2011年6月19日日曜日

戦国羽後国人名辞典

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【あ】

相場又四郎【あいばまたしろう(15??~1600)】

矢島満安家臣。1600年、「赤館の戦い」では、安部太郎とともに鶴姫を擁して兵を挙げたが、仁賀保挙誠勢の攻撃を受け討死した。

赤石与兵衛【あかいしょへい(15??~15??)】

仁賀保挙誠家臣。由利郡赤石館主。1587年、仁賀保挙誠と矢島満安が和議を結ぶ際、使者として矢島城に赴いた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤尾津家保【あかおついえやす(1507~1567)】

由利郡赤尾津館主。通称左衛門尉。由利郡十二頭衆。赤尾津は天然の良湊で帆段銭だけで年間4,500石以上の収入があり、石高以上の実力を持っていた。1537年、仙北郡大曲城主前田道信が由利郡に侵攻した際、これを迎え撃ち前田道信を討取る戦功を挙げた。飛嶋城を攻略し、赤尾津長保を郡代に任じた。1567年、前田利宗との戦いで討死した。

赤尾津光政【あかおつみつまさ (15??~1597)】

赤尾津家保の男。官途は治部少輔。1582年、武藤義氏勢が由利郡に侵攻して滝沢館主滝沢政家と打越館主打越光重を降した。その後、軍勢を二つに分け、一隊を折渡峠方面に、もう一隊を荒沢に侵攻させた。赤尾津光政は、安東愛季に援軍を要請して荒沢で武藤義氏を迎撃した。「由利荒沢の戦い」で安東愛季からの援軍により武藤義氏勢は壊滅した。

赤尾津道俊【あかおつみちとし(15??~1600)】

赤尾津光政の男。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に参陣して由利衆筆頭として4,500石の所領を安堵された。由利衆は個々の所領は小さく、軍役を負担することができなかったため、由利衆は五人衆(赤尾津道俊4,500石、仁賀保挙誠4,000石、岩屋朝盛3,000石、滝沢政忠2,800石、打越光重1,600石)のもとに再編された。1591年、「九戸政実の乱」では、継嗣の赤尾津長保が参陣して櫛引河内守を討取る戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、大谷吉継勢に属して参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光勢に属して参陣した。役後、最上義光に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤尾津長保【あかおつながやす(15??~15??)】

赤尾津道俊の男。1591年、「九戸政実の乱」では、父赤尾津道俊とともに参陣して櫛引河内守を討取る戦功を挙げた。

赤石氏実【あかしうじざね(1533~15??)】

浅利則頼家臣。通称左近。1595年、浅利則頼が安東実季との軍役金未納問題で解決求める書状に松尾久成とともに連署した。

浅利則頼【あさりのりより(1504~1550)】

比内郡独鈷城主。浅利朝頼の男。通称与市。智勇文武音曲に優れた人物で琵琶を愛した。南部晴政、安東堯季の二大勢力に挟まれながらも、独鈷城、笹館城、花岡城、扇田長岡城、八木橋城の支城網を整備して所領を拡大した。1527年、鳳凰山玉林寺の建立や大葛金山を開発など内政にも力を尽くした。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅利定頼【あさりさだより(15??~1575)】 

浅利朝頼の次男。比内郡花岡城主。1575年、「山田の戦い」では、浅利勝頼に従って参陣したが安東愛季勢と戦い討死した。

浅利頼重【あさりよりしげ(15??~15??)】

浅利朝頼の三男。比内郡笹館城主。通称勘兵衛。浅利頼重が継嗣をもうけなかったため、浅利勝頼の次男浅利頼広が笹館浅利家の家督を相続した。

浅利則祐【あさりのりすけ(15??~1562)】

浅利則頼の男。父浅利則頼は、安東愛季、南部晴政勢と領地を巡って抗争を繰り返した。1562年、「浅利家騒動」では、弟の浅利勝頼と浅利家の家督を巡って争った。「長岡城の戦い」で安東愛季と結んだ浅利勝頼勢の攻撃を受け討死した。

浅利勝頼【あさりかつより(15??~1582)】

浅利則頼の次男。1562年、「浅利家騒動」では、安東愛季と結んで、兄浅利則祐を討取り、浅利家の家督を相続した。大館城を築き、北の守りとして城下に独鈷衆を配置した。1582年、安東愛季と和議を結んだが、安東愛季に内通した家臣池内権助に謀殺された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅利頼平【あさりよりひら(15??~1598)】

浅利勝頼の男。1582年、父浅利勝頼が池内権助により謀殺されると、大浦為信のもとに落延びた。1589年、大浦為信の支援を受けて比内郡に侵攻し十狐城、長岡城を奪還して再び比内郡を領した。1590年、「奥州仕置」で比内郡は安東実季領に編入され、寄騎衆として安東実季勢に属した。1595年、羽柴秀吉の蔵入地の物成を巡って安東実季と争いに発展した。1597年、裁定を受けるため上洛したが大坂城内において謀殺された。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城を領すると、旧浅利家臣団が浅利伝兵衛を中心に蜂起したが鎮圧された。

浅利頼広【あさりよりひろ(15??~1598)】

浅利勝頼の次男(浅利頼重の養子)。通称権十郎。1582年、「餌釣館の戦い」父浅利勝頼を謀殺した池内権助を討取った。1598年、「笹館城の戦い」で安東実季勢の攻撃を受け討死した。

浅利重氏【あさりしげうじ(15??~15??)】

浅利頼重の男。通称勘兵衛。1598年、浅利頼平が上洛すると、赤石氏実、松尾久成らとともに留守居役を務めた。

浅利政吉【あさりまさよし(1541~1613)】

門脇典膳の男。官途は兵庫助。通称長兵衛。別名浅利牛欄。室は浅利則頼の娘(松姫)。1551年、浅利則頼の娘を娶り、八木橋城500石を領した。1562年、浅利則祐が自刃すると、越前国敦賀で日本画を学び鷹絵工房を創り、敦賀城主蜂屋頼隆に仕えた。織田信高に鷹匠として仕え4,000石を領した。1582年、「本能寺の変」では、安土城の織田信長の妻子を蒲生賢秀、蒲生氏郷とともに日野城へ避難させた。1592年、蒲生氏郷の鷹匠頭として仕えた。1598年、浅利頼平が上洛中謀殺されると、浅利頼平の妻子を保護し、羽後国に連れ帰った。1602年、佐竹義宣が転封すると須田盛秀の推挙で鷹匠として給地を得た。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅利盛吉【あさりもりよし(15??~15??)】

浅利政吉の養子。通称長兵衛。別名高屋五左衛門。1614年、「大坂冬の陣」で戦功を挙げた。

浅利伝兵衛【あさりでんべい(15??~1602)】

浅利勝頼家臣。比内郡八木橋館主。官途は内膳。1595年、中野城主片山弥伝彦四郎、十二所城主浅利七兵衛、八木橋城主浅利伝兵衛らとともに安東実季勢に内応した。1602年、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封になると、浅利家の旧家臣団が浅利伝兵衛を中心に蜂起したが鎮圧された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

芦田拳実【あしだきよざね(15??~15??)】

仁賀保挙誠家臣。芦田家の家督を相続した。

安孫子喜兵治【あびこきへいじ(15??~15??)】

涌本脩季家臣。秋田郡坂本館主。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、涌本脩季に従って参陣した。参考文献:「北出羽物語」bybugyo。

姉崎隆資【あねざきたかすけ(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。雄勝郡小野城主。通称四郎左衛門。家老職を務めた。小野寺輝道が、日夜酒色に耽り、近崔の美女を集めて淫行をほしいままにし、諌言する者あれば、即座にその所領を没収していた。姉崎隆資がこれを諌めるためたが、小野寺輝道の刺客に襲われ、家臣の三春玄蕃とともに謀殺された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安孫子喜平次【あびこきへいじ(15??~15??)】

安東通季家臣。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、安東通季勢に属して安東実季勢と戦った。乱後、坂本村で帰農した。

安倍千寿丸【あべせんじゅまる(15??~15??)】

北秋田郡双六館主。1587年、「双六館の戦い」で涌本脩季の攻撃を受け自刃、内室は双六館の断崖から身を投げ自害した。

安倍基季【あべもとすえ(15??~15??)】

山本郡女川館主。男鹿半島一帯を治めた。1577年、密教寺院であった大龍寺を、台巌俊鏡を開山として曹洞宗寺院として改めた。1582年、「女川館の戦い」では、安東愛季勢の攻撃を受け滅亡した。

新田目内膳【あらためないざん(15??~1582)】

小野寺義道家臣。平鹿郡荒田目城主。1582年、「大沢山の戦い」で由利十二党と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鮎川小平太【あゆかわこへいた(15??~15??)】

由利郡鮎川館主。由利郡十二頭衆。

檜山安東尋季【あんどうよろすえ(15??~15??)】

秋田郡檜山城主。

檜山安東舜季【あんどうきよすえ(15??~1554)】

安東尋季の次男。通称安東太郎。室は湊安東堯季の娘。1550年、国情視察及び蠣崎季広の功をねぎらうために蝦夷地に渡った。父安東尋季の菩提を弔うため楞厳院を建立した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

