2011年9月26日月曜日

戦国出雲国人名辞典

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【あ】

青木貞久【あおきさだひさ(15??~15??)】

三刀屋頼扶家臣。1569年、「三刀屋城の戦い」では、山中幸盛らが尼子勝久を擁立して出雲国に侵攻すると、三刀屋頼扶は尼子勝久勢に属した。青木貞久は毛利元就勢に属して戦功を挙げた。参考文献:『防長将星録』by河村真就。

赤穴久清【あかなひさきよ(1471~1553)】 

飯石郡赤穴瀬戸山城主。尼子経久家臣。赤穴幸清の男。官途は駿河守。通称善太郎。1515年、隠居して赤穴家の家督を継嗣の赤穴光清に譲った。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、毛利元就勢の熊谷直続を討取る戦功を挙げたが、継嗣の赤穴光清が討死した。赤穴光清の継嗣赤穴詮清と次男赤穴定清は大内義隆勢に属して、北九州で討死したため、孫の赤穴盛清に赤穴家を相続させ、後見役を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤穴光清【あかなみつきよ(1493~1542)】

赤穴久清の男。官途は備中守。通称九郎太郎。1515年、父赤穴久清の隠居により赤穴家の家督を相続した。1527年、大内義隆の家臣陶興房勢が江田侵攻すると、佐東銀山城の城番を務めた。1542年、「第一次月山富田城の戦い」で陶晴賢勢と戦いで討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤穴詮清【あかなあききよ(15??~1544)】

赤穴光清の男。1544年、大内義隆勢に属して北九州に参陣して討死した。

赤穴定清【あかなさだきよ(15??~1542)】

赤穴光清の次男。

赤穴盛清【あかなもりきよ(1528~1595)】

赤穴光清の男。官途は右京亮。通称満五郎。1542年、父赤穴光清の討死後、瀬戸山城を奪還したため、大内義隆に人質とされていた、兄赤穴詮清と赤穴定清が処刑されたため、三男赤穴盛清が赤穴家の家督を相続した。祖父赤穴久清の後見を受けて尼子晴久に属して山陰地方を転戦するが、劣勢を覆すことができなかった。1562年、「石見山吹城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け本城常光が降伏すると、赤穴盛清も内応した。1578年、「播磨上月城の戦い」では、吉川元春勢に属して参陣した。赤穴盛清は継嗣に恵まれず、弟赤穴幸清が家督を相続した。

赤穴幸清【あかなよしきよ(15??~15??)】

赤穴光清の四男。兄赤穴盛清は嫡男に恵まれず、弟赤穴幸清が赤穴家の家督を相続した。1587年、山陰方面を担当する吉川広家勢に従って各地を転戦した。
吉川広家が兄吉川元長の病没により吉川家の家督を相続すると、益田元祥、熊谷元直、古志重信、湯家綱らとともに起請文に連署した。

赤穴元寄【あかなもとより(15??~15??)】

赤穴幸清の男。父赤穴幸清の病死にともない赤穴家の家督を相続した。1590年、毛利輝元から遺領の相続が認められた。1591年、毛利輝元から1,668石の知行を安堵された。1591年、「文禄の役」に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長に転封なるとそれに従った。

秋上孝重【あきあげたかしげ(15??~15??)】

尼子経久家臣。1523年、大庭大宮の神職を相続した。

秋上綱平【あきあげつなひら(15??~15??)】

尼子経久家臣。森山城主。通称三郎左衛門。備後国内で10,000石を領した。1523年、兄秋上孝重が大庭大宮の神職を相続したため、次男の秋上綱平が尼子経久に仕えた。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」後、尼子義久が毛利元就に降伏すると、継嗣の秋上久家とともにそれに従った。1569年、山中幸盛が尼子勝久を擁して挙兵するとこれに従い毛利元就勢と戦った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

秋上孝重【あきあげたかしげ(15??~15??)】

秋上綱平の男。叔父の秋上孝重と同名。秋上孝重の大庭大宮の神職を相続した。

秋上久家【あきあげひさいえ(15??~15??)】

秋上綱平の次男。通称助次郎。別名秋上宗信。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、白鹿城に援軍に赴き毛利元就勢と戦った。1566年、尼子義久が毛利元就に降伏するとそれに従った。1569年、尼子勝久を擁して山中幸盛らとともに挙兵した。1570年、「布部山の戦い」では、横道正光とともに毛利元就勢と戦うが敗れた。1571年、「米子城の戦い」では、羽倉孫兵衛が討死したため、野村信濃守らとともに毛利元就に降伏した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

朝山利綱【あさやまとしつな(15??~15??)】

尼子経久家臣(朝山重綱の養子)。八束郡佐太城主。1523年、出雲大社の会祭礼を尼子経久に報告した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

朝山綱忠【あさやまつなただ(15??~15??)】

朝山利綱の男。官途は越前守。父朝山利綱の跡を継ぎ出雲太神社の宮司職を務めた。1520年、「海老山城の戦い」では、佐太神社神領を横領した新田右馬頭守を討取る戦功を挙げた。

朝山貞綱【あさやまさだつな(15??~1562)】

朝山綱忠の男。1553年、「美作高田城の戦い」では、浦上宗景勢と戦い戦功を挙げた。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、松田誠保を支援するため参陣するが毛利元就勢の補足され討死した。

朝山慶綱【あさやまよしつな(15??~15??)】

朝山綱忠家臣。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で朝山貞綱が討死したため、朝山慶綱が朝山惣領家の家督を相続した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

尼子経久【あまごつねひさ(1458~1541)】

能義郡月山富田城主。尼子清定の男。官途は伊予守。通称又四郎。室は吉川経基の娘。1478年、尼子家の家督を相続し出雲国守護代職を務めた。1484年、社地押領等の罪により罷免されて追放処分を受けた。1486年、「月山富田城の戦い」では、守護代職の塩冶掃部介を討取り月山富田城を奪回した。1488年、三沢為忠、赤穴久清、三刀屋頼扶らの出雲国人衆を帰属させた。1524年、「大永の五月崩れ」では、伯耆国に侵攻して倉吉打吹城主山名澄之、羽衣石城主南条宗勝らを駆逐して次男の尼子国久を羽衣石城主にを任じた。1518年、「磨石城の戦い」では、桜井宗的勢と戦いで継嗣の尼子政久が討死した。1532年、「佐陀城の戦い」で謀叛を起こした塩冶興久を討取った。1537年、孫の尼子晴久に尼子家の家督を譲り後見役を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

尼子久幸【あまごひさゆき(15??~1541)】

尼子清定の次男。官途は下野守。沈毅にして勇猛の名将。兄の尼子経久は継嗣尼子政久の討死後、尼子久幸に家督を譲ろうとしたがこれを固辞した。1540年、「第一次吉田郡山城の戦い」では、兄尼子経久とともに出兵に反対したが、新宮党を率いて参陣した。1541年、大内義隆勢の反撃を受け撤退戦で討死した。

