2011年9月7日水曜日

戦国対馬国人名辞典

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【あ】

井手智正【いでともまさ(15??~15??)】

宗義調家臣。通称彌六左衛門。1600年、宗義智の意向を受け、国交回復を図るため、日本で捕虜になっていた李氏朝鮮の人々返還した。

扇鹿之助【おうぎしかのすけ(15??~15??)】

宗義調家臣。1592年、「文禄の役」で密陽に進撃中、李氏朝鮮勢が陣を張っていることを、宗義調に報告した。宗義智、小西行長勢は山の後から李氏朝鮮勢を攻撃、これを撃ち破った。

大石智久【おおいしともひさ(15??~15??)】

宗義調家臣。通称荒河介。1592年、「平壌城の戦い」では、窮地に陥った宗義智勢を救うため、甲冑を脱ぎ浴衣となって櫓に上り、退路を見いだした。1594年、停戦中には、弟とともに虎と格闘した。宗義智から戦功第一として佐護郡内で領地を領した。役後、戦功が抜きんでているとされた他の三人とともに佐護郡代に任じられた。奮戦した家臣は多数いたが、与える知行地がなく、「追って沙汰する」と伝えたのみで終わった。

小田彦左衛門【おだひこざえもん(15??~15??)】

対馬国志賀多の貿易商人。

小田盛長【おだもりなが(15??~15??)】

宗晴康家臣。1527年、宗盛親が謀反を起こすと、大山城に籠城して抵抗した。

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【か】

規伯玄方【きはくげんぽう(1588~1661)】

宗晴康家臣。景轍玄蘇の弟子。宗義智、宗義成に仕え、外交僧として活躍した。1611年、師である玄蘇が病没すると修行のため京都へ赴いた。1621年、副使は宗智順。1629年、副使は杉村釆女には正使として朝鮮に赴いた。1629年、漢城(ソウル)へ訪れた。1634年、「国書改竄事件(柳川騒動)」が起きた。1635年、柳川調興、玄方ともに喧嘩両成敗として両名とも配流となった。1658年、赦免され、京都南禅寺へ移り大坂の南禅寺末寺である九昌院で病没した。

木村智清【きむらともきよ(15??~1592)】

宗義智家臣。1592年、「大同江渡河の戦い」に参陣したが討死した。

倉野茂通【くらのしげみち(15??~15??)】

宗義智家臣。通称藤右衛門。

景轍玄蘇【けいてつげんそ(1537~1611)】

宗晴康家臣。臨済宗中峯派の僧。河津隆業の男。字は景轍。号は仙巣。筑前国宗像郡の出身。1558年、博多聖福寺の住持となり、京都東福寺の住持となる。1580年、対馬国宗義調の招きにより対馬国に渡った。以酊庵を開創して日本国王使として朝鮮外交を行った。1592年、「文禄の役」の際には、羽柴秀吉に用いられ、朝鮮と和議の交渉に当たった。1595年、羽柴秀吉の命により中国の明に渡り、その際に明の万暦帝から本光国師の号を賜った。1609年、「己酉条約」を成立させるなど、朝鮮外交の任に当たり、朝鮮からは「仙巣」の図書(銅印)を授けられた。

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【さ】

佐須盛廉【さすもりかど(15??~15??)】

宗晴康家臣。官途は兵部少輔。1527年、兄佐須国親のあとを受けて対馬国守護代となる。1528年、「宗盛治の乱」では鎮圧に戦功があった。宗晴康、宗義調の時代まで守護代を勤めた。1560年、弟の佐須盛円に守護代を譲った。

佐須盛円【さすもりのぶ(15??~15??)】

佐須盛廉の弟。兄より対馬国守護代を受け継ぐ。約二十年間、宗家政権の中心を担い、島外諸領主や博多商人との交渉に頻繁に関わった。1580年、守護代の地位を嫡男佐須景満に譲った。

佐須景満【さすかげみつ(15??~1590)】

佐須盛円の男。対馬国守護代。1590年、柳川調信と不和になり、讒言によって宗義智の疑惑を招き、登城して弁明しようとしたが登城を許されず、古川智次らに殿中で斬殺された。

