2011年7月5日火曜日

戦国日向国人名辞典

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【あ】

荒武宗名【あらたけしゅうめい(14??~1534)】

伊東祐充家臣。通称藤兵衛。別名荒武三省。都於郡四天衆のひとりで軍配者、文武両道の将。歌道にも達し京から下向した飛鳥井雅康と詠み交わした和歌が残る。1520年、伊東祐充の意向を受け都城主北郷忠相勢と戦った。1526年、「犬童長広の乱」が起こると相良長定勢に属して参陣して戦功を挙げた。1533年、伊東祐充の病没後、伊東祐武が謀反を起すと、伊東義祐、伊東祐吉を支援して伊東祐武を討取る戦功を挙げた。1534年、米良石見守らが謀反を起こし鎮圧に赴き、米良石見守勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

荒武宗並【あらたけむねなみ(15??~15??)】

荒武宗名の男。通称右京亮。御感状連判人数のひとり。

荒武宗幸【あらたけむねゆき(15??~15??)】 

伊東義祐家臣。官途は兵庫頭。別名荒武歓久。都於郡四天衆のひとり。1549年、島津忠広と伊東義祐は節句を理由に休戦を結び、相撲興行を行うことになった。島津忠広勢からは強力無双の中馬武蔵守を、伊東義祐勢からは荒武宗幸を出し勝負に及んだ。組み合いの果てに荒武宗幸が組み伏せ、ついに中馬武蔵守の頸を取った。若者たちはこれを誉めそやしたが、「めでたい節句だからこそ休戦したのであって、頸を取ったのは非道である」との声も上がった。島津忠広は守護家に援軍を要請、伊集院忠朗が日向国に侵攻し、伊東義祐勢に奇襲をかけてこれを討ち破った。伊東義祐勢は大敗して、数年に渡って続いた飫肥城の攻略は中断を余儀なくされた。

荒武宗置【あらたけむねおき(15??~15??)】

荒武宗名家臣。官途は右京亮。長倉祐省とともに連署した。

安藤下総介【あんどうしもふさのすけ(15??~15??)】

土持親成家臣。大友義鎮勢が延岡に布陣すると、土持親成の家臣奈津田弾左衛門、安藤下総介らが数十騎で応戦したが、衆寡敵せず敗退、松尾城も落城して土持親成は捕縛され、豊後国への移送中に豊後国浦辺で自刃した。

壱岐秀兵【いきひでたけ(15??~15??)】

伊東義祐家臣。官途は兵部少輔。代官職を務めた。1534年、書状を発給した。伊東義祐の代官の職掌としては代官所轄における神社遷宮祭礼での太刀などの献上や所轄の夫役の徴収などであった。

壱岐秀吉【いきひでよし(15??~15??)】

壱岐秀兵の男。通称弥六左衛門尉。

伊東尹祐【いとうただすけ(1468~1523)】

伊東祐国の男。官途は大和守。室は阿蘇惟乗の娘。側室は福永祐炳の娘。1485年、「飫肥城の戦い」で父伊東祐国が島津忠昌勢と戦い討死したため、幼少の伊東尹祐が伊東家の家督を相続した。1495年、島津忠昌に大隅国三俣院(1000町)を割譲させ和議を結んだ。1504年、都城に侵攻したが、北郷数久に撃退された。伊東尹祐は美貌の福永祐炳の娘を側室に所望したが、その娘は既に垂水又六と婚姻していたが離別させ側室に迎えた。1522年、伊東祐梁と伊東祐武を派遣し北郷数久の都城を攻撃させ支城を次々に攻略したがその陣中で病没した。

伊東祐充【いとうすけみつ(1510~1533)】

伊東尹祐の男。官途は大和守。1523年、父伊東尹祐の病没により伊東家の家督を相続したが、直後に叔父伊東祐梁も病没したため、外祖父の福永祐炳が国政の実権を掌握した。北原兼守と結び日向国南部で北郷数久と戦い、野々美谷城の割譲と北郷忠相の娘を娶ることを条件に北郷兼守と和議を結んだ。福永祐炳の専横に対し、家臣の稲津重由が謀反を起こした。1531年、「高城の戦い」で北郷兼守、島津忠広、北原兼泰らの攻撃を受け落城した。

伊東義祐【いとうよしすけ(1512~1585)】

伊東尹祐の次男。官途は修理大夫。通称六郎五郎。室は荒武宗名の娘。側室は福永源兵衛の娘(御東)。1533年、叔父の伊東祐武が伊東惣領家の家督を簒奪すると、荒武宗名の支援を受け伊東祐吉とともに伊東祐武勢を撃破った。伊東家の家督は弟伊東祐吉が継ぎ、伊東義祐は出家を余儀なくされた。1536年、伊東祐吉が病没したため、伊東家の家督を相続した。1558年、北原兼守が病没すると北原家の家督継承問題に介入して、北原兼守の内室(麻生)を馬関田右衛門佐に娶せ、北原家の家督を相続させた。1561年、「飫肥城の戦い」で島津忠親から飫肥1000町を割譲させた。1568年、「飯野城の戦い」では、島津義弘が留守の城を攻撃させたが攻落とすことができなかった。1572年、「木崎原の戦い」で島津義弘との戦いに大敗して伊東祐安、伊東祐信、落合兼置、米良重方らを失い撤退した。1577年、「櫛間城の戦い」では、島津忠長勢の反撃を受け伊東祐兵勢が敗退した。野尻城主福永祐友、内山城主野村文綱、紙屋城主米良主税助らが次々に離反すると、伊東義祐は、佐土原城を捨て大友義鎮を頼って豊後国に落延びた。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、伊東義祐は河野通直を頼って伊予国に落延びた。

伊東祐吉【いとうすけよし(15??~1536)】

伊東尹祐の三男。通称六郎十郎。1533年、伊東祐充が病没すると、叔父伊東祐武が謀反を起こし、家中で専権を振るっていた福永祐炳を謀殺した。荒武宗名、長倉祐有らに擁立された兄伊東義祐とともにこれを鎮圧したが、荒武宗名が米良石見守に破れて討死すると、長倉祐省らに擁立され、伊東家の家督を相続した。内紛に乗じて侵攻した懸土持親栄県勢を撃退した。

伊東義益【いとうよします(1546~1569)】

伊東義祐の次男。官途は左京大夫。通称六郎。室は一条房基の娘(阿喜多姫)。1560年、伊東義祐の継嗣伊東観虎丸が早世したため伊東家の家督を相続した。伊東義祐の後見を受けて伊東家の全盛期を築いた。智勇に優れた人物で、その上温厚な性格であったため父伊東義祐以上に家臣団、民衆から慕われた。家督相続後も、引き続き都於郡にあり、佐土原の伊東義祐との二頭政治が行われた。対島津義久との戦いの最中に病没した。

伊東祐兵【いとうすけたか(1559~1600)】

伊東義祐の三男(伊東義益の養子)。官途は民部大輔。通称六郎五郎。室は伊東義益の娘(阿虎)。1572年、「木崎原の戦い」で、島津義久勢と戦い大敗を喫した。1577年、島津義久勢が日向国に侵攻すると福永祐友、米良矩重らが内応、父伊東義祐が佐土原城を追われると、伊東義祐とともに大友義鎮を頼って落延びた。1578年、「耳川の戦い」で大敗にした。伊東祐兵は織田信長に接近し、羽柴秀吉に属した。1582年、「山崎の戦い」で戦功を挙げ、河内国内で500石を領した。1587年、「九州征伐」でも戦功を挙げ旧領の飫肥36,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、黒田長政勢に属し戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属したが自身は病を得て大坂にあり、伊東祐慶が帰国して軍備を整え稲津重政らが陣頭指揮を執り、石田三成勢の高橋元種の属城である宮崎城を攻撃した。伊東祐兵はそのまま大坂で病没した。

伊東祐慶【いとうすけのり(1589~1636)】

伊東祐兵の男。官途は右京亮。通称熊太郎。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属し、病に倒れた父伊東祐兵に陣代として日向国に帰国し、高橋元種の宮崎城、島津義久の佐土原城を攻撃した。「宮崎城の戦」では、松平元康勢に寝返った高橋元種勢と同士討ちの戦いになった。この戦いで伊東祐慶勢は宮崎城を攻落したが、宮崎城は役後に高橋元種に返還され、城を落とした稲津重政は責任を取って自刃した。伊東祐兵が大坂で病死したため、伊東家の家督を相続した。領内にスギの植林事業を興し、財政の基礎とした。

伊東義賢【いとうよしかた(1567~1594)】

伊東義益の男。官途は左京亮。通称三左衛門。洗礼名は「バルトロメオ」。1569年、父伊東義益が病没したため祖父伊東義祐に養育された。伊東義祐の豊後国退去に同道した。1578年、「耳川の戦い」後も大友義鎮の保護を受けた。1587年、「九州討伐」では、甥伊東祐兵が羽柴秀吉に属して参陣し、旧領を安堵されたのに対して、伊東義賢は、大友義鎮を頼って臼杵城に留まっていため、伊東家惣領家の家督を失った。書を学び、能筆であった。1592年、「文禄の役」では、李氏朝鮮と書状をやり取りする際、難読文を解読する役として奉行衆に評判が高かった。