尼子政久【あまごまさひさ(1488~1518)】

尼子経久の男。官途は民部少輔。通称又四郎。室は山名兵庫頭の娘。別名「花実相応の大将」。勇武に優れた武将。1518年、「磨石城の戦い」では、謀反を起こした桜井宗的を討伐するため出陣した。長陣に疲れる兵士を労わるため、夜陰に紛れて笛を奏でていたが、桜井宗的勢に射殺された。尼子国久は磨石城を強襲させて城兵を虐殺させた。

尼子国久【あまごくにひさ(1492~1554)】

尼子経久の次男。官途は紀伊守。通称孫四郎。新宮党の目頭。1524年、「羽衣石城の戦い」後、羽衣石城は尼子国久が守備した。1540年、「第一次吉田郡山城の戦い」に尼子国久が出撃した隙をついて南条宗勝は奪還に動いたが撃退した。1544年、備後国布野に侵攻して毛利元就勢の福原貞俊、児玉就忠を撃破した。1544年、美作国に侵攻して医王山城などを攻落した。1546年、「橋津川の戦い」では、嫡男尼子豊久を喪うものの山名澄之勢を撃破、武田常信を討取り、南条宗勝を追うなどの戦功を挙げた。尼子晴久とは意見の対立をさせた。1554年、謀叛の嫌疑を受け、尼子晴久の急襲を受けて枝連衆とともに謀殺された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

尼子興久【あまごおきひさ(1497~1534)】

尼子経久の三男。官途は宮内大輔。通称彦四郎。勇武に優れ、父尼子経久とともに出雲各地を転戦した。出雲国塩冶に9,000石を領した。1534年、亀井秀綱を介して父尼子経久へ700貫の所領増加を申し出るが断られ、亀井秀綱及び尼子経久に対して謀叛を起こしたが敗北、備後国甲山城主山内直通を頼って落延びる途中で自刃した。

尼子晴久【あまごはるひさ(1514~1560)】

尼子政久の男。通称三郎四郎。官途は修理大夫。室は尼子国久の娘。1537年、「磨石城の戦い」で父尼子政久が討死したため、祖父尼子経久の後見を受け尼子家の家督を相続した。1537年、「播磨置塩城の戦い」では、赤松晴政を播磨三木城に追い落した。1539年、「播磨英賀城の戦い」で三木通明を降伏に追い込んだ。1541年、「吉田郡山城の戦い」では、大内義隆勢の反撃を受け、湯原宗綱、三沢為幸、尼子久幸らが討死して大敗した。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢を撃退して大内義房を討取る戦功を挙げた。1548年、隠岐国、出雲国、伯耆国、因幡国、美作国、備前国、備中国、備後国の八ヶ国の守護職に任ぜられた。1552年、毛利元就の諜略により、新宮党を滅ぼした。1556年、吉川元春は大内義長領であった銀山を略取した。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1558年、「石見国忍原の戦い」で毛利元就勢を撃破し、石見銀山を奪還した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

尼子義久【あまごよしひさ(1541~1610)】

尼子晴久の男。官途は右衛門督。通称三郎四郎。1560年、父尼子晴久の病没を受けて尼子家の家督を相続した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け白鹿城を失った。1563年、尼子倫久、尼子吉久とともに毛利元就へ降伏した。ここに尼子経久、尼子晴久と続いた尼子家は滅亡した。落城後は安芸国の円妙寺に幽閉された。1589年、尼子元知を養子に迎えた。1596年、剃髪して出家した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

尼子倫久【あまごともひさ(15??~1623)】

尼子晴久の男。通称九郎四郎。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、白鹿城の支援に赴きながら失敗した。塩谷口を守備して山中幸盛、立原久綱、秋上庵介、大西高由らを率いて吉川元春、熊谷信直らと戦った。尼子義久が降伏すると安芸国円妙寺に幽閉された。1577年、「播磨上月城の戦い」で尼子勝久、山中幸盛らが討死すると毛利輝元に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」に毛利輝元に従って参陣した。

尼子秀久【あまごひでひさ(15??~1609)】

尼子晴久の三男。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、宇山久兼、佐世清宗らを率いて小早川隆景勢と戦った。1566年、尼子義久が降伏すると、安芸国に幽閉された。1589年、安芸国に居館を構え毛利輝元に仕えた。

尼子誠久【あまごさねひさ(15??~1554)】

尼子国久の男。官途は式部大輔。通称孫四郎。室は多賀宗隆の娘。新宮党を率いて山陰地方各地を転戦した。継嗣の尼子氏久と対立して家督を取り上げようとし、それに怒った尼子氏久が尼子晴久に讒言したのが新宮党誅戮の契機となった。1554年、尼子晴久による新宮党とともに謀殺された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

尼子敬久【あまごたかひさ(15??~1554)】

尼子国久の次男。官途は左衛門太夫。新宮党。父尼子国久とともに山陰地方各地を転戦し、尼子経久の勢力拡大に貢献した。1554年、尼子晴久が尼子国久、兄尼子誠久を謀殺すると、居館で自刃した。

尼子豊久【あまごとよひさ(15??~1546)】

尼子国久の三男。官途は兵部太夫。新宮党。父尼子国久とともに山陰地方各地を転戦し、尼子経久の勢力拡大に貢献した。1546年、「橋津川の戦い」で山名澄之勢と戦い討死した。

尼子氏久【あまごうじひさ(15??~1554)】

尼子誠久の男。官途は刑部少輔。1554年、父尼子誠久により廃嫡を迫られた尼子氏久が尼子晴久に父の横暴を訴えたため起きた。

尼子吉久【あまごよしひさ(15??~1554)】

尼子誠久の次男。通称神四郎。1554年、父尼子誠久兄弟とともに尼子晴久により謀殺された。

尼子常久【あまごつねひさ(15??~1554)】

尼子誠久の三男。通称善四郎。1554年、父尼子誠久兄弟とともに尼子晴久により謀殺された。

尼子勝久【あまごかつひさ(1553~1578)】

尼子誠久の五男。通称の孫四郎。1554年、祖父尼子国久、父尼子誠久らが尼子晴久によって謀殺されると、小川重遠の手引きで吉田永源寺に落延び出家した。1568年、還俗して山中幸盛、立原久綱らとともに出雲国の奪還を図った。1570年、「布部山の戦い」で毛利元就勢と戦って敗れ、京都へ落延びた。1578年、「播磨上月城の戦い」では、織田信長勢の支援を受け上月城に入城したが、毛利輝元、宇喜多直家勢に包囲された。1578年、別所長治が謀反を起すと、羽柴秀吉勢が撤退したため、城兵の助命を条件として尼子勝久は弟尼子通久、神西元通とともに自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

尼子通久【あまごみちひさ(15??~1578)】

尼子誠久の六男。1554年、新宮党の謀殺事件以後他国に落延びていたが、尼子勝久を旗頭とする尼子残党の決起に参陣した。1578年、「播磨上月城の戦い」で敗れると、毛利輝元の要求で尼子勝久、神西元通らとともに自刃した。

