2011年8月25日木曜日

戦国北常陸国人名辞典

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【あ】

赤須常通【あかすつねみち(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。佐都郡赤須館主。赤須家惣領職。官途は信濃守。1517年、佐都神社奉加帳には、赤須家の筆頭として連署した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

赤須勝通【あかすつねみち(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。官途は若狭守。佐都西郡佐都神社神主。1517年、佐都神社の造営で願主となり奉加奉納した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

赤須武通【あかすたけみち(15??~15??)】

赤須勝通の男。通称主殿助。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

赤須通脩【あかすみちなが(15??~15??)】

赤須武通の男。官途は治部少輔。小野崎義昌の附家老職を務めつた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

赤須新三郎【あかずしんざぶろう(15??~15??)】

北義憲家臣。1591年、北義憲に従って磐城国南郷に転封して8貫文の加増を受けた。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

足崎通定【あしさきみちさだ(15??~15??)】

那珂郡多足崎城主。通称又五郎。1590年、「多良崎城の戦い」で佐竹義宣勢の攻撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

芦原出雲守【あしはらいずみのかみ(14??~15??)】

佐竹義舜家臣。1511年、太田馬場八幡宮造営の番匠(大工)の棟梁を務めた。佐竹義舜から出雲守の官途を与えられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安島清広【あじましきよひろ(15??~15??)】

東義久家臣。官途は美濃守。1584年、東義久から美濃守の官途を受けた。1595年、和田昭為、人見藤道の連署により、高野郡赤館城の北、堤の内に25石、城の南、手沢に25石を与えられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安島清正【あじましきよまさ(1585~16??)】

安島清広の男。官途は采女佑。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足立通義【あだちみちよし(15??~15??)】

那珂郡多良崎城主。通称五郎左衛門。1590年、「多良崎城の戦い」で佐竹義宣勢の攻撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

荒巻秀家【あらまきひでいえ(15??~15??)】

南義尚家臣。官途は豊後守。1549年、「喜連川五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱が那須高資を攻撃すると、南義尚に従って継嗣の荒巻為秀とともに那須高資を支援した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

荒巻為秀【あらまきためひで(15??~15??)】

荒巻秀家の男。官途は駿河守。別名荒巻為縄。1549年、「喜連川五月女坂の戦い」では、宇都宮尚綱勢の攻撃を受けた那須高資を支援するため、父荒巻秀家とともに参陣した。1573年、依上保黒沢村の下野宮の造営奉行を務めた。1583年、南義種から所領の加増を受けた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

荒巻秀道【あらまきひでみち(15??~15??)】

小祝式部の男(荒巻為秀の養子)。官途は掃部助。室は荒巻為秀の娘。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に減封になると、南義種に従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安藤将右【あんどうまさすけ(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。安藤右京の男。通称左京亮。1502年、「太田城の戦い」では、佐竹義舜に従い太田城を守る山入氏義勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安藤頼右【あんどうよりすけ(15??~15??)】 

安藤将右の男。官途は備前守。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

安藤飛騨守【あんどうひだのかみ(15??~15??)】

安藤頼右の男。通称太郎左衛門。1564年、佐竹義昭から常陸国内で70貫の加増を受けた。佐竹義重の意向を受けり陸奥羽黒城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安藤肥前守【あんどうひぜんのかみ(15??~15??)】

安藤飛騨守の男。官途は左馬助。通称新二郎。1578年、東義久に従って陸奥南郷方面で戦功を挙げた。1589年、「磐城人取橋の戦い」で伊達政宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

石井和泉守【いしいいずみのかみ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。石井和泉守の男。通称修理丞。鋳物師の棟梁を務めた。1522年、佐竹義篤から修理介の官途を受けた。1564年、「常陸府中城の戦い」に参陣して戦功を挙げ佐竹義昭から100貫文を加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井修理亮【いしいしゅりのすけ(15??~15??)】

石井和泉守の男。通称弥七郎。鋳物師の棟梁を務めた。佐竹義宣から200石の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井清定【いしいきよさだ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。官途は豊前守。通称六郎。1554年、足利晴氏の支援要請を、佐竹義昭に取り次いだ。奥州口の依上保付近の支配機構を司った。1567年、佐竹義昭の冥福を祈願して極楽寺を建立した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井大蔵【いしいおおくら(15??~15??)】

石井清定の男。1595年、佐竹義宣から茨城郡内平須で121石の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井景治【いしいかげはる(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。通称蔵人佐。1511年、「下野那須口の戦い」で宇都宮忠綱勢と戦い負傷しながらも戦功を挙げた。南義隣に仕えた。依上保河山で12貫文の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井新蔵人【いしいくらんど(15??~15??)】

石井景治の孫。通称又三郎。小倉左馬助を代官として佐竹義重に仕えた。東義久に従って磐城南郷方面で活躍した。1589年、「磐城太平城の戦い」で伊達政宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井監物【いしいけんもつ(15??~15??)】

石井縫殿助の男。1536年、佐竹義篤から依上保内久野瀬で加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井豊後守【いしいぶんごのかみ(15??~15??)】

石井監物の男。通称十郎。赤坂大和守が内応すると、東義久から人質として赤坂大和守のもとに送られた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井三郎兵衛【いしいさぶりょうびょうえ(14??~15??)】

佐竹義舜家臣。1516年、石井縫殿助らとともに依上保内の月居城の在番を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井宮内少輔【いしいくないしょうゆ(15??~16??)】

佐竹義重家臣。1595年、磐城南郷の伊香で45石を加増されれた。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、北義憲に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井縫殿助【いしいぬいどのすけ(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。通称源次郎。1512年、佐竹義舜から依上保高柴の宿場を与えれた。1516年、「下野那須口の戦い」で佐竹義舜に従って参陣して宇都宮忠綱勢勢と戦い戦功を挙げた。1524年、佐竹義篤から依上保高柴の所領を安堵された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井六郎兵衛【いしいろくろうびょうえ(15??~15??)】

山入氏義家臣。1502年、山入氏義が佐竹義舜に滅ぼされると、佐竹義舜に仕えた。1511年、「依上保の戦い」では、佐竹義舜に従って参陣して戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石沢河内介【いしざわかわちのすけ(14??~15??)】

北義武家臣。四殿衆。1478年、北義武が久米城主に任じられると、附家老職(四殿衆)を務めた。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石塚義胤【いしづかよしたね(14??~1514)】

那珂郡石塚城主。石塚義親の男。官途は大膳亮。室は佐竹義治の娘。1514年、「土塔原のの戦い」で宇都宮忠綱勢との戦いで討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石塚義辰【いしづかよしとき(15??~15??)】

小場義宗の次男(石塚義慶の養子)。官途は大膳亮。通称源一郎。室は石塚義慶の娘。石塚義慶に継嗣がなかったので娘婿となり石塚家の家督を相続した。1575年、大山義則と対立するが、佐竹義重の仲介で和議を結んだ。1595年、佐竹義宣より新治郡に3,800石余りの蔵入地を預けられ、片野城に在番した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石橋大和守【いしばしやまとのかみ(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。1511年、太田馬場八幡宮造営の番匠(大工)の棟梁を務めた。佐竹義舜から大和守の官途を与えられた。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石橋豊後守【いしばしぶんごのかみ(15??~15??)】

石橋大和守の男。番匠(大工の棟梁)を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石橋図書助【いしばずしょのすけ(15??~15??)】

石橋豊後守の男。番匠(大工の棟梁)を務めた。1559年、佐竹義昭から図書助の官途を与えれた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石橋左馬助【いしばしさまのすけ(15??~15??)】

石橋図書助の男。番匠(大工の棟梁を務めた。1577年、八幡宮造営に功を上げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

糸井駿河守【いといするがのか(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1588年、「第二次府中の戦い」で大掾清幹勢との戦い戦功を挙げた。1595年、依上保内で150石を領した。1602年、佐竹義宣の羽後久保田城への転封に従った。

糸井摂津守【いといせっつのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1583年、依上保の十二天社の造営を糸井八衛門、糸井五郎衛門とともに支援した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

糸井能登守【いといのとのかみ(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。1561年、佐竹義昭から磐城寺山城の在番の功を上げた。1595年、知行割替で依上保狐塚に50石を領した。 参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

伊藤新蔵人【いとうくらんど(15??~15??)】

伊藤河内守の男。1587年、佐竹義重から所領を安堵された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

井上信濃守【いのうえしなののかみ(15??~15??)】

東義家家臣。東義家に仕え南奥経営に活躍した。1589年、「上野新田の戦い」に参陣した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

今宮永義【いまみやながよし(15??~15??)】

佐竹義舜の男。佐都西郡今宮白羽社別当職を務め、関東修験者をまとめた。常陸国を中心に、北関東の修験者から信任があった。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

今宮光義【いまみやみつよし(15??~15??)】

今宮永義の男。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

今宮義通【いまみよしみち(15??~16??)】 

今宮光義の男。官途は摂津守。1581年、下野国に参陣していた佐竹義重に茶を送って労い、戦況報告を受けた。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後久保田城への転封に従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。
 
今宮義僚【いまみやよしとも(15??~16??)】

今宮光義の次男。官途は弾正忠。通称源三郎。1589年、「磐城野績の戦い」では、佐竹義重に従いに参陣した。1590年、磐城岡田館を領した。1602年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後久保田城に転封するとそれに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

今宮義堅【いまみやよしかた(15??~16??)】 

今宮義通の男。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、父今宮永義とともに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

宇垣伊賀守【うがきいがのかみ(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。もと宇喜多直家の家臣だたが弓矢に精通していたため、佐竹義昭に使えた。佐竹義宣から鉄砲衆50余りを預けれられた。1595年、知行割替で茨城郡島田内200石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

宇垣弥介【うがきやすけ(15??~16??)】

宇垣伊賀守の男。1589年、「磐城太平城の戦い」で伊達政宗勢と戦い戦功を挙げた。1595年、知行割替で茨城郡島田内100石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

牛丸重勝【うしまるしげかつ(15??~15??)】

佐竹義宣家臣。通称兵左衛門尉。佐竹義宣に仕えた。1595年、下野国芳賀郡小深村の検地帳に石田三成とともに連署した。1602年、佐竹義宣の意向を受け東北地方の銅山開発を手がけた。

牛丸久永【うしまるひさなが(15??~15??)】

佐竹義宣家臣。牛丸重勝の弟。通称市郎右衛門。安島采女の未亡人を内室に迎え、連れ子の安島信次を養育した。

牛丸久吉【うしまるひさよし(15??~15??)】

牛丸久永の男。通称伝次。1603年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。

梅津憲忠【うめづのりただ(1572~1630)】

佐竹義宣家臣。梅津道金の次男。通称半右衛門。別名「佐竹の鬼将軍」。1581年、父梅津道金が宇都宮広綱のもとから出奔して太田城下に移り住んだ。北義憲から扶持を受け学問を続け佐竹義宣の祐筆を務めた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると近習筆頭として300石を領した。弟の梅津政景、渋江政光らとともに林業、鉱業、農業を中心とする領国経営を立案して政策を実行した。1614年、「大坂冬の陣」で継嗣の梅津廉忠とともに参陣して戦功を挙げた。連歌や書道に造詣が深い教養人でもあり、佐竹義宣も鷹狩の帰り道に梅津憲忠の屋敷に立ち寄りともに歌や茶の湯に興じた。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

梅津廉忠【うめづかねただ(15??~16??)】

梅津憲忠の男。1614年、「大坂冬の陣」では、佐竹義宣に従い参陣して戦功を挙げた。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

