2011年9月11日日曜日

戦国上総国人名辞典

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【あ】

秋元義政【あきもとよしまさ(15??~1565)】

小糸城主。里見家臣。官途は将監。1565年、秋元義政は激しく抵抗したものの小糸城は陥落して秋元義政は嫡男秋元義久とともに討死した。

秋元義久【あきもとよしひさ(15??~1565)】

秋元義政の男。通称は小次郎。秋元家は宇都宮家の諸家で、江戸時代に大名となった秋元長朝の同族。里見家の麾下に属した。1563年「第二次国府台の戦い」で里見家が敗れると、北条氏康の命を受けた千葉胤富らの攻撃を受けるようになる。小糸城の西にあった里見義弘の居城佐貫城が北条勢に奪われると孤立無援に陥った。1565年、秋元義久は激しく抵抗したものの小糸城は陥落して秋元義久は討死した。

飯島玄蕃亮【いいじまげんばのすけ(15??~15??)】

天羽郡更和館主。1574年、牛頭天王宮の棟礼に石渡戸縫殿助とともに名前が残る。

石井宗大夫【いしいそうだゆう(15??~15??)】

正木大膳亮の家臣。正木大膳亮の元を出奔、里見忠義に属した。

石黒隼人助【いしぐろはやとのすけ(15??~15??)】

土岐家臣。1589年、羽柴秀吉が小田原城の後北条家を攻める姿勢を鮮明にすると、万木城にも北条氏政、北条氏直父子から土岐頼春宛に陣触れが届き、300騎を小田原城に送った。これを見計らって、庁南城の武田豊信が突如、手薄になった万木城を急襲した。武田豊信は鶴ヶ城、亀ヶ城の後詰を警戒し、家臣の石黒隼人助に騎馬50、弓70、徒歩100名を与えて鶴ヶ城を警戒させ、同様に鶴見甲斐守にも兵を与えて亀ヶ城の佐々木駿河守を警戒させた。万木城の土岐頼春は巨岩、巨木を投げ落とし、鉄砲をつるべ撃ちに応戦、そのうちに支城の矢獄城等の援兵が寄せ手の背後を襲い、潰走する庁南勢に退路の伏兵が待ち伏せし猛射撃を加え、家臣の多賀六郎左衛門をはじめ93の首級を挙げ快勝した。

井田友胤【いだともたね(15??~1565)】

山武郡大台城主。井田胤俊の男。官途は美濃守。室は山室常隆の娘。。父井田胤俊の頃より千葉昌胤の元服に参列するなど着実に勢力を拡大していた。井田友胤は飯櫃城主山室常隆の娘を室に迎え一門として勢力さらに拡大した。1538年、小弓公方足利義明と北条氏康家とが争った「第一次国府台の戦い」では、井田友胤は千葉昌胤とともに後北条家方に付き戦功を挙げた。1548年、大台城を築城して本城とした。1555年、隣接する坂田城主三谷胤興の内訌に介入し、山室常隆とともに千葉家に属する三谷胤興を討取った。

井田胤徳【いだたねのり(15??~1613)】

井田友胤の男。官途は因幡守。通称平三郎。1556年、里見家麾下の正木家と攻防を繰り広げた。1564年「第二次国府台の戦」では後北条方として参戦した。1568年、井田胤徳は後北条家との同盟強化を図り鷹を贈っている。1569年、岩槻城在番を命じられ、北条氏政から蜜柑と酒を贈られるなどした。後北条家による千葉家の臣従化が進むと、佐竹家の領国と接する最前線の後北条家方の城である岩槻城番、牛久城番などに動員され、度々佐竹方の多賀谷重経などに攻め込まれているが、これを撃退している。1590年「小田原の役」では、居城坂田城には留守部隊のみを置き、自身は300騎を率いて小田原城に入城した。井田胤徳は湯本口を守ったが、小田原城は開城したため下総国へ戻り、佐倉城主となった武田(松平)信吉に仕えた。

井田家臣団【いだけかしんだん】

神保長門守、津辺城主白桝和泉守、山中城主和田五郎左衛門尉胤信。

市原郡豪族衆【いちはらぐんごうぞくしゅう】

木々土清重、芦野丹波守、忍丹波守、忍民部少輔、高島恒重、湯浅七良右衛門、土橋守秀、土橋平蔵忠吉、村上大輔義芳。

牛尾胤仲【うしおたねなか(15??~15??)】

多古城主。官途は能登守。1573年、牛尾城主牛尾胤仲が攻め落とし居城とした。1555年、牛尾胤仲は飯櫃城の山室常隆、大原城の加藤兵庫らを攻めようと画策、多古城下高根真弘寺での騎射に招き謀殺しようとしたが、住職の重如坊の密告で失敗、山室常隆、加藤兵庫は協力して多古城を攻めた。1585年、多古城は落城、牛尾胤仲は弟牛尾薩摩守とともに討死にした。

