2012年8月10日金曜日

羽柴秀吉家臣団辞典(賤ヶ岳の七本槍編)


------------------------------------------------------

【あ】

相田権六【あいだごんろく(15??~1646)】

加藤清正家臣。通称内匠頭。加藤清正公が「賤ヶ岳の戦い」の戦功で3,000石を領したとき、加藤清正に仕えた。1592年「文禄の役」では二王子や捕虜役人の監視にあった。1600年「宇土城の戦い」では、小西行景の援軍を撃退する戦功を挙げた。加藤清正の病没後、加藤忠広に仕えた。

足立重信【あだちしげのぶ(15??~1625)】

加藤嘉明家臣。通称半右衛門。美濃国の生まれで、若年の頃より加藤嘉明に小姓として仕えた。加藤嘉明の転封に伴い伊予国松前城主に任じられた。「文禄、慶長の役」に参陣して戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、佃十成らと共に加藤嘉明の留守居として、毛利輝元らの支援を受けて蜂起した河野家の旧臣らの軍勢を撃退する。これら戦功によって家老に任ぜられ5,000石を領した。その後は領内開発に作事奉行として従事した。伊予川の灌漑工事は下流に新たな流路を開削し堤防を築いて大改修を行い、流域に広大な耕作地を生み出した。さらに松山城の南麓を流れる湯山川の流路を変更して伊予川と合流させ、城の堀として活用する等、堅固な築堤と水制工事、城下開発に卓越した手腕を見せた。足立重信の工事により、領内では水害がなくなり、収穫も潤った。

飯田直景【いいだなおかげ(1562~1632)】

加藤清正家臣。飯田直澄の男。別名飯田覚兵衛。若年の頃から加藤清正に仕え、森本一久、庄林一心と並んで加藤家三傑と呼ばれる重臣となった。武勇に優れ、中でも槍術は特筆すべきものであった。1583年「賤ヶ岳の戦い」においても加藤清正の先鋒として活躍した。1592年「文禄の役」の際には森本一久と共に亀甲車なる装甲車を作り「普州城の戦い」の際に一番乗りを果たした。「第二次晋州城の戦い」の戦功によって羽柴秀吉から「覚」の字を与えられた。土木普請も得意とし、加藤清正の居城となった隈本城の築城には才を発揮した。名古屋城普請や江戸城普請にも奉行として参加した。加藤清正が没すると、加藤忠広に仕えたが改易後、京都にて隠棲した。

斑鳩平次【いかるがへいじ(15??~15??)】

加藤清正家臣。別名鵤平次。加藤家十六将のひとり。はじめ長尾景虎に仕え、のち諸国を流浪し荘林隼人にその武勇を認められ、加藤清正家臣となった。「文禄、慶長の役」で武功を挙げ3,000石を領した。

井上弥一郎【いのうえよいちろう(15??~15??)】

加藤清正家臣。佐敷城留守居役。梅北国兼が佐敷城を占拠すると、饗応の席を設けるとして梅北国兼を誘い出し謀殺した。

岩越昭国【いわこしあきくに(15??~1638)】  

加藤清正家臣。通称惣右衛門。馬廻衆一二組の組頭のひとり。加藤忠広の改易後は浪人した。1633年、老中酒井忠勝の推挙により細川家に仕えた。1638年「島原の乱」では、原城落城時に鉄砲傷を受け討死した。

江村宗具【えむらむねもと(15??~1664)】 

江村既在の男。通称甚太郎。和学、儒学を修める一方、医学を真直瀬道三の弟子、真直瀬宗巴に学んだ。後加藤清正公の侍医となり500石を領した。加藤清正の病没後は加藤家を辞して京都に帰り、歌人、文人として名を高めた。

大木兼能【おおきかねのり(1552~1611)】   

加藤清正家臣。大木道玄の男。官途は土佐守。通称弥介。父大木道玄は尾張斯波家に属していた。1571年「伊勢長島の一向一揆」に参陣した。織田信長の庶兄津田信広らを討取る戦功を挙げた。長島の一向一揆が滅びた後、佐々成政に属して3,000石を領し先鋒の隊長となった。佐々成政に肥後が与えられたさい佐々成政にしたがって肥後国に入国した。佐々成政没後、加藤清正に仕えた3,000石を領した。また理財の能力にもたけていて蔵元奉行を担当し、加藤家の大阪屋敷留守居兼倉米販売を取り仕切った。1611年、加藤清正が病没すると殉死した。

大木兼憲【おおきなねのり(15??~15??)】  

大木兼能の男。父大木兼能が殉死後、大木家を家督を相続した。

大崎長行【おおさきながゆき(1560~1623)】

福島正則家臣。通称玄蕃充。木村重茲に仕え、木村重茲が羽柴秀次に連座して自刃した後に福島正則に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では清洲城に詰めて、西軍が開城を迫ったが福島正則の許しがないと開城できないと頑なに城を守った。福島正則が備後国広島の太守となると鞆城を任されたが主に三原城主に留まった。福島正則が改易になったのちに松平秀忠の取り持ちにより徳川頼宣に寄合衆として仕えた。

尾関吉次【おぜきよしつぐ(15??~15??)】

福島正則家臣。官途は隠岐守。尾張国葉栗郡小日比野村出身。初めは滝川一益に仕えたがのち福島正則の家臣となった。1600年、福島家が芸備入部の際には三原城に配された福島正則養子の福島正之の後見となった。尾関正勝が独立していたため、尾関吉次の跡は正勝弟の尾関兵庫が継いだ。

