2014年6月3日火曜日

戦国伯耆国人名事典

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【あ】

小鴨元伴【おがもととも(15??~15??)】

久米郡岩倉城主。尼子経久は伯耆国山名家の家中争いに介入し伯耆国へ侵攻した。岩倉城主小鴨元伴は、尼子経久勢の攻撃を受け落城、小鴨元伴は因幡国に落延びた。その後、毛利元就に属し、尼子晴久勢の衰退と滅亡により岩倉城主に復帰した。1570年、小鴨元伴の留守中に岩倉城は尼子勝久勢に急襲され落城するも湯原元網、武田高信、南条元続の援軍を受け奪還した。小鴨元伴には実子が無かったため、羽衣石主南条宗勝の次男南条元清が養子に入り、小鴨家の家督を相続した。

小鴨元清【おがももときよ(15??~1614)】

南条宗勝の次男(小鴨元伴の養子)。官途は伯耆守。通称左衛門尉。兄南条元続とともに毛利輝元勢の吉川元春に属した。1579年、南条元続が織田信長勢に属すると、小鴨元清もそれに属した。1580年、吉川元春が伯耆国へ侵攻した際、南条元続とともに八橋城を攻撃するも敗退した。鳥取城を包囲していた羽柴秀吉は孤立した南条元続に援軍を出すことができなかったが、吉川元春勢を凌ぎ岩倉城を守り通した。1582年、羽衣石城が落城すると小鴨元清も南条元続と共に播磨国へ落延びた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉と毛利輝元が和議を結ぶと伯耆国へ復帰した。その後、兄南条元続に代わり政務を担当した。1587年、羽柴秀吉に属して「九州討伐」に参陣した。1591年、南条元続が病没し、南条元忠が南条家の家督を相続するとその後見人になり、打吹城番として城内の屋敷に住み政務を行った。1592年、「文禄、慶長の役」では、南条元忠の陣代として兵1,500余りを率いて朝鮮へ渡り、慶尚道仁道県の領主の子を生け捕る戦功を挙げた。その後、後見人の座を巡る争いで南条元忠との確執が生じた小鴨元清は、山田越中守の進言により小西行長に属した。1600年、「関ヶ原の役」では、小西行長勢に属して加藤清正と戦った。役後、加藤清正に仕え6,000石を領した。1614年、「大坂の冬陣」では、羽柴秀頼に属す事を願い大坂へ向かう途中病没した。

小鴨元正【おがももとまさ(15??~15??)】

小鴨元清の男。

越振飛騨守【おつふるしひだのかみ(15??~1524)】

山名尚之家臣。別名十六島弥六左衛門。河村郡を拠点とする国人領主。1524年、尼子経久勢に属して船戦に参陣したが毛利元就勢との戦いに敗れ討死した。

越振遠江守【おつふるとうとうみのかみ(15??~15??)】 

越振飛騨守の男。永禄年間には羽衣石城主南条元清に属した。1579年、南条元続が毛利氏より離反した後も引き続き、南条元続に属した。1580年、所領が山田重直に押領されたため、羽衣石城に籠城して毛利輝元勢の攻勢を防いだ。

越振宗太郎【おつふるむねたろう(15??~15??)】

越振遠江守の男。

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【か】

片山小四郎【かたやま こしろう(15??~15??)】

伯耆山名澄之家臣。久米郡石井城主。1524年、尼子経久の「大永の五月崩れ」によって石井城は落城、但馬国に落延びた。1564年、毛利元就勢に属して尼子晴久勢の籠城する天万固屋砦を焼討した。丸山固屋砦など諸城を陥とす戦功を挙げた。柏尾一帯から尼子晴久勢を一掃すると、石井城を回復した。