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【か】

烏山時貞【からすやまときさだ(15??~1534)】 

烏山時正の男。里見家臣。通称弾正左衛門。娘は里見義豊の室。1534年「稲村の変」では里見義豊に属して里見義堯と戦い稲村城で討死した。

黒熊景吉【くろくまかげよし(15??~15??)】

長柄郡本納城主。官途は大膳亮。1565年、土気城主酒井胤治は後北条家の土気城来襲後、後北条家についたが、本納城主黒熊景吉は安房国の里見家についており、両者の間に軍事的緊張が高まった。1569年、黒熊景吉勢の土気攻撃計画を知るや、酒井胤治が本納城を急襲。黒熊景吉は自刃した。

後藤兵庫助【ごとうひょうごのすけ(15??~15??)】

真里谷武田家臣。不和になった鶴見信仲を討つため、北条氏康に内通。1543年、後藤兵庫助の笹子城を攻め落とした。

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【さ】

 東金酒井敏治【さかいとしはる(15??~15??)】

東金城主。

東金酒井敏房【さかいとしふさ(1520~1577)】

酒井敏治の男。1535年、酒井家の家督を相続する。1538年、里見義堯に従い「第一次国府台の戦い」で北条氏綱勢と戦った。敗走する里見義堯勢をまとめて殿軍を務めた。のち北条家に仕えた。

東金酒井政辰【さかいまさとき(1551~1603)】

酒井敏房の男。通称左衛門佐。1590年「小田原の役」では浅野長政隊と戦うが戦後東金城を退去、上総国幸野に隠棲した。

東金酒井家臣団【さかいけかしんだん】

河内新左衛門尉、市藤弥八郎、早野、宮田。

土気酒井玄治【さかいすみはる(15??~1555)】

山辺郡土気城主。酒井定治の男。千葉家臣。通称左衛門次郎。1540年、東金城主酒井隆敏と紛争を生じたが臼井城主原家の斡旋で和解した。
1553年、千葉親胤とともに関東乱入してきた長尾景虎を迎撃して敗北した。

土気酒井胤治【さかいたねはる(1536~1577)】

吹野出雲守の男。酒井玄治の女婿。官途は中務丞。室は千葉昌胤の姉妹桂林尼。初めは千葉家に従っていたが、千葉家が後北条家の影響下に入ると後北条家麾下の武将として関東各地で転戦した。「第二次国府台の戦い」の準備が年始の急な出陣命令のために手間取っているうちに、北条氏康が酒井胤治が出陣しない事に不信感を抱き始めているという報を聞いた酒井胤治は突如里見義弘に通じて離反して、敗走する里見義弘を救援した。このため、一転して里見家の房総半島における最前線となった土気城には毎年のように後北条勢が攻め入るようになった。酒井胤治は上杉謙信や里見義弘の支援を受けながら悉くこれを退けた。1576年、同族の東金城の酒井敏房による切り崩しと北条勢による徹底した破壊の為に、遂に酒井胤治も嫡子酒井康治を人質に差し出して降伏に追い込まれ、間もなく解放された酒井康治に家督を譲って引退した。 

土気酒井康治【さかいやすはる(1546~1608)】 

酒井胤治の男。官途は伯耆守。通称小太郎,左衛門佐。北条氏康、北条氏政の二代に仕えた。1590年「小田原の役」で、後北条家が敗れると、酒井康治は蟄居した。松平元康の大久保忠隣隊に属した。

佐是(武田)国信【さぜくにのぶ(15??~1552)】

佐是城主。武田信高の三男。通称三郎。天文年間、佐是城を築き城主となる。庁南武田家は足利義氏を小弓公方として立て、上総国、安房国の諸将と同盟して下総進出をはかる。1538年「第一次国府台の戦い」で後北条家に敗れて上総国に撤退した。1552年、椎津城主真里谷(武田)信政が後北条方に内通したため里見勢の猛攻を受け、援軍として赴いた佐是三郎国信は討死した。佐是城もこのとき落城した。

椎津隼人佐【しいづはやとのしょう(15??~1538)】

真里谷武田家臣。上総椎津一帯に勢力を持った国人衆。1538年「第一次国府台の戦い」で小弓公方足利側に属すも討死した。

椎津中務少輔【しいづなかつかさしょうゆ(15??~15??)】

蟻木城主。1575年、里見義弘の攻撃を受けて落城。城主椎津中務少輔、其の弟椎津帯刀は討死した。

須田将監【すだしょうげん(15??~15??)】

一宮城主。里見家臣。1554年、後北条家による上総侵攻、久留里城包囲戦では、一宮城主須田将監が里見勢に加勢して活躍した。1555年、再度後北条家が久留里城に来攻した際に、須田将監は北条方に内通、城外の入城寺に北条勢を誘い込み、住職とも共謀して城内に火を放ち北条勢を招きこむ作戦であったが、事前に里見義堯に露見して、住職と須田将監以下内通者は処断された。

