに過ごした。1563年、元服後、伊予帰国を認められ、伊予大森城主として2,000石の領主となる。1569年、大友勢を撃退。1570年、土佐一条家に攻められた竹林院家は、西園寺家に救援を依頼。しかし、援軍が派遣されなかったため降伏。西園寺家は激怒し、竹林院家を改易。土居清良を一ノ森城に配した。毛利家への援将として、中国地方各地を転戦し、名を上げた。四国勢としては珍しく、配下の者全員に鉄砲を装備させており、総勢300名程度の小軍でありながら、圧倒的な戦力であったとされる。1579年、長宗我部家の進撃によって岡本城が寝返ると、河野通賢と共に岡本城攻めを行う。知略をもって長宗我部元親の家老久武親信を討ち取る戦功を上げている。後に岡本城を領地に加えた。1585年「四国征伐」の際に小早川隆景に所領を安堵されたが、小早川隆景の九州転封に伴い失領する。藤堂高虎からも仕官の誘いがあったが断った。

土居似水【どいいすい(15??~15??)】

土居家枝連衆。

土居通周【どいみちちか(15??~15??)】

河野家の枝連衆で奉行衆。官途は宮内大輔。土居清良は鈴木系土居家で異なる。

土居方玄【どいかたげん(1512~1574)】

太田城主。1574年、長宗我部元親との「笹ヶ峠の戦い」で討死した。

土居方貞【どいかたさだ(15??~15??)】

土居方玄の男。通称孫九郎。幼少のため大除城主大野直昌が後見役となる。1585年「四国征伐(天正の陣)」によって落城した。

土居通武【だいみちたけ(15??~15??)】

久米郡土居城主。官途は兵庫頭。河野家十八将のひとり。          

土居建通【だいたけみつ(15??~15??)】

土居通武の男。官途は兵庫頭。1585年、「四国征伐(天正の陣)」にで落城した。

土居通武家臣団【だいみちたけけかしんだん】

合郷田高阿弥、熊式部之亟、玉井肥前守、岸宗右衛門尉、久保田修理之助、原大蔵少輔、久保源左衛門尉盛恒、堀内民{式}部之亟。       

篤農家【とくよしいえ(15??~15??)】 

土居家臣。

得居通年【とくいみちとし(15??~1597)】

風早郡恵良城主。河野家臣。来島(村上)通康の男。通称太郎左衛門。先祖は土居、得能両家に通じるとして得居家と称す。伊予久米島に拠点を置き、水軍を擁して主家に仕えた。1585年「四国征伐(天正の陣)」で小早川隆景に降る。「小田原の役」「朝鮮の役の両役」に海賊衆を率いて参陣したが、鳴梁において討死した。嗣なく没領となった。兄来島通総も朝鮮で討死しており、来島家凋落の兆しとなった。

得居通幸【とくいみちゆき】⇔来島通幸【くるしまみちゆき】

得居家臣団【とくいけかしんだん】

高田若狭守、高田三河守、尾越助右衛門尉、尾越四郎右衛門尉、得居兵庫介、浅海和泉守、久畿田四郎兵衛尉、目見田修理允、玉井備後守、宇佐美籐三、二神隼人佐、二神孫右衛門尉、二神新左衛門尉、二神修理之進允、二神和泉守、二神越後守。            

徳永甚九郎【とくながじんくろう(15??~1585)】

石川家臣。石川虎竹丸の側近くに仕える。1585年「四国討伐(天正の陣)」でも石川方として戦い討死した。

得能彦右衛門【とくのうひこえもん(15??~15??)】 

兵頭越前守家臣。飯野森城代。長宗我部元親に攻められ奮戦したが、水の手を絶たれて落城した。

得能道明【とくのうみちあき(15??~15??)】 

長崎城主。通称主膳。

鳥居資長【とちいすけなが(15??~15??)】

因島(村上)家臣。宮地明光の次男。1555年、因島(村上)吉充は「厳島の戦い」後、向島城に拠点を移す。1567年、因島青木城に移った。鳥居資長は因島(村上)吉充移住後、向島余崎城主となった。鳥居資長が海での安全を祈願した観音像は「波切観音」と呼ばれ、重要文化財に指定された。