梅津政景【うめづまさかげ(1581~1633)】

佐竹義宣家臣。梅津道金の三男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると兄梅津憲忠とともに佐竹義宣に仕え銀山奉行、惣山奉行、勘定奉行、街奉行、家老職などを務めた。銀山奉行として雄勝郡院内銀山の整備を行い銀の増産を行った。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した。兄梅津憲忠や小場宣忠とともに家政を担った。1633年、佐竹義宣が病没すると、病を押して佐竹義宣の葬儀の指揮取った。このため病状が悪化し、まもなく病没した。著書に『梅津政景日記』。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇留野義久【うるのよしひさ(14??~1539)】

那珂郡部垂城主。1539年、「第二次部垂城の戦い」では、家臣の大賀外記が内応して佐竹義篤勢を城内に引き込んだため、佐竹義篤勢に追い詰められ自刃した。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇留野義元【うるのよしもと(15??~1539)】

佐竹義舜の三男(宇留野義久の養子)。通称通称源五郎。1529年、「第一次部垂城の戦い」では、佐竹義篤の家臣小貫俊通が守る部垂城を攻落とした。佐竹義篤は、江戸忠通、小田治孝らと戦っていたため、宇留野義元の攻撃に対応することができかかった。1535年、高久義貞が宇留野義元に呼応して挙兵したが、すぐに鎮圧された。1538年、「第二次部垂城の戦い」では、家臣の大賀外記が内応して佐竹義篤勢を領内に引き込んだため、養父の宇留野義久、小場義実らとと自刃した。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇留野竹寿丸【うるのたけじゅまると(15??~1539)】

宇留野義元の男。1538年、「第二次部垂城の戦い」で佐竹義篤勢の攻撃受け、父宇留野義元が討死したため、落延びるが家臣の黒沢大学が裏切り謀殺された。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇留野義長【うるのよしなが(15??~15??)】

宇留野義久の男。1529年、「第一次部垂の乱」では、佐竹義篤勢に属して義兄宇留野義元らと戦った。宇留野義元勢の父宇留野義久、兄佐竹永義、小場義忠らは許され佐竹義篤に従った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇留野義光【うるのよしみつ(15??~1538)】

宇留野義長の男。通称源五郎。1538年、「第二次部垂城の戦い」で宇留野義元勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

江川弥右衛門尉【えがわやうえもんのじょう(15??~15??)】

東義久家臣。江川和泉守の男。1583年、東義久から官途を受けた。1590年、東義久が鹿島郡を領すると、これに従い5貫文を領した。1600年、辺田野で30石を加増された。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、東義賢に従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

江間重氏【えましげうじ(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。官途は対馬守。1569年、「府中城の戦い」で小田氏治勢と戦いで戦功を挙げた。1570年、佐竹義重の取次役を務め、武田晴信や長尾景虎と書面を交わした。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

江間堅清【えまかたきよ(1548~1630)】

江間重氏の男。官途は丹波守。通称藤五郎。1569年、「府中城の戦い」で小田氏治と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大内広重【おおうちひろしげ(15??~15??)】

佐竹義宣家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大賀外記【おおがげき(15??~15??)】

宇留野義久家臣。1539年、「第二次部垂城の戦い」で佐竹義篤勢に内応して佐竹義篤勢を部垂城内に引き入れた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大窪秀光【おおくぼひでみつ(15??~15??)】

東義喬家臣。官途は伊賀守。1569年、東義喬から10貫文の加増受けた。1574年、栃本郷を領した。1571年、東義喬領の桧沢の代官職を務めた。石川昭光、和田昭為との取次役を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大窪種光【おおくぼたねみつ(15??~15??)】

大窪秀光の男。官途は駿河守。1587年、南義種より偏諱を受けた。1589年、「上野国新田の戦い」では、南義種に従って参陣した。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封になるとそれに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大窪久光【おおくぼひさみつ(15??~1602)】

大窪種光の男。通称兵蔵。室は車斯忠の娘。1602年、佐竹義宣の羽後久保田城への転封に従わず、車斯忠、馬場政直とともに水戸城奪還を図るが失敗に終わった。捕縛され斬頸に処された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大窪伊勢守【おおくぼいせのかみ(15??~15??)】

東義喬家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大窪三河守【おおくぼみかわのかみ(15??~15??)】

大窪伊勢守の男。東義久の意向を受け滑津城代の船尾昭直に従った。1590年、伊達政宗家臣の石川昭光勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大高重之【おおたかしげゆき(15??~15??)】

佐竹義重家臣。湯綱城主。通称新左衛門。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚行成【おおつかいくなり(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。多賀郡龍子山城主。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚政成【おおつかまさなり(15??~15??)】

大塚行成の男。官途は信濃守。1552年、佐竹義昭に転じた。1558年、岩城重隆、佐竹義昭の和議を成立させるなど、両家の狭間にあってその関係改善に尽力した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚隆成【おおつかたかなり(15??~15??)】 

大塚成貞の男(大塚政成の養子)。官途は信濃守。通称掃部助。那珂郡菅俣城主だが、惣領家の大塚政成から大塚家の家督を譲られ、龍子山城主となった。佐竹義昭に仕えたが、岩城重隆に転じた。1562年、隠居して家督を大塚隆成に譲った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚親成【おおつかちかなり(15??~15??)】

大塚隆成の男。官途は信濃守。1568年、岩城重隆に属して佐竹義重と争うが、岩城重隆と佐竹義重が和議を結ぶと佐竹義重勢に属した。その後、岩城貞隆の附家老職に任じられた。1592年、「文禄の役」では、岩城貞隆、佐竹義宣らに従って参陣して肥前名護屋を守備した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚隆通【おおつかたかみち(15??~15??)】

大塚親成の男。官途は掃部助。父大塚親成とともに佐竹義重に仕えた。1585年、「磐城人取橋の戦い」で佐竹義重に従って参陣した。1590年、岩城貞隆勢に属してた。1592年、「文禄の役」では、岩城貞隆に従って肥前名護屋城を守備した。1595年、岩城貞隆の後見役を務める、北義憲の知行割替で磐城国楢葉郡折木に転封した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚綱久【おおつかつなひさ(15??~1541)】

佐竹義舜家臣。官途は掃部助。1505年、佐竹義舜から離反して白河結城顕頼に属して羽黒山城代に任じられた。1541年、「東館の戦い」では、斑目広基に従って東館城を守備したが、佐竹義篤勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚吉久【おおつかよしひさ(15??~15??)】

大塚綱久の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚為久【おおつかためひさ(15??~1578)】

大塚綱久の次男。1564年、「羽黒山城の戦い」で佐竹義重勢の攻撃を受け落城した。1578年、「磐城浅川城の戦い」で石川昭光勢と戦い弓で射られ討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚成貞【おおつかなりさだ(14??~15??)】

大塚頼成の男。官途は伊勢守。1485年、「車城の戦い」で岩城常陸勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:「松岡の歴史」by根本伊弘。

大塚大膳亮【おおつかだいぜんのすけ(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。1563年、大檀家となり依上保の十二天社の造営を行った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚資台【おおつかすけだい(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。官途は出雲守。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚弾正忠【おおつかだんじょうちゅう(15??~16??)】

大塚資台の男。1582年、佐竹義重から出雲守の官途を受けた。1600年、佐竹義宣の意向を受け槍衆100余りを率いた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大縄玄策【おおなわげんさく(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1585年、佐竹義重の使者として羽柴秀吉のもとに赴いた。1590年、東義久に従った。1591年、東義久から鹿島郡に10貫文の知行を受けた。1595年、知行割替では茨城郡に50石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大縄源十郎【おおなわげんじゅうろう(15??~15??)】

大縄玄策の男。1592年、「文禄の役」では佐竹義宣に従って肥前名護屋城に在陣した。1595年、知行割替で茨城郡に150石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣の羽後久保田城の転封には従わず、常陸国で帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大縄左京亮【おおなわさきょうのすけ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。大縄家惣領職。奥七郡の支城で在番を務めた。1557年、甲神社奉加帳では、100文を奉加した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大縄義辰【おおなわよしとき(15??~15??)】

大縄左京亮の男。官途は讃岐守。佐竹義重の意向を受け、東義久勢に属して陸奥国南郷の支配役を務めた。1587年、佐竹義重の次男芦名義広の附家老職に任じられた。芦名家譜代衆と家政を巡って競い、芦名家中に分裂を生んだ。1589年、「岩代摺上原の戦い」で伊達政宗勢に、芦名盛重とともに常陸国に落延びた。1593年、「文禄の役」で、佐竹義宣に従って肥前名護屋を守備した。1594年、水戸城の普請奉行職を務め2,056石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大縄与七郎【おおなわよしろう(15??~15??)】

大縄義辰の男。1587年、佐竹義重の次男芦名義広の附家老職に任じられ父大縄義辰とともに従った。1589年、「岩代摺上原の戦い」で伊達政宗勢に、芦名盛重とともに常陸国に落延びた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大縄与一左衛門【おおなわよいちさえもん(15??~15??)】

佐竹義宣家臣。1595年、茨城郡青柳内で100石を領した。茨城郡中河内内で529石を代官職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義成【おおやまよしなり(14??~15??)】

那珂郡大山城主。佐竹義治家臣。大山義長の男。官途は因幡守。1490年、「太田城の戦い」で山入義藤、山入氏義に追われた佐竹義舜を孫根城に匿った。1500年、「孫根城の戦い」で山入義藤勢の攻撃を受けた佐竹義舜を支援して金砂山城に脱出させた。1504年、「太田城の戦い」では、岩城常隆とともに佐竹義舜を支援して山入義藤を太田城から追落した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義保【おおやまよしやす(14??~15??)】

大山義成の男。官途は因幡守。佐竹義舜の病没後、幼年の佐竹義篤を補佐した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義在【おおやまよしあり(1515~1576)】

大山義保の男。官途は因幡守。通称孫次郎。1529年、「第一次部垂城の乱」では、佐竹義篤勢に属して宇留野義元と戦い戦功を挙げた。佐竹義昭に起請文を提出して所領を安堵された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義近【おおやまよしちか(15??~15??)】

大山義保の次男。通称十郎。1564年、佐竹義昭に従って、兄大山義在とともに小田氏治と戦い戦功を挙げ小田領(坂田、田中、高岡、磯部)の四郷を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義景【おおやまよしかげ(1541~1610)】

大山義在の男。官途は因幡守。通称孫次郎。1588年、小場義成と所領を巡って争った。1590年、「奥州討伐」では、太田城の留守居役を務めた。1593年、「文禄の役」では、常陸江戸城留守居役を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義則【おおやまよしのり(1571~1637)】

大山義景の男。官途は因幡守。通称孫次郎。1576年、「頓化原で戦い」で小場義宗と所領争いを起こしたが、佐竹義重の仲介で和議を結んだ。1589年、「小田原の役」では、馬上44騎、歩卒220人の軍役を務めた。1593年、「文禄の役」では、岩城衆、菅谷衆らとともに大船一艘を充てられて渡海した。1595年、知行割替で本領召上の代わりに行方郡内で4,012石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封になるとそれに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義種【おおやまよしたね(15??~15??)】

大山義則の男。官途は隠岐守。1578年、小貫頼安、和田昭為らとともに船尾隆直、船尾昭直父子と起請文を取り交わした。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山重光【おおやましげみつ(15??~15??)】

大山義種の男。官途は釆女正。佐竹義重の側近を務めた。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って肥前名護屋城を守備した。1595年、茨城郡枝川の蔵入地614石の代官職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大和田重清【おおわだしげきよ(15??~1619)】

佐竹義重家臣。大和田新左衛門の男。官途は近江守。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に参陣した。1595年、知行割替では茨城郡内で200石を領した。久慈郡の蔵入地214石余を代官職を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、足軽鉄砲衆50余りを率いた。役後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大和田新左衛門尉【おおわだしんざえもんおじょう(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。1557年、甲神社に100文を奉加した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