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【た】

多賀高明【たがたかあき(15??~1564)】

池和田城主。里見家臣。官途は越後守。1538年「第一次国府台の戦い」では里見勢の一翼として参陣した。1564年「第二次国府台の戦い」で討死にした。

多賀越中守【たがえっちゅうのかみ(15??~15??)】

多賀高明の男。通称蔵人。1564年、北条氏政率いる10,000余りが来襲、多賀蔵人、多賀兵衛兄弟は池和田城に籠って奮戦したが、城内に内応者が出て落城した。

高山左衛門【たかやまさえもん(15??~1552)】

真里谷武田家臣。1552年、武田信政に属すも里見勢に討たれた。堀江藤左衛門、富田佐平次、大沢甚平、畑右近は正木勢に討たれた。山口新太郎、原田惣蔵は万喜土岐勢に討たれた。

庁南(武田)宗信【ちょうなんむねのぶ(1459~1551)】

庁南城主。庁南道信の男。惣家の真里谷家の内紛の調停に奔走した。1517年、真里谷信保、里見義堯らと共に足利義明を擁して小弓城に原基胤を討つ。

庁南(武田)吉信【ちょうなんよしのぶ(15??~1568)】

庁南宗信の男。真里谷信隆、真里谷信応の内紛では真里谷信応を持して真里谷信隆と対立した。1538年、小弓公方足利義明の勢力拡大を危惧する古河公方足利晴氏は、後北条家を頼んで下総葛西城を攻め、さらに小弓城を攻略せんとした。これに対し、小弓公方足利義明は房総諸豪に参陣を求めた。里見義堯、真里谷信応、真里谷信助、そして、庁南武田吉信、さらに土気酒井敏房、東金酒井玄治らが国府台に集った。「第一次国府台の戦い」であり、結果は、後北条方の勝利に終わった。小弓公方足利義明は討死し、里見、両武田、両酒井家らは自領に敗走した。

庁南(武田)清信【ちょうなんきよのぶ(15??~15??)】

庁南吉信の男。庁南(武田)清信は早世した。

庁南(武田)豊信【ちょうなんとよのぶ(15??~1590)】

多賀土佐守高好の男。武田清信の養子。1564年、里見義弘に従い「第二次国府台の戦い」では庁南氏信と共に参陣した。1570年、越相同盟に対抗し、里見義堯と武田晴信の同盟を仲介した。1589年、後北条家は領内の諸将に軍勢を率いて小田原に参陣するように命じた。これに、万喜城主の土岐頼春も応えて300騎余りを小田原に送った。万喜城が手薄になったのを見た庁南武田豊信は、兵を率いて万喜城に押し寄せた。武田勢は松丸に陣を布いて万喜城を激しく攻撃したため、さすがに万喜城も危うくなった。土岐頼春方の矢竹城主浅生主水助と国府台城主加治五郎らが、松丸の武田勢を急襲した。城攻めに注意を取られていた武田勢は大敗を喫し退却した。土岐勢はその退路を断とうとして、山中甲斐守らを火の子坂に配置し武田勢を攻撃した。激戦が展開されたが、ここでも武田勢は敗れ、重臣多賀六郎左衛門を討たれるなど散々の体で庁南城に撤退した。1590年、大軍を率いて京都を進発羽柴秀吉した。後北条方は籠城に決し、関東の諸将に小田原防衛に駆け付けるように檄を飛ばした。これに千葉、原、高城らの千葉一族、土気、東金の両酒井家、万喜城主の土岐家らが小田原に兵を送った。このとき、真里谷武田信高と庁武田豊信はどちらに加担するべきか迷ったため、小田原に兵を送った様子もなく、羽柴秀吉のもとへ参陣もしていない。里見義康は羽柴秀吉の求めに応じたが、万喜城の土岐家と合戦をしていため出陣が遅れた。その後、房総征伐を担当した松平元康に攻められ自刀した。