檜山安東愛季【あんどうちかすえ(1539~1587)】

安東舜季の男。通称安東太郎。別名「北天の斗星」。室は砂越宗順の娘。側室は畠山清信の娘。1551年、湊安東堯季が継嗣をもうけぬまま病没すると、湊安東家の家督も相続して両安東家を一統した。1562年、長尾景虎や最上義光に使者を派遣した。南部晴政勢と鹿角郡を巡って抗争を繰り返した。1562年、「長岡城の戦い」では、浅利勝頼と結んで浅利則祐を討取った。1566年、「陸奥長牛城の戦い」では、城主一戸友義の抵抗により攻落すことができず撤退した。1567年、再び鹿角郡へ侵攻、谷内城、長牛城を攻略し南部晴政勢を鹿角郡から追い落とした。1568年、南部信直、九戸政実らの反撃を受け鹿角郡から撤退した。1578年、織田信長に使者を派遣した。1587年、唐松野において戸沢盛安と戦って敗退するなど苦境中で病没した。

檜山安東実季【あんどうさねすえ(1576~1659)】

安東愛季の次男。通称安東太郎。官途は左兵衛尉。室は細川昭元の娘。1587年、父安東愛季の病没により安東家の家督を相続したが、安東通季が、戸沢盛安勢の支援を受けて謀反を起こした。劣勢に立たされた安東実季は檜山城に五ヶ月余り籠城後、由利衆の支援を受けて反撃に転じ、安東高季の湊城を落としてこれを撃破した。由利郡を巡って小野寺義道と、比内地方をめぐっては南部信直と連年抗争した。1589年、「小田原の役」に参陣して、羽柴秀吉から湊城180,000石の所領を安堵された。1591年、「九戸政実の乱」に参陣した。1592年、「文禄の役」に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、病と称して中立を維持したため、石田三成勢と見なされた。1602年、常陸国宍戸城50,000石へ減封処分に処された。1614年、「大坂冬の役」に参陣した。1630年、苛斂誅求の罪に問われて伊勢国朝熊に蟄居を命ぜられた。歌道や茶道に長じた教養人でもあった。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

檜山安東英季【あんどうひですえ(1580~1635)】

安東愛季の次男。官途は玄蕃頭。父安東愛季が病没したため、兄安東実季の養子なり4,200石を領した。1594年、重臣連署の起請文にも署名した。1614年、「大坂冬の陣」にも参陣した。

檜山安東実泰【あんどうさねやす(15??~15??)】

安東愛季の三男。通称忠次郎。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」後、兄檜山安東実季が湊城に本拠を移転すると檜山城を守備した。1590年、南部信直の家臣北信愛が守っていた大館城を奪還した。1593年、津軽為信の支援で浅利頼平が大館城に復帰すると安東実泰は大館城から退去した。1598年、浅利頼平が病没して浅利家の勢力が弱まると、再び安東実泰が大館城代なった。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

湊安東堯季【あんどうたかす(15??~1551)】

安東宣季の男。通称二郎。別名安東定季。安東堯季は、惣領家の安東舜季と和議を結び、娘を安東舜季の室とした。1546年、本願寺証如とも書状を交わすなど、中央の権門と交流を深め領国の安定を図った。継嗣に恵まれず、弟湊安東友親の次男湊安東友季を養子とするが早世、次いで安東舜季の外孫安東春季を安東友季と称させ養子に迎え自らは出家するものの夭折したため再び還俗し政務を行った。1551年、安東堯季の没後、安東舜季三男で外孫の安東茂季が湊安東家の家督を相続した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

湊安東茂季【あんどうしげすえ(1540~1579)】

檜山安東舜季の三男(湊安東堯季の養子)。湊安東家の家督を相続したが、兄安東愛季の臣下として扱われた。1570年、「第二次湊の戦い」では、安東高季が戸沢盛安、豊島重村らと結んで謀反を起こすが安東愛季勢の支援を受け鎮圧した。この乱後に、安東愛季が秋田郡を支配した。

湊安東通季【あんどうみちすえ(1564~16??)】

安東茂季の男。通称九郎。別名湊高季。1579年、父安東茂季の病没により豊島城主となった。1587年、安東愛季が病没すると、従兄弟安東実季が宗家を相続したことに不満を持ち湊安東家の復興を目指して謀反を企てた。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、安東高季、戸沢家盛安、小野寺輝道らの支援を受けて安東実季勢と戦った。由利党の支援を受けた安東実季は反撃に転じて土崎湊城は陥落し、安東道季は南部信直を頼って落延びた。1590年、羽柴秀吉に湊安東家の再興を願いでたが失敗に終わった。1603年、南部利信に仕えた。

湊安東季隆【あんどうすえたか(15??~15??)】

安東道季の男。別名湊市郎右衛門。

湊安東氏季【あんどううじすえ(1511~1603)】

湊安東舜季家臣。官途は摂津守。安東尋季の弟。

湊安東種季【あんどうたねすえ(1565~1635)】

安東氏季の男。官途は左馬允。1570年、安東愛季の側近として活躍した。1600年、「関ヶ原の役」後、安東実季の常陸国転封には従わず、佐竹義宣に仕えた。

石塚家次【いいづかいえつぐ(15??~15??)】

豊巻季林家臣。河辺郡椿川館主。官途は美濃守。

五十目秀盛【いがらめひでもり(15??~15??)】

安東実季家臣。秋田郡五城目城主。官途は内記。通称四郎右衛門。別名藤原秀兼。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、安東実季に従って東通季勢と戦った。乱後、砂沢城856石を領した。1588年、市を馬場目から砂沢城麓に転居させた。

池内権助【いけうちごんすけ(15??~1582)】

浅利則頼家臣。比内郡餌釣館主。1582年、安東愛季に内応して、杉沢喜助とともに浅利勝頼を謀殺したが、浅利頼広に南部門野で討取られた。

石沢孫四郎【いしざわまごしろう(15??~16??)】

由利郡石沢館主。官途は左衛門。由利郡十二頭衆で石沢館398石を領した。1582年、「大沢山城の戦い」で武藤義氏勢の由利郡侵攻を阻止した由利十二衆は、これを支援した安東愛季と結び、小野寺輝道と対立した。小野寺輝道のもとに人質として送られていた石沢孫四郎の母は後顧の憂いを絶つため自害した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して参陣した。

泉玄蕃【いずみげんば(15??~15??)】

安東愛季家臣。秋田郡泉館主。別名「源斎」。1582年、「大沢山城の戦い」では、安東愛季の援軍として由利十二衆とともに武藤義氏勢と戦った。1587年、「唐松野の戦い」では、戸沢盛安勢と戦ったが手勢50人余が討取られ、泉玄蕃も瀕死の重傷を負った。1588年、「峰ノ山の戦い」に参陣して戦功を挙げた。

一部勝景【いちぶかつかげ(1516~1588)】

湊安東通季家臣。秋田郡舞鶴館主。官途は式部少輔。太平郷を惣領家の永井広治とともに二分して領有した。1582年、「大沢山城の戦い」で安東愛季の援軍として由利十二衆とともに武藤義氏勢と戦い戦功を挙げた。1587年、安東愛季の病没後、安東道季勢に属した。1588年、「船越水道の戦い」で永井広治とともに安東実季勢と戦ったが討死した。

一部景家【いちぶかげいえ(15??~16??)】

一部勝景の男。1588年、「船越水道の戦い」で父一部勝景が討死すると、中津川駿河守に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、安東実季の転封に従わず角館城に入封した佐竹義宣の家臣梅津政景に仕えた。

一部景国【いちぶかげくに(15??~16??)】

一部勝景の次男。1596年、安東実季に仕え100石を領した。

岩屋右兵衛【いわやうえもの(15??~15??)】

由利郡岩屋館主。由利郡十二頭衆。

岩屋朝盛【いわやとももり(15??~1615)】

岩屋右兵衛の男。官途は能登守。剛勇の将。「大曲城の戦い」、「大沢山の戦い」、「由利荒沢の戦い」、「唐松野の戦い」などで数々の戦功を挙げた。1583年、武藤義氏が自刃すると、東禅寺筑前守と結んだ。1589年、「小田原の役」に参陣して羽柴秀吉から3,000石の所領を安堵を受けた。1600年、「関ヶ原の役」では、他の由利十二衆とともに最上義光勢に属して参陣して長尾景勝勢と戦った。石田三成勢の流言により戦場を離脱したため、役後改易処分を受けた。

岩屋朝繁【いわやともしげ(15??~1646)】

岩屋朝盛の男。官途は能登守。通称右兵衛尉。別名岩屋光繁。1600年、「関ヶ原の役」では、父岩屋朝盛とともに最上義光勢に属して長尾景勝勢と戦ったが、戦場を離脱したため、役後改易処分に処された。後に岩屋館に復帰して最上義光に従った。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、所領を失い常陸国宍戸城主安東実季に仕えた。

植田与九郎【うえだよくろう(15??~1595)】

小野寺輝通家臣。平鹿郡植田城主。別名大石定景。1586年、「有屋峠の戦い」では、第八陣を率いて最上義光勢と戦った。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉のもとに参陣して1,250石の所領を安堵された。1595年、「大島原の戦い」で最上義光勢と戦い討死した。

打越光重【うていちみつしげ(1561~1591)】

由利郡打越館。官途は宮内少輔。由利郡十二頭衆。最上義光に属して由利郡打越城を領した。1592年、「文禄の役」に参陣して肥前国名護屋城で病没した。

打越光隆【うていちみつたか(1581~16??)】

打越光重の男。官途は飛騨守。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光勢に属して参陣した。この戦功により常陸国新宮館2,000石に転封した。1615年、「大坂夏の陣」に参陣して戦功を挙げ、旧矢島領3,000石を領して交代寄合馬廻衆となった。