杉村広幸【すぎむらひろゆき(15??~15??)】

佐須盛円の次男。古川智次、平田、とともに三老臣の一つの家柄。

杉村調長【すぎむらしげなが(15??~15??)】

杉村広幸の男。

杉村智清【すぎむらともきよ(15??~1593)】

杉村調長の男。宗家臣。通称宇吉郎。1592年、「大同江の戦い」で左相尹斗壽都、元帥金命元、巡察使李元翼が守る平壌城を攻撃した。宗義智は兵を分けて、沙灘から上陸して高彦伯大将に夜襲を画策したが、浮碧樓から綾羅の渡ったが明国勢に夜襲を受け討死した。

宗将盛【そうまさもり(1509~1573)】

下県郡厳原城主。官途は刑部少輔。相次ぐ家臣の反乱を鎮圧した。1539年、本城を囲まれたために城から退去、家臣に庇護を求めるが拒否されて逼塞、そのまま一生を終えた。

宗晴康【そうはるやす(1475~1563)】

宗盛俊の男(宗将盛の養子)。官途は大和守。僧籍にあったが家臣団に擁立されて還俗して、宗将盛を追放して宗家の家督を相続した。惣領家以外の枝連衆が「宗」姓を名乗ることを禁止、権力の安定化に尽力した。1552年、対馬国内の検地を行い、結果8,250石余りだった。

宗義調【そうよししげ(1532~1588)】

宗晴康の男。官途は形部少輔。1553年、宗家の家督を相続した。佐須盛兼を対馬国守護代に任じた。1555年、「佐賀浦の戦い」では、倭船が李氏朝鮮に乱暴を働いたため、これを捕らえ李氏朝鮮に引渡した。1557年、山本康範、津奈調親らの謀反を鎮圧した。1564年、柚谷康広を李氏朝鮮に派遣して歳遣船を30隻にするように依頼した。1567年、継嗣の宗茂尚に家督を譲るが、病弱のため後見役を務めた。1580年、博多の聖福寺の僧玄蘇を招いて対李氏朝鮮との取次役に任じた。

宗茂尚【そうしげひさ(1547~1569)】

宗将盛の男。1566年、宗義調の禅譲を受けて家督を相続した。1569年、病弱を理由に弟宗義純に家督を譲るが、まもなく病没した。

宗義純【そうよしずみ(15??~1580)】

宗将盛の次男。1569年、兄宗茂尚より宗家の家督を譲られた。1571年、「浦海の戦い」では、波多政の意向を受けて壱岐国に侵攻するが敗退した。1580年、病気を理由に弟宗義智に家督を譲った。

宗義智【そうよしとし(1568~1615)】

宗将盛の三男。洗礼名は「ダリオ」。室は小西行長の娘(マリア)。1580年、兄宗義純の後を受けて宗家の家督を相続した。1586年、壱岐国に侵攻したが敗退した。1587年、「九州征伐」では、宗義調とともに羽柴秀吉のもとに参陣して所領安堵を受けた。1589年、朝鮮通信使を伴って上洛した。1591年、朝鮮に渡って戦争の回避を目指したが不成功に終わった。1592年、「文禄の役」では、5,000余りを率いて渡海した。1597年、「慶長の役」に参陣した。1599年、松平元康の意思を受けて李氏朝鮮との交渉に当たるが、使者が捕らえられて交渉は不調に終った。1600年、斎村政広、藤原惺窩らの尽力により朝鮮人虜囚らが帰国、明軍も李氏朝鮮を去った。「関ヶ原の役」後、講和交渉が再開された。1604年、松雲大師惟政、孫文彧が対馬国に来島し、宗義智はこれと講和内容について談合した。1605年、宗義智は松雲惟政を伴って松平元康、松平秀忠に謁見した。1606年、朝鮮は講和条件を提示して和議が結ばれた。1609年、「慶長条約(己酉約定)」を結んだ。

宗義調が後見した。

宗義成【そうよしなり(1604~1656)】

宗義智の男。官途は対馬守。通称彦七郎。1615年、父宗義智の病没により宗家の家督を相続した。1615年、「大坂夏の陣」では、京都丹波口を守備した。1617年、朝鮮通信使を江戸まで警固した。1627年、金国(のちの清国)は明国と誼を持つ李氏朝鮮に侵攻し、朝鮮使節は対馬に対し援助を求めてきた。朝鮮にとって日本は不穏な隣国であったが、金、清に対する背後防備の考えからも日本使節団を絶えることなく送った。1631年、柳川調興が領知返上を申し出て宗義成と対立した。1635年、松平家光の親裁により柳川調興は津軽弘前に、規伯玄方は南部盛岡に配流となった。1636年、朝鮮に要請して通信使の派遣を懇望し、それに応えて朝鮮も通信使を派遣した。1650年、佐須に銀山を拓いた。