庁南(武田)信方【ちょうなんのぶかた(15??~15??)】

移地山砦主。武田宗信の次男。白井平胤の養子。別名白井河内守。庁南武田家の家老。

庁南(武田)信勝【ちょうなんのぶかつ(15??~15??)】

庁南信方の男。官途は但馬守。庁南武田家に仕える。移地山砦主。1590年、後北条が滅亡すると帰農した。後に旗本中根正成に仕え、代官職となる。

庁南(武田)宗治【ちょうなんむねはる(15??~15??)】

庁南武田家臣。1538年「第一次国府台の戦いで」小弓公方足利方に属した。

庁南家臣団【ちょうなんけかしんだん】

大泉伊賀守、榎本之介豊俊、太田新六郎。

鶴見信仲【つるみのぶなか(15??~1543)】

笹子城主。真里谷武田家臣。通称五郎。1543年、後藤兵庫助に笹子城を攻められ討死した。

万喜土岐頼定【ときよりさだ(15??~15??)】

夷隅郡万喜城主。

万喜土岐為頼【ときためより(1523~1583)】

土岐頼定の男。里見義堯家臣。官途は弾正小弼。里見義堯の後室に自分の娘(正蓮院)を入れ、また斎藤道三に領国を追われた土岐宗家の美濃守護土岐頼芸を受け入れるなど大きな勢力を有していた。1542年、北条氏綱に内応を求められるが、これを断り、逆にこれに応じた真里谷信政を攻略に参陣している。1564年「第二次国府台の戦い」での里見家の敗北後は後北条家に属した。その後は北条家に従って里見家と戦い、要害を生かして万喜城を守り通した。1579年、嫡男土岐義成に家督を譲っていた。

万喜土岐(義成)頼春【ときよりはる(1546~1590)】

土岐為頼の男。1579年、父土岐為頼の隠居により土岐家の家督を相続した。1588年、里見義康と戦う。1590年「小田原の役」では、再び里見義康と戦い敗走した。

万喜土岐家臣団【ときけかしんだん】

鶴見甲斐守、佐々木駿河守、鈴木山城守、石黒隼人助、国府台城主:三階図書之允、亀ヶ城主:佐々木信家、鶴ヶ城主:鶴見弥正行綱、浅生近郷(主水正)。

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【な】

成東胤定【なるとうたねさだ(15??~15??)】 

山武郡成東城主。千葉勝胤の五男。官途は、兵部少輔。通称八郎。1530年、名籍が絶えていた成東家を千葉勝胤が五男成東(千葉)胤定を成東城に入れて、成東家を再興した。

成東将胤【なるとうまさたね(15??~1590)】

成東胤定の男。官途は兵庫介。1590年「小田原の役」において小田原城に籠城して討死した。

二条若狭守【にじょうわかさのかみ(15??~15??)】

大戸城主。1552年、里見義堯配下の二条若狭守が築城した。

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【は】

東平安芸守【ひがしだいらあきのかみ(15??~15??)】

千本城主。1578年、里見義弘は佐貫城で病没した。里見義弘には晩年近くまで嗣子が無く、弟里見義頼を養子として後嗣にしていたが、晩年近くに室(足利晴氏息女)に梅王丸が生まれ、里見義弘と里見義頼の関係は悪化、里見義弘の葬儀には里見義頼をはじめ安房譜代家臣団は参列しなかった。里見義頼は岡本城に在城して梅王丸と対立したが、千本城主の東平安芸守、東平右馬允(光徳)父子らを中心とした小櫃川流域の家臣団や大多喜城主正木憲時、造海城主正木淡路守時盛らは梅王丸を支持した。1580年、里見義頼は東平安芸守らの立て籠もる千本城、久留里城などの小櫃川流域の諸城を攻めて降伏させ、次いで造海城の正木淡路守も降伏、佐貫城で梅王丸の後見をしていた加藤伊賀守信景の内通を誘い、佐貫城を開城させた。梅王丸は岡本城で出家させられ淳泰と号した。梅王丸の母と妹は高滝右京に預けられ、琵琶首館に幽閉された。

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【ま】

正木(通綱)時綱【まさきときつな(1492~1533)】

夷隅郡勝浦城主。里見家臣。通称大膳亮。1518年、北条早雲によって三浦家が滅ぼされた時に、幼児であった正木通綱が安房国正木郷に落ち延びて、成長して後に三浦家と友好関係にあった里見家に仕えた。里見義通の後を継いだ里見義豊の命を受けて武蔵国品川湊への攻撃を指揮した。里見実堯と里見義豊の関係が不穏になると、里見実堯に近い通綱に対しても譜代の重臣の反発が高まるようになる。1533年、稲村城において里見義豊によって里見実堯ともども謀殺された。

正木弘季【まさきひろすえ(15??~1564)】

正木時綱の男。1564年「第二次国府台の戦い」において討死した。

大多喜正木憲時【まさきのりとき(15??~1581)】

正木弘季の男。官途は大膳亮。1578年、里見義弘が没すると遺児里見義重(梅王丸)と里見義頼の間に家督争いが起き、里見義頼は里見義重を出家させて里見家の家督を相続した。1580年、里見義頼の家督相続に不満を抱き挙兵、安房国に侵攻して里見義頼勢と戦ったが敗れた。1581年、本拠大多喜城を攻められ、正木憲時は家臣に謀殺され落城した。

大多喜正木時茂【まさきときしげ(1576~1632)】

里見義頼の男。官途は大膳亮。通称正木弥九郎。1581年、正木憲時討伐後、大多喜城に入ってその名跡を継ぐ。1590年「小田原の役」後里見家は下総国の領地を没収され、正木時茂は館山城主となった。1603年、兄里見義康が死去すると幼少の里見忠義(梅鶴丸)を補佐した。1606年の「里見家分限帳」では8,000石を領した。1614年「大久保忠隣事件」に連座して里見家は改易、里見忠義、正木時茂は鳥取倉吉に預けられた。1622年、里見忠義が病没すると鳥取潘池田光政に預けられた。