伊東祐勝【いとうすけかつ(1569~1593)】

伊東義益の次男。通称小右衛門。洗礼名は「ゼロニモ」。父伊東義益が急死し、兄伊東義賢とともに祖父伊東義祐に養育された。伊東義祐の豊後国退去後は大友義鎮に保護された。1580年、オルガンチーノに連れられて安土のセミナリヨに赴いた。1592年、「文禄の役」では、朝鮮に渡海したが、病に倒れ帰国の途中暴風雨にあい長門国に漂着して同地にて病没した。

伊東祐武【いとうすけたけ(15??~1533)】

伊東祐国の三男。官途は武蔵守。福永祐炳が伊東祐充の権威によって反対勢力を追放処分とすると家中の反発を招いた。1533年、伊東祐充が病死すると乱を起こし、福永祐炳父子四人を自刃させ政権を簒奪した。伊東義祐を擁立する荒武宗名勢に敗れ自刃した。

伊東祐安【いとうすけやす(15??~1572)】 

伊東祐武の次男。官途は加賀守。通称新次郎。知勇兼備の将。1533年、父伊東祐武は、伊東義祐と伊東家惣領家の家督争いに敗れ自刃した。1549年、「堰ノ尾の戦い」で戦功を挙げた。1568年、伊東義祐の意向で、島津義弘が不在の飯野城を攻撃した。島津義弘が急遽帰城したため、膠着状態に陥り戦果を挙げることができぬまま撤退した。1572年、伊東義祐は、兵3,000余を率いて加久藤城を攻撃したが城攻めは失敗し、兵達は暑さしのぎに木崎原で水浴びを始めた。そこを島津義弘勢の奇襲攻撃を受け敗走した。伊東祐安は敗走する伊東義祐勢の殿を務めたが、嫡男伊東祐次の討死を知ると、仇討つため引き返したが村尾重侯の家臣二階堂四郎左衛門に射抜かれ討死した。

伊東祐審【いとうすけのり(15??~1577)】

伊東祐武の三男。官途は大炊助。父伊東祐武が謀叛を起こして自刃した後、伊予国に落延びたが、伊東義祐のとき帰参した。1568年、飫肥城で島津軍を迎撃して撃破した。1577年、諸県郡本庄で島津義久勢を迎え撃とうとして捕縛され自刃した。

伊東祐松【いとうすけまつ(15??~1578)】

伊東祐梁の男。官途は相模守。別名「帰雲(皈雲)」。1533年、伊東祐充の病没後に叔父伊東祐武が謀反を起こした際には、従兄弟伊東義祐勢に属した。伊東祐吉の病没後に伊東義祐が家督を相続すると、その側近となった。家中では伊東義祐と同等の権勢を振るい、余剰米の横領などで数多くの家臣から恨みを買った。1572年、「木崎原の戦い」で伊東義祐勢が大敗した際は、孫伊東祐信が討死し、まもなく嫡男伊東祐梁も病没した。1575年、島津義久勢に圧迫され、伊東祐松の智略によって伊東義祐と肝付兼亮は偽りの戦を起こしたが伊東義祐勢が裏切り肝付兼亮勢を鉄砲を使って攻撃したため、肝付兼亮勢は壊滅した。米良矩重や落合兼朝らは伊東祐松に対する私怨から島津義久勢に寝返った。1577年、伊東義祐とともに豊後国に落延びた。1578年、「日向侵攻」に参陣して討死した。

伊東祐梁【いとうすけむね(15??~1572)】

伊東祐松の男。官途は相模守。1559年、飫肥城を攻撃していた伊東義祐勢は島津尚久勢の反撃を受け危機に陥るが、伊東祐梁の見事な采配によって形勢を逆転させた。1568年、島津忠親の飫肥城の開城後は飫肥城を領した伊東祐兵を後見した。1572年、「木崎原の戦い」では、継嗣の伊東祐信を失いまもなく病没した。

伊東祐信【いとうすけのぶ(1555~1572)】

伊東祐梁の男。通称新次郎。1572年、島津義久が治める真幸院に侵攻した。伊東義祐勢は軍を二手に分け、一隊は伊東祐信を始めに伊東源四郎、伊東又二郎の大将三人が預かり、西側の手薄な加久藤城に差し向けられた。「加久藤城の戦い」は、島津義弘の偽情報によって攻め難い鑰掛口へと侵攻したことに加え、夜の暗さの中を加久藤城代の川上忠智や援軍の遠矢良賢らの突撃にあい、米良重方が討死した。陣を立て直すために南の鳥越城にまで撤退した。伊東祐信勢は蒸し暑さに池島川で水浴びを始めたところに島津義弘勢の攻撃を受け討死した。

伊東祐基【いとうすけもと(15??~1578)】

伊東祐松の次男。官途は下総守。1568年、島津義久と戦いでは大将を努めた。日向退去後も旧領回復を狙い、大友義鎮勢の「日向侵攻」に参陣して「耳川の戦い」で討死した。

伊東祐青【いとうすけはる(15??~1577)】

伊東義祐家臣。官途は修理亮。室は伊東義祐の娘(三女)。御感状連判人(家老職)を務めた。1568年、伊東祐審らとともに島津義久勢を撃退した。1572年、「木崎原の戦い」では、島津義弘勢の攻撃を受け敗走した。1577年、島津義久勢の侵攻により伊東祐兵は豊後国へ落延びた。道中、島津義久勢の追撃を受け、殿を担った伊東祐清は討死した。

伊東祐益【いとうすけます(1570~1612)】

伊東祐青の男。洗礼名は「マンショ」。1572年、「木崎原の戦い」後、豊後国に逃れて宣教師ペドロ=ラモンに養育され、島原の有馬セミナリヨで神学などを学んだ。語学にも堪能で、「天正遣欧少年使節」に選ばれた。1582年、長崎を出発、マカオ・ゴア、喜望峰、葡萄牙、西班牙、トスカーナ、フィレンツェを経てローマに赴き、クレゴリオ十三世に謁見し市民権を得た。1590年、ヴァリニャーニ一行とともに帰国後、羽柴秀吉は出仕するよう求めたが、これを拒否して布教に努めた。教義伝導のため日向飫肥にも赴き、一族との再会も果たした。1606年、長崎の司祭になったが、まもなく病死した。

稲津重政【いなづしげまさ(1574~1602)】

伊東祐兵家臣。官途は掃部助。1589年、清武城主に任じられ家老職を務めた。1592年、「文禄の役」に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、伊東祐兵の意向により松平元康勢に属し、兵3,000余りを率いて石田密三成勢の高橋元種の宮崎城を攻落して、城代権藤種盛ら500余りを討取った。稲津重政は島津義久勢の攻撃を受け「佐土原の戦い」「穆佐に戦い」などを約50余りの小合戦を転戦しながら宮崎城を守り切った。役中に高橋元種が寝返って松平元康勢に属し、本領安堵を受けたため、宮崎城は高橋元種に返還された。伊東祐兵が病死すると、稲津重政は家中で次第に孤立し、わずかな手勢を率いて清武城に籠城するが、伊東祐慶から討伐を受け討死した。

岩戸継元【いわとつぐもと(15??~15??)】

三田井親好家臣。西臼杵郡岩戸城主。通称五郎。別名佐藤継元。

大河平隆屋【おこびらたかや(15??~1562)】

大河平館主。肥後国八代に在ったが、大友義鎮勢の攻撃を受け、日向国に落延びた。北原兼孝に属して大河平館を領した。

大河平隆充【おこびらたか(15??~1559)】

大河平隆屋の男。1559年、「今城の戦い」では、北原兼親勢に属して今城に籠城したが、伊東義祐勢の攻撃を受け落城した。

大河平隆利【おこびらたかとし(1536~1563)】

大河平隆充の男。通称仲太左衛門。1562年、祖父大河平隆屋の病没により大河平家の家督を相続した。主家の北原兼守は、伊東義祐の傀儡となっていたため、、大河平隆利は島津義弘勢に属した。伊東義祐は、家臣伊東杢右衛門を大河平城に遣わし、大河平隆利の調略を図ったが失敗に終わった。その晩、伊東杢右衛門勢450余りの攻撃を受けた。大河平隆利は150余りの寡兵でこれを撃退、伊東杢右衛門勢50余り討取る戦功を挙げた。この戦功で島津義弘から鍋、灰塚、榎田の地2,000石余りの加増を受け今城を築城した。

大河平隆豊【おこびらゆたかとよ(15??~15??)】

大河平隆充の次男。

大河平隆次【おこびらたかつぐ(15??~1564)】

大河平隆充の三男。通称平九郎。1563年、兄大河平隆利の病没により、次兄大河平隆豊も討死していたため、大河平家の家督を相続した。1563年、島津貴久、相良義陽、北郷時久の攻撃により真幸院が奪還されると飯野城主北原兼親に属した。1564年、北原兼親が島津義弘から今城に派遣されていた兵300余りを撤収させたため、手勢130余りで今城を守備することになった。伊東義祐は、寡兵で今城を守る大河平隆次に降伏を促したが、これに応じず籠城した。何度も伊東義祐勢を撃退したが北原兼親からの援軍もなく、衆寡敵せず家臣とともに討死した。