池田新三郎【いけだしんざぶろう(15??~15??)】

尼子晴久家臣。1554年、新年の挨拶のため富田城に登城しようとした尼子敬久を謀殺しようとしたが、尼子敬久の反撃により戦意を喪失した。

石原久右衛門尉【いしはらひさえもんのじょう(15??~15??)】

立原久綱家臣。1578年、毛利輝元によって立原久綱とその娘とともに安芸国で幽閉された。立原久綱は嵐の夜に船を奪い、織田信長のもとに落延びた。

牛尾幸清【うしおよしきよ(15??~15??)】

大原郡牛尾城主。尼子経久家臣。官途は遠江守。「尼子分限帳」では備前国内で100,000石を領した。1511年、「山城舟岡山の戦い」では、尼子経久に従って参陣した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、窮地にあった安芸国武田信実の擁護に赴いた。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣した。小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。

牛尾久信【うしおひさのぶ(15??~1586)】

牛尾幸清の男。官途は信濃守。通称太郎左衛門。『尼子分限帳』では、伯耆国内に17,000石を領した。1560年、父牛尾幸清とともに本城常光への援軍に赴いた。1561年、福屋隆兼とともに石見福光城を攻撃したが失敗した。1562年、「白鹿城の戦い」で白鹿城主松田誠保の救援に赴いて毛利元就勢熊谷信直勢らと激闘したが負傷した。のち父牛尾幸清、弟牛尾弥二郎とともに毛利元就に降伏した。備前国宇留津城で討死した。。

牛尾幸信【うしおゆきのぶ(15??~1570)】

牛尾幸清の次男。官途は弾正忠。1570年、「布部山の戦い」では、尼子勝久勢に属して参陣したが敗退した。「牛尾城の戦い」では、妻子及び弟牛尾隣西堂、牛尾甚次郎らとともに毛利元就勢に抵抗したが力尽き自刀した。

牛尾久清【うしおひさきよ(15??~15??)】

鰐走城主。1561年、福屋隆兼の仲介役として、福原隆兼の次男二郎を尼子義久への人質とした。1562年、家臣山崎某は毛利勢の松山城攻めで討たれた。1563年、松田誠保とともに白鹿城に籠もる。援軍に来る予定だった毛利隆元が急死し、毛利元就は白鹿城攻めを弔い合戦とした。白鹿城落城により月山富田城に落延びた。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、兵糧が尽きたため降伏した。

馬田慶信【うまたよしのぶ(15??~15??)】

大原郡大東馬田城主。官途は尾張守。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣した。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1554年、元旦に行われた連歌会に列席して和歌を詠じた。

馬田慶篤【うまたよしあつ(15??~1570)】

大原郡童山城主。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受け降伏した。1562年、本城常光が謀殺されると再び尼子晴久に属した。1570年、「伯耆尾高城の戦い」では、尼子勝久に従い杉原盛重勢と戦い討死した。

宇山久秀【うやまひさひで(15??~15??)】

邑智郡宇山城主。官途は飛騨守。尼子家筆頭家老職を務めた。『尼子分限帳』では、石見国内で187,700石を領した。

宇山久兼【うやまひさかね(15??~1566)】

宇山久秀の男。官途は飛騨守。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣したが大内義隆勢の反撃を受け大敗した。1544年、「第一次備前高田城の戦い」では、三浦貞久勢の反撃を受け敗走した。1548年、「第二次備前高田城の戦い」では、三浦貞久が病没すると高田城を攻落とし城代を務めた。1553年、「美作高田城の戦い」では、浦上宗景勢の攻撃を受けるが撃退した。1559年、「第三次高田城の戦い」では、三浦貞勝勢の攻撃を受け落城した。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、尼子倫久勢に属して亀井秀綱らと白鹿城を救援に赴くが敗退した。尼子義久の寵臣大塚与三右衛門讒言を受けて尼子義久に誅殺された。

宇山弥四郎【うやまよしろう(15??~1566)】

宇山久兼の男。1566年、毛利元就に内応したため、尼子義久に謀殺された。

宇山久信【うやまひさのぶ(15??~15??)】

宇山久兼の次男。1544年、「第一次備前高田城の戦い」に参陣して三浦貞久勢と戦った。1548年、「第二次備前高田城の戦い」では、三浦貞久が病没後、三浦貞勝勢を攻撃して降伏に追い込んだ。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1559年、「第三次高田城の戦い」では、三浦貞勝勢の反撃を受け落城した。1566年、尼子義久に父宇山久兼と兄宇山弥四郎が謀殺されため、毛利元就に降伏した。

大塚与三衛門【おおつかよさえもん(15??~15??)】

尼子義久家臣。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、宇山久兼が毛利元就勢に寝返ろうとしていると讒言して自刃に追い込んだ。城内は混乱状態となり大西高由に討取られた。

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【か】

加藤政貞【かとうまささだ(15??~1578)】

尼子勝久家臣。加藤清久の男。通称彦四郎。『尼子分限帳』では、足軽大将を務め美作国内で5,217石を領した。1566年、尼子義久が毛利元就に降伏し加藤政貞も従った。1569年、尼子勝久勢が出雲国に兵を進めるとこれに参陣した。1570年、「布部山の戦い」では、尼子勝久勢の敗退後も尼子勝久に従って山陰地方を転戦した。1578年、「播磨上月城の戦い」で尼子勝久が毛利輝元勢に降伏すると、尼子勝久尼子通久、神西元通とともに自刃した。

亀井秀綱【かめいひでつな(15??~1566)】

尼子経久家臣。亀井安綱の男。官途は能登守。寺社奉行を務めた。1511年、「山城舟岡山の戦い」では、足利義稙勢に属した尼子経久に従って足利義澄勢と戦った。1523年、相合元綱を推して毛利元就の排斥を図った。1524年、平浜八幡に灌頂具を寄進した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、因幡竹内城で毛利元就勢の杉原盛重に謀殺された。

亀井茲矩【かめいこれのり(1557~1612)】

湯永綱の男(亀井秀綱の養子)。官途は武蔵守。通称新十郎。別名湯国綱。亀井秀綱の次女(時子)。継室は多胡重盛の娘。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で尼子義久が毛利元就勢に敗れると京都に落延びた。1568年、尼子勝久に仕えて山中幸盛勢に属した。1581年、「因幡鹿野城の戦い」では、吉川春元勢と戦った。1582年、「本能寺の変」後も鹿野城を守備した。1586年、「九州征伐」では宮部継潤勢に属して参陣した。1589年、因幡国鹿野城13,800石を領した。羽柴秀吉に「琉球征服」を進言した。海外貿易に進んで参加し、朱印船をのべ350艘も南方各地に送りこみ他を圧倒した。1595年、羽柴秀吉のもとで伯耆国日野山の銀山を経営、大井手用水の開発なども手がけた。また茶、桑の栽培など殖産興業にも力を入れて領内の繁栄を図った。1594年、伏見城普請を分担した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して役後、因幡国高草郡内などで38,000石を領した。