岡本妙誉【おかもとみょうよ(14??~15??)】

佐竹義舜家臣。岡本道活の男。松岡館主。もともと岩城常隆の家臣だったが、佐竹義舜に転じた。佐竹義舜と山入氏義、江戸忠通、小野崎義昌、小山成長、三浦義同らとの取次役を務め、外交調整に尽力した。1509年、「永正の乱」で古河公方足利政氏と足利高基が争うと、佐竹義舜、岩城常隆を足利政氏勢に属させた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

岡本曾端【おかもとそうずい(1528~1583)】

岡本妙誉の男。僧籍にありながら側近として佐竹義篤に仕えた。娘を佐竹義篤に嫁がせ、枝連衆に準じて扱われた。足利義晴、足利義昭、細川藤孝、小田政治、岩城重隆、伊達稙宗、伊達晴宗、那須政資らの取次役を務め、父岡本曾端と同様に佐竹家の外交面で活躍し、佐竹義篤に代わり公的文書を発給した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

岡本禅哲【おかもとぜんてつ(1528~1583)】

岡本曾端の男。室は小山秀綱の娘。僧籍にありながら側近として佐竹義篤に仕えた。足利義晴、足利晴氏、岩城由隆、小山政長、那須高資、簗田晴助、武田晴信、白河結城晴綱らとの取次役を務めた。和歌の達人としても知られるほど教養にも長けていた。陸奥南郷の支配役を務め東義堅、東義喬を補佐した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

岡本顕逸【おかもとけんいつ(1559~1591)】

岡本禅哲の男。別名良哲。室は小野崎従通の娘。1574年、祖父岡本曾端にならって出家した。父岡本禅哲と同様伊達政宗らの取次役を務め外交面で活躍した。1590年、佐竹義重の三男岩城貞隆が岩城家に養嗣子として入ると、附家老として根本里行とともに岩城貞隆の補佐を務め、岩城家の政務を取り仕切った。しかし、間も無く病のために家督を岡本宣綱に譲って京都へ上り隠居まもなく没した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

岡本宣綱【おかもとのぶつな(1583~1649)】

岡本顕逸の男。通称蔵人。別名如哲。僧籍にあったが佐竹義宣の意向を受けて還俗し、その側近を務めた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。1615年、「大坂夏の陣」で佐竹義宣に従って参陣して戦功を挙げた。1631年、再び僧籍に戻った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小川大蔵丞【おがわおおくらのじょう(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1570年、佐竹義重から白河三森、小菅生二ヶ所の加増を約束された。1584年、「沼尻の戦い」で北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小川上総介【おがわかずさのすけ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。南義尚、東義喬、太田資正、芦名義広の取次役を務めた。1595年、知行割替で100石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小川大和守【おがわやまとのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1585年、愛宕社の遠鳥居を寄進した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小瀬義員【おぜよしかず(15??~15??)】

佐竹義重家臣。那珂郡小瀬館主。小瀬義栄の男。参考文献:「風雲戦国史」by播磨屋。

小瀬義春【おぜよしはる(15??~1590)】

小瀬義員の男。官途は中務大輔。通称三郎。1579年、「祗園城の戦い」で北条氏政勢の攻撃を受け佐竹義宣のもととに落延びた小山秀綱、小山政種から書状を送られた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小瀬義行【おぜよしゆき(15??~15??)】

小瀬義春の男。官途は越中守。1589年、「陸奥滑津城の戦い」で石川昭光勢と戦った。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田部政胤【おだべまさたね(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。官途は式部丞。1507年、「金砂山の戦い」で戦功を挙げ東野内、十郎内で領地を与えられた。

小田部胤家【おだべたねいえ(15??~15??)】

小田部政胤の次男。官途は美作守。参考文献:「千葉氏の一族」byChibaIchizoku。

小田部重胤【おだべしげたね(1568~1590)】

小田部政胤の孫。官途は式部丞。1589年、「小田原の役」では、佐竹義宣に従って参陣したが、北条氏直勢と戦って討死した。参考文献:「千葉氏の一族」byChibaIchizoku。

小田部里胤【おだべたねいえ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は弾正忠。通称五郎左衛門。1571年、佐竹義重の意向を受け白河結城義顕のもとに出奔し和田昭為の子、和田為綱、和田彦十郎、和田為藤を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉氏の一族」byChibaIchizoku。

小田野義安【おだのよしやす(14??~1478)】

佐竹義治家臣。久慈郡頃藤城主。官途は中務大輔。1478年、「久米城の戦い」では、佐竹義治の意向を受け北義武とともに山入義知勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田野義村【おだのよしむら(15??~15??)】

小田野義安の男。官途は大和守。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田野義長【おだのよしなが(15??~15??)】

小瀬郡那珂城主。小田野義安の次男。官途は式部大輔。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田野義正【おだのよしまさ(15??~15??)】

小田野義長の男。官途は大和守。通称彦三郎。伯父小田野義村から小田野家惣領職を相続した。和田昭為とともに佐竹義昭と宇都宮広綱、芳賀高継、東義堅らとの取次役を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田野義房【おだのよしふさ(15??~15??)】

小田野義長の次男。官途は大和守。僧籍にあったが、兄小田野義正が病没したため、還俗して小田野家の家督を相続した。1559年、和田昭為とともに後藤七郎四郎への恩賞沙汰状に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田野義忠【おだのよしただ(15??~16??)】

小田野義房の男。官途は刑部少輔。通称彦三郎。別名小田野義定。佐竹義重に仕え芳賀高継、岩城常陸、白士隆貞との取次役を務めた。1581年、「上野新田の戦い」で北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。1595年、久慈郡深荻の蔵入地1,173石余を預けられた。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に参陣した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田野宣忠【おだののぶただ(15??~16??)】

小田野義忠の男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、父小田野義忠
とともに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小貫俊通【おぬきとしみち(15??~1529)】

佐竹義篤家臣。那珂郡部垂城主。小貫頼通の男。1529年、「宇留野義元の乱」で佐竹義篤と宇留野義元が争うと、宇留野義元勢の攻撃を受け討死した。

小貫伊賀守【おぬきいがのかみ(15??~15??)】 

小貫俊通の次男。官途は釆女正。通称彦八郎。1593年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って肥前国名護屋城を守備した。1595年、那珂郡の蔵入地2,700石余を預かった。

小貫右馬允【おぬきうめのじょう(15??~15??)】

小貫越後守の男。北家義斯の仕えた。1551年、「下野千本城の戦い」で那須高資勢に属して参陣して戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って参陣して肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小貫頼久【おぬきよりひさ(1544~1603)】

小貫頼俊の男。官途は佐渡守。通称清三郎。1569年、北条氏政と結んだ長尾景虎との取次役を務めた。1572年、佐竹義重と長尾景虎との和議をまとめた。1593年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って参陣して渡海した。1595年、佐竹義宣から知行割替で和田昭為、人見藤道ととに三奉行職に任じられた。1602年、佐竹義宣が出羽久保田城に転封すると、それに従ったがまもなく病没した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小貫頼重【おぬきうめのじょう(15??~1618)】

和田昭為の四男(小貫頼久の養子)。官途は大蔵。伏見城に登城した佐竹義宣の太刀を預かったが、退城時に太刀を返すことができず、佐竹義宣に捜させるという失態を犯した。1618年、自刃した。

小野岡義高【おのおかよしたか(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。那珂郡小野館主。官途は右衛門佐。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小野岡義雅【おのおかおしまさ(15??~15??)】

小野岡義高の男。官途は右衛門佐。通称与二郎。佐竹義昭に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小野岡義継【おのおかよしつぐ(15??~15??)】

小野岡義雅の男。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小野岡義綱【おのおかよしつな(15??~15??)】

小野岡義継の男。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山尾小野崎親通【おのざきちかみち(14??~15??)】

那珂郡山尾城主。官途は山城守。小野崎家惣領職。通称三郎。1490年、「太田城の戦い」で佐竹義舜が山入義藤に太田城を追われると、佐竹義舜領内の20ヶ所を押領した。1504年、「太田城の戦い」では、岩城常隆、江戸通雅とともに佐竹義舜の太田城奪還を支援した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山尾小野崎通載【おのざきみちさい(15??~15??)】 

小野崎親通の男。官途は山城守。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山尾小野崎成通【おのざきなりみち(15??~15??)】 

小野崎通載の男。官途は山城守。通称三郎。継嗣をもうけることができず、佐竹義篤の三男小野崎義昌を婿養子に迎え、小野崎家惣領職を譲った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山尾小野崎義昌【おのざきよしまさ(15??~1585)】 

佐竹義篤の次男(小野崎成通の養子)。官途は山城守。通称三郎。室は小野崎成通の娘。1564年、大掾慶幹が病没すると、兄佐竹義昭の意向を受け大掾家の家督を相続した。1566年、大掾家臣団が大掾貞国を擁立したため、府中城を追放された。病没した小野崎成通の娘婿となり小野崎家惣領職の家督を相続した。1585年、「磐城人取橋の戦い」で佐竹義重に従って参陣したが、従者により謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山尾小野崎宣政【おのざきのぶまさ(15??~1602)】

東義久の次男(小野崎義昌の養子)。小野崎家惣領職の家督を相続した。1590年、友部山尾城主に任じられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小野崎隆政【おのざきたかまさ(15??~15??)】

小野崎宣政の養子。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

山尾小野崎通景【おのざきみちかげ(15??~15??)】

北義斯家臣。官途は備前守。通称新蔵人。北義憲が岩城貞隆の附家老職に任じられると、それに従い岩城領内で200石を領した。

額田小野崎篤通【おのざきあつみち(15??~15??)】

那珂郡額田城主。別名小野崎盛通。1535年、「石神兵乱」で小野崎通長が謀反を起こすと、佐竹義篤の意向を受けこれを鎮圧した。1546年、小野崎通長と所領争いで江戸忠通の調停を受けたが失敗に終わった。参考文献:「埋もれた古城」by越後ノ丸。

額田小野崎従通【おのざきつぐみち(1559~1630)】

小野崎篤通の男。官途は下野守。通称彦三郎。1588年、「神生通朝の乱」では、神生通朝を支援して佐竹義重の支援を受けた江戸重通勢と戦った。1589年、江戸重通と和議を結ぶと佐竹義重に属した。「小田原の役」では、佐竹義宣に従って羽柴秀吉勢に参陣した。1591年、「額田城の戦い」で佐竹義宣勢の攻撃を受け伊達政宗を頼って落延びた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石神小野崎通綱【おのざきみちつな(14??~1489)】 

佐竹義治家臣。1489年、「太田城の戦い」で佐竹義治が伊達尚宗、芦名盛高、岩城重隆、結城政朝勢の攻撃を受けると、佐竹義治の身代わりとなり討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石神小野崎通老【おのざきみちおみ(14??~15??)】 

小野崎通綱の男。官途は越前守。通称三郎。1489年、「太田城の戦い」で父小野崎通綱が佐竹義治の身代わりとなり討死すると、その戦功により那珂郡河合350貫、石神350貫を領して石神城を築城した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石神小野崎通長【おのざきみちなが(15??~15??)】

小野崎通老の男。官途は大蔵大輔。通称三郎。別名石神通長。佐竹義篤に仕えた。1535年、「石神兵乱」で佐竹義篤に謀反を起こしたが、佐竹義篤の意向を受けた小野崎篤通勢の攻撃を受け降伏した。1546年、小野崎篤通と所領争いで江戸忠通の調停を受けたが失敗に終わった。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石神小野崎通隆【おのざきみちたか(15??~15??)】

小野崎通長の男。官途は越前守。通称三郎。1563年、太田城留守居役を務めた。

小幡義清【おばたよしきよ(15??~1532)】

那珂郡小幡館主。1532年、「小幡館の戦い」で江戸通泰勢の攻撃を受け討死した。

石神小野崎通実【いしがみみちざね(15??~15??)】

小野崎通隆の男。別名石神通実。1577年、「下野小山の戦い」で佐竹義重に従って参陣して結城晴朝を支援して北条氏政勢と戦った。

石神小野崎通信【いしがみみちのぶ(15??~1584)】

小野崎通実の男。別名石神通信。1584年、「府中城の戦い」で佐竹義重に従って参陣したが討死した。

石神小野崎通広【いしがみみちひろ(15??~16??)】

小野崎通信の男。別名石神通広。1595年、佐竹義宣から石神城900石を安堵された。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。

