2011年6月23日木曜日

戦国岩代国人名辞典

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【あ】

安子ヶ島祐高【あこがしますけたか(15??~15??)】

安積郡安子ヶ島城主。安積伊東家臣。官途は治部大輔。1586年、二本松畠山家を滅ぼした。1589年、伊達政宗は、芦名家中の乱れに乗じて、芦名攻めを開始した。安子ヶ島城主は会津攻めの要衝にあたり、伊達勢に包囲された。安子ヶ島祐高は、多勢の伊達勢に押され、芦名家を頼って落延びた。1589年「摺上原の戦い」で、芦名家は敗北、安積郡は伊達家が領することになった。

芦名盛舜【あしなもりきよ(1490~1553)】

会津郡黒川城主。芦名盛高の男。官途は遠江守。兄芦名盛滋の死により家督を相続。猪苗代家の叛乱を鎮めた。1528年、伊達稙宗の葛西攻めに協力して派兵した。1534年、伊達家と組んで仙道の岩城家、白河結城家らと交戦するなど、版図の拡大に努めた。1538年、後奈良天皇宸筆の般若心経が遣わされており、中央からも芦名家の存在は知られていた証左とされる。1540年、将軍足利義晴は、芦名盛舜に馬を献上された礼状をしたためている。

芦名氏方【あしなうじかた(1515~1568)】

芦名盛舜の次男。官途は山城守。母は川野御前。芦名盛氏の庶兄で、富田義実に養育された。1568年、謀反を起こすが鎮圧されて自刃した。

芦名盛氏【あしなもりうじ(1521~1580)】

芦名盛舜の男。官途は大膳大夫。通称平四郎。室は伊達稙宗の娘。陸奥南部で最大の版図を誇った芦名家最大の英主。北は伊達家と盟約し、西は越後長尾、南は佐竹と争い、越後、奥南、下野、常陸が最大領域範囲。遠交近攻政策を取り、越後長尾家に対抗して甲斐武田家、佐竹家に対抗して北条家と誼を通ず。猪苗代家らの叛乱を抑えて集権に成功すると外征を行い、二本松畠山、岩城、白河結城、二階堂緒家を降して傘下に組み入れた。1546年「天文の乱」では初め伊達稙宗、のち伊達晴宗方に転じて勢力を伸ばす。米沢の伊達家とは多年にわたって交流を深めており、芦名盛氏の代も良好な関係で、芦名盛氏の室は伊達稙宗の娘。息子芦名盛興の室には伊達晴宗の娘を迎えている。文武両道の名君と言われるが、1560年~1576年に亙って徳政令を六回も公布するなど、領内統制には苦心した。商業政策においては豪商簗田藤左衛門を御用商人に取り立てて徴収権などを賦与して商人を統制した。1561年、岩崎城を築いて隠居地とし、家督を芦名盛興に譲る。1574年、芦名盛興は病死するおt、再び政務を執る。人質にとっていた二階堂盛隆に芦名盛興の室を娶わせて後継となして後見した。

芦名盛興【あしなもりおき(1547~1574)】

芦名盛氏の男。通称平四郎。室は伊達輝宗の妹(彦姫)。1561年、父芦名盛氏の隠居により家督を相続した。1565年、二階堂家の支城であった岩瀬郡長沼城を攻撃したが苦戦。1566年、二階堂盛義の降伏により同城に新国貞通を入れて守らせた。1566年には横田城を攻略した。1573年、高玉金山(芦名四金山の一つ)を開鉱。佐竹家と抗争し、その陣で病死した。後嗣なく、やむなく芦名家は二階堂から養子を迎えるが家臣団の不満がたかまった。のちに佐竹義広の入嗣において譜代家臣の離反を招く一因になった。彦姫との間に三女あり、長女岩姫は芦名盛重に嫁して芦名盛泰を産み、次女江戸崎御前は芦名盛重養女として相馬三胤に嫁ぎ、三女岩瀬御台は佐竹義宣に嫁いでいる。

芦名亀王丸【あしなかめおうまる(1584~1586)】

芦名盛興の男。芦名の家督は生後1ヶ月の息子亀王丸が継ぎ、亀王丸の母彦姫が隠居した兄伊達輝宗の後見を受けて芦名家をまとめることになった。伊達輝宗の後を継いだ伊達政宗は同盟関係を破棄して芦名家を攻め(関柴合戦)、遺児亀王丸も1586年、疱瘡を患って夭逝するなどの不幸が重なり、芦名家中は混迷した。若年ながら優れた武将であった芦名盛隆の早すぎる死が、芦名家滅亡を早めた。

芦名家四天王【あしなけしてんのう】

松本氏輔、平田輔範、佐瀬常昌、富田氏実。

安積郡豪族衆【あずみぐんごうぞくしゅう】

篠川満祐、伊東祐持、窪田祐守、大豆生田通綱、多田野遅久、河内祐春、河田祐義、名倉祐清、社谷田勝慶、中地性久、神山祐金、八俣長源、早水祐藤、富田祐昌、守屋祐国、前田河祐菊。

穴沢俊家【あなざわとしいえ(15??~15??)】

芦名家臣。官途は越中守。1486年、主君盛高の命を受け、耶麻郡檜木谷に蟠居した山賊一党を撃滅した。会津と米沢を結ぶ街道の要衝として芦名家も檜原を重要視した。1605年、金山が発見されて檜原は大いに栄えた。

穴沢信徳【あなざわのぶのり(15??~15??)】

芦名家臣。耶麻郡檜原館主。穴沢俊家の男。官途は加賀守。1564~66年の伊達輝宗の会津侵攻に抗して防戦、芦名盛氏によりその功を賞され、大荒井村を与えられた。1573年、穴沢家の家督を息子穴沢信堅に譲って隠居した。

穴沢信堅【あなざわのぶかた(15??~1584)】

穴沢信徳の男。通称新右衛門。1582年領内の収税から小荒井阿波と争い、勝利するものの芦名盛隆よりその私闘を咎められて所領の一部を没収された。伊達政宗はこれに乗じて穴沢信堅に内応を迫ったが拒否した。1584年、伊達政宗に通じた枝連衆の穴沢四郎兵衛により殺害された。

穴沢広次【あなざわひろつぐ(15??~15??)】

穴沢信堅の男。通称は助十郎。父穴沢信堅を討った伊達政宗を仇とし1585年、伊達政宗の狙撃を図った。1586年、伊達方小谷山城を攻撃。芦名家滅亡後は隠匿したが、蒲生家が会津領主になると復帰。息子穴沢光茂は保科正之に仕えた。

新城直継【あらきなおつぐ(15??~15??)】

二本松畠山家臣。一門衆。

新城盛継【あらきもりつぐ(15??~15??)】

新城直継の男。祖父の村尚は二本松畠山家から一門衆の新城家を継ぎ、畠山義国とは従兄弟の関係。伊達政宗が攻めてきたとき、二本松城で籠城の指揮をし、二本松城を死守した。

五十嵐和泉守【いがらしいずみのかみ(15??~15??)】

伊北郡河原崎館主。川原田盛次家臣。1589年、田島長沼盛秀と和泉田にて戦った。

石川有信【いしかわみつまさ(15??~15??)】

安達郡百目木城主。百目木石川家は塩松石橋家臣で、三芦城主石川家の庶流。1568年、石川有信は大内義綱らと共に田村家に内通して石橋尚義を追放し、田村家の配下となった。

石川光昌【いしかわみつまさ(1564~1605)】

石川有信の男。官途は弾正忠。室は郡山藤致の養女。大内定綱が田村家からの独立を目論むと石川光昌はこれに同調せず、1585年、田村清顕とその婿伊達政宗に従って大内定綱を攻めた。その功により伊達政宗から小手森城を与えられて移ったが、宮森城主白石宗実の与力にされたことに不満を持ち、1588年「郡山の戦い」で相馬義胤に内応したため、小手森城は伊達政宗の攻撃を受けて落城し、500人余が討ち取られが石川光昌は相馬義胤のもとへ落延びた。

石川家臣団【いしかわけかしんだん】

石川昌弘、石川光明。

石橋尚義【いしばしひさよし(15??~1577)】

安達郡塩松城主。塩松石橋家最後の当主。1542年の「天文の乱」において、伊達稙宗方に立って参戦したが、後に伊達晴宗方に転じた。この間、重臣大内義綱が家中での力を強め、石橋尚義を圧倒するようになり、1550年、石橋尚義は大内義綱によって塩松城二の丸に幽閉され、重臣の石橋四天王(大内、大河内、石川、寺坂)に実権を奪われた。1568年、隣国の田村家に通じた大内義綱・石川有信らによって石橋尚義が塩松城から追放され、塩松石橋家は滅亡した。