亀井政矩【かめいまさのり(1590~1619)】

亀井茲矩の男。官途は豊前守。通称新十郎。室は松平康重の娘(休子)。1602年、松平元康に謁して松平秀忠の近習を務めた。1612年、父亀井茲矩の病死により亀井家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、兵1,700余りを率いて本多正信勢に属して両陣に参陣した。1617年、坂崎直盛が改易処分に処されると、石見国津和野三本松城43,000石を領した。京都伏見で落馬しその傷がもとで病没した。

亀井利綱【かめいとしつな(15??~1532)】

亀井安綱の次男。通称新次郎。尼子興久が父尼子経久と対立した後も尼子興久に付き従い、兄亀井秀綱と戦った。1532年、亀井利綱は盲戦とは知りつつも尼子興久勢に属して討死した。兄亀井秀綱は謀略に富んでいたが、純朴正直な弟に恥じて涙を流さなかった。

河副久盛【かわぞえひさもり(15??~1569)】

尼子経久家臣。英田郡林野城代。官途は美作守。吉川興経、大内義隆らの取次役を務めた。1530年、尼子経久と毛利元就の調停役を吉川経世に依頼した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣したが大内義隆勢と戦い大敗した。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、尼子晴久に従って大内義隆勢と戦い戦功を挙げた。1544年、「美作林野城の戦い」後、林野城の城代に任じられた。江見久盛と結び三星城主後藤勝国を降伏に追い込んだ。「第一次美作竹山城の戦い」では、新免宗貞を追い落とした。1555年、「第二次美作竹山城の戦い」では、新免宗貞勢を撃退した。1569年、目賀多幸宣、立原久綱、立原久綱、山中幸盛らとともに尼子勝久を擁立して出雲国に侵攻したが、まもなく病没した。

熊谷新右衛門【くまたにしんうえもん(15??~15??)】

永井新蔵の男。山中幸盛、立原久綱と並んで尼子三傑と呼ばれる剛勇。尼子経久に仕え出雲国熊谷郷を領した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、尼子義久に従って籠城した。1568年、尼子勝久、山中幸盛、立原久綱らが出雲国に兵を進めるとこれに従った。1578年、「播磨上月城の戦い」まで、尼子勝久とともに毛利輝元勢と戦った。

熊野久家【くまのひさいえ(15??~1562)】

八束郡熊野城主。尼子晴久家臣。別名「西阿」。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、毛利元就勢に降伏した。1562年、「三刀屋城の戦い」では、毛利元就勢に属した三刀屋久扶と戦い討死した。

熊野久忠【くまのひさただ(15??~15??)】

熊野久家の男。官途は兵庫介。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、毛利元就勢に内応したが、本城常光が謀殺されると尼子義久に帰参した。「熊野城の戦い」では、毛利元就勢の猛攻を撃退した。1569年、尼子勝久勢が出雲国に侵攻すると参陣し各地で転戦した。1570年、「布部山の戦い」に敗れ、熊野城に籠城した。ここでも再び毛利元就勢を悩ませたが、牛尾久信が拠る三笠牛尾城が落城すると、毛利元就の説得を受け容れて降伏した。

黒正甚兵衛【くろまさじんべい(15??~15??)】

尼子経久家臣。1541年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣した。大内義隆の家臣陶晴賢勢の反撃を受け敗走した。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、赤穴光清とともに瀬戸山城を守り熊谷直続を討取る戦功を挙げた。陶晴賢勢の攻撃を受け赤穴光清が討死すると、瀬戸山城は降伏し捕縛された。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、三刀屋久扶、三沢為清、吉川興経との取次役を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

河本隆任【こうもとたかとう(15??~15??)】

尼子経久家臣。通称弥兵衛。1540年、「吉田郡山の戦い」では、尼子晴久に従って参陣して大内義隆勢と戦った。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1560年、本城常光救援に参陣した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、尼子義久に従って月山富田城に籠城した。1565年、大塚与三右衛門の讒言を受けて毛利元就に降伏した。1569年、尼子勝久、山中幸盛らが出雲国に侵攻すると、毛利元就の家臣天野隆重が籠城する月山富田城を攻撃したが撃退された。晩年は伯耆国において大山の麓に隠棲した。

河本隆政【こうもとたかまさ(1521~15??)】

尼子久幸家臣。通称大八。1540年、「吉田郡山の戦い」では、尼子晴久に従って参陣したが、陶晴賢勢と戦って負傷した。以後月山富田城下の城安寺に住した。著書に『雲陽軍実記』。

古志吉信【こしよしのぶ(15??~15??)】

神門郡栗栖山城主。古志宗信の男。『尼子分限帳』では、出雲国内で4,372石を領した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久の意向を受け、尼子国久勢に属して備後国大場城を攻落としたが、毛利元就勢の宍戸隆家らの反撃を受け撤退した。尼子晴久勢が大内義隆勢の反撃を受け大敗すると三沢為清、三刀屋久扶らとともに大内義隆勢に内応した。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢が敗退したため、三沢為清、三刀屋久扶らとともに尼子晴久勢に帰参した。1562年、「月山富田城の戦い」では、尼子義久に従って毛利元就勢と戦った。

古志豊信【こしとよのぶ(15??~15??)】

古志宗信の次男。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、兄古志吉信に従って毛利元就勢と戦った。

古志重信【こししげのぶ(15??~15??)】

古志吉信の男。官途は出雲守。通称新十郎。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣した。1560年、「石見銀山城の戦い」では、本城常光の支援に赴いた。1569年、尼子勝久らが出雲国に侵攻すると参陣した。1570年、「十倉城の戦い」では、吉川元春勢の攻撃を受けて降伏した。1578年、「播磨上月城の戦い」では、毛利輝元勢として山中幸盛らと戦った。

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【さ】

相良与一左衛門【さがらよいちざえもん(15??~15??)】

尼子晴久家臣。1554年、新年の挨拶のため月山富田城に登城した尼子敬久の謀殺を図った。

桜井宗的【さくらいそうてき(15??~1518)】

尼子経久家臣。大原郡阿用磨石城主。1518年、尼子経久が伯耆国に出兵すると、謀反を起こした。「第一次阿用磨石城の戦い」では、尼子政久勢の攻撃を受けたが、逆に尼子政久を討取る戦功を挙げた。「第二次阿用磨石城の戦い」では、尼子国久勢の反撃を受け受け、城を焼いて自刃した。

佐世幸勝【せさよしかつ(15??~15??)】

尼子経久家臣。大原郡佐世城主。備後国旗頭。『尼子分限帳』では、備後国120,000石を領した。

佐世清宗【させきよむね(15??~15??)】

佐世幸勝の男。官途は伊豆守。宇山久兼、牛尾幸清らとともに家老衆を務めた。1540年、「安芸吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣したが大内義隆勢の反撃を受け大敗した。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、菅谷口を守備して小早川隆景勢を何度も撃退した。毛利元就に降伏したが、三男の佐世大二郎が謀殺された。