片山彦四郎【かたやまげんじろう(15??~15??)】

山田満重家臣。通称平左衛門。1563年、河岡城を守備した際、尼子晴久勢の攻撃を度々受けたが撃退した。

河岡久貞【かわおかひささだ(15??~15??)】

日野郡河岡城主。官途は山城守。1524年、尼子経久勢が伯耆国に侵入した「大永の五月崩れ」では尼子経久に属した。1562年、尼子晴久から離反すると毛利元就と結んだ。河岡城に籠城して尼子晴久勢の侵攻を遅らせ毛利元就勢の勝利に大きく貢献した。

菊池玄蕃頭【きくちげんばのかみ(15??~15??)】

行松正盛家臣。1524年、「大永の五月崩れ」で、尼子経久が伯耆国に侵攻し、山名澄之が守護に就いた際に菊池玄蕃頭は行松正盛と対立して、尼子経久勢に属した。毛利元就勢の杉原盛重が伯耆国に侵攻すると降伏した。1563年、再び行松正盛に属した。行松正盛が毛利元就から離反して、南条元続を頼って尾高城の回復に奔走した。

国司親俊【くにのつかさちかとし(15??~15??)】

高城城主。官途は伯耆守。1524年、「大永の五月崩れ」で尼子経久勢の攻撃を受け、国司親俊は城から落延びた。

久米【くめ(15??~1591)】

米子の街で評判の町娘。美しい少女で「米子小街」と称された。1591年、吉川広家が米子城を築城する際に人柱として選ばれた少女。普請奉行の祖式九右衛門が街の盆踊りの真っ最中、盆踊りに参加していた少女を無理矢理駕籠に押し込め、石垣近くに掘られた穴へ移されると、生きたまま土を被せられ人柱とされてしまった。少女が人柱とされた後、石垣が崩れることは無く工事も順調に進み、程なく天守閣は完成したが、その後石垣付近で少女の亡霊を見たという者が次々と現れ、人柱の話が町中から近村まで広まった。

黒松国時【くろまつくにとき(15??~15??)】

小鴨元清家臣。通称将監。1582年、岩倉城は再度、吉川元長に攻撃され家臣の黒松国時、永原惟定らが奮戦するも落城、小鴨元清らは羽衣石城に落延びた。

小森久綱【こもりひさつな(15??~15??)】

伯耆山名澄之家臣。久米郡松崎城主。官途は木工允。1546年、武田国信、伯耆国人衆の連合軍と尼子経久勢の「橋津川の戦い」では、伯耆国人衆の連合軍の一将として参陣した。南条宗勝らと橋津口に兵2000余を率いて布陣し、尼子経久勢の吉田筑後守、吉田左京亮の兄弟らが率いる兵2,000余と対峙した。伯耆国から尼子経久勢力が一掃されると伯耆国堤城の城主山田重直とともに南条宗勝に属することを拒み続けた。

小森方高【こもりかたたか(15??~1580)】

小森久綱の男。小森方高は堤城主山田重直と同盟関係を結んだ。1579年、山田重直が南条元続により追放された事で動揺した。1580年、毛利輝元家臣杉原元盛の誘いを受け内応した。南条家臣進下総守を攻撃する策を練っていたが、これが南条元続に察知され敗北、小森方高は討死した。