尾関正勝【おぜきまさかつ(1571~1620)】

尾関吉次の男。官途は石見守。1589年「小田原の役」では、尾関正勝は父尾関吉次とともに韮山城攻めに加わり、一番乗りの戦功を挙げたが左目に銃弾を受け隻眼となった。福島正則に従い「朝鮮出兵」「関ヶ原の役」などで勇名を轟かせた広島入封後は山陰と山陽とを結ぶ交通の要地である三次地方の積山に築城し寄騎衆分も含め21,017石を領した。1616年、福島家が幕府から名古屋城造営を命じられたときには、福島正則の名代として現地に赴きその任を果たした。福島家改易のときに尾関正勝はいち早く広島城に人質を出して兵を送った。福島丹波ら重臣が広島城に集まり対策を協議したとき、正勝は欠席して日々町人と煎茶を楽しんでいたのでいぶかって理由を尋ねたところ、もはや評定の必要はない、城の明渡しを拒否して戦うのみであると答えたと言う逸話が残る。

尾関兵庫【おぜきひょうご(15??~15??)】

尾関吉次の次男。兄尾関正勝が別家を建てたので、三原城代の父尾関吉次の家督を相続した。福島家改易後は池田光政に仕え1,000石を領した。

尾関右衛門太郎【おぜきうえもんたろう(15??~15??)】

尾関正勝の男。官途は隠岐守。尾関正勝が存命中別家を建て5,500石を領した。その知行所は六郡七箇村に分散していて統治に苦慮した。父尾関正勝が病没後に福島家老となった。小姓時代にその利発さを認めた寺沢広高が自分の家中に所望したという逸話が残る。福島家改易後は池田光政に仕えた。

------------------------------------------------------

【か】

梶原景俊【かじわらかげとし(15??~1600)】

加藤清正家臣。船手奉行。通称助兵衛。別名梶川才兵衛。1600年「関ヶ原の役」では、大阪屋敷より清浄院を大木兼能とともに救出した。「宇土城の戦い」では、瓢箪淵に船を乗り入れも、籠城側の銃撃により討死した。

梶原三郎【かじわらさぶろう(15??~15??)】

梶原景俊の男。通称三左衛門。別名梶川右門。梶原景俊の討死により、梶原家1,500石の家督を相続した。

梶原喜平次【かじわらきちじろう(15??~15??)】

梶原景俊の次男。

梶原藤六【かじわらとうろく(15??~15??)】

梶原景俊の三男。

糟屋武則【かすやたけのり(1562~1607)】

別所家臣糟屋忠安の次男。官途は内膳正。1577年、羽柴秀吉の「播磨討伐」では、兄糟屋朝正は別所長治について三木城に入って討死した。糟屋武則は黒田孝高の推挙により織田方につき羽柴秀吉の小姓頭となった。1583年「賤ヶ岳の戦い」で糟屋武則は佐久間盛政麾下の宿屋七左衛門を討取る戦功を挙げ福島正則や加藤清正らと共に賤ヶ岳の七本槍のひおりに数えられ播磨国加古郡で3,000石を領した。その後も「小牧、長久手の戦い」「九州の役」「小田原の役」などに参陣した。1586年、方広寺大仏の作事奉行を務めた。1591年、近江国検地奉行となって増田長盛らと共に検地を行った。1593年、播磨国三木郡の羽柴秀吉の蔵入地10,000石の代官に任じられるなど、行政面でも事績を残した。後陽成天皇の聚楽第行幸の際にも天皇の行列に供奉した。1593年「第二次晋州城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1595年、播磨国加古川城12,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では七本槍の中で唯一西軍に加わり兵360余りを率いて「伏見城の戦い」に参陣した。「関ヶ原の戦い」本戦では宇喜多秀家隊に属して奮戦した。戦後改易されるが後に許され松平元康麾下で500石を領した。

糟屋家臣団【かすやけかしんだん】

調査中。

片岡吉方【かたおかよしかた(15??~1612)】

加藤可重の三男。通称内膳。1612年、片野川で鷹狩を行っていたが、佐敷城から訪れた四人の士卒と口論となり謀殺された。

片桐且元【かたぎりかつもと(1556~1615)】

浅井家臣片桐直貞の男。室は片桐半右衛門の娘。1570年、織田信長による浅井長政への攻撃に際して、片桐直貞は小谷城の落城まで一貫して浅井方として戦った。1579年、石田三成らと共に長浜城主羽柴秀吉に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で福島正則や加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳の七本槍のひとりに数えられ、この戦功で3,000石を領した。その後は前線で活躍することはなく、後方支援などの活動が中心となり、奉行としての街道整備や「九州征伐」では軍船の調達「小田原の役」では小田原城の接収に立会い、奥州仕置では浅利事件の調査を行う。各地の検地や境界争論の調停、鎌倉の鶴岡八幡宮の修復造営などに携わる。1592年「文禄の役」では、釜山に駐在し「晋州城の戦い」などに参陣した。1598年、大坂城番となり、城詰めとなる播磨国内に10,000石を領した。羽柴秀頼の傅役を任され、羽柴秀吉死後は秀頼を補佐した。1600年「関ヶ原の役」では西軍につき「大津城の戦い」に兵を派遣した。役後は羽柴秀頼と松平元康の調整に奔走し、松平元康から大和国に28,000石の所領を与えられた。その後も羽柴秀頼を補佐し、羽柴家と松平家の対立を避けることに尽力した。1614年「方広寺鐘銘事件」が起こって対立が激化すると、片桐且元は戦争を避けるために松平元康との和平交渉に奔走したが、松平元康と交渉している間に大野治長や羽柴秀頼生母の淀殿から松平元康との内通を疑われるようになり、大坂城を退去した。「大坂の役」には松平元康に従属するも役後突如の死を遂げた。

片桐孝利【かたぎりたかとし(1601~1638)】

片桐且元の次男。室は伊奈忠政の娘。官途は出雲守。1615年、父片桐且元の死去により片桐家の家督を相続した。高野山の造営奉行など、奉行職を良く務めた。弟の片桐為元を末期養子として、40,000石から10,000石へ減封されたが家督相続が認められた。

片桐貞隆【かたぎりさだたか(1560~1627)】

片桐直貞の次男。官途は主膳正。兄片桐且元と共に羽柴秀吉に仕え150石を領した。その後「小田原の役」「文禄の役」などに参陣して戦功を挙げ10,000石余を領した。羽柴秀吉没後は兄片桐且元と共に羽柴秀頼に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では西軍に就いて「大津城の戦い」に参陣するが、所領は安堵された。1614年「方広寺鐘銘事件」を契機に松平元康との内通を疑われ、兄片桐且元と共に松平元康に仕えた。「大坂夏の陣」の後、大和国小泉で16,000石を領した。

片桐家臣団【かたぎりけかしんだん】

調査中。

加藤清信【かとうきよのぶ(15??~1547)】

長井規秀家臣。官途は因幡守。美濃の長井規秀に仕えた。1547年、織田家との戦で討死した。

加藤清忠【かとうきよただ(1526~1564)】

加藤清信の男。通称正左衛門。父加藤清信の死後、長井規秀に仕え美濃今須城代。負傷により武士をやめ、遠縁にあたる関兼員のもとで鍛冶としての修行した。関弥五郎兼員六人の娘は、杉原家利室、大政所、青木秀以生母、加藤清正生母、小出秀政生母、福島正則生母。羽柴秀吉の母方の祖父は刀鍛冶であった。加藤清正が三歳の時に病没した。

加藤清重【かとうきよしげ(1544~1598)】

加藤清信の次男。通称喜左衛門。

加藤清正【かとうきよまさ(1562~1611)】

羽柴秀吉家臣。加藤清忠の二男。官途は主計頭。通称虎之助。室は菊池武宗の娘本覚院(川尻殿)。身の丈は六尺を超え、腰には三尺五寸の大刀を佩いていた。幼時に父を亡くし、福島正則らと共に羽柴秀吉子飼いの武将として育てられた。1576年、長浜で170石を領した。1581年「因幡鳥取城の戦い」で初陣した。1583年「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げ「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられ3,000石を領した。1587年「九州征伐」では後備えとして肥後国宇土城に在城した。1588年、佐々成政の後を受けて北肥後国隈本城195,000石を領した。1592年「文禄の役」では小西行長と共に先鋒として、咸鏡道を破竹の勢いで進んで朝鮮の二王子を捕獲。「第一次蔚山城の戦い」で戦功を挙げた。講和推進派の小西行長や石田三成と対立朝鮮の陣から召還された。1598年「慶長の役」において再び渡海し「第二次蔚山城の戦い」で籠城戦を耐え抜いた。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康方として肥後国にあって、西軍についた小西行長の宇土城、立花宗茂の柳河城を攻め落とした。役後、肥後国の515,000石を領した。1611年、羽柴秀頼と松平元康の会見では、浅野幸長と共に羽柴秀頼を護り、会見を無事に終わらせたが、隈本に帰る途中に病没した。

加藤忠正【かとうただまさ(1599~15607)】

加藤清正の次男。幼名熊之助。加藤清正のには山崎片家の娘との間に嫡男虎熊がいたが「文禄の役」中に病没した。1603年、松平元康によって江戸幕府が開かれ加藤家江戸屋敷が設けられると、熊之助は将軍家への人質として江戸に置かれた。1607年、疱瘡を患い、将軍松平秀忠より名医を遣わされるがその甲斐なく、江戸屋敷で病没した。

加藤忠広【かとう ただひろ(1601~15??)】

加藤清正の三男。官途は肥後守。室は蒲生秀行の娘(琴姫)で松平秀忠の養女。兄加藤忠正が病没したため世子となった。1611年、父j加藤清正の病没により加藤家の家督を相続した。若年のため藤堂高虎が後見人となり家臣による合議体制で家政を行った。統率力に欠け、家臣団を完全に掌握することができず、牛方馬方騒動など重臣の対立が発生し、政治は混乱した。1632年、江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主酒井忠勝にお預けとなった。

加藤光広【かとうみつひろ(15??~1633)】

加藤忠広の男。飛騨国高山に流され病没した。

加藤安政【かとうやすまさ(15??~15??)】

加藤清正家臣。智勇兼備の武将。「慶長の役」では、蔚山倭城に押し寄せた明の大軍を鉄砲で撃退した。

加藤重次【かとうしげつぐ(15??~15??)】

六角家臣。六角家の滅亡後、富山城主佐々成政に仕えた。佐々成政が隈本城主として肥後国に入封すると、実弟井上吉弘と共に肥後に入る。佐々成政が肥後国人一揆への不手際により自刃されると、加藤清正に仕えた。「文録の役」でも戦功を挙げた。「慶長の役」では講和破談後の加藤清正は、加藤重次、飯田直景、森本一久、井上吉弘等側近500余りで蔚山城にろ籠城。乏しい食料の中、明軍の大軍を撃破した。加藤清正の病没後は、加藤忠広を支える大老五人衆のひとりとなった。

加藤可重【かとうよししげ(15??~1604)】

片岡清左衛門の男。通称右馬允。加藤清正の遠縁である片岡清左衛門の嫡男で、その縁で加藤清正に仕えた。加藤清正の肥後国入封後は肥後内牧城代を務めた。1592年「文録の役」で嫡男加藤重正が討死した。次男加藤正方が幼いため、甥を養子にした。 

加藤正方【かとうまさかた(1580~1648)】

加藤可重の次男。通称右馬充。加藤家十六将のひとり。兄が討死したため、家督は従兄が継ぐが、のちにその養子となり家督を相続した。肥後内牧城代。百八騎持。加藤清正の病没後、加藤忠広の家督相続を嘆願した。枝連衆の加藤正次との御家騒動を引起した。家臣西山宗因は俳句の祖として知られる。治水、干拓などで城下を発展させたが、加藤忠広改易により失領した。

加藤正直【かとうまさなお(15??~1643)】

加藤正方の男。室は加藤清正の娘。長尾善政没後、岩尾城代。1612年、幕命により内牧城代。幕府旗本として700石を領した。

加藤正次【かとうまさつぐ(15??~15??)】

加藤清正家臣。官途は美作守。肥後筒ヶ嶽城代。加藤忠広の五家老のひとり。1611年、加藤清正が病没して次男加藤忠広が家督を相続すると、加藤正次が家中で発言力を持つようになった。1618年、加藤正方派の下津宗秀が、加藤忠広の舅であった玉目丹波守や加藤正次らを幕府に訴えた。加藤家の内訌が幕府に露見。幕閣は関係者と藩主の忠広を江戸で吟味。松平秀忠みずからの裁決によって加藤忠広の責任は不問としたうえで、加藤正方らには勝訴を申し渡した。一方で敗訴した正次派の多くは配流処分を受けた。

加藤教明【かとうよしあき(15??~15??)】

松平家臣。通称三之丞。松平家臣であったが「三河一向一揆」の際に三河国を離れた。嫡男加藤嘉明は羽柴秀勝に仕えた。1578年、羽柴秀吉の播磨攻めに無断で参陣した。羽柴秀勝は激怒し、羽柴秀吉の母を通じて加藤嘉明の処罰を求めた。しかし、羽柴秀吉は加藤嘉明の覇気が気に入り、朝明に息子は見所のある男だと誉めた。

加藤嘉明【かとうよしあき(1563~1631)】

羽柴秀吉家臣。加藤教明の男。官途は左馬助。通称は孫六。室は堀部市右衛門の娘。父加藤(岸)教明と共に近江国に移って羽柴秀吉に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げ「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられ3,000石を領した。1585年「四国征伐」では、羽柴家海賊衆を率いて活躍した。1586年、淡路国志智城主15,000石を領した。1587年「豊後戸次川の戦い」で、敗走する羽柴家勢の殿軍を務め30,000石を加増された。1595年、伊予国松前城60,0000石を領した。「文禄、慶長の役」では羽柴家海賊衆を率いて参陣し、巨済島で李氏朝鮮警固衆を撃破する戦功を挙げ100,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では松平元康方に属し「岐阜城の戦い」「大垣城の戦い」で戦功を挙げ200,000石を領した。1614年「大坂冬の陣」では、松平元康方に属したが、江戸城留守居役に任じられ、嫡男加藤明成を参陣させた。1627年、会津若松城400,000石を領した。戦場では剛毅な武将であったが領主としても優れた民政家であり、とくに治水、鉱山開発、交通網整備などの土木事業に非凡な才能を示した。蝋、漆器などの産業育成にも努めて内政の充実を図った。

加藤忠明【かとうただあき(15??~15??)】

加藤教明の次男。通称は内記。1600年「関ヶ原の役」では、伊予国松前城を守備した。城を攻めてきた毛利輝元勢と戦い撃退した。

可児吉長【かによしなが(1554~1613)】

福島正則家臣。通称可児才蔵。宝蔵院流槍術の開祖、覚禅房胤栄に槍術を学んだ。討取った頸に笹を噛ませ目印にしたことから「笹の才蔵」と称された。斎藤龍興に仕えたが滅亡したため、織田信長家臣であった柴田勝家、明智光秀、前田利家、森可成らに仕えた。1583年、織田信孝に仕えるも織田信孝が羽柴秀吉の攻撃を受けて自刃したため羽柴秀次に仕えた。「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀次が松平元康に大敗を喫すると、羽柴秀次と対立して浪人になった。その後は佐々成政に仕えたが長続きしなかった。その後、伊予国110,000石の領主となった福島正則に仕え750石を領した。1590年「小田原の役」では北条氏規が守備する「韮山城の戦い」に参陣し、このとき先頭に自ら立って攻撃した。1600年「関ヶ原の役」では福島勢の先鋒隊長として参陣し、この戦いでも敵兵の頸を十七も取り松平元康からも賞賛された。この戦功により1,250石を領した。福島正則が「関ヶ原の役」の戦功により安芸国広島城480,000石に転封されるとそれに従った。