石橋四天王【いしばししてんのう】

大河内備中守、大内義綱、石川有信、寺坂信濃守。

石母田光頼【いしもだみつより(15??~15??)】

伊達郡石母田城主。伊達稙宗家臣。石母田家は甲斐源家を出自とした伊達家の譜代衆。「天文の乱」以前の石母田光頼の事績は不明。1542年、伊達時宗丸の越後守護職上杉家への入嗣問題を発端に伊達稙宗、伊達晴宗父子は対立し、伊達晴宗は伊達稙宗を桑折西山城に幽閉します。伊達稙宗は小梁川宗明等に救出され石母田城に入り、石母田城を伊達稙宗派の拠点としました。1543年、伊達稙宗は懸田城に拠点を移しましたが、1544年、懸田家中の伊達晴宗派が武力蜂起したため、ふたたび石母田城に移りました。石母田城は伊達晴宗派の総攻撃を受けて落城し、伊達稙宗は八丁目城に落ち延びた。乱は伊達晴宗派の勝利で終結しましたが、伊達稙宗派に与した惣領の石母田宮内少輔が失脚し、伊達晴宗派に与した石母田光頼・氏頼兄弟に加増され、石母田家の惣領は石母田光頼に移った。

石母田景頼【いしもだかげより(1563~1608)】

石母田光頼の男。石母田景頼も伊達政宗に従い各地で軍功を挙げました。1591年、伊達政宗の岩出山移封にともない伊具郡荒山城に移りました。石母田景頼は1593年、義兄桑折政長の名跡を継ぎ桑折家を称し、1615年、伊達政宗の庶長子伊達秀宗の伊予宇和島立藩に筆頭家老として同道した。

伊東高行【いとうたかゆき(15??~15??)】

安積郡大槻館主。三郎左衛門尉。

伊東盛祐【いとうもりつね(15??~15??)】

安積郡小倉城。

伊東盛恒【いとうもりつね(1534~1590)】

伊東盛祐の男。官途は薩摩守。1590年、大崎郡名生において討死した。

猪苗代盛頼【いなわしろもりくに(15??~1541)】

麻耶郡猪苗代城主。芦名盛詮の次男で、国人領主猪苗代盛清養子になった。1541年、芦名家に対して謀反を起こすも、松本、佐瀬家らの討伐にあい、1542年には降伏した。

猪苗代盛国【いなわしろもりくに(1536~15??)】

猪苗代盛頼の男。芦名家臣。通称平太郎。官途は弾正忠。猪苗代家は葦名家の有力国人衆であるが、自立傾向が強く度々反乱を起こした。1588年、後妻の息子である猪苗代宗国を溺愛し、後妻の讒言に乗って猪苗代盛胤を廃嫡しようと画策。猪苗代盛胤に譲ったはずの猪苗代城ごと伊達軍に寝返り、その軍勢を招き入れ、後妻の息子を伊達方に人質として差し出している。1589年「摺上原の戦い」では葦名方に残る猪苗代盛胤とは逆に、羽根田直景を通じて伊達家へ随身、先鋒を任じられた。後伊達家で準一家に列せられた。

猪苗代盛胤【いなわしろもりたね(1565~1641)】

猪苗代盛国の男。官途は左馬介。1585年に父猪苗代盛国より家督と猪苗代城を譲られたが、1588年に猪苗代城を奪われ、横沢村に拠って父に対抗した。1589年「摺上原の戦い」では葦名勢の先鋒として父の手勢などの伊達勢と戦い奮戦するも負傷した。芦名義広に従って常陸国へ落ち延びたが戦後流亡。のち会津に戻り、耶麻郡内野村に隠棲して同地に没した。

猪苗代盛親【いなわしろもりちか(15??~15??)】

猪苗代盛胤の男。通称作左衛門。別名中野盛親。父猪苗代盛胤は芦名盛重に従って常陸に赴くものの、のち会津に戻って隠棲した。

猪苗代家臣団【いなわしろけかしんだん】

三浦盛勝、三浦成信、石田讃岐守、関三河守、関加賀守、石部丹後守、小檜山次郎右衛門、秋山右近、堀切内匠。

伊南政秀【いなまさひで(15??~15??)】

伊南郡伊南館主。河原田家枝連衆。官途は左衛門尉。

伊南政盛【いなまさもり(15??~15??)】

伊南政秀の男。伊南河原田五郎左衛門を称す。

伊南源助【(いなげんすけ15??~15??)】

伊南郡只石館主。河原田盛次家臣。芦名家が「摺上原の戦い」で敗退後、河原田盛次が伊達勢と一戦を挑むため、伊達政宗に口上を伝える。

氏家新兵衛【うじいえしんざえもん(15??~1586)】

二本松畠山家臣。1586年、伊達政宗に内通。他に箕輪玄蕃、遊佐源左衛門、堀江式部も同日に内通した。しかし、彼らは新城弾正に誅殺されている。

遠藤勝高【えんどうかつたか(15??~15??)】

岩瀬郡山寺館主。二階堂家臣。官途は壱岐守。二階堂家四天王のひとり。

遠藤勝重【えんどうかつしげ(15??~1589)】

遠藤勝高の男。官途は雅楽頭。1589年、須賀川城に籠城して奮戦後南ノ原口に於いて嫡男彦一郎と共に討死した。遠藤勝重の室は落城後二人の討ち死にを知り、阿武隈川に身を投げて自害したという。

大内義綱【おおうちよしつな(15??~15??)】

安達郡小浜城主。石橋尚義家臣。塩松石橋家の重臣であったが1550年、大内義綱は主君の石橋尚義を塩松城二の丸に幽閉して石橋家の実権を掌握。1568年、田村家の内応工作に応じて石橋尚義を追放し、塩松地方を手中に収めた。1569年には石橋家の重臣だった宮森城主大河内備中を攻め滅ぼした。その後は田村家の旗下に属した。1576年、安積郡に侵攻し安積郡片平城を攻略、次男の片平親綱を婿入りさせた。

大内定綱【おおうちさだつな(1545~1610)】

大内義綱の男。大内家の家督を継いだ大内定綱は、田村、大内両家の家臣同士の争いの裁決に対する不満から、次第に田村家からの独立を目論むようになる。1582年、伊達輝宗が小斎城を攻略した際に、伊達輝宗の陣に参上して伊達傘下に入り、以降は対相馬戦に度々従軍する。1583年、娘を安達郡二本松主畠山義継の男畠山国王丸に嫁がせて足場を固めた。1583年、田村領の百目木城主石川光昌を攻撃、田村家と対立していた蘆名盛隆の支援を受けて田村清顕を破り独立を果たす。1584年、伊達政宗が伊達家の家督を継ぐと、大内定綱は引き続き伊達家への奉公を表明したものの、1585年、伊達政宗は田村家に加担して大内定綱を攻撃し、小手森城で撫で斬りを行うなどしたため、大内定綱は小浜城を放棄して二本松へ逃れ、ついで会津の蘆名家を頼った。1588年「郡山の戦い」の際には蘆名家の部将として活躍するが、伊達成実の誘いに応じて弟の片平親綱と共に伊達家に帰参した。「摺上原の戦い」「葛西大崎一揆鎮圧」「文禄、慶長の役」にも従軍して功績を立てた。「関ヶ原の戦い」の折には京都伊達屋敷の留守居役を務めた。子の大内重綱の代にはこれらの功績により、一族の家格を与えられた。

大河内備中守【おおこうちびっちゅうのかみ(15??~15??)】

安達郡宮森城主。石橋家四天王の筆頭。1569年、大内備前守、石川弾正忠、寺坂信濃守に攻められ滅亡する。その折、大河内備中守の甥、大河内宗四郎は、太刀を振るって敵中を切り抜けて城に入ろうとしたが、追手に敵が満ちて入ることができず、取って返して搦手に向かったが、追いすがる敵に進退極まり、この石の上に登り腹をかき切って討死した。大河内備中守の側室は、城内から母親が子を抱いて逃れたが、敵将大内長門守に発見され、大内肥前守の側室になることを強いられたが、死を決して応じなかったため、大内備前守はその節操の堅さに感銘し、遂にこれを釈放した。

大槻政通【おおつきまさみち(15??~1578)】

芦名家臣。初め大庭姓だったが、大槻館に住居してこれを改めた。1578年「山内重勝の乱」に加担、越後長尾景虎に通じて芦名盛氏に離反したが逆に攻められて自刃した。

大槻中務【おおつきなかつかさ(15??~1585)】

畠山義継家臣。伊達輝宗刺殺の現場にいたため、伊達家臣に殺される。他に高橋内膳、米沢源内、遊佐孫九郎らも殺された。

小田切盛昭【おだぎりもりあき(15??~1587)】

越後国蒲原郡赤谷城主。芦名家臣。官途は三河守。1581年「御館の乱」の恩賞に不満を持っていた新発田城主新発田重家は芦名盛隆の支援を受けて越後長尾景勝に謀反を起こす。芦名家臣小田切盛昭は会津から新発田への物資輸送路を確保し、また越後長尾勢に対する防衛拠点として赤谷城を築城した。越後長尾景勝は織田勢に攻め立てられ、新発田重家勢に兵を向けることが出来なかった。1582年、織田信長が「本能寺の変」で横死すると、越中国と北信濃国から撤退した。1583年、越後長尾景勝は新発田攻めの兵を起こす。1584年、芦名盛隆が家臣に殺害され、芦名家への伊達政宗の攻勢が始まると、新発田重家を北から支援していた芦名家が勢力を弱まる。1587年、越後長尾景勝は新発田鎮圧に出陣し、赤谷城には芦名家から津川城主金上盛備が派遣されますが、金上勢は上杉方の藤田信吉に救援を阻止され撤退を余儀なくされます。このため孤立無援となった赤谷城は、越後長尾勢の猛攻を受けて落城し、小田切盛昭以下城兵は全滅した。