正木時茂【まさきときしげ(1513~1561)】

正木時綱の次男。官途は大膳亮。通称弥九郎。1533年、里見家内部で「稲村の変」が発生し、父正木時綱と兄正木時綱が討死したため家督を相続した。1534年、里見義堯に寄騎として属し、里見義豊討伐に参陣した。1538年「第一次国府台の戦い」にも参陣した。1542年、真里谷家の勢力が衰退すると東上総に進出し勝浦城を攻め落としている。1544年、真里谷朝信を討ち、その所領である大多喜城を奪って居城とした。1561年、越後長尾景虎が関東出陣すると、里見義堯の嫡男里見義弘に従って嫡男の正木信茂とともに参陣した。正木時茂は槍術に優れており、その恐るべき武勇から「槍大膳」と称された。

正木時忠【まさきときただ(1521~1576)】

正木時綱の三男。官途は左近大夫。1544年、上総国の真里谷家の内紛への介入を里見義堯から命じられた兄正木時茂は、真里谷朝信を討ち取るなど、東上総をまたたくまにその傘下におさめた。1552年、正木時忠は勝浦城を任され、勝浦正木家を興し、真里谷朝信から奪った大多喜城に入った大多喜正木時茂を補佐した。里見義堯から東上総国の軍権を任された兄正木時茂に従い、真里谷家の残党や下総国の千葉家など近隣の勢力と戦ったり、上総国に海を越えて勢力を伸ばそうとする後北条家と争い、多くの戦功を挙げた。兄正木時茂の病没後は、弱体化した大多喜正木家に代わり正木家の実力者となっていた。次第に里見家からの自立を志向するようになる。1564年「第二次国府台の戦い」後に北条氏康に接近し、子の正木時長(頼忠)を人質として北条氏康に差し出し、軍事的な支援を受けるようになった。その後は後北条氏の傘下の勢力として里見氏と争ったが、後北条家が駿河を巡って甲斐武田家との抗争を繰り広げるようになると、思うような支援が得られなくなったため、まもなく里見家方に帰参した。

正木時通【まさきときみち(15??~1575)】

正木時忠の男。通称十太郎。官途は左近将監。1564年「第二次国府台の戦い」に父と共に参加した。戦後父が北条家に降るとこれに従った。上総国一宮城を攻略した。父正木時忠とともに里見家からの自立を図るようになり弟正木頼忠を人質として北条氏康に差し出すと、里見家から離反して、あくまで里見家に従う従兄弟正木憲時を攻撃して上総国に勢力を伸ばす。以後、里見家と争うが、正木時通はあくまでも里見家によって抑え込まれていた自己の勢力拡大に主眼を置いており、同じ後北条傘下の千葉胤富を攻撃してその領土を奪った事から次第に周辺勢力から孤立する。そこで天正年間初頭には再び里見家に復して、後北条方との戦っている。

正木道俊【まさきみちとし(15??~1611)】

正木時茂の男。官途は石見守。父死後、大多喜城を正木憲時が継いだので道俊は金山城主となった。1580年、正木憲時が謀叛を起こすとこれに呼応し里見義頼と戦うが敗北。1581年、正木憲時が暗殺されると里見義頼に降伏した。1590年、知行530石を領した。

正木頼忠【まさきよりただ(15??~1622)】

正木時忠の次男。官途は左近大夫。通称権五郎。室は北条氏尭の娘。継室に里見義堯の娘。1564年、大多喜正木家の勢力が弱まると、父正木時忠は里見家からの自立を目論み、北条氏康に属した。このとき、次男である正木頼忠は人質として小田原城に送られた。小田原において結婚し、正木為春と於万を儲けている。後に正木時忠とその跡を継いだ兄の正木時通は後北条家から離れ里見家に再属した。正木頼忠は後北条家の縁戚であるため殺害されなかったが、その日常生活は厳しく監視された。1575年、兄正木時通が病没、翌年には父も死去したため、正木頼忠が勝浦正木家の家督を相続し、勝浦城に戻ったが、室や嫡男正木春達は小田原に残すことになった。その後、里見義頼に味方し、その当主擁立に協力し、それに反発した大多喜正木家の正木憲時が反乱を起こすと、里見義頼とともにこれを攻め滅ぼした。その後、里見義堯の娘を継室として迎えた。1587年、後北条家と交渉し、人質となっていた二人の子を呼び戻した。また前室は蔭山氏広の室となった。1590年、羽柴秀吉の「小田原征伐」により後北条家が滅亡すると、里見家は上総国の領国を失い、勝浦正木家も所領を捨てて安房国へ去ることになった。1592年、正木頼忠は隠居した。娘の於万が松平元康に見初められ側室として寵愛を受けた。1598年、松平元康より出仕を求められたが自らは固辞し、嫡男正木為春が出仕した。