宗智順【そうともしげ(15??~15??)】

宗義純の次男。朝鮮出兵のおりの四部隊長の一人で、およそ300人を率いた。平壌において、初の明軍との戦いで奮戦。柳川騒動に際しては江戸に召還され取り調べを受けた。

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【た】

橘智正【たちばなともまさ(15??~15??)】

宗義調家臣。別名井手弥六左衛門。

津奈調親【つなしげちか(15??~1557)】

宗義調家臣。通称弥八郎。1557年、山本康範とともに海賊衆を率いて宗義調に謀反を起こして船越浦を攻撃したが仁位盛家勢に撃退された。津奈調親は、壱岐国に落延びたが宗義調に謀殺された。

天荊【てんけい(15??~15??)】

宗義調家臣。妙心寺の僧。1577年、使者として朝鮮に渡海。1592年、「文禄の役」では、宗義智勢に属して朝鮮に渡海した。仁同城で宗義智に代わり、逃散した農民に仕事に戻るよう促し、兵士の乱妨を禁じる榜文を出した。著書に『西征日記』『朝鮮国往還日記』。

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【な】

中里利三郎【なかざとりさぶろう(15??~16??)】

対馬国の商人。1600年、宗義智の意向を受け戦に備えて武器、弾薬を調達した。

中原安忠【なかはらやすただ(15??~15??)】

宗義調家臣。通称久内。1592年、「文禄の役」では、明国勢の劉克良と金元命の攻撃を受けたが、これを山の背後から攻撃してこれを撃破する戦功を挙げた。

仁位盛家【にいもりいえ(15??~15??)】

宗義調家臣。官途は豊前守。1557年、山本康範、津奈調親が謀反を起こすと、宗義調の意向を受けこれを討伐した。

仁位智信【にいとものぶ(15??~15??)】

宗義調家臣。1592年、「文禄の役」では、四番隊(仁位党)を率いて朝鮮各地を転戦した。1615年、宗義智の継嗣宗義成が宗家の家督を相続すると、家老衆に任じられた。

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【は】

秦盛幸【はたもりゆき(15??~15??)】

対馬国の貿易商人。ジャワ、シャム、九州、朝鮮に往来し、貿易活動を行った。

原田助兵衛【はらだすけべい(15??~15??)】

対馬国久原の貿易商人。

古川智次【ふるかわともつぐ(15??~15??)】

宗義調家臣。1590年、柳川調信と不仲になった佐須景満を宗義智の意向を受け殿中で謀殺した。

平田成幸【ひらたなりゆき(15??~15??)】

宗義調家臣。官途は将監。

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【ま】

松尾智保【まつおともやす(15??~15??)】

宗義調家臣。通称七左衛門。

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【や】

山本康範【やまもとやすのり(15??~1557)】

宗義調家臣。通称右馬。1557年、津奈調親とともに海賊衆を率いて宗義調に謀反を起こして船越浦を攻撃した。仁位盛家勢の反撃を受け壱岐国に落延びたが宗義調に謀殺された。

柳川調信【やながわしげのぶ(1539~1605)】 

津奈調親家臣(津奈調親の養子)。官途は下野守。室は津奈調親の娘。1577年、津奈調親が山本康範とともに海賊衆を率いて宗義調に謀反を討死すると、宗義調に仕えた。1591年、副使として李氏朝鮮に派遣されるなど、外交交渉で功を上げた。李氏朝鮮から「嘉善大夫」とゆう官職を与えられた。1592年、「文禄の役」では、半島南部に構築された洞倭城代を務めた。

柳川智永【やながわとしなが(15??~1614)】 

柳川調信の男。官途は豊前守。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、島津義弘勢とともに伊勢口を突破して帰国した。このため宗家に疑いがかかるも、宗義智の弁明で事なきを得た。1608年、副使として朝鮮に派遣。「慶長条約(己酉約定)」に尽力し、柳川家に対して年一隻の貿易船派遣が許された。

柳川調興【やながわしげおき(1603~1684)】

柳川智永の男。官途は豊前守。家老職を務めた。対朝鮮外交上の手腕や松平家光とのつながりを基盤に宗義成と対立した。1636年、宗家の国書偽造を幕府に直訴したが、松平家光の裁定により敗訴となり陸奥国津軽に流罪となった。

