2011年8月6日土曜日

戦国下野国人名辞典

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【あ】

合羽吉房【あいばよしふさ(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。官途は主計助。壬生家四天王。1587年、壬生義雄の意向を受けて今宮神社修復の奉行職を務めた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

青木利国【あおきとしくに(15??~15??)】

西方綱吉家臣。官途は加賀守。1570年、「西方城の戦い」で北条氏政勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」で西方綱吉に従い肥前名護屋城を守備した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

青田主膳正【あおたしゅぜんのかみ(15??~15??)】

芳賀高勝家臣。1592年、「文禄の役」で芳賀高勝に従い肥前名護屋城を守備した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

青柳十介【あおやぎじゅうすけ(15??~1579)】 

壬生義雄家臣。1576年、「徳節斎の乱」で壬生義雄に従い壬生周長勢と戦い戦功を挙げた。1579年、「鹿沼引田の戦い」で壬生義雄に従い宇都宮広綱の家臣早乙女藤三郎勢と戦い討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

青柳丹後守【あおやぎたんごのかみ(15??~15??)】

多功長朝家臣。家老職を務め132石を領した。1558年、「第二次多功城の戦い」で多功長朝に従い長尾景虎勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

青柳豊後守【あおやなぎぶんごのかみ(15??~1584)】

益子安宗家臣。1584年、「富谷館の戦い」で益子重綱に従い笠間幹綱の家臣中谷孫八郎、江戸美濃守勢と戦い討死した。参考文献:「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」by戦国時代版。

青柳肥前守【あおのひぜんのかみ(15??~1584)】

青柳豊後守の男。1584年、「富谷館の戦い」で父青柳豊後守に従い笠間幹綱の家臣中谷孫八郎、江戸美濃守勢と戦い討死した。参考文献:「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」by戦国時代版。

赤羽高綱【あかばねたかつな(15??~15??)】

宇都宮国綱家臣。芳賀郡赤埴館主。官途は信濃守。通称右京之進。別名赤埴宗勝。1570年、赤埴館を築館した。1572年、「第三次多功城の戦い」で多功長朝が北条氏政の家臣北条氏邦、太田氏房勢攻撃を受けると、これを支援するため援軍(赤垣高綱、戸祭房相、野中則興、祖母井定久、壬生伯耆守)を派遣した。援軍が到着すると、北条氏邦勢は退却した。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

赤羽朝宗【あかばねともむね(15??~15??)】

赤羽高綱の男。官途は周防守。別名赤埴c。1592年、「文禄の役」で宇都宮国綱に従い肥前名護屋城を守備した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

赤埴兵庫【あかばねひょうごのすけ(15??~15??)】

芳賀高武家臣。1593年、都芳郡上石川村の検地で検地奉行職筆頭を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

県因幡守【あがたいなばのかみ(15??~15??)】

長尾景長家臣。官途は左京亮。1572年、県家の家督を相続した。1589年、「深谷城の戦い」で長尾景長に従い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

赤坂修理亮【あかさかしゅうりのすけ(15??~15??)】

塩谷惟吉家臣。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で塩谷義綱に従い那須資晴勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

赤見六郎左衛門【あかみろくろうえもん(15??~15??)】

佐野泰綱家臣。安蘇郡赤見館主。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

赤見秀顕【あかみひであき(15??~15??)】

赤見六郎左衛門の孫。官途は伊賀守。1559年、「赤見館の戦い」で佐野泰綱に謀反を起こしたが、佐野泰綱勢の反撃を受け常陸国に落延びた。1563年、佐野宗綱に帰参して横小路館を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤見綱重【あかみつなしげ(15??~15??)】

赤見秀顕の男。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

赤見綱高【あかみつなたか(15??~15??)】

赤見綱重の男。通称六郎。1583年、「須花坂の戦い」で佐野宗綱が討死すると北条氏康の六男佐野氏忠が佐野家惣領職を相続した。佐野房綱、岩崎吉重郎、長嶋縫之助らとともに北条氏直勢に対抗した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

赤見伊賀守【あかみいがのかみ(15??~15??)】

佐野豊綱家臣。赤見館主。1559年、佐野豊綱への年賀の挨拶を怠ったため、佐野豊綱勢の夜襲を受けた。赤見伊賀守は奮戦したものの、抗しきれず、母方の実家のある常陸国に落延びた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

秋庭助右衛門【あきばすけえもん(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1549年、「五月女坂の戦い」で伊王野資信に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

秋元越前守【あきもとえちぜんのかみ(15??~1592)】

那須資晴家臣。堺八人衆。1590年、那須資晴が改易処分に処されると堺八人衆とともに成田泰親に仕えた。1592年、成田泰親の軍役を拒否したため、他の堺八人衆とともに謀殺された。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

阿久津内膳正【あくつないぜんのかみ(15??~15??)】

多功長朝家臣。1592年、「文禄の役」で多功長朝に従い肥前名護屋城を守備した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

阿久津左衛門【あくつさえもん(15??~15??)】

鹿沼綱勝家臣。1523年、「上野台の戦い」で鹿沼綱勝に従い宇都宮忠綱勢と戦い鹿沼綱勝が討死したため敗退した。戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

浅羽左衛門尉【あさばさえもんのじょう(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1570年、長尾顕長に従い館林城を守備した。1581年、「免鳥館の戦い」で長尾顕長が免鳥館を攻略すると、免鳥城代に任じられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

浅羽秀継【あさばひでつぐ(15??~15??)】

浅羽左衛門尉の男。通称甚内。1581年、「免鳥館の戦い」で長尾顕長が免鳥城を攻略すると、父浅羽左衛門尉に従い免鳥館を守備した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

秋間弾正忠【あさまだんじょうちゅう(15??~15??)】
 
長尾顕長家臣。足利郡樺崎館主。1585年、「樺崎館の戦い」で北条氏直勢の攻撃を撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

芦野資興【あしのすけおき(14??~15??)】

那須高資家臣。那須郡芦野館主。官途は日向守。那須七騎衆。参考文献:『戦国関東名将列伝(奇蹟の武人)』by島遼伍。

芦野資豊【あしのすけとよ(15??~15??)】

芦野資興の男。官途は日向守。1549年、「五月女坂の戦い」で那須高資に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。

芦野資泰【あしのすけやす(1529~1594)】

芦野資豊の男。官途は大和守。1549年、「五月女坂の戦い」で父芦野資豊に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。1560年、「小田倉の戦い」で白河結城義親勢の攻撃を受け苦戦する那須資胤勢を支援して戦功を挙げた。

芦野盛泰【あしのもりやす(1556~1599)】

芦野資泰の男。官途は日向守。1589年、「小田原の役」で羽柴秀吉勢に属して参陣して芦野館800石の所領を安堵された。1598年、羽柴秀吉が病没すると、遺品の「関孫六の刀」を拝領
した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

芦野政泰【あしのまさやす(1592~1611)】

芦野盛泰の男。通称弥左衛門。1599年、父芦野盛泰の病没により芦野家の家督を相続した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

芦野九右衛門【あしのきゅえもん(15??~15??)】

芦野政泰家臣。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従った芦野政泰の意向を受け人質として芦野政泰の老母とともに松平元康のもとに赴いた。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

麻生家忠【あそういえただ(15??~1585)】

塩谷惟吉家臣。通称弥吉郎。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で塩谷義綱に従い那須資晴勢の芦野資泰の陣に突入し壮烈な討死を遂げた。参考文献:『戦国 下野落城物語』by島遼伍。

阿曾沼左京大夫【あそぬまさきょうだいふ(15??~15??)】

古河公方足利晴氏家臣。1546年、「武蔵河越城の戦い」で足利晴氏に従い北条氏康勢と戦ったが敗退した。足利晴氏が衰退したため、佐野昌綱に仕えた。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

阿曾沼玄蕃之助【あそぬまげんばのすけ(15??~15??)】

阿曾沼左京大夫の男。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

阿曾沼助左衛門尉【あそぬますけざえもんのじょう(15??~15??)】

阿曾沼玄蕃之助の男。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

阿曾沼方重【あそぬまかたしげ(15??~15??)】

阿曾沼助左衛門尉の男。通称助太夫。佐野家17騎衆。1579年、「唐沢山城の戦い」で佐野宗綱に従い北条氏直の家臣大畑与十郎を討取る戦功を挙げた。1589年、「屋形山館の戦い」で北条氏直派の大貫越中守を討取る戦功を挙げた。1614年、佐野信吉が改易処分に処されると帰農した。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

厚木朝高【あつぎともたか(15??~15??)】

芳賀高経家臣。芳賀高義の三男。1536年、芳賀高経、芳賀高孝、壬生綱房らとともに宇都宮成綱の次男宇都宮尚綱を擁立して、宇都宮興綱を自刃に追い込んだ。厚木館から退去して北条氏康に仕えた。後に結城晴朝に従い厚木館に復帰した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

厚木義清【あつぎよしきよ(15??~15??)】

厚木朝高の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿戸左京【あとさきょう(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

安部源十郎【あべげんじゅうろう(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。1583年、壬生義雄から所領を安堵状を受けた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

安部兵部【あべひょうぶ(15??~15??)】

塩谷義綱家臣。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で塩谷義綱に従い那須資晴勢と戦った。参考文献:『改易の城(下野宇都宮氏断絶秘話)』by島遼伍。

新居長重【あらいながしげ(15??~15??)】

長尾景長家臣。通称与一。1561年、「女淵館の戦い」で長尾景虎が女淵館を攻略すると、長尾景長を城主に任じた。長尾景長から館代に任じられたが、矢場勝繁勢の攻撃を受け落城した。1574年、「女淵館の戦い」で長尾景虎勢の攻撃を受けを落城した。1576年、女淵館が由良国繁が領すると、再び館代に任じられた。

荒井忠光【あらいただみつ(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。官途は周防守。日光山の宮大工(棟梁)。1587年、壬生義雄が今宮神社を修復すると、宮大工(棟梁)を務めた。鹿沼の寺社修復、造営なども修復した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

荒井右京【あらいうきょう(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

荒井志摩守【あらいしまのかみ(15??~15??)】

那須郡荒井館主。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

荒井図書【あらかわとしょ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1589年、「小田原の役」で長尾顕長に従い小田原城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

新井右近【あらいさこん(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

鮎ヶ瀬実光【あゆがせさねみつ(15??~15??)】

伊王野資直家臣。那須郡鮎ヶ瀬館主。官途は安房守。通称弥五郎。弓の名手。1549年、「五月女坂の戦い」で伊王野資直に従い宇都宮尚綱の胸板を一矢で射抜とすなど数々の戦功を挙げた。

粟宮伯耆守【あわみやほうきのかみ(15??~15??)】

小山高朝家臣。安房神社を中心とする粟宮衆の惣領職。1560年、「第一次小田原城の戦い」長尾景虎勢が関東に侵攻すると岩上筑前守に従い長尾景虎勢に属した。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

粟宮讃岐守【あまみやさぬきのかみ(15??~15??)】

粟宮伯耆守の男。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

粟宮長門守【あまみやながとのかみ(15??~15??)】

小山高朝家臣。1567年、「唐沢山城の戦い」で小山高朝の意向を受け芳賀高継とともに援軍として佐野昌綱のもとに派遣され長尾景虎勢と戦った。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文庫。

安藤光忠【あんどうみつただ(15??~15??)】

塩谷孝綱家臣。1509年、那須資房に内応して大貫増長、印南修理進、油井利宗らが謀反を企てたが失敗に終わった。塩谷孝綱に進言して二度と謀反を起こさないよう起請文を書かせ、木幡神社に奉納させてこれを赦免した。

飯岡知貞【いいおかともさだ(15??~1587)】 

宇都宮広綱家臣。飯岡館主。通称新左衛門。1587年、「倉ヶ崎館の戦い」で日光山門徒と北条氏直勢の攻撃を受け上郷衆(上平勝重、金枝光任、糟谷政武、小宅高祐、鈴木重康)とともに倉ヶ崎館に籠城した。大門弥次郎が北条氏直勢に内応したため、他の五将とともに討死した。内応した大門弥次郎も北条氏直勢に謀殺された。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

飯岡惣左衛門尉【いいおかそうざえもん(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。府郡館主。1523年、「上野台の戦い」で宇都宮忠綱に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

飯岡惣左衛門尉【いいおかそうざえもんのじょう(15??~15??)】

飯岡惣左衛門尉の男(同名)。1576年、壬生義雄に対抗するため、宇都宮国綱から府郡館代に任じられた。1590年、「府郡館の戦い」で結城晴朝勢の攻撃を受け落城した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

飯田民部助【いいだみんぶのすけ(15??~15??)】 

宇都宮広綱家臣。飯田館主。太鼓奉行を務めた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

飯塚綱豊【いいづかつなとよ(15??~15??)】

佐野房綱家臣。官途は兵部少輔。1585年、佐野房綱が佐野家を退去すると、佐野房綱に従い佐竹義重のもよに赴いた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

伊王野資清【いおのすけきお(14??~15??)】 

下那須郡伊王野館主。官途は下総守。参考文献:『戦国関東名将列伝(奇蹟の武人)』by島遼伍。

伊王野資広【いおのすけひろ(14??~15??)】 

伊王野資清の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊王野資真【いおのすけまさ(14??~15??)】 

稲沢弾正忠の男(伊王野資広の養子)。室は伊王野資広の娘。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊王野資直【いおのすけなお(14??~15??)】 

伊王野資真の男。室は那須政資の娘。那須七騎衆。1542年、「石井沢の戦い」で大田原資清に従い大関増次、福原資安勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊王野資宗【いおのすけむね(1518~1594)】

伊王野資直の男。官途は下野守。室は塩谷義房の娘。1549年、「五月女坂の戦い」で那須高資に従い宇都宮尚綱勢と戦い家臣の鮎瀬実光が宇都宮尚綱を討取る戦功を挙げた。大関高増と那須資胤が対立すると大関高増勢に属した。1560年、「小田倉の戦い」で芦名盛氏、白河結城晴綱勢の攻撃を受けたが、那須資胤の家臣千本資俊勢の奮戦により撃退した。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で那須資晴に従い宇都宮国綱勢と戦い撃退した。1586年、東郷(野上、両郷、須佐木)領地を大関清増に奪われた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊王野資信【いおのすけのぶ(15??~16??)】

伊王野資宗の男。官途は下総守。室は佐久山信隆の娘。1589年、「小田原の役」で羽柴秀吉に従い本領の740石を安堵された。1592年、「文禄の役」で羽柴秀吉に従い肥前名護屋城を守備した。1600年、「関山の戦い」で松平元康に従い長尾景勝勢と戦った。役後、1,800石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で松平元康に従い羽柴秀頼勢と戦った。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

伊王野直清【いおのなおきよ(15??~15??)】

伊王野資宗の次男。通称猪右衛門。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従った伊王野資信の意向を受け人質として娘を松平元康のもとに送った。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

伊王野資重【いおのすけしげ(15??~1600)】

伊王野資信の男。通称又十郎。1600年、「関山の戦い」で松平元康勢に属して長尾景勝勢と戦い負傷した。その傷がもとで没した。継嗣の伊王野資直が幼少のため、伊王野家の家督は弟の伊王野資友が相続した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

伊王野資友【いおのすけとも(15??~1633)】

伊王野資信の次男。官途は豊後守。通称又次郎。室は大田原綱清の娘。1600年、「関山の戦い」で松平元康に従い大田原晴清、服部正就、福原資保とともに大田原城に籠城した。兄伊王野資重が長尾景勝勢との戦いで負傷しその傷がもと病没したため、伊王野家の家督を相続した。馬廻衆として2,738石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で松平元康に従い羽柴秀頼勢と戦った。1633年、井上新左衛門から伊王野資房を婿養子に迎えた。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

伊王野資房【いおのすけふさ(15??~16??)】

井上新左衛門の男(伊王野資友の養子)。室は伊王野資友の娘。1633年、養父伊王野資友が病没すると、伊王野家の家督を相続したがまもなく病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊王野弾正忠【いおのだんじょうちゅう(15??~15??)】

伊王野資宗家臣。下那須郡弾正館主。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

伊王野兵部【いおのひょうぶ(15??~15??)】

伊王野資信家臣。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

五十木大膳【いがきだいぜん(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

五十畑長吉【いがはたながよし(15??~15??)】

足利成氏家臣。都賀郡五十畑館主。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

五十部小太郎【いがべこたろう(15??~15??)】

長尾景長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

伊澤遠江守【いさわおおみのかみ(15??~1558)】

多功長朝家臣。1558年、「第二次多功城の戦い」で多功長朝に従い長尾景虎勢と戦い討死した。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

石井安芸守【いしいあきのかみ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

石井丹波守【いしいたんばのかみ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

石川憲頼【いしかわのりより(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。石川館主。通称主膳。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

石川尊空【いしかわそんくう(15??~15??)】

渋川義勝家臣。城代家老職を務めた。1570年、「小俣城の戦い」で長尾景虎勢の攻撃を受けるが寡兵で長尾景虎勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

石川五郎兵衛【いしかわごろうびょうえ(15??~15??)】 

宇都宮国綱家臣。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で宇都宮国綱に従い那須資晴勢と戦った。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

石川内膳正【いしかわないぜんのかみ(15??~15??)】 

宇都宮国綱家臣。石川館主。1576年、宇都宮国綱の意向を受け多気山館に在番した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

石川新五郎【いしかわしんごろう(15??~15??)】 

石川内膳正の弟。1576年、宇都宮国綱は、石川新五郎を使者に壬生周長を討取る企てを行おうとしたが、石川新五郎はこの企てに反対した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

石川四郎右衛門【いしかわしろうえもん(15??~15??)】

石川内膳正の男。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

石川越前守【いしかわえちぜんのかみ(15??~16??)】

石川内膳正の次男。別名堀ノ内越前守。1602年、石川館へ転封した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

石川式部少輔【いしかわしきぶしょうゆう(15??~15??)】

結城晴朝家臣。芳賀郡豪族衆。1577年、結城晴朝から式部少輔に任ぜられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

石川長助【いしかわちょうすけ(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「河原田の戦い」で宇都宮忠綱に従い皆川宗成勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

石川文六【いしかわぶんろく(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

石崎通季【いしざきみちよし(15??~1558)】

多功長朝家臣。官途は周防守。別名石崎綱利。家老職を務めた。1558年、「第二次多功城の戦い」で多功房朝に従い長尾景虎勢と戦い討死した。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

石崎通長【いしざきみちなが(15??~15??)】

石崎通季の男。通称次郎左衛門。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で宇都宮国綱が芳賀高定とともに使者として千本資俊の館に赴いた。1597年、宇都宮国綱の改易処分を受けると多功家房朝とともに帰農した。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

石原左近【いしはらさこん(15??~15??)】

鹿沼綱勝家臣。1523年、「上野台の戦い」で鹿沼綱勝に従い宇都宮忠綱勢と戦い鹿沼綱勝が討死したため敗退した。戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

石渡弥五郎【いしわたりよごろう(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

泉直任【いずみなおこれ(15??~15??)】

塩谷孝綱家臣。塩谷郡泉館主。通称五郎。1585年、「薄葉ヶ原の戦」に塩谷義綱に従い那須資晴勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

和泉備前守【いずみぶんごのかみ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

和泉源太左衛門【いずみげんざえもん(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

板橋親棟【いたばしちかむね(15??~1590)】

壬生周良家臣。通称将監。天正年間(1532~55)、「板橋館の戦い」で遊城坊綱清の板橋城を攻落し板橋城を本拠とした。1576年、「鹿沼城の戦い」で壬生周良に従い鹿沼右衛門勢と戦いこれを討取る戦功を挙げた。1576年、壬生周良が鹿沼城内で壬生綱雄に謀殺されると壬生綱雄に従った。1587年、「倉ヶ崎館の戦い」で宇都宮国綱勢の属城を攻略した。1589年、「小田原の役」で壬生義雄とともに北条氏直勢に属して小田原城に籠城したが討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

板橋行常【いたばしゆきつね(15??~1635)】

板橋親棟の男。官途は加賀守。通称太郎。別名「瑞光寺源良」。1589年、「小田原の役」では、板橋城を守備した。壬生義雄が病没したため、日光山も往来の力を全く失い、孤立を余儀なくされた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

板橋行武【いたばしゆきたけ(15??~15??)】

板橋行常の男。官途は大隅守。別名勅使河原五郎右衛門。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

板倉修理【いたくらしゅり(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

市川主水介【いちかわもんどのすけ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1581年、「免鳥館の戦い」で長尾顕長に従い佐野宗綱の家臣高瀬忠行勢と戦い戦功を挙げた。1589年、「小田原の役」で長尾顕長に従い小田原城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

市田備中守【いちだびっちゅうのかみ(15??~15??)】 

宇都宮国綱家臣。茂呂館主。大比良義次らとともに多気山城の普請奉行職を務めた。1589年、「鹿沼城の戦い」で壬生義雄の家臣竹間兵吉を討取った後、その父竹間源五も討取る戦功を挙げた。

市場長七郎【いちばちょうしちろう(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

伊藤左内【いとうさない(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

稲沢俊吉【いなざわとしよし(15??~15??)】

那須高資家臣。官途は播磨守。1549年、「早乙女坂の戦い」で那須高資に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

稲沢帯刀【いなざわたてわき(15??~15??)】

大関高増家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

稲沢佐左衛門【いなざわさえもん(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

稲沢右馬丞【いなざわさまのじょう(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

稲葉信久【いなばのぶひさ(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。官途は大和守。1587年、壬生義雄の今宮神社修復で奉行職を務めた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

稲葉方久【いなばかたひさ(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。官途は大和守。1576年、「徳節斎の乱」で壬生義雄に従い壬生周長勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

犬飼康吉【いぬかいやすよし(15??~1573)】

壬生綱雄家臣。犬飼館主。1573年、「犬飼館の戦い」で宇都宮国綱勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

井上尾張守【いのうえおわりのかみ(15??~15??)】

大関高増家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

今井大蔵少輔【いまいおおらしょうぶ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1589年、「小田原の役」で長尾顕長に従い小田原城に籠城した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

今泉泰高【いまいずみやすたか(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。河内郡上三川館主。官途は兵部少輔。1523年、「上野台の戦い」で宇都宮忠綱に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。「河原田の戦い」で宇都宮忠綱に従い皆川宗成勢と戦い戦功を挙げた。1549年、「早乙女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い敗退した。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

今泉泰光【いまいずみやすみつ(15??~15??)】

今泉泰高の男。1549年、「早乙女坂の戦い」で父今泉泰高に従い那須高資勢と戦い敗退した。1558年、長尾景虎が下野国に侵攻すると多功城を支援した。1586年、「砂田の戦い」で水谷正村勢の攻撃を受けるが、芳賀高武勢に属してこれを撃退した。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

今泉高光【いまいずみたかみつ(15??~1597)】

今泉泰光の男。官途は但馬守。通称四郎左衛門。1597年、宇都宮国綱の家督相続問題では、北条勝時らとともに浅野長重を擁立を図り、芳賀高武らと激しく対立した。芳賀高武勢の夜襲を受け上三川城は落城、長泉寺で自刃した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

今泉盛高【いまいずみもりたか(15??~15??)】

上三川館主。通称四郎兵衛門尉。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

入江野泰清【いりえのやすきよ(15??~1586)】

佐久山義隆の男。那須郡入江野館主。官途は河内守。別名佐久山泰秀。1563年、「佐久山館の戦い」で福原資孝勢の攻撃を受け入江野館に落延びた。1586年、「入江野館の戦い」で那須資晴勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩上伊勢守【いわがみいせのかみ(15??~15??)】

小山高朝家臣。都賀郡国府館主。通称九郎三郎。家老職を務めた。1553年、小山高朝から上石塚郷内の所領安堵を受けた。1560年、「第一次小田原城の戦い」長尾景虎勢が関東に侵攻すると小山高朝に従い長尾景虎勢に属した。1573年、「祇園城の戦い」で小山秀綱に従い北条氏政勢と戦い戦功を挙げた。佐竹義重との取次役を務め、同盟を結び北条氏政に対抗した。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

岩上筑前守【いわがみえちぜんのがみ(15??~15??)】

岩上伊勢守の男。1573年、「祇園城の戦い」で父岩上伊勢守に従い北条氏政勢と戦った。1589年、「小田原の役」で小山秀綱が北条氏直勢に属したため、役後小山家は改易処分を受け没落した。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

岩上大炊助【いわがみおおいのすけ(15??~15??)】

岩上筑前守家臣。1560年、「第一次小田原城の戦い」長尾景虎勢が関東に侵攻すると岩上筑前守に従い長尾景虎勢に属した。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

岩上越前守【いわがみえちょぜんのかみ(15??~15??)】

小山高朝家臣。1560年、「第一次小田原城の戦い」長尾景虎勢が関東に侵攻すると岩上筑前守に従い長尾景虎勢に属した。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

岩上安芸守【いわがみあきのかみ(15??~15??)】

小山高朝家臣。1560年、「第一次小田原城の戦い」長尾景虎勢が関東に侵攻すると岩上筑前守に従い長尾景虎勢に属した。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

岩上石見守【いわがみいわみのかみ(15??~15??)】

小山高朝家臣。1560年、「第一次小田原城の戦い」長尾景虎勢が関東に侵攻すると岩上筑前守に従い長尾景虎勢に属した。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

岩崎重長【いわさきしげなが(15??~15??)】

佐野重綱の次男。岩崎館主。官途は左馬助。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岩崎春信【いわさきはるのぶ(15??~15??)】