佐世正勝【させまさかつ(15??~15??)】

佐世清宗の男。官途は伊豆守。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で父佐世清宗や弟佐世元嘉とともに毛利元就勢に降伏した。1594年、大原郡佐世郷850石余りは、毛利輝元の意向を受け山内隆通から返還され、本領を回復した。継嗣をもうけることができず、弟の佐世元嘉の継嗣佐世正景を養子に迎えた。

佐世元嘉【させもとよし(1546~1620)】

佐世清宗の次男。官途は石見守。通称三左。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で、父佐世清宗、兄佐世正勝らとともに毛利元就勢に降伏した。1592年、「文禄の役」では、安芸広島城の留守居役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」でも広島城の留守居役を務めた。

宍道経慶【しんじつねよし(14??~15??)】

尼子経久家臣。意宇郡坂口館主。室は尼子国久の娘。

宍道隆慶【しんじたかよし(15??~15??)】

宍道経慶の男。通称八郎。官途は遠江守。1540年、「吉田郡山城の戦い」に尼子晴久に従って参陣した。1542年、「第一次月山富田城の戦い」で大内義隆勢に降伏した。大内義隆勢が大敗すると、周防国に落延びた。大内義隆に仕えた。1555年、「周防姫山城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受け降伏した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で尼子義久が降伏すると旧領に復帰した。

宍道政慶【しんじまさよし(15??~15??)】

宍道隆慶の男。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、父宍道隆慶とともに参陣した。

神西久通【じんざいひさみち(15??~15??)】。

神西竹王城主。『尼子分限帳』では、美作国内で4,660石を領した。1535年、隠居した。

神西元通【じんざいもとみち(15??~1578)】

神西久通の男。官途は越前守。通称三郎左衛門。室は森脇久仍の姉。1535年、父神西久通の隠居により神西家の家督を相続した。1562年、「第二次富田月山城の戦い」で尼子義久が毛利元就に降伏すると、伯耆国末石城主に任じられた。1569年、尼子勝久、山中幸盛らが伯耆国に侵攻するとこれに従い毛利元就勢と戦った。1578年、「播磨上月城の戦い」では、毛利輝元、宇喜多直家勢の攻撃を受け落城した。尼子勝久、神西通久、神西元通らとともに自陣した。内室は京都誓願寺で尼となったが、織田信長の近習不破将監に見初められ、操を守るために自刃した。

末次讃岐守【すえつぐさぬきのかみ(15??~15??)】

尼子経久家臣。尼子晴久の右筆。高い鼻をしていたが、尼子誠久に言い掛かりをつけられ鼻の骨を砕かれた。

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【た】

大西高範【だいざいたかのり(15??~15??)】

尼子経久家臣。郡大西鞍掛城主。『尼子氏分限帳』では、備中国内30,000石を領して中老職を務めた。

大西高由【だいざいたかよし(15??~1588)】

大西高範の男。通称十兵衛。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢と戦い毛利元就の陣を急襲して敗走させた。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、森脇東市正、平野又右衛門らとともに尼子倫久勢に属して塩谷口を守備した。1565年、尼子義久が安芸国に幽閉されるとそれに従った。

大西久範【だいざいひさのり(15??~15??)】

大西高由の男。1588年、父大西高由が謀殺された後を受け大西家の家督を相続した。

高尾豊前守【たかおぶぜん(15??~1541)】

尼子経久家臣。1541年、「吉田郡山城の戦い」で尼子晴久に従って参陣したが、毛利元就勢の攻撃を受け討死した。

高橋元綱【たかはしもとつな(15??~1541)】

尼子経久家臣。1541年、「吉田郡山城の戦い」で尼子晴久に従って参陣したが、毛利元就勢の攻撃を受け本城信濃守らとともに討死した。

多賀元龍【たがもとたつ(15??~1579)】

飯石郡羽倉山城主。官途は左京亮。1542年、「第一次月山富田城の戦い」で大内義隆勢に降伏した。大内義隆が敗退すると、宍道正隆とともに山口に落延びた。
1555年、大内義隆が滅亡すると、毛利元就家に仕えた。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、毛利元就に従って参陣して長屋元定とともに戦功を挙げた。1565年、尼子義久が降伏すると旧領に復帰した。

立原幸綱【たちはらゆきつな(15??~15??)】

大原郡加茂立原城主。『「尼子氏分限帳』では、中老衆を務め美作国内で23,000石を領した。1540年、尼子晴久は日御碕神社に旧領石見波志浦を還付する命を下し、立原幸綱がその命を同神社に伝えた。

立原幸隆【たちはらゆきたか(15??~15??)】

立原幸綱の男。官途は備前守。通称次郎左衛門。1543年、鰐淵寺造営に伴う尼子晴久の命令を同寺に伝えているのを始めとし、吏僚的活動が多く見られる。本城常光救援戦や白鹿城攻防にも派遣された。尼子義久が毛利家に降伏すると、これに同道して安芸国へ赴いた。その後安芸国志道において死去した。

立原久綱【たちはらひさつな(1531~1613)】

立原幸綱の次男。通称源太兵衛。山中幸盛の母は立原久綱の姉。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1562年、「第二次月山富田城の戦い」後、毛利元就への使者を務め、尼子義久の助命に尽力した。毛利元就から2,000貫で仕官するよう誘われたがこれを固辞して京都に隠棲した。1568年、山中幸盛、神西元通らとともに尼子勝久を擁して毛利元就勢と戦った。織田信長に援助を請うため上洛すると、「好漢」と評されて太刀一振を与えられた。1578年、「播磨上月城の戦い」では、籠城に反対するも山中幸盛の言に従って戦った。敗れて吉川元春に捕縛されたが脱走、福屋隆兼を頼って落延びた。

田中三郎左衛門【たなかさぶろうざえもん(15??~15??)】

尼子晴久家臣。尼子晴久に仕えて弓頭を務めた。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢に包囲された赤穴城救援に赴いた。1560年、「石見銀山城の戦い」でも、本城常光を支援するため援軍として派遣された。その後尼子晴久に暇を乞い隠棲した。

津森幸俊【つもりゆきとし(15??~15??)】

尼子晴久家臣。官途は越後守。通称惣兵衛。1547年、尼子晴久から寺社奉行に抜擢され、出雲大社、成相寺などとの取次役を務めた。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、尼子義久に従って籠城するも、落城し流浪の身となった。1565年、尼子勝久勢が出雲国に侵攻すると参陣した。

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【な】

中井久包【なかいひさかね(15??~15??)】

尼子晴久家臣。官途は駿河守。通称助右衛門尉。別名中井綱家。『尼子氏分限帳』では筆頭家老職を務め美作国内で87,000石を領した。1540年、「吉田郡山城」では、尼子晴久に従って継嗣の中井久家とともに参陣したが敗退した。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1562年、「第二次富田月山城の戦い」では、尼子義久を守って毛利元就勢と戦った。宇山久兼とともに私財を投じて兵糧の確保に務めたが、大塚与三衛門が讒言したために、宇山久兼は謀反を疑われ自刃した。降伏後、した。その後に伯耆国法勝寺で病死した。

