2011年11月2日水曜日

戦国大隅国人名辞典

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【あ】

安楽兼清【あんらくかねきよ(15??~1576)】

肝属家臣。官途は肥後守。1576年「日向侵攻」の際、伊東家と戦って弟安楽兼治とともに討死した。

安楽兼利【あんらくかねとし(15??~15??)】

安楽兼清の男。

安楽兼寛【あんらくかねひろ(15??~1575)】

入船(牛根)城主。肝属家臣。官途は備前守。1572年、島津義久に攻められ一年三ヶ月に亙って籠城したが、肝属兼亮の救援軍らも敗退した。1574年、島津家に降伏した。

安楽兼元【あんらくかねもと(15??~15??)】

肝属家臣。官途は下総守。別名柏原兼之。1563年、肝属良兼の志布志移徙に、嫡男安楽兼朗とともに随従した。

石井岩助【いしいいわすけ(15??~1574)】

禰寝家臣。1574年、国根占の「瀬脇城の戦い」で。肝付、伊東連合軍にめられ討死した。

和泉兼依【いずみかねより(15??~15??)】

肝付家臣。官途は三河守。1560年、高山の神宮司阿弥陀堂造営に薬丸兼将と共に奉行として署名した。

池端清住【いけはたすみきよ(15??~15??)】

大隈国祢寝院の領主。池端清本の男。「高岳城の戦い」で討死した。

池端重尚【いけばたしげなお(15??~1544)】

池端清住の男。通称弥次郎。1544年、唐人のジャンクに乗船して東南アジアのパタニを出港したディエスは、中国の寧波や南京などで取引をした後に日本に向かった。小祢寝湊にはパタニに住む中国人所有のジャンク船五隻が停泊し、ポルトガル人が何人か乗船していたが、そこに百隻以上の唐人のジャンク船が葡萄牙人 襲い掛かってきた。これに対し、葡萄牙人は四隻の小舟と三門の火砲、十六丁の銃でもって応戦し、中国人のジャンクを敗走させて多くの唐人を殺した。池端重尚は戦いに巻き込まれ鉄炮にあたって討死したた。池端家の家督は池端清住の次男池端又七が相続した。

伊地知重武【いじちしげたけ(15??~15??)】

大隅小浜領主。伊地知重周の男。肝属家臣。官途は周防守。元々は島津本家臣。1539年「市来城の戦い」では、島津忠良に従った。

伊地知重興【いじちしげおき(1528~1580)】

伊地知重武の男。官途は周防守。通称又九郎。1571年、伊地知重興は肝付兼続と結び、さらに禰寝重長らとともに兵船300余をもって海路鹿児島に押し寄せた。伊地知重興らは帖佐滝ケ水を攻撃したが、島津家臣平田家の防戦によって、戦果のないまま撤退した。伊地知重興は枝連衆の伊地知重矩を小浜城に入れ、早崎城と結ぶ防御線を布いた。伊地知重興、肝付兼続、禰寝重長連合に対する島津義久は、小浜城を攻撃したが落せなかった。島津義久は禰寝重長に諜略をしかけ連合軍から離脱させた。伊地知重長の裏切りを知った肝付兼続は嫡男肝付兼亮に出陣を命じ、肝付兼亮と重興はただちに大根占と大姶良の境にある横尾峠に兵を出した。肝付兼亮と伊地知重興らは禰寝重長の兵とこれを支援する喜入季久の連合軍を迎え撃ったが、戦いは伊地知、肝付方の劣勢となり、ついに肝付兼亮と伊地知重興は兵を引き伊地知重興は大隈垂水に帰った。島津義久、島津義弘、島津歳久ら島津家と肝付兼亮・伊地知重興連合軍との対戦は、早崎城、入船城を舞台に何度となく繰り返された。1573年、肝付家と島津家の決戦が行われたが肝付方の安楽備前守が和睦、開城してしまったため、ついに伊地知重興も田上、高城、新城などの地を差し出して降伏した。島津義久も伊地知重興の降伏をいれ、本領の内下之城一ケ所3,800石を安堵した。以後、島津家の家臣として「豊後討伐」などに参陣した。

伊地知重昌【いじちしげまさ(15??~15??)】

伊地知重興の男。

伊地知重順【いじちしげじゅん(15??~15??)】

伊地知重昌の男。1581年、相良家との戦いを初陣した。1584年「肥後堅志城の戦い」「豊後征伐」の参陣した。1593年「朝鮮の役」には船奉行を勤めたが、帰国後、朝鮮の役における罪を咎められ領地没収の処分となった。伊地知重順が朝鮮でどのような罪を犯したのかは不明であり、領地没収は島津家による旧国人取り潰し策の一環であった。

井手籠重久【いでかごしげひさ(15??~1567)】

馬越家臣。官途は駿河守。1567年「馬越籠城の戦い」に参陣したが、籠城の後に自刃した。この合戦で馬越城兵200余が討死した。

井手籠重房【いでかごしげふさ(15??~1567)】

井手籠重久の長男。1567年「馬越籠城の戦い」に参陣したが、籠城の後に自刃した。この合戦で馬越城兵200余が討死した。

井手籠重光【いでかごしげみつ(15??~1557)】

井手籠重久の次男。1557年、吉峰にて討死した。

井手籠重陣【いでかごしげじん(15??~1567)】

井手籠重光の男。通称弥四郎。1567年「馬越籠城の戦い」に参陣したが、籠城の後に自刃した。この合戦で馬越城兵200余が討死した。

馬越重猛【うまこししげたけ(1532~1566)】

馬越城主。菱刈家枝連衆。永禄年間、島津家と和解し、所領を安堵される。1561年、栗野百二十町の加増を受けた。1562年、横川の加増を受けた。

馬越隆秋【うまこしたかあき(15??~15??)】

馬越重猛の弟。大膳亮。1566年、甥馬越重広が幼少のため代わりに家督を相続した。家督を相続後島津家と敵対した。1567年、島津勢に攻められる。島津義弘は馬越城北西の搦手を攻撃した。馬越城陥落後、大口城に逃れる。島津貴久は馬越城を拠点に大口城を攻める。1569年、相良義陽の仲介で島津家と和睦後、人吉に移った。

馬越重広【うまこししげひろ(1562~15??)】

馬越重猛の男。通称鶴千代丸。五歳で父を失う。幼少のため、家督は叔父馬越隆秋が継いだ。

上井為秋【うわいためあき(15??~15??)】

本田薫親家臣。諏訪兼春の男。官途は。別名諏訪為秋。本田薫親に属し大隅上井を領有した。1548年、島津貴久に仕えて薩摩永吉地頭となった。以後は島津家に仕え姓を諏訪から上井に改めた。辺田七人衆の一人であった。

上井薫兼【うわいかおかね(15??~15??)】

諏訪為秋の男。官途は武蔵守。室は肝付兼固の娘。父諏訪為秋とともに島津貴久に降り、薩摩永吉を領有した。上井覚兼が日向宮崎地頭となると日向柴波洲崎城へ入った。

上井覚兼【うわいかくけん(1545~1589)】

上井薫兼の男。官途は伊勢守。別名神左衛門。室は敷根頼賀の娘。1559年、元服と共に島津貴久に仕えた。二年後に肝付兼続の籠る「廻城の戦い」で初陣を迎えて以後、日向国侵攻や大隅国侵攻で活躍した。1576年、島津家の老中の一員となって家政を取り仕切った。1578年、島津以久の副将としての「石ノ城の戦い」「耳川の戦い」にも参陣した。1580年、日向国の抑えとして宮崎城守備を命じられ行政面で活躍、日向地頭職に任ぜられ、実質的に日向国を任された。1587年、島津家久に従って羽柴秀長勢と戦ったが、敗れて島津家久と共に降伏する。そしてその後は伊集院地頭職に任じられ伊集院に隠棲、その地で病没した。上井覚兼は優れた教養人でもあり、彼が記した『上井覚兼日記』や『伊勢守心得書』などは島津氏の首脳陣の政策決定などを知る記録資料としてのみならず、信仰生活など戦国大名家の日常を知る記録としても高く評価されている。