岩崎重長の男。官途は左馬助。1559年、佐野泰綱と争い敗れ常陸国に落延びた。1560年、佐野昌綱と和議を結び、佐野昌綱の次男を養子に迎え、岩崎城に復帰した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岩崎重久【いわさきしげひさ(15??~1583)】

佐野昌綱の次男(岩崎春信の養子)。通称左馬助。1583年、「須花坂の戦い」で兄佐野宗綱とともに討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岩崎重元【いわさきしげもと(15??~15??)】

岩崎重久の弟。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岩本兵庫助【いわもとひょうごのすけ(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。1559年、今宮権現修造に奉納された鰐口を作った大工。卓越した鋳造技術を持っていた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岩下主計【いわしたしゅけい(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岩崎弥内【いわさきようち(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

印南修理進【いんあみしゅりのしん(15??~15??)】

塩谷孝綱家臣。1509年、大貫増長、油井利宗らとともに那須資房に内応して塩谷孝綱に謀反を企てるが事が露見して失敗に終わった。塩谷孝綱は、二度と謀反を起こさないよう起請文を書かせ、木幡神社に奉納させてこれを許した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

今泉重助【いまいずみじゅうすけ(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

岩花右衛門尉【いわはなうえもんのじょう(15??~15??)】

鹿沼綱勝家臣。1523年、「上野台の戦い」で鹿沼綱勝に従い宇都宮忠綱勢と戦い鹿沼綱勝が討死したため敗退した。戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

植竹孫七郎【うえたけまごしちろう(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

上野幸源【うえのこうげん(15??~1608)】
 
結城晴朝家臣。別名幸源法印。軍配者。下野国長沼郷の金剛寺の修験者を務めた。金剛寺は天台宗の修験の寺で、上野幸源は中興開山となった。金剛院は修験道本山派の勝仙院の配下にあり、同派の棟梁は聖護院道澄(近衛前久の弟)で広く情報を集めることが出来た。1589年、「榎本城の戦い」で結城晴朝に従い戦功を挙げた。1598年、結城秀康から30石を所領を安堵された。1602年、結城秀康が越前国に転封になると、同地に残留した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

宇賀神隼人【うがじんはやと(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。1570年、壬生義雄から、武運長久の祈願を要望された。1571年、「引田の戦い」に参陣した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

宇賀神新左衛門【うがじんしんざえもん(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「上野台の戦い」で宇都宮忠綱に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

宇賀神新八郎【うがじんしんぱちろう(15??~15??)】 

宇都宮国綱家臣。千渡館主。1597年、宇都宮国綱が改易処分を受けると帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

宇賀左京助【うがさきょうのすけ(15??~15??)】

宇賀神新八郎家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

氏家三河守【うじいえみかわのかみ(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

氏家三河守【うじいえみかわのかみ(15??~15??)】

榎本高綱家臣。1564年、「第二次榎本城の戦い」で榎本高綱に従い皆川俊宗勢と戦い奮戦したが榎本城は落城した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

牛窪丹後守【うしくぼたんごのかみ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

薄根家継【うすねいえつぐ(15??~15??)】

千本資俊家臣。杉山館主。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

薄葉備中守【うすばびちゅうのかみ(15??~15??)】

伊王野資信家臣。那須郡備中郭館主。1549年、「五月女坂の戦い」で伊王野資信に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

内田庄之助【うちだしょうのすけ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

内山田監物【うちやまだけんもつ(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

宇塚兵吉郎【うづかひょうよしろう(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

宇都宮成綱【うつのみやなりつな(1468~15??)】

河内郡宇都宮城主。宇都宮正綱の男。官途は下野守。通称弥三郎。宇都宮城70,000石を領した。1512年、「永正の乱」で古河公方足利政氏と足利高基が対立すると、足利高基を支援して足利政氏勢の芳賀高勝を謀殺した。参考文献:『戦国関東名将列伝』by島遼伍。

宇都宮忠綱【うつのみやただつな(1496~1527)】

宇都宮成綱の男。官途は右馬権頭。通称弥三郎。芳賀興綱、武茂兼綱、塩谷孝綱の後見を受けた。1514年、「小川縄釣の戦い」で結城政朝、山川朝貞、水谷勝之らの支援を受け佐竹義舜、岩城由隆勢を撃退した。勢力を拡大する結城政朝と対立した。1526年、「猿山ヶ原の戦い」で結城政朝と結んだ芳賀興綱勢の攻撃を受け壬生綱房を頼って鹿沼城へ落延びた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

宇都宮興綱【うつのみやおきつな(1475~1536)】

宇都宮正綱の三男。官途は左衛門督。通称弥四郎。別名芳賀興綱。1512年、「宇都宮錯乱」で兄宇都宮成綱が芳賀高勝を謀殺し芳賀家残党を粛清したのちに芳賀孝高、芳賀高経を排除して芳賀家の家督を相続した。1526年、壬生綱房と結び、結城政朝の支援を受け宇都宮忠綱を追落とし宇都宮家を簒奪した。1536年、壬生綱房と結んだ芳賀高経に謀殺された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

宇都宮尚綱【うつのみやひさつな(1512~1549)】

宇都宮興綱の男。官途は下野守。通称弥三郎。1539年、那須政資と那須高資が那須家の家督争いを起こすと佐竹義篤、小田政治とともに那須政資を支援して那須高資の烏山城を攻撃した。壬生綱房の処遇を巡って芳賀高経との関係が悪化した。1541年、「児山館の戦い」で芳賀高経を討取り益子勝宗の継嗣益子高定に芳賀家を相続させた。1549年、「五月女坂の戦い」で那須高資勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

宇都宮広綱【うつのみやひろつな(1543~1580)】

宇都宮尚綱の男。官途は下野守。通称弥三郎。室は佐竹義昭の娘。1549年、「五月女坂の戦い」で父宇都宮尚綱が討死したため、芳賀高定の補佐を受け宇都宮家の家督を相続した。1551年、「宇都宮城の戦い」で芳賀高照、壬生綱房勢の攻撃を受け芳賀高定とともに真岡城へ落延びた。1557年、芳賀高照を真岡城で誘殺した。佐竹義昭の支援を受け宇都宮城を奪還した。1564年、「小田城の戦い」で佐竹義昭に長尾景虎とともに協力した。1566年、北条氏政勢が下野国に侵攻すると、佐竹義昭とともに対抗した。1569年、「越相同盟」が結ばれると長尾景虎と対立した。1572年、皆川広照を攻撃した。1574年、壬生綱雄を攻撃した。1575年、足利義氏を介して北条氏政と和議を結んだ。1578年、隠居して宇都宮家の家督を宇都宮国綱に譲った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

宇都宮国綱【うつのみやくにつな(1568~1607)】

宇都宮広綱の男。官途は下野守。通称弥三郎。室は佐竹義久の娘(佐竹義重の養女)。1578年、父宇都宮広綱が隠居したため、宇都宮家の家督を相続した。1578年、「山川城の戦い」で佐竹義重の支援を受け北条氏政勢を撃退した。1585年、「鹿沼城の戦い」で佐竹義重の支援を受け壬生義雄勢と戦い戦功を挙げた。1586年、北条氏直勢と結ぶ皆川広照、壬生義雄と戦った。北条氏直勢の攻勢により、芳賀高継が離反するなど劣勢に立たされた。1589年、「小田原の役」で羽柴秀吉勢に属して戦功を挙げ宇都宮城180,000石の所領安堵を受けた。1592年、「文禄の役」で増田長盛勢に属して李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1597年、浅野長政の三男浅野長重を養子に迎えることでお家騒動が起き改易処分に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

宇都宮義綱【うつのみやよしつな(1598~1664)】

宇都宮国綱の男。通称弥三郎。1597年、父宇都宮国綱が改易処分に処されると宇喜多秀家に預けられた。1597年、「慶長の役」で宇都宮家の再興を願い参陣したが、羽柴秀吉が病没したため失敗に終わった。水戸松平頼房に仕え、百人扶持を賜り格式は家老職に準じた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

祖母井吉胤【うばがいよしたね(15??~1558)】

宇都宮興綱家臣。芳賀郡祖母井館主。官途は信濃守。1558年、「第二次多功城の戦い」で宇都宮広綱の意向を受け多功長朝に従い長尾景虎勢と戦い討死した。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

祖母井定久【うばがいさだひさ(15??~15??)】

祖母井吉胤の男。官途は遠江守。1572年、「第三次多功城の戦い」で北条氏政勢の攻撃を受けた多功城の多功長朝を支援して北条氏政勢を撃退する戦功を挙げた。1585年、「多気館の戦い」で北条氏直勢の攻撃を受け籠城した。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

祖母井高宗【うばがいたかむね(15??~15??)】

祖母井定久の男。官途は信濃守。1582年、「文禄の役」で宇都宮国綱に従い数々の戦功を挙げた。1597年、「慶長の役」で京都の商人から借金をして宇都宮国綱に従った。宇都宮国綱が改易処分に処されると没落した。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

梅沢義久【うめざわよしひさ(15??~15??)】

佐野宗綱家臣。梅沢館主。官途は石見守。鍋山衆。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

上平勝重【うわだいらかつしげ(15??~1587)】

宇都宮国綱家臣。通称弥七郎。1587年、「倉ヶ崎館の戦い」で日光山門徒と北条氏直勢の攻撃を受け上郷衆(金枝光任、飯岡知貞、糟谷政武、小宅高祐、鈴木重康)とともに倉ヶ崎館に籠城した。大門弥次郎が北条氏直勢に内応したため、他の五将とともに討死した。内応した大門弥次郎も北条氏直勢に謀殺された。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

上平修理亮【うわだいらしゅりのすけ(15??~15??)】 

上平勝重の男。1592年、氏家今宮神社の神事を行った。1587年、父上平勝重の討死により上平家の家督を相続した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

上平四郎【うわだいらしろう(15??~15??)】
 
塩谷義綱家臣。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で塩谷義綱に従い那須資晴勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

江川左衛門尉【えがわさえもんのじょう(15??~15??)】

長尾顕長家臣。通称海老之助。1581年、「免鳥館の戦い」で長尾顕長に従い佐野宗綱の家臣高瀬忠行勢と戦い戦功を挙げた。1585年、「館林城の戦い」で北条氏直の家臣垪和康忠、山角定勝、伊勢貞運らの攻撃を受け撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

江島大内蔵【えじかおおくら(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「上野台の戦い」で宇都宮忠綱に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。「河原田の戦い」で宇都宮忠綱に従い皆川宗成勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

江曾島政綱【えそしままさつな(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。江曾島館主。官途は遠江守。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

江田兵庫介【えだひょうごのすけ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1589年、「小田原の役」で長尾顕長に従い小田原城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

枝政吉【えだまさよし(15??~15??)】 

壬生綱房家臣。官途は木工助。1534年、今宮神社造営で作事奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

枝秀吉【えだひでよし(15??~15??)】 

枝政吉の男。官途は左京亮。1576年、「徳節斎の乱」で壬生義雄に従い壬生周長勢と戦い戦功を挙げた。1587年、壬生義雄の今宮神社修復で父枝政吉とともに作事奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

江戸豊後守【えどぶんごのかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。別名「法印」。1590年、「館林城の戦い」で大畑治部少輔、久下田越後守、久保田若狭守、長谷川道伴、野田志摩守、大島弥平治、大窪甚五郎、設楽新八郎、葦沼左内、篠塚半弥らとともに家老職の金谷因幡守に従い羽柴秀吉勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

榎本高綱【えのもとたかつな(15??~1564)】 

都賀郡榎本館主。小山高朝の男。1558年、榎本館主に任じられた。1563年、「第一次榎本館の戦い」で皆川俊宗勢の攻撃を受けたが撃退した。1564年、「第二次榎本館の戦い」で皆川俊宗の家臣金子長門守、横倉伊豆守、小倉大膳之亮勢の攻撃を受けたが、氏家三河守、背尾三河守、背尾重兵衛、星渡次郎太郎、杉本七右衛門、永井三郎左衛門らの奮戦で皆川俊宗勢を何度か撃退したが、総攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

榎本高満【えのもとたかみつ(15??~15??)】

榎本高綱の男。官途は大隅守。榎本城15,000石を領した。1564年、「第二次榎本城の戦い」で皆川俊宗勢の攻撃を受け父榎本高綱が討死したため、捕縛され小田原城に送られた。1577年、「榎本城の戦い」で佐野宗綱勢の攻撃を受け北条氏政のもとに落延びた。参考文献:『戦国関東名将列伝(動乱の改革大名)』by島遼伍。

遠藤与太郎【えんどうよたろう(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

遠藤太郎左衛門【えんどうとろうざえもん(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

大岩大助【おおいわだいすけ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1589年、「小田原の役」で長尾顕長に従い小田原城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大垣隠岐守【おおがきおきのかみ(15??~15??)】

壬生義雄家臣。上都賀郡藤井館主。通称右衛門尉。壬生義雄の四家老職を務めた。1587年、「倉ヶ崎館の戦い」で壬生義雄に従い先陣を務め、大門資長、上郷衆税勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国 下野落城物語(血染めの六人衆)』by島遼伍。

大金重宣【おおがねしげのぶ(15??~15??)】

那須郡広瀬館主。官途は備後守。1567年、「大崖山の戦い」で大山田綱胤、松野政通、武茂守綱、烏子泰宗、横田綱久、南路義郷、戸村義広、小場義忠、石川昭光らとともに佐竹義重の家臣長倉義当に従い那須資胤勢と戦い奇襲攻撃を受け敗退した。1570年、「梅ヶ平城の戦い」で那須資胤の攻撃を撃退する戦功を挙げた。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

大河土佐守【おおかわとさのかみ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大久保吉宗【おおくぼよしむね(15??~15??)】

塩谷孝綱家臣。塩谷郡大久保館主。通称太郎。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で塩谷孝綱に従い宇都宮国綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
大久保重胤【おおくぼしげたね(15??~15??)】

宇都宮広綱家臣。通称久左衛門。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大久保甚五郎【おおくぼじんごろう(15??~15??)】

長尾顕長家臣。別名大窪甚五郎。1581年、「免鳥館の戦い」で長尾顕長に従い佐野宗綱の家臣高瀬忠行勢と戦い戦功を挙げた。1590年、「館林城の戦い」で金谷因幡守に従い羽柴秀吉勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大久保勘助【おおくぼかんすけ(15??~15??)】

大関高増家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

大久保民部【おおくぼみんぶ(15??~1592)】

那須資晴家臣。堺八人衆。1590年、那須資晴が改易処分に処されると堺八人衆とともに成田泰親に仕えた。1592年、成田泰親の軍役を拒否したため、他の堺八人衆とともに謀殺された。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

大沢康勝【おおさわやすかつ(15??~15??)】

塩谷隆綱家臣。通称隼人。塩谷孝綱が塩谷家の家督を相続すると、宇都宮家の附家老の岡本重親と山田泰業が筆頭家老職となり、祖父大沢光勝は次席家老となった。1564年、「川崎城の戦い」で塩谷孝信勢勢の攻撃を受け塩谷義孝が討死すると、塩谷義綱とともに山本義宗のもとに落延びた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

大沢吉勝【おおさわよしかつ(15??~15??)】

大沢康勝の男。1582年、「矢板の戦い」で那須資晴勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

大嶋助兵衛尉【おおしますけひょうえのじょう(15??~15??)】
 
結城政勝家臣。河内郡仁良川館主。通称与十郎。仁良川館6貫400文を領した。1566年、結城晴朝から3貫400文の加増を受けた。1586年、常陸富谷館を守備して15貫文の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

大嶋与十郎【おおしまよじゅうろう(15??~15??)】
 
大嶋助兵衛尉の男。1589年、下野国仁良川郷で新屋敷の造営を許可された。結城秀康に仕えたが、後に佐竹義宣に仕えて羽後国久保田に転封した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

大関宗増【おおぜきむねます(1462~1544)】 

那須資親家臣。那須郡白旗城主。大関増雄の男。那須七騎衆。白旗城13,000石を領した。1518年、那須政房による那須家再統一に功があったが、那須政房に讒言し、大田原資清を追放して那須家の実権を握った。1542年、「石井沢の戦い」で大田原資清に継嗣の大関増次が謀殺され、大田原資清の継嗣大関高増を養嗣子として迎えることを余儀なくされた。参考文献:『戦国関東名将列伝(奇蹟の武人)』by島遼伍。

大関増次【おおぜきますつぐ(1518~1542)】

大関宗増の男。1542年、「石井沢の戦い」で大田原資清勢の奇襲を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大関高増【おおぜきたかます(1527~1598)】

大田原資清の男。官途は美作守。室は宇留野義元の娘。黒羽城10,000石を領した。1542年、「石井沢の戦い」で父大田原資清が大関増次を討取り、大関家の家督を相続して白旗城主となった。1549年、「五月女坂の戦い」で那須高資に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。1560年、「小田倉の戦い」で芦名盛興、白河結城義親勢の攻撃を受け防戦に務めたが、苦戦した事を那須資胤から非難され、那須資胤と対立した。大田原綱清とともに佐竹義昭と結び、那須資胤勢と戦った。1566年、「千束台の戦い」で佐竹義重、宇都宮広綱勢と結び那須資胤を攻撃したが敗退した。那須資胤と和議を結び那須家の筆頭家老として那須資胤を補佐した。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で那須資晴とともに塩谷義綱、宇都宮国綱勢を撃破り戦功を挙げた。1586年、千本資俊、千本資政を謀殺して千本家所領を福原資孝、大田原綱清らと横領した。1589年、「小田原の役」で那須資晴が遅参し改易処分に処せられたが、大関高増は10,000石の所領を安堵された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大関晴増【おおぜきはるます(1561~1596)】

大関高増の男(白河結城義親の養子)。官途は美作守。通称弥七郎。室は白河義親の娘。白河結城義親の養子となった。1587年、弟の大関清増が早世したため、大関家に戻り家督を相続した。1589年、「小田原の役」後、那須郡内で3,000石の加増を受けた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大関清増【おおぜききよます(1565~1587)】

大関高増の次男。官途は美作守。室は大田原綱清の娘。1578年、兄大関晴増が小峰義親の婿養子となったため、大関家の家督を相続した。大田原綱清の娘を内室に迎えた。大関家の実権は父大関高増が持ち続けた。1587年、大関清増は病死してしまい、子がいなかったため白河結城家の養子となっていた佐竹義重の後押しを受けた兄大関晴増が家督を継いだ。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大関資増【おおぜきすけます(1576~1607)】

那須高増の三男。官途は左衛門督。通称弥六郎。1596年、兄大関晴増の病没により大関家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い所領を安堵された。1605年、兄大関晴増の継嗣大関政増に家督を譲った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大関政増【おおぜきまさます(1591~1616)】

大関晴増の次男。通称弥平次。室は水野重央の娘(しゃむ姫)。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従った叔父の大関資増の意向を受け人質として松平元康のもとに赴いた。1605年、大関資増から家督を大関家の家督を譲られた。1614年、里見忠義が改易処分に処されると、館山城を接収してその守備を務めた。1614年、「大坂冬の陣」で本多正信に従い羽柴秀頼勢と戦った。1615年、「大坂夏の陣」でも戦功を挙げたが、まもなく病没した。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

大関修理【おおぜきしゅり(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「河原田の戦い」で宇都宮忠綱に従い皆川宗成勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

太田宮内少輔【おおたくないしょうゆ(15??~15??)】

小山秀綱家臣。官途は備前守。馬廻衆。寒川郡内で25貫を領した。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

大館義則【おおだてよしのり(15??~15??)】

塩谷孝綱家臣。塩谷郡真木館主。参考文献:『戦国関東名将列伝(奇蹟の武人)』by島遼伍。

大館義行【おおだてよしゆき(15??~1584)】

塩谷義通家臣。塩谷郡野沢館主。1584年、「真木館の戦い」で大田原綱清勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

大谷又五郎【おおたにまたごろう(15??~1592)】

那須資晴家臣。堺八人衆。1590年、那須資晴が改易処分に処されると堺八人衆とともに成田泰親に仕えた。1592年、成田泰親の軍役を拒否したため、他の堺八人衆とともに謀殺された。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

大谷源太郎【おおたにげんたろう(15??~15??)】

大田原晴清家臣。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従った大田原晴清の意向を受け人質として娘を松平元康のもとに送った。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

大谷甚太郎【おおたにじんたろう(15??~15??)】

大田原晴清家臣。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従った大田原晴清の意向を受け人質として娘を松平元康のもとに送った。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

大谷大膳【おおたにだいぜん(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

玉生勝房【おおだもかつふさ(15??~15??)】

塩谷孝信家臣。通称大内蔵。室は塩谷孝信の娘(千草姫)。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で塩谷孝信に従い塩谷義綱勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大田原胤清【おおたわらたねきよ(1447~1514)】

那須資親家臣。那須郡水口館主。大俵高清の男。官途は出雲守。別名大俵胤清。室は鹿子畑能登守の娘。1514年、那須資親と山田資久が争うと大関宗増、金丸河内守とともに那須資親の継嗣山田資久を擁立したが山田資久が那須資永に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大田原資清【おおたわらすけきよ(1486~1560)】

大田原胤清の男。官途は備前守。通称助九郎。那須家七騎衆。那須郡大田原館7,900石を領した。1518年、大関宗増、福原資安らに讒されて那須家を遂われた。1542年、「石井沢の戦い」で大関増次を討取り継嗣の大関高増に大関家の家督を相続させた。次男福原資孝に福f原資安の家督を相続させた。また娘を那須政資に嫁がせ大田原家の勢力を拡大した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大田原縄清【おおたわらただきよ(1538~1590)】

大田原資清の三男。1549年、「五月女坂の戦い」で那須高資に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。1560年、長兄大関高増は大関家、次兄福原資孝は福原家に養子に出たため、父大田原資清の病没により、大田原家の家督を相続した。大関高増らとともに、那須資晴と対立した。1568年、那須資晴と和議を結ぶと、宇都宮広綱勢と戦った。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で那須資晴とともに塩谷義綱、宇都宮国綱勢を撃退した。那須資晴の許しを得て大関高増、福原資孝とともに千本資俊、千本資政を謀殺しその遺領を横領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大田原晴清【おおたわらはるきよ(1567~1631)】

大田原縄清の男。官途は備前守。1589年、「小田原の役」で羽柴秀吉に従い大田原館7,900石の本領安堵を受けた。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い長尾景勝勢の南下に備えた。1614年、「大坂の冬の陣」で本多正信に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大田原増清【おおたわらますきよ(1570~1631)】

大田原縄清の次男。官途は出雲守。1588年、上洛し羽柴秀吉に拝謁した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大田原弥次郎【おおたわらよじろう(15??~15??)】

大田原縄清家臣。1590年、羽柴秀吉から140石の所領を安堵された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大塚信濃守【おおつかしなののかみ(15??~15??)】

佐野宗綱家臣。大塚館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大塚綱利【おおつかつなとし(15??~15??)】

佐野宗綱家臣。大塚館主。官途は信濃守。元亀、天正年間(1570~92年)、大塚館を築館した。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

大貫越中守【おおぬきえっちゅうのかみ(15??~1585)】

佐野宗綱家臣。大貫館主。佐野宗綱と対立した。1585年、「大貫館の戦い」で謀反の嫌疑をかけられ、佐野氏忠の家臣富士源太、竹沢山城守勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。」

大貫定行【おおぬきさだゆき(15??~1590)】

大貫越中守の男。官途は越中守。別名大貫政宗。佐野家四天王。唐沢山城代家老職を務めた。1589年、「小田原の役」で佐野氏忠が皆川広照とともに小田原城に籠城したため、在国の佐野氏忠勢を率いて唐沢山城に籠城した。佐野房綱が唐沢山城に降伏を呼びかると、多くの諸将が佐野房綱勢に属した。「命は義よりも軽い」と言い残して自刃した。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

大貫武基【おおぬきたけもと(15??~1589)】

大貫定行の男。官途は伊勢守。1590年、「唐沢山城の戦い」で羽柴秀吉勢の攻撃を毛父大貫定行とともに自刃した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大貫増長【おおぬきますなが(15??~15??)】

塩谷孝綱家臣。塩原郡大貫館主。官途は石見守。1509年、印南修理進、油井利宗らとともに那須資房に内応して塩谷孝綱に謀反を企てるが事が露見して失敗に終わった。塩谷孝綱は二度と謀反を起こさないよう起請文を書かせ、木幡神社に奉納させてこれを許した。参考文献:『戦国関東名将列伝(奇蹟の武人)』by島遼伍。

大沼田淡路守【おおぬまたあわじのかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1589年、「小田原の役」で白石豊前守、立木図書、市川右衛門、久米伊賀守、新井図書、小曾根筑前守、南掃部、小沼正五郎、小菅縫殿助、江川左衛門、山川丹後守とともに足利城に籠城した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大沼泰綱【おおぬまやすつな(15??~15??)】

那須資胤家臣。官途は内匠助。1564年、「烏山城の戦い」で那須資胤に従い佐竹義昭勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

大沼伊勢守【おおぬまいせのかみ(15??~15??)】

大関高増家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

大橋兵部丞【おおはしひょうぶのじょう(15??~15??)】 

宇都宮広綱家臣。篠野井館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大橋筑後守【おおはしちくごのかみ(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