中井久家【なかいひさいえ(15??~15??)】

中井久包の男。尼子義久が幽閉された後も尼子家再興のために戦った。

中井平蔵兵衛【なかいへいぞうびょうえ(15??~15??)】

尼子経久家臣。大髭をしていたが、尼子誠久に言い掛かりをつけられ畳に顔を擦り付けられた。大変な屈辱であり、刀に手をかけようとしたほどだった。尼子晴久は平蔵兵衛が左の髭のみ剃ったことを不思議に思い、理由を尋ねた。そこで尼子誠久の横暴を知り、中井平蔵兵衛には両方の髭を剃るよう命じた。

鯰江長言【なまずえながこと(15??~15??)】

尼子経久家臣。通称与十郎。1562年、「第二次月山富田城の戦い」後、毛利元就勢に捕縛された。以後、出雲杵築に残された尼子義久夫人(宋旭禅尼)に仕えた。

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【は】

羽倉元陰【はぐらもとかげ(15??~15??)】

秋上久家家臣。通称孫兵衛。1571年、「伯耆国米子城の戦い」では、兵500余りを率い、毛利元就勢の城将福原元秀を討取る戦功を挙げた。

鉢屋加茂弥三郎【はりやかもよさぶろう(15??~15??)】

立原久綱家臣。因幡国、伯耆国、出雲国、石見国の鉢屋衆を束ねた。1486年、「月山富田城の戦い」では、山中勘兵衛、鉢屋衆らとともに尼子経久に従い楽曲を奏でつつ城門へと進んだ。城方は何の疑いもなくこれを通し鉢屋衆は城内へ入った。亀井秀綱、真木上野介、山中勘兵衛ら旧臣は鉢屋加茂弥之三郎、鉢屋加茂治郎三郎と鉢屋加茂兵衛三郎の協力で搦手より忍び込んだ。鉢屋衆が狼煙を上げると、尼子経久勢が乱入し、塩谷掃部介を討取った。

平野又右衛門【ひらのまたざえもん(15??~15??)】

尼子晴久家臣。1554年、尼子晴久の意向を受け、月山富田城に登城しようとした尼子国久を謀殺した。本田豊前守が尼子国久とともに崖から落ちると、尼子国久を討つため谷を下った。

平野久利【ひらのひさとし(15??~1565)】

尼子晴久家臣。通称又右衛門。『尼子分限帳』では、御手廻衆として出雲国内で18,000石を領した。1544年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って備後国参陣するが、毛利元就勢と戦いこれを撃破するが、三吉広高勢の反撃を受け敗走した。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1562年、「白鹿城の戦い」で戦功を挙げた。1565年、美作国小田草城主斎藤玄蕃の要請を受け、援軍として派遣されるが逆襲を受け討死した。

本田家吉【ほんだいえよし(15??~15??)】

尼子義久家臣。官途は豊前守。通称四郎左衛門尉。奉行職を務めた。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、小早川景隆勢に側面攻撃をかけ戦功を挙げた。1566年、尼子義久の意向を受け宇山久信を謀殺した。降伏後、尼子義久が安芸国に幽閉されるとそれに従った。

本田豊前守【ほんだぶぜんのかみ(15??~1554)】

尼子晴久家臣。1554年、新年の挨拶のため富田城に登城しようとした尼子国久を誅殺した。この時、尼子国久に組み付いたまま崖から落ちた。

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【ま】

真木朝親【まきともちか(15??~15??)】

真木城主。官途は上野介。娘は尼子清定に嫁いだ。尼子経久の外祖父。1484年、尼子経久が出雲国守護職の京極政経に追放されると、 尼子経久とともに真木城に落延びた1486年、「月山富田城の戦い」では、毎年恒例の万歳が行われている内に奇襲を仕掛け、塩冶掃部介から合算富田城を奪回した。この戦功により執事を務めた。

松尾遠江守【まつおとおとうみのかみ(15??~15??)】

尼子晴久家臣。十神山城主。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で毛利元就の家臣児玉就忠勢の攻撃を受け落城した。

松田満久【まつだみつひさ(14??~15??)】

島根郡白鹿城主。出雲十旗の筆頭。室は尼子経久の娘。1484年、三沢為清、三刀屋久扶らとともに京極政経勢に属して尼子経久を追放した。尼子経久の復帰戦では尼子経久勢に属した。1562年、「白鹿城の戦い」では、救援に赴いたが敗れて細工峠で自刃した。

松田誠保【まつださねやす(15??~15??)】

松田満久の男。官途は兵部少輔。毛利元就の勢力が拡大するとこれに降ったが、本城常光が毛利元就に謀殺されると再び尼子晴久勢に属した。1562年、「月山富田城の戦い」では、毛利元就勢の大軍を引き受け善戦した。1569年、尼子勝久勢が出雲国に侵攻すると、それに従った。1570年、「布部山の戦い」に参陣した。1578年、「播磨上月城の戦い」では、尼子勝久に従って参陣した。

三沢為忠【みさわためただ(15??~15??)】

仁多郡三沢城主。三沢為時の男。官途は遠江守。1509年、仙洞御所の院宣を受けて横田庄を地頭請所として守護すべく、藤ヶ瀬城を築いた。尼子経久の敵対勢力であり、尼子経久追放の首謀者のひとり。

三沢為国【みさわためくに(15??~1536)】

三沢為忠の男。1531年、「三沢城の戦い」で尼子経久勢の攻撃を受け降伏した。1536年、尼子経久に謀反を疑われ、謀殺された。

三沢為幸【みさわためゆき(1503~1541)】

三沢為忠の次男。官途は備前守。1508年、大内義興の上洛戦に参陣した。1522年、「西条鏡山城の戦い」に参陣した。1536年、兄三沢為国が尼子経久に謀殺されたため、三沢家の家督を相続した。三沢為幸は尼子経久、尼子晴久に従って各地を転戦した。1541年、「吉田郡山の戦い」では、尼子晴久を守って討死した。

三沢為清【みさわためきよ(1536~1588)】

三沢為幸の男。官途は下野守。通称三郎衛門。尼子晴久とともに各地で転戦した。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢に内応したが、大内義隆が敗走すると、再び尼子晴久に属した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、毛利元就勢に降伏した。1574年、男三沢為虎に家督を譲り、自身は亀嵩城に隠居した。1578年、「播磨国上月城の戦い」では、三沢為虎とともに尼子勝久らと戦った。

三沢為虎【みさわためとら(15??~15??)】

三沢為清の男。官途は摂津守。通称少輔八郎。1574年、父三沢為清の隠居により三沢家の家督を相続した。1578年、「播磨上月城の戦い」では、父三沢為清ともに参陣した。1582年、「備中国高松城の戦い」にも毛利輝元に従って参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、赤間関の警護役を務めた。