真里谷(武田)信清【まりやつのぶきよ(1478~1534)】

望陀郡真里谷城主。真里谷信勝の男。官途は三河守。通称八郎五郎。別名恕鑑(じょかん)。上総において千葉氏や原氏などと勢力を競い、1516年、相模国の伊勢盛時(北条早雲)から援軍を受けて下総国の原家と戦っている。1518年、真里谷武田家の勢力を拡大するため、古河公方の足利高基と対立していた足利義明と結び小弓公方として擁立した。このため、真里谷武田家は、古河公方陣営にとどまった本家筋の長南武田家を凌ぐ勢力を誇るようになった。武蔵を巡って後北条家と扇谷上杉家との抗争が激化すると、扇谷上杉家の要請を受けて後北条氏の北条氏綱と敵対した。1524年、品川港を勢力圏に置いた。さらに、安房の里見家の里見義豊と同盟を結び、後北条家との抗争を優位にすすめ、勢力圏を武蔵国まで拡張させ、鎌倉をも勢力圏に置くようになった。

真里谷(武田)信秋【まりやつのぶあき(15??~1549)】

佐貫城主。真里谷信勝の次男。官途は大学頭。別名全方(全芳)。1534年、兄真里谷信保の死後に、その嫡子真里谷信応と庶長子の真里谷信隆との間で家督争いが起きたが、真里谷全芳は真里谷信応を補佐し活躍した。1537年、家督騒動は真里谷信応の勝利で終結した。里見義堯の仲介により、真里谷信隆に味方した北条氏綱と和解し、真里谷信隆の居城であった峰上城が真里谷全芳に預けられたという。以後、真里谷信応の補佐役として小弓公方との交渉にあたった。

真里谷(武田)信隆【まりやつのぶたか(15??~1551)】

真里谷信清(恕鑑)の庶長子。通称八郎太郎。安房国里見家に「稲村の変」が起きると、父真里谷信清は里見義豊を支持したが、真里谷家の一族の一部は対立者の里見義堯を支持した。里見家の内紛は里見義堯の勝利に終わった。1534年、父真里谷信清と嫡子の真里谷全鑑が同時期に死去した。真里谷信清の死後、真里谷家は相模の北条氏綱への従属姿勢を強めた。1537年、真里谷家の家督を弟真里谷信応と争う(上総錯乱)ようになった。真里谷信隆は本城峰上城を中心に造海城、天神台城などを版図におき、小弓公方足利義明に支持された真里谷信応に対抗するため、里見義堯や後北条氏綱に援軍を求めるなど頑強に抵抗したが、結局は敗れ、峰上城を明け渡し足利義明に降伏した。真里谷信隆は北条氏綱を頼って落延びた。真里谷家は真里谷信応が当主となり、佐貫城の真里谷信秋、真里谷義信父子が実権を握った。1538年「第一次国府台の戦い」で足利義明が討死した。足利義明の後ろ盾を失った真里谷信応の勢力が弱まると、北条氏綱方に加わっていた真里谷信隆はその支援を得て、椎津城を本拠とし復権を果たした。里見義堯と結んだ真里谷信応の勢力も衰えることはなかった。1541年、再び真里谷一族での内紛(中尾城の内紛)が再発した。真里谷信隆は家臣の後藤家や鶴見家の讒言を受けて対立する笹子城の武田信茂を殺害した。この内紛は、北条氏綱、里見義堯それぞれが真里谷武田家の介入を強めた。1544年、真里谷信隆派の重鎮であった小田喜城主真里谷朝信が正木時茂のために討たれている。内紛の末に勢力を弱めた真里谷家は、房総の強国の地位から転落した。

真里谷(武田)信応【まりやつのぶまさ(1515~1552)】

真里谷(信清)恕鑑の次男。正室の次男として産まれたので、正式には真里谷嫡男であったが、誕生時には既に庶兄真里谷信隆が後継者として立てられていたため、父真里谷信清が隠居したときに真里谷家の家督を相続できなかった。しかし、庶兄真里谷信隆への家督継承には、父真里谷信清の対立者であった足利義明からの横槍が入る。そこへ一族の有力者である真里谷全方らの支持も加わって、兄真理谷信隆を破って家督を相続した。1538年、「第一次国府台の戦い」での小弓公方足利義明が討死したため後ろ盾を失う。北条氏綱と手を結んだ真里谷信隆の反撃に遭って再度家督を奪われ、追放された。真里谷信応は里見義堯を頼って落延びた。真里谷信隆の後を継いだ真里谷信政が里見義堯に攻められると、突然、里見義堯に反旗を翻してこれに抵抗して甥である真里谷信政を助ける。既に同族の真里谷朝信が里見義堯家臣の正木時茂に討たれて大多喜城を奪われており、里見義堯の野望が真里谷家そのものに向けられているという危機感を抱いたためである。1552年、椎津城陥落のために真里谷信政が自刃。時を同じくして真里谷信応も自刃に追い込まれた。