大畑治部少輔【おおはたじぶしょうゆ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。官途は佐渡守。1581年、「免鳥館の戦い」で長尾顕長に従い佐野宗綱の家臣高瀬忠行勢と戦い戦功を挙げた。1585年、「館林城の戦い」で北条氏直の家臣垪和康忠、山角定勝、伊勢貞運らの攻撃を受け撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大比良義次【おおひらよしつぐ(15??~15??)】 

宇都宮国綱家臣。市田備中守らとともに多気山城の普請奉行になった。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大山田弾正少弼【おおやまだつなたね(15??~15??)】

武茂兼綱家臣。那須郡下郷両崖山館主。参考文献:『戦国関東名将列伝(奇蹟の武人)』by島遼伍。

大山田綱胤【おおやまだつなたね(15??~15??)】

武茂守綱家臣。官途は左京亮。1567年、「大崖山の戦い」で大金重宣、松野篤通、武茂守綱、烏子泰宗、横田綱久、南路義郷、戸村義広、小場義忠、石川昭光らとともに佐竹義重の家臣長倉義当に従い那須資胤勢と戦い奇襲攻撃を受け敗退した。1570年、「大山田隆崖の戦い」で那須資胤に内応して佐竹義重、武茂堅綱勢の攻撃を受けた。1583年、「愛宕山で戦い」で鳥子泰宗、星豊前守らとともに那須資胤勢を撃破った。

大宮久胤【おおみやひさたね(15??~15??)】

宇都宮広綱家臣。大宮館主。官途は兵部丞。参考文献:『戦国 下野落城物語(血染めの六人衆)』by島遼伍。

大宮任増【おおみやむねます(15??~15??)】

塩谷孝綱家臣。塩谷郡大宮館主。官途は筑前守。大須賀党。参考文献:『戦国 下野落城物語(血染めの六人衆)』by島遼伍。

大美賀次郎八【おおみがじろはち(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大屋右京【おおやうきょう(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大谷津上野介【おおやつうえののすけ(15??~15??)】

千本資俊家臣。芳賀郡大谷津館主。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

大屋宗国【おおやむねくに(15??~15??)】

那須資胤家臣。1584年、「松野館の戦い」で那須資晴に従い松野篤通勢と戦い殿を務め討死した。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

岡兼定【おかかねさだ(15??~15??)】

塩谷義綱家臣。岡館主。通称民部。1595年、塩谷義綱が改易処分を受けると宇都宮国綱に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

刑部経貞【おかさべつねさだ(15??~1593)】

宇都宮国綱家臣。刑部館主。1592年、「文禄の役」で宇都宮国綱に従い李氏朝鮮勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡田長親【おかだながちか(15??~1584)】

長尾顕長家臣。冨士山館主。1584年、「足利城の戦い」で北条氏直勢の攻撃を受け負傷した。まもなく没した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡田秀親【おかだひでちか(15??~15??)】

岡田長親の男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡本重親【おかもとしげちか(1469~1530)】 

塩谷隆綱家臣。塩谷郡松ヶ嶺館主。官途は宮内少輔。室は玉生勝定の娘。1478年、塩谷孝綱に従い下野塩谷郡の下向して松ヶ嶺館を築館した。家老職を務め3,000石を領した。参考文献:『戦国関東名将列伝(奇蹟の武人)』by島遼伍。

岡本正重【おかもとまさしげ(1513~1545)】

岡本重親の男。官途は内匠頭。側室は塩谷義孝の娘。家老職を務めた。1545年、「佐久山の戦い」で塩谷義孝に従い那須資房勢と戦い眉間に矢を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岡本正親【おかもとまさちか(1528~1602)】

岡本正重の男。官途は讃岐守。娘を塩谷義通に嫁がせていたため、塩谷家の家督を相続したが、塩谷義綱に疎まれ改易処分に処された。継嗣の岡本照富、岡本正富とともに皆川広照に仕えた。1584年、「佐野沼尻の戦い」で皆川広照に従い北条氏直勢と戦いで岡本正富と岡本照富が討死した。二人の息子の菩提を弔うため、そのまま出家した。1587年、羽柴秀吉と謁見して旧領塩谷荘3,360石を安堵された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

岡本氏宗【おかもとうじむね(15??~1585)】

岡本正重の次男。官途は対馬守。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で山田辰業ともに塩谷義綱に従い先陣大将を務め、那須資晴勢の先陣沢村五郎勢を蹴散らすも、三倍の兵力に押され撤退した。山田辰業らとともに那須資晴の本陣に突撃したが、福原資孝に討取られた。参考文献:『戦国 下野落城物語(喜連川城の妖怪)』by島遼伍。

岡本光貞【おかもとみつさだ(15??~15??)】

岡本正重の三男。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で兄岡本氏宗と袂を分かち那須資晴勢に属した塩谷孝綱に従い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡本照富【おかもとてるとみ(1564~1584)】

岡本正親の男。通称清四郎。武芸に秀でる一方、京の謡曲師道慶を師事し謡、鼓などを習うなど、岡本正親の後継として育てられた。1584年、「佐野沼尻の戦い」に父岡本正親、弟岡本正富とともに北条氏直勢の広沢三郎、向笠内蔵助勢と戦い岡本正富とともに討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岡本正富【おかもとまさとみ(1566~1584)】

岡本正親の次男。通称清九郎。1584年、「佐野沼尻の戦い」に父岡本正親、兄岡本照富とともに北条氏直勢の広沢三郎、向笠内蔵助勢と戦い岡本照富とともに討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岡本義保【おかもとよしやす(1576~1641)】

塩谷義通の男(岡本正親の養子)。官途は宮内丞。室は大田原晴清の娘(四女)。1590年、塩谷郷2,570石の所領を安堵された。岡本正親の継嗣が没し断絶の危機を迎えたため、岡本家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康元康勢に属した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

岡本保真【おかもとやすまさ(1582~1644)】

塩谷義通の次男(岡本正親の養子)。別名塩谷惣十郎。室は千本長勝の娘。武勇に優れ、特に小太刀の名人。兄岡本義保が、岡本家の家督を相続したため、塩谷家の家督を相続した。1597年、祖父岡本正親と岡本義保とともに上洛し、羽柴秀吉に謁見した。1614年、「大坂冬の陣」で岡本義保とともに松平元康に従い岡本義保とともに戦功を挙げた。1644年、「泉騒動」で甥の岡本義政に謀殺された。これにより岡本家は改易処分に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岡本保忠【おかもとやすただ(1586~1643)】

塩谷義通の三男(岡本正親の養子)。通称縫殿助。別名塩谷清通。外祖父岡本正親が戦いで二人の嫡子を失うと、兄岡本義保、岡本保真とともに岡本正親の養子となった。その後、岡本義保が岡本家、岡本保真が塩谷家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の役」で二人の兄とともに参陣した。1644年、「泉騒動」で次兄岡本保真が甥の岡本義政に謀殺されたため、岡本家は改易処分に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岡本秀卓【おかもとひでたく(15??~15??)】

宇都宮興綱家臣。真名子館主。官途は筑後守。1523年、「河原田の戦い」で宇都宮忠綱と皆川宗成が戦って、皆川宗成が討死すると宇都宮興綱勢に属した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡本秀勝【おかもとひでかつ(15??~15??)】

岡本秀卓の男。岡本秀勝は、皆川広照の三男の岡本七左衛門を養子とした。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

岡本美濃守【おかもとみののかみ(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「上野台の戦い」で宇都宮忠綱に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。「河原田の戦い」で宇都宮忠綱に従い皆川宗成勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
 
岡本元綱【おかもともとつな(15??~15??)】

宇都宮忠綱の男。都賀郡赤壁館主。別名宇都宮元綱。庶男のため、宇都宮家の家督を相続することができなかった。1539年、芳賀高経、壬生綱房に擁立され宇都宮尚綱と宇都宮家惣領職を争った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小川才兵衛【おがわさひょうえ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小曾根正好【こそねまさよし(15??~15??)】

赤井照景家臣。官途は玄蕃丞。1562年、「上野館林城の戦い」で長尾景長に内応して赤井照景を下野国に追落とした。長尾景長から足利郡名草郷400石の加増を受けた。1581年、「免鳥館の戦い」で長尾顕長に従い佐野宗綱の家臣高瀬忠行勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国 下野落城物語(死闘・免鳥城)』by島遼伍。

小曾根内匠丞【こそねたくみのじょう(15??~15??)】

小曾根正好の男。1562年、「上野館林城の戦い」で父小曾根正好に従い赤井照景勢と戦い茂呂内膳正を捕縛する戦功を挙げた。参考文献:『戦国 下野落城物語(死闘・免鳥城)』by島遼伍。

小曾根筑後守【おぎそちくごのかみ(15??~1587)】

下都賀郡神戸館主。久我家一七騎衆。小曾根館主150貫文を領した。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

小曾根政義【おぎそまさよし(15??~15??)】

赤井山城守家臣。下野鉢形館主。官途は玄蕃頭。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

興野義忠【おきのよしただ(14??~15??)】

那須資房家臣。官途は長門守。1516年、「福原城の戦い」で大田原資清、大関宗増、福原資安らとともに山田資久を討取る戦功を挙げた。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

興野隆致【おきのたかとし(15??~15??)】

那須高資家臣。1549年、「早乙女坂の戦い」で那須高資に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

興野義重【おきのよししげ(15??~15??)】

那須資胤家臣。通称弥左衛門。1560年、那須資胤の意向を受け大関高増勢の攻撃に備えた。1567年、「木須川の戦い」で大関高増勢と戦い敗退した。1583年、「那珂川の戦い」で那須資晴に従い佐竹義重勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国 下野落城物語(喜連川城の妖怪)』by島遼伍。

荻野目玄蕃【おぎのめげんば(15??~1592)】

那須資晴家臣。那須郡荻野目館主。堺八人衆。身長六尺余りの大男。1590年、那須資晴が改易処分に処されると堺八人衆(大谷又五郎、大久保民部、荻野目玄蕃、秋元越前守、五味淵豊前守、客和伊豆守、大和源左衛門、和久又右衛門)とともに成田泰親に仕えた。1592年、成田泰親の軍役を拒否したため、他の堺八人衆とともに謀殺された。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

小倉行成【おぐらゆきなり(15??~1590)】

佐野宗綱家臣。小倉館主。官途は山城守。1589年、「小田原の役」で佐野氏忠に従い羽柴秀吉勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小倉盛長【おぐらもりなが(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。官途は越中守。1549年、「早乙女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い敗退した。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

小此木正信【おこのぎまさのぶ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。小此木館主。官途は備中守。家老職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

刑部宗次【おさかべむねつぐ(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。官途は伊賀守。1587年、壬生義雄の今宮神社修復で大工奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

襲田五郎左衛門尉【おそだごろうざえもんのじょう(15??~15??)】

鹿沼綱勝家臣。1523年、「上野台の戦い」で鹿沼綱勝に従い宇都宮忠綱勢と戦い山野井将監を討取る戦功を挙げたが鹿沼綱勝が討死したため敗退した。戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

小曾戸政忠【おそとまさただ(15??~15??)】

佐野昌綱家臣。藤沢館主。永野川流域を扼す要所。1590年、佐野氏忠が改易処分に処されると帰農した。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

小曾戸蔵人【おそどくらんど(15??~15??)】

小山高朝家臣。小山高朝の側近。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

小宅高尚【おだくたかなお(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。小栗館主。別名小宅高宗。天文年間(1532~55年)に小栗館を築館した。1545年、「乙畑城の戦い」で関沢弥五郎とともに戦功を挙げた。参考文献:『戦国関東名将列伝』by島遼伍。

小宅尚時【おだくなおといき(15??~15??)】

小宅高尚の男。通称三左衛門。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱が那須高資勢と戦い討死すると小栗館も攻撃を受けた。1552年、「小栗館の戦い」で結城政勝勢の攻撃を受け落城した。参考文献:『戦国関東名将列伝』by島遼伍。

小宅高良【おだくたかよし(15??~15??)】

小宅尚時の男。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されると所領を失った。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

落合業親【おちあいなりちか(15??~15??)】

宇都宮成綱の四男。宇都宮成綱の意向を受け落合家を再興させた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

乙畑弥五郎【おとはたよごろう(15??~15??)】

塩谷孝信に従い乙畑館を守備した。参考文献:『戦国 下野落城物語(血染めの六人衆)』by島遼伍。

小野口祐吉【おのぐちすけよし(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。官途は主水。1567年、磯山神社に奉納された鰐口の銘に高木宗吉とともに連署した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小野口九郎次郎【おのぐちくろうじろう(15??~15??)】

鹿沼綱勝家臣。1523年、「上野台の戦い」で鹿沼綱勝に従い宇都宮忠綱勢と戦い鹿沼綱勝が討死したため敗退した。戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

小野里頼母之助【おのざとたのものすけ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小野高吉【おのたかよし(15??~1585)】

佐野宗綱家臣。飛駒館主。1590年、京都聖護院の令旨により飛駒に修験道場を開いた。1585年、「須花坂の戦い」で佐野宗綱に従い長尾顕長勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小野寺長綱【おのでらながつな(15??~15??)】

長尾景長家臣。小野寺館主。官途は兵部丞。1557年、「宇都宮城の戦い」で長尾景長の陣代を務め、北条氏康勢に属して古河公方足利義氏勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小野寺景綱【おのでらかげつな(15??~16??)】

小野寺長綱の男。1561年、長尾景長に属して大窪郷を拝領すると、鹿島大明神と菅原道真公を奉祀した。1590年、松平元康が下野国を領すると、百姓らは領主に対する不満を年貢遅納、滞納、訴訟というかたちで表すようになり、代官は領民が旧領主へ訴えた。小野寺景綱は松平元康に讒言したが、小野寺景綱はあらぬ疑いをかけられ自刃した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小野寺顕綱【おのでらかきつな(15??~15??)】

小野寺長綱の次男。通称刑部丞。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小野寺宮内【おのでらくない(15??~15??)】

粟宮伯耆守家臣。通称左衛門尉。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

小幡義尾【おばたよしお(15??~15??)】

塩谷孝綱の次男。別名乙畑孫四郎。1523年、塩谷孝綱から乙畑館主に任じられた。1559年、「乙畑館の戦い」で結城晴朝勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小幡信濃守【おばたしなののかみ(15??~15??)】

小幡義尾の男。1559年、「乙畑館の戦い」で父小幡義尾とともに結城晴朝勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小幡義勝【おばたよしかつ(15??~15??)】

小幡義尾の次男。官途は右近大夫。別名乙畑弥五郎。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小幡高升【おばたたかます(15??~15??)】

小幡義勝の男。官途は豊後守。通称孫七。別名乙畑高升。1585年、「乙畑館の戦い」で那須資晴勢の攻撃を受け継嗣の小幡行安を人質に差し出し降伏した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小幡行安【おばたゆきやす(15??~15??)】

小幡高升の男。通称太郎。1585年、「乙畑館の戦い」で那須資晴勢の攻撃を受けっ父小幡高升が降伏すると、人質として那須資晴のもとに送られた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小見是綱【おみこれつな(15??~15??)】

佐野盛綱の次男。小見館主。通称次郎左衛門尉。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

小山田監物【おやまだけんもつ(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

小山田加兵衛【おやまだかへい(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

小山成長【おやまなりなが(14??~15??)】

下都賀郡祇園城主。山川景胤の男(小山氏郷の養子)。官途は下野守。1510年、足利政氏と足利高基が対立すると、足利政氏を小山祇園城に迎え足利政氏の主力として戦功を挙げた。1516年、「縄釣の戦い」で足利高基氏勢の佐竹義舜、岩城由隆らとともに宇都宮忠綱勢を攻撃したが宇都宮成綱、結城政朝らの反撃を受け敗退した。継嗣の小山政長を追放して足利高基勢した。まもなく病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小山政長【おやままさなが(146?~15??)】

小山成長の男。官途は左京大夫。1516年、「縄釣の戦い」で佐竹義舜、岩城由隆らとともに足利高基勢の宇都宮忠綱、結城政朝らと戦い敗退した。父小山成長が小山家の実権を握り足利高基勢に属したため、小山城を追われた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小山小四郎【おやまこしろう(14??~15??)】

小山政長の養子。室は小山政長の娘。養祖父小山成長が病没したため、小山家の家督を相続した。1531年、「享禄の内乱」で古河公方足利高基と足利晴氏が争うと足利高基勢に属した。1535年、「小山小四郎の乱」で小山高朝勢と争い隠居に追い込まれた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小山高朝【おやまたかとも(1508~1574)】

結城政朝の三男(小山政長の養子)。官途は下野守。室は小山政長の娘。勇将。1519年、「上総椎津城の戦い」で古河公方足利高基の意向を受けて小弓公方足利義明勢に属して真里谷信清勢と戦った。1535年、「小山小四郎の乱」で小山小四郎を小山城から追落とし小山家の家督を相続した。1547年、「祇園城の戦い」で宇都宮興綱勢の攻撃を受けたが、兄結城政勝の支援を受け撃退した。1549年、古河公方足利家の後継者問題で、足利晴氏を擁する北条氏康と対立した。小山高朝は足利藤氏を擁護したが、結城政勝、小山秀綱らが足利晴氏勢に属した。1560年、小山秀綱に家督を譲って隠居した。1561年、長尾景虎の関東管領就任式で千葉胤富に関東諸将の筆頭の地位を奪われたことに恨みを抱き、北条氏康と結んだ。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小山秀綱【おやまひでつな(1529~1603)】

小山高朝の男。官途は弾正大弼。室は成田氏長の娘(北条氏政の養女)。1560年、父小山秀綱が隠居したため、小山家の家督を相続した。「第一次小田原城の戦い」長尾景虎勢が関東に侵攻すると長尾景虎勢に属して北条氏康勢と戦った。1563年、「祇園城の戦い」で北条氏康と和議を結んだため、長尾景虎勢の攻撃を受け降伏した。1576年、「祇園城の戦い」で北条氏政勢の攻撃を受け岡本禅哲もとに落延びた。1589年、「小田原の役」で北条氏直勢の属して羽柴秀吉勢と戦ったため、改易処分に処された。その後、弟の結城晴朝と和議を結び結城秀康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、小山秀広が病没したため、小山秀綱は越前国への転封に従わず隠退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小山政種【おやままさたね(1568~1581)】

小山秀綱の男。通称小四郎。1576年、「祇園城の戦い」で北条氏政勢の攻撃を受け、父小山秀綱とともに岡本禅哲もとに落延びた。1577年、小山秀綱が隠居したため、小山家の家督を相続した。1581年、病没したため、小山家の家督は再び小山秀綱が相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小山秀広【おやまひでひろ(15??~15??)】

小山秀綱の次男。1589年、「小田原の役」で羽柴秀吉のもとに参陣しなかったため、父小山秀綱は改易処分に処された。小山秀綱、小山政種は結城晴朝を頼り落延びた。結城秀康に仕えたが、まもなく病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小山大膳大夫【おやまだいぜんだいふ(15??~15??)】

小山成長家臣。枝連衆筆頭を務めた。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

小山大膳【おやまだいぜん(15??~15??)】

小山大膳大夫の男。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

小山右馬亮【おやまうまのじょう(15??~15??)】

小山秀綱家臣。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

小山土佐守【おやまとさのかみ(15??~15??)】

小山秀綱家臣。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

恩田越前守【おんだえちぜんのかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1585年、「館林城の戦い」で北条氏直の家臣垪和康忠、山角定勝、伊勢貞運らの攻撃を受け撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【か】

貝原丹波守【かいはらたんごのかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1589年、「小田原の役」で長尾顕長に従い小田原城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

角田太郎衛門【かくたとろうえもん(15??~15??)】

那須資晴家臣。那須郡奥沢館主。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

籠谷政高【かごやまさたか(15??~15??)】

宇都宮国綱家臣。籠谷館主。官途は伊勢守。大檀那として無量寿寺の伽藍を再建した。1589年、「小田原の役」後、戦功により1,060石を領した。1592年、「文禄の役」で宇都宮国綱、芳賀高武に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されると所領を失った。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

風間平八【かざまへいはち(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

風見胤安【かざみたねやす(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。風見館主。新左衛門尉。大須賀党。参考文献:『戦国 下野落城物語(血染めの六人衆)』by島遼伍。

柏瀬左近之助【かしせさこんのすけ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

柏倉大炊介【かしくらおおいのすけ(15??~15??)】

皆川俊宗家臣。1566年、「皆川城の戦い」で北条氏政勢の攻撃を受けたが撃退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

柏木孫八【かしわぎまごはち(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

柏木縫殿助【かしわぎぬいどのすけ(15??~15??)】

宇都宮国綱家臣。柄倉館主。1587年、「倉ヶ崎館の戦い」で大門資長を支援するため、倉ヶ崎館に赴くが壬生義雄の家臣板橋将監勢と戦った。参考文献:『戦国 下野落城物語(血染めの六人衆)』by島遼伍。

糟谷又左衛門【かすやまたざえもん(15??~15??)】

芳賀高秀家臣。塩谷郡桜野館主。1549年、「五月女坂の戦い」で芳賀高秀に従い那須高資勢と戦い大将の宇都宮尚綱が討死したため敗走した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

糟谷因幡守【かすやいなばのかみ(15??~1588)】

糟谷又左衛門の男。別名糟谷小僧。1549年、「五月女坂の戦い」に父糟谷又左衛門に従い那須高資勢と戦った。1569年、荊沢郷を任されて今宮神社の神事を行った。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

糟谷源兵衛【かすやげんべい(15??~15??)】

糟谷因幡守の男。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で宇都宮国綱に従い那須資晴勢と戦った。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

糟谷藤三郎【かすやとうざぶろう(15??~15??)】

糟谷源兵衛の男。1589年、父糟谷源兵衛が桜野郷の神事を行うはずだったが、祖母が亡くなり、急遽神事を務めた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

糟谷政武【かすやまさたけ(15??~1587)】

宇都宮国綱家臣。官途は右京亮。1587年、「倉ヶ崎館の戦い」で日光山門徒と北条氏直勢の攻撃を受け上郷衆(上平勝重、金枝光任、飯岡知貞、小宅高祐、鈴木重康)とともに倉ヶ崎館に籠城した。大門弥次郎が北条氏直勢に内応したため、他の五将とともに討死した。内応した大門弥次郎も北条氏直勢に謀殺された。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

勝手主計【かってしゅけい(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

加藤上総介【かとうかずさのすけ(15??~15??)】

益子安宗家臣。1579年、宇都宮国綱に謀反を企てた益子安宗を加藤大隅守とともに幽閉して益子家宗を益子家惣領職に擁立した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

加藤大隅守【かとうおおすみのかみ(15??~15??)】

益子安宗家臣。芳賀郡岩瀬館主。1579年、宇都宮国綱に謀反を企てた益子安宗を加藤大蔵少輔とともに幽閉して益子家宗を益子家惣領職に擁立した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

加藤大蔵少輔【かとうおおくらしょうゆ(15??~15??)】

益子安宗家臣。1579年、宇都宮国綱に謀反を企てた益子安宗を加藤大隅守とともに幽閉して益子家宗を益子家惣領職に擁立した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

加藤隼人【かとうはやと(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

金井伝吉【かないでんきち(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1589年、「小田原の役」で長尾顕長に従い小田原城に籠城したが羽柴秀吉勢の攻撃を受け降伏に追込まれた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

金沢兵庫【かなざわひょうご(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「河原田の戦い」で宇都宮忠綱に従い皆川宗成勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

金沢兵庫頭【かなざわひょうごのかみ(15??~15??)】 

宇都宮国綱家臣。1576年、石川内膳正とともに多気山城の在番を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

金沢藤右衛門【かなざわとうえもん(15??~15??)】

大関高増家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

鹿沼秀綱【かぬまひさつな(15??~15??)】

上都郡鹿沼城主。室は余乃。鹿沼城35,000石を領した。参考文献:『戦国 下野落城物語(鹿沼城落城悲話)』by島遼伍。

鹿沼綱勝【かぬまつなかつ(15??~1523)】

鹿沼秀綱の男。官途は伊勢守。通称左衛門大夫。別名神山教清。1523年、「鹿沼城の戦い」で壬生綱房勢の攻撃を受け家臣の鹿沼右衛門尉が内応すると、加園館主渡辺右衛門尉、久我館主久我式部大輔、大芦館主高村越前守、上南摩館主南摩舎人ら国衆も離反したため、包囲され討死した。参考文献:『戦国 下野落城物語(鹿沼城落城悲話)』by島遼伍。

鹿沼右衛門尉【かぬまさえもんのじょう(15??~1576)】

鹿沼綱勝家臣。上都賀郡猪倉館主。通称右衛門尉。筆頭家老職を務め、3,000石を領した。1523年、「鹿沼城の戦い」で壬生綱房に内応して鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げ壬生周長に仕えた。1576年、「第一次坂田山館の戦い」で壬生周長に従い坂田山城を攻落す戦功を挙げた。「第二次坂田山館の戦い」で板橋親棟の反撃を受け敗走、猪倉館に籠城したが討死した。参考文献:『戦国 下野落城物語(鹿沼城落城悲話)』by島遼伍。

金枝義隆【かねえだよしたか(15??~15??)】

那須高資家臣。那須郡金枝館主。官途は近江守。1549年、「五月女坂の戦い」で那須高資に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

金枝泰晴【かねえだやすはる(15??~15??)】

金枝義隆の男。官途は近江守。1567年、「烏山大崖山の戦い」で那須資胤の弟森田資邦に従い大関高増勢と戦い戦功を挙げた参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