大高光忠【おおたかみつただ(15??~15??)】

安東愛季家臣。官途は筑前守。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、赤尾津道俊を内応させる功を上げた。樋口兼続、武藤義氏、土佐林禅棟、浅利政吉らの取次役を務めるなど安東愛季を外交面から支えた。

大高胡斎【おおたかこさい(15??~15??)】

大高光忠の男。官途は筑前守。

大高安時【おおたかやすとき(15??~15??)】

安東愛季家臣。山本郡能代城代。通称伝右衛門。安東愛季の直轄地の代官職を務めた400石を領した。

大浦智忠【おおうらともただ(15??~16??)】

安東愛季家臣。通称伝内。1601年、直轄地の代官職を務め700石を領した。敦賀屋敷で物資売却の奉行職を務めた。

太田秀頼【おおたひでより(15??~1580)】

戸沢盛安家臣。太田城主。1580年、「太田城の戦い」で戸沢盛安勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「くらのすけ屋敷」by蔵屑斎。

大築地稙通【おおついぢたねみち(15??~15??)】

小野寺雅道家臣。平鹿郡沼館城主。

大築地秀通【おおついぢひでみち(15??~16??)】

小野寺稙道の男(大築地稙通の養子)。通称織部。1577年、小野寺稙通の意向を受け大築地家の家督を相続した。1586年、「有屋峠の戦い」では、横手城の留守居を務めた。1587年、「阿気野の戦い」で戸沢盛安勢3,000余りと戦ったが、先陣を務めた小清水蔵人が討死したため大敗した。1600年、「大森の戦い」では、最上義光勢と戦った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大築地又二郎【おおついぢひでみち(15??~16??)】

大築地秀通の男。1600年、「大森の戦い」では沼館城の留守居役を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大野関盛定【おおのせきもりさだ(15??~15??)】

山本郡大野関城主。官途は周防守。

大和田光盛【おおわだみつもり(1507~1549)】

小野寺雅道家臣。平鹿郡横手城主。官途は佐渡守。別名横手光盛。1546年、「平城の乱」では、金沢金乗坊とともに謀叛を起こし、小野寺惟道を討取る戦功を挙げた。1549年、「横手城の戦い」で小野寺輝道勢の反撃を受け討死した。

小立塙兵部【おだてばんべい(15??~15??)】

浅利則頼家臣。比内郡小館花館主。

女川景盛【おながわかげもり(15??~15??)】

安倍千寿丸家臣。1587年、「双六館の戦い」で涌本脩季の攻撃を受け安倍千寿丸は自刃した。

小野筑後守【おのちくごのかみ(15??~15??)】

安東愛季家臣。秋田郡雲崎城。雲崎城8,000石を領した。1570年、「第二次湊の戦い」で下刈右京、豊島村重らが謀反を起こして安東愛季に敗れると、下刈館を領した。参考文献:「北出羽物語」bybugyo。

小野寺稙道【おのでらたねみち(1487~1546)】

雄勝郡湯沢城主。小野寺泰道の男。官途は伊豆守。通称中宮亮。別名小野寺輝光。1517年、上洛して足利義稙に仕えたが父小野寺泰道が病没した。弟小野寺惟道を本領の代官職に任じた。小野寺惟道が小野寺家の家督を簒奪した。八柏道為の支援を受け横手城に戻り逆臣姉崎四郎左衛門を討取って家督を取り戻した。
ため、帰国して小野寺家の家督を相続した。湯沢城を拠点に雄勝郡内の各郷に一族を配置した。平鹿郡沼館城を拠点に仙北三郡、由利郡、南は村山郡鮭延城、北は雄物川下流の河辺郡まで影響力を拡大した。1546年、「平城の乱」で金乗坊、大和田光盛らの謀反により討死した。

小野寺惟道【おのでらこれみち(1496~1546)】

小野寺泰道の次男。官途は上野守。通称善次郎。別名小野寺輝宗。1517年、兄小野寺稙道が上洛すると、その留守居役を務めた。その後、姉崎四郎左衛門に擁立されて実権を握った。1521年、父小野寺景道が病没したため、小野寺家の家督を相続した。八柏道為が小野寺雅道を擁立して姉崎四郎左衛門を討取ると、小野寺雅道に小野寺家の家督を譲り渡して稲庭城に移った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

小野寺輝道【おのでらてるみち(1534~1597)】

小野寺稙道の次男。官途は遠江守。通称孫四郎。室は大宝寺義増の娘。別名小野寺景道。1546年、「平城の乱」で父小野寺稙道が金乗坊、大和田光盛らに討取られると、羽黒山に落延びた。鮭延貞綱の支援を受けて金乗坊と大和田光盛を討取り、小野寺惣領家の家督を相続した。1554年、織田信長に使者を派遣した。1583年、小野寺惣領家の家督を小野寺義道に譲り、五男小野寺陳道を連れて吉田城で隠居した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

小野寺光道【おのでらみつみち(15??~1590)】

小野寺輝道の男。平鹿郡浅舞城主。通称左京。1586年、「有屋峠の戦い」では、小野寺義道に従って第四陣を率いて参陣した。1590年、「山北検地」に反対する一揆勢の攻撃を受け自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

小野寺義道【おのでらよしみち(1566~1645)】

小野寺輝道の次男。官途は遠江守。通称孫十郎。室は大宝寺義氏の娘。1594年、家臣の八柏道為を謀殺するなど、家臣統制に苦慮した。安東愛季、戸沢盛安、最上義光らの攻撃を受け雄勝郡、平鹿郡で勢力を後退させた。1585年、最上義光が大宝寺義氏と戦うの侵攻を受けると、最上郡に侵攻した。1586年、最上義光、戸沢盛安らの反撃を受けた。1587年、戸沢盛安と和議を結び、仙北七人衆とともに安東実季勢と戦った。1589年、「小田原の役」で羽柴秀吉勢に参陣して45,000石の所領を安堵された。1590年、検地に反対して領内に一揆が発生した。一揆勢を鎮圧したが所領の内15,000石が代官領とされた。鮭延秀綱が最上義光に内応した。1591年、「九戸政実の乱」では、羽柴秀吉勢に属して参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。1596年、最上義光勢の侵攻を受けたが撃退した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢の長尾景勝を支援した。役後改易処分に処された。

小野寺康道【おのでらやすみち(15??~1541)】

小野寺輝道の三男。通称孫五郎。別名大森五郎。1586年、「有屋峠の戦い」に参陣した。1588年、「峰の山の戦い」に参陣した。1600年、「大森城の戦い」では、兄小野寺義道が石田三成勢の属したため、最上義光勢の攻撃を受けた。大森城を守り抜き和議を結んだ。その後小野寺義道が改易処分に処されると石見国津和野城に配流された。

小野寺陳道【おのでらのぶみち(15??~15??)】

小野寺輝道の五男。通称孫市。別名吉田金兵衛。1586年、父小野寺輝道が吉田城に隠居するとこれに同行した。1601年、小野寺義道が改易処分を受けると南部利直に仕えた。

小野寺道時【おのでらみちとき(15??~15??)】

雄勝郡稲庭城主。小野寺惟道の男。官途は上野守。1586年、「有屋峠の戦い」で最上義光勢と戦った。

小野寺道勝【おのでらみちかつ(15??~15??)】

小野寺道時の男。1596年、「稲庭城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受け落城した。

小野寺八之丞【おのでらはちのじょう(15??~1663)】

西馬音内茂道の三男。1600年、「関ヶ原の役」後、小野寺義道が改易処分に処されると、父西馬音内茂道とともに西馬音内城を退去した。土肥半左衛門を頼って最上義光に仕えるが、土肥半左衛門が罪を受け自刃すると、連座で改易処分に処された。

小山内長門守【おやまうちながとのかみ(15??~15??)】

山本郡布沢城主。通称久左衛門。1582年、「布沢城の戦い」で大高相模守勢の攻撃を受け落城した。

小山田小平太【おやまうちこへいた(15??~15??)】

戸沢兼盛家臣。北浦郡小山田城主。

小和田甲斐守【おわだかいのかみ(15??~16??)】

三浦盛永家臣。1599年、逆心を抱き、安東実季に三浦盛季の讒言を訴えた。1600年、三浦盛季が安東実季に謀殺されると、押切城主に任じられた。

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【か】

片山弥伝彦四郎【かたやまやでんじひこしろう(15??~15??)】

浅利勝頼家臣。比内郡中野館主。1595年、浅利伝兵衛、浅利七兵衛らとともに安東実季勢に内応した。乱後に安東実季に比内の所領を安堵状された。

潟保重実【かたほしげざね(15??~15??)】

由利郡潟保館主。由利郡十二頭衆。

潟保重光【かたほしげみつ(15??~1571)】

潟保重実の男。由利郡十二頭衆。

潟保重春【かたほしげはる(15??~1600)】

潟保重光の男。官途は紀伊守。1582年、「大沢山の戦い」では、小野寺輝道勢と戦い戦功を挙げた。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に参陣して所領の安堵を受けた。1595年、最上義光に仕えた。