小田切政清【おだぎりまさきよ(15??~15??)】

小田切祐治の男。官途は弾正忠。1564年、越後長尾領に侵攻した。1578年、越後長尾景虎が没すると、金上盛備とともに長尾景虎方として越後に乱入し、安田城を攻略した。のち長尾景勝による新発田重家討伐の際、主君芦名盛隆の命で長尾景勝加勢に赴くが戦意は高くなかった。

小田切貞満【おだぎりさだみつ(15??~1578)】

小田切家臣。官途は玄蕃允。越後長尾景虎の死後交誼を持とうとする越後長尾景勝に対し、芦名盛氏は長尾景虎支援を打ち出して小田切貞満は越後に出陣するが討死した。一族の小田切治部少輔貞義もやはり越後に侵攻したが敗退している。

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【か】

片平(伊東)大和守【かたひらやまとのかみ(15??~15??)】

安積郡片平城主。戦国末期、安積伊東家当主の伊東大和守に実子がなく塩松城主大内定綱の弟片平(大内)親綱を養子に迎えた。

片平親綱【かたひらちかつな(15??~15??)】

大内義綱の次男。片平(伊東)大和守の養子。通称助右衛門。兄大内定綱と行動を共にし、伊達政宗が大崎攻めに失敗した隙に二本松領を攻める。伊達政宗は片倉景綱に攻撃させる一方で、逆に知行を与え兄弟を懐柔しようとした。こうした誘いに乗り、芦名家から伊達家に乗り換える。そのため会津勢に攻められ、生母を磔にされた。片平重綱ら関係者も伊達家に降っている。

金沢宗朝【かなざわむねもと(15??~1542)】

伊達稙宗家臣。伊達稙宗の宿老を務めた。伊達稙宗が制定した『蔵方の掟』や『塵介集』に他の重臣と共に連署した。1542年「天文の乱」では伊達稙宗側に付いたが討死した。

金上盛備【かながみもりはる(1527~1589)】

越後国蒲原郡津川城主。芦名家臣。官途は遠江守。芦名家臣の筆頭で、四天王のさらに上に置かれた。卓越した政治手腕から「芦名の執権」と呼ばれた。1578年「御館の乱」には越後長尾景虎方についた芦名盛氏の命で越後に侵入し、蒲原郡安田城を攻略した。1581年、芦名盛隆の使者として上洛して織田信長に謁見、主君の三浦介拝領に尽力した。この功により従五位下遠江守の官途を拝領した。1582年、織田信長により武田家が滅亡し、関東管領として滝川一益が進出した際、金上盛備は滝川一益に織田、芦名の合力に違背しないよう求めた。芦名亀王丸死後は伊達小次郎を迎えようとする平田、富田らを抑えて佐竹義広の入嗣に成功した。しかしこれは家臣間の対立を生むことになり、伊達家の侵攻に対して芦名家臣団は崩壊してしまう。1589年「摺上原の戦い」では息子金上盛実とともに奮戦するが討死した。

金上盛実【かながみもりざね(1551~1590)】

金上盛備の男。1589年、父金上盛備が「摺上原の戦い」での討死した後も、越後長尾家の支援を受け伊達家に対抗する。1590年、降伏後居城である津川城代とされたが、翌年罷免された。

鹿子田国胤【かのこだくにたね(15??~1585)】

二本松畠山家臣。官途は和泉守。鹿子田家は畠山国詮の二男、満詮を祖とする。畠山義継が伊達輝宗を殺害したとき従っていた。

鹿子田継胤【かのこだつぐたね】

鹿子田国胤の男。官途は日向守。

河口左衛門佐【かわぐちさえもんのすけ(15??~15??)】

大沼郡玉綱城主。山ノ内家枝連衆。1578年、芦名盛氏に謀反した大槻左衛門を討ち取る。1589年、伊達政宗に従い横田城主山内氏勝と戦う。

河原田盛頼【かわらだもりつぐ(15??~1591)】

伊南郡駒寄城主。1543年、芦名盛氏は横田城主山内俊清と奥会津の伊北、伊南郡に侵攻した。河原田盛頼は駒寄城に籠城して抵抗するが、同じ奥会津衆の山内家と違い背後地に味方を持たない河原田盛頼は降伏するが国人領主として独自性をもったまま伊南郡を支配した。1580年、葦名盛氏が死去すると芦名家の家督は芦名(二階堂)盛隆が継ぎますが、1584年、葦名盛隆は家臣に謀殺され、さらに子の葦名亀若丸も早世して葦名家臣団は混乱をきたします。家臣団は佐竹義重の次男義広派と米沢城主伊達政宗の弟竺丸派に分裂して対立しますが、1587年、芦名(佐竹)義広が葦名家の家督を継承することで内訌は終結します。伊達政宗は執拗に会津侵攻を繰り返し、1589年の「摺上原の戦い」で葦名勢を撃破、葦名義広を常陸に追い落として会津制圧に成功しました。1590年「摺上原の戦い」時に河原田盛次は檜原口を守備するため大塩に出陣していましたが、葦名勢の敗報と葦名義広の敗走を聞き伊南郷に帰陣しました。会津盆地を制圧した伊達政宗は奥会津への勢力拡大を図り、降伏した南山鴫山城主長沼盛秀を仲介に河原田盛次の帰順を求めますが、河原田盛次は横田中丸城主山ノ内氏勝と結びこれを拒否し駒寄城主の籠城するが、劣勢を覆すことが出来なかった。長沼盛秀は山内方の布沢城を攻略、さらに梁取城、泉田城を落城させ河原田盛次を孤立させましたが、駒寄城を陥落させるまでには至らなかった。1590年、河原田盛次にもたらされると、盛次は雪解けとともに長沼領に侵入しましたが、劣勢を挽回するにはいたりませんでした。1591年、小田原北条家が羽柴秀吉に降伏すると、羽柴秀吉は黒川城で「奥州仕置」を実行し河原田家は所領を没収されました。

河原田盛次【かわらだもりつぐ(15??~1591)】

河原田盛頼の男。官途は治部少輔。1543年、芦名盛氏に降伏。1589年「摺上原の戦い」でも芦名方として片倉景綱隊と戦う。敗戦により本領へ戻るも、久川城を築いて伊達政宗に抵抗、越後長尾景勝に属す。1590年、伊達政宗方についた長沼盛秀と戦っている。その後、佐竹盛重を頼って常陸へ遁れ、子孫は佐竹家臣となる。

河原田家臣団【かわらだけかしんだん】

馬場美濃守、伊南源助、芳賀入道浄円、馬場伯耆守、五十嵐和泉守、中丸新九郎、須田伊豆守、小沼越中守、濱野帯刀、白沢大隅守。

菅家善高【かんけよしたか(15??~15??)】

大塩中山城代。山ノ内家臣。通称太郎左衛門。山ノ内四天王の一人。菅家は、越後国の押えとして大塩中山城代として在城した。「松坂峠の戦い」にて奮戦する。

慶徳舜範【けいとくきよのり(15??~15??)】 

慶徳館主。芦名家臣。

慶徳範重【けいとくのりしげ(15??~15??)】 

平田舜輔の男。慶徳舜範の養子。通称善五郎。1584年、謀叛を起こした松本太郎、松本勝次郎を討つ。1584年、原田左馬助宗時が侵攻してきた際はこれを撃退し、追撃したが片倉景綱の迎撃を受けた。平田氏範の養父。

懸田俊宗【けんだとしむね(15??~1533)】

伊達郡懸田城主。伊達稙宗家臣。伊達稙宗の娘婿。相馬家と婚姻関係で強く結ばれる。1541年、伊達晴宗に幽閉された伊達稙宗を相馬家臣草野直清の親類である草野肥前と共に盗み出して「懸田城」に匿った。伊達晴宗、相馬顕胤いずれも軍勢を出すが、伊達晴宗は相馬顕胤の軍勢を見ると懸田城に攻め込んだため籠城戦となる。1542年、伊達晴宗が再び稙宗を西山城に幽閉したため、相馬に使者を送る。相馬顕胤は懸田城南東の山に小屋掛けし、和解の交渉に努めた。相馬家の老臣と伊達家の老臣とが何度も対談したが、伊達晴宗は承諾しなかった。結局、伊達稙宗は側近、小梁川宗朝によって救出されている。1543年、懸田、相馬は懸田城を中心に布陣。奥羽諸大名を巻き込む「天文の乱」において伊達稙宗派として戦った。1548年「天文の乱」が将軍・足利義輝によって仲裁されると、その折に伊達晴宗が出した和睦の条件、「懸田城撤廃」を不服として再び俊宗と共に晴宗と争った。1553年、家臣の中島宗忠、桜田右兵衛、玄蕃父子らの寝返りが原因で敗れ、懸田俊宗と共に晴宗に切られて懸田家はここに滅亡したとなっている。岩城重隆、伊達晴宗の攻撃を受けるが凌ぐ。乱の収束に懸田城を廃城にする講和条件があり不満を持つ。1552年、伊達晴宗に対して、息懸田義宗とともに謀反した。娘は相馬義胤室。

