2012年1月10日火曜日

戦国南紀伊国人名辞典

------------------------------------------------------

【あ】

愛洲久忠【あいすひさただ(1452~1538)】

愛洲忠行の男。官途は日向守。通称太郎左衛門尉。別名愛洲移香斎。熊野海賊衆の将。「剣聖」上泉信綱の師匠。日向国鵜戸神宮に参籠したところ、霊夢を得て奥義を悟り剣法愛州陰流を創始した。嫡男愛洲宗通とともに、剣聖上泉信綱の師として知られる。諸国を武者修行し、晩年は再び日向を訪れ鵜戸明神の神職となった。

愛州宗通【あいすみねみち(1519~1590)】

愛洲久忠の男。官途は美作守。通称小七郎。別名愛洲元香斎。1564年、佐竹義重に陰流の奥義を伝授、これより父愛洲移香斎とともに常陸久慈郡太田城にあった佐竹義重のもとへ、剣術師範として出仕した。晩年は常陸那珂郡平沢村に所領を賜り平沢と称した。

愛洲綱俊【あいすとなとし(15??~15??)】

畠山高政家臣。熊野衆のひとり。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻した。三好勢との「教興寺の戦い」に参陣した。

紀伊安宅実俊【あたけさねとし(15??~1526)】

牟婁郡安宅本城。安宅直俊の男。官途は大炊頭。1507年、龍松山城に籠る山本康忠を再び攻めた。1508年、山本康忠の領地であった生馬の地頭職に任じられた。宗教的に絶大な権力を握っていた那智山実方院主の娘を室に迎えて安宅家の勢いは一層強大なものとなった。1526年、安宅実俊が病没し嫡男安宅安定が幼少だったことから、安宅家の家督はその弟安宅定俊が陣代となった。

紀伊安宅安定【あたけやすさだ(15??~15??)】

安宅実俊の男。1526年、父安宅実俊が病没し、嫡男の安宅安定が幼少だったことから、安宅家の家督は安宅安定が十六歳になったら譲るという条件で叔父安宅定俊が陣代となった。安宅安定が十六歳になったにもかかわらず、安宅定俊は家督を譲らず、叔父と甥との家督争いに発展し「安宅の乱」が勃発した。安宅安定を擁立する三木大八、三木新八、小笠原右近太夫、矢田千次郎、三好平左衛門、木下七九郎、小山石見守幸惶ら兵600余りは安宅本城に籠城、安宅定俊を擁立する一派と対立した。乱は、結局叔父安宅定俊が敗れ安宅安定が安宅家の家督を継いだが、この乱における兵力の消耗によって没落した。

紀伊安宅光定【あたけみつさだ(15??~1562)】

安宅実俊の次男。1562年、畠山高政は六角義賢と結んで河内国に進出して三好長慶と戦った。1562年「久米田の戦い」に勝利した畠山勢は、三好長慶の立て籠る飯盛城に攻め寄せた。三好勢の反撃によって畠山高政は河内高屋城に退き、三好方の謀略で畠山高政は兵を撤収した。畠山高政に従って河内国教興寺にあった紀伊勢は退陣が遅れ、三好軍の追撃を受けた。紀伊勢は教興寺あたりで三好勢と激戦を展開したものの、安宅光定、湯川直光、龍神正房、貴志光宗、目良高湛らの諸将、根来衆らが討死をとげた。

紀伊安宅定俊【あたけさだとし(15??~15??)】

牟婁郡勝山城主。官途は次部太夫。1526年、兄安宅実俊の病没すると、安宅安定が十六歳に成るまで安宅家の陣代になった。しかし甥の安宅安定
が十六歳になっても家督を譲らず「安宅の乱」が勃発した。乱は安宅定俊の敗北に終わった。

紀伊安宅家臣団【あたけけかしんだん】

大野城主:大野五兵衛、吉田春秀、要害山城:北金右衛門、福田良左衛門、安居城主:並木下野守、三木大八、三木新八、小笠原右近太夫、矢田千次郎、三好平左衛門、木下七九郎、小山石見守幸惶。

熊野有馬忠親【ありまただちか(15??~15??)】

牟婁郡鬼ヶ城主。有馬忠親は嫡男を得られなかったため、甥有馬忠吉に有馬家の家督を相続させた。1523年、城本城を築き隠居した。隠居後に実子が生まれたため、有馬忠親は有馬忠吉を久生屋で自刃させた。有馬忠吉の親族は有馬忠親を鬼ヶ城本城に攻め敗れた有馬忠親は自刃した。