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【さ】

須藤丹波守【すどうたんばのかみ(15??~15??)】

南条元続家臣。1583年、南条元続が伯耆国を領すると須藤丹波守を今倉城主に任じられた。須藤丹波は領民の評判も悪く南条元続勢の攻撃を受け討死した。

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【た】

谷田五左衛門【たにたござえもん(15??~15??)】

日野郡駒崎城主。毛利元就勢の攻撃を受けて討死した。

谷威安【たになりやす(15??~15??)】

足利義政の庶男。官途は若狭守。1524年、尼子経久勢が伯耆国に侵入した「大永の五月崩れ」で、淀江城が落城すると山名守行に代わって淀江城主となった。

土屋七郎左衛門【つちやしちろうざえもん(15??~15??)】

一条市介家臣。1564年、毛利元就が尼子晴久、山名豊弘の連合軍と戦った「鹿野城の戦い」で一条市介に属して吉賀頼貞とともに戦功を挙げた。

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【な】

永原惟定【ながはらきれさだ(15??~15??)】

小鴨元清家臣。通称玄蕃。1582年、岩倉城は再度、吉川元長に攻撃され家臣の黒松国時、永原惟定らが奮戦するも落城、小鴨元清らは羽衣石城に落延びた。

南条元清【なんじょうもときよ(1497~1575)】

河村郡羽衣石城主。南条宗皓の男。官途は豊後守。通称勘兵衛尉。別名南条宗勝。1514年、父南条宗皓の病没により南条家の家督を相続した。1540年、尼子晴久の「郡山城の戦い」に参陣した。1543年、大内義隆の「月山富田城の戦い」では大内義隆に属し、それ以後は毛利元就に属した。1546年、但馬山名家の支援で「橋津川の戦い」を起こすなど各地の反尼子晴久勢力と手を結び、反尼子家の一翼を担う働きを為した。東伯耆の国人衆を家臣団に組み込み、南条家を山陰地方東部で最大の国人勢力に発展させた。1563年、久米郡の光孝寺において大規模な父の法要を営み、各地の寺社の所領を安堵するなど民心の安定に務めた。1569年、尼子勝久勢の攻撃を受けたが撃退した。1570年、隠居して南条家の家督を南条元続に譲った。

南条元続【なんじょうもとつぐ(1549~1591)】

南条元清の男。官途は伯耆守。通称右衛門尉。室は吉川元春の娘。継室は磯部豊直の妹。1570年、父南条元清の隠居により南条家の家督を相続した。福山茲正の仲介で毛利輝元勢から離れ織田信長勢に属した。1579年、福山茲正らを謀殺した堤城主山田重直を攻撃、山田重直、山田信直父子を追い落とした。羽柴秀吉の「鳥取城の戦い」では、羽衣石城で毛利輝元勢の補給路を遮断した。1582年、毛利輝元勢の攻撃を受けて羽衣石城は落城した。1584年、羽柴秀吉と毛利輝元の和睦により、東伯耆三郡60,000石を領して羽衣石城に復帰した。以後、羽柴秀吉勢に属して、各地を転戦した。1587年、伯耆守に補任されるも中風を病んで政務を行えなくなり、代わりに弟小鴨元清が政務を執った。

南条元秋【なんじょうもとあき(15??~1580)】

南条元清の三男。通称左衛門尉。1580年、「長和田、長瀬川の戦い」では、南条元続勢の大将として参陣、吉川元春勢の先陣杉原元盛勢と激しく戦ったものの相手方の猛攻により傷を負い敗走した。南条元秋が植木縄手で小姓から傷の手当を受けている最中に、家臣津村長門守を追ってと間違えた小姓によって討取られた。

南条信正【なんじょうのぶまさ(15??~15??)】

南条宗皓の三男。官途は備前守。通称は九郎左衛門。南条家臣団を束ねる筆頭家老として活躍した。1575年、兄南条元清が病没すると甥南条元続の後見人であった。

南条宗信【なんじょうむねのぶ(15??~1580)】

南条宗皓の四男。通称與兵衛。南条信正の男、南条信光が與兵衛家の家督を相続した。

南条兼保【なんじょうかねやす(1570~1613)】

南条元続の男。通称彌太郎。南条兼保を人質として毛利輝元にとられるのを避けた南条元続によって家臣と共に伊予国朝倉村に隠した。南条兼保はその地で霊仙山城主中川山城守の客将として迎えられた。