懸田義宗【けんだよしむね(15??~1553)】 

懸田俊宗の男。1541年、伊達晴宗に幽閉された稙宗を相馬家臣草野直清の親類である草野肥前と共に盗み出して「懸田城」に匿った。伊達晴宗、相馬顕胤いずれも軍勢を出すが、晴宗は相馬顕胤の軍勢を見ると懸田城に攻め込んだため籠城戦となる。顕胤は近くの山に布陣し、状況を見ながら懸田城と晴宗の両者に使者を送り、何度も晴宗の非行を諭そうと試みた。稙宗を伊達郡越河の屋形に移すことで事態は収まったが、このとき伊達稙宗の提案で稙宗次女を懸田俊宗の後室(先年に奥を亡くしている)に、懸田義宗の提案で義宗娘を孫次郎(相馬盛胤)の正室にと約束し三者は杯を交わした。

菊池顕綱【きくちあきつな(15??~1585)】

安達郡小手森城主。小手森菊池家は肥後国の名門菊池家の枝連衆で、南北朝時代に南朝・後亀山天皇の命で奥州に入り、小手森一帯に領地を得た。 1579年、三春城主田村清顕の一人娘愛姫が出羽国米沢城主伊達輝宗の嫡男伊達政宗に嫁ぐため三春から米沢へ向かう途中、小手森周辺の田向舘で宿泊し、菊池顕綱は愛姫一行を大いに歓待し、伊達家、田村両家から感謝の意をこめて太刀馬などを贈られたという。1585年、家督を継いだばかりの伊達政宗が、大内定綱討伐のため小手森城へ来襲。菊池顕綱は縁組関係のあった大内定綱に組し、小手森城に籠もった。菊池顕綱は城の明け渡しと城からの退去を政宗に申し出るが、伊達政宗は拒否し、総攻撃を開始、菊池顕綱をはじめとする城兵だけでなく城に籠もった女・子供など約800人を討ち取った。菊池顕綱の長男菊池武憲は津島の母方の実家へ落ち延びた。

栗村盛種【くりむらもりたね(15??~15??)】

葦名家臣。官途は下総守。1533年、松本良輔とともに諏訪社の総論を裁許。1540年、諏訪社再建の棟札にも名が載る。謀反を起こして討たれた栗村盛胤の養父。

栗村盛胤【くりむらもりたね(1557~1584)】 

葦名家臣。新国貞通の男。栗村盛種の養子。官途は下総守。1584年、松本行輔とともに謀反を起こして黒川城に籠るが、赤塚藤内により討たれた。

郡山頼祐【こうりやまよりすけ(15??~15??)】

安積郡郡山城主。通称太郎右衛門尉。1588年、佐竹、芦名、岩城、二階堂、白河結城、石川各諸家の反伊達連合軍は伊達方の郡山頼祐が守る郡山城攻めのため安積郡に侵攻した。連合軍が郡山城に押し寄せたとの急報を宮森城で聞いた伊達政宗は、宮森城から杉田に部隊を前進させたが、最上、大崎、相馬勢にも備えねばならず、わずか兵8,000の少勢であった。伊達勢から郡山城に援将として、大町宮内少輔、中村主馬助宗経、塩森六左衛門尉、小島右衛門尉を鉄砲200挺とともに送った。

小桧山盛季【こひやまもりよし(15??~15??)】

芦名家臣。

小桧山盛長【こひやまもりなが(15??~1555)】

小桧山盛季の男。通称藤八郎。1555年、松本輔敦とともに謀反を起こしたが鎮定された。

小梁川宗朝【こやながわむねとも(1469~1565)】

伊達稙宗家臣。小梁川盛宗の男。小梁川家は伊達家枝連衆。若い頃は京に出て、兵法、剣術の修行をしていたが、将軍足利義晴に召しだされる。伊達稙宗も奥州より黄金を贈って扶持したという。帰国してのちは伊達稙宗に仕えた。1542年、伊達稙宗が嫡子伊達晴宗に幽閉されると、これを救い出した。「天文の乱」では伊達稙宗方として戦い、伊達稙宗が隠居して丸森城に退くとこれに従った。伊達稙宗の死後は墓前で殉死した。

小梁川宗秀【こやながわむねひで(1510~1570)】

小梁川宗朝の男。1570年、中野宗時の反乱を鎮圧。新田景綱とともに先陣を勤め討死する。

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【さ】

斎藤伊豆守【さいとういずのかみ(15??~15??)】

山ノ内家臣。鎌倉よりの譜代で、山ノ内家四天王の一人。

佐瀬常昌【させつねまさ(15??~15??)】

芦名家臣。

佐瀬常教【させつねのり(15??~15??)】

佐瀬常昌の男。官途は大和守。1536年、黒川実成寺に諸役免除の書状を発給している。1578年「大槻政通、山内重通の乱」では鎮圧に赴いた。

佐瀬常和【させつねかず(15??~15??)】

佐瀬常昌の次男。官途は信濃守。主君芦名盛氏の息子盛興と伊達晴宗の娘との婚姻の際に使者を務める。甲斐武田家との外交交渉も担当した。

佐瀬種常【させたねつね(15??~1589)】

佐瀬常教の男。官途は大和守。不及斎と号す。1538年、大火で芦名盛氏の居館も焼失した際、再建されるまで芦名盛氏も種常邸に住んだ。「猪苗代盛頼の乱」では鎮圧軍として活躍。陸奥耶麻郡中田村の六斎市を管理した。1589年「摺上原の戦い」で討死した。

佐瀬常秀【させつねひで(15??~1560)】

佐瀬常教の次男。通称伝七郎。1560年、那須家、佐竹家と白河結城晴綱が戦った際、白河結城晴綱の救援に派遣されて武者奉行を務めたが、家臣の岡孫左衛門により暗殺された。

佐瀬常雄【させつねお(1572~1589)】

富田氏実の次男。佐瀬種常の養子。通称平八郎。1589年、養父佐瀬種常とともに「摺上原の戦い」に出陣したが大敗、敗走中に討死した。

佐瀬常成【させつねなり(15??~15??)】 

佐瀬常和の次男。中ノ目式部大輔の弟。官途は河内守。通称伝兵衛。1584年、関柴備中守攻め中の兄中ノ目式部大輔を応援するため300騎を率いて出陣した。1584年「松本太郎行輔の乱」では黒川城に急行してこれを鎮圧。

沢神但馬守【さわがみたじまのかみ(15??~15??)】

石橋尚義家臣。

塩田重政【しおたしげまさ(15??~15??)】

岩瀬郡細桙城主。二階堂家臣。官途は因幡守。

塩田政繁【しおたまさしげ(1554~1589)】

塩田重政の男。官途は右近大夫。1589年、落城後は石川郡に隠れ住んだが、塩田一族を伊達政宗は石川昭光に命じて謀殺した。

新城村尚【しんじょうむらなお(1485~1554)】

安達郡椚山城主。畠山政国の次男。畠山義国の実父。二本松義綱の後見役。1586年、伊達家の侵攻に耐えきれず会津に敗走した。

新城国常【しんじょうくにつね(15??~15??)】

新城村尚の男。心安斎淨閑と号す。

新城信常【しんじょうのぶつね【(15??~1586)】

新城国常の男。官途は弾正忠。畠山義継の従兄弟にあたる。1571年、田村清顕の書状に既に見えている。畠山義継が伊達輝宗を殺害し、伊達政宗に殺されてから畠山義継嫡子の国王丸と重臣が籠城したときに中心的人物として活躍した。武功の者という。

須江光頼【すえみつより(15??~15??)】

芦名家臣。越後長尾家、伊達家との外交交渉に活躍した。

須佐信清【すさのぶきよ(15??~15??)】

大沼郡横田の須佐信宗の子、山内四家老の一人で大善と称す。1589年、伊達勢奥会津侵攻のとき奮戦した。諏訪因幡守子豊後佐信昌、文明年中始め信濃より移る。須佐信昌の孫信が山之内家臣となり、諏訪を須佐と改める。

須佐信重【すさのぶしげ(15??~15??)】

須佐大善信清の男。官途は下総介。伊達政宗政が奥会津に侵攻した時、山内氏勝を助けて奮戦する。父子で戦うも、松坂峠にて敗れる。

須佐門之丞【すさもんのじょう(15??~15??)】

須佐大善信清の次男。山ノ内氏勝の足軽大将を務める。1589年「松坂峠の戦い」では、須佐門之丞と、その子須佐孫六と親子で奮戦する。

杉岸伯耆守【すぎぎしほうきのかみ(15??~15??)】

伊南郡宮沢館主。河原田家臣。1584年、芦名盛氏が河原田家を攻めた時、芦名盛氏勢の将種橋藤十郎を討取る。

杉目直宗【すぎめなおむね(15??~1584)】

信夫郡杉目城主。伊達晴宗の六男。1578年、父伊達晴宗死後、信夫郡杉目城に入り杉目家を称したが、嗣子なく杉目家は断絶した。

須田秀行【すだひでゆき(15??~15??)】

岩瀬郡和田城主。二階堂家臣。

須田盛秀【すだもりひで(1530~1625)】 

二階堂盛義家臣。官途は美濃守。二階堂盛義が亡くなりその後を継いだ二階堂行親も早世すると、二階堂盛義の後室大乗院(伊達晴宗娘)を助け須賀川城の実質的な城代となる。須田盛秀は佐竹義重と手を結んで伊達政宗と対立するが、1589年「摺上原の戦い」で葦名義広が大敗して葦名家が滅亡すると、伊達政宗に須賀川城を攻められた。須田盛秀は須賀川城に籠城して伊達軍に徹底抗戦したが落城した。須田盛秀は落城後、自らの居城和田城を自焼して常陸に落ち、佐竹義宣に仕え、茂木城主として須賀川衆と呼ばれた二階堂旧臣などおよそ百騎(茂木百騎)を預けられた。