金枝光任【かねえだみつこれ(15??~1587)】

金枝泰晴の男。官途は土佐守。通称六郎。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で那須資晴に従い宇都宮国綱勢と戦い戦功を挙げた。1587年、「倉ヶ崎館の戦い」で日光山門徒と北条氏直勢の攻撃を受け上郷衆(上平勝重、金枝光任、飯岡知貞、糟谷政武、小宅高祐、鈴木重康)とともに倉ヶ崎館に籠城した。大門弥次郎が北条氏直勢に内応したため、他の五将とともに討死した。内応した大門弥次郎も北条氏直勢に謀殺された。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

金子長門守【かねこながとのかみ(15??~15??)】

皆川俊宗家臣。1564年、「第二次榎本城の戦い」で皆川俊宗に従い先陣を務め、榎本高綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

金丸河内守【かねまるかわちのかみ(15??~15??)】

大関高増家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

金丸資貞【かねまるすけさだ(15??~16??)】

大関資増家臣。別名金丸資満。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従った大関資増の意向を受け人質として内室を松平元康のもとに送った。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

鹿子畑能登守【かのはたのとのかみ(15??~15??)】

大関高増家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

神馬忠春【かみうまただはる(15??~1546)】

佐野豊綱家臣。浅利館主。官途は遠江守。通称七郎。家老職を務めた。1546年、「武蔵河越城の戦い」で佐野昌綱に従い北条氏康勢と戦い討死した。参考文献:『戦国関東名将列伝』by島遼伍。

神山左京亮【かみやまさきょうのすけ(15??~15??)】

壬生周長家臣。1576年、「徳節斎の乱」で壬生周長に従い壬生義雄勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

上三川頼成【かみのかわよりなり(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。官途は越中守。1549年、「早乙女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い敗退した。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

上山右衛門【かみやまさえもん(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「河原田の戦い」で宇都宮忠綱に従い皆川宗成勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

神梅主税之助【かみうめしゅぜいのすけ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

神梅九郎左衛門【かみうめきゅうざえもん(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

蒲生信朝【がもうのぶとも(15??~15??)】 

宇都宮尚綱家臣。通称五郎八。1549年、「五月女坂に戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

烏子泰宗【からすこやすむね(15??~15??)】

武茂守綱家臣。那須郡烏子館主。1567年、「大崖山の戦い」で大山田綱胤、大金重宣、松野篤通、武茂守綱、横田綱久、南路義郷、戸村義広、小場義忠、石川昭光らとともに佐竹義重の家臣長倉義当に従い那須資胤勢と戦い奇襲攻撃を受け敗退した。1583年、「愛宕山で戦い」で大山田綱胤らとともに武茂守綱に従い那須資晴勢と戦い戦功を挙げた。

河合安利【かわいやすとし(15??~15??)】

那須資胤家臣。通称六郎。1567年、「烏山大崖山の戦い」で那須資胤の弟森田資邦に従い大関高増勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国 下野落城物語(喜連川城の妖怪)』by島遼伍。

川島宗満【かわしまむねみつ(15??~15??)】

赤井山城守家臣。川島館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

川島勘助【かわしまかんすけ(15??~1600)】

川島宗満の男。1600年、「関山の戦い」で松平元康勢に属して長尾景勝勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

川島勘左衛門【かわしまかんざえもん(15??~15??)】

川島勘助の次男。1600年、「関山の戦い」で兄の川島勘助松平元康勢に属して長尾景勝勢と戦い討死したため、川島家の家督を相続した。後に帰農した。

川嶋織部【かわしまおりべ(15??~1589)】

小山秀綱家臣。下国府塚館主。1589年、「小田原の役」で小山秀綱が北条氏直勢に属して没落すると、自刃した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

川連仲重【かわつれなかしげ(15??~15??)】

皆川俊宗家臣。1563年、皆川俊宗の攻撃を受け降伏した。1578年、佐野宗綱の家臣平野久国勢の攻撃を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

川連三郎衛門【かわずれさぶろうえもん(15??~15??)】 

小山秀綱家臣。1563年、小山秀綱が北条氏康に降伏すると、結城晴朝勢に属した。1589年、「榎本城の戦い」で結城晴朝に従い参陣して戦功を挙げた。が参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

河田安盛【かわだやすもり(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。官途は越中守。1549年、「早乙女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い敗退した。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

川田主水【かわだもんど(15??~15??)】

鹿沼綱勝家臣。1523年、「上野台の戦い」で鹿沼綱勝に従い宇都宮忠綱勢と戦い鹿沼綱勝が討死したため敗退した。戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

神田次郎【かんだじろう(15??~15??)】

芦野資泰家臣。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で芦野資泰に従い塩谷義綱の家臣山田業辰を討取る戦功を挙げた。

神馬忠春【かんまただはる(15??~1546)】

佐野豊綱家臣。浅利館主。官途は遠江守。1546年、「武蔵河越城の戦い」で古河公方足利晴氏勢に属した佐野豊綱に従い北条氏康勢と戦った。足利晴氏が優位に戦局を進めるが、北条氏康勢の奇襲攻撃を受け足利晴氏勢が壊滅した。佐野豊綱の殿を務め討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

神内平六【かみうちへいろく(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

木須康実【きすやすざね(15??~15??)】

那須高資家臣。下那須郡木須館主。1551年、那須高資とともに千本館で千本資俊に謀殺された。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

木須貞明【きすさだあき(15??~15??)】

木須康実の男。通称与九郎。別名羽田貞明。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

木須資業【きすすけなり(15??~15??)】

木須康実の男。通称与八郎。大関高増に仕え羽田で300石を領した。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

片岡金五郎【かたおかきんごろう(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

木田淡路守【きだあわじのかみ(15??~1558)】

宇都宮興綱家臣。1558年、「第二次多功城の戦い」で宇都宮広綱の意向を受け多功長朝に従い長尾景虎勢と戦い討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

北佐源太左衛門【きたさげんたざえもん(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

木戸四郎【きどしろう(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

木村大隈守【きむらおおすみのかみ(15??~15??)】 

日光山門徒衆。1566年、昌誉から戦功を賞され、石那田郷を与えられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

木村宮内左衛門【きむらくないざえもん(15??~15??)】

木村大隈守の男。官途は大隈守。通称源七郎。1586年、壬生義雄からの所領を与えられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

君島信濃守【きみしましなののかみ(14??~15??)】

宇都宮成綱家臣。塩谷郡塩原要害館主。1502年、「塩原館の戦い」で芦名盛高家臣長沼政義勢の攻撃を受け落城した。参考文献:『戦国関東名将列伝(奇蹟の武人)』by島遼伍。

君島胤家【きみしまたねいえ(15??~15??)】

塩谷孝綱家臣。塩谷郡船生館主。官途は信濃守。船生館2,880石を領した。1526年、「猿山ヶ原の戦い」に赤埴綱雄、赤埴綱安、塙大膳、竹林淡路守らとともに結城政朝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

君島広胤【きみしまひろたね(15??~1549)】

君島胤家の男。室は芳賀孝高の娘。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢との戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

君島慶繁【きみしまよししげ(15??~15??)】

君島胤家の次男。桂運寺の開山した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

君島高胤【きみしまたかたね(15??~15??)】

君島広胤の男。官途は備中守。1587年、「倉ヶ崎館の戦い」で壬生義雄、大門左衛門らが北条氏直勢の支援を受け謀反を起こすと玉井高宗、玉井権大夫、加藤大隅守らと千本館に籠城して壬生義雄勢の動きを牽制する功を上げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

君島永胤【きみじまながたね(15??~1638)】

君島高胤の男。通称右衛門。1589年、芳賀高武、多功綱継、笠間綱家、塩谷由綱らと密かに謀った宇都宮国綱に攻められ討死した。1589年、「小田原の役」で芳賀成高らとともに宇都宮国綱に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。1597年、父君島高胤が病没したため、君島家の家督を相続した。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されると所領を失った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

君島高親【きみしまたかちか(15??~15??)】

宇都宮広綱家臣。官途は備中守。佐竹義重の家臣小場義宗、大和田重清らの取次役を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

君島高範【きみしまたかのり(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。下横倉館主。官途は左馬助。参考文献:『戦国 下野落城物語(血染めの六人衆)』by島遼伍。

木村和泉守【きむらいずみのかみ(15??~15??)】

塩谷義孝家臣。1564年、「川崎城の戦い」で塩谷孝信に内応して川崎城内に塩谷孝信勢を迎え入れ、塩谷義孝を討取った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

客和伊豆守【きゃくわいずのかみ(15??~1592)】

那須資晴家臣。堺八人衆。1590年、那須資晴が改易処分に処されると堺八人衆とともに成田泰親に仕えた。1592年、成田泰親の軍役を拒否したため、他の堺八人衆とともに謀殺された。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

久我光綱【くがみつみつつな(15??~1572)】

下都賀郡久我館主。佐野秀綱の男。官途は民部大輔。通称小太郎。別名久我常真。1572年、「第一次久我館の戦い」で壬生周長に内応したため、壬生義雄勢の攻撃を受け討死した。家臣たちは、久我光綱の遺骸を葬り、これを弔うため常真寺を創建した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

久我利綱【くがとしつな(15??~1587)】

佐野秀綱の四男。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

窪沢豊前守【くぼさわぶぜんのかみ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

久下田越後守【くげたえちごのかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1581年、「免鳥館の戦い」で長尾顕長に従い佐野宗綱の家臣高瀬忠行勢と戦い戦功を挙げた。1582年、「金山城の戦い」で大畑治部とともに館林城を守備した。1590年、「館林城の戦い」で金谷因幡守に従い館林城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

久保田若狭守【くぼたわさかのかみ(15??~15??)】

久下田越後守の男。別名窪田若狭守。1590年、「館林城の戦い」で父の久下田越後守に従い館林城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

久保田金八郎【くぼたきんぱちろう(15??~15??)】

渋川義勝家臣。別名窪田金八郎。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

窪田図書【くぼたとしょ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。本覚山館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

熊久保内蔵之丞【くまくぼくらのじょう(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

熊田高貞【くまだたかさだ(15??~15??)】

那須郡熊田館主。通称源兵衛。参考文献:『戦国関東名将列伝(奇蹟の武人)』by島遼伍。

久米伊賀守【くめいがのかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。長尾顕長家臣。1581年、「免鳥館の戦い」で長尾顕長に従い佐野宗綱の家臣高瀬忠行勢と戦い戦功を挙げた。1585年、「館林城の戦い」で北条氏直の家臣垪和康忠、山角定勝、伊勢貞運らの攻撃を受け撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

栗沢六郎【くりさわろくろう(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

栗原内膳【くりはらないぜん(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

栗崎山城守【くりやまやましろのかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1585年、「館林城の戦い」で北条氏直の家臣垪和康忠、山角定勝、伊勢貞運らの攻撃を受け撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

黒川房朝【くろかわふさとも(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。官途は刑部丞。壬生家四家老。1521年、「川井の戦い」で戦功を挙げた。1534年、壬生綱房の意向を受け今宮神社の惣奉行職を務めた。1587年、壬生義雄の今宮神社修復で作事奉行職を務めた。参考文献:『戦国 下野落城物語(血染めの六人衆)』by島遼伍。

黒川正勝【くろかわまさかつ(15??~1589)】 

黒川房朝の男。官途は丹波守。雄琴神社神官職を務めた。1587年、「倉ヶ崎館の戦い」で壬生義雄に従い宇都宮広綱勢の大門資長、上郷衆税勢と戦い戦功を挙げた。1589年、「小田原の役」で壬生義雄が陣没すると殉死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

黒川勝重【くろかわかつしげ(15??~15??)】 

黒川正勝の男。1589年、「小田原の役」で壬生義雄が陣没すると遺品は黒川勝重のもとにに届けられ、雄琴神社に納められた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

黒田邦勝【くろだくんかつ(15??~15??)】

黒田勝幸の男。官途は山城守。1560年、今川義元が討死すると六角義治の推挙を受け宇都宮広綱に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

黒田信勝【くろだのぶかつ(15??~1585)】

黒田邦勝の男。通称左近正。1576年、「鹿沼城の戦い」で北条氏政勢に内応した壬生義雄勢を攻撃した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

黒田定勝【くろださだかつ(15??~1606)】

黒田信勝の男。官途は山城守。1597年、宇都宮国綱が改易処分を受けると大宮村に帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

黒羽筑後守【くろはちくごのかみ(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1549年、「五月女坂の戦い」で伊王野資信に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

黒羽太左衛門尉【くろはたざえもんのじょう(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1549年、「五月女坂の戦い」で伊王野資信に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

黒羽対馬守【くろはつしまのかみ(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

桑子左近之助【くわこさこんのすけ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

桂塚刑部【けづかぎょうぶ(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

毛塚彦兵衛【けづかひこべい(15??~15??)】

皆川広照家臣。10貫を領した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小池内蔵助【こいけくらのすけ(15??~15??)】

宇都宮国綱家臣。石那田館主。石那田館1,300石を領した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上沢光綱。

小泉平治郎【こいずみへいじろう(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小泉伊右衛門【こいずみいざえもん(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高徳仙左衛門【こうとくせんざえもん(15??~15??)】

宇都宮国綱家臣。高徳館主。1587年、「倉ヶ崎館の戦い」で大門資長を支援するため、倉ヶ崎館に赴くが壬生義雄の家臣板橋将監勢の迎撃を受け失敗の終わった。参考文献:『戦国 下野落城物語(血染めの六人衆)』by島遼伍。

小薬刑部少輔【こぐすりぎょうぶしょうゆ(15??~15??)】
 
結城晴朝家臣。都賀郡小薬館主。1574年、結城晴朝の意向で田口勘解由、田崎美濃守とともに祇園社の勧進した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

小柴民部之助【こしばみんぶのすけ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小白井玄蕃【こしろいげんば(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1549年、「五月女坂の戦い」で伊王野資信に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

小瀧勘兵衛【こたきかんべい(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1549年、「五月女坂の戦い」で伊王野資信に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

五斗蒔惣右衛門【ごとくそうえもん(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

小寺丹後守【こでらたんごのかみ(15??~1562)】

長尾顕長家臣。1570年、青山出雲守とともに検断役(街奉行)を務めた。1584年、館林に市場を再開させた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小寺丹後守【こでらたんごのかみ(15??~15??)】

小寺丹後守の男(同名)。榊原康政に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で青山出雲守とともに人夫を集め、兵糧運搬で功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

後藤刑部少輔【ごとうぎょうぶしょうゆう(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。壬生家四家老。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小沼庄九郎【こぬましょうくろう(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小林豊後守【こばやしぶんごのかみ(15??~15??)】

宇都宮広綱家臣。深津館主。1576年、祈祷所の延命寺が兵火で焼失した。石川内膳正とともに、戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小林源左衛門【こばやしげんざえもん(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

小林淡路守【こばやしあわじのかみ(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

小林甚兵衛【こばやしじんべい(15??~15??)】

鹿沼綱勝家臣。1523年、「上野台の戦い」で鹿沼綱勝に従い宇都宮忠綱勢と戦い鹿沼綱勝が討死したため敗退した。戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

五味淵豊前守【ごみぶちぶぜんのかみ(15??~15??)】

那須資晴家臣。堺八人衆。1590年、那須資晴が改易処分に処されると堺八人衆とともに成田泰親に仕えた。1592年、成田泰親の軍役を拒否したため、他の堺八人衆は謀殺された。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

籠谷政高【こもりやまさたか(15??~15??)】

宇都宮国綱家臣。河内郡籠谷館主。官途は伊勢守。1589年、「小田原の役」で戦功を挙げた。役後、所領安堵を受け1,160石を領した。1592年、「文禄の役」で宇都宮国綱、芳賀高武らとともに李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。

児山兼朝【こやまかねとも(15??~1558)】

多功長朝家臣。芳賀郡児山館主。通称三郎左衛門。別名児山義朝。1558年、「第二次多功城の戦い」で多功長朝に従い長尾景虎勢と戦い討死した。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

児山菊朝【こやまきくとも(15??~15??)】

児山兼朝の男。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

児山太左衛門【こやまたろうざえもん(15??~1558)】

児山兼朝の次男。1558年、「第二次多功城の戦い」で父児山兼朝に従い長尾景虎勢と戦い討死した。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

近藤五郎【こんどうごろう(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

近藤加賀守【こんどうかがのかみ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【さ】

斎藤秀隆【さいとうひでたか(15??~1586)】

皆川広照家臣。1585年、「第一次粟野館の戦い」で皆川広照の意向を受け佐野氏忠の家臣平野久国を追落として粟野館主に任じられた。1586年、「第二次粟野館の戦い」で佐野氏忠の家臣平野久国勢の反撃を受け討死した。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

斎藤清忠【さいとうきよただ(14??~15??)】

那須郡飯岡館主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

斎藤重勝【さいとうただしげ(1486~1544)】

斎藤清忠の弟。官途は左京進。通称左衛門尉。別名斎藤忠政。船生城代を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

斎藤定重【さいとうさだしげ(1500~1575)】

斎藤清忠の男。通称左衛門尉。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

斎藤蔵之助【さいとうくらのすけ(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

斎藤源右衛門【さいとうげんえもん(15??~15??)】

大関高増家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

斎藤七右衛門【さいとうしちえもん(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

早乙女大和守【さおとめやまとのかみ(15??~15??)】

小山高朝の男。1542年、小山高朝から北嶋郷の所領安堵された。

早乙女藤三郎【さおとめとうさぶろう(1558~15??)】

壬生義雄家臣。早乙女兵庫助の男。1573年、「淡志川館の戦い」で小山秀綱、壬生義雄に従い北条氏政勢の攻撃を撃退する戦功を挙げた。1579年、「鹿沼引田の戦い」で壬生義雄に従い宇都宮国綱勢と戦い宇都宮国綱の家臣青柳十介を討取る戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

逆面周防守【さかつらすおうのかみ(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。河内郡逆面館主。逆面館1,000石を領した。1523年、「上野台の戦い」で宇都宮忠綱に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

逆面周防守【さかつらすおうのかみ(15??~15??)】

逆面周防守の男(同名)。1585年、「皆川城の戦い」で宇都宮国綱勢に従い皆川広照勢と戦い戦功を挙げた。1588年、「宇都宮城の戦い」で佐竹義宣勢の支援を受け宇都宮国綱に従い皆川広照と戦い戦功を挙げた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されると帰農した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

逆面佐渡守【さかつらさどのかみ(15??~15??)】 

逆面周防守家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

逆面大学【さかつらだいがく(15??~15??)】 

逆面周防守家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

逆面弥七郎【さかつらやしちろう(15??~15??)】 

逆面周防守家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

坂本左近【さかもとさこん(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

早川田唯種【さかわだゆいたね(1504~1553)】

佐野昌綱家臣。官途は左京介。通称善六郎。1553年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康に従い里見義堯勢と戦い討死した。1554年、家臣らは冥福を祈るため雲竜寺を建立した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

早川田昌俊【さかわだまさとし(1579~1643)】

早川田唯種の孫(木戸玄斎の養子)。室は佐野昌綱の娘。別名「集外三十六歌仙」。長尾景勝に仕えた。1600年、「近江大津城の戦い」で石田三成勢に従い京極高次勢と戦い負傷した。のちに下総古河城主永井直勝に仕えた。教養深く、茶道を小堀遠州、連歌は里村昌琢、書は松花堂昭乗、漢学は林羅山にに学んだ。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

早川田喜左衛門【さかわだきざえもん(15??~15??)】

長尾景長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

佐久山忠隆【さくやまただたか(15??~15??)】

那須資房家臣。那須郡佐久山館主。官途は河内守。参考文献:『戦国関東名将列伝(奇蹟の武人)』by島遼伍。

佐久山義隆【さくやまよしたか(15??~1563)】

佐久山忠隆の男。通称右衛門。室は大田原資清の娘。武勇に優れ家中での評価も高かった。1549年、「早乙女坂の戦い」で那須高資に従い勢と宇都宮尚綱戦い戦功を挙げた。1563年、大関高増、福原資孝、大田原綱清らの襲撃を受け謀殺された。佐久山義隆の半学姫も殺され、佐久山義隆の内室は兄弟の非情の行いに涙しつつ、尼となり旦那と義妹を弔いながら一生を終えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

桜本坊昌安【さくらもとぼうしょうあん(15??~1540)】

上都賀郡小倉館主。日光山の僧兵。好色の大酒飲みの破戒僧。小倉館(小倉郷、芦岡郷、塩野郷)8,000石を領した。1540年、湯治場で土地のものに狼藉をはたらき撲殺された。参考文献:『戦国 下野落城物語(鹿沼城落城悲話)』by島遼伍。

五月女但馬守【さつきめたじまのかみ(15??~15??)】

大関高増家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

佐藤宗連【さとうむねつら(15??~15??)】

佐野豊綱家臣。都賀郡尻内館主。尻内館を築城した。1576年、尻内星宮神社を再興した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

佐藤八右衛門【さとうへちえもん(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

佐野泰綱【さのやすつな(1488~1560)】

足利高基家臣。安蘇郡唐沢山城主。佐野秀綱の男。官途は修理亮。通称小太郎。唐沢山城40,000石を領した。足利高基から独立して領地を拡大した。1509年、関東を旅していた連歌師宗長を佐野に迎え、連歌会を催した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐野豊綱【さのとよつな(1504~1559)】

佐野泰綱の男。官途は隼人佐。通称小太郎。1547年、「河越城の戦い」で山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏らに従い北条氏康勢と戦うが、奇襲を受け大敗した。1559年、「多功城の戦い」で長尾景虎の意向を受け宇都宮広綱の家臣多功長朝を攻撃したが討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐野昌綱【さのまさつな(1530~1574)】

佐野豊綱の男。通称小太郎。1559年、「多功城の戦い」で父佐野豊綱が討死したため、佐野家の家督を相続した。北条氏康と結んだ。1560年、「唐沢山城の戦い」で長尾景虎に支援を受け北条氏康勢を撃退した。1561年、「第一次小田原城の戦い」で長尾景虎に従い小田原城を攻撃した。長尾景虎から離反して、足利義氏に属した。以後、長尾景虎が関東に出陣するたびに、唐沢山城は10回に及ぶ攻撃を受け、長尾景虎に降伏、離反を繰り返した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐野宗綱【さのむねつな(1560~1585)】

佐野昌綱の男。官途は但馬守。通称小太郎。佐竹義重らと結んで北条氏直勢に対抗した。1581年、「唐沢山城の戦い」で北条氏照勢の攻撃を受けたが佐竹義重の支援を受け撃退した。1584年、「沼尻の戦い」で佐竹義重、宇都宮国綱、結城晴朝、由良国繁、長尾顕長、皆川広照、多賀谷重経らとともに北条氏直、北条氏照、富岡秀高勢と戦い戦功を挙げた。1585年、「須花坂の戦い」で長尾顕長勢と戦い単騎突出したところを豊島七右衛門に討取られた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐野房綱【さのふさつな(1558~1601)】

佐野豊綱の次男。官途は修理大夫。別名「天徳寺宝衍(了白)」。1574年、兄の佐野昌綱が病没すると、甥の佐野宗綱と不和になり佐野家を退去して滝川一益に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、佐野宗綱に帰参した。1585年、「須花坂の戦い」で佐野宗綱が長尾顕長勢と戦い討死すると北条氏政から養子を迎えることとなり再び出奔した。1589年、「小田原の役」で羽柴秀吉勢に属して唐沢山城を攻略した。役後、唐沢山城39,000石を領した。1592年、「文禄の役」で肥前名護屋城に参陣した。富田知信の男佐野信吉を養子に迎えて隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐野信吉【さののぶよし(1566~1622)】

富田知信の五男(佐野房綱の養子)。官途は修理大夫。1600年、「関ヶ原の役」で結城秀康勢に属して唐沢山城に籠城した。1602年、春日岡城を築城した。1614年、所領を没収され、信濃松本に配流に処された。1620年、赦免されが程なく死去した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐野和泉守【さのいずみのかみ(15??~15??)】

佐野宗綱家臣。1585年、「須花坂の戦い」で佐野宗綱が討死すると、佐野家は北条氏政の弟佐野氏忠を養子に迎えた。免鳥城は長尾顕長から佐野氏忠へ返還された。免鳥城主に任じられた。参考文献:「春の夜の夢」byアテンザ23Z。

沢口四郎兵衛【さわぐちしろうべい(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

沢村五郎【さわむらごろう(15??~15??)】

那須資晴家臣。1585年、「下野金沢の戦い」で那須資晴に従い山田業辰、岡本氏宗勢と戦い敗退した。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

塩原綱宗【しおばらつなむね(14??~15??)】

宇都宮成綱家臣。塩谷郡塩原館主。塩原刑部大夫の男。官途は刑部少輔。1509年、「片角軍萱の戦い」で宇都宮成綱に従い芦名盛高、長沼政義勢と戦い戦功を挙げた。1528年、塩原家の家督を塩原越前守譲り隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

塩原高重【しおばらたかしげ(15??~15??)】

塩原綱宗の男。官途は越前守。1528年、父の塩原綱宗が隠居したため、塩谷家の家督を相続した。1549年、「早乙女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い敗退した。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

塩原成長【しおばらなりなが(15??~1596)】

塩原高重家臣。官途は越前守。1592年、「文禄の役」で宇都宮国綱に従い李氏朝鮮勢と戦った。1596年、家臣の小山忠兵衛、大塚平左衛門らとの内紛で謀殺された。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