大河平隆俊【おこびらたかとし(15??~15??)】

肥後国皆越地頭職。別名皆越六郎左衛門。室は大河平隆充の娘。内室の大河平ナミが伊東義祐は相良義陽の経略を島津義弘に知らせ、飯野城防衛に功を挙げたため、戦後大河平隆俊に大河平隆次の継嗣となり、その旧領を継がせた。

大河平ナミ【おこびらなみ(15??~15??)】

皆越六郎左衛門の室。大河平隆充の娘。1567年、島津義弘が菱刈重広と戦うため大隅国に参陣すると、伊東義祐は相良義陽と結び飯野城の挟撃を図った。これを知った大河平ナミは腹心の八重尾石見守を遠矢良賢のもとに走らせ、遠矢良賢は直ちに島津義弘にこの事を伝えた。島津義弘は計略を持って、相良義陽を大明神城で足止めを図るととともに、急遽飯野城に帰城した。

小崎左衛門【おざきさえもん(15??~15??)】

甲斐宗摂家臣。

落合兼仲【おちあいかねなか(15??~15??)】

伊東祐充家臣。官途は淡路守。1548年、伊東家執事五人衆のひとり。

落合兼置【おちあいかねおき(1535~1572)】

伊東義祐家臣。通称源左衛門。山東惣奉行職を務めた。1568年、「飫肥城の戦い」では、木脇越前守とともに奮戦して島津勢を撃退した。1563年、「目井古城の戦い」では、豊州島津忠親の攻撃を受けたが、寡兵で城を支える戦功を挙げた。1572年、「木崎原の戦い」で潰走する伊東義祐勢の殿を務め討死した。

落合兼朝【おちあいかねとも(15??~15??)】

伊東義祐家臣。官途は民部少輔。通称藤九郎。1568年、「飫肥城の戦い」では、伊東義祐と伊東祐梁がが陣取りに関して争論を始めたため、これを仲裁して軍議を整えた。1575年、継嗣の落合丹後守ら若衆が伊東祐安の跡目である金法師の入山先を巡って同輩と争論を起こした際、落合丹後守を伊東祐松に謀殺された。1577年、豊後国に落延びる途中の伊東義祐を打ち払った。

落合兼教【おちあいかねのり(15??~15??)】

伊東義祐家臣。官途は越後守。1553年、島津忠良との講和交渉の取次役を務め、飫肥東300町の伊東義祐への割譲をまとめた。1562年、伊東義益の内室となる姫を土佐一条房基の娘(阿喜多姫)のもとに迎えに赴いた。

落合源左衛門尉【おちあいげんざえもんのじょう(1535~1572)】

伊東義祐家臣。1552年、伊東義祐が海道衆を置いて僧侶を政治参加させようとしたとき、これを諫めた。1567年、「飫肥美田の戦い」で島津貴久勢と戦った。1568年、「飫肥城の戦い」では、木脇越前守とともに島津貴久勢を撃退した。1572年、「木崎原の戦い」で討死した。

落合兵部少輔【おちあいひょうぶしょうゆ(15??~15??)】

東諸県郡穆佐城主。1577年、伊東義祐が没落すると、樺山規久勢の攻撃を受け落城した。

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【か】

甲斐宗摂【かいむねせつ(15??~15??)】

三田井親武家臣。中崎城主。官途は長門守。別名「宗雪」。1591年、高橋元種に内応して三田井親武を滅ぼした。1595年、甲斐宗摂も謀反の疑いをかけられ、高橋元種勢の攻撃を受け自刃した。

甲斐秋政【かいあきまさ(1569~1597)】

三田井親武家臣。大野原城主。官途は兵庫頭。 1590年、「愛藤寺城の戦い」では、加藤清正の意向を受け愛藤寺城主結城弥平治を攻撃した。結城弥平治は高千穂まで落延びるが、九左衛門峠にて大野原亀山城主富高長義とともに自刃した。

甲斐惟房【かいこれふさ(15??~15??)】

三田井親武家臣。亀頭城主。官途は将監。別名惟義。1593年、高橋元種勢の攻撃を受け落城した。

甲斐鑑昌【かいあきまさ(15??~1552)】

甲斐敦昌の男。押方城主。官途は若狭守。三田井親武の意向により二上神社、嶽宮神社、芝原神社、十社大明神、荒建神社を再建した。1552年、「押方城の戦い」では、甲斐宗運勢の攻撃を受け自刃した。 
  
甲斐昌興【かいまさおき(15??~1552)】

甲斐敦昌の三男。官途は兵部大夫。1552年、「押方城の戦い」では、兄甲斐鑑昌らとともに戦うが甲斐宗運勢の攻撃を受け自刃した。

甲斐武昌【かいたけまさ(15??~15??)】  

甲斐敦昌の四男。官途は兵庫頭。1552年、「押方城の戦い」では、兄甲斐鑑昌らとともに戦うが甲斐宗運勢の攻撃を受け自刃した。

甲斐朝昌【かいよりまさ(15??~1591)】 

甲斐敦昌の四男。1587年、「九州征伐」後、三田井親武が高橋元種に滅ぼされると、他の豪族衆と結び反抗した。1591年、高橋元種勢の攻撃を受け

甲斐重安【かいしげやす(15??~1591)】 

甲斐朝昌の男。1587年、「九州征伐」後、三田井親武が高橋元種に滅ぼされると、父甲斐朝昌とともに反抗した。1591年、高橋元種勢の攻撃を受け甲斐朝昌とともに討死した。

甲斐誠昌【かい(15??~15??)】

三田井親好家臣。西臼杵郡下野城主。官途は長門守。

樺山長久【かばやまながひさ(15??~1522)】

島津元久家臣。樺山満久の男。1521年、島津元久、北郷義久勢が諸県郡の野々美谷城を攻略すると、樺山長久を城主に任じた。1522年、大隅国姶良郡小浜城に転封となった。

樺山信久【かばやま(15??~15??)】

樺山長久の男。本田薫親勢の攻撃を受け大隅国姶良郡小浜城などの所領を奪われ長浜城に落延びた。島津忠良に仕えた。島津勝久勢の攻撃を受けたが和議を結んだ。

樺山善久【かばやまよしひさ(1512~1609)】

樺山信久の男。官途は安芸守。室は島津忠良の娘(御隅)。武勇にも優れた武将。和歌を好み、近衛稙家から古今伝授を受け、飛鳥井雅綱から蹴鞠を教授を受けた。1539年、「湯田口の戦い」では、島津忠良勢に属して、負傷しながらも小野左近を討取る戦功を挙げた。1548年、本田薫親が謀反を起こすと、島津忠良の意向を受け清水城を攻落した。本田薫親が城内の書院に「立訓し 槇の柱もわすれなよ 帰り来てあふ 世あるやと」と書き付けたのを見つけると、樺山善久は「流れ出て 浮ふ瀬もなき 水茎の あとはかなくも 頼をくかな」と返歌を読み、本田薫親勢へ渡した。1583年、島津義久が病を患うと、法華嶽寺へ籠って平癒のため和歌を百首詠んだ。1592年、「文禄の役」では、老年のため参陣が許されず、島津義弘に「君か為 名のため取りし 梓弓 八十余りの 身こそつらけれ」と和歌を書き送った。著書に『玄佐日記』。

樺山忠副【かばやまただそえ(1537~1557)】

樺山善久の男。通称助太郎。1554年、「岩剣城の戦い」に参陣した。1557年、「纒頭の戦い」で蒲生茂清、菱刈隆秋勢と戦い、その傷がもとで死去した。

樺山忠助【かばやまただすけ(1540~1609)】

樺山善久の次男。通称兵部大輔。室は村田経定の娘。和歌を好み、犬追物の達者であった。兄樺山忠副の討死により継嗣となり、島津義久に仕えた。1573年、島津義久勢に属した禰寝重長が肝付兼亮と伊地知重興ら攻撃を受けるとこれを支援して戦功を挙げた。1576年、「高原城の戦い」では、伊東義祐勢と戦い戦功を挙げた。1584年、「岩屋城の戦い」に参陣したが樺山忠助は大石に兜を砕かれ、矢玉による無数の傷を負いながらも奮戦した。数ヶ月後に治癒すると再び豊後国攻めへと戻り戦功を挙げた。著書に『樺山紹剣自記』。

樺山規久【かばやまのりひさ(15??~15??)】

樺山忠助の男。官途は兵部大輔。1577年、伊東義祐が島津義久に日向国を駆逐されると、諸県郡穆佐城主となった。

樺山忠征【かばやまただまさ(1581~1599)】

樺山規久の次男。兄樺山鶴丸の病死で継嗣となった。父樺山規久が朝鮮巨済島において病死すると家督を継いだ。

樺山久高【かばやまひさたか(1558~1634)】

樺山忠助の次男(大野忠宗の養子)。官途は治部大輔。別名大野権左衛門尉。室は大野忠宗の娘。継室は上原尚張の娘。島津義久の家臣大野忠宗の婿養子となったが大野忠宗が失脚すると離婚し、実家の樺山家に戻った。その後、兄や甥の早世により樺山家の家督を相続した。1592年、「露梁津の戦い」で李舜臣勢破るなどの戦功を挙げた。1609年、「琉球侵攻」では、首里城を攻落す戦功を挙げ、島津義弘の琉球支配に貢献した。