------------------------------------------------------

【な】

中川親武【なかがわちかたけ(1523~1577)】

越智郡霊仙山城主。官途は常陸守。河野家十八家のひとり。1582年、羽柴秀吉に通じた来島城主来島通総が霊仙山城を攻め中川親武は討死した。

中川通任【なかがわみちたけ(15??~15??)】   

中川親武の弟。官途は山城守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて落城した。

中川親武家臣団【なかがわちかたけけかしんだん】

高大寺左馬之介、武田真新三郎、治部新左衛門尉、目見田左馬介、高山左近将監、宮山三郎左衛門尉、高山和泉守、高橋次郎三郎、伊崎又次郎、久万出雲守、町田彦九郎、高山籐蔵人。

中野(河野)通宗【なかのみちむね(15??~15??)】

宇和郡岡本城主。。河野家枝連衆。1546年、大友勢を撃退した。

中野(河野)通賢【なかのみちかた(15??~15??)】

中野(河野)通宗の男。通称新蔵人。西園寺十五将の一人、5300石を領していた。中野通賢は高森城の城主も兼ねていた。1579年、長宗我部勢7000騎に攻められ、内通もあり一度は落城するものの、高森城主中野通賢と大森城主土居清良がすぐに反撃し、これに西園寺十五将の津島通顕、法華津前延、今城能完、竹林院実親らが加勢した為に長宗我部勢は敗走した。

中野(河野)兼通【なかのこうのかねみち(15??~15??)】

岡本城代。1579年、長宗我部家臣久武親信らに攻められると、長宗我部方に寝返った。

中野(河野)通正【なかのみちまさ(15??~15??)】

高森城主。1560年、大友勢を撃退した。

二宮新助【にのみやしんすけ(15??~1571)】 

山崎城主。西園寺公広は、大友宗麟に対する守りのため、二宮新助を山崎城主として任用した。

能島(村上)義雅【のしまよしまさ(15??~15??)】

能島隆勝の長男。若くして没す。

能島(村上)義益【(15??~15??)】

能島義雅の男。官途は宮内少輔。父能島(村上)義雅は能島(村上)隆勝の嫡男であったが早世。能島(村上)義忠の嫡男、武吉は叔父隆重に擁立され家督を能島(村上)義益と争った。

能島(村上)義忠【のしまよしただ(15??~15??)】

能島(村上)隆勝の次男。官途は掃部頭。室は平岡房実の娘。能島海賊衆は瀬戸内海の制海権を掌握し、独自の交易活動などを行なって利益を上げていた。1527年、父能島(村上)隆勝の病没の家督を相続した。能島(村上)義忠自身の事績は不明な点が多い。兄能島(村上)義雅が早世し、その子の能島(村上)義益が幼かったため、能島(村上)義忠が能島村上家の家督を継承した。能島(村上)義忠の後継を巡り、能島(村上)義益と能島(村上)武吉は争い、能島(村上)隆重の後援を得た能島(村上)武吉が勝利した。

能島(村上)隆重【のしまたかしげ(15??~15??)】

能島(村上)隆勝の三男。能島(村上)武吉の叔父にあたる。能島(村上)武吉とその従兄弟能島(村上)義益との家督争いで能島(村上)武吉を支援し、激戦の末、能島(村上)武吉の勝利に貢献した。備中国笠岡城を改修、本土側の前線根拠地として能島(村上)武吉に代わって居城した。

能島(村上)武吉【のしまたけよし(1533~1604)】)