須田秀広【すだひでひろ(1572~1589)】

須田盛秀の男。1589年、須賀川落城時に討死した。

須田源蔵【すだげんぞう(15??~15??)】

岩瀬郡川中宿古館主。二階堂家臣。須田秀信の男。弘治、永禄期に白河結城家と戦う。

関柴輔充【せきしばすけのり(15??~15??)】

松本家枝連衆族。

関柴輔弘【せきしばすけひろ(15??~15??)】⇔松本備中守。

関柴輔充の男。官途は備中守。1585年、伊達家に内応し、伊達政宗は原田宗時らを派遣。これに対して葦名家は中目式部大輔らを迎撃に出して伊達勢を撃退、関柴輔弘も沼沢出雲により討たれ、一族郎党は伊達家を頼って落ち延びた。

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【た】

高玉村継【たかたまむらつぐ(15??~15??)】

安積郡高玉城主。二本松畠山家枝連衆。

高玉頼継【たかたまよりつぐ(15??~15??)】

高玉村継の男。官途は紀伊守。1551年、高玉頼継の代には高玉、石筵、横川を治めていた。

高玉常頼【たかたまつねより(15??~1589)】

高玉頼継の男。1589年、芦名家の混乱に乗じて芦名領を狙う伊達政宗に攻撃され、高玉常頼と女婿の荒井新兵衛政頼は奮戦したが、大激戦を演じ奮戦するが、城主以下60名全員が討死し落城したといわれる。伊達政宗は残された全ての将士を撫切りにせよと命じ、民百姓、女子供300人から牛馬に至るまで惨殺した。高玉山常円寺にある高玉常頼夫妻の碑は、高玉常頼の妹婿で義兄と運命を共にした荒井新兵衛政頼の一族荒井定高が建立したもの。

伊達稙宗【だてたねむね(1488~1565)】

伊達郡桑折西山城主。伊達尚宗の男。1514年、父伊達尚宗の死去にともない家督を相続した。最上家、葛西家、岩城家などと抗争を繰り返して勢力を急激に拡大した。1517年、将軍足利義稙の上洛祝賀の為として多額の進物を送り、管領細川高国を通じて左京大夫任官と一字拝領とを願い出て許され、偏諱を受けて名を伊達稙宗に改めた。1532年、居城を梁川城から西山城に移し、1536年、169条に及ぶ分国法『塵芥集』を制定するなど、体制の強化に努めた。三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣や婿の相馬顕胤への伊達領割譲などの問題をめぐって長男伊達晴宗や桑折景長、中野宗時ら家臣団と対立を深めた。1542年、伊達晴宗に捕縛されて西山城に幽閉された。しかし、伊達稙宗は小梁川宗朝によって救出されると奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、奥州全体を巻き込む形で「天文の乱」が勃発する。この争いは当初稙宗方が優勢だったが、1547年に味方であった蘆名盛氏が伊達晴宗に寝返ったことで、一転して戦況が不利に傾いた。1548年、伊達晴宗に降伏する形で和睦し、家督を伊達晴宗に譲って亘理郡丸森城に隠居することを余儀なくされた。

伊達実元【だてさねもと(1527~1587)】

信夫郡大森城主。伊達稙宗の三男。縁戚である越後守護上杉定実の養子に入ることになり、上杉定実から一字を拝領して実元と名乗るなど準備が進められた。現在伊達家の家紋として有名な「竹に雀」はこの時に名刀「宇佐美貞光」と共に実元に贈られた引出物である。ところが、伊達稙宗が越後に向かう実元に家中の精鋭100騎を随行させようとしていることを知った実元の兄伊達晴宗が、伊達家の弱体化を恐れてこれに反発し、1542年、伊達晴宗が伊達稙宗を幽閉したことで「天文の乱」が勃発した。伊達実元は伊達稙宗に従って信夫郡で奮戦したが、乱に勝利した伊達晴宗が家督を継ぐと伊達晴宗の次女を娶って大森城主となり、米沢城に居城を遷した伊達晴宗に代わって信達地方の統治を担い、甥伊達輝宗の代には田村家、相馬家と戦って隣接する畠山家、大内家ら近隣の小大名を支配下へと組み込んでいった。1584年、嫡男伊達成実に家督を譲り、八丁目城に隠居し棲安斎と号したが、引き続き一族の長老として外交、調略に従事し、伊達成実と共にたびたび伊達政宗の苦境を救った。

伊達成実【だてしげざね(1568~1646)】

伊達実元の男。幼少の頃には、時宗の僧了山和尚(伊達郡粟野村の専念寺住職)を師として学問を修めた。1579年、大森城にて元服(烏帽子親は伊達輝宗)。1584年、家督を継いで大森城主となり、伊達領南方の抑えを担う。1585年「人取橋の戦い」では、伊達勢が潰走する中にあって奮戦して伊達政宗を逃がす。1586年、二本松城主となり、安達郡38,000石の所領を与えられた。1588年「郡山の戦い」では、寡兵で蘆名義広の攻勢をしのぐ一方で大内定綱を調略して帰参させ、1589年「摺上原の戦い」では、突出した敵の側面を強襲して合戦序盤の劣勢を覆すなど、伊達勢の中核として活躍し数々の軍功を挙げた。1590年、伊達政宗が羽柴秀吉の「小田原攻め」に参陣した際には、黒川城に残って留守居役を務めた。1590年「葛西大崎一揆鎮圧」にも従軍したが、一揆煽動が露見して伊達政宗が羽柴秀吉に上洛を命じられると、国分盛重と共に蒲生氏郷への人質として名生城に入った。1591年、伊達政宗の岩出山城への転封に伴い、伊達成実は、亘理郡角田城へ転封になった。1595年、伏見に居た伊達成実は突如として伊達家を出奔し、角田城は伊達政宗の命を受けた岩出山城留守居役の屋代景頼によって接収され、この際に抵抗した成実の家臣・羽田実景ら30人余が討死し、伊達成実の家臣団は解体された。

田手宗光【だてむねみつ(15??~15??)】

伊達郡伊達崎城主。田手家は、伊達郡の地頭職に任ぜられた伊達朝宗の六男六郎実綱が朝宗から伊達崎郷を分知され伊達家の庶流から始まる。伊達実綱の家系は伊達崎家を称しますが、惣領伊達家と名字が似通っていたため田手家を名乗った。1542年「天文の乱」では一族の田手治部丞、田手石見守、田手隼人が稙宗方に与して没落し、嫡流とされる田手助三郎は晴宗方に与して、乱後 伊具郡西根の総成敗職や郡内に新領を与えられました。実烈の嫡子式部宗光は伊達輝宗の代に相馬家に対する抑えとして角田城の城将に任ぜられましたが、相馬家に内通したため後に隠居を申し渡され、その後 宗光の嫡子式部宗時が角田城の城代に任ぜられました。

田手宗時【だてむねとき(15??~15??)】

田手宗光の男児。1581年、田手宗時は相馬家との合戦で討死にしました。田手家は天正末期まで本貫地伊達崎を保持していた。1591年、伊達政宗が岩出山に転封になると、柴田郡小泉城に移った。

太郎丸掃部【たろうまるかもん(15??~1589)】

耶麻郡太郎丸村豪族衆。芦名家臣。1584年、伊達政宗の侵攻に降る。1589年「摺上原の戦い」に鉄砲隊を率いて従軍したが、富田隆実により討たれた。

寺坂信濃守【てらさかしなののかみ(15??~15??)】

安達郡寺坂城主。石橋尚義家臣。

富田滋実【とみたしげざね(1520~15??)】

官途は左近将監。葦名家四天王の一人。1538年「黒川城下大火」のときから確認できる。1541年、猪苗代盛頼の乱では鎮圧軍を率いた。1566年、伊達家と和議を結んだ際起請文にも署名。富田家は松本家と同様、会津地方土着の在地豪族衆である。

富田氏実【とみたうじざね(15??~15??)】

富田滋実の男。官途は美作守。1572年、領内の境界争いの調停に当たる。1578年「大槻政通、山内重勝の乱」では鎮圧に赴く。1583年、会津に寄寓していた小笠原長時が暗殺されたが、場所は富田氏実邸であった。1586年の葦名亀王丸死後の継嗣問題では伊達小次郎を推すが、結局佐竹義広の入嗣となった。しかし葦名義広に随身してきた佐竹家臣の大縄、刎石家らと領内仕置をめぐって対立した。1587年越後における葦名家の拠点赤谷城が長尾景勝に攻められた際、城主小田切三河守救援に派遣されたが失敗に終わる。直江兼続に葦名家、長尾家の融和を求める書状を出した。1589年「郡山の戦い」の際、石田三成から書状を受けたとゆう。1589年「摺上原の戦い」では左備を担当して息子隆実を先陣させたが大敗を喫す。結局平田左京らと謀って葦名盛重を黒川城から追い出し、伊達政宗に服属した。その後なおも抵抗を続ける山内氏勝討伐にも従軍。