樺山久守【かばやまひさもり(15??~15??)】

樺山久高の男。

上別府宮内少輔【かみべっぷくないしょうゆう(1531~1572)】

伊東義祐家臣。長倉伴九郎とともに清武城を守備した。1551年、「目井城の戦い」で長池刑部少輔等とともに戦功を挙げた。1572年、「覚頭の戦い」では、伊東新次郎、伊東加賀守らを大将として、長倉伴九郎とともに参陣した。伊東義祐勢は島津義久勢に敗北し、総崩れとなった。敗走の最中に長倉伴九郎の討死を知り、聞き戦場に引き返し討死した。

川崎祐長【かわさきすけなが(1533~1615)】

伊東義祐家臣。官途は駿河守。伊東家四天王のひとり。伊東祐兵の内室(阿虎)の美貌を知った大友義乗が側室に迎えようとしたため、伊東祐兵とともに伊予国に落延びた。困窮した伊東義祐父子を助けるため酒や織物を作り、伊東義祐を支援した。1586年、「九州討伐」では、伊東祐兵とともに羽柴秀吉勢に属して戦功を挙げ旧領に復帰した。1592年、「文禄の役」では、留守居を務めて内政に尽力し新田開発を進めた。

川崎権助【かわさきかんすけ(15??~1588)】

川崎祐長の男。曽井城主。1588年、伊東義賢の謀殺に加わり、伊東義賢を安心させるため毒の混入された食事をともに食べて死んだ。
 
川崎大膳助【かわさきだんぜんすけ(15??~16??)】

伊東義祐家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、宮崎城を攻め落とし、佐土原まで攻め込むが、反撃を受けて敗走した。川崎大膳助ら六名は殿を務め「漫々橋六本槍」と賞賛される戦功を挙げた。

北原久兼【きたはらひさかね(15??~15??)】

飯野城主。真幸院の加久藤盆地側を治めた。

北原祐兼【きたはらすけかね(15??~15??)】

北原久兼の男。1522年、北原祐兼は伊東尹祐とともに北郷忠相と戦い、北郷忠相の山田城を占領し、勢力は真幸院、高原、志和地、山田に及んだ。

北原茂兼【きたはらしげかね(15??~15??)】

北原兼門の男。父北原兼門が夭折し、叔父の北原立兼が討死したため、幼少で北原家の家督を相続した。叔父北原兼珍に家督を簒奪され、球磨郡に落延びた。

北原兼泰【きたはらかねやす(15??~15??)】

北原茂兼の男。

北原兼親【(15??~15??)】

兼泰の子。兼孝の死後、島津家の後ろ盾を得て伊東家と戦った。以後、真幸院の西半分は島津家の、東半分は伊東家の支配する所となった。

伊東義祐が北原兼孝を殺害すると相良氏を頼って落ち延びた。島津家、相良家の協力を得て馬関田右衛門佐から真幸院の西側を奪回。しかし、伊東家に寝返る家臣が出たため、真幸院の東側を奪回することは出来なかった。伊東家の勢力拡大を防ぐため、島津義弘が真幸院の西側を守る事となり、北原氏の所領は両家に奪われていった。

.北原兼珍【(15??~15??)】

北原兼貴の四男。長兄・寛兼、次兄・兼門が病死し三兄・立兼が戦死したのちに当主となった兼門の嫡男・茂兼から家督を奪った。

北原久兼【(15??~15??)】

北原兼珍の男。父は北原家当主である甥の茂兼が幼少であることに乗じて、家督を簒奪した。茂兼は相良氏を頼り球磨に逃れた。

北原兼守【(15??~15??)】

北原祐兼の男。伊東義祐の娘婿。長年にわたり、北郷家と戦った。死後、家督を巡って争いが起こった。北原家は肝付家の庶流。

室は伊東義祐の娘。嗣子無きため叔父兼孝が跡を継ぐ。

北原兼孝【(15??~1562)】

北原久兼の庶子。兼守が病没すると、家中の協議により家督に推されたが、伊東義祐の介入で一門の馬関田右衛門に家督を奪われ、謀殺された。

北原兼守の叔父。民部少輔。甥兼守没後、跡を継いで北原家当主となる。
1535年、伊東家当主の伊東祐充が没すると、伊東家中は家督争いが発生する。12代・北原祐兼の弟の北原兼孝はこれに乗ずべく、伊東義祐の援軍と称して綾に兵3000を布陣させ、綾城か三俣院・高城(日和城)のいずれかの割譲を要求、義祐はやむなく高城の割譲を約した。しかし高城は、伊東氏配下の落合兼佳が北郷忠相に内応したため、結局は北郷氏の城となってしまう。

北原兼孝【きたはらかねたか(15??~1562)】

北原久兼の次男。官途は民部少輔。1535年、北原兼孝は伊東義祐が内訌により勢力が衰退すると、伊東義祐領に攻入り、俣院高城の割譲をさせた。

木脇祐守【きわきすけもり(1526~1580)】

伊東義祐家臣。官途は越前守。1551年、「鬼ヶ城の戦い」で戦功を挙げ城代に任じられた。1568年、「飫肥城の戦い」では、島津方援軍を奇襲して撃破し、飫肥城攻略後伊東祐兵が入るとこれを補佐した。1580年、伊東家没落後も日向に隠れていたが、まっていたところ、剛勇を恐れた島津義久に捜索され弟の木脇八郎左衛門とともに自刃した。

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【さ】

坂本正行【さかもとまさゆき(15??~15??)】

三田井親好家臣。西臼杵郡坂本城主。官途は伊賀守。

坂本政次【さかもとまさつぐ(15??~15??)】

坂本正行の男。揚城主。官途は山城守。

佐土原摂津守【さどわらせっつのかみ(15??~1578)】

伊東義祐家臣。三納城主。1577年、伊東義祐が豊後国に落延びた後後も、大友義鎮勢の支援を受け三納城に籠城して島津義久勢と戦った。1578年、「日向耳川の戦い」で大友義鎮、伊東義祐勢が大敗すると、三納城で自刃した。

佐土原遠江守【さどはらおおみのかみ(15??~15??)】

伊東義祐家臣。1568年、「飯野城の戦い」では、伊東義祐の意向を受け伊東祐武を大将に、島津義弘が不在の飯野城を攻撃したが攻落すことができなかった。

佐土原祐章【さどわらすけき(15??~15??)】

伊東家臣。官途は肥後守。天文期の執事。

豊州島津忠朝【しまづただとも(14??~15??)】

宮崎郡飫肥城主。島津忠廉の男。官途は豊後守。1490年、父島津忠廉の病没により豊州島津家の家督を相続した。1495年、島津忠昌の家臣平田兼宗が謀反を起こすと、その鎮圧に向い大隅国岩弘城を攻落す戦功を挙げ、大隅国串良の所領を安堵された。1532年、「三俣院高城の戦い」では、北郷忠相、北原久兼らと結んで伊東尹祐勢と戦った。島津家惣領職を巡って薩州島津実久と伊作島津忠良、島津貴久が争うと、島津実久勢に属した。1538年、「志布志城の戦い」では、新納忠勝が島津実久に謀反を起こしたため、北郷忠相らとともに志布志城を攻落とした。

豊州島津忠広【しまづただひろ(1482~1551)】

豊州島津忠朝の男。官途は豊後守。1538年、父島津忠朝が志布志城に転封すると、飫肥城主に任じられた。1541年、、伊集院忠朗の支援を受けた樺山善久勢の反撃を受け敗退した。1545年、伊東義祐勢の攻勢を受けると、島津貴久勢に属して伊東義祐勢に対抗した。

豊州島津忠親【しまずただちか(1504~1571)】

北郷忠相の男(島津忠広の養子)。官途は尾張守。通称次郎左衛門。別名島津忠親。室は禰寝尊重の娘。1546年、島津忠広の養子であった島津賀久が病没したため、北郷家の家督を継嗣の北郷時久に譲り、養子として豊州島津家に入った。1549年、養父島津忠広の隠居により豊州島津家の家督を相続した。島津忠親は伊東義祐勢と度々争うが次第に劣勢に陥った。1558年、肝付兼続に松尾城を攻落された。1560年、島津貴久の次男島津義弘を養子として飫肥城の守備を任せた。1562年、島津義弘が飫肥城を去ると伊東義祐の攻撃を受け、伊東義祐と和議を結び城から退去した。数ヵ月後には夜襲をかけ城を奪還した。1568年、伊東義祐は20,000余りを率いて、飫肥城を包囲した。島津義久は飫肥城を放棄し島津忠親はから落延びた。飫肥城落城後、まもなく病没した。

豊州島津朝久【しまづ ともひさ(15??~1593)】

島津忠親の男。官途は豊後守。通称藤二郎。室は島津義弘の娘(御屋地姫)。1578年、島津義久が伊東義祐勢を討ち日向国を領すると、宮崎の300町を領した。「日向耳川の戦い」で戦功を挙げた。1586年、「筑前岩屋城の戦い」では、島津忠長とともに参陣した。1587年、「根白坂の戦い」で負傷し、都於郡の島原にて養生後に馬関田に帰還した。1592年、「文禄の役」に参陣したが、巨済島で病没した。