熊野有馬忠吉【ありまただよし(15??~15??)】

有馬忠親の養子。官途は河内守。有馬家の家督を相続したが、養父有馬忠親に嫡男有馬孫三郎が誕生したため、養父有馬忠親と争い自刃した。

熊野有馬孫三郎【ありままごさぶろう(15??~1550)】

有馬忠親の男。有馬孫三郎が有馬家の家督を相続したが、有馬家の勢力は大きく後退させた。堀内氏虎の次男。新宮を本拠とする堀内氏虎が勢力を拡大しつつあり、有馬家も堀内氏虎の攻勢を受けていた。堀内氏虎は有馬孫三郎の死後の有馬家の内紛に付け込んで、を堀内(有馬)氏善を養子に送り込んだ。以後、有馬家は堀内家と行動をともにした。堀内氏虎が病没すると堀内氏善が新宮城に復帰して堀内家の家督を相続したため、有馬家は断絶となった。

熊野有馬家臣団【ありまけかしんだん】

賀田城主:榎本具行、岩本城主:有馬和泉守忠重、丹倉城主:近藤兵衛門。

色川盛明【いろかわもりあき(15??~15??)】

牟婁郡鎌ヶ峯城主。色川家は桓武平家の流れを汲み、紀伊国色川郷を領した清水盛氏を祖とする。

色川盛直【いろかわもりなお(15??~15??)】

色川盛明の男。通称兵部。1562年「教興寺の戦い」において堀内氏虎や玉置直和らと共に畠山高政に属して戦うが敗れた。熊野地方では堀内氏虎が最大の勢力を誇っており、色川盛直は周辺土豪や熊野三山の僧兵たちと同盟を結んで堀内氏善に対抗した。1574年、堀内氏善が鎌ヶ峯城を攻めるがこれを撃退した。1578年、色川郷出身で勝山城の汐崎重盛と結び、高河原貞盛の援軍を得て堀内氏善の軍勢を退けた。1579年、再度攻められて勝山城は落城、汐崎重盛は討死した。色川盛直は鳴滝城で一進一退の攻防を続けた。堀内氏善が羽柴秀吉の「紀州征伐」で降るまで屈することはなかった。1588年、羽柴秀吉が天下統一を果たすと色川盛直は堀内氏善と和睦して、堀内家の麾下に属した。1592年「文禄の役」では色川盛直は老齢という理由から参陣せず、枝連衆の色川三九郎が参陣した。

色川盛正【いろかわもりまさ(15??~15??)】

色川盛直の男。1600年、西軍に属した堀内氏善が改易されると、色川盛正は紀州藩付家老の新宮城主水野重央に仕えた。

色川家臣団【いろかわけかしんだん】

調査中。

内ノ川平兵衛【うちのかわへいべい(15??~15??)】

牟婁郡鴻巣城主。山本家臣。1534年、鴻巣城は畠山稙長の攻撃を受けたが、山本主膳守の援軍を得て畠山勢の撃退に成功した。

------------------------------------------------------

【か】

加藤甚五郎【かとうじんごろう(15??~15??)】

北牟婁郡長島城主。加藤甚左衛門の男。

加藤甚之丞【かとうじんのじょう(1522~1576)】

加藤甚五郎の男。1575年、織田信雄に仕えた。1576年、北紀伊国に及んでいた新宮の堀内氏善の勢力を駆逐しようと、織田信雄は加藤甚五郎、奥村家に命じ、一時は堀内方の三木城を攻め落としたが奥村家が堀内家に寝返った為に敗れ加藤甚五郎は長島城に戻った。奥村家は長島城の風上より火を放ちそれが城に及んで加藤甚五郎は城腰山麓で自刃し落城した。

貴志光宗【きしむねみつ(15??~1562)】

保田城主。湯川衆のひとり。1562年、畠山高政は六角義賢と結んで河内国に進出して三好長慶と戦った。1562年「久米田の戦い」に勝利した畠山勢は、三好長慶の立て籠る飯盛城に攻め寄せた。三好勢の反撃によって畠山高政は河内高屋城に退き、三好方の謀略で畠山高政は兵を撤収した。畠山高政に従って河内国教興寺にあった紀伊勢は退陣が遅れ、三好軍の追撃を受けた。紀伊勢は教興寺あたりで三好勢と激戦を展開したものの、貴志光宗、湯川直光、龍神正房、安宅光定、目良高湛らの諸将、根来衆らが討死をとげた。その後も貴志光宗は保田城に拠って勢力を維持したが、羽柴秀吉の「紀州征伐」に抵抗して没落した。

小山隆光【こやましげみつ(15??~15??)】

湯川衆。官途は石見守。1520年、野辺六郎左衛門が畠山尚順に背いたときの「切目坂の戦い」。1530年、安宅家の家督相続に端を発した「安宅の戦い」などに参陣した。

小山実隆【こやましげたか(15??~15??)】

小山隆光の男。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻した。三好勢との「教興寺の戦い」に参陣した。