小場義実【おばよしざね(1483~1540)】

佐竹義篤家臣。小場義実の男(父同名)。官途は式部大輔。通称三郎。1490年、「太田城の戦い」では、佐竹義舜勢に属して小場義忠、前小屋義広らが討死した。1540年、「第二次部垂城の戦い」で佐竹義篤勢の攻撃を受け宇留野義元とともに戦い討死した。

小場義宗【おばよしむね(15??~16??)】

佐竹義昭の三男(小場義忠の養子)。官途は三河守。通称三郎。室は小場義忠の娘。1576年、「頓化原の戦い」で大山義則勢と戦ったが佐竹義重の仲介で和議を結んだ。小場義成が小田城に転封して、小場城には大山義喜の継嗣大山則宗が入った。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。

小場義成【おばよしなり(1569~1634)】

小場義宗の男。室は大塚信濃の娘(東義久の養女)。小田城に転封して50,000石を領した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、小田城50,000石から大館城5,000石に転封した。東義賢とともに檜山城を接収した。1603年、浅利家の残党が一揆を起こすと、その鎮圧で戦功を挙げた。1610年、大館城代に任じられ5,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、佐竹義宣に従って参陣した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、本荘城、滝沢城を接収する任を務めた。1629年、江戸城神田橋の石垣普請の奉行職を務めた。

小場義易【おはよしやす(1601~1658)】 

小場義成の男。通称は六郎。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。新田開発を行い新田8,000石余りを開墾した。父小場義成の家督を相続して大館城代を務めた。1658年、大館八幡神社を城外に移築した。

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【か】

掛札駿河守【かけふだするがのかみ(15??~1588)】

江戸重通家臣。那珂郡掛札館主。1588年、「神生通朝の乱」では、江戸重通に従って神生通朝勢と戦ったが、神生通朝を支援する小野崎従通勢の攻撃を受け討死した。

梶山肥後守【かじやまひごのかみ(15??~16??)】

小野岡義従家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、小野岡義従に従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柏隠岐守【かしわおきのかみ(15??~15??)】

東義久家臣。1560年、東義久の意向を受け使者として高部信濃守とともに赤坂朝光のもとに赴いた。

片岡二郎左衛門【かたおかじろうざえもん(14??~1491)】

佐竹義舜家臣。片岡但馬守の男。官途は監物。1490年、「常陸太田城の戦い」で山入義藤、山入氏義、長倉義久、天神林義益、宇留野義公勢の攻撃を受け孫根城に落延びた佐竹義舜に従った。佐竹義舜の使者を務めたが、凍傷を負い没した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

片岡源七郎【かたおかげんしちろう(15??~15??)】

片岡二郎左衛門の男。1524年、佐竹義舜から天神林の荒地を拝領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

片岡筑前守【かたおかちくぜんのかみ(15??~15??)】

片岡二郎左衛門の次男。1590年、「磐城滑津の戦い」で佐竹義宣に従って参陣して戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

片岡讃岐守【かたおかさぬきのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1570年、佐竹義重から依上保内の知行地を一代の領有を認められた。1572年、依上保内の知行地が大塚大膳亮に与えられたため、代替地の拝領を約束された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

片岡志摩守【かたおかしまのかみ(15??~15??)】

片岡讃岐守の男。官途は民部少輔。佐竹義宣に側近として仕えた。1583年、屋地普請奉行の監視役に任じられた。1595年、知行割替では知行200石を領した。蔵入地616石の管理を任された。1598年、那珂郡内で50石を加増された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

神長光勝【かみながみちかつ(15??~1659)】

佐竹義宣家臣。官途は対馬守。通称弥右衛門。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。1615年、「大坂夏の陣」では、佐竹義宣に従って参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

鴨志田若狭守【かもしだわかさのかみ(15??~15??)】

北義憲家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

鴨志田式部少輔【かもしだしきぶしょうゆう(15??~15??)】

鴨志田若狭守の男。1591年、北義憲から久慈郡藤田内で5貫文の所領を拝領した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従わず久慈郡小島で帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

河井堅忠【かわいかたただ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は備前守。1569年、佐竹義重の意向を受けて小貫頼久とともに使者として長尾景虎のもとに赴いた。1574年、長尾景虎との取次役を梶原政景とともに務め、長尾景虎のもとに赴き同盟を結んだ。1595年、那珂郡の蔵入地680石の代官職を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

河井忠遠【かわいただとお(15??~1603)】

河井堅忠の男。官途は伊勢守。1602年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が出羽国久保田城に転封すると、和田昭為とともに赴き安東実季から羽後湊城を受取った。佐竹義宣が梅津憲忠、梅津政景、渋江政光ら若手官僚を重用したことにより、譜代家臣の間には不満が広がった。小貫頼久が病没後、家老職に任じられた。和田昭為が隠居すると、佐竹義宣は渋江政光を家老職に登用しようとするが、川井忠遠は小泉籐四郎、野上刑部左衛門、小野玄蕃、大窪長介とともに渋江政光の謀殺を図ったが、逆に謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

河井甲斐守【かわいかいのかみ(15??~15??)】

東義久家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

河井右馬助【かわいうまのすけ(15??~15??)】

河井甲斐守の男。通称新九郎。1590年、人見藤通の寄騎衆に任じられた。1592年、佐竹義宣の検地に従わなかったため、所領を没収された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

河井与次郎【かわいじろう(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

川野辺朝行【かわのべともゆき(14??~15??)】

佐竹義治家臣。川野辺朝隆の男。官途は信濃守。1502年、「太田城の戦い」では、佐竹義舜に従い太田城を守る山入氏義勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

川野辺朝尚【かわのべともなお(15??~15??)】

川野辺朝行の男。通称主馬介。1539年、「第二次部垂城の戦い」では、佐竹義篤に従って宇留野義元勢と戦った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

川野辺重行【かわのべしげゆき(15??~15??)】

川野辺朝尚の男。通称内記。娘は小田野義敦に嫁いだ。1590年、「常陸江戸城の戦い」では、佐竹義宣に従って江戸重通勢と戦い戦功を挙げた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それには従わず久慈郡盛金邑で帰農した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

川野辺宣行【かわのべのぶゆき(15??~15??)】

川野辺重行の男。通称主税。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

川野辺四郎左衛門【かわのべしろうざえもん(15??~15??)】

川野辺重行の次男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

神部監物【かんべけんもつ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1570年、「磐城寺山城の戦い」で寺山城に籠城した戦功により佐竹義重から10貫文の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

菊池忠政【きくちただまさ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

菊池政勝【きくちまさかつ(15??~16??)】

菊池忠政の男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従い200石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

北義武【きたよしたけ(14??~1478)】

佐竹義治の次男。久慈郡久米城主。別名佐竹義武。1478年、「久米城の戦い」で山入義知勢の攻撃を受け討死した。弟の佐竹義信が養子として北家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

北義信【きたよしのぶ(1476~1533)】

佐竹義治の三男(北義武の養子)。官途は左衛門尉。通称又次郎。別名佐竹義信。太田城の北に館を構えた。1478年、「久米城の戦い」で兄佐竹義武が討死後、久米城主を務めた。佐竹義舜の病没後、弟の東政義とともに佐竹義篤を補佐した。1517年、佐竹義舜らとともに佐都神社に奉加した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

北義住【きたよしずみ(15??~1539)】

佐竹義信の男。1533年、父佐竹義信の病没により、北家の家督を相続した。佐竹義篤の補佐を務めた。1534年、佐竹義篤と宇留野義元が家督争いを起こすと佐竹義篤を支持して宇留野義元と戦った。1539年、「部垂城の戦い」で討死した。継嗣が無かったため、弟佐竹義廉が養子として北家の家督を相続した。

北義廉【きたよしかど(1516~1565)】

佐竹義信の次男。官途は左衛門督。通称又七郎。別名佐竹義兼。1539年、「部垂城の戦い」で兄北義住が討死したため、次男であった北義廉が北家の家督を相続した。佐竹義昭を補佐して東義堅、南義里らと国政に携わった。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

北義斯【きたよしこれ(1543~1582)】

北義廉の男。官途は左衛門督。通称又七郎。別名佐竹義斯。大掾慶幹、江戸重通、真壁重幹、茂木治良、松野資通、太田資正との取次役を務めた。1564年、佐竹義昭が小田氏治を小田城から追うと、小田城主に任じられた。1565年、小田氏治に小田城は奪還された。北義斯は太田城へ逃げかえった。1572年、佐竹義重と那須資胤の和議の交渉役を務め、那須資胤の娘と佐竹義宣の婚姻の約束を交わした。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

北義憲【きたよしのり(1570~1602)】

北義斯の男。官途は左衛門督。通称又七郎。別名佐竹義憲。1590年、岩城常隆が病没すると、岩城家に入嗣した岩城貞隆の附家老として植田城に入った。岩城家の家政を担い検地などを行った。1602年、佐竹義宣が羽後国久保田城に減封になるとそれに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

桐原茂左衛門【きりはらもざえもん(15??~15??)】

佐竹義宣家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になるとそれに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

久賀谷通清【くがやみちきよ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。通称右衛門尉。別名「存辰」。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

国安久行【くにやすひさゆき(15??~16??)】

東義久家臣。官途は三河守。別名国安師親。1588年、大窪種光と連署で芹沢国幹に起請文を送った。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になるとそれに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

国安師行【くにやすひさゆき(15??~16??)】

国安久行の男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると父国安久行とともに従った。

車義憲【くるまよしたけ(15??~15??)】 

佐竹義昭家臣。多珂郡車城主。官途は丹波守。

車義秀【くるまよしひで(15??~15??)】 

車義憲の男。官途は兵部大輔。

車斯忠【くるまつなただ(15??~1602)】

車義秀の男。官途は丹波守。1571年、和田昭為を讒言して白河結城義親のもとに追い、佐竹義重の側近を務めた。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣とともに肥前名護屋城に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝勢に属して陸奥福島城を守備した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、従わず大窪久光、馬場政直らとともに水戸城奪還を企てるが捕縛され処刑された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

車信濃守【くるましなののかみ(15??~15??)】 

佐竹義重家臣。1569年、佐竹義重の使者として梶原政景のもとに赴いた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

黒沢大学【くろさわだいがく(15??~15??)】

宇留野義久家臣。1540年、「部垂城の戦い」で佐竹義篤勢の攻撃を受け宇留野義元が討死すると、佐竹義篤勢に内応して落延びる宇留野竹寿丸を謀殺した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

黒沢内匠助【くろさわたくみのすけ(15??~15??)】 

佐竹義篤家臣。官途は内匠助。通称満五郎。1530年、佐竹義篤から松木、塩子の5貫文を拝領した。1554年、佐竹義昭から久慈郡辰ノ口、塩原の所領
参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

黒沢早助【くろさわそうすけ(15??~15??)】 

佐竹義重家臣。1589年、佐竹義宣から町田彦五郎抱の地を宛がわれた。1593年、佐竹義重から田代雅楽亮抱の地を宛がわれた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小祝加賀守【こいわいかがのかみ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。久慈郡小祝館主。南奥依上保を巡る白河結城晴綱との交渉に活躍し、佐竹義篤の使者として白河結城晴綱のもとを訪れた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小祝武繁【こいわいたけしげ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。通称兵衛三郎。石井式部の知行ことにを申し送った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小祝元泰【こいわいもとやす(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。通称又三郎。1542年、戦功を挙げた佐藤弥太郎の忠節を石井清定とともに佐竹義篤に伝えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小磯太郎右衛門【こいそたろうえもん(15??~1502)】

