2012年7月3日火曜日

戦国河内国人名辞典


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【あ】

飯沼康頼【いいぬまやすより(15??~15??)】

畠山家臣。畠山稙長から畠山政国期にかけての奉行人。

池田教正【いけだのりまさ(15??~1595)】

三好義継家臣。官途は丹後守。洗礼名は「シメオン」。若江三人衆の筆頭。三好長慶に仕えた。三好長慶が病没すると松永久秀に属して足利義輝の謀殺にも関わった。1568年、織田信長の上洛すると三好義継、松永久秀と共の麾下に属した。三好三人衆が堺より京都を目指した際、和泉国家原城において三人衆方と戦った。織田信長と足利義昭の対立後、三好義継は足利義昭に属したため佐久間信盛の攻撃を受けた。池田教正、多羅尾常陸介、野間長前ら若江三人衆は揃って佐久間信盛に内通して三好義継を自刃に追いやった。以後佐久間信盛に属して畿内を転戦した。1581年「京都馬揃え」では蜂屋頼隆に属して参陣した。1582年「本能寺の変」後は、羽柴秀吉に属した。「小牧、長久手の役」では池田恒興隊の先手を務め、戦後は池田輝政に仕えた。その後、羽柴秀次に仕え、清州奉行や信濃木曽における材木奉行を務めた。「羽柴秀次事件」の際、羽柴秀次に殉じた。

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【か】

甲斐庄隆成【かいしょうたかなり(15??~15??)】

錦部郡烏帽子形城主。畠山家臣。

甲斐庄正治【かいしょうしまさはる(15??~1599)】

甲斐庄隆成の男。通称庄兵右衛門。畠山家没落とともに烏帽子形城を失った。没落した甲斐庄正治は流浪のち、松平元康に仕えた。

甲斐正房【かいしょうしまさふさ(1564~1630)】

甲斐庄正治の男。通称庄喜右衛門。室は黒弥兵衛の娘。父甲斐庄正治と共に松平元康に仕えた。「小田原の役」に参陣して300石を領した。1599年、父甲斐庄正治が病没し父の遺領と合わせて600石を領した。1600年「関ヶ原の役」に参陣して大番組頭となった。1614年「大坂の陣両陣」に参陣し、河内の地理に詳しいことから道案内を務めた。「大阪夏の陣」では、水野勝成隊に属して戦功を挙げ、錦部郡烏帽子形城2,000石を領した。

木沢長政【きさわながまさ(15??~1542)】

河内畠山家臣。官途は左京亮。1530年、細川晴国に属した。1531年、細川高国が三好元長らに滅ぼされると、細川高国方の細川尹賢を摂津国富田城で滅ぼし、河内国飯森山城主となった。畠山義英に飯森山城を攻められた際は、細川晴元に支援を請い、細川晴元は本願寺証如に協力を依頼して一向一揆を煽動した。1532年、畠山義英、畠山義堯は居城高屋城において自刃した。木沢長政はまた、細川晴元、一向一揆と協力して三好元長を堺顕本寺に包囲して自刃に追い込んだ。1533年、法華一揆と結んで細川晴元とともに石山本願寺を攻め、以後一向一揆と対立した。1536年、大和国信貴山城を築城した。1541年、山城国笠置城を修築して勢力圏を拡大した。細川晴元、三好政長や三好長慶と対立した。1542年、遊佐長教が畠山政国を追放して畠山稙長を擁立すると、木沢長政は畠山政国を助けて、畠山稙長を高屋城に攻めたが、池田長教、三好政長、三好長慶らの迎撃に合い「河内国太平寺の戦い」で討死した。