上井秀秋【うわいひであき(15??~1592)】

上井薫兼の次男。通称次郎左衛門。上井薫兼の次男として生まれるが、祖父上井為秋(諏訪為秋)の弟である親秋の養子となった。島津義弘の家臣として日向国飯野城に在城した。1572年「木崎原の戦い」で戦功を挙げた。1576年、馬関田地頭に任命された。島津義弘が肥後国守護代として八代に入るとそれに従うが、その際に島津義弘より家老に任命される。上井秀秋は当初それを固辞するが、島津義弘に説得する様に依頼され了承した。

上井里兼【うわい さとかね(1566~1631)】

上井秀秋の男。別名神次郎左衛門。1590年、25歳にして島津義弘の家老に就任する。その後、日向国小林地頭となり「朝鮮の役」にも島津義弘の供をして渡海した。1598年「泗川の戦い」での勝利を報告する為に帰国しそのまま伏見に在住した。その後は琉球の検地で功を為した。1613年、島津義弘の人質が出府する供をして江戸に八年間在住、その功として200石を賜った。

上井兼政【うわいかねまさ(1571~1599)】

上井秀秋の次男。別名仲五。大剛の者で、島津義弘の家臣として日向国小林地頭となり「朝鮮の役」にも島津義弘の供をして小林衆20名を伴い渡海した。1599年、伊集院忠真が「庄内の乱」を起こすと、上井兼政もその鎮圧の為に参陣「小松ヶ尾での戦い」の際に平田増宗が野々美谷方面へ退く中、主従六人と取って帰して敵を防いだ。上井兼政は傷を負いながらも、伊集院忠真家臣松永五左衛門が上井兼政の姿に臆して鉄砲を持ったまま行き過ぎる程の奮戦振りを見せたが、志和池郷小谷頭にて三俣院梶山の谷口伊予守に鉄砲にて討ち取られた。上井兼政は幼少時、飯野の長善寺で教育を受けており、死後は小林郷内で長善寺の鐘の音が聞こえる場所へ葬ってほしいと遺言していた為、飯野との境の地へ葬られた。

頴娃兼心【えいかねけんしん(1454~1532)】

頴娃城主。頴娃兼郷の男。官途は山城守。島津忠昌に属し、禰寝重清らとともに指宿城を攻略した。当初、島津忠昌の三男頴娃(島津)忠兼を養子に迎えていた。その後、頴娃(島津)忠兼は島津家を相続したため、代わって本家肝付家から頴娃(肝付)兼洪が迎えられた。

頴娃兼洪【えいかねひろ(1506~1538)】

肝属兼久の次男。頴娃兼心の養子。官途は左馬允。1525年、頴娃兼心に嗣子が無かったために養子となった。父肝属兼久は家臣萩原兼宗等を附属させた。頴娃家も以前に肝付家から分かれた枝連衆である。指宿地方は、島津忠良、知覧、祢寝、肝付の諸家の間で争奪戦が繰り返された要地で、頴娃兼洪は「指宿城の戦い」などの抗争に明け暮れた。1525年、頴娃兼洪は家臣津曲若狭守に命じて指宿城を攻撃させ、これを落すと津曲を地頭に命じて守らせた。一方、島津氏は島津勝久(忠兼)と島津貴久とが対立しており、頴娃兼洪は義兄にあたる島津勝久に加担していた。1531年、島津貴久の実父である島津忠良が、頴娃兼洪に出府を命じてきたが、頴娃兼洪はこれに応じなかった。その結果、島津家は頴娃攻めを開始して、頴娃城は落城寸前に追い込まれた。津曲若狭守は頴娃兼洪を説いて、頴娃兼洪の嫡男子稲千代を抱いて島津の陣に出向いて和睦した。1533年、頴娃家は島津貴久派につき、島津勝久派の田代民部介は追放された。

.頴娃兼友【えいかねかねとも(1529~1548)】

頴娃兼洪の男。1538年、頴娃兼洪は、嫡男頴娃兼友が十歳で家督を継いだ。しかし、頴娃兼友も二十歳で早世したため、叔父頴娃兼堅があとを継いで頴娃家の当主となった。

頴娃兼堅【えいかねかねかた(1531~1569)】

頴娃兼洪の次男。兄頴娃兼友の早世により家督を継いだ。島津家との関係を強化し、友好関係を進めることで、頴娃家の地位は安定し、頴娃兼堅の代に頴娃家の最盛期を現出させた。頴娃兼堅は信仰心があつく、領内各地の指宿野神社、新宮掖宮、開聞神社西宮、指宿御崎権現社などの修理を行った。頴娃家は執事津曲若若狭守を筆頭に、頴娃左近将監、鮫島因幡守、竹内伊豆守らの家老がいて、領内もよく統治された。そして、頴娃、指宿両郡の地頭として所領47,000石を領した。

頴娃兼有【えいかねかなあり(15??~1571)】

頴娃兼堅の男。父頴娃兼堅の死後、側室の子である頴娃久虎と家督を巡って対立し、開聞宮に立て籠もり、頴娃の農民や開聞宮の社家、衆徒とともに戦ったが討死した。

頴娃久虎【えいかねひさとら(1558~1587)】

頴娃兼堅の次男。頴娃兼堅のあとを継いだのが、勇将として知られる頴娃久虎である。1576年、島津義久が伊東義祐を三之山に攻めたとき、島津義久の手勢に属して伊東家を敗ったときの戦いであった。以後、島津義久、島津義弘らの九州統一戦に参陣し「耳川の戦い」「水俣城の戦い」「肥後千々輪城の戦い」「沖田畷の戦い」「日向侵攻」などの合戦において活躍した。1584年、島津義久の談合衆を務め、島津義弘をして「豊肥戦はすべて久虎によった」と言わしめた挿話は有名である。居城である頴娃城に三層五階の天守閣を造営、さらに、指宿新宮の東宮の修築、開聞神社の造営など、領主としての力も誇示した。1587年、二十五歳の若さで病没してしまった。そのあとは、わずか五歳の嫡男頴娃久音が継いだ。

頴娃久音【えいかねひさね(1583~1598)】

頴娃久虎の男。父の死後に本領を安堵されたが、太閤検地によって、頴娃、指宿、山川を没収されて、谷山郷山田へ移封された。1587年、頴娃久音は頴娃、指宿、山川の本領を没収されて、谷山郷山田に移封されてしまった。頴娃、指宿、石高30,000石余に対して、谷山郷山田は300石で、実に百分の一に減封という厳しいものであった。その理由は、島津家が羽柴秀吉の「九州征伐」に敗れて、領地不足をきたため、改易に近い処分を受けたことで、頴娃家の頴娃、山川、指宿の支配は終焉した。1593年、頴娃久音は日置郡満家院西俣村に750石を与えられたが、代々の家臣も従っていた頴娃家の財政はかなり苦しかった。1597年、頴娃久音は島津義弘に従って「文禄の役」に参陣した。このとき、頴娃久音は義弘から「つつがなく帰国できれば、本領を復し、公姫をもって配すべし」と約束された。1598年、島津勢は「泗川の戦い」において、明軍200,000万を撃退し、兵38,000余りを討ち取る大勝利をえた。頴娃久音もこの戦いに活躍したがまこなく戦病死してしまった。頴娃久音には男子がなかったため、頴娃家の血脈は断絶した。頴娃久音のあとは、島津義虎の五男頴娃(島津)久秀が入嗣して頴娃家の家督を相続した。