豊州島津久賀【しまづひさか(1582~1645)】

島津朝久の男。官途は豊前守。通称藤次郎。室は川上久辰の娘。1593年、「文禄の役」で、父島津朝久が病没すると、朝鮮へ渡海した。1597年、「泗川の戦い」でも戦功を挙げた。1605年、島津義弘が帖佐から加治木へ居城を移すと、帖佐の地頭に就任した。1634年、黒木の領主となった。

豊州島津忠隅【しまづただすみ(15??~15??)】

島津久器の男。島津忠朝に仕えた。1538年、「大崎城の戦い」で大崎城を攻落とす戦功を挙げた。1545年、「鬼ヶ城の戦い」では、鬼ヶ城に籠城して伊東義祐の攻撃を防ぎきった。

羽州島津忠明【しまづただあき(14??~1530)】

島津忠福の男。梅北城主。1494年、「梅北城の戦い」では、新納忠武と結んだ北郷数久勢の攻撃を受け落城した。島津忠昌の意向を受け大口主に任じられた。1530年、「大口城の戦い」で相良晴広、菱刈重州勢の攻撃を受け自刃した。

.羽州島津明久【しまづあきひさ(1514~1529)】

島津忠明の男。別名島津忠征。1529年、「羽月大島の戦い」で菱刈重州勢と戦い討死した。頸級は家臣宮原十郎兵衛が取り返して、父島津忠明へ渡した。

税所敦朝【ぜいしょあつとも(1569~1608)】

北郷三久家臣。通称七右衛門。洗礼名「レオン」。オルファネル神父の洗礼を受け切支丹となった。北郷三久の棄教命令を拒否し、平佐で斬頸となりドミニコ会初の殉教者となった。

白坂兼次【しらさかしもうさのすけ(15??~1542)】

北原兼守家臣。志和地城主。官途は下総介。高原、高崎の地頭職。1542年、「志和地城の戦い」で北郷忠相勢の攻撃を受け討死した。

白坂下総介【しらさかしもうさのすけ(15??~15??)】

白坂兼次の男。1558年、北原兼守の病没後、北原兼守の内室(麻生)の父伊東義祐が介入して馬関田右衛門佐に北原家の家督を相続させようと図った。1559年、馬関田右衛門佐の家督相続に反対したため、伊東義祐と対立して、島津貴久の家臣樺山善久のもとに落延びた。1562年、北原兼親を擁立して島津貴久、北郷時久、相良義陽らの支援を受け伊東義祐勢を真幸院から追放した。1563年、相良義陽が伊東義祐と結び大明神城を攻落とすと、北原兼親のもとを出奔した。

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【た】

財部土持興綱【つちもちおきつな(15??~15??)】

北郷家臣。末吉城主。

財部土持頼綱【つちもちよりつな(15??~1558)】

財部土持興綱の男。官途は摂津守。末吉城は極めて堅城であり、島津宗家の攻撃にも耐えた事も記録されている。1568年「飫肥城の戦い」で、総兵力13,000余の島津勢中の輜重隊を率いていたが、飫肥城の兵糧困窮の報に物資を搬入しようとして、奇襲を受け北郷忠俊、本田親豊とともに討死した。討取ったのは曾和田新左衛門尉。

財部土持良綱【つちもちよしつな(15??~15??)】

財部土持頼綱の男。娘が北郷久猶に嫁ぎ、北郷久武と北郷久明を産んでいる。北郷久猶の四男北郷大炊介太郎右衛門が財部土持良綱の養子として財部土持家の家督を相続した。

懸土持親栄【つちもちちかえい(15??~15??)】

児湯郡松尾城主。土持家は伊東家と対立し続けた。
 
懸土持親佐【つちもちちかさ(15??~15??)】

土持親栄の男。南日向を支配する伊東家と対立し、これを攻めて門川城を攻略した。浄土真宗を宗是とする土持家の松尾城に伊東家の奉ずる日蓮宗本東寺があるのは松尾城最大の謎とされる。

懸土持親成【つちもちちかなり(15??~1578)】

土持親佐の男。官途は弾正少弼。室は佐伯惟教の妹。文武両道に優れた将。1577年、敵対する都於郡城主伊東家が島津家に逐われると、大友義鎮に叛いて島津家に通じたため大友義鎮の攻撃を受け、島津家への救援を依頼するが、支援を得られず、大友義鎮勢により松尾城は落城した。懸県土持親成は捕らえられ自刃した。

懸土持親信【つちもちちかのぶ(15??~15??)】

土持親成の男(土持久綱の養子)。通称次郎。1578年、大友義鎮勢の襲来を予期した父懸土持親成によって、懸土持山城守を付けられ薩摩国に落延びた。その後、懸土持氏は壊滅的打撃を被るも、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、島津家の後援で松尾城に復帰した。1586年、島津軍が豊後国に侵攻したさい、朝日嶽城主柴田紹安が内通したのに伴い同城を領有した。城主として兵2,000余を引き連れ、佐伯に参陣をしたが「堅田の戦い」で、佐伯惟定勢1800余と激突して、懸土持親信は討死した。

懸土持久綱【つちもちひさつな(1558~1599)】

懸土持親成の養子。官途は弾正忠。別名懸土高信。大友義鎮の土持攻めの際、養父土持親成の意向で本城松尾城を守備した。1578年、松尾城は陥落したが懸土持久綱は島津家を頼り落延びた。

懸土持信村【つちもちのぶむら(1577~1597)】

懸土持久綱の男。高橋元種に仕えた。1597年、「慶長の役」で討死した。

懸土持久助【つちもちひさすけ(1581~1659)】

懸土持久綱の次男。別名有田持久助。高橋元種に仕えた。高橋元種の改易後は高橋元種の継嗣の高橋長吉に仕えた。

懸土持盈信【つちもち(1588~1568)】

懸土持久綱の三男。島津義久に仕えた。

平良兼賢【たいらかねかた(15??~15??)】

北原兼守家臣。三ツ山城主。官途は中務少輔。通称彦十郎。1558年、伊東義祐が病没した北原兼守の家督問題に介入すると、伊東義祐勢に属して飯野城主北原兼孝を攻め滅ぼした。馬関田右衛門佐が北原家の家督を相続した。1562年、白坂下総介が島津貴久、北郷時久、相良義陽勢の支援を受け北原家の旧領を奪還されると、馬関田右衛門佐共々、居城の三ツ山城より追われた。

都甲常陸守【とかいひたちのかみ(15??~1578)】

伊東義祐家臣。1577年、島津義久勢の攻勢を受け、伊東義祐が佐土原城を捨て大友義鎮を頼って豊後国に落延びると、数度にわたり日向国と豊後国を往復しながら伊東家再興を謀った。島津義久勢に捕縛され謀殺された。

富高長義【とみだかながよし(15??~1593)】

三田井親武家臣。岩戸水之内城主。官途は大膳。通称弥十郎。別名大神長武。1593年、「水之内城の戦い」では、高橋元種勢3,000余りの攻撃を受け甲斐朝昌とともに防戦したが、寡兵により甲斐朝昌、甲斐重安らともに討死した。

富高昌重【とみたかまさしげ(15??~15??)】

富高長義家臣。官途は将監。

富高長頼【とみたかながより(15??~15??)】

富高長義家臣。官途は大膳大夫。

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【な】

永池筑後守【ながいけちくごのかみ(15??~15??)】

伊東義祐家臣。刑部少輔。別名長池刑部少輔。もと相良治頼家臣。1545年、「相良治頼の乱」で父永池筑後守とともに相良治頼勢に属して敗れ日向国に落延び伊東義祐に仕えた。1551年、「目井城の戦い」で上別府宮内少輔等とともに戦功を挙げた。

長倉祐有【ながくらすけなお(15??~1541)】

伊東祐吉家臣。官途は能登守。1534年、伊東義祐と伊東祐吉の継嗣争いでは伊東祐吉税に属した。1536年、伊東祐吉が病没すると劣勢に立たされた。1541年、「大淀川の戦い」では、島津忠良勢に属して伊東義祐勢と戦って討死した。

長倉祐政【ながくらすけまさ(15??~1578)】

長倉祐有の男。官途は勘解由左衛門。通称新七郎。1541年、父長倉祐有は島津忠良勢に属したが、山田宗昌らとともに伊東義祐に属して島津忠良勢と戦った。1578年、伊東義祐は児湯郡に石ノ原城を築城して長倉祐政、山田宗昌を城将に任じた。伊集院忠棟勢の攻撃を受けたが撃退した。島津彰久勢の攻撃を受け兵糧不足から落城した。「三納城の戦い」では、八代駿河守、佐土原摂津守、湯地三河守らとともに籠城して島津義久勢と戦うが討死した。

長倉祐守【ながくらすけもり(15??~15??)】

伊東家臣。官途は兵庫頭。

長倉祐省【ながくらすけよし(15??~15??)】

官途は能登守。天文初期の「御感状連判人数」のひとり。1575年、寄進状への署名が確認される。
 
長倉洞雲斎【ながくらどううんさい(15??~15??)】

穂北城主。1577年、伊東義祐は豊後国に逃れるため、豊後街道を通るも、財津城主落合藤九郎に阻まれる。伊東義祐は穂北城に入り、洞雲斎の助けによって豊後国に逃れることが出来た。