萱振賢継【かやふりかねつぐ(15??~15??)】

八尾城城主。1551年、下郡代で高屋城に居た萱振賢継が、河内守護代遊佐長教を謀殺した。萱振賢継は安見宗房に謀殺された。

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【さ】

三箇頼本【さんかよりもと(15??~15??)】

讃良郡三箇城主。通称治部左衛門尉。

三箇頼照【さんかよりてる(15??~1595)】

三箇頼本の男。官途は備後守。別名白井備後守。洗礼名「マンショ」。畿内で最も古いキリシタンのひとり。三好長慶の秘書役を務めていた。三箇城は、畿内を支配した三好長慶の居城飯盛山城の西方にあり、摂河泉と大和を繋ぐ大和川、寝屋川水運の要衝でもあった。三箇頼照は三好義継、次いで織田信長に属して所領を安堵され、畿内で本願寺勢力と戦う一方で、キリスト教の洗礼を受け、宣教師と信者を保護して領内に1,500人のキリシタンを擁し「五畿内で最も大にして美麗」と称えられた教会を築いて三箇を高山友照の高槻城、結城ジョアンの砂岡山城、池田教正の若江城と並ぶ近畿キリシタンの一大拠点とした。1577年、本願寺との戦いが激化し、三箇城に一揆勢が押し寄せた。1580年、本願寺が織田信長と講和して石山合戦が終結すると領内も安定し、三箇頼照は最盛期を迎えた。

三箇頼世【さんかよりただ(15??~15??)】

三箇頼本の次男。

三箇頼連【さんかよりつら(15??~15??)】

三箇頼照の男。官途は伯耆守。通称孫三郎。洗礼名「マンショ」。1577年、父三箇頼照の隠居により三箇家の家督を相続した。多羅尾常陸介の讒言で所領没収の危機を迎えたが、尋問の際の態度と弁明が非常に立派であったために織田信長は感服して疑いを解くことが出来た。1578年、荒木村重の反乱を鎮圧と一族の処刑を行った。1582年、三箇頼連は、明智光秀の謀反に加担した。明智光秀が「山崎の戦い」で敗北すると羽柴秀吉方の諸将に攻撃され、城も教会も焼き払われて三箇家は滅亡した。保護者を失ったキリシタン領民も四散し、三箇は廃墟と化した。 落城時の攻撃側の軍勢による破壊と略奪は凄まじかった。

三箇頼雄【さんかよりたか(15??~15??)】

三箇頼照の次男。官途は飛騨守。織田信長に仕えた。1582年、高野山衆徒との戦いで戦功を挙げた。

三箇頼遠【さんかよりとう(15??~15??)】

三箇頼照の三男。官途は和泉守。

三宝院快敏【さんぽういんかいしゅん(15??~15??)】

高野山の子院のひとつ三宝院の僧。紀伊国衆で、紀伊国の小守護代か郡代クラスに登用された。畠山稙長の河内国復帰にも従った。

清水元好【しみずもとよし(15??~1612)】

河内畠山家臣。清水元方の男。通称勘右衛門。のち羽柴秀次に仕えた。「羽柴秀次事件」後は流浪、一時前田利家に仕えるも、やがて高野山に入った。1600年「関ヶ原の役」のち和歌山を領した浅野幸長に招かれてこれに仕えた。

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【た】

田原但馬守【たわらたじまのかみ(15??~15??)】

三好長慶家臣。田原城主。洗礼名「レイマン」。

多羅尾右近【たらおさこん(15??~15??)】

三好義継家臣。河内国守護代。官途は常陸介。若江三人衆のひとり。三好義継、松永久秀に組して三好三人衆と戦った。1566年、山城国淀城に拠るが、三人衆の攻撃により退去した。 キリスト教をしばしば迫害し、宣教師からは大敵と呼ばれた。キリシタンである三箇城主三箇頼照を織田信長に讒言し危機に追い込んだ。

丹下盛賢【たんげもりかた(15??~1545)】

丹下城主。畠山稙長家臣。官途は備後守。畠山稙長が紀伊国に退いたときにも従った。河内国守護代である遊佐長教の麾下に属した。畠山稙長の意を遊佐長教に伝える役割を果した。畠山稙長が遊佐長教に追放され、紀伊国に退去した際もそれに従った。畠山稙長の死後殉死した。死後、遊佐長教がその死を惜しみ、平盛知に丹下家の家名を継がせた。

丹下盛知【たんげもりとも(15??~15??)】

丹下盛賢の養子。官途は備中守。別名平盛知。紀伊国の小守護代を務めた。畠山家の紀州退去に従った。安見宗房とともに領国経営の中心を担った。永禄年間の畠山家の没落による紀伊国退去に従った。

丹下遠守【たんげとおもり(15??~15??)】

丹下盛知の養子。官途は越前守。遊佐長教の枝連衆。別名遊佐遠盛。養子として丹下家に入り、畠山昭高の奉行人として仕えた。

津田正信【つだまさのぶ(15??~15??)】

交野郡津田城主。楠木正儀の養子。官途は周防守。1490年、津田城を築城した。

津田正明【つだまさあき(15??~1561)】

津田正信の孫。三好長慶に仕えた。1561年、津田正明が津田城内で病没した。

津田正時【つだまさとき(15??~15??)】

津田正明の男。官途は主水頭。1567年、津田正時に不満を持つ豪族上武伊賀守清繁が攻撃を仕掛けたが、津田正時はこれを撃退した。1568年、三好三人衆に味方していた津田正時は松永久秀に寝返り、この城には三好義継が入城した。三人衆の攻撃を受けて落城、津田正時と三好義継はこの城を脱出した。1575年、河内へ侵攻した織田信長勢は津田城を攻撃、陥落した。津田正時は、浪人となり流浪したが、羽柴秀吉に許されて旧領に戻ったが「山崎の戦い」で津田正時は明智光秀に味方し、再び浪人となった。

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【な】

野尻備後大夫【のじりびんごだいふ(15??~15??)】

渚城主。

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【は】

走井盛秀【はしりいもりひで(15??~15??)】

守護代遊佐家臣。官途は備前守。守護代遊佐家の上級の被官であったが、守護代の地位向上や守護畠山家の家督相続の内紛に伴う守護、守護代による二重支配体制により、畠山家臣と連署して文書を発給した。畠山家奉行人としての役割も担った。

河内畠山稙長【はたけやまたねなが(15??~1545)】

古市郡高屋城主。畠山尚順の男。紀伊国、河内国、越中国守護職。官途は尾張守。別名畠山稙家。祖父畠山政長が細川政元に自刃に追い込まれてより幕府参画の機会を失った上、嫡流の座をめぐって総州家と尾州家に分裂。尾州家有利といえども分裂状態が解消されなかった。1511年、畠山家の家督を相続した。細川高国と結んで細川澄元、畠山義英らと戦った。1520年、畠山義英に高屋城を奪われるが「等持寺の戦い」で細川澄元が敗退して勢力が後退したため、高屋城を奪回した。のち南河内地方を領し、北河内地方は畠山尚順が守護となった。高国政権が細川晴元によって瓦解すると、畠山義堯は攻勢に出て南河内へ進出した。1532年、畠山義堯は家臣木沢長政と争って討死した。河内守護は稙長に任ぜられることとなる。1534年、遊佐長教、木沢長政が畠山稙長の弟畠山長経を擁して謀反したため紀伊へ逃れた。1542年、遊佐、木沢両家は争い、木沢長政は細川晴元を離反して敗死し、畠山稙長は遊佐長教により高屋城に迎えられて復帰した。

河内畠山長経【はたけやまながつね(15??~1541)】

畠山尚順の次男。官位は左京大夫。1534年、兄畠山稙長が守護代の遊佐長教、木沢長政らによって廃され、河内国守護職に擁立された。ところが、四年後に応仁の乱以来続く畠山家の分裂状態に終止符を打つべく河内を二分して、対立する両派からひとりずつ守護を立てるという遊佐長教の提案に激しく反発した。畠山長経が独自行動を取るようになると、遊佐長教らによって畠山長経は追放され、代わって弟畠山政国が守護に擁立された。後に木沢長政によって謀殺された。