潟保重直【かたほしげなお(15??~1671)】

潟保重春の男。

門脇政吉【かどわきまさよし(1529~1613)】

浅利則祐家臣。門脇典膳の男。官途は兵庫助。安東友季に嫁いでいた浅利則祐の妹が安東友季の病没後に、門脇政吉に再嫁したため、八木橋城を与えられ浅利家を称することを許された。1586年、浅利頼平は、門脇政吉と津軽為信の援助を得て大館城を攻撃した。

門屋宗盛【かどやむねもり(15??~1600)】

戸沢秀盛家臣。仙北郡小館主。1600年、「小田原の役」で戸沢盛安が羽柴秀吉のもとに参陣すると、謀反を企てた門屋盛重に謀殺された。

門屋盛重【かどやもりしげ(15??~16??)】

戸沢道盛の男(門屋宗盛の養子)。病弱のため戸沢家の家督を弟の戸沢盛安に譲り、門屋政盛の養子となった。1589年、「小田原の役」に戸沢盛安が参陣すると、謀反を起こし養父の門屋宗盛を謀殺した。

片山大膳【かたやまだいぜん(15??~15??)】

浅利則祐家臣。比内郡中野城主。通称弥伝彦四郎。浅利則祐と安東愛季の係争中、安東愛季に属して参陣した。浅利則祐を謀殺して安東愛季から比内郡内での所領安堵状を受けた。

金沢金乗坊【かなざわかねのり(15??~1555)】

平鹿郡金沢城主。金沢八幡別当職。六郷道行に属したが、小野寺雅道が勢力を拡大すると、小野寺雅道に従った。1552年、「湯沢城の戦い」で大和田光盛と結び小野寺雅道を自刃に追い込んだ。1555年、小野寺雅道の嫡男小野寺輝道は大和田光盛と金乗坊を攻撃、この戦闘で金沢城は落城し金沢金乗坊は討死した。

金沢道秀【かなざわみちひで(15??~15??)】

小野寺雅道の次男。通称孫十郎。小野寺輝道の意向により、金沢家の家督を相続して金沢城主となった。

金沢孝行【かなざわたかゆき(15??~15??)】

六郷道行の次男(金沢道秀の養子)。通称権太郎。300石を領した。

金沢勝治【かなざわかつはる(15??~15??)】

金沢孝行の男。

嘉成康清【かなりやすきよ(15??~1590)】

秋田郡米内沢城主。官途は常陸介。1591年、阿仁風張城を攻落した。

嘉成重盛【かなりしげもり(15??~1590)】

嘉成康清の男。官途は右馬頭。1565年、「鹿角の戦い」で戦功を挙げ阿仁郡代となった。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、南部信直勢の攻撃を撃退した。1590年、「大館城の戦い」で大館城の奪還には成功したが討死した。

嘉成季俊【かなりすえとし(15??~15??)】

秋田郡木戸石城主。官途は播磨守。安東実季との戦いに参陣して多くの戦功を挙げた。

金子安部太郎【かねこあべたろう(15??~1600)】

矢島満安家臣。1588年、矢島満安が西馬音内城で自刃すると、その娘の鶴姫を擁して矢島家の復興を図った。1600年、「関ヶ原の役」では、安部太郎らは赤館に籠城するも、仁賀保挙誠らの攻撃を受けた。攻め手は5,000余りに対し、籠城勢は40名余りの寡兵であった。鈴木与五郎、相場又四郎らが次々討死する中、安部太郎は鑓を持って単騎で大軍の突入して討死した。

神尾尾張守【かみおおわりのかみ(15??~15??)】

六郷政乗家臣。六郷衆。

神尾豊前守【かみおぶぜんのかみ(15??~15??)】

神尾尾張守の男。

神尾雅楽【かみおうらく(15??~15??)】

神尾豊前守の男。

川尻中務【かわじりなかつかさ(15??~15??)】

安東堯季家臣。河辺郡川尻城主。1570年、「第二次湊の戦い」では、安東愛季と対立する下刈右京、豊島重村らと結び、土崎湊城主安東茂季を包囲して監禁した。安東愛季は安東茂季を支援するため土崎湊城に援軍を差向けた。豊島重村、下刈右京、川尻中務らと安東愛季勢は推古山に陣を張り二年にも及ぶ長期戦を戦ったが、豊島重村勢は敗れ仁賀保挙誠を頼り落延びた。

菊地長右衛門【きくちちょうえもん(15??~15??)】

矢島満安家臣。1588年、矢島満安が仁賀保挙誠に敗れて滅亡すると、仁賀保挙誠に仕え八森城の城代を務めた。

北畠慶好【きたばたけのりよし(15??~15??)】

安東愛季家臣。浪岡北畠顕村の次男。通称右近。別名岩倉季慶。脇本城下の岩倉に屋敷をかまえた。大浦為信らの取次役を務め、外交交渉に活躍した。

履沢忠国【くつざわただくに(15??~15??)】

矢島満安家臣。通称左兵衛尉。由利十二衆。1558年、根井正重の仲介により矢島満安に仕えた。滝沢政家と結んで矢島満安を討取る企てたが、露見して矢島満安に謀殺された。

工藤信久【くどうのぶひさ(15??~16??)】

安東実季家臣。比内郡松木高館。1602年、安東実季が常陸国宍戸に転封になると、これに従った。

久米行長【くめゆきなが(15??~15??)】

仙北郡飯詰館城主。官途は阿波守。通称理佐衛門。別名飯詰三郎。仙北七人衆。1552年、小野寺輝道が横手城を奪還すべく、金沢城の金乗坊と戦った際、久米行長は金乗坊勢に属した。1586年、「有屋峠の戦い」では、久米行長の次男久米行固が小野寺輝道勢に属して最上義光勢と戦い戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、小野寺義道が改易処分に処されると、六郷政乗に従って本荘城に移った。

久米行固【くめゆきみつ(15??~15??)】

久米行長の次男。1586年、「有屋峠の戦い」で小野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。

黒川縫殿助【くろかわぬいのすけ(15??~15??)】

戸沢盛安家臣。仙北郡黒川館主。1587年、「阿気野の戦い」で最上義光勢と戦い戦功を挙げた。1587年、「唐松野の戦い」で戸沢盛安に従って参陣した。

黒川憲道【くろかわのりみち(15??~15??)】

黒川縫殿助の男。

黒沢道家【くろさわみちいえ(15??~15??)】

小野寺義道家臣。通称甚兵衛。1586年、「有屋峠の戦い」で最上義光勢と戦いで戦功を挙げた。1595年、小野寺義道の意向を受け八柏道為を謀殺した。1600年、「関ヶ原の役」後、小野寺義道が改易処分に処されると佐竹義宣に仕えた。

黒沢島之助【くろさわしまのすけ(15??~1585)】

小野寺義道家臣。仙北郡黒沢城主。1585年、「有屋峠の戦い」で最上義光勢と戦い討死した。

子吉重旨【こよししげむね(15??~1600)】

由利郡子吉館主。官途は兵部少輔。由利郡十二頭衆。1600年、「大森の戦い」では、仁賀保挙誠勢に属して最上義光勢と戦い討死した。

子吉重利【こよししげとし(15??~16??)】

子吉重旨の男。1600年、父子吉重旨が討死すると、西馬音内城に落延びた。後に佐竹義宣に仕えた。

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【さ】

八乙女讃岐守【さおとめさぬみのかみ(15??~1593)】

小野寺義道家臣。仙北郡八乙女城主。1586年、「有屋峠の戦い」の戦いの参陣した。1593年、討死した。

嵯峨尾張守【さがおわりのかみ(15??~15??)】

永井広治家臣。河辺郡館越館主。

嵯峨九郎五郎【さがむろうごろう(15??~15??)】

嵯峨尾張守家臣。鉄砲衆。

嵯峨金介【さがきんすけ(15??~15??)】

嵯峨尾張守家臣。鉄砲衆。

嵯峨源介【さがげんすけ(15??~15??)】

嵯峨尾張守家臣。鉄砲衆。

境田三右衛門【さかたさんざえもん(15??~15??)】

戸沢忠盛家臣。平鹿郡境田城主。

佐々木繁広【ささきしげひろ(15??~15??)】

岩屋朝盛家臣。

佐々木春道【ささきはるみち(15??~15??)】

小野寺義道家臣。通称嘉助。1586年、「有屋峠の戦い」で小野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。

佐藤大学【さとうだいがく(15??~15??)】

前田利信家臣。前田家の鎮護の神の八幡神社を守った。

佐藤信基【さとうのぶもと(15??~15??)】

鮭延秀綱家臣。最上郡野崎館主。官途は大和守。1581年、「鮭延城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受けると鮭延秀綱に従って弟佐藤信包、継嗣佐藤信稚、佐藤信秀、佐藤義次、履沢忠国とともに応戦したが敗れて館に火を放ち自刃した。

佐藤綱吉【さとうつなよし(15??~15??)】

岩城館主。官途は出羽守。1557年、「岩城館の戦い」で安東愛季勢の攻撃を受け落城した。

下刈右京【しもかりうきょう(15??~15??)】

安東堯季家臣。河辺郡下刈館主。1570年、「土崎湊城の戦い」では、

下刈右京は安東愛季と対立する川尻中務、豊島重村らと結び、土崎湊城主安東茂季を包囲して監禁した。安東愛季は安東茂季を支援するため土崎湊城に援軍を差向けた。豊島重村、下刈右京、川尻中務らと安東愛季勢は推古山に陣を張り二年にも及ぶ長期戦を戦ったが、豊島重村勢は敗れ仁賀保挙誠を頼り落延びた。安東愛季はこの戦いの勝利により両安東を完全に統一して、居城を湊城に移して磐石な体制を築くことになった。