能島(村上)義忠の男。室は村上通康の娘。1508年、大内義興が京に上洛したとき、曽祖父能島雅房も上洛した。在京の間、数人の子供を作ったため、能島で作った子供達との間で家督相続争いが起こった。能島(村上)武吉は、祖父能島(村上) 隆勝が謀殺され、能島(村上)武吉の身も危うくなったために難を避けて島を離れ肥後国の菊池家を頼った。能島に戻ると従兄能島(村上)義益とそれを支援する来島勢を叔父能島(村上)隆重の支援も受けて破り、能島当主となった。能島(村上)義益が病死すると来島の村上通康と和を結びその娘を娶り、村上三島の頭領格となった。1555年「厳島の戦い」では毛利元就に 加担して、毛利方の勝利に貢献した。その後は、毛利元就の「防長経略戦」に協力し瀬戸内海最大の海賊衆となった。塩飽諸島など瀬戸内の他の海賊衆とも手を結んだ他、枝連衆の能島(村上)隆重を備中笠岡城、嶋吉利を備前児島本太城、村上武満を周防上関と瀬戸内の要衝を抑える位置に置き、通行する船から帆別銭を取り立て、瀬戸内海の制海権を完全に掌握した。1571年、毛利元就が死去すると、反毛利の姿勢を取ったが、小早川隆景が素早く能島攻めの軍を起こすと来島、因島もこれに従ったため、孤立した能島(村上)武吉は小早川隆景に降り、毛利輝元への忠誠を誓わされた。毛利輝元が織田信長と戦うと、村上海賊衆は小早川、児島、乃美警固衆とと共に毛利方水軍として活躍した。1576年「第一次木津川口の戦い」では完勝を収めた。1578年「第二次木津川口の戦い」では、織田信長の鉄船六隻を使った戦術の前に惨敗した。1582年「本能寺の変」の後、羽柴秀吉と毛利輝元が和睦し、来島の返還を要求してくるとこれを拒否し「四国討伐(天正の陣)」に加わらなかったため、再び小早川隆景に攻められ能島を明け渡し、小早川隆景の所領竹原城に転封させられた。1588年、羽柴秀吉の海賊禁止令に背いたとして羽柴秀吉から詰問を受け、嫡男の能島(村上)元吉が上洛して弁明にあたった。1600年「関ヶ原の役」では西軍として、伊勢湾沿岸、紀州沿岸、阿波を攻め、加藤嘉明の伊予松山城を攻めたが、佃十成の「三津浜の戦い(夜襲)」により能島(村上)元吉は討死した。役後は、江戸幕府の制海権掌握にともない能島(村上)海賊衆は壊滅した。

能島(村上)元吉【のしまもとよし(1553~1600)】

村上武吉の男。官途は掃部頭。通称少輔太郎。室は小早川隆景の養女。1576年「第一次木津川口の戦い」では村上海賊衆を率いて織田水軍を壊滅に導いた。1578年「第二次木津川口の戦い」には参戦しなかった。1582年、来島(村上)通総、得居通幸兄弟が羽柴秀吉に諜略により、織田側に寝返った際には、その追討に加わっている。1582年、能島(村上)の家督を相続した。1586年、「四国征伐(天正の陣)」において村上元吉も、羽柴秀吉に協力しなかった。1588年、羽柴秀吉は「海賊禁止令」を出し、瀬戸内海の海賊行為も禁止された。海賊禁止令に違反したとして、村上元吉も筑前国加布里へと追いやられた。1592年「文禄、慶長の役」では、朝鮮に出兵する将兵の輸送に活躍した。1598年、羽柴秀吉が没すると、毛利輝元は村上元吉を安芸国竹原に移して、4700石を与えた。1600年「関ヶ原の役」の前哨戦では、阿波国蜂須賀家の猪山城を落城させた。伊予国三津浜に上陸して、加藤嘉明の松山城を攻撃したが、佃十成の計略により曽根兵庫らと共に討死した。

能島(村上)元武【のしまもとたけ(15??~15??)】 

村上元吉の男。1600年「関ヶ原の役」後、毛利家の防長転封に伴い周防国三田尻に移る。毛利家の船手方として海賊衆の伝統を残した。

能島(村上)景親【のしまかげちか(1558~1610)】

能島(村上)武吉の二男。室は平岡房実の娘。側室は「文禄、慶長の役」で捕虜にした朝鮮貴族の娘。通称三郎兵衛尉。1578年「上月城の戦い」に出陣した。1592年「文禄、慶長の役」では吉川広家に従って、朝鮮に渡海した。1597年、小早川隆景が死去すると毛利輝元に帰参して安芸国竹原に所領を得た。1600年「関ヶ原の戦い」では、海賊衆を率いて、蜂須賀家の所領であった阿波国の猪山城を攻撃し落城させた。防長移封後は、毛利家御船手組の組頭となった。

能島(村上)景広【のしまかげひろ(1555~1627)】

備中国笠岡城主。能島(村上)隆重の男。1576年「第一次木津川口の戦い」で負傷しながらも織田方の大船を奪取し、毛利方勝利の貢献した。その後も警固活動や兵糧輸送に活躍した。のちに、細川忠興に招かれ10,000石を領した。 

