2011年11月10日木曜日

戦国商人・文化人名辞典

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【あ】

会田和泉守【あいだいずみのかみ(15??~15??)】

下総国関宿の商人。1574年、「第三次関宿城の戦い」で戦功を挙げ、関宿城主簗田晴助から和泉守の官途を与えられた。簗田晴助が没落すると北条氏照に従い、関宿を拠点に利根川水系と常総水系で交通を仲介した武装商人として活躍した。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

青野兵内【あおのへいない(15??~15??)】

和泉国堺の茶人。千利休の甥。千利休から筒の伝授を受けた。利休作と伝えられる筒花入の多くは青野兵内作とされる。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

茜屋宗休【あかねそうきゅう(15??~15??)】

和泉国堺の商人。屋号は「茜屋」。牧谿筆の鶴の絵、寅申の茶壺、木野辺肩衝などを所有した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

茜屋宗佐【あかねやそうさ(15??~15??)】

茜屋宗休の男。通称太郎右衛門。別名吉松。1570年、博多の島井宗室は、茜屋宗佐に自身の商用船「永寿丸」で荷物を送り、大和国郡山の和泉屋慶助に販売を委託した。和泉屋慶助は、大和郡山において和泉国との商取引を専門に行う問屋で、赤根屋宗佐は和泉屋を通じて大和方面と商いを行っていた。島井宗室は博多唐織や練酒など博多特産の商品も扱う一方で緞子や木綿、高麗茶碗といった中国、朝鮮の荷も多く扱う商人であり、赤根屋太郎右衛門もまた、これら海外の商品を九州方面から堺に輸入して販売する商人であった。中国北宋の画家趙昌による掛絵『花の絵』と花入『釣舟』を所有していた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

上野喜蔵【あかのきぞう(15??~15??)】

李氏朝鮮釜山城主尊益の男。陶工。別名「尊楷」。1592年、「文禄の役」後加藤清正とともに渡来した。1602年、豊前小倉城主細川忠興に招かれ、小倉で窯を開いた。のちに上野(あがた)に窯を移した。1632年、細川忠興が肥後国540,000石に転封になると、八代郡高田郷に窯を移した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅間四良左衛門【あきましろうざえもん(15??~15??)】

相模国津久井の大工。1512年、祥泉寺の社殿上葺を行なった。

阿佐井野宗瑞【あさいのそうずい(15??~1531)】

和泉国堺南荘の産婦人医。1528年、明の能宗立著『医書大全』を翻訳し刊行した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

芦川盛吉【あしかわもりよし(15??~15??)】

伊豆国仁科の大工。通称九郎清右衛門尉。1522年、三島社の造営を行なった。1527年、八幡社の社殿修復を行った。

油屋常言【あぶらやじょうげん(15??~15??)】

和泉国堺の薬師問屋。別名油屋常琢。数多くの名物茶器を所有し織田信長 とも関係の深かった。 油屋常言の寄進で堺に妙国寺を建立した。名物の『油屋肩衝』を所有していた。

油屋常祐【あぶらやじょうゆう(15??~1578)】

油屋常言の男。武野紹鴎に茶湯を学んだ。『油屋肩衝』、『曜変天目』、『油屋釜』などの名物を多く所有した。1570年、『柑子口』の花入れを織田信長に買い上げれた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

油屋常悦【あぶらやじょうえつ(15??~15??)】

油屋常祐の男。千利休門下の茶人。『天王寺屋会記』、『今井宗久茶湯日記書抜』、『宗湛日記』になどに記載されてる。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

油屋紹佐【あぶらやじょうさ(15??~15??)】

和泉国堺の商人。油屋常祐の枝連衆。武野紹鴎に茶湯を学んだ。1573年、茶僧古渓宗陳が大徳寺に入るのを祝って銭30貫文を寄進した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿部善定【あべぜんてい(15??~15??)】

備前国福岡の商人。別名阿部定善。宇喜多能家に仕える武家であったが商人となった。幼い宇喜多直家を庇護した。宇喜多直家の母は阿部善定の養女となった。

網干屋道琳【あぼしやどうりん(15??~15??)】

和泉国堺の商人。武野紹鴎に茶湯を学んだ。1566年、『天王寺屋会記』に記載された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

天野屋覚甫【あまのやかくほ(15??~15??)】

和泉国堺の茶人。古田織部の門人で服部道巴とともに並び称された。『宗湛日記』、『松屋会記』に記載された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

荒木一清【あらきいちせい(15??~1636)】

肥前国長崎の商人。通称惣右衛門。別名荒木宗太郎。室は阮家の娘。肥後国熊本から長崎開湊とともに長崎に移り、商人になった。1592年、羽柴秀吉の朱印状を得てシャム、安南国で交易を行った。安南国は混乱が続き、ハノイを中心とした北部は鄭(チン)家が、フエを中心とした中部は阮(グエン)家が実権を握り、南北に分裂し、この鄭家と阮家との対立は約200年にわたって続くことになった。北部ヴェトナムの鄭家政権を東京(トンキン)、中部ヴェトナムの阮家政権を交趾または広南国。荒木宗太郎は、広南国王の阮福源に深く信頼された。1619年、阮福源の娘、王加久戸売を室とし帰国した。1622年、松平秀忠より新たに朱印状を受け、交趾方面に通商した。交易船に用いた船標は、円のなかにO・V・Cを組み合わせたものでそれはオランダ東インド会社の船標を上下逆さにしたデザイン。

荒木田守武【あらきだもりたけ(1473~1549)】

伊勢国の連歌師。禰宜守秀の男。神道家、俳諧師として活躍した。父禰宜守秀は伊勢国内宮。和歌や連歌に堪能で後世の俳諧発達の素地を作った。山崎宗鑑、松永貞徳とともに俳諧の三神と称された。 著書に『世中百首』『合点之句』。

荒浜屋宗九郎【あらはまやそうくろう(15??~15??)】

越後国柏崎の商人。1564年、柏崎街中で長尾景虎に仕えた。長尾景虎は、柏崎に商売のため出入りする牛馬や荷物に対する新役賦課の禁止を約束して柏崎における商業を保護した。また、青苧流通への賦課を行った。

あめや長次郎【あめやちょうじろう(15??~15??)】

山城国京都の陶芸家。楽焼の創始者で、千家十職の一つ樂吉左衛門家の初代。父は明出身の工人あめやで母は比丘尼。千利休によって、ろくろを使わず手びねりで成形を行なう独自の工法が認められ、茶碗を納めるようになった。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

有山源右衛門【ありやまげんえもん(15??~15??)】

多摩郡関戸の商人。1585年、関戸郷河原に新宿を開き、併せて同地域の新田開発を行なった。伝馬役を賦課され、濁酒役、塩合物役を免除された。同地域の商人衆として小磯三郎右衛門、増田市右衛門、鈴木八郎左衛門、塩澤禰左衛門などが商いを行っていた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

淡路屋宗和【あわじやそうわ(15??~15??)】

和泉国堺の商人。武野紹鴎に茶湯を学んだ。「口広茶入」「餌簣茶入」「太鼓茶入」「則祐方衝」、馬麟筆の「夕陽絵」を所有した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

粟田口善法【あわたぐちぜんぽう(15??~15??)】

山城国京都の茶人。村田珠光の子弟。京都粟田口に住んだ隠者で、生涯、燗鍋ひとつで食事をし茶の湯を楽しんだ。茄子形の手取釜を愛用して、羽柴秀吉はその写しを伊勢の釜師辻越後に製作させた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安藤市右衛門【あんどういちえもん(15??~15??)】

肥前国平戸の商人。松浦隆信の御用商人的な立場にあった。

池上五郎右衛門【いけがみごろうえもん(15??~15??)】
 
山城国京都の大工。1522年、御所修理料所であった丹波国瓦屋南庄内成時名の地頭職を務めた。北山第舎利殿金閣や東山第観音殿銀閣などの御殿を造営、足利義昭の新御所造営を差配した。織田信長の京での作事も一手に引き受けた。1572年、織田信長が上洛して京都屋敷を建設したとき棟梁を務めた。

池田惣左衛門【いけだそうざえもん(15??~15??)】

羽前国酒田の商人。屋号は「鐙屋」。鐙屋は酒田三十六人衆のひとりとして代々街年寄としての重責を務めた。1616年、街年寄の永田家、村井家の没落とともに両家に代わって、鐙屋、加賀屋が新興商家として台頭した。1622年、酒井忠勝が北信濃国松代城100,000石から羽前国鶴岡城138,000石に移封されると、酒田城は三十六人衆の治める自治都市的要素が強かったことから、鶴岡城を選んだ。

池谷肥前守【いけのやひぜんのかみ(15??~15??)】

武蔵国松山の商人。大畠備後守とともに、新しく開いた新宿の市での問屋経営を任された。

池坊専応【いけのぼうせんおう(1482~1543)】

山城国京都の華道家。京都頂法寺中の池坊に住房した僧。立花の構成要素「七つ道具」の規範の基を定め、形は円、釣り合いは前短後長右長左短,真、副、請、正真、見越、流枝、前置などによって作られるとした。池坊専応は、同朋衆文阿弥のように「当世の人の心にかなふ…すい(粋)に花たつる」技の持ち主とは異なる、天皇や高貴の「御前の花をさす」「風興」の花人であった。1523年、『花一道 座敷のかざり』に、立花の美しさを「只,小水尺樹を以て…千変万化の佳興をもよをす、宛仙家の妙術」と述べた。

池坊専好【いけのぼうせんこう (1536~1621)】

山城国京都の華道家。池坊家三十一世。京都頂法寺(六角堂)の僧。立花の構成理論に儒学の教えを取り入れ、それまでの立花に画期的な変化をもたらした。1599年、京都の大雲院で門人100人とともに100個の銅瓶に花をいける百瓶華会を開催,絶賛を博した。七つ道具を考案し、池坊立花のあたらしい様式を創り出した。著作『池坊専好花伝書』など。

池坊専好【いけのぼうせんこう(1575~1658)】

山城国京都の華道家。池坊家三十一世と同名。池坊家三十二世。後水尾天皇に召し出されて立花を指導し、宮中における立花会の判者にもなっており、法橋に叙された。立花の大成者で、立花の構成理論に仏教を採り入れた。作品図は池坊、曼殊院、陽明文庫などに残された。

石井和泉守【いしいいずきのかみ(15??~15??)】

常陸国府中の鋳物師。1522年、佐竹義篤から鋳物師の棟梁として修理進の官途を与えられた。石井和泉守家は代々佐竹家に仕えた。

石井修理亮【いしいしゅりのすけ(15??~15??)】

石井和泉守の男。佐竹義重から、父石井和泉守と同じく金役を徴収する権限を認められ、鋳物師としての棟梁の地位を保証された。1602年、砂金採掘の朱印状を田中隆定から渡され200石を領した。

和泉屋松右衛門【いずみやまつざえもん(15??~15??)】

和泉国堺の鉄炮鍛冶。1604年、直江兼続に仕え200石を領した。毎年72挺の鉄炮製造が義務付けられ、これ以上の数を生産すれば、別途恩賞を受けた。1605年、500挺余りの鉄炮を製造した。

和泉屋慶助【いずみやけいすけ(15??~15??)】

大和国郡山の商人。屋号は「和泉屋」。和泉国堺の商人赤根屋太郎右衛門を通じて、他国の商品を仕入れ大和国内で販売した。

和泉守兼重【いずみのかみかねしげ(15??~15??)】
 
越前国一の谷の刀工。伊勢藤堂家に仕え江戸で作刀した。二代は上総介兼重と称したが、一説には和泉守兼重が後に上総介兼重と称した。和泉守兼重は長曾祢乕徹(虎徹)の師匠鍛冶と有力視されている刀工。

板坂卜斎【いたさかぼくさい(15??~15??)】 

甲斐国古府中の医師。武田晴信の御伽衆。板坂惟順の孫。代々京都で朝廷の医官をつとめる。出家して南禅寺東禅院にはいるが、武田晴信のすすめで還俗して医師となる。1568年、武田晴信を診察し、その余命を予言した。1582年、武田勝頼が討死すると松平元康に仕え医官となった

糸賀藤棟【いとがふじむね(15??~15??)】

友田興藤家臣。官途は中務丞。廿日市に近接する宮内などに所領を持ち、新堤築造などの開発事業にも携わった。1524年、厳島神主友田興藤に従って大内義隆と戦い、桜尾城篭城戦のさい戦功を挙げた。1545年、糸賀藤棟は友田興藤滅亡後に大内義隆によって厳島神主とされた佐伯景教(杉隆真)から佐西郡平良庄内を給与された。堤の内の給与は、私財を投下して新堤を築造したことに対する褒賞とみられ、藤棟が相当の財力を持ち、かつ新堤築造を行い得る技術、及び技術者を擁していた。糸賀藤棟の弟糸賀宣棟は廿日市で税を徴収するなど厳島神主家の経済政策に関わっており、糸賀藤棟が投下した資本や技術者も糸賀家の経済活動に関わった。

糸賀宣棟【いとがのりむね(15??~15??)】

友田興藤家臣。糸賀藤棟の弟。廿日市の流通課税徴収などにあたった厳島神主家の家臣。1524年、厳島神主友田興藤に属して大内義隆と戦いそのさい戦功を挙げた。糸賀宣棟は安芸西部経済の中心である廿日市において流通課税を徴収し、神主家の財政を支える重要な立場であった。1554年、毛利元就が大内義長から離反した際は、毛利元就に属した。糸賀宣棟は廿日市と厳島に拠点を持つ商人的な性格も備えていた。

伊藤祐広【いとうすけひろ(15??~15??)】

織田信長家臣。通称蘭丸。織田信長に仕えて800石を領した。1573年、「河内国若江城の戦い」で、三好義継勢と戦い討死した。

伊藤祐道【いとうすけみち(1563~1615)】

伊藤祐広の男。通称蘭丸。別名伊藤源左衛門。1573年、父伊藤祐広が討死すると、伊藤祐道は親戚に引き取られ養育された。1611年、清須越により名古屋城に移り、本街に店を構えて呉服小間物商を始めた。1615年、「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢に属して討死した。

伊藤祐基【いとうすけもと(15??~15??)】

伊藤祐道の男。通称次郎左衞門。1659年、伊藤祐基が名古屋の茶屋町に呉服小間物問屋の『いとう呉服店』として再興した。名を源左衛門と改め、呉服小間物商伊藤屋を創業したのが、始まりである。1768年、伊藤屋は、江戸に進出し上野の松坂屋を買収して屋号を「いとう松坂屋」と改めた。

伊藤惣十郎【いとうそうじゅうろう(15??~15??)】

尾張国清洲の商人。屋号は「伊藤屋」。織田信長に仕えた御用商人。1572年、伊藤惣十郎は、織田信長より尾張、美濃両国の唐人方(輸入呉服)および呉服方の商売司を拝命した。国内商人はどの売り子でも伊藤支配の夷講へ加入その手形を所有する義務があった。また,清州で商売をする他国商人も支配した。1610年、嫡男伊藤助三郎は清州より名古屋本街へ移り後の伊藤松坂屋となった。

伊東新左衛門【いとうしんざえもん(15??~15??)】

武蔵国六浦の廻船問屋。1566年、北条氏政から金沢の鍛冶に対して、伊東新左衛門の持ち船の修理を命じた。

伊藤久太夫【いとうきゅうだゆう(15??~15??)】 

暹羅国アユタヤの商人。アヤタヤ国王の使節の介添役として松平秀忠と拝謁した。1620年、日本人街頭領の城井久右衞門が引退を表明し、後任として山田長政が長老の中で一番の発言力を持つ木屋弥三右衞門の推薦で決まった。なお、頭領の就任は王の承認が必要だったのだ。頭領には「クン」の官位が与えられるのだが、山田長政はすでに水上貿易管理隊長としてクンの位に就いており、特別の昇格はなかった。日本人街は、戸主である日本人は2,000人、その家族や従業員をいれると8,000人に達する大きな街に発展していた。

伊藤小左衛門【いとうこざえもん(15??~1667)】

筑前国博多の商人。その商才で博多でも有数の財を築いた父伊藤小左衛門(同名)の後を継いだ伊東小左衛門は、同じく博多の豪商である大賀宗伯とともに黒田長政の御用商人となった。長崎代官の末次平蔵や西村隼人、大賀九郎左衛門ら商人達とともに、直接朱印船を派遣することの無かった黒田長政に代わって貿易活動を行った。

伊藤道光【いとうどうみつ(15??~15??)】
 
京の秋米収納の総元締め。京の三条に屋敷を持ち、羽柴秀吉が京へ来るときの常宿としていた。

糸屋隋右衛門【いとやずいえもん(1586~1651)】

肥前国長崎の交易商人。長崎の朱印船貿易家として知られているが商家の主人ではなく、朱印船の船長として活躍した。

今井宗久【いまいそうきゅう(1520~1593)】

和泉国堺の商人。屋号は「納屋」。今井宗慶の三男。通称彦右衛門。別名今井兼員。大和国今井街の出身。堺に出て納屋宗次の居宅に身を寄せ、武野紹鴎に茶を学ぶ。やがて武野紹鴎の女婿となり、家財茶器などをことごとく譲り受けた。軍需品としての需要があった鹿皮などの皮製品の販売を行ない財をなした。1568年、上洛した織田信長に名物の松島の茶壺や紹鴎茄子などを献上した。織田信長が堺に対して矢銭二万貫を課すと、会合衆たちは三好三人衆や松永久秀の力を背景に徹底抗戦の姿勢を見せたのに対し、今井宗久はこの要求を受け入れるよう織田信長と会合衆の仲介を行った。1569年、堺近郊にある摂津五カ庄の塩の徴収権、代官職、淀川の通行権等を得た。1570年、長谷川宗仁とともに生野銀山などの但馬国の銀山を支配した。代官領に河内鋳物師ら鍛冶屋を集め、鉄砲や火薬製造にも携わった。茶人として千利休、津田宗及とともに織田信長の茶頭を務め、茶湯の天下三宗匠と称せられた。織田信長の死後には羽柴秀吉にも仕え、堺の万台屋宗安、住吉屋宗無とともに秀吉の御咄衆を務めた。1587年、羽柴秀吉が主催した聚楽第落成の交歓茶事北野大茶会にも協力をし、所蔵茶器が第四位を占めた。羽柴秀吉が今井宗久よりも新興の小西隆佐や千利休らを重用したため、政商との地位は低下した。著作に『今井宗久茶湯書抜』『今井宗久日記』。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

今井宗薫【いまいそうくん(1552~1627)】

今井宗久の男。別名今井兼久。官途は帯刀左衛門。羽柴秀吉に御伽衆として仕えた。羽柴秀吉没後は松平元と接近し、松平忠輝と伊達政宗の娘五郎八姫の婚約成立に尽力したが羽柴秀吉の遺命に逆らうものであるとして批判された。その後は江戸幕府に仕えた。継嗣の今井宗呑が病没したため、今井家の家督は次男の今井兼隆が家督を相続した。今井宗薫が用いた縹地に二重の七宝繋ぎ文に宝尽文と梅花文を入れた緞子の名物裂は『宗薫緞子』と称された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩佐又兵衛【いわさまたべえ(1578~1650)】

山城国京都の絵師。荒木村重の男。通称又兵衛。別名岩佐勝以。1579年、父荒木村重は織田信長に対して謀反を起こすが失敗。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、二歳の又兵衛は乳母に救い出され石山本願寺に保護された。成人した又兵衛は母方の岩佐又兵衛と称して、織田信雄に近習小姓役として仕えた。絵の師匠は、荒木村重の家臣を父に持つ狩野内膳。俵屋宗達と並ぶ江戸初期を代表する大和絵絵師だが、牧谿や梁楷風の水墨画や、狩野派、海北派、土佐派など流派の絵を吸収し独自の様式を作り上げた。今では分割されてしまったが、『金谷屏風』には和漢の画題と画技が見事に融合させた画風で知られた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩城屋彦右衛門尉【いわぎやひこざえもんのじょう(15??~15??)】

備後国生口の商人。屋号は「岩城屋」。1554年、小早川隆景の生口島調略に中心的な役割を果たした商人。小早川隆景は生口島の調略を進めていた。岩城屋はこれに尽力し、小早川隆景は岩城屋に「望の儀」、つまり恩賞を与える意向であることを元直に伝えている。また岩城屋の一族とみられる孫七郎も「退衆の儀」について功績があったことが記されている。岩城屋や孫七郎はこの調略で大きな役割を担ったとみられるが、おそらくは日常的な商業活動により、生口島へ大きな影響力を持っていたと考えられる。

岩崎対馬守【いわさきつしまのかみ(15??~15??)】

武蔵国松山の商人。1585年、上田憲定は岩崎対馬守、松山本宿代官に証状を送り、本宿地詰まりにより新宿創設を命じ、本宿、新宿とも街人衆に任せた。

岩崎与三郎【いわさきよさぶろう(15??~15??)】

武蔵国松山の商人。

岩崎与次右衛門【いわさきよじえもん(15??~15??)】

安房国館山の商人。1584年、館山城下の高ノ島湊は、館山湾のなかでも水深があり西風を防げる天然の良湊。天然の要害である館山城は、軍事的な面だけでなく経済的にも拠点となる要素をもっていた。1584年、里見義頼は岩崎与次右衛門に館山城の西麓にある沼之郷に屋敷を与えた。里見義康に館山城下で連雀商人頭に任じられた。1615年、里見義忠の減封後に安房国の検地を任された中村吉繁は、岩崎与次右衛門を重用して政務を補佐させた。

鵜沢筑前守【うざわちくぜんのかみ(15??~15??)】

上総国金東の商人。金東城主酒井政辰に仕えた。1582年、酒井政辰の意向を受け兵糧を市場や八日市場など広範囲に渡って買い集め、運搬した。

鵜沢敏信【うざわとしのぶ(15??~15??)】

上総国金東の鋳物商人。官途は信濃守。金東城主酒井政辰に仕えた。

牛尾玄笛【うしおげんてき(15??~15??)】

山城国京都の能役者笛方。通称彦左衛門。名手として知られ,細川藤孝から玄笛の名をあたえられた。門人に宍戸善兵衛や笛方の森田流の祖森田庄兵衛らがいた。

宇田川勝種【うだがわかつたね(14??~15??)】

武蔵国品川の商人。官途は石見守。1457年、祖父宇田川長清が江戸城の築城に伴い、江戸日比谷から北品川に移住した。上杉房顕や上杉朝良に属した。宇田川勝種は品川神社の神主職と品川城の城主を務めた。

宇田川清勝【うだがわきよかつ(15??~1466)】

宇田川勝種の男。1466年、「五十子の戦い」で扇谷上杉顕定勢に属して討死した。

宇田川勝元【うだがわかつもと(14??~15??)】

宇田川清勝の男。1524年、「江戸城の戦い」で北条氏綱が扇谷上杉朝興を追い落すと、北条氏綱の意向を受け江戸城を修築した。

宇田川勝種【うだがわかつたね(15??~15??)】

宇田川勝元の男。品川神社の神主職を兼ね、街衆代表になった。

宇田川勝定【うだがわかつさだ(1574~15??)】

宇田川勝種の男。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、松平元康に属して、品川神社の神主職を安堵された。

宇田川勝重【うだがわかつしげ(15??~15??)】

宇田川勝定の男。1600年、「関ヶ原の戦い」の戦勝祈願を行った。

宇田川定氏【うだがわさだうじ(1533~1620)】

宇田川勝定の三弟。通称喜兵衛。葛西郡宇喜田やニ之江を開発した。1555年、 小松川に移住した。1596年、宇喜田を開発する際、関東郡代伊奈が援助を行った。

宇田川親定【うだがわちかさだ(15??~15??)】

上杉朝昌の男。通称郷右衛門。別名「東永」。建長寺の僧。

打它宗貞【うちだむねさだ(1559~1643)】

越前国敦賀の商人。屋号は「糸屋」。飛騨国の金森長近に仕え、茂住銀山を支配する金山奉行を務め財をなした。金森長近の病没後、飛騨国を立ち退き敦賀に来住した。1604年、佐竹義宣の蔵宿を務め、年貢米の輸送や決済を担当した。1614年、幕府が秋田藩に課した軍役板一〇〇枚を能代から敦賀まで輸送した。1634年、加賀藩が能登で行った塩の専売を一手に引き受けた。

内村将監【うちむらしょうげん(15??~15??)】

武蔵国河越の商人。北条氏康の家臣大道寺政繁は河越城を改修し、城下街に連雀商人を集め唐人小路と称される地区を整備した。

埋忠明寿【うめただみょうじゅ(1558~1631)】

山城国京都の刀工。三条子鍛冶宗近の末裔と称した。足利将軍家に仕える金工師であったためか、作刀数はごく少ない。現存する作刀は短刀が多く、長物は国の重要文化財に指定されている、相馬家伝来の太刀一口のみ。