南条元忠【なんじょうもとただ(1579~1614)】

南条元続の次男。官途は中務大輔。1591年、父南条元続の病没により家督を相続した。1592年、「文禄の役」には、叔父小鴨元清が参陣した。幼年のため家中では後見人の座を巡る争いが起こるなどの混乱が生じた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢の属して「伏見城の戦い」「大津城の戦い」に参陣したたま、役後改易処分を受けた。1614年、「大坂冬の陣」では、旧臣とともに大坂入城した。平野橋口を兵3,000人余りで守備した。松平元康勢の藤堂高虎の誘いを受け、南条家の再興を条件に寝返ろうとするも、渡辺糺の知るところとなり城内千畳敷で自刃した。

南条信光【なんじょうのぶみつ(15??~1619)】

南条信正の男。通称與兵衛。1576年、毛利輝元に人質として差し出された。1579年、南条元続が毛利輝元勢から離反すると、吉川元春によって殺害されかけたが、南条元続勢に捕らえられていた山田重直の妻子との間で人質交換が成立、帰郷することが許された。1580年、病没した叔父南条宗信から「與兵衛」の名を受け継ぎ、毛利元就勢との戦いの間、南条千代姫と幼い南条元忠を守り通した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、改易処分を受けた。

南条光隆【なんじょうみつたか(15??~15??)】

南条信正の次男。仏日山隆光寺二代住職。別名南条梅堂。1580年、「長和田、長瀬川の戦い」に参陣するも敗れ、難を逃れるため出家した。八橋郡公文村光徳寺八世住職天松和尚に弟子入りした後、諸国を修行して周り帰郷した。1599年、久米郡下神村にあった仏日寺(龍光院)を松神村へ移した。倉吉大岳院の宥山和尚を開山として招き、自らは二代住職となった。1600年、「関ヶ原の役」後、南条元続が改易処分を受けると、小鴨元正を保護した。

南条元信【なんじょうもとのぶ(15??~15??)】

南条宗皓の次男。田尻城主。官途は備前守。

南条元周【なんじょうもとちか(15??~15??)】

南条元信の男。通称兵庫頭。1579年、吉川元長の攻撃を受け、支えきれず南条元周は羽衣石城に撤退した。

南条千代姫【なんじょうちよしめ(15??~1614)】

南条元続の娘(長女)。1600年、南条元続が「関ヶ原の役」で、石田三成勢に属して改易処分を受けると、因幡国気多郡鹿野へ家臣とともに落延びた。その地で帰農した。

南条宗鑑【なんじょう(15??~15??)】

伯耆国出身の医師。別名一鷗軒。京都で医術を学んだ後、伯耆国へ帰り開業した。しばらくして再度京都で婦人科を開業、名医として有名になった。1575年、日本初の婦人科医書「撰集婦人方」を著した。

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【は】

蜂塚丹波守【はちつかたんばのかみ(15??~15??)】

日野郡江尾城主。蜂塚三河守の男。蜂塚丹波守は日野郡在地領主連合の日野衆の中核をしめるまでに成長した。永正年間に入り、尼子経久が伯耆国に侵入すると尼子経久に属した。

蜂塚義光【はちつかよしみつ(15??~1564)】

蜂塚丹波守の男。通称右衛門尉。毛利元就の勢力が日野郡に及ぶと毛利元就に属した。1562年、毛利元就が本城常光を謀殺すると、他の伯諸将とともに再び尼子晴久に属した。江尾城にあって毛利元就勢の軍事行動を妨害した。1563年、毛利元就勢の河岡城への加勢を妨害し生山城主山名藤幸らの参陣を阻むなどした。1564年、尼子晴久勢の拠点であった長台寺城、手間砦が落城すると、日野郡の尼子晴久勢も劣勢に立たされた。杉原盛重、山田満重らによって江尾城が攻撃されると城内にあって抗戦するが猛攻により落城、自刃した。

日野孫左衛門【ひのまござえもん(15??~15??)】

日野郡手間砦主。1560年、杉原盛重が尼子晴久に備えて天満山普請を行い軍事拠点としての整備がなされた。1562年、毛利元就に属していた日野孫左衛門は尼子晴久に寝返り西伯耆の軍事拠点を失った。1563年、片山平左衛門尉が「天満固屋」を焼き崩すなど奪還に向けて動いた。1564年、再び手間砦を取り戻すことに成功し、杉原盛重の家臣菖蒲左馬充ら300余名が置かれた。