頴娃久政【えいかねひさまさ(1584~1649)】

鎌田政近の四男。官途は左馬頭。頴娃久秀(島津義虎の五男)が入来院家を継いだため、頴娃家を継いだ。

頴娃家臣団【えいかねけかしんだん】

津曲若狭守、頴娃左近将監、鮫島因幡守、竹内伊豆守、田代民部介。

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【か】

蒲生充清【がもうみつよき(15??~15??)】

蒲生城主。蒲生宣清の男。種子島忠時に嫁いだ姉の子蒲生(種子島)茂清を長女の婿に迎え嗣子とした。死後、蒲生茂清が家督を継いだが嫡男蒲生清親が生まれ対立が生じた。

蒲生茂清【かもうしげきよ(1505~1550)】

種子島忠時の男。蒲生充清の婿養子。蒲生充清は女子二人に恵まれたものの男子がなかったため、種子島忠時に嫁いだ姉の生んだ蒲生(種子島)茂清を長女の婿に迎えて後嗣とした。1549年、肝付兼演を首謀者として蒲生茂清、渋谷一族らは島津方の吉田城を攻撃した。島津貴久は援軍を出し、両軍激戦となったが、ついに肝付、蒲生家連合軍は敗れて兵を退いた。島津貴久は伊集院忠朗、菱刈隆秋らに、加治木城の肝付兼演を攻撃させた。蒲生茂清、祁答院良重、肝付兼演らは戦い続けたが肝付兼演は降伏、蒲生茂清とともに和睦した。祁答院良重も使いを送って島津家に謝罪した。島津貴久は肝付兼演に改めて加治木城を与え、さらに楠原、中野を与えたため、ついに肝付兼演は蒲生茂清、祁答院良重と袂を分かち島津貴久の麾下に属した。

蒲生範清【かもうのりきよ(15??~15??)】

蒲生茂清の男。蒲生範清が蒲生家の家督を相続すると、ふたたび祁答院良重、菱刈隆秋らと結んで、島津貴久と対立した。1554年、蒲生範清は祁答院良重と結んで、加治木城を攻撃した。これに菱刈隆秋も加担して、肝付方と連合軍との間で激戦が展開された。肝付兼盛が加治木城から出撃して奮戦したが、蒲生範清らは城の包囲を続けた。加治木城の危機に対して島津貴久は蒲生範清、祁答院良重を撤退させるため、岩剣城を肝付兼演に攻撃させた。天然の要害である岩剣城では城主祁答院良重、蒲生家臣西俣盛家が城将として島津家を迎え撃った。岩剣城が島津軍に包囲されたことを聞いた蒲生範清は、加治木城の包囲を解き岩剣城救援に向かってきた。蒲生範清は祁答院良重の嫡子祁答院重経勢とともに、岩剣城北部の平松で島津勢と激突した。激戦の結果、祁答院重経、城将西俣盛家らは討死蒲生勢は敗走した。城将を失い援軍も潰滅したため、城兵は夜陰に紛れて落ち延び、岩剣城は島津勢の手に落ちた。1555年、島津貴久は蒲生家の枝連衆が守る北村城を落し、祁答院良重の拠る帖佐平山城を攻撃、島津勢の猛攻撃にさすがの祁答院良重も平安城を逃れて本領の祁答院に逃れた。その後、良重は帖佐奪回を策して蒲生範清の応援を得て平安城を攻撃したが回復はならなかった。祁答院良重の居城を収めた島津貴久は、蒲生範清に降伏を進めたが蒲生範清はこれをはねつけた。1557年「蒲生院内の戦い」に敗れた蒲生範清は島津家に降った。蒲生範清は城門の鍵を島津家に渡すと城に火を放って祁答院の松尾城に退去した。

.蒲生清親【がもうきよちか(15??~15??)】

蒲生充清の男。官途は美濃守を称す。蒲生茂清との内訌で島津家に属した。蒲生茂清の嫡男蒲生範清が島津家に敗れた後、蒲生宗家の家督を継いだ。

河越家実【かわごえいえざね(15??~15??)】

肝属家臣。官途は丹後守。1542年、肝属兼続が禰寝清年と対立した際、肝属兼賢とともに出陣した。高隈地頭、のち百引(百次)地頭を務めた。

北村清康【きたむらきよやす(15??~15??)】

北村城主。蒲生家枝連衆。官途は伯著守。1554年、島津勢が蒲生城に攻め入ると、北村清康は経略を諮り家臣の山下半太夫に偽りの降伏をさせた。島津勢は北村城に聞こえた勇将の山下半太夫を用いることにした。島津勢は北村城攻撃の時、城の一番攻めやすい所に火をあげよと山下半太夫に命じた。島津貴久、島津義久、島津尚久の勢は、北村城の一角に火の上るのを見、その下から島津尚久隊を先鋒としてドツと攻めかけた。待ち受けていた北村勢は、矢や鉄砲を雨あられと射かけられ島津勢は敗走した。島津貴久は、中瀬戸の石に腰を掛け、戦況を見ていたが、味方の敗走の中にまじり、岩戸川原に出たところ、待ち受けていた蒲生城の兵と、北村城の兵に挟み討ちにされ、大敗北を喫してしまった。

北村安芸守【きたむらあきのかみ(15??~15??)】

北村清康の男。1554年、島津勢によって祁答院方の岩剣城が落されると、北村安芸守は、親類の郡山領主比志島美濃守国守説得により、蒲生範清を裏切って島津勢に降伏した。このことが、蒲生城にも聞こえて、蒲生方と北村方は不和になり、北村安芸守は北村城に居ることができず、妻子を城中に残し、単身鹿児島の島津勢に投じた。北村城は父北村清康と、弟北村伯著守が蒲生方として守備した。

北村家臣団【きたむらけかしんだん】

山下半太夫。

肝付兼興【きもつきかねおき(1492~1533)】

高山城主。肝付兼久の男。官途は河内守。室は島津忠朝の姪。1523年、父肝付兼久の死去により肝付家の家督を相続した。薩摩国島津家とは縁戚関係を結んでいた。1524年、島津家庶流「豊州家」の岳父島津忠朝から同族北原家の居城であった大隅の串良城を奪還した。その後、居城を高山城に移し、島津家と幾度も抗争して勢力拡大に努めた。

肝付兼執【きもつきかねまさ(15??~15??)】

肝付兼久の次男。1533年、兄肝属兼興が死去すると、肝属家の家督を巡って甥の肝属兼続を戦い討死した。

肝属兼続【きもつきかねつぐ(1511~1566)】

肝属兼興の男。官途は河内守。通称三郎。1533年、父肝属兼興が死去すると、叔父肝付兼執を滅ぼして家督を相続した。室は島津忠良の娘(阿南)。肝属兼続は隣国の伊作島津家との関係を重視し、島津忠良の長女を室として迎える一方で、妹を島津忠良の嫡男島津貴久に嫁がせて良好な関係を保とうとした。一方で大隅国内の平定に着手した。1538年、高岳城を落としたのを契機に、大隅をほぼ平定した。1539年、島津忠良による市来攻めにも援軍を派遣した。1542年、百引城や平房城。1544年、に安楽城。1546年、逢原城など諸城を落とし、大隅における肝付家の勢力拡大に努めた。1553年、嫡男肝付良兼に家督を譲って隠居したが、実権は握り続けた。1558年、それまで親密な関係を保っていた島津家との関係が崩れて、肝属兼続は日向の伊東義祐と結んで飫肥領主島津忠親と戦った。1561年、廻城を奪取して島津貴久と本格的に敵対し、竹原山の戦いで島津貴久の弟島津忠将を討ち取って大勝した。このとき、肝属兼続は室阿南に離縁を迫ったが応じなかった。1562年、志布志郡を落とし、肝付家の最大領土を形成した。そしてここに隠居所を築き、隠居生活を送りながら政務を行なった。1564年、日向福原で島津忠親と戦って勝利した。1566年、島津方の北郷時久と戦って勝利し、福島まで進撃する。しかし、島津貴久の反攻を受けて居城である高山城を落とされると、肝属兼続は隠居城の志布志付近で自刃した。