宇野定治【うのさだはる(15??~15??)】

相模国小田原の商人。屋号は「虎屋」。通称藤衛門。中国出身の薬商人である陳宗敬(陳外郎)を祖とし、京都で透頂香(外郎)という丸薬を扱っていた京都外郎家の出身。1531年、北条氏綱は制作を進めていた『酒伝童子絵巻』の詞書や奥書の礼金を、定治に命じて近衛尚通や三条西実隆に届けさせた。宇野定治は北条家に仕えていたが、本家筋の京都外郎家と緊密な関係により、外郎家が交流を持っていた幕府要人や文化人たちとの折衝を北条氏綱から期待された。宇野定治はこの年に小田原城下に寺院を建立した。1539年、北条氏綱から河越城の代官に任じられた。

宇野家治【うのいえはる(15??~15??)】

宇野定治の男。1559年、川越領今成で200貫を領した。今成の地が定治の代官職を経て後北条家直轄領から宇野家の所領となった。

宇野太郎左衛門【うのたろうざえもん(15??~15??)】

相模国小田原の大工。北条氏康から国府津の御番細工に任じられた。1584年、赤田八幡宮の社殿修復工事を行なった。

雲谷等顔【うんこくとうがん(1547~1618)】

山城国京都の絵師。肥前国藤津郡能古見の出身。毛利家の御用絵師となって幕末まで続く雲谷派の祖。肥前国籾岳城主原直家の次男。別名原直治。主家滅亡後、画家へ転向し京都で狩野派に学ぶ。師は狩野松栄。1573年、毛利輝元に召抱えられた。等顔は、連歌や茶の湯にも堪能で、等顔の寄親であった佐世元嘉と共に出席しており、いわば毛利輝元の御伽衆として仕えた。1593年、毛利輝元より禄100石、雪舟筆の『山水長巻』と雪舟の旧居『雲谷庵』を与えられ、雪舟画の再興を命じられた。雲谷等顔と改名し、雪舟の正当な継承者として雲谷派を立ち上げる。狩野派や長谷川派らと画技を競い、毛利家の居城のある萩はもちろんのこと、津山城や京都、はるか江戸にまで足を運び作品を残している。雪舟様式を踏襲しつつも、桃山文化らしい装飾性豊かな作風を確立した。

越前屋久右衛門【えちぜんやきゅうえもん(15??~15??)】 

武蔵国日本橋の材木商人。建設期の江戸城に木材を運び巨万の富を得た。江戸商人の顔役であり、権力者と街人のパイプ役。

越後屋兵太郎【えちごやへいたろう(15??~15??)】

越前国敦賀の商人。蝦夷国の松前慶広に大鉄砲を販売した。

越前守康継【えちぜんのかみやすつぐ(15??~15??)】
 
越前国一の谷の刀工。通称市左衛門。諸国を遊歴して技を磨き越前に定住、結城秀康の知遇を受け、やがて父松平元康の目にとまり江戸に召致された。松平元康より葵紋と「康」の一字使用を許され「越前康継」を刀銘した。初代の没後、嫡男越前市之丞康悦が二代康継を継承した。

越中守正俊【えっちゅうのかみまさとし(15??~15??)】

山城国京都の刀工。美濃国関に生まれ、上洛して西の洞院夷川に移住した後、越中守受領した。作柄としては地鉄は板目、刃文は直乱れ、のたれ乱れなどを焼く。

榎本忠重【えのもとただしげ(1625~15??)】

武蔵国川越の商人。通称弥左衛門。松平忠勝が烏帽子親となって元服した。著書に『榎本弥左衛門覚書』。

遠藤清吉【えんどういわみ(15??~15??)】

幸手一色家臣。官途は石見守。1574年、葛飾郡内国府間の開発を始めた。

円乗坊宗円【えんじょうぼうそうえん (15??~15??)】

山城国京都の茶道家。古市宗庵の養父。もと京都本能寺円乗坊の僧。千利休にまなび,還俗してその娘と結婚、茶の奥義をつたえられた。1582年、「本能寺の変」後、焼け跡からひろいあげた名物茶入の『円乗坊肩衝』『圜悟(えんご)墨跡』を所持した。

大井新右衛門尉【おおいしんえもんのじょう(15??~15??)】

駿河国駿府の商人。皮革職人頭。今川氏規より皮革職人頭に任じられ、今川氏規領の皮革職人たちの統括を行なった。1526年、今川氏親より、駿府の屋敷の安堵状を受けた。

大井輝次【おおいてるつぐ(15??~15??)】

大井新右衛門尉の男。1544年、連雀商人たちが今川領内から皮革を持ち出すことを防止するため、荷改めの権限を与えられた。1559年、今川義元の意向を受け二年分の皮革調達を行った。大井輝次は今川義元から皮革職人、商人頭として特権を与えられたことで、重要な戦略物資である皮革の流通統制とその調達の役割を果たした。

大賀宗九【おおがそうく(15??~1630)】

筑前国博多の商人。島井宗室や神屋宗湛とともに博多三傑のひとり。大賀家は元々は大神の姓を名乗る豊後国の武士で、大友家に仕えていたが主家の滅亡とともに商人に転身した。1600年、黒田長政が筑前国へ移封されると博多に移住し、島井宗室や神屋宗湛とともに築城や城下街などの整備を行った。1621年、黒田長政から領地を与えられたが身分を理由に辞退した。三男の大賀信貞を家督を譲った。

大賀宗伯【おおがそうはく(15??~1665)】

大賀宗九の男。博多商人の筆頭職を務めた。黒田忠之の鼓の相手を務め、茶道をたしなんだ。

大蔵太夫【おおくらたゆう(15??~15??)】
 
武田晴信に仕えた猿楽師。別名大久保信安。大久保長安の父。祖父が大和国春日神社で奉仕する猿楽金春流の猿楽師で、父の時代に播磨大蔵に流れて大蔵流を創始した。

大坂屋久左衛門【おおさかやきゅうざえもん(1576~15??)】

摂津国西成郡の銅商人。1596年、縁戚である備後国福山大坂屋と連携して中国地方の鉱山開発により財を得た。1602年、佐竹義宣の家臣牛丸重勝の要請を受け、東北地方の銅山開発に着手した。阿仁銅山は大坂屋の稼業により全国最大の生産量を誇った。最盛期の生産量年間360万斤は米700,000石に相当した。1603年、大坂北炭屋町に移転し、銅山経営、銅吹(銅精錬)、海外貿易を行う豪商大坂屋の初代となった。

太田掃部丞【おおたかもんのじょう(15??~15??)】

駿河国富士金山の商人。1551年、今川義元の意向を受け富士金山から荷駄五駄を毎月六回定期的に輸送した。

大野筑前守【おおのちくぜんのかみ(15??~15??)】

上総国矢那の鋳物師。上総国一円で鋳物師として活躍した大野家惣領家。1589年、里見義康から所領の安堵状を受けた。

大村由己【おおむらゆうこ(1536~1596)】

播磨国三木の著述家。別名「頼音房」。初め青柳山長楽寺の僧であったが、還俗して羽柴秀吉に御伽衆として仕えた。若年の頃、京の相国寺において仁如集堯から漢学を学び、諸家の門を叩いて歌道を修め、その深い学識で世に知られた。羽柴秀吉に祐筆として仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋まで参陣した。『吉野花見』『高野参詣』『明智討』『柴田討』『北条討』など羽柴秀吉を主役とする新作能を創作した。新作能以外に、謡曲、和歌、連歌、俳諧、狂歌などに多彩な才能を発揮した。藤原惺窩や山科言継、里村紹巴などとの交友した。著書に羽柴秀吉の伝記『天正記』。

大橋宗桂【おおはしそうけい(1555~1643)】

山城国京都の棋士。京都下京の町人宗也の男。別名「宗桂」。織田信長、羽柴秀吉、松平元康に仕え、囲碁の本因坊算砂と度々将棋を披露した宗桂と算砂は囲碁でも互角だった。松平元康は碁、将棋を愛好し、碁将棋所を設け、最初は両方とも算砂が持っていた。1612年、将棋所は独立。大橋宗桂が初代将棋所となった。著書に『象戯造物』。

大橋宗古【おおはしそうこ(1576~1654)】

大橋宗桂の男。1634年、名人就位を受け世襲による家元制が確立した。彼の手により、弟の宗与を祖とする大橋分家、娘婿の伊藤宗看を祖とする伊藤家が始まる。以後、江戸幕府が倒れるまで、大橋本家をあわせたこの三家から名人を出した。1619年、本因坊算砂との対局、十五番指し宗古の九勝五敗一持将棋であった。

大橋重一【おおはししげかず(15??~15??)】

尾張国津島の商人。津島の武家的要素の強い商人。津島は鎌倉時代から湊を中心に発展しました。中世の京都と東国を結ぶ古東海道の尾張国の玄関口に位置し、河川を通じて美濃国との通商も盛んに行なわれた。また津島牛頭天王社の門前街としても発展した。織田信秀は、津島の恵まれた経済力を後ろ楯に、主家に匹敵するまでに勢力を伸張させた。

大橋重長【おおはししげなが(15??~15??)】

大橋重一の男。津島南朝十五党の筆頭。室は織田信長の姉(於蔵)。織田信長を支援した。後に津島南朝十五党は、織田信長勢の中核戦力を担った。

大畠備後守【おおはたびんごのかみ(15??~15??)】

武蔵国松山の商人。池谷肥前守とともに、新しく開いた新宿の市での問屋経営を任された。

大山吉久【おおやまよしひさ(15??~15??)】

相模国大山の仏師。通称藤四郎。1561年、「小田原城の戦い」で、長尾景虎勢に厚木郷の最勝寺は戦火に焼かれた。1563年、最勝寺は再興されたが、その際、本尊の阿弥陀如来像を作った。

大脇伝内【おおわきでんない(15??~15??)】

美濃国稲葉山の商人。屋号は「塩屋」。1569年、山科言継を接待し自邸にて宿泊させた。

大脇伝介【おおわきでんすけ(15??~15??)】

山城国京都の塩業者。法華信者。1579年、「安土宗論」の当事者。織田信長の前で浄土宗に敗北した。

岡家重【おかいえしげ(15??~15??)】

山城国京都の医師。通称弥伝次。宇喜多秀家のに仕えた。1598年、職を辞して京都で小児科医となった。

岡崎秀吉【おかざきひでよし(15??~15??)】

相模国鎌倉の大工。官途は飛騨守。1552年、北条氏康が鶴岡八幡宮の由比ヶ浜の大鳥居を建立する際、岡崎秀吉が大工頭を務めた。

岡田弥三右衛門【おかだやざえもん(1568~1654)】

近江国八幡の商人。屋号は「恵比須屋」。安土城下で商売を営んでいたが「本能寺の変」後、羽柴秀次が八幡城を築城すると、八幡城下爲心街に店を設けた。その後八幡城の廃城後に街が衰退すると、慶長年間に呉服太物を抱えて奥州に行商を始め、八戸を拠点に蓄財をなした。蠣崎慶広の家臣工藤平右衛門の支援を受けて松前に進出し、蝦夷地に呉服、太物、荒物を販売する店を設けた「恵比須屋」とした。後に松前慶広の信任を受けて、蝦夷地の千石船を用い海産物を日本海を経由して出羽から北陸、上方へと運んだり、蝦夷地における漁場経営や物資の調達を請け負ったりして御用商人として活躍した。

多門兵助【おかどへいすけ(15??~15??)】
 
大和国奈良の工匠。松永久秀の多聞城を築き、その櫓は多聞櫓と称された。

岡部又右衛門【おかべまたえもん(15??~15??)】

尾張国熱田神宮の宮大工。1573年、近江国佐和山の山麓で長さ30間、幅7間、櫓100挺の大型軍船を建造。安土城築城では大工棟梁として、五重七階の天守造営を指揮し、その功により織田信長より小袖を拝領した。

小川法栄【おがわほうえい(15??~15??)】

駿河国小川の商人。天日製塩と遣明船貿易、沿岸交易を生業とした。今川義忠没後の内紛を避けるため、今川義忠の継嗣竜王丸と北川殿を匿った。

興津親久【おきつちかひさ(15??~15??)】

駿河国興津の廻船問屋。1525年、連歌師宗長が今川氏親らと連歌会での短冊を所望した。興津親久は連歌師宗長に和歌を一首送った。

興津清房【おきつきよふさ(15??~15??)】

興津親久の男。1557年、今川義元の書状で、興津清房の枝連衆下山与五右衛門尉、宮原雅楽助とともに所領安堵を受けた。

小沢左馬允【おざわさまのじょう(15??~16??)】

常陸国府中の商人。官途は越後守。1574年、相模国玉縄城主北条氏繁から分国内での取引を保証された。1575年、下総国府川城主豊島家より知行内通過許可の書状を受けた。1577年、常陸国下妻城主多賀谷家より諸役免除の書状を受けた。小沢左馬允の商業活動は府中を拠点に江戸湾一帯にかけて行なわれ、複数の領主からその特権を認めら得ていた。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国に転封になるとそれに従った。

小田助四郎【おたすけしろう(15??~16??)】

松平広忠家臣。もとは松平広忠に仕えた忍び衆で商人になりすまして諸国の情報を探った。松平元康の命を受け中国に渡り、水銀山で朱焼の技法を習得して帰国した。1609年、堺に朱座が置かれると、朱製造の特権を得た。

小柳貞代【おやいづさだしろ(15??~15??)】

駿河国江尻の商人。1532年、今川氏輝によって江尻の三斎市、市往来の商人を管理することを認めれてた。1542年、今川義元の他国へ物資輸送を努めることで、今川領諸湊での自由売買の許可と入船役の免除を受けた。今川氏真が滅ぶと武田晴信に仕えた。

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【か】

海北友松【かいほうゆうしょう(1533~1615)】

山城国京都の絵師。海北綱親の五男。1535年、父海北綱親が討死したため、京の東福寺で修行後、狩野派を学んだ。1573年、「近江小谷城の戦い」で浅井長政が滅亡すると兄達も討死した。海北家の再興をめざしたが、羽柴秀吉に画才を認められたことから武門を去り、晩年は画業に専念した。その画は宋元画、特に梁楷の影響を受け鋭く力のこもった描線と省略の多い減筆法によって独自の画境を開いた。作品は大画面の水墨画が多いが「金碧濃彩の屏風絵」もある。八条宮智仁親王や亀井茲矩、もともと東福寺の退耕庵主だった安国寺恵瓊と親しかった。交流のあった斎藤利三を謀反人でありながら手厚く葬った。後に息子海北友雪は、斎藤利三の娘である春日局から褒賞を受けた。

加州兼若【かしゅうかねわか(15??~15??)】

加賀国の刀工。通称「甚六」。1619年、越中守を受領している。志津三郎兼家の末裔と称する。作柄としては、地金板目刃文互の目乱れなど志津風。

加藤浄与【かとうじょうよ(15??~15??)】

山城国京都の呉服商。屋号は「武蔵屋」。通称伊兵衛。加藤数馬と称して伊達政宗に仕えていたが、叔父に関わる不祥事から主家を致仕。京都で呉服屋を始めた。石田三成家臣島左近とは遠縁。1600年、「関ヶ原の役」後には島左近の娘珠を養育した。この珠は後に柳生利厳の側室となり、柳生厳包をもうけた。

上総介兼重【かずさのすけかねしげ(15??~15??)】

武蔵国の刀工。和泉守兼重の弟子。伊勢国津城主藤堂高虎お抱え刀工。初代兼重は、虎徹の師匠だった。新刀上作にして良業物。作柄としては、虎徹に似る。

粕谷源次郎【かすやげんいろう(15??~1600)】

羽前国酒田の商人。酒田三十六人衆。最上義光の御用商人を務めた。1587年、最上義光の意向を受け酒田湊の警備役や収納米受払い役を務めた。自分の持船四般と、他家の船六寂艘を加えた、十艘の船団を組んで上方に帆走し、物資の売買した。1589年、「小田原の役」では、五奉行の意向を受け東国における船舶動静の監視役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、上林七郎右衛門、永田茂右衛門らとともに吹浦に参陣したが、仙北由利勢と戦って討死した。

片山宗哲【かたやまそうてつ(15??~15??)】
 
山城国の医師。片山俊実の男。医家の片山宗仙の婿となり家督を相続した。一鴎宗虎に医学を学んだ。宗虎の推挙で松平元康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康が寒疾になったのを一晩で治した。松平家光が劇疾をわずらったのも治療した。松平元康が自ら作った万病丹などの飲みすぎを注意して信濃国高島に配流となった。

勝田佐渡守【かつたさどのかみ(15??~15??)】

武蔵国岩槻の商人。1560年、岩槻城主太田資正から市場の支配者として免許された。市場の管理運営を担当した。岩槻落城後は武士を捨て、家業に専念した。

角屋元秀【かどやもとひで(15??~15??)】

伊勢国松阪の廻船問屋。大湊で海運業を始め角屋を称し、駿河国清水湊を本拠とした廻船業者。

角屋秀持【かどやひでもち(15??~1614)】

角屋元秀の孫。通称七郎次郎。室は庵原助右衛門の娘。1560年、角屋秀持が次郎兵衛や浄感入道、右京進らとともにそれぞれ銭二百文を大湊老分衆に貸した。1573年、織田信長の家臣塙直政が大湊惣中に対し、今川氏真から預かった茶湯道具を進納するように命じた。1582年、「本能寺の変」で松平元康を伊勢白子から尾張常滑に渡した功で、三河国、遠江国での航行自由の特権を許された。

角屋忠祐【かどやひでもち(1607~1691)】

角屋秀持の男。通称七郎次郎。角屋忠祐が松阪の本家を相続した。継嗣をもうけることができず有久と久林を養子に迎えた。

角屋忠栄【かどやただなが(1610~1672)】

角屋秀持の次男。通称七郎兵衛。1631年、角屋忠栄は安南国に渡り日本人街に住み、二年後に幕府は日本人海外渡航禁止令を出したが、角屋忠栄衛は安南にとどまり、商品を奉書船を通じて日本に送った。1636年、外在住日本人の帰国が禁止された。角屋忠栄の消息は途絶えたが、30年後に消息が判明すると、安南国王の重臣阮氏の娘と婚姻を結ぶほどの出世を遂げた。「松本寺」を建立した。1807年、松本駝堂によって「安南記」として纏められた。

角屋栄信【かどやさかのぶ(16??~16??)】

角屋秀持の三男。角屋栄信は堺に移った。

神屋寿禎【かみやじゅてい(15??~15??)】

筑前国博多の商人。屋号は「神屋」。神屋寿禎は、大内義隆が一時的に採掘を中断していた石見銀山を再開発した。1526年、海上から山が光るのを見た神谷は領主大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主三島清右衛門の協力を得て、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。大内義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年、地方領主小笠原長隆が銀山を奪い、三年後に大内家が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。1533年、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法を成功させた。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦、沖泊から鉱石のまま積み出され取引された。

神屋宗湛【かみやそうたん(1551~1635)】

筑前国博多の商人。別名神屋貞清。島井宗室とともに上洛して時の織田信長に謁見して九州で勢力を拡大を図った。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、これは失敗に終わった。1586年、再度上洛して、畿内の諸大名や堺の商人津田宗及らと親交を深めた。羽柴秀吉に気に入られ、豪商としての特権を与えられて以後は博多商人として栄華を極めた。1592年、「文禄の役」では、後方兵站の補給役を務めた。1598年、羽柴秀吉が病死すると、松平元康からは冷遇された。1600年、「関ヶ原の役」後に黒田長政が移封されると、黒田家の御用商人を務めた。著書に『宗湛日記』がある。これは津田宗及の『天王寺屋会記』、今井宗久の『今井宗久茶湯書抜』、松屋久政の『松屋会記』と並ぶ四大茶会記ともされる。

紙屋甚六【かみやじんろく(15??~15??)】

相模国小田原の紙商人。紙屋甚六は奈良の出身。関東の紙の主産地は武蔵の小川、越生方面であり、紙屋甚六はこれらの関東の産地から紙を買い入れて小田原で販売し、広域に紙を販売していた。また奈良の多聞院英俊を訪問していることから、上方にも販路を持っていた。小田原には他にも紙屋甚六のように上方から移ってきた多数の商人、職人が住んでおり彼らも上方との間を往来し、遠隔地交易に携わった。

上林和泉守【かみばやしいずみのかみ(15??~15??)】

羽前国酒田の商人。酒田三十六人衆のひとり。上林家は、村井、永田家とともに街年寄衆。月行事三人ずつが、交替しながら十二カ月を乗り切っていた。酒井家入部後の三十六人衆には、城米の輸送や参勤交代、巡見使などの公儀役人通行の際の本陣、脇本陣、人足、伝馬、御用船の割出しなどの任務があった。

神奈河新四郎【かながわしんしろう(15??~15??)】

武蔵国神奈河の鍛冶。三崎城主北条氏規から棟別のを永代免除を認められた。この棟別銭の免除は新四郎が北条家の被官となった。虎朱印状 によれば、金沢、釜利谷、日野、青木の鍛冶と六浦の番匠を北条家海賊衆の基地である浦賀に召集した。1566年、北条氏康の意向を受け金沢の鍛冶は軍船の修復を行った。鍛冶は船釘や碇などの船金具の製造にあたった。

金谷彦右衛門【かなやひこえもん(15??~15??)】

武蔵国の河越商人。北条氏康の家臣大道寺政繁は河越城を改修し、城下街に連雀商人を集め唐人小路と称される地区を整備した。

狩野元信【かのうもとのぶ(1476~1559)】

山城国狩野派の絵師。狩野派の祖狩野正信の男で、狩野派二代目。室は土佐光信の娘千代。京都出身。官途は大炊助。父狩野正信の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理しつつ大和絵の技法を取り入れ、狩野派の画風の大成し狩野派繁栄の基礎を築いた。1507年、細川澄元の出陣影の制作した。1513年、細川高国の命で『鞍馬寺縁起絵』を制作した。1539年、石山本願寺の障壁画制作に携わった。1543年、内裏小御所。妙心寺霊雲院の障壁画を描いた。権力者の需要に応える一方で、街衆には絵付けした扇を積極的に販売し、当時の扇座の中心人物であった。『古画備考』所載の幕府への起請文には、扇絵制作の権利を持たないものが勝手に扇を作るのは違反なので、即刻その停止を命じて欲しいと記されていた。狩野元信の画工というより有能な事業主としての姿と、狩野派の民間工房的性格を負わせもっていた。

狩野松栄【かのうしょうえい(1519~1592)】

山城国狩野派の絵師。狩野元信の三男。通称は源七。別名狩野直信。三男は表絵師の神田松永町狩野家を興す狩野宗也、四男は表絵師の下谷御徒町狩野家の祖狩野長信である。狩野松栄の兄二人が早世したため、狩野家の家督を相続した。狩野元信に従って、石山本願寺の障壁画制作に参加し、証如より酒杯を賜った。元亀年間は、宮廷や公家と交渉していた記録が残っており、後の狩野派飛躍のために目立たぬ努力をしていたのが窺える。1566年、狩野永徳と共に描いた大徳寺聚光院の障壁画が有名。大友義鎮の招きで旅に出ており、途中の厳島で年を越し絵馬を奉納した。画才では、時代様式を創り出した父狩野元信や子狩野永徳に及ばなかったが、狩野元信様式を忠実に受け継ぎ、狩野派の伝統的な祖法として定着させた。その画風は永徳のような迫力に欠け、鑑賞者にやや地味な印象をあたえるけれども、筆致は柔軟で温かみのある作品を残した。門人に『豊国祭礼図屏風』『南蛮図屏風』で知られる根岸御行松家初代の狩野内膳、築地小田原町家と芝金杉片町家の祖となる狩野宗心などがいる。

狩野永徳【かのうえいとく(1543~1590)】

山城国狩野派の絵師。狩野松栄の男。代表作は『唐獅子図屏風』『洛中洛外図屏風』『聚光院障壁画』。永徳は狩野松栄の息子で、狩野元信の孫にあたる。通称源四郎。別名狩野州信。狩野派の棟梁として織田信長、羽柴秀吉という天下人に仕えた。代表的な事績は建物とともに滅びてしまったものが多く、真筆とされる現存作品は比較的少ない。狩野永徳といえば『唐獅子図』や『檜図』のような雄大なスケールの豪快な大画がよく知られるが、細部を緻密に描写した「細画」もよくした。1574年、『洛中洛外図屏風』が織田信長から長尾景虎に贈られた。五摂家の筆頭である近衞家とも関係が深く近衛前久邸の障壁画を描いた。1576年、安土城に障壁画を描いた。1583年、大坂城、聚楽第の障壁画を担当するなど織田信長や羽柴秀吉をはじめとする権力者に重く用いられた。1589年、後陽成天皇の内裏の障壁画を担当した。1590年、八条宮家の障壁画を描いた。東福寺法堂の天井画の龍図を制作中に病気になり、ほどなく病没した。