小山隆重【こやまたかしげ(15??~1615)】

小山実隆の男。官途は式部大輔。通称助之丞。織田信長に仕え、羽柴秀長の家臣となり「小田原の役」「慶長の役」に参陣した。1600年「関ヶ原の役」で西軍についたため改易となった。1614年「大坂の陣」が起こると大坂に入城し討死した。

小山家臣団【こやまけかしんだん】

小山新十郎、小山四郎左衛門。

------------------------------------------------------

【さ】

崎山家正【さきやまいえまさ(15??~15??)】

日高郡鞍賀多和城主。官途は飛騨守。1522年、阿波国の三好義長が紀伊国守護職畠山高国の留守を狙い侵攻した。鞍賀多和城は落城、崎山家正は敗走するが、翌月紀伊国に帰還した畠山高国が湯川政春と共に攻撃し、三好勢は阿波国へ退却した。

汐崎重盛【しおざきしげもり(15??~1581)】

牟婁郡勝山城主。別名廊ノ坊重盛。熊野詣は「熊野三山」の神社を巡礼者から得られる経済力によって汐崎家は周辺に大きな勢力を持っていた。その権利を巡って熊野三山の神社のひとつである熊野新宮司の堀内家と汐崎家が対立した。 1578年、堀内氏善が侵攻、汐崎重盛は虎城山城主高川原摂津守などの援軍を得て撃退した。堀内氏善は那智山の東座、実法院と姻戚関係を結び、加勢を得た。1581年、汐崎重盛は新宮の堀内氏善、実報院道勢の連合軍と戦って敗れたれ、清水浄春坊等の追撃を受け討死した。

椎橋権左衛門【しいはしごんざえもん(15??~15??)】

堀内家臣。1582年「佐部城の戦い」で新宮の堀内安房守氏が口熊野を侵略しようとしましたが、高川原摂津守貞盛、小山新左衛門は、安宅家、目良家と連合して佐部城を攻めました。芳養善五郎等が奮戦したが苦戦を強いられた。浅利平八が鉄砲六匁玉を使って、城将の椎橋権左衛門を討取り勝利した。

新宮行栄【しんぐうゆきえい(15??~1591)】

新宮家は源為義の娘、丹鶴姫の弟の義盛が後に行家を名乗り、新宮に来て屋敷を構え新宮を称した。新宮家は始め下熊野に行家屋敷を構えていたが、新宮行栄の時口山際に移した。 新宮行栄は後に堀内氏善との戦いに破れ衰退した。

新宮行朝【しんぐうゆきとも(15??~15??)】

堀内氏善の六男。官途は若狭守。別名堀内氏弘。「紀州討伐」後羽柴秀吉の麾下に属した。1600年「関ヶ原の役」では西軍に属して改易、没落した。浅野幸長が紀伊国和歌山城主に封ぜられると、新宮行朝は500石で召し抱えられたが、待遇に不満をおぼえて出奔した。1614年「大坂冬の陣」では、旧領回復のため兵300余り率いて大野治房の寄騎衆となり、さらに伊東長次の部隊に属した。1615年「大坂夏の陣」の「天王寺、岡山の戦い」などで大いに活躍し、紀州一揆を煽動することによって旧主浅野家を混乱させた。大坂城が落城すると一旦逃れたものの、大和国で松倉重政勢に捕縛された。

周参見氏長【すさみうじなが(15??~15??)】

牟婁郡周参見城主。熊野衆のひとり。1562年「教興寺の戦い」で周参見氏長は畠山高政に属して三好長慶と戦うが敗れた。のちに羽柴秀長に仕えて牟婁郡1,700石を領した。1600年「関ヶ原の役」では西軍に加担、没落した。

曽根弾正【そねだんじょう(15??~15??)】

牟婁郡曽根館主。曽根家は近江国六角家の庶家で、曽根、賀田、古江、梶賀の四郷の村民は盗賊や海賊から村を守って欲しいとの願いを六角家に嘆願し枝連衆である佐々木宇右衛門正吉が一族郎党を率いて曽根に住み、曽根、賀田、古江、梶賀、須野、甫母、二木島浦、二木島里の八村を領して曽根家を称した。曽根弾正はじめ伊勢国司北畠家に属していたが、北畠家が織田信長によって滅ぼされると、曽根弾正と嫡男曽根孫太郎は新宮を拠点に勢力を拡げていた堀内氏善に従って三木城を攻めた。1502年「慶長の役」では堀内氏善に従って、曽根孫太郎の嫡男曽根新吉が曽根弾正と称して参陣したが討死した。家督は次男の曽根久三郎が継いだ。1600年「関ヶ原の役」では主家堀内氏善は西軍に属して改易となり、曽根家も没落した。