那須玄蕃【なすげんば(15??~15??)】

東臼杵郡向山城主。日向国椎葉村一帯に勢力を保持した。
 
那須左近太夫【なすさこんだいふ(15??~15??)】

那須玄蕃の男。「小崎城の戦い」では、弟那須九郎右衛門とともに小崎城を攻落とした。

那須弾正忠【なすだんじょう(15??~1618)】

那須玄蕃の次男。1585年、家臣に物売りの変装をさせ、大友義鎮領内の動向を探らせた。娘は犬童清兵衛に嫁ぐが、娘の不義から破談した。犬童清兵衛は弾正の娘を向山十三人衆に引き渡した。1618年、向山十三人衆の反乱により討死した。
 
那須将監【なすしょうげん(15??~15??)】

那須玄蕃の三男。神門城主。
 
那須九郎右衛門【なすくろうざえもん(15??~15??)】

那須玄蕃の四男。兄那須左近太夫とともに小崎城を攻撃した。
 
那須主膳【なすしゅぜん(15??~15??)】

那須左近太夫の男。1618年、那須専千代が向山十三人衆に討取られると、これを幕府に訴った。1620年、阿部正之、大久保忠成は十三人衆討伐を命じた。肥後国に到着した両名は、1,000余もの村民を捕縛して140余りを処刑した。その上で御朱印を持つ者を許し、反乱を鎮圧した。
 
那須専千代【なすせんちよ(15??~1618)】

那須主膳の男。1618年、那須久太郎のもとにもどるが、向山十三人衆の反乱に加担して那須弾正、那須久太郎とともに討死した。
 
那須久太郎【なすきゅうたろう(15??~1618)】

那須弾正の男。向山十三人衆と対立しており、妹が十三人衆の手に渡ると、これを訴える。事件が終息すると、居城に戻る。1618年、向山十三人衆は反乱を起こし、鉄炮で討たれ討死した。
 
奈須祐貞【なすすけさだ(15??~15??)】

那須家臣。臼杵郡星原城主。右近将監。豊後国に落ち延びる伊藤義祐の世話をし、伊東義祐から系図や旗を預けられた。
 
奈須九郎右衛門尉【なすくろうざえもん(15??~15??)】

臼杵郡水志谷城主。

奈津田弾左衛門【なつだだざえもん(15??~15??)】

土持親成家臣。別名夏田弾左衛門。大友義鎮勢が延岡に布陣すると、土持親成の家臣奈津田弾左衛門、安藤下総介らが数十騎で応戦したが、衆寡敵せず敗退、松尾城も落城して土持親成は捕縛され、豊後国への移送中に豊後国浦辺で自刃した。

新名親秀【にいなちかひで(15??~15??)】

土持親成家臣。

野村京綱【のむらきょうつな(15??~15??)】

伊東家臣。諸県郡内山城主。官途は越後守。「末吉の戦い」で討死した。

野村元綱【のむらもとつな(15??~15??)】

野村京綱の男。官途は肥前守。「末吉の戦い」で父野村京綱とともに討死した。

野村松綱【のむらまつつな(15??~15??)】

野村元綱の次男。父野村元網と兄野村元綱が討死したため、野村家の家督相続した。妹の福園は伊東義益の側室であったが、一条房基の娘が福園姫に嫉妬してこれを謀殺した。この事件を機に伊東義祐との関係が悪化。

野村重綱【のむらしげつな(15??~15??)】

野村元綱の四男。官途は加賀守。野村松綱とともに島津義久勢に属した。

野村刑部少輔【のむらぎょうぶしょうゆう(15??~15??)】

野村松綱の男。内山城主。1577年、伊東祐邑が日知屋城で謀殺されると、家臣がその罪に問われ十一名を自刃した。諸県郡尻城主福永丹波守とともに島津義久に内応し、野尻城に島津義久勢を引き入れた。

野村文綱【のむらふみつな(15??~15??)】

野村松綱の次男。1586年、「鶴崎城の戦い」では、島津義久勢に属して、白浜重政、伊集院久宣らとともに、吉岡紀増の室内妙林尼が籠城する鶴崎城を攻略した。妙林尼と侍女たちは囚われの身となったが、折にふれ島津義久勢の兵を招いては、侍女達に酌をさせ油断させた。羽柴秀吉勢の本隊が九州に上陸すると、島津義久勢は北九州からの撤退を開始した。撤退する野村文綱勢は妙林尼勢の追撃を受け、伊集院久宣と白浜重政らが討死、野村文綱も深手を負った。

野村福園姫【のむらふくそのひめ(15??~15??)】

伊東義益の側室。野村元綱の娘。福園姫は伊東義益の結婚前からの側室であったが一条家から正室を迎えると野村家に返された。一条房基の娘の嫉妬により謀殺され、野村松綱が島津義久勢に内応するきっかけになった。

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【は】

福永祐友【ふくながすけとも(15??~15??)】 

伊東義祐家臣。官途は丹波守。伊東義祐と不和になり、島津義久勢に内応して「伊東崩れ」を野村文綱らと起こして以降は島津義久に仕えた。

福永宮内少輔【ふくながくないしょうゆ(15??~15??)】

福永祐友の男。1578年、「岩屋城の戦い」で参陣し負傷した。

福永祐炳【ふくながすけあき(15??~1533)】

伊東尹祐家臣。官途は伊豆守。通称二郎三郎。娘が伊東尹祐に嫁ぎ伊東祐充、伊東祐清、伊東祐吉を生んだことで外祖父となり、家老職の地位を得た。伊東尹祐の病没後、若年伊東祐充が家督を継ぐと専横の振い、譜代家臣団との深刻な対立を招いた。1531年、都於郡城下で若き衆の落合兼由、稲津重由、右松祐宣、川崎良代らと戦いこれを討取った。1533年、伊東祐充が早世すると、伊東祐武の謀反により自刃した。

日置久範【ひおきひさのり(15??~1558)】

島津忠朝家臣。官途は美作守。家老職を務めた。1538年、島津忠朝が志布志城に転封すると、飫肥城で継嗣の島津忠広を補佐した。1540年、反伊東義祐勢を支援するため、独断で出陣するが大敗を喫した。1558年、「宮ヶ原に戦い」では島津恒吉に従って参陣したが北郷時久勢の肝付兼続に討取られた。

.平山忠康【ひらやまただやす(15??~15??)】

島津季久の次男。帖佐平山城主。1495年、「陣之尾の戦い」後、島津忠朝の城代として、鶴亀城を守備した。

平山近久【ひらやまちかひさ(15??~15??)】

平山忠康の男。鶴亀城主。永正年間、肝付兼興の攻撃を再三にわたり撃退した。1524年、「鶴亀城の戦い」で肝付兼興勢の攻撃を受け落城した。

平山久丘【ひらやまひさおか(15??~15??)】

平山近久の男。通称左衛門太夫。諸県郡松山城主。

平山忠智【ひらやまとどとも(15??~1559)】

平山久丘の男。1559年、「伊崎田樽ヶ原の戦い」で肝付兼続勢と戦い討死した。松山城も落城して継嗣平山久武、次男平山久次も討死した。

北郷忠相【ほんごう ただすけ(1487~1559)】

諸県郡都之城主。北郷数久の男。通称左衛門尉。室は島津忠康の娘。伊東尹祐、北原久兼、新納忠勝、本田親尚らの四方に敵を抱えて長年戦い続け、伊東尹祐の猛攻に辛うじて都之城と安永城と兵800名で領地を維持した。1523年、伊東尹祐の病没により伊東義祐と和議を結んだ。これを転機として、本田親尚や新納忠勝を攻撃して領域を拡大した。1532年、島津忠朝、北原久兼とともに、伊東義祐勢の三俣院高城を攻撃した。「不動寺馬場の戦い」で伊東義祐勢に壊滅的打撃を与えた。1542年、伊東義祐、北原兼守らが再び侵攻してきたが、大楽で撃退した。この戦い以降、伊東義祐は三俣方面から完全に撤退し、北原兼守も野々美谷城を失った。

北郷時久【ほんごうときひさ(1530~1596)】

北郷忠親の男。通称右衛門尉。室は本田薫親の娘。継室は北郷忠孝の娘。島津貴久と結び、肝付兼続や伊東義祐と争った。1579年、不和となった継嗣の北郷相久を自刃に追い込み、次男の本郷忠虎を継嗣とした。1587年、「九州討伐」では、島津義久勢に属して抗戦したが敗北した。石田三成と伊集院忠棟を通じて羽柴秀吉に謝罪し、人質を差し出したため、所領は安堵された。薩摩国祁答院に転封され、都之城には伊集院忠棟が入った。1592年、「文禄の役」で北郷忠虎が病没したため、孫北郷長千代丸を後見人した。

北郷相久【ほんごうすけひさ(1554~1579)】

北郷時久の男。官途は常陸介。通称は次郎。室は島津義弘の娘(御屋地姫)。1578年、「耳川の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1579年、父北郷時久と不和になり廃嫡に処され、自刃に追い込まれた。葬儀の際、北郷相久の乳母乙守は自分の両乳房を切り取り北郷相久に捧げて殉死した。

