2012年1月16日月曜日

戦国遠江国人名辞典

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【あ】

掛川朝比奈泰能【あさひなやすよし(1497~1557)】

佐野郡掛川城主。朝比奈泰煕の男。1512年、父朝比奈泰煕の死去により家督を相続するが、若年のため叔父朝比奈泰以の後見を受ける。朝比奈泰能は今川家に氏親、今川氏輝、今川義元の三代に渡って仕えた。1526年、制定された『今川仮名目録』には、三浦二郎左衛門尉氏満と並ぶ重臣として記され、今川家における外交文書などでは、太原雪斎とともに名を連れた。また寿桂尼の兄中御門宣秀の娘を娶ることで今川氏親の姻戚となった。掛川城を居城として今川義元の西方への戦略を常に助ける働きを示すが、その一環として分家の掛川紀伊守、掛川肥後守元智の兄弟などにを浜名湖西岸の宇津山城主とした。1548年「小豆坂の戦い」では、総大将の太原雪斎を補佐する副将として出陣した。1549年、岡崎城主松平広忠が謀殺されると、岡崎城接収の任に当たった。

掛川朝比奈泰朝【あさひなやすとも(1538~15??)】

朝比奈泰能の男。官途は備中守。1556年、山科言継から『梶井宮之御筆百人一首』を与えられている。1557年、父朝比奈泰能の病没後に朝比奈家の家督を相続した。1558年、駿東郡の霊山寺を再興した。1560年、今川義元の「尾張侵攻」で井伊直盛とともに織田家の鷲津砦を攻略した。窮地にあった大高城を救ったが、後続本隊の今川義元が「桶狭間の戦い」で討死したことにより撤退した。今川義元の討死後、三河国、遠江国の今川領内では動揺が拡大、離反する諸将もある中で、今川氏真を支える姿勢を貫いた。1562年、謀反の疑いのある井伊直親を今川氏真の命により成敗している。永禄期には三浦氏満とともに越後長尾家との交渉に当たった。1568年、武田晴信が同盟を一方的に破棄して駿河国に侵攻。それによって 今川氏真が駿河国を追われると、朝比奈泰朝は今川氏真を掛川城に迎えて抵抗した。松平元康が遠江国に攻め寄せ、曳馬城を陥落させるなど順調に遠州を制圧し、掛川城を攻囲した。今川家譜代の家臣達は今川氏真を見限って武田晴信や松平元康に寝返ったが、朝比奈泰朝は最後まで今川氏真に忠義を尽くした。

掛川朝比奈泰以【あさひなやすもち(15??~15??)】

朝比奈吉俊の次男。伊勢盛時とともに今川氏親の後見人となり、国政を補佐した。1506年、三河国の松平長親を攻撃。1512年、兄朝比奈泰煕の死により甥朝比奈泰能を補佐。井伊直平や曳馬城主大河内貞綱らの斯波軍との戦いでは、これに勝利した。1514年、斯波家との合戦に先陣。1517年、遠江守護斯波義達に勝利。1536年、今川氏輝死後の家督争いに、瀬名氏貞、由比助四郎とともに今川義元を擁立した。

掛川朝比奈家臣団【あさひなけかしんだん】

調査中。

宇津山朝比奈泰長【あさひなやすなが(15??~1562)】

浜名郡宇津山城主。朝比奈時茂の男。官途は紀伊守。今川義元、今川氏真の二代に仕えた。三河、遠江国境付近を守備し、特に三河国東部八名郡に睨みを効かせていた。1561年、松平元康が今川氏真から独立の動きを見せ、東三河国人領主を調略して蜂起させる動きを見せると、すぐに出陣し三遠国境を越え、三河国八名郡の国人領主西郷正勝の五本松城を急襲し、城主西郷正勝および救援に戻った嫡子で月ヶ谷城主の西郷元正の父子をともに討取った。1562年、西郷正勝次男の西郷清員率いる松平勢と豊川沿岸の八名郡勝山周辺で戦ったが敗れて西郷清員に西郷領を奪還された。

天方通季【あまがたみちすえ(15??~1545)】

周智郡天方城主。今川家臣。官途は山城守。1501年、遠江国守護の斯波義寛と今川氏親の間で戦が始まると、天方城主天方通季もその渦中に巻き込まれた。

天方通興【あまがたみちおき(15??~15??)】

天方通季の男。官途は三河守。1568年、遠江に侵攻した松平元康は、今川方の属将を次々に攻め、その攻撃は天方通興と飯田城主山内通泰にも及びます。両城主とも松平元康に従属しなかったことで、天方本城と支城の白山城が攻略されます。このため天方通興は降状しますが、山内通泰は最後まで抵抗したため全員討死にした。1573年「三方ヶ原の戦い」で大敗した松平元康は、遠江地方での勢力奪還を図ろうと奔走する。その頃は武田方に付いていた天方通興は、久野宗政と共に天方本城と白山城で交戦するも敗北し降伏した。1574年、犬居城主天野景貫を攻撃するため出陣した松平勢は、豪雨と兵糧の欠乏により撤退を余儀なくされます。三倉の田能、大久保で武田方の樽山、光明の城兵の待ち伏せに遭い惨敗した。

天野景貫【あまのかげつら(15??~1584)】

周智郡犬居城主。天野秀藤の男。官途は宮内右衛門尉。1547年、戸田康光成敗を目的とした「田原本宿の戦い」などで戦功を挙げた。今川義元から感状を賜り、遠江奥山郷を領した。 1563年、天野家の宗家である天野景泰、天野元景親子が今川氏真から離反したため、天野家の惣領職を継承した。1569年、今川氏真の勢力が衰退すると、代わって勢力を強めてきた松平元康の麾下に属して「遠江侵攻」に協力した。1570年、武田晴信が遠江に侵攻すると武田家に降伏した。1571年、三河国設楽郡への力攻めが菅沼定盈などによる思わぬ抵抗を受けて兵を収めたという秋山信友に代わり、遠江方面から参戦。長篠城の攻略を担当した。この長篠攻めでは多大な犠牲を払い、城方へも出血を強要させるも陥落には至らなかった。それでも、山家三方衆に代表される設楽郡の小領主たちの従属に結びついた以上、働きは少なくなかった。1573年、武田晴信の死後、武田家が衰退すると松平家康の反撃を受け、天野景貫は奮戦したものの敗れ犬居城から退去した。武田家滅亡後は北条氏政に仕え、対佐竹家との戦いなどで活躍した。

天野景直【あまのかげなお(15??~15??)】

天野景貫の男。

天野虎景【(15??~15??)】

笹峰城主。官途は安芸守。

天野藤秀【(15??~15??)】

天野虎景の男。官途は宮内右衛門。

安倍信真【あべのぶまさ(15??~15??)】

伯耆塚城主。

飯尾乗連【いいおのりつら(15??~1560)】

敷知郡曳馬(浜松)城主。飯尾賢連の男。官途は豊前守。通称善四郎。飯尾氏は渡来人三善家の後裔、京都出身で室町幕府の相伴衆の家柄。祖父長連の代に駿河守護今川義忠へ仕え駿河国へ下り、父飯尾賢連は今川氏親へ仕え、今川氏譜代の重臣となった。今川義元へ仕え、永正年間に、今川家の支城、曳馬城の築城をし、城主となり同地に10,000石を領した。1560年「桶狭間の戦い」で織田勢の猛攻をうけ、討死した。

飯尾連竜【いいおつらたつ(15??~1566)】

飯尾乗連の男。官位は豊前守。通称は善四郎。室はお田鶴の方(椿姫)。父飯尾乗連は「桶狭間の戦い」で討死した。「桶狭間の戦い」において、今川方の遠江国人領主など数多の戦死者を出した今川家は、支配力を低下させたため、遠江は混乱状態になった。連竜は、妻の機略により井伊直平を毒殺するなど、遠江の混乱を加速させたといわれる「遠州錯乱」。1564年、三河国を制した松平元康に内通するも、これを察知した今川氏真の攻撃を受けることになる。曳馬城の防御力を頼みとしつつ、連竜は一時は三浦正俊、新野親矩、中野直由ら今川軍の名だたる将を討ってこれを撃退したものの、結局は持ちこたえられずに今川氏真からの和睦勧告を受諾する。しかし、今川氏再属のために赴くも、駿河の駿府で今川氏真に謀殺された。なお、駿河での伝承によれば、お田鶴の方は連竜ともども駿府で成敗された。連竜夫妻亡き後、遺臣の協議で曳馬城が運営されていたが、武田勢に属するか徳川勢に属するかで分裂した。まもなく遠江に侵攻した松平勢の包囲を受け、曳馬城は接収された。一方、遠江での伝承では、連竜亡き後はお田鶴の方が曳馬城を率いた。松平勢の侵攻を受け、籠城の末に於田鶴の方は討死した。

飯尾家臣団【いいおけかしんだん】

調査中。

井伊直盛【いいなおもり(1506~1560)】

引佐郡井伊谷城主。井伊直宗の男。次郎。官途は信濃守。室は友椿尼(氏不詳)。1494年、今川氏親が遠江国へ進出すると、井伊氏は遠江国守護職斯波家や大河内家と結託して対抗した。1513年、井伊直盛は三岳城(御獄城)の陥落によって降伏、以後今川家に仕えた。1517年、遠江国をめぐる覇権争いは、曳馬城の陥落にともなう大河内家の滅亡と斯波家の没落によって収束し、遠江国守護職を取り戻した今川氏が名実共に駿河、遠江の二ヵ国を支配下に治めることとなった。1560年、今川義元は大軍を率いて尾張国へ出陣を開始し、井伊直盛は先鋒の大将に任じられた。織田信長の各拠点を奪取するなど、緒戦は有利に進められた。桶狭間にて休息中、豪雨の影響と織田信長率いる本隊の強襲によって総大将の今川義元を筆頭に多くの将兵が討ち取られるという大敗に終わり、前線で戦っていた井伊直盛も討死した。

井伊直満【いいなおみつ(15??~1545)】

井伊直平の次男。通称は彦次郎。父の直平とともに今川義元に仕えた。兄の直宗の子の井伊直盛に子がいなかったため、自身の子の直親を養嗣子にする約束をしたが、直親が家督相続することを嫌う家臣の反感をかったため、1544年、弟井伊直義と共に、小野道高の讒言を聞いた今川義元によって自害させられた。

井伊直親【いいなおちか(1535~1563)】

井伊直満の男。官途は肥前守。井伊直盛の娘(次郎法師)と婚約。室は奥山親朝の娘。1544年、父が讒言により今川義元に殺害されたために、幼少の直親は信濃へ落ち延びた。1555年、井伊谷へ復帰した。1560年、先代当主で養父の井伊直盛が「桶狭間の戦い」で討死したため、井伊家の家督を相続した。遠江は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態にあり、井伊直親も家臣小野道好の讒言により松平元康との内通を今川氏真に疑われた。1563年1、今川家臣朝比奈泰朝に攻められて討死した。これにより井伊家は一時的に衰退した。家督は養父井伊直盛の娘井伊直虎が継いだ。嫡男の虎松は流浪した末に井伊直虎に代わって当主となり、松平家に仕え、のちの徳川四名臣の井伊直政となった。また、遠江が家康の支配下になった後、井伊直親の無実が証明され、讒言した小野道好は獄門になった。

井伊直政【いいなおまさ(15??~15??)】

⇒松平家臣団参照。

江馬時茂【えまときしげ(15??~15??)】

飯尾家臣。官途は加賀守。1566年、飯尾連竜が駿府で謀殺されたあと、江馬時茂は江馬泰顕とともに曳馬(浜松)城に籠城、今川氏真と戦った。1567年、松平元康から所領を与えられた。

江馬泰顕【えまやすあき(15??~15??)】

飯尾家臣。官途は安芸守。1566年、飯尾連竜が駿府で謀殺されたあと、江馬泰顕は江馬時茂とともに曳馬(浜松)城に籠城、今川氏真と戦った。1567年、松平元康から所領を与えられた。

大沢基相【おおさわもとそう(15??~15??)】

敷知郡堀江城主。大沢基房の男。通称治部。先代大沢基房の時に、今川家のために岡崎城や二俣城へ出陣して戦功を挙げた。1533年、今川氏輝から浜名湖往来の船を取り締まる権限を与えられた。15443年、今川義元より上田村の加増を受けた。1549年、大沢基相は「上野端城の戦い」に兵を出したが、この戦いで大沢基相の家臣紅林甚二郎は大いに奮戦して抜群の功を立てた。

大沢基胤【おおさわもとたね(1526~1605)】

大沢基相の男。官位は左衛門佐。1568年、松平元康による「遠江侵攻」を受けるが、居城堀江城への攻撃は後回しにされていたようである。1569年、曳馬城を落城させ、掛川城を攻めたてる松平元康は軍の一部を割いて、大沢基胤の属将が守る堀川城を一日で攻め落とした。井伊谷衆(近藤石見守康用と登之助秀用親子、鈴木三郎大夫重時と、その婿菅沼次郎右衛門忠久)に命じて引き続き、大沢基胤の堀江城を攻撃させた。渡辺図書高綱、菅沼定盈の堀江城攻撃勢に対し、大沢基胤は中安兵部、権太織部泰長らを率いて、数度に渡り松平勢に逆襲をかけるなど頑強な抵抗を示し続けた。そのため、攻城軍は鈴木重時を始めとする多大な犠牲を払いながら、陥落させられずにいた。今川氏真が逃れて来ていた掛川城への攻撃に専念したい松平元康は、渡辺成忠を使者として遣わし、松平方への帰順を条件として大沢家の本領安堵を約束する誓書を与えた。大沢基胤もその勧告を受け入れた。1569年、堀江城の北に在った堀川城に於いて松平方の石川数正、酒井忠次、大沢方の中安兵部、権田織部泰長の四名によって和議が成立した。

大沢基宿【おおさわもといえ(1567~1642)】

大沢基胤の男。官位は兵部大輔。1569年、父大沢基胤が松平元康による「遠江侵攻」の一端で居城堀江城を攻められた。頑強な抵抗を示し続けた末に、勧告を受け入れて服属した。1600年「関ヶ原の役」後、遠江国敷知郡堀江村など六ヵ村で1,550石を領した。1603年、松平元康の将軍宣下に際し、その式典のことを公家二条康道と相談する。これは、高家として働いたものと考えられ、職務としての「高家」の始まりといえる。その後も朝鮮や琉球からの使者の謁見に際し、披露の役割を担当した。1632年、隠居し嫡男大沢基重に家督を譲った。

大沢家臣団【おおさわけかしんだん】

中安兵部、権田織部泰長、尾藤主膳、山村修理、竹田高正、新田四郎。

大村綱次【おおむらつなつぐ(15??~15??)】

今川家臣。通称弥三郎。1548年「今橋城の戦い」で戦功を挙げた。のちに松平元康に仕えた。

高天神小笠原春茂【おがさわらはるしげ(15??~15??)】

城東郡高天神城主。小笠原長高の男。信濃深志小笠原家の庶流。小笠原長棟と家督争いに敗れ、今川家に仕えた。

高天神小笠原氏興【おがさわらうじおき(15??~1569)】

小笠原春茂の男。信濃国小笠原家の庶流である遠江国高天神小笠原家の出身。高天神小笠原家は小笠原春儀の代に、当時の高天神城主であった福島家が「花倉の乱」で没落したのと入れ替わりに駿河国今川家臣として台頭した一族。今川家では一門衆に準じて遇され、今川義元に仕えた。1560年、今川義元が「桶狭間の戦い」で織田信長と戦い討死したため、今川氏真が家督を嗣ぐ。今川氏真は凡庸な当主だったために武田晴信に「甲相駿三国同盟」を破棄されて駿河に攻められ、さらに西から松平元康までもが遠江に侵攻して来ると、小河原氏興は松平元康に内応して今川氏真が籠城する掛川城を攻撃した。今川氏真はかなわず掛川城を撤退し、北条氏康の元に落延びた。その後は松平元康に仕えたが、後に馬伏塚城にて病没した。

高天神小笠原信興【おがさわらのぶおき(15??~15??)】

小笠原氏興の男。別名小笠原長忠。1568年、武田晴信による「駿河侵攻」により今川氏真が没落すると、遠江国の支配を今川家から奪った、松平っ元家康に属した。武田家の領国となった駿河国との最前線にあたる高天神城主となる。1569年、父小笠原氏興の病没より小笠原家の家督を相続した。1570年「金ヶ崎の戦い」「姉川の戦い」などに参陣て戦功を挙げた。1571年、武田晴信の「遠江、三河侵攻」では武田方が大軍を率いて高天神城に攻めて来るが、小笠原信興はわずかな兵力で籠城し、武田勢を撃退した。1572年「三方ヶ原の戦い」にも参陣した。1574年、武田勝頼が大軍を率いて高天神城に攻めて来る。このとき、小笠原信興は松平元康に援軍を要請したが、松平元康は武田勢を恐れて援軍を出さなかったため、やむなく小笠原信興は武田勝頼に降伏した。戦後、国替となり小笠原信興は駿河庵原郡において100,000石を領した。1582年、武田家滅亡後、北条氏政を頼って小田原城に落延びたが、織田信長の命令を受けた北条氏政によって謀殺された。

高天神小笠原長治【おがさわらながはる(1570~15??)】

小笠原信興の甥。真新陰流剣術の開祖。直心影流剣術においては道統四代目に位置づけられ、「韜の形」は彼の考案によるものと伝わる。奥山公重より神影流を学び、真新陰流を開く。羽柴秀吉に仕え「小田原の役」「大坂の役」では西軍に参陣した。落城後に明に渡り、矛を習得して「八寸の延金」術を編み出したとされる。 帰国後は剣客と多く立合い、敵う者は無かった。「八寸の延金」は不敗の技といわれたが失伝し、後世の白井亨は自力でこれを復元した。門下に針ヶ谷夕雲、神谷伝心斎がいる。

高天神小笠原家臣【おがさわらけかしん】

小笠原雲波斎氏朝、小笠原与左衛門、小笠原新九郎安元、小笠原惣兵衛清広、小笠原玄蕃義時、小笠原作右衛門興康、小笠原久兵衛良忠、本間八郎三郎、丸尾修理亮、斎藤宗林、鮫島加賀守、渥美源五郎。

岡本信久【おかもとのぶひさ(15??~15??)】

浜名家臣。浜名郡岡本郷の豪族。通称源左衛門尉。

奥山定之【おくやまさだゆき(15??~15??)】

中日向城主。官途は兵部丞。

奥山貞益【おくやまさだます(15??~15??)】

奥山定之の男。1569年、信濃国遠山家に攻められ落城し討死した。次男の奥山定茂は水巻城主、三男奥山定吉は大洞若子城主、四男奥山定友は小川城主であった。しかし、兄弟仲が悪く、互いに功防戦を繰り返した。

1572年、武田晴信の大軍は、信濃と遠江の国境を越し、越えたすぐのところが奥山家の勢力圏であった。武田家は犬居城の天野家を道案内として遠江に侵攻してきたが、奥山家はこの天野家と密接な関係にあったことから、定吉の子吉兼と弟の有定兄弟は武田氏に属するようになった。
そして、信玄より感状をもらい、奥山一党の本領を安堵され、吉兼には新領地として、現在の袋井市域と浜北市域を宛行われた。もっとも、元亀三年の時点では、まだ遠江が武田領に組み込まれていたわけではなく、ある意味では約束手形のようなものであった。

この結果奥山氏がかなり広大な土地を支配するようになったことはうかがえる。そして、奥山吉兼は遠江における有力な在地領主であったことも間違いない。もっとも、奥山吉兼の勢力は長くは続かなかった。信玄が死に、今川氏の勢力が衰え、それに代わって次第に力を伸ばしてきた家康の勢力が拡大するにつれ、武田氏の支援を得ていた奥山氏の領国支配は貫徹するのが困難になってきたのであった。

その後、奥山氏は徳川氏に仕えるようになり、有定の孫重定は、相月村に住み大阪の陣に参加し、のちに奥山代官となった宮崎氏の後見人となり、子孫は代々名主を務めた。小川城主定友の子友久は小川城主を継ぎ、永禄十二年(1569)、徳川家康より本領安堵され、子孫は井伊氏に仕えた。

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【か】

久貝正勝【くがいまさかつ(15??~1587)】

富部城主。通称市右衛門。久貝正勝の父久貝正好は美濃国にて討死した。1557年、久貝正勝は遠江国に移り住んで今川義元に仕え富部に所領を得た。今川氏真が没落後は松平元康に属した。1575年、本多忠勝に「三方ヶ原の戦い」では、武田勢に単騎で突入し、戦功を挙げた。

久貝正俊【くがいまさとし(15??~15??)】

久貝正勝の男。松平元康の関東移封にしたがった。

久野宗隆【くのむねたか(15??~15??)】

久野城主。今川家臣。官途は佐渡守。曳馬城主で家老三好為連とともに遠江守護職斯波義達と抗争を続けた。久野宗隆は今川氏親に従い、座王城にあって信濃国の小笠原家の攻撃を受け苦戦したが、福島助春、 本間宗季らの援助を得て勝利を収めた。さらに小笠原家が天方城に立て篭った際は、本間宗季らとともに攻撃をしている。さらに、久野宗憲は、可睡斎を造営したと伝えられ、禅僧円通松堂の檀越に久野家の一族香心院明智公がいた。

久野忠宗【くのもとむね(15??~1560)】

久野宗隆の男。通称三郎四郎。1560年、今川義元の「尾張侵攻」の「桶狭間の戦い」で討死した。その後、今川氏真が駿河府中を遂われて掛川城に立て籠った際、久野家は今川方、松平川方の二つに分裂し、結局惣領宗能は松平元康に従い、久野城などの所領の安堵を受けた。

久野元宗【くのもとむね(15??~1560)】

久野忠宗の男。通称三郎四郎。1560年、今川義元の「尾張侵攻」に参陣し「桶狭間の戦い」で討死した。

久野宗能【くのむねよし(1527~1609)】

久野忠宗の次男。兄の討死後遠江久城主として城を守備していた。1568年、松平元康の「遠江侵攻」を受け、松平家臣高力清長の仲介もありこれに降った。その後、今川氏真方にあった叔父久野宗益により翻意を促されたが拒絶、合戦に及ぶも松平元康の救援もあって今川勢を撃退した。1590年、関東入部では下総国佐倉城130,000石を領した。

久野宗成【くのうむねなり(15??~15??)】

1600年「関ヶ原の役」に参陣し、役後の8,500石を領した。1619年、松平元康の十男松平頼宣が紀伊国555,000石を領した。久野宗成は松平頼宣の付家老となり10,000石を領し、田丸領60,000石の代官職に任じだれた。以後、久野氏代々は田丸城主として紀州藩支え、明治維新に至ったのである。

久能氏忠【くのううじただ(15??~1560)】

久能宗衡の男。通称半内。1560年「桶狭間」に参陣したが討死した。

久能宗政【くのうむねまさ(15??~15??)】

久能宗能家臣。官途は弾正忠。の従兄弟。久能宗能を追放と松平元康への謀反を企むが、松平元康の依頼を受けた三宅家の介入により久能宗政は掛川城に蟄居させられた。

黒田義則【くろだよしのり(15??~1598)】

小笠郡の国人領主。今川家臣。通称九郎大輔。1569年、今川氏真が掛川城に退去すると松平元康に属し、小笠原長忠に属して高天神城を守備した。1571年、武田晴信の侵攻を受けた時は、高天神城主斎藤宗林に属して戦った。1574年、武田勝頼の猛攻を受け、再び斎藤宗林のもとで抵抗するが、遂に開城して黒田義則は故郷へと隠棲した。

小長谷長門守【こはせながとのかみ(15??~15??)】

榛原郡小長井城主。戦国期には小長谷長門守が武田家に従った。

近藤康用【こんどうやすもち(1517~1588)】

近藤忠用の男。通称平右衛門。室は黒田久綱の娘。父近藤忠用と共に今川家に従った。今川家の領国支配力に不安が見え始めた桶狭間の戦い以降も、同僚の鈴木重勝とともに、今川氏真の麾下に属した。松平元康が遠江国を窺うようになると、その懐柔工作によって今川家を離反した。1568年、松平元康による「遠州侵攻」では、嫡男近藤秀用を参陣せた。

近藤秀用【こんどうひでもち(1547~1631)】

近藤康用の男。通称平右衛門。官位は石見守。1568年、父近藤康用は、松平元康の「遠州侵攻」で今川家方を離反した井伊谷三人衆の一人。老齢や戦傷を負い歩行困難であった父近藤康用に代わって近藤秀用が軍役を担っていた。近藤秀用は「姉川の戦い」「三方ヶ原の戦い」「小田原の役」などでいずれも戦功を挙げた。やがて、徳川四天王で知られる井伊直政が台頭してくると、松平元康の下命で寄騎として井伊直政の片腕となった。しかし、井伊直政の冷酷な性格に嫌気がさした近藤秀用は、それまでの功績から松平元康に直臣として取り立ててくれるように嘆願したが、井伊直政に徹底してそれを妨害された。近藤秀用は出奔して伊勢国に落延びた。1602年、井伊直政が病没すると、池田輝政の仲介により松平元康に召しだされて、上野国青柳城5,000石を領した。1614年「大坂冬の役」にも参陣して戦功を挙げた。

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【さ】

斎藤宗林【さいとうそうりん(15??~15??)】

今川家臣。官途は修理大夫。今川家滅亡後は松平元康に仕えた。1574年、武田勝頼の高天神城攻めのとき籠城してこれと戦うも落城した。

都田菅沼元景【すがぬまもとかげ(15??~1568)】

菅沼俊弘の男。長篠菅沼家に仕えた。

都田菅沼忠久【すがぬまただひさ(15??~1582)】

菅沼元景の男。通称次郎右衛門尉。室は鈴木重時の長女。奥三河に版図を拡げる菅沼一族の中で唯一、遠江引佐郡都田に地盤を持っていた。当初は、菅沼氏との連携を大事にしていたようだが、より身近な井伊谷に居を構える井伊氏の被官になったと見られている。1568年、遠江への侵攻を画策する徳川家康に加担する同族の野田菅沼定盈から今川離反の誘いを受けると、承諾。菅沼忠久が、さらに鈴木重時や近藤康用も誘った。後に、この三人が井伊谷三人衆と呼ばれるのである。松平元康による「遠江侵攻」では堀江城攻撃に参陣した。

都田菅沼忠道【すがぬまただみち(15??~15??)】

菅沼忠久の男。通称次郎右衛門尉。1600年、井伊直政の麾下として「関ヶ原の役」などで戦功を挙げた。菅沼忠久の弟の子菅沼作左衛門重吉は、菅沼定盈の嫡男菅沼定仍に仕えた。

都田菅沼勝利【すがぬまかつとし(1593~1630)】

菅沼忠道の男。1614年「大坂の両陣」に参陣した。

鈴木重勝【すずきしげかつ(1503~1595)】

井伊谷三人衆の一人。通称平左衛門尉。1563年、今川氏真から山中、大野郷の戦功を挙げた。1568年、宇利荘吉田郷に侵出した。

鈴木重時【すずきしげとき(1528~1569)】

鈴木重勝の男。通称三郎大夫。室は奥山因幡守の娘。1568年、遠州への侵攻を画策する松平元康に加担した娘婿菅沼忠久から今川離反の誘いを受け、承諾。これに近藤康用も加わった三人が井伊谷三人衆と呼ばれる事となる。松平元康による「遠州侵攻」は、曳馬城攻略を最優先としていたため、浜名湖沿岸の諸城攻略が後回しとなっていた。1569年、松平元康の下命を受けて堀江城を攻めた。守将大沢基胤率いる城兵は意気盛んで、なかなか抜けない。そればかりか、城方による反撃を許し、手痛い損害を少なからず受けた。この時、近藤康用の嫡男近藤秀用と競うかの如く城門にたどり着いたが、城方の攻撃を受けて討死した。

鈴木重好【すずきしげよし(15??~1635)】

鈴木重時の男。鈴木重辰の父。通称平三郎。官途は石見守。室は鳥居元忠の養女。1572年、武田晴信による「遠州侵攻」では別働隊の山県昌景が信州から南下。三河八名郡に在った居城柿本城を攻められると譲り渡して、叔父鈴木出雲守が守備する遠州井伊谷の小屋山城へ退く。だが、ここも山県勢の進路であった為に陥落させられると、浜松城に退いた。やがて、井伊直政が旧領を回復すると近藤秀用、菅沼次郎右衛門忠久と同様に、井伊勢に付けられる。1584年「小牧、長久手の戦い」では、1番槍を入れた井伊直政の眼前で槍下の高名を挙げた。1602年、彦根城普請に勤しんだ。1605年、嫡男鈴木重辰に譲って隠居した。

鈴木重辰【すずきしげたつ(1585~1634)】

鈴木重好の男。通称平三郎。1600年、井伊直政に付けられた父の麾下として「関ヶ原の役」に参陣した。1605年、父鈴木重好の隠居により鈴木家の家督を相続した。彦根藩において5,500石を領して、70騎を従えた。1614年「大坂冬の陣」では井伊勢の先陣を務めた。1615年、井伊直勝が上州安中藩に封ぜられるとこれに付けられ、家政を取り仕切る。

鈴木家臣団【すずきけかしんだん】

調査中。

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【た】

高橋左近将監【たかはしさこんしょうげん15??~15??)】

榛原郡堀野地頭。今川家臣。

富樫氏賢【とがしうじかた(15??~15??)】

今川家臣。官途は伊予守。

鶴見栄寿【つるみみえいじゅ15??~15??)】

横岡城主。今川家臣。官途は因幡守。遠州三十六人衆の一人。1496年、鶴見栄寿と勝間田城主勝間田播磨守は今川氏親麾下の松葉城主河井宗忠を襲ってこれを討取った。今川の兵は、駿河の相賀 村に偽旗を押し立て、一方の兵を横岡城の背後の長者原に潜ませ一挙に 城を襲い因幡守を討ち取りました。鶴見栄寿の嫡男鶴見大蔵は、落城の時家臣に連れられて逃れ 駿河の天徳寺に入門し僧になりました。後に横岡村へ帰り城の壇の観勝寺第三世仙太存大和尚となり、福泉寺を建立した。

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【な】

勾坂政久【におさかまさひさ(15??~15??)】

勾坂城主。今川氏親家臣。1514年、斯波義達、井伊直平の「三獄城攻略」に、朝比奈泰以に従い先駆け。

勾坂長能【におさかながよし(15??~15??)】

勾坂政久の男。通称六右衛門。1514年、斯波義達、井伊直平の「三獄城攻略」に、朝比奈泰以に従い先駆け。

匂坂牛之助【におさかうしのすけ】

高天神小笠原家の忍び衆の目頭。武田勝頼が高天神城に攻め寄せると、小笠原信興は匂坂牛之助を使者として、幾度となく浜松城へ走らせ、松平元康の出馬を懇願した。

新野親矩【にいのちかのり(15??~1564)】

新野新(舟ケ谷城)城主。今川家臣。通称は左馬助。新野氏は今川氏一族。1560年「桶狭間の戦い」の後、急速に衰えており、今川家枝連衆であった三河国の松平元康などの離反が相次ぐ中、新野親矩は今川氏真に忠節を尽くした。1562年、井伊直親が小野道好の讒言により、謀叛の嫌疑を掛けられて今川氏真に謀殺された。新野親矩は井伊家の縁戚であったこともあり、井伊直親の室で井伊家の家督を継いだ井伊直虎や、井伊直親の遺児である井伊直政を保護した。1563年、遠江国衆の引馬城主飯尾連竜が犬居城主天野景泰、元景父子、二俣城主松井宗恒らとともに今川家に謀叛を起こした。これは「遠州錯乱」と呼ばれる遠江一国を巻き込んだ謀叛であるが、新野親矩はこの時も今川方として戦い、三浦正俊、中野直由らとともに討死にした。

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【は】

浜名政明【はまなまさあき(15??~15??)】

佐久城主。今川家臣。官途は備中守。通称三郎。1522年、連歌師柴屋宗長の訪問を受け、佐久城において連歌の会を催した。他方、大福寺に田地等を寄進し、鵺代の八王子社に神田を寄進、さらに金剛寺へな末代まで浜名氏一門の寺院たることを確約する書状を入れるなど、領内の社寺にもあつい保護を加えた。浜名政明は室町幕府の権勢が衰退していくとともに、遠江守護今川家との関係を深めていった。

浜名正国【はまなまさくに(15??~15??)】

浜名政明の男。通称三郎。1560年、浜名正国は今川義元に属して「尾張侵攻」の「桶狭間の戦い」で、今川義元が織田信長の奇襲によって討死すると、軍勢を徹して帰国した。 今川義元のあとを継いだ今川氏真は、領国を治める器量に乏しく、次第に家臣団から信頼を失っていった。松平元康は三河国において自立し、甲斐の武田晴信は駿河国に食指を伸ばしてくるなか浜名正国は病没した。

浜名重政【はまなしげまさ(15??~15??)】

浜名正国の男。官途は肥前守。通称三郎。室は朝比奈泰能の娘。1568年、松平元康は「遠江侵攻」を開始、今川家麾下の佐久城にも徳川勢が押寄せた。今川氏真のために佐久城で抵抗姿勢をしめた。1569年、松平元康は、井伊谷を通過して浜松に侵攻し、浜松を拠点として「遠江攻略」を進めていった。松平元康が迂回して浜松城に侵入したことを知った浜名重政は、身の危険を感じ、家臣数人を連れて武田勝頼を頼って落延びた。佐久城に松平勢が押し寄せたが、主将を失った佐久城では、長老大矢政頼が大将となって松平勢を迎え撃とうとした。松平勢からの降伏勧告を受け入れて、佐久城を開城した。

浜名家臣団【はまなけかしんだん】

大矢政頼。

堀越貞基【ほりこしさだもと(15??~1537)】

見付城主。今川家枝連衆。通称六郎。「花倉の乱」では玄広恵探側に与したため今川義元の命を受けた天野虎景に攻められて討死した。
1536年、今川家の家督相続争い「花倉の乱」が起きると、堀越貞基、堀越氏延親子は玄広恵探を擁立する勢力に加担し、栴岳承芳(今川義元)と対立した。1537年、玄広恵探側が敗れたため、天野虎景の攻撃を受け、堀越貞基は討死した。。

堀越氏延【ほりこしうじのぶ(15??~1594)】 

堀越貞基の男。通称六郎。堀越貞基は「河東の乱」で同じ遠江の井伊家、堀越貞基の舅である北条氏綱らと組んで駿河挟み撃ちで巻き返しを図るも、駿河国今川家と北条家の間に武田家が介入し、停戦となったため、今川家に所領を大きく奪われてその力を減らした。1560年「桶狭間の戦い」を契機に駿河今川家が混乱すると、再度駿河今川家に対し反発を強め、その後の今川氏真の没落と松平元康の「遠江侵攻」により、松平元康の麾下に属した。

堀越家臣団【ほりこしけかしんだん】

調査中。

本間義季【ほんだよしあき(15??~15??)】

久能宗能家臣。通称十右衛門。久能弾正忠、久能宗政のの謀反を久能宗能に通報した。

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【ま】

松井貞宗【まついさだむね(15??~15??)】

豊田郡二俣城主。今川家臣。遠江の国人衆。

松井信薫【まついのぶしげ(15??~1528)】

松井貞宗の男。官途は山城守。通称左衛門尉。1514年、松井家として初めて遠州二俣城主となるが病没した。

松井宗信【まついむねのぶ(1515~1560)】

松井貞宗の次男。通称五郎八郎。1529年、兄松井信薫が病没により松井家の家督を相続した。今川氏輝、今川義元、今川氏真の三代にわたり仕え、駿府在番衆を務めたほか、今川家に従い各地を転戦しした。1549年、天野安芸守とともに三河国の田原城攻めの最前で「粉骨無比類」の働きをして今川義元から感状を受けた。1559年、父松井貞宗の知行、代官職を生前譲与される事について、今川氏真から領掌の旨の判物を与えられた。1560年、今川義元の「尾張遠征」に参陣し「桶狭間の戦い」では、松井宗信率いる一党は本陣の前備えに配置されていた。織田勢が強襲した際には本陣を守るため、松井宗信は手勢200名を率いて馳せ戻り懸命に奮戦したが、松井宗信以下ほとんどが討取られた。

松井宗親【まついぬねちか(15??~15??)】

松井信薫の男。叔父松井宗信の討死後、今井宗親が二俣城主となった。曳馬城主飯尾連竜の姉婿であった事が災いした。叛意を疑われた上に、駿府で誘殺された。

松井宗恒【まついむねつね(15??~15??)】

松井宗信の男。官途は山城守。通称八郎。今川氏真の支配力が衰え、三河国で独立した松平元康が遠江国へ、武田晴信が駿河へ侵攻を始める。この情勢を受け松井家はどちらの支持勢力となるかで家中の対立が生まれ、分裂することになった。1568年、松井宗信の嫡子松井宗恒と同族松井宗保(惣左衛門尉)の嫡男松井宗直は、二俣城にて松平元康に降伏して城を退去した。1572年、武田晴信に降り、その将依田信蕃に属して二俣城守備に再度ついた。武田家の衰亡と共に依田信蕃も松平元康に味方し、松井宗直系の遠江松井家は再び松平家に帰参した。

松井家臣団【まついけかしんだん】

松井和泉守、松井八郎三郎。

松下之綱【まつしたゆきつな(1537~1598)】

山名郡頭陀寺城主。官途は石見守。通称加兵衛。兵法者で槍術の達人松下長則の男。松下家は、曳馬城主飯尾家を寄親とする寄子で、飯尾連龍の家臣。1563年、飯尾連龍が今川家を見限り、周辺の親今川家と反今川家の豪族同士で抗争が起きた際、今川方の軍に頭陀寺城が攻落とされ炎上した。今川氏真が滅亡すると、松平元康の家臣として仕えた。1574年「第一次高天神城の戦い」では松下之綱は籠城して、のち武田家に降伏した。に長浜城主羽柴秀吉は、松下之綱を家臣として召し出した。1575年「長篠の戦い」の際には羽柴秀吉の前備として兵100余りを預けられる。1590年「小田原の役」後、松平元康が関東に移封されると、遠江国久野城16,000石を領した。

松下暁綱【まつしたあきつな(15??~15??)】

松下之綱の男。

松下重綱【まつしたしげつな(1579~1627)】

松下之綱の次男。1579年、羽柴秀吉に仕えのち羽柴秀次に属した。1598年、父松下之綱が病没により、松下家の家督を相続した。1600年「関ヶ原の役」では東軍に与して本戦に参戦し、石田三成勢と戦うなど活躍した。1603年、無断で城の石垣を築いた罪科により常陸国小張城に移封させられた。1614年「大坂の冬の陣」でも活躍した。1616年、陸奥国二本松城50,000石を領した。

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【や】

由比正信【ゆいまさのぶ(15??~1560)】

川入城主。今川家臣。1560年「駿河侵攻」に参陣するが「桶狭間の戦い」で討死した。

由比正純【ゆいまさずみ(15??~1569)】

由比正信の男。官途は出羽守。父の戦死により家督を継ぎ駿河川入城主となる。今川氏真によく仕え、武田晴信の侵攻にも抵抗した。1568年「掛川城の戦い」で奮戦するも、翌年討死した。

横地元国【よこちもとくに(1505~1554)】

横地城主。通称太郎。武田信虎を頼って甲斐国落延びたが、再興はならなかった。

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【資料Ⅰ】

遠江国(13郡/284,000石)

北榛原郡:諏訪原城。
南榛原郡:小山城。
佐野郡:掛川城。
城東郡:高天神城。
周智郡:天方城。
豊田郡:二俣城、只来城。
山名郡:頭蛇寺城。
磐田郡:久能城。
長上郡:太平寺城。
敷知郡:引馬(浜松)城。
引佐郡:千頭峰城。
麁玉郡:奥山城。
浜名郡:宇津山城。

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【資料Ⅱ】

井伊谷三人衆【いいのやさんにんしゅう】

近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時。遠州浜名湖の沿岸部を有する領主たちは、今川氏への忠誠心が比較的強かったため、家康は遠江侵攻の障害となることを危惧していた。そこで事前に、東三河の菅沼定盈を使って懐柔工作に動いた。菅沼定盈は、同族のよしみで菅沼忠久に接触。菅沼忠久が縁戚の鈴木重時を抱き込み、近藤康用まで取り込んだ。これにより松平元康は、強固な浜名湖西岸部よりも防備の弱まった井伊谷から三河主力軍を進めて、曳馬城の年内陥落という早期制圧にこぎつけたのである。この三人は松平元康の命を受けて、後に「徳川四天王」の一人である井伊直政の配下に付けられた。

遠州三十六人衆【えんしゅうさんじゅろくにんしゅう】

調査中。

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【資料Ⅲ】

遠江国【とうとうみのくに】

遠州灘に面する東海道の国。東は大井川を境として駿河国に接し、西は浜名湖の西側で三河国と接する。北は赤石山脈と伊那山地の南端の山地が信濃国との国境を作る。国名の由来は古代に淡海(琵琶湖)のある近江国が「近つ淡海」から近江国と呼ばれたのに対し「遠つ淡海」と呼ばれた浜名湖があることから遠江国と呼ばれた。北部から中部にかけては山岳地帯が続くが、南部は遠州灘に面した長い海岸線の続く平地が広がる。その中央を南北に流れる天竜川は、しばしば氾濫して大きな災害をもたらすが、それによって土壌は肥沃なものとなり、農業の発達が促された。浜名湖を中心とした漁業も盛である。

大井川【おおいがわ】

大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。古くから水量の豊富な河川であった。加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にあるため土砂流出量も多く、広大な河原を形成してきた。特に中流部は大蛇行地帯であり、『鵜山の七曲り』と呼ばれる蛇行地帯も形成されている。また、大井川は国境としても利用され、古くは駿河国と遠江国の境界線とされていた。

天竜川【てんりゅうがわ】

諏訪湖の唯一の出口である釜口水門を源流とする。信濃国上伊那郡から始まる伊那谷を形成し、遠江国へ抜ける。平野部に出て遠州灘に注ぐ。 流域は急峻な地形のため、古くから「暴れ川」「暴れ天竜」として知られた。建築用木材が流域の山林で伐採され、天竜川を筏で下って届けられた。

浜名湖【はまなこ】

遠江国西部に位置しており、南部は遠州灘に通じている。湖の面積としては日本で10番目の大きさである。形は複雑で、細江湖(引佐細江)、猪鼻湖、松見ヶ浦、庄内湖と4つの枝湾(水域)を持ち、これらの面積は湖全体の面積の4割に達する。このため、湖の周囲長は日本では3番目の長さとなる。また、汽水湖としては日本一長い。湖の北側と南側で水深は大きく異なり、北側は深く、南側は比較的浅い。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「新陰流小笠原長治」新潮文庫、「(新今川記)戦国幻野」講談社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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