------------------------------------------------------

【た】

高河原元盛【たかがはらもともり(15??~15??)】

牟婁郡虎城山城主。

高河原貞盛【たかがはらさだもり(15??~15??)】

高河原元盛の男。官途は摂津守。父高河原元盛の病没により家督を相続した。北畠具教の麾下の属し紀伊熊野地方で勢力があった堀内氏虎と争った1571年、堀内氏虎に攻められ、小山隆友ら近隣領主に援軍を頼んでこれを破り、堀内方の要衝であった佐部城を奪取した。1576年、北畠具教が織田信長によって滅ぼされると織田家に仕えた。滝川一益の麾下で「有岡城の戦い」で戦功を挙げた。1579年、摂津国武庫郡守部村を拝領、よって次男高河原庄兵衛有盛、高河原助右衛門右京を摂津に派遣した。堀内氏善が勝山城に侵攻し、色川盛直の援軍として駆けつけて撃退に成功した。

高河原家盛【たかがはらいえもり(15??~15??)】

高河原貞盛の男。官途は帯刀。1571年、堀内氏虎に攻められ、父高河原貞盛に従って参陣した。小山隆友ら近隣領主に援軍もあり、これを討ち破って堀内方の要衝であった佐部城を攻略した。1585年、紀伊、大和国を治めた羽柴秀長に仕えた。1592年「文禄の役」に堀内氏善の麾下として参陣して戦功を挙げた。1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属して改易となった。浅野家が紀伊国に転封されて来ると嫡子高河原喬盛と共に仕えた。

高河原有盛【たかがはらありもり(15??~15??)】

高河原貞盛の次男。通称庄兵衛。

高河原喬盛【たかがはらたかもり(15??~15??)】

高河原家盛の男。通称甚右衛門。1600年「関ヶ原の役」に父高河原家盛に従って西軍に属して戦い家は改易となって浪人となる。役後、紀伊国に浅野幸長が封じられると父高河原家盛と共に仕えた。1615年「大坂夏の陣」では亀田高綱配下で参陣し泉州樫井村にて高河原喬盛の家臣上野金右衛門が大坂方の将淡輪六郎兵衛重政を討取った。1619年、福島正則の改易に伴い、浅野長晟が広島城に移封されるとこれに同行し1,500石を領した。のちに弟の高河原定盛を残して、摂津国守部庄にて土着した。高河原定盛の家はこの後、高瓦を称して塩田奉行を務めた。高河原喬盛の病没後、家督は嫡子高河原唯盛が継いだ。

玉置直和【たまきなおかず(15??~15??)】

日高郡手取城主。玉置盛辰の男。官位は兵部大輔。室は湯川直春の娘。玉置家は紀伊国日高地方に勢力を持ち手取城を居城した。玉置直和は紀南において勢力があった湯川直春の娘を室に迎え勢力を拡大した。1562年「教興寺の戦い」では湯川直光、鈴木重意らと共に畠山高政に属して戦うが敗北した。織田信長に属して10,000石を領した。1585年、羽柴秀吉の「紀州征伐」で恭順の姿勢を示したが叛意と判断した湯川直春に攻められて居城を失った。羽柴秀長に仕えるが減封を不満を持ち、家督を玉置永直に譲って高野山に出家した。

玉置永直【たまきながなお(15??~15??)】

玉置直和の男。通称小平太。1585年、羽柴秀吉の「紀州征伐」において恭順の姿勢を取ったが近隣の土豪に居城を奪われて所領を削られる。その後、紀伊、大和国を領した羽柴秀長に仕えて3,500石を領した。1600年「関ヶ原の役」では西軍に属したため改易、没落した。1615年「大坂の役」において羽柴方として大坂城に入るが敗北。後に松平家に仕えた。

玉置直俊【たまきなおとし(15??~15??)】

玉置直和の次男。官途は図書頭。

玉置家四天王【たまきけしてんのう(15??~15??)】

平ヶ城主:小川与市、久保、松本館主:松本、鏡ヶ城主:古久保。

津村信秀【つむらのぶひで(15??~1585)】

日高郡八千貫城主。官途は式部大輔。湯川家四天王のひとり。1585年、津村信秀は湯川直春に従って大和郡山城へ赴き病没した。

------------------------------------------------------

【な】

野長瀬盛秀【のながせもりひで(15??~15??)】

熊野衆のひとり。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻。三好勢との「教興寺の戦い」に参陣した。

野辺光快【のべみつよし(15??~15??)】

日高郡平須賀城主。湯川衆のひとり。亀山城主湯川家に臣従した。紀伊国の諸豪は畠山家のお家騒動に巻き込まれ、畠山尚順方と畠山義英方に分かれて抗争を繰り返していた。1513年、西小山氏と山本権之丞による「蛇喰城の戦い」。1517年「鳶之巣城の戦い」「塩屋田中の戦い」などに参陣した。1520年、野辺光快は湯川政春とともに守護畠山家に反目して高田城に籠城した。

野辺光房【のべみつふさ(15??~1562)】

野辺光快の男。官途は弾正忠。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻した。三好勢との「教興寺の戦い」に参陣した。野辺光房は湯浅直春に従って河内国に出陣して若江城で討死した。