山入氏義家臣。官途は上野守。1502年、「西金砂の戦い」で佐竹義舜勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【さ】

佐川家房【さがわいえふさ(15??~16??)】

佐竹義宣家臣。官途は蔵人。通称惣六。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、雄勝郡湯沢内40石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐川家勝【さがわいえかつ(15??~16??)】

佐川家房の男。通称七郎右衛門。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

酒匂道真【さこうみちざね(15??~16??)】

佐竹義重家臣。南常陸鉾田城を守備した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。

佐竹義舜【さたけよしきよ(1470~1517)】

久慈郡太田城主。佐竹義治の男。官途は右京大夫。室は岩城常隆の娘。1490年、父佐竹義治の病没により佐竹家惣領家の家督を相続した。「常陸太田城の戦い」で山入義藤、山入氏義、長倉義久、天神林義益、宇留野義公勢の攻撃を受け孫根城に落延びた。1502年、「金砂山城の戦い」で山入氏義勢の攻撃により落城寸前まで追い込まれるが、奇襲攻撃をかけ撃退した。1504年、「太田城の戦い」で山入氏義、山入義盛を討取る戦功を挙げた。1514年、「那須口の戦い」では、足利政氏の意向を受け岩城由隆とともに参陣して宇都宮忠綱勢を撃破る戦功を挙げた。「竹林の戦い」で宇都宮成綱、結城政朝勢の反撃を受け敗退した。1516年、「浄法寺縄釣の戦い」で岩城由隆とともに宇都宮成綱勢と戦うが、那須資房が内応したため、敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹義篤【さたけよしあつ(1507~1545)】

佐竹義舜の男。官途は大膳大夫。1517年、父佐竹義舜の病没により佐竹惣領家の家督を相続した。白河結城晴綱領への侵攻を企図し、拠点となる依上保を中心に家臣団を多く配置した。1529年、「第二次部垂城の乱」では、弟宇留野義元と熾烈な権力闘争を繰り広げ、宇留野義元勢に属した小場義実、高久義久らと争った。1540年、宇留野義元の部垂城を攻略して内乱に終止符を打った。また那須政資、那須高資父子の争いにも加わり、小田政治、宇都宮尚綱らとともに那須政資を支援した。1539年、結城政朝、小山高朝、白河結城晴綱らと結ぶ那須高資勢と戦った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹義昭【さたけよしあき(1531~1565)】

佐竹義篤の男。官途は右京大夫。通称次郎。室は岩城重隆の娘。佐竹義昭が若年の間は、北義廉、東義堅、南義里が交代で家政を担った。江戸忠通に対抗すべく小田政治と結んだ。1551年、関東管領山内上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職への就任を打診を受けるが辞退した。1557年、「宇都宮城の戦い」で壬生綱雄を追落し宇都宮広綱を宇都宮城に帰還させ那須資胤と和議を結んだ。1560年、「磐城寺山城の戦い」で白河結城晴綱勢と戦いこれを追落して糸井能登守を城代に任じた。1564年、長尾景虎の支援を受け小田氏治を撃破した。1564年、大掾慶幹の病没後、弟の大掾昌幹を養子に送り込んだが、大掾家中の反対により退去させられた。1562年、「小山祗園城の戦い」では、長尾景虎と結んで小山秀綱勢と戦った。1563年、「白旗城の戦い」で那須資胤勢と戦った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹義重【さたけよししげ(1547~1612)】

佐竹義昭の男。官途は常陸介。通称次郎。室は伊達晴宗の娘。別名「鬼義重」。1562年、父佐竹義昭の隠居により、佐竹家惣領職の家督を相続した。1566年、「小田城の戦い」では、長尾景虎と結び再び小田氏治を追い落とし太田資正、梶原政景父子を城代に任じた。1567年、白河結城晴綱に攻勢をかけ南陸奥、下野那須、常陸小田への進出を図った。白河結城義親、岩城常隆、多賀谷重経などに養子として送り込み勢力圏を拡大した。白河結城義親、宇都宮国綱、太田資正、梶原政景と結び北上する北条氏政勢に対抗した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹義宣【さたけよしのぶ(1569~1633)】

佐竹義重の男。官途は左近衛中将。通称次郎。室は那須資胤の娘(正洞院)。1586年、「下野壬生の戦い」では、宇都宮国綱を支援して北条氏政勢と戦った。1588年、「磐城人取橋の戦い」では、伊達政宗勢と戦った。1589年、「小田原の役」では、佐竹義重とともに参陣して羽柴秀吉から所領安堵を受けた。南常陸国の国人衆、豪族衆(南方三十三館)、大掾清幹、江戸重通らを掃討して常陸国内の覇権を確立して本拠を水戸城に移した。1596年、検地を行い545,800石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、父佐竹義重が松平元康勢に属したものの、自身は石田三成勢に属して長尾景勝勢を側面から支援したため、減封に処分に処され羽後久保田城180,000石を領した。治政に実力を発揮し、領国経営を意欲的に行い、また家臣らの刷新、粛清をはかった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹義直【さたけよしなお(1612~1656)】

佐竹義重の五男(北義兼の養子)。通称彦次郎。1621年、兄佐竹義宣の養子となった。1626年、江戸城における猿楽の見物中に居眠りをしてしまい、佐竹義宣の怒りを買い廃嫡された。1628年、京都仁和寺の塔中尊寿院を再興し、住職を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹義隆【さたけよしたか(1609~1672)】

岩城貞隆の男(佐竹義宣の養子)。官途は修理大夫。通称四郎次郎。別名岩城吉隆。室は佐竹義章の娘(光聚院)。1620年、岩城貞隆の病没により岩城家の家督と信濃国中村10,000石を相続した。1622年、羽後由利郡内で10,000石の加増を受けた。1623年、由利郡亀田館に転封した。1626年、叔父佐竹義直が廃嫡されたため、佐竹義宣の養子となり佐竹義隆と称した。1633年、佐竹義宣の病没により佐竹家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐藤左京進【さとうさきょうのしん(15??~15??)】

東義久家臣。依上保、南郷方面を守備、物資輸送、伝馬整備などの役目を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

佐藤四郎右衛門【さとうしろううえもん(15??~15??)】

東義久家臣。依上保、南郷方面の守備を務めた。1589年、「陸奥大平城の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受けた。1590年、和田昭為に属した。1601年、鑓衆50人、扶持分250石を領した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

佐藤日向守【さとうひゅうがのかみ(15??~15??)】

東義喬家臣。1572年、東義喬から関之上、下平の所領を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

佐藤若狭守【さとうわかさのかみ(15??~15??)】

東義久家臣。1584年、次男の鈴木新八郎は鈴木助十郎の家督を相続した。東義久から南郷、依上保内などからの軍勢催促を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

猿田忠季【さるたただすえ(15??~16??)】

佐竹義宣家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従い平鹿郡横手で足軽衆を務めた。1614年、「大坂冬の陣」では、佐竹義宣に従い参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

塩谷盛綱【おしやもりつな(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。官途は越前守。1504年、佐竹義舜が太田城に帰還すると、所領を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

塩谷刑部大輔【しおやぎょうぶだゆう(15??~15??)】

塩谷盛綱の男。佐竹義篤に仕え安井太郎右衛門の宛分20貫を与えれた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

渋江氏光【しぶいうふみつ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。通称内膳。1574年、「陸奥赤館の戦い」で佐竹義重が赤館を攻略すると、赤館城代に任ぜられた。1575年、「陸奥赤館の戦い」で白河結城義親勢の反撃を受けるがこれを撃退した。1576年、「陸奥赤館の戦い」で再び白河結城義親勢の攻撃を受け落城した。

渋江政光【しぶえまさみつ(1574~1614)】

荒川秀景の男(渋江氏光の養子)。別名荒川政光。室は馬場政直の娘。人見藤道の推挙で佐竹義宣に仕えた。1594年、渋江氏光の養子となり渋江家の家督を相続した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封されると、渋江政光ら登用して家政改革を行った。1607年、川井忠遠らが、佐竹義宣と渋江政光の謀殺を企てたため、これらを謀殺して家中の不満分子を粛清した。渋江政光は、検地制度の改革などを実施して農業生産と財政の安定に尽力した。1614年、「摂津今福の戦い」で佐竹義宣に従って参陣したが、後藤基次、木村重成勢勢反撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水康賢【しみずやすかた(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。清水綱賢の男。官途は上野守。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水高賢【しみずたかかた(15??~15??)】

清水康賢の次男。通称刑部丞。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水高通【しみずたかみち(15??~16??)】

清水高賢の男。官途は薩摩守。佐竹義重に仕えた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水通愛【しみずみちすえ(15??~15??)】

小野崎篤通家臣。久慈郡清水之館主。官途は肥前守。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水通里【しみずみちさと(15??~15??)】

清水通愛の男。官途は但馬守。通称左馬允。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水通貞【しみずみちさだ(15??~15??)】

清水通里の男。官途は肥前守。通称右馬允。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水通胤【しみずみちたね(15??~16??)】

清水通貞の男。通称左馬允。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水通忠【しみずみちただ(15??~16??)】

清水通胤の男。通称藤八左馬允。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

介川通長【すけがわみちなが(15??~16??)】

那珂郡介川館主。介川通兼の男。官途は周防守。通称新太郎。佐竹義重の使者として田村清顕のもとを訪れた。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って肥前名護屋城を守備した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

介川通央【すけがわみちおう(15??~16??)】

介川通長の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

介川通重【すけがわみちしげ(15??~16??)】

佐竹義宣家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

介河和泉守【すけがわいずみのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

介河隼人【すけがわはやと(15??~15??)】

介河和泉守の男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従い平鹿郡横手内で45石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

介河十兵衛【すけがわじゅうべい(15??~15??)】

介河隼人の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

助川通繁【すけがわみちしげ(14??~15??)】

久慈郡大門城。通称右衛門。1490年、「太田城の戦い」で佐竹義舜が山入義藤、山入義氏勢の攻撃を受け、落延びた佐竹義舜を匿った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

助川通厚【すけがわみちあつ(15??~15??)】

助川通繁の男。官途は出羽守。佐竹義舜に仕えて戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

鈴木信濃守【すずきしなののかみ(15??~15??)】

東義久家臣。官途は右馬亮。1581年、東義久から五疋五駄の荷駄の通行料を免除された。1591年、鹿島郡内で10貫文を領した。1595年、知行割替では、完倉内で30石を領した。1600年、東義久から17石の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

瀬尾大膳【せおだいぜん(14??~1478)】

北義武家臣。四殿衆。北義武が久米城主に任じられると、附家老職(四殿衆)を務めた。1478年、「久米城の戦い」では、山入義知、山入義房、山入義顕、那須資持勢の攻撃を受けた。山入義知、山入義房、山入義顕らを討取ったが北義武、小田野義安、立原筑後守らとともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

関彦三郎【せきひこさぶろう(15??~15??)】

北義信家臣。久慈郡花房館主。1523年、佐竹義篤から天神林内で1町5反の所領を与えれた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

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【た】

高柿弾正少弼【たかがきだんじょうしょうひつ(15??~15??)】

山入義藤家臣。官途は弾正少弼。1504年、「太田城の戦い」で佐竹義舜勢の攻撃を受け山入氏義が討死すると、佐竹義舜に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

高久時義【たかひさときよし(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。高久義景の男。1535年、「第二次部垂城の乱」で宇留野義元が謀反を起こすと、宇留野義元に従って佐竹義篤勢と戦った。宇留野義元が討死すると降伏した。1548年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属した佐竹義篤に従って参陣したが、伊達稙宗勢に属した相馬顕胤と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高久義貞【たかひさよしさだ(15??~15??)】