下村宗長【しもむらむねなが(15??~1593)】

由利郡下村館主。通称蔵人。別名下村奥長。由利十二頭。1572年、「大琴の戦い」では、石沢信濃守と戦った。1582年、「大沢山の戦い」では、小野寺輝道勢と戦った。1589年、「小田原の役」に参陣して、羽柴秀吉から所領を安堵された。1591年、「九戸政実の乱」に参陣した。1593年、仁賀保挙誠らの攻撃を受け根城館で討死した。

下村長秀【しもむらながひで(1582~1653)】

下村宗長の男。通称蔵人。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封となり由利郡を領すると、佐竹義宣の家臣梅津憲忠に仕えた。

白岩盛重【しらいわもりしげ(15??~15??)】

戸沢盛安家臣。白岩城主。官途は兵庫頭。家老職を務めた。1586年、「沼館の戦い」に参陣した。1587年、「唐松の戦い」に参陣した。

白岩盛直【しらいわもりなお(15??~15??)】

白岩盛重の男。官途は兵庫頭。

白根昌吉【しらねまさよし(15??~1567)】

豊巻季林家臣。河辺郡筋脇館主。通称七郎。1567年、「白華城の戦い」で豊島重村勢の攻撃を受け討死した。

菅六郎【すがろくろう(15??~1593)】

小野寺義道家臣。館堀城主。1586年、「有屋峠の戦い」では、小野寺義道勢に属して最上義光勢と戦い戦功を挙げた。1593年、最上義光勢が小野寺義道領に侵攻すると、菅六郎は弟の菅勘四郎、菅勘助らとともにに一族郎党を率いて有屋峠で最上義光勢を迎え撃った。しかし形勢は不利でありやむなく撤退し、草井崎にて再度迎撃したが衆寡敵せず龍神河原で討死した。

 鈴木与五郎【すずきよごろう(15??~15??)】

矢島満安家臣。1600年、「赤館の戦い」では、安部太郎とともに鶴姫を擁して兵を挙げたが、仁賀保挙誠勢の攻撃を受け討死した。

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【た】

高岡但馬守【たかおかたじまかみ(15??~15??)】

豊島重村家臣。河辺郡高岡城主。1570年、「土崎湊城の戦い」で川尻中務が安東愛季と対立する下刈右京、豊島重村らと結び、土崎湊城主安東茂季を包囲した。安東愛季は安東茂季を支援するため土崎湊城に援軍を差向けた。安東愛季勢は推古山に陣を張り陣を張り二年にも及ぶ長期戦を戦った。豊島重村、下刈右京、川尻中務らは敗れ、仁賀保挙誠を頼り落延びた。

滝沢政安【たきざわまさいえ(15??~15??)】

由利郡滝沢城主。由利郡十二人衆。1560年、「釜ヶ渕の戦い」では、滝沢政安と結んでいた履沢左兵衛を矢島義満が討取ったため、仁賀保挙久のもとに落延びた。

滝沢政家【たきざわまさいえ(15??~1575)】

滝沢政安の男。官途は兵庫頭。1575年、「滝沢館の戦い」で矢島満安勢の攻撃を受け討死した。

滝沢貞春【たきざわさだはる(15??~15??)】

滝沢政安の次男。官途は刑部。

滝沢春永【たきざわはるなが(15??~1594)】

滝沢政安の三男。官途は刑部少輔。通称又五郎。1589年、「小田原の役」に参陣して所領を安堵された。1591年、「九戸政実の乱」に参陣した。1592年、「文禄の役」に参陣した。伏見城の作事用木材の提供を行った。

滝沢政忠【たきざわまさただ(15??~1575)】

滝沢政家の男。1575年、矢島満安勢と戦って敗れ、西館に籠城したが落城して自刃した。

滝沢政道【たきざわまさみち(15??~1609)】

滝沢政忠の男。官途は兵部少輔。1575年、父滝沢政忠とともに矢島満安勢と戦い、滝沢政忠が討死すると最上義光のもとに落延びた。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光勢に属して戦功を挙げ旧領の由利郡滝沢城10,000石を領した。1609年、黒沢城で年頭御礼に際、家臣に謀殺された。

滝沢政範【たきざわまさのり(15??~1627)】

滝沢政忠の次男。官途は兵庫頭。1609年、兄滝沢政道が家臣に謀殺されると、滝沢家の家督を相続して滝沢城10,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、仁賀保に仕え50石の扶助を受けた。1627年、前途を悲観して自刃した。

田□又三郎【たぐちまたさぶろう(15??~15??)】

本堂忠親家臣。

竹鼻広季【たけがはなひろすえ(15??~15??)】

安東舜季家臣。官途は伊予守。

種沢太郎【たねさわたろう(15??~1558)】

河辺郡水沢館主。1558年、「水沢城の戦い」で豊島重村勢の攻撃を受け討死した。

東福寺道継【とうふくじみちつぐ(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。別名杉沢。東福寺とともに署名した。

東福寺道定【とうふくじみちさだ(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。通称兵庫。伏見作事用板を安東愛季から受け取るに際して受取状を発給した。

玉米儀満【とうまいよしみつ(15??~1560)】

由利郡米本館主。官途は信濃守。由利郡十二頭衆。玉米儀満は継嗣に恵まれず、西馬音茂道の家臣山田五郎より婿養子を迎え須郷田館に隠居した。1554年、実子の玉米儀次が生まれたため、養子の玉米小介と不仲となった。1560年、「須郷田館の戦い」では、西馬音茂道、山田五郎勢の攻撃を受け、内応した杉山宗右衛門に討取られた。

玉米小介【とうまいこすけ(15??~15??)】

山田五郎の男(玉米儀満の養子)。室は玉米儀満の娘。継嗣のなかった玉米儀満から望まれて婿養子となったが、玉米儀満に実子の玉米儀次が生まれたため、疎まれるようになり、山田上の宿館に落延びた。

玉米儀次【とうまいよしつぐ(1554~1615)】

玉米儀満の男。官途は式部少輔。通称弥三郎。別名玉米光国。1560年、「須郷田館の戦い」で父玉米儀満が自刃すると、山田五郎勢に捕縛された。1563年、玉米光重、玉米茂光、滝沢政家、石沢孫四郎らの支援を受け、山田五郎のもとから養田館に落延びた。「養田館の戦い」では、山田五郎勢の攻撃を受けたが、和議を結んだ。1570年、「米本館の戦い」では、矢島満安勢の攻撃を受けた。仁賀保挙長と矢島満安勢が戦うと仁賀保挙長勢に属した。

玉米光重【とうまいみつしげ(15??~15??)】

玉米儀満の弟。官途は山城守。1563年、玉米光重と玉米茂光は、滝沢政家、石沢孫四郎の支援を受けて山田五郎から玉米義次の奪還した。「養田館の戦い」では、山田五郎勢の攻撃を受けたが、和議を結んだ。

玉米茂光【とうまいしげみつ(15??~15??)】

玉米儀満の弟。官途は伊予守。1563年、玉米光重と玉米茂光は、滝沢政家、石沢孫四郎の支援を受けて山田五郎から玉米義次の奪還した。「養田館の戦い」では、山田五郎勢の攻撃を受けたが、和議を結んだ。

玉米式部【とうまいしきぶ(15??~1598)】

玉米儀満家臣。1598年、大谷吉継の検地に反抗したため、赤尾津道俊、潟保重光、鮎川小平太らの攻撃を受け下村館主下村彦次郎とともに滅ぼされた。

富樫忠之【とがしただゆき(15??~15??)】

戸沢道盛家臣。富樫館主。1508年、加賀国から落延び富樫館を築いた。1536年、戸沢道盛に仕えた。

富樫勝家【とがしかついえ(15??~15??)】

富樫忠之の男。通称左衛門太郎。1570年、戸沢盛安の意向を受け土屋館から孔雀館に転封した。1590年、戸沢盛安が病没したため、弟の戸沢光盛が戸沢家の家督を相続した。1592年、「文禄の役」で戸沢光盛が病没すると、遺領を戸沢政盛に相続させるため尽力した。1602年、高齢のため、戸光政盛が転封には従わず、弟の戸沢長兵衛を従わせた。

戸沢秀盛【とざわひでもり(1466~1529)】

仙北郡角舘城主。戸沢征盛の男。官途は飛騨守。通称平九郎。室は小笠原長祐の娘。

戸沢忠盛【とざわただもり(15??~1545)】

仙北郡淀川城主。戸沢征盛の次男。通称平五郎。別名淀川上総介。1527年、安東堯季勢に寝返ったとの風聞を受け兄戸沢秀盛のもとを訪れ弁解に務めた。1529年、戸沢秀盛が病没して、戸沢道盛が戸沢惣領家の家督を相続すると、その後見役を務めた。1532年、謀反を起こして戸沢道盛を角舘城から追放したが、家臣団や周辺豪族の支持を得られず淀川城に退去した。1545年、「淀川城の戦い」で安東友季勢の攻撃を受け落城した。