野辺春弘【のべはるひろ(15??~1582)】

野辺光房の男。1562年、父野辺光房の討死により野辺家の家督を相続した。平須賀城を廃し要害城を築いて居城を移した。野辺春弘は、湯川直春の猶子となった。1582年「天正の兵乱」において野辺春弘は討死した。

野辺春和【のべはるかず(15??~15??)】

野辺光房の次男。1582年、兄野辺春弘の討死により野辺家の家督を相続した。1582年、南部庄の領民らが野辺春和に反逆の企てがあると湯川直春に讒訴、これを信じた湯川直春は激怒して芳養泊城の軍勢で平主城を取り囲んだ。野辺春和は枝連衆の大野八郎右衛門らが防戦に力めたが、湯川勢の大軍にかなわず開城した。野辺春和は嫡子野辺弥一郎、大野八郎右衛門らとともに越中に落延びた。以後、失地回復に努めたが、それもならず野辺春和は病没した。

------------------------------------------------------

【は】

堀内氏虎【ほりのうちうじとら(15??~15??)】

牟婁郡新宮城主。熊野三山は別当職が全山を統轄したが、戦国時代には新屋、芝、宮崎、滝本、矢倉、中曽、蓑島の七家が、七人上綱として三山を治めていた。なかでも新宮十郎の後裔新屋家は、およそ10,000石を領して最も勢力があった。熊野の支配を目論む堀内氏虎は、七人上綱との平和維持を保ちながら、着々と地歩を固めていった。熊野別当職に任じられた堀内氏虎は三山の統轄権を掌握し、七人上綱の上に立つようになった。堀内氏虎は紀伊国守護職畠山家の衰退に乗じてさらに勢力を拡大した。熊野海賊衆を擁する軍事力と熊野新宮や熊野詣などからくる宗教的な権威と経済力を利用して勢力を拡大した。熊野を領し堀内氏虎と対立していた熊野有馬忠親は、内紛により衰退し有馬孫三郎が嫡男なく病没したため、堀内氏善を養子に送り込んだが、堀内氏善が本家を相続したため熊野有馬家は断絶した。新宮城を中心に30,000石を領国を形成した。

堀内氏高【ほりのうちうじたか(15??~15??)】

堀内氏虎の男。堀内家の家督を相続するが若くして病没した。

堀内氏善【ほりのうちうじよし(1549~1615)】

堀内氏虎の次男。官途は安房守。室は九鬼嘉隆の養女。1574年、兄堀内氏高の病没後、堀内家の家督を相続した。1576年、北畠信雄と当時志摩国であった三鬼城、紀伊長島城を巡って戦った。1581年、織田信長から知行として熊野社領分を与えられ、織田信長に仕えた。1582年「山崎の戦い」では、羽柴秀吉に属して7,000石を加増された。紀伊国の北部に侵攻し中村山城などの城を攻略した。1585年、羽柴秀吉の「紀州征伐」では降伏して本領を安堵された。紀州平定後の検地に反対する地侍や農民の一揆には、羽柴秀吉方として一揆の討伐に参陣した。「四国討伐」や「小田原の役」に参陣した。1592年「慶長の役」の「晋州の戦い」では蘇州古城守備に574人の熊野海賊衆を率いて戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成の勧めで牟婁郡80,000石と引き換えに義父九鬼嘉隆と共に西軍に属し約350を率いて伊勢国へ侵攻するが「関ヶ原の戦い」の敗報を聞き敗走した。その後、西軍への加担は消極的であったとの理由で許され加藤清正に仕え2,000石を領した。

堀内家臣団【ほりうちけかしんだん】

大谷志摩守、椎橋権座衛門。

------------------------------------------------------

【ま】

松葉左衛門【まつばさえもん(15??~15??)】

北牟婁郡上里城主。1575年、織田信雄の家臣日置大膳が侵攻した時、松場左衛門が上里城に籠城した。

三鬼新八郎【みきしんぱちろう(15??~15??)】

北牟婁郡三鬼城主。官途は伊賀守。1575年、堀内氏善は勢力の拡大を計って三木城を攻めた。三木荘の九木浦には九鬼光隆がおり、またその弟の九鬼嘉隆が海賊衆を率いて鳥羽から援軍として来援し海陸の激戦となり、掘内方の木本荘司や井土村の河ノ上など名のある武将を討ちとったため、掘内勢は新宮城へ退却した。堀内氏善は九鬼嘉隆の娘を室に迎え三鬼新八郎は孤立する。長島城主加藤甚五郎と赤羽城主奥村新之丞と共に三鬼城を落とした。三鬼新八郎は大和国へ落延びたが掘内氏善の追求はきびしく小瀬勘七郎を誘って三鬼新八郎父子を謀殺させた。