肝付良兼【きもつきよしかね(1535~1571)】

肝付兼続の男。官途は河内守。通称三郎。室は伊東義祐の娘。1553年、父肝付兼続の隠居に伴い当主となるが、実権は依然として父が握っていた。1566年、父肝付兼続の死後、家中の権力を掌握した。1568年、反攻に転じ、まず伊東義祐と同盟し、飫肥を攻めて島津忠親を撃退した。1571年、島津義久が大隅へ侵入して小浜城主伊地知重興を攻めると、これを救援して撃退するなど、大隅から島津勢力を一掃せんと努めた。1571年、若くして夭折した。

肝付兼樹【きもつきかねみき(15??~15??)】

肝付兼続の次男。官途は右京亮。1572年、肝属兼亮の母阿南(島津忠良の娘)は重臣と謀って、肝属兼亮、肝属兼樹を追放された。伊東家を頼るが伊東家の没落でその後の消息は不詳。孫肝付兼弘は薬丸孤雲の娘を娶り、子孫は鹿児島、佐土原両島津家臣となった。

肝属兼亮【きもつきかねすけ(1544~1573)】

肝属兼続の三男。1571年、兄肝付良兼の病没を受けて肝属家の家督を相続した。伊東義祐や伊地知重興、禰寝重長とともに島津家を攻めるが撃退された。その後も島津家に抗した。1572年、肝属兼亮の母阿南(島津忠良の娘)は重臣と謀って、肝属兼亮、肝属兼樹を追放し、その弟肝属兼道を擁立して島津家に接近した。

肝属兼道【きもつきかねみち(15??~1600)】

肝属兼続の四男。通称三郎四郎。別名肝属兼護。初め日向救仁院夏井城主麦生田忠能の養子となっていたが、兄肝属兼亮の追放後、肝属家の家督に相続した。1574年、伊地知重興、禰寝重長らは島津家に降り、肝属兼道も廻城、市成城、恒吉城を差し出して島津義久に帰順した。1577年、島津義久は大隅高山のみを肝属兼道に与え、ほかの旧領(志布志、福島、安楽、松山、大崎、串良、平房、恒吉、鹿屋、百引、大姶良)は接収された。1580年、薩摩国阿多郡阿多へ転封となった。大隅肝属家は事実上その領主としての地位を失った。1600年、肝属兼道は島津義弘に従って「関ヶ原の役」へ参陣し討死した。

肝属兼幸【きもつきかねゆき(1592~1610)】

肝属兼道の男。父肝属兼道と室が不和だったため知行を削減されたが、肝属兼幸が訴えたため知行100を加増された。1610年、島津家久とともに上洛する途中、暴風雨に巻き込まれて溺死した。肝属家の家督は新納忠秀の嫡男肝属(新納)兼康が継いだ。

肝属兼演【きもつきかねひろ(15??~1552)】

加治木城主。肝属兼国の男。肝属家臣。官途は越前守。通称三郎五郎。石高15,084石を領した。早くから島津忠良に通ず。1527年、帖佐。1529年に加治木を与えらる。その後一時薩州島津家に奔って伊作島津家と争う。1549年、和睦して加治木城を安堵された。

肝属兼盛【きもつきかねもり(1533~1578)】

肝属兼演の男。官途は弾正忠。通称三郎五郎。1549年、父肝属兼演とともに島津家に帰属して加治木を安堵され、以後島津家臣として働く。1555年「蒲生攻め」「伊東攻め」に参陣して戦功を挙げた。1568年、島津忠良に特に賞された。

肝属兼寛【きもつきかねひろ(1558~1590)】

肝属兼盛の男。官途は弾正忠。通称三郎五郎。母は島津忠良の娘。1580年、肥後、肥前方面において戦功をあげ活躍した。上井覚兼から『雨宝童子之法』の秘伝を伝授された。

肝付兼三【きもつきかねみつ(1585~1602)】

肝属兼寛の養子。伊集院忠棟の三男。加治木から喜入に転封された。父が殺害され肝付家を去った。島津忠恒の命で暗殺された。

肝付兼篤【きもつきかねあつ(15??~15??)】

肝付兼盛の男。官途は越前守。1599年、伊集院忠棟が伏見で殺害された際に、肝付兼三が肝付家を去ったため家督を継承した。

肝属兼清【きもつきかねきよ(15??~15??)】

肝属家臣。官途は伊勢守。1547年、知行宛行状に検見崎兼堯、安楽兼元とともに署名。肝付兼続から六代前、肝付兼氏の弟山下久兼の玄孫であるという。当主が大旦那となって再興、建設した神社などに願主奉行となっているものが多くみられる。

肝属兼吉【きもつきかねよし(15??~15??)】

肝属兼清の次男。官途は加賀守。1560年「廻城の戦い」では弟肝属兼名とともに島津家と戦った。1573年、救援を求めて日向伊東家に派遣された。

肝属兼名【きもつきかねな(15??~15??)】

肝属兼清の三男。官途は治部左衛門尉。1560年、肝付家の島津家離反直後の「大隅廻城の戦い」では肝属兼続より佩刀を与えられて夜襲し、城を奪取した後は城の守備にあたった。肝付家の勢力が衰えると一族の肝付三河入道竹友の代わりとして志布志の地頭に任ぜられた。

肝属兼純【きもつきかねずみ(15??~1572)】

肝属兼実の次男。官途は越後守。1572年、島津義久と戦って討死した。

肝付竹友【きもつきたけとも(15??~1573)】

肝付家臣。1560年「志布志城の戦い」で活躍した。1564年、志布志地頭となった。1573年、北上して北郷時久を攻めるが「末吉国合原の戦い」討死した。

検見崎兼堯【けみざきかねあき(15??~15??)】

肝属家臣。官途は播磨守。肝属兼続に仕えた老臣。永正期から八幡宮再興などの奉行、代官を務め、天文期にも同様の奉行などを務めた。1588年、家臣への知行宛行状に署名している。

検見崎兼書【けみざきかねひさ(15??~15??)】

検見崎兼堯の男。官途は常陸介。1554年、曽於郡の郡司であった。

検見崎兼泰【けみざきかねやす(15??~1578)】

検見崎兼書の男。官途は常陸介。家老職。肝属家が島津家に臣従すると島津家に従った。1570年、検見崎福田寺阿弥陀堂を建立した。1578年「日向侵攻」の際、高鍋において討死した。

祁答院重武【けどういんしげたけ(15??~1538)】

岩剣城主。祁答院重貴の男。大隅の有力国人渋谷五族祁答院家。1529年、帖佐、山田を攻略した。1535年、島津実久に逐われた島津勝久を庇護し守護復帰を図るが失敗した。

祁答院良重【けどういんよししげ(15??~1559)】

祁答院重武の男。父祁答院重武より大隅帖佐、山田新城領を継ぐ。1554年、度々島津貴久の侵攻を受け抵抗するが、弘治年間にはその所領を奪われた。1559年、室(島津義虎の娘)によって謀殺された。

祁答院重経【けどういん(15??~1554)】

祁答院良重の男。父祁答院良重が島津貴久に居城岩剣城を攻められると、蒲生勢とともに救援に向かい平松で島津勢と戦ったが敗れ、蒲生家臣西俣盛家とともに討死した。

祁答院重種【けどういん(15??~1600)】

祁答院良重の次男。祁答院領主。父祁答院良重の死後も永野城を守っていた。1569年、島津義久に攻められて降伏した。「庄内の乱」に参陣し討死した。

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【さ】

鮫島宗勝【さめじまむねかつ(15??~15??)】

頴娃兼堅家臣。官途は因幡守。頴娃十二町の地頭職。頴娃家四家老の一人であった。

敷根頼賀【しきねよりいわ(15??~15??)】

島津家臣。敷根頼賀の代に肝付家が敷根口に攻め入ったが、敷根頼賀はこれを長尾城で防ぎ、その功によって重富、帖佐の一部を給わっている。 その後、島津家が羽柴秀吉の「九州征伐」に敗れて、薩摩、大隈、日向の一部を安堵されると、文禄検地が行なわれた。1594年、敷根頼賀は垂水の田上へ移封され家族、家臣を従えて田上城へ移住した。このとき、敷根の一部は石田三成の知行分となったようだ。