戸沢盛門【とざわもりかね(15??~15??)】

戸沢忠盛の男。

戸沢盛行【とざわもりゆき(15??~15??)】

戸沢忠盛の次男。

戸沢政重【とざわまさしげ(1493~1578)】

戸沢征盛の三男。官途は安房守。仙北郡小館主。戸沢盛重を養子に迎えた。

戸沢宗盛【とざわむねもり(15??~15??)】

戸沢征盛の四男。

戸沢盛綱【とざわただもり(15??~15??)】

戸沢忠盛の男。

戸沢盛吉【とざわもりよし(1541~15??)】

戸沢忠盛の次男。官途は相模守。兄戸沢盛綱が多病のため家督を相続した。戸沢盛安、戸沢光盛、戸沢政盛三代に仕えた。1589年、「小田原の役」に戸沢盛安が参陣の際、状況によっては兵を国元から出す手はずになっており、それを率いるのが戸沢盛吉の手はずだったが結局出兵することは無かった。

戸沢道盛【とざわみちもり(1524~1604)】

戸沢秀盛の男。官途は飛騨守。通称平九郎。室は本堂親条の娘。1529年、戸沢家の家督を相続した。南部晴政や檜山安東尋季の攻勢を受けたが、仙北郡の領国を守りきった。晩年は、戸沢政盛の転封先である常陸国小河城にあり、同地で没した。

戸沢盛重【とざわもりしげ(1551~1592)】

戸沢道盛の男(戸沢政重の養子)。病に臥せることが多かったため、戸沢家の家督を弟戸沢盛安に譲って仏門に入った。その後、還俗して小館城主戸沢政重の継嗣となった。1589年、「小田原の役」に参陣した弟戸沢盛安の留守をついて謀反を起こし門屋宗盛を討取った。

戸沢主水【とざわもんど(15??~15??)】

戸沢盛重の男。「小野寺一揆」で一揆勢に属して討死した。

戸沢盛安【とざわもりやす(1566~1590)】

戸沢道盛の三男。官途は治部少輔。通称九郎。別名「夜叉九郎」。病がちな兄戸沢盛重に戸沢家の家督を譲られた。1582年、楢岡城主小笠原右衛門とともに安東実季勢を撃破した。大曲平野に侵入して小野寺義道勢と争いった。小野寺輝道と対抗する最上義光と結んだ。1588年、「湊安東道季の乱」では、安東道季を支援して勢力を拡大した。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢として参陣したが陣中で病没した。

戸沢光盛【とざわみつもり(1576~1592)】

戸沢道盛の四男。官途は能登守。通称平九郎。1590年、兄戸沢盛安が病没したため、戸沢家の家督を相続した。1591年、「九戸政実の乱」に参陣した。1592年、「文禄の役」に参陣するため、肥前国名護屋城に赴く途中、播磨国姫路城で病没した。

戸沢秀盛【とざわまさもり(1585~1648)】

戸沢盛安の男。官途は右京亮。通称九郎五郎。室は鳥居元忠の娘。1592年、叔父戸沢光盛が病死したため、戸沢家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝勢の酒田城を攻略した。1602年、角館城から常陸国小河城40,000石に転封した。1614年、「大坂冬の陣」では、相模国小田原城を守備した。1615年、「大坂夏の陣」では、江戸城を守備した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、転封となり出前国真室城60,000石を領した。

戸沢政房【とざわまさふさ(1560~1633)】

戸沢盛安家臣。官途は伊豆守。別名杉山勘左衛門。1591年、「九戸政実の乱」では、戸沢光盛勢に属して戦功を挙げた。羽柴秀次の目に留まり、仕えることになるが羽柴秀次が自刃したため、召抱えられることは無かった。

戸蒔信安【とまきのぶやす(15??~15??)】

仙北郡戸蒔城主。

戸蒔義広【とまきよしひろ(1556~1600)】

戸蒔信安の男。1600年、「角間川の戦い」では、戸沢政盛に属して参陣して小野寺義道勢と戦い討死した。

戸蒔義昌【とまきよしまさ(15??~1586)】

六郷政乗家臣。戸蒔信安の次男。官途は兵部。家老職を務めた。1586年、「天正大地震」が起きた際、大坂城に在城中で倒壊した家屋の下敷きとなり圧死した。

戸蒔乗安【とまきのりやす(15??~15??)】

戸蒔信安の三男。1600年、「角間川の戦い」で兄戸蒔義昌が討死したため、戸蒔家の家督を相続した。1615年、「大坂夏の陣」では、松平元康勢に属して参陣したが負傷した。この戦功により名刀「牛切丸」を拝領した。

戸波平右衛門【となみへいうえもん(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。平鹿郡戸波城主。1586年、「有屋峠の戦い」に参陣した。1600年、「吉田城の戦い」に参陣した。

土肥道親【どいみちちか(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。

土肥道家【どひやぎみちえい(1564~1645)】

松岡常吉の三男(土肥親家の養子)。1575年、土肥親家が病没すると、小野寺輝道の意向を受け土肥家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」後、小野寺輝道が改易処分に処され石見国配流されると京都まで従った。

豊島玄蕃頭【としまげんばのかみ(14??~15??)】

河辺郡豊島城主。1506年、「桑木城の戦い」で城主黒川肥後守を滅ぼし自らの居城とした。継嗣の豊島重村とともに、周辺の城を攻略して勢力を拡大した。1558年、「平尾鳥城の戦い」城主で平尾鳥式部太夫を討取る戦功を挙げた。

豊島重村【としましげむら(1536~15??)】

豊島玄蕃頭の男。官途は形部少輔。通称次郎。別名豊島休心。室は仁賀保挙久の娘。1558年、「種沢城の戦い」で城主種沢太郎を討取る戦功を挙げた。1567年、「白華城の戦い」では、城主の豊巻季林を討取り安東茂季を窮地に追い込んだが、反撃を受け敗退した。1570年、「第二次湊の戦い」では、下刈右京、川尻中務、小野寺輝道、戸沢盛安らと結び、安東愛季勢と戦った。

豊島重氏【としましげうじ(1564~1579)】

豊島重村の男。1570年、湊安東茂季を攻撃したが、二年余りの対陣の後、安東愛季勢に敗北して室の実家に逃走した。1579年、安東愛季に許されて帰参したが、羽川義稙によって討取られた。

豊島清信【としまきよのぶ(15??~15??)】

豊島重村家臣。別名畠山清信。娘は安東愛季に側室として嫁いだ。

豊巻季林【とよまきすえしげ(15??~1567)】

河辺郡白樺城主。官途は備中守。1567年、「白樺城の戦い」では、豊島重村勢の奇襲攻撃を受け自刃した。

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【な】

永井広治【ながいひろはる(15??~1589)】

安東愛季家臣。秋田郡舞鶴館主。別名大江広治。1587年、安東愛季の病没後、一部勝景とともに安東道季勢に属した。1588年、「船越水道の戦い」で安東実季勢と戦い討死した。

鍋倉道能【なべくらみち(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。平鹿郡鍋倉城主。官途は石見守。

鍋倉道長【なべくらさこん(15??~1582)】

鍋倉道能の男。通称左近。1582年、「大沢山城の戦い」で討死した。

鍋倉四郎【なべくらしろう(15??~15??)】

鍋倉左近家臣。

鍋倉相模守【なべくらさがみのかみ(15??~15??)】

鍋倉左近家臣。

南部季賢【なんぶすえかた(15??~15??)】

安東愛季家臣。官途は宮内少輔。1578年、安東愛季の意向を受け上洛、織田信長に拝謁した。以後、安東愛季から京都に派遣され、中央における安東愛季の外交政策を担った。

仁賀保挙政【にかほきよまさ(15??~1541)】

由利郡山根館主。大井友拳の男。

仁賀保挙久【にかほきよひさ(1523~1576)】

仁賀保挙政の男。官途は大和守。1541年、父仁賀保挙政の病没により仁賀保家の家督を相続した。兵を出羽庄内に進め、日本海に浮かぶ飛島を切り取るなど活躍した。1560年、矢島満安と滝沢政家が争うと滝沢政家勢に属して参陣した。1576年、「矢島城の戦い」では、滝沢政家の支援が遅れ矢島満安に敗れ討死した。

仁賀保挙長【にかほきよなが(15??~1577)】

仁賀保挙久の男。1576年、父仁賀保挙久の討死したため、仁賀保家の家督を相続した。1577年、矢島満安家領に侵攻するが、大敗し討死した。

仁賀保重挙【にかほしげきよ(1562~1583)】

仁賀保挙長の従兄弟。仁賀保重挙の娘。1581年、「三ノ木戸の戦い」では、矢島満安勢の攻撃を受けたが赤尾津光政と子吉重旨の支援を受けて撃退した。1583年、矢島満安に調略された家臣により謀殺された。