湊上野介【みなとこうずのすけ(15??~15??)】

高城山城主。湯川家臣。湯川家四天王のひとり。

目良高湛【めらこうたん(15??~15??)】

田辺城主。守護畠山家臣。官途は左京亮。湯川衆。熊野別当湛増の後裔で、那智実方院より出た。以後、代々田辺に住して、新熊野社の別当を務めた。1561年、畠山高政は六角義賢と結んで兵をあげた。戦いは畠山高政の優勢に展開した。1562年「久米田の戦い」で三好長慶の弟三好義賢 を討取った。勢いにのった畠山勢は三好長慶の立て籠る飯盛城に攻め寄せたが、落とすことはでき畠山高政は屋城に退いた。そこへ信貴山城より三好勢の援軍が攻め寄せた。「教興寺の戦い」において激戦が展開され、畠山勢の敗北となり、湯川直光をはじめ龍神正房、貴志光宗、安宅光定、根来衆ら多くの武将が討死した。目良高湛の男目良湛清、目良湛経、目良重国の兄弟が討死し畠山勢は壊滅的打撃を被った。

目良湛氏【めらたんじん(15??~15??)】

目良高湛の男。羽柴秀吉の「紀州征伐」では、湯川直春のもとに目良湛氏、山本康忠、真砂庄司、野長瀬盛秀、玉置永直らが集結した。そして、軍議のすえに抗戦の道を選んだのであった。湯川衆はゲリラ戦を展開して羽柴秀吉勢を悩まし、ついに本領安堵を条件に和議が成立した。湯川直春、山本康忠らは羽柴方に謀殺され、目良湛氏っも別当職を失い所領没収の処分となった。

目良家臣団【めらたけかしんだん】

芳養善五郎。

------------------------------------------------------

【や】

保田長宗【やすだながむね(15??~15??)】

有田郡八幡山城主。保田宗弘の男。官途は山城守。保田家は湯浅家の庶家で湯浅衆のひとり。父保田宗弘の代から河内畠山家に属して戦功を挙げた。

保田知宗【やすだともむね(15??~1583)】

保田長宗の男。通称佐介。1562年「教興寺の戦い」では湯川直光、津田算正らと共に畠山高政に属して戦うが三好長慶に敗れた。1568年、畠山高政が追放されると畠山昭高に仕えた。佐久間盛次の男佐久間安政を婿養子に迎えた。畠山昭高が没落すると織田信長に仕えた。佐久間安政の枝連衆の佐久間信盛の寄騎衆として活躍した。1583年「賤ヶ岳の戦い」で佐久間盛政に属し討死した 。

保田繁宗【やすだしげむね(15??~15??)】

保田長宗の次男。もとは高野山華王院住職であったが「賤ケ岳の戦い」で討死した兄保田知宗の遺領を継承、紀伊国保田庄を知行して、羽柴秀長に仕えた。のち大和竹田などで加増されて3,500石を領した。甥の保田安政は紀伊国を離れたので、保田家の家督を相続した。

保田安政【やすだやすまさ(15??~15??)】

佐久間盛次の男。保田知宗の養子。官途は若狭守。室は保田知宗の娘。養父保田知宗の討死後は室を離縁して紀伊国を離れ後北条家を頼った。家督は叔父の安田繁宗が継ぎ松平家の馬廻衆となった。
山本忠朝【やまもとただとも(15??~1566)】

牟婁郡龍松山城主。官途は治部少輔。1542年「木沢長政の乱」が起ると、畠山稙長は河内国へ侵攻、山本忠朝、湯川政春、玉置直和らもこれに従って出陣した。畠山稙長は高屋城を回復し河内守護職に復帰したがまもなく病没した。そのあとをめぐって畠山家は内紛が起り、いよいよ斜陽の度合いを強めた。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻した。三好勢との「教興寺の戦い」に参陣した。1566年、山本忠朝が病死すると、山本忠朝の嫡男山本康忠が幼少のため山本康忠の庶兄山本弘元との間で家督をめぐっての抗争が起った。