柳川智信【やなぎとものぶ(15??~15??)】

宗智順の男(柳川調信の養子)。別名柳川景直。

柚谷康広【ゆずややすひろ(15??~15??)】

宗義調家臣。1564年、宗義調の意向を受け李氏朝鮮と交渉し、貿易制限の一部緩和に尽力した。1587年、日朝間交渉にあったが、羽柴秀吉の意思が通るはずも無く、交渉は決裂した。

柚谷智広【ゆずやとしひろ(15??~1600)】

柚谷康広の男。1598年、「慶長の役」後、李氏朝鮮国との国交回復を図るべく宗家は数度使者を送ったが、送った三人の使は誰一人として帰国しなった。それでも柚谷智広は景轍玄蘇とともに日朝交渉に尽力し、自ら交渉を持つべく李氏朝鮮に渡るが捕らえられ、幽閉のまま病没した。

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【資料Ⅰ】

対馬国(2郡/30,000石)

上県郡:佐護城、仁位湊
下県郡:厳原(府中)城

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【資料Ⅱ】

宗家三家老【そうけさんかろう】

杉村広幸、古川智次、平田成幸。

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【資料Ⅲ】

対馬国【つしまのくに)】

対馬国は、日本の九州の北方、玄界灘にある日本六番目の大きさの島。対馬国の大半を占める主島の対馬島のほか、100以上の属島が存在する。一般的にはこの対馬島と属島をまとめて対馬と称される。地理的に朝鮮半島に近いため、古くから大陸と日本列島の文物が往来し、日本にとっては大陸との文化的、経済的交流の窓口の役割を果たした。全体的に山がちで険しいが、下島の方が標高が高い。下島中央部には最高峰の矢立山があり、舞石ノ壇山、龍良山などの矢立山系が内山盆地を囲む。その北東に有明山があり、浅茅湾南岸に白嶽がある。上島の最高峰は北部にある御嶽である。島内の分水界は東に偏っていて、主要六河川のうち佐護川、仁田川、三根川、佐須川、瀬川の五河川まで西向きに流れる。東へ流れる最大のものは舟志川である。各河川の下流部には谷底平野があるものの、耕作に適した平地は少なく、陸上交通も概して不便である。

朝鮮木綿【ちょうせんもめん】

日本に輸入された朝鮮製の木綿。朝鮮の木綿生産は、高麗国の恭愍王が中国に送られた使者が木綿の種子を持ち帰ったことに始まる。李氏朝鮮王朝が成立する同世紀末期には「綿紬」とともに「綿布」が「布貨」として用いられるまでに木綿が普及し始めていた。

唐木綿【からもめん】

中国から輸入された木綿布。中国での本格的普及は元代からであり、さらに1365年の明の太祖洪武帝による木綿栽培奨励を契機として木綿栽培、織布が発展期を迎える 。日本でも木綿が本格的に生産されるが、国産の小倉木綿などを「田舎木綿」として唐木綿と区別しており、唐木綿が上質の木綿布として珍重されていた。

嶋木綿【しまもめん】

東南アジア、南アジアから日本に輸入された木綿布。左の地域からもたらされたことから「嶋渡り」の木綿、「嶋木綿」と呼ばれたとみられる。染め糸による鮮やかなストライプが織り込まれており、上質で珍重された。

虎皮、豹皮【とらかわ、ひょうかわ】

朝鮮半島や中国東北部で狩られたとみられる虎や豹の皮。日本では行縢などに用いられている。 朝鮮国王から琉球国王への進上物として何度か虎皮や豹皮が贈られていることが史料上にみえるが、琉球国王は南海産の象牙や胡椒、蘇木などを贈っているにも関わらず虎皮や豹皮は含まれていないことから、東南アジア産ではなく、朝鮮産の品物であるとみられる。

高麗鷹【こうらいたか】

朝鮮半島から日本に輸入された鷹狩り用の鷹。中世の武士たちにとって鷹狩りは一種のステータスであり、鷹は威信品でもあったと思われる。その中でも朝鮮半島から舶来した鷹は特に珍重された。

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戦国人名辞典は1520~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は示していますが、歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

大友宗麟は大友義鎮、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、徳川家光は松平家光に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、『甲州武田家臣団』by新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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