三刀屋頼扶【みとやよりすけ(15??~15??)】

飯石郡三刀屋城主。尼子経久家臣。

三刀屋久扶【みとやひさすけ(15??~1591)】

三刀屋頼扶の男。官途は弾正忠。通称新四郎。別名三刀屋久祐。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久勢に属して参陣するが、三沢為幸が討死するなどして大敗した。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢に属して参陣するも、大内義隆勢が大敗すると、尼子晴久勢に帰参した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、毛利元就勢に属した。以後は毛利元就勢に属して、中国、北九州地方を転戦した。1588年、毛利輝元に従って上洛した際、松平元康と親交を図ったとして所領没収された。

三刀屋孝扶【みとやたかひさ(15??~16??)】

刀屋久扶三の男。1588年、父刀屋久扶三が罷免された後も、毛利輝元に仕えたが旧領を回復することができなかった。

三刀屋宗忠【みとやむねただ(15??~1570)】
 
尼子晴久家臣。通称蔵人。『尼子氏分限帳』では、御手廻衆として備中国内で10,114石を領した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣した。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1565年、尼子義久に属し中尾弾正忠、福山肥後守らとともに富田城正面口を守った。1562年、「第二次月山富田城の戦い」後、尼子勝久の近習となってその擁立に加わった。1570年、「佐陀勝間城の戦い」で毛利元就の家臣志道左馬助と戦って討死した。

目賀田幸宣【めかたゆきのぶ(15??~1569)】

尼子晴久家臣。通称新兵衛。1562年、「第二次月山富田城の戦い」後、浪人となった。1569年、山中幸盛らが尼子勝久を擁して出雲国に侵攻すると、参陣したがまもなく病死した。

目黒惣兵衛【めぐろそうべい(15??~15??)】

尼子秀久家臣。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、津森幸俊、佐世伊豆守、森脇長門守らとともに尼子秀久勢に属して菅谷口を守備した。

本田家吉【もとだいえよし(15??~15??)】

尼子経久家臣。官途は豊前守。通称四郎左衛門。『尼子氏分限帳』では、中老衆を務め、出雲国内で5,000石を領した。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1562年、「第二次月山富田城の戦い」後、尼子義久らに安芸国長田に幽閉された。

森田左衛門【もりたさえもん(15??~15??)】

赤穴光清家臣。赤穴盛清が毛利元就に降伏すると、森田左衛門はあくまで毛利に降伏することに反対した。そのため、赤穴盛清の降伏後も森田は各地で一揆を起こして毛利勢をゲリラ的に苦しめた。これに激怒した毛利元就は赤穴盛清を叱責したが、赤穴盛清は「自分は主家を裏切って毛利家に従いました。ですが彼らは真の忠臣です」と述べ、毛利元就をうならせた。

森脇久貞【もりわきひささだ(15??~15??)】

尼子経久家臣。能義郡布部山城主。

森脇久仍【もりわきひさのり(1533~1616)】

森脇久貞の男。官途は東市正。室は宇山久兼の娘。『尼子氏分限帳』では、中老衆を務め美作国内で28,785石を領した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で月山富田城が落城まで尼子義久に仕えた。1569年、山中幸盛らが尼子勝久を擁して出雲国に侵攻すると参陣した。1575年、「因幡私都城の戦い」後、吉川元春に降伏した。

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【や】

屋葺幸保【やぶきゆきやす(15??~15??)】

尼子晴久家臣。官途は右兵衛尉。通称七郎兵衛。1558年、「石見温湯城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けた小笠原長雄を支援するため、尼子晴久に従って参陣したが小笠原長雄が毛利元就に降伏したため支援は失敗に終った。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、松田誠保を支援するが敗退した。1569年、山中幸盛らが尼子勝久を擁して出雲国に侵攻すると、これに従った。

山中勝重【やまなかかつしげ(1547~1538)】

尼子経久家臣。山中幸満の男。官途は左京進。通称勘兵衛。別名山中満盛。室は三沢土佐守の娘。1484年、尼子経久が守護京極政経に追放されると、改易処分に処された。1486年、「月山富田城の戦い」で尼子経久が月山富田城を攻落とすと、戦功により家老職に任じられた。1488年、尼子経久の意向を受け、三沢為幸に仕えた。三沢為幸が兵を尼子経久に向けると寝返って、三沢為幸を討取った。

山中満重【やまなかみつしげ(15??~15??)】

山中幸満の次男。通称甚十郎。

山中満幸【やまなかみちゆき(1520~1546)】

山中勝重の男。官途は三河守。別名尼子久幸。室は立原綱重の娘(なみ姫)。父山中勝重の隠居により山中家の家督と相続して4,000貫を領した。1544年、父山中勝重に先んじて病没した。

山中幸高【やまなかゆきたか(15??~15??)】

山中満幸の男。通称甚太郎。別名山中久盛。1560年、病弱なため、山中家の家督を弟の山中幸盛に家督を譲った。山中家に代々伝わる三日月の前立と鹿の角の脇立のある冑を譲り渡して出家した。

山中幸盛【やまなかゆきもり(1545~1578)】

山中満幸の次男。通称鹿之介。室は亀井秀綱の娘。兄山中幸高の病没により山中家の家督を相続した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、毛利元就勢の品川大膳を討取る戦功を挙げた。1569年、尼子勝久を擁して出雲国に侵攻したが、毛利元就の家臣天野隆重の反撃を受け大敗した。1570年、「布部山の戦い」にも大敗して末吉城に籠城した。1571年、吉川元春に捕縛されたが、脱走した。1574年、鳥取城主山名豊国とともに出雲侵攻を図るが、山名豊国が毛利輝元勢に属したため失敗に終わった。1578年、「播磨上月城の戦い」では、織田信長勢の支援を受け、上月城に籠城したが、織田信長勢の撤退により尼子勝久は降伏して自刃した。1578年、山中幸盛は安芸国に護送中、吉川元春により謀殺された。

湯泰敏【ゆのやすひさ(15??~15??)】

尼子経久家臣。湯泉津城主。

湯惟宗【ゆのこれむね(15??~15??)】

湯泰敏の男。官途は信濃守。1540年、「吉田郡山城の戦い」で尼子晴久に従って参陣した。1558年、「石見銀山城の戦い」では、刺賀長信が城兵の助命を申し出ると、毛利元就勢に取次ぎ、銀山城から退去させた。1561年、「石見福光城の戦い」では、牛尾幸清、福屋隆兼らとともに福光城を攻撃したが敗退した。1562年、本城常光が毛利元就勢に降伏すると、石見国から撤退した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、白鹿城の支援に赴いたが失敗に終わった。

湯家綱【ゆのいえつな(15??~1551)】

尼子経久家臣。玉造城主。

湯永綱【ゆのながつな(15??~15??)】

尼子晴久家臣。出雲国八束郡湯之館主。室は多胡辰敬の娘。

湯原宗綱【ゆはらむねつな(15??~1540)】

湯原信綱の男。通称弥次郎。1527年、父湯原信綱から伯耆国時山城を譲り受けその城主となった。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子経久に従って兵1,500余りを率いて参陣した。「池の内の戦い」で小早川興景勢と粟屋元良勢から挟撃され討死した。