仁賀保挙晴【にかほきよはる(1568~1591)】

子吉重旨の次男(仁賀保重挙の養子)。通称八郎。室は仁賀保重挙の娘。1586年、子吉家から仁賀保家に入婿した。1591年、で矢島満安勢と戦い討死した。

仁賀保挙誠【にかほきよしげ(1560~1624)】

赤尾津道俊の次男(仁賀保挙晴の養子)。官途は兵庫頭。別名仁賀保光誠。室は矢島満安の娘(鶴姫)。1589年、「小田原の役」に参陣して、羽柴秀吉から3,700石の所領を安堵された。1591年、「九戸政実の乱」に参陣した。1592年、矢島満安が最上義光に山形城に招かれた隙に、矢島満安家臣が謀反を起こしたが、矢島満安がすぐに帰国してこれを鎮圧した。仁賀保挙誠は由利十二頭連合軍と矢島満安領に侵攻し、矢島満安を西馬音内城に追い落とし自刃に追い込み、滅亡させた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して庄内の押さえとして活躍した。1614年、加増を受け仁賀保で10,000石を領した。1625年、仁賀保挙誠が病没すると、所領は継嗣の仁賀保良俊が7,000石、次男の仁賀保誠政2,000石、三男の仁賀保誠次1,000石と分封されてそれぞれ馬廻衆を務めた。

西野道房【にしのみちふさ(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。西野館主。官途は飛騨守。1555年、小野寺輝道の意向で上洛して将軍偏諱と官途受領の申請を行った。

西野道俊【にしのみちとし(15??~15??)】

西野道房の男。官途は修理亮。1586年、「有屋峠の戦い」に参陣した。「唐松山の戦い」に参陣した。

額田甲斐守【ぬかたかいのかみ(15??~15??)】

浅利則頼家臣。比内郡飯平城主。多数の僧兵を擁する天台宗高岩山密乗寺と対立し同寺院に謀殺された。家臣らは密乗寺を焼き討ちした(高岩山四十八ヶ寺焼亡)。

野呂左馬亮【のろさまのすけ(15??~15??)】

浅利則頼家臣。家老職を務めた。

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【は】

幡江道良【はたえみちよし(15??~15??)】

六郷道行家臣。仙北郡幡江館主。

幡江藤次郎【はたえとうじろう(15??~15??)】

六郷道行の三男(幡江道良の養子)。六郷政乗に従って数々の戦功を挙げた。

馬場目正勝【ばばのめまさかつ(15??~1589)】

秋田郡馬場目城主。通称玄蕃。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、湊安東高季勢に属した。「馬場目城の戦い」では、安東実季勢の攻撃を受け討死した。

羽川義稙【はねかわよしたね(15??~15??)】

由利郡羽川新館主。通称小太郎。由利郡十二衆。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、赤尾津道俊、岩屋朝盛、打越光重らとともに安東実季勢に属して、豊島重氏を討取る戦功を挙げ豊島城主となった。1582年、「大曲城の戦い」では、前田利信を討取る戦功を挙げたが、赤尾津道俊の裏切りにより羽川新館を奪われ、羽川義稙は残った郎党とともに仙北郡に落延びた。

平尾鳥式部太夫【ひらおどり(15??~1558)】

河辺郡平尾鳥城主。1558年、「平尾鳥城の戦い」では、豊島玄蕃が継嗣の豊島重村の嫁に平尾式部太夫の娘(鳥姫)を所望したが、これを断ったため、豊島玄蕃勢の攻撃を受けた。平尾鳥式部太夫が討死すると、鳥姫も戦火の中で自害した。

藤倉将監【ふじくらしょうげん(15??~15??)】

安東愛季家臣。秋田郡郷士館主。1570年、「湊の戦い」で湊安東道季勢に属して失脚した。参考文献:「北出羽物語」bybugyo。

船川右近【ふなかわうこん(15??~15??)】

安倍千寿丸家臣。1587年、「双六館の戦い」で涌本脩季の攻撃を受け安倍千寿丸は自刃した。

本堂朝親【ほんどうよりちか(15??~15??)】

山本郡本堂城主。本堂頼親の男。官途は伊勢守。

角館城を本拠とする戸沢家と姻戚関係を結んだものの、安東家や小野寺家、戸沢家の諸勢力に組み入れられることなく、本堂城を本拠とした。本堂頼親は、金沢城主との戦で討死した。

本堂忠親【ほんどうただちか(15??~15??)】

本堂朝親の男。1535年、本堂城を築いて居城を移した。1589年、「小田原の役」に参陣して羽柴秀吉から8,983石の所領を安堵された。1592年、「文禄の役」では、前田利長勢に属して肥前名護屋城に在城した。

本堂茂親【ほんどうしげちか(1585~1645)】

本堂忠親の男。官途は伊勢守。1589年、「小田原の役」では、父本堂忠親とともに参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して、最上義光勢のもとで長尾景勝や小野寺義道と戦った。1601年、伏見城の在番を務めた。常陸国新治郡8,500石に転封となった。1604年、江戸城の堀普請役を務めた。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属して参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では、二条城留守居役を務めた。その後は伏見城御番、駿河久野城御番、陸奥岩城城勤番、大坂城御番、甲斐谷村城、甲府城勤番などを歴任した。1645年、甲府城勤番に赴く途中に落馬その傷がもとで病没した。

本堂栄親【ほんどうひでちか(1610~1668)】

本堂茂親の男。

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【ま】

前田道信【まえだみちのぶ(15??~1532)】

仙北郡大曲城主。官途は薩摩守。通称又左衛門。1532年、「大曲城の戦い」で赤尾津家保勢の攻撃を受け討死した。

前田利信【まえだとしのぶ(15??~1582)】

前田道信の男。官途は薩摩守。通称五郎。足利義輝に仕えるため上洛した。1582年、「大曲城の戦い」で赤尾津家保、羽川義稙勢の攻撃を受け討死した。

前田利宗【まえだとしむね(15??~15??)】

前田道信の次男。官途は薩摩守。通称又次郎。兄前田利信が足利義輝に仕えるため上洛しため、大曲城代を務めた。1579年、戸沢道盛の意向を受けて織田信長に鷹を献上するため上洛した。

真壁道泉【まかべどうせん(15??~1585)】

小野寺輝道家臣。平鹿郡真壁館主。官途は対馬守。1585年、「有馬峠の戦い」で小野寺輝道に従い参陣したが、最上義光勢と戦い討死した。

増田道近【ますだみちちか(15??~15??)】

小野寺義道家臣。通称次郎。1586年、「有屋峠の戦い」で小野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。

松岡常吉【まつおかつねよし(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。1566年、小野寺義道が生まれると、内室が小野寺義道の乳母となり、小野寺義道を松岡常吉宅で養育した。

松岡道景【まつおかみちかげ(15??~15??)】

松岡常吉の男。小野寺義道に仕え京都留守役を務めた。

松岡秀用【まつおかひでもち(15??~15??)】

松岡常吉の次男。別名高田右馬助。雄勝郡川連城代に任じられた。

松岡道常【まつおかみちつね(15??~16??)】

松岡道景の男。敦賀蔵屋敷の留守居を務めた。1600年、「関ヶ原の役」後、小野寺義道が改易処分を受けると、鮭延秀綱に仕えた。

松岡越前守【まつおかえちぜんのかみ(15??~15??)】

小野寺義道家臣。1586年、「有屋峠の戦い」で小野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。

松尾久成【まつおひさなり(15??~15??)】

浅利則頼家臣。通称七蔵。1595年、浅利則頼が安東実季との軍役金未納問題で解決求める書状に赤石氏実とともに連署した。

松橋盛光【まつはしもりみつ(15??~1591)】

秋田郡風張砦主。官途は美濃守。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、阿仁地方に侵攻した南部信直勢を嘉成資清とともに撃退した。1591年、「風張砦の戦い」で嘉成資清勢の奇襲を受けて自刃した。

三浦政重【みうらまさしげ(15??~15??)】

小野寺義道家臣。仙北郡三浦館主。官途は治部少輔。文武知略。190石を領した。1587年、「有屋峠の戦い」では、小野寺義道に従って参陣して 最上義光勢の頸級を上げる戦功を挙げた。

三浦盛永【みうらもりなが(15??~1587)】

秋田郡浦城主。官途は兵庫守。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、安東通季勢に属して、安東実季の家臣石岡主膳の攻撃を受け自刃した。

三浦盛季【みうらもりよし(15??~1600)】

三浦盛永の男。通称五郎。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」で安東実季勢の攻撃を受け父三浦盛永が自刃すると、家臣の三浦左衛門ともに神林常勘のもとに落延びた。1599年、父三浦盛永の旧領を安堵され押切城300町歩を領した。1600年、家臣の小和田甲斐守の密告により安東実季に謀殺された。内室(小柳姫)と三浦識調とその妹は古井兼次とともに落延びた。

三浦左衛門【みうらさえもん(15??~15??)】

三浦盛永家臣。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」で安東実季勢の攻撃を受け三浦盛永が自刃すると、三浦盛季を守って神林常勘のもとに落延びた。

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【や】

八柏道為【やがしわみちため(15??~1595)】

小野寺稙道家臣。官途は大和守。湯沢城代を務めた。1546年、「平城の乱」で小野寺稙道が横手光盛、金乗坊に謀殺されると、小野寺輝道の復帰を支援した。1552年、「横手城の戦い」では、小野寺輝道とともに最上義光勢と戦った。1586年、「有屋峠の戦い」で小野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。1595年、最上義光の謀略で小野寺義道に疑惑の疑念を受け謀殺された。

八木親家【やぎちかいえ(15??~1575)】

土肥道親の次男(八木盛平の養子)。雄勝郡八木城主。

八木道家【やぎみちいえ(1564~1645)】

松岡常吉の三男(八木親家の養子)。官途は丹後守。1582年、「大沢山の戦い」では、土肥道近に従って小野寺義道勢に参陣した。1586年、「有屋峠の戦い」に参陣した。1594年、「岩崎城の戦い」で最上義光の家臣楯岡満茂勢の攻撃を受けると、楯岡満茂に内応して小野寺義道勢に属した。1600年、「関ヶ原の役」では、小野寺義道が石田三成勢に属したため、改易処分に処された。後に佐竹義宣の家臣渋江政光に仕えた。