北郷忠虎【ほんごうただとら(1556~1595)】

北郷時久の次男。官名は弾正忠。室の新納忠充の娘。1581年、父北郷時久と兄北郷相久が不和となり、北郷相久が自刃に追い込まれたことによって継嗣となった。1581年、相良義陽との戦いでは島津義虎とともに戦功を挙げ、以後肥後国方面での戦いに参陣し、島津義久の九州制覇に大きく貢献した。1587年、「九州征伐」では、島津義久が降伏した後も北郷時久とともに都城に籠城したが、島津義久の説得により降伏した。1592年、「文禄の役」では、毛利高政勢に属して朝鮮半島を転戦した。1593年、弟の北郷三久を陣代として帰国したがまもなく病没した。

北郷三久【ほんごうみつひさ(1573~1620)】

北郷時久の三男。官名は加賀守。通称作左衛門。室は伊集院忠棟の娘。後室は上井覚兼の娘。1594年、本郷忠虎の意向により日向国三股を領した。1595年、「文禄の役」で北郷忠虎が病没すると、継嗣の北郷忠能が幼少であったため、北郷三久が北郷惣領家の陣代職を務めた。1595年、所領替えが行われ、北郷宗家は都城から祁答院へ、北郷三久も三俣から平佐へと転封させられ、都城は伊集院忠棟の領地となった。1596年、島津義弘勢に属して朝鮮へ渡海し朝鮮各地を転戦した。「泗川の戦い」では、北郷三久勢は頸を4,146余りを討取る戦功を挙げた。1598年、「庄内の乱」では、北郷忠能を補佐し島津忠恒勢に属して伊集院忠真勢と戦った。

北郷忠能【ほんごうただよし(15??~15??)】

北郷忠虎の男。島津歳久の旧領薩摩宮之城へ転封された。1598年、「庄内の乱」後、旧領復帰した。

.北郷忠孝【ほんごうただたか(15??~1558)】

北郷時久家臣。娘が島津義弘に嫁ぎ、長女を生んだ。1558年、「飫肥新山の戦い」で伊東義祐勢と戦い討死した。娘は島津義弘と離縁し、北郷時久に嫁いだ。

北郷久盛【ほんごうひさもり(15??~1578)】

島津忠親の次男(北郷久履の養子)。1578年、「耳川の戦い」で戦功を挙げたが、討死した。

北郷尚久【ほんごうなひさ(15??~1523)】

北郷忠相家臣。北郷忠相が島津忠兼から野々美谷城を与えられた際、城主に任じられた。1523年、「野々美谷城」で伊東尹祐税の攻撃を受け討死した。

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【ま】

馬関田右衛門佐【まんがたうえもんのすけ(15??~15??)】

北原兼守家臣。諸県郡馬関田城主。1558年、北原兼守が病没し、北原兼守の叔父北原兼孝の嫡子に娶せるはずであった兼守の娘も急死すると、家督問題が発生する。兼守の正室である麻生が伊東義祐の娘であることから、伊東氏がこの問題に介入、右衛門佐に麻生を再嫁させ北原家を継がせんと謀った。1559年、伊東義祐はこれに異を唱える者らを粛清、右衛門佐と麻生の婚姻を断行し北原家を事実上乗っ取ると、右衛門佐を北原本拠である三ツ山城へと置いた。ところが、反対派の一人白坂下総介が北原再興を画策し、島津貴久、北郷時久、相良義陽がこれに協力したことにより、北原旧領は奪い返され、右衛門佐も三ツ山城から退去する。

1572年、「木崎原の戦い」で伊東義祐が敗れると、伊東家は衰退した。1577年、伊東義祐は豊後国の大友義鎮を頼って日向国を落延びた。

三田井親好【みたいちかよし(15??~15??)】

西臼杵郡淡路城主。三田井右部の男。別名「惟政」。三田井惣領家は向山の中山城を本拠として、周辺諸豪からの攻勢に備えた。三田井親好は、領内の後河内神社、二上神社、押方嶽宮を債権、文化復興に意を用いた。

三田井政親【みたいまさちか(15??~15??)】

三田井親好の男。1586年、「戸次川の戦い」では、島津義久勢の先陣を三田井政親が努め仙石秀久勢を撃破し、十河存保、長宗我部信親らを討取る戦功を挙げた。

三田井親武【みたいちかたけ(15??~1591)】

三田井右部の次男。官途は越前守。別名三田井政利。長年反目を続けていた松尾城主懸土持親成と伊東義祐の和議を仲介し、伊東義祐の娘を土持親成の嫡男に嫁がせた。1586年、島津義久勢が豊後国に侵攻すると、家臣の甲斐宗摂は新納忠元勢に属して「高森城の戦い」で戦功を挙げた。1586年、「戸次川の戦い」では、三田井政利は、高千穂勢を率いて島津義久勢の先陣を務め、仙石秀久勢を撃破し、十河存保、長宗我部信親らを討取る戦功を挙げた。羽柴秀吉が率いる本隊が九州に上陸すると、各地の戦いで敗戦を重ね、薩摩国に兵を引き上げため、羽柴秀吉勢に降伏した。1591年、高橋元種勢の攻撃を受け討死した。

三田井鎮信【みたいかねのぶ(15??~1598)】

三田井親武の男。1591年、父三田井親武が討死したため、三田井家の家督を相続した。三田井鎮信は弟の三田井鎮氏が謀叛を企てているとの讒言を信じて謀殺した。さらに将来を嘱望された三田井鎮武まで謀殺した。1598年、酒色に耽り病没した。

三田井鎮氏【みたいかねうじ(15??~15??)】

三田井親武の次男。

三田井鎮武【みたいかねたけ(15??~15??)】

三田井親武の三男。

宮田安芸守【みやたあきのかみ(15??~15??)】

伊東義祐家臣。1551年、「目井城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1562年、「飫肥城の戦い」後、飫肥城代を務めた。島津貴久勢の奇襲をした際に、栗下加賀守を討取ったが、松尾門口で討死した。

米良祐通【めらすけみち(15??~15??)】

臼杵郡門川城主。伊東義祐家臣。伊東家領の北限を守った門川城主米良祐通、塩見城主右松四郎左衛門尉、日知屋城主福永新十郎のいわゆる日向三城のうち、最北端の門川城主。土持親成の侵入に備えた。

米良祐次【めらすけつぐ(1529~1578)】

米良祐通の男。通称四郎右衛門。別名米良重郷。1572年、「木崎原の戦い」で敗退した伊東義祐は島津義久勢に対し劣勢になり、土持親成の攻撃を受けた。三城は合力して土持親成勢を撃退した。1577年、伊東義祐が豊後国に落延びると、島津義久に降った。門川城主米良祐次、塩見城主右松四郎左衛門尉、日知屋城主福永新十郎らは、島津義久勢に対抗するため豊後国に退去していた伊東義祐、大友義鎮に国情を報告して来寇を促した。大友義統が大軍を擁して日向国に侵攻したが「耳川の戦い」で大敗を喫し、三城の城主達もことごとく討死した。

米良重泰【めらしげやす(15??~15??)】

諸県郡須木城主。伊東義祐家臣。須木米良家は、肥後菊池家の末裔で、日向伊東家の怨霊を払う神社の大宮司職をつとめる家系で、日向南部に領地を持ち、日向、薩摩、大隅国境地域に多大な影響を及ぼす豪族であった。

米良重方【めらしげかた(1534~1572)】

米良重泰の男。官途は筑後守。1561年、北原兼守の遺領三山城を領した。1567年、島津義弘、島津家久、島津歳久らの攻撃を受けたが弟米良矩重とともに奮戦し、島津義弘に傷を負わせ、島津義弘勢を退却に追い込んだ。1568年、「飫肥城の多胎」では、島津義弘勢の北郷忠顕と交渉を行い飫肥城の割譲、大隅福島院の伊東家への返還を実現させ、知勇兼備の将と称された。この功により地福六町の地を獲得した。またこの頃日向諸県郡野久尾城主となった。1572年、「木崎原の戦い」では敗走する伊東義祐勢の殿を務め討死した。

米良矩重【めらのりしげ(15??~15??)】 

米良重泰の次男。諸県郡松尾城主。官途は美濃守。通称彌九郎。1567年、島津義弘、島津家久、島津歳久らの攻撃を受けたが兄米良重方とともに奮戦し、島津義弘に傷を負わせ、島津義弘勢を退却に追い込んだ。1572年、「木崎原の戦い」で米良重方が討死にすると、米良重方の遺領を受け継ぎ、地頭職に任じられた。伊東義祐の家政を握る伊東祐松によって地福六町の地を奪われたため、島津義久に内応した。1576年、長倉祐政が治める高原城が島津義久勢の攻撃で落城すると、領地安堵を条件に島津義久勢に降伏した。1587年、「九州征伐」後伊東祐兵が飫肥城に復帰すると島津義久のもとを離れ帰参した。伊東祐兵は敵対する島津家の内情を知るため米良矩重の帰参を許した。