湯原春綱【ゆはらはるつな(15??~15??)】

湯原宗綱の男。1555年、「美保関の戦い」では、山名家海賊衆の攻撃を受けたが、美保関海賊衆を率いてこれを撃退した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で尼子義久が毛利元就に降伏すると、毛利元就に仕えた。1575年、小川元政、塩谷元真とともに美作国医王山城の在番を務めた。1580年、「美作医王山城の戦い」では、侵攻してきた羽柴秀吉に属した宇喜多直家勢の攻撃を受けたがこれを撃退した。。1582年、羽柴秀吉と毛利輝元が和議を結ぶと美作国が宇喜多秀家領になったため、医王山城を退出した。

横道正光【よこじまさみつ(15??~1570)】

尼子晴久家臣。横道清高の男。官途は兵庫介。尼子十勇士。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で尼子義久が毛利元就に降伏すると、畿内に落延びて松永久秀に仕えた。1569年、山中幸盛らが尼子勝久を擁して出雲国に侵攻すると、尼子勝久勢に参陣して山陽地方各地を転戦した。1570年、「布部山の戦い」で毛利元就勢と戦い、敵将粟屋又左衛門、田門左衛門を討取るが、娘婿の中井善左衛門に討取られた。

横道高光【よこみちたかみつ(15??~15??)】

横道清高の次男。通称源助。1570年、「伯耆八橋城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け降伏した。吉川元春に仕えた。

横道久宗【よこみちひさむね(15??~15??)】

尼子義久家臣。官途は石見守。通称三郎左衛門尉。1566年、月山富田城開城まで尼子義久に従った。

吉田義辰【よしだよしとき(15??~1561)】

尼子晴久家臣。官途は左京亮。1524年、尼子経久から伯耆八橋城主に任じられた。尼子晴久に従って備中国侵攻で戦功を重ねた。庄高資が毛利元就から離反すると、援軍を率いて松山城に赴いたが庄高資を松山城から追放して松山城の在番を務めた。1561年、「備中松山城の戦い」では、毛利元就、三村家親勢の支援を受けた庄高資勢の攻撃を受け自刃した。

吉田源四郎【よしだげんしろう(15??~15??)】
 
吉田義辰の男。1561年、父吉田義辰が討死したため、吉田家の家督と八橋城を相続した。1565年、「伯耆八橋城の戦い」で三村家親勢の攻撃を受けて出雲国に落延びた。その後八橋城奪還を目指すが、尼子義久の衰亡により成功しなかった。

米倉正勝【よねくらまさかつ(15??~1540)】

尼子経久家臣。通称平内。1540年、「備中紫城の戦い」では、尼子晴久の意向を受け平川久親を攻撃したが陣中で病没したため、尼子晴久勢は撤退した。

米原綱広【よねはらつなひろ(15??~15??)】

尼子経久家臣。簸川郡高瀬城主。尼子十旗で備中国など17,500石を領した。1532年、「塩冶興久の乱」では、塩冶興久の救出を試みるが失敗した。

米原綱寛【よねはらつなひろ(15??~1613)】

米原綱広の男。通称平内兵衛。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣した。1562年、「高瀬城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け降伏した。「第二次月山富田城の戦い」では、小早川隆景勢に属して菅谷口を攻撃した。毛利元就の使者として、尼子義久の降伏を促した。1568年、「筑前立花城の戦い」では、毛利元就勢に従って参陣した。1569年、山中幸盛らが尼子勝久を擁して出雲国に侵攻すると、尼子勝久勢に属して高瀬城に籠城した。1570年、「布部山の戦い」で尼子勝久勢が大敗したため、高瀬城で孤立した。1571年、「高瀬城の戦い」で毛利輝元、吉川元春勢の攻撃を受け新山城に落延びた。

米原綱俊【よねはらつなとし(15??~15??)】

米原綱寛の男。1571年、父米原綱寛の隠居により米原家の家督を相続した。

若林伯耆守【わかばやしほうきのかみ(15??~1532)】

尼子経久家臣。末次城主。1532年、「塩冶興久の乱」では、尼子経久勢に属した。1532年、「末次城の戦い」で塩冶興久勢の攻撃を受け討死した。

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【資料Ⅰ】

出雲国(10郡/182,000石)

意宇郡:
能義郡:月山富田城、安来城、熊野城、馬潟街、白潟街、玉造城、宍道街。
島根郡:白鹿城、松江城、末次城、美保湊、佐陀神社。
秋鹿郡:
楯縫郡:
出雲郡:高瀬城、神西城、杵築神社、鰐淵寺。
神門郡:栗栖山城、出雲大社。
飯石郡:三刀屋城、赤穴瀬戸山城。
仁多郡:三沢城。
大原郡:牛尾三笠城、横田城、大西城、馬木城、赤穴城、佐世城。

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【資料Ⅱ】

尼子十旗【あまこじゅっき】

島根郡白鹿城主松田誠保、仁多郡三沢城主三沢為清、飯石郡三刀屋城主三刀屋久扶、飯石郡赤穴瀬戸山城主赤穴久清、大原郡牛尾三笠城主牛尾幸清、高瀬城主米原綱寛、神西城主神西元通、真木城主真木朝親、大西鞍掛城主大西高由、因幡国八束郡熊野城主熊野久忠。

尼子三家老【あまこさんかろう】

宇山久兼、牛尾幸清、佐世清宗。

尼子十勇士【あまこじゅうゆうし】

秋宅庵介、横道兵庫介、植田早苗介、早川鮎介、尤道理介、寺本生死介、深田泥介、藪中荊介、小倉鼠介、川岸柳之介、井筒女之介、五月早苗之介、破骨障子之介、上田稲葉之介、大谷猪介、荒浪碇介、高橋亘介。

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【資料Ⅲ】

出雲国【いずものくに】

日本海に面する山陰道の国。東は伯耆国、西は石見国、南は備後国と境を接し、北は海峡を挟んで隠岐国に臨む。北部には島根半島と弓ヶ浜によって囲まれた宍道湖と中海の二つの内海があり、漁業が発達している。特に塩湖である中海と汽水湖である宍道湖では特産物である魚介類も豊富である。また斐伊川の流れる出雲平野を中心に農業も盛んであり国力も高い。産業は日本有数の鉄鋼生産地であり、出雲国の産地の玉鋼を用いた鉄器生産も盛んである。

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戦国人名辞典は1500~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は文献を表示していますが、架空歴史小説も含まれるため、記載されている人物が史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

諸将の表記は、陶隆房は陶晴賢、尼子詮久は尼子晴久、大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、立花道雪は戸次鑑連、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、『新雲陽軍実記』byハーベスト出版、『岡山戦国合戦史』by吉備人出版、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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