塩原貞国【しおばらさだくに(15??~1597)】

塩原成長の男。通称小太郎。1597年、小山忠兵衛、大塚平左衛門らと争い自刃に追込まれた。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

塩原越中守【しおばらえっちゅうのかみ(15??~15??)】

塩原貞国の男。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

川崎塩谷孝綱【しおやたかつな(1470~1546)】

塩谷郡川崎城主。宇都宮正綱の四男(塩谷隆綱の養子)。官途は伯耆守。川崎城25,000石を領した。1489年、養父塩谷隆綱が病没したため、塩谷家の家督を相続した。1509年、那須資房の計略により、塩谷孝綱の家臣大貫増長、印南修理進、油井利宗らが謀反を企てるが、安藤光忠の進言を受け三者を赦し家臣団を結束を固めた。1523年、「乙畑館の戦い」で宇都宮尚綱に従い塩谷惟朝勢と戦った。後に和議を結び弟の塩谷孝信を塩谷惟朝の養子に送り込み、次男塩谷義尾を乙畑館主に任じた。参考文献:『戦国関東名将列伝(喜連川城の妖怪)』by島遼伍。

川崎塩谷義孝【しおやよしたか(1488~1564)】

塩谷孝綱の男。官途は伯耆守。別名塩谷由綱。室は宇都宮広綱の養女。側室は岡本正重の娘(美佐姫)。1546年、父塩谷孝綱が病没したため、塩谷家の家督を相続した。喜連川塩谷家の家督を相続した弟の塩谷孝信と対立した。塩谷義孝は宇都宮広綱から内室を迎えたが、塩谷孝信は那須資胤の家臣大関高増から内室を迎えた。1564年、「川崎城の戦い」で家臣の木村和泉守が内応して塩谷孝信勢を城内に引き入れため討死した。参考文献:『戦国関東名将列伝(喜連川城の妖怪)』by島遼伍。

川崎塩谷義通【しおやよしみち(1547~1598)】

塩谷義孝の男。官途は日向守。室は岡本正親の娘。1564年、「川崎城の戦い」で父塩谷義孝が塩谷孝信に謀殺され川崎城が奪われた。義父の岡本正親の支援を受け川崎城の奪還を図ったが失敗に終わった。1566年、「川崎館の戦い」で那須晴資の支援を受けた弟の塩谷義綱が川崎館を攻落とし塩谷家の家督を相続した。岡本正親に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

川崎【しおやよしつな(15??~1631)】

塩谷義孝の次男。通称弥六郎。1564年、「川崎城の戦い」で父塩谷義孝が塩谷孝信に謀殺され大沢康勝とともに鳩ヶ森館に落延びた。1566年、「川崎館の戦い」で宇都宮国綱の支援を受け川崎館を奪還して塩谷家の家督を相続した。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で宇都宮国綱に従い那須資晴勢と戦い敗退した。1590年、羽柴秀吉の支援を受け家臣岡本正親と塩谷義通が独立した。1595年、宇都宮国綱が羽柴秀吉から改易処分に処されると所領を失い佐竹義宣に仕えた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、十二所館代に任じられた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

喜連川塩谷惟純【しおやまさとも(14??~1504)】

塩谷郡喜連川館主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

喜連川塩谷正朝【しおやまさとも(15??~1521)】

塩谷惟純の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

喜連川塩谷朝宗【しおやともむね(15??~1540)】

塩谷正朝の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

喜連川塩谷惟朝【しおやこれとも(15??~1563)】

塩谷正朝の男。1522年、「乙畑館の戦い」で宇都宮尚綱、塩谷義孝、大宮久胤、君島胤元勢の攻撃を受けた。1523年、塩谷孝綱と和議を結び塩谷孝信を養子に迎え乙畑館を明け渡した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

喜連川塩谷孝信【しおやたかのぶ(15??~15??)】

塩谷孝綱の次男(塩谷惟朝の養子)。官途は安房守。室に大関高増の娘(あき姫)。喜連川館5,000石を領した。1584年、「倉ヶ崎館の戦い」で塩谷義孝の攻撃を受けて倉ヶ崎館を失った。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で那須資晴に従い宇都宮国綱勢と戦い戦功を挙げ喜連川館を奪還した。1590年、羽柴秀吉に所領を没収された。参考文献:『戦国 下野落城物語(喜連川城の妖怪)』by島遼伍。

喜連川塩谷惟久【しおやこれひさ(15??~15??)】

塩谷孝信の男。室は足利頼純の娘(於嶋)。1590年、羽柴秀吉が宇都宮城に入ると喜連川館から出奔した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水高信【しみずたかのぶ(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。官途は大和守。1549年、「早乙女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い敗退した。1592年、「文禄の役」で羽柴秀吉との取次役を務めた。京都に常駐して諸将との外交を差配した。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

篠田吉久【しのだよしひさ(15??~15??)】  

壬生義雄家臣。通称源左衛門。1587年、今宮神社修復の奉行衆を務めた。

柴宮行綱【しばみやゆきつな(15??~15??)】

佐野秀綱の三男。別名佐野行綱。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

渋川義勝【しぶかわよしかつ (15??~15??)】

古河公方足利義氏家臣。足利郡小俣城主。官途は相模守。小俣城20,000石を領した。由良成繁とともに北条氏政に従った。1572年、「小俣城の戦い」で長尾景虎勢の攻撃を受けたが、膳宗次を討取り長尾景虎勢を撃退した。1589年、「小田原の役」で小田原城に籠城して鼻口を守備した。役後、改易処分に処され身柄を秋元長朝に預けられた。参考文献:デジタル版「日本人名大辞典+Plus」。

渋川左兵衛【しぶかわさえもん(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

渋垂保正【しぶれやすまさ(15??~1585)】

塩谷孝綱家臣。官途は修理亮。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で山田辰業らとともに塩谷義綱に従い那須資晴の本陣に突撃したが、芦野資泰の家臣神田次郎に討取られた。参考文献:『戦国 下野落城物語(喜連川城の妖怪)』by島遼伍。

渋垂伊勢守【しぶたるいせのかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。渋垂館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

渋垂筑前守【しぶたるちくぜんのかみ(15??~15??)】

渋垂伊勢守の男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

浄法寺茂直【じょうほうじしげなお(15??~15??)】

大関資増家臣。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従った大関資増の意向を受け人質として娘を松平元康のもとに送った。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

承舎六郎【しょうしゃろくろう(15??~15??)】

千本資俊家臣。続谷館主。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

泰平寺周沢【しゅうへいじしゅうたく(15??~15??)】

千本資俊家臣。別名大谷津周防守。1585年、大谷津郷530石を領した。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

白石豊前守【しらいぶぜんのかみ(15??~15??)】

長尾政長家臣。家老職を務めた。1562年、長尾政長から岩井山城代に任じられた。1581年、「免鳥館の戦い」で長尾顕長に従い佐野宗綱の家臣高瀬忠行勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

新川新左衛門【しんかわしんざえもん(15??~15??)】

鹿沼綱勝家臣。1523年、「上野台の戦い」で鹿沼綱勝に従い宇都宮忠綱勢と戦い鹿沼綱勝が討死したため敗退した。戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

菅谷左衛門五郎【すがやさえもんごろう(15??~15??)】

小山秀綱家臣。法音寺館主。1577年、北条氏照から所領を安堵された。

杉本修理【すぎもとしゅり(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

杉本七右衛門【すぎもとしちえもん(15??~15??)】

榎本高綱家臣。1564年、「第二次榎本城の戦い」で榎本高綱に従い皆川俊宗勢と戦い奮戦したが榎本城は落城した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

鈴木重康【すずきしげやす(15??~15??)】

宇都宮国綱家臣。通称修理亮。1587年、「倉ヶ崎館の戦い」で日光山門徒と北条氏直勢の攻撃を受け上郷衆(上平勝重、金枝光任、飯岡知貞、糟谷政武、小宅高祐)とともに倉ヶ崎館に籠城した。大門弥次郎が北条氏直勢に内応したため、他の五将とともに討死した。内応した大門弥次郎も北条氏直勢に謀殺された。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

鈴木右京【すずきうきょう(15??~15??)】

塩谷義孝家臣。塩谷郡伊佐野館主。参考文献:「やいたもんの文学館」by作者不明。

鈴木内記【すずきないき(15??~15??)】

鈴木右京の男。1585年、「伊佐野館の戦い」で那須資晴勢の攻撃を受け伊佐野館を焼討ちにれた。参考文献:「やいたもんの文学館」by作者不明。

須藤行貞【すどうゆきさだ(15??~15??)】

榎本高満家臣。都賀郡須藤館主。参考文献:『戦国関東名将列伝(動乱の改革大名)』by島遼伍。

須永刑部【すながぎょうぶ(15??~15??)】

皆川俊宗家臣。1564年、「第二次榎本城の戦い」で皆川俊宗に従い榎本高綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

関口但馬守【せきぐちたじまのかみ(15??~15??)】

皆川俊宗家臣。1566年、「皆川城の戦い」で北条氏政勢の攻撃を受けたが撃退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

妹尾平三郎【せおへいさぶろう(15??~15??)】

小山秀綱家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

妹尾甲斐守【せおかいのかみ(15??~15??)】

小山秀綱家臣。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。
 
関口彦四郎【せきぐちひこしろう(15??~15??)】

皆川俊宗家臣。1566年、「皆川城の戦い」で北条氏政勢の攻撃を受けたが撃退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

千本資次【せんぼんすけつぐ(15??~15??)】

那須政資家臣。芳賀郡千本館主。那須家七騎衆。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

千本資俊【せんぼんすけとし(1522~1585)】

千本資次の男。官途は常陸介。1549年、那須高資と那須資胤との内紛では、那須資胤を支援した。1551年、芳賀高定の謀略にかかり、那須高資を千本館内で誘殺したため、那須家を追われた。那須家の家督を相続した那須資胤に許され帰参した。1583年、那須資胤が病没すると、大関高増と対立した。1585年、「太平寺の戦い」で大関高増の謀略で那須資晴に誘い出され謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

千本資政【せんぼんすけまさ(1541~1585)】

千本資俊の男。室は大関高増の娘。1585年、「太平寺の戦い」で父千本資俊とともに謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

千本義隆【せんぼんよしたか(1552~1615)】 

茂木知持の次男(千本資俊の養子)。官途は大和守。通称次郎。室は那須資胤の娘。別名茂木義政。千本資俊が千本資政をうけると養父の千本資俊と不仲になり、実家の茂木家に戻った。1567年、「稲積館の戦い」で大関高増勢と戦い敗退した1585年、「太平寺の戦い」で千本資俊、千本資政が大関高増、大田原綱清、福原資孝らに謀殺されると、千本家の領地は大関高増、大田原綱清、福原資孝、大谷津周防守らに分配され、千本家惣領職と残りの領地を相続した。1589年、「小田原の役」で羽柴秀吉に従い北条氏直勢と戦った。役後、芳賀郡内で2,070石を領した。1592年、「文禄の役」で肥前名護屋城を守備した。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康勢に従い内室を人質に差し出し、所領を安堵された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

千本義定【せんぼんよしさだ(1565~1623)】

千本義隆の男。官途は大和守。通称又七郎。室は茂木治景の娘。1589年、「小田原の役」で父千本義隆とともに羽柴秀吉に属して北条氏直勢と戦った。1592年、「文禄の役」で肥前名護屋城に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い大田原城を守備した。役後、所領を安堵された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

千本義昌【せんぼんよしまさ(1585~1648)】

千本義定の男。官途は山城守。通称彦太郎。室は茂木治良の娘。1602年、松平元康の馬廻衆を務め、500石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で本多正信に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。1623年、父の千本義定が病没すると千本家惣領職と本領3,870石は継嗣の千本義等が相続して隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大谷津千本道長【せんぼんみちなが(1537~1615)】

千本義隆家臣。室は福原資郡の娘。芳賀郡大谷津館530石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大谷津千本資勝【せんぼんすけかつ(1574~1630)】

福原資孝の三男(千本道長の養子)。通称帯刀。1600年、「関ヶ原の役」で那須衆とともに松平元康に従い皆川隆庸に属して大田原城を守備した。1602年、岩城貞隆が羽後久保田城を領すると、皆川隆庸とともに牛越城の城番を務めた。1614年、里見忠義が改易処分に処されると内藤政長、本多忠朝とともに館山城を接収して守備を務めた。1614年、「大坂冬の陣」で本多正信に従い羽柴秀頼勢と戦った。1619年、松平秀忠が上洛すると供奉し駿府城の城番を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

千本資家【せんぼんぎすけいえ(15??~15??)】

芳賀郡教ヶ丘館主。官途は美濃守。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

千本資持【せんぼんすけもち(15??~15??)】

那須資房家臣。官途は美濃守。1516年、「福原城の戦い」で大田原資清、大関宗増、福原資安らとともに山田資久を討取る戦功を挙げた。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

背尾三河守【せおみかわのかみ(15??~15??)】

榎本高綱家臣。別名瀬尾三河守。軍配者。1564年、「第二次榎本城の戦い」で榎本高綱に従い皆川俊宗勢と戦い奮戦したが榎本城は落城した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

背尾重兵衛【せおじゅうべい(15??~15??)】

榎本高綱家臣。別名瀬尾重兵衛。1564年、「第二次榎本城の戦い」で榎本高綱に従い皆川俊宗勢と戦い奮戦したが榎本城は落城した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

関義時【せきよしとき(14??~1516)】

那須資親家臣。通称十郎。1514年、「亀山館の戦い」で那須資永の意向を受け那須資久を討取る戦功を挙げた。1516年、「福原城の戦い」で田川時法とともに那須資永に従い大田原資清、大関宗増、福原資安勢と戦い討死した。が討死した。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

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【た】

大門資長【だいもんすけたけ(15??~15??)】

壬生綱重の三男。村井館主。官途は左衛門尉。通称弥次郎。別名壬生資長。村井館主に任じられた。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大門資忠【だいもんすけただ(15??~15??)】

大門資長の男。官途は図書助。通称弥七郎。1549年、「五月女坂の戦い」で父大門資長に従い那須高資勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大門弥二郎【だいもんやじろう(15??~1587)】

大門資忠の男。1587年、「倉ヶ崎館の戦い」で日光山門徒と北条氏直勢の攻撃を受け上郷衆(上平勝重、金枝光任、飯岡知貞、糟谷政武、小宅高祐、鈴木重康)とともに倉ヶ崎館に籠城した。北条氏直勢に内応したが北条氏直勢に謀殺された。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

高木宗吉【たかぎむねよし(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。官途は伊勢守。1567年、壬生義雄、小野口祐吉とともに磯山神社に鰐口を奉納した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高木道重【たかぎみちしげ(15??~15??)】

多功長朝家臣。1557年、「多功城の戦い」で多功長朝に従いと戦い長尾景虎勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

高瀬満重【たかせみつしげ(15??~15??)】

佐野昌綱家臣。官途は伊豆守。別名高瀬綱清。田沼秀直の弟。荷駄や作事な奉行職を務めた。1577年、「免鳥館の戦い」で佐野昌綱に従い長尾顕長勢と戦い戦功を挙げ安蘇郡免鳥館、境七郷(稲岡878石、駒場550石、只木590石、寺岡1,000石、西場478石、羽田2,566石、村上904石)の6,966石を領した。参考文献:『戦国 下野落城物語(死闘・免鳥城)』by島遼伍。

高瀬忠行【たかせただゆき(15??~1581)】

高瀬満重の男。官途は紀伊守。1577年、「免鳥館の戦い」で父高瀬満重に従い長尾顕長勢と戦い戦功を挙げた。1581年、「免鳥館の戦い」で長尾顕長勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国 下野落城物語(死闘・免鳥城)』by島遼伍。

高瀬右衛門佐【たかせさえもんのすけ(15??~15??)】

高瀬満重の次男。室は佐野昌綱の娘。1581年、「免鳥館の戦い」で兄高瀬忠行に従い長尾顕長勢と戦い討死した。参考文献:『戦国 下野落城物語(死闘・免鳥城)』by島遼伍。

高瀬正道【たかせまさみち(15??~15??)】

佐野昌綱家臣。官途は遠江守。通称六郎左衛門。佐竹義重との取次役を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高瀬縫殿助【たかせぬいどのすけ(15??~15??)】

佐野昌綱家臣。家老職を務めた。1566年、「唐沢山城の戦い」で佐野昌綱に従い長尾景虎勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高瀬弥六【たかせよろく(15??~15??)】

那須資景家臣。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従った那須資の意向を受け人質として内室を松平元康のもとに送った。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

高梨内匠頭【たかなしたくみのかみ(15??~1585)】

千本資俊家臣。1585年、千本資俊とともに太平寺に赴き大関高増勢の攻撃を受け教ヶ丘城に落延び籠城したが討死した。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

高梨助九郎【たかなしすけくろう(15??~1585)】

千本資俊家臣。高梨内匠頭の弟。1585年、千本資俊とともに太平寺に赴き大関高増勢の攻撃を受け教ヶ丘城に落延び籠城したが討死した。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

高野勝吉【たかのかつよし(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。通称新左衛門尉。1587年、壬生義雄の今宮神社修復で奉行衆を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高野房吉【たかのふさよし(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。通称新左衛門。1576年、「徳節斎の乱」で壬生義雄に従い壬生周長勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高野吉宗【たかのよしむね(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。1587年、壬生義雄の今宮神社修復の大工奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高根沢新右衛門【たかねざわしんえもん(15??~15??)】

宇都宮広綱家臣。高根沢館主。高根沢館575石を領した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高橋吉長【たかはしよしなが(15??~15??)】 

壬生義雄家臣。官途は縫殿亮。1587年、壬生義雄の意向を受け今宮神社修復の奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高橋豊後守【たかはしぶんごのかみ(15??~15??)】

宇都宮国綱家臣。太閤検地の奉行を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高橋貞勝【たかはしさだかつ(15??~15??)】

宇都宮広綱家臣。高橋館主。官途は越後守。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

高村越前守【たかむらえちぜんのかみ(15??~15??)】

壬生周長家臣。大芦館主。官途は越前守。通称久左衛門。1571年、「鹿沼引田の戦い」で義雄に従い参陣して戦功を挙げた。1576年、「徳節斎の乱」で壬生周長に従い壬生義雄勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高村主膳【たかむらしゅぜん(15??~15??)】

鹿沼綱勝家臣。1523年、「上野台の戦い」で鹿沼綱勝に従い宇都宮忠綱勢と戦い鹿沼綱勝が討死したため敗退した。戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

多賀谷河内守【たがやかわちのかみ(15??~15??)】

小山秀綱家臣。別名多賀河内。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

高山右馬介【たかやまうまのすけ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1589年、「小田原の役」で長尾顕長に従い小田原城に籠城したが羽柴秀吉勢の攻撃を受け降伏に追い込まれた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

田川時法【たがわときのり(14??~1516)】

那須資親家臣。通称源五。1516年、「福原城の戦い」で関義時とともに那須資永に従い大田原資清、大関宗増、福原資安勢と戦い討死した。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

瀧田玄蕃充【たきたげんのじょう(15??~15??)】

大関高増家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

竹井大内蔵【たけいおおうちくら(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

竹沢清秀【たけざわきよひで(15??~15??)】

佐野昌綱家臣。伊勢崎館主。佐野家四天王。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

竹沢定冬【たけざわさだふゆ(15??~15??)】

竹沢清秀の男。官途は刑部少輔。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

竹原備中守【たけはらびっちゅうのかみ(15??~1585)】

千本資俊家臣。1585年、千本資俊とともに太平寺に赴き大関高増勢の攻撃を受け月次弾正介の屋敷に落延びたが謀殺された。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

竹間源五【たけまげんご(15??~1589)】

壬生義雄家臣。1589年、「鹿沼城の戦い」で壬生義雄に従い宇都宮国綱勢と戦い市田備中守に討取られた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

竹間兵吉【たけまへいきち(15??~1589)】

竹間源五の男。別名「鬼神」。1589年、「鹿沼城の戦い」で父竹間源五に従い討取られた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

多功建昌【たこうたてまさ(1462~1572)】

宇都宮正綱家臣。河内郡多功城主。官途は石見守。1551年、米寿の祝賀を催した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

多功長朝【たこうながとも(1485~1558)】

多功建昌男。官途は石見守。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い戦功を挙げたが、宇都宮尚綱が討死したため敗北した。1558年、「多功城の戦い」で多功房朝、簗朝光、簗吉朝、石崎通季、上野祐朝、児山兼朝、野澤保辰、高木道重、木田淡路守、伊澤遠江守、橋本若狭守、青柳丹波守、坂治部、小菅隼人、祖母ヶ井吉胤、矢板長則らとともに長尾景虎、芦名盛氏、佐野豊綱、結城政勝、小山高朝勢と戦い佐野豊綱を討取る戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

多功房朝【たこうふさとも(1503~1589)】

多功長朝の男。官途は石見守。別名多功房興。猛将。1549年、「五月女坂の戦い」で父多功長朝に従い那須高資勢と戦った。1572年、「第三次多功城の戦い」で北条氏政勢の北条氏照、太田氏房、松田左馬助らの攻撃を受けると簗吉朝、野澤保辰、石崎通季、高木道重らとともに多功城に籠城した。宇都宮広綱からの援軍、赤垣高綱、戸祭房相、野中則興、祖母ヶ井越前守らの支援を受け北条氏政勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

多功秀朝【たこうひでとも(1526~1595)】

多功長朝の男。1589年、父多功房朝が病没したため、多功家の家督を相続したがまもなく弟の多功綱継に家督を譲った。1595年、病弱ため病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

多功綱継【たこうつなつぐ(1543~1593)】

多功長朝の次男。官途は石見守。通称孫次郎。猛将。1584年、「沼尻、岩船山の戦い」で宇都宮国綱に従い北条氏直勢と戦い家臣の石崎通長は一番頸の戦功を挙げた。1589年、「多功城の戦い」で北条氏邦勢の攻撃を受けたが撃退した。宇都宮国綱の名代として北条氏直のもとに赴き和議を結んだ。1589年、「小田原の役」で宇都宮国綱の陣代として羽柴秀吉に謁見、宇都宮家の本領安堵をとりつけた。1597年、宇都宮国綱が改易改易処分の処されると没落した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

多功綱朝【たこうつなとも(15??~15??)】

多功綱継の男。官途は石見守。別名多功綱賀。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

多功綱秀【たこうつなひで(15??~15??)】

多功綱継の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田島内膳【たじまないせん(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

田代長門守【たしろながとのかみ(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

踏鞴戸平兵衛【たたらどへいべえ(15??~15??)】

塩谷孝綱家臣。踏鞴戸館主。領内は砂鉄を使った製鉄で栄えた。1544年、箒川大洪水を受け踏鞴戸村や周辺の村々が壊滅し勢力を失った。

立川将監【たちかわしょうげん(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1585年、「館林城の戦い」で北条氏直の家臣垪和康忠、山角定勝、伊勢貞運らの攻撃を受け撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

立木図書頭【たちきとしょかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。家老職を務めた。1569年、長尾景長が病没すると由良成繁の次男長尾顕長に足利長尾家の家督を相続させた。1581年、「免鳥館の戦い」で長尾顕長に従い佐野宗綱の家臣高瀬忠行勢と戦い戦功を挙げた。1589年、「小田原の役」で白石豊前守、大沼田淡路守、市川右衛門、久米伊賀守、新井図書、小曾根筑前守、南掃部、小沼正五郎、小菅縫殿助、江川左衛門、山川丹後守とともに足利城に籠城した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

橘綱宗【たちばなつなむね(14??~1502)】

塩原郡要害山館主。官途は伊勢守。1495年、「要害山館の戦い」で芦名盛高の家臣長沼政義勢の攻撃を受けた。1502年、「要害山館の戦い」で長沼政義勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊達出雲守【だていずものかみ(15??~1584)】

益子安宗家臣。1584年、「富谷館の戦い」で益子重綱に従い笠間幹綱の家臣中谷孫八郎、江戸美濃守勢と戦い討死した。参考文献:「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」by戦国時代版。

館野義直【たてのよしなお(14??~15??)】

那須資房家臣。官途は越前守。1516年、「福原城の戦い」で大田原資清、大関宗増、福原資安らとともに山田資久を討取る戦功を挙げた。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

田中藤兵衛【たなかとうべい(15??~15??)】

伊王野資信家臣。那須郡田中砦主。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

田子由好【たなこゆよし(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

田沼秀直【たぬまひでなお(15??~15??)】

佐野氏忠家臣。高瀬綱清の兄。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

田沼綱重【たぬまつなしげ(15??~1585)】

佐野昌綱家臣。田沼館主。1585年、「須花坂の戦い」で佐野宗綱に従い長尾顕長勢と戦い討死した。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

田野上外記【たのうえげき(15??~15??)】

小山秀綱家臣。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

田野辺資重【たのべしけしげ(15??~15??)】

千本資家家臣。千本資家の弟。芳賀郡田野辺館主、通称三郎。1505年、千本資家の意向を受け野田辺館を守備した。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

田野辺資辰【たのべすけたつ(15??~15??)】

田野辺資重の男。通称左衛門尉。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

田野辺重之【たのべしげゆき(15??~1586)】

田野辺資辰の男。通称将監。家老職を務めた。1585年、「野田辺の戦い」で千本資俊、千本資政が大関高増、大田原綱清、福原資孝らに謀殺されれると那須資晴勢の攻撃を受け降伏した。1586年、太平寺で那須資晴勢に謀殺された。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