高久時義の男。1535年、「第二次部垂城の乱」で宇留野義元が謀反を起こすと、宇留野義元に従って父高久時義とともに佐竹義篤勢と戦った。宇留野義元が討死すると降伏した。1548年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属した佐竹義篤に従って参陣したが、伊達稙宗勢に属した相馬顕胤と戦い父高久義時とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高久義明【たかひさよしあき(15??~15??)】

高久義貞の次男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高久義勝【たかひさよしかつ(15??~15??)】

高久義明の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高久直勝【たかひさなおかつ(15??~16??)】

高久義勝の男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高垣吉末【たがかきよしすえ(15??~15??)】

北義憲家臣。高垣吉就の次男。通称清左衛門。1591年、北義憲から16貫文の所領を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

高部孫兵衛【たかべまごべい(15??~15??)】

東義喬家臣。那珂郡高部城主。

高部左馬助【たかべさえもんのすけ(15??~15??)】

高部孫兵衛の男。東義久に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

高部駿河守【たかべするがのかみ(1506~1577)】

高部左馬助の男。1573年、東義久から入江荘の所領を安堵された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

高部信濃守【たかべしなののかみ(1541~1600)】

高部駿河守の男。官途は駿河守。1569年、東義喬から左馬助の官途を与えられた。1560年、東義久の意向を受け使者として柏隠岐守とともに赤坂朝光のもとに赴いた。1595年、知行割替で、常陸新治郡内に50石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

武士孫一郎【たけししまごいちろう(15??~15??)】

人見藤道家臣。1596年、奉行職の人見藤道に従い大石内で5石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

武士新六郎【たけしししんろくろう(15??~16??)】

佐竹義宣家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従い50石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田崎廉親【たざきかどちか(15??~15??)】 

北義廉家臣。官途は遠江守。1549年、陸奥南郷東館の城代を務めた。1573年、東義喬が病没すると、寺山城に在番した。1575年、佐竹義重より6貫文を宛行われた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

田崎相模守【たざきさがみのかみ(15??~15??)】

田崎廉親の男。通称新三郎。1572年、元服で東義久の偏諱を受けた。1589年、佐竹義宣の意向を受け小田川関の代官職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

田代影綱【たしろかげつな(15??~1611)】

佐竹義重家臣。田代清綱の次男。官途は雅楽亮。1585年、「下野鹿沼城の戦い」で戦功を挙げ、佐竹義宣より感状を受けた。1590年、隠居した佐竹義重に仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城の在城中に大山重光に書状を送った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

立原筑後守【たてはらちくごのかみ(14??~1478)】

北義武家臣。四殿衆。北義武が久米城主に任じられると、附家老職(四殿衆)を務めた。1478年、「久米城の戦い」では、山入義知、山入義房、山入義顕、那須資持勢の攻撃を受けた。山入義知、山入義房、山入義顕らを討取ったが北義武、小田野義安、瀬尾大膳らとともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

館原大炊助【たてはらおおいのすけ(15??~15??)】

東義久家臣。東義堅に仕え篠の沢17貫文を加増された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

館宗種【たてのむねたね(15??~15??)】

石塚義慶家臣。官途は大和守。1557年、石塚義慶から忠節を賞せられて左京亮の官途を与えられた。1570年、「下野武茂の戦い」で那須資胤勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

田中新九郎【たなかしんくろう(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。官途は式部少輔。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

田中若狭守【たなかわかさのかみ(15??~15??)】

田中新九郎の男。1595年、佐竹義宣から久慈郡東蓮寺に50石を加増された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

天神林義陸【てんじんばやしよしむつ(15??~15??)】

天神林左京亮の男。官途は下総守。別名天神林義種。佐竹義昭に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

天神林義広【てんじんばやしよしひろ(15??~15??)】

天神林義陸の男。官途は越前守。通称五郎。1546年、北義兼から官途を受けた。1595年、知行割替で常陸久慈郡に150石を領した。家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

天神林源六郎【てんじんばやしげんろくろう(15??~15??)】

天神林義広の次男。1591年、佐竹義宣に仕えて20貫文の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

天神林義益【てんじんばやしよします(14??~1504)】

久慈郡馬坂城主。天神林義成の男。1490年、「太田城の戦い」で山入義藤、山入氏義、北義武、宇留野義公らが佐竹義舜を追落すと、山入義藤が太田城主に転じたため、山入城を守備した。1504年、「山入城の戦い」で佐竹義舜勢の攻撃を受け山入氏義とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

天神林三郎【てんじんばやしさぶろう(15??~1504)】

天神林義益の男。1504年、「山入城の戦い」で佐竹義舜勢の攻撃を受け父天神林義益とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

天神林左京亮【てんじんばやしさきょうのすけ(15??~1531)】

天神林義成の三男。1504年、「山入城の戦い」で兄天神林義益が佐竹義舜勢の攻撃を受け討死すると、佐竹義舜に従った。1531年、「石岡鹿子原の戦い」で江戸忠通勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

天神林義兼【てんじんばやしよしたね(15??~1542)】

天神林義益の次男。1542年、「久保田、関山の戦い」で佐竹義篤に従って参陣したが、相馬顕胤勢と戦い高久義貞、長倉義尚らとともに討死した。

天神林義種【てんじんばやしよしたね(15??~15??)】

天神林玄蕃亮の男。官途は玄蕃亮。別名天神林義陸。東義喬に仕え、磐城白河で足軽衆を率いた。白河領内で25貫文を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

富岡通茂【とみおかみちしげ(15??~15??)】

小野崎従通家臣。官途は図書助。通称孫太郎。1591年、「額田城の戦い」で小野崎従通が佐竹義宣勢の攻撃を受け伊達政宗を頼って落延ると、隠居した佐竹義重に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

戸村義広【とむらよしひろ(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。官途は摂津守。通称八郎。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

戸村義和【とむらよしかず(15??~1593)】

戸村義広の男。官途は越後守。通称八郎。1593年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って肥前国名護屋に参陣した。朝鮮に渡海したが熊川城において陣没した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

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【な】

内藤掃部【ないとうかもん(14??~15??)】

北義武家臣。四殿衆。1478年、北義武が久米城主に任じられると、附家老職(四殿衆)を務めた。

長倉義尚【ながくらよしひさ(14??~15??)】

那珂郡長倉城主。官途は遠江守。1490年、「太田城の戦い」では、佐竹義治が病没後、山入義藤、山入氏義、北義武、天神林義益、宇留野義公らとともに佐竹義舜を太田城から追落した。1493年、「長倉城の戦い」で佐竹義舜、那須資実勢の攻撃を受け降伏した。

長倉義忠【ながくらよしただ(15??~1540)】

長倉義尚の男。官途は遠江守。通称三郎。1529年、「第一次部垂城の乱」で宇留野義元が佐竹義篤から離反すると、宇留野義元勢に属して佐竹義篤と戦った。1540年、宇留野義元が討死すると長倉義忠も那珂郡野口で謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

長倉義重【ながくらよししげ(1491~1552)】

長倉義忠の男。官途は遠江守。1542年、「久保田、関山の戦い」で佐竹義篤に従って参陣したが、相馬顕胤勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

長倉義富【ながくらよしとみ(15??~15??)】

長倉義重の男。別名長倉義当。1567年、「大崖山の戦い」では、南路義郷、戸村義広、小場義忠、武茂守綱、大山田綱胤、烏子泰宗、横田綱久、松野篤通、石川昭光、大金重宣らを率いて那須資胤、那須資晴、本庄盛泰勢と戦ったが敗退した。

長倉義尚【ながくらよしなお(15??~1542)】

長倉義忠の次男。別名大沢義尚。1542年、「久保田、関山の戦い」で佐竹義篤に従って参陣したが、相馬顕胤勢と戦い高久義貞、天神林義兼らとともに討死した。

長倉義興【ながくらよしおき(1573~1600)】

長倉義富の男。官途は遠江守。通称三郎。1588年、家臣小林掃部に那珂郡小瀬沢の地を宛行い、軍役などの義務を申し付けた。1589年、「小田原の役」では、佐竹義宣に従って羽柴秀吉に謁して太刀、金を献上した。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って参陣して肥前国名護屋城を守備した。1595年、知行割替で柿岡城に転封した。1600年、水戸城の修築を命ぜられたが復命しなかったため、蟄居を命ぜられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

長倉義雅【ながくらよしまさ(15??~16??)】

長倉義興の男。

長倉重綱【ながくらしげつな(15??~16??)】

長倉義興の次男。

長倉言信【ながくらげんしん(15??~16??)】

長倉義重の次男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。

長倉義益【ながくらよします(15??~16??)】

長倉義重の三男。

中田左馬亮【なかたさまのすけ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。和田昭為から那珂郡長倉で普請奉行を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

中田新兵衛【なかたしんべい(15??~15??)】

中田左馬亮の男。1595年、奉行衆の人見藤通から70石の所領を安堵された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

中田若狭守【なかたわかさのかみ(15??~15??)】

北義斯家臣。北義斯、東義久の使者として佐野房綱のもとを訪ねた。1592年、「文禄の役」では、留守居役を務めた。1595年、知行割替では茨城郡入野に100石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

中田駿河守【なかたするがのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。佐竹義重の使者として厩橋城主北条高広のもとを訪れた。芳賀高継の支援について小田野義忠と談合するなど、対外交渉に当たった。1595年、知行割替で那珂郡下伊勢畑などの蔵入地717石余を預かった。1602年、佐竹義宣の羽後久保田城への転封に従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

中村本常【なかむらもとつね(15??~15??)】

南義尚家臣。官途は大学。通称源太。多賀谷重経、芳賀高武から書状を送られた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

中村本治【なかむらもとはる(15??~15??)】

中村本常の男。官途は因幡守。通称巳太郎。1565年、南義尚より忠節を賞された。1585年、南義種から因幡守の官途を拝領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

長山通兄【ながやまもちけい(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。官途は信濃守。大縄江庵とともに多功房朝に書状を送った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

生田目備前守【なばためびぜんのかみ(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

生田目大蔵丞【なばためおおくらのじょう(15??~15??)】 

東義久家臣。1574年、白河領釜子、入野に12貫文の知行を受けた。

滑川伊賀守【なめかわいがのかみ(15??~15??)】 

東義久家臣。1576年、東義久から20貫文の知行を受けた。東義久が鹿島郡に転封になると、佐竹義宣に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

滑河式部少輔【なめかわしきぶしょうゆう(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。山入義藤から所領を与えられた。1503年、「太田城の戦い」で山入氏義勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

滑河藤四郎【なめかわとうしろう(15??~15??)】

滑河式部少輔の男。1503年、佐竹義舜から久慈郡染村で所領を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

滑河信通【なめかわのぶみち(15??~15??)】

久慈郡滑河館主。滑河対馬守の男。官途は兵庫助。通称新六。1516年、父滑河対馬守とともに那須家との戦いに参陣した。1519年、北家義信から偏諱を受けた。1536年、依上保池田を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

奈良民部少輔【ならみんぶしょうゆ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

南路義郷【なんじよしさと(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1567年、「大崖山の戦い」で長倉義当に従い戸村義広、小場義忠、武茂守綱、大山田綱胤、烏子泰宗、横田綱久、松野篤通、石川昭光、大金重宣らとともに那須資胤、那須資晴、本庄盛泰勢と戦い敗退した。

西丸義翁【にしまるよしおう(15??~15??)】

佐竹義宣家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になるとそれに従わず帰農した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

根岸丹後守【ねぎしたんごのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は丹後守。1572年、「陸奥赤館の戦い」で戦功を挙げた。1580年、病気のため軍役を免除された。1591年、山尾城の普請奉行を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本賢行【ねもとかたゆき(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。官途は掃部助。通称源二郎。1553年、鹿島神宮領菖蒲谷において5貫文の年貢未納を責められた。1557年、部垂甲神社の奉加帳に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本里行【ねもとさとゆき(15??~15??)】