敷根頼兼【しきねよりかね(15??~15??)】

敷根頼賀の男。

敷根頼元【しきねよりもと(15??~15??)】

敷根頼兼の男。1592年「文禄の役」に参陣し、帰国の途中で病没した。敷根頼元は嫡子がなかったので、島津忠長の男敷根立頼を養子に迎えた。

敷根立頼【しきねたてより(15??~15??)】

島津忠長の男。敷根頼元の養子。1599年、高隈へ転封され、垂野城を居城とした。

敷根久頼【しきねしさより(15??~15??)】

敷根立頼の男。室は島津家久の娘。島津を名乗る事を許されて市成殿と呼ばれるようになった。以後敷根家は島津家の枝連衆として続いた。

篠川小四郎【しのはらこしろう(15??~15??)】

種子島時堯家臣。種子島時堯の命により、南蛮人から火薬の調合法を学んだ。

税所篤辰【ぜいしょあつたつ(15??~1538)】

曽於郡城主。1538年「加世田城の戦い」で討死した。

税所篤和【ぜいしょあつかず(15??~15??)】

税所篤辰の男。1580年、曽於郡の地頭に任じられる。諸所の合戦に参陣して戦功を挙げた。

税所篤清【ぜいしょあつきよ(15??~15??)】

税所篤辰の次男。官途は但馬守。島津家久に仕えて使役を務め、琉球奉行、京都御蔵奉行などを務めた。

瀬戸口重為【せとぐちしげため(15??~15??)】

島津家臣。通称は藤兵衛。1554年「岩剣城の戦い」で、梶夫新兵衛とともに島津義久の御旗指役として参陣した。

瀬戸口重治【せとぐちしげはる(15??~15??)】

瀬戸口為治の次男。「朝鮮出兵」の際は島津義弘の供をした。

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【た】

高城重隆【たかじょうしげたか(15??~15??)】

高城妹背城主。東郷家臣。東郷重理の庶男。永正年間、甥東郷重朗が薩摩高城郡高城郷を併合した際、これを与えられて高城妹背城に入り高城家を称した。

高城重誠【たかじょうしげまさ(15??~15??)】

高城重隆の男。東郷宗家に逐われ、高城を奪われたため、入来院家臣となった。

谷河清親【たにかわきよちか(15??~15??)】

蒲生充清の男。父蒲生充清の死後、叔父蒲生茂清が蒲生家の家督を相続したが、蒲生充清が死んだとき妊娠していた室が嫡男谷河(蒲生)清親を生んだ。蒲生清親は嫡男とはいえ蒲生茂清が家を継いでいたため、谷河を与えられて谷河姓を称した。その後、蒲生茂清と谷河清親は互いに疑心暗鬼を生じ、ついに谷河清親は蒲生家を去って入来院家を頼って落延びた。

谷河清綱【たにかわきよつな(15??~15??)】

谷河清親の男。谷河清綱は蒲生茂清に殺されそうになったため、伯父蒲生兼演に引き取られた。1539年、谷河清親と谷河清綱は島津貴久の「市来平城の戦い」に参陣して、谷河清親の一族は蒲生宗家に味方することなく、飽くまで島津宗家に属した。

種子島恵時【たねがしましげとき(1503~1567)】

種子島忠時の男。官途は加賀守。島津忠良、島津貴久に仕え、戦功を挙げた。1543年、ポルトガル船漂着の際には、種子島時尭だけではなく、種子島恵時も、2,000両をはらって二丁の鉄砲購入交渉に尽力した。入手した鉄砲は、八板清定により解体、研究されて量産され、「種子島筒」として流通し、笹川秀重に研究、開発させていた火薬と共に日本の軍事バランスに影響を与え、後に当時の日本が世界で一番の鉄砲保有数を誇る国の礎を築いた。

種子島時述【たねがしまときつじ(15??~1543)】

種子島忠時の次男。1543年、種子島恵時は奢侈を諌めた弟種子島時述を疎んじたため、種子島時述は禰寝清年に通じて兄種子島恵時を攻撃した。種子島恵時は屋久島に逃れ、嫡男種子島時堯は禰寝勢に敗れて自刃を覚悟したが、禰寝清年は種子島恵時の悪政を正すことが目的で、種子島時堯は関係ないとしてこれを許した。種子島時述は屋久三郡のうち一郡を合戦による犠牲者のためとして要求した。このとき、屋久三郡すべてを禰寝清年に譲渡した。種子島時述は討死した。種子島時述の男種子島時連は、のち島津家臣となった。

種子島時尭【たねがしまときたか(1528~1579)】

種子島恵時の男。室は島津忠良の娘。薩摩国の島津家と琉球国の尚家の連絡役として修好に貢献して島津貴久の娘を娶る等、家中でも重臣の扱いを受けた。1543年、ポルトガル商人が乗った中国船が種子島に漂着。このとき、好奇心旺盛な種子島時尭は、鉄砲の威力を見て即座に2,000両の大金を支払い二挺を購入。そして、鍛冶職人八板金兵衛に命じて、鉄砲を分解させて調べさせ、鉄砲製造に成功する(もう一挺は島津家を通して、将軍足利義晴に献上)。これに因んで、鉄砲は種子島銃とも呼ばれ、戦国時代に大きな影響を及ぼす事になった。1555年、島津貴久に従い大隅国攻めに参陣した。種子島時尭と島津貴久の妹の間にできた娘、妙蓮夫人は、島津貴久の嫡男島津義久に継室として嫁ぎ、のちに国分舞鶴城の女城主となる三女亀寿を産んだ。だが種子島時尭と先述の時尭夫人は嫡子に恵まれず、当時島津家と争っていた禰寝家から姫を密かに迎えて側室にしていた。その姫との間に嫡男が産まれたのを時尭はひた隠しにしていたが、時尭夫人の知るところとなり、怒った時尭夫人は、娘二人を連れて鹿児島城に帰ってしまった。1560年、種子島家の家督を嫡男種子島時次に譲るが、二年後に七歳で早世したため家督に復した。後に次男の種子島久時が家督を継いだ。種子島久時は島津義久の加冠により元服、後に義久に従い数々の軍功を得て家老となり、江戸以降も種子島家は代々家老を出す家柄となった。

種子島時次【たねがしまときつぐ(1556~1562)】

種子島時尭の長男。官途は左兵衛尉。種子島時尭は島津忠良の娘を室に迎えていたが、生まれたのは女子ばかりで、長らく跡継ぎとなる嫡男に恵まれなかった。そこで禰寝尊重の娘を側室に迎えて生まれたのがこの種子島時次である。島津家と禰寝家は対立しており、種子島時尭のこの行為は島津家には裏切り以外の何物でもなく、種子島時尭の室の怒りを買って時尭夫妻は離婚した。1560年、元服して家督を譲られ「左兵衛尉時次」を名乗る。その時まだ数え五歳であり、戦国時代において、父存命中にこのような幼少で家督相続するのは非常に珍しい。しかし、そのわずか二年後に夭折した。