河内畠山政国【はたけやままさくに(15??~15??)】

畠山尚順の三男。兄畠山稙長が木沢長政によって追放され、続いてもうひとりの兄畠山長経が謀殺されると、木沢長政により総州畠山家の当主として擁立され、総州畠山在氏と協調して統治にあたった。畠山政国は畠山在氏と同様傀儡であり、実権は木沢長政や遊佐長教が握っていた。1538年、高屋城に入城し、畠山在氏とともに河内半国守護体勢を形成した。その後家督をついだ畠山晴熈の「惣領名代」として「細川氏綱の乱」に荷担した。1542年、木沢長政が「太平寺の戦い」で討死すると後ろ盾を失い家臣によって河内国から追放された。1545年、畠山稙長が没すると、遊佐長教が推す弟畠山晴熙が家督を継ぎ、畠山政国はその後見にあたった。畠山晴熙の引退後は畠山政国の嫡男畠山高政が家督を相続した。

河内畠山晴熙【はたけやまはるひろ(15??~15??)】 

畠山尚順の四男。官途は播磨守。畠山稙長は継嗣なく、能登畠山家から養子を迎えようとしていたため、死後家督争いが起きた。

河内畠山高政【はたけやまたかまさ(1527~1576)】

畠山政国の男。官途は尾張守。1546年、三好政長と「摂津舎利寺の戦い」で、父畠山政国の援助を受けて勝利した。1548年、三好長慶の反撃を受けて敗れ、三好長慶と和議を結んだ。1550年、父畠山政国の病没により河内畠山家の家督を相続した。1551年、河内国守護代の遊佐長教が謀殺されると、安見宗房を守護代とした。三好長慶が畿内で勢力を増すと、三好長慶に属した。1558年、安見宗房の離反によって居城の河内高屋城を追放されて堺に落延びた。1559年、畠山高政は三好長慶と和睦して、安見宗房らを追放して高屋城に復帰した。1560年、安見宗房を守護代に戻して三好長慶と再び対立した。三好勢が高屋城を占拠して畠山高政、安見宗房らは再び追放され紀伊国に落延びた。1561年、紀伊国で挙兵すると、細川晴之、六角義賢と共に京都に進軍し、三好長慶を京都から追い出すことに成功した。1562年「久米田の戦い」で、三好義賢を討取る戦果を挙げ高屋城を奪還した。「教興寺の戦い」で敗れ、河内における支配権を失い再び紀伊国に落延びた。1566年、三好長慶没後、三好義継と和睦し高屋城に戻った。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、織田信長に属した。1569年、遊佐信教によって河内国から追放された。1573年、畠山昭高が遊佐信教に謀殺されると挙兵し河内国に侵攻したが敗北し紀伊国に落延びた。

河内畠山政尚【はたけやままさなお(1533~1589)】

畠山政国の次男。紀伊国守護職。兄畠山高政を弟畠山昭高と共に補佐して紀伊国内の畠山領(分郡守護)を支配した。兄畠山高政が遊佐信教によって守護職の座を追われると、これを堺に迎えて反撃を試みるが、遊佐信教らに追われて紀伊国に落延びた。「石山城の戦い」後、本願寺の支援を失った雑賀衆らによって紀伊国主に担ぎ出された。1585年、羽柴秀吉が「紀州征伐」により紀伊国の支配権を失った。

河内畠山昭高【はたけやまあきたか(1534~1573)】

畠山政国の三男。河内国下半国及び紀伊国守護職。官途は左衛門督。兄畠山高政を補佐して三好長慶と争った。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛してくると、兄畠山高政もこれを支持した。畠山高政は織田信長に河内半国守護職を認められた。1569年、兄畠山高政が遊佐信教によって紀伊国に追放されると、河内畠山家の家督を継いだ。1571年、河内国上半国守護職三好義継が反乱を起こし松永久秀と共に河内畠山家方の諸城を攻撃すると、安見宗房と共にこれに抵抗した。遊佐信教が三好義継と結ぶと、畠山昭高は織田信長の妹を室とし、織田家の支援を受けて遊佐信教と対抗した。1573年、足利義昭と織田信長の対立すると足利義昭方に付いたため、織田信長の後ろ盾を失い遊佐信教に謀殺された。

河内畠山貞政【はたけやまさだまさ(1557~1641)】

畠山政尚の男。紀伊国岩室城主。1584年、織田信雄、松平元康が羽柴秀吉と戦った「小牧、長久手の戦い」では、根来衆、雑賀衆とともに松平元康方に属した。松平元康、羽柴秀吉の和睦後、羽柴秀吉に城を攻められ、家臣の内応により落城した。

総州畠山義英【はたけやまよしひで(15??~1532)】

飯盛城主。畠山基家の男。通称次郎。官途は上総介。細川政元と結んで畠山尚順と戦った。1504年、和睦し、畠山義英は北河内の、畠山尚順は南河内国の守護職となることで合意した。1507年、細川政元が謀殺されると、細川澄之と細川高国が対立するようになり、畠山義英は細川澄元と結び、細川高国は畠山尚順と結び戦った。1508年、細川高国は足利義稙を擁して上洛してきた大内義興と結び、畠山義英は没落した。1518年、大内義興帰国により細川高国政権は弱体化した。1520年、越智家全らとともに攻勢をしかけて畠山稙長の拠る高屋城を攻略するが、細川高国と戦って敗退、大和国吉野へ落延びた。1521年、畠山稙長と和睦し再び、北河内は畠山義英、南河内は畠山稙長が守護となった。1527年、朝倉宗滴の上洛では三好党に組して戦った。

総州畠山義堯【はたけやまよしたか(15??~1532)】

畠山義英の男。室町幕府管領職。河内国、山城国守護職。官途は右衛門督。室は細川澄元の娘。1526年、室町幕府管領となった。その後、細川晴元と結んで、細川高国や畠山稙長と争い。細川高国を倒した。その後、細川晴元と対立した。家臣の木沢長政が細川晴元と畠山稙長と結び謀反を起こした。1532年、木沢長政の飯盛山城を三好元長と攻囲したが、一向一揆衆に背後を衝かれ敗れて自刃した。

総州畠山在氏【はたけやまありうじ(15??~15??)】

畠山義堯の男。官途は右衛門督。通称小次郎。総州畠山家の実権は家臣の木沢長政が握っており、傀儡政権の様相を呈していた。1537年、代替わりの安堵状を発給した。河内畠山畠山政国と和睦して復権を目指した。1541年、木沢長政が細川晴元に反旗を翻すと、畠山存氏も同調し飯盛城に拠っていた。木沢長政は幕府側との和睦交渉を続けたが結局不調に終わり「太平寺の戦い」後、飯盛城は陥落した。畠山在氏は本願寺などに通じて復権を図り「細川氏綱の乱」で、細川晴元政権に帰参した。再び細川氏綱と結び、三好長慶、遊佐長教勢に対抗するが敗北し没落した。

総州畠山尚誠【はたけやまなおのぶ(1531~15??)】

畠山在氏の男。父畠山在氏は、細川氏綱、三好長慶と細川晴元との戦いにおいて、細川晴元に属して没落した。1551年、平誠佐と遊佐家盛とともに河内国に侵攻したが。三好長慶と結んだ河内畠山家の基盤は強固なもので、試みは失敗に終わった。1556年、畠山高政が安見宗房とともに布施左京亮を征伐しようとした際、布施左京亮に加勢したが、総州畠山家は河内の一勢力にすぎないと言えるほど没落していた。1565年、三好家三人衆と松永久秀が足利義輝を謀殺すると、足利義昭を興福寺一乗院から脱出させることに尽力した。