能島(村上)元信【のしまもとのぶ(15??~15??)】

能島景親の男。能島景親が、平岡通頼の娘との間の嫡男八助が夭折しため、朝鮮貴族の娘が生んだ次男の能島元信が、能島家の家督を相続した。

能島義久【のしまよしひさ(15??~15??)】

能島(村上)家臣。伯方城代。官途は内巧頭。

能島内匠【のじまたくみ(15??~1600)】

能島(村上)家臣。1600年「関ヶ原の役」の前哨戦では、阿波国蜂須賀家の猪山城を落城させた。伊予国三津浜に上陸して、加藤嘉明の松山城を攻撃したが、佃十成の計略により能島(村上)元吉らと共に討死した。

能島(村上)三郎右衛門尉【(15??~15??)】

能島(村上)家臣。1588年、羽柴秀吉が宣布した「海賊禁止令」に違反して、能島清右衛門が海賊行為を行った。羽柴秀吉は、この行為を詰問したため、能島(村上)三郎右衛門尉が弁明のため上洛した。

能島(村上)四兵衛【のしましろうえもん(15??~15??)】

能島(村上)家臣。80石を領した。1600年「関ヶ原の戦い」後、安宅船に武具などを積み、関船二艘、小早船三艘に、枝連衆(30人余)を乗せにて出奔した。加藤嘉明に仕官し、1,000石を領した。枝連衆も優遇されたが、松前城での酒盛りの帰りに船が転覆し家臣らと共に溺死した。

------------------------------------------------------

【は】

垣生盛周【はぶもりちか(15??~15??)】

河野家臣。官途は加賀守。1570年、平岡房実とともに、河野家の意を伝える書状に署名した。

垣生盛国【はぶもりくに(15??~15??)】

垣生盛周の男。河野通直の安芸国移住に従った。

東多田(宇都宮)宣綱【ひがしただのぶつな(15??~15??)】

宇和郡東多田下木城主。官途は石見守。別名東多田殿。西園寺十五将のひとり。西園寺家の居城黒瀬城が長宗我部家に落された頃に降伏し、羽柴秀吉の四国討伐で長宗我部家が降伏すると下城を命ぜられた。

久枝又左衛門【ひさえまたざえもん(15??~15??)】

西園寺家臣。1560年、長宗我部元親から書状を受ける。長宗我部元親はその書状のなかで、長宗我部家が一条家の伊予侵攻に加勢するのは義理によるものと説明した。

久枝宣盛【ひさまつのぶもり(15??~15??)】

和気郡花見山城主。官途は肥前守。

久枝宣盛家臣団【ひさまつのぶもりけかしんだん】

東但馬入道、久保、西畑、小渕、前川、北川和助。   

平岡房実【ひらおかふさざね(15??~15??)】

越智郡荏原城主。河野家臣。官途は大和守。大友宗麟、三好長慶、長曽我部元親らの外敵を迎え、内にあって宗家と予州家の対立など内憂外患で河野家も滅亡の淵に瀕したが、最後まで忠節を曲げなかった勇将。1554年、和田通興が河野家を軽じたため、久米岩伽羅城主和田通興を討伐した。恩賞として和田通興の所領の三分の一、さらに吉山城を領する。久万大除城主大野利直、豊後国大友宗麟、大洲地蔵獄城主宇都宮豊綱などと争らそった。

平岡通資【ひらおかみちすけ(15??~15??)】

平岡房実の男。官途は宮内大輔。平岡房実とともに奉行人であろう。二人で署名している文書が存在する。平岡房実の長男であるが、他家に養子に入り、弟である通倚が嫡流を継承した。のちに平岡家に復姓した。

平岡通房(通倚)【ひらおかみちふさ(15??~15??)】 

平岡房実の次男。官途は遠江守。1585年「四国討伐(天正の陣)」の時、湯築城二の丸を守るが、小早川隆景に攻められ落城した。

平岡通資【ひらおかみちつけ(15??~15??)】 

平岡通房(通倚)の男。三好家撃退に功があった。

平岡直房【ひらおかなおふさ(15??~15??)】

平岡通房(通倚)の次男。1600年「関ヶ原の役」で他の河野家旧臣と共に蜂起。松山城主加藤嘉明の留守を突いて、河野家旧臣らは毛利輝元の援助を得て松山城に迫ったが敗退した。

平岡通房家臣団【ひらおかみちふさけかしんだん】

平岡上野介、水口大炊介、錦織勘解由左衛門尉、武畠修理之允、白潟弥左衛門尉、大熊刑部之允。                    

兵頭越前守【ひょうどうえちぜんのかみ(15??~15??)】 

飯野森城主。1572年、大友宗麟家臣、鶴原掃部、佐伯紀伊介が攻め寄せるが、磯崎城主矢野家盛の兵と共に籠城して大友勢の舟を奪うなどして撃退した。1575年、長宗我部元親勢によって水の手を絶たれ落城した。