真里谷(武田)信高【まりやつのぶたか(15??~15??)】

真里谷信応の男。1564年「第二次国府台の戦い」では、里見家に属して出陣した。「第二次国府台の戦い」の緒戦は里見家、太田家連合軍の優勢に進んだが、北条氏康の奇襲によって形勢逆転をきした。真里谷信高、庁南豊信らは奮戦したが、里見家らとともに敗走し一族の真里谷信秀が討死した。後北条勢は敗走する里見義弘勢を追って南下し椎津城に迫った。真里谷信高、庁南豊信、土岐家、東金の酒井家らは後北条家に款を通じて里見家から離脱した。里見義弘方に残ったのは土気の酒井家、秋元城主の秋元家、池和田城主の多家らであった。1567年、後北条家は里見義弘討伐勢10,000余り北条氏政、北条氏照を大将に房総に送り込んだ。里見義弘は、正木時茂の出陣を促し、みずからも佐貫城から出陣した。里見義弘は後北条家を地の利を生かす戦術を展開して、後北条勢を撃破した。後北条勢は岩付城主太田氏資をはじめ、多くの将士が討死した。里見勢の勝利により真里谷信高や庁南豊信らは里見家の麾下に属した。1590年「小田原の役」では、真里谷武田信高と庁武田豊信は中立的態度を取った。小田原城が落城すると、浅野長吉を将とする羽柴勢が進攻し後北条側に加担したり、中立的態度をおったりした諸将の居城を攻め落としていた。里見義康は参陣が遅れたという理由で上総国、下総国の地を没収され安房一国だけが与えられた。態度が不鮮明だった両武田家も没落した。

真里谷(武田)義信【まりやつよしのぶ(15??~15??)】

真里谷信秋の男。

真里谷(武田)直信【まりやつなおのぶ(15??~15??)】

大多喜城主。真里谷(恕鑑)信清の嫡男。1524年、真里谷家の家督を相続したが「品川の戦い」で討死したため、次弟の真里谷(武田)信隆が真里谷家の家督を相続した。

真里谷(武田)朝信【まりやつとものぶ(1500~1544)】

真里谷直信の男。室は真里谷信隆の家臣である後藤家の娘。里見家の内紛(天文の内訌)の際に、真里谷信清の命により自分の娘婿でもある里見義豊の救援に向かう。だが、里見義豊は里見義堯に討たれてしまい、真里谷朝信は対抗して安房国天津城を占拠して城主となる。真里谷信清の病没後の後継者争いでは、真里谷信応を支持する真里谷信秋など一族の意向に反し、朝信は信応の庶兄である真里谷信隆を支持して信応方についた里見義堯と再び争った。1541年、里見義堯の家臣正木時茂が天津城を攻められ落城した。真里谷朝信の勢力圏は正木時茂、正木時忠兄弟の攻勢にさらされるようになった。真里谷武田家は内紛で弱体化し、上総は北条氏綱、里見義堯の草刈場と化していた。正木時茂、正木時忠の北上は続き、劣勢の真里谷朝信は抗戦した。1544年「上総刈谷原の戦い」において正木時茂によって討たれ、大多喜城は正木時茂によって落城した。以後、正木時茂の大多喜正木家が東上総を支配することになった。真里谷朝信は、嫡男真里谷信正とともに椎津城れたが討死した。

真里谷(武田)家臣団【まりやけかしんだん】

真里谷(武田)源三郎信常、真里谷(武田)四郎次郎、真里谷(武田)丹波守、真里谷(武田)左近、西弾正、堀江藤左衛門、富田左兵次、山口新太郎、大竹信満、大鐘隼人、。

三上但馬守【みかみたじまのかみ(15??~15??)】

真名城主。1516年、三上家は扇谷上杉家の求めに応じ、古河公方足利高基派の千葉家臣の原家らが籠る亥鼻城を攻撃した。上総国中央部の真里谷城、庁南城を本拠にしていた上総武田家は養老川上~中流域の畔蒜庄から、上総、下総国境の市原郡方面へ進出し、下総側国境の小弓城の原氏、真名城の三上但馬守らと対立、真里谷城主真里谷(武田)信保は苦戦していた。151)年、真里谷城の真里谷信保の求めに応じ北条早雲が援軍を派遣、三上但馬守の籠る真名城を攻撃し落城させた。