平誠佐【ひらあきすけ(15??~15??)】

畠山尚順家臣。通称左衛門大夫。1552年、遊佐家盛と共に大和国宇智郡の栄山寺に宛てて禁制を発給した。

平盛長【ひらもりなが(15??~15??)】

河内畠山家臣。通称三郎左衛門。初め畠山高政に仕えたが、その没落後は織田信長、羽柴秀吉に仕えた。のち羽柴秀次に仕えた。1595年「羽柴秀次事件後」は高野山に隠棲した。

本多政康【(15??~15??)】

枚方城主。通称内膳正。羽柴秀吉に仕えた。その娘が秀吉の妾となったために栄えた。

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【ま】

野間長前【のまながさき(15??~15??)】

三好義継家臣。野間右兵衛の男。通称兵衛尉。三好長慶に、その死後は養子三好義継に仕えた。1568年、足利義昭上洛に際し、三好義継はこれに服し、河内半国守護に補された。野間長前もその重臣として足利軍義昭に属した。佐久間信盛や柴田勝家らと連名しており、織田信長の家臣として新参ながら、高い地位を保持していた。野間長前は織田信長によって茶会を開くことを許された六人のひとり(他の5人は織田信忠、明智光秀、羽柴秀吉、佐久間信栄、村井貞勝)。

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【や】

安見宗房【やすみむねふさ(15??~1571)】

交野城主。越智家臣中村圓賀の男。畠山家臣。河内国守護代。官途は美作守。別名安見直政。1552年、遊佐長教が謀殺されると、安見宗房は、畠山家臣団を把握して畠山高政を河内国守護職に擁立した。畠山高政政権は、安見宗房と丹下盛知に実権を掌握されていた。1553年、三好長慶が畿内を制圧すると、安見宗房と畠山高政は、足利義輝を擁して近江国へ落延びた。1558年、畠山高政を河内国から追い落とした。1559年、三好長慶の援助を受けた畠山高政の高屋城に復帰すると守護代の座を追われた。1560年、畠山高政と和睦して守護代に復帰するが、畠山高政と三好長慶が対立すると、畠山高政ともども追放された。三好三人衆と松永久秀が対立すると、畠山高政と共に松永久秀に属するが敗北した。足利義昭が織田信長に擁立され将軍に就任すると、畠山高政と共にこれに従い、河内国への復帰した。1569年、安見宗房と遊佐信教は、畠山昭高を擁立して、再度畠山高政を追放した。1571年、織田信長から離反した三好義継や松永久秀、松永久通と畠山昭高が抗争を続けるが、安見宗房は松永久秀の調略により自刃に追い込まれた。

安見新七郎【やすみしんしちろう(15??~15??)】

安見宗房の男。1571年、安見宗房が自刃すると、松永久秀の私部城攻撃が繰り返されたが、安見新七郎は城を堅く守り、 織田信長勢および公方衆の救援によって救われた。1573年、筒井順慶が交野城に押し寄せ、城を守っていた家臣北田孫左衛門尉は婦女子を落とすと華々しく討死した。

安見信国【やすみのぶくに(15??~15??)】

河内畠山家臣。通称右近丞。石清水八幡宮料所を押領して幕府に訴えられた。のち松永久秀により謀殺された。

安見勝之【やすみかつゆき(15??~15??)】

安見信国の男。官途は隠岐守。通称右近丞。鉄砲の名手。畠山家が没落すると、羽柴秀吉に仕えた。伊予国宇摩郡麻布城で10,000石を領した。1600年「関ヶ原役」では西軍に属して所領を没収された。のち加賀前田利長に仕えて8,000石を領した。

遊佐長教【ゆさながのり(1491~1551)】

河内郡若江城主。遊佐順盛の男。河内畠山家臣。河内国守護代。室は十河一存の娘。遊佐家は鎌倉時代末期から南北朝時代に一族の者が畠山家に仕えた。畠山基国の時代に遊佐長教からみて曽祖父にあたる遊佐長護が河内守護代となって以来、代々河内守護代を務めた家柄。畠山政長が渋川郡正覚寺で自刃すると、嫡男畠山尚順と共に紀州国に落延びた。1511年「船岡山の戦い」での、父遊佐順盛が討死により遊佐家の家督を相続した。遊佐長教は畠山尚順と嫡男畠山稙長を助けて畿内各地を転戦した。木沢長政と対立し、三好長慶らと連合して木沢長政を高安郡太平寺で、木沢長政を討取った。その後、畠山政国を擁立した。細川晴元を駆逐するために、遊佐長教は娘を三好長慶に嫁がせ同盟を結んでいたが、三好長慶の勢力が拡大すると三好家の麾下に属した。1551年、若江城内で謀殺された。

遊佐信教【ゆさのぶのり(1524~1573)】

遊佐長教の男。官途は河内守。通称新次郎。1569年、安見宗房らと図り畠山高政を追放して畠山昭高を擁立した。1573年、安見宗房と遊佐信教の専横に不満を持った畠山昭高が織田信長と結ぶと、遊佐信教は畠山昭高を謀殺した。挙兵した畠山高政を敗走させ、三好康長と共に織田信長に対抗した。1573年、織田信長の攻撃を受けて高屋城において討死した。

遊佐太藤【ゆさたかひさ(15??~15??)】

遊佐家臣。官途は帯刀。1551年、遊佐長教が謀殺されると、遊佐信教の成長までの陣代を務めた。畠山高政との確執が発生、いまだ幼少ながら遊佐信教の擁立が計られが擁立されなかった。

遊佐高清【ゆさたかきよ(15??~15??)】

遊佐家臣。通称左衛門大夫。官途は越中守。永禄後期以降、畠山家の奉行人として活躍した。遊佐長教の執政期に勢力を失った畠山高政のもとで、遊佐長教系と対立する形で畠山家を支えていた。畠山高政が三好長慶と戦った「久米田の戦い」や「教興寺の戦い」では旗本衆、譜代衆を指揮するなど武将として活躍した。

遊佐家盛【ゆさいえもり(15??~1552)】

総州畠山家臣。官途は越中守。安見宗房を大将とする河内畠山家との合戦で討死した。

遊佐教光【ゆさのりみつ(1500~1591)】

河内畠山家臣。官途は河内守。1564年、犬山城の周囲を固める大道寺砦攻めの際、織田信長の命でこれを攻略した。その後「小牧、長久手の役」において織田信雄に属して、役後橋場秀吉の譴責を受けた。遊佐教光の室は生駒八右衛門の室の姉であり、生駒八右衛門は織田信長の愛妾吉乃の兄。

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【資料Ⅰ】

河内国(9郡/280,000石)

茨田郡:津田城。
交野郡:交野城。
讃良郡:飯盛山城。
河内郡:若江城。
高宿部郡:恩智城。
丹比郡:丹南城。
古市郡:高屋城。
石川郡:赤坂城
錦部郡:烏帽子形城。

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【資料Ⅱ】

若江三人衆【わかえさんにんしゅう】

池田教正、多羅尾綱知、野間康久。

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【資料Ⅲ】

河内国【かわちのくに】

淀川の南に位置する五畿内の一国。北は淀川を境に摂津国に接し、南東では山城国に境を接する。南は和泉山脈が紀伊国との境界となり、南西に和泉国に続く。東は生駒、金剛の両山地で大和国と国境を隔てている。東は生駒、金剛山地、南は和泉山脈の山系に囲まれているが、南から東ににかけては淀川と大和川の沖積平野が広がる。この両河川はしばしば氾濫を起こすものの、それが土壌を豊穣にし、古くから良質の耕作地として開発が進んだ。大和国、山城国、摂津国を結ぶ陸上交通の要所であると同時に、大坂湾から瀬戸内海に通じる水上交通の拠点でもある。古来から経済、文化の先進地帯として発展を見せていたが、中世末期からは経済的発展が加速され久宝寺、大ヶ塚、富田林などの寺内町の発展に合わせ都市化が進んだ。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「戦国関東名将列伝」隋想社、「(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧」秋田書院。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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