福山茲正【ふくやまこれまさ(15??~1576)】

八橋郡八橋城主。尼子倫久家臣。官途は左衛門尉。通称次郎左衛門。1566年、毛利元就との「富田城の戦い」に参陣した。河村郡羽衣石城主南条元続と親しくなりその客将になった。羽柴秀吉によって伯耆国、因幡国、但馬国などに勢力を持つ諸家の引き入れ工作が進められた。福山茲正はこうした羽柴秀吉の引き入れ工作の仲介役となり、南条元続に毛利輝元からの離反を勧めた。福山茲正の工作により、南条元続は離反の意思を固めた。南条元続の離反の意思を察した山田重直は以前から信任の厚かった吉川元春より福山茲正の謀殺を命じられた。1576年、山田重直は福山茲正を含む福山家一族を謀殺した。

福頼左衛門尉【ふくよりさえもんのじょう(15??~15??)】

汗入郡富長城。1524年、「大永の五月崩れ」によって、富長城が落城すると尼子経久に属した。尼子晴久の滅亡後、再び毛利元就に属した。山中幸盛の尼子再興戦においては末吉城に籠城して山中幸盛と戦うが、城は陥とされた。

船越三郎左衛門【ふなこしさぶろうざえもん(15??~15??)】

行松正盛家臣。日野郡を拠点とする国人領主。

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【ま】

増田玄蕃【ますだげんば(15??~15??)】

茶臼山城主。1521年、南条元清の攻撃を受け落城した。

真野重成【まのしげなり(15??~15??)】

伯耆山名澄之家臣。官途は隠岐守。1544年、尼子晴久の侵攻を受け真野城が落城すると枝連衆は尼子晴久勢に属した。

宮盛忠【みやもりただ(15??~15??)】

日野郡亀尾山城主。通称中務少輔。15??年、尼子晴久勢の攻撃により落城した。

宮盛祐【みやもりすけ(15??~15??)】

宮盛忠の男。

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【や】

山田高直【やまだたかなお(15??~15??)】

久米郡堤城。官途は石見守。1521年、尼子経久勢に襲われこの地を失い、流浪の末に病没した。

山田重直【やまだしげなお(1525~1592)】

山田高直の男。官途は出雲守。通称平三左衛門。1561年、「若桜表の戦い」で戦功を挙げ気多郡などに所領を得た。1562年、毛利元就の支援で堤城を奪還した。1566年、南条宗勝に属することを小森久綱とともに渋っていたため、南条家内において奉行衆という扱いを受けながらも、微妙な立場に置かれていた。1575年、南条宗勝が病没後に南条元続が家督を相続すると、山田重直は意見の対立からさらに孤立した。1576年、南条元続は福山次郎左衛門の仲介で織田信長と内通すると山田重直は福山次郎左衛門を羽衣石城下の山田館に誘い込んで謀殺した。1579年、南条元続に堤城を攻撃され嫡男山田信直と鹿野城に落延びた。山田重直は吉川元春に属して南条元続を攻撃した。1582年、羽衣石城を攻落したが毛利輝元からの恩賞は28石に過ぎなかった。1584年、堤城が南条元続となったため、会見郡小鷹城に転封になった。

山田信直【やまだのぶなお(15??~1580)】

山田重直の男。1579年、南条元続に堤城を攻撃され父山田重直と鹿野城に落延びた。

山田盛直【やまだもりなお(15??~15??)】

山田重直の次男。通称次郎五郎。1584年、父山田重直の隠居により山田家の家督を相続した。堤城が南条元続領となると山田重直とともに会見郡小鷹城に転封となった。1592年、小鷹城にて山田重直が病没すると柏尾の地を治め、吉川広家とともに岩国城へ転転になるまで善政を敷いた。