頼母玄蕃頭【たのもげんばのかみ(15??~15??)】

芳賀郡水沼館主。永禄年間、「水沼館の戦い」で宇都宮広綱勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

多部田内匠之助【たべたたくみのすけ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

玉生高宗【たまにゅうたかむね(15??~15??)】

宇都宮国綱家臣。官途は美濃守。35,000石を領した。

玉生盛久【たまにゅうもりひさ(15??~1667)】 

玉生高宗の男(須田盛秀の養子)。1597年、宇都宮国綱が羽柴秀吉の逆鱗に触れ、改易処分に処されると義兄小貫頼久の推挙で佐竹義宣に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」に松平元康に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。その後、須田盛秀の養子となり須田盛久と称した。

玉生権太夫【たまにゅうごんだゆう(15??~15??)】

宇都宮国綱家臣。下野総検地奉行職の浅野長政に従い国内の検地を担当した。

田向大膳之助【たむかいだいぜんのすけ(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「上野台の戦い」で宇都宮忠綱に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。「河原田の戦い」で宇都宮忠綱に従い皆川宗成勢と戦い戦功を挙げた参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

塚田和泉守【つかだいずみのかみ(15??~15??)】

小山高朝家臣。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

月次弾正介【つきなみだんじょうのすけ(15??~15??)】

千本資俊家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

津田光明寺【つだこうみょうじ(15??~15??)】

大関高増家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

津田源海【つだげんかい(15??~15??)】

大関資増家臣。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従った大関資増の意向を受け人質として内室を松平元康のもとに送った。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

土屋三左衛門【つちやさざえもん(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

続谷織部正【つづきやおりべのかみ(15??~15??)】

千本資俊家臣。芳賀郡続谷館主。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

綱川右近【つなかわうこん(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「河原田の戦い」で宇都宮忠綱に従い皆川宗成勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

綱川左近丞【つなかわさこんのじょう(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。芳賀郡稲毛田館主。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

寺内庄太夫【てらうちしょうだいふ(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

寺嶋式部丞【てらしましくぶのじょう(15??~15??)】

皆川俊宗家臣。1566年、「皆川城の戦い」で北条氏政勢の攻撃を受けたが撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

寺田十郎左衛門【てらだじゅうろうざえもん(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1585年、「館林城の戦い」で北条氏直の家臣垪和康忠、山角定勝、伊勢貞運らの攻撃を受け撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

寺田牛之助【てらだうしのすけ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

戸祭房相【とまつりふさそう(15??~15??)】

宇都宮国綱家臣。戸祭館主。官途は備中守。武辺者。戸祭館2,000石を領した。1572年、「第三次多功城の戦い」で北条氏政勢の攻撃を受けると宇都宮国綱の意向を受けた多功城の多功房朝を支援して北条氏政勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:『戦国 下野落城物語(徳次郎城奇譚)』by島遼伍。

富田成忠【とみたなるただ(14??~15??)】

長沼氏秀の三男。都賀郡富田館主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

富田忠宗【とみたただむね(15??~15??)】

富田成忠の男。別名富田秀利。1539年、「天文の内訌」で宇都宮尚綱と芳賀高経が対立すると皆川成勝とともに芳賀高経を支援した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

富田信吉【とみたのぶよし(15??~1558)】

富田忠宗の男。通称左近。1557年、「富田館の戦い」で佐野昌綱と結び皆川俊宗勢の攻撃を受け落城した。1558年、「第二次多功城の戦い」で宇都宮広綱の意向を受け多功長朝に従い長尾景虎勢と戦い討死した。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

戸室惣左衛門【とむろそうざえもん(15??~15??)】 

宇都宮広綱家臣。1576年、多気山城を築城すると、在番に任じられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

豊田信久【とよだのぶひさ(15??~15??)】

壬生義雄家臣。官途は和泉守。1576年、「徳節斎の乱」で壬生義雄に従い壬生周長勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

豊田吉忠【とよだよしただ(15??~15??)】

壬生義雄家臣。官途は和泉守。1587年、壬生義雄の今宮神社修復で奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

鳥山伊賀守【とりやまいがのかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1589年、「小田原の役」で長尾顕長に従い小田原城に籠城したが、羽柴秀吉勢の攻撃を受け降伏に追い込まれた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【な】

直井淡路守【なおいあわじのかみ(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「上野台の戦い」で宇都宮忠綱に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

長江図書【ながえとしょ(15??~1590)】

皆川広照家臣。1589年、「小田原の役」で皆川広照に従い小田原城に籠城して羽柴秀吉勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

中江川高綱【なかえがわたかつな(15??~15??)】

佐野秀綱の五男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利長尾景長【ながおかげなが(14??~1528)】

山内上杉憲寛家臣。足利郡足利城主。山内上杉憲寛の(家宰)筆頭家老職を務めた。足利郡、梁田郡の二郡70,000石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利長尾憲長【ながおのりなが(1503~1550)】

長尾景長の男。官途は但馬守。通称新五郎。室は横瀬景繁の娘。1528年、父長尾景長が病没したため、足利長尾家の家督を相続した。白井長尾景誠が謀殺されると、総社長尾顕方とともに事態の収拾を図り、長尾憲景を白井長尾家の当主に擁立した。1531年、「享禄の乱」で山内上杉憲寛が山内上杉憲政に関東管領し職を奪われた後も山内上杉家の筆頭家老職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利長尾景長【ながおかげなが(1527~1569)】

長尾憲長の男。官途は但馬守。別名長尾当長。1552年、「平井城の戦い」で山内上杉憲政が長尾景虎のもとに落延びると北条氏康に降伏した。1560年、「第一次小田原城の戦い」長尾景虎勢が関東に侵攻すると長尾景虎勢に属して北条氏康勢と戦った。1562年、「館林城の戦い」で長尾景虎が赤井照景を追落とすと館林城主に任じられた。1569年、長尾景虎と北条氏政の取次役を務め、その和議に貢献した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利長尾顕長【ながおあきなが(1556~1621)】

由良成繁の三男(長尾景長の養子)。室は長尾景長の娘。足利長尾景長の娘を娶り、その家督を相続した。1582年、滝川一益が上野国に進駐すると、兄由良国繁とともに滝川一益に属した。「本能寺の変」後、北条氏直勢に属した。1585年、「須花坂の戦い」で佐野宗綱勢と戦いこれを討取る戦功を挙げた。1589年、「小田原の役」で北条氏直勢に属したため、役後改易処分に処された。参考文献:『戦国関東名将列伝』by島遼伍。

足利長尾宣景【ながおのぶかげ(15??~15??)】 

長尾顕長の男。通称熊太郎丸。室は由良国繁の娘。土井利勝に仕え1,200石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利長尾宣長【ながおのぶなが(15??~15??)】

長尾顕長の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利長尾政長【ながおまさなが(15??~15??)】

長尾景長の男。通称新五郎。1562年、長尾政長が館林城を居城とすると、白石豊前守が岩井山城代に任じられた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

永井三郎左衛門【ながいさぶろうざえもん(15??~15??)】

榎本高綱家臣。1564年、「第二次榎本城の戦い」で榎本高綱に従い皆川俊宗勢と戦い奮戦したが榎本城は落城した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中里仁左衛門【なかざとにんざえもん(15??~15??)】

塩谷郡中里館主。参考文献:『戦国 下野落城物語(血染めの六人衆)』by島遼伍。

中里左京【なかざとさきょう(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「上野台の戦い」で宇都宮忠綱に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。「河原田の戦い」で宇都宮忠綱に従い皆川宗成勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

中島喜左衛門【なかしまきざえもん(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

長嶋隠岐守【ながしまおきのかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

長島平内【ながしまへいない(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

長島外記【ながしまげき(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1589年、「小田原の役」で長尾顕長に従い小田原城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

長沼政義【ながぬままさよし(14??~15??)】

芦名盛高家臣。官途は出羽守。別名小山政義。1495年、「要害山館の戦い」で橘伊勢守勢と戦い撃退された。1502年、「要害山館の戦い」で橘伊勢守を討取る戦功を挙げ要害山館を領した。1504年、「三依の戦い」で宇都宮成綱勢の攻撃を撃退する戦功を挙げた。1509年、「片角軍萱の戦い」で宇都宮成綱勢の攻撃を受け敗退して岩代鴫山城に落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

長沼宗国【ながぬまむねくに(15??~15??)】

塩谷郡鶴渕館主。1573年、「鶴渕館の戦い」で宇都宮国綱の家臣大沢助次郎勢の攻撃を受け落城した。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

中村玄角【なかむらげんかく(15??~1544)】

宇都宮尚綱家臣。芳賀郡中村館主。官途は日向守。宇都宮尚綱のともで五本の指に入るほどの闘将。1544年、「中村館の戦い」で水谷正村勢の攻撃を受け継嗣中村時長とともに一旦は撃退したが逆襲を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中村時長【なかむらときなが(15??~15??)】

中村玄角の男。1544年、「中村城の戦い」で水谷正村勢の攻撃を受け父中村玄角が討死すると、伊達輝宗を頼り落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

永山忠好【ながやまただよし(14??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。別名道損。佐八美濃守から宇都宮忠綱に届けられる品物の取次役を務めた。伊勢新宮の神領となった栗嶋郷の代官を務めた。1509年、「大永の乱」で宇都宮忠綱と芳賀高経が対立すると、宇都宮忠綱勢に属した。1523年、「猿山ヶ原の戦い」で大敗して常陸国に落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

長山通兄【ながやまみちえ(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。官途は越中守。1549年、「早乙女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い敗退した。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

上那須資親【なすすけちか(14??~1514)】

那須郡福原城主。那須家惣領職。継嗣をもうけることができず結城義永から那須資永を養子にもらい受けた。まもなく実子の那須資久をもうけたため、那須家にお家騒動が起こった。1514年、次男の那須資久を那須家の家督を譲るように遺言して病没した。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

上那須資永【なすすけなが(14??~1516)】

結城義永の次男(那須資親の養子)。室は那須資親の娘。1514年、「亀山館の戦い」で那須資親の実子山田資久を討取る戦功を挙げた。1516年、「福原城の戦い」で大田原資清、大関宗増、福原資安らの攻撃を受け上那須家は滅亡した。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

那須資房【なすすけふさ(14??~1552)】

那須郡烏山城主。那須資実の男。官途は大膳大夫。1494年、父那須資実が病没したため、下那須家の家督を相続した。1509年、塩谷城主塩谷孝綱の家臣大貫増長、油井利宗、印西成展らの謀反を誘うが失敗に終わった。1514年、那須資親の病没後、上那須家の家督をを巡り山田資久と那須資永が争うと那須資永を支援した。山田資久が那須資永に謀殺されたため、上那須家が断絶した。大田原資清らとともに那須資永を自刃に追込み、継嗣の那須政資に上那須家を相続させた。1520年、「縄釣原の戦い」で白河結城顕頼、岩城由隆、宇都宮忠綱勢の攻撃を受けたが撃退した。1521年、「上川井城の戦い」で岩城由隆、宇都宮忠綱、小田政治勢の攻撃を受けた。岩城常隆の娘を那須政資に娶わせ和議を結んだ。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

那須政資【なすまさすけ(1507~1546)】

那須資房の男。室は岩城常隆の娘。1514年、上那須家の大関宗増、大田原資清に擁立され、上那須家の家督を相続した。父那須資房が隠居すると上下那須家を統一した。上那須資永、結城顕頼、岩城常隆、那須資親、宇都宮尚綱らの近隣諸侯と対立して、戦いを繰り広げた。那須高資を擁する大関宗増、大田原資清勢の攻撃を受け烏山城から追い落された。宇都宮尚綱の支援を受け上那須地方に拠って抵抗を続けた。1539年、宇都宮尚綱、佐竹義篤と結んび烏山城の那須高資を攻撃した。1544年、那須高資と和議を結び隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

那須高資【なすたかすけ(1528~1551)】

那須政資の男。官途は修理大夫。大関宗増、大田原資清らに擁立され、父那須政資と戦った。那須政資を烏山城から追落し那須家の家督を奪った。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱を討取る戦功を挙げた。1551年、那須高資は、宇都宮広綱の家臣芳賀高定の謀略にかかり千本資俊に誘殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

那須資胤【なすすけたね(1531~1583)】

那須政資の次男。官途は修理大夫。室は芦野資豊の娘。1551年、那須高資が芳賀高定の謀略にかかり千本資俊に謀殺されると、那須家の家督を相続した。1555年、佐竹義昭と結び芦名盛氏や結城義親と戦った。1560年、「小田倉の戦い」で、苦戦を強いられ、大関高増、大田原綱清を叱責、責任を追及したのを機に、大関高増、大田原綱清らとの対立した。大関高増は佐竹義重の弟佐竹義尚を那須家の養子に迎え、那須資胤の排斥を画策した。佐竹義重勢の支援を受けた大関高増、大田原綱清と戦いを繰り広げた。1561年、大関高増、大田原綱清らと和議を結び隠居した。1572年、娘と佐竹義宣の婚約を成立させ、那須郡武茂城を佐竹義重に割譲して和議を結んだ。1578年、佐竹義重、宇都宮国綱、結城晴朝、江戸重通、大掾貞国らと常陸小川台で盟約を結び、北条氏政に対抗した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

那須資晴【なすすけはる(1557~1610)】

那須資胤の男。官途は大膳大夫。通称与一。室は結城晴朝の娘。1583年、父那須資胤が病没すると、佐竹義重勢の侵攻を受けるがこれを撃退した。1585年、「薄葉原の戦い」で宇都宮国綱、塩谷義綱勢を撃破った。大関高増による千本資俊の謀殺を承認した。那須資晴は北条氏直、伊達政宗と結び佐竹義重、結城晴朝、宇都宮国綱と戦った。1589年、「小田原の役」後、北条氏直勢に属したため、改易処分となったが、大田原晴清の尽力により、那須資晴の継嗣那須資景が5,000石を領した。後に那須資晴も許され5,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」で那須資景が松平元康勢に属して戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

那須資景【なすすけかげ(1586~1656)】

那須資晴の男。官途は左京大夫。通称与一。1589年、「小田原の役」後、父那須資晴が改易処分に処されたが、大田原資清らの尽力で那須資景が5,000石を領して那須家を再興した。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い戦功を挙げ1,000石の加増に加え家臣の高瀬弥六に200石、大田原周防守に200石、那須八郎に880石、大田原弥次郎に440石が加増され、所領と合わせて8,080石を領した。1610年、那須資晴が病没すると遺領6,000石を相続して14,080石を領して諸侯に列した。1615年、「大坂夏の陣」で大田原晴清らとともに本多正信勢に属して戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

那須八郎【なすはちろう(15??~16??)】

那須資晴家臣。1590年、羽柴秀吉から那須郡内の所領530石を安堵された。1600年、「関ヶ原の役」で那須資景に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げ880石を加増された。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

七井綱代【なないつなよ(15??~15??)】

芳賀郡七井館主。官途は刑部大夫。1559年、「矢島館の戦い」で益子勝宗勢の攻撃を受け多田羅館に落延びた。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

七井勝忠【なないかつただ(15??~1584)】

益子勝宗の五男。芳賀郡七井館主。別名益子勝忠。父益子勝宗は、兄益子勝家を謀殺して益子家の家督を相続した。1559年、「七井館の戦い」で父益子勝宗は、城主の七井綱代を追落とした。七井館主に任じられた1584年、宇都宮国綱に謀反を起こして、尾羽寺で謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

七井忠兼【なないただかね(15??~1586)】

七井勝忠の男。1586年、「新福寺の戦い」で茂木治良勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

七井忠宗【なないただむね(15??~15??)】

七井勝忠の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

成田弾正忠【なりただんじょうちゅう(15??~15??)】

皆川俊宗家臣。1566年、「皆川城の戦い」で北条氏政勢の攻撃を受けたが撃退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

南摩長綱【なんまながつな(15??~15??)】 

都賀郡上南摩城主。南摩満綱の男。官途は備前守。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

南摩綱豊【なんまつなとよ(15??~15??)】 

南摩長綱の男。官途は出羽守。通称孫太郎。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

南摩綱善【なんまつなよし(15??~1598)】

南摩綱豊の男。官途は筑後守。通称孫太郎。1572年、「深沢の戦い」で宇都宮国綱 に従い戦功を挙げた。1576年、久我家我が壬生義雄との戦いに敗れて討死すると、壬生義雄に従った。1589年、「小田原の役」で壬生義雄に従い小田原城に籠城した。役後、改易処分に処された。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

南摩泰綱【なんまやすつな(15??~16??)】

南摩綱善の男。通称孫太郎。1589年、「小田原の役」後、下総矢作城主鳥居元忠に仕え大目付役を務めた。1600年、「伏見城の戦い」で鳥居元忠が討死すると鳥居忠政に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

西方綱朝【にしかたつなより(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。上都賀郡西方館主。官途は安房守。皆川宗成、壬生綱房と対峙しながら自領の安堵、拡張を図った。1515年、「西方館の戦い」で宇都宮忠綱が皆川宗成との戦いで敗れると西方城も降伏に追込まれた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

西方綱定【にしかたさだつな(15??~15??)】

西方綱朝の男。通称太郎左衛門。1550年、宇都宮広綱に従い北条氏康勢と戦った。1560年、「第一次小田原城の戦い」長尾景虎勢が関東に侵攻すると長尾景虎勢に属した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

西方綱吉【にしかたつなよし(15??~15??)】

西方綱定の男。1570年、「西方館の戦い」で長尾景虎に内応したため、宇都宮広綱勢の攻撃を受け降伏した。1582年、織田信長の家臣滝川一益が上野国を領すると、これに従った。1585年、「西方館の戦い」で皆川広照が北条氏直勢に属すると、皆川広照勢の攻撃を受け落城した。1588年、「西方館の戦い」で佐竹義重の支援を受けた宇都宮国綱勢とともに皆川広照勢と戦い西方城の奪還した。1597年、宇都宮国綱が改易処分の処されると没落した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

新田昌言【にったまさこと(15??~15??)】

宇都宮広綱家臣。徳次郎館主。通称徳次郎。参考文献:『戦国 下野落城物語(徳次郎城奇譚)』by島遼伍。

根川八弥【ねがわはちよ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

野澤保辰【のざわやすたつ(15??~1558)】

多功長朝家臣。官途は将監。1558年、「第二次多功城の戦い」で多功長朝に従い長尾景虎勢と戦い討死した。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

野中則興【のなかのりおき(15??~15??)】

宇都宮国綱家臣。官途は伊予守。1572年、「第三次多功城の戦い」で北条氏政
勢の攻撃を受けた多功城の多功房朝を支援して撃退する戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

野尻伊豆守【のじりいずのかみ(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

野尻善左衛門【のじりぜんざえもん(15??~1523)】

鹿沼綱勝家臣。近習頭を務めた。1523年、「鹿沼城の戦い」で宇都宮忠綱勢の攻撃を受けると鹿沼綱勝に従い最後まで戦い討死した。参考文献:『戦国 下野落城物語(鹿沼城落城悲話)』by島遼伍。

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【は】

芳賀高勝【はがたかかつ(14??~1512)】

宇都宮成綱家臣。芳賀郡舞ヶ丘城主。芳賀景高の男。通称左兵衛尉。舞ヶ丘城30,000石を領した。1497年、父芳賀景高が病没したため、芳賀家の家督を相続した。宇都宮成綱に許可なく家臣の所領安堵状を発給した。1506年、「永正の乱」で古河公方足利政氏を支持したため、足利高基を支持した宇都宮成綱と対立した。1512年、「宇都宮錯乱」で宇都宮忠綱を擁立して宇都宮成綱を隠居に追込んだが、宇都宮成綱の反撃を受け謀殺された。参考文献:『戦国関東名将列伝』by島遼伍。

芳賀高経【はがたかつね(15??~1541)】

芳賀景高の次男。芳賀郡真岡城主。官途は右兵衛尉。1521年、宇都宮成綱に兄芳賀高勝が謀殺され、芳賀家惣領職は宇都宮正綱の三男宇都宮興綱が相続した。宇都宮興綱が宇都宮忠綱を追放して宇都宮惣領家を相続すると、芳賀家の家督はあらためて芳賀高経が相続した。塩谷孝高とともに芳賀家復興に尽力した。1541年、「児山館の戦い」で壬生綱房と結んで児山城に籠城するが、宇都宮尚綱、益子高定勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

芳賀高照【はがたかてる(15??~1555)】

芳賀高経の男。1541年、「児山館の戦い」で父芳賀高経が宇都宮尚綱勢の攻撃を受け討死すると、那須高資のもとに落延びた。1549年、「五月女坂の戦い」で那須高資に従い宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。1555年、宇都宮広綱と和議を結び芳賀高定から真岡城に招かれ謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

芳賀高定【はがたかさだ(1521~1588)】

益子勝宗の三男(芳賀高経の養子)。官途は伊賀守。室は芳賀高経の娘。別名益子高定。1521年、宇都宮尚綱の意向を受け芳賀家の家督を相続した。1541年、「児山館の戦い」で宇都宮尚綱に従い養父芳賀高経を討取った。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱が那須高資に敗退すると宇都宮広綱とともに真岡館に落延びた。1551年、千本資俊に那須高資を謀殺させた。1555年、芳賀高照を真岡城で誘殺した。1557年、佐竹義昭の支援を受けて宇都宮城を奪還して壬生綱雄を追放した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

芳賀高継【はがたかつぐ(15??~1592)】

芳賀高経の次男。官途は伊賀守。通称十郎。1570年、芳賀家の惣領職であった芳賀高定から家督を譲られた。宇都宮広綱の後見であった芳賀高定の跡を受けて、1589年、宇都宮国綱と不仲になるがまもなく復帰した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

芳賀高武【はがたかたけ(1572~1612)】

宇都宮広綱の三男(芳賀高継の養子)。官途は左兵衛尉。通称十郎。1589年、芳賀家の家督を相続した。1592年、「文禄の役」で羽柴秀吉勢に従い李氏朝鮮勢と戦った。1597年、兄宇都宮国綱の養子問題が起き、浅野長重の入嗣に強硬に反対して騒動を起こした。これを理由に宇都宮家は改易処分に処された。宇都宮国綱とともに伊勢内宮に宇都宮家再興の願文を納めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

芳賀高孝【はがたかたか(14??~15??)】

芳賀高益の男。官途は刑部大輔。1512年、「宇都宮錯乱」で芳賀高勝が宇都宮成綱に謀殺されると芳賀高経とともに助命された。1516年、宇都宮成綱が病没すると、宇都宮興綱を擁立して芳賀高経とともに宇都宮忠綱を宇都宮城から追落とした。1532年、芳賀高経、壬生綱房とともに宇都宮尚綱を擁立して宇都宮興綱を隠居に追込んだ。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

芳賀高秀【はがたかひで(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。氏家勝山館代。官途は駿河守。1539年、芳賀高経が宇都宮尚綱に謀殺された後も宇都宮尚綱に従った。参考文献:『戦国 下野落城物語(血染めの六人衆)』by島遼伍。

勝山芳賀綱高【はがつなたか(15??~15??)】

宇都宮成綱家臣。塩谷郡勝山館主。参考文献:『戦国関東名将列伝(奇蹟の武人)』by島遼伍。

勝山芳賀高繁【はがたかしげ(15??~15??)】

芳賀綱高の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

勝山芳賀高景【はがたかかげ(15??~15??)】

芳賀高繁の男。官途は駿河守。1589年、「小田原の役」で宇都宮国綱とともに参陣して羽柴秀吉に拝謁した。1595年、下野国内で実施された太閤検地の奉行職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

勝山芳賀高忠【はがたかただ(15??~15??)】

芳賀高景の男。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されると佐竹義宣に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

橋本勘解由左衛門【はしもとかげゆざえもん(15??~15??)】

小山秀綱家臣。10貫文を領した。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

橋本小四郎【はしもとこしろう(15??~15??)】

橋本勘解由左衛門の男。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

長谷川道伴【はせがわどうはん(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1589年、「小田原の役」で金谷因幡守を大将に大畑治部、久下田越後守、江戸宗印、久保田若狭守、野田志摩守、大島弥平治、大窪甚五郎、設楽新八郎、葦沼左内、篠塚半弥らとともに館林城に籠城した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

鳩山勝吉【はとやまかつよし(15??~15??)】

壬生義雄家臣。官途は将監。1576年、「徳節斎の乱」で壬生義雄に従い壬生周長勢と戦い戦功を挙げた。1587年、壬生義雄の今宮神社修復で献之筆者を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

鳩山朝久【はとやまともひさ(15??~15??)】

壬生義雄家臣。通称惣右衛門。1587年、壬生義雄の今宮神社修復で酒奉行を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

林又十郎【はやしまたじゅうろう(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1589年、「小田原の役」で長尾顕長に従い小田原城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

平石高治【ひらいしたかはる(15??~15??)】

祖母井吉胤家臣。芳賀郡平石館主。官途は紀伊守。大須賀党。天正年間(1573~92年)に平石館を築館した。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されると没落した。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