山本康忠【やまもとやすただ(15??~15??)】

山本忠朝の男。官途は主膳正。1566年、山本忠朝が病死すると、山本忠朝の嫡男山本康忠が幼少のため山本康忠の庶兄山本弘元との間で家督をめぐっての抗争が起った。叔父山本弘元は小山隆重や安宅安定の支援を受け一時は優勢になるが、山本家重臣田京之助の活躍で山本康忠が山本家の家督を相続した。1584年「小牧、長久手の戦い」が起ると、根来衆をはじめ湯川家、山本家らの紀州勢は松平家に通じ、羽柴秀吉の背後を突こうとして泉州に出陣した。羽柴秀吉と松平元康の和睦により紀州の諸豪族の立場は微妙なものとなった。 1585年「紀州征伐」では羽柴勢によって根来寺、雑賀衆は降伏、南紀伊国は、亀山城主湯川直春を盟主に、一ノ瀬の山本康忠、田辺の目良湛氏、近露の横矢氏ら南紀勢は仙石秀久、中村一氏らを大将とする羽柴勢と戦った。山本康忠は杉若越後守を大将とする羽柴勢3,000余りを迎え撃ち、約三ヶ月に渡って羽柴勢を悩ました。南紀勢の思わぬ善戦に手を焼いた羽柴秀吉は、本領安堵を条件に和議を提案、山本康忠らもこれを入れて羽柴勢と和睦した。1586年、山本康忠は湯川直春とともに大和郡山城に参候して羽柴秀長と謁見するが、湯川直春は城内で謀殺され、山本康忠も藤堂高虎邸で謀殺された。山本家は没落した。

山本弘元【やまもとひろもと(15??~15??)】

山本忠朝の庶兄。官途は兵衛佐。1566年、山本忠朝が病死すると、山本忠朝の嫡男山本康忠が幼少のため山本康忠の庶兄山本弘元との間で家督をめぐっての抗争が起った。山本弘元は小山隆重や安宅安定の支援を受け一時は優勢になるが、山本家重臣田京之助の活躍で山本康忠が山本家の家督を相続した。

山本兵部【やまもとひょうぶ(15??~15??)】

牟婁郡蛇喰城主。山本忠朝の次男。通称権之丞。蛇喰城は安宅家に奪われていた。1534年、山本兵部は安宅、小山連合軍を破り蛇喰城を奪還した。

山本家臣団【やまもとけかしんだん】

要害屋敷主:田上京之助、熊代館主:熊代内匠之介、楠本六郎、北郡砦主:稗田三郎兵衛、玉置館主:玉置図書介。

湯川政春【ゆかわまさはる(15??~15??)】

日高郡亀山城主。河内守護代。畠山高政家臣。1517年、畠山尚順は家督を畠山稙長に譲って河内国高屋城に入れると、みずからは紀伊国の領国支配強化を意図して広城に隠居した。畠山尚順は抵抗をやめない湯川政春を討伐し敗れた湯川政春は没落状態になった。1520年、畠山尚順は家臣の反乱によって紀伊国から追放された。湯川尚順は湯川政春を追放したあと、湯川衆の野辺六郎左衛門を改易しようとしたところ、野辺六郎左衛門は一揆を語らって自らの城に立て籠った。畠山尚順は、河内守護代遊佐長教らを動員して野辺六郎左衛門を攻撃した。湯川政春が夜襲をかけ畠山勢は敗退した。この戦いによって、紀伊国守護職家畠山尚順の守護権力は弱体化した。守護権力を排除した湯川正春は独自な戦国領主として基盤を固めたが自立するには至らず畠山尚順との関係は維持していた。1534年、河内守護代の遊佐長教が畠山稙長の弟畠山長経を擁立し、畠山稙長は高屋城から紀伊国に落延びた。畠山家の実権を掌握した遊佐長教は軍略にすぐれ、細川家を擁して勢力を伸ばす三好長慶と度々戦った。1548年、遊佐長教は三好長慶と和睦して娘を長慶の室として姻戚関係を結んだ。1551年、遊佐長教は反三好長慶派の刺客によって謀殺され、畠山高政は安見直政を守護代に任じた。

湯川直光【ゆかわなおみつ(15??~1562)】

湯川政春の男。1528年「摂津国江口の戦い」で三好長慶の軍勢に敗れたが、山科本願寺の証如の助力もあり小松原館に帰還。天文年間に感謝の意を込めて一堂を建立し、次男湯川信春を出家させて住職とした。1558年、河内国から畠山高政が紀伊に下向してきたため直光は迎え入れた。湯川直光の尽力により河内国に返り咲いた畠山高政は、この戦功を高く評価し湯川直光を河内守護代に任じた。1562年、河内守護畠山高政の命で紀伊国湯川衆の大軍を率いて参陣した。河内国で三好長慶の弟三好義賢が率いる三好勢を撃破した「久米田の戦い」。同年の「教興寺の戦い」では三好長逸らの軍勢を雑賀衆と共に迎撃していたが、三好長慶の嫡男三好義興の軍勢が参陣し形勢が逆転、湯川直光、玉置直和らの紀州衆と根来衆は後陣にあったため退陣が遅れ、三好勢の追撃を受けた。湯川直光ら紀州衆と根来衆は教興寺あたりで三好軍と激戦を展開し、湯川直光をはじめとした湯川一族、龍神正房、貴志光宗、安宅光定、目良高湛らの諸将、根来衆らが討死をとげた。「教興寺の戦い」の敗戦で畠山高政も三好勢の攻撃によって紀州に逃れ、畠山勢は壊滅的打撃を被った。