狩野光信【かのうみつのぶ(15??~15??)】
 
狩野永徳の男。織田信長に仕え、父とともに安土城の障壁画を描いた、父の没後は狩野派の指導者となり、肥後国名護屋城や松平秀忠邸などの障壁画を作成した。父の豪壮で大きな画図の様式から脱却し、中世の大和絵を取り入れながら、自然な奥行きのある構成や繊細な形姿の樹木、金雲などを生み出した。

狩野三徳【かのうさんとく(15??~15??)】 

山城国狩野派の絵師。狩野松栄の次男。室町御所お抱え絵師。

狩野守信【かのうたんゆう(15??~15??)】

狩野孝信の男。別名狩野探幽。母は佐々成政の娘。松平元康に謁見し、松平元康の御用絵師となり江戸城、二条城、名古屋城などの城の絵画や大徳寺、妙心寺などの障壁画制作に携わった。狩野宗家は継がず、鍛冶橋狩野家を興した。

狩野玉楽【かのうぎょくらく(15??~15??)】

狩野派の絵師。小田原城下街で活躍した。その画風は室町幕府や朝廷の御用を受けて中央で活躍した絵師狩野元信の周辺で学んだ。1662年、成立の画譜『丹青若木集』などでは、狩野元信の弟子であると同時に鶴岡八幡宮正殿内陣の障子絵などを描いた伊勢山田出身の絵師珠牧の弟とされ、北条氏政の画工をつとめて小田原で没した。』には北条氏政が絵をよくしたとされており、一族の玉縄城主北条氏繁が描いた「鷹図」も素人離れしていることから、北条一族が絵画に高い関心をもっていたことがうかがえる。1569年、北条氏照は奥州米沢の伊達輝宗に宛てて武田家の駿河侵攻の情報を伝えるとともに、狩野派絵師が描いた扇子十本を贈っている。

紙屋宗二【かみやそうじ(15??~15??)】

京都の紙職人。京都洛北で、本阿弥光悦が開いた光悦村で紙工芸を行った。本阿弥光悦が角倉了以とともに発行した『嵯峨本』の装幀を雲母刷り、金箔圧しなど個性的な料紙で行った。参考文献:『ビジュアル戦国1000人名事典』by世界文化社。

唐人秀正【かろうどひでまさ(15??~1596)】

岸和田流の炮術師。官途は式部大夫。長尾景虎に仕えた。唐人秀正は岸和田肥前守重房に師事して岸和田流の秘伝を授けられ、これを弟子の清水式部小輔秀政に相伝したことが分かる。秘伝はさらに清水式部六蔵秀政、清水造酒丞重政とつづいて豊野庄兵衛繁政へと相伝されたのである。豊野庄兵衛は長尾景虎に炮術伝書『鉄炮薬方並調合次第』を進上した。1559年、『炮術伝書』は上京して近江坂本に滞在していた長尾景虎が足利義輝から拝領したものであった。『鉄炮薬方並調合次第』は長尾景虎が拝領した後、自身に仕えていた炮術師唐人秀正に下賜された。著書に『私伝之集』。

川崎宗延【かわさきむねえん(1543~15??)】

和泉国堺の商人。通称利兵衛。琉球に渡航して琉球王府に仕え、東南アジアとの貿易に従事した。1582年、川崎宗延は数寄道具を求めて赴いた長崎で、琉球に「珍器」があるという話を聞く。鹿児島に行き、島津義久に「添状」を要請して、琉球に渡航した。琉球に渡った川崎宗延だったが、結局求めていた数寄道具は得られず、そのまま琉球に滞在して王府に仕えた。1598年、川崎宗延は琉球王府より東南アジアへの貿易業務を担う「南蛮才府」職に就いた。「南蛮」は東南アジアを指し「才府」とは「在船使者」ともいい、貿易取引を担当する役職であった。

河部善左衛門【かわべぜんざえもん(15??~15??)】

周防国佐波の海産物問屋。大内義興の御用商人。のち毛利元就の御用商人。宮田、賀河、得地の範囲の市場支配権を持った。

観世長俊【かんぜながとし(1488~1541)】

観世流能役者。通称弥次郎。父観世信光と同様に観世座の「脇之為手」として大夫を支え、また能作者として「江野島」「大社」「正尊」「輪蔵」などの作品を残した。父観世信光は三世観世大夫音阿弥の第七子で、観世座の大鼓方役者として活躍するとともに、多くの能を創作し、特に前代までと一線を画す風流性の豊かな作品で知られる。観世長俊は観世座の脇之為手としての道を歩んだ。『四座之役者』によれば金剛座の脇之為手金剛四郎次郎に師事したとされる。1506年「老子(重耳)」を父の添削を受けながら創作した。観世長俊は、伯父観世四郎(左衛門)、およびその後を嗣いだ同名の四郎(左衛門)父子に次ぐ脇之為手として活躍した。また父観世信光と同じく詞章の改正に携わり、謡の名手であった。1523年、従兄弟に当たる六世観世大夫元広が病没し、観世元忠が七世大夫として後を嗣いだ。1530年、観世元忠が京五条玉造で催した勧進能にも出演している。『四座役者目録』などは、長俊が元忠を名人に育て上げたと記すが、指導を行ったことは事実であるものの、元忠との仲は終始円満というわけではなかった。1533年、伊豆熱海に湯治に赴く。三条西実隆の邸に参上し、同地を舞台とした新作「江野島」を披露した。

観世元忠【かんぜもとただ(1509~1584)】

観世流能役者。観世元広の三男。七世観世大夫。別名観世宗節。戦乱によって苦境に立たされた芸界にあって、家に伝わる伝書、謡本などを書写、整理し後代の観世座隆盛の礎を築いた。母は金春座の大夫金春禅鳳の娘。義教、義政時代を代表する名優音阿弥の直系の曾孫であり、また母方を通じて金春禅竹、そして世阿弥など、いずれも能楽草創期を代表する名人たちの血を承けている。長兄の宗顕は片目を失明しており、また次兄の十郎大夫は世阿弥直系の家である越智観世家の名跡を継いだため、元忠が三男ながら観世宗家の後継となった。なお、弟に宝生家に養子に入って大夫を継いだ重勝がいる。

上林竹庵【かんばやしたけあん(1550~1600)】 

山城国宇治の茶商。官途は越前守。通称又市。別名上林政重。松平元康に仕え「長篠の戦い」「小牧、長久手の役」で戦功をあげた。山城国宇治で兄久茂(ひさもち)とともに製茶業にたずさわる。茶は千利休にまなんだ。その後宇治で茶道を志し剃髪して竹庵と号した。1600年、伏見城籠城を願い出て奮戦し討死した。

城井久右衛門【きいきゅうえもん(15??~15??)】 

アユタヤ日本人街頭領。加賀前田家の牢人。日本人傭兵部隊の戦いで討死した。

北長能【きたながよし(15??~15??)】

和泉国堺の猿楽師。堺の眼科医内堀道春の三男。通称七大夫。別名喜多長能。北長宗の養子となる、金剛大夫の嗣子格となり金剛三郎を名乗り金春大夫安照の女婿となる、しかしその異能を見て子孫の仇となることを恐れ、安照は指導しなかったという、その後独立し喜多流を確立しその祖となった、大坂の陣では豊臣方につき戦った、その後浪人していたが黒田長政の推挙で許され、金剛七大夫を名乗り松平秀忠の寵愛を受けた。

北向道陳【きたむきどうちん(1504~1562)】

和泉国堺舳松町の茶匠。千利休の最初の師。本職は医師。家が北向きであったため「北向」と称した。隠者となって、能阿弥の弟子島右京(空海)より東山流の茶法を受け、近所に住む武野紹鴎と交わりが深く、門弟の千宗易(千利休)を武野紹鴎に推薦してその弟子とさせた。唐物目利として知られ、虚堂の墨蹟、甲肩衝、善好茶碗、後に織田信長に献じられた松花の茶壷などの名物道具を多数所持していた。武野紹鴎の「わび茶」「草庵の茶」に対し「台子の茶」「書院の茶」を伝えていたとされるが、利休の「わび茶」にも少なからぬ影響を与えた。

木村宗喜【きむらむねよし(15??~1615)】 

山城国京都の茶道家。松平元康の茶道師範。古田家の茶頭。1615年、「大坂夏の陣」では羽柴秀頼勢に属して、京都を放火しようとし画策した。御宿政友の密告で発覚し、松平元康の謀殺計画の首謀者として捕らえられ、東寺にて磔にされた。

木屋弥三右衛門【きややそうえもん(15??~15??)】

和泉国堺の商人。朱印船で暹羅国、柬埔寨、呂宋などに渡って交易した。1606年、幕府より朱印状を下付されて以来、六回にわたって暹羅国に朱印船を出した。また呂宋と柬埔寨にも船を出し交易している。暹羅国の事情について松平秀忠に報告した。1623年、暹羅国王使節が松平秀忠と二条城で会見した際には、陪席して通詞役を務めた。

九和【きゅうわ(15??~15??)】

豊後国臼杵の商人。臼杵では大友義鎮に仕え仲屋宗悦とともに御用商人を務めた。九和は臼杵唐人町懸ノ街に屋敷一筆を持ち、その面積は三反一畝五歩であった。

清原宣賢【きよはらのぶかた(15??~15??)】 

山城国京都の儒学者。朝廷に仕えた。吉田神道にも通じ神道と儒学を総合した清原家神道を完成した、出家して環翠軒と称す、朝倉孝景の招きで越前国一乗谷城に招聘されこの地で没した。

許儀後【きょぎご(15??~15??)】

島津義久に仕えた医者。江西省吉安府の出身。1571年、倭寇に捕えられ捕虜として薩摩に連れてこられたところを島津義久に気に入られその侍医となり、帰化した。島津義久とともに羽柴秀吉とも謁見した。1592年、「文禄の役」の目的が明の征服と知ると、同じく薩摩に帰化していた郭国安とともに、明へ日本国内の事情などを記した密書を、同郷である朱均旺に託し送った。明からの使者が許と接触した際、羽柴秀吉を快く思わない島津義久と明が連合して羽柴秀吉を攻める提案をした。1613年、410石を領した。

玉蔵坊英性【ぎょくぞうぼうえいしょう(15??~15??)】

温井孝宗の家臣。輪島の領主でもあった温井孝宗による輪島経営を担当した。1524年、玉蔵坊英性は、温井孝宗が願主となって行われた輪島の重蔵宮本殿造営の際の代官職を務めた。1531年、重蔵宮の神輿再興のときは、温井孝宗の代官筒井孫次郎の小代官としも務めた。玉蔵坊は輪島において温井家の支配を代行していたとみられ、武士ではなく輪島で金融や海運業にたずさわる商人的山伏であった。玉蔵坊英性は、温井家の内乱に際しては、温井家と戦って七尾城に篭城していた畠山義綱に支援を送って恩賞を得ており、温井家とは異なる立場をとった。

薬師宗慶【くすしそうけい(15??~15??)】

安芸国厳島の薬師。1546年、薬師宗慶屋敷請文によれば、宗慶は厳島南小路にあった道善(厳島大願寺の下人)の知行する屋敷を預かっており、その「地領銭」として年間三百文の納入を大願寺に対して約束している。1561年、宗慶は厳島社大鳥居造立の際に一貫文を拠出していることがみえ、居住地が社家衆の居住区であったことから、厳島社家に奉仕する有力な薬師であった。1543年、厳島客人社社家棚守田右兵衛尉が法会の際に新しく薬座を出したい旨を大内家に愁訴しており、宗慶が居住していた厳島では薬種が取引されていた。1552年、堺商人宗光は使者として「薬屋之与右衛門」を厳島に派遣した。

薬屋与三右衛門【くすやよそううえもん(15??~15??)】

和泉国堺の商人。1552年、宗光ら堺商人衆の使者として厳島に赴き、宗光の書状を大願寺に届けた商人。宗光はこの書状の中で大願寺に対し、先に陶晴賢から堺商人衆に宛てられ、おそらく大願寺が預かっていた判物を薬屋之与三右衛門に渡すよう求めた。堺商人衆と陶晴賢との間で交渉されていた駄別安堵料ら徴収の納入に関するやり取りであったとみられる。

国友善兵衛【くにともぜんべえ(15??~15??)】 

近江国坂田郡国友村の鉄砲鍛治。国友村で鉄砲製作が初めて行われた際の鍛冶職人。1544年、室町幕府将軍足利義晴が管領細川晴元に命じて鉄砲製作を依頼し、善兵衛によって二挺の鉄砲が献上された。以後国友村は鉄砲の一大産地として、生産体制を整えた。1560年「桶狭間の戦い」で国友製の鉄砲が織田信長により初めて戦力として使用された。1575年「長篠の戦い」でも国友の量産鉄砲が投入されている。織田信長の鉄砲を主に作り長篠の戦いや九鬼家水軍の鉄船などに鉄砲を提供した。

国友与四郎【くにとも よしろう(15??~15??)】

近江国国友郡の鉄砲商人。別名鉄炮屋与四郎。鉄炮の販売も手がける商人的な側面も持っていたとみられる。1579年、織田信長により投獄され、私宅、資財、雑具をふくめて知行100石が没収された。1582年、国友与四郎は織田信長の四子で羽柴秀吉の養子となった羽柴秀勝に仕え300石を領した。

楠見善左衛門尉【くすみぜんざえもんのじょう(15??~15??)】

駿河国江浦の商人。判物には、口野郷江浦に着岸した伊勢船やその他の小舟に対する諸商売の横合(妨害)を禁じること、ならびに「問屋之儀」についても申付けることなどが記されている。楠見善左衛門尉が葛山家のもとで江浦での商売、問屋を支配する商人頭のような役割を果たしていた。葛山氏元は楠見善左衛門尉に江浦代官への礼銭の納入も命じている。楠見善左衛門尉が葛山家に直属する重要な存在であったと考えられる。1571年、松平元康が久須美土佐守に宛てて分国中の諸浦において船一艘の諸役を免除することを記した朱印状が含まれている。久須美土佐守は楠見善左衛門尉の枝連衆で、楠見家が江浦を拠点にして松平家分国の遠江や三河においても廻船業を営んでいたことがうかがえる。

組屋源四郎【くみやげんしろう(15??~15??)】

若狭国小浜の商人。屋号は「組屋」。小浜湊の廻船問屋の筆頭。鳥取城の兵糧攻めのときの米買いから羽柴秀吉と密接なつながりを持ち、ルソンの茶壷を輸入したり、朝鮮出兵の兵糧米を肥前国名護屋城へ運ぶ働きをした。

蔵田五郎左衛門【くらたごろうざえもん(15??~15??)】

越後国直江津の商人。屋号は「越後屋」。越後長尾家のもとで越後青苧座を統轄し、また府内や春日山城の管理にもあたった伊勢神宮御師出身の御用商人。蔵田五郎左衛門は三代にわたり越後青苧座を統轄した。1525年、三条西実隆は天王寺芋座と結び、蔵田五郎左衛門に芋公用の減額を求め厳しく拒否されている。1527年、蔵田五郎左衛門から三条実隆に「青苧御公用五〇貫文」が納められており、交渉は妥結したらしいことが分かる。このように蔵田は越後で青苧座を統轄し、税を徴収する一方で、消費地である京都に赴き、畿内の芋座や公家らとの折衝も行っていた。1560年、長尾景虎は府内を御料所とに定め、街人に「御掟状」を発布するなど府内の直轄化を進めている。長尾景虎のもとで府内の管理にあたったのが蔵田五郎左衛門であった。

蔵田清左衛門尉【くらたせいざえもんのじょう(15??~15??)】

越後国直江津の商人。越後長尾家の御用商人蔵田五郎左衛門の同族。1530年、蔵田清左衛門尉の名は、長尾家の京都留守居役神余実綱が大熊政秀に宛てた書状に名前が残る。神余実綱は長尾家の駐京外交官として京都で朝廷や幕府との折衝、周辺諸国の情報収集などを担っていた人物であり、このときは大熊政秀に「唐織物事」や「備後砂事」、「御誂候御烏帽子」等の調達の首尾や「京都隣国」の情勢を報告した。

蔵田紀伊守【くらたきいのかみ(15??~15??)】

伊勢国大湊の商人。越後長尾家の御用商人蔵田五郎左衛門の枝連衆。越後長尾景虎から依頼されて使者の交通上の便宜をはかった。1569年、長尾景虎の蔵田紀伊守に宛てた書状によれば、長尾景虎は使僧が東海道を上下するにあたって、その安全保障や便宜を蔵田紀伊守に対して求めた。

蔵屋新右衛門尉【くらやしんうえもんのじょう(15??~15??)】

安芸国厳島の商人。金融業に携わった商人。1573年、厳島社家棚守房顕に宛てた算用状の作成者として「いせや浄念」、「こんたや宗節」とともにみえる。この算用状の内容は厳島社家への貸金に関するものであり、また「くらや」の屋号から、新右衛門尉と他二名が土倉を経営する商人であったと考えられている。算用状の元利は合計が千百二十八貫余にもなっており、新右衛門尉らの営業規模の大きさがうかがえる。おそらく、厳島においても指折りの有力商人であり、その財力を持って厳島社の財政を支えていた。

神門国清【ごうどくにきよ(15??~15??)】

杵築大社大工職。通称次郎左衛門尉。杵築大社を司る千家、北島の両国造家のうちの北島家に属する大工。神門家は「北島方大工塩治の神門」とあるように、塩治郷を本拠とする大工。1544年、神門国清は尼子国久から「塩治之内大工給室」を安堵されている。神門国清の実名は国久から「国」の一字を与えられた。1545年、神門国清の嫡子神門左衛門次郎慶清が、退転した吉河隼人佐に代わって国造千家家の大工職に任じられた。神門国清が千家家に誓約状を提出した。この神門家の大社大工職独占の背景には国造家への尼子家の圧力によって、尼子家が神門家を通じて寺社造営事業への介入を進めた。1550年、杵築大社造営に、千家家方の神門慶清とともに北島家方の大工として参加している。

鴻池直文【こうのいけなおふみ(1571~1651)】

播磨国姫路の商人。屋号は「鴻池屋」。山中幸盛の男。通称を新右衛門。別名山中幸元。1578年、山中幸盛は毛利輝元に謀殺され、養父の黒田幸隆は羽柴秀吉に討取られた。大伯父である山中信直をたよって伊丹に落ちのび、ここで成長した。山中信直は山中幸盛の伯父。1592年、山中幸元は伊丹の地で酒造業を始めた。1599年、江戸送りを開始している。この頃清酒を開発したために事業が飛躍した。本格的な清酒の生産は我国の最初とされる。元和年間に次男以下と共に大坂に進出して酒造業を大規模に拡大し、寛永年間には九条島が開発されるやここに拠って海運業を起こし商品運送を始めたが、まもなく参勤交代の制度が出来たことにより、西国大名の運送を請け負って成長した。伊丹の旧跡は七男新右衛門元英が継承し、大阪の事業は善兵衛秀成、又右衛門之政、善右衛門正成の三兄弟が相続した。

古道【こどう(15??~15??)】

豊後国臼杵の商人。1578年、大友義鎮から「分国中津々浦々諸関」での通航課税免除特権を得た。後には高砂国向け朱印船の「唐人かぴたん」にもなった。

古筆了佐【こひつりょうさ(1572~1662)】

近江国の古筆鑑定家。通称弥四郎。別名平沢範佐。出家して名を了佐と改めた。その後、古筆の鑑定を専業とするため、関白羽柴秀次の命により古筆に改姓した。若い頃、父宗休と京都に出て、父とともに烏丸光広に入門し和歌を学んだ。光広は和歌にも書にも秀で、特に古筆の鑑識に長けており、自ら古筆の蒐集もしていた。その影響で、平沢弥四郎も古筆鑑定の術を体得し、腕を上げていった。烏丸光広から古筆の鑑定を専業にしてはどうかと勧められ、これをきっかけに話がまとまり、羽柴秀次より古筆の姓を名乗る命を受けた。鑑定は権威が必要と、羽柴秀次自らが発注した「琴山」という純金の鑑定印を与えられた。平沢弥四郎はすでに出家していて了佐の法名を名乗っており、改姓して古筆家をたて、古筆了佐と称して古筆鑑定の第一人者となった。

甲良光広【こうらみつひろ(15??~15??)】

尾張国熱田神宮の宮大工。通称三郎左衛門。社寺の建築造営を担う大工を職務としていた工匠。岡部又右衛門の下で安土城本丸御殿の作事を取り仕切った、丹羽長秀の御用大工を務めた。のちに藤堂高虎の下で各城の普請を行った。

古関与三右衛門【こぜきよさんえもん(15??~15??)】

越前国敦賀の商人。

後藤光乗【ごとうこうじょう(1529~1620)】

山城国京都の彫金職。後藤乗真の男。通称四郎兵衛。後藤家は代々後藤四郎兵衛を通称とした。小判鋳造を手がけた金座の後藤庄三郎家と区別するため大判座後藤と呼ばれた。後藤家は足利幕府の時代から御用達彫金師として仕え、織田信長、羽柴秀吉の刀剣装身具、大判鋳造の御用達も務めた。「1562年、父後藤乗真が討死すると、室のともの郷里の縁で豊後国丹羽村に移り住んだ。1571年、京都に戻り織田信長に仕えた。1581年、織田信長より大判および分銅の役を命ぜられた。1617年、宮中で後水尾天皇に彫技を披露し法眼に叙位された。

後藤徳乗【ごとうしろべえ(15??~15??)】

後藤光乗の男。通称四郎兵衛。1600年、「関ヶ原の役」後は松平元康にも仕え、大判の鋳造と墨判および両替屋の分銅の鋳造を請負った。大判座後藤家は腰物奉行の支配下であったが、大判も扱うことから勘定奉行および街奉行の支配も受けた。

後藤長乗【ごとうちょうじょう(15??~15??)】 

後藤光乗の次男。後藤家を継いでいた兄後藤徳乗が羽柴家よりだったため、松平元康の治世では後藤長乗が優遇された。京の後藤家を継いで大判造りを受け持った。

後藤光次【ごとうみつつぐ(1571~1625)】

後藤徳乗の師弟。後藤光乗の養子。松平元康の家臣で御金改役を務めた金工家。通称庄三郎。羽柴秀吉の金子吹座を務めた京都後藤家徳乗の弟子となった。松平家の金座統括役ながら、大坂の陣の際には本多正純とともに大坂方大野治長との交渉の席につき、講和に尽力。落城後は城内の金銀の接収にあたった。

後藤広世【ごとうひろよ(15??~15??)】

後藤光次の男。通称庄三郎。母は大橋局で松平元康の寵愛を受けた。身籠ったまま庄三郎に嫁したと。酒井忠世を烏帽子親として元服し広世と名乗り家督を継いだ

後藤宗印【ごとうそういん(1545~1627)】

肥後国長崎の商人。長崎の街年寄を務めた。通称惣太郎。洗礼名は「登明」。後藤貴明の枝連衆。1571年、長崎に移住し、大村純忠に協力して街人達の指導的な役割を担う頭人となった。1592年、長崎代官寺沢広高により、頭人は街年寄と改称され、後藤宗印は引き続き町の統治に携わった。街年寄を務める傍ら、ブルネイやシャム行きの朱印状を下付され、朱印船二隻を渡航させて海外貿易に従事した。1600年、キリシタン信仰手引書を金属活字の国字本で出版。『おらしょの飜訳』『どちりなきりしたん』『ひですの経』)した。その社会的地位と財産でイエズス会を援助し、キリスト教徒の信心会「コンフラリア・デ・ミゼリコルディア(慈悲の信心会)」に加盟し慈善事業にも従事した。1621年、長崎の教徒からローマ教皇に宛てた奉答文にも署名した。1626年、長崎住民に対する棄教命令が出され、長崎奉行の水野守信により街民の棄教が進められた際には、これを拒んで長崎の街を出た。後藤宗印と同じ街年寄の町田宗賀ジョアンも信仰を棄てず、長崎の街を去った。

小問甚五郎【こといじんごろう(15??~15??)】

石見国温泉津の商人。温泉津を支配下に置いた毛利元就の家臣井上就重が温泉津奉行の任にあったとみられる武安就安らに宛てた書状に名が残る。温泉津では小問甚五郎の屋敷をめぐる何らかの紛争があったようで、その解決のため、温泉津の町支配や温泉津を拠点とした物資輸送を担当していた児玉就久、武安就安の両名がよく相談してあたるように指示が出されている。小問甚五郎は、温泉津に屋敷を構えて物資輸送、商業活動にあたった。

虎徹【こてつ(1596~1678)】

加賀国金沢の刀工。「虎徹」とは甲冑師長曽禰興里の刀工時代の入道名のひとつ。虎徹の作刀は地鉄が緻密で明るく冴え、鑑賞面にも優れ、切れ味鋭い名刀として名高い。別名、興里、長曽禰興里、長曽禰虎徹、乕徹ともいう。通常虎徹といえば、この興里を指す。興里は甲冑師であったため刀剣の他にも籠手、兜、鍔などの遺作もある。五十歳を超えてから刀工に転じ、老いるほどに輝きを増した異色の刀工である。

小西隆佐【こにしりゅうさ(15??~15??)】

和泉国堺の薬種商人。小西次忠の男。洗礼名「ジョウチン」。1565年、ルイス・フロイスの師事を受けてキリシタンとなった。、キリシタンとなりフロイスを織田信長にあわせるよう力を尽くした、これを機会に織田信長に接近し、堺で有力な商人となった。1585年、羽柴秀吉に仕え、次男小西行長を召しだした。葡萄牙と製糸貿易を行って巨富を得た。河内国、和泉国における羽柴家の蔵入地の代官に任命された。1587年「九州征伐」では兵糧の補給役を命じられた。1590年、法眼に任じられた。1592年、朝鮮出兵が始まると肥前名護屋城に入るが、まもなく発病して堺から京都に戻り、そのまま病没した。

小西如清【こにしじょせい(15??~15??)】

西隆佐の男。洗礼名「ベント」。1594年、羽柴秀吉から生前に父小西隆佐が歴任していた堺代官に任じられた。

金春元安【こんぱるもとやす(1454~1532)】

大和国奈良の能楽師。別名金春禅鳳。室は世阿弥の娘。能の源流である大和四座の一つ、秦河勝の子孫を称する金春座(円満井座)の大夫金春宗筠(七郎元氏)の男。1460年、七歳の金春元安は禅竹に付き添われ、大乗院門跡尋尊の元に参上した。能楽界で隆盛を誇っていたのは、観阿弥、世阿弥、音阿弥と傑才を輩出した観世座であった。足利義政は音阿弥以来観世贔屓であり、金春座は遅れを取っていた。1483年、足利義政の意向で、従兄弟で大夫を支える有能な脇師の日吉源四郎を、観世座に奪われた。それ以前にも脇師の守菊弥七郎を引き抜かれており、大夫を継いだばかりの金春元安と金春座は大きな打撃を受ける。金春元安は興福寺衆徒の古市澄胤、河内の畠山家などの後援を受けて何とかこの危機を乗り越えた。1493年、金春元安は室町御所での演能を果たし、以後中央でもその実力を認められることとなった。結果、当時の有力者であった細川政元、大内義興を彼の後援者として、根拠地であった奈良、さらに京でもしばしば勧進猿楽を催すようになった。

金春重勝【こんぱるしげかつ(15??~15??)】
 
猿楽師で名人第八代金春大夫七郎重勝。大和国で500石を領した。

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【さ】

坂田源右衛門【さかたげんざえもん(15??~15??)】

甲斐国府中の商人。屋号は「坂田屋」。武田晴信の御用商人。塩、魚問屋業を営み、甲斐府中の豪商となる。のち松平家に甲州一円の海産物統制の特権を保障さた。

相模屋家次【さがみやいえつぐ(15??~15??)】

相模国小田原の甲冑師。相模屋家次の製作する筋兜鉢は上部に独特のふくらみのある「小田原鉢」とよばれる形式であるが、通常は金銅板で作る覆輪や斎垣などを鉢と同じ鉄で作り、各所を唐草などの銀象嵌で飾るなど他の「小田原鉢」に比べると格段に優れていた。

相模屋家吉【さがみやいえよし(15??~15??)】

相模国小田原の甲冑師。相模屋家次の製作する筋兜鉢は上部に独特のふくらみがあり、製作年代のわりに古風な外見を持つ特徴がある。「小田原鉢」とよばれ、後北条家の家臣に好まれた。

佐甲藤太郎【さこうとうたろう(15??~15??)】

長門国赤間関の商人。屋号は「下関屋」。問丸役として伊藤家とともに赤間関町衆を束ねた赤間関の有力商人。1554年、瀬戸内海から筑前海域に進出した海賊船六隻に対し、赤間関の地下人とともに警固船を準備し、戻ってくる海賊と交戦して一人を討取り、内藤興盛から褒賞された。1566年、赤間関問丸であった先代の三郎左衛門尉が病没し、赤川元忠や堀立直正に裁判をもって佐甲家の跡目を安堵することが命じられた。1574年、上関で関料徴収にあたっていた村上武満が佐甲籐太郎の求めに応じて上関の通行許可、通行税免除を認めている。1585年、佐甲藤太郎は瀬戸内海全域に影響力を持つ能島村上元吉から「海上無異儀往返」を保障する「紋幕」も与えられた。

佐々木 刑部助【ささきぎょうぶのすけ(15??~15??)】

紀伊国紀之湊の廻船商人。紀之湊一帯を支配し、鉄砲隊と海賊衆を率いて傭兵活動を行った雑賀衆の有力者で関東地方にまで商船を派遣して商売を行った。1586年、紀之湊を拠点とし、北条氏直領国への海上交易に参入を図り、海賊衆の梶原備前守を窓口に北条氏直領との交易を行なった。

薩摩屋宗忻【さつまやそうきん(15??~15??)】

和泉国堺の商人。屋号は「薩摩屋」。宗忻もまた多くの名物を所持した茶人であった。『山上宗二記』には宗忻所持の名物として「珠光茶碗」や中国南宋の画家趙昌による「菓子の絵」、花入「蕪無(かぶらなし)」などがみえる。薩摩屋宗忻が所持していた花入「蕪無」もまた、以前は周防、長門を中心に九州北部までを支配していた大内義隆の家臣相良武任が所持していたものであり、薩摩屋宗忻が九州方面の有力者らと茶道具から取得できる立場にあった。1542年、薩摩屋宗忻は上洛してきた織田信長に深耕を図った。趙昌筆の「菓子の絵」は茶会でも掛けられた。

里村紹巴【さとむらじょうは(1525~1602)】 

山城国京都の連歌師。連歌師里村周桂に入門後に里村昌休の弟子となった。連歌史上最後の巨匠と賞賛され、公家の三条西公条をはじめ、織田信長、明智光秀、羽柴秀吉、三好長慶、細川幽斎、島津義久、最上義光、松永貞徳など多数の武将とも親交があった。1582年、明智光秀が備中国参陣の戦勝祈願に連歌会を開いた際、「愛宕百韻」で明智光秀が天下を取る決意を表明したとされ、明智光秀は「ときは今天が下しる五月哉」を詠んだ。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して蟄居した。著書に『源氏物語』の注釈書『紹巴抄』、『狭衣物語』の注釈書『下紐』などがある。

里村昌叱【さとむらしょうしつ(15??~15??)】 
山城国京都の連歌師。里村昌休の男。通称弥次郎。別名里村仍景。里村紹巴の弟子。父里村昌休の病没後、里村昌休の門人里村紹巴に養育され、和歌、連歌を学び古今伝授を受けた。三条西公条から『源氏物語』の伝授を受け、羽柴秀次に講釈を行った。1583年、細川藤孝百首に里村紹巴とともに唱和した昌叱百首が残る。羽柴秀吉の意向により連歌の宗家となり法橋に叙された。参考文献:『ビジュアル戦国1000人』by世界文化社。

郷目貞繁【さとのめさだしげ(1497~1577)】

羽前国寒河江の絵師。官途は右京進。別名笹原石見守。1520年、伊達稙宗が最上領に侵攻して高擶城を攻めた際、捕虜となり伊達領に幽閉された。1529年、武人画家となり「紙本著色瀟湘八景図巻」を制作。1537年頃「絹本著色釈迦出山図」を制作。1557年「紙本墨画芦雁図」。1563年妻の菩提を弔うために天童若松観音堂に「板絵著色神馬図」を奉納した。

塩屋宗悦【しおやそうえつ(15??~15??)】

和泉国堺の商人。武野紹鴎の門下。茶会を毎年ひらいた。おおくの名物を所有した。

宍喰屋四郎右衛門【(15??~15??)】

土佐国片岡の商人。長曾我部家御用商人。1575年、織田信長と長曾我部元親の縁を取り持ち織田信長政権との折衝に政商的役割を果たした。土佐南部は木材の産地として栄え、甲浦、宍喰、鞆浦の港からは頻繁に阪神方面に向けて材木商船が出ていたそうである。宍喰での木材取引でこつこつ財を蓄え、やがて堺の町で豪商となった宍喰屋次郎右衛門という商人がいる。この宍喰屋、長曽我部元親とも懇意であって土佐で阿波の産物をさばいたり、土佐の木材を仕入れ阪神に出荷するなど信を得ていた。長曾我部家元親はまだ土佐一国を治めていない頃から、天下に野望を抱いていたようであり、そのため織田信長に取り入るのに斎藤利三(明智光秀家臣)の身内から奥方を迎えているがその仲介も行なった。

島井宗室【しまいそうしつ(1539~1615)】

筑前国博多の商人。別名島井茂勝。神屋宗湛、大賀宗九らとともに「博多の三傑」と称された。名物茶器は国一つと交換できるほどの価値を持ち、その中でも天下三肩衝の一つである楢柴肩衝を所有するほどの豪商だった。永寿丸という廻船を持ち、酒屋や金融業を営むかたわら対馬を中継地点として中国、李氏朝鮮との日朝貿易を行なって巨万の富を築き上げた。宗、松浦、大友の諸家をはじめ織田信長、羽柴秀吉ともパイプを持った。「本能寺の変」の際には織田信長に招かれ同寺に滞在していたが無事に難を逃れたがその際に宗室は弘法大師空海直筆の『千字文』を持ち出した。羽柴秀吉が「文禄、慶長の役」を企むと、大切な通商国と戦争するという利害からこれに強硬に反対し、宗義智と協力して渡朝し、朝鮮国王と戦争回避を図る折衝を行なった。羽柴秀吉の派兵後も撤兵を強硬に主張したため、遂に羽柴秀吉の怒りを買って蟄居を命じられた。後に許された後は、五奉行の石田三成と協力して後方兵站役を務める一方で、明との和平の裏工作を行なった。

島田義助【しまだぎすけ(15??~15??)】

駿河国島田の刀鍛冶。のちに相模国に移住。島田派は末相州や武蔵下原派、伊勢千子派、美濃刀工の影響を受けた。

清水次郎兵衛【(15??~15??)】

羽後濃く能代湊の商人。1556年、諸木材支配職、惣街支配職を安東家から任じらた。1558年、長慶寺を造営した。1573年、徳善寺を造営した。能代湊は檜山安東の保護のもと、米代川、阿仁川、上小阿仁川から切り出される木材の集積地として繁栄した。

芝辻清右衛門【しばつじせいえもん(15??~15??)】 

紀伊国根来の鉄砲鍛治。根来坂本で刀鍛冶をしていたが、津田算長(種子島に伝来した火縄銃二挺のうち一挺を種子島時堯から買った)に銃の複製を依頼された。1545年、紀州一号を完成させた。これにより根来に鉄砲集団が現れる要因が生まれた。芝辻清右衛門は後に堺に移り、その地もやがて鉄砲の一大産地となる。

芝辻助延【しばすけのぶ(15??~1634)】
 
芝辻清右衛門の孫。通称理右衛門。1614年「大坂冬の陣」で、松平元康から大坂城攻撃用の大砲製作と五百丁の鉄砲製造を命じられ納品した。その功績で高須地域を授けられ高須神社を建立した。

渋谷与右衛門【しぶやよざえもん(15??~15??)】

備後国尾道の商人。屋号は「大西屋」。

秋月等観【しゅうげつとうかん(15??~15??)】

島津の家臣高城の出身。周防国で雪舟の子弟となり画を学んだ。1490年、雪舟の自画像を授けられた。1492年、薩摩国に帰郷後、遣明使に随行して明に入り雪舟像に杜菫(ときん)の賛を受けた。参考文献:『ビジュアル戦国1000人』by世界文化社。

庄司甚右衛門【しょうじじんえもん(15??~16??)】

武蔵国江戸の遊郭主人。別名庄司甚内。もと北条氏政家臣で吉原遊郭を創設した惣名主。1617年、吉原開設とともに江戸幕府から「五ヶ条の覚」という条件を許され惣名主となり妓楼西田屋を営んだ。子孫は代々名主職を継ぎ同地で妓楼を経営した。

浄慶【じょうけい(15??~15??)】

下総国佐倉の仏師。千葉家の領内で活躍した仏師。粉河寺の出身。1555年、円通寺の釈迦如来像を製作した。1565年、千葉胤富が先代千葉親胤鎮魂のため建立した海隣寺の阿弥陀如来像を製作した。

神宮寺慶松【じんぐうじけいまつ(15??~15??)】

越前国一の谷の商人。通称太郎三郎。1565年、朝倉義景から定書を与えられ、諸役の免除、当知行地の安堵、国中諸関渡の荷物通行の保証などの従来の特権を確認し、三か荘分の蔵方要脚の運上や催促使について規定した。慶松家は三か荘の有力商人の筆頭株に成長した。1572年、朝倉義景が滅亡するといち早く織田信長に従った。

末木正重【すえきまさしげ(15??~15??)】

甲斐国一宮の金融商人。官途は淡路守。蔵前衆。1553年、武田晴信から東光寺への借銭を五年間に渡って認められた。

末木家重【すえきいえしげ(15??~15??)】

末木正重の男。官途は淡路守。別名八田家重。1572年、二之宮美和神社に寄進を行なった。末木家重が武田晴信に仕え一宮を地を領した。1582年、武田勝頼が討死後、松平元康に仕えた。

末木政清【すえきまさきよ(15??~15??)】

末木家重の男。別名八田新左衛門尉。1582年、松平元康から御朱印をもって所領を安堵された。

末木土佐守【すえきとさのかみ(15??~15??)】

末木家重の次男。武田晴信に蔵前衆として仕えた。

末次興膳【すえつぐこうぜん(15??~15??)】 

筑後国秋月の商人。洗礼名「コスメ」。1571年、長崎開港とともに博多の豪商末次興善は長崎に移り、興善街を開き海外貿易で財を成した。

末次正直【すえつぐまさなお(1546~1630)】

末次興善の男。通称平蔵。洗礼名「ジョアン」。朱印状を得て貿易船を出し、ルソン、シャム、台湾、交趾、トンキンなど手広く商圏を開拓した。キリシタン禁教時代には棄教して仏教に転宗し長崎奉行の長谷川権六に協力してキリシタンの弾圧に手を貸す。そしてキリシタン探索の目明を各地に派遣し、キリシタンを公職から追放した。1619年、長崎代官村山等安の私曲を幕府に訴え、勝訴、村山等安に代わって長崎代官の地位についた。1626年、長崎の地にキリシタン棄教令が発せられた時に、同じく棄教した長崎町年寄の高木作右衛門と共に、長崎奉行の水野守信に協力してキリシタンの弾圧を激しく行なう。1628年、末次平蔵の朱印船の船長浜田弥兵衛が、阿蘭陀の台湾総督長官と争い人質を得て帰国する。末次平蔵は阿蘭陀人の日本貿易差止めを幕府に上申し、これを実現した。

末吉利方【すえよしとしかた(1526~1607)】

摂津国平野の商人。屋号は「平野屋」。通称勘兵衛。摂津国平野の豪族末吉藤右衛門長増の次男。末吉利方は西末吉家の祖として栄えた。羽柴秀吉に仕え代官を務め、廻船業を営んで活躍した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康に属して、恩賞として銀座取り立てを願って許可され、金座の後藤光次の協力を得て銀座頭役および銀座座人を組織し、一定の品位の丁銀、小玉銀(豆板銀)の鋳造に当たって,幣制上に貢献した。娘婿の孫左衛門名で朱印船貿易に従事し、中心的役割を果たした。

末吉吉康【すえよしよしやす(1570~1617)】

末吉利方の男。通称孫左衛門。摂津国平野庄には末吉名という10町3段にもおよぶ大きな名田があり末吉家が経営していた。末吉家は代々平野庄の年寄として租税徴収を請け負い、本家の東末吉家のほか西末吉家、平野家が有力であった。大和国、河内国、摂津国に手広く行商し東末吉家は堺の南北庄で織田信長より馬座の権利を与えられた。羽柴,秀吉より諸国往還自由の朱印状をもらう。西末吉家の利方も秀吉より営業税免除の朱印状を得た。父末吉利方とともに伏見銀座の創設に参画、のちに家督を継いで幕府からの朱印を受けて海外貿易を展開し鎖国まで続いた。1615年、「大坂夏の陣」では松平方のために尽力し、役後に河内国河内郡の代官となった。

鈴木但馬守【すずきたじまのかみ(15??~15??)】

武蔵国小机の金融商人。1586年、鈴木但馬守は領内の農民が借銭を返済しないことを小机城主北条氏光に訴えた。

鈴木道胤【すずきどういん(15??~15??)】
 
武蔵国品川の商人。足利成氏から蔵役を免除を受けた。武蔵品川馬場地に拠点を構え、品川湊を支配した。自身廻船業や土倉などの貸金業も営む商人としても活動している。太田資長とも交流があり、連歌の名手としても知られていた。妙国寺に梵鐘を寄進したほか、伽藍の再建に尽くすなど大旦那として名を残している。1470年、太田道真が河越城で、「河越千句」と呼ばれた連歌の会を主催したが、連歌師心敬、宗祇を招き、会を実質運営したのは鈴木道胤であった。

鈴木幸純【すずきゆきずみ(15??~15??)】

鈴木道胤の男。別名鈴木幸順。

角倉了以【すみのくらりょうい(1554~1614)】

山城国京都の商人。屋号は「角倉屋」。医家吉田宗桂の男。医者になることを嫌って算数と地理を学ぶ、嵯峨野大覚寺の門前で角倉なる屋号の土倉を営み財を得る、その資金をもとに豊臣秀吉から朱印状を受けて安南と貿易を始め巨万の富を手にいれた。朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城の大堰川、富士川、鴨川、高瀬川を私財を投じて開削した。また幕命により富士川、天竜川等の開削を行った。

角倉素庵【すみのくらそあん(1571~1623)】

角倉了以の男。別名角倉玄之。土木事業家、書家、貿易商。能書家で洛下の三筆の一人。儒学を藤原惺窩に、書を本阿弥光悦に学び、書道の角倉流を創設した。父角倉了以の跡を継いで貿易業や土木事業にも携わる。家業を子供に譲って隠居した後は、古活字の『嵯峨本(角倉本)』を刊行した。

住友政友【すみともまさとも(1585~1652)】

越前国丸岡の商人。柴田勝家の家臣住友政行の次男。室は伊丹紹拙の娘。別名元涅槃宗。1596年、伯父住友友定とともに京都に移住し、涅槃宗の開祖、及意上人空源に弟子入りして僧となり、空源の右腕として涅槃宗の布教に務めた。1617年、後陽成天皇が崩御すると、他の宗派より京都所司代に邪教と訴えられ、空禅が代表として弁明するも、師の空源とともに江戸に護送され、佐倉へ配流となった。1618年、空源が配流先の酒井忠世の下屋敷で遷化したため、江戸城近郊の涅槃宗の信徒の教化にあたった。1621年、帰京したが還俗はせず、及意上人空源の遺教戒を継ぐ「佛者」の立場に徹した。仏光寺上柳街で出版業、薬種業の富士屋を創業した。1647年、嵯峨清涼寺子院地蔵院境内に雙軒庵を建てて隠居した。

住吉屋宗無【すみよしやそうむ(1534~1603)】

堺の酒造商人。千利休に茶の湯を学んだ。織田信長に仕え、その後羽柴秀吉の茶道八人衆として仕えた。

住吉如慶【すみよしじょけい(1599~1670)】

大和絵の絵師。通称長十郎(長重麿)。松平元康の御用絵師。土佐光吉の三男。土佐光吉ついで土佐光則に学び、土佐光陳と称した。土佐光則が上洛するのに先んじて、土佐光陳は京都に出ていて、内記と改称。1625年、南海坊天海の推挙で、「東照宮縁起絵巻」を制作するため、名目上光則の弟分として関東に下る。如慶は、日光、和歌山、岡山、川越喜多院の各東照宮に奉納された四点の「東照宮縁起絵巻」をした。1654年、内裏造営に伴う障壁画制作では、狩野探幽ら狩野派の絵師たち、土佐光起、海北友雪らと共に参加した。1661年、妙法院門跡尭然法親王のもとで剃髪、如慶と号し、法橋さらに法眼に叙せられた。後西天皇の勅命により土佐を改め住吉と改め、住吉家を立てることになった。このため住吉如慶は、住吉家中興の祖と称された。

住吉屋宗無【すみよしやそうむ(15??~1595)】

和泉国堺の商人。松永久秀の庶男。通称捨十郎,吉左衛門。別名山岡宗無。堺の富商住吉屋宗瑞の養子となり,住吉屋宗無とも称した。茶を武野紹鴎(じょうおう),千利休にまなぶ。織田信長に親近し、羽柴秀吉の茶頭を務めた。「宗無肩衝」などの名物を所持。

駿河屋藤次郎【するがやとうじろう(15??~15??)】

駿河国清水の商人。廻船問屋。1567年、今川義元より清水に繋留している藤次郎の新船一艘を対象にして、清水、沼津、内浦、吉原、小河、石津、懸塚とその他今川氏分国中の港において、どんな荷を積んで、商売をしたとしても、この船に限っては「帆役」、「湊役」、「出入役」、「櫓手立使」などの課役を免除するとしている。今川義元書状では、駿河屋藤次郎の特権が日時を限らず、他国への使いとして今川家に格別の奉公を行うことを申したことに対する給付であること、そのため時限的な臨時役であっても賦課してはならないこと、これにより藤次郎は自力で五十貫文の商いができること、などが記された。今川領国の各港や場合によっては他国へも出向き、活発に商売を行う廻船商人であったのであり、その海運力を今川家に提供することで各種の課役免除を付与される特権商人であった。

諏訪春芳【すわしゅんぽう(15??~15??)】
 
信濃国諏訪の商人。武田晴信のもと、蔵前衆として直轄領の年貢の算用に従事し古屋道忠、伊奈宗普、松木桂琳とともに蔵前頭となった、七十人の足軽を付与された。

清田内蔵助【せいだくらのすけ(15??~15??)】

武蔵国の河越商人。別名清田庄左衛門。北条氏康の家臣大道寺政繁は河越城を改修し、城下街に次原新兵衛のような連雀商人を集め唐人小路と称される地区を整備した。1561年、大道寺政繁は清田内蔵助に河越城の籠城を賞し、商人問屋の営業権を初めとする河越宿における特権を与えた。

銭屋宗訥【ぜにやそうとつ(15??~1590)】

堺の交易商人。武野紹鷗に茶の湯を学び、無準師範、虚堂智愚などの墨跡の栄品、また足利義利の旧蔵品で有名な「四十石」を所持した。

芹沢伊賀守【せりざわいがのかみ(15??~15??)】

駿河国葛山の商人。通称玄蕃尉。1553年、葛山氏元から桑役、茶役、諸役等を免除された。伝馬役を負担するする一方、同地域の伝馬役を統括した。

芹沢玄蕃允【せりざわげんばのじょう(15??~15??)】

芹沢伊賀守の男。1565年、父芹沢伊賀守の病没により芹沢家の家督を相続した。芹沢家は駿河国から甲斐国に至る重要街道の要所を押さえ、街道を往来する商人の統率を行なった。

仙崎屋又衛門【せんざきやまたえもん(15??~15??)】

石見国温泉津の商人。1561年、「富田城の戦い」で、杵築の御師で有力商人であった坪内重吉に宛て、籠城していた温泉津の国人の温泉英永、彦二久長が連署で送った書状に名前が残る。この書状の中で両名は、坪内重吉が両名の依頼で行った杵築大社への戦勝祈念を感謝し、温泉津の屋敷一ヶ所を永代給与することなどを約束している。日本海に面した長門国北岸の仙崎湊に由来する仙崎屋とみられその名から仙崎方面との日本海水運に関わっていた。

仙台国包【せんだいくにかね(1592~1664)】

陸前国千代の刀工。新刀最上作にて最上大業物。古作保昌の末流と称す。通称本郷吉之允。仙台の城下に住まうが伊達政宗の命により上京し、越中守正俊の門人となる。1626年、山城大掾受領。作柄としては、鎬高く柾目肌、刃文直刃。

千利休【せんのりきゅうせんりきゅう(1522~1591)】

和泉国堺の茶道家。屋号は「魚屋」。田中与兵衛の男。今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられた。家業は納屋衆。若年より茶の湯に親しみ北向道陳、武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅しその本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。1585年、秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。1587年、北野大茶会を主管した。黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の楽茶碗の製作、竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成させた。1591年、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で自刃を命じらた。辞世の句は「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛」。

千道安【せんのどうあん(1546~1607)】

千利休の男。堺千家の主。母は宝心妙樹。千家の嫡男だが、利休と折り合いが悪く若い頃に家を出た。のちに利休と和解。茶の道を修め豊臣秀吉の茶頭八人衆に数えられるまでになった。千利休切腹後は金森長近に預けられた。蟄居、謹慎を命じられた。金森長近が茶人であったことから、親交を深めた。1594年、赦されて堺に戻り千家の家督を継いだ(堺千家)。1601年、細川三斎に招かれ茶頭となった。

千少庵【せんのしょうあん(1546~1614)】

宮王三郎三入の男(千利休の養子)。通称吉兵衛。室は千利休の娘(於亀)。父は能楽師の宮王三郎三入。母宗恩が千利休の継室に入ったため、千利休の養子となった。先天的に片足に障害を持っており、相続関係の資料から千家内での立場が弱かった。1591年、養父千利休が自刃すると蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられた。1594年、松平元康、蒲生氏郷のとりなしで赦されて京に戻り、千家(京千家)を興し嫡男千宗旦を還俗させ家督を譲った。

相阿弥【そうあみ(15??~1525)】

芸阿弥の男。足利義政の同朋衆として美術工芸品の鑑定から諸芸能の監督を務めた。座敷をある一定の法則で装飾する書院飾の方式を確立した。『御飾記』を著すなど、東山文化の確立に強い影響を与えた。狩野元信と大仙院のふすま絵『山水図』を共同で制作した。参考文献:『ビジュアル戦国1000人』by世界文化社。

宗庵【そうあん(15??~15??)】 

円乗坊宗円の娘婿。細川家の茶道方となる、古市流茶道の祖。

宗延【そうえん(1543~15??)】

和泉国堺の商人。唐名「蒙茂昌」。別名川崎利兵衛。琉球に渡航して琉球王府に仕え、東南アジアとの貿易に従事した。1582年、交易のために島津義久から琉球渡海朱印状を受け琉球国に渡ったが、そのまま王府に仕えた。1598年、宗延は琉球王府より東南アジアへの貿易業務を担う南蛮才府職に就いた。1570年、暹羅国への派遣船以降、琉球では東南アジアとの国営中継貿易が途絶するが、それ以後も呂宋島を交易地として「倭人」が介在する形で貿易を継続していた。1598年、南蛮才府、糸数地頭職に任じれた。これにより宗延は親雲上となり、琉球国における上級士族となった。

宗長【そうちょう(1448~1532)】

駿河国島田の連歌師。柴屋軒。駿河国島田の鍛冶五条義助の男。若くから守護今川義忠に仕えた。1476年、今川義忠の討死後、京都に出て一休宗純に参禅、飯尾宗祇に連歌を学んだ。宗祇の越後や筑紫への旅行に随伴し,『水無瀬三吟』『湯山三吟』をはじめ多くの連歌に加わった。1496年、今川氏親の庇護を受けるようになった。著書に『宗長手記』『壁草』『那智籠』,連歌論に『永文』『三河下り』。

宗貞【そうてい(15??~15??)】

山城国京都の仏師。1586年、羽柴秀吉が発願した京都方広寺の大仏造立に弟の宗印とともにたずさわる。現存作に奈良伝香寺釈迦像、京都大徳寺方丈の釈迦像、青岸渡寺阿弥陀像など。

宗牧【そうぼく(15??~1545)】

山城国京都の連歌師。越後国一乗谷の生まれ。連歌師の宗長、宗碩に師事し各地を旅した。公家で歌人の三条西実隆の邸宅や摂関家の一つ近衛家に出入りした。1536年、連歌宗匠となった。1544年、宗養とともに東国旅行に向かう。途中、後奈良天皇から委託された奉書を尾張国の織田信秀に届けている。だが、京都への帰還中に下野国佐野で没した。この旅の記録が『東国紀行』で、当時の豪族達の状況が分かる資料の一つになっている。連歌の相伝書を集大成し、後世の連歌や俳諧に影響を与えた。著書に『矢島小林庵百韻』。

宗養【そうよう(1526~1563)】

宗牧の男。父宗牧から連歌を学んだ。後連歌師としての地盤や伝書を引き継いで連歌界の第一人者となる。摂関家である近衛家や公家の三条西公条、武将の尼子晴久、三好長慶などとも交流があった。著書に『石山四吟千句』『宗養句集』などがある。

蘇我理右衛門【そがりえもん(1572~1636)】

河内国五條の商人。蘇我平兵衛の次男。室は住友政行の娘。家祖と呼ばれる義弟の住友政友とともに、住友の地位を築いた。銅精錬、銅細工の修業をし、1590年、京都寺町五条に「泉屋」を創設した。南蛮人から粗銅から銀を分離する「南蛮吹き」という精錬技術を完成させ、その後、大坂の同業者仲間にも伝授した。銅精錬のほか、銅山経営や銅貿易にも携わり、方広寺の大仏と「国家安康」の銘で知られる梵鐘用の銅を納入した。

曽呂利新左衛門【そろりしんざえもん(15??~15??)】

和泉国堺の商人。鞘師。羽柴秀吉の御咄衆で、知恵袋ともいわれた。彼の鞘にはソロリと刀が収まったことからこの名がついた。

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【た】

大黒常是【だいこくじょうぜ(15??~15??)】

山城国京都の銀座。吹所で極印打ちの常是役所の長としての代々世襲した。1598年、泉州堺の銀吹屋湯浅作兵衛は、松平元康に召出され御銀吹役、御銀改役を命ぜられ大黒の姓を拝領した。このとき作兵衛は宗近の刀と大黒座の黒印を頂戴している。1601年、松平元康が和泉堺の銀吹き職人である南鐐座の湯浅作兵衛に大黒常是を名乗らせたのが始まり。常是という名称は羽柴秀吉により堺の南鐐座の銀細工師に与えられた。この銀座取立てにあたって、慶長丁銀の手本銀として菊一文字丁銀、夷一文字丁銀、および大黒極印銀が選ばれて家康の上覧に供され銀質優良な大黒極印銀に決まり、大黒常是が銀座の銀吹役になったとされる。またこのときの大黒極印銀は慶長丁銀より品位の高い括り袴丁銀がそれであるとされる。

大黒是家【だいこくぜいえ(15??~15??)】

大黒常是の男。通称大黒作右衛門。作兵衛常江戸京橋銀座は次男である大黒長左衛門が銀改役となり以後世襲制とされた。

高尾太夫【たかおだゆう(15??~15??)】

武蔵国吉原の花魁。大三浦屋抱えの花魁が代々襲名した名。伊達綱宗に身請代として高尾の体重と同じ重さの小判を払った。辞世の句は「寒風にもろくも落つる紅葉かな」。

高三隆達【たかさぶりゅうたつ(1527~1611)】

和泉国堺の商人。和泉国堺に移り薬種問屋を営み高三家を興した。堺を運営していた会合衆のひとり。商人より「歌人」として著名。堺の日蓮宗顕本寺に庵室を造立して隠居所とした高三隆喜を父とた。高三隆達は幼くして顕本寺で出家し、父の庵室を引き継いで高三坊と称した。連歌、声曲、書画などに秀で、当時流行していた小歌を集め、自ら作詞、作曲を行い独特な声調の隆達節を大成した。1590年、兄高三隆徳が没し、嗣子の道徳が幼かったことから、還俗して道徳の後見人となり家業の薬種業を後見した。諸芸の達人といわれ、書では堺流を広め、小唄では隆達節の祖となった。

高田行長【たかだゆきなが(15??~15??)】

豊後国府中の高田派の刀工。寛文新刀のひとつ。刀工位列には新刀中上作。業物位列では良業物とされている。高田派については後述。銘を「豊州高田住藤原行長」と切った。

高島茂春【たかしましげはる(15??~1622)】

肥前国長崎の商人。高島氏春の男。通称四郎兵衛。高島家は近江国高島庄の出身。1573年、一族が離散したため父高島氏春とともに肥前国藤津郡に逃れた。1574年、長崎に移住後、街年寄衆を務めた。

高島茂定【たかしましげさだ(15??~1673)】

高島茂春男。通称四郎兵衛。1615年、長崎の街年寄衆となる。後、高島家の当主が長崎街年寄を世襲し、その多くが四郎兵衛を名乗った。1636年、築造された出島の建造費用出資者である出島街人のひとりに名を連ねた。「島原の乱」では、長崎警備を務め、その功で松平家光に拝謁し、時服2領と銀100枚を賜った。

高嶋屋伝右衛門【たかしまやでんえもん(15??~15??)】

越前国敦賀の商人。近江国守山の出身。1589年、蜂屋頼隆から地子を免除された。大谷吉継からも諸役免許などの特権を与えられた。太閤板一四・五間を敦賀に運んだ高嶋屋久次や五〇間を運んだ高嶋屋良左衛門は、高嶋屋伝右衛門の枝連衆。1591年、加賀国、能登国、越中国から敦賀に送られた米を一手に引き受ける蔵宿に命じられた。1598年頃、屋敷五か所の地子二五貫五九三文と船二艘の役、伝馬一匹の役、町の小役が再び免除された。1619年、前田利常から諸浦で持船五艘の間役が免除された。

高木忠雄【たかぎただよし(15??~1629)】

肥前国長崎の商人。通称作右衛門。長崎の街年寄を務めた。肥前国高木荘に住んでいたが、長崎が開湊とともに父高木弾正忠康宗とともに長崎に移住した。朱印船貿易で財をなし街年寄衆として長崎の街政を担った。1607年、駿府に出頭し、長崎奉行の小笠原一庵の不正を証言し小笠原を失脚させた。1626年、キリシタン禁令が出された際には、街年寄の町田宗賀後藤宗印が棄教を拒み長崎の街を出たのとは逆に仏教に改宗し、同様にキリシタンから改宗した長崎代官末次平蔵と共にキリシタン弾圧を行なった。

高木彦右衛門【たかぎひこえもん(15??~16??)】 

肥前国長崎の商人。彦右衛門貞親、代物替会所頭取兼船並武具預りに任ぜられ、松平元康から町人ながら苗字帯刀を許された、権勢を笠にきた横暴振りから使用人も増長し、鍋島藩深堀武士との間で喧嘩がおこり、彦右衛門邸に討入った深堀三右衛門とその倅嘉右衛門によって斬り殺された。

高天神兼明【たかてんじんかねあき(15??~15??)】

遠江国高天神の刀工。通称右衛門四郎。武田晴信に招かれ遠州高天神城下にて作刀した。

建部元重【たけべもとしげ(1615~1691)】

近江国柳川の商人。通称七郎右衛門。蝦夷地交易を担った。近江国柳川に住んで行商し、敦賀から蝦夷国にまで活動を広げ田付景豊とともに両浜組を組織し、松前に漁場を設けた。

武野紹鴎【たけのじょうおう(1502~1555)】
 
和泉国堺の商人。通称新五郎。家業は武具商。大和国吉野郡の豪族武田信久で、母は中坊家の娘。若年より文芸を好み歌学の権威である三条西実隆から「詠歌大概」を授けられた、村田珠光の流れをくむ十四屋宗悟、宗陳らに茶を学び、千利休の師として知られる。また大林宗套に参禅して一閑の居士号を与えられた、この和学と茶禅一味の境地に立って茶の湯に傾倒し、わび茶の思想を充実させ「わび」という美意識を確立させた、松島茶壺、筆波の絵など名物を五、六十種を所持、唐物の名物道具を所持する反面、日本製の白天目茶碗を用い茶杓や水指などを創造した、千利休を弟子としわび茶の大成に影響を残した。

武野宗瓦【たけのそうが(15??~15??)】

武野紹鴎の男。和泉国堺の商人。父武野紹鴎と死別し女婿の今井宗久に育てられた。成人後に今井宗久と父の遺産を巡って争い、織田信長の裁可に服さなかったため不遇に暮らした。茶人として活躍もしたが、武人を望んだため織田信長、羽柴秀吉から相次いで追放され晩年は羽柴秀頼に仕えた。大林宗套、春屋宗園に参禅した。

田代三喜【たしろさんき(1465~1544)】

武蔵国越生の医師。田代兼綱の男。代々伊豆国で医術を業としていたが、父田代兼綱の代に武蔵国に移り川越城主上杉持朝に仕えた。田代三喜は臨済宗の寺に入って僧となり学問を身につけ、足利学校に移った。1487年、明に渡り、金、元代に李東垣、朱丹渓の流れを汲む李朱医学が盛隆を極めており、田代三喜は僧医月湖に師事しこれらの医学を学んだ。1498年、月湖の著した『全九集』、『済陰方』など多くの医学書を携え日本に帰国した。鎌倉の円覚寺内江春庵に居を定めた。1509年、下総国古河に移り住み古河公方の侍医となった。僧籍を離れ室を迎えた。武蔵に帰り、生まれ故郷の越生や河越を中心に関東一円を往来して医療を行い多くの庶民を病苦から救って、医聖と仰がれた。

橘屋又三郎【たちばなやまたさぶろう(15??~15??)】
 
和泉国堺の商人。鋳物師だったが、鉄炮の伝来とともに種子島時尭が複製を作らせた刀鍛冶八板金兵衛清定に弟子入りし、その製法技術を身につける、種子島より鉄砲の技術を堺に持ち帰り堺で鉄炮の製造に着手し「鉄炮又」と呼ばれる大商人となった。

橘屋三郎左衛門【たちばなやさぶろうざえもん(15??~15??)】

越前国北の庄の薬問屋。朝倉家のもとで、唐人座や軽物座などの座長となって座の商人からの役銭徴収にあたった。1557年、橘屋は朝倉義景から「調合薬売買」に際し、門験薬銘「橘」字を惣領一人に限り用いるべきこと、「酒売買座」についても以前と同様であるとされており、朝倉領内において薬種販売を手がけ、酒の販売も行う有力商人であった。1573年、朝倉家が滅亡すると、織田信長から「北庄三ヵ村軽物座」での地位を保障され、「軽物座長」に任じられた。唐人座は唐物、軽物座は絹織物を扱う商人仲間であり、同じく輸入品である薬種を扱う橘屋は、両座とも緊密な関係にあったと思われる。

田付景豊【たづけかげとよ(1581~1632)】

蝦夷地交易を担った近江商人。通称新助。屋号は「福島屋」。六角義治の遺臣。1573年、織田信長の攻撃で父田付景輔の田付城が落城後、武士を捨て商人を志し、建部元重とともに奥羽に赴き松前を調査し、蝦夷地各地を回り豊富な水産資源の将来性に着目した。その後、蝦夷地での事業協力者を故郷である近江国柳川村、薩摩村で有志を募り『両浜組』を組織し、近江商人の本格的な蝦夷地進出に道を開いた。1609年、蝦夷国松前郡福山に店を設け、自分の船を持ち物産の輸送と販売を始めた。これ以降、田付一族は蝦夷西海岸での漁場開拓とともに漁法、漁具の改良、漁獲物の加工、販売に取り組み、松前慶広の「場所請負人」として蝦夷地経営に深くかかわった。また、漁獲物などの蝦夷地物産の運搬は、蝦夷国から日本海航路で敦賀で陸揚げし、七里半越と呼ばれる山道を経て琵琶湖北岸の海津湊に運ばれ、琵琶湖水運により故郷である柳川の港に集積し、その後京、大坂へ販売を行った。柳川湊もこのために田付景豊により開設された。

立入宗継【たていりむねつぐ(1502~1555)】
 
山城国京都の商人。近江国立入城主立入宗長の男。官途は左京亮。禁裏の金米の出納や貴重品の保管を司る禁裏上御倉職を務めた。朝廷と織田信長の仲介役を務め「石山本願寺城の戦い」の時には和平調停に奔走した。

田中勝介【たなかしょうすけ(15??~15??)】
 
山城国京都の商人。洗礼名「フランシスコ・デ・ベラコス」。1610年、前呂栄総督ロドリゴ・デ・ビベロ・べラスコの乗ったサン・ブエナベンツーラ号が座礁した。1611年、田中勝介は、松平元康の許可を得て同船で日本人二十三人を統率して太平洋を渡ってメキシコに行った。1612年、日本に帰国、葡萄酒、紫羅紗を松平元康に献上した。参考文献:『ビジュアル戦国1000人』by世界文化社。

田中清六【たなかせいろく(15??~15??)】

近江国の鷹商人。鷹商として奥羽に往来し、中央政権と奥羽諸大名との取次人として活動した。奥羽で捕らえた翼に白い斑点のある鷹を織田信長に献上した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康を支援した。役後、松平元康は、佐渡国5,000石を与えた。1602年、佐渡金山の経営を任せられ、金銀山を山師に探させ、しばらくは金掘師に自由に採掘させた。代官へ納める金額は入札によって決めさせ、最も高い者に以降の採掘権を与える方式で採掘を行ったが、効率的な採掘が出来ず産出量は低下した。松平元康は、田中清六を解任して、大久保長安が佐渡奉行に任じた。

田中与兵衛【たなかよへえ(15??~1540)】

和泉国堺の商人。田中千阿弥の男。納屋十人衆のひとり。父田中千阿弥の一字を取って千与兵衛とも称した。堺の有力者で魚問屋を営み、一代で財を築いた。千利休の父。

田辺四郎左衛門【たなべしろうざえもん(15??~15??)】

武田晴信家臣。黒川金山衆。金山衆は金山の経営を行う山師。掘間を所有して金の採掘を行い収入の一部を運上金として納めた。また、採掘の技術を生かして、城などの破壊工作にも従事した。1571年、「深沢城の戦い」では他の金山衆とともに参陣した。多数の黒川金山衆を用いた破壊工作が大きな成果を挙げた。1583年、古谷清左衛門、保坂次郎右衛門尉ら諸家とともに松平元康から朱印状を与えられた。

田中宗慶【たなかそうけい(1535~15??)】

山城国京都の陶芸家。千利休の三男。千利休の意向を受けて長次郎とともに楽焼を生産し、楽吉左衛門家の成立に深く関わった。楽吉左衛門家の二代目を嗣いだのは長次郎の子孫ではなく、田中宗慶の次男田中常慶が継承した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

玉木吉保【たまきよしやす(1552~1633)】

毛利元就に仕えた医師。玉木忠吉の男。官途は土佐守。通称太郎左衛門尉。1564年、真言宗勝楽寺で修行した。1569年、周防国山口に侵入した大内輝弘追討に参陣した。1578年、「上月城の戦い」に参陣した。1580年、毛利輝元と織田信長の対立が激しくなる中、上方に赴いて曲直瀬道三流の医術を修行した。1585年、「四国征伐」に参陣した。1592年、「文禄の役」にも毛利輝元勢に属して参陣した。1600年、「関ヶ原の役」後は、毛利輝元に従い周防、長門国に移住した。以後は医術に専念した。

玉越三十郎【たまきさんじゅうろう(15??~1573)】 

尾張国清洲の具足商人。浜松城下にいたときに織田信長の勘気を蒙り追放された。1573年、「三方ヶ原の戦い」に長谷川橋介、佐脇藤八郎、山口飛騨守、加藤弥三郎らとともに参陣して討死した。

田村宗仙【たむらそうせん(15??~15??)】

相模国小田原の医師。通称安栖軒。田村家は平安時代から続く名門医家丹波家の庶家。伊勢宗瑞(北条早雲)に招かれ小田原に下向した。以後男田村長栄、孫田村長伝と三代に渡って後北条家の従医として仕えた。

俵屋宗達【たわらやそうたつ(15??~15??)】

山城国京都の画家。通称野々村宗達。俵屋宗達は尾形光琳と並び称せられる画家。その知名度の高さと後世への影響の大きさに比べ、その伝記には不明な点が多く、生没年さえわかっていない。角倉素庵や烏丸光広と同年代生まれと推定される。京都で「俵屋」という当時絵屋と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵や料紙の下絵など、紙製品全般の装飾を制作していた。京都で「俵屋」の扇がもてはやされた。1602年、福島正則の命令で行われた平家納経の修復に関わり、その内三巻の表紙と見返しの計六図を描いた。1616年、後水尾天皇が狩野興以に貝合わせの絵を描くのを命じた際、参考の一つとして「俵屋絵」を見せた。

茶屋清延【ちゃやきよのぶ(1545~1596)】

山城国京都の商人。屋号は「茶屋」。中島明延の男。通称四郎次郎。呉服商を世襲した京都の商人。1521年、小笠原長時家臣であった中島明延が武士を廃業し、京都に上って呉服商を始めたのがはじまりとされる。茶屋の屋号は将軍足利義輝がしばしば茶屋明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。茶屋を営むほか、呉服あきないや朱印船貿易で巨富をなした。1582年「本能寺の変」の際、織田信長の招きで堺にいた松平元康に早馬で一報し「伊賀越え」に同行し、所持した金銀をふんだんにばら撒いて土豪たちを抑えた。この功により、松平元康の御用商人として取り立てられた。

茶屋清忠【ちゃやきよただ(15??~1603)】

茶屋清延男。父茶屋清延の地盤を引き継ぎ、松平元康の呉服御用を一手に引き受けるようになった。羽柴秀吉の病没後は、松平元康に属して、「淀川過書船支配」など京、大坂の物流の取締役に命じられた。1600年、「関ヶ原の戦い」後には京都の情勢不穏を松平元康に進言し、京都所司代設置のきっかけを作った。板倉勝重が所司代に就任すると上方五ヶ所(京都、大坂、奈良、堺、伏見)街人の御礼支配、京都街人頭に任じられた。

茶屋清次【ちゃやしろじろうきよつぐ(15??~15??)】 

茶屋清延の次男(長谷川藤広の養子)。通称四郎次郎。長谷川藤広の養子となっていたが、長男茶屋清忠が病没すると茶屋家の家督を相続した。呉服師の一方で長谷川藤広の長崎奉行就任後は長崎代官補佐役などを務めた。茶屋清次は松平元康の側近や代官の役割も勤め、朱印船貿易で巨万の富を築いた。また角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲し「京の三長者」と言われた。1612年、朱印船貿易の特権を得ることに成功し、主にベトナム北部に船を派遣し、莫大な富を得た。その財産によって茶道具を蒐集し、本阿弥光悦らの芸術支援にも熱心であった。松平元康の死の原因とも言われる「鯛の天ぷら」を勧めたのは茶屋清次とされる。鎖国後は朱印船貿易特権を失い、以後は呉服師、生糸販売を専業した。

長次郎【ちょうじろう(15??~1589)】

京都の陶芸家。楽焼の創始者。千家十職の樂吉左衛門家の初代。楽焼は、最も古い京焼のひとつで、低火度の茶陶。日本中世の伝統的な高火度の陶器とも、中国の陶磁とも異なる独特の焼き物で、侘び茶とともに発展し、もっぱら茶の湯のために造形するという目的の焼き物。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中条帯刀【ちゅうじょうたてわき(15??~15??)】
 
山城国京都の医師。羽柴秀吉に仕えた有名な金創医(現在の産婦人科)。江戸時代には彼の名前を利用して堕胎を専門にする医師のことを「中条流」と称した。

次原新兵衛【つぎはらしんべい(15??~15??)】、

武蔵国河越の商人。北条氏康の家臣大道寺政繁は河越城を改修し、城下街に連雀商人を集め唐人小路と称される地区を整備した。1573年、大道寺政繁は次原新兵衛に『繁』の一字書出を与え、借米、借銭の返済に関する保証と宿屋の営業を認めた。1586年、大道寺政繁から借米、借銭の返済に関する保障を受けた。

辻与次郎【つじよじろう(15??~15??)】

近江国の釜師、鋳物師。別名「辻実久」。天下一與次郎とも称された。後に京都の三条釜座に住み、京釜の創始者西村道仁に師事した。千利休の釜師となり、室町時代に盛行した芦屋釜、天命釜とは異なる千利休の好みの丸釜、阿弥陀堂釜、尻張釜、雲竜釜、四方釜など、新しい形、文様、肌合の釜を創始し、鋳上がった釜を再び火中に入れて釜肌をしめる「焼抜き」という仕上法を創始し、また本来炉に掛けるための釜の羽を鋳造後故意に打落して古作の釜のような古びた味わいをだす「羽落」などの技法を用いた。当代随一の釜師として天下一の称号を名乗ることを羽柴秀吉から許された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

津田宗達【つだそうたつ(1504~1566)】

和泉国堺の商人。津田宗柏の男。屋号は「天王寺屋」。武野紹鴎に茶の湯を学び、下間家や阿波三好家と交流を結んだ、茶の名器を多数所有していた。堺会合衆のひとりで堺の自立に貢献した。三好長慶の御用商人となった。

津田宗及【つだそうぎゅう(15??~1591)】

津田宗達の男。別名天王寺屋宗及。千利休、今井宗久とともに茶湯の天下三宗匠と称せられた。茶人武野紹鴎の子武野宗瓦の門人であった父に茶道を教わる。大徳寺住持の大林宗套には禅を学び、後に天信の号を与えられる。堺の大小路に居所を構える天王寺屋は堺でも有力商人として知られた。宗及は永禄年間には石山本願寺の下間丹後の一族と通じ、次いで堺に勢力を張った三好政康に属したが、織田信長にが畿内に侵攻すると、。1572年、織田信長が主催した京都妙覚寺での茶会に参加して接待を受けた。1573年、岐阜城で織田信長の名器の拝見を特に許された。1578年、織田信長が堺を来訪した際には、自邸に訪問を受けるなどし、重用された。明智光秀の茶会にも顔を出していたが、後に実権を握った羽柴秀吉にも信頼を得て茶湯者八人衆のひとりとして今井宗久、千利休とともに3,000石を領した。1587年、羽柴秀吉が九州平定と聚楽第の造営を記念して北野天満宮で開催した大茶湯(北野大茶会)でも宗久、利休とともに茶会を行った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

津田道叱【つだどうしつ(15??~15??)】

津田宗柏の四男。商用で筑前博多に赴き、島井茂勝に茶の湯を教えた。

津田宗凡【つだそうはん(15??~15??)】 

津田宗及の男。1600年「関ヶ原の役」ときには西軍の石田三成に組し武器調達に奔走した。円座肩衝の茶入を継承した。

津田正輝【つだまさてる(15??~15??)】

相模国小田原の商人。紺屋の棟梁。津田正満の男。京紺屋の三代目を継ぎ藤兵衛を称した。1584年、北条氏直より父津田正満に認められていた、相模、伊豆両国の藍瓶銭徴収が安堵された。後北条家滅亡後は大久保家に仕えた。

津田又左右衛門【つだまたざえもん(15??~15??)】
 
アユタヤ日本人街の頭領。山田長政がアユタヤに渡った頃に頭領となっていた。兵600余りの日本人傭兵部隊を率いてアユタヤ国王に従った。

坪内重吉【つぼうちしげよし(15??~15??)】

出雲国杵築大社の商人。通商次郎右衛門尉。複数の有力者と檀那契約を結ぶ御師で杵築の国造千家や尼子家のもとで「商人伯」として杵築周辺の商人を統轄した。坪井重吉が富田城に籠城した際、その功に報いるため、牛尾久清は「杵築参宮之時」には坪井重吉の室を宿とすること、末代まで杵築大社への祈念は重吉に依頼することを約束している。坪井重吉は杵築大社の御師として檀那の祈念を行い、同時に檀那の参詣宿として室を経営していた。石見国人温泉英永が富田城に籠城中に祈念を依頼しているなど、他にも多くの檀那を抱えていた。1558年、坪内重吉は千家慶勝から「杵築祐源大物小物親方職」に任じられている。

坪井孫次郎【つぼいまごじろう(15??~15??)】

坪内重吉の男。父坪内重吉と同様、杵築周辺の商人らを統轄し、「有様役」を徴収して納付することが義務付けられている。1565年「商人伯」として尼子義久奉行人から保障されている。またこの時は、毎年百駄分の荷物の関料免除も認められており、商品、物資を各地に運搬する商人としての側面がうかがえる。

庭林内膳亮【ていりんないぜんのすけ(15??~15??)】

下野国宇都宮の商人。1580年、織田信長に馬を献上するなど、下野国の有力商人であった。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されると、松平元康との結びつきを強めた。1601年、庭林内膳亮の屋敷に前田利益が逗留した。

出来島隼人【できじまはやと(15??~15??)】
 
武蔵国江戸の歌舞伎女。1607年、三河国刈屋城主水野勝成に身受けされた。1608年、京都で勧進法楽の歌舞伎を行った。この公演を京都の街人は褒め称え、若者で見ないものはいなかった。

鉄炮屋本五郎【てっぽうやほんごろう(15??~15??)】

越後国舟井の鉄炮鍛冶。舟井は長尾景虎からの鉄炮製造地であり、造られた鉄炮は「舟井張」と称された。1595年、御鍛冶奉行衆として100石を領した。本五郎衆28人にも、それぞれ7石を領した。

鉄炮屋勝五郎【てっぽうやかつごろう(15??~15??)】

越後国舟井の鉄炮鍛冶。舟井は長尾景虎からの鉄炮製造地であり、造られた鉄炮は「舟井張」と称された。慶長四年、御鍛冶奉行衆として150石を領した。

出目是閑吉満【でめぜかんよしみつ(1526~1616)】

越前国大野の面打師。人。能面製作の名人で、羽柴秀吉によって「天下一」の称号を許された。「天下一」の称号は、秀吉が部下の武将の戦功の際、当初は千利休に鑑定させた茶器を与えていたが、のちには能面を賞として与えるようになったため、付加価値のある多数の面を必要としたためでもあった。京都の醍醐寺角坊の仏師光盛、光増には、是閑吉満に先だって称号が与えられている。近世の面打には、大野出目家、越前出目家(福井県武生)、近江井関家(滋賀県長浜)があったが、いずれも越前国平泉寺の僧で室町時代末期に出た三光坊満広の弟子筋とされている。是関吉満は、三光坊からは孫弟子にあたり、大野出目家の祖となった。江戸時代はこの三家が代々面打を世襲した。なお、是閑に始まった大野家の3代助左衛門は面を打たず能役者となったと伝わる。養子となり家業を継いだのが「上手」と言われ「天下一」を許された4代洞白であり、以後、幕末に至っている。

天王寺屋道叱【てんのうじやどうしつ(15??~15??)】

和泉国堺の商人。津田宗達の弟。織田信長、羽柴秀吉、神屋宗湛らと交流を持った。千利休が購入した墨跡を巡り、会合衆松江隆仙と不仲にあった際、茶会をもうけた。豊後国の大友義鎮の御用商人としても活躍した。

津田宗達【つだそうたつ(15??~15??)】

天王寺屋道叱の兄。著書に『天王寺屋会記』。

同田貫【どうたぬき(15??~15??)】

肥後国菊地の刀工。同田貫を本拠地に、永禄頃から活躍した肥後刀工の一群。延寿派の末流とされる。銘を九州肥後同田貫、肥後州同田貫、肥後国菊池住同田貫などと切った。加藤清正から一字を授かったという切銘の正国が一番しられ、もともと同田貫は加藤清正の抱えであった。

徳永宗也【とくながそうや(15??~15??)】

筑前国博多の惣司。通称次郎左衛門。黒田長政の筑前入封後、博多の町政を担当、博多町奉行職設置まで続いた。博多南縁の堀(房州堀)のうち、瓦町口より辻堂口までの構築、博多東縁の川土手普請、博多本願寺門徒の扱い、博多商人の渡航朱印状獲得、博多の公役五人組制度などについて黒田長政の指示を受けるなど、博多の町政に深くかかわった。1612年、博多の町政担当者として小堀久左衛門の名が記録に見えるようになり、代わりに徳永宗也の名は歴史上から姿を消した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

土佐光茂【とさみつもち(1496~1550)】

大和絵の土佐派の絵師。官途は刑部大輔。土佐光信の男。1523年、父土佐光信の跡をついで絵所預を務めた。大和絵装飾画の絵師家で「桑実(くわのみ)寺縁起絵巻」「浜松図屏風(びょうぶ)」などがある。名は「みつしげ」ともよむ。

参考文献:『ビジュアル戦国1000人』by世界文化社。

土佐光吉【とさみつよし(1539~1613)】

大和絵土佐派の絵師。土佐光茂の次男。官途は左近衛将監。土佐光茂の跡取り土佐光元が羽柴秀吉の軍勢に加わり、出陣中戦没してしまう。そのため土佐光吉は、土佐光元に代わっ土佐て光茂から遺児三人の養育を託され、土佐家累代の絵手本や証文などを譲り受けた。以後、土佐光吉は剃髪し久翌と号し、狩野永徳や狩野山楽らから上洛を促されつつも、終生堺で活動した。堺に移居した理由は、近くの和泉国上神谷に絵所預の所領があり、今井宗久をはじめとする町衆との繋がりがあった。

土佐光則【とさみつのり(1583~1638)】

土佐光吉の男。通称源左衛門尉。土佐光吉の時代から堺に移り活躍する一方、正月に仙洞御所へしばしば扇絵を献上した。狩野山楽、山雪、探幽、安信といった狩野派を代表する絵師たちに混じって「当麻寺縁起絵巻」(個人蔵)の制作に参加した。晩年の52歳頃、息子の土佐光起を伴って京都に戻った。

鳶坂甚内【とびさかじんない(15??~15??)】 

北条氏政家臣。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、盗賊の頭となって江戸周辺を荒らしまわった。後年、盗賊から足を洗い古着屋となった。松平元康との取引で古着屋の権利独占をする代わりに江戸の治安維持に協力した。庄司甚内、向崎甚内とともに江戸の三甚内と称された。

友野二郎兵衛【とものじろうびょうえ(15??~15??)】

駿河国駿府の商人。屋号は「友野屋」。松木宗義とともに、今川家の御用達商人を務め、「友野座」と称される座を率いて木綿販売を独占した他、油や茜の売買を支配し、更に米や酒、胡麻油、茜の取引、東海道の伝馬の業も行った。

友野宗善【とものそうぜん(15??~15??)】

友野二郎兵衛の男。通称次郎右兵衛尉。1582年、武田勝頼が討死して、松平元康が駿河国を領して駿府を支配すると、これに積極的に協力した。駿府では町方頭人として松木宗清とともに松平元康との結びつきを強めた。1600年、「関ヶ原の役」後、松平元康が再び駿河国を領すると、彦坂光正を助けて駿府の街割りを遂行した。1609年、長崎の糸割符仲間より,駿府に生糸の配分を特許され、松平元康に奉仕する反面大きな利権を引き出した。

土門久政【どもんひさまさ(1521~1598)】

大和国奈良の商人。屋号は「漆屋」。松屋は塗師屋で南都の豪商。土門久政、土門久好、土門久重による『松屋会記』は100年以上書きつがれた茶会の記録。堺の『天王寺屋会記』と並び称される我国を代表する茶会記。松永久秀、千利休、古田織部、荒木村重、豊臣秀長、津田宋久など当時一流の茶人の名が記されている。

虎屋九右衛門【とらやきゅうえもん(15??~15??)】

摂津国大坂の商人。室は河合又五郎の妹。田中吉政家臣。1620年、田中忠政が嫡男を残さぬまま病没したため、田中家が改易に処せられると物産問屋となった、河合又五郎を匿い随行して鍵屋ノ辻の仇討ちに遭遇した。

鳥原掃部助【とりはらかもんのすけ(15??~15??)】

坊津天神丸の船頭。1584年、島津義久から琉球渡海朱印状を発給された。

鳥原宗安【とりはらむねやす(15??~15??)】

薩摩国坊津の商人。1584年、島津義久から琉球渡海朱印状を発給された坊津の代表的な海商。島津義久が川内の泰平寺で羽柴秀吉に降伏した際、島津義久から羽柴秀吉への礼品「銀子壱貫目、白糸五拾五斤、沈香九拾二斤」を、鳥原宗安が用立てた。鳥原宗安は、羽柴秀吉の「文禄の役」の際、人質として日本へ送られた明人らを、明と日本との国交回復を図る松平元康の意向を受けた島津義弘の命により、明国へ送還する任務を果たした。明人の送還を終えた島原宗安は、明の福州で「拾二万斤船」を入手し、この船で泊の山下志摩丞が呂宋へ渡った。

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【な】

中井正吉【なかいまさよし(1533~1609)】

山城国京都の大工。法隆寺番匠。通称孫太夫。1583年、片桐且元に請われ大坂城の築城に参加。1598年、方広寺大仏殿の作事で大和の大工を束ねる司を務めた。

中井正清【なかいまさきよ(15??~15??)】 

中井正吉の男。京都の大工頭。1600年、「関ヶ原の戦い」後、松平元康に作事方として仕え500石を領した。二条城築城に従事し大和守を授けられる、その後も江戸城建設、駿府城の天守閣、江戸の町割り、内裏、増上寺、方広寺大仏殿、日光東照宮など、幕府関係の重要な建築の多くを担当した。

中尾四郎兵衛【なかおしろうえもん(15??~15??)】

美作国の商人。尼子経久の家臣宇山兼久が中尾四郎兵衛に西美作国六郡(大庭、真島、久米北条、久米南条、西北条、西々条郡)の商人統括権を与えた。尼子経久勢は美作国での支配権が縮小傾向にあったため、倉敷城主江見久盛との連携を維持するため、美作国東部から出雲国に抜ける出雲街道の確保を目的として、商人統括権を与えた。

永田勘十郎【ながたかんじゅうろう(15??~15??)】

羽前国酒田の商人。酒田三十六衆のひとり。祖先は三河国出身で敦賀湊、松前湊、久保田湊を経て酒田に移り住んだ。酒田沿岸の漁業税や移出税を請け負い領主に納めた。永田茂右衛門の代に、上林七郎左衛門や村井理兵衛とともに、年寄役を務めた。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に属して米徴収を請け負った。1600年、「関ヶ原の役」では、街衆を指揮して戦功を挙げた。その後、最上義光に属して、酒田街並の割り直しに尽力した。

永田徳本【ながたとくほん(1513~1630)】

三河国の医師。別名「甲斐の徳本」。諸国を巡り、安価で医療活動を行ったといわれる放浪の医者。陸奥国で仏門に入り、出羽国で修験道を学び、また田代三喜、玉鼎らより李朱医学を修め、信濃国、甲斐国に移り住み、武田信虎、武田晴信父子二代の侍医となった。武田信虎の領国追放後は信濃国諏訪郡に住んだ。1582年、武田勝頼が討死すると東海、関東諸国を巡り、貧しい人々に無料で薬を与えたり、安価で診療を行った。本草学にも通じ、甲斐国で葡萄栽培法の改良も行った。著書に『梅花無尽蔵』、『徳本翁十九方』。

長野喜三【ながのきぞう(15??~15??)】

武蔵国熊谷宿の商人。成田氏長の御用商人。木綿、小間物。1580年、成田氏長、熊谷街における木綿売買は長野喜三が行うと定めた。

中丸山城守【なかまるやましろのかみ(15??~15??)】

安芸国廿日市の商人。厳島の対岸の大野を本拠地とする武装商人。1596年、廿日市の極楽寺求聞持堂の本尊、虚空蔵菩薩の背面に刻まれた大願主、奉加衆ら二十余名の中にその名が見え、廿日市を代表する有力者であった。備中国猿懸城主穂井田元清の御用商人を務めた。1582年、穂井田元清の指示のもと、兵糧調達にあたっているほか、最前線であった備中国の連島や片島に在陣しており、海上の軍事力、輸送力を担って活動していた。1597年、穂井田元清の病没後はその嫡男毛利秀元に仕えた。

中村正吉【なかむらまさよし(15??~15??)】

遠江国宇布見の廻船問屋。通称源左衛門。1568年、松平元康が遠江国に侵攻した際は舟を出して松平元康勢を迎え入れ、今切軍船兵糧奉行や代官職を務めた。1574年、松平元康の側室の於万が結城秀康を中村正吉の屋敷で生んだ。1590年、松平元康が関東に転封になった際は、宇布見村に残った。

中村道碩【なかむらどうせき(1582~1630)】

山城国京都の囲碁棋士。本因坊算砂を継いで二世名人となり、算砂同様に碁打衆の頭領格となった。家元の井上家を興した井上玄覚因碩の師であり、後に道碩は十一世井上幻庵因碩により井上家一世に位置付けられた。道石とも記された。道碩は本因坊算砂の弟子とされる。京都に居住し、慶長年間には算砂、林利玄らとともに、禁裏や公家屋敷、江戸城などに召し出された。他の弟子には、寺井玄斎、法橋現碩(玄碩)、松原因策。

半井驢庵【なからいろあん(15??~15??)】 

山城国京都の医師。御所の名医の家系、若い頃は美濃の長井規秀に仕えた。1566年、「墨俣城の戦い」で矢に眼を射ぬかれ眼を潰した。茶道にも長け名器を見るために織田信長がしばしば訪れた。

名越善正【なごしぜんせい(15??~1619)】

京都三条釜座の釜師。名越浄祐の男。通称弥七郎。名越家の11代。名越家は釜座中最も古い家系。1614年、名越三昌は、方広寺の国家安康、君臣豊楽で知られる梵鐘鋳造で棟梁として鋳物師を統率していることなどから、三条釜座の中心人物であったと推測されている。

名越三昌【なごしさんしょう(15??~1638)】

名越善正の男。通称弥右衛門。後世、子孫にも浄味を名乗る者がいるので区別して古浄味と称された。父は京都三条釜座の名越善正。弟に江戸名越家を興した名越家昌。1614年、方広寺の大梵鐘鋳造に当たり、総棟梁として弟の名越家昌、対馬守国久、飯田重次等を棟梁に、鋳物師多数を統括した。

名越家昌【なごしいえまさ(15??~1629)】

名越善正の次男。通称弥五郎。1614年、国家安康、君臣豊楽で知られる方広寺大梵鐘の鋳造に当たり、兄名越三昌と共に多数の鋳物師を統率して完成させた。この功績により越中少掾、日本鋳物師棟梁と名乗ることを許された。その後、松平秀忠の意向で江戸に行き、江戸名越家を興し、京都で没した。

名古屋山三郎【なごやさんざぶろう(15??~15??)】

山城国京都の歌舞伎役者。室は出雲阿国。非常な美男子。

奈良屋又兵衛【ならやまたべえ(15??~15??)】

山城国京都の油問屋。屋号は「奈良屋」。別名長左衛門。娘を庄五郎(または庄九郎)と呼ばれた後の斉藤道三に嫁がせる、庄五郎の出世を金銭面から助けた、小説によっては又兵衛、長左衛門など呼ばれている

奈良屋次郎左衛門尉【ならやじろうざえもんのじょう(15??~15??)】

遠江国見付府の商人。米屋弥次郎と並ぶ見付の商人。問屋を経営するだけでなく、今川家より付近の代官職を請け負った。1556年、京都から駿府に向う山科言継は、見付宿で奈良屋次郎左衛門の屋敷へ宿泊した。1557年、今まで免除されていた問屋、宿屋、屋敷の年貢が賦課され見付宿での自治が終焉した。

仲屋乾通【なかやけんつう(15??~15??)】

豊後国府内の商人。別名計屋与三左衛門。はまの町彦四郎、よこ町竹内雅楽助、かけや林清左衛門、かけや金山左京助、唐人町矢野百衛門らとともに豊後臼杵衆六人と称された。「華夷ノ商船(外国船)」の豊後府内への入湊は、大友義鎮の武威だけではなく仲屋乾通の力によるものであった。晩年には、その富栄は関西一となり「蛮夷ノ商舶」が日本に来航しても、京堺その他の地域から集まった多くの商人も仲屋乾通を恐れて、彼が到着するまで値を定められなかった。長崎での中国貿易では仲屋乾通の「遺秤」が用いられていた。仲屋乾通が来航する外国船と各地の商人との取引において、秤による計量で商品の値段を決定するといった、いわば貿易統括権ともいえる権限を持つ豪商であった。銀が急速に普及するなかで九州各地の街や湊街には「計屋」と称する計量商人がいた。

仲屋宗悦【なかやそうえつ(15??~15??)】

仲屋乾通の男。1585年、肥後国内に滞在していた仲屋宗悦が、阿蘇、三船、隈庄方面での島津義久勢の動きを豊後国に報告した。1586年、大友義鎮は羽柴秀吉に援軍を要請するため大坂に上がるが、仲屋宗悦もこれに随行し、大友義鎮や浦上道冊ととも堺で天王寺屋宗及、道叱らの茶湯接待を受けた。仲屋宗悦は大友義鎮の使者として重代の家宝である「平釜」を携えて上坂した。1588年、仲屋宗悦は羽柴秀吉の使者として肥前平戸の松浦家のもとに赴き、平戸の中国人大工、古道の上洛を促した。古道は、大友義鎮から「分国中津々浦々諸関」での通航課税免除特権を得ている人物であり、経済活動を通じて仲屋宗悦と以前から繋がりを持っていた。1593年、仲屋宗悦は臼杵の唐人街懸ノ街に屋敷を六筆を有し、その敷地面積は、1町1反6畝26歩を占めており、桁外れの豪商であった。カンボジアから薩摩国阿久根に来航していた明の商人林存選が、仲屋宗悦に直接会いたいが出航できない状態を伝え、カンボジアで手に入れた「花幔」を贈った。仲屋宗悦は経済活動を通じて大友義鎮に仕える御用商人でもあった。

二木与助【にきよすけ(15??~15??)】

羽前国酒田の廻船問屋。屋号は「加賀屋」。酒田三十六人衆。三十六人衆の上林、鐙屋とともに、はやくから街年寄を務めた。南部、加賀、松前、庄内、松山、新庄、山形、上ノ山などの御用を務めた。三十六人衆のなかの廻船問屋では最大規模であった。幕府の命により西廻り航路開拓のため河村瑞賢一行が酒田にやってきたが、その時の投宿先が加賀屋二木九左衛門宅であった。瑞賢による西廻り航路の改良と、それに連動した最上川舟運の隆盛は、湊街酒田を一層活性化させた。酒田から積み出さわる移出品の主なものは、米、大豆、紅花、青苧などであり、移入品には播磨の塩、京都、大阪、堺、伊勢の木綿、出雲の鉄、美濃の茶、南部、津軽、秋田の木材などがあった。

西川仁右衛門【にしかわにえもん(1549~1644)】

近江国津田村の商人。屋号は「山形屋」。1566年、商いを志し蚊帳商いを始めた。1583年、羽柴秀吉の家臣田中吉政が八幡山城、八幡堀、八幡山下街の改修を行う際、工務監督に任じられた。1585年、羽柴秀次が八幡山城主に任じられると、安土城下の町民、商人達が八幡山下街に移り住んだ。1587年、八幡山下街に山形屋を開店した。1595年、「羽柴秀次事件」後、八幡山城が廃城となると、近江国商人は遠隔の地で商売をするようになった。1596年、西川仁右衛門は、四人の息子、西川市右衛門、西川弥兵衛、西川久右衛門、西川甚五郎を連れ能登国鳳至郡門前街の地に赴いて蚊帳を販売し、帰りに能登の海産物を仕入れ八幡山下街で販売した。1600年、「関ヶ原の役」では、八幡山下街の商人達は松平元康勢に属した。 1603年、能登国に嫡男西川市左衛門を残し、蚊帳とともに畳表を取り扱い販路を美濃国、尾張国、三河国、遠江国に拡大した。1615年、江戸国日本橋通りに店を開き、「近江屋作右衛門」(後に「近江屋作兵衛」)と称した。1628年、家督を四男西川甚五郎に譲り隠居した。

西川甚五郎【にしかわじんごろう(1582~1675)】

西川仁右衛門の四男。室は最上屋善太郎の娘。近江蚊帳の特徴である萌葱色を創案し近江蚊帳を全国に普及させ、西川家の基礎を固めた。1628年、父西川仁右衛門の隠居により、西川家の家督を相続した。子に恵まれず、長兄西川市右衛門の嫡男西川利助を養子とし、次兄嶋屋弥兵衛の娘(かめ)と結婚させた。1667年、西川利助に家督を譲った。

西宗真【にしそうしん(15??~1646)】

西宗源の男。洗礼名「ルイス」。父西宗源は大村喜前の家臣。1592年、「文禄の役」後、呂宋貿易に携わり頭角を現した。1607年、大村喜前の推挙で松平元康に謁見、海外事情に通じるものとして、朱印船貿易の許可を得た。貿易を仲介することにより巨利を得た。1605年、呂宋船が来航した際は通訳を務めた。松平元康に駿府で謁見、来航許可朱印状を受けて活動を続けた。

二階藤左衛門尉【にしなとうさえもんのじょう(15??~1576)】

毛利元就の御用商人。通称藤左衛門尉。1550年、毛利元就から藤左衛門尉の官途を受けた。1558年、毛利元就は児玉就忠に宛てて、二階藤左衛門尉の船が長門日山城の道具を間違いなく届けたが帰る途中に賊船に遭って死傷者が出たことを伝えており、二階藤左衛門尉が自分の持ち舟で毛利家の物資輸送を担当していた。1563年、毛利元就が豊前松山への兵糧輸送を重ねて二階藤左衛門尉に申し付けるよう兼重元宣と平佐就之に命じた。井上就重に宛てて二階藤左衛門尉の船への馳走を申し付けるように命じた。二階藤左衛門尉は毛利元就の物資輸送にあたる対価として毛利元就の分国中諸関での通行料免除を認められた。

二階就貞【にしななりさだ(15??~15??)】

二階藤左衛門尉の男。通称藤左衛門。1568年、毛利元就から「就」の偏諱を与えられて就貞と称した。1576年、二階就貞は父の官途であった「藤左衛門」を毛利輝元から与えられた。二階藤左衛門尉が持っていた特権も毛利輝元に安堵された。1585年、二階就貞が船一艘の馳走を申し出たことについて小早川隆景が井上春忠に「祝着千万」だと伝えている。この年に行われた毛利家の伊予出兵でも二階就貞の船は小早川秀包の渡海用に暫く借用されることになった。

西村道仁【にしむらどうじん(15??~15??)】 

山城国京都の釜師。西村家の始祖。京都三条釜座に住み、武野紹オウの釜師として著名であった、織田信長から「天下一」の号を許された、鋳物にもすぐれ、梵鐘、灯籠、擬宝珠などに在銘作がある。

西村太郎右衛門【にしむらたろうえもん(15??~15??)】

近江国八幡の商人。1615年、大阪から九州方面へ航海中、暴風雨のために難船漂流、安南(アンナン)に辿りついた。安南国内の政争に介入し、国王方につき、勝利に導く戦功をあげた。それを認められて一城主として厚遇されたという。帰国を計画したが果たせず、安南で病没した。

丹羽ジャコベ【にわじゃこべ(1579~1638)】

切支丹画家。別名「ヤコブ丹羽」。1583年、イタリア人修道士ジョヴァンニ・ニコラオに南蛮画の技法を学んだ。1601年、カトリック教会における明の布教長であったマテオ・リッチの要請をうけた日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノの指示によって、聖像を描くため明の澳門に派遣された。澳門では、聖パウロ協会の被昇天の聖母像を描いた。1602年、北京に赴いて聖母子像を描き、その作品は万暦帝に献上された。1606年、マテオ・リッチのもとでイエズス会に入会した。1610年、南昌にある2つの聖堂のキリスト画とマリア画を描いた。1611年、再び北京に赴いて使徒や天使らに囲まれた救世主図を描いた。

信国吉政【のぶくによしまさ(1590~1653)】

備前国福岡の刀工。信国吉貞の男。父信国吉貞より来国行、正宗伝を、備前福岡一文字助宗に備前伝を受け信国別家となった。薙刀の名工と知られており、黒田家中で『平四郎の薙刀』と呼ばれて珍重された。

野中遠江守【のなかとうとうみのかみ(15??~15??)】

上総国天神山の鋳物師。商人、職人らが自治を行なっていた天神山湊を拠点とし、鋳物師業を専門職業としながら関連する燃料、材木等を江戸湾一帯で広く製造、輸送、販売する問屋業を営んだ。1567年、三崎城主北条氏規より相模国における鋳物販売に許可を得た。

野路善鏡【のろぜんきょう(15??~15??)】

大和国奈良の漆工。篠井秀次の男。千利休の塗師となり、盛阿弥とならび称された。羽柴秀吉から天下一の称をさずかった。

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【は】

長谷川宗仁【はせがわそうにん(1539~1606)】

山城国京都の商人。1569年、堺の今井宗久と組んで織田信長に働きかけて、但馬国の領主であった山名祐豊を但馬に復帰させる工作に尽力した。山名祐豊を復帰させる事で但馬生野銀山の銀山経営の利権確保を図った。織田信長の命により朝倉義景の頸級を京へと送り、獄門にかけた。1578年、織田信長が家臣十二名を呼び主催した茶会の中に織田信忠、細川藤孝、明智光秀、羽柴秀吉、丹羽長秀らとともに名を連ねた。1582年、「武田征伐」に参陣した。戦後、武田勝頼、武田信勝、武田信豊、仁科盛信の頸級を京で獄門にかけた。「本能寺の変」で織田信長が討死すると、備中国にいた羽柴秀吉に飛脚を送り織田信長の死を報じた。「山崎の戦い」後、羽柴秀吉に仕えた。羽柴秀吉のもとで原田喜右衛門とともに呂宋島の交易権を独占した。1598年、「醍醐の花見」では、羽柴秀吉の側に従じた。1600年、「田辺城の戦い」では、石田三成勢に属して参陣していたが、役後所領を没収されることなく松平元康に仕えた。

長谷川等伯【はせがわとうはく(1539~1610)】

能登国七尾の絵師。狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並ぶ画人。1539年、能登畠山家に仕える下級家臣奥村文之丞宗道の男。染物業を営む長谷川宗清の養子。熱心な信徒であった長谷川等伯は日蓮宗関係の仏画や肖像画などを描いていた。七尾は「小京都」と呼ばれるほど栄え、長谷川等伯の作品には都でも余り見られない程良質の顔料が使われた。長谷川等伯は京都と七尾を往復し、法華宗信仰者が多い京の町衆から絵画の技法や図様を学んだ。1571年、養父母の死を契機に、嫡男長谷川久蔵を連れて上洛した。狩野派に対してライバル意識を持ち、その様式に学びつつも、京都と堺を往復し、千利休ら堺で活躍する茶人たちから中国絵画の知識を吸収し、独自の画風を確立した。

長谷川久蔵【はせがわきゅうぞう(15??~15??)】

長谷川等伯の男。

長谷部備前守【はせべびぜんのかみ(15??~15??)】

武蔵国鉢形の商人。通称源三郎。1579年、武田晴信と北条氏康が上野、武蔵国境で合戦を繰り広げた際、北条氏邦から命を受けて、北条家領国内から武田家領への塩が持ち出されることのないように、塩荷の規制を行なった。

秦宗巴【はたそうは(15??~15??)】
 
丹波国の薬師。秦徳岩。医学をめざして意庵宗桂の門弟となる、その後曲直瀬道三が築いた啓迪院で医学を学んだ、さらに漢方の研究を行い羽柴秀次の薬師となった。近江国で1,000石を領した。薬の調合が松平元康に気に入られ、京での侍医となった。山城国大和で500石を加増された。『徒然草』を注釈した著書は有名。

秦徳隣【はたとくりん(15??~15??)】
 
丹波国の薬師。秦宗巴の養子。別名秦有室。室は秦宗巴の娘。養父秦宗巴の家督を相続した。

服部弥六郎【はっとりやろくろう(15??~15??)】

尾張国津島の商人。1553年、織田信長から特権を承認された。

花屋道薫【はなやどうくん(15??~15??)】

瀬戸内瀬戸田の商人。1599年、毛利輝元が敵を退ける鉄炮の材料不足を補うために、寺社の「鐘磬」を提出させようとし、向上寺の鐘もこの対象とされた。生口景長をはじめ島中の者が僅かな物を持ち寄って鐘の存続に勤めた結果、再び鐘は鐘楼に吊るされることになった。

浜嶋新七郎【はまじましんしちろう(15??~15??)】

三河国岡崎の商人。1571年、松平元康は、浜嶋新七郎を岡崎の問屋頭に任じ「山海之雑物」「駒爪」などの手工業製品の専売、運上金の徴収を認め、地域の商人を統括させた。

浜田弥平衛【はまだよへい(15??~15??)】

末次家の家人。貿易船の船長。1626年、台南で阿蘭陀の台湾長官ノイツと抗争した。

林又一郎【はやしまたいちろう(15??~15??)】

山城国京都の遊里主。別名林与次兵衛。四条河原の遊女歌舞伎の座主でもあった。原三郎左衛門とともに羽柴秀吉の許可を得て、京に二条柳町遊郭を設立した。その後二条城造営のために六条に移転して京島原遊廓と呼ばれた。

林羅山【はやしらざん(1583~1657)】 

武蔵国江戸の漢学者。朱子学派。別名林信勝。通称又三郎。京の町人の子として生れた、幼少で出家しその後に藤原惺窩の門下となる。1600年「関ヶ原の役」後に松平元康に仕え、四代将軍松平家綱まで仕えた。私塾聖堂(後の弘文館)を創建した。松平元康の信任が厚く金地院崇伝とともに羽柴家滅亡を策した。「方広寺鐘名事件」の解釈は林羅山が行なった。

林春勝【はやしはるかつ(15??~15??)】

林羅山の三男。漢学者。父林羅山や那波活所、松永貞徳に師事した。松平家光に仕え外交の諮問をつとめた。松平家光の命で父とともに『諸家系図伝』『本朝通鑑』の編纂に従事した。著書に『鵞峰全集』『日本王代一覧』『国史実録』。

林光清【はやしみつきよ(15??~15??)】

三河国御油の商人。林孫八郎光衡の男。通称次郎兵衛尉。1554年、今川義元は三河国御油宿に伝馬掟を発布。今川義元のもとで宿、伝馬の管理運営を行なった。三河国八幡惣社領内で屋敷の棟別銭、諸商売役、酒役を免除された。

原田孫七郎【はらだまごしちろう(15??~15??)】

肥前国長崎の商人原田喜右衛門の手代。原田孫七郎は何度もルソンを往復し、マニラに居住したこともあるので、ルソン事情に詳しく、西班牙、葡萄牙に昔日の威勢がないことを知って、羽柴秀吉にルソン攻略を建言した。1592年、入貢を促す羽柴秀吉の国書をマニラに届け、西班牙のマニラ総督の使者を平戸に連れ帰った。この交渉は実らなかったが、羽柴秀吉から年禄500石を給された。1593年、高山国に入貢を促す使者として入国したが、これも失敗に終わった。

播磨屋宗徳【はりまやそうとく(15??~1648)】

土佐国浦戸の商人。屋号は「播磨屋」。通称九郎右衛門。播磨国の豪商であったが、長宗我部元親の讃岐国出兵の際、兵糧の調達を行った功績によって土佐に招かれた。浦戸城下に移った宗徳は、長宗我部家に商人として仕えていたが、主家滅亡後山内一豊が入場し、大高坂の地に新城を築き、居城を移すと、一豊は宗徳らを特権商人として重用し、大高坂城近くに住居を移した。その後も町づくりに貢献し、町年寄役を務めた。1606年、町役人に専任させる為に商人としての振る舞いを禁止された。

櫃屋道清【ひつやどうせい(15??~1662)】

土佐国浦戸の商人。松本重則の男。別名松本太郎左衛門。松本家は天正年間に父勘解由重則(根来衆)が紀州松江より来国し長宗我部家に仕える。後に商家となり繁栄する。山内入国後も活躍し播磨屋らと共に長崎と土佐を行き来する。店自体も播磨屋の向かいにあり、その間に播磨屋橋が架かっていた。

日野九右衛門【ひのくろうえもん(15??~15??)】

近江国日野の商人。鉄炮商人。鉄炮百挺をもって米沢城に商い訪問した。

日比屋了珪【ひびやりょうけい(15??~15??)】

和泉国堺の商人。洗礼名「ディエゴ」。櫛屋街で澳門火薬の輸入などを商いとした。フランシスコ・サビエルが堺を訪れた時に手厚くもてなした。1561年、宣教師ヴィレラの堺布教にあたって邸内に教会を建て、息子ヴィセンテ了荷のすすめで受洗しあ。1581年、海賊に襲われたヴァリニャーニを手勢300余りをもって救出している。羽柴秀吉のキリシタン弾圧により、次第に凋落した。日比屋了慶の死後、日比屋は没落した。参考文献:『ビジュアル戦国1000人』by世界文化社。

深谷保広【ふかややすひろ(15??~15??)】

常陸国保内の商人。白河家に仕えていたがのちに佐竹義篤に仕えた。

深谷喬広【ふかやたかひろ(15??~15??)】

深谷保広の男。通称右馬允。1595年、佐竹義宣から小堤で50石を与えられた。

福田民部少輔【ふくだみんぶのしょう(15??~15??)】

下総国関宿城の廻船問屋。足利晴氏に仕え古河公方御料所の代官職を務めた。領国内での諸役を免除された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

藤原惺窩【ふじわらせいか(1561~1619)】 

播磨国の儒学者。播磨国細川城主冷泉為純の三男。父冷泉為純は別所長治に滅ぼされた。京都で叔父泉和尚のもと相国寺で仏教と儒学を学んだ。羽柴秀吉のもとに来た朝鮮の使者と筆話をした。近世儒学の大家で、松平元康や後陽成天皇に儒学を進講した。羽柴秀吉没後に松平元康の再三の招きを固辞した。門下に林羅山、浅野幸長、石田三成をはじめ多数の大名や公家を持った。

丿貫【へちかん(15??~15??)】

山城国山科の茶人。京都上京の商家坂本屋の出身。室は曲直瀬道三の娘。武野紹鴎の門で茶を修めた。山科の地に庵を構えて寓居し、数々の奇行をもって知られた。1587年、羽柴秀吉が主催して行われた北野大茶湯の野点において、丿貫は直径一間半の大きな朱塗りの大傘を立てて茶席を設け、人目を引いた。羽柴秀吉も大いに驚き喜び、以後丿貫は諸役免除の特権を賜った。晩年は薩摩へ下った。

紅屋宗陽【べにやそうよう (15??~15??)】

和泉国堺の商人。堺の街政を運営した会合衆のひとり。武野紹鴎の門人で、茶事をたびたびもよおした。1583年、羽柴秀吉の勘気を被り闕所処分をうけ、所有していた茶器の『紅屋肩衝』『虚堂』を没収された。参考文献:『ビジュアル戦国1000人』by世界文化社。

牡丹花肖柏【ぼたんかしょうはく(1443~1527)】

中院通淳の男。連歌師また歌人で夢庵、弄花軒と号す。連歌を宗祗に、和歌を飛鳥井雅親に、古典を三条西実隆に学ぶ。応仁の乱前後から摂津池田に住み、晩年堺の紅谷庵に移り住んだ。宗祇から古今伝授を受け(堺伝授)、これを南都の饅頭屋林宗二に伝えた(奈良伝授)。角に金箔を塗った牛に乗って往来したといわれる一方、花を弄び、香りにこだわり、酒を愛したという風流人。

掘立直正【ほだてなおまさ(15??~15??)】

安芸国佐東の商人。屋号は「下関屋」。官途は壱岐守。通称九郎左衛門。毛利元就の御用商人として要湊赤間関の代官を約二十年にもわたって務めた商人。1541年、安芸武田家滅亡時に毛利家に属した。1554年、陶家に叛旗をひるがえした毛利家のもとで佐東に臨む金山城や厳島続く「防長侵攻戦」においても三田尻、赤間関の調略、制圧に成果を挙げた。また堀立直正の特徴は大きな経済力と水運力を有するその商人的性格にある。先述の廿日市や厳島、赤間関などへの調略は、各町衆に対して、商人としての直正が持つ人脈を生かした。多くの兵糧米を調達して毛利家に提供するなどの活動を行っており、大きな資金力を有し、日常的に物資の調達、運送から職人の編成といった幅広い経済活動を行った。

堀川 国広【ほりかわくにひろ(15??~1614)】

日向国飫肥の刀工。官途は信濃守。堀川派の祖。伊東家に仕え不動明王像と「武運長久」の文字、梵字を彫った。「山伏国広」はこの時期の傑作である。伊東家を離れ諸国を巡り、足利学校にて鍛刀。領主の長尾顕長の求めに応じて打った、「山姥切国広」(長尾顕長が北条氏政から賜った相伝備前の「長船長義」がこの時期の傑作。1599年、山城国京都で後進の育成を図った。弟子に、出羽大掾国路、国安、国弘、国貞等あり、堀川一派として大いに栄えた。

堀川国安【ほりかわくにやす(15??~15??)】

山城国京都の刀工。堀川国広の弟。新刀最上作にして大業物、茎には「国安」と二字銘だけ切る。正宗の偽物を作刀したことで破門された。作柄としては、左利きのため茎の鑢目が勝手上がりになるになるという特徴がある。

本因坊算砂【ほんいんぼう さんさ(1559~1623)】

山城国京都の囲碁棋士。法華宗寂光寺の僧侶。後に本因坊算砂を名乗り、江戸幕府から棒禄を受けて家元本因坊家の始祖となるとともに、碁打ち、将棋指しの礎となった。舞楽宗家の加納與助の男として生まれ、叔父で寂光寺開山日淵に弟子入りして出家。仙也に師事して囲碁を習得した。1578年、織田信長に「そちはまことの名人なり」と称揚され、これが現在も各方面で常用される「名人」という言葉の起こりとされる。1582年「本能寺の変」前夜に信長の御前で鹿塩利玄と対局をした所滅多に出来ない三コウが出来その直後に織田信長が明智光秀に殺されるという事態が起こった。これ以降「三コウは不吉」とされる。1588年、羽柴秀吉御前で、算砂、利玄など数名の碁打衆が召し出されて対局し、これに算砂が勝ち抜いた。1603年、松平元康に招かれ、大橋宗桂と将棋対局した。著書に『本因坊碁経』がある。

本間光重【ほんまみつしげ(15??~15??)】

羽前国酒田の商人。酒田三十六人衆。室町時代中期ころ本間季綱の代に、出羽国大泉庄下川村に移り住み、武藤義増に仕えた。1558年、廻船問屋に乗り出し、粕谷源次郎、上林七郎左衛門、永田茂右衛門らとともに酒田の繁栄を築いた。

本間忠光【ほんまただみつ(15??~15??)】

本間光重の男。1,000町歩を越す大地主に成長した。本間家は東の三井八郎右衛門、西の鴻池善右衛門とともに日本を代表する資産家になった。

本阿弥光二【ほんあみこうじ(15??~15??)】

片岡次大夫の次男(本阿弥光心の養子)。室は本阿弥光心の娘。山城国京都の刀工。後に本阿弥光心に実子が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てた。

本阿弥光悦【ほんあみこうえつ(1558~1637)】

本阿弥光二の男。本阿弥光悦の書は近衛信尹、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」のひとり。刀剣の鑑定、研磨、浄拭を家業とする京都の本阿弥光の嫡男として生まれる。刀工としてではなく書家、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも携わった。本阿弥光悦は、洛北鷹峯に芸術村を築いたことでも知られた。

本阿弥光温【ほんあみこうおん(15??~15??)】
 
本阿弥光悦の男。刀剣の鑑定、磨き、浄拭を家職家。

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【ま】

町田左吉【まちださきち(15??~15??)】

近江国日野の鉄砲鍛治。日野年寄衆。日野の鉄炮鍛冶は二流をあり、田付景澄の興した田付流の鉄炮。1614年、「大坂冬の陣」の前、堀直竒は近江日野の鉄炮鍛冶町田左吉に鉄炮三百挺を発注した。

孫六兼元【まごろくかねもと(15??~15??)】

美濃国稲葉山の刀工。屋号は「孫六」。古刀最上作にして最上大業物。末関物を代表する刀工。和泉守兼定とともに名を知られる。美濃善阿弥派出身。二代目兼元が著名で、永正の頃に初代兼定のもとで修行し、その息子二代目兼定と兄弟の契りを結んだ。習作時代は兼本と銘を切り、武田晴信、羽柴秀吉、前田利政、青木一重など多くの武将が佩刀し、実用性をもって知られる。特に青木一重所持の青木兼元が著名である。

松江隆仙【まつえりゅうせん(15??~15??)】

和泉国堺の商人。1573年、織田信長が京の妙覚寺で堺の有力 者のために茶会を開いたとき、塩屋宗悦、津田宗及とともに招かれ、織田信長から贅を尽く した歓待を受けた。

松屋久政【まつやひさまさ(1521~1598)】

大和国奈良の商人。屋号は「松屋」。通称源三郎。奈良の手貝郷に住む裕福な塗師の家に生まれ,若き日から茶の名人を訪ね,その茶会の記録『松屋会記』を書き残した。そのなかには武野紹鴎や千利休の記事もあり、初期の茶の湯を知る貴重な史料である。松屋は村田珠光の茶風を伝承する家とされ,いわゆる松屋三名物(徐煕の鷺の絵、松屋肩衝、存星の盆)を所持することでも著名であった。子孫の松屋久好、松屋久重も茶人として活躍し、松屋の伝承を整理して松屋久重が『茶湯秘抄』『茶道四祖伝書』などの茶書を残した。

松木刑部大夫【まつきぎょうぼだいふ(15??~15??)】

甲斐国古府中の鋳造師。伊勢国に在住した松木刑部大夫が甲斐国に来て武田信虎に仕え蔵前衆となり、桂琳と称した。桂琳は野中、山下、志村家とともに極印役を務め甲州金の鋳造に従事した。1569年、善明後家から譲り受けた鋳造所を安堵された。

松木二郎三郎【まつきじろうさぶろう(15??~15??)】

松木刑部大夫の男。1577年、西郡中条の屋敷の棟別銭を免除された。甲斐国内の検断役を兼ね金座役も次第に独占した。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が討死すると、継嗣の松木紹哲とともに松平元康に仕えた。

松木宗義【まつきむねよし(15??~15??)】

駿河国駿府の商人。室は小浜民部少輔の娘。甲府商人松木一族が駿府に移住した。1561年、今川義元の京都御用の運搬にあたり蔵役、酒役、諸商売役および座方からの伝馬役を免除された。自身も京都往来も荷物三駄の諸関、渡銭を免除された。蔵役、酒役の免除は金融業を営んでいたことを示す。1568年、小笠原氏興は参府費用捻出するため松木宗義より借銭を受け田畑を売却した。今川氏真が滅亡すると武田晴信に仕え、海賊奉行の小浜民部少輔の娘を室とした。孫松木七左衛門に商人友野宗善の娘を娶るなど婚姻関係形成を行なった。

松木宗清【まつきむねきよ(15??~15??)】

松木宗義の男。室は朝比奈金遊斎芳線の娘。通称与三郎。1568年、父松木宗義の隠居により松木家の家督を相続した。1570年、武田晴信の分国領内で月に馬二疋の商売諸役とともに船一艘分の船役も免除された。武田晴信には被官同様に人質を取られた。松平元康との国境での商売について穴山信君から伴野二郎兵衛尉ら九名とともに認められたが敵方から物資を買い取る危険な取引も行なわれた。1575年、娘婿の伴野昌清らとともに駿府へ出仕した。

松永貞徳【まつながていとく(1571~1653)】

連歌師松永永種の男。松永久秀の孫。藤原惺窩や里村紹巴らに師事し、羽柴秀吉の右筆を務めた時期もあった。また古典注釈に携わり、「和句解(わくげ)」という語源研究書も著した。寛永期の歌壇を代表する貞門派俳諧の祖。

松江宗安【まつやそうあん(1586~1666)】

銭屋宗訥の男。屋号は「銭屋」。明国から、鉛白粉の安価な製造法を学び、堺で製造した。それまでの水銀原料の伊勢白粉が衰退した。また長崎の明国人を堺に招き、紗の金欄を織らせ「銭屋切れ」として販売した。

松江隆仙【まつえりゅうせん(15??~15??)】

和泉国堺の商人。1574年、織田信長が開いた相国寺の茶会に招かれた。茶の師は武野紹鷗。「砧青磁」の花入れを所蔵した。

曲直瀬正盛【まなせまさもり(1507~1594)】

山城国京都の医師。別名曲直瀬道三。洗礼名「ベルショール」。日本医学中興の祖として田代三喜、永田徳本などと並んで「医聖」と称される。堀部親真の男。1516年、五山文学の中心である京都相国寺に入って詩文や書を学ぶ。1528年、関東へ下って足利学校に学ぶ。ここで医学に興味を抱いた。名医として知られた田代三喜斎と出会い、入門して李朱医学を修めた。1546年、京都へ上ると、還俗して医業に専念。将軍足利義輝を診察し、その後京都政界を左右した細川晴元、三好長慶、松永久秀などの武将にも診療を行い、名声を得て、京都に啓迪院と称する医学校を創建した。1566年、出雲月山富田城の尼子義久を攻めていた毛利元就が在陣中に病を得た際に、これを診療し『雲陣夜話』を記した。1574年、正親町天皇に拝謁を許され診療を行い『啓迪集』を献上した。織田信長が上洛後は、織田信長の診察も行い、名香蘭奢待を下賜された。著書は『啓迪集』『薬性能毒』『百腹図説』『正心集』『指南鍼灸集』『『弁証配剤医灯』など。

曲直瀬正紹【まなせまさつぐ(15??~15??)】

曲直瀬正盛の養子。別名曲直瀬玄朔。正親町帝を診察して法眼。羽柴秀吉に仕え、後に羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して蟄居処分に処された。のちに赦免されて松平元康、松平秀忠に仕えた、医学面だけでなく茶道、香道にも通じた。著書は『玄朔道三配剤録』『医方明鑑』など。

三浦屋四郎左衛門【みうらやしろうざえもん(15??~16??)】 

武蔵国江戸の吉原名主。屋号は「三浦屋」。お抱えの遊女に高尾太夫という絶世の美女がいて、伊達綱宗に見初められて落籍されたが、金や権力になびかなかったため船中に吊るされて謀殺された。