富田隆実【とみたたかざね(1569~15??)】

富田氏実の男。官途は左近将監。伊達政宗の策謀によって芦名家臣は崩壊の危機にあったが、隆実は最後まで主家への忠誠を掲げた。1589年「摺上原の戦い」では500騎を率いて先鋒を務め、父富田氏実が内通しても、自身は葦名盛重を擁護すべく奮戦した。猪苗代盛国、原田宗時、片倉景綱隊を撃破したが、太郎丸掃部隊の鉄砲攻撃を受け、掃部を討つも苦戦した。その後は葦名盛重を追って常陸へ遁れたが、1590年、葦名盛重が二本松畠山義綱を討ったためそのもとを離れたといわれる。芦名家滅亡後は、相馬家に仕えた。

富塚仲綱【とみづかなかつな(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。伊達稙宗の下で評定衆として『塵介集』や『蔵方の掟』に連署した。1542年「天文の乱」では伊達稙宗側について戦ったが討死した。

富塚宗綱【とみづかむねつな(1540~1613)】

富塚仲綱の男。富塚仲綱が天文の乱の際に稙宗に与して戦死した為、伊達晴宗により所領を没収されたが、懸田俊宗のとりなしにより一部が復した。伊達輝宗、伊達政宗の時代には宿老の一人として重用された。1592年「文禄の役」で政宗が肥前名護屋城に向かった後は岩出山城の留守役を務めた。

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【な】

中島宗忠【なかじまむねただ(15??~15??)】

伊達郡保原城主。懸田俊宗家臣。官途は伊勢守。

中島宗求【なかじまむねもと(15??~15??)】

中島宗忠の男。1542年「天文の乱」に伊達晴宗派。父中島宗忠の代から伊達家に仕えた。中島宗求は次男で、兄中島信利の討死により家督を継いだ。相馬家の駒ヶ峰城攻略などで戦功を挙げた。1595年、主君の伊達政宗が関白羽柴秀次の謀反に関わりを持ったと、羽柴秀吉から疑いを掛けられた時は湯目景康と共に秀吉に愁訴し疑いを解くのに尽力した。

中ノ目式部大輔【なかのめしきぶたいゆう(15??~15??)】

佐瀬常和の男。佐瀬常成の兄。他家に入っているので庶兄。1584年、慶徳善五郎とともに伊達勢を迎撃し、離反した関柴備中守を討ち獲る。

長沼実国【ながぬままさくに(15??~1553)】

奥会津南山(鴨山城)城主。1521年、長沼実国は会津に侵攻、芦名盛舜はつかさず南山城に反撃を加えるが、芦名家中の内訌が発生。長沼実国はことなきを得た。芦名盛舜は伊達家と結んで、北方を固め、会津守護の立場を確立しようとした死去した。その跡を継い 長沼盛氏は南会津統一のため山内氏についで、実国の鴨山城を攻めた。伊達輝宗との対立が表面化し、結城白川家が佐竹家と結ぶに至って、葦名盛氏の眼は東に向けられた。1568年、芦名盛氏は向羽黒岩崎城に入り、南会津を押さえる山城とした。長沼実国は、戦国大名に成長した芦名盛氏と同盟を結んだ。

長沼盛秀【ながぬまもりひで(1544~1590)】

長沼実国の男。通称弥七郎。官途は兵庫。下野小山家枝連衆。下野、陸奥国境に勢力を張る。父長沼実国の代までは、芦名盛舜、芦名盛氏と激しく争った。1589年「摺上原戦い」には派兵せず、伊達政宗に降伏した。1590年、河原田盛次攻めに従軍し、河原田盛次家臣河原田盛勝と戦って負傷し、これがもとで死去した。息子長沼盛重は伊達家に仕えた。

中丸三郎左衛門【なかまるさぶろうさえもん(15??~15??)】

伊北郡小林館主。山ノ内家臣。1589年、長沼盛秀、布沢上野助に攻め落される。

二階堂輝行【にかいどうてるゆき(1508~1557)】 

岩瀬郡須賀川城主。二階堂晴行の男。官途は駿河守。伊達、芦名、田村家ら隣接勢力と度々抗戦したが、今泉城を田村家に奪われるなど苦戦した。

二階堂盛義【にかいどうもりよし(1532~1581)】 

二階堂輝行の男。官途は遠江守。室は伊達晴宗の女(大乗院)。1563年、横田松山城をめぐって芦名盛氏と激しい攻防を繰り返したが、息子二階堂盛隆を人質に出してこれと和した。その後父二階堂輝行の代に田村家に奪われていた今泉城を芦名家の協力のもと奪還した。1575年、二階堂盛義が葦名家を継ぐこととなると、二階堂家は芦名家と一体となり、二階堂盛義死後は芦名宗家に吸収されることとなる。

二階堂盛隆【にかいどうもりたか(1561~1584)】⇔葦名盛隆【あしなもりたか】 

二階堂盛義の男。1565年、父二階堂盛義が芦名盛氏に敗れて降伏したとき、人質として会津の葦名盛氏のもとに送られた。1575年、芦名盛興が継嗣を残さずに早世すると、二階堂盛興未亡人彦姫を室に迎えた上で、芦名盛氏の養子となって芦名の家督を相続した。1580年、芦名盛氏が死去すると芦名家の実権を掌握する。1581年、家臣の金上盛備を上洛させて織田信長に名馬三頭、蝋燭1000挺を献上して誼を通じ、会津守護職を認めさせることに成功した。1581年、越後国で新発田重家が越後長尾景勝に反旗を翻すと、伊達輝宗と共に介入して新発田重家を支援した。南奥の諸大名とも誼を通じて北進する佐竹義重に対抗している。芦名家の当主となった芦名盛隆は、父二階堂盛義と共に葦名家の力を用いて衰退していた実家の二階堂家の勢力回復に務めた。二階堂家からの人質であった芦名盛隆に反感を抱く家臣による反乱がたびたび起こった。1584年、葦名盛隆が出羽三山の東光寺に参詣した隙を突かれて栗村盛胤、松本行輔らに黒川城を占拠されたが、芦名盛隆はこれを素早く鎮圧し、岩瀬郡長沼城主新国貞通を攻めて降伏させた。1584年、黒川城内で寵臣であった大庭三左衛門に襲われて死亡した。

二階堂行親【にかいどうゆきちか(1570~1585)】

二階堂盛義の次男。父二階堂盛義の死後、葦名家の養子になった兄に代わって二階堂家当主となるが16歳で没した。二階堂行親死後は二階堂盛義の未亡人阿南(おなみ)の方(大乗院)が須賀川城主となり、家老の須田盛秀が実質的な城代となった。1589年、伊達政宗に攻め滅ぼされるまで領内を統治した。

二階堂家四天王【にけいどうけしてんのう】

遠藤勝重、須田盛秀、矢部義政、守屋俊重。

新国貞通【にっくにさだみち(15??~15??)】

岩瀬郡長沼城代。芦名家臣。官途は上総介。1566年、長沼城代。1576年、長沼城が佐竹義重、田村清顕らに攻められたときこれと激闘して守り抜いた。1588年、宇都宮家臣君島高胤かより主君宇都宮国綱への祝儀に対する礼状が新国貞通に送られている。芦名家滅亡後は伊達家に服属したが、蒲生氏郷の会津入部後はこれに仕えた。

沼沢政重【ぬまざわまさしげ(15??~15??)】

沼沢城主。 

沼沢実通【ぬまざわさねみち(15??~15??)】

大沼郡丸山城主。山内家枝連衆。官途は出雲守。1558年、山内俊政、横田俊範が松本舜輔の岩谷城を攻略した際、彼らの助命を訴えて許された。1575年、前年に戦死した松本氏輔の所領を与えられた。1585年、伊達家に内応した関柴備中を討取る。1589年「摺上原の戦い」後は葦名盛重とともに、常陸の佐竹家へ落ち延びた。

沼沢忠通【ぬまざわただみち(1575~1647)】

沼沢実通の男。1589年、芦名家滅亡により父沼沢実通とともに芦名義広に従って常陸佐竹家の元に逃れた。1590年、芦名義広に反逆した二本松左馬之介を討った。

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【は】

畠山村国【はたけやまむらくに(1475~1542)】

安達郡二本松城主。畠山政国の男。官途は右馬頭。足利枝連衆で奥州探題を務めた名門だが、畠山村国の時代には安達郡二本松城周辺に所領を持つ、国人領主となった。

畠山家泰【はたけやまいえやす(1512~1564)】

畠山晴国の男。通称は二本松七郎。伊達家、葦名家の南奥州の強国に挟まれ、家中がまとまらず若くして没する。

畠山義氏【はたけやまよしうじ(1530~1547)】

畠山晴国の次男。官途は信濃守。通称二本松七郎。次男であったが兄早世を受けて家督を継ぐ。1547年「天文の乱」では伊達稙宗方に味方した。畠山家泰、義氏共に早世したので父畠山村国の弟で新城村尚の嫡子、畠山義国が後継となった。

畠山義国【はたけやまよしくに(15??~1521)】

新城村尚の男。官途は右京亮。宗家の畠山義氏の死後継嗣がなかったため、1547年、家督を継ぎ宗家を相続。安達郡二本松城主となる。嫡流であった畠山満国の裔、本宮宗頼が一門から当主を迎えたことに不満をもち、謀叛を企てたが露見して畠山義国が討伐した。1551年、蘆名家と田村家の抗争に関して、畠山義国は白河結城晴綱とともに和議を斡旋した。

畠山義継【はたけやまよしつぐ(1552~1585)】

畠山義国の男。官途は右京亮。通称二本松七郎。1574年、伊達家との交渉に当たる。1580年、父畠山義国の死を受けて畠山家督を後継した。南奥に覇を競う芦名家、伊達の両家に挟まれて苦慮し、芦名家について伊達家と対立した大内定綱を擁護したため伊達政宗の攻撃を受けた。畠山義継は和議を申しこむが決裂し、さらに伊達政宗の父伊達輝宗を仲介することとなったが、このとき伊達輝宗を人質にして本城を目指すも伊達勢に包囲され、阿武隈河畔において伊達輝宗もろとも銃撃を受けて討死した。

畠山義綱【はたけやまよしつな(1574~1589)】

畠山義継の男。幼名は国王丸。1585年、畠山家督を継ぐが、伊達政宗の怒りのさなかであり、1586年、相馬家の斡旋もあって会津黒川へ逃れた。1589年「摺上原の戦い」に敗れて芦名盛重を頼る。その後常陸国に戻った芦名盛重の家臣沼沢出雲守によって殺害された。

畠山国次【にほんまつくにつぐ(15??~15??)】

畠山義継の次男。父畠山義継の横死後は会津へ逃れ、芦名家臣富田氏実の庇護を受けた。芦名家滅亡後は芦名盛重を頼って兄畠山義綱とともに常陸へ赴くが、1590年、兄芦名盛重に殺害されると会津へ戻り、のち越後長尾景勝に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では最上家と戦う。のち加藤嘉明に仕えたが、1643年、加藤家が改易されると水野忠善に仕えた。

畠山晴国【はたけやまはるくに(15??~15??)】

畠山村国の男。通称弥太郎。官途は右馬頭。

畠山家臣団【はたけやまけかしんだん】

浜尾儀泰【はまおよしやす(15??~15??)】

二階堂家臣。官途は駿河守。

浜尾行泰【はまおゆきやす(1543~1623)】

浜尾儀泰の男。官途は駿河守。1589年、伊達政宗の須賀川城攻めに際して、嫡男浜尾盛泰、次男浜尾宗泰とともに伊達政宗に内応「須賀川城攻め」の先陣をつとめた。以後伊達政宗に仕えた。1600年、伊達政宗による「白石城攻め」にも従軍した

浜尾盛泰【はまおもりやす(15??~15??)】

浜尾行泰の男。官途は駿河守。

浜尾宗泰【はまおむねやす(15??~15??)】

浜尾行泰の次男。官途は豊前守。

針生盛幸【はりゅうもりさち(1515~1553)】

芦名盛滋の次男。芦名家枝連衆。官途は民部大助。黒川城西丸に居住、西丸殿と呼ばれた。耶麻郡針生を領していた為、姓を「針生」と改め別家を興し、芦名枝連衆として四宿老を上回る家中最上の家格となった。父芦名盛滋が隠居した際、男子がなかったために、芦名盛滋は弟の芦名盛舜へ家督を譲ったが、芦名盛滋の隠居中に芦名盛幸が生まれた。芦名家の家督は、芦名盛舜の系統が代々受け継いだため、芦名盛幸が家督を受け継ぐ事はなかった。

針生盛秋【はりゅうもりあき(1538~1562)】

針生盛幸の男。

針生盛貞【はりゅうもりさだ(15??~15??)】

針生盛幸の次男。

針生盛信【はりゅうもりのぶ(1553~1625)】

針生盛秋の男。官途は民部大輔。通称小太郎。1576年、金上盛備の子、金上盛実と席次を争っている。針生盛信は芦名盛氏の時代に台頭してきた金上盛備と家中の権勢をめぐって対立し、芦名家の分裂を招いた。芦名家では、外交を担当、越後長尾家と芦名家の盟約について交渉している。1589年、芦名家が滅亡すると、伊達政宗に仕えた。

平田宗範【ひらたむねのり(15??~15??)】

芦名家臣。1544年、渋河源左衛門尉宛の土地売買の書状に登場。1566年、血判起請文に宗範の子実範が署名している。1550年「黒川城下」の火災で焼失した諏訪社が再建されたときの棟札に、左衛門尉輔範(尾張守)が名を連ね、落成時には輔範の弟石見守盛範、長男左京亮舜範らが連署している。

平田輔範【ひらたすけのり(15??~15??)】

平田宗範の男。官途は尾張守。芦名亀王丸没後の継嗣問題では富田美作とともに伊達小次郎を推す。1589年「摺上原の戦い」では後陣を担当、息子周防守は右備を担当したが敗れた。その後他の家臣らと謀って黒川城から芦名盛重を追放、平田範政とともに伊達政宗に降伏した。山内氏勝攻めにも従軍。。

平田盛範【ひらたもりのり(15??~15??)】

平田範政の次男。官途は石見守。1538年「黒川大火」の際、平田盛範邸は無事だったので、芦名盛舜を屋敷に迎えた。

平田舜範【ひらたきよのり(15??~15??)】

蘆名家臣。平田輔範の男。官途は周防守。1568年、河田長親と連絡して越後長尾、芦名家の友好を依頼している。1578年、大槻政通、山ノ内重勝らが越後長尾景虎と結んで謀反を起こすと鎮圧に赴いた。

藤田晴親【ふじたはるちか(15??~15??)】

伊達郡藤田城主。1546年「天文の乱」では、藤田晴親は伊達稙宗方に与し没落した。1547年、藤田晴親の嫡子藤田宗和は伊達家に帰参した。

星右近【ほしうこん(15??~15??)】

山内氏勝家臣。1589年年、伊達政宗の侍大将大波玄蕃が横田の城を攻めた際、防戦し玄蕃勢を打ち破る。

堀金左京【ほりかねさきょう(15??~15??)】

伊北郡小林館主。山内俊光家臣。

保土原行有【ほどわらいくあり(15??~15??)】

岩瀬郡保土原城主。二階堂家臣。

保土原行藤【ほどわらゆきふじ(1538~1620)】

保土原行有の男。入道して江南斎と号した。保土原家は二階堂家の庶流で、岩瀬郡保土原に住してこれを名字とした。1589年、伊達政宗の須賀川攻めに際して、政宗に内応し、須賀川城攻めの先陣を務めた。矢田野義正の篭る「大里城攻め」にも参加した。和歌に優れ、政宗に和歌を詠んで贈ったほか、茶道にも嗜みの深い風雅数寄の人物で、政宗と書状のやり取りを盛んに行うなど政宗にその才能を敬われたという。

保土原重行【ほどわらしげゆき(15??~15??)】

保土原行藤の男。

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【ま】

松本宗輔【まつもとむねすけ(15??~1555)】

大沼郡船岡城主。芦名家臣。松本輔忠の男。通称与右衛門。1495年、父松本輔忠は謀反を起こした。1555年小桧山盛長とともに謀反を起こしたが失敗討死した。

松本舜輔【まつもときよすけ(15??~15??)】

松本宗輔の男。官途は図書助。休意と号す。1538年「黒川大火」では松本舜輔邸の不始末(彼が書庫内で暖をとるために火を焚いたのが火災の原因であった)から「図書助」の称号を剥奪された。1558年、山内俊政・横田俊範兄弟により居城岩谷城を落とされた。

松本氏輔【まつもとうじすけ(1535~1574)】

松本舜輔の男。官途は図書助。1566年、伊達家との起請文に署名。このときの芦名四天王の順序は松本氏輔、平田実輔、佐瀬種常、富田滋実。1574年、田村清顕を攻めた際、安積郡福原において討死した。大沼郡曹洞宗寺院松沢寺は松本氏輔が再興した。

松本行輔【まつもとゆきすけ(1569~1584)】

松本氏輔の男。通称太郎。主君葦名盛隆が羽黒山東光寺に参詣中、栗村盛胤と結んで謀叛を起こしたが、帰還した芦名盛隆によって討たれた。家督相続時に幼少であったため、領知の一部を召し上げられたのが理由。松本家は芦名家の重臣ではあるが叛臣も数多く出している。1492年、葦名盛高に背いた松本藤右衛門。1495年、芦名盛高を離反した松本備前守。1498年、芦名盛高に討たれた松本右馬允。1500年、芦名盛高に討たれた対馬守。1521年、芦名盛舜に討たれた松本大学がいる。