湯川直春【ゆかわなおはる(15??~15??)】

湯川直光の男。

湯川家臣団【ゆかわけかしんだん】

角田山城主:脇田俊継、曽和城主:林源右衛門春当、土井城主:平井掃部頭。

由良庄左衛門【ゆらしょうざえもん(15??~15??)】

日高郡由良城主。1585年「紀州討伐」で羽柴勢の攻撃を受け落城した。

龍神正房【りゅうじんまさふさ(15??~1562】

日高郡島之瀬城主。湯川衆のひとり。1562年、畠山高政は六角義賢と結んで河内国に進出して三好長慶と戦った。1562年「久米田の戦い」に勝利した畠山勢は、三好長慶の立て籠る飯盛城に攻め寄せた。三好勢の反撃によって畠山高政は河内高屋城に退き、三好方の謀略で畠山高政は兵を撤収した。畠山高政に従って河内国教興寺にあった紀伊勢は退陣が遅れ、三好軍の追撃を受けた。紀伊勢は教興寺あたりで三好勢と激戦を展開したものの、龍神正房、安宅光定、湯川直光、貴志光宗、安宅光定、目良高湛らの諸将、根来衆らが討死をとげた。

------------------------------------------------------

【資料Ⅰ】

南紀伊国(3郡/200,000石)

有田郡:湯浅城。
日高郡:亀山城。
牟婁郡:新宮城。

※南紀伊国という国は存在しません。個人的趣味として紀伊国を北紀伊国と南紀伊国に分割しました。

------------------------------------------------------

【資料Ⅱ】

湯川衆【ゆかわしゅう】

湯川衆は、日高郡一帯以南を領し日高郡亀山城を本拠した。

熊野海賊衆【くまのかいぞくしゅう】

紀伊半島南東部、熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とした海賊衆。豊富な船材と良湊に恵まれながらも、耕作地に乏しい熊野には海を舞台に活躍する海賊衆が早くから発達した。紀淡海峡など四国と紀伊半島の間に出没した南海海賊の多くは熊野の浦々を拠点とする海の領主で、彼らを熊野別当が統括していた。熊野別当には源家とつながりを持つ新宮別当家と、平家とつながりをもつ田辺別当家という二つの有力な家があった。

------------------------------------------------------

【資料Ⅲ】

紀伊国【きいのくに】

紀伊半島の先端部を占める南海道の国。北は和泉国、河内国と接し、東端の北部で伊勢国と国境を分ける。東部から西部にかけての広い範囲で大和国の南部を取り囲み、西端は紀淡海峡を挟んで淡路国、紀伊水道を隔てて阿波国、土佐国と向い合う。南部は太平洋の黒潮が長い海岸線を洗い、三方を海に囲まれた地形になる。平城京、平安京といった古代の都に近く、古くから栄えた地域である。国土の大部分は和泉山脈、長峰山脈、白馬山脈、大塔山脈といった山地で占められ、山がちで平地は乏しいが、山間部では雨量が多く気候も温暖なため山林が豊富であり、古来から良質な木材を産した。牟婁郡の熊野三山は密教系の修験者の道場として独自的な文化を持っていた。平地は紀ノ川、熊野川など河川の流域に点在しているが、その中でも紀ノ川流域の雑賀地域では、古くから大規模な灌漑が行なわれて農業の水準も高く、雑賀衆と呼ばれる豪族衆が勢力を持った。良質な木材と長い海岸線の至るところに存在する良湊によって発達した熊野海賊衆や高野山から分派した真言宗根来寺の信徒勢力も大きな力を持っていた。

熊野三山【くまのさんざん】

熊野三山は熊野詣と呼ばれる巡礼の旅の目的地となる参つの神社で、自然崇拝を元とする非常に古い神社である。熊野新宮は速玉大神という神様を奉っており、これは日本の古き神 「イザナギ」 のことで、後に仏教が伝来するとこれと融合し「薬師如来」 として奉られるようになった。他の二つの神社は 「熊野本宮」 と 「熊野那智」 と言う大社で「本宮」 が 「家都美御子」+「阿弥陀如来」。那智大社が 「夫須美大神」+「観音菩薩」 を奉っている。「熊野信仰」 はこのような古代日本の神々を祭っているもので、雑賀衆の家紋になっている鳥の絵も 「八咫烏」 と呼ばれる霊鳥であり、太陽黒点を表し「神武天皇」 の道案内を努めたと言う三本足のカラスで、熊野信仰から来ている。

熊野川【くまのがわ】

熊野川は大和国吉野郡の大峰山脈山上ヶ岳、大普賢岳の辺りに水源を発する。天ノ川、十津川が合流して南下、紀伊国に入る。大台ケ原を源流とする北山川を併せ、熊野灘に注ぐ。

------------------------------------------------------

戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

------------------------------------------------------

0 件のコメント: