2012年7月14日土曜日

戦国丹波国人名辞典


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【あ】

赤井時家【あかいときいえ(1494~1581)】

氷上郡赤井城主。官途は越前守。1533年、父赤井忠家と共に細川晴国を奉じて挙兵しがた波多野稙通に居城を攻められた。細川晴元の家臣赤沢景盛の援軍により波多野稙通の攻撃を退けるが、父赤井忠家がこの戦いで討死した。再び波多野稙通が攻めてきたため播磨国の別所家を頼って落延びた。

赤井家清【あかいいえきよ(1525~1557)】

赤井時家の男。官途は兵衛大夫。通称五郎。波多野稙通の台頭によりこれに属した。1555年、丹波守護代内藤家に属する薦田家、足達家らと争った「甲良の戦い」で負傷し、この傷がもとで死去した。幼少であった嫡男赤井忠家の後見として赤井直正が赤井家の家政を取り仕切った。

赤井直正【あかいなおまさ(1529~1578)】

赤井時家の次男。通称荻野悪右衛門。別名荻野直正。室は波多野元秀の娘。継室は渓江院(近衛稙家の娘)。枝連衆の荻野家に養子に入ってが、兄赤井家清の死により赤井家の家督を相続した。1554年、黒井城主荻野秋清を謀殺して荻野城主となった。勇猛ぶりから「丹波の赤鬼」と恐れられ「青鬼」こと多紀郡籾井城主籾井教業と並び称せられた。1560年、天田郡の荒木尚雅、福知山城主塩見頼勝、内藤宗勝らと戦いこれを圧倒した。但馬国に侵攻、守護職の但馬山名韶煕と戦った。畿内を制圧した織田信長とは協調関係にあったがやがて対立した。1575年、明智光秀が丹波国侵攻し、赤井直正は波多野秀治の支援を得て明智光秀勢を撃退した。織田信長方との抗争が続けられた。1578年、赤井直正は黒井城において病没した。1579年、黒井城は陥落した。

赤井幸家【あかいよしいえ(15??~1579)】

三尾城主。赤井時家の三男。官途は刑部少輔。1578年、兄赤井直正が病没すると、赤井直正の嫡男赤井直義が幼年のため後見したが、明智光秀の丹波国平定に抵抗して討死した。

赤井直義【あかいなおよし(1570~1653)】

赤井直正の男。通称は悪右衛門。父赤井直正は赤井直義が九歳の時に戦いの傷が元で死去し、叔父赤井幸家が後見した。明智光秀の度重なる猛攻に抗しきれずに落城し逃亡した。この時、荻野金左衛門と改名している。1610年、山口直友を介して藤堂高虎に仕え1,000石を領した。1615年「大坂夏の役」では藤堂家の足軽大将として活躍した。

赤井忠家【あかいただいえ(1549~1605)】

赤井家清の男。通称市郎兵衛。父赤井家清の討死したとき、幼少であったため叔父赤井直正の後見を受けた。1570年、入京を果たした織田信長より朱印状を得て本領を安堵されたが、やがて離反した。1575年、明智光秀の丹波国侵攻じ最後まで抵抗した。1579年、本拠の黒井城陥落により丹波を遠く離れて遠江国に逃亡した。その後、羽柴秀吉に仕えて馬廻衆を務めた。1593年、播磨国美嚢郡で1,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では東軍に属した。大和国十市郡に転封され1,000石を領した。

赤井忠泰【あかいただやす(1582~1655)】

赤井忠家の男。官途は豊後守。通称清吉。室は三好丹後守の娘。松平元康に仕えた。1600年「会津征伐」に参陣した。「関ヶ原の役」では父赤井忠家と共に松平元康方として参陣した。大和国山辺郡で1,000石を領した。1605年、父赤井忠家が病没すると赤井家の家督を相続した。自らの領地1000石は弟赤井公雄に譲った。1616年、大和国十市郡において2,000石を領した。1617年「大坂の役」で荒廃した四天王寺の普請奉行に片桐貞隆とともに任ぜられた。

赤沢義政【あかざわよしまさ(15??~15??)】

穴太城主。内藤宗勝家臣。官途は加賀守。1555年、赤沢加賀守義政は、三好長慶の丹波国侵攻に協力している。1578年、赤沢義政は、笑路城主長沢重綱と姻戚関係を結んだ。1577年、八上城の攻撃を開始した明智光秀家臣石田紀伊守長保に、支城の東掛城を攻略された。これにより、播磨別所長治と、八上城の波多野秀治との連絡を切断さられた。

芦田平兵衛【あしだひょうえ(15??~15??)】

土師城主。芦田平兵衛は平城主堀家と関係があり、平城陥落の際に討死した。

芦田為家【あしだためいえ(15??~15??)】

赤井家臣。通称治部大夫。1565年、黒井城主赤井直正が芦田治郎太夫為家、足立右近介光永、久下越前守重氏、長沢日向守等と図り、 場内から竹田七郎信達の手引きもあって福知山城を攻撃した。明智光秀の丹波攻めではには、明智光秀に属した。

芦田国住【あしだくにずみ(15??~1579)】

氷上郡小室城主。氷上郡を中心とし勢力を築き上げた。隣接する山垣城の足立基助とは度々領土争いを演じるが両家ともに決定打となるような大きな争いには発展しなかった。1579年、但馬国から遠坂峠を越えて羽柴秀長勢が侵攻すると、足立基助と和睦して戦ったが、小室城を攻められ落城芦田国住は討死した。

足立基助【あだちもとすけ(15??~1579)】

山垣城主。山垣城を中心に遠坂城、田の口城、小和田城など支城を築き氷上郡北部に勢力圏を築いた。1579年、但馬から遠坂峠を越えて羽柴秀長が侵攻し支城の遠坂城を攻略された。山垣城まで攻め寄せられ戦うも、圧倒的な大軍に抗すことができず落城足立基助は討死した。

足立光永【あだちみつなが(15??~1579)】

遠坂城主。通称右近。山垣城足立基助の同族。黒井城の赤井直正に属して「但馬竹田城の戦い」や「福知山城の戦い」で戦功を挙げるなど豪勇の士として知られていた。1565年、黒井城主赤井直正が足立右近介光永、芦田治郎太夫為家、久下越前守重氏、長沢日向守等と図り、城内から竹田七郎信達の手引きもあって福知山城を攻撃した。1579年、但馬国から遠坂峠を越えて羽柴秀長勢が侵攻すると、足立光永の遠坂城に殺到した。足立光永は徹底抗戦しよく戦ったが、羽柴秀長勢に討たれた。

吾雀安盛【あすすぎやすもり(15??~15??)】

天王山城主。通称左衛門尉。1521年、吾雀安盛が天王山城を築城した。1522年、丹波国守護職細川高国に仕えた。1529年、田辺城の代官職になった。

吾雀次良【あすすつぐよし(15??~15??)】

吾雀安盛の男。家臣の田中石見守家次に天王山城を奪われた。

荒木清長【あらききよなが(15??~15??)】

波多野家臣。船井郡代を務めた。1536年、幕府御料所を犯し違乱を停止するよう波多野秀忠に求められているが、実は波多野秀忠の謀略であった。

荒木氏綱【あらきうじつな(15??~15??)】

多紀郡細工所城主。波多野家臣。官途は山城守。波多野旗頭七人衆のひとりに数えられ、周囲に豪勇をもって荒木鬼と畏怖された猛将。丹波国に影響力のあった波多野家臣として仕えた。1578年、明智光秀が丹波国に攻め込んできたときにも、細工所城に籠城し周囲に栃梨城、貝田城などの支城網を形成し徹底抗戦をした。1579年、波多野秀治が織田勢に捕らえられて謀殺されると、明智勢は荒木氏綱の細工所城を落とすため周囲に陣城を築き兵糧攻めとしたやがて兵糧を断たれた荒木氏綱はやむなく降伏した。明智光秀は荒木氏綱の武勇を認めて家臣として仕えるように請われたが、自らは病身を理由に拒絶し、代わりに嫡男の荒木氏清を仕えさせた自身は隠居した。

荒木氏清【あらきうじきよ(15??~1582)】

荒木氏綱の男。波多野家滅亡後は明智光秀の家臣明智秀満の麾下に属した。1582年「山崎の戦い」で討死した。

池部利一【いけべとしかず(15??~15??)】

池部城主。通称三郎二郎。赤井直正に属した。1565年、赤井直正の横山城攻撃で戦功を挙げた。

石川備後守【いしかわびんごのかみ(15??~1600)】

館城主。1567年、石川備後守が築城した。1600年、小野木重晴の攻撃を受け落城した。

市田彦五郎【いちだひこごろう(15??~15??)】

正後寺城主。明智光秀の福知山築城に際し、市田彦五郎は協力した。

稲継壱岐守【いねつぎいきのかみ(15??~1579)】

母坪城主。赤井家臣。1579年、明智光秀の丹波侵攻軍により穂坪城を攻められ落城、稲継壱岐守は討死した。

井上宗子【いのうえむねこ(15??~15??)】

新庄城主。官途は治部少輔。丹波国小守護代。井上家は室町末期、勢力が衰えていたが、井上宗子は明智光秀の丹波侵攻に協力し、勢力を回復させた。

内田河内守【うちだかわちのかみ(15??~15??)】

高蓮寺城主。

宇津頼重【うつよりしげ(15??~15??)】

桑田郡宇津城主。官途は右近大夫。丹波守護代内藤家、及び内藤家を継いだ松永長頼らと争った。1569年、禁裏御料所である小野庄、山国庄を横領したが山国庄を還付するよう織田信長より命ぜられた。1573年、足利義昭の招きに応じて上洛し、御供衆に加えられた。足利義昭と織田信長の対立では足利義昭に属し、織田信長と敵対した。1557年、明智光秀と戦って負傷した。1579年、明智光秀に攻められて逃亡した。

梅津家久【うめづいえひさ(15??~15??)】

梅若砦主。梅津家久は猿楽師として織田信長に仕えた。

梅原弾正忠【うめはらだんじょうちゅう(15??~15??)】

白髪城主。1600年、梅原弾正忠は「関ヶ原の役」で西軍に属した。

上原右衛門少輔【うえはらうえもんしょうほ(15??~15??)】

物部城主。1571年、赤井直正によって攻められ落城した。

江田行範【えだゆきのり(15??~15??)】

多紀郡綾部城主。波多野家臣。官途は兵庫頭。波多野四天王、また波多野七頭家のひとり。1579年、羽柴秀吉の「中国征伐」の際、羽柴秀長勢に敗れて八上城の波多野家を頼った。

江田家臣団【えだけかしんだん】

西岡丈助、上原景正、成田石見守、田中平太郎、荻野肥前守。

大石大和守【おおいしやまとのかみ(15??~15??)】

高岳城主。大石大和守の嫡男大石与三は明智光秀に属して「山崎の戦い」で討死した。

大志万長秀【おおしまんながひで(15??~15??)】

私市城主。通称宮内大輔。1573年、赤井直正に攻められ滅亡した。

大槻時春【おおつきときはる(15??~15??)】

栗城主。官途は佐渡守。1561年、若狭国高浜城主逸見駿河守宗近と高田豊後守らの攻撃を受けた。この時は客将村上蜂之助義近の奮闘により、逸見宗近を敗死させた。1575年、大槻時春の留守の隙を突き、赤井家が侵攻、大槻時春の室が討たれた。

大槻清秀【おおぐききよひで(15??~15??)】

高城主。大槻清宗の男。1573年、明智光秀の攻撃を受け自刃した。

大槻清勝【おおつききよかつ(15??~15??)】

大槻清秀の男。1615年、羽柴秀次に仕え、「大阪夏の陣」で討死した。

大槻清政【おおつききよまさ(15??~15??)】

高津城主。1574年、明智光秀の攻撃を受け、大槻大学は敗北した。

大槻遂重【おおつきゆきしげ(15??~15??)】

丸山城主。官途は山城守。1571年、明智光秀に攻められ陥落、降伏した。

大槻時久【おおつきときひさ(15??~15??)】

大槻遂重の男。官途は飛騨守。1595年、丹後国阿蘇海の須津に移住した。

大槻将監【おおつきしょうげん(15??~15??)】

何鹿郡観音寺城主。高城主大槻家枝連衆。天正年間に織田信長の命により丹波に侵攻した明智光秀によって攻められ滅亡した。

小笠原大膳【おがさわらだいぜん(15??~15??)】

畑中城主。

小倉左近大夫【おぐらさこんだいふ(15??~15??)】

堀越城主。

岡本康忠【おかみとやすただ(15??~15??)】

西松尾山城主。官途は備中守。

荻野秋清【おぎのあききよ(15??~1554)】

氷上郡荻野城主。赤井直正の伯父。1542年、後屋城主赤井時家の次男才丸は朝日城の荻野一族に請われて荻野家の家督を相続して、荻野城主となった。1549年、八木城主内藤国貞勢が赤井時家の一族にむかって攻撃してきた。しかも内藤国貞だけの軍勢だけではなく、三好長慶の兵力も内藤家勢に加わった。この合戦は直正の奮戦によって赤井方の勝利となったが、黒井城主荻野秋清も戦功を挙げた。黒井城の支城主秋山修理大夫が、八上城主波多野晴通によって滅ぼされたとき、荻野秋清は支援を行わなかったため、麾下の豪族衆や家臣からの信望を失ってしまった。1554年、赤井直正に謀殺されて城を奪われた。

小畠越前守【おばたえちぜんのかみ(15??~15??)】

宍人城主。1575年、小畠左馬助、小畠助大夫らは、丹波国に侵攻した明智勢に協力した。

金屋小原将監【おばらしょうげん(15??~15??)】

金屋城主。赤井直正により滅んだ。

小野木重勝【おのぎしげかつ(1563~1600)】

田野城主。波多野家臣。官途は縫殿助。室は島清興の娘。明智光秀に内応した。明智光秀の討死後は羽柴秀吉に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」に参陣し、伊勢神戸城や山城淀城を守備した。1590年「小田原の役」にも参陣した。1592年「文禄の役」にも参陣して渡海し「晋州城の戦い」で戦功を挙げた。1595年、福知山城40,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では西軍に組して、但馬や丹波の諸大名の兵15,000余りを率いて細川藤孝が守る丹後田辺城を攻撃し、これを開城させた。本戦で西軍が敗北したため、丹後田辺城から福知山城に撤退した。しかし細川忠興、木下延俊らの軍勢に取囲まれ開城した。籠城の間井伊直政や前田茂勝を通じて松平元康に助命を請うていたが、細川忠興によって自刃させられた。

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【か】

片岡近江守【かたおかおおみのかき(15??~1559)】

報恩寺城主。1559年、片岡近江守は上原衛門大夫に謀殺された。

上林晴国【かみばやしはるくに(15??~15??)】

生環山城。官途は下総守。1532年、上林晴国が生環山城を築城した。1560年、高田豊後守によって陥落したが、すぐに上林晴国に返還された。

川勝光照【かわかつみつてる(15??~15??)】

桑田郡今宮城主。下田広氏の男。官途は豊前守。通称彦治郎。別名川勝広継。川勝光照は将軍足利義輝に仕えていたが、市場村を押領して京都北方に勢力を振るうようになった。川勝光照は菅原神社の門前市場を保護し、そこからあがる収入を確保するため、今宮城を築いて外敵に供えた。菩提寺である臨済宗光照寺を築くなど、領内の整備を図り、小さいながらも戦国大名へと発展してた。川勝光照は、明智光秀の丹波侵攻に従った。

川勝継氏【かわかつつぐうじ(1531~1602)】

川勝光照の男。官途は備後守。1573年「淀城の戦い」では細川藤孝に属した。1576年、明智光秀による丹波侵攻ではこれに協力し、織田信長により功を賞せられている。1582年「本能寺の変」では明智光秀に属さなかった。その後、羽柴秀吉に仕えた。嫡男川勝秀氏が何鹿郡内で3,535石を領した。1598年、松平元康に謁見し、羽柴秀吉が病没すると松平元康に仕えた。

川勝秀氏【かわかつひでうじ(1555~1607)】

川勝継氏の男。官途は主水正。通称彦治郎。室は綾小路中納言の娘。1577年、織田信長に属して「紀州征伐」に参陣した。その後、羽柴秀吉の馬廻衆を務めた。1582年、丹波国何鹿郡内に3,535石を領した。父川勝継氏の隠居により川勝家の家督を相続して、丹波国内で10,000石余を領した。1592年「文禄、慶長の役」では、肥前名護屋城に在陣した。1600年「関ヶ原の役」では、小野木重次に属して丹波国、但馬国の諸将と共に西軍に組して細川藤孝が拠る丹後田辺城攻撃した。その後、松平元康から赦免を受けて小野木重次が拠る福知山城を攻撃し、改易を免れた。役後、丹波国何鹿郡内から丹波国氷上郡、船井郡内に転封となり、黒井城を領した。

川勝広綱【かわかつひろつな(1579~1661)】

川勝秀氏の男。官途は信濃守。通称新蔵。室は藤掛永勝の娘。羽柴秀吉の馬廻衆で、丹波国多紀郡内に200石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、父川勝秀氏と共に西軍に組みして細川藤孝が拠る丹後田辺城攻撃に参陣した。役後、川勝秀氏父子は松平元康に赦され、改易を免れた。

川勝重氏【かわかつしげうじ(1587~1653)】

川勝継氏の次男。通称太郎兵衛。室は赤井忠家の娘。1603年、松平元康に仕えた。1607年、川勝広綱より丹波国氷上郡内に500石の分知を受けて旗本家を興した。1615年「大坂夏の陣」に参陣した。1617年、松平秀忠より所領安堵の御判書を賜った。

川勝家臣団【かわかつけかしんだん(15??~15??)】

島城主:川勝越後守政行、川勝備後守継氏、野々中村城主:川勝兵衛大輔氏隆、下田光隆、下田朝政、下田朝道、川勝秀氏、川勝重氏、川勝氏久。

川北石見守【かわきたいわみのかみ(15??~15??)】

小貝城主。1575年、明智光秀の「丹波侵攻」で没落した。

木村越前守【きむらえちぜんのかみ(15??~15??)】

船井郡曾根館主。

木村駿河守【きむらするがのかみ(15??~15??)】

山本城主。明智光秀により滅亡した。

衣川下総守【きぬがわしもふさのかみ(15??~1665?)】

千原城主。家臣衣川越中守

桐村高信【きりむらたかのぶ(15??~15??)】

桐村城主。官途は将監。

桐村実次【きりむらさねつぐ(15??~15??)】

桐村高信の男。通称甚左衛門。

吉良兵衛【きらひょうえ(15??~15??)】

岩間城主。明智光秀に滅ぼされた。

小林長任【こばやしながこれ(15??~15??)】

沢田城主。官途は近江守。丹波守護代の家柄。小林長任は波多野の命によって沢田城を築城した。1579年、明智光秀の丹波侵攻により落城した。

小林重範【こばやししげのり(15??~15??)】

小林長任の男。1579年、城主小林重範は柏原八幡山城へ迫った明智光秀を氷上城主波多野宗貞らと供に迎え撃ったが、この戦いで討死にし、沢田城も落城した。

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【さ】

酒井豊教【さかいとよのり(15??~15??)】

波多野家臣。官途は和泉守。酒井松鶴丸との関係で人夫役を免除された領主味間伊豆守に対して、酒井伊賀守とともに波多野元秀判物の副状を発給した。酒井家は永正年間波多野家と戦って敗れ臣従した。

酒井三河守【さかいみかわのかみ(15??~15??)】

法貴山城主。細川晴元に属した。明智光秀の丹波侵攻に際しては、酒井孫左衛門はこれに協力し、笑路城主長沢長綱と明智光秀との取り成しを行った。

酒井秀正【さかいひでまさ(15??~1579)】

油井城主。酒井家は波多野家と祖を同じくし、相模より来往した一族。酒井家一族は油井城本拠に南矢代城、大沢城、禄庄城、高仙寺城、栗栖野城など支城を構え南丹波に勢力を誇った国人衆。1579年、明智光秀の丹波侵攻軍に酒井氏一党は攻められ、秀正の籠もる本拠油井城も攻撃を受けた。油井城は天然の要害を駆使した山城で秀正は明智勢と激闘し勇敢に戦ったが、城兵は全て討死にし酒井秀正も敵兵に囲まれ壮絶な最期を遂げた。

塩貝将監【しおがいしょうげん(15??~15??)】

大戸城主。1579年、塩貝将監は明智光秀勢と交戦し敗北、落城した。

四王天政孝【しおでまさたか(15??~1582)】

氷上郡柏原城主。官途は但馬守。通称又兵衛。1575年、明智光秀の丹波侵攻の際にその麾下となり、以後忠実な臣下として活躍した。1582年「本能寺の変」の際には明智光秀に従い「二条御所の戦い」で負傷した明智光忠に代わり指揮を執った。「山崎の戦い」で敗れ、明智光秀に先立ち討死した。

四王天政実【しおでまさざね(15??~15??)】

四王天政孝の男。通称又兵衛。1582年「本能寺の変」の後は明智秀満の近江国遠征に従った。「山崎の戦い」の後に各地を潜伏していたが、旧友青木秀以に300石で仕官した。その青木家断絶後は再び浪人していた。1600年、結城秀康に300石で仕えた。

塩見頼勝【しおみよりかつ(15??~15??)】

天田郡福知山城主。通称大膳大夫。猪崎城を本拠として、横山城、牧ノ庄に中山城、和久庄に山田城を築き、塩見頼勝は嫡男塩見頼氏を横山城に、次男奈賀山長員を奈賀山城に、三男塩見利勝を猪崎城に、四男和久長利を和久城に、五男牧利明を牧城にそれぞれ配して天田郡を固めていた。塩見頼勝は細川高国に属して小畑城主波々伯部義信、高槻城主大槻将監らと共に度々合戦に参陣した。1531年、細川高国が細川晴元と戦って討死した「尼崎の戦い」にも参陣した。1560年、鬼ケ城主内藤宗勝を丹波の国人衆が攻撃したときも地元豪族として参陣した。1565年、波多野稙通や内藤宗勝が、三好長慶をまきこんで抗争を繰り広げている隙に、氷上郡黒井城主赤井時家は天田郡、何鹿郡に侵攻した。赤井時家は丹波国の管領を望み、天田郡もを奪うたえめ芦田治部大夫為家、足立右近光永を引き入れて兵500余りを率いて天田郡に侵攻したが、塩見家一族の反撃にあって、赤井勢は敗退した。丹波守護代の内藤宗勝は、塩見頼勝を支援するため、兵を天田郡に進めたが「和久郷の戦い」で、内藤宗勝は討死した。壊滅した内藤勢は辛うじて貞勝らを擁して鬼ケ城に脱出した。天田郡の豪族衆は赤井時家勢(奈賀山長員、塩見利勝、和久長利、牧利明、桐村、横山家利)に属して、鬼ケ城を攻め塩見頼勝を討取った。

塩見信房【しよみのぶふさ(15??~1579)】

塩見頼氏の男。通称大膳大夫。1579年、明智光秀の攻撃を受け自刃した。

塩見頼家【しおみよりいえ(15??~15??)】 

猪崎城主。塩見頼勝の三男。1538年、赤井時家と戦った。1565年、大槻清秀と戦い破った。1579年、明智光秀の侵攻の前に赤井時家の黒井城が陥落すると、横山播磨守家利の守備するこの城も危うくなり、城を焼いて落延びる途中討たれた。

志賀政綱【しがまさつな(15??~15??)】

北野城主。志賀政綱は明智光秀と戦い敗北降った。1582年「山崎の戦い」で明智光秀と行動を共にし、志賀政綱は討死した。嫡男志賀頼久は乳母に連れられ落延びた。

志賀八良左衛門尉【しがはちろよしうさえもんじょう(15??~1553)】

山尾城主。1512年、志賀八良左衛門尉が山尾城を築城した。1529年、志賀良左衛門尉は細川高国に、田辺郷代官に任じられた。1553年、田辺で討戦した。

志賀四良兵衛尉【しがよしろうせいえもんのじょう(15??~15??)】

志賀八良左衛門尉の男。「尼ヶ崎の戦い」で討死した。

志賀五良左衛門尉【しがごよしざえもんのじょう(15??~15??)】

志賀八良左衛門尉の次男。

須知景氏【しゅうちかげうじ(15??~15??)】

船井郡須知城主。丹波七組のひとり。須知庄左衛門は、藤堂高虎に仕えた。

須知元秀【しゅうちもとひで(15??~15??)】

船井郡上野城主。船井郡西部の有力国人須知元秀は明智光秀の丹波攻めが始まると、須知元秀、須知忠長らが明智光秀に協力したが丹波国平定後に粛清されて滅亡した。八上城主波多野家の七組頭のひとりに須知主水影景俊がおり、明智光秀に抗戦して滅亡した。

須知家臣団【しゅうちけかしんだん】

井尻信濃守、須知出羽守。

新宮大和守【しんぐうやまとのかみ(15??~15??)】

船井郡蒲生谷館主。

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【た】

高田治忠【たかだはるただ(15??~15??)】

山内城主。官途は豊後守。高田治忠は織田信長に属して生環山城主上林下総守晴国を攻めた。若狭高浜城主逸見駿河守と共に位田城、栗城を攻撃した。1582年、高田治忠は山内城を築城して生貫山城を上林晴国に返した。

田中盛重【たなかもりしげ(15??~15??)】

船井郡大村城主。官途は山城守。

田中理右衛門【たなかりうえもん(15??~1612)】

田中盛重の男。官途は志摩守。通称五内。別名松井盛永。明智家滅亡後、細川家臣松井康之に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では豊後国木付城に籠城した。「石垣原の戦い」では留守役を務めた。松井康之が病没すると殉死した。

田中宮内少輔【たなかくないしょうゆ(15??~15??)】

土村城主。

谷垣兵部【たにがきひょうぶ(15??~15??)】

船井郡井尻城主。

樽水縫殿助【たるみぬいどのすけ(15??~15??)】

樽水城主。

辻野左衛門尉【つじのさえもんのじょう(15??~15??)】

天田郡細見辻城主。辻野左衛門は、細見将監の攻撃を受け細見辻城は落城した。

外賀正家【とがまさいえ(15??~15??)】

高畑城主。通称修理大夫。

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【な】

内藤国貞【ないとうくにさだ(15??~1553)】

八木城主。内藤貞正の男。細川家臣。丹波国守護代。官途は備前守。丹波国内藤家は代々丹波守護の細川家に仕え、守護代を務めていた。内藤国貞は当初細川高国に仕えていたが、波多野稙通など有力国人と手を組みこれに反抗した。細川高国が没落し、細川晴元が台頭するとこれに引き続き反抗、追討を受けた。細川晴元と三好長慶が対立すると三好長慶につき細川家から独立した。松永長頼(内藤宗勝)を婿養子に迎えた。1553年、丹波国で勢力を伸ばしてきた、細川晴元方の荻野秋清、波多野元秀、波多野秀親と争い、三好長慶の援軍を受け攻め込んだが敗北、内藤国貞は討死した。

内藤貞勝【ないとうさだかつ(15??~1565)】

内藤国貞の男。松永長頼(内藤宗勝)の後見で丹波守護代。1565年「福知山の戦い」に討死した。

内藤宗勝【ないとうむねかつ(15??~1565)】

松永久秀の弟。官途は備前守。内藤国貞の養子。通称は甚介。別名松永長頼。室は内藤国貞の娘。三好長慶の丹波攻略戦で、内藤宗勝は頭角を現して、八木城を本拠として口丹波の統治を任された。内藤国貞の娘を室に迎えて、内藤家の家督を継ぎ、丹波守護代内藤宗勝を称した。兄松永久秀と共に三好長慶に仕え、兄松永久秀を影から補佐した。謀略を駆使して活躍した兄松永久秀に対して、武勇に優れて誠実で、三好長慶から信頼された。三好家中での出世は兄松永久秀より早く、松永久秀は弟の助力により三好家中の地位を高めた。その後、丹波は松永長頼の半独立した領国のようなものであったとまで言われるほど、強大な勢力を誇っていた。1559年、河内国における畠山高政と「教興寺の戦い」に丹波国衆を率いて参陣した。1565年、丹波の国人荻野直正の居城である黒井城を攻撃中に討死した。

内藤忠俊【ないとうただとし(1550~1526)】

内藤宗勝の男。官途は飛騨守。通称如安。1564年、ルイス・フロイスによりキリスト教に入信した。1565年、赤井直正と交戦中に父内藤宗勝が討死したため、内藤忠俊が丹波国守護代の内藤家の家督を相続した。畿内では、内藤家の後ろ盾であった三好政権が急速に衰え、丹波国では国人衆の赤井家、波多野家の攻勢で天田郡の領土を失っていった。足利義昭が京都での政権を失ったあとも、足利義昭支持し織田信長と対立した。1578年、明智光秀の攻撃を受け八木城は落城し所領を没収された。1585年、小西行長に仕えた。1592年「文禄の役」では、明との和議交渉では使者となり、北京へ赴いた。1600年「関ヶ原の戦い」では、小西行長隊を率いて戦ったが敗北した。その後、前田利長の客将になった。1613年「キリシタン追放令」により、内藤忠俊は高山右近や妹のジュリアと共に呂宋へ追放された。

内藤貞政【ないとうさだまさ(15??~1577)】

丹波守護代内藤国貞の男。1565年、園部城主内藤貞勝は「福知山合戦」に討死した。内藤貞政の病死により家老安村家が内藤家の家政を掌握、織田家から離反した。1577年、明智光秀に攻略された。

内藤家臣団【ないとうけかしんだん】

穴太城主:赤沢加賀守義政。

内藤季有【ないとうよしあり(15??~15??)】

藁無城主。1559年、内藤季有は氷上郡の赤井家に協力し、八木城の内藤宗勝と戦ったが、赤井家の裏切りにより内藤季有は敗走した。波々伯部光好の仲介で宗勝と和睦した。

内藤季行【ないとうよしゆき(15??~15??)】

内藤季有の男。官途は安芸守。1564年、内藤季行は内藤宗勝勢の攻撃を受けた。

内藤駿河守【ないとうするがのかみ(15??~15??)】

鬼ヶ城主。1560年、内藤駿河守らがいて、近郷で略奪を働いたので塩見氏の攻撃を受けた。1560年、丹波守護代内藤備前守の軍と塩見家の軍が戦ったという。明智光秀の丹波侵攻に際し、明智光秀に従わなかった釈迦牟尼仏負佐、宇津氏、仁木氏、和田氏らの侍がここにいたた。1578年、明智光秀の攻撃を受け、反乱勢は鎮圧させられた。

1575年、明智光秀の「丹波攻め」の頃は黒井城主赤井直正配下の支城として、釈迦牟尼仏靭負佐(みくるべゆきえすけ)が居り、久下七郎左衛門・長沢越後守・宇津氏・仁木氏・和田氏等、丹波諸城の一部の侍が退いて鬼ヶ城や高見城に拠って抵抗しています。1578年、丹後の一色氏を滅ぼして福知山へ帰着した明智光秀は、仁木氏・和田氏等が拠って 近在に出没して狼藉するとの訴えに、鬼ヶ城を四方より攻めて二百余名を討ち取り党を解散させています。

中沢正綱【なかざわまさつな(15??~15??)】

余部城。官途は因幡守。

長沢義遠【ながさわよしとう(15??~15??)】

大山城主。1578年、明智光秀による丹波攻略時の攻略をささえた。

長沢重綱【ながさわしげつな(15??~15??)】

笑路城主。足利将軍家臣。穴太城主赤沢義政とは姻戚関係。長沢重綱は弟長沢豊後守兼綱とともに明智光秀に降った。

長沢家臣団【ながさわけかしんだん】

猪倉城主:井内筑前守、犬甘野城主:長沢豊後守。

奈賀山長員【ながやまながかず(15??~15??)】

荒河中山城主。1563年、明智光秀勢に滅ぼされた。

並河易家【なみかわやすいえ(15??~1582)】

並河城主。通称掃部介。1576年、丹波に攻め入った明智光秀に呼応して命脈をつないだ。明智光秀の丹波国攻めによく貢献し、八上城攻めにも参陣した。赤井直正、波多野秀治の「呼び込み戦法」で明智光秀が潰走した際、先導して無事京に帰還させた。1582年「山崎の戦い」で松田政近とともに天王山麓の中川清秀を攻撃するが討死した。

並河八助【なみかわはちすけ(15??~15??)】

並河易家の男。1582年「山崎の戦い」では、父並河易家と共に参陣した。

並河金右衛門【なみかわかねうえもん(15??~15??)】

並河易家家臣。官途は志摩守。1582年「本能寺の変」では、織田信長の頸級と着衣を獲るが明智秀満に諭されその功を譲った。のちに加藤清正家に仕えた。

並河飛騨守【なみかわひだのかみ(15??~15??)】

並河易家家臣。波多野攻略後八上城代。沢田城主渡部大膳綱定が叛乱を起こした際は、これを鎮圧した。

新治内蔵介【にいはりくらのすけ(15??~15??)】

河守城主。新治内蔵介は一色家の庶家で、1573年、河守城は赤井直正によって攻略され討死した。

二階堂秀香【にかいどうひでたか(15??~1580)】

波多野晴通の三男。二階堂家の養子。波多野秀治とともに八上城に籠城して明智光秀勢と戦うが一年半に及ぶ攻防の末降伏した。兄弟の波多野秀治、秀尚とともに城兵に捕らえられて明智光秀に差し出され殺された。

西山蟻之助【にしやまありのすけ(15??~15??)】

川合日代城主。赤井直正家臣。1579年、赤井直正の黒井城が陥落したため、蟻之助は空き城であったここに移り住んだ。

蜷川貞繁【にながわちかとし(15??~15??)】

船井郡蟠根寺城主。蜷川家は代々足利将軍家に仕え、室町幕府政所代を務めた。姉妹は斎藤利賢の室で明智光秀の家老斎藤利三の母にあたる。

蜷川親世【にながわちかよ(15??~1569)】

蜷川貞繁の男。1565年、足利義輝が松永久秀に討取られ、蜷川親世は所領を失い没落した。出羽国寒河江の高松左門を頼って落ち延び、出羽国村山郡金谷原で病没した。著書「蜷川親俊日記」。

蜷川親長【にながわちかなが(15??~15??)】

蜷川親世の男。1563年、伊勢貞孝、伊勢貞良父子が三好長慶と戦って討死すると、蜷川家の立場も微妙なものとなった。1565年、足利義輝が三好三人衆、松永久秀らの謀叛によって謀殺されると、蜷川親世、蜷川親長父子は蟠根寺城を退去した。 

蜷川貞周【にながわさだ(15??~1582)】

蜷川親長の男。明智光秀の丹波攻略が進められるようになると明智光秀の麾下に属した。1582年「山崎の戦い」において、蜷川貞周と嫡男蜷川貞房は明智光秀方として参陣し一族郎党とともに討死した。

温井光俊【ぬくいみつとし(15??~1582)】

土野城主。通称又三郎。1582年、明智光秀に従い「山崎の戦い」で討死した。

野々口親永【ののぐちちかなが(15??~15??)】

埴生城主。通称左衛門尉。明智光秀が丹波平定に乗り出した際に攻められ、明智光秀に降伏した。

野々口子清親【ののぐちきよちか(15??~15??)】

野々口親永の男。1579年、明智光秀に攻められ降伏した。明智光秀に従い八上城主波多野家攻めにも参陣した。

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【は】

波々伯部義信【ははかべよしのぶ(15??~15??)】

小西城主。細川高国家臣。1565年、波々伯部義信は横山城を救援した。

波々伯部光政【ははかべみつまさ(15??~15??)】

波多野家臣。室は荒木山城守の妹。丹波守護代内藤貞正をはじめ波多野元清、波々伯部光政らは細川高国に味方し、中沢元綱、酒井秀正らは細川澄元に味方した。1508年、波多野元清に属した波々伯部大和守、波々伯部民部丞らは「福徳貴寺の戦い」で中沢元綱を討取る戦功を挙げた。この戦いにより、波多野稙通が多紀郡を制圧することになり、丹波国群雄のなかで一頭抽んでる勢力となった。三好長慶が畿内を制圧すると、内藤宗勝が丹波国に侵攻、波多野晴通を討取り丹波国を勢力化においた。1565年、赤井直正に敗れた内藤宗勝は討死した。1566年、八上城を奪回した波多野秀治は、三好長慶と対抗して奥丹波を勢力圏においた。波々伯部光政は波多野秀治に属して戦功を挙げ、淀山城、東山城、 南山城を築いて、八上城の東側の防備を固めた。1575年、織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻略が開始されると、波多野秀治をはじめとする丹波国人衆は果敢に戦い、明智光秀をおおいに悩ました。明智光秀は八上城を包囲して兵糧攻めの作戦をとった。1579年、八上城は落城、室の兄荒木山城守の下に落延びた。 

広瀬但馬守【ひろせたじまのかみ(15??~15??)】

御影山城主。柳本賢治の家臣。柳本賢治が討死後、内藤国貞に属した。

畑守能【はたもりの(15??~15??)】

八百里城主。波多野氏が丹波守護代となると畑家が代々城主を勤めた。1579年、明智光秀の丹波侵攻により落城、ときの城主畑守能の嫡男畑守国と次男畑能国はともに討死、守能は囲みを突破して落延びた。