松本輔次【まつもとすけつぐ(15??~15??)】

松本家枝連衆。

松本輔光【まつもとすけみつ(15??~15??)】

松本輔次の男。通称左衛門。官途は伊豆守。1578年「山内重勝の乱」では鎮圧軍を率いた。

宮下大善【みやしただいぜん(15??~15??)】⇔中丸俊重【なかまるとししげ】

大沼郡宮下館主。山内家枝連衆。通称新蔵人。1589年、伊達政宗の会津侵攻により葦名家滅亡の後、次男宮下二男八郎左衛門と越後に落のびる。

宮下(中丸)俊朝【(みやしたとしとも(15??~15??)】

宮下俊重の男。名は新左衛門。中丸家の養子となる。1589年、伊達勢との戦に、猪苗代海賊衆の将として伊達勢を敗走させた。

宮下忠常【みたしたただつね(15??~15??)】

宮下俊久の男。通称宮左衛門。山内家枝連衆。

宮下俊長【みやしたとしなが(15??~15??)】

山内家枝連衆。宮下忠常の男。通称太郎右衛門。

宮崎善兵衛【みやざきぜんのひょうえ(15??~15??)】

大沼郡宮崎館主。山ノ内枝連衆。山ノ内氏勝家臣。1589年、伊達勢と「松坂峠の戦い」で、一族郎党六十余騎討死、宮崎善兵衛等奮戦した。

守屋秀重【もりやひでしげ(15??~15??)】

岩瀬郡守谷館主。二階堂家臣。

守谷俊重【もりやとししげ(15??~1589)】

守屋秀重の男。官途は筑後守。二階堂家四天王のひとり。1589年、伊達政宗が須賀川城を攻めた際、伊達政宗に内応して本丸の西方にある菩提所長禄寺に放火した。折りからの西風に煽られ炎は四方に飛び火して城と町は焼け落ち、二階堂家の敗北が決定的となった。

守谷重清【もりやしげきよ(15??~15??)】

守屋秀重の次男。官途は釆女。

守屋重国【もりやしげくに(15??~15??)】

守谷俊重の男。

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【や】

矢澤藤綱【やざわふじつな(15??~15??)】

山ノ内家臣。大塩塩沢に住む、1590年「松坂峠の戦い」で討死した。

梁川宗清【やながわむねきよ(15??~1605)】

梁川城主。伊達稙宗の八男。1543年、梁川城に居して梁川家を称した。1591年、羽柴秀吉による奥州仕置で伊達政宗が岩出山へ移された時に梁川宗清も梁川城を去り隠居して梁川鉄斎と称した。長男の梁川宗直は白石宗実の養子となり、次男の梁川宗友は村田宗殖の養子となり、梁川宗清没後、一時梁川家は断絶したが、梁川宗直の子宗元が梁川を称して再興し、準一家に列した。

箭田野行義【やだのゆきよし(1524~1583)】

岩瀬郡大里城主。二階堂家臣。官途は但馬守。二階堂家枝連衆。

箭田野義正【やだのよしまさ(1565~1623)】

箭田野行義の男。官途は安房守。1588年「郡山の戦い」では伊達方の伊東重信を討ち取る活躍をした。1589年、伊達政宗により二階堂家の須賀川城が落城すると、箭田野義正は居城の大里城に篭城し伊達軍に徹底抗戦した。箭田野義正勢の士気は高く、伊達政宗の激しい力攻めにも関わらずついに大里城は落ちなかった。後に佐竹家を頼り、佐竹家の転封に従って秋田に移った。

箭田野行正【やだのゆきまさ(1592~1643)】

箭田野義正の嫡男。

矢部豊前守【やべぶぜんのかみ(15??~15??)】

岩瀬郡越久館主。二階堂家臣。1589年、伊達家に通じて須賀川城攻略に協力し、越久350貫の所領を安堵された。

山崎彦七【やまざきひこしち(15??~15??)】

伊達郡山崎城主。伊達家臣。1542年「天文の乱」では、山崎彦七が同族山崎彦兵衛とともに伊達晴宗方に与し、乱後 伊達晴宗から所領の加増を受けた。1576年年、伊達輝宗が相馬領に侵攻した際には山崎丹後守がこれに従い参陣している。1588年、米沢城に参候した諸将の接待役として山崎丹後守が活躍している。

山ノ内俊清【やまのうちとしきよ(15??~15??)】

南会津郡(伊北郡)横川城主。官途は治部少輔。1542年、葦名盛氏と戦っており、長沼、河原田、山内家など奥会津衆は芦名家に従属するものの独立国人的な存在であった。

山ノ内舜通【(15??~15??)】

山内俊清の男。葦名家臣。 

山ノ内氏勝【やまのうちうじかつ(1540~1608)】

山内舜通の男。官途は刑部大輔。1589年「摺上原の戦い」で主家が滅んでもなお伊達政宗に抵抗したが、1590年の「奥州征伐」により所領は没収された。

山ノ内(瀧谷)俊政【やまのうちとしまさ(15??~15??)】

大沼郡瀧谷城主。山内俊清の次男。官途は摂津守。1558年、弟山ノ内俊範とともに松本舜輔の岩谷城を攻略したが、のち芦名家に臣従した。

山ノ内(瀧谷)俊基【やまのうちとしもと(15??~15??)】

山ノ内俊政の男。官途は内匠頭。1589年「摺上原の戦い」で討死した。

山ノ内(檜原)俊範【やまのうちとしのり(15??~15??)】

山ノ内俊清の三男。檜原俊景の養子。松本図書助の居城大沼郡瀧谷の巖谷城を攻め落す。

山ノ内(檜原)俊重【やまのうちとししげ(15??~15??)】

山ノ内(檜原)俊範の男。

山ノ内(野尻)氏基【やまのうちうじもと(15??~15??)】

山ノ内俊清の四男。

山ノ内(川口)俊甫【やまのうちとしほ(15??~15??)】

山ノ内俊清の五男。

山ノ内(沼沢)俊安【やまのうちとしやす(15??~15??)】

山ノ内俊清の六男。

山ノ内(沼沢)重治【やまのうちしげはる(15??~15??)】

山ノ内(沼沢)俊安の男。

山ノ内(西方)氏信【たまのうちうじのぶ(15??~15??)】

大沼郡西方城主。山内俊清の七男。官途は左馬丞。

山ノ内(西方)重勝【やまのうちしげかつ(15??~15??)】

山ノ内(西方)氏信の男。官途は右近。1578年、野沢大槻城主大庭左衛門と長尾景虎に内応、芦名盛氏に謀叛して「小巻の戦い」に敗れ自刃。

遊佐重定【ゆさしげさだ(15??~15??)】

二本松畠山家臣。官途は遠江守。遊佐重定が河内畠山家に仕え、その後二本松に来て畠山家に仕えたとあるが、伊達家の「天文の乱」にすでに重臣として遊佐美作守がいるので、その流れを組むと考えられる。

遊佐重勝【ゆさしげかつ(1560~1644)】

遊佐重定の男。官途は下総守。伊達家の調略を受けて兄遊佐丹波守らとともに内通し、主家二本松畠山家滅亡させた。

横田大学【よこただいがく(15??~15??)】

山ノ内氏勝の弟。松平元康に仕える。山ノ内氏勝は伊達政宗と合戦し難儀に及び、松平元康より冑甲、鉄炮多数賜り、山ノ内氏勝を応援する。後に越後長尾景勝に仕える。

横田出羽【よこたでは(15??~15??)】

山ノ内氏勝猶子。1589年「松坂峠の戦い」で、出羽衆に先して戦い討死した。

横田土佐守【よこたとさのかみ(15??~15??)】

大沼郡本名の地頭。山ノ内氏勝の枝連衆。山ノ内氏勝に従って戦い、戦功も多かった。1590年「松坂峠の戦い」で奮戦した。

横山道信【よこやまみちのぶ(15??~15??)】

山ノ内家臣、横山帯刀道吉次男。山ノ内氏勝の時六十里越、八十里越両口を固める。

渡部綱孝【わたべつなたか(15??~15??)】

大沼郡大登館主。山ノ内家臣。官途は長門守。1589年、伊達勢大波玄蕃が横田山内気を攻めたさい奮戦した。

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【資料Ⅰ】

岩代国(12郡/500,000石)

会津地方 266,000石

稲沼郡: 40,000石
伊北、伊南郡: 10,000石
南山郡: 18,000石
大沼郡: 74,000石
河沼郡: 20,000石
耶麻郡: 80,000石
猪苗代郡: 20,000石
安達郡: 36,000石
安積郡: 36,000石
岩瀬郡: 52,000石
信夫郡: 54,000石
伊達郡: 66,000石

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【資料Ⅱ】

芦名家四天王【あしなけしてんのう】

松本氏輔、平田輔範、佐瀬常昌、富田氏実。

石橋家四天王【いしばししてんのう】

宮森城主:大河内備中守、小浜城主:大内義綱、百目木城主:石川有信、寺坂城主:寺坂信濃守。

二階堂家四天王【にかいどうけしてんのう】

山寺館主:遠藤雅楽頭勝重、和田城主:須田美濃守盛秀、木船城主:矢部下野守義政、守屋館主:守屋筑後守俊重。

山ノ内家四天王【やまのうちけしてんのう】

斎藤伊豆守。

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【資料Ⅲ】

岩代国【いわしろのくに】

会津郡(稲沼、伊北、伊南、南山郡)
会津四郡(会津郡、大沼郡、河沼郡、耶麻郡)+猪苗代郡
仙道七郡(石川郡、信夫郡、白河郡、岩瀬郡、安達郡、田村郡、安積郡)

寺社

会津郡:伊佐須美神社
安積郡:宇奈己呂和気神社
信夫郡:東屋沼神社

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

(※)印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世・浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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