河村権七【かわむらごんしち(15??~15??)】

加藤嘉明家臣。1600年「関ヶ原の役」で戦功を挙げた。生来頑固であり、あるとき、加藤嘉明と行き違いで口論となり加藤家を出奔した。1614年「大阪の冬の陣」が起こると江戸城に留守居役となった加藤嘉明に帰参を願い出ると、加藤嘉明は河村権七を再び800石で召抱えた。

並河宗照【かわなみむねてる(15??~15??)】

加藤清正。官途は志摩守。通称金右衛門。加藤家五家老のひとり。加藤清正の病没後、国政を委ねられる。1618年、加藤正方一派は対立する加藤正次一派の行状を幕府に訴えた。酒井忠世邸にて裁きが行われた。並河宗房は加藤正方に属した。ここで加藤正方派は加藤正次派が「大坂の陣」に際し、大船二艘で大坂城に援軍を送ろうとしたと述べた。加藤正方派の言い分が認められ、加藤正次一派は処罰された。加藤家改易によって浪人ったが、土佐山内家に2,000石で仕えた。のちに、山内忠義の次男山内安豊を養子に迎え家老職3,000石を領した。山内忠義の三男山内一安が病没すると、山内安豊が末期養子として山内一安の跡を継ぐことになった。山内忠義は並河家を絶やさぬよう考え、深尾重昌の次男深男主税助を並河宗照の養子にした。

貴田統治【きだむねはる(15??~15??)】

加藤清正家臣。佐竹勘兵衛の男。通称孫兵衛。別名毛谷村六助。「加藤家十六将」のひとりで900石を領した。怪力と俊足の持ち主。「文禄、慶長の役」では鉄炮衆40名余りを率いて参陣した。足の速さを見込まれ、漢城陥落の報を名護屋に届けるための使者となり、わずか二週間で名護屋まで達した。貴田孫兵衛の一族は、加藤家改易後は細川家に仕えた。

------------------------------------------------------

【さ】

坂川忠兵衛門【さかがわちゅうざえもん(15??~15??)】

加藤清正家臣。加藤家母衣衆のひとり。1600年「宇土城の戦い」で戦功を挙げた。宇土城攻めの時は二番槍をつける等勇猛の士であった。

下川兵太夫【しもかわへいだいふ(15??~15??)】

加藤清正家臣。1592年「文禄の役」に参陣した。著書に「清正高麗陣覚書」。

下津宗秀【しもつむねひで(15??~1613)】

加藤清正家臣。公家久我晴通の三男。官途は将監。別名久我棒庵。幼少で出家し相国寺、鹿苑寺の僧となった。加藤清正が京都所司代の勧めていたとき、還俗し清正に仕えて下津将監宗秀と称した。上方情勢に詳しく清正の政治顧問、折衝方的役割を担った。

下津宗政【しもつむねまさ(15??~15??)】  

下津宗秀の男。官途は将監。通称内記。加藤家取り潰し後は細川家に仕えた。

下川元宣【しもかわもとのぶ(15??~1612)】
  
加藤清正家臣。下川元綱の次男。通称又左衛門。羽柴秀吉の馬廻り衆であったが後に加藤清正に仕えて勘定役の仕事をした。戦場の武者活躍は少ないが肥後入国後は隈本城留守居として領内統治の責任者として内政を司った。加藤清正の病没後は五大老のひとりとして加藤忠広を支えた。

庄林一心【しょうばやしかずただ(15??~1631)】

加藤清正家臣。官途は豊後守。別名庄林隼人。飯田直景、森本一久と並んで加藤家三傑と呼ばれる重臣。はじめ摂津国高槻の国人領主で荒木村重の家臣。荒木村重の没落後に仙石秀久に仕えた。のちに加藤清正に仕えた。飯田直景、森本一久に比べ家臣となったのは遅かったが加藤清正の信頼は厚く、先手の大将として朝鮮出兵の「第二次晋州城の戦い」では晋州城への一番乗りの戦功を挙げた。「天草一揆討伐」などでも活躍し朱槍を与えられた。加藤家改易後、細川家に仕え1,380石を領した。

------------------------------------------------------

【た】

佃十成【つくだかずなり(1553~1634)】

加藤嘉明家臣。岩松玄蕃丞の男。通称は次郎兵衛尉。岩松玄蕃丞は三河国加茂郡猿投の豪族衆。初め織田信長麾下のちに松平元康に仕えた。1585年、些細なことから松平元康と争いを起こして国を追われ、摂津国西成郡佃に蟄居した。その後加藤嘉明に仕え「九州の役」「小田原の役」「文禄、慶長の役」に参陣して戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」の際には、本戦に出陣した加藤嘉明の留守居として領地の伊予松前城に残り、毛利輝元らの支援を受けて蜂起した河野家の旧臣らの軍勢を策をもって撃退した。この戦功によって伊予国浮穴郡久万山城6,000石を領した。

------------------------------------------------------

【な】

長尾一勝【ながおかずかつ(1550~1619)】

福島正則家臣。山路正幽の次男。官途は久之丞。通称は勘兵衛。別名山路種常。神戸信孝の家老小島兵部の家臣。のちに福島家に仕え福島家三家老と称された。1590年「小田原の役」では、福島正則の家臣として出陣し、北条氏規が籠もる韮山城攻めでは、城壁に三度よじ登り、城内から三度突き落とされて負傷した。1600年「関ヶ原の役」後、福島正則が安芸国に入ると、備後国東城五品嶽城主となった。1614年「大坂冬の陣」でも戦功を挙げた。

中川寿林斎【なかがわじゅうりんさい(15??~1622)】

加藤清正家臣。枝連衆として加藤姓を与えられ、熊本城留守居役を勤めた。1618年、御家騒動では、加藤正次に属し、嫡男加藤正辰とともに流罪となった。

中村将監【なかむらしょうげん(15??~15??)】

加藤清正家臣。水俣城代。水俣城破却後は隈本城で家老職を務めた。1618年、御家騒動では加藤正方に属した。

------------------------------------------------------

【は】

塙直之【ばんなおゆき(1567~1615)】

加藤嘉明家臣。別名塙団右衛門。はじめは織田信長に仕えたが、普段はおとなしい性格なのが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖があり重用さなかった。羽柴秀吉にも仕えたが羽柴家でも重用されなかった。後に加藤嘉明の家臣として仕え、鉄砲大将として活躍した。加藤嘉明に従って「朝鮮出兵」にも参加して活躍し、その戦功により350石を領した。1600年「関ヶ原の役」の際、鉄砲大将を任されながら、隊を置いて槍を持って突撃するという軍令違反により嘉明と対立し、そのもとを去った。その後、小早川秀秋や松平忠吉に仕えたが、どちらも数年で断絶。そして福島正則らに仕えたが、加藤嘉明によって仕えることができなくなった。1614年「大坂冬の陣」に羽柴方として参加し、大野治房の元で本町橋の夜襲戦で戦功を挙げる。1615年「大坂夏の陣」では大将に任じられたが、緒戦における浅野長晟攻めでの「樫井の戦い」において一番槍の功名を狙い、先陣の岡部則綱と競い合って突出し、大野治房本隊や和泉国の一揆勢との連携が取れないまま、奮戦はしたものの矢を受けて落馬し、背後から槍を突かれて討死にした。

平野長泰【ひらのながやす(1559~1628)】

平野長治の男。官途は遠江守。「賤ヶ岳の七本槍」のひとり。若くして羽柴秀吉に仕えた。1583年、羽柴秀吉と柴田勝家の「賤ヶ岳の戦い」で、福島正則、片桐且元らと共に格別の働きをして「賤ヶ岳の七本槍」と称えられた。その後、戦功を重ねて大和国で5,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では東軍に付き、松平秀忠の麾下に属した。1614年「大坂冬の陣」では羽柴方に合流しようとしたが、江戸留守居役を命じられ留め置かれた。七本槍の中で唯一大名とならなかったが、松平秀忠麾下の馬廻衆として仕えた。

平野家臣団【ひらのけかしんだん】

調査中。

福島正信【ふくしままさのぶ(1525~1597)】

尾張国海東郡で桶屋。通称は市兵衛。尾張国海東郡で桶屋をしていた。室が羽柴秀吉の叔母に当たったことから羽柴秀吉に召し出されて家臣として仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」に参陣した。

福島正則【ふくしままさの(1561~1624)】

福島正信の男。羽柴秀吉家臣。官途は左衛門尉。室は津田長義の(照雲院)娘。賤ヶ岳の七本槍のひとり。1578年「播磨三木城の戦い」で初陣を飾る。1582年「山崎の戦い」では、勝龍寺を攻撃するなどして戦功を挙げた。1583年「賤ヶ岳の戦い」のときは一番槍として敵将拝郷家嘉を討取る選考を挙げ「賤ヶ岳の七本槍」のひとりと称され5,000石を領した。1584年「小牧、長久手の戦い」では、父福島正信とともに、後備えとして兵300を率いて参陣した。1587年「九州征伐」の後、伊予国今治城110,000石を領した。「小田原の役」では、織田信雄勢に属して、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生氏郷などとともに韮山城を攻撃した。1592年「文禄の役」では五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京畿道の攻略にあたった。 講和交渉の進展により南部布陣が決まったため、福島正則は巨済島の松真浦城や場門浦城の守備、補給などの兵站活動を担当した。「場門浦海戦」では李氏朝鮮警固衆を率いる李舜臣と戦い撃退した。1595年、尾張国清洲城240,000石を領した。武勇に優れた福島正則は文治派の石田三成ら対立した。1599年、前田利家が病没すると、加藤清正と共に石田三成を襲撃した。養子の福島正之と松平元康の養女満天姫との婚姻を実現させた。1600年「会津征伐」では6,000人余りを率いて参陣した。「関ヶ原の役」では「岐阜城の戦い」では、池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させた。「関ヶ原の戦い」では、宇喜多秀家勢17,000余りと激闘を繰り広げた。役後安芸国広島城498,200石を領した。1619年、水害で破壊された広島城の石垣等を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反に問われ改易された。

福島高晴【ふくしまたかはる(1573~1633)】

福島正信の次男。通称助六郎。室は村井貞勝の娘。継室は村上通康の娘。兄福島正則と共に羽柴秀吉に仕えた。1594年、伊勢国長島城10,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、兄福島正則と共に松平元康方に属して「会津征伐」に参陣した。西軍が挙兵すると本国に戻って石田三成方の桑名城主氏家行広を攻めた。その戦功により役後、大和国宇陀郡松山城30,000石を領した。移封後は、松山城の改修や城下街の整備に取り組んだ。1615年「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼方に内通密かに兵糧を大坂城に入れていた。のちに改易された。