波多野稙通【はたのたねみち(15??~15??)】

多紀郡八上城主。管領細川家臣。官途は備前守。通称与兵衛。八上城を築いて波多野家発展の礎を造る。香西元盛、柳本賢治らは兄弟。妹は別所家に嫁ぐ。足利将軍家によって評定衆に加えられた。細川高国と細川澄元、晴元の争いでは細川高国方に与し、西丹波国に勢力圏を拡大した。1526年、弟香西元盛が讒言により細川高国によって弑されると細川高国方を離反し、柳本賢治とともに細川高国方を丹波国から駆逐した。

波多野晴通【はたのはるみち(15??~15??)】 

波多野稙通の男。通称与兵衛。細川晴元と三好長慶の争いが起こっており、地勢上丹波もこれに巻きこまれた。晴通は晴元に味方したため三好方の攻撃を度々受けた。1552年、三好長慶。1553年、松永久秀。1555年、松永久秀、三好政康に攻められたが、香西元成らの支援を得てこれを撃退した。1557年、八上城を失陥して一時衰亡した。

波多野秀治【はたのひではる(15??~1579)】

波多野晴通の男。官途は左衛門大夫。父多野晴通が失った八上城を奪還し勢力を拡大した。1560年、正親町天皇の即位式費用として金帛を献じ、兵12,000余りを率いて波多野宗高と共に上洛した。織田信長に降伏したがまもなく離反した。1577年、明智光秀の丹波侵攻を受け、波多野秀治は家臣をまとめてよくこれを防いだが再び降伏すると、織田信長に謀殺された。

波多野秀高【はたのひでたか(15??~1579)】

波多野晴通の次男。1577年、八上城籠城戦が始まると兄波多野秀治に味方して参陣した。1579年、兄波多野秀治と運命を共にした。

波多野宗高【はたのむねたか(1511~1573)】

波多野美作守の男。官途は出羽守。波多野家の庶家、西波多野家の枝連衆。氷上城を築城、武勇と智勇から「丹波鬼」と称された。正親町天皇の即位式では洛中を警護した。1570年、盟友の朝倉義景が織田信長と敵対するのを食い止めるために越前に赴く途中、乱戦に巻き込まれて討死した。

波多野宗長【はたのむねなが(15??~1579)】

波多野家臣。明智光秀の丹波侵攻に抵抗した。播磨国の別所長治と結んでこれに戦ったが、籠城むなしく兵糧尽きて自刃した。

樋口加賀守【ひぐちかがのかみ(15??~15??)】

川合岼城主。家臣樋口対馬守。

福井貞政【ふくいさだまさ(15??~15??)】

余部城主。官途は因幡守。1577年、丹波国の攻略を開始した明智光秀に対し、福井貞政は嫡男福井弥太郎と共に抵抗したが、明智光秀勢の攻撃を受け落城、福井貞政は自刃した。

細見河内守【ほそみかわちのかみ(15??~15??)】

船井郡鎌谷城主。細川家臣。

細見家臣団【ほそみけかしんだん】

細見山城守、細見長助。

堀貞次【ほりさだつぐ(15??~15??)】

大内城主。官途は上総介。

堀広正【ほりひろまさ(15??~15??)】

堀貞次の男。1572年、大内城は赤井直正の攻撃を受け落城した。

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【ま】

牧利明【まきとしあき(15??~15??)】

牧城主。福知山城主塩見頼勝の五男。通称伊織介。1579年、明智光秀の侵攻を受け降伏した。

松山日向守【まつやまひゅうが(15??~1577)】

松山城主。1577年、松山城は陥落した。

見谷友政【みたにともまさ(15??~15??)】

調査中。

森高之【もりたかゆき(15??~15??)】

黒田城主。官途は越前守。1533年、森高之は「里井城の戦い」「籾井城の戦い」で戦功を挙げた。

籾井教業【もみいのりなり(15??~1576)】

多紀郡籾井城主。波多野家臣。官途は越中守。丹波の赤鬼こと赤井直正と並んで武勇に優れたため「青鬼」と称された。籾井家は丹波国多紀郡の篠山盆地に割拠した新興の豪族で、籾井城は中世に京都から丹波を経て山陰地方に向かう山陰道が篠山盆地に差し掛かる箇所にあたる要衝であった。籾井教業は篠山盆地の中心を抑える八上城の波多野家と姻戚関係にあり、その旗下の武将としてともに足利義昭に仕えた。1575年、足利義昭を追放して自身に反抗する丹波国の諸将の討伐に取り掛かった織田信長は、明智光秀に命じて丹波の経略に取り掛からせた。丹波への入り口にあたる籾井城は明智勢の猛攻を受け落城した。

籾井綱利【もみいつなとし(1550~1576)】

籾井教業の男。元亀年間、籾井城主籾井綱重が隠居して移ったのが安口城と云われる。 綱重は波多野秀治の妹を娶った人物で、次男籾井正綱を引き連れて隠居した。1577年、織田信長の部将明智光秀が大軍を率いて丹波国へ侵攻し、安口城は落城。綱重は落城の際に肩に銃弾を受けて山伝いに逃れ、後に京へ上ったという。

籾井家臣団【もみいけかしんだん】

調査中。

森氏就【もりうじなり(15??~1556)】

滝ヶ嶺城主。官途は美作守。室は森可成の娘。嫡男森駿河守氏吉は、丹波国に侵攻した明智光秀に属した。

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【や】

夜久相模守【やくさがみのかみ(15??~15??)】

額田城主。家臣夜久道蘊(どううん)、夜久主計頭。

吉見則重【よしみのりしげ(15??~1578)】

氷上郡鹿集城主。官途は式部少輔。赤井家臣。織田信長が足利義昭との対立が深まると、丹波国人衆は足利義昭に属した。織田信長は明智光秀を先鋒として「丹波国討伐」を行なった。1575年、明智光秀の軍勢は丹波に侵攻し、黒井城に拠る赤井直正を攻撃しました。この時は多紀郡の波多野家が突然離反し、明智勢は撤退を余儀なくされた。1577年、明智光秀は「第二次丹波国侵攻」を開始した。1578年、明智光秀の家臣明智光春の兵500余りが、黒井城や支城の友政城、鹿集城、誉田城などの城砦に迫りました。鹿集城には、嫡男吉見守重と大澤喜龍に兵を付けて黒井城に援軍を送っていたため、吉見則重は僅か70余りで明智勢を迎え撃った。明智勢の猛攻の前に吉見則重は討死、城にいた一族も城中に火を放って悉く自刃した。

吉見守重【よしみもりしげ(15??~15??)】

吉見則重の男。通称助太夫。1578年、鹿集城は落城した際は、吉見守重は黒井城に籠城していたため、難を逃れた。1579年「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正が病没すると、黒井城も明智勢によって落城しました。吉見一族はその後、それぞれ武士を捨てて帰農した。吉見守重の嫡男吉見治重は織田信包に仕えた。

丹波吉見家臣団【よしみけかしんだん】

友政城主:三谷友政、大澤喜龍。

余田為家【よだためいえ(15??~15??)】

余田城主。黒井家臣。余田一族は槍術、弓術に優れた武士団で、余田為家は赤井家臣の中でも特に豪勇を知られ、家老職も務めていた。1575年、赤井直正は、明智光秀の丹波侵攻勢と戦い、余田為家もそれに属して、明智光秀勢と戦った。1578年、赤井直正の死により絶対的な指導者を失った赤井方に陰りの色が見え出しました。1578年、余田城に明智光秀勢が迫ります。余田城に居た為家の兵は半数以下でありました。黒井城守備の為、一族の余田半兵衛に兵を預け派遣していたのです。武勇を誇る余田為家は半数以下の兵で明智勢に立ち向かいます。明智勢の鉄砲の一斉射撃で味方は倒れてゆき、戦うも多勢に無勢、余田為家は城に火を掛け、残った兵と共に再起を掛け再び明智勢と相対する為に黒井城を目指しました。明智勢の追撃は厳しく余田為家は自刃した。

柳本賢治【やなぎもとかたはる(15??~1530)】

神尾山城主。波多野秀長の男。細川高国の家臣で弟香西元盛が摂津分郡守護の細川尹賢に謀殺されると、柳本賢治や波多野稙通は細川高国の対応に不満を持ち、細川晴元、三好元長らと共に反乱を起した。1526年、細川高国の追討勢を神尾山城にこもり撃退した。1527年、細川晴元、三好元長らとともに細川高国との「桂川原の戦い」で勝利した。細川高国や足利義晴を京都から追い落として、足利義維を堺に迎え、堺公方として擁立した。1528年、三好元長と対立し、細川晴元に讒言し三好元長を阿波国に追い落とした。三好元長派の赤沢幸純や伊丹元扶を攻めるため畿内各地を転戦した。細川高国は、北畠晴具に上洛を要請した。柳本賢治は足利義晴との和睦を主張したが、足利義維と細川晴元に拒絶された。1530年、別所就治の要請に応じ「播磨依藤城の戦い」の陣中で病没した。

柳本甚次郎【やなぎもとじんじろう(15??~15??)】

柳本賢治の男。1532年、京都三条城で三好元長率いる阿波勢に討取られた。

山内久豊【(15??~15??)】

船井郡三ノ宮城主。通称孫太郎。

山村正次【やまむらまさつぐ(15??~15??)】

柳本賢治家臣。1534年「飯盛城の戦い」で勝利を収めた本願寺証如は、余勢をかって大和国に侵入、興福寺、春日神社を襲撃した。京の民の多くは法華宗を信仰していたため、一向宗の勢力拡大に脅威を覚えて武装し、法華一揆起こった。法華一揆に細川晴元に加勢したため、一向一揆は堺に押し寄せて細川勢を攻めた。一方京の都では、山村正次率いる法華一揆衆が東山山麓で一向一揆勢2,000余りを撃破、続いて西岡付近で一向一揆勢2,000余りを率いて山科本願寺に迫った。山科本願寺攻城勢主力は法華一揆勢であり、山村正次率いる柳本勢、六角定頼勢、その他土民一揆勢約30,000余り。法華一揆勢が寺内に乱入、堂塔伽藍に放火して回ったため、本願寺は灰燼に帰して落城した。

湯浅宗貞【ゆあさむねさだ(15??~15??)】

世木城主。湯浅宗福の男。官途は越前守。通称五郎兵衛尉。湯浅宗貞は丹波守護代内藤国貞に属して波多野稙通と争っていた。1553年、八上城主波多野稙通が内藤領へ侵攻し、内藤国貞は「本梅郷の戦い」で討死した。湯浅宗貞は園部城において内藤国貞の嫡男内藤千勝丸を匿い、松永長頼の援軍が到着するまで持ちこたえた。1562年「教興寺の戦い」では、丹波国人衆のひとりして内藤宗勝に属して戦った。対する畠山高政方には同族の湯浅宗政、保田知宗らが属しており、一族で戦うことになったが勝利を収めた。1570年、隠居して、家督を湯浅宗清に譲った。

和久義国【わくよしくに(15??~15??)】

山家城主。塩見頼勝の四男。通称左衛門佐。1563年、和久義国が山家城を築城ひた。丹波八木城の内藤家と「和藤の戦い」を行った。1579年、明智光秀の侵攻を受け落城した。

和久長利【わくながとし(15??~15??)】

和久義国の男。

渡辺成道【わたなべなりみち(15??~15??)】

浄法寺城主。官途は美作守。1575年、明智光秀の「第一次丹波侵攻」で、渡辺成道は降伏した。

和田斉頼【わだなりより(15??~1579)】

岩尾城主。

和田師季【わだもりのり(15??~15??)】

和田斉頼の男。1579年、明智光秀が「第二次丹波侵攻」を行った際に、岩尾城も攻められ落城した。

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【資料Ⅰ】

丹波国(6郡/)

桑田郡:
船井郡:
何鹿郡:
多紀郡:
氷上郡:
天田郡:

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【資料Ⅱ】

波多野家四天王【はたのけしてんのう】

江田行範。

丹波七組【たんばしちくみ】

足立光久、荻野朝忠、酒井重貞、須知景氏、内藤顕勝、野尻康永、波々伯部光政。
 
丹波七頭【たんばしちとう】

赤井景遠、荒木氏綱、江田行範、大館氏忠、久下重氏、小林重範、長沢義遠。
 
丹波の青鬼赤鬼【たんばのあおおにあかおに】

青鬼:籾井教業、赤鬼:赤井直正。

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丹波国【たんばのくに】

調査中。

丹波国奥三郡【たんばこくおくさんぐん】

氷上郡、天田郡、何鹿郡。

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