種子島久時【たねがしまひさとき(1568~1612)】

種子島時尭の次男。官途は左近大夫。種子島家の家督は兄種子島時次が継いだが、種子島時次が早世したため父種子島時尭が復帰したあと、島津義久より種子島家の家督相続を認められた。以後は島津家臣として「沖田畷の戦い」「九州討伐」の戦いに参陣した。1590年「小田原の役」にも参陣し、このときに羽柴秀吉に鉄砲200挺を献上した。「朝鮮出兵」でも、島津義弘に従って渡海している。1595年、太閤検地の煽りを受けて種子島の領地は島津以久に与えられたため、代わりに薩摩国知覧院に所領を移されたが、1599年、種子島に所領を戻されている。その後は島津義弘、そしてその後を継いだ島津忠恒の家老として仕えた。種子島久時は鉄砲術に優れた腕を持った武将であった。

種子島忠時【たねがしまただとき(1612~1654)】

種子島久時の男。官途は左近大夫。1611年、種子島久時は正室や側室との間にも男子に恵まれないまま病没する。ところがその後に側室が懐妊していたことが分かり、誕生したのが種子島忠時である。即座に当時の藩主島津家久によって当主とされたものの、乳児に種子島家の支配がつとまるはずがなく、種子島の実質的な支配は鹿児島藩の指導下で行われ、種子島忠時は鹿児島城下で成長した。1620年に元服後は島津家久の娘を室に迎えさせられ、完全に島主としての独立性を失った。その後は鹿児島藩の家臣として鹿児島と江戸を往復し、将軍松平秀忠や松平家光への使者となるなど重要な役目を果たす。また、所領の種子島が地理関係で鹿児島藩の重要政治犯罪人の流刑地となると、堅野カタリナ(島津光久の祖母で隠れキリシタン)や島津久憲(島津歳久の玄孫で前家老の島津久慶の養子)などの流刑人の監視を担当した。

津曲兼任【つまがりかねこれ(15??~15??)】

頴娃家臣。津曲俊宗の男。1535年、頴娃兼洪より指宿地頭に任じられた。頴娃兼洪が没すると菩提を弔うため源忠寺を建立した。

寺山直久【てらやまなおひさ(15??~15??)】

島津家臣。大隅市成地頭。1567年「牛山の戦い」で寺山直久、伊集院久慶、川上久朗らが討死した。

寺山久兼【てらやまひさかね(15??~15??)】

寺山直久の男。1598年「慶長の役」では島津義弘に従い「泗川の戦い」では望津を守り勝利に貢献した。「庄内の乱」でも活躍し乱後に恒吉地頭となった。

泊一火【とまりいっか(15??~15??)】

種子島家臣。砲術家。官途は兵部少輔。筑前国の生まれで、天正年間、大隅国種子島に渡り砲術を学ぶ。七年の修行により砲術を究め、後に一火流を興す。弟子に岡田重勝がいる。

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【な】

南浦文之【なんぽぶんし(1555~1620)】

臨済宗大龍寺の僧。別名文之玄昌。1555年、日向国飫肥の南郷外浦に生まれる。幼い頃から非凡ぶりを発揮し、文殊童と呼ばれていた。十二歳のとき禅門に入り、諱は玄昌で、桂庵玄樹の孫弟子にあたる龍源寺の一翁玄心に禅と儒学を、明の江夏友賢に五経周易の宋学を学んだ。章句訓詁に秀で、15歳で京に上り東福寺龍吟庵の煕春竜喜の法嗣となった。1602年、島津家久が創建した大竜寺の開山となり、島津家の嘱により使として松平元康に謁した。松平元康の薦めで建長寺に上堂秉払の式を行い、後水尾帝に召され宮中にて四書の新註の講を行うなど、その学識の深さで知られる。 島津義久、島津家久らの深い帰依もあり、薩摩藩の明や琉球との外交文書を司っていた。著書に『鉄炮記』『南浦文集』『日州平治記』『決勝記』などがある。薩摩藩の剣術家であった東郷重位の剣術へ「示現流」との流派名を与えている。

西俣盛家【にしまたもりいえ(15??~1553)】

蒲生家臣。官途は武蔵守。1553年、島津勢との「岩剣城の戦い」で討死した。

西俣出羽守【にしまたでわのかみ(15??~15??)】

蒲生家臣。1557年、島津家に降伏した。

.西村時貫【にしむらときつぐ(15??~1543)】

西村時弘の男。種子島家臣。通称織部丞。鉄砲伝来の際、唐人と筆談を行った。1543年、種子島時述の謀反時には、父西村時弘とともに種子島時尭の屋敷に籠城して応戦した。

禰寝清年【ねじめきよとし(1507~1559)】

大隅国人衆。1529年、島津忠朝、肝属兼続、新納忠勝、本田薫親、樺山幸久らとともに争いの絶えない島津本家勝久と伊作島津忠良の和睦を図ったが失敗した。1538年、高隈城を肝属家に譲られる。1542年、奪回された。島津勝久は室の兄にあたる薩州島津実久を重用したが、島津実久が宗家の家督を狙うようになったため、これと対立するようになり、伊作島津忠良をたのみ島津忠良の嫡男島津貴久を養子に迎えた。島津勝久は島津忠良、島津貴久父子とも対立するようになり、さらに国内は混乱を極めていった。この情勢をみた島津忠朝が新納忠勝、肝付兼演、本田薫親、そして禰寝清年らを誘って、和解を図ろうとしたが成功しなかった。1530年、肝付兼興が大姶良に侵攻し、禰寝へも侵入してきたが、禰寝勢は肝付勢を「横尾峠の戦い」打ち破った。島津家の内紛は島津実久が没落し、島津勝久が豊後に奔ったことで、島津貴久が島津宗家の家督を相続することとなった。島津貴久は、島津忠良を後楯として薩摩、大隅、日向の三州統一戦を推進、南九州の戦国時代は一大転機を迎えた。

禰寝重長【ねじめしげなが(1536~1580)】

禰寝清年の男。1543年、種子島恵時の種子島を攻撃、種子島家を破り屋久島を奪った。屋久島を掌握した禰寝重長は城ヶ平に城を築いて、島内の経営にあたった。1544年、屋久島奪還を企図する種子島恵時の反撃によって屋久島から撤退した。その後も、禰寝重長は屋久島をめぐって種子島恵時との抗争を繰り返した。1561年、肝付兼続に従って「廻城の戦い」に参陣した。その後も肝付兼続に従って島津家と戦った。1571年、禰寝重長は指宿摺ケ浜に侵攻し、島津義久勢と激戦となったが敗退した。指宿から退いた禰寝重長は、伊地知、肝付家らと結んで、兵船300余をもって海路鹿児島に押し寄せたが島津家臣平田家の防戦によって結局、成果のないまま兵を退いた。1573年、肝付兼続の病死で肝付家の形勢が不利になると、島津義久と単独で和睦した。このため、肝付兼亮に攻められることとなったが、これは島津勢の援軍によって撃退している。禰寝重長は内治において優れた才を発揮し、対明貿易や商業の奨励を盛んに行なった。禰寝重長は温州蜜柑、櫨などの交易、栽培に従事してこれを奨励したので、対明貿易の摩擦から種子島家と争った。

禰寝重張【ねじめしげひら(1566~1629)】

禰寝重長の男。官途は安芸守。禰寝重張は独立を維持でぎず島津家の麾下に属した。1580年、父禰寝重長の病没により禰寝家の家督を相続した。禰寝重張は島津義久、島津義弘、島津家久の三代に仕えた。1592「文禄の役」にはみずからは出陣せず家臣のみ送っている。その後「文禄検地」で禰寝から薩摩国吉利に転封された。これは、羽柴秀吉、石田三成と島津家の談合で決定された。このころ、禰寝家は肝付家、入来院家らとともにが鹿児島で重用視されていた。

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【は】

肥後時典【ひごときのり(15??~15??)】

種子島家臣。官途は下総介。1544年、寝禰重長の守る楠川城を落とす。

.菱刈重副【ひしかりしげぞえ(15??~15??)】

大隅菱刈院の領主。島津勝久家臣。菱刈重時の男。1528年、牛屎院のうち青木、長尾村を島津勝久から与えられた。菱刈家は菱刈へ入部以来、相良家とは友好な関係であった。

菱刈重州【ひしかりしげくに(15??~15??)】

菱刈重副の男。官途は相模守。1529年、島津明久を羽月大島に急襲して敗死させた。1530年、菱刈重州は相良義滋と結んで、大口城を攻撃した。ときに諏訪神社の祭りの日であったため、油断していた島津忠明は城内で自刃し、大口城は菱刈重州が占領した。こうして、菱刈重州は大口城に入り、太良、牛屎院を領して北薩の雄に成長した。1548年、島津貴久は姫木城の本田薫親、加治木城の肝付兼演を降した。これに対して、菱刈隆秋は祁答院良重、入来院重嗣、蒲生範清、北原兼守らと連合して肝付兼演の守る加治木城を攻撃、島津貴久は加治木城を救援するため、菱刈隆秋、蒲生範清、祁答院良重らが拠る岩剣城を攻撃した。加治木城を攻撃していた蒲生範清は、加治木城の包囲を解き岩剣城救援に向かってきた。連合軍と島津勢は岩剣城北部の平松で島津勢と激突した。結果、祁答院重経、岩剣城将の西俣盛家らが討死して蒲生勢は敗走、岩剣城は島津勢の手に落ちた。

菱刈重猛【ひしかりしげたけ(15??~1557)】

菱刈重州の次男。別名菱刈重豊。1562年、島津家による北原家攻めでは島津方。1556年、島津勢は蒲生範清の本城蒲生城を攻撃した。菱刈重猛は蒲生範清救援のため北村に陣を布いて島津勢を牽制、両軍は対峙したまま越年した。年が開けると島津忠良がみずから指揮をとって、北村の菱刈家を攻撃してきた。この戦いに島津義弘は、陣頭にたって菱刈勢の楠原某を討ち取り自らも重傷を負った。激戦のなかで菱刈重猛は自刃し、菱刈税勢は潰滅的敗北を喫した。1559年、郡山八幡神社を改修したが、そのとき宮大工が「その時座主は大きなこすてをちやりて、一度も焼酎下されず候。何ともめいわくな事哉」と落書した木片が修復工事の際に見つかっている。ちなみにこれが本邦初の「焼酎」の存在を表す記事である。日本造酒史上重要な足跡を残す。

菱刈隆秋【ひしかりたかあき(1518~15??)】

菱刈重州の三男。菱刈勢が敗れたことで蒲生範清も島津方に降参し、城を焼いて祁答院に落ちていった。かくして大隅西部も島津家の版図となったが、菱刈隆秋が甥菱刈重広を擁して大隅大口城、馬越城等の諸城に拠り島津家に抵抗を続けた。1566年、兄菱刈重猛が死去すると、菱刈重猛の遺児鶴千代(のちの重広)を奉じて薩摩大口城、馬越城に拠って島津忠良に抵抗した。人吉の相良義陽と結ぶ。1567年、島津貴久は馬越城を攻撃、大口城には伊集院、伊作、川辺方面の兵をもって押し寄せた。大口の菱刈家は相良家の支援を求めて馬越城に援兵を送ったが、島津勢の猛攻撃に城将井手籠駿河守をはじめ城兵ことごとく討死して陥落した。馬越城の落城により、本城、曽木、羽月などの菱刈勢は、大口城に終結、横川城にいた菱刈隆秋も大口城に入った。1568年、菱刈勢は「堂ヶ崎の戦い」で島津義弘勢と激突、菱刈方の勢は兵4,000余りに対し、島津義弘勢は兵300余りであった。島津義弘はこの寡勢でもって菱刈勢にあたったが、結果は惨澹たる敗北を喫した。菱刈隆秋は局地的な勝利を得てたが情勢は次第に島津家の優勢に動き。1569年、菱刈隆秋は相良義陽とともに島津家に講和を求め、野田感応寺で和平を結んだ。とはいえ、菱刈隆秋はその後も島津家への対立姿勢を改めなかったため、島津家は新納忠元、肝付兼演らに大口城攻撃を命じ「鳥神尾の戦い」で菱刈勢は島津勢の奇計に嵌って大敗を喫した。

菱刈重広【ひしかりしげひろ(15??~15??)】

菱刈重猛の男。1574年、島津家に対して異心を抱いた角により、その本城曽木城を奪われ、菱刈重広は伊集院神殿に転封された。

本田兼親【ほんだかねちか(15??~15??)】

曾於郡清水城主。島津勝久家臣。官途は因幡守。大隅の国人で守護代を務めた曾於郡地頭。島津勝久に仕えて家老を務めた。1523年、丸村北辰妙見社の棟札に名が載る。

本田董親【ほんだただちか(15??~15??)】

本田兼親の男。1548年、姫城主本田実親と対立してこれを攻めたが、島津貴久の派遣した伊集院久朗の攻撃を受けて降伏した。1548年、島津貴久に背き、またもや伊集院久朗に攻められ清水城は落城した。本田董親は嫡男本田親兼とともに日向庄内に逃れた。

本田親兼【ほんだちかかね(15??~15??)】

本田薫親の男。官途は大炊大夫。父本田董親が島津貴久の命を受けた伊集院忠朗に清水城を落とされたとき父本田董親とともに日向庄内に落延びた。

本田公親【ほんだきみちか(15??~15??)】

本田親兼の男。官途は大炊大夫。通称与左衛門。島津義久から本家惣領職の安堵を受けて復活を果たした。1595年、島津島津義久が隠居して曾於郡富隈城に移ったのちに島津義久の家老を務めた。1596年「慶長の役」に参陣した。田布施地頭職、湯之尾地頭職をつとめた。

本田親尚【ほんだちかなお(15??~15??)】

本田宗親の嫡男。島津勝久の老名を務めた。1525年、本田兼親を讒して、橘木城を攻め取った。1526年、島津忠良の下に赴き叛将討伐を要請した。

本田親貞【ほんだちかさだ(15??~1596)】

本田親尚の男。官途は下野守。通称弥六右衛門。大隅の国人で守護代を務めた本田家一族本田親尚の男で薩摩吉田、同加世田地頭。島津義久の奏者、のち家老職となる。1583年、琉球国との交渉を行なった。「緒方城の戦い」「根白坂の戦い」などに参陣して活躍した。

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【ま】

松下五郎三郎【まつしたごろうざぶろう(15??~15??)】

種子島家臣。明との貿易船に乗り込むが、嵐のため伊豆国に漂着。五郎三郎の所持していた鉄炮に伊豆の人々は衝撃を受け、鉄炮の術を教わった。「鉄砲記」はここから関東一円に鉄炮が広まっていったとしている。

三原重秋【みはらしげあき(15??~15??)】

三原重平の男。官途は遠江守。島津家臣。大隅曾於郡地頭。島津忠良、島津貴久、島津義久の老中を務めた。三原家は代々伊作島津家に仕え島津貴久の本家入嗣に伴い本家に仕えた。

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【や】

八板清定【やいたきよさだ(1502~1570)】

種子島の刀鍛冶。通称金兵衛。美濃国関に生まれで種子島に来住した。1543年、葡萄牙商人から二挺の鉄炮を手に入れた種子島時尭は、鉄炮製作を八板清定と家臣篠川小四郎に命じて作らせるが複製は暴発してしまった。製造法や火薬の調合を学ぶため八板清定は娘若狭を葡萄牙人に嫁がせて修得した。1545年、葡萄牙人からネジの製法を学び国内初の国産鉄炮製造に成功した。

八坂若狭【やさかわかさ(15??~15??)】

種子島の刀鍛冶八板清定の娘。鉄炮複製に不可欠なねじの製法習得のため葡萄牙人に嫁がされた。

薬丸兼将【やくまるかねまさ(15??~1576)】

肝属家臣。官途は出雲守。1562年、島津家が肝付家の館を訪問したとき、島津家臣伊集院忠朗が「宴の羮(あつもの。肉に野菜を混ぜて作った吸物)は鶴であるか」と戯れに兼将に言ったことが発端となり(鶴は肝付家の家紋)肝付家は島津家から離反したとゆうが、実際には既に島津家との対決は始まっているので創作である。のち島津家の麾下に属した。1576年「日向侵攻戦」で討死した。

薬丸兼持【やくまるかねもち(15??~15??)】

薬丸兼将の男。官途は弾正少弼。1574年、島津家に服属するに当たって肝付家の使者として鹿児島城に赴いた。

山田有親【やまだありちか(15??~1533)】

日置城主。山田有俊の男。島津実久に属した。薩州島津枝連衆。1533年、島津忠良の説得により島津貴久に従うも島津忠良の誤解で謀殺された。

山田有徳【やまだありとく(15??~15??)】

山田有親の男。通称蔵人。串木野、市来地頭職。父山田有親は島津忠良に降ったが、異心ありと見られ討ち取られた。のち、潔白が証明された。川上家との抗争に戦功を挙げた。

山田有信【やまだありのぶ(1544~1609)】

山田有徳の男。官途は民部少輔。通称新介。1578年、日向新納院高城地頭となり、大友家の「日向侵攻」に際しては日向高城を死守して「耳川の戦い」で大勝を呼びこんだ。その後も「相良城の戦い」「龍造寺の戦い」に参陣し、筑後堀切城攻めなど九州制覇戦に活躍した。「九州征伐」を迎えて羽柴秀長に降伏し人質として嫡男山田有栄を差し出した。戦後天草40,000石を与えられたが、録を返上して島津家への臣従を希望した忠臣。1588年、より家老職。城攻めのとき投石を受けて気絶したが、島津義弘の手当てを受けて蘇生した。

山田有栄【やまだありなが(1578~1668)】

山田有信の男。官途は民部少輔。通称弥九郎。1598年、島津家久の家老職。「九州征伐」のとき、父山田有信の降伏の際に人質として羽柴秀長のもとを訪ねた。1592年「朝鮮の両役」に参陣し「唐島の海戦」で活躍した。「庄内の乱」に出陣してこれを鎮定した。1600年「関ヶ原の戦い」では島津義弘を守り、一行の路銀が尽きた際に自慢の純金の宝刀を惜しげも無く売って薩摩へ逃れた。1629年、薩摩出水地頭となり、家臣の育成「出水兵児」や殖産興業に尽力した。のちに『山田宴斎覚書』著した。

吉田清存【よしだきよあり(15??~15??)】 

大隅姶良郡吉田の領主。官途は美作守。「沖田畷の戦い」に参陣した。1585年、鎌田政弘とともに足利義昭、毛利輝元の接待役を任された。島津義久に仕えて奏者を務めた。1586年、日向霧島社に使者として派遣された。

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【資料Ⅰ】

大隅国(9郡/210,000石)

菱苅郡:
桑原郡:
始羅郡:
囎唹郡:
肝属郡:
大隅郡:
馭謨郡:
熊毛郡:(種子島、屋久島)
大島郡:(奄美群島)

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【資料Ⅱ】

辺田七人衆【へんだななにんしゅう】

鹿児島湾に面して辺田の七人の豪族衆。石井、肥後、伊地知、池袋、廻、敷根、上井。

頴娃家四家老【えいかねけよんかろう】

津曲若狭守を筆頭に、頴娃左近将監、鮫島因幡守、竹内伊豆守。

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【資料Ⅲ】

大隅国【おおすみのくに】

鉄砲伝来【てっぽうでんらい】

1543年、大隅国熊毛郡種子島西之浦湾に漂着した中国船に乗っていた「五峰」と名乗る明の儒生が西村織部と筆談で通訳を行う。同乗していた葡萄牙人(「牟良叔舎」(フランシスコ)、「喜利志多佗孟太」(キリシタダモッタ))の二人が鉄炮を所持しており、鉄炮の実演を行い種子島恵時、種子島時尭親子がそのうち二挺を購入して研究を重ね、刀鍛冶の八板清定に命じて複製を研究させる。その頃種子島に在島していた堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧津田算長が本土へ持ち帰り、さらには足利将軍家にも献上されたことなどから、鉄炮製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられた。鉄炮鍛冶が成立し、戦場における新兵器として火器が導入され、日本の天下統一を左右することになる。後に松平元康による覇権の成立後、日本は武器輸出を禁止した。伝来当初は猟銃としてであったがすぐに戦場で用いられ、当時の鉄砲はマッチロック式であり、火縄銃と呼ばれた。やがて早合と呼ばれる弾と火薬を一体化させる工夫がなされ、すぐに装填できるよう改良された。実戦での最初の使用は、薩摩国の島津家臣の伊集院忠朗による大隅国の加治木城攻めであるとされる。

種子島筒【たねがしまつつ】

種子島で製造、もくは種子島の技術で製造された鉄炮。1543年、伝来した鉄炮とその関連技術を基礎として、もともと鍛冶が盛んであった種子島で鉄炮の生産がはじまった。1555年、日本に滞在した鄭舜功も『日本一鑑』で国(中国)の商人が「種島」に製造法を伝え、その後、坊津や豊後、平戸、和泉などに伝播したとしている。当然、その製造開始時期はかなり早くい。1549年、細川晴元の書状によれば、細川晴元は京都の本能寺の仲介で種子島から鉄炮を入手している。1560年、豊後の大友宗麟は将軍足利義輝に「経営料三十万疋」や太刀、馬、石火矢などとともに「種子島筒」を贈っており、大友家の領国に種子島筒が移入されていたことがうかがえる。

志布志湊【しぶしみなと】

深く広く湾入した志布志湾の奥に位置し、中世、物資の集散地や中国など海外との貿易で栄えた湊街。鎌倉末期には既に「志布志津」と呼ばれ、流通ルートと関係の深い西国寺末寺の宝満寺が建立されていた。海運と深く関わる北条得宗家も志布志を含む島津御庄に進出し、志布志湊は発展した。1378年、志布志に建立された東福寺末寺の大慈寺は、九州探題今川了俊から志布志の関所での「駄口米」(馬の荷にかける通行米)徴収を免許されている。志布志を多くの荷を運ぶ人々が行き交っていたことが想定される。1374年、大慈寺は奥州島津氏久に命じられ中国に留学僧を派遣して宋版の『大般若経』を入手した。奥州島津家は志布志を拠点に海外交易を展開した。島津元久は京への贈り物に金、料足、唐物などを用意し、志布志の廻船衆に預けている物を福昌寺に寄進することを約束した。

宮之浦(屋久島)【みやのうら】

屋久島の北東岸 、宮之浦川河口部の港町。1408年、種子島清時が、大隈守護島津元久から屋久島、永良部島与えられたことにより、屋久島に種子島に種子島家の支配が及ぶようになる。戦国期の屋久島の支配をめぐって種子島家と大隈半島の有力国人禰寝家との間で合戦が繰り返された。その他の屋久島の港としては、北部の一湊、北西部の永田、東部の安房などがあったとみられる。屋久島は日本では7世紀頃から「掖玖」や「夜句」などと呼ばれて知られるようになる。奈良期には遣唐使船の南島路の寄港地となっており、鑑真や吉備真備の乗船も寄港している。屋久島は遣唐使船の寄港地であったように、琉球、中国方面への航路の要衝であった。屋久島で伐採される屋久杉(材木)であった。屋久島や種子島の「木売舟」、あるいは九州各地から来航した「木買舟」によって屋久島の港から材木が輸出され、九州各地に陸揚げされていた。1582年、島津家は種子島久時に対し、材木を買いに来る船「木買舟」の着津と、他国へ木を売りに行く船「木売舟」を禁じた。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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