山田佐助【やまださすけ(15??~15??)】

南条元続家臣。高野宮城主。1579年、堤城の山田重直の毛利輝元勢への内通を察知、山田重直勢を攻撃した。

伯耆山名澄之【やまなすみゆき(15??~1533)】

久米郡打吹城主。山名之弘の男。伯耆国守護職。官途は相模守。山名澄之は尼子経久の支援を受け、伯耆国職守護の山名尚之と争った。1506年、山名尚之とその支持勢力を攻落して山名澄之は伯耆国守護職を手に入れたが守護代として尼子晴久を送られるなど守護職は名ばかりのもので、尼子経久の傀儡であった。尼子経久は日野郡を直轄領化し、在地領主連合の日野衆の懐柔や山名尚之の被官であった国人勢力を国外へ追放するなど着々と伯耆国にその基盤を形成した。山名澄之は尼経久から離反して、南条元清ら東伯耆国人衆と美作国衆との間でつくられた反尼子勢力を支援した。1524年、尼子経久に打吹山城を攻められて逐われた。

伯耆山名豊興【やまなとよおき(15??~15??)】

山名澄之の男。

伯耆山名豊隆【やまなとよたか(15??~15??)】

山名澄之の次男。1524年、尼子経久は伯耆国へ侵攻すると山名澄之ほか南条元清ら伯耆の国人衆は城を追われた。尼子経久は新たな守護として山名豊隆を擁立した。

日野山名藤幸【やまなふじゆき(15??~1564)】

日野郡生山城。山名豊幸の次男。日野郡惣領職。伯耆守護家が衰退した後、日野郡に侵攻した尼子経久に属したが毛利元就勢が侵攻するとそれに属した。1559年、生山城は尼子晴久勢に押えられていたため、尼子晴久からの離反後は備後国人衆の宮景盛のもとに身を寄せた。1562年、宮景盛とともに生山城を攻略し、城番であった中井久家、米原綱寛を退却させた。城を回復した後は、生山城を拠点に毛利元就による尼子勢力の討伐に協力した。1563年、西伯耆北部の尼子晴久勢力を退けるため、杉原盛重ら備後国人衆とともに河岡城、尾高城に派遣された。西伯耆における毛利元就勢力の中心として活動していた。1564年、尼子晴久勢の江尾城主蜂塚義光を支援したために、宮景盛によって討取られた。

日野山名景幸【やまなかげゆき(15??~1623)】

宮景盛の次男(山名藤幸の養子)。「伊予高尾城の戦い」「豊前香春嶽城の戦い」「文禄の役」などで戦功を挙げた。後に伯耆三郡(日野、会見、汗入)が毛利輝元の直轄領となり安芸国に転封された。1592年、「文禄の役」の最中本領を嫡男山名元重に譲り、小早川隆景、後に小早川秀秋に仕え4,000石を領した。

淀江山名守行【やまなもりゆき(15??~15??)】

日野郡淀江城主。官途は左馬守。1524年、「大永の五月崩れ」で淀江城が落城、肥後国の宇土城に落延びた。

米子山名之玄【やまなゆきはる(15??~15??)】

会見郡米子城主。伯耆山名澄之家臣。1569年、尼子家再興の軍を興した尼子家旧臣の山中幸盛と結び毛利元就勢に離反した。1570年、伯耆国米子城は、吉川元春勢の攻撃を受けれ落城、自刃した。