根本賢行の男。官途は紀伊守。通称彦八。1570年、「下野大山田城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1571年、部垂城代に任じられた。1577年、東河内における佐竹家蔵入地の代官職を務めた。1590年、佐竹義重の三男岩城貞隆の附家老職を務めた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本通国【ねもとみちくに(15??~15??)】

小野崎通隆の次男(根本里行の養子)。官途は掃部助。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋に参陣した。1595年、知行割替では、大貫村の蔵入地1071石余を預けられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本出雲守【ねもといずものかみ(15??~15??)】

東義久家臣。官途は内蔵助。1573年、佐竹義重が下野宮近野神社に鐘を寄進すると、その本願を務めた。1574年、陸奥白河釜子、野手島、入野に13貫文を宛行われた。1583年、東義久から出雲守の官途を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本三郎左衛門【ねもとさぶろうざえもん(15??~15??)】

東義久家臣。1573年、下野宮近野神社への鐘寄進では、鋳物師の棟梁を務めた。

根本平衛門尉【ねもとへいえもんのじょう(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本源右衛門【ねもとげんえもん(15??~15??)】

根本平衛門尉の男。1531年、佐竹義篤か依上保内で所領を安堵された。
参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本平次衛門【ねもとへいじえもん(15??~15??)】

根本越後守の男。佐竹義重に仕えた。1572年、佐竹義重から大森宮内少輔の領地を安堵された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

野内隼人【のうちはやと(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1567年、依上保袋田内で所領を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

野内大膳亮【のうちだいぜんのすけ(15??~15??)】

野内隼人内の男。1585年、依上保の愛宕白雲寺を造営奉行職を務めた。1595年、奉行衆の人見藤通から依上保金沢で400石を加増された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

野内広忠【のうちひろただ(15??~15??)】

野内大膳亮家臣。官途は肥前守。1586年、依上保の稲荷社の造営奉行職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

野内孫太郎【のうちまごたろう(15??~15??)】

野内広忠の男。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

野口幹成【のぐちみきなり(15??~15??)】

那珂郡野口城主。1540年、「野口城の戦い」では、長倉義忠とともに佐竹義篤に謀反を起して野口城に籠城したが、佐竹義篤勢の攻撃受け落城した。家臣の野口家四天王は降伏した。

野口直之允【のぐちけなおのじょう(15??~15??)】

野口幹成の男。1540年、「野口城の戦い」では、父野口幹成とともに野口城に籠城して佐竹義篤勢と戦った。

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【は】

橋本実時【はしもとさねとき(15??~15??)】

北義憲家臣。通称助兵衛。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

馬場篤親【ばばあつちか(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。官途は和泉守。通称新介。別名佐竹基親。佐竹家の京都留守居役として外交で活躍した。1538年、常陸国に帰国した。北家、東家、南家の佐竹三家に次ぐ地位を与えられた。

東政義【ひがしまさよし(1484~1534)】

佐竹義治の五男。官途は左近大夫将監。通称九郎。別名佐竹政義。出家して僧侶となり、周悦と称した。兄佐竹義舜の意向を受け還俗した。1517年、佐竹義舜らとともに佐都神社に奉加した。佐竹義舜が病没すると、兄北義信とともに、甥の佐竹義篤を補佐した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

東義堅【ひがしよしかた(15??~15??)】

佐竹政義の男。官途は左近大夫将監。通称源六郎。別名佐竹義堅。1545年、佐竹義篤が病没すると、北義廉、南義里とともに佐竹義昭の補佐を務め、国政、国衆の統制などで活躍した。1566年、那須資胤と高瀬で戦って大敗し、治部内山で降伏した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

東義喬【ひがしよしたか(15??~1573)】

佐竹義堅の男。官途は薩摩守。通称九郎。別名佐竹義喬。1569年、大窪秀光へ南伊野地を宛行った。継嗣をもうけることができず、弟の東義久が東家の家督を相続した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

東義久【ひがしよしひさ(1554~1601)】

佐竹義堅の次男。官途は中務大輔。通称源六郎。別名佐竹義久。佐竹義重に従って各地を転戦するほか、佐竹義重に従って各地を転戦し戦功を重ねた。1579年、武田晴信と結ぶため、取次役を務めた。佐竹義宣にも重用され、陸奥方面の軍権を担当した。石田三成を通じて羽柴秀吉と結び、羽柴秀吉の直轄領1,000石の代官職も務めた1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣勢を率いて肥前名護屋城に参陣した。鹿島郡、真壁郡内で60,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、松平元康と取次役を務め、本領安堵を取り付けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

人見藤通【ひとみふじみち(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は主膳正。1585年、依上保愛宕神社の棟札を奉納した。1590年、依上保、赤館を初めとする陸奥南郷の支配を担った。1592年、肥前国名護屋へ参陣した。1595年、和田昭為、小貫頼久とともに三奉行として知行割替を推進した。茨城郡内で蔵入地912石余を預かった。

平塚滝俊【ひらつかたきとし(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は山城守。1592年、「文禄の役」で佐竹義宣に従って肥前名護屋城を守備した。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

深谷顕衡【ふかやあきひら(15??~1521)】

結城晴綱家臣。常陸獅子城主。官途は伊豆守。1506年、「獅子城の戦い」で佐竹義舜に降伏したが、結城晴綱が侵攻すると再び結城晴綱に従った。1521年、「獅子城の戦い」で佐竹義篤の侵攻を受けて討死した。

深谷重安【ふかやしげやす(15??~15??)】

深谷顕衡の男。

深谷治行【ふかやはるゆき(15??~15??)】

深谷重安の男。

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【ま】

前澤守胤【まえざわもりきたね(14??~15??)】

佐竹義舜家臣、官途は筑前守。1500年、「孫根城の戦い」で佐竹義舜が山入氏義勢の攻撃を受け金砂山城に落延びるとこれを支援した。1502年、「金砂城の戦い」で山入氏義勢と戦い戦功を挙げた。

前澤篤胤【まえざわあつたね(15??~15??)】

前澤守胤の男。官途は筑前守。通称彦太郎。佐竹義篤に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

前澤昭胤【まえざわあきたね(15??~15??)】

前澤篤胤の男。通称九郎二郎。別名前沢通胤。佐竹義篤に仕えた。1537年、久慈郡利員内の所領を加増された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

前澤昭為【まえざわあきため(15??~15??)】

前澤篤胤の次男。官途は筑前守。通称彦太郎。1556年、参陣中に佐竹義昭から指示を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

前沢重胤【まえざわしげたね(15??~15??)】

前沢昭為の男。官途は筑後守。佐竹義重に仕えた。1586年、芦名家の家督を巡り、金上盛備から書状を送られた。1593年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って参陣して肥前国名護屋城を守備した。1595年、知行割替では、陸奥滑津城代を務め蔵入地799石余を預けられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

真崎義直【まさきよしなお(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。真崎義兼の男。官途は駿河守。通称彦三郎。1519年、佐竹義篤に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

真崎義保【まさきよしやす(15??~1573)】

真崎義直の男。官途は駿河守。通称彦三郎。1559年、佐竹義重の偏諱を受けて真崎義保と称した。1571年、「陸奥寺山野績の戦い」で戦功を挙げ、駿河守の官途を与えられた。1573年、「下野南摩の戦い」で南摩秀村勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

真崎重宗【まさきしげむね(15??~15??)】

真崎義直の次男。通称彦六郎。佐竹義重に仕えた。1573年、「下野南摩の戦い」で兄真崎義保が討死すると、すぐにその仇を討って頸級を取り返えす戦功を挙げた。真崎家惣領職を相続した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

真崎宣広【まさきのぶひろ(15??~15??)】

真崎重宗の男。官途は駿河守。通称彦六郎。1590年、上洛する佐竹義重から水戸城の仕置を任された。1595年、知行割替では那珂郡那珂湊の蔵入地2,113石余を預けられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

松平康信【まつだいらのぶひろ(15??~15??)】

久慈郡松平館主。官途は上総介。別名高柿康信。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

松平信広【まつだいらのぶひろ(15??~15??)】

松平康信の男。官途は尾張守。1566年、佐竹義昭から官途を拝領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

松平信久【まつだいらのぶひさ(15??~15??)】

松平信広の男。官途は弾正少弼。通称新四郎。別名高柿信久。1566年、「下野川崎城の戦い」では、佐竹義重に従い参陣して戦功を挙げた。1591年、佐竹義宣の意向で常陸府中城の修築を行った。1595年、知行割替で茨城郡内で200石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

松平義就【まつだいらよしなり(15??~15??)】

松平信久の男。別名高柿義就。松平元康に憚り高柿家に復した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

南義里【みなみよしさと(1511~1553)】

佐竹義舜の男。通称次郎左衛門。別名佐竹義里。兄の佐竹義篤の病没後、東義堅、北義廉らとともに国政に携わった。1546年、那須政資の法要では佐竹義昭とともに香銭を納めた。1567年、「大崖山の戦い」では、重の意向受け、大関高増を支援するため、那須資胤勢と戦ったが敗退した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

南義尚【みなみよしなお(1550~1572)】

佐竹義昭の次男(南義里の養子)。官途は左衛門尉。通称五郎。別名佐竹義尚。大関高増が那須資胤と対立し、南義尚を那須惣領家に擁立しようと画策した。佐竹義重は大関高増を支援して那須資胤と戦った。1572年、佐竹義重は那須資胤と和議を結び、南義尚入嗣は中止された。後に南家義里の養子となり、府中城主を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

南義種【みなみよしたね(1567~1619)】

南義向の男。官途は淡路守。通称左衛門尉。1572年、父南義向が病没したため、伯父佐竹義重に養育された。1580年、佐竹義宣とともに元服を迎え、以降は佐竹義重、佐竹義宣を補佐して北条氏政勢と戦った。1590年、佐竹義宣に従って羽柴秀吉に謁し、太刀、馬、黄金などを献上した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。1595年、知行割替で常陸新治郡など6,246石の蔵入地を預かった。1602年、佐竹義宣が出羽久保田城に転封になると、羽後国へ赴き佐竹義宣を迎えた。湯沢城主を務め、最上義光、伊達政宗らに備えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

御代重秀【みだいしげひで(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は安芸守。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

迎隼人佐【むかいはやとのすけ(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。1554年、佐竹義昭から磐城南郷川上内で100貫の所領を与えられた。1573年、石川昭光から内応を促す書状を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

向宣政【むかいのぶまさ(1560~1618)】

佐竹義重家臣。官途は右近太夫。もと飛騨小鷹狩城主姉小路高綱の枝連衆。1577年、牛丸重親の謀反により城を追われ家臣の後藤重元とともに常陸国に落延びた。弟の向俊政とともに佐竹義重に仕えた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、横手城代に任じられ家老職を務め、2,000石を領した。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

向政次【むかいまさつぐ(15??~16??)】

向宣政の男。通称清兵衛。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

向重政【むかいしげまさ(15??~16??)】

向宣政の次男。兄向政次が病没したため、向家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

向俊政【むかいとしまさ(15??~16??)】

向宣政の弟。佐竹義宣に仕え200石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【や】

八木備前守【やぎびぜんのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1570年、八木清次郎を養子に迎えた。

八木清次郎【やぎせいじろう(15??~15??)】

八木備前守の養子。1577年、佐竹義重の家老職を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

八木里吉【やぎさとよし(15??~15??)】

八木清次郎家臣。官途は豊前守。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

野内隼人【やないはやと(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。月居城主。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

野内広忠【やないひろただ(15??~15??)】

野内隼人の男。官途は肥前守。1576年、依上保下津原村に三友院稲荷神社を建立した。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

野内大膳亮【やだいだいぜんのすけ(15??~15??)】

野内広忠の男。1595年、佐竹義宣から400石の所領を与えられた。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

矢野和泉守【やのいずみのかみ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。矢野家惣領職。

矢野彦四郎【やのひこしろう(15??~15??)】

北義廉家臣。矢野和泉守が失脚すると、矢野家惣領職を継承した。

矢野重里【やのしげさと(15??~15??)】

矢野彦四郎の男。官途は大隅守。通称藤二郎。1549年、北義廉から深荻坂の内で3貫文の加増を受けた。1570年、5貫文の加増を受けた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

矢野重玄【やのしげはる(1548~1631)】

矢野重里の男。1591年、北義憲に属して南郷に転封して15貫文の加増を受けた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

矢野久重【やのひさしげ(15??~16??)】 

矢野重里の次男。官途は大隅守。通称藤二郎。1582年、東義久から偏諱を受けた。1588年、使者として大掾清幹を訪問した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、継嗣の矢野堅重とともに従った。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

矢野堅重【やのかたさと(15??~16??)】

矢野久重の男。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

矢野廉俊【やのかどとし(15??~15??)】

矢野重里の三男。官途は讃岐守。通称惣右衛門。北義斯に仕えた。1575年、磐城南郷で2貫文を領した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になるとそれに従った。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

矢野重清【やのしげきよ(15??~15??)】

北義斯家臣。矢野彦四郎の次男。官途は信濃守。通称藤七。1563年、北義斯から高野前の所領と小深屋敷を拝領した。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

矢野重玄【やのしげはる(1548~1631)】

矢野重清の男。官途は信濃守。通称藤七。1591年、佐竹義憲に従って陸奥南郷に移り15貫文加増を受けた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

矢野斯重【やのつなしげ(1551~1635)】

矢野重清の次男。通称平次右衛門。1567年、北義斯より偏諱を受け、また5貫文の知行を得た。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

山入義知【やまいりよしとも(14??~1478)】

久慈郡山入城主。山入祐義の男。官途は上総介。別名佐竹義知。惣領家の佐竹義治と対立した。1478年、「久米城の戦い」で佐竹義治、北義武、小田野義安勢と戦い北義武、小田野義安を討取る戦功を挙げるも、弟の山入義顕、継嗣の山入義房を失った。岩城親隆の支援を受けた佐竹義治勢の反撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義顕【やまいりよしあき(14??~1478)】

山入祐義の次男。通称四郎次郎。1478年、「久米城の戦い」では、先陣を務めたが、小田野義安の反撃を受け甥の山入義房とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義真【やまいりよしまさ(15??~15??)】

山入祐義の三男。1478年、兄の山入義知が岩城親隆の支援を受けた佐竹義治勢の反撃を受け討死したため、山入家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義房【やまいりよしふさ(14??~1478)】

山入義知の男。1478年、「久米城の戦い」で小田野義安の反撃を受け叔父の山入義顕とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義藤【やまいりよしふじ(15??~1492)】

佐竹義真の男。別名佐竹義藤。1490年、「太田城の戦い」では、佐竹義治が病没後、山入義藤、山入氏義、北義武、天神林義益、宇留野義公らとともに佐竹義舜を太田城から追落した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入氏義【やまいりうじよし(15??~1504)】

山入義藤の男。別名佐竹氏義。 1492年、父山入義藤が病没すると、北義武、天神林義益、宇留野義公らが佐竹義舜と和議を結んだ。1493年、「長倉城の戦い」で長倉義久が佐竹義舜、那須資実勢の攻撃を受け降伏すると、江戸通雅、小野崎親通らが離反するなど劣勢に立たされた。1502年、「金砂城の戦い」で佐竹義舜を自害寸前まで追い詰めたが、佐竹義舜勢の奇襲攻撃を受け敗退した。1504年、「太田城の戦い」で佐竹義舜勢の攻撃を受け落延びるが茂木で小田野義正に捕縛され斬頸に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義盛【やまいりよしもり(15??~1504)】

山入氏義の男。官途は左京大夫。1504年、「太田城の戦い」で佐竹義舜勢の攻撃を受け落延びるが茂木で父山入氏義とともに捕縛され斬頸に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義遠【やまいりよしとう(15??~15??)】

山入義盛の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義嗣【やまいりよしたけ(15??~15??)】

山入義盛の次男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山方定利【やまがたさだとし(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。那珂郡山方城主。山方国利の男。官途は能登守。山方家惣領家職。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山方篤定【やまがたあつさだ(15??~15??)】

山方定利の男。官途は能登守。通称半九郎。1577年、佐竹義重の使者として真壁儀幹を訪ねた。1595年、知行割替では那珂郡東野の蔵入地1,566石余りを預かった。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

山方重泰【やまがたしげやす(15??~1642)】

山方篤定の男。官途は能登守。通称助八郎。鹿島神宮社領と佐竹義重の取次役を務めた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

山県重広【やまがたしげひろ(15??~15??)】 

佐竹義重家臣。官途は信濃守。菅谷憲景、大縄江庵らの取次役を務めた。1593年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従い肥前名護屋城を守備した。1595年、知行割替では茨城郡田野ほかの蔵入地を計1,686石余を預かった。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山県宣澄【やまがたのぶずみ(15??~16??)】 

山県重広の男。通称正左衛門。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

横田綱久【よこたつなひさ(15??~15??)】

野口幹成家臣。野口家四天王。1540年、「野口城の戦い」では、佐竹義篤に謀反を起した野口幹成とともに野口城に籠城したが、佐竹義篤勢の攻撃を受け降伏した。1567年、「大崖山の戦い」で長倉義当に従い戸村義広、小場義忠、武茂守綱、大山田綱胤、烏子泰宗、南路義郷、松野篤通、石川昭光、大金重宣らとともに那須資胤、那須資晴、本庄盛泰勢と戦い敗退した。

吉田通貞【よしだみちさだ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は和泉守。研師(大工)の棟梁を務めた。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

吉田隼人正【よしだはやとのじょう(15??~15??)】

吉田通貞の男。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

吉成織部【よしなりおりべ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1583年、依上保開田村十二天社の造営に尽力した。1595年、知行割替では349石を領した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それには従わず、依上保で帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

吉成豊後守【よしなりぶんごのかみ(15??~16??)】

東義久家臣。1589年、「磐城大平の戦い」で戦功を挙げ、東義久より豊後守の官途を与えられた。1595年、知行割替では陸奥南郷東館に40石を領した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

吉成相模守【よしなりさがみのかみ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。1536年、佐竹義篤から依上保鍬柄に所領を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

吉原和泉守【よしわらいずみのかみ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。官途は修理進。通称弥七郎。番匠(大工)の棟梁を務めた。1511年、石橋大和守とともに馬場八幡宮の造営にあたった。1533年、佐竹義篤から天神林内で1町を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

吉原近江守【よしわらおうみのかみ(15??~15??)】

吉原和泉守の男。番匠(大工)の棟梁を務めた。佐竹義昭、佐竹義重に仕えた。1598年、佐竹義宣から石崎内で50石を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

若林与右衛門【わかばやしじょうえもん(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1570年、「磐城石川城の戦い」で佐竹義重に従い戦功を挙げた。1571年、「磐城三丁目の戦い」で佐竹義重に従い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

和田大隅守【わだおおすみのかみ(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。1528年、佐竹義舜から石井六郎の指南を命じられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

和田為秀【わだためひで(15??~15??)】

和田大隅守の養子。官途は豊前守。別名石井豊前守。

和田昭為【わだあきため(1532~1618)】

石井為忠の男(和田為秀の養子)。官途は安房守。行政面で手腕を振るった。1571年、車斯忠から讒訴を受け白河結城義顕のもとに出奔した。結城義顕に仕えると里白石城主に任じられた。結城義親が結城義顕を追放した。1575年、「陸奥白河城の戦い」で佐竹義重に内応して結城義親の先陣を務め、佐竹義重勢へ突撃し孤立した結城義親を捕縛する戦功を挙げ帰参した。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に参陣した佐竹義宣の留守居役を務めた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

和田為綱【わだためつな(15??~1571)】

和田昭為の男。官途は兵部大輔。1571年、父和田昭為が出奔したため、佐竹義重の意向を受けた小田部里胤勢の攻撃を受け和田彦十郎、和田為藤らとともに迎え撃つが討死した。

和田彦十郎【わだひごじゅうろう(15??~1571)】

和田昭為の次男。1571年、父和田昭為が出奔したため、佐竹義重の意向を受けた小田部里胤勢の攻撃を受け兄和田為綱、和田為藤らとともに迎え撃つが討死した。

和田為藤【わだためふじ(15??~1571)】

和田昭為の三男。通称善九郎。1571年、父和田昭為が出奔したため、佐竹義重の意向を受けた小田部里胤勢の攻撃を受け兄和田為綱、和田彦十郎らとともに迎え撃つが討死した。

和田重仲【わだしげなか(15??~15??)】

和田昭為の五男。1558年、「玉里の戦い」で討死した。

和田為宗【わだためむね(15??~1641)】

和田昭為の六男。通称半四郎。別名小貫頼為。番所で博打に耽って改易処分に処され寺で謹慎した。兄小貫頼重の蟄居すると、小貫家の家督を相続した。1641年、咎めを受け改易処分に処され自刃した。

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【資料Ⅰ】

北常陸国(3郡/260,000石)

多賀郡:車城、龍子山城、友部城、助川城、安良川城、多珂街、御岩寺。
久慈郡:太田城、茅根城、依上城、月居城、山入城、久慈街、西金砂寺。
那珂郡:野口城、長倉城、額田城、石神城、那珂湊。

北常陸国という国は存在しません。分類のため常陸国を北常陸国と南常陸国に分割しました。

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【資料Ⅱ】

小野崎三家【おのざきさんけ】

山尾小野崎、額田小野崎、石神小野崎。

小野崎家四天王【おのざきしてんのう】

大森、茅根通景、根本為義、武士。

久米城四殿衆【くめじょうしどのしゅう】

石沢河内介、瀬尾大膳、内藤掃部、立原筑後。北義武に附家老四人衆。

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【資料Ⅲ】

北常陸国【ひたちのくに】

関東の東端に位置する東海道の国。北は阿武隈山地で磐城国、岩代国に接し、南は利根川を境に下総国と国境を隔てる。西は八溝山地が下野国との国境を作り、東は長い海岸線で鹿島灘に臨む。国内は阿武隈山地、八溝山地のある北部の高地と、常陸台地から関東平野に続く南部の低地とに二分される。全般的に気候は温暖っで作物は豊かであるが、国の中心は南部の中心にあり、広い平野部と利根川、霞ヶ浦、北浦などの恵まれた水利によって農業生産が盛んである。この地域では古代から、農地開発が進んでおり、田地の面積は広い。さらに鹿島浦を中心に漁業も盛んで、山海幸に恵まれた良国である。関東地方の上野国、下野国の両国が険峻な山地でしか東北地方と連絡出来ないのに対して、常陸国では鹿島灘に面した海岸の平地沿いに街道が開けている。このため、古代には東北地方の開発の根拠地となった。東北地方との常陸国との国境に勿来関が設けられた。

勿来関【なこそのせき】

常陸国と磐城国の国境に設けられた、奥州三古関のひとつ。古くから東北地方の玄関口としての役割を果たしてきた。

那珂湊【なかのみなと】

下野国那須郡から常陸国を貫流して太平洋に注ぐ那珂川の河口部に位置し、常陸国の内陸部などの同河川流域と海路を結ぶ湊街。1590年、江戸家を降伏させて那珂湊を支配下に置いた佐竹家はこの湊に蔵入地とともに「湊御殿」とよばれる別館を設けている。那珂湊はこの佐竹家の直轄支配のもとで近世都市として発展した。

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戦国人名辞典は1480~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は文献を表示していますが、架空歴史小説も含まれるため、記載されている人物が史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、黒田如水は黒田孝高、武田晴信、上杉謙信は長尾景虎に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、参考文献:『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『房総戦国土豪の終焉』by崙書房、『戦国房総人名事典』by崙書房出版。『戦国大名里見氏』by崙書房、『里見義堯』byPHP文庫。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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