米良休助【めらきゅうすけ(15??~1572)】

伊東義祐家臣。坪谷城主。1572年、「木崎原の戦い」に参陣して島津義弘勢と戦ったが米良尾張守、米良民部少輔らとともに討死した。

米良尾張守【(15??~15??)】

伊東義祐家臣。1572年、「木崎原の戦い」に参陣して島津義弘勢と戦ったが米良休助、米良民部少輔らとともに討死した。

米良民部少輔【(15??~15??)】
 
伊東義祐家臣。1572年、「木崎原の戦い」に参陣して島津義弘勢と戦ったが米良休助、米良尾張守らとともに討死した。

米良宮内正【めらくないしょう(15??~15??)】 

伊東義祐家臣。西城主。1552年、宗得雲起和尚を招き、曹洞宗成願寺を建立した。

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【や】

八代長門守【やつしろながとのかみ(15??~1532)】

伊東義祐家臣。諸県郡高城主。1532年、島津忠朝、北原久兼、北郷忠相らは、伊東義祐の八外城を攻略するため兵を起こした。他の七城は落城したが、八代長門守が守る高城は落城しなかったが、八代長門守は討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

八代祐興【やしろするがのかみ(15??~1578)】

伊東義祐家臣。官途は駿河守。1578年、「三納城の戦い」では、長倉祐政勢に属して佐土原摂津守、湯地三河守らとともに籠城して島津義久勢と戦うが敗れ討死した。

山田宗継【やまだむねつぐ(15??~1567)】 

伊東義祐家臣。都於郡新山城主。官途は備前守。都於郡四天衆のひとり。荒武宗代、荒武宗会らとともに御陣人数積衆を務めた。1567年、「美々田の戦い」に参陣するも、杉尾左近允、村角右衛門尉、川越玄蕃允らとともに和田民部少輔によって討取られた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山田宗昌【やまだむねまさ(1537~1620)】

山田宗継の男。官途は備前守。別名「学翁匡徳」。1555年、北郷忠相との戦いで、亀沢豊前守を討取る戦功を挙げた。1568年、「飫肥城の戦い」では、島津忠親勢を撃退した。1567年、父山田宗継の仇和田民部少輔を討取るが、その子和田祐六は助けた。1577年、伊東義祐が島津義久に敗れて没落し、大友義鎮のもとに落延びた。1578年、「耳川の戦い」では、大友義鎮勢長倉祐政らとともに参陣するが大敗して豊後国に落延びて栂牟礼城主佐伯惟定勢に属した。1586年、「栂牟礼城の戦い」では、に島津家久の勧降使を謀殺し島津家久勢を撃退した。1587年、「九州征伐」では、羽柴秀長勢に属して先導役を務めた。伊東祐兵が飫肥城に復帰すると、佐伯惟定のもとを辞して伊東祐兵に帰参して酒谷城300石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

湯地定時【ゆちさだとき(1533~1578)】

伊東義祐家臣。官途は三河守。1577年、伊東義祐が日向国から退去した後も日向にあって島津義久勢の対抗した。1578年、「耳川の戦い」後、佐土原摂津守とともに三納城で自刃した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柚木崎正家【ゆのきざきまさいえ(15??~1572)】

伊東義祐家臣。東諸県郡柚木崎城主。官途は丹後守。槍の名手で「日向一の槍突き」と称された。1572年、「木崎原の戦い」に参陣した。釣り野伏せに掛かり敗走する伊東勢の殿軍となった。弓矢で20余人を討取り、かつ鬼塚原の後に粥餅田と呼ばれる地で肥田木玄斎とともに踏み止まり奮闘した。島津義弘目掛けて弓矢を放った際、島津義弘の愛馬が前脚を突き曲げて柚木崎正家の攻撃を交わしたため、矢は島津義弘の甲の箙をやや掠めただけに終わった。島津義弘により討取られた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

吉村種雄【よしむらたねお(15??~15??)】

三田井惟政家臣。西臼杵郡玄武城主。通称式部大夫。
 
吉村種供【よしむらたねとも(15??~15??)】

吉村種雄の男。通称総右衛門。1578年、大友義鎮勢の攻撃を受け落城した。

吉村種友【よしむらたねとも(15??~1578)】

土持親成家臣。西臼杵郡玄武城主。土持親成は北方の三田井惟政に対抗するため、玄武城の強化を図った。三田井惟政は、大友義鎮と結びこれに対抗した。1578年、大友義鎮勢の攻撃を受け落城、滅亡した。

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【資料Ⅰ】

日向国(5郡/210,000石)

臼杵郡:淡路城、向山城。
児湯郡:都於郡城、松尾城。
那珂郡:佐土原城、飫肥城。
宮崎郡:宮崎城。
諸県郡:都之城。

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【資料Ⅱ】

伊東家四十八城【いとうけしじゅうはじょう】

那珂郡/佐土原城主伊東義祐、那珂城主郡司弥六左衛門尉、紫波洲崎城主川崎上総介。児湯郡/都於郡城主伊東義益、平野城主米良民部少輔、三納城主飯田肥前守、穂北城主長倉藤七、富田城主湯地五郎九郎、財部城主落合民部少輔、高城主:野村蔵人佐、新納石城主長友源三郎。宮崎郡/宮崎城主肥田木勘解由左衛門尉、石塚城主平賀刑部少輔、曽井城主八代民部左衛門尉、清武城主長倉伴九郎、田野城主長倉河内守、瀬平城主上別府常陸守、飫肥城主伊東祐兵、酒谷城主長倉淡路守、目井城主川崎駿河守。諸県郡/倉岡城主野村隠岐守、穆佐城主落合兵部少輔、飯田城主河崎治部大輔、内山城主野村刑部少輔、木脇城主福永民部四郎、本庄城主河崎兵部丞、八代城主伊東新三郎、守永城主内田四郎左衛門尉、綾城主佐土原遠江守、漆野城主漆野志摩介、紙屋城主米良主税助、戸崎城主肥田木四郎左衛門尉、野尻城主福永丹波守、三ツ山城主平良彦十郎、野首城主米良筑後守、那佐木城主肥田木三郎兵衛、須木城主米良長門守、高原城主福永源左衛門尉。臼杵郡/塩見城主右松四郎左衛門尉、日知屋城主福永新十郎、山陰城主米良喜内、坪谷城主米良休助、門川城主米良四郎右衛門尉、水志谷城主奈須九右衛門尉、神門城主小崎右近将監、雄八重城主米良分左衛門尉、田代城主箟尾彦三郎、入下城主入下弥四郎、高知尾城主三田井惟政。

都於郡四天衆【とのこおりしてんしゅう】

荒武歓久、山田宗継、津留、大脇。※都於郡の豪族衆。

伊東家四天王【いとうけのしてんのう】

稲津、落合、湯地定時、川崎祐長。

椎葉三人衆【しいばさんにんしゅう】

向山城主那須弾正忠、大川内城主那須兵部太夫、小崎城主那須左近太夫。※日向国東臼杵郡耳川上流の椎葉村を本拠としていた国人領主。

膝突栗毛【ひざつきくりげ】

島津義弘の愛馬。別名「長寿院栗毛」。1572年、「木崎原の戦い」において敵将との一騎打ちの際に、膝を折り曲げて島津義弘の危機を回避した。

城影【しろかげ】

懸土持親成の愛馬。曹洞宗月光山城影寺はその馬に因む。

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【資料Ⅲ】

日向国【ひゅうがこく】

九州の南東部に位置する海南道の国。北と西は九州山地でそれぞれ豊後国と肥後国に接し、南は日南山地が大隅国との境を作る。西南では狭い範囲で薩摩国と接し、東は長い海岸線で日向灘に臨む。河川は九州山地から日向灘に向って流れ、小丸川、一ツ瀬川、大淀川の下流に宮崎平野が広がり、南部の山間部には小林、都城などの盆地も存在する。国土の七割を九州山地、霧島山地、鰐塚山地などの山岳が占める山地で、耕作地となるのは一割程度に過ぎない。その分林業資源が豊富であり、長い海岸線の存在によって漁業を盛んである。中央から遠く交通の便も悪いため、文化的にはふるわなかった。

宗太郎峠【そうたろうとうげ】

宗太郎峠は、豊後国海部郡と日向国臼杵郡の国境にある峠。

細島【ほそしま】

日向国北部の塩見川河口部の対岸に浮かぶ細島に位置し、日向灘の海上交通の要衝として栄えた湊街。1586年、美々津、細島に島津義弘御座船の水主が命じられており、細島は多くの船や水主が存在する水運の湊でもあった。1556年、来航した鄭瞬功の著書「日本一鑑」桴海図経巻之一所載の九州諸港の名前として「坊津」「志布志」「美々津」などとともに「細島」が挙げられており、細島が九州を代表する湊のひとつであった。

美々津【みみつ】

日向国北部を東西に貫流する耳川の河口部に位置し、古くから栄えた湊街。1556年、日本に来航した鄭瞬功の著書「日本一鑑」には、九州諸港の名前として「坊津」「志布志」「細島」などとともに「美々津」が挙げられており、美々津が九州を代表する湊のひとつであった。

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戦国人名辞典は1520~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は示していますが、歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

大友宗麟は大友義鎮、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、『甲州武田家臣団』by新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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