兵頭家臣団【ひょうどうけかしんだん】

兵頭右京(15??~15??)、兵頭修理之進(15??~15??)。 

福田氏即【ふくだうじのり(15??~15??)】

新居郡中萩上原高尾城主。官途は安芸守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では小早川隆景と戦い討死した。

藤田孫次郎【ふじたまごじろう(15??~15??)】

郷山岡崎城主。石川家臣。3,000石を領した。

藤田芳雄【ふじたよしかつ(15??~1585)】

藤田孫次郎の男。官途は山城守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では岡崎城の落城後、金子元宅ととに「野々市の戦い」で討死した。

藤田俊忠【ふじたとしただ(15??~15??)】 

原田芳雄の男。官途は大隅守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では郷山岡崎城に籠城、小早川景隆勢と戦うが落城した。備後国三原城主大崎玄蕃のもとへ落ち延び、帰農した。

二神豊前守【ふたがみぶぜん(15??~15??)】

伊予風早郡鹿島城代。河野家臣。1581年、村上通総と共に高仙山城主池原通成を攻めるが、戦に敗れて来島に落延びた。

法華津範延【ほけつあきのぶ(15??~15??)】

宇和郡法華津本城主。官途は播磨守。西園寺十五将の一人。法華津殿。1560年、大友宗麟に攻められる。籠城が長期化したため、西園寺家の仲介により開城。1566年、豊後国に攻め込み、宇和郡の諸将から出された人質を取り戻す。

法華津前延【ほけつあきのぶ(15??~15??)】

法華津範延の男。通称弥八郎。1560年、大友宗麟の西園寺侵攻に際しては頑強に抵抗した。1570年、侵攻では海賊衆を率いて大友家の海賊衆を攻め立てた。所領が海に面していたため、法華津家は西園寺家中随一の水軍勢力を持っていた。1585年「四国討伐(天正の陣)」後、伊予国に入国した小早川隆景により法華津城在城が許された。1588年、宇和郡に入部した戸田勝隆からは下城を命ぜられ法華津家は没落した。

法華津則延【ほけつのりのぶ(15??~1575)】

 西園寺家臣。官途は播磨守。一条兼定の土佐復帰戦に参陣するが、長宗我部元親勢と戦って討死した。

------------------------------------------------------

【ま】

正岡経貞【まさおかつねさだ(15??~15??)】

越智郡鷹取山城主。河野家臣。1527年、正岡経貞は兵備を整え、謀叛を企てた。河野通直は重見通種、来島(村上)通康を派遣して討伐に当らせた。正岡経貞は抵抗できず降伏した。のちに赦免されて再び河野家に仕えた。

正岡経長【まさおかつねなが(15??~15??)】

正岡経貞の男。官途は紀伊守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けが、天険の要害で守られた鷹取山城だけは頑なに、抵抗しつづけた。攻めあぐんだ小早川隆景は、正岡経長に和議を申し込む。蓄えていた兵糧も底を尽きかけていたので小早川側の和議申し出に応じたがそのれは小早川隆景の計略だった。難攻不落を誇った鷹取城も小早川隆景の計略により落城、正岡経長は、室と幼い子を枝連衆の清水通俊に託し自刃した。

正岡経長家臣団【まさおかつねながけかしんだん】      

正岡備中守、中川三郎右衛門尉、得重石見守、清水通俊、向井筑前守、門真三郎兵衛尉、正岡左衛門尉、北美濃守、正岡九郎三良、中川籐左衛門尉、中西佐衛門佐尉、正岡弥九郎、門真六郎兵衛尉、長野越中守。    

松木安俊【まつきやすとし(15??~15??)】 

生子山城主。石川家臣。官途は修理亮。

松木安村【まつきやすむら(15??~1585)】

松木安俊の男。官途は三河守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景に攻められ金子元宅と共に高尾城に籠もるも落城討死した。生子山城には、鈴木四郎大夫重保らわずかの部下しか残されておらず、この城も小早川隆景に攻められ落とされ廃城となった。

町田経堯【まちだつねあき(15??~15??)】

河野家臣。南通忠と同時期に活躍していた河野家の奉行人。南通忠と連署した書状の他、久枝通倫、枝松盛和らとの連署も見られる。 

松末通為【まつすけみちため(15??~15??)】

温泉郡桑原城主。官途は美濃守。家臣井出若狭守は九ヶ年の歳月をかけて湯山から三町まで約四kmの市乃井出水路を建設した。

松末通為家臣団【まつすけみちためけかしんだん】

得居右馬之介、井手若狭守。

松本左京佐【まつもとさきょうのすけ(15??~15??)】 

弘見城主。官途は和泉守。

真鍋孝綱【まなべたかつな(15??~15??)】

新居郡中村真鍋城主。官途は近江守。

真鍋家綱【まなべいえつな(15??~1585)】

真鍋孝綱の男。官途は佐渡守。真鍋六人衆の一人。室は三好実休の娘。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高尾城の戦い」で討死した。

真鍋兼孝【まなべかねたか(15??~1585)】

真鍋孝綱の次男。官途は右京亮。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高尾城の戦い」で討死した真鍋六人衆の一人。真鍋兼孝の婿養子、真鍋助右衛門兼昌とその子真鍋宗兵衛兼之は落城後土佐国へ落ち延びた。

真鍋行綱【まなべゆきつな(15??~1585)】

真鍋孝綱の三男。官途は勘解由。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高尾城の戦い」で討死した真鍋六人衆の一人。

真鍋政綱【まなべまさつな(15??~1585)】

真鍋行綱の男。官途は越後守。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高尾城の戦い」で討死した。

真鍋亮綱【まなべ(15??~1585)】

真鍋政綱の男。通称孫九郎。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高尾城の戦い」で討死した。

真鍋安政【まなべやすまさ(15??~1585)】

真鍋家綱の男。官途は佐渡守。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高尾城の戦い」で討死した。

真鍋兼綱【まなべかねつな(15??~15??)】

真鍋家綱の次男。通称孫太郎。真鍋六人衆の一人。真鍋流弓術の祖で弓の名人で五町隔ても飛ぶ鳥又は提針を射落す腕前であった。

真鍋吉綱【まなべよしつな(15??~15??)】

真鍋家綱の三男。官途は長門守。

真鍋六人衆【まなべろくにんしゅう】

真鍋家綱(六人衆筆頭)、真鍋兼綱(弓の名手)、真鍋行綱、真鍋兼孝、真鍋政綱、真鍋亮綱、真鍋兼信。

壬生川通国【みぶかわみちくに(15??~1575)】 

新居郡鷺ノ森城主。1550年以降、金子山城主金子元宅と剣山城主黒川通堯の攻撃を数度にわたり撃退した。1571年、金子元宅と黒川通堯連合軍の攻撃により落城寸前となり、壬生川通国は毛利元就と来島城主来島家に救援を求めた。 毛利家から援軍として派遣された高橋右京進と共に撃退し落城は免れた。1572年、阿波の三好家が伊予国に侵入を始めると、河野通直は鷺ノ森城に入た。鷺ノ森城城主の壬生川通国は剣山城主の黒川道博と共に西条氷見の高尾城を攻め、高尾城主石川越前守は討死した。河野家は、三好勢と戦い三好勢を敗走させた。1575年、金子元宅と黒川通博が再び攻撃して来たさいに壬生川通国は討死した。

壬生川(桑原)泰国【みぶかわやすくに(15??~15??)】

壬生川通国の男。別名桑原泰国。河野家の十八将のひとり。1585年「四国討伐(天正の陣)」で小早川隆景に攻められ討死した。           

桑原泰国家臣団【みぶかわやすくにけかしんだん】

福角内蔵之助、桑村左京之允。

南通方【みなみみちかた(15??~1582)】

風早郡横山城主。官途は美作守。河野家十八将の一人。1575年「石川通清征伐」に参陣した。「士は戦場に臨めば死を軽んずるをもって栄となり、生を重んずるをもって恥となす。汝ら慎んでここを去ることなかれ」と味方を鼓舞し、自らも敵兵数名を斬ったと云う。1582年、ら粟井川の利権を争ってきた粟上左衛門尉にに謀殺された。

南通具【みなみみちつぐ(1570~15??)】

南通方の男。通称彦四郎。1582年、粟上左衛門尉に父南通方が謀殺される。南通具は100余名を率いて宅並城を攻め、栗上衛門尉を自刃させた。1585年「四国討伐(天正の陣)」で、小早川隆景に攻められ横山城は落城した。

南通忠【みなみみちただ(15??~15??)】

河野家枝連衆。町田経堯との連名署名が多いが単独で奉者となり文書を発給しているのも確認される。

南通方家臣団【みなみみちかたけかしんだん】           

国弘源左衛門尉、末房惣五郎、宮脇新左衛門尉、出羽出雲守、吉原新右衛門尉、吉原{住}式部少輔、武任備前守、武任修理之進、井門九郎左衛門尉、井門大和守、行元亦四郎、苞木将監、大森孫次郎、鴨池新左衛門、野元式部之允、富岡相模房。             

宮内休意【みやうちきゅうい(15??~15??)】

河野家臣。1600年「関ヶ原の役」では、能島(村上)武吉から毛利家に加勢するよう求められた。

三瀬若山【みつせわかやま(15??~15??)】

若山城主。

三瀬左衛門【みつせさえもん(15??~15??)】

三瀬若山の男。

三瀬六兵衛【みつせろくべい(15??~15??)】

三瀬左衛門の男。

三善三河守【みよしまかわのかみ(15??~15??)】

西園寺家臣。

三善春純【みよしはるずみ(15??~15??)】

三瓶安土城主。

三善春義【みよしはるよし(15??~1579)】 

三善春純の男。1579年「岡本城の戦い」で討死した。

三善正親【みよしまさちか(15??~1573)】 

津富里城主。通称藤蔵人。1573年、大友宗麟に居城を攻められ討死した。

村上吉継【むらかみよしつぐ(15??~15??)】

河野家臣。官途は河内守。村上家の枝連衆。河野家奉行人の地位にあった。

妻鳥助兵衛門【めんどりすけのひょうえもん(15??~15??)】 

宇摩郡川之江城主。妻鳥友春が長宗我部家に降った際、人質として土佐国におもむいた。

妻鳥友春【めんどりともはる(15??~1585)】

妻鳥助兵衛門の男。官途は釆女正。鉄砲の名手「…伊予の国の住人、目高(妻鳥)采女亮(正)友春と云う武者、翔鳥をも射る鉄砲の上手なれば…」とある。長宗我部元親に内通し、河野家に反旗を翻す。その後、河野家の直命を受けた河上安勝が手薄だった川之江城を攻め落城、枝連衆の約50名が殺される。1585年、長宗我部元親勢が川之江城を攻め河上安勝をうち破り、妻鳥友春が帰城する。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、吉川元長勢に攻められ川之江城は落城した。

------------------------------------------------------

【や】

矢野家成【やのいえなり(15??~15??)】  

摂津(南方)家臣。摂津(南方)実親の娘婿。

矢野家業【やのいえなり(15??~15??)】  

摂津(南方)親家の男。官途は民部少輔。

矢野家森【やのいえもり(15??~15??)】  

摂津(南方)家臣。城之森城主。通称主馬。

由並通資【ゆなみみちすけ(15??~15??)】

由並城主。河野家臣。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて開城した。 

要害伊賀守【ようがいいがのかみ(15??~15??)】 

新居郡泉川要害城主。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて落城した。

横尾国信【よこおくにのぶ(15??~1585)】

宇摩郡横尾城主。官途は山城守。1583年、渋柿城主の薦田義清、畑野城主薦田成道とともに長宗我部元親に降る。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて落城した。

和気郡豪族衆【わきぐんごうぞくしゅう】

光宗彦左衛門、安田八郎右衛門尉、光宗三郎兵衛尉、森弥六左衛門尉、森六郎二左衛門尉、伊代左衛門尉、光宗平七郎、池内孫右イ左衛門尉、遠藤小太郎、高尾又四郎、志津川彦六二郎、福角七郎兵衛尉、松岡五郎、田所源内、矢野久兵衛尉、中西左京之允、高橋新兵衛。

和田通興【わだみちおき(15??~1554)】

久米郡岩伽羅(いわがら)城主。官途は三河守。1554年「武威を募り、屋形(河野家)を蔑如し、恣に兵権を震った」ため、平岡房実の鎮定軍の攻撃を受けて落城、山之内まで逃れ自刃した。

和田吉盛【わだよしもり(15??~1554)】

和田通興の男。1554年、平岡房実に攻撃された和田通興は嫡男吉山城主和田吉盛と共に重信川で激突したが、平岡房実の策にかかり退路を絶たれ背後から攻められ父和田通興は山之内村で自刃する。1559年、和田吉盛の吉山城主は平岡勢の攻撃を受けたが撃退した。しかし不治の病にかかり吉山城で切腹した。和田吉盛は死に臨んで「われを神に祀れば疫病に病み苦しむ者を救わん」と遺言した。