八木道長【やぎみちなが(15??~16??)】

八木道家の男。

八木藤兵衛慰【やぎとうべいじょう(15??~15??)】

小野寺義道家臣。1586年、「有屋峠の戦い」で小野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。

八口内貞冬【やくないさだふゆ(15??~1585)】

小野寺義道家臣。雄勝郡八口内館主。官途は尾張守。別名八口内定冬。1585年、「有屋峠の戦い」で最上義光の家臣鮭延秀綱が侵攻すると、小野寺義道の援軍が間に合わず、手勢を率いて最上義光勢に討ち入って討死した。

矢島義満【やじまよしみつ(15??~15??)】

由利郡矢島城主。別名大井義満。1560年、「釜ヶ渕の戦い」では、滝沢政安と結んでいた履沢左兵衛を討取る戦功を挙げた。

矢島満安【やじまみつやす(15??~1588)】

矢島義満の男。別名大井満安。室は西馬音内茂道の娘。1560年、矢島家の家督を相続した。1575年、「滝沢館の戦い」では、城主の滝沢政忠を討取る戦功を挙げた。1576年、「矢島城の戦い」では、仁賀保拳長勢の奇襲を受けたが、反撃してこれを討取った。1577年、仁賀保拳長の弔合戦を挑んできた仁賀保安重も討取った。1587年、最上義光と結びに羽柴秀吉に拝謁するため上洛したが、仁賀保挙誠を中心とした由利衆に矢島城を奪われた。1588年、内室の実家である西馬音内茂道のもとに落延びたが、小野寺輝道の追及を受け自刃した。

柳田治兵衛尉【やなぎだじぶびょうえい(15??~15??)】

西馬音内茂道家臣。

山館刑部【やまがたぎょうぶ(15??~15??)】

浅利則頼家臣。比内郡山館主。

山田喜六【やまだきろく(15??~1589)】

北秋田郡山田館主。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、三浦盛永勢に属した。1589年、「浦城の戦い」で敗れ山田館に落延びたが力尽き自刃した。

山田高道【やまだたかみち(15??~15??)】

西馬音茂道家臣。官途は民部少輔。

山田清道【やまだせいどう(15??~15??)】

西馬音茂道家臣。雄勝郡山田城主。通称孫兵衛慰。1586年、「有屋峠の戦い」で小
野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。

山内右衛門尉【やまのうちうざえもんのじょう(15??~15??)】

三浦盛永家臣。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」で三浦盛永が安東通季勢に属したため、山内右衛門尉もそれに従った。「山内城の戦い」で安東実季税の攻撃を受け落城した。

六郷道行【ろくごうみちゆき(15??~15??)】

仙北郡六郷城主。官途は弾正少弼。仙北七人衆。戸沢道盛と小野寺稙通の勢力に挟まれた境目の領主でもあったが巧みな外交術で所領を維持した。1559年、稲荷岡の東に六郷城を築いて居城とした。

六郷政乗【ろくごう まさのり(1567~1634)】

六郷道行の男。官途は兵庫頭。通称長五郎。室は西田吉久の娘。1587年、「阿気野の戦い」では、小野寺義道勢に属して安東実季と戦った。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に参陣して六郷城4,500石の所領を安堵された。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して石田三成勢に属した小野寺義道勢と戦った。1602年、役後、常陸国新治郡府中城10,000石に転封した。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に従って参陣して戦功を挙げた。1623年、最上義俊が改易処分に処されると、羽前国本荘城20,000石の転封した。六郷惣領家の家督は継嗣の六郷政勝が相続し、三男の六郷政直は馬廻衆を務め200俵、四男の六郷政秀も馬廻衆を務め600石を領した。

六郷政勝【ろくごうまさかつ(1609~1677)】

六郷政乗の男。官途は伊賀守。室は京極高知の娘(京極高三の養女)。1615年、松平秀忠に拝謁した。1634年、父六郷政乗の病没により六郷家の家督を相続した。1643年、山形城主保科正之が会津若松城に転封になると、山形城留守居役を務めた。弟の六郷政徳、六郷政直、六郷政秀らと協力して内政の基礎の充実を図ったが、冷害などの天災に悩まされた。

涌本脩季【わきもとながすえ(15??~15??)】

安東愛季家臣。北秋田郡脇本城主。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、安東通季勢に属して安東実季勢と戦った。「脇本城の戦い」で安東実季勢の攻撃を受け自刃、内室は双六館までえ落延びたが、追い詰められ双六館の断崖から身を投げ自害した。

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【資料Ⅰ】

羽後国(9郡/240,000石)

比内郡:独鈷城。
北秋田郡:大館城(12,000石)、風張砦(8,000石)。
南秋田郡:湊城(50,000石)。
山本郡:能代城(18,000石)、脇本城(18,000石)
河辺郡(24,000石):豊島城、赤尾津館、岩屋館。
仙北郡(105,000石):角館城、六郷館(6,000石)、本堂館(6,000石)、大曲城主。
平鹿郡(70,000石):横手城。
雄勝郡(58,000石):湯沢城、岩崎城、院内鉱山。
由利郡:(24,000石):亀田城、仁賀保城。

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【資料Ⅱ】

仙北七人衆【せんぼくななにんしゅう】

六郷城主六郷道行、金沢城主金沢道秀、飯詰城主久米行長、戸蒔城主戸蒔義広、堀田平七、金子尾張守、神尾雅楽。

由利郡十二人衆【ゆりぐんじゅうににんしゅう】

矢島義満、仁賀保挙久、赤尾津家保、根井親光、潟保重光、打越光重、子吉重旨、下村宗長、玉米儀満、鮎川小平太、石沢孫四郎、滝沢政家、岩屋朝盛、羽川義稙、芦田拳実、履沢左兵衛の諸家。

由利郡五人衆【ゆりぐんごにんしゅう】

赤尾津治部少輔、仁賀保挙久、滝沢又五郎、岩屋朝盛、打越光重。

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【資料Ⅲ】

羽後国【うごのくに】

北東部の鹿角地方は陸奥国。日本海沿いは北から能代平野、秋田平野、本荘平野が続きます。内陸部は陸中国との間の脊梁山脈奥羽山脈が南北に連なり西部には鳥海山から北に延びる出羽山地がある。奥羽山脈と出羽山地の間には横手盆地が広がり、羽後国では最大の平野を形成します。横手盆地は雄物川とその支流が潤し有数の稲作地帯となっている。北東部には米代川中流域の大館盆地があり、その下流に能代平野が形成されている。

能代湊【のしろみなと】

南秋田郡の湊街。1556年、安東愛季は能代湊の整備を行い、同時に街作りを行った。檜山城の外湊として米代川の河口に湊街を作り、北国船による物資の交易を図った。家臣の清水治郎兵衛を能代の奉行職に任じ、諸材木支配を行わせた。1564年、清水治郎兵衛は、長慶寺、山王権現社を造営するなど人心の安定のも意を注いだ。

赤尾津【あかおつ】

赤尾津は天然の良湊。帆段銭が年間4,500石以上あった。

大葛金山【おおくぞきんざん】

北秋田郡の鉱山。大葛金山は和銅年間の発見と言われ古くから金が採掘されていた、天文年間には多量の金が採掘され浅利家の軍資金として活用された。

院内鉱山【いんないこうざん】

雄勝郡院内の鉱山。1606年、村山宗兵衛らに発見され、開山した。金、銀を産出し国内最大級の銀山。鉱脈の枯渇により一時衰退の兆しを見せたが、新鉱脈の発見により持ち直し、鉱山の最盛期には、戸数4,000、人口15,000を擁し、城下街久保田を凌駕する規模の街となり「出羽の都」と称されるほどの繁栄を誇った。

金沢八幡神社【かなざわはちまんじんじゃ】

金沢八幡神社は「後三年の役」の後、金沢柵の二の丸に源義家の意向で藤原清が創建し、石清水八幡宮の神霊を勧請した。

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戦国人名辞典は1500~1630年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、津軽為信は大浦為信に統一。

参考文献:『津軽秋田安東一族』by新人物往来社、『東北大名の研究(戦国大名論集2)』by吉川弘文館、『会津芦名一族』by歴史春秋社、『最上義光(戦国の驍将)』by新人物往来社、『奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)』by宝文堂、『会津芦名四代』by歴史春秋、『伊達政宗(全8巻)』by講談社、『天を衝く(全3巻)』by講談社文庫、『独眼竜伊達政宗』by時代小説文庫、『津軽風雲録』by時代小説文庫、『政宗に睨まれた二人の老将』by宝文堂、『秋田「安東氏」研究ノート』by無明舎、『(史伝)伊達政宗』by学研M文庫、『独眼竜政宗』by講談社文庫、『奥羽永慶軍記(全2巻)』by新人物往来社、『津軽南部の抗争(南部信直)』by無明舎出版、『秋田の中世浅利氏』by無明舎出版、『独眼龍政宗』by文藝春秋、『みやぎの戦国時代』by宝文堂、『陸奥南部一族』by新人物往来社、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『戦国人名事典』by新人物往来社、『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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