福島正晴【ふくしままさはる(15??~1640)】

福島高晴の男。通称岩松修理。1600年「関ヶ原の役」後、父福島高晴は戦功を賞されて大和国宇陀郡松山城30,000石を領した。1615年、父福島高晴が「大坂夏の陣」において羽柴秀頼に内通していた嫌疑をかけられて改易された。父福島高晴に連座して伊勢国山田に移り住んだ。

福島正之【ふくしままさゆき(1585~1608)】

別所重宗の七男。福島正則の養子。官途は刑部少輔。室は満天姫(松平康元の娘)。福島正則の嫡男福島正友が夭折したため、福島正則の養嗣子となる。1599年、松平元康の養女満天姫を娶った。1600年「関ヶ原の役」に参陣し、「竹ヶ鼻城の戦い」「岐阜城の戦い」で戦功を挙げた。1607年、福島正則から「近頃は乱行を行なうなどして狂疾である」と幕府に訴えられ、幽閉処分に処される。この訴えは福島正則が実子の福島忠勝に後を継がせるために行なった虚偽であった。室の満天姫との間に男子があったが、満天姫が実家へ戻る際にともに連れて行った。満天姫は後に津軽信枚に再嫁した。福島正之の子は津軽信枚の弟分となった後、津軽家臣の大道寺直英の婿養子となり大道寺直秀と称した。

福島忠勝【ふくしまただかつ(1598~1620)】

福島正則の次男。義兄福島正之が没した後嫡子となった。1614年「大坂冬の陣」では父福島正則は江戸城留守居役として江戸に留めおかれたが、福島忠勝は大坂に出陣した。1615年「大坂夏の陣」は遅参したため、破壊された道や堤の修復をした。1619年、父福島正則が幕命によって改易された時、将軍松平秀忠の上洛に随行していたが、父福島正則と共に信濃高井野藩に移った。この際、福島正則から家督を譲られた。1620年、父福島正則に先立って病没した。

福島治重【ふくしまはるしげ (15??~15??)】

福島正則家臣。福島正則の叔父。官途は丹波守。1600年「関ヶ原の役」では奮戦して片足を負傷し、その後は不自由となった。福島正則からの信頼篤く、広島入封後は三原城を任された。1619年、福島正則が改易となったとき,江戸から福島正則の書状がとどくまで城の明け渡しを拒否し籠城した。書状の到着後、城の糧器,家臣の俸禄などの記録をのこして城をさった。藤堂家に仕えた福島治重の嫡男福島長門守は大坂に入城を試みるも途中で藤堂勢が発見され討死した。

文英清韓【ぶんえいせいかん(15??~1615)】

南泉寺住職。別名中尾重忠。加藤清正の右筆。1592年「文禄の役」では加藤清正に属して朝鮮半島に渡った。1600年、京都東福寺の長老となり、その後南禅寺の長老となった。羽柴秀頼にも重用され、方広寺大仏殿再建に際しては鐘に銘を刻んだ。これが有名な「前征夷大将軍従一位右僕射源朝臣家康公」、「国家安康 君臣豊楽 子孫殷昌」の文字である。片桐且元と共に釈明をするも訴えが認められることはなかった。清韓は己の刻んだ文字が羽柴家討伐に利用されたことを悔やみ、羽柴秀頼と運命を共にした。

堀主水【ほりもんど(1584~1641)】

加藤嘉明家臣。多賀井家に生まれた。多賀井家は和泉淡輪の土豪で織田信長に属して紀伊の根来雑賀衆と戦った。堀主水は加藤嘉明に仕え「大坂夏の陣」で敵と組み合いながら堀に落ちたが討取ったので堀という姓と采配が与えられ3,000石を領した。加藤明成と不和になり、遂に出奔した。妻子を鎌倉東慶寺に預け、高野山に身を寄せた。加藤明成は高野山に主水の身柄引き渡しを要求。身の危険を感じた堀主水は幕府に明成の行状を二十一箇条にまとめ、幕府に直訴した。幕府は会津城銃撃の罪により主水を死罪にした。明成は主水だけでなく、東慶寺にいた主水の妻子も処刑した。

------------------------------------------------------

【ま】

三宅角左衛門【みやけかくざえもん(15??~15??)】

加藤清正家臣。三宅角左衛門の麾下の足軽は、明の正使である李宗城の私物を奪い逃亡した。この一件は大問題となり、加藤清正は帰国を命じられ伏見屋敷に蟄居することとなった。

森本一久【もりもとかずひさ(1560~1612)】

加藤清正家臣。森本一慶の男。別名森本儀太夫。若年の頃より加藤清正に仕え、飯田直景、庄林一心と並んで加藤家三傑と呼ばれる重臣であった。朝鮮出兵の際、「第二次晋州城の戦い」において飯田直景と共に亀甲車なる装甲車で城の石垣を破壊し、黒田長政の配下で黒田八虎に挙げられる後藤基次と争いながらも一番乗りの戦功を挙げ羽柴秀吉から「義」の字を与えられた。土木普請も得意で、隈本城築城、江戸城築城にも才をなした。1611年、加藤清正が没すると、その後を追うように翌年病没した。