平野久国【ひらのひさくに(15??~1588)】

宇都宮広綱家臣。上都賀郡粟野城主。通称大膳亮。粟野城10,000石を領した。1575年、「第一次粟野館の戦い」で皆川広照の家臣斎藤秀隆勢の攻撃を受け佐野氏忠のもとに落延びた。1586年、「皆川城の戦い」で皆川広照が北条氏直勢に敗れると粟野館を奪還した。1588年、「第二次粟野館の戦い」で皆川広照の家臣斎藤秀隆勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「攻城団」by攻城団合同会社。

平山成明【ひあらやまなりあき(14??~1523)】

長沼氏秀の次男。1523年、「河原田の戦い」で兄皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

福田対馬守【ふくだつしまのかみ(15??~15??)】

壬生義雄家臣。官途は対馬守。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

福田弥太郎【ふくだやたろう(15??~15??)】

壬生義雄家臣。1579年、「鹿沼城の戦い」で壬生周長勢と戦い戦功を挙げた。戦後、神山左京亮の領地だった日向領の内13貫800文、玉田隼人の7貫500文、御征作2貫500文の加増を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

福地綱久【ふくちつなひさ(15??~15??)】

佐野豊綱家臣。椿田館主。官途は丹波守。1560年、椿田館を築城した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

福地寧久【ふくちやすひさ(15??~15??)】 

福地綱久の男。官途は出羽守。1575年、佐野宗綱から田嶋、羽根田の内250貫文を加増を受けた。1580年、「上野小泉城の戦い」で山上照久、松本丹波守とともに足利長尾顕長勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

福地智之【ふくちともゆき(15??~16??)】

福地寧久の男。官途は帯刀。五奉行衆(高瀬遠江守、大貫大和守、高山外記、津野孫十郎)。佐野房綱のもとで積極的に領内を統治した。年貢や賦課、領内の年貢高の確定、不作地の減免により農民の負担を軽減しながら開発を進行させ、行政面で手腕を発揮した。1614年、佐野信吉が改易処分を受けると帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

福原資衝【ふくはらつけかね(15??~15??)】

那須高資家臣。那須郡片府田館主。別名福原資安。那須七騎衆。1549年、「五月女坂の戦い」で那須高資に従い宇都宮尚綱と戦い戦功を挙げた。嗣子が無く、那須高資の弟福原資郡を養子に迎えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

福原資郡【ふくはらすけくに(15??~1566)】 

那須政資の男(福原資衝の養子)。官途は弾正左衛門尉。通称九郎。別名森田資邦。室は福原資衝娘。福原資衝の養子となり福原家の家督を相続した。1560年、「小田倉の戦い」で那須資胤に従い芦名盛氏、結城晴綱勢と戦い戦功を挙げた。1563年、「五境五峰山の戦い」で那須資胤に従い佐竹義重に内応した大関高増、福原資孝、上那須衆らと戦った。1567年、「那須大崖山の戦い」で佐竹義重の支援を受けた大関高増勢と戦い戦功を挙げた。後に大田原資清の次男の大田原資孝を養子とし福原家の家督を譲った。兄那須資胤を補佐し枝連衆の重鎮として活躍した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

福原資孝【ふくはらすけのり(1533~1614)】

大田原資清の次男(福原資郡の養子)。官途は安芸守。通称孫太郎。室は福原資郡の娘。1563年、「佐久山館の戦い」で大関高増、大田原綱清とともに佐久山義隆を謀殺した。「五境五峰山の戦い」で佐竹義重に内応した大関高増、福原資孝、上那須衆らとともに那須資胤、義父福原資郡と戦った。1585年、千本資俊、千本資政を大関高増が謀殺すると千本資俊の所領を分割し千本義隆に相続させた。1589年、「小田原の役」に参陣し、那須郡福原2,610石余を領した。1600年、「関ヶ原の役」では松平元康に従い佐竹義宣に備えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

福原資広【ふくはらすけひろ(15??~1591)】

福原資孝の男。官途は中務丞。室は大田原綱清の娘。父福原資孝とともに那須資晴に仕えた。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で那須資晴に従い宇都宮国綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

福原資保【ふくはらすけやす(1571~1633)】

福原資孝の次男(福原資広の養子)。1598年、兄福原資広の養子となって福原家の家督と2,610石余を相続した。1600年、「関ヶ原の役」で皆川広照、服部正成らとともに大田原城に籠城して、長尾景勝勢に備えた。役後那須郡内で300石を加増を受けた。1602年、寒川郡、都賀郡内で4,500石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で本多正信勢に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

福原保通【ふくはらやすみち(15??~16??)】

福原資孝の三男。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従った兄福原資保の意向を受け人質として松平元康のもとに赴いた。参考文献:「栃木の城+α」by九鬼トシユキ。

藤岡清房【ふじおかきよふさ(15??~1577)】

佐野泰綱家臣。安蘇郡藤岡館主。官途は佐渡守。室は佐野泰綱の娘(倉子)。藤岡館13,000石を領した。1577年、「藤岡館の戦い」で北条氏政との内応嫌疑を受け佐野宗綱勢の攻撃を受け内室とともに自刃した。参考文献:『戦国関東名将列伝』by島遼伍。

藤倉勘斎【ふじくらかんさい(15??~15??)】

壬生綱房家臣。羽生田館主。1585年、「羽生田館の戦い」で宇都宮国綱勢の攻撃を受け落城した。

富士源太【ふじげんた(15??~15??)】

佐野宗綱家臣。1573年、「県館の戦い」で佐野昌綱の意向を受け県下野守を討取る戦功をった。1585年、「大貫館の戦い」で佐野氏忠の意向を受け竹沢山城守とともに大貫越中守を討取る戦功を挙げた。

藤田助宗【ふじたすけむね(15??~15??)】  

壬生綱房家臣。官途は兵部少輔。1576年、「徳節斎の乱」で壬生義雄に従い壬生周長勢と戦い戦功を挙げた。1587年、壬生義雄の今宮神社修復で奉行職を務めた。

北条勝時【ほうじょうかつとき(15??~1593)】

宇都宮広綱家臣。1593年、今泉高光とともに浅野長政の三男浅野長重を宇都宮家の養子に迎えようとしが芳賀高武が反対したため、お家騒動が起こった。

破治賀大学【はじがだいがく(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

樋口政時【ひぐちまさとき(15??~1578)】

宇都宮尚綱家臣。樋口館主。1578年、「金崎ヶ原の戦い」で逆面周防守、今泉但馬守、犬飼能登守、樋口政成らとともに武田勝頼勢に夜襲をかけ追撃したが討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

樋口政成【ひぐちまさなり(15??~15??)】

樋口政時の男。1578年、「金崎ヶ原の戦い」で父樋口政時に従い武田勝頼勢に夜襲をかけたが、樋口政時が討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

彦間筑前守【ひこまちくぜんのかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

久杉丹波守【ひさすぎたんばのかみ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

飛騨文次郎【ひだふみじろう(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

人見茂右衛門【ひとみしげえもん(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

平石勝忠【ひらいしかつただ(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。官途は佐渡守。参考文献:『戦国 下野落城物語(血染めの六人衆)』by島遼伍。

平川成明【ひらかわなるあき(15??~1523)】

長沼氏秀の四男。平川館主。別名皆川成明。1523年、「河原田の戦い」で兄の皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

福田丹後守【ふくだたんごのかみ(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

福地左衛門佐【ふくちさえもんのさ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1585年、「館林城の戦い」で北条氏直の家臣垪和康忠、山角定勝、伊勢貞運らの攻撃を受け撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
藤坂源五郎【ふじざかげんごろう(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

舟生玄蕃【ふなおいげんば(15??~15??)】

鹿沼綱勝家臣。1523年、「上野台の戦い」で鹿沼綱勝に従い宇都宮忠綱勢と戦い鹿沼綱勝が討死したため敗退した。戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

平久江弥右衛門【へぐりえよえもん(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

別府佐渡守【べっぷさどのかみ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

星豊前守【ほしぶぜんのかみ(15??~15??)】

武茂兼綱家臣。1583年、「愛宕山で戦い」で武茂守綱に従い那須資晴勢と戦い戦功を挙げた。

星渡次郎太郎【ほしわたりじろうたろう(15??~15??)】

榎本高綱家臣。1564年、「第二次榎本城の戦い」で榎本高綱に従い皆川俊宗勢と戦い奮戦したが、榎本城が榎本高綱も討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

星野勘解由【ほしのかげゆ(15??~15??)】

鹿沼綱勝家臣。1523年、「上野台の戦い」で鹿沼綱勝に従い宇都宮忠綱勢と戦い鹿沼綱勝が討死したため敗退した。戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

本庄盛泰【ほんじょうもりやす(15??~15??)】

那須資胤家臣。那須郡稲積館主。官途は三河守。1567年、「大崖山の戦い」で佐竹義重の家臣長倉義当勢の攻撃を受けると長倉義当の本陣に奇襲攻撃をかけ撃退する戦功を挙げた。「木須川の戦い」で大関高増勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国 下野落城物語(喜連川城の妖怪)』by島遼伍。

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【ま】

前原七郎左衛門【まえはらしちろうえもん(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

牧野顕高【まきのあきたか(15??~15??)】

那須資胤の次男。1584年、「松野館の戦い」で那須資晴に従い松野篤通勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

益子勝光【ましこかつみつ15??~15??)】

宇都宮成綱家臣。芳賀郡西明寺城主。別名紀勝光。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

益子勝清【ましこかつきよ(1504~1554)】

益子勝光の男。官途は信濃守。別名紀勝清。1539年、「宇都宮城の戦い」で宇都宮尚綱に従い小山高朝、結城政朝の家臣水谷正村勢と戦い敗退した。境目の城を守備するため、重い軍役を負担した。宇都宮尚綱のもとを離れ結城政朝に属した。

益子勝家【ましこかついえ(1521~1545)】

益子勝清の男。芳賀郡益子城主。別名紀勝家。1545年、益子領に復帰するも、弟益子勝宗に謀叛を起こされて謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

益子勝宗【ましこかつむね(1529~1593)】

益子勝清の次男。官途は信濃守。1545年、兄の益子勝家を謀殺して益子家の家督を簒奪した。1546年、「西明寺城の戦い」で宇都宮広綱勢の攻撃を受け水谷正村のもとに落延びたが、まもなく帰順した。1559年、「矢島館の戦い」で七井綱代を攻撃して多田羅館に追落とした。1578年、「金崎ヶ原の戦い」で小田氏治の家臣信田彌四郎らとともに武田勝頼勢に夜襲をかけ内藤昌月、跡部勝資らを敗走させた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

益子安信【ましこやすのぶ(15??~15??)】

益子勝清の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

益子勝澄【ましこかつずみ(15??~15??)】

益子勝清の四男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

益子勝重【ますこかつしげ(15??~15??)】

益子勝清の五男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

益子信勝【ますこのぶかつ(15??~15??)】

益子勝宗の男。1578年、武田晴信から偏偉を授けられたことで、宇都宮広綱の正室南呂院に疎まれ、大関清増のもとに落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

益子安宗【ましこやすむね(1562~1635)】

益子勝宗の三男。官途は宮内大輔。別名紀安宗。1578年、兄益子信勝が大関清増のもとに落延びたため、益子家の家督を相続した。1579年、加藤上総介の讒言を受け幽閉され、家督を継嗣の益子家宗に譲った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

益子家宗【ましこいえむね(15??~1589)】

益子安宗の男。官途は宮内大輔。別名紀家宗。1579年、父益子安宗が加藤上総介の讒言により隠居に追込まれたため、益子家の家督を相続した。1581年、富谷館を結城晴朝勢に預け、岩瀬館を加藤大隅守、加藤大蔵少輔らを守将として笠間綱家勢の攻撃に備えた。1583年、「橋下砦の戦い」で益子安宗が結城晴朝と結び笠間綱家勢を撃退した。「山本古屋館の戦い」で笠間綱家の家臣高塩伊勢守を討取る戦功を挙げた。「西の台の戦い」で芳賀高照勢と戦った。1585年、「田野館の戦い」で結城晴朝の家臣羽石盛長が笠間綱家に内応したため、田野館を攻略した。1589年、「西明寺城の戦い」で宇都宮国綱の家臣芳賀高継、多功綱継、塩谷義綱らの攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

富谷益子重綱【ましこしげつな(15??~15??)】

益子安宗の次男。芳賀郡富谷館主。1583年、「橋下砦の戦い」で結城晴朝の支援を受け笠間幹綱勢と戦いこれを撃破った。1589年、「西明寺城の戦い」で宇都宮国綱勢の攻撃を受け益子家宗が討死すると、家臣団に擁立され益子家の家督を相続して宇都宮国綱勢と戦った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

富谷益子宮内大夫【ましこくないだいふ(15??~15??)】

益子重綱の男。1589年、「富谷館の戦い」で宇都宮国綱勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

益子通天【ましこみちあま(15??~15??)】

益子勝家の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

益子喜市郎【ましこきしろう(15??~15??)】

益子勝家の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

増田平四郎【ますだへいしろう(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

増田主計【ますだしゅけい(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

町本内匠【まちもとくない(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

松木小太郎【まつきこたろう(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

松永太郎次【まつながたろじ(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

松野綱業【まつのつななり(15??~15??)】

那須郡松野館主。松野綱通の男。

松野綱業の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松野政通【まつのまさみち(15??~15??)】

松野綱業の次男。1561年、佐竹義昭の意向を受け那須資胤への使者役を務めた。1567年、「大崖山の戦い」で大山田綱胤、大金重宣、武茂守綱、烏子泰宗、横田綱久、南路義郷、戸村義広、小場義忠、石川昭光らとともに佐竹義重の家臣長倉義当に従い那須資胤勢と戦い奇襲攻撃を受け敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松野篤通【まつのあつみち(15??~15??)】

松野政通の男。1573年、「天神河原の戦い」で佐竹義重勢に従い武茂守綱らとともに那須資胤と戦った。1584年、「松野城の戦い」で松野館に籠城して那須資晴勢と戦った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

松野綱高【まつのつなたか(1553~15??)】

松野篤通の男。官途は大膳亮。1573年、「天神河原の戦い」で父松野篤通に従い武茂守綱らとともに那須資胤と戦った。1584年、「松野城の戦い」で父松野篤通とともに松野館に籠城して那須資晴勢と戦った。1595年、佐竹義宣から那須郡松野館706石を安堵された。1589年、「小田原の役」で佐竹義重に従い所領を安堵された。1603年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になるとそれに従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

松野綱広【まつのつなひろ(15??~15??)】

松野綱高の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松野忠通【まつのただみち(15??~15??)】

松野綱高の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松野国通【まつのくにみち(15??~15??)】

松野綱高の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松野資通【まつのすけみち(15??~15??)】

松野綱業の三男。官途は上総介。通称次郎左衛門尉。家老職を務めた。1581年、佐竹義重から5貫の加増を受けた。1592年、「文禄の役」で佐竹義宣に従い肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

松野尾彦三郎【まつのおひこさぶろう(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

松本大隅守【まつもとおおすみのかみ(15??~15??)】

大関高増家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

松本通勝【まつもとみちかつ(15??~15??)】

大関高増家臣。1560年、那須資胤の意向を受け大関高増の謀殺を謀るも失敗に終わった。

松本志摩守【まつもとしまのかみ(15??~15??)】

伊王野資信家臣。1600年、「関山の戦い」で伊王野資信に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「伊王野家の歴史」by伊王野正史。

間間田左衛門【ままださえもん(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

三浦久四郎【みうらひさしろう(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

三上大膳亮【みかみだいぜんのりょう(15??~15??)】 

壬生綱房家臣。官途は大膳亮。壬生四家老。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

水野谷左衛門大夫【みずのたにさえもんだいふ(15??~15??)】

小山秀綱家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

水沼五郎【みずぬまごろう(15??~15??)】

宇都宮広綱家臣。永禄年間、「水沼館の戦い」で宇都宮広綱に従い頼母玄蕃頭勢と戦い戦功を挙げ水沼館主に任じられた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されると所領を失った。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

三田綱知【みたつなとも(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。1549年、「早乙女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い敗退した。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

満川忠親【みつかわただちか(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。官途は民部少輔。1549年、「早乙女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い敗退した。参考文献:「那須の動乱」by伊王野正史。

皆川宗成【みながわむねなり(15??~1523)】

都賀郡皆川城主。長沼氏秀の男。1506年、「永正の乱」で佐野泰綱、小山成長らとともに足利政氏を支援して足利高基勢の宇都宮成綱と戦った。1523年、「河原田の戦い」で宇都宮忠綱勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

皆川成勝【みながわしげかつ(1490~1551)】

皆川宗成の男。官途は山城守。1523年、「河原田の戦い」で父皆川宗成が討死したため、皆川家の家督を相続した。宇都宮尚綱の圧力に屈して臣従した。1537年、「天文の内訌」で富田忠宗とともに芳賀高経を支援して宇都宮尚綱勢と戦った。内訌が終結すると再び宇都宮尚綱に臣従した。壬生綱雄が宇都宮尚綱と敵対したすると富田忠宗とともに壬生綱雄勢と戦った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

皆川俊宗【みながわとしむね(1525~1573)】

皆川成勝の男。官途は山城守。別名長沼信鉄斎。室は水谷治持の娘。1557年、宇都宮広綱が宇都宮城を奪還すると芳賀高継、岡本宗慶、壬生周長らとともに宇都宮広綱を支えた。1560年、「第一次小田原城の戦い」長尾景虎勢が関東に侵攻すると長尾景虎勢に属して北条氏康勢と戦った。1572年、岡本宗慶を謀殺した。1573年、「関宿城の戦い」で結城晴朝とともに簗田晴助を支援して北条氏康勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

皆川又五郎【みながわまたごろう(15??~15??)】

皆川成勝の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

皆川宣英【みながわのぶひで(15??~15??)】

皆川成勝の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

皆川 広勝【みながわひろかつ(1548~1576)】

皆川俊宗の男。官途は山城守。1573年、「関宿城の戦い」で父皆川俊宗が討死したため、皆川家の家督を相続した。後北条氏政、古河公方足利義氏、壬生義雄との関係維持を図るなど、他国と結んで皆川家の復権を図るが早世した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

皆川広照【みながわひろてる(1548~1628)】

皆川俊宗の次男。室は中御門宣綱の娘(北条氏政の養女)。1576年、兄皆川広勝が病没したため、皆川家の家督を相続した。1581年、織田信長に名馬を送り誼を通じた。1582年、織田信長の家臣滝川一益が上野国を領するとこれに仕えた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると羽柴秀吉、松平元康らと誼を通じた。1586年、「皆川城の戦い」で北条氏直勢の攻撃を受け降伏した。1590年、「皆川城の戦い」で北条氏直勢に属して羽柴秀吉勢と戦うが、松平元康の攻撃を受け降伏して所領を安堵された。松平元康から松平忠輝の附家老職に任じられた。1609年、山田重辰、松平清直らとともに松平忠輝の行状を松平秀忠に訴えたが逆に改易処分に処せられた。1623年、赦免され、常陸府中城10,000石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

皆川隆庸【みながわたかつね(1581~15??)】

皆川広照の男。1600年、「大田原城の戦い」で父皆川広照に従い大田原晴清、大関資増らとともに大田原城に籠城して長尾景勝勢に備えた。役後、松平忠輝の附家老職に任じられた。1609年、松平忠輝と対立したため、皆川広照とともに改易処分に処せられた。1614年、「大坂冬の陣」で井伊直孝に従い羽柴秀吉勢と戦い戦功を挙げた。1623年、皆川広照とともに赦免され、常陸行方郡内で5,000石を領した。1625年、皆川広照が隠居したため、皆川家の家督を相続して18,000石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

皆川忠宗【みながわただむね(15??~15??)】

皆川成勝家臣。官途は駿河守。皆川成勝に匹敵する勢力を保持した。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

皆川成正【みながわなるまさ(15??~15??)】

長沼氏秀の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

壬生綱重【みぶつなしげ(1448~1516)】

宇都宮忠綱家臣。都賀郡壬生城主。壬生胤業の男。官途は筑後守。別名意安。室は芳賀高益の娘。1509年、連歌師宗長を鹿沼の館に招いて連歌会を開いた。1512年、「宇都宮錯乱」で宇都宮成綱と芳賀高勝が対立すると宇都宮成綱を支援して芳賀高勝勢と戦った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

壬生綱房【みぶつなふさ(1479~1555)】

壬生綱重の男。官途は下総介。側室は横手繁世の娘。1526年、「猿山ヶ原の戦い」で宇都宮忠綱が結城政朝、芳賀興綱らと戦い敗退すると鹿沼城に匿った。1527年、芳賀興綱とともに宇都宮忠綱を謀殺した。1532年、芳賀興綱の継嗣宇都宮尚綱を擁立して芳賀興綱を隠居させ、宇都宮家の実権を握った。1534年、領内の総鎮守今宮神社の社殿を新造した。芳賀高経、芳賀高照らと結び宇都宮尚綱、芳賀高定らと対立した。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱が那須高資勢と戦い討死すると芳賀高照らとともに宇都宮城を占拠した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

壬生周長【みぶかねなが(15??~1576)】

壬生綱重の次男。甥の壬生綱雄とともに宇都宮尚綱に仕えたが、恩賞への不満から宇都宮尚綱と対立した。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱が那須高資勢と戦い討死すると、壬生綱房とともに宇都宮城を占拠した。1555年、壬生綱房が芳賀高定に謀殺されると宇都宮広綱勢との戦いに敗れ宇都宮城を奪還された。1576年、宇都宮広綱の意向を受け壬生綱雄を謀殺して鹿沼城主に任じされたが、壬生義雄に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

壬生綱雄【みぶつなお(1517~1576)】

壬生綱房の男。官途は下総介。1555年、父壬生綱房が死去すると、芳賀高定ら攻撃を受け宇都宮城から鹿沼城に退去した。その後、北条氏康勢に属して、終始反宇都宮広綱の態度を取りつづけたため、叔父壬生周良に鹿沼城で謀殺された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

壬生昌膳【みぶまさよし(15??~15??)】

壬生綱房の次男。日光山座禅院の権別当職に任じて日光山を支配した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

壬生義雄【みぶよしお(1552~1590)】

壬生綱雄の男。官途は上総介。通称彦五郎。別名壬生氏勝。1576年、「徳節斎の乱」で父壬生義雄が謀殺されたため、壬生周長勢と戦い戦功を挙げた。1579年、壬生周長を謀殺した。1585年、宇都宮国綱から離反して北条氏直勢に属した。1589年、「小田原の役」で北条氏直勢に属して参陣し、山中城の普請に協力しが、酒匂川において陣没した。継嗣なく、壬生家は断絶した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

南宗勝【みなみむねかつ(15??~15??)】

長尾景長家臣。名草館主。通称掃部之助。名草館300貫を領した。1590年、「足利城の戦い」で白石豊前守、大沼田淡路守、立木図書、市川右衛門、久米伊賀守、新井図書、小曾根筑前守、小沼正五郎、小菅縫殿助、江川左衛門、山川丹後守らとともに足利城に籠城したが羽柴秀吉勢の攻撃を受け降伏した。

麦倉民部丞【むぎくらみんぶのじょう(15??~15??)】 

宇都宮広綱家臣。九鬼館主。1576年、宇都宮広綱に属した。

武茂兼綱【むもかねつな(15??~1582)】

那須郡武茂城主。宇都宮正綱の三男。官途は右兵衛尉。通称弥五郎。1506年、北方の守りを固めるため、宇都宮成綱の意向を受け武茂城10,000石を領して武茂家を再興した。1512年、「宇都宮錯乱」で兄宇都宮成綱と戦ったが古河公方足利成の仲介で和議を結んだ。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

武茂守綱【むももりつな(15??~15??)】

武茂兼綱の男。1567年、「大崖山の戦い」で大山田綱胤、大金重宣、松野篤通、烏子泰宗、横田綱久、南路義郷、戸村義広、小場義忠、石川昭光らとともに佐竹義重の家臣長倉義当に従い那須資胤勢と戦い奇襲攻撃を受け敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

武茂周綱【むもかねつな(15??~16??)】

武茂兼綱の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

武茂堅綱【むもかたつな(15??~16??)】

武茂守綱の次男(武茂豊綱の養子)。官途は上野介。1563年、佐竹義昭から那須郡片平の所領を安堵された。1570年、「烏山大崖山の戦い」で佐竹義重に従い那須資晴、大山田隆崖勢と戦い戦功を挙げ那須郡大山田、田部田を領した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

武茂輝綱【むもてるつな(15??~15??)】

武茂堅綱の男。官途は右馬充。通称源五郎。1566年、父武茂堅綱とともに佐竹義重から起請文を送られた。1583年、「烏山河原の戦い」で佐竹義重、宇都宮国綱らとともに那須資晴勢と戦った。1592年、「文禄の役」で佐竹義宣に従い肥前名護屋城を守備した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

武茂安綱【むもやすつな(15??~15??)】

武茂堅綱の次男。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

武茂重綱【むもしげつな(15??~15??)】

武茂輝綱の男。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

武茂方綱【むもかたつな(15??~15??)】

武茂兼綱家臣。1570年、「烏山大崖山の戦い」で武茂堅綱に従い那須資胤勢と戦った。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

村石民部【むらいしみんぶ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

村松小兵衛【むらまつこへい(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

免鳥義昌【めんどりよしまさ(15??~1532)】

佐野盛綱家臣。安蘇郡免鳥館主。官途は山城守。1525年、佐野盛綱から免鳥館代に任じられた。参考文献:『戦国関東名将列伝』by島遼伍。

免鳥義房【めんどりよしふさ(15??~1532)】

免鳥義昌の男。官途は伊賀守。1532年、「免鳥館の戦い」で赤井勝光勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国関東名将列伝』by島遼伍。