三谷信慈【みたにしんじ(15??~15??)】

山武郡坂田城主。1555年、飯櫃城主山室勝信は坂田郷、千田荘方面へ侵攻、井田因幡守友胤は山室勝信、和田胤信らの援軍を得て、金光寺に参詣した三谷大膳亮信慈を奇襲「宝馬野の戦い」で三谷家に大勝し、三谷家は滅亡した。坂田城は井田家が乗っ取った。1556年、敗れた三谷信慈の一族、三谷蔵人佐は香取二の原で挙兵し坂田城奪回を試みたが、井田胤徳に反撃されて敗走した。この戦いでは井田友胤の弟、井田氏胤が討死にした。井田友胤は合戦後剃髪入道し、嫡男井田胤徳が相続した。

本吉三郎兵衛【もとよしさぶろうびょうえい(15??~15??)】     

亀山城主。里見家臣。1564年、里見家が「第二次国府台の戦い」で敗退し後北条家の勢力が上総国に及んでくると本吉三郎兵衛は、後北条方にな内通した。1579年、里見義弘は、岡本左京亮頼元を大将とし、久留里城代の山本弾正、小糸城の秋元勘解由らの手勢をもって亀山城を攻めさせた。本吉は奮戦したが、討死にして、城も落城した。

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【や】

山室常隆【やまむろつねたか(15??~15??)】

山辺郡飯櫃城主。1532年、山室常隆は飯櫃城を築城し武射郡山室城から本拠を移し勢力を拡大した。山室常隆は大台城主の井田因幡守、山中城主の和田胤信らを麾下に、徐々に勢力を伸ばして行き、最盛期には芝山を中心として50,000石を領した。下総国の千葉家に属して行動した。1555年、山室常隆は多古城主牛尾胤仲と騎射のことで論争となり戦いに発展した。山室常隆は牛尾胤仲の弟牛尾薩摩守を射殺、多古城を攻撃し城に火を放って奪い取った。

山室勝信【やまむろかつのぶ(15??~15??)】

山室常隆の男。1555年、牛尾胤仲は飯櫃城の山室勝信、大原城の加藤兵庫らを攻めようと画策、多古城下高根真弘寺での騎射に招き謀殺しようとしたが、住職の重如坊の密告で失敗した。1585年、山室勝信と加藤兵庫は協力して多古城を攻め落城させ牛尾胤仲を討取った。

 山室光勝【やまむろみつかつ(15??~15??)】

山室勝信の男。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」で、後北条家が滅ぶと、後北条家に属していた山室勝信の飯櫃城は松平勢の大軍に囲まれ、嫡男山室光慶、次男山室光重、三男山室重昌、一門の山室弾正左衛門、山室太郎、山室監物三郎、家老の怒賀源太左衛門入道ら、さらに上下総州落城え生き残った諸将士らが加勢して、飯櫃城には800余騎の武者が籠ったというと籠城むなしく城は落城した。

山室家臣団【やまむろけかしんだん】

調査中。

鑓田勝定【やりたかつさだ(15??~15??)】

夷隅郡小浜城主。土岐家臣。官途は美濃守。1588年、里見義頼の命を受けて相模三浦に侵攻して北条氏直と戦うが、その隙に小浜城を正木左近大夫(頼忠)に奪われた。里見家は援軍を送って小浜城の奪回を図ったが、攻め落とすことができなかった。1589年、無念に思っていた鑓田勝定は夜陰に乗じて激しく城を攻め、ついに奪還に成功した。1590年、松平元康の関東入部に抵抗し、本多忠勝の攻撃を受けて没落した。

吉原玄蕃助【よしわらげんばのすけ(15??~15??)】

真里谷武田家臣。峰上城尾崎郭二十二人衆(根古屋衆)の頭領。1549年、里見家の金谷城を攻めで放火した。真里谷武田家が内乱で弱体化すると、後北条家に属した。1554年、北条氏康の命により里見義堯と戦った。

和田胤信【わだたねのぶ(15??~15??)】

山武郡山中城主。井田胤徳家臣。山中城は和田胤信によって築城され、その所領は2,500石と150騎の軍役を負担した。

和田胤富【わだたねとみ(15??~15??)】

和田胤信。官途は伊賀守。和田胤富は、井田胤徳の陣代として武蔵国、常陸国を転戦した。井田家が後北条家の麾下に属すると、井田家300騎の軍役の内30騎を負担した。

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【資料Ⅰ】

上総国(9郡)

市原郡:池和田城。
望陀郡:久留里城、真里谷城、椎津城、久保田城。
周淮郡:
埴生郡:庁南城、舎人城、玉前神社。
長柄郡:一宮城、榎本城。
山辺郡:土気城、飯櫃城、東鏡城。
武射郡:鳴土城。
天羽郡:造海(百首)城、佐串城、峯上城、勝見城。
夷隅郡:大喜多城、勝浦城、小浜城。

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【資料Ⅱ】

国の集団。

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【資料Ⅲ】

国の詳細。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「房総戦国土豪の終焉」崙書房、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

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