森本一友【もりもとかずとも(15??~15??)】

森本一久の男。森本一友も武勇に優れ、加藤家二十四将に数えられるほか「天草一揆鎮圧」にも活躍した。加藤家改易後、細川家に仕え5,100石を領した。

------------------------------------------------------

【や】

吉村橘右衛門【よしむらきちざえもん(15??~15??)】

加藤清正家臣。1600年「宇土城の戦い」で三番備頭。堤権右衛門と共に麦島城の接収を行い、守将として城に残った。

脇坂安治【わきざかやすはる(1554~1626)】

脇坂安明の男。官途は中務少輔。室は西洞院時当の娘。はじめ浅井長政に仕えた。1573年、浅井家滅亡以後は、織田家に属し明智光秀の寄騎衆として「黒井城の戦い」で戦功を挙げる。後に、羽柴秀吉の家臣となり「三木城の戦い」「神吉城の戦い」などで、羽柴秀吉の諸戦に参陣して戦功を重ねた。1583年「賤ヶ岳の戦い」では、福島正則や加藤清正らと共に活躍し賤ヶ岳の七本槍のひとりに数えられその戦功により山城国に3,000石を領した。「小牧、長久手の戦い」では伊勢、伊賀方面で滝川雄利の伊賀上野城を攻略するなどの戦功を挙げ、淡路国30,000石を領した。その後は加藤嘉明や九鬼嘉隆らと共に海賊衆の指揮官を務め「九州征伐」「小田原征伐」や「朝鮮出兵」などに参陣した。「九州征伐」では、豊前国に到着後、臼杵城の大友義鎮の元に兵糧米を輸送している。以後、羽柴秀吉の命で黒田孝高の麾下に入った。薩摩国の平佐城を小西行長らとともに攻撃開城させた。「小田原の役」では海上から伊豆国下田城を攻め落とし、小田原城受け取りの検使を務めた。1592年「文禄の役」では、漢城近郊の龍仁を守備中に全羅道観察使の李洸などが率いる朝鮮勢約50,000余りの攻撃を受けるが機先を制して夜襲を行い朝鮮勢潰走させた。李舜臣による水軍の活動を抑えるために加藤嘉明、九鬼嘉隆と共に海賊衆を編成するが、功を逸って単独で抜け駆けした脇坂安治は閑山島海戦で李舜臣に大敗した。1600年「会津征伐」では、松平元康の元に嫡男脇坂安元を参陣させようとしたが、石田三成らに妨害され引き返させた。脇坂安治は山岡景友を松平元康に通じた。「関ヶ原の戦い」では、東軍と内通の風聞があった小早川秀秋に備えて朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと共に配置されていたが、小早川が黒田長政と通じていたのと同様に、脇坂もまた藤堂高虎より工作を受けており、小早川隊が大谷隊を攻撃するとそれに乗じて他の三将と共に寝返り、平塚為広、戸田重政の両隊を壊滅させた。石田三成の佐和山城攻略にも参加している。同じく寝返った他の三将と異なり、戦前に通款を明らかにしていた為、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵された。

脇坂安元【わきざかやすもと(1584~1653)】

脇坂安治の次男。通称甚太郎。兄脇坂安忠がいたが、若くして病没したために嫡子となった。室は石河光元の娘。1600年「会津征伐」が起こると、父脇坂安治の命で松平元康方に参陣しようとしたが、石田三成らに阻まれた。石田三成らが挙兵すると、大坂に滞在していた脇坂安治、脇坂安元は西軍方に従って関ヶ原ぼ左翼に布陣した。小早川秀秋の裏切りを機に東軍に寝返り大谷吉継隊を壊滅させ、石田三成の居城佐和山城攻めに加わるなど東軍の勝利に貢献した。1606年、江戸城の普請を行っている。1615年「大坂冬の陣」が勃発すると、藤堂高虎麾下で「生玉の戦い」で戦功を挙げた。「大坂夏の陣」においては土井利勝とともに「天王寺の戦い」で戦功を挙げた。父脇坂安元の隠居に伴い大洲城53,500石を領した。1617年、信濃国飯田城55,000石を領した。飯田城の城下街を整備し、飯田城の掘割を完成させ、街道の流通と伝馬を確立し、飯田十八町を完成させ、文化産業振興にも力を注ぐなど、飯田の発展に尽くした。

脇坂家臣団【わきさかけかしんだん】

脇坂一盛、脇坂一長、脇坂安盛、脇坂景直、田中安義。

------------------------------------------------------

【資料Ⅰ】

調査中。

------------------------------------------------------

【資料Ⅱ】

賤ヶ岳の七本槍【しずがたけのしちほんやり】

「賤ヶ岳の戦い」において活躍した、七人の羽柴秀吉の馬廻衆。福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元。

福島家三家老【ふくしまけさんかろう】

長尾一勝、尾関正勝、大崎長行。

加藤家三傑【かとうけさんけつ】

飯田覚兵衛 庄林隼人 森本儀太夫。

加藤家五家老【かとうけごかろう】

加藤家十六将【かとうけじゅうろくしょう】

加藤与左右衛門、本山安政、鵤平次、龍造寺又八、吉村吉左衛門、九鬼四郎兵衛、山内甚三郎、木村又蔵、天野助左衛門、斎藤立本、赤星太郎兵衛。

------------------------------------------------------

【資料Ⅲ】

調査中。

------------------------------------------------------

戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※主な引用参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東、西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東、西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「歴史読本(戦国豪商列伝)」新人物往来社、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

------------------------------------------------------