三方家重【みかたいえしげ(15??~15??)】

三方貞政の男。別名味方但馬守。福島正則の家臣であったが、武門を捨て佐渡国に渡って山師となった。佐渡国で鉱山経営に手腕を発揮し、湧水のため操業が困難だった割間歩の稼業権を引き継いで、ヨーロッパの技術を取り入れた水貫きの坑道を掘るなど、鉱山を繁栄させて江戸幕府に多額な上納金を納めた。松平元康に謁見して「味方家重」と称した。

水野範直【みずののりなお(15??~15??)】

尾張国熱田の鋳物師。通称太郎左衛門。1562年、織田信長から尾張での熱田の鉄屋より優位な「鉄製品」特権の継続を承認される。織田信長は水野範直に対し尾張国中で鐘、塔九輪、鰐口を鋳造する権利などを認めた。

道川兵衛三郎【みちかわへいべいさぶろう(15??~15??)】

越前国敦賀の商人。屋号は「川舟屋」。越前国、若狭国、丹後国の諸浦との間で廻船に当たった敦賀の川船座の頭。1582年、敦賀の領主となった蜂屋頼隆から地子、諸役、櫂役を免除された。蜂屋頼隆の後も敦賀の領主となった大谷吉継からは、地子、諸役、舟三艘の役を免除された。1592年、羽後国から敦賀に輸送して、南部利直からは領内諸浦での舟役を免除された。1603年、佐渡奉行大久保長安から六枚櫂の船一艘の櫂役を免除され、さらに秋田藩の蔵宿を務めた。高嶋屋伝右衛門、三宅彦右衛門らとともに敦賀の街年寄となった。

道川兵二郎【みちかわへいじろう(15??~15??)】

越前国敦賀の商人。1595年、400貫の太閤板を敦賀に輸送した。1600年、大谷吉継に船を提供した。

三宅国秀【みやけくにひで(15??~1516)】

備中国連島の商人。1516年、琉球渡航のため、薩摩国坊津に十二艘の船舶を率いて停泊中に、島津家の襲撃を受けて殺害された。近世、島津家が編纂した史料によると、このとき国秀は琉球征服を企図しており、島津家は将軍に討滅の許可を得て、三宅国秀一行を皆殺しにした。1521年、備中国の兵船が坊津を焼き払うという事件が起った。

宮前賀藤【みやまえかとう(15??~15??)】

相模国小田原の商人。北条氏康に仕えた。小田原宮前下街を束ねる商人頭の地位にあり、また軍事的な任務も任されていた。1582年、武蔵国、上野国、上総国、下総国からやって来る商人たちの問屋を務める朱印状を発給を受けた。

明珍信家【みょうちんのぶいえ(1486~1564)】

相模国小田原の甲冑師。明珍義保の男。官途は左近将監。「日本最高の甲冑師」と称された。後世でも一族は、楯無や避来矢といった名立たる甲冑の修復作業に手を貸した。

明珍貞家【みょうちんさだいえ(15??~15??)】

明珍信家の男。

武蔵屋伊兵衛【むさしやいべえ(15??~15??)】

山城国京都の商人。屋号は「武蔵屋」。別名加藤数馬。島左近の血縁者。叔父にあたる人物の不始末に連座して伊達政宗のもとを致仕、京へ出て豪商に人柄を見込まれ呉服屋を始めた。1600年、「関ヶ原の役」後は、島左近の娘珠を養育した。

村田宗珠【むらたそうしゅ(15??~15??)】

大和国奈良の茶湯者。通称四郎。奈良の尊教院で村田珠光の養子となった。村田珠光の後継者として侘び茶の発展に寄与した。下京四条に市中の山居午松庵を営んだ。大休宗休、仁如集尭、青蓮院尊鎮法親王、宗長らとの交流があった。村田珠光の遺物である圜悟克勤の墨跡、投頭巾の茶入、松花茶壺を継承した。甥の村田三郎右衛門が奈良屋を称していた。

村田道庵【むらたどうあん(15??~15??)】

加賀国金沢の医師。前田利家の侍医。別名村田助六。宇喜多秀家が八丈島に流罪となると、室の豪姫から懇望されて渡島した。

村正【むらまさ(15??~15??)】

伊勢国桑名の刀工。赤坂兼村の男。別名千子村正。赤坂千手院鍛冶。美濃国、大和国、遠江国の技術を組み合わせた、実用本位の数打ちの刀工集団。

村松芳休【むらまつほうきゅう(15??~15??)】
 
伊勢国山田の笛手。1573年、笛の名人村松芳休は野田城に籠城し毎夜笛を吹き武田晴信も聞きほれていた。武田晴信が城壁近くまで出てきたところを鳥居三左衛門に狙撃された。

村山等安【むらやまとうあん(15??~1619)】

肥前国長崎の商人。洗礼名「アントン」。長崎街の代官職。朱印船貿易商。末次興善の助けを受け、当時珍重された呂宋壺の取引で財をなした。1592年、「文禄の役」の際に名護屋に在陣していた羽柴秀吉に謁見し、長崎の地子銀25貫を納めさせる代わりに、御免地以外の直轄地を預かる長崎代官に任じられた。1604年、イエズス会のジョアン・ロドリゲス神父とともに伏見で松平元康に謁見し、引き続き長崎の代官となる事を追認された。村山等安は呂宋壺の他に生糸、印子、金、鉛、水銀などの貿易を行い、島津藩や鍋島藩に融資するほどの金を蓄えた。1616年、高砂国征討のため、次男村山秋安を司令官とする13隻の船団を台湾に派遣したが、これは暴風のため失敗に終わった。

鵙屋宗庵【もずやそうあん(15??~1594)】

和泉国堺の商人。屋号は「万代屋」。鵙屋了二の男。別名満代屋宗安。室は千利休の娘。継室は万代屋於吟の娘。堺の実力者であり,村田珠光伝来の投頭巾の茶入を羽柴秀吉に献上することで千利休の助命を試みたが失敗した。好みの釜「万代屋釜」,所持の名物裂に「万代屋緞子」がある。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成へ陣中見舞いに訪れたとき、石田三成から茶器「唐来肩衝」を託された。戦後に黒田長政に「唐来肩衝」を召し上げられ松平元康に献上された。

森田三郎左衛門【もりたさぶろうざえもん(15??~15??)】

越前国三国の商人。織田信長の能登侵攻では船の手配をするなど早くから中央政権との結び付きをもっており、北庄城主であった堀秀治の米の運送や、前田利家の年貢米の輸送に深くかかわった。1608年、佐渡奉行の大久保長安から佐渡での六枚櫂の船一艘の櫂役を免除された。前田利長から加賀国、能登国、越中国諸浦での間役を免除された。

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【や】

施薬院全宗【やくいんぜんそう(1526~1599)】
 
山城国京都の医師。施薬院宗忠の男。比叡山の薬樹院に学ぶ僧で、織田信長の焼き討ち後に還俗、曲直瀬道三の門下となり医術を修めた。羽柴秀吉に仕えた筆頭侍医となった。羽柴秀吉の推挙で朝廷から施薬院使に任ぜられ施薬院と称した。石高1,200石を領して比叡山復興に尽力した。1592年、「文禄の役」の際しては、羽柴秀吉に従い名護屋城に参陣した。

施薬院秀隆【やくいんひでたか(15??~15??)】

施薬院全宗の男。羽柴秀吉に仕えた。1588年、後陽成天皇が聚楽第に行幸の時に騎馬にて供奉し、和歌御会列席した。父施薬院全宗に先立ち病没した。

施薬院宗伯【やくいんそうはく(1576~1663)】 

三雲資隆の男(施薬院全宗の養子)。一鴎宗虎の養育されて医業を学び薬の知識を習得した。施薬院全宗の継嗣施薬院秀隆が病没したため、養子となり施薬院家の家督と相続した。羽柴秀吉の侍医を務めた。1599年、養父施薬院全宗が病没すると、勅許により施薬院使に任じられ御所昇殿を許された。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康の従医師として参陣した。

安井道頓【やすいどうとん(1533~1615)】

摂津国大坂の商人。通称市右衛門。別名安井成安。1582年、羽柴秀吉から大坂城の外壕を掘削と猫間川河岸整備を行った功により城南の地を領した。1612年、城南の開発を開発するため、私財を投じて城南地域中心部の水路を掘削を開始した。1615年、「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢に属して討死した。水路の掘削は、松平忠明の許可を受けて安井道頓の従兄弟の安井道卜や平野郷の平野藤次(安藤藤次)らが引き継ぎ完成させた。

安井算哲【やすいさんてつ(1590~1652)】

武蔵国江戸の囲碁棋士。安井宗順の次男。通称六蔵。本因坊算砂、中村道碩らとともに松平元康から俸録を受けた。安井宗順に碁を学んだ算砂の弟子。1600年、松平元康に仕えて30石を領して、駿府国で碁の相手を務めたり、本因坊算砂、林利玄らとともに碁会などに招かれていた。1614年、「大坂冬の陣」では、叔父安井道頓が羽柴秀頼勢に属したが父安井宗順、叔父安井定吉を松平元康に引き会わせ、松平元康に推挙した。門下の安井算知を養子として家督を譲った。

簗田藤左衛門【やなだとうざえもん(15??~1620)】

岩代国会津の商人。芦名家の庇護を受けた特権商人。会津地方の商人頭に任じられ、特産品の独占販売を許可される一方で、他国商人の統制や徴税の請負などに活躍した。他方では盗賊や山賊から商人を保護した。芦名家に変わって伊達政宗、蒲生氏郷が会津を領した後も特権は認められ、地位を守った。市場取引だけではなく、関所の通行許可証の発行、商人に対する検察司法権などの特権を与えた。

山口越後守【やまぐちえちごのかみ(15??~15??)】

相模国金沢の商人。交易商人で江戸湾水運に深く関与した。1575年、里見義堯から「海中往行」の安全を保障された。1580年、正木頼忠から正木家領内の津への自由乗り入れを認められ、里見義弘の分国中すべての津における「商売之船」の乗り入れの際の諸役免除特権を得た。北条氏政からも同様の権利を認められ、複数の勢力に属しながら江戸湾、房総方面で活躍した。

山崎秀仙【やまざきひでのり(15??~1578)】

越後国春日山の儒学者。別名「柳斎」。もとは佐竹義重に仕えたが、長尾景虎の招かれた。長尾景虎に中国思想家、賢人について講義を行った他、取次役なども務めた。1578年、「御館の乱」では、長尾景勝勢に属した、乱後の論功行賞で寝返り組への恩賞授与に反対、これに怒った毛利秀広に、春日山城内で直江信綱とともに謀殺された。

山崎闇斎【やまざきあんさい(15??~15??)】
 
山城国京都の儒者者。朱子学者、神道家、思想家、京で生まれ幼くして比叡山に入り僧となった。後に土佐国の寺に移り朱子学に傾倒して還俗、儒者となった。その後、保科正之に仕え助言を行った。提唱した朱子学を闇斎学、神道説を垂加神道と称した。

山田右衛門作【やまだうえもんさく(1575~1657)】 

肥前国有馬の南蛮絵師。洗礼名「リノ」。室は会津宗印の娘。宣教師から南蛮画法を学び、基督教に入信した。南蛮絵師として有馬直純、松倉重政、松倉勝家に仕えていた。禁教令が出てから棄教して帰農していた。1638年、「島原の乱」に参陣し陣中旗を描いた、乱後も生き残った数少ない人物。

山田二郎左衛門【やまだじろうさえもん(15??~15??)】

相模国の鋳物師。1534年、河内国狭山から移り北条氏綱に仕えた。1559年、2貫500文を領した。1569年、北条氏康から鋳物師商売の虎朱印状を受け分国内での鋳物販売の許可を得た。1586年、北条氏直から鋳物師の棟梁に任じられた。1589年、北条氏直は職人頭の須藤惣左衛門尉に「廿挺」の「大筒」製造の命を出し、この二十挺の内の二挺が「棟梁 山田二郎左衛門」の分担となった。

山上宗二【やまのうえそうじ(1544~1590)】
 
和泉国堺の商人。屋号は「薩摩屋」。千利休に茶を学んだ、歯に衣をきせぬ厳しい批評眼をもち、憎まれるところも多かった。織田信長、羽柴秀吉に茶堂として仕えた。羽柴秀長を招いての茶会を開いた。羽柴秀吉から追放され、北条氏直に仕えた。この間に『山上宗二記』と題される茶の湯伝書を著した。同書は千利休時代の茶の湯をみる根本史料となっている。1589年、「小田原の役」では、千利休の介添えで羽柴秀吉のもとに一度は帰参したが、まもなく処刑された。

山中源三郎【やまなかげんざぶろう(15??~15??)】

駿河国大岡の問屋商人。1534年、駿河国沼津宿の問屋衆を統率した。1568年、今川氏真から海上交易者からの役銭徴収権を認められた。

山本伊勢【やまもといせ(15??~15??)】

岩代国郡山の商人。1588年、「郡山城の戦い」では、伊達政宗の意向を受け佐竹義重勢4,000余りの包囲を受けた郡山城に兵糧弾薬を送り込んだ。山本伊勢は物資を運び込むことに成功し、恩賞として伊達政宗領内の通行料免除を特権を得た。

余語孫左衛門【よごまござえもん(15??~15??)】

美濃国稲葉山の風呂屋。1571年、山科言継を接待し自邸にて宿泊させた。

吉川盛済【きっかわもりずみ(15??~15??)】

駿河国の商人問屋。今川義元の御用商人。

吉川信義【よしかわのぶよし(15??~1608)】

甲斐国古府中の商人。秤座役人。通称彦太郎。父吉川盛済は今川義元に仕え、その後武田晴信に仕えた。1574年、武田晴信から守隋、鈴木清三郎、鈴木与治郎、長坂善九郎とともに秤の製造、販売の許可を受けた。1582年、武田勝頼の討死後は松平元康に仕え、秤製造に独占権を獲得した。

吉川三左衛門【よしかわさんざえもん(15??~15??)】

近江国長浜の商人。長浜十人衆、長浜三年寄。羽柴秀吉の意向を受け長浜城下街として整備することに尽力した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

吉川惣兵衛【よしかわそうべい(15??~15??)】

近江国国友の鉄炮鍛冶。1604年、直江兼続に仕え200石を領した。会津における鉄炮の製造は、吾妻山白布で行われた。直江兼続は射撃に長けたものに加増を行い、予定以上の鉄炮製造を行えば、褒美を賜ることが出来た。吉川惣兵衛は年間72挺の鉄炮製造が義務付けられた。これに部下を加えると、年間200挺余りの鉄炮製造した。1605年、500挺余りの鉄炮を製造した。

吉田光由【よしだみつよし(1598~1673)】

山城国京都の和算家。角倉了以は外祖父。はじめ和算家毛利重能に師事したが、後に角倉素庵のもとで中国の数学書『算法統宗』の研究行なった。1628年、著書の『塵劫記』を出版した。同書は絵を多用し基礎から応用まで容易に学習出来るように書かれた数学入門の模範と評価された。

吉和義兼【よしわよしかね(15??~15??)】

山陽地方の商人。吉和義春の男。通称は孫左衛門。室は山中幸盛の娘。吉和義兼は魚などを商い、草津城主児玉就方からは譜代衆並みに優遇された。1579年、児玉就方が仲人となり、吉和義兼と山中幸盛の娘の盛江と結婚した。吉和義兼は、醸造業などを営むなどして分限者となった。盛江との間に長男の彌右衛門常祐(範信)と次男の孫兵衛(鴻池家始祖山中幸元)を儲けた。

淀屋常安【よどやじょうあん(1560~1622)】

摂津国大坂の商人。屋号は「淀屋」。通称を三郎右衛門。長子(養子)喜入善右衛門は、常安町家、斉藤町家の家祖。次子(実子)常有五郎左衛門は、大川町家の家祖となった。山城国岡本荘の武家の出身だったが、織田信長に討たれ商人を目指すようになった。常安請地として中之島の開拓を手掛けた。大坂三郷(北組、南組、天満組)のうち北組の惣年寄を担った。1614年、「大坂冬の役」では、松平元康勢に属した。

淀屋言當【よどやげんとう(1576~1644)】

淀屋五郎右衛門の男(淀屋箇斎の養子)。通称を三郎右衛門。十三人街の街年寄を務めた。

淀屋箇斎【よどやかさい(1606~1648)】

淀屋五郎右衛門の次男。淀屋言當の弟。

楽常慶【らくじょうけい(1561~1635)】

山城国京都の陶芸家。田中宗慶の次男。楽吉左衛門家。長次郎の存命中から父や兄宗昧とともに楽焼製作に関わっていた。千利休が羽柴秀吉と対立して自刃に追い込まれたため、利休に一番関わりの薄かった常慶が当主となった。慶長年間以後に本格的に作陶を開始。

呂宋助左衛門【るそんすけざえもん(1565~15??)】

和泉国堺の商人。別名納屋助左衛門。納屋才助の男。呂宋に渡海し、貿易商を営むことで巨万の富を得た。1594年、羽柴秀吉に対して蝋燭、麝香、真壺、呂宋壺、唐傘、香料など珍品を献上し、羽柴秀吉の保護を得て日本でも豪商として活躍した。1598年、華美な生活を好んだため、石田三成ら文治派の讒言によって、羽柴秀吉から身分をわきまえずに贅を尽くしすぎるとして邸宅没収の処分を受けることになるが、事前に察知してその壮麗な邸宅や財産を菩提寺の大安寺に寄進して日本人街のある呂宋へ脱出した。1607年、西班牙が柬埔寨に介入した後に呂宋から柬埔寨に渡海し、そこで柬埔寨国王の信任を得て、再び豪商となった。

和田勝正【わだかつまさ(15??~15??)】 

近江国日野の鉄炮鍛治屋。通称治太夫。日野年寄衆。日野の鉄炮鍛冶は二流をあり、和田家は代々治太夫の名を称した。

和田六右衛門【わだろくえもん(15??~15??)】

越後国大崎の商人。1575年、長尾景虎から大崎郷の問屋に定められた。長尾景虎は国内の流通、都市統制の強化を行い各地域に和田六右衛門のような伝馬宿などを管理する商人に統制を行なった。

渡辺三郎五郎【わたなべさぶろうごろう(15??~15??)】

薩摩国坊津宮一丸の船頭。1574年、島津義久から琉球渡海朱印状を発給された。

渡辺小左衛門【わたなべしょうざえもん(15??~1637)】 

肥前国島原の庄屋。益田甚兵衛の妹婿。天草時貞の叔父。1637年、「島原の乱」後、松平家光勢に捕縛され、原城落城後に斬頸に処せられた。

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【資料Ⅰ】

調査中。

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【資料Ⅱ】

伊勢山越商人【いせさんえつしょうにん】

伊勢山越商人は、保内商人、蒲生郡石塔商人、神崎郡小幡商人、愛知郡沓掛商人で編成され、四本商人といわれたが、四本の内部では対立が継起していた。室町時代末期、保内商人は琵琶湖の東の小幡、八坂、薩摩、田中江、湖西の五ヵ所のいわゆる五ヶ商人を相手に、湖西の今津から若狭小浜に至る九里半街道の商品搬送をめぐって訴論を繰り返した。

会合衆【えごうしゅう】

室町時代から安土桃山時代の都市で自治の指導的役割を果たした評定組織またはその組織の構成員。山田(伊勢)、大湊(伊勢)、博多、酒田などの都市にも類似した組織が見られた。堺の有力商人で構成され、能登屋や臙脂屋などの有力商人がその任にあたった。会合衆の数は36人とされるが、文明年間は10人。また、納屋衆として10人が訴訟を評定した。堺は摂津の堺荘と和泉の堺南荘に分かれていたが、会合衆が集まる会所それぞれにあった。

寛永の三筆【かんえいのさんぴつ】

松花堂昭乗、近衛信尹、松花堂昭乗。

京の三大長者【きょうのさんだいちょうじゃ】

角倉了以、茶屋四郎次郎、後藤庄三郎の三家。「茶屋のべべ着て、後藤の駕籠で、花の咲いたる嵐山、角倉船に乗りながら、主と一緒に見てみたい」と称された。

金座【きんざ】

貨幣の鋳造、鑑定、検印および銀地金の買売を担った場所に与えられた呼称。羽柴秀吉は銀貨の統一に向けて堺、京都の銀吹屋20人を集め大坂に常是座を設けた。両替商兼銀細工師である銀屋が各地で極印銀を鋳造し、銀座はこうした業者から成立した。1595年、松平元康は京都の金匠後藤光次に命じ武蔵国江戸で小判を鋳造させた。松平元康が将軍職に就くと、勘定奉行の支配下に置かれた。

御用商人【ごようしょうにん】

諸侯の庇護のもとに、各種の御用及びそれに関連する物資等の調達に携わる代わりに、様々な特権が与えられた商人。御用達、御用聞きなどによって構成された。

商人司【しょうにんつかさ】

諸将の領国内あるいは城下街において諸商人の統率、他国からの行商人の取締、各種商業課税の徴収代行、定期市などの市場の開催、興行を行った特権商人。中には街道筋や城下街の警備など軍事的要素を持つ武装商人も多かった。

博多の三傑【はかたのさんけつ】

島井宗室、神屋宗湛、大賀宗九。

八家九艘【はっけくうそう】

茶屋四郎次郎(京)、角倉了以(京)、伏見屋(京)、伊予屋(堺)、船本(長崎)、荒木(長崎)、糸屋(長崎)、末次(長崎)二艘。※1592年、羽柴秀吉に貿易の朱印状発行された。

長浜三年寄【ながはまさんどしより】

羽柴秀吉の命を受け長浜城下街を整備した町人衆のうち、組を代表する町年寄の十家が長浜十人衆と呼ばれており、そのうち更に有力であった三家のことである。十人衆に選ばれ、本町の宮部、西村、下村、田辺、呉服町の安藤、大手街の樋口、大依、川崎、魚屋街の今村、舟街の吉川家だった。三年寄は、舟街の吉川三左衛門家、本街の下村藤右衛門家、呉服街の安藤九郎右衛門家であった。

刀工の流派【とうこうのりゅうは】

山城国(三条派、平安城派、鞍馬派)、伊勢国(村正と千子派)、美濃国(兼定派、孫六派)、駿河国(島田派)、相模国(相州伝:綱広)、武蔵国(下原鍛冶)、若狭国(小浜派)、加賀国(藤島派)、備前国(長船派:勝光、宗光)、備後国(三原派、法華系、長房派)、伯耆国(広賀派)、土佐国(吉光派)、阿波国(海部派)、豊前国(宇佐信国派)、豊後国(高田派、筑紫了戒派)、肥後国(銅田貫派)、薩摩国(末波平)。

両替商【りょうがえしょう】

両替および金融を主な業務とする商店あるいは商人。両替商は室町時代に確立し、小判、丁銀および銭貨を手数料を取って交換、売買すなわち両替した商店から始まった。

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【資料Ⅲ】

安濃津【あののつ】

伊勢国安濃郡に位置した、日本の古代に栄えた湊名。安濃津は京に近く、平安時代から京の重要な湊東国への玄関口として重要な位置を占めた。琵琶湖畔の大津に対し、安濃津は単に港を表す普通名詞の「津」の名称で呼ばれた。また、伊勢神宮による御厨も営まれた。以後主要湊として繁栄を続けた。1498年、「明応の大地震」津波で壊滅的な被害を受けて廃れた。

博多津【はかたつ】

和泉国の堺が足利義満、細川高国らの日明貿易の拠点として台頭すると、博多商人や大内義興と利害が衝突するようになった。1523年、「寧波の乱」では、日明貿易の利権を巡って大内義興と細川高国が争った。1536年、大内義隆が遣明船を再開した。大内義隆は博多祇園山笠の舁き山12本のうち六本を周防国山口に分け移した。1551年、大内義隆が家臣陶晴賢の謀反で追われ自刃したのち、博多の街は大友義鎮により統治された。1551年、筑紫惟門が大友義鎮に反旗を翻して博多を襲撃し10,000軒が焼失した。1569年、毛利元就に懐柔された立花鑑載によって再び焼失した。博多は九州で最も富裕な街であったと言われる。有力商人を中心として自治が行われ「年寄」と称される役職が自治運営をした。

坊津【ぼうのつ】

薩摩国川辺郡坊津は外国貿易の中継地として栄えた湊名。古代から長期に渡って、海上交通上の要地であった。遣唐使船の寄港地としての他、倭寇や遣明船、薩摩藩の密貿易の拠点として栄えた。中国明代の文書『武備志』では主要港として、安濃津、博多津とともに日本三津(さんしん)と称された。室町時代、倭寇や遣明船の寄港地となり、大陸をはじめ、琉球や南方諸国とも貿易が活発化した。この頃、先の一乗院も大いに栄えるようになる。また、島津家の中国(明)琉球貿易の根拠地となった。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献の出展図書を示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『戦国人名事典』by新人物往来社、『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『ビジュアル戦国1000人』by世界文化社。フリー百科事典:「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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