茂木知行【もぎともゆき(14??~1499)】

芳賀郡茂木城主。茂木治時の男。1440年、「下総結城城の戦い」で上条清方に従い結城城に籠城する結城氏朝、結城持朝勢と戦った。1455年、「享徳の乱」で古河公方足利成氏を支援した継嗣の茂木持知と戦った。1466年、「茂木城の戦い」で古河公方足利成氏勢の那須持資、宇都宮明綱らの攻撃を受け降伏に追込まれた。参考文献:「水無瀬の部屋」by水無瀬優。

茂木持知【もてぎもちとも(14??~15??)】

茂木知行の男。官途は筑後守。1455年、「享徳の乱」で古河公方足利成氏を支援して父茂木知行勢と戦い足利成氏から那須郡山根の所領を安堵された。1490年、「常陸太田城の戦い」で佐竹義舜を支援して岩城由隆勢と戦い戦功を挙げ常陸野田を領した。1493年、「長倉義尚の乱」で佐竹義舜を支援して長倉義尚勢と戦い戦功を挙げ下野内山内、小深郷を領した。参考文献:「水無瀬の部屋」by水無瀬優。

茂木治重【もてぎはるしげ(15??~15??)】

茂木持知の男。官途は上総介。参考文献:「戦国大名探求」by播磨屋。

茂木治清【もてぎはるきよ(15??~1573)】

茂木治重の男。官途は筑後守。1539年、「烏山城の戦い」で佐竹義篤の家臣大山大膳亮に従い那須政資を支援して小田政治、宇都宮尚綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探求」by播磨屋。

茂木高久【もてぎたかひさ(15??~15??)】

茂木治重の次男。官途は周防守。参考文献:「戦国大名探求」by播磨屋。

茂木治秀【もてぎはるひで(15??~15??)】

茂木治重の三男。官途は安芸守。参考文献:「戦国大名探求」by播磨屋。

茂木治景【もてぎはるかげ(15??~15??)】

茂木治重の四男。官途は山城守。参考文献:「戦国大名探求」by播磨屋。

茂木治利【もてぎるとし(15??~1615)】

茂木治重の五男。官途は越前守。通称八郎。1577年、「関山館の戦い」で茂木治清に従い臼葉備中守勢と戦い戦功を挙げた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。参考文献:「戦国大名探求」by播磨屋。

茂木治房【もてぎるふさ(1562~1634)】

茂木治清の男。官途は上総介。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

茂木義範【もてぎよしのり(15??~1603)】

茂木治清の三男。官途は信濃守。通称十郎。1573年、「南摩の戦い」で佐竹義重に従い壬生義雄、北条氏政勢と戦い戦功を挙げた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封なるとそれに従ったがまもなく病没した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

茂木治良【もてぎはるよし(1562~1634)】

茂木治房の男。官途は筑後守。1586年、「新福寺の戦い」で七井忠兼を討取る戦功を挙げた。1587年、「佐夫良峠の戦い」で佐竹義宣の支援を受け益子勝宗、結城晴朝らを撃退した。1589年、「小田原の役」で佐竹義宣とともに羽柴秀吉に謁見して所領を安堵されたが、下野国衆の茂木治良、武茂豊綱、松野綱高は、諸侯ではなく佐竹義宣の家臣として位置付けられた。1592年、「文禄の役」で佐竹義宣に従い肥前名護屋城を守備した。1594年、常陸小川城へ転封された。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に減封になると、仙北郡横手城代を務めた。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

茂木義成【もてぎよしなり(15??~16??)】

茂木治良の男。参考文献:「水無瀬の部屋」by水無瀬優。

籾山出羽守【もみやまでわのかみ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

茂呂久重【もろひさしげ(15??~1590)】

藤岡清房家臣。官途は弾正忠。室は佐野泰綱の娘。藤岡清房の家老職を務めた。1577年、「藤岡館の戦い」で藤岡清房が佐野宗綱勢の攻撃を受け討死すると、藤岡館代に任じられた。北条氏直勢に内応して5,000石を領した。1590年、「藤岡館の戦い」で北条氏直に従い羽柴秀吉勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。

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【や】

矢板長則【やいたながのり(15??~1558)】

塩谷義孝家臣。官途は周防守。別名矢板前司。1558年、「第二次多功城の戦い」で塩谷義孝の意向を受け多功長朝に従い長尾景虎勢と戦い討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

八木岡貞家【やぎおかさだいえ(15??~1545)】

芳賀高定家臣。芳賀郡八木岡館主。八木岡館3,000石を領した。1545年、宇都宮尚綱の家臣中村玄角が水谷正村勢の攻撃を受け討死したため、芳賀高定の意向を受け水谷正村の久下田館を攻撃した。「久下田館の戦い」で水谷正村勢の邀撃され下山和泉守に討取られた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

薬師寺貞勝【やくしじさだかつ(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。河内郡薬師寺館主。官途は阿波守。薬師寺館4,000石を領した。1545年、「第二次喜連川城の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須資胤勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

薬師寺貞村【やくしじさだむら(15??~15??)】

薬師寺貞勝の男。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

薬師寺勝朝【やくしじかつとも(15??~15??)】

薬師寺貞村の男。1549年、「五月女坂の戦い」で父薬師寺勝朝に従い那須高資勢と戦い敗退した。1597年、宇都宮国綱が羽柴秀吉により改易処分に処せられると、所領を没収された。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

矢口筑前守【やぐちちくぜんのかみ(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「上野台の戦い」で宇都宮忠綱に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。「河原田の戦い」で宇都宮忠綱に従い皆川宗成勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

簗朝光【やなよもみつ(15??~1558)】

多功長朝家臣。河内郡簗館主。1558年、「第二次多功城の戦い」で多功長朝に従い長尾景虎勢と戦い佐野豊綱を討取る戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

簗吉朝【やなよしとも(15??~15??)】

簗朝光の男。弓矢の名手。1558年、「第二次多功城の戦い」で父簗朝光に従い長尾景虎勢と戦い戦功を挙げた。1572年、「第三次多功城の戦い」で北条氏政勢の攻撃を受けたが、先陣の松田左馬助を討取る戦功を挙げた。宇都宮国綱の支援を受け北条氏政勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

矢野九郎兵衛【やのくろうべい(15??~15??)】

長尾顕長家臣。1590年、「第四次足利城の戦い」で白石豊前守、大沼田淡路守、立木図書、市川右衛門、久米伊賀守、新井図書、小曾根筑前守、南掃部、小沼正五郎、小菅縫殿助、江川左衛門、山川丹後守らとともに足利城に籠城した。羽柴秀吉勢の攻撃に備え観音堂山を守備した。役後、長尾顕長が改易処分に処されたため、所領を失った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

矢野大膳亮【やのだいぜんりょう(15??~15??)】

大関高増家臣。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

山上照久【やまがみてるひさ(15??~15??)】

佐野泰綱家臣。官途は筑前守。別名山上道及。佐野家四天王。1555年、「上野山上館の戦い」で北条氏康勢の攻撃を受け足利長尾当長を頼り落延びた。その後、佐野泰綱に仕えた。1574年、「第五次唐沢山城の戦い」で佐野宗綱に従い長尾景虎勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1585年、「須花坂の戦い」で佐野宗綱が討死すると、北条氏康の六男佐野氏忠が佐野家を相続したため、佐野房綱とともに羽柴秀吉に仕えた。1589年、「小田原の役」で佐野房綱とともに旧臣を集め北条氏直勢と戦った。役後、戦功により佐野房綱が唐沢山城39,000石を復帰した。1598年、長尾景勝が会津黒川城1,200,000石を領すると、浪人衆として長尾景勝に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山河弥三郎【やまかわよさぶろう(15??~15??)】

小山成綱家臣。1560年、「第一次小田原城の戦い」長尾景虎勢が関東に侵攻すると小山秀綱に従い長尾景虎勢に属して北条氏康勢と戦った。参考文献:「箕輪城と上州戦国史」by箕輪初心。

山川左内【やまかわさない(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

山木雅楽之助【やまきうたのすけ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。1572年、「小俣城の戦い」で渋川義勝に従い長尾景虎勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

山口縫之助【やまぐちぬいのすけ(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

山口播磨守【やまぐちはりまのかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

山口常信【やまぐちつねのぶ(15??~1631)】

日光山門徒衆。通称忠兵衛。1620年、天海に招かれ日光山御宮御用と日光在街及び日光領の支配を職務とする日光目代に任じられた。1624年、御門跡領から300石の加増を受け500石を領した。参考文献:「栃木県人物風土記」by作者不明。

山下内記【やましたないき(15??~15??)】
 
長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

山田寛業【やまだひろなり(15??~15??)】
 
塩谷義孝家臣。塩谷郡山田館主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山田業辰【やまだなりとき(1544~1585)】

山田寛業の男。官途は筑後守。1584年、塩谷義綱の意向を受け福原資孝を攻撃したが撃退された。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で宇都宮国綱勢の先陣として岡本氏宗、渋垂修理亮らとともに、那須資晴の家臣芦野資泰を討取る寸前まで追い込むも、芦野資泰家臣神田次郎に討取られた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山田親業【やまだちかなり(15??~15??)】

山田業辰の男。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で父山田業辰が討死したため、山田家の家督を相続した。1595年、塩谷義綱が改易処分に処されたため、常陸国笠間で帰農した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山田資久【やまだすけひさ(14??~1514)】

那須資親の男。那須郡山田館主。通称次郎。別名那須資久。那須資親の継嗣として生まれたが、義兄の那須資永と上那須家の家督を巡って争った。1514年、「亀山館の戦い」で義兄の那須資永の家臣関義時勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

山田内蔵之助【やまだなぞうのすけ(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「上野台の戦い」で宇都宮忠綱に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

山田市十郎【やまだいちじゅうろう(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

柳田平内【やなだへいない(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

山田新左衛門【やまだしんざえもん(15??~1585)】

山田辰業家臣。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で山田辰業が討死すると、山田城は那須資晴勢の攻撃を受け落城した。山田辰業の内室(菊の前)と侍女たちを落延びさせるため、那須資晴勢と戦い討死を遂げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大和源左衛門【やまとげんざえもん(15??~1592)】

那須資晴家臣。堺八人衆。1590年、那須資晴が改易処分に処されると堺八人衆とともに成田泰親に仕えた。1592年、成田泰親の軍役を拒否したため、他の堺八人衆とともに謀殺された。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

山野井将監【やまのいしょうげん(14??~1491)】 

宇都宮忠綱家臣。太さ六寸、長さ九寸の樫の棒を使いこなす猛将。1491年、「上野台の戦い」で鹿沼綱勝勢の攻撃を受け宇都宮忠綱勢が劣勢にたたされると、鹿沼綱勝の馬の足をなぎ払い、落馬した鹿沼綱勝の頸を討取る戦功を挙げた。その直後、鹿沼綱勝の家臣襲田五郎左衛門尉の反撃を受け討取られた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

山野井将監【やまのいしょうげん(14??~15??)】

山野井将監の男(同名)。1523年、「上野台の戦い」で宇都宮忠綱に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

山本資宗【やまもとすけむね(15??~1533)】

塩谷郡鳩ヶ森館主。官途は伊勢守。1533年、「鳩ヶ森館の戦い」で大田原資清勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

山本義宗【やまもとよしむね(15??~15??)】

山本資宗の男。官途は上総介。1564年、「川崎城の戦い」で塩谷義孝が塩谷孝信勢と戦い討死すると、塩谷義綱、大沢康勝らを宇都野館に匿った。

山本喜恩【やまもときおん(15??~15??)】

山本資宗家臣。嶽山別当職。1533年、「鳩ヶ森館の戦い」で大田原資清勢の攻撃を受け山本資宗が討死すると、嶽山寺領70石を領して嶽山別当職を務めた。
参考文献:『戦国 下野落城物語(喜連川城の妖怪)』by島遼伍。

山本文蔵【やまもとぶんぞう(15??~15??)】

皆川宗成家臣。1523年、「河原田の戦い」で皆川宗成に従い宇都宮忠綱勢と戦い皆川宗成が討死して敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

遊城坊綱清【ゆうじょうぼうつなきよ(15??~15??)】

宇都宮成綱家臣。都賀郡板橋館主。板橋郷、栗山郷を領した。天文年間(1532年~1555年)、「板橋館の戦い」で板橋親棟勢の攻撃を受け討死した。板橋城主。参考文献:『戦国 下野落城物語(鹿沼城落城悲話)』by島遼伍。

油井利宗【ゆいとしむね(14??~15??)】

塩谷孝綱家臣。塩谷郡油井館。官途は筑後守。1509年、那須資房と結び大貫増長、印南修理進らとともに、謀反を企てるが、塩谷孝綱に露見して失敗に終わった。塩谷孝綱は二度と謀反を起こさないよう起請文を書かせ、木幡神社に奉納させこれを許した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

湯沢内記【ゆざわないき(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

湯沢越前守【ゆざわえちぜんのかみ(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

湯沢藤八郎【ゆざわとうはち(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

湯島七内【ゆしましちない(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

横倉藤蔵【よこくらふじくら(15??~1585)】

小山秀綱家臣。都賀郡横倉館主。猛将。1585年、「土塔の原の戦い」で宇都宮国綱勢と戦い誉田伊予守から狙撃され討死した。横倉藤蔵が討死したため、小山秀綱勢は退却した。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

横倉伊豆守【よこくらいずのかみ(15??~15??)】

皆川俊宗家臣。1564年、「第二次榎本城の戦い」で皆川俊宗に従い榎本高綱勢と戦い戦功を挙げた。

横田綱邑【よこたつなむら(14??~15??)】

宇都宮興綱家臣。河内郡横田館主。横田綱英の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

横田綱維【よこたこうゆい(15??~1549)】

横田綱邑の男。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

横田維業【よこたゆいのり(15??~1549)】

横田綱邑の次男。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

横田弥業【よこたよいのり(15??~1549)】

横田綱邑の三男。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

横田茂業【よこたよししげ(15??~1549)】

横田綱邑の四男。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

横田業通【よこたしげみち(15??~1549)】

横田綱邑の五男。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

横田綱久【よこたつひさ(15??~15??)】

横田綱邑の六男。1549年、「五月女坂の戦い」で兄の横田綱維らが宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い討死したため、横田家の家督を相続した。1567年、「那須大崖山の戦い」で大山田綱胤、大金重宣、松野篤通、武茂守綱、烏子泰宗、南路義郷、戸村義広、小場義忠、石川昭光らとともに佐竹義重の家臣長倉義当に従い那須資胤勢と戦い奇襲攻撃を受け敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

横手繁世【よこてしげよ(14??~15??)】

壬生綱重家臣。鹿沼郡日向館主。官途は刑部少輔。別名一伯。1509年、連歌師の柴屋宗長が訪すると壬生綱房とともに唄会に列席した。参考文献:『戦国関東名将列伝(北辺の梟雄)』by島遼伍。

吉田安政【よしだやすまさ(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。1549年、「五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

芳野加右衛門【よしのかえもん(15??~15??)】

長尾顕長家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

吉村丹波守【よしむらたんばのかみ(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

和気業綱【わきしげつな(15??~15??)】

宇都宮尚綱家臣。河内郡寺島館主。和気業綱の男。官途は肥前守。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

和気綱重【わきつなしげ(15??~15??)】

和気業綱の男。官途は筑前守。通称源五郎。別名山崎大学助。1585年、「薄葉ヶ原の戦い」で宇都宮国綱に従い那須資晴勢と戦い戦功を挙げた。1596年、宇都宮国綱が改易処分に処されると帰農した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

和気重秀【わきしげさと(15??~16??)】

和気綱則の男。通称彦一郎。室は大嶋采女の娘。継室は石末村治郎左衛門の娘。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

和気越前守【わきえちぜんのかみ(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。1523年、「上野台の戦い」で宇都宮忠綱に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

和久又右衛門【わくまたえもん(15??~1592)】

那須資晴家臣。堺八人衆。1590年、那須資晴が改易処分に処されると堺八人衆とともに成田泰親に仕えた。1592年、成田泰親の軍役を拒否したため、他の堺八人衆とともに謀殺された。参考文献:「下野の歴史」byminaka藤太。

和田三郎兵衛【わださぶろびょうえ(15??~15??)】

渋川義勝家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

和田兵庫【わだひょうご(15??~1587)】

久我利綱家臣。久我家一七騎衆。1587年、「第二次久我館の戦い」で皆川広照勢の攻撃を受け久我利綱とともに討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

加園渡辺綱利【わたなべつなとし(15??~15??)】

宇都宮忠綱家臣。都賀郡加園館主。渡辺家綱の男。通称右衛門尉。1523年、「河原田の戦い」で宇都宮忠綱に従い皆川宗成勢と戦ったが、皆川宗成勢の小山高朝、結城政勝が加園館、南摩館を攻撃したため降伏に追込まれた。「鹿沼城の戦い」で壬生綱房に従い鹿沼綱勝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「古城めぐり」byアテンザ23Z。

加園渡辺忠之【わたなべただゆき(15??~1561)】

渡辺綱利の男。通称右衛門尉。1561年、「碓氷峠の戦い」で長尾景虎勢に属した小山秀綱に従い北条氏康勢と戦い討死した。

加園渡辺綱由【わたなべつなよし(1510~15??)】

渡辺家綱の次男。通称兵部左衛門。1574年、「粟志川の戦い」後、皆川広照に属した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

加園渡辺綱輝【わたなべつなてる(15??~15??)】

渡辺綱利の男。通称八郎兵衛。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

加園渡辺綱春【わたなべつなはる(1550~15??)】 

渡辺綱輝の男。通称忠太左衛門。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

堀之内渡辺信濃守【わたなべ しなの(1514~1589)】

塩谷義孝家臣。塩谷郡堀之内館主。1589年、「堀之内館の戦い」で那須資晴勢の攻撃を受け自刃した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

稲葉渡辺内膳亮【わたなべないぜんのすけ(15??~15??)】

小山秀綱家臣。都賀郡稲葉館主。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

渡辺筑後守【わたなべちくごのかみ(15??~15??)】

小山秀綱家臣。参考文献:『歴史と旅(戦国大名家臣団総覧)』by秋田書店。

渡辺治部【わたなべじぶ(15??~15??)】

鹿沼綱勝家臣。1523年、「上野台の戦い」で鹿沼綱勝に従い宇都宮忠綱勢と戦い鹿沼綱勝が討死したため敗退した。戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。

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【資料Ⅰ】

下野国(12郡/480,000石)

足利郡:足利城、矢場館、樺崎寺
佐野郡:阿曾沼城、椿田城、赤見城、安蘇街、惣宗寺。
梁田郡:
安蘇郡:唐沢山城。
上都賀郡:鹿沼城、猪倉館、真名子館、足尾鉱山、二荒山寺社、中禅寺。
下都賀郡:小山城、壬生城、皆川城、榎本館、寒川街、大神寺社。
寒川郡:小山城。
河内郡:宇都宮城、岡本館、多気山城、多功城、清巌寺。
芳賀郡:芳賀城、御前城、八木岡館、千本館、茂木城、祖母井館、西明寺社。
塩谷郡:喜連川館、沢村館、玉生館、龍光寺。
那須郡:烏山城、大田原館、黒羽城、福原館、雲巌寺。

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【資料Ⅱ】

大須賀党【おおすがとう】

大宮任増、祖母井定久、君島高胤、風見胤安、平石勝忠。大須賀嗣胤を祖とする武士団。

上郷衆【かみごうしゅう】

飯岡知貞、上平勝重、金枝光任、糟谷政武、小宅高祐、鈴木重康。宇都宮国綱直属の家臣団。

紀清両党【きせいりょうとう】

下野国一宮二荒山神社に奉仕した紀家、清原家の子孫。鎌倉~南北朝期、同神社座主宇都宮氏に従属して活躍した武士団。

久我家一七騎衆【くがけじゅうななきしゅう】

小曾根筑後守、小林淡路守、吉村丹波守、福田丹後守、湯沢内記、野尻伊豆守、桂塚刑部、大橋筑後守、新井右近、田子由好、木戸四郎、和田兵庫、栗沢六郎、破治賀大学、北佐源太左衛門、寺内庄太夫、坂本左近。

堺八人衆【さかいはちにんしゅう】

大谷又五郎、大久保民部、荻野目玄蕃、秋元越前守、五味淵豊前守、客和伊豆守、大和源左衛門、和久又右衛門。

佐野家四天王【さのけしてんのう】

山上照久、大貫武重、津布久弾正、竹沢山城守。佐野昌綱の家臣団。

那須七騎衆【なすななきしゅう】

芦野盛泰、伊王野資信、大関高増、大田原晴清、千本義貴、那須資晴、福原資孝。那須資晴の家臣団。

壬生家四天王【みぶけしてんのう】

合羽吉房、福田対馬守、三上大膳亮、大垣隠岐守。

横田五兄弟【よこたごきょうだい】

横田綱維、横田維業、横田弥業、横田茂業、横田業通。

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【資料Ⅲ】

下野国【しもつけのくに】

北関東の中央に位置する東山道の国。東は八溝山地を境として常陸国に接し、西は白根山、皇海山などの高峰から足尾山地にかけての山陵に沿って上野国と国境を分ける。南は関東平野で上野国、武蔵国、下総国と結び、北は那須岳を北限として山岳地帯で陸奥国に接している。関東と東北を結ぶ東山道の要衝の地であり、古くは上野国とともに毛国を構成していたが、後に上毛国、下毛国に分けられ、さらに上野国、下野国と改められた。東の八溝山地と西の日光山系に挟まれた平野部には、那珂川、鬼怒川、思川、渡良瀬川の各水系が縦横に流れ、農業用水や水路として利用されているため、農業生産力は高い。また、足利には坂東の大学と呼ばれた足利学校が存在し、文化的にも高い水準を持っていた。

足尾鉱山【あしおこうざん】

上都賀郡の鉱山。1550年、鉱山が発見された。本格的に採掘が開始されたのは江戸前期。足尾銅山は「足尾千軒」と称されるほど発展した。最大で年間1,200トンもの銅を産出した。

足利学校【あしかがかっこう】

鎌倉時代に創設された高等教育機関。上杉憲実は衰退した足利学校の再興に尽力し、鎌倉円覚寺の僧快元を能化に招いたり、蔵書を寄贈したりした。日本各地から、多くの門下が集まった。1447年、上杉憲実は足利学校に対して三ヶ条の規定を定め、足利学校で教えるべき学問は三註、四書、六経、列子、荘子、史記、文選のみと限定し、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきとした。教育の中心は儒学であったが、快元が『易経』のみならず実際の易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えた。1530年、火災により衰微したが、九華が北条氏政の保護を受けて足利学校を再興し、門下は3,000余りを数えた。1589年、「小田原の役」後、庇護者であった北条氏直、長尾顕長が滅亡し所領も失い衰退した。

庠主【しょうしゅ】

足利学校の責任者の職名。

白河関【しらかわのせき】

鼠ヶ関、勿来関とともに、奥州三関の数えられる関所。都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門。

中禅寺湖【ちゅうぜんじこ】

日本の湖沼では二十五番目の面積規模を有する湖。二万年前に男体山の噴火でできた堰止湖。人造湖を除く広さ4km2以上の湖としては、日本一標高の高い場所にある湖。湖のすぐ北には男体山がそびえ、北西には戦場ヶ原が広がる。

中禅寺【ちゅうぜんじ】

上都賀郡中禅寺湖畔、歌ヶ浜にある天台宗の寺院。日光山輪王寺の別院。坂東三十三観音霊場の第十八番。784年、日光山の開祖である勝道上人が船で湖を遊覧していた際に、湖上に千手観音の姿を感得し、桂の木に立木のまま千手観音像を刻んだ。この「立木千手観世音菩薩」を本尊として、中禅寺が開かれた。

日光山輪王寺【にっこうさんりんのうじ】

上都賀郡にある寺院で天台宗の門跡寺院。輪王寺は壬生綱房の謀略によって壬生綱房勢に属した。1589年、「小田原の役」で北条氏直勢に属したため、寺領を没収され衰退した。

日光三山【にっこうさんざん】

日光連山のうち、男体山(2,486m)、女峯山(2,464m)、太郎山(2,368m)の三山を指す。それぞれに新宮権現、滝尾権現、本宮権現の三社が祭祀されている。鎌倉時代には、これら三社をまとめて日光権現と称していた。

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戦国人名辞典は、1467年、「応仁の乱」から1637年、「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

栴岳承芳は今川義元、玄広恵探は今川良真、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、徳川家康は松平元康、木下藤吉郎は羽柴秀吉、豊臣秀頼は羽柴秀頼、天徳寺宝衍(了白)は佐野房綱、壬生徳節斎は壬生周長に統一しました。

城と館の違いは、城は10,000石以上の領主の居城。館、砦は9,999石以下の領主の居城としました。館と砦の違いは平地にある場合は館、山岳地帯、諸島にある場合は砦としてました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版、『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版、『全国国衆ガイド(戦国の”地元の殿様”たち)』by星海社新書、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国下野落城物語』by島遼伍、『下野の動乱(悲運の戦国武将たち)』by下野新聞社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」、「下野の歴史」byminaka藤太、「美須麻流之珠」by立花利康、「下野戦国争乱記」by上澤光綱、「古城めぐり」byアテンザ23Z。

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