和田通勝【わだみちかつ(15??~15??)】 

和田通興の枝連衆。1554年、和田通興は河野家臣平岡房実に討たれる。それまでの和田一族の忠勤から、取り潰しを免れ、和田通勝が岩伽羅城主に任ぜられた。

和田通繁【わだみちしげ(15??~15??)】 

和田通勝の男。1585年「四国討伐(天正の陣)」で小早川景隆に攻められ落城した。

和田家臣団【わだみちかつかしんだん】                

渡部丹後守、大西杢之亟、日吉六郎左衛門尉、有岡左京進、堀池右馬太夫、木原源左衛門、中太郎次郎、和田兵庫介、中村兵衛次郎、堀池九郎三郎。 

------------------------------------------------------

【資料Ⅰ】

伊予国14郡/420,000石。

宇摩郡:川之江城。
新居郡:高峠城。
周布郡:剣山城。
桑村郡:鷺ノ森城。
越智郡:能島城、鷹取城。
野間郡:来島城。
風早郡:恵良城、近見山城。
和気郡:塩森城、花見山城。
温泉郡:湯築城、忽那城。
久米郡:土居城、岩伽羅城。
浮穴郡:大熊城、小手ヶ滝城。
伊予郡:松山城。
喜多郡:大洲城。
宇和郡:黒瀬城、宇和島(丸串)城。

------------------------------------------------------

【資料Ⅱ】

河野家十八将【こうのけじゅうはっしょう】

越智郡能島城主:能島(村上)隆勝、備後国因島城主:因島(村上)吉光、野間郡来島城主:来島(村上)通康、温泉郡忽那城主:忽那通乗、風早郡恵良城主:得居通久、和気郡塩森城主:大内信泰、浮穴郡棚居城主:平岡通倚、風早郡横山城主:南通師、久米郡土居城主:土居建通、温泉郡松末城主:松末通為、和気郡花見山城:久枝宣盛、桑村郡鷺森城主:桑原泰国、浮穴郡大熊城主:戒能通森、上島甘埼城主:今岡民部大輔、越智郡霊山城主:中川通任、越智郡鷹取城主:正岡経貞、周布郡剣山城主:黒川通博、久米郡岩伽羅城:和田通勝、風早郡近見山城主:重見通種、越智郡荏原城主:平岡房実、浮穴郡小手ヶ滝城主:戒能通運。

西園寺家十五将【さいおんじじゅうごしょう】

黒瀬城主:西園寺公広、丸串城主:西園寺宣久、常盤城主:観修寺基栓 、天ヶ森城主:津島弥三郎通顕、法華津本城主:法華津弥八郎前延、宇和郡金山城主:今城左衛門尉能定、大森城主:土居清良、高森城主:河野通賢、一之森城主:竹林院実親 、河後森城主:河原渕教忠、三滝城主:北之川通安、宇和郡龍ヶ森城主:魚成親能、白木城主:宇都宮乗綱、萩之森城主:宇都宮房綱 、元城主:南方摂津守親安。

真鍋六人衆【まなべろくにんしゅう】

真鍋家綱(六人衆筆頭)、真鍋兼綱(弓の名手)、真鍋行綱、真鍋兼孝、真鍋政綱、真鍋亮綱、真鍋兼信。

------------------------------------------------------

【資料Ⅲ】

伊予国【いよのくに】

四国の北西に位置する南海道の国。東は讃岐国、阿波国、南は土佐国と境を接し、北は瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の島々を挟んで山陽道の備後国、安芸国、周防国と望み、西は豊後水道を隔てて九州の豊後国と向かい合う。国の中央部を四国山地が東西に走っているために国土は山がちだが、北の新居平野から西の松山平野にかけて海岸線には平地部が続く。瀬戸内海から豊後水道に続く長い海岸線は、早くから海上交通の発達を促し、それに伴って海上交通から段別銭を徴収する海賊衆が発達した。特に能島、来島、因島に拠る村上海賊衆は、瀬戸内海一帯を活動の場として関所を設けた。

------------------------------------------------------

戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※大友宗麟は大友義鎮、豊臣秀吉は羽柴秀吉に統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

------------------------------------------------------

0 件のコメント: