2012年4月13日金曜日

戦国武蔵国人名辞典


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会田幸久【あいだゆきひさ(15??~15??)】

太田資正家臣。通称将監。もとは小笠原長時の家臣であったが、小笠原長時が武田晴信勢に敗れ越後国に落延びると、関東に下り太田資正に仕えた。後に北条氏康に仕えた。江戸衆として下平川、葛西小岩、飯塚、奥戸で276貫を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

会田信清【あいだのぶきよ(15??~15??)】

会田幸久の男。官途は中務丞。江戸衆として遠山綱景に従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

会田資清【あいだすけきよ(15??~1589)】

会田幸久の次男。官途は出羽守。

会田資久【あいだすけひさ(15??~1619)】

会田資清の男。官途は出羽守。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、越谷で隠棲した。1604年、松平元康の意向を受け、所有地の一部を割いて越谷御殿設営地に提供した。

会田資勝【あいだすけかつ(15??~15??)】

会田資久の男。通称庄七郎。松平秀忠に仕え小姓を務めた。1607年、罪を受け駿河国掛川城に預けられた。1610年、赦免された。

会田政重【あいだまさしげ(1581~1624)】

会田資久の養子。通称七左衛門。1616年、会田政重が新田開発工事の安全を祈願して観照院を建立した。関東郡代伊奈忠次のもとで代官職を務め、新田開発に貢献した。

青木治部【あおきじぶ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。

赤沢千寿【あかざわちひろ(15??~15??)】

太田康資家臣。高田内で15貫文を領した。

秋元政朝【あきもとまさとも(15??~15??)】

深谷上杉憲盛家臣。

秋元景朝【あきもとかげとも(1525~1587)】

秋元政朝の男。官途は越中守。北条氏康勢との戦いでは、主力として戦うが、上杉憲盛が北条氏康に降るとそれに従った。熊野大神社を造営した。

秋元長朝【あきもとながとも(1546~1628)】

秋元景朝の男。官途は越中守。通称孫三郎。1589年、「小田原の役」では、上杉氏憲が小田原城に籠城したため、秋元長朝は深谷城を守備した。深谷城を小田原城が開城するまで守り通し、役後松平元康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝への使者として会津に赴いた。役後も松平元康の要請で再び会津に赴いて長尾景勝に降伏を勧め、この功により10,000石を領した。1604年、利根川の治水工事に大きな成功を収め、所領の収穫を倍増させた。1614年、「大坂冬の陣」にも参陣して戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

秋元泰朝【あきもとやすとも(1580~1642)】

秋元長朝の男。官途は但馬守。室は大河内秀綱の娘。1614年、「大坂冬の陣」後、大坂城の堀の埋立に功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」後、羽柴秀頼勢の残党狩りを行った。1628年、父秋元長朝の病没により家督を相続した。1633年、甲斐国東部の郡内地方を治める谷村城代として18,000石を領した。1642年、「寛永の大飢饉」では、奉行職を務めその対策にあたった。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅羽下総守【あさばしもふさのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。児玉郡浅羽城主。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、長尾景虎勢に参陣した。1584年、「上野館林城の戦い」では、浅羽甚内、浅羽成友が北条氏照勢の先導役を務めた。

浅羽左近【あさばさこん(15??~15??)】

浅羽下総守の男。

浅羽今巴【あさばともえ(15??~1590)】

浅羽下総守の娘。別名「今巴御前」。片眼の姫で心立ては雄々しく、武芸に長けていた。1589年、「小田原の役」で父浅羽下総守と兄浅羽左近が小田原城に籠城したため、家老の森田将監とともに浅羽城に籠城した。1590年、「浅羽城の戦い」では、前田利家、長尾景勝、真田昌幸勢の攻撃を受け森田将監が討死、浅羽今巴も奮戦するも負傷して、侍女達とともに「弁天池」に身を投げ自害した。

朝見玄光【あさみげんこう(15??~15??)】

北条氏邦家臣。秩父郡根古屋城主。官途は伊勢守。別名阿佐見玄光。1569年、武田晴信勢を早朝に発見した戦功により朝見家に改姓した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

朝見慶延【あさみよしのぶ(15??~15??)】

朝見玄光の男。官途は伊賀守。

阿諏訪巳之助【あすわみのすけ(15??~15??)】

入間郡龍谷山城主。1524年、「龍谷山城の戦い」で北条氏綱勢に属したため、山内上杉憲房勢の攻撃を受けた。

安宅七郎次郎【あたぎしちろうじろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。松山衆。吉見郡山下で1貫500文を領した。

安保泰広【あぼやすひろ(15??~15??)】

児玉郡御嶽城主。官途は信濃守。別名安保全隆。1543年、「上戸の戦い」で伯父の安保氏繁のを陣代として山内上杉憲政勢に属して参陣させた。1552年、「御嶽城の戦い」で北条氏康勢の攻撃を受け降伏した。

安保泰忠【あぼやすただ(15??~15??)】

安保泰広の男。官途は中務大輔。1552年、「御嶽城の戦い」では、父安保泰広とともに北条氏康勢戦ったが敗れて降伏した。

安保泰倫【あぼやすみち(15??~15??)】

安保泰忠の男。通称左衛門尉。1569年、「御嶽城の戦い」で武田晴信勢に奪われた御嶽城を奪還する戦功を挙げた。

安保晴泰【あぼはるやす(15??~15??)】

北条氏邦家臣。官途は中務大輔。

新井日向守【あらいひゅうがのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。

荒木長善【あらきながよし(15??~1590)】

成田長親家臣。通称四郎兵衛。埼玉郡荒木80貫を領した。1589年、「小田原の役」では、成田長親に従って小田原城に籠城した。1590年、羽柴秀吉勢と戦い討死した。

行方康親【いくほうやすちか(15??~15??)】

扇谷上杉興朝家臣。荏原郡行方館主。通称与次郎。

行方義安【いくほうよしやす(15??~1570)】

行方康親の男。官途は修理亮。行方義安の内室で斎藤政賢の妹にあたる妙安尼が兄斎藤政賢、妹尾三河守とともに館跡に妙安寺を建立した。

行方直清【いくほうなおきよ(15??~1590)】

行方義安の男。官途は弾正忠。別名行方明連。1589年、「小田原の役」で羽柴秀吉勢の前田利家、長尾景勝、真田昌幸らとの戦い討死した。 

池谷肥前守【いけやひぜんのかみ(15??~15??)】

上田憲定家臣。岩崎対馬守、大畠備後守とともに、新宿の市での問屋経営を任された。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

石山大学【いしやまだいがく(15??~1582)】

北条氏邦家臣。1582年、「神流川の戦い」で北条氏邦に従い参陣したが、滝川一益勢と戦い保坂大炊助ら300騎余りとともに討死した。

新曾部卓斎【いそべたくさい(15??~15??)】

成田親泰家臣。1490年、成田親泰とともに水路、新田開発、そして忍の沼湿地の地形などを吟味後、忍城を築城した。

板橋民部丞【いたばしみんぶのじょう(15??~15??)】

北条氏康家臣。玉縄衆。古河公方足利晴氏の家臣野田政保との取次役を務めた。

井田政能【いだまさたか(15??~15??)】

北条氏照家臣。多摩郡通称太郎左衛門。1538年、「河越城の戦い」で討死した。

井田是政【いだこれまさ(15??~15??)】

井田政能の男。通称次郎。官途は摂津守。1589年、「小田原の役」後、北条氏照が自刃すると、府中に落延びて是政村を開墾した。

市田長兼【いちだながかね(15??~15??)】

成田長泰家臣。通称太郎。熊谷久下城主。室は成田長泰の娘。1590年、「忍城の戦い」では、佐間口を守備した。

井上将監【いのうえしょうかん(15??~15??)】

太田氏房家臣。埼玉郡井上館50貫を領した。1589年、「小田原の役」後、太田氏房が改易処分に処されると、隠棲した。

井上三郎左衛門【いのうえさぶろうざえもん(15??~15??)】

井上将監の男。

井上三河守【いのうえみかわのかみ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。永田城代を務めた。1590年、「鉢形城の戦い」では、鉢形城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。

猪俣邦憲【いのまたくにのり(15??~1590)】

北条氏邦家臣。那珂郡猪俣館主。官途は能登守。別名富永助盛。奉行衆として仕え、後に北条氏邦から箕輪城代、次いで沼田城代に任じられた。1589年、「上野名胡桃城の戦い」では、真田昌幸の家臣鈴木重則が守備する名胡桃城に対し、鈴木重則の枝連衆中山九郎兵衛を内応させ、鈴木重則を城外へと誘き出し、中山九郎兵衛に城を乗っ取らせた。1590年、「箕輪城の戦い」では、前田利家、長尾景虎、真田昌幸勢の攻撃を受け、落延びたが、厳しい探索によって捕縛され磔の刑に処された。

猪俣範宗【いのまたのりむね(15??~15??)】

猪俣邦憲の弟。児玉郡虎ヶ岡城主。通称勘解由左衛門。別名富永助重。

猪俣肥前守【いのまたひぜんのかみ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。侍大将を務め900貫を領した。

今村佐渡守【いまむらさどのかみ(15??~15??)】

成田氏長家臣。1590年、「忍城の戦い」では、島田出羽守ととともに行田口を守備した。浅野長政、長束正家勢の攻撃を受けたがこれを撃退した。

岩崎対馬守【いわさきつしまのかみ(15??~15??)】

上田憲定家臣。大畠備後守、池谷肥前守とともに、新宿の市での問屋経営を任された。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

岩崎源三郎【いわさきげんざぶろう(15??~15??)】

木戸忠朝家臣。

岩田義幸【いわたよしゆき(15??~15??)】

藤田康邦家臣。官途を対馬守。北条氏邦に仕え天神山城代を務めた。

員野半四郎【いんのはんしろう(15??~15??)】

北条氏照家臣。1563年、「辛垣城の戦い」では、北条氏照勢の先導役を務めたが、三田綱秀勢の鉄砲に討取られた。

扇谷上杉朝興【うえすぎともおき(1488~1537)】

入間郡河越城主。扇谷上杉朝寧の男(上杉朝良の養子)。官途は修理大夫。通称五郎。1504年、叔父扇谷上杉朝良が山内上杉顕定との戦いに敗れ、敗戦の責任を取って上杉朝興に家督を譲った。1513年、太田資康を援将して三浦義同の救援に赴かせるが討死した。1516年、扇谷上杉朝興も三浦義同への支援に乗り出すが、新井城は落城三浦義同、三浦義意父子は討死した。1518年、扇谷上杉朝良が病没すると、その遺児扇谷上杉藤王丸が幼少であったため、陣代として家政を取り仕切った。1524年、「高輪原の戦い」で北条氏綱勢と戦うも敗れて河越城へ後退した。山内上杉憲房とともに毛呂城を攻撃するが、山内上杉憲房の家臣藤田泰邦を仲介にして和議を結び毛呂城は山内上杉家領となった。1525年、「第一次岩槻城の戦い」で北条氏綱勢の攻撃を受け落城すると、扇谷上杉朝興も北条氏綱勢の蕨城を攻め落した。扇谷上杉朝興は太田資頼、三戸義宣らを通じ、山内上杉顕定の家臣白井長尾景誠や長尾為景への支援を依頼した。1530年、「小沢原の戦い」で北条氏康勢と戦うも敗れた。1532年、上杉朝興は、幼主藤王丸を謀殺して扇谷上杉家の家督を名実ともに手中に入れるが、北条氏綱勢の攻勢を受け続け終始苦戦を強いられた。

扇谷上杉朝定【うえすぎともさだ(1525~1546)】

上杉朝興の男。官途は修理大夫。通称五郎。1537年、父上杉朝興の病死により扇谷上杉家の家督を相続した。幼少のため叔父上杉朝成と曽我丹波守の後見を受けた。1538年、「三木原の戦い」で北条氏綱と戦い、叔父上杉朝成が捕縛されるなど大敗を喫し、さらに河越城を失陥し、松山城に後退した。松山城主難波田善銀の支援を受け北条氏綱勢と対抗した。1541年、上杉憲政と結び北条氏康勢に対抗した。1545年、上杉朝定は山内上杉憲政、足利晴氏らと結んだ。1546年、「河越城の戦」では、北条氏康の奇襲を受け討死した。

扇谷上杉朝成【うえすぎともなり】

上杉朝良の次男。上杉朝興が病没すると、上杉朝定を曾我丹波守とともに後見役を務めた。1537年、「河越城の戦い」で北条氏綱勢の攻撃を受けると、上杉朝定の陣代として参陣した。北条氏綱勢に敗れ、上杉朝成は捕縛された。

深谷上杉憲賢【うえすぎのりかた(15??~1560)】

山内上杉顕定家臣。幡羅郡深谷城主。上杉憲清の男。通称次郎。室は高泰姫。1541年、「上野金山城の戦い」では、横瀬泰繁を攻撃した。1546年、「河越城の戦」で扇谷上杉朝定が討死すると、北条氏康に内応した。1552年、山内上杉憲政が越後国に落延びた後も家臣の岡谷清英、秋元景朝らの活躍によって深谷城を守り続けるが、やがて上杉憲賢も北条氏康に降伏した。

深谷上杉憲盛【うえすぎのりもり(1530~1575)】

上杉憲賢の男。官途は左兵衛佐。通称三郎。室は太田資時の娘。父上杉憲賢が成田長泰と結ぶと、太田資時の娘を内室に迎えた。1560年、父上杉憲賢の病没により深谷上杉家の家督を相続したが、その混乱に乗じて由良成繁勢300騎余りの攻撃を受けたが、上杉憲盛は120騎しか集められず敗退、北部の領土を失った。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、それに属して小田原城を攻撃shた。1563年、再度北条氏康に降ると長尾景虎勢の成田氏長の攻撃を受けた。1569年、長尾景虎と北条氏康が結ぶと長尾景虎勢に属した。上杉憲盛が病没すると、継嗣の上杉氏憲が深谷上杉家の家督を相続した。

深谷上杉氏憲【うえすぎうじのり(15??~1637)】
 
上杉憲盛の男。通称三郎。別名上杉氏盛。室は北条氏繁の娘。1582年、「上野神流川の戦い」では、北条氏邦勢に属して戦功を挙げた。1589年、「小田原の役」では、小田原城に籠城するが、深谷城は家臣の秋元長朝が開城、降伏した。

深谷上杉憲俊【うえすぎのりとし(1579~1648)】

上杉憲盛の男。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、父上杉氏憲とともに所領を失った。1617年、播磨国平福城主池田池田輝興に仕えた。

深谷上杉吉次【うえすぎよしつぐ(15??~15??)】

上杉憲盛の次男。松平元康に馬廻衆を務めた。

松山上杉憲勝【うえすぎのりかつ(15??~15??)】

上杉定正の三男。官途は新蔵人。通称七沢三郎。1559年、「第一次松山城の戦い」で太田資正が松山城を攻落とすと、その城将として招かれた。その後、長尾景虎勢に属した。1562年、「第二次松山城の戦い」では、武田晴信、北条氏康勢の攻撃を受け降伏した。1563年、北条氏康に仕え300貫を領した。

上田政広【うえだまさひろ(15??~1561)】
 
扇谷上杉興朝家臣。秩父郡安戸館主。通称又次郎。別名「案独斎」。1537年、「河越城の戦い」で北条氏綱に敗れ扇谷上杉朝定が松山城に落延びると、難波田弾正とともに松山城を守り抜いた。1546年、「第二次岩槻城の戦い」で太田資正とともに夜襲で岩槻城を奪回した。太田資正との同盟が崩れると、北条氏康に降伏して本領を安堵された。1547年、上田家の家督を継嗣の上田朝直に家督を譲って隠居した。1561年、長尾景虎勢の攻撃を受け討死した。

上田朝直【うえだともなお(1494~1582)】

上田政広の男。官途は能登守。通称又次郎。別名「安独斎」。娘(蓮覚院)は北条氏勝に嫁いだ。北条氏康勢に属して関東各地を転戦した。行政手腕に優れており、北条氏康から信任を受けて独自の領国経営を許された。1559年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、北条氏康から離反して、長尾景虎勢に属した。1561年、長尾景虎が関東から撤兵すると、再び後北条氏康勢に帰参したが、責任を問われて減封処分に処された松山城を失った。1569年、「三増峠の戦い」では、武田晴信勢と戦い戦功を挙げ松山城主に復帰した。

上田長則【うえだながのり(1534~1583)】

上田朝直の男。官途は能登守。定書を発行して城下街の発展の基礎を築くなど、優れた行政手腕を示した。1573年、父上田朝直の隠居により上田家の家督を相続した。

上田憲直【うえだのりなお(15??~15??)】

上田朝直の次男。1583年、兄上田長則の病没により、上田家の家督を相続した。十二年、上田家の家督を上田長則の継嗣、上田憲定に譲った。

上田憲定【うえだのりさだ(1546~1597)】

上田長則の男。官途は上野介。1583年、叔父の上田憲直から上田家の家督を譲られた。1589年、「小田原の役」では、松山城の守備は家老衆に任せ、自身は小田原城に籠城した。1590年、「松山城の戦い」では、羽柴秀吉勢の攻撃を受け落城した。北条氏直が滅亡すると、上田憲定も改易処分に処された。

上田豹徳軒【うえだひょうとくけん(15??~15??)】

北条氏康家臣。比企郡古郡館主。江戸衆。

上田左近【うえださこん(15??~15??)】

上田朝直家臣。官途は周防守。入東郡鶴間、水子、難波田で477貫962文を領した。

埴谷図書助【うえたにずしょのすけ(15??~15??)】

太田資正家臣。

潮田資忠【うしおだすけただ(15??~1590)】

足立郡寿能城主。太田資正の五男。官途は出羽守。潮田家の家督を相続した。父太田資正に従ったが、兄太田氏資が太田資正を追放後は太田氏資に従った。1564年、太田氏資が北条氏康勢に属すると、潮田資忠も北条氏康勢に降った。1589年、「小田原の役」では、継嗣の潮田資勝とともに小田原城に籠城したが、田口輪曲で討死した。

潮田資勝【うしおだすけかつ(15??~1590)】

潮田資忠の男。1589年、「小田原の役」では、父潮田資忠とともに小田原城に籠城したが、田口輪曲で討死した。

潮田資政【うしおすけまさ(15??~16??)】

潮田資忠の次男。1590年、父潮田資忠は石田三成勢と戦い小田原城四ッ門蓮沼で、兄潮田資勝とともに討死した。潮田資政は家老職の北沢直信、加藤大学とともに寿能城に篭城した。「寿能城の戦い」では、浅野長政勢の攻撃を受け伯父の太田資武とともに常陸国に落延びた。後に土井利勝に仕え、家老職を務めた。

潮田沙代姫【うしおさよひめ(15??~15??)】

潮田常陸介の娘。潮田資忠の室。美女ではないが、気のつく優しい娘で潮田資忠に愛された。参考文献:『ほたる舞う城』by越路遼介。

潮田紅花姫【うしおべぶはなひめ(15??~15??)】

太田資正の室。潮田常陸介の妹。の側室で資忠生母。大変な笛の名手で太田資正に見初められたきっかけも笛であった。参考文献:『ほたる舞う城』by越路遼介。

潮田能姫【うしおのうひめ(15??~15??)】

潮田資忠の娘。龍神の花嫁と呼ばれる絶世の美女。祖母から習った笛を吹く。1590年、「寿能城の戦い」で浅野長政勢の攻撃を受け侍女の於漣とともに見沼に身を投げ自害した。参考文献:『ほたる舞う城』by越路遼介。

牛込重行【うしごめしげゆき(15??~15??)】

豊島郡牛込城主。別名大胡重行。

牛込勝行【うしごめかつゆき(15??~15??)】

牛込重行の男。赤坂、桜田、日比谷を領した。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、松平元康に仕え牛込城は取り壊された。

牛村助十郎【うしむらすけじゅうろう(15??~15??)】

太田資正家臣。1563年、太田資正の意向を受け恒岡資宗、佐枝信宗らとともに井草郷の堤防工事の作事奉行を務めた。

宇田川杢頭【うだがわもくのかみ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。

宇田川弾正忠【うだがわだんじょうちゅう(15??~15??)】

太田資正家臣。足立郡辻館主。

内海掃部【うちうみかもん(15??~1535)】

吉良頼康家臣。1535年、常盤姫との密通の嫌疑を受け吉良頼康に謀殺された。

内田兵部丞【うちだひょうぶのじょう(15??~15??)】

太田資正家臣。

内田孫四郎【うちだまごしろう(15??~15??)】

内田兵部丞の男。1562年、「赤浜原の戦い」では、山田直定を討取る戦功を挙げた。

宇野定治【うのさだはる(15??~15??)】

伊勢盛時家臣。通称藤右衛門尉。伊勢盛時に小田原に招かれ、丸薬「透頂香」を製造販売権を認められた。川越今成の代官職に任じられた。

宇野家治【うのいえはる(15??~15??)】

宇野定治の男。通称源十郎。馬廻衆。川越今成200貫465文を領した。

宇野吉治【うのよしはる(15??~15??)】

宇野家治の男。通称藤五郎。馬廻衆。松山筋野本京方26貫463文を領した。

梅沢兵庫【うめさわひょうご(15??~15??)】

北条氏邦家臣。深谷衆。1582年、「神流川の戦い」で北条氏邦に従い参陣した。

雲岡舜徳【うんこうしゅんとく(1438~1516)】

上野国補陀寺の月江正文、武蔵国大泉寺の天庵玄彭にまなび、玄彭の法を次いだ。1476年、太田資長にまねかれ武蔵国芝に青松寺を創建した。のち武蔵越生の龍穏寺、小田原の最乗寺の住持。伊勢国出身。

武蔵江戸重久【えどしげひさ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。官途は周防守。1549年、吉良頼康は、江戸重久と大吉寺の在誉和尚の勧めにより、吉良家菩提寺の泉沢寺再興を行った。

武蔵江戸浄仙【えどじょうせん(15??~15??)】

吉良頼康家臣。官途は摂津守。1542年、景福軒呂胤と連署で宝生寺の諸公事免除の書状を発給した。1546年、世田谷八幡宮の造営奉行を務めた。

武蔵江戸頼忠【えどただより(15??~15??)】

吉良氏朝家臣。官途は刑部少輔。通称彦五郎。1561年、吉良氏朝から所領安堵状を受けた。1570年、吉良氏朝は北条氏政から駿河国興国寺城への在番を命じられ、家臣の大平右衛門尉と江戸頼忠らを派遣した。

武蔵江戸頼年【えどよりとし(15??~15??)】

吉良氏朝家臣。官途は近江守。1570年、吉良氏朝は北条氏政から駿河国興国寺城への在番を命じられ、家臣の大平右衛門尉と江戸頼忠らを派遣した。

武蔵江戸朝忠【えどよりただ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。官途は摂津守。

円城寺頼長【えんじょうじよりなが(15??~15??)】

吉良頼康家臣。官途は大膳亮。1548年、泉沢寺の再興を吉良頼康、江戸頼忠とともに支援した。

遠藤清吉【えんどうきよよし(15??~15??)】

幸手一色直朝家臣。官途は石見守。1574年、葛飾郡内国府間を開墾した。

大石定重【おおいしさだしげ(1467~1527)】

多摩郡滝山城主。大石顕重の男。扇谷上杉朝興家臣。武蔵国守護代。大石家は代々扇谷上杉家の重臣として武蔵守護代を任されていた。1510年、「権現山城の戦い」では、上田政盛が権現山城に籠城すると、山内上杉憲房、上杉朝良勢に従って成田顕泰、長尾とともに援軍の伊勢盛時勢を撃退した。

大石定久【おおいしさだひさ(15??~15??)】

大石定重の男。通称源左衛門尉。1546年、「河越城の戦い」で扇谷上杉朝定が討死すると、北条氏康勢に属した。1559年、北条氏康の三男北条氏照を娘(比佐姫)の婿養子として迎え、滝山城と武蔵国守護代職を座を譲り隠居した。隠居後、長尾景虎や勝沼城主三田綱秀らと誼を通じていた。

大石定仲【おおいしさだなか(1534~1590)】

大石定久の男。官途は播磨守。室は松田康定の娘。1559年、父大石定久は、扇谷上杉朝興が討死したため、北条氏康の三男北条氏照を娘(比佐姫)の婿養子として迎え入れて滝山城と武蔵守護代の座を譲った。大石定仲は、父大石定久の没後に北条氏照が北条家に復すると大石家の家督を継ぎ、北条氏照勢に属した。

大石直久【おおいしなおひさ(15??~15??)】

大石定仲の男。官途は越後守。通称源太郎。1581年、北条氏政の意向を受け、駿河国獅子浜城の城代職を務めた。

大石石見守【おおいしいわみのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。下総国葛飾郡葛西城主。太田資正の筆頭家老職を務めた。1538年、「葛西城の戦い」では、北条氏綱勢の攻撃を受け太田資正を頼って落延びた。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、それに従った。

大石縄周【おおいしつなかね(15??~15??)】

大石定久家臣。柏の城主。大石領を北条氏照に引渡した。1553年、下長房村白山社造営した。

大石直久【おおいしなおひさ(15??~15??)】

大石縄周の男。官途は越後守。通称源太郎。北条氏政の意向を受け、駿河獅子浜城を守備した。

大石信吉【おおいしのぶよし(15??~15??)】

大石直久の男。官途は信濃守。

大草加賀守【おおぐさかがのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。小田原衆。比企郡中山で391貫420文を領した。

大草丹後守【おおくさたんごのかみ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。

大越彦次郎【おおこしひこじろう(15??~15??)】

成田長泰家臣。館山館主。51貫文を領した。

大島大炊助【おおしまおおいのすけ(15??~15??)】

太田資正家臣。1559年、太田資正の意向を受け大島大炊助と深井好秀とともに鴻巣の開墾を行った。

大島大膳亮【おおしまだいぜんのじょう(15??~15??)】

太田資正家臣。1567年、「三船山の戦い」で太田氏資とその家臣53騎が討死すると、北条氏政から春日摂津守とともに岩槻城代に任じられた。1564年、河目資為とともに刷村10貫文を与えられた。

岩槻太田資家【おおたすけいえ(15??~1522)】

埼玉郡岩槻城主。太田資清の次男(太田資長の養子)。官途は信濃守。兄太田資長の養子となった。養父太田資長が扇谷上杉定正に謀殺された後も扇谷上杉定正に仕えた。1512年、「永正の乱」で敗れた成田顕泰に替わって岩槻城主に任じられた。比企郡三保谷に養竹院を建立した。

岩槻太田資頼【おおたすけより(1484~1536)】

太田資家の男。官途は美濃守。通称彦六。1522年、父太田資家の病没により岩槻太田の家督を相続した。1525年、「第一次岩槻城の戦い」では、家臣の渋江右衛門大夫が北条氏綱に内応したため、多くの討死を出して岩槻城は落城、太田資頼は足立郡石戸城に落延びた。1530年、太田資頼は渋江右衛門大夫を破って岩槻城を奪還した。1533年、太田家の家督を太田資時に譲って隠居した。

岩槻太田資時【おおたすけとき(15??~1546)】

太田資頼の男。官途は信濃守。室は成田親泰の娘。娘は上杉憲盛に嫁いだ。1533年、父太田資頼の隠居により家督を相続した。1546年、「河越城の戦い」で扇谷上杉朝定が北条氏康勢に敗れて討死したため、北条氏康に降伏した。

岩槻太田資正【おおたすけまさ(1522~1591)】

太田資頼の次男。官途は美濃守。別名「三楽斎」。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して侵攻すると、長尾景虎勢に属して、その先陣を務めた。「松山城の戦い」では、長尾景虎勢の支援を受け松山城を攻め落とし、上杉憲勝を城主に迎えた。松山城は、北条氏康、武田晴信勢の攻撃を受け落城した。1563年、北条氏康は太田資正と和議を図るが太田資正は拒絶、里見義堯勢と結び北条氏康勢に対抗した。1564年、「第二次国府台の戦い」では、里見義堯、太田康資らとともに北条氏康勢と戦うが大敗した。継嗣の岩槻太田氏資が北条氏康に内応、太田氏資に次男梶原政景とともに岩槻城から追放された。太田資正、梶原政景父子は、佐竹義重を頼って常陸国に落延びた。1565年、「第三次岩槻城の戦い」では、北条氏康勢の援軍により岩槻城を奪還することができなかった。1569年、「越相同盟」が成立すると、長尾景虎勢から離脱して、織田信長と親交を図った。1589年、「小田原の役」では、佐竹義宣とともに羽柴秀吉勢に参陣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩槻太田氏資【おおたうじすけ(1542~1567)】

太田資正の男。官途は大膳大夫。室は北条氏康の娘(長林院)。父太田資正は北条氏康勢と争ったが、和議の条件で北条氏康の娘を内室に迎えたことから、北条氏康勢に属した。1564年、「第二次国府台の戦い」で里見義堯、太田康資らが大敗すると、太田資正、弟の梶原政景を岩槻城から追放して岩槻太田家の家督を相続した。1567年、「三船山の戦い」で北条氏康勢が里見義弘勢に大敗した際、殿をを務め討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩槻太田源五郎【おおたげんごろう(15??~1582)】

北条氏政の次男。通称国増丸。1567年、「三船山の戦い」で太田氏資が里見義弘勢と戦い討死すると、北条氏康の娘との間に生まれた女児だけがのこされた。1575年、太田源五郎が太田氏資の娘を内室に迎え、父北条氏政の後見を受け太田家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩槻太田氏房【おおたうじふさ(1565~1592)】

北条氏政の三男。別名北条氏房。1582年、太田源五郎が病没するとその未亡人である太田氏資の娘を室として太田家の相続した。1589年、「小田原の役」では、居城の岩槻城は家臣に守らせ、自身は小田原城に籠城した。包囲中、太田氏房は蒲生氏郷勢に夜襲をかけた。1590年、兄北条氏直とともに高野山で蟄居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩槻太田資武【おおたすけたけ(1570~1643)】

太田資正の三男。官途は安房守。通称源三郎。1589年、「小田城の戦い」では、小田氏治勢の攻撃を受けるが、次兄梶原政景とともにこれを撃退した。1591年、「九戸政実の乱」にも参陣した。その後、結城秀康に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」にも次兄梶原政景とともに参陣した。著書に『太田資武書状』。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩槻太田景資【おおたかげすけ(15??~15??)】

太田資正の四男。通称源七。父太田資正とともに佐竹義重に仕えた。1585年、下野国那須郡武茂城に在番した。宇都宮国綱から北条氏直による攻撃の報告を受けた。1589年、「小田原の役」では、佐竹義宣、太田資正らとともに羽柴秀吉に謁した。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国秋田に転封になると、これに従った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩槻太田下野守【おおたしもつけのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。足立郡与野館主。1562年、「松山城の戦い」では、上杉憲勝を支援して三田五郎左衛門とともに松山城に籠城、北条氏康、武田晴信勢と戦った。1564年、太田資正が岩槻城を追放されると、太田氏資に仕えた。1565年、太田資正の岩槻城の奪還に協力したが失敗した。以降、太田資正に従った。

岩槻太田としやう【おおたとしやう(15??~15??)】

三戸興義の室。太田資頼の娘。別名「笑室守胎尼」。1563年、太田資正から代山、寺山、たい野の所領を安堵された。1570年、長尾景虎の家臣山吉豊守から長尾景虎と太田資正の和解を図るように依頼された。

江戸太田資高【おおたすけたか(1498~1547)】

扇谷上杉朝興家臣。豊島郡岩淵砦主。太田資康の次男。官途は大和守。通称六郎左衛門。室は北条氏綱の娘(浄心院)。扇谷上杉朝興に不満を持ち、北条氏綱と結んだ。1524年、「高輪原の戦い」で北条氏綱とともに扇谷上杉朝興勢と戦いこれを撃ち破り江戸城を攻略した。江戸城の本丸には、北条氏綱の家臣富永政辰、二の丸には遠藤直景が入り、太田資高は香月郭に配置された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

江戸太田景資【おおたかげすけ(15??~1563)】

太田資高の男。官途は左衛門尉。通称源七郎。異母弟太田康資が江戸太田家の家督を相続した。荏原郡目黒で75貫文を領した。1563年、「松山城の戦い」で太田資正勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

江戸太田康資【おおたやすすけ(1531~1581)】

太田資高の次男。通称新六郎。室は遠山綱景の娘(法性院)。1547年、父太田資高が病没すると家督を相続した。江戸太田康資は所領は約2,000貫、これは家中の席次第六位。1554年、北条氏康と武田晴信が駿河国で戦った際には、原虎胤勢を撃退する戦功を挙げた。1562年、長尾景虎に内応するが失敗して太田資正のもとに落延びた。1564年、「第二次国府台の戦い」では、里見義堯、太田資正らとともに北条氏康勢と戦うが大敗して安房国に落延びた。戦い」は、里見義弘、太田康資連合軍が大敗して安房国へ落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

江戸太田駒千代【おおたこまちよ(1553~1564)】

太田康資の男。1564年、「伊豆醫王寺の戦い」で北条氏康勢の攻撃を受け自刃した。
 
江戸太田重正【おおたしげまさ(1561~1610)】

太田康資の次男。通称新六郎。別名太田助綱。1562年、父太田康資が長尾景虎勢に内応して、江戸城を追われると、太田康資とともに常陸国に落延びた。兄の太田駒千代は伊豆国で北条氏康勢の攻撃を受け自刃した。1564年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢と戦い敗れると太田康資とともに安房国に落延びた。1581年、太田康資が病没すると、太田資正を頼った。1591年、松平元康が関東に転封になると、松平元康に仕えて豊島郡蓮沼内で500石を領した。1600年、「関ヶ原の役」にも参陣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

江戸太田資宗【おおたすけむね(1600~1680)】

太田重正の次男(於梶の方の養子)。官途は摂津守。1610年、父太田重正が病没すると、太田家の家督を相続して書院番頭、小姓組番頭などを務めた。寛永十年、若年寄六人衆に任じられた。1637年、「島原の乱」では、松平信綱とともに九州諸侯を指揮した。1638年、三河国西尾城35,000石を領した。1641年、『寛永諸家譜図伝』の編纂奉行職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

江戸太田輝資【おおたてるすけ(15??~1603)】

太田資高の次男。官途は備中守。1562年、兄太田康資が長尾景虎勢に内応すると、これに従わず岩槻城主太田資正の継嗣太田氏資と結んで太田康資を追放しし、太田氏資に仕えた。1567年、「三船山の戦い」で太田氏資が北条氏康勢に属して里見義堯勢と戦い討死すると、太田源五郎、太田氏房兄弟に仕えた。1582年、「武田家討伐」では、北条氏政の意向で上野国方面から信濃国への侵攻を図るが、逆に滝川一益勢の上野国侵攻を許してしまい北条氏政の叱責を受けた。1589年、「小田原の役」では、北条氏直勢に属さず河越城に退去した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

太田十郎兵衛【おおたじゅうろうべえ(15??~15??)】

北条氏康家臣。松山衆。入西郡堀籠で27貫779文を領した。

太田新次郎【おおたしんじろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。江戸衆。江戸原宿、川越鴨田で22貫500文を領した。

太田豊後守【おおたぶんごのかみ(15??~15??)】

北条氏政家臣。作事奉行。松山衆。吉見郡大串、比企郡戸森、上野国高嶋郷で502貫922文を領した。1561年、「児玉生山の戦い」で北条氏政に従い参陣して戦功を挙げた。

大嶌善久【おおとりよしひさ(15??~15??)】

太田資正家臣。官途は土佐守。鴻巣七騎衆。

大島久家【おおしまひさいえ(15??~15??)】

北条氏康家臣。官途は大膳亮。伊豆国大島出身。

大島重富【おおとりよしひさ(15??~15??)】

大嶌善久の三男(大島久家の養子)。通称小四郎。

大嶌隆次【おおとりよしひさ(15??~15??)】

大島善久の次男(大島久家の養子)。通称與四郎。

大場景茂【おおばかげしげ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。官途は対馬守。

大場越後守【おおばえちごのかみ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。

大畠備後守【おおはたびんごのかみ(15??~15??)】

上田憲定家臣。岩崎対馬守、池谷肥前守とともに、新宿の市での問屋経営を任された。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

大野弾正【おおのだんじょう(15??~15??)】

北条氏邦家臣。比企郡大野城主。

大平師氏【おおひらもろうじ(15??~15??)】

吉良成高家臣。荏原郡奥沢城主。官途は出羽守。

大平師直【おおひらもろなお(15??~15??)】

大平師氏の男。官途は出羽守。通称清九郎。1551年、吉良頼康から等々力の所領を安堵された。1556年、吉良頼康、大蔵村年貢40貫その他の年貢皆済状を大平師直に与えた。

大平常盤姫【おおひらときわひめ(15??~15??)】

吉良頼康の側室。大平師直の娘。近隣に聞こえた美女だった。吉良頼康の側室として輿入れ。吉良頼康の寵愛を受け懐妊したが、それをねたむ他の側室達が、あらぬ噂を流した。常盤姫は見の危険を感じ世田谷城から落延びるが、追っ手に追われ、石橋(常盤橋)で謀殺された。

大森明昇【おおもりめいしょう(15??~15??)】

扇谷上杉朝定家臣。官途は式部大輔。室は難波田憲重の娘。継嗣の難波田憲次が難波田憲重の養子になり、難波田家の家督を相続した。

岡部広定【おかべひろさだ(15??~15??)】

三田綱秀家臣。官途は出雲守。1553年、駒形大権現の御神体を奉納した。

岡上主水助【おかがみもんどのすけ(15??~15??)】
 
北条氏康家臣。小田原衆。大高麗郷の代官職を務めた。入西郡沢木で11貫238文を領した。

岡谷香丹【おかやこうたん(15??~1537)】

深谷上杉房憲家臣。榛沢郡皿沼城主。官途は伊賀守。1491年、皿沼城をを築城した。1535年、岡谷家の家督を継嗣の岡谷清英に譲って曲田城に隠居した。城内に寺を創建した。

岡谷清英【おかやきよひで(15??~1584)】

岡谷香丹の男。官途は加賀守。室は矢井重次の娘。深谷上杉家三家老。深谷上杉氏の重臣として活躍、上杉謙信からの信任も厚く、謙信が後奈良天皇より賜った箱根権現の像を与えられたと伝えられる。

岡谷泰春【おかややすはる(15??~1577)】

岡谷清英の男。官途は左京亮。1577年、「上野猿ヶ京の戦い」で武田勝頼勢と戦って討死した。

岡谷泰繁【おかややすしげ(1555~1616)】

岡谷泰春の男。官途は左馬助。1570年、「深谷城の戦い」では、岡谷宗雲とともに北条氏康勢と戦い戦功を挙げた。1577年、「上野猿ヶ京の戦い」で父岡谷泰春が討死したため、岡谷家の家督を相続した。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、前田利常に仕えた。

岡谷康勝【おかややすかつ(15??~16??)】

岡谷泰繁の男。室は秋元盛朝の娘。秋元盛朝に仕え、家老職を務めた。

小川九郎兵衛【おがわくろうべい(15??~15??)】

北条氏照家臣。1590年、「八王子城の戦い」後、父とともに岸村に落延びた。小川村を開墾して帰農した。

於漣【おさき(15??~15??)】

潮田能姫の侍女。1590年、「寿能城の戦い」で浅野長政勢の攻撃を受け潮田能姫とともに見沼に身を投げ自害した。参考文献:『ほたる舞う城』by越路遼介

騎西小田顕家【おだあきいえ(15??~1539)】

埼玉郡騎西城主。官途は大炊頭。通称助五郎。別名小田宗長。成田親泰の次男小田家時を娘婿とし種垂城に隠居した。

騎西小田家時【おだいえとき(15??~15??)】

成田親泰の次男(小田顕家の養子)。官途は伊賀守。通称助三郎。室は小田顕家の娘。成田親泰と行動をともにし、北条氏康に仕えた。1563年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、騎西城も攻撃を受けれ落城した。

小田野定久【おだのさだひさ(15??~1616)】

北条氏照家臣。官途は肥後守。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、八王子で帰農した。

大谷舎人【おおたにとねり(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

荻谷加賀守【おぎわらかがのかみ(15??~15??)】

扇谷上杉興朝家臣。通称与左衛門。

小田野周定【おだのちかさだ(15??~16??)】

小田野定久の男。通称源太左衛門。北条氏照の陣代を務め、下野国方面の指揮を執った。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、松平忠吉に仕えた。

乙幡態忠【おつはたたかただ(15??~15??)】

大石定久家臣。官途は勘解由。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、昭島に帰農した。

鬼窪繁政【おにくぼしげまさ(15??~1591)】

埼玉郡鬼窪館主。官途は尾張守。

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【か】

加賀爪政豊【かがつめまさとよ(15??~15??)】

扇谷上杉興朝家臣。高坂館主。

加賀爪政尚【かがつめまさなお(1562~1596)】

加賀爪政豊の男。官途は備後守。通称甚十郎。松平元康に仕えた。1584年、「長久手の戦い」で敵を討取る戦功を挙げた。武蔵国比企郡で3,000石を領した。1596年、「慶長伏見地震」で伏見城の城門の下敷きとなり没した。

加賀爪忠澄【かがつめただすみ(1586~1641)】

加賀爪政尚の男。官途は民部少輔。通称甚十郎。室は安藤直次の娘。松平秀忠に仕えて「関ヶ原の役」や「大坂の両陣」で戦功を挙げ5,500石を領した。1612年、長崎にて来航禁止の澳門船が着航したのを目撃、船を焼いた。1641年、京橋の大火災の消火中に焼死した。

加賀爪政増【かがつめまさます(15??~15??)】

加賀爪政豊の次男。通称新三郎。

加治弥六郎【かじよろく(15??~15??)】

三田綱秀家臣。1563年、「幸垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。

加治秀成【かじへでなり(15??~15??)】

加治弥六郎の男。通称兵庫介。

梶原政景【かじわらまさかげは(1548~1615)】

太田資正の次男。官途は美濃守。別名梶原景国。室は真壁久幹の娘。1564年、父太田資正が兄太田氏資に追放されると、梶原政景は太田資正ととも佐竹義重のもとに落延びた。1573年、「小田城の戦い」では、佐竹義重に従い小田氏治勢と戦い戦功を挙げ小田城を領した。1577年、「小田城の戦い」では、北条氏直勢を撃退する戦功を挙げた。1584年、「沼尻の戦い」で北条氏直に内応したが、太田資正の仲介により帰参した。1589年、「小田原の役」後、佐竹義宣の意向を受け植田城に転封した。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封すると、結城秀康に仕え2,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、松平忠直に従って参陣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

春日摂津守【かすがせっつのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、太田資正に従って参陣した。1560年、太田氏資に恒岡越後守とともに太田資正の追放を進言した。1562年、太田氏資の代理で奉行人朱印状を発行し、内山弥右衛門尉の足立郡柴郷の棟別五間分を免除した。1567年、「三船山の戦い」で太田氏資とその家臣53騎が討死すると、北条氏政から太田大膳亮とともに岩槻城代に任じられた。

春日弥八郎【かすがよはちろう(15??~15??)】

太田資正家臣。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、太田資正に従って参陣した。

春日景定【かすがかげさだ(15??~15??)】

太田資正家臣。中丸城主。通称兵庫助。

片岡源太左衛門【かたおかげんたざえもん(15??~15??)】

太田氏房家臣。1590年、「第四次岩槻城の戦い」では、岩槻城に籠城した。

勝瀬孫六 【かつせまごろく(15??~15??)】

北条氏康家臣。河越衆。入間郡勝瀬で62貫文を領した。

加藤大学【かとうだいがく(15??~15??)】

潮田資忠家臣。太田資正の意向を受け四男潮田資忠の家老職を務めた。内政巧者で潮田資忠のもとで民政に携った。1589年、「小田原の役」では、潮田資忠が小田原城に籠城したため、北沢直信とともに寿能城を守備した。1590年、「寿能城の戦い」では、浅野長政勢の攻撃を受け降伏し氷川大門に蟄居した。

加藤太郎左衛門【かとうたろうざえもん

北条氏康家臣。河越衆。川越仙波内日影分で248貫文を領した。

賀藤兵部少輔【かとうひょうぶしょうゆ(15??~15??)】

太田資正家臣。

金田定綱【かねださだつな(15??~15??)】

足利晴氏家臣。埼玉郡菖蒲城。金田顕綱の男。

金田頼綱【かねだよりつな(15??~15??)】

金田定綱の男。

金田秀綱【かねだひでつな(15??~15??)】

金田頼綱の男。1589年、「小田原の役」では、成田氏長勢に属して羽柴秀吉勢と戦った。役後帰農した。

金井政綱【かないまさつな(15??~1625)】

児玉郡七本木館主。官途は筑前守。仏門に帰依し、多くの寺を建立した。1573年、長楽寺を創建した。

金子家長【かねこいえなが(15??~15??)】

入間郡金子館主。1548年、「河越城の戦い」で扇谷上杉興朝が北条氏康に敗れ没落すると、北条氏康に属した。以後は八王子城の北条氏照に従い下野国侵攻などで戦功を挙げた。

金子家基【かねこいえもと(15??~15??)】

金子家長の男。1590年、「松山城の戦い」で前田利家、長尾景勝、真田昌幸勢の攻撃を受けると、松山城留守役の金子家基は城代の山田直安、難波田憲次らとともに前田利家に降伏した。金子家基は直江兼続勢の先陣を務め、八王子城を攻撃した。

金子政熙【かねこまさひろ(15??~15??)】

金子家基の男。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、長尾景勝に属した。1600年、「関ヶ原の役」後、長尾景勝が減封処分に処されると、浪人の身となった。その後、京都所司代の板倉勝重に仕えた。

金子家重【かねこいえしげ(15??~1590)】

金子政熙の男。八王子城金子曲輪守将。1590年、「八王子城の戦い」で前田利家の家臣山崎長鏡によって討取られた。
金子紀伊守【かねこきいのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。1590年、「松山城の戦い」では、軍監として松山城に籠城した。

狩野左近【かのうさこん(15??~15??)】

北条氏康家臣。松山衆。吉見郡岩殿で9貫500文を領した。

川口将監【かわぐちしょうげん(15??~15??)】

太田資正家臣。

河内越前守【かわちえちぜんのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。

川崎又次郎【かわさきまたじろう(15??~15??)】

太田資正家臣。1563年、「第二次国府台の戦い」で黒川権右衛門、浜野修理亮とともに戦功を挙げた。

河連国久【かわつらくにひさ(15??~15??)】

足利政氏家臣。官途は主計助。足立郡箕田郷河連を領した。

川俣貞次【かわまたさだつぐ(15??~15??)】

埼玉郡川俣城主。足利晴氏家臣。通称主膳正。1583年、家臣の裏切りによって川俣城は落城した。川俣貞次は家臣20余人を引き連れて、庄内地方に赴き最上義光に仕えた。

川村菊千代【かわむらきくちよ(15??~15??)】

北条氏康家臣。江戸衆のひとり。江戸新倉で178貫文を領した。

河目資為【かわめすけため(15??~1567)】

太田資正家臣。官途は越前守。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、太田資正に従って厩橋城に参陣した。太田資正が岩槻城を追放されると、太田氏資のもとで大島大炊助に証状を発給した。1567年、「三船山の戦い」で太田氏資とともに討死した。

河目資好【かわめすけよし(15??~1567)】

河目資為の男。1567年、「三船山の戦い」で里見義堯勢と戦い太田氏資とともに討死した。

木崎又兵衛【きさきまたべい(15??~15??)】

三田綱秀家臣。1563年、「幸垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。1564年、北条氏照の意向を受け清戸館に在番した。

木住野十郎兵衛門【きしのじゅうろうべいもん(15??~15??)】

平山氏重家臣。1581年、平山氏重に従って郡内に参陣した。

北沢直信【きたざわなおのぶ(15??~15??)】

潮田資忠家臣。官途は宮内。通称甚之丞。太田資正の意向を受け四男潮田資忠の家老職を務めた古強者。1589年、「小田原の役」では、潮田資忠が小田原城に籠城したため、加藤大学とともに寿能城を守備した。1590年、「寿能城の戦い」では、浅野長政勢の攻撃を受け降伏し氷川大門に蟄居した。関東郡代伊奈忠次に仕え、新田開発を行った。

喜多見勝忠【きたみかつただ(1568~1628)】

吉良頼康家臣。江戸頼忠の男。官途は若狭守。通称五郎左衛門。別名江戸勝忠。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、松平元康に仕え喜多見村500石を安堵された。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。1615年、近江国郡代に任じられた。1616年、堺奉行となり、後陽成院の葬礼を務めるなどの功を挙げ2,000石を領した。

喜多見正忠【きたみまさただ(15??~15??)】

喜多見勝忠の男。

喜多見重恒【きたみしげつね(15??~15??)】

喜多見勝忠の次男。

喜多見重勝【きたみしげかつ(1604~1685)】

喜多見勝忠の三男。通称久太夫。室は堀田正吉の妹(勝境院)。1628年、父喜多見勝忠の病没後、喜多見家の家督と1,000石は次兄喜多見重恒が継ぎ、喜多見重勝は1,000石を相続した。喜多見流茶道の創始者で、目付、大坂目代などの要職を歴任した。

木戸範実【きどのりざね(15??~15??)】

足利晴氏家臣。入間郡羽生城主。官途は大膳大夫。

木戸忠朝【きどただとも(15??~1574)】

木戸範実の男。官途は伊豆守。1552年、「羽生城の戦い」で北条氏康勢の攻撃を受け居城を喪った。1566年、長尾景虎により羽生城は奪還され再び木戸忠朝が領した。1574年、長尾景虎に従い羽生城には兄広田直繁が入り、木戸忠朝は皿尾城を守備した。長尾景虎は羽生城が越後国から遠いことを懸念して城主木戸忠朝を上野膳城に転封させた。長尾景虎が病没すると北条氏政勢の攻撃を受け越後国に落延びた。

木戸重則【きどしげのり(15??~15??)】

木戸忠朝の男。1574年、父木戸忠朝とともに上野国膳城に転封した。

吉良成高【きらなりたか(15??~15??)】

荏原郡世田谷城主。

吉良頼康【きらよりやす(15??~1561)】

吉良成高の男。別名蒔田頼康。室は北条氏綱の娘(崎姫)。のち蒔田城に転封した。その崎姫は一度堀越貞基に嫁いだが、堀越貞基が病没したため、吉良頼康と再婚した。1539年、吉良頼康は男子平産祈祷をした。1561年、崎姫が堀越貞基との間でもうけた吉良氏朝を養子に迎えた。

吉良氏朝【きらうじとも(1543~1603)】

堀越貞基の男(吉良頼康の養子)。別名蒔田殿。室は北条氏康の娘。1560年、吉良家の家督を相続した。1569年、「第二次小田原城の戦い」では、大橋山城守、関加賀守らを率いて小田原城を守備した。1590年、「伊豆下田城の戦い」では、下田城に籠城したが、小田原城の落城後上総国の落延びた。1591年、松平元康が関東に転封すると世田谷城1,120石を領した。

木呂子友則【きろことものり(15??~15??)】

上田朝直家臣。官途は丹波守。上田朝直、難波田憲次らと姻戚関係を結び上田家の家老職を務めた。1590年、「松山城の戦い」では、金子紀伊守、若林和泉守、原藤右衛門、比企藤九郎らとともに籠城した。役後、北条氏直が滅亡すると、上杉憲盛の家臣秋元景朝に仕えた。

木呂子元忠【きろこもとただ(15??~15??)】

木呂子友則の男。官途は丹波守。

黒沢民部【くろさわみんぶ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。宮崎城主。宮崎城30貫を領した。

黒沢義政【くろさわよしまさ(15??~15??)】

大里郡三ヶ尻城主。官途は武蔵守。

久米玄蕃【くめげんば(15??~15??)】

北条氏康家臣。御馬廻衆。相模東郡、河越筋森戸で101貫67文を領した。

三ヶ尻城主。官途は武蔵守。

黒川権右衛門【くろかわごんうえもん(15??~15??)】

太田資正家臣。1563年、「第二次国府台の戦い」で浜野修理亮、川崎又二郎とともに戦功を挙げた。

黒須平内五郎【くろすへいないごろう(15??~15??)】

埼玉郡黒須館主。

黒須八邦左衛門【くろすやくにざえもん(15??~15??)】

佐々木氏綱家臣。埼玉郡黒須館主。

桑原弥七郎【くわばらやしちろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。馬廻衆。川越伊豆丸で230貫を領した。

小池久宗【こいけひさむね(15??~15??)】

太田資正家臣。官途は長門守。鴻巣七騎衆の筆頭。1551年、北条氏康の意向を受け、岩槻城下の市宿より移住し市宿新田の開発、鴻巣宿の発展の基礎をつくっ

小泉掃部助【こいずみかもんのすけ(15??~15??)】

北条氏康家臣。比企郡菅谷城代を務めた。

河野和泉守【こうのいずみのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。鴻巣七騎衆。

小岸内匠【こぎしたくみ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。深谷衆。1582年、「神流川の戦い」で北条氏邦に従い参陣した。

小久保縫殿助【こくぼぬいどのすけ(15??~15??)】

太田資正家臣。代山城主。1590年、「第四次岩槻城の戦い」後、太田氏房とともに滅亡した。

小熊総七郎【こぐまそうしちろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。岩淵下郷領家で18貫500文を領した。

小坂新兵衛【こさかしんべい(15??~15??)】

北条氏照家臣。1582年、北条氏照の意向を受け立川領村山に転封した。

小指将監【こさししょうげん(15??~15??)】

久長但馬守家臣。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、久長但馬守は長尾景勝に仕えたが、小指将監は帰農した。

小菅大炊助【こすげおおいのすけ(15??~15??)】

北条氏康家臣。河越衆。比企郡石坂で3貫文を領した。

児玉重行【こだましげゆき(15??~1489)】

忍城主。1489年、「忍城の戦い」で成田親泰勢の攻撃を受け討死した。

後藤備前守【ごとうびぜんのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。河越衆。河越三十三郷東明寺浄楽寺、鎌倉で194貫829文を領した。鎌倉代官大道寺盛昌のもとで代官職を務めた。仏師としても活躍した。

高麗豊後守【こまぶんごのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。1564年、岩槻城を追放された太田資正から、加村の領地安堵状を受けた。

小峰頼定【こみねよりさだ(15??~15??)】

多摩郡氷川館主。官途は肥後守。1506年、甲斐国内忍野村より氷川村に転封した。

小宮山忠孝【こみやまただたか(15??~15??)】

成田親泰家臣。戸塚城主。官途は弾正忠。戸塚城200貫を領した。

小宮山内膳【こみやまないぜん(15??~15??)】

足立郡小谷城主。

小宮右衛門尉【こみやまうえもんのじょう(15??~15??)】

太田資正家臣。

小宮山弾正左衛門【こみやまだんじょうざえもん(15??~15??)】

太田資頼家臣。1517年、小宮山左衛門尉が足利政氏領の足立郡淵江郷を横領した。1556年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、太田資正に従って厩橋城に参陣した。1565年、太田下野守とともに太田資正の岩槻城奪還を支援したが失敗、太田資正とともに成田氏長を頼って落延た。

近藤綱秀【こんどうつなひで(15??~1590)】

北条氏照家臣。官途は出羽守。室は朝倉政景の娘。北条氏照が下野国榎本城を攻略すると、榎本城主に任じられ下野国内の北条氏政領の代官職を務めた。1583年、所領宛行や寺領寄進などを行った。伊達政宗の家臣片倉景綱との交渉にあたるなど外交面でも活動した。1589年、「小田原の役」では、榎本城に守備兵を残し八王子城に籠城した。1590年、「八王子城の戦い」では、前田利家、長尾景勝、真田昌幸らの攻撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
 
近藤助実【こんどうすけざね(15??~1590)】

近藤綱秀の男。1589年、「小田原の役」では、父近藤綱に従って八王子城に籠城した。「八王子城の戦い」では、八王子城の中の丸を守備したが前田利家、長尾景勝、真田昌幸らの攻撃を受け討死した。

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【さ】

西郷右京亮【さいごううきょうのすけ】

北条氏康家臣。御馬廻衆。松山正直で81貫を領した。

斎藤右衛門尉【さいとううえもんのじょう(15??~15??)】

北条氏邦家臣。通称五郎。1569年、「三山谷の戦い」では、山口総五郎、出浦左馬助、多比良将監、朝見伊勢守らととも北条氏邦に従い武田晴信勢と戦った。

斎藤定盛【さいとうさだもり(15??~15??)】

児玉郡金窪城主。官途は摂津守。もとは山内上杉憲政に属していたが、
1560年、山内上杉憲政が越後国に落延びると、北条氏邦に従った。

斎藤光透【さいとうみつすけ(15??~1582)】

斎藤定盛の男。1582年、「金窪城の戦い」では、弟の斎藤光透、斎藤光房、甥斎藤光吉らは金窪城にせまる滝川一益に兵300余りで切り込み全滅した。

斎藤光透【さいとうもつもり(15??~1582)】

斎藤定盛の次男。1582年、「金窪城の戦い」で兄斎藤定盛とともに滝川一益勢の切込みをかけ討死した。

斎藤光房【さいとうみつふさ(15??~1582)】

斎藤定盛の三男。1582年、「金窪城の戦い」で兄斎藤定盛とともに滝川一益勢の切込みをかけ討死した。

斎藤基盛【さいとうもともり(15??~1582)】

斎藤定盛の四男。1582年、「金窪城の戦い」で兄斎藤定盛らが滝川一益勢と戦って討死すると、が守る川井城も滝川一益勢の猛攻を受け壊滅した。

佐枝信宗【さえだのぶむね(15??~15??)】

太田資正家臣。太田氏資のもとで岩槻領の内政を担当した。1563年、太田資正の意向を受け恒岡資宗、牛村助十郎とともに、入間川の堤防修築した。岩槻太田家の家督を相続した太田氏房に仕えた。1590年、「第四次岩槻城の戦い」では、小田原城に籠城した太田氏房の陣代として岩槻城を守備した。

道祖土康兼【さえどやすかね(15??~15??)】

太田資正家臣。比企郡八林館主。官途は土佐守。通称図書助。1561年、「松山城の戦い」では、石戸城を拠点とした太田資正を支援した。1562年、「赤浜原の戦い」で北条氏康勢の上田朝直の家臣山田伊賀守を討取る戦功を挙げた。1567年、三尾谷郷の代官職を北条氏康に安堵された。1589年、「小田原の役」では、上田憲定勢に属して松山城に籠城した。役後、北条氏直が滅亡すると帰農した。

境野越前守【さかいやえちぜんのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。他国衆。高麗郡女影で30貫を領した。

酒巻詮稠【さかまきあきちか(15??~15??)】

成田氏長家臣。官途は靱負。別名「毘沙門天の化身」。1590年、「忍城の戦い」では、下忍口を手島采女以下600余りで守備した。石田三成勢の攻撃を受けたが大損害を与え撃退した。参考文献:『のぼうの城』by和田竜。

酒巻右衛門次郎【さかまきうえもんじろう(15??~15??)】

酒巻詮稠の弟。1590年、「忍城の戦い」では、兄酒巻詮稠に従い下忍口を守備した。

坂本四郎右衛門【さかもとしろうえもん(15??~15??)】

平山氏重家臣。1580年、武田勝頼勢の才藤六を討取った。

坂本繫国【さかもとしげくに(15??~15??)】

坂本四郎右衛門の男。武田下総守との戦いで敵将を捕縛する戦功を挙げた。

坂本兵衛【さかもとひょうえ(15??~15??)】

本庄泰展家臣。1590年、「忍城の戦い」では、本庄泰展の意向を受け、脇本利助とともに石田三成勢の築いた堤防を破壊する功を挙げた。

佐々木氏綱【ささきうじつな(15??~15??)】

埼玉郡菖蒲城主。1574年、「第三次関宿城の戦い」では、簗田持助を支援するため、北関東に侵攻した長尾景勝勢に菖蒲城の城下を焼討ちされた。

佐藤内蔵助【さとうくらのすけ(15??~15??)】

佐々木氏綱家臣。

三山綱定【さんやまつなさだ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。通称五郎兵衛。

三山氏郷【さんやまうじさと(15??~15??)】

北条氏邦家臣。

滋野刑部【しげのぎょうぶ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。根岸館主。1582年、「鉢形城の戦い」では、前田利家勢に内応して。

滋野帯刀【しげのたれわき(15??~15??)】

滋野刑部の男。

設楽能久【したらよしひさ(15??~1591)】

北条氏照家臣。官途は肥前守。別名設楽清政。三河国広岩城主設楽清広の男。設楽貞通と抗争を起こし出奔した。北条氏直に仕え、八王子城を守備した。
1591年、「八王子城の戦い」で前田利家勢と戦い討死した。

設楽能重【したらよししげ(15??~15??)】

設楽能久の男。北条氏照に仕えたが、病没した。

紫藤新六【しとうしんろく(15??~15??)】

北条氏康家臣。入間郡大類館主。御馬廻衆。

柴崎敦英【しばさきあつとし(15??~15??)】

成田氏長家臣。官途は和泉守。筋骨隆々とした巨漢。丹波守の持つ朱槍を欲しており、常に丹波守と張り合っている。1590年、「忍城の戦い」では、三田加賀守、吉田和泉守ら200余りを率いて長野口を守備した。浅野長政勢の攻撃を受け危機的状況に陥るが、甲斐姫が手勢を率いて反撃を行ない浅野長政勢を撃退した。参考文献:『のぼうの城』by和田竜。

柴山重吉【しばやましげよし(15??~1617)】

木戸忠朝の男。官途は縫殿介。通称新次郎。

渋江三郎【しぶえさぶろう(15??~1530)】

太田資頼家臣。渋江館主。1525年、「第一次岩槻城の戦い」で北条氏綱が岩槻城を攻撃すると、渋江三郎が内応したため、城兵3,000余りが討死して落城した。太田資頼は足立郡石戸城に落延びた。北条氏綱から岩槻城代に任じられた。1530年、「小沢原の戦い」で扇谷上杉朝興が北条氏綱勢に大敗すると、古河公方足利高基の支援を受けた太田資頼に岩槻城を奪還され、渋江三郎も討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

渋江平六良【しぶえへいろくりょう(15??~15??)】

木戸忠朝家臣。

渋川義堯【しぶかわよしたか(15??~15??)】

足立郡蕨城主。渋川義鏡の男。1524年、「第一次蕨城の戦い」で北条氏綱勢の攻撃を受け落城した。1526年、「第二次蕨城の戦い」では、真里谷信清と里見義豊の支援を受けた扇谷上杉朝興が北条氏綱から蕨城を奪還した。1546年、「河越城の戦い」で扇谷上杉朝定が討死すると、北条氏康に降伏した。

渋川義基【しぶかわよしもと(15??~1567)】

渋川義堯の男。1567年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢に属して参陣した。「三船山に戦い」で里見義堯勢の攻撃を受け討死した。渋川義基には継嗣がなく、一族郎党は散り散りとなり、多くが帰農した。渋川義基の夫人(龍体院殿)はその死を嘆き榛名湖に入水して自害した。

島崎二郎【しまざきじろう(15??~1590)】

北条氏照家臣。1591年、「八王子城の戦い」で前田利家勢と戦い討死した。

島村家吉【しまむらいえよし(15??~15??)】

扇谷上杉朝興家臣。1538年、越生町報恩寺に宛てた寄進状に難波田憲重とともに連署した。

島田出羽守【しまだでわのかみ(15??~15??)】

成田氏長家臣。1590年、「忍城の戦い」では、今村佐渡守ととともに行田口を守備した。浅野長政、長束正家勢の攻撃を受けたがこれを撃退した。

庄式部少輔【しょうしきぶのしょうゆ(15??~15??)】

上田朝直家臣。33貫500文を領した。1563年、上田朝直の意向を受け松山上杉憲勝への使者を務めた。

宿谷重近【しゅくやしげちか(15??~15??)】

北条氏康家臣。田波目城主。1546年、城下に永源寺を建立した。

宿谷重吉【しゅくやしげよし(15??~15??)】

宿谷重近の男。1546年、「河越城の戦い」では、父宿谷重近の陣代として北条氏康に従って参陣した。

宿谷本吉【しゅくやもとよし(15??~15??)】

宿谷重吉の男。1589年、「小田原の役」では、小田原城に籠城した。

宿谷重利【しゅくやしげとし(15??~1590)】

北条氏政家臣。1590年、「八王子城の戦い」では、八王子城に籠城して前田利家、長尾景勝、真田昌幸らの攻撃を受け討死した。

白石宗清【しらいしはりまのかみ(15??~1583)】

児玉郡白石城主。猪俣定平の次男。官途は播磨守。

白石宗綱【しらいしむねつな(15??~15??)】

白石播磨守の男。

白井但馬守【しらいたじまのかみ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。

神宮武兵衛【じんぐうぶへい(15??~15??)】

北条氏邦家臣。鉄炮衆。1585年、北条氏邦の意向を受け上野国吾妻郡大戸に参陣した。

新藤下総守【しんどうしもうさのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。河越衆。江戸雪ヶ谷、河越三十三郷大袋で63貫229文を領した。

須賀修理亮【すがしゅりのじょう(15??~15??)】

成田長泰家臣。須賀城主。100貫文を領した。

菅原直則【すがわらなおのり(15??~15??)】

木戸忠朝家臣。

杉田重長【すぎたしげなが(15??~15??)】

三田綱定家臣。小河内衆の旗頭。1580年、小菅信景を討取る戦功を挙げた。

杉田富久【すぎたとみひさ(15??~15??)】

北条氏照家臣。通称清兵衛。1587年、北条氏照の意向を受け、人質を八王子城に送った。

勝呂豊後守【すぐろぶんごのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。入間郡勝呂城主。

鈴木長敏【すずきんがとし(15??~15??)】

品川湊の廻船問屋。別名鈴木道胤。品川馬場地を中心に品川湊を支配し、廻船業や土倉などの貸金業を営む商人として活動した。連歌の名手としても知られて、妙国寺に梵鐘を寄進したほか、伽藍の再建に尽くした。1470年、太田資長が『河越千句(連歌の会)』を主催した際には、連歌師の心敬、宗祇を招いた。

諏訪七右衛門【すわしちえもん(15??~15??)】

秩父郡永田城主。豪族衆の永田林四郎、諏訪七右衛門、寺尾彦三郎らが治めた地域。北条氏邦の家臣井上三河守が永田城代として派遣されるとそれに従った。

諏訪三河守【すわみかわのかみ(15??~15??)】

久良岐郡寺尾城主。官途は三河守。相模衆十四家。寺尾城200貫を領して寄騎衆20騎余りを率いた。参考文献:『横浜の戦国武士たち』by下山治久

諏訪部定久【すわべさだひさ(15??~15??)】

秩父郡日尾城主。諏訪部定邦の男。官途は出羽守。通称惣右衛門。相模西郡正安寺、伊豆多田で40貫文を領した。

諏訪部定勝【すわべさだかつ(1536~1588)】

諏訪部定久の男。北条氏邦家臣。官途は遠江守。通称主水。室は妙喜尼。1568年、武田晴信の家臣山県昌景、小幡景純らの攻撃を受けたが、諏訪部定勝はその前日から客人を向かえて酒を飲み交わし泥酔状態で寝込んでしまい起き上がる事ができなかった。諏訪部定勝の内室(妙喜尼)が指揮を取って武田晴信勢を撃退した。1569年、「第二次小田原城の戦い」では、小田原城を攻撃する武田晴信勢の補給線を野伏せりを集めて攪乱した。

諏訪部定吉【すわべさだよし(15??~15??)】

諏訪部定勝の男。通称宗右衛門。1590年、「日尾城の戦い」では、出浦左馬助らと日尾城に籠城したが、羽柴秀吉勢の侵入はなかった。

関加賀守【せきかがのかみ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。

関根勝直【せきねかつなお(15??~15??)】

広沢信秀の次男。官途は織部。別名広沢勝直。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、兄広沢重信のとともに結城秀康に仕えた。

妹尾兼延【せのおかねのぶ(15??~15??)】

太田資正家臣。

妹尾下総守【せのおしもうさのかみ(15??~1589)】

妹尾兼延の男。太田氏房に仕えた。1589年、「小田原の役」では、岩槻城に籠城した。妹尾下総守は本多忠勝と戦うが討死した。

善照寺向用斎【ぜんしょうじこうようさい(15??~15??)】

成田親泰の次男。成田氏長の意向を受け羽生城を守備した。1589年、「小田原の役」では、石田三成勢が忍城にせまると、羽生城を放棄して忍城に籠城した。

匝瑳信利【そうさのぶとし(15??~15??)】

北条氏康家臣。通称蔵人佑。江戸衆。戸ヶ崎で47貫文を領した。

曾我祐重【そがすけしげ(15??~15??)】

扇谷上杉朝興家臣。官途は豊後守。1586年、江戸城代を務めた。

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【た】

泰翁宗安【たいおうそうあん(15??~1591)】

足立郡平林寺住職。1544年、平林寺住職を務めた泰翁宗安は足立郡原宿、野本鎌倉方、加倉の代官職を務め、僧侶の立場で兵を率いた。また戦乱に備え平林寺の敷地を土塁、空堀で囲み僧侶、在家の人々に武装させた。1564年、「三舟山の戦い」で太田氏資とともに恒岡越後守が討死すると、北条氏政は恒岡越後守の家督を僧籍にあった弟泰翁宗安に家督を相続させた。1590年、「第四次岩槻城の戦い」では、籠城して戦ったが平林寺は焼失した。

大福御前【だいふくごぜん(1541~1593)】

北条氏邦の室。藤田康邦の娘。1589年、「小田原の役」後、北条氏直、北条氏邦らが滅亡すると、自害した。

高坂刑部【たかさかぎょうぶ(15??~15??)】

北条氏政家臣。吉見郡高坂館主。

高崎利春【たかさきとしはる(15??~15??)】

太田資正家臣。官途は刑部左衛門。1561年、「松山城の戦い」では、太田資正の意向を受け松山城に籠城した。

多賀谷家政【たがやいえまさ(15??~15??)】

埼玉郡多賀谷館主。金子家忠の次男。通称左衛門尉。

田草川新左衛門尉【たぐさがわしんざえもんのじょう(15??~15??)】

多摩郡栃窪館主。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が討死すると、北条氏直に仕えた。1590年、「八王子城の戦い」後、負傷した横地景信の介錯を行った。

竹井右近【たけいさこん(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

立川石見守【たちかわいわみのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。鴻巣七騎衆。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、岩槻太田氏房も改易処分に処され没落した。

立川照重【たちかわてるしげ(15??~15??)】

北条氏照家臣。多摩郡柴崎館主。官途は宮内少輔。

武蔵伊達房実【だてふさざね【(15??~1626)】

太田氏資家臣。伊達宗春の男。通称与兵衛。室は相馬藤右衛門の娘。筆頭家老職を務めた。1589年、「小田原の役」では、岩槻城に兵2,000余りとともに籠城した。開城後松平元康に仕え、足立郡で250石を領した。

田中豊前守【たなかぶぜんのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

谷合久信【たにあいひさのぶ(15??~15??)】

三田綱秀家臣。1563年、「辛垣城の戦い」では、北条氏照勢の攻撃を受け塚田又八が内応して城に火を放ったため落城、三田綱秀の次男三田綱行とともに太田資正のもとに落延びた。

多比良将監【たひらしょうげん(15??~15??)】

北条氏邦家臣。1569年、「三山谷の戦い」では、山口総五郎、出浦左馬助、斎藤右衛門尉、朝見伊勢守らととも北条氏邦に従い武田晴信勢と戦った。

武蔵千葉憲胤【ちばのりたね(15??~15??)】

北条氏康家臣。江戸衆のひとり。江戸新倉で475貫を領した。

武蔵千葉胤利【ちばたねとし(15??~15??)】

豊島郡石浜城主。

武蔵千葉胤宗【ちばたねむね(15??~1574)】

千葉胤利の男。1574年、「関宿城の戦い」では、足利義氏の家臣簗田持助が北条氏政に謀反を起こしたため、北条氏政に属して参陣した。簗田持助勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

武蔵千葉直胤【ちばなおたね(15??~15??)】

北条氏繁の男(千葉胤宗の養子)。通称善九郎。別名北条氏常。室は千葉胤宗の娘。1574年、「下総関宿城の戦い」で養父千葉胤宗が討死したため、千葉直胤が婿養子となり武蔵千葉家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中条出羽守【ちゅうじょうでわのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。江戸衆。多摩郡府田で282貫文を領した。

塚田又八【つかはらまたはち(15??~15??)】

三田綱秀家臣。1563年、「辛垣城の戦い」では、北条氏照勢の攻撃を受けると、内応して城に火を放った。

土屋五郎左衛門【つちやごろうざえもん(15??~15??)】

平山氏重家臣。

恒岡資宗【つねおかすけむね(15??~15??)】

太田資正家臣。官途は越後守。別名恒岡信家。1563年、太田資正の意向を受け佐枝信宗、牛村助十郎とともに、井草郷の堤防修築した。1564年、春日摂津守とともに、太田資正の追放を太田氏資に進言した。1567年、「三舟山の戦い」で太田氏資とともに恒岡越後守が討死した。

出浦左馬助【でうらさまのすけ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。1569年、「三山谷の戦い」では、山口総五郎、多比良将監、斎藤右衛門尉、朝見伊勢守らととも北条氏邦に従い武田晴信勢と戦った。武田晴信の家臣松田肥前守を討取る戦功を挙げた。

寺尾彦三郎【てらおひこさぶろう(15??~15??)】

北条氏邦家臣。永田城主。

当麻豊後守【とうまぶんごのかみ(15??~15??)】

成田長泰家臣。1589年、「小田原の役」では、成田氏長とともに小田原城に籠城した。

遠山正輔【とおやままさすけ(15??~15??)】

北条氏政家臣。1590年、「松山城の戦い」で軍配者として松山城に籠城した。

遠山光景【とおやまみつかげ(15??~1587)】
 
北条氏康家臣。比企郡小倉城主。通称右衛門大夫。

富島彦左衛門【とみしまひこざえもん(15??~15??)】

北条氏康家臣。諸足軽衆。川越小堤で29貫525文を領した。

富永善左衛門【とみながぜんざえもん(15??~15??)】

北条氏康家臣。江戸衆。入東郡福岡で48貫623文を領した。

舎人経忠【とねりつねただ(15??~1564)】

足立郡舎人城主。通称源太左衛門。室は遠山綱景の娘。1564年、「第二次国府台の戦い」では、遠山綱景とともに討死した。舎人経忠の内室は、その後大道寺政繁に再嫁し、舎人経忠の男は大道寺政繁の養子となっ大道寺直英と称した。

舎人孫四郎【とねりまごしろう(15??~15??)】

太田資正家臣。1563年、「第二次国府台の戦い」では、太田資正に従って里見義弘らとともに、北条氏康勢と戦った。太田資正が北条氏康の家臣清水又太郎に組み伏せられていたところを野本与次郎ともに救った。

呑龍上人【どんりゅうしょうにん(1542~1623)】

井上将監の男。平方村林西寺の住職を務めた。

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【な】

長井政実【ながいまさざね(15??~15??)】

児玉郡御獄城主。官途は豊前守。1552年、北条氏康から足利長尾景長の家臣安保全隆に代わって御獄城主に任じられた。後に武田晴信勢に属して武蔵先方衆を務めた。「甲相同盟」により御獄城が武田晴信から北条氏康に譲渡されたため、御獄城から三ッ山城に転封した。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると没落した。

長井実久【ながいさねひさ(15??~15??)】

長井政実の男。1591年、松平元康が関東に転封になると、松平元康に仕えた。

長崎重光【ながさきしげみつ(15??~1552)】

荏原郡瀬田城主。官途は伊予守。別名長崎行善。小田原にあった行善寺を居城に移した。

長崎重高【ながさきしげたか(15??~15??)】

長崎重光の男。

長崎重次【ながさきしげつぐ(15??~15??)】

長崎重高の男。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、帰農した。

中条出羽守【なかじょうでわのかみ(15??~15??)】

北条氏照家臣。1554年、調布、上布田に領地を領した。

永田外記【ながたげき(15??~15??)】

扇谷上杉朝興家臣。横瀬根小屋城主。

長野対馬守【ながのつしまのかみ(15??~15??)】

成田親泰家臣。1563年、「騎西城の戦い」では、小田家時とともに騎西城に籠城して長尾景虎勢と戦った。

中村捨左衛門【なかむらすてざえもん(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

中村幸松【なかむらゆきまつ(15??~15??)】

北条氏康家臣。御馬廻衆。川越仙波、江戸筋前野で21貫500文を領した。

中山家勝【なかやまいえかつ(15??~15??)】

扇谷上杉朝定家臣。高麗郡飯能館主。1546年、「河越城の戦い」では、上杉朝定に従って参陣した。扇谷上杉朝定家が滅亡すると、北条氏康に従った。

中山家範【なかやまいえのり(1548~1590)】

中山家勝の男。官途は勘解由左衛門。通称助六助。北条氏照に従い北関東各地を転戦して戦功を挙げた。その武名は関東一円に轟いた。1573年、亡父中山家勝を弔うため、能仁寺を菩提寺として建立した。1590年、「八王子城の戦い」では、八王子城に籠城したが、前田利家からの降伏勧告を拒み討死した。

中山照守【なかやまてるもり(1570~1634)】

中山家範の男。通称助六郎。別名「上田の七本槍」。1589年、「八王子城の戦い」で父中山家範が討死にしたため、中山照守は武蔵国加治に潜伏した。後に弟中山信吉とともに松平元康に仕え300石を領した。1600年、「第二次上田城の戦い」では、松平秀忠に従い戦功を挙げたが、軍律違反を犯し上野国吾妻郡に閑居した。中山照守は高麗八条流馬術の使い手であったため、松平秀忠に馬術を教授し、のちに松平家光にも手ほどきした。1614年、「大坂の冬の陣」では、継嗣の中山直定とともに参陣し戦功を挙げて500石の加増を受けた。

中山信吉【なかやまのぶよし(1577~1642)】

中山家範の次男。官途は備前守。通称雅楽助。1589年、「八王子城の戦い」で、父中山家範は討死するが役後、兄中山照守とともに松平元康に召し抱えられ1,500石を領した。1607年、松平頼房が下妻城100,000石を領すると家老職に任じられ6,500石を領した。1609年、松平頼房の水戸城に転封により15,000石に加増された。

奈倉加賀守【なくらかがのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。入間郡下河原館主。御馬廻衆。入西郡下河原で16貫886文を領した。

奈倉重則【なくらしげのり(15??~1569)】

秩父郡奈倉館主。官途は下野守。秩父郡奈倉を領した。

夏目実基【なつめさねもと(15??~15??)】
 
山内上杉顕定家臣。児玉郡八幡山城主。官途は豊後守。別名有田定基。上野藤岡城主だったが八幡山城主に任じられた。1558年、山内上杉憲政が越後国に落延びると北条氏康に降った。

成田長泰【なりたながやす(1495~1574)】

埼玉郡忍城主。成田親泰の男。山内上杉憲政家臣。官途は下総介。室は長尾景英の娘。1546年、「河越城の戦い」後、山内上杉憲政の勢力を衰えると、北条氏康勢に属した。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、長尾景虎勢に属した。鶴岡八幡宮で行われた長尾景虎の関東管領就任式で、長尾景虎から叱責を受けたため、兵を率いて忍城に戻り再び北条氏康に属した。1563年、「忍城の戦い」では、長尾景虎勢の猛攻を受け降伏、隠居を命じられて継嗣の成田氏長に家督を譲った。1566年、成田氏長を廃して家督を次男の成田長忠に成田家の家督を継がせようとしたため、成田氏長と対立した。弟成田泰季や家老の豊嶋美濃守らの反対を受け、これを断念して出家した。

成田氏長【なりたうじなが(1542~1596)】

成田長泰の男。室は太田資正の娘。1563年、「忍城の戦い」後、父成田長泰に代わって成田家の家督を相続した。1566年、父成田長泰が弟の成田長忠に成田家の家督を相続させようとしたため、成田長泰と対立した。家臣の豊嶋美濃守らの説得により成田長忠が身を引いたため、成田長泰が出家した。1569年、長尾景虎と北条氏康が和議を結びと、北条氏康に従った。1563年、「騎西城の戦い」で叔父小田朝興を追い落とし、成田長忠を城主に任じた。1589年、「小田原の役」では、小田原城に籠城したため、忍城は城代成田泰季が守備した。忍城は石田三成勢の攻撃を受けたが、病没した成田泰季に代わり成田長親が指揮を執り、小田原城が開城するまで忍城を守り通した。役後、弟の成田長忠とともに蒲生氏郷に仕え、のち娘の甲斐姫が羽柴秀吉の寵愛を受けたこともあって下野国烏山城20,000石を領した。1592年、「文禄の役」では肥前国名護屋城に参陣した。

成田長忠【なりたながただ(1550~1617)】

成田長泰の次男。室は上杉憲盛の娘。父成田長泰が嫡男の成田氏長を嫌って次男の成田長忠に家督を譲ろうとしたこともあるが、兄と争うことを嫌った成田長忠が身を引いたため家督は成田氏長が継承した。また、叔父である小田朝興の養子となって騎西城を継いた。1588年、養母(朝興未亡人)と兄成田氏長の嫡男が相次いで没したために、忍城に呼び戻されて兄の養子となった。1589年、「小田原の役」のとき、兄と共に小田原城に籠もった。北条氏滅亡後、兄とともに蒲生氏郷の家臣となった。1595年、兄成田氏長が病没したため、成田家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して会津の長尾景勝の侵攻に備えた。戦功により戦後、17,000石を加増され、下野国烏山城37,000石を領した。1614年、「大坂冬の役」では、松平元康勢に属して参陣した。

成田泰季【なりたやすすえ(15??~1590)】

成田親泰の三男。1590年、「忍城の戦い」では、城主成田氏長が北条氏直勢に属して小田原城に籠城したため、城代として忍城を守備した。籠城中に病没した。

成田長親【なりたながちか(1545~1613)】

成田泰季の男。室は遠山藤九郎(遠山綱景の男)の娘。1589年、「小田原の役」では、成田氏長が北条氏直勢に属して小田原城に籠城したため、忍城は成田氏長の叔父成田泰季が城代として指揮を執ったが、籠城中に病没したため、成田長親が城代となり指揮を執った。「忍城の戦い」では、石田三成勢23,000余りの攻撃を受けが何度も撃退した。石田三成は忍城を水攻めにするが、北条氏直が降伏するまで、忍城を攻落すことができなかった。役後、北条氏長とともに蒲生氏郷に仕えるが、成田氏長と不和になり出奔した。

難波田憲重【なんばだのりしげ(15??~1546)】

多摩郡深大寺城主。難波田正直の男。官途は弾正忠。別名難波田善銀。河越城を奪われた上杉朝定を松山城に迎え北条氏康勢と戦った。1546年、「河越城の戦い」では、扇谷上杉朝定、継嗣の難波田広儀とともに討死した。

難波田広儀【なんばひろよし(15??~1546)】

難波田憲重の男。通称隼人正。1546年、「河越城の戦い」で、父難波田憲重とともに討死した。難波田家は一時断絶し一族も離散したが、難波田広儀の甥難波田憲次が難波田家を再興した。

難波田憲次【なんばたのりつぐ(15??~15??)】

大森明昇の男。官途は因幡守。室は三条右大臣の娘。母が難波田憲重の娘であったため、難波田家を相続した。1590年、「松山城の戦い」では、上田朝直とともに北条氏直勢に属して前田利家、長尾景勝、真田昌幸らと戦った。羽柴秀吉勢の猛攻を受け山田直安、金子家基らとともに降伏した。前田利家勢に属して八王子城を攻撃した。

難波田憲利【なんばたのりとし(15??~1635)】

難波田憲次の男。通称は善右衛門。室は山上忠宗の娘。1589年、「小田原の役」後、松平元康が関東に転封になると、大番組に任じられた。

難波田因幡守【なんばだいなばのかみ(15??~15??)】

上田憲定家臣。1590年、「松山城の戦い」では、根岸藤兵衛、小岩井雅楽助、田中伝右衛門、羽生平八郎らとともに北条氏直勢に属して松山城に籠城した。

難波田与太郎【なんばたよたろう(15??~15??)】

上田朝直家臣。入東郡棟岡で30貫を領した。

難波田南畑姫【なんばだなんばたひめ(15??~15??)】

太田資正の室。難波田憲重の娘。参考文献:『ほたる舞う城』by越路遼介。

新方頼希【にいがたよりのり(15??~15??)】

埼玉郡向畑館主。1504年、「向畑館の戦い」で八条惟茂勢の攻撃を受け落城した。

新田又七郎【にったまたしちろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。上戸館主。馬廻衆。川越三十三郷上戸で20貫300文を領した。

二宮播磨守【にのみやはりまのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。入間郡青柳館主。小机衆。入東郡青柳で17貫を領した。

丹良塚対馬守【にらつかつしまのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

根岸備後守【ねぎしびんごのかみ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。

野口多門【のぐちたもん(15??~15??)】
 
太田資正家臣。1563年、太田資正が追放されると竹内伊織とともに帰農した。

野口秀房【のぐちひでふさ(15??~15??)】

北条氏照家臣。御岳神社が一族の神社。1590年、「八王子城の戦い」後、関東に転封した松平元康に仕えた。松平元康から御岳神社造営奉行職に任じられた。

野沢民部【のざわみんぶ(15??~15??)】

成田氏長家臣。成田氏長の意向を受け羽生城を守備した。

野本与次郎【のもとよじろう(15??~15??)】

太田資正家臣。1563年、「第二次国府台の戦い」では、太田資正に従って里見義弘らとともに、北条氏康勢と戦った。太田資正が北条氏康の家臣清水又太郎に組み伏せられていたところを舎人孫四郎とともに救った。

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【は】

畑彦十郎【はたひこじゅうろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。1546年、「河越城の戦い」では、河越城に籠城して戦功を挙げた。

浜野修理亮【はまのしゅりのじょう(15??~15??)】

太田資正家臣。1563年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢と戦い戦功を挙げた。支援を求めるため、宇都宮国綱のもとに赴いた太田資正に従った。 

原島善六郎【はらしまぜんろく(15??~1563)】

三田綱秀家臣。1563年、北条氏照勢の攻撃を受け討死した。

原嶋友安【はらじまともやす(15??~1569)】

多摩郡日原館主。官途は右京亮。1563年、「辛垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。1569年、「滝山城の戦い」で武田晴信勢と戦い原島友長とともに討死した。

原島七郎右衛門尉【はらしましちろうえもんのじょう(15??~15??)】

三田綱定家臣。1563年、「辛垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。杉田入道、杉田右近丞らとともに北条氏照に人質を差し出した。

原島孫二郎【はらしままごじろう(15??~15??)】

三田綱定家臣。1563年、「辛垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕え、原島孫二郎、原島善六郎ととももに三田冶部少輔の寄騎衆を務めた。

原島善六郎【はらしまぜんろくろう(15??~1563)】

三田綱定家臣。1563年、「辛垣城の戦い」で北条氏照勢と戦い討死した。三田綱秀が滅亡すると、陣代が北条氏照に仕え、原島孫二郎、原島孫二郎ととももに三田冶部少輔の寄騎衆を務めた。

原島新三郎【はらしましんざぶろう(15??~15??)】

北条氏照家臣。武蔵国丹三郎で400文の所領を安堵され、平山定衡の寄騎衆を務めた。

原島新右衛門【はらしましんえもん(15??~15??)】

三田綱定家臣。1563年、「辛垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。北条氏照の家臣師岡秀光の寄騎衆を務めた。参考文献:『後北条氏家臣団人名事典』by下山冶久。

比企則員【ひきのりかず(15??~15??)】

太田資正家臣。比企郡中山館主。通称左馬助。1561年、北条氏康勢との戦いで戦功を挙げ太田資正から比企郡代に任じれた。1587年、上田憲定に属した。1590年、「松山城の戦い」では、上田憲定に従って松山城に籠城した。

久長但馬守【ひさながたじまのかみ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。秩父郡龍ヶ谷城主。1572年、「石間谷の戦い」では、武田晴信勢の攻撃を受けるが撃退した。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、長尾景勝に仕えた。

広田直繁【ひろたなおしげ(15??~15??)】

埼玉郡羽生城主。木戸範実の次男。官途は式部大輔。1536年、足利高基勢に属した。1546年、「河越城の戦い」で山内上杉憲政、扇谷上杉朝興、古河公方足利晴氏らが大敗すると、武蔵国北部も諸将は北条氏康勢に降伏した。1554年、「羽生城の戦い」で北条氏康勢の攻撃を受け落城、兄木戸忠朝のもとに落延びた。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、その支援を受け羽生城を奪還した。1570年、広田直繁が上野国館林城に転封して、羽生城は木戸忠朝が治めた。1572年、「相越同盟」が破棄されると、再び北条氏政勢の攻勢を受けた。下総国栗橋城主北条氏照勢の攻撃を受け大敗、木戸忠朝は上野国金山城に落延びた。1574年、「第三次関宿城の戦い」では、簗田持助が佐竹義重、長尾景虎に支援を求めたが、金山城主由良成繁の離反により積極的な支援ができず関宿城を陥落した。木戸忠朝も羽生城から上野国膳城に転封した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

広田為繁【ひろたためしげ(15??~15??)】

広田直繁の男。官途は左衛門佐。別名菅原為繁。室は木戸忠朝の娘。叔父木戸忠朝や従兄弟の広田重朝らとともに羽生城に拠って北条氏康勢後北条家と戦った。1574年、長尾景虎の判断によって城を自落させた後、上野国膳城に転封した。長尾景虎が春日山城で病没すると武田勝頼勢に属した。1580年、羽生城回復を赤城山神社に祈願している。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に属した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

平山政重【ひらやままさしげ(15??~15??)】

多摩郡檜原城主。大石定久家臣。1538年、大石定久が北条氏綱に降伏すると、それまで南一揆を構成していた小宮顕宗、二宮播磨守、立川照重、由井源三らもとともに北条氏綱に降った。

平山氏重【ひらやまうじしげ(15??~15??)】

平山政重の男。官途は伊賀守。1569年、甲相同盟が破綻し武田晴信が後北条攻めの軍を起こすと、北条氏照は塩山から青梅街道を通に防衛線を張ったが、武田晴信は檜原へは向かわず小仏峠と碓氷峠から侵入した。不意を突かれた北条氏照勢は、居城滝山城への肉薄を許すことになった。1589年、「八王子城の戦い」
では、横地監物、平山氏久らととに八王子城に籠城したが落城した。平山氏重と横地監物は自刃したが、平山氏久は落延びた。

平山新左衛門【ひらやましんざえもん(15??~1590)】

平山氏重の男。1590年、「檜原城の戦い」では、父平山氏重とともに檜原城に籠城するが、羽柴秀吉勢の攻撃を受け落城自刃した。

平山長寿【ひらやまながとし(15??~15??)】

北条氏康家臣。入間郡小山館主。他国衆。

平山豊後守【ひらやまぶんごのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲盛家臣。男衾郡平山館主。

平柳蔵人佑【ひらやなぎくらんどのすけ(15??~1564)】

太田資正家臣。足立郡平柳館主。氷川神社を創建した。1547年、山内上杉憲政が家臣の三戸四郎に平柳蔵人佑の指南を認める書状を出した。1563年、「第二次国府台の戦い」で太田資正に従って参陣したが北条氏康勢と戦い討死した。

平山政重【ひらやままさしげ(15??~1565)】

多摩郡檜原城主。平山季徳の四男。1546年、「河越城の戦い」で扇谷上杉興朝に従って参陣したが、北条氏康勢と戦った。北条氏康勢の勢力が多摩郡におよぶと、北条氏康勢に属した。1565年、「第三次岩槻城の戦い」で討死した。

平山氏重【ひらやまうじしげ(15??~1590)】

平山政重の男。官途は伊賀守。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、三田綱秀、成田氏長らは長尾景虎勢に属したが、平山氏重は北条氏康勢に属した。1590年、「八王子城の戦い」では、城代の横地吉信らとともに八王子城に籠城したが、前田利家勢の攻撃を受け落城した。継嗣の平山氏久、横地吉信らとともに檜原城に落延びたが、檜原城も攻撃を受け自刃した。

平山氏久【ひらやまうじひさ(15??~1590)】

平山氏重の男。1590年、「八王子城の戦い」では、城代の横地吉信らとともに八王子城に籠城したが、前田利家勢の攻撃を受け落城した。

平山綱景【ひらやまつなかげ(15??~1590)】

平山政重の次男。通称左衛門尉。1590年、「八王子城の戦い」では、太鼓曲輪を守備したが、前田利家勢の攻撃を受け討死した。

平山光義【ひらやまみつよし(15??~15??)】

多摩郡藤橋城主。室は平山政重の娘(鶴寿)。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、三田綱秀、成田氏長らとともに長尾景虎勢に属したが、惣領家の平山氏重は北条氏康勢に属した。1562年、「藤橋城の戦い」で北条氏康勢の攻撃を受け落城した。

平山光高【ひらやまみつたか(15??~15??)】

平山光義の男。

平井無辺【ひらいぶへん(15??~15??)】

北条氏照家臣。多摩郡平井館主。八王子城の普請奉行を務めた。1590年、「八王子城の戦い」では、前田利家勢の長尾景勝に内応してその先導役を務めた。

広沢元家【ひろさわもといえ(15??~1546)】

太田資頼家臣。広沢重家の男。官途は兵庫頭。1546年、「河越城の戦い」で討死した。

広沢忠信【ひろさわただのぶ(15??~1547)】

広沢元家の男。官途は尾張守。1547年、「松山城の戦い」で太田資正から松山城の城代に任じられるが、上田朝直が内応したため討取られた。上田朝直は、松山城主難波田善銀の婿養子の座を狙っていたが、広沢忠信が婿にするなら太田資正を薦めたことで、広沢忠信を恨んだ。

広沢信秀【ひろさわのぶひで(15??~15??)】

広沢忠信の男。官途は尾張守。北条氏康に仕えた。

広沢重信【ひろさわしげのぶ(15??~15??)】

広沢信秀の男。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、弟の関根勝直とともに結城秀康に仕えた。

深井景孝【ふかいかげたか(1512~1533)】

太田資正家臣。鴻巣七騎のひとり。1533年、「鴻巣下谷の戦い」で討死した。

深井景吉【ふかいかげよし(15??~1611)】

深井景孝の男。官途は対馬守。

深井好秀【ふかいよしひで(15??~1605)】

深井景吉の男。官途は対馬守。通称藤右衛門。別名深井資正。室は小宮山弾正の娘。1567年、「三船山の戦い」で太田氏資が討死すると養子の太田源五郎の後見役を務めた。太田源五郎が病没すると、太田氏房に仕えた。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると没落した。

深井資元【ふかいすけもと(15??~16??)】

深井景吉の次男。

深井資勝【ふかいすけかつ(15??~16??)】

深井景吉の三男。通称源左衛門。松平忠吉に仕え300石を領した。

深井淳海【ふかいじゅんかい(15??~16??)】

深井景吉の四男。

深井正家【ふかいまさいえ(15??~16??)】

深井景吉の五男。1605年、兄深井好秀が病没すると、父深井景吉が深井家の家督を相続した。1611年、深井景吉が病没後、深井正家が相続した。

福岡藤三郎【ふくおかとうざぶろう(15??~15??)】

三田綱秀家臣。1563年、「幸垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。1564年、北条氏照の意向を受け清戸館に在番した。

福島房重【ふくしまふさしげ(15??~15??)】

太田資正家臣。

藤井大助【ふじいだいすけ(15??~15??)】

成田氏長家臣。埼玉郡藤井で10貫を領した。

藤田康邦【ふじたやすくに(1513~1555)】

秩父郡天神山城主。山内上杉憲政家臣。官途は右衛門佐。別名土用康邦。1549年、「天神山城の戦い」で北条氏康の攻撃を受けて降伏した。北条氏康の四男北条氏邦を娘(大福御前)の婿養子に迎え、藤田家の家督を譲り用土城に転封した。藤田康邦には実子に藤田重連、藤田信吉がいたが、藤田重連は沼田城代に任じられたが北条氏邦に謀殺された。弟藤田信吉は武田勝頼に寝返った。

藤田重連【ふじたしげつら(15??~1578)】

藤田康邦の男。通称新左衛門。別名用土重連。1546年、「河越城の戦い」で山内上杉憲政が大敗すると、父藤田康邦は北条氏康勢から攻撃を受け降伏した。和議の条件として北条氏康の四男北条氏邦を養子に迎え用土城に転封した。1555年、父藤田康邦の病没後、藤田家の家督を相続した。北条氏邦勢に属して戦功を重ねたが潜在的な敵対勢力とみなされた。1578年、金子泰清とともに沼田城の城将に任じられたが、北条氏邦に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

藤田信吉【ふじたのぶよし(1555~1616)】

藤田康邦の次男。官途は能登守。室は海野信親の娘。1578年、兄藤田重連が北条氏邦によって謀殺さたため、藤田家の家督を相続した。1580年、北条氏政から離反して、武田勝頼勢に属して5,700貫を領した。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると、滝川一益勢に属した。「沼田城の戦い」では、長尾景勝勢に内応して、兵5,000余りで滝川益重が守備する沼田城を攻撃したが、滝川一益勢の反撃を受け越後国に落延びた。1598年、長尾景勝が会津若松城に転封されると越後国津川城15,000石を領した。長尾景勝に松平元康への恭順を説くも家中で孤立して、栗田国時とともに長尾景勝のもとから出奔した。1600年、「関ヶ原の役」後、松平元康に仕え下野国西方城15,000石を領した。1615年、「大坂夏の陣」後に改易処分に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

布施出羽守【ふせでわのかみ(15??~15??)】

北条氏照家臣。1569年、「十々里原の戦い」では、小仏峠を越えて侵入した武田晴信の家臣小山田信茂勢1,200余りの攻撃を受け横地吉信、中山家範らととに兵2,300余りでこれを迎え撃った。小山田信茂勢の攻撃により野村源兵衛、金指平左衛門らが討死した。

布施蔵人佐【ふせくろうどのさ(15??~15??)】

北条氏康家臣。武蔵小机麻生で80貫500文を領した。

本庄実忠【ほんじょうさねただ(1497~1580)】

児玉郡本庄城主。官途は宮内少輔。1546年、「河越城の戦い」では、北条氏康勢と戦い負傷しながらも戦功を挙げた。1551年、「神川、上里の戦い」で山内上杉憲政勢が敗退すると、山内上杉憲政は越後国に落延びた。以後、本庄実忠は北条氏康勢に属した。1556年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、本庄実忠は長尾景虎勢に属した。1561年、「第一次小田原城の戦い」では、長尾景虎勢に属して参陣するが小田原城を攻め落すことができなかった。1567年、長尾景虎勢が関東から撤退すると、本庄城は北条氏康勢の攻撃を受け落城、再び北条氏康勢に属した。

本庄近朝【ほんじょう(15??~1590)】

本庄実忠の男。通称隼人正。1580年、父本庄実忠の病没により本庄家の家督を相続した。東上野国に侵攻した武田勝頼勢の攻撃を受けた。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると、上野国に侵攻した織田信長の家臣滝川一益に属した。「神流川の戦い」では、滝川一益勢に属して北条氏直勢と戦うが破れ、北条氏直勢に降った。1589年、「小田原の役」では、北条氏直勢に属して小田原城に籠城したが、落城により自刃した。

本田正勝【ほんだまさかつ(15??~15??)】

北条氏康家臣。1562年、「武蔵葛西城の戦い」では、本田正勝が手勢と忍衆を率いて葛西城を攻略した。この戦功により葛西城主に任じられた。

別府長清【べっぷながきよ(15??~15??)】

成田氏長家臣。別府城主。官途は尾張守。1589年、「小田原の役」では、成田氏長とともに小田原城に籠城した。

別府顕清【べっぷあききよ(15??~15??)】

別府長清の男。通称三郎左衛門。1589年、「小田原の役」では、忍城に籠城した。役後は所領を没収された。

逸見若狭守【へんみわかさのかみ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。秩父郡高松城主。高松城1150貫を領した。1546年、「河越城の戦い」後、北条氏康は四男の北条氏邦を鉢形城主藤田康邦の婿養子に送り込んだ。1590年、「鉢形城の戦い」では、前田利家、長尾景勝、真田昌幸らの攻撃を受け、籠城戦の末に開城したが、高松城もそれに先立って落城した。北条氏直が滅亡すると、孫逸見義貞に逸見家の家督を譲り隠居した。
 
逸見義忠【へんみよしただ(15??~15??)】

逸見若狭守の男。官途は上総介。官途は源太郎。

逸見義久【へんみよしひさ(15??~15??)】

逸見義忠の男。通称四郎左衛門。1554年、「広木の戦い」で武田晴信勢と戦い討死した。
 
逸見義次【へんみよしつぐ(1547~1594)】

逸見義久の男。通称小四郎左衛門。1591年、松平元康が関東に転封すると、それに仕えた。1594年、松平元康の意向を受け相模中原に転封した。

逸見義助【へんみよしすけ(1572~1624)】

逸見義次の男。官途は左馬助。通称弥吉。松平元康のもとで大番を務め、相模国大住郡内330石余りを領した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に在番した。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した。

逸見忠助【へんみただすけ(15??~1657?)】

逸見義久の次男。通称四郎左衛門。1604年、大番となり相模国内で500石を領した。1613年、伏見城の在番を務めた。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した。

逸見義記【へんみよしのり(1594~1658)】

逸見義久の三男。通称市之丞。別名逸見義幹。1610年、大番を務め、蔵米200俵を給された。1615年、「大坂夏の陣」に参陣して戦功を挙げ、甲斐国八代郡内で200石を領した。

逸見義助【へんみよしすけ(15??~15??)】

逸見義久の四男。

逸見義重【へんみよししげ(1589~1639)】

逸見義助の男。通称勘右衛門。1607年、甲斐国八代郡内で200石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。後に松平忠長に仕えた。

逸見義持【へんみよしもち(1591~1663)】

逸見義助の次男。通称八左衛門。1624年、大番を務めた。1633年、上総国山邊郡内で530石を領した。1640年、組頭を務めた。

逸見蔵人佐【へんみくらんどのすけ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。

保坂大炊助【ほさかおおいのすけ(15??~1582)】

北条氏邦家臣。1582年、「神流川の戦い」で北条氏邦に従い参陣したが、滝川一益勢と戦い石山大学ら300騎余りとともに討死した。

星名小隼人【ほしなこはやと(15??~15??)】

北条氏照家臣。箕輪衆。1587年、「金山城の戦い」で由良国繁が佐竹義重に内応して北条氏直に謀反を越すと、松田大隅守とともに金山城を攻撃した。

細萱光仲【ほそがやみつなか(15??~15??)】

北条氏康家臣。官途は民部少輔。葛飾郡栗原城主。1561年、「栗原城の戦い」で長尾景虎勢の攻撃を受けたが、細萱光仲は城兵70騎余りとともに小田原城に籠城していたため、城は焼き払われた。

細萱泰秀【ほそがややすひで(1551~15??)】

細萱光仲の男。埼玉郡花崎城主。1561年、「花崎城の戦い」で長尾景虎勢の攻撃を受け落城した。

細谷資道【ほそやすけみち(15??~15??)】

太田氏房家臣。官途は三河守。三家老衆。

本庄実忠【ほんじょうさねただ(1497~1580)】

児玉郡本庄城主。山内上杉憲政家臣。本庄実明の男。官途は宮内少輔。1546年、「河越城の戦い」で手傷を負いながらも戦功を挙げ西本庄を領した。1551年、「神川、上里の戦い」で山内上杉憲政勢が大敗して越後国に落延びると、北条氏康に従った。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻するとそれに従った。1567年、「本庄城の戦い」で北条氏康勢の攻撃を受け再び北条氏康に属した。

本庄近朝【ほんじょうちかとも(15??~1590)】

本庄実忠の男。官途は隼人正。1580年、父本庄実忠が病没したため、本庄家の家督を相続した。1581年、武田勝頼勢の侵攻を受けた。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると、織田信長の家臣滝川一益が厩橋城に入るとそれに従った。「神流川の戦い」では、滝川一益勢に属して参陣したが、敗れて再び北条氏直勢に属した。1589年、「小田原の役」では、小田原城に籠城したが羽柴秀吉勢の攻撃を受け落城、本庄近朝も自刃した。

本庄泰展【ほんじょうやすのり(15??~15??)】

成田氏長家臣。1590年、「忍城の戦い」では、下忍口守備を脇本利助、坂本兵衛らとともに守備した。石田三成勢が水攻めの堤防を築くと、これを破壊するため夜半に石田三成勢の陣地に潜入して堤防二箇所破壊した。

本田長繁【ほんだながしげ(15??~15??)】

北条氏康家臣。男衾郡本田館主。

本田長親【ほんだながちか(15??~15??)】

本田長繁の男。1589年、「小田原の役」では、北条氏直勢に属して小田原城に籠城した。役後、没落した。

本間小五郎【ほんまこごろう(15??~15??)】

太田資正家臣。

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【ま】

巻島主水助【まきしまもんどのすけ(15??~15??)】

足利晴氏家臣。埼玉郡間釜館主。

正木利英【まさきとしひで(15??~15??)】

成田長泰家臣。官途は丹波守。別名「漆黒の魔人」。成田長泰の筆頭家老職を務めた。長尾景虎の武勇に憧れ、武芸の鍛錬に勤しんだ。1574年、「羽生城の戦い」で戦功を挙げ郷地と笠原を領した。1586年、「下野国壬生城の戦い」では、壬生義雄を支援するため、鉄砲衆を引き連れ参陣した。1590年、「忍城の戦い」では、石田三成勢の攻撃を受けると、佐間口を守備し、長束正家勢と戦った。成田氏長が改易処分に処されると、武士の身分を捨て討死した諸将を弔うため高源寺を建立し、守天和尚を招いた。参考文献:『のぼうの城』by和田竜。

町田右衛門佐【まちだうえもんのすけ(15??~1597)】

北条氏邦家臣。1597年、加賀国金沢で病没した北条氏邦の遺髪を鉢形城下で埋葬し、自らも殉死した。

松田大隅守【まつだおおすものかみ(15??~15??)】

北条氏照家臣。箕輪衆。1587年、「金山城の戦い」で由良国繁が佐竹義重に内応して北条氏直に謀反を越すと、星名小隼人とともに金山城を攻撃した。

松村飛騨守【まつむらひだのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

松野助信【まつのすけのぶ(15??~15??)】

太田資正家臣。足立郡松野館主。

松野助正【まつのすけまさ(15??~15??)】

松野助信の男。松平元康に仕え足立郡御倉で200貫を領した。

間宮信元【まみやのぶもと(15??~15??)】

久良岐郡笹本城主。扇谷上杉朝良家臣。間宮信盛の男。官途は豊前守。相模衆十四家の筆頭。1510年、「権現山の戦い」で扇谷上杉朝良から離反して伊勢盛時勢に属した。上田政盛とともに権現山城に籠城して戦功を挙げた。笹下城、杉田館、森館、氷取沢館、松本城、青砥山城などを構え里見義堯の海賊衆から鎌倉や蒔田城を守備した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮信常【まみやのぶつね(15??~1546)】

北条氏綱家臣。別名間宮信次。1546年、里見義豊と戦い、植松筑前守を討ち船十四艘を奪うが討死した。

間宮康俊【まみややすとし(1518~1590)】

間宮信元の男。官途は豊前守。玉縄北条綱成に仕え相模国小雀91貫213文を領した。1532年、鶴岡八幡宮の造営奉行衆を務めた。伊豆衆海賊衆を統括し江戸湾の監視警備も担当して698貫を領した。1590年、「山中城の戦い」では、松田康長を支援するため援軍として赴き、一柳直末を討取るなど奮戦した。衆寡敵せず、「白髪頸を敵に供するのは恥」と墨汁で髪を染め、敵中に突撃して討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮康次【まみややすつぐ(15??~15??)】

間宮康俊の男。官途は武兵衛。武田晴信は海賊衆の必要性を感じ、志摩海賊衆の小浜景隆(安宅船一艘、小舟十五艘)、向井正綱(船五艘)、今川家海賊衆の伊丹康直(船五艘)、伊豆海賊衆から間宮康次(船十艘)、間宮信高(船五艘)兄弟らを招聘して、土屋貞綱(船十二艘、寄騎衆五十騎)を武田家海賊衆の大将に据え武田家海賊衆を編成した。1580年、武田勝頼が駿河国浮島ヶ原に参陣すると、北条氏政も三島に兵を進めた。武田家海賊衆と北条家海賊衆は、伊豆国重須沖に戦ったが、両軍とも大した戦果の挙げられずに終わった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮康信【まみややすのぶ(1519~1582)】

間宮康俊の次男。官途は式部少輔。武蔵国、相模国内で698貫を領した。1582年、北条氏勝とともに武田勝頼に属した笠原政堯と戦った。「天正壬午の乱」では、甲斐国が松平元康と北条直の間で争奪戦となった。新府城に本陣を置いた松平元康に対し、北条氏直は若神子城に本陣を置き、備えとして御坂峠に御坂城を築いた。北条氏直は、松平元康勢を若神子の本隊と御坂城の北条氏光らの別働隊で挟撃しようとしたが、別働隊は鳥居元忠勢との戦いで敗退し、間宮康信、田中吉利、中野友宗、内藤大和守らが討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮信高【まみややすたか(15??~15??)】

間宮康俊の四男。官途は造酒丞。武田晴信は海賊衆の必要性を感じ、志摩海賊衆の小浜景隆(安宅船一艘、小舟十五艘)、向井正綱(船五艘)、今川家海賊衆の伊丹康直(船五艘)、伊豆海賊衆から間宮康次(船十艘)、間宮信高(船五艘)兄弟らを招聘して、土屋貞綱(船十二艘、寄騎衆五十騎)を武田家海賊衆の大将に据え武田家海賊衆を編成した。1580年、武田勝頼は駿河浮島ヶ原に出陣すると、北条氏政も三島に兵を進めた。武田家海賊衆と北条家海賊衆は、伊豆国重須沖に戦ったが、両軍とも大した戦果のあげずに終わった。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると、武田家海賊衆は松平家海賊衆に吸収され、城も松平元康の持城となった。間宮信高、小浜景隆、向井正綱らは、武田家海賊衆の編成のまま、土屋貞綱(岡部貞綱)勢に属した。間宮信高(1,200石)、向井正綱(6,000石)、小浜景隆(5,000石)、千賀重親らとともに松平家海賊四人衆に任じられた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮元重【まみやもとしげ(15??~15??)】

間宮康俊の五男。
 
間宮信忠【まみやのぶただ(15??~15??)】

間宮信常の男。通称藤太郎。官途は左衛門尉。北条氏康に仕えた。

間宮信繁【まみやのぶしげ(15??~15??)】

間宮信忠の男。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、松平元康に仕え、鷹匠頭を務め鷹狩に幾度も随行した。1600年、「関ヶ原の役」では、鷹匠衆を率いて毛利秀元の陣所南宮山を偵察する功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮綱信【まみやつなのぶ(1536~1609)】

北条氏照家臣。間宮信元の次男。室は宅間上杉富朝の娘。天正年間、織田信長への使者を務めた。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、松平元康に仕えた。家督を継嗣の間宮重信に譲り、隠居領として500石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮重信【まみやしげのぶ(15??~15??)】

間宮綱信の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮信冬【まみやのぶふゆ(15??~1590)】

間宮信重家臣。1590年、「山中城の戦い」では、間宮信重らとともに籠城するが、羽柴秀吉勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮政光【まみやまさみつ(15??~15??)】

間宮信盛家臣。別名間宮宗甫。参考文献:『横浜の戦国武士たち』by下山治久。

三ヶ尻丹後守【みかじりたんごのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

三戸義宣【みとよしのぶ(15??~15??)】

扇谷上杉朝興家臣。1525年、扇谷上杉朝興の意向を受け越後国の長尾為景に北条氏綱との戦いへの参陣をもとめる使者を務めた。

三戸景道【みとかげみち(1538~1617)】

三戸義宣の男。官途は駿河守。室は太田資頼の娘。1546年、「河越城の戦い」で扇谷上杉朝定が滅亡すると、山内上杉憲政に仕えた。1557年、山内上杉憲政が越後国に落延びると、太田資正を頼った。1563年、「第二次国府台の戦い」後、太田資正が太田氏資に岩槻城を追われると、それに従い佐竹義重のもとに落延びた。太田資正の病没後も佐竹義宣に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封になると、土浦城主松平信一に仕えた。

御宿隼人佑【みしゅくはやとのすけ(15??~15??)】

北条氏康家臣。入間郡勝呂館主。小田原衆。入西郡勝呂郷広野で26貫536文を領した。

三田五郎左衛門【みたごろうざえもん(15??~15??)】

太田資正家臣。1562年、「松山城の戦い」で太田下野守とともに精鋭200騎余りを率いて松山城本丸に籠城して武田晴信、北条氏康勢と戦った。

三田政定【みたまささだ(15??~15??)】

多摩郡勝沼城主。三田氏宗の男。官途は弾正少弼。1531年、小田原に滞在して柴屋宗長と交友した。1533年、平山伊賀守、大石定久とともに北条氏綱が求める、鶴岡八幡宮造営の協力を拒否した。

三田綱秀【みたつなひで(1491~1563)】

三田政定の男。官途は弾正少弼。別名三田綱定。1546年、「河越城の戦い」で山内上杉憲政が敗退すると、北条氏康勢に属した。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、これに従った。1561年、「小田原城の戦い」後、長尾景虎が帰国すると、関東諸将の多くが再び北条氏康勢に属したが、三田綱秀は北条氏康勢に抵抗し続けた。1563年、「幸垣城の戦い」では、北条氏照勢の攻撃によって落城、太田資正のもとに落延び自刃した。辞世の句は『からかいの南の山の玉手箱、あけてくやしきわが身なりけり』。

三田綱重【みたつなしげ(1525~1563)】

三田綱秀の男。通称十五郎。

三田綱行【みたつないき(1532~1564)】

三田綱秀の次男。通称喜蔵。

三田五郎太郎【みたごろうたろう(1537~1572)】

三田綱秀の三男。伊豆で自刃した。

三戸興義【みともとおきよし(15??~15??)】

扇谷上杉興朝家臣。官途は駿河守。通称四郎。1547年、平柳蔵人祐とともに山内上杉憲政の指南役を務めた。

宮城政業【みやぎまさなり(1495~1589)】

太田資頼家臣。足立郡宮城城主。通称中務。室は宇多重広の娘。1564年、「第二次国府台の戦い」で太田資正が敗れて岩槻城を追われると、北条氏康勢に属した。

宮城為業【みやぎためなり(1533~1588)】

宮城政業の男。官途は美作守。通称四郎兵衛。1565年、太田氏資から武蔵舎人郷、北条氏政から武蔵菅生郷を与えられた。

宮城泰業【みやぎやすなり(1556~1591)】

宮城為業の男。官途は美作守。通称四郎兵衛。大間木、川口などに284貫領した。1590年、「第四次岩槻城の戦い」では、伊達房実とともに籠城したが、羽柴秀吉勢の攻撃を受け降伏した。北条氏康、太田氏房に従って高野山へ入るがまもなく病没した。

宮城正重【みやぎまさしげ(15??~15??)】

宮城泰業の男。1587年、太田氏房の奏者を務めた。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、肥前唐津に移るが太田氏房の病没後は浪人した。

向井新左衛門【むかいしんざえもん(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。

毛利丹後守【もうりたんごのかみ(15??~15??)】

入間郡石戸城主。1562年、「石戸城の戦い」では、北条氏邦勢の攻撃を受けたが毛利丹後守の守りにより攻略することができなかった。北条氏邦は夜陰に紛れて石戸城を囲む低湿地に一夜のうちに堤を築いて落城させた。

森田将監【もりたしょうげん(15??~1590)】

浅羽下総守家臣。1590年、「浅羽城の戦い」では、浅羽下総守が小田原城に籠城したため、森田将監が赤羽城を守備した。前田利家、長尾景勝、真田昌幸勢の攻撃を受け討死した。

毛呂顕繁【もろあきしげ(15??~15??)】

入間郡毛呂城。1504年、「立河原の戦い」では、山内上杉顕定勢に属して扇谷上杉朝定勢と戦った。戦後、毛呂顕繁は戦いの戦没者の供養のために念仏鉦をつくった。1520年、北条氏綱が扇谷上杉朝定を逐って江戸城を奪うと、毛呂顕繁は北条氏綱勢に属した。山内上杉憲政は、扇谷上杉朝興とともに毛呂顕繁を攻撃するが、北条氏綱はただちに救援の兵を送り和議を成立させた。

毛呂顕季【もろあきよし(15??~15??)】

毛呂顕繁の男。官途は土佐守。越生の報恩寺、安楽寺、医王寺に保護を加え、毛呂館の近くに長栄寺を開基するなど、在地領主としての立場を強化した。1560年、山内上杉憲政を擁した長尾景虎が関東に侵攻すると、長尾景虎勢に参陣して小田原城を包囲した。

毛呂秋重【もろあきしげ(15??~1590)】

毛呂顕季の男。官途は土佐守。1589年、「小田原の役」では、北条氏直勢に属して
横地監物が守備する八王子城に籠城した。1590年、「八王子城の戦い」では、鉢形城、武州松山城、岩槻城、川越城を落城させた長尾景勝、前田利家、真田昌幸勢の攻撃を受けた。八王子城は2,000余りで抵抗したが、毛呂顕綱、毛呂義可、毛呂義忠ら一族とともに討死した。

毛呂秋綱【もろあきつな(15??~15??)】

毛呂顕季の次男。

師岡将景【もろおかまさかげ(15??~15??)】

北条氏照家臣。多摩郡師岡城主。官途は山城守。1569年、「滝山城の戦い」では、二の曲輪を守備した。武田勝頼と一騎打ちになったが、武田勝頼が優勢のうちに引き分けに終わった。

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【や】

八木橋大膳【やぎはしだいぜん(15??~15??)】

太田資正家臣。足立郡深作館主。

柳備後守【やなぎびんごのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。

矢野右馬充【やのうまのじょう(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。

山口平之進【やまぐちへいのしん(15??~1655)】

医師で切支丹。別名「寿庵」。慶長年間渡瀬村に来住し児玉郡に善明寺を建立した。1655年、切支丹であることが発覚して二人の息子ととも処刑され、善明寺も取り壊された。

山口平六【やまぐちへいろく(15??~15??)】

北条氏康家臣。他国衆。入間郡山口で40貫を領した。

山口総五郎【やまぐちそうごろう(15??~15??)】

北条氏邦家臣。1569年、「三山谷の戦い」では、多比良将監、出浦左馬助、斎藤右衛門尉、朝見伊勢守らととも北条氏邦に従い武田晴信勢と戦った。

山崎弥三郎【やまざきやさぶろう(15??~15??)】

北条氏政家臣。1582年、「神流川の戦い」で戦功を挙げ、秩父郡野上で21貫350文を領した。

山崎若狭守【やまざきわかさのかみ(15??~15??)】

上田朝直家臣。1572年、普請奉行を務め羽尾城を築城した。1575年、羽尾城主に任じられた。1590年、「羽尾城の戦い」では、前田利家勢の攻撃を受け落城した。

山下治部少輔【やましたじぶしょうゆ(15??~15??)】

北条氏康家臣。江戸衆。高麗郡大谷沢で19貫400文を領した。

山田直義【やまだなおよし(15??~15??)】

上田朝直家臣。青島城主。官途は伊賀守。

山田直定【やまだなおさだ(15??~1562)】

山田直義の男。1562年、「赤浜原の戦い」では、上田朝直に従い参陣したが、太田資正勢と戦い討死した。

山田直安【やまだなおやす(15??~1600)】

山田直義の次男。官途は伊賀守。兄山田直定の討死後、山田家の家督を相続した。1590年、「松山城の戦い」では、松山城代を務め、前田利家、長尾景勝、真田昌幸勢と戦うが落城した。上田家が没落すると、松平元康に仕えて300石を領した。

山中右馬允【やまなかうまのすけ(15??~15??)】
 
武田晴信家臣。秩父郡栃本の関所を守備した。

山中孫七郎【やまなかまごしちろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。河越衆。川越三十三郷伊佐沼で434貫537文を領した。

山中頼元【やまなかよりもと(15??~15??)】

北条氏照家臣。官途は大炊助。室は北条氏照の娘。北条氏照は娘に化粧田として下溝村、上溝村を与えた。この婚儀により、北条氏照の家臣井上図書、井上三郎左衛門が下溝村に転封した。

山中頼次【やまなかよりつぐ(15??~15??)】

北条氏康家臣。官途は内匠助。川越衆。川越寺井、的場で315貫740文を領した。

矢那瀬大学【やなせだいがく(15??~1589)】

北条氏邦家臣。1589年、「虎ヶ岡城の戦い」で100余りの寡兵で虎ヶ岡城を守備したが、真田昌幸勢の攻撃を受け落城した。

山内豊前守【やまうちぶぜんのかみ(15??~15??)】

足立郡中釘館主。

矢部新右衛門【やべしんざえもん(15??~15??)】

太田資正家臣。鴻巣七騎衆。

横瀬時親【よこせときちか(15??~15??)】

秩父郡横瀬館主。

横地忠春【よこちただはる(15??~15??)】

北条氏邦家臣。児玉郡雉ヶ丘城代。通称左近将監。別名横井景信。1580年、北条氏邦は武蔵国栗崎、五十子、仁手、今井、宮古鳥、金窪などへの塩輸出を禁じた。1590年、「雉ヶ丘城の戦い」では、前田利家勢が武蔵国に侵攻すると、横地忠春と城兵たちは、恐れをなして雉岡城を放棄し鉢形城に撤退した。

吉岡将監【よしおかしょうげん(15??~15??)】

足立郡殿山城主。

吉田勘解由【よしだかげゆ(15??~15??)】

北条氏康家臣。玉縄衆。松山本郷で500貫を領した。

吉田真重【よしだまさしげ(15??~15??)】

猪俣邦憲家臣。吉田政重の男。児玉郡小島郷100貫を領した。

吉村助五郎【よしむらすけごろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。松山衆。吉見郡久米田で53貫を領した。

依田大膳亮【よだだいぜんのすけ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。1562年、「石戸城の戦い」で戦功を挙げ北条氏邦から石戸城代に任じられた。

霊照院【れいしょういん(15??~1588)】

山中頼元の室。北条氏照の娘。

脇本利助【わきもととしすけ(15??~15??)】

本庄泰展家臣。1590年、「忍城の戦い」では、本庄泰展の意向を受け、坂本兵衛とともに石田三成勢の築いた堤防を破壊する功を挙げた。

和田左京亮【わださきょうのじょう(15??~15??)】

三田綱秀家臣。1563年、「幸垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。1564年、北条氏照の意向を受け清戸館に在番した。
 
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【資料Ⅰ】

武蔵国(22郡/690,000石)

久良岐郡:獅子ヶ谷城。 
橘樹郡:小机城。
都筑郡:茅ヶ崎城。
荏原郡:世田谷城。
豊嶋郡:江戸城。
葛飾郡:葛西城。  
多摩郡:八王子城、滝山城、片倉城、三田城。
足立郡:宮城城、石戸城、蕨城。
新座郡:岡の城、吹上城。
埼玉郡:忍城、岩槻城、騎西城、羽生城。
横見郡:武蔵松山城。
大里郡:別府城。  
入間郡:河越城、難波田城、滝の城。
高麗郡:阿須城。  
比企郡:杉山城、小倉城、腰越城、青鳥城。
秩父郡:天神山城、千馬山城。
男衾郡:鉢形城、菅谷城。
榛沢郡:花園城。  
幡羅郡:深谷城。
加美郡:上里城。  
児玉郡:雉岡城、本庄城。
那珂郡:猪俣城。  

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【資料Ⅱ】

扇谷上杉家四天王【おおぎやうえすぎけしてんのう】

太田資正、三戸景道、荻谷加賀、上田朝直。

深谷上杉家四天王【ふかやうえすぎけしてんのう】

岡谷清英、秋元景朝、井草左衛門尉、上原出羽守。

吉良家四天王【きらけしてんのう】

関加賀守、大場越後守、宇田川杢頭、白井但馬守。

鴻巣七騎衆【こうのすしちきしゅう】

小池久宗、立川石見守、河野和泉守、矢部新右衛門、深井景吉、大島亮久、加藤宗安、本木某。太田資正に仕えた鴻巣周辺の家臣団。

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【資料Ⅲ】

武蔵国【むさしのくに】

関東平野の大部分を占める大国。東は江戸川が下総国との境を作り、東北では狭い範囲で下野国と境を接する。北は上野国と利根川を境として接し、西北では甲武信岳が信濃国との境を作る。西は秩父山地と関東山地の山岳地帯が甲斐国との境界となり、西南では多摩丘陵で相模国と接する。東部の平野部と西部の山岳地帯からなるが、広い関東平野を持つだけに古代から農耕、牧畜が盛んであり、平安時代には多くの荘園が権門勢家の私有となった。それにともない、在地武士団勢力も伸張し、平安末期から室町時代にかけては、横山党、猪俣党、児玉党、丹党、西党、私市党、村山党ら武蔵七党と呼ばれる同族的武士団が割拠した。平安末期には、平家の知行国として坂東平平氏のひとつ秩父家が大きな勢力を持ったが、鎌倉幕府成立後は源頼朝の支配下にはった。

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戦国人名辞典は1500~1630年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

出展図書は参考文献とて示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、歴史誤認、ミス等は許してください。

武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、北条早雲は伊勢盛時、太田道灌は太田資長、北条秀氏は長尾三郎景虎で統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』新人物往来社、『戦国房総人名事典』by崙書房出版、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『武田信玄、上杉謙信、北条氏康(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、『横浜の戦国武士たち』by下山治久、『武田信玄(全4巻)』by(新田次郎)文春文庫、『武田勝頼(全3巻)』by(新田次郎)文春文庫、「武田信玄(全3巻)」by(津田陽)講談社、『甲州武田家臣団』by新人物往来社、『中世武蔵人物列伝』byさいたま出版会、『戦国最強上杉武将伝』byPHP文庫、『上杉三郎景虎』光文社、『天と地と(全3巻)』by文春文庫、『謀将直江兼継(全2巻)』角川文庫、『上杉謙信』byPHP文庫、『北条氏照』byPHP文庫。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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