河口山名久氏【やなまひさうじ(15??~15??)】

河村郡泊城主。官途は刑部大輔。1524年、「大永の五月崩れ」によって落城した。泊城は尼子国久の次男尼子誠久が入城した。1540年、尼子晴久が毛利元就を攻撃すると攻めるため吉田郡山城へ侵攻すると、その隙に南条元清と山名久氏らはそれぞれの居城の羽衣石城、泊城を奪還した。再び、尼子晴久勢が侵攻すると泊城を失った。1562年、毛利元就勢が侵攻再び山名久氏が入った。1579年、南条元清が毛利輝元から離反すると山名久氏は毛利輝元勢に属して城は毛利方の拠点となった。1581年、松井康之率いる海賊衆によって城下もろとも焼き払われ、泊浦の警固船65艘も焼かれた。

米子山名之玄【やまなゆきはる(15??~1570)】

会見郡米子(飯山)城主。1569年、尼子家再興の軍を興した尼子家旧臣の山中幸盛と結び毛利元就から離反した。1570年、米子城は吉川元春勢の攻撃を受け落城、自刃した。

行松正盛【ゆきまつまさもり(15??~1563)】

会見郡尾高城主。山名尚之家臣。官途は兵部少輔。継室は毛利元就の姪。1524年、尼子経久勢の伯耆国侵攻で反守護勢力の山名澄之が守護職についたことにより、城を追われた。1562年、毛利元就と結んだ行松正盛は尾高城を奪回したがまもなく病没した。行松正盛の病没後、遺児の行松九郎二郎、行松十郎二郎らは松行正盛の後家と再婚した杉原盛重によって養育された。

行松源太兵衛【ゆきまつげんたひょうえい(15??~15??)】

行松正盛家臣。会見郡七尾城主。1524年、「大永の五月崩れ」で尾高城が落城すると行松正盛とともに落延びた。行松源太兵衛は伯耆国から退去した後、若狭国の小浜で討死した。

吉田左京亮【よしださきょうのしん(15??~15??)】

八橋郡八橋城主。1524年、尼子経久が「大永の五月崩れ」で八橋城を攻落すと、家臣吉田左京亮が城主に任じた。その後、吉田左京亮は備中国の三村家親と戦いで討死した。

吉田源四郎【よしだげんしろう(15??~15??)】

吉田左京亮の男。父吉田左京亮の討死により吉田家の家督を相続した。1565年、三村家親の侵攻を受け落城した。吉田源四郎は月山富田城へ落延びた。その後、吉田源四郎が幾度か奪還を試みたが果たせなかった。

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【資料Ⅰ】

伯耆国(6郡/182,000石)

河村郡:羽衣石城、泊城、橋津。
久米郡:打吹(倉吉)城、岩倉城。
八橋郡:八橋城。
汗入郡:米子城(飯山城)、河原山城。
会見郡:尾高城、境湊。
日野郡:淀江城、江尾城。

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【資料Ⅱ】

日野衆【ひのしゅう】

伯耆国日野郡一帯を支配していた国人衆。主に日野山名藤幸、日野孫左衛門、進祐定、蜂塚丹波守など。日野郡は砂鉄の産地であり、山陰から山陽にぬける交通の要所であったため、この地方は軍事上重要な地域であった。

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【資料Ⅲ】

伯耆国【ほうきのくに】

調査中。

倉吉【くらよし】

伯耆国東部、天神川と小鴨川の合流点付近の打吹山北麓に位置し、陸上、河川交通の要衝として、また伯耆守護山名澄之の本拠としても栄えた打吹山城の城下街。1524年、尼子経久の攻撃で打吹山城が破壊された。1582年、毛利輝元が同地を治めると再び栄えはじめ、近郷の諸城が滅亡した影響で各地の職人や商人が自然と倉吉に集まり、家屋を造り市町を形成した。

橋津【はしづ】

伯耆国東部、潟湖である東郷池、橋津川の河口部に位置した湊街。中世、東郷池水系周辺や当時は橋津川河口部に合流していた天神川流域などの後背地域と日本海航路を結節する物資集散地であった。東郷池周辺にある国衆、南条宗勝の本拠地羽衣石や伯耆国府、倉吉、関金などの外湊的な役割も担っていた。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国合戦大辞典②」新人物往来社、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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