2015年3月3日火曜日

戦国長門国人名事典

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【あ】

青景隆著【あおかげたかあきら(1514~1556)】

美禰郡青景城。大内義隆家臣。官途は越後守。長門国人衆。大内義隆に仕えて奉行人を務めた。1543年、「第一次月山富田城の戦い」に参陣した。1549年、豊前守護代杉重矩や奉行人相良武任と対立し、相良武任の重用を恨んで陶隆房に讒言した。1555年、陶晴賢が「厳島の戦い」で、自刃した後も、毛利元就と戦った。1557年、毛利元就勢の「防長経略」の際に抵抗して討死した。

青景隆時【あおかげたかとき (15??~1551)】

大内義隆家臣。官途は越前守。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が落延びた際、永福寺で討死した。

青山弾正忠【あおやまだんじょうちゅう(15??~15??)】

豊浦郡青山城主。

上利好世【あがりよしよ(15??~15??)】

後根盛勝家臣。官途は和泉守。1551年、山口から落延びた大内義隆が仙崎まで落延びると、船を提供した。

阿川伊賀守【あがわいがのかみ(15??~15??)】

阿武郡中山城主。

秋山広道【あきやまひろみち(15??~15??)】

吉見正頼家臣。官途は筑後守。

朝倉弘詮【あさくらひろのぶ(15??~1523)】

豊浦郡諏訪山城主。陶弘房の男。大内政弘家臣。官途は安房守。別名右田弘詮。父陶弘房は右田弘篤の家督を相続していたが、兄陶弘正が討死したため、陶家の家督を相続して、次男陶弘詮に右田家の家督を相続させた。1478年、兄陶弘護とともに九州に渡り、少弐高経勢と戦ってこれを滅ぼした。1479年、陶弘護に代わって筑前国守護代となった。1482年、陶弘護が「山口事件」、謀殺されると、陶家に戻り、陶弘護の三男陶興房の陣代として周防国、筑前両国の守護代を務めた。1518年、右田家の家督を嫡男右田隆康に譲った。1523年、筑前国筥﨑において病の為没した。陶弘詮の娘は興房の室となり、陶晴賢を生んだ。

厚元久【あつもとひさ(1555~1585)】

杉重良家臣。厚助五郎の男。官途は兵庫允。厚狭郡厚保地頭職。1585年、自刃した。

後根盛勝【あとねもりかつ(15??~15??)】

大内義隆家臣。後根盛勝は大津郡を拠点にした海上勢力。1551年、大内義隆が討死すると吉見正頼に属し、阿武郡川島に所領を得た。

後根盛道【あとねもりみち(15??~15??)】

大内義隆臣。官途は壱岐守。大津郡瀬戸崎の海賊衆。1551年、「大寧寺の変」で、大内義隆は瀬戸崎まで落延びてきた際、若狭国に取引に出向いており、大内義隆を助ける事が出来なかった。1555年、陶晴賢が毛利元就と戦って討死すると吉見正頼に属した。

安部家貞【あべいえさだ(15??~15??)】

吉見頼興家臣。1532年、萩常念寺を建立した。

安部元貞【あべもとさだ(15??~15??)】

安部家貞の男。吉見正頼の信任厚く、萩指月要害の守護を命じられた。1563年、阿武郡川島庄七石九斗三升足を加増された。

石川種吉【いしかわたねよし(15??~15??)】

大内義隆家臣。大津郡の国人衆のひとり。1556年、毛利元就に属して大津郡代を勤めた。

入江著親【いりえあきちか(15??~1566)】

大内義隆家臣。官途は加賀守。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が自刃すると、毛利元就に降り、豊浦郡且山城を領した。1566年、吉川元春に属して山陰地方各地を転戦した。三村家親、香川光景とともに伯耆日野郡の一揆を鎮圧した。その後、福山肥後守と戦いこれを撃破した。

岩成持之【いわなりもちゆき(15??~15??)】

阿武郡茶臼山城主。大内義隆家臣。官途は豊後守。

上野善三衛門【うえのぜんさえもん(15??~15??)】

大内義隆家臣。平野城主。

臼井左京亮【うすいさきょうのすけ(15??~15??)】

阿武郡鰐坊山城主。吉見正頼家臣。1573年、益田藤兼の攻撃により落城した。その後、鰐坊山城には益田藤兼の家臣大谷与三左衛門が守備した。

岡部隆景【おかべたかかげ(15??~1551)】

美祢郡岡部城主。通称右衛門大夫。1551年、陶隆房が謀反を起こして大内義隆が攻撃すると、これを守り大寧寺まで護衛した。大内義隆とともに自刃した。

小野矩資【おののりすけ(15??~1600)】

大内義隆家臣。官途は外記丞。1555年、陶晴賢が討死すると福原貞俊の取次により毛利元就に降り、厚狭郡の所領を安堵された。後に豊前国刈田松山城に在番し、大友義鎮勢の猛攻を凌いだ。中国地方各地で転戦して戦功を挙げた。1600年、「伏見城の戦い」で討死した。

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【か】

賀田盛実【かたもりざね(15??~15??)】

長門国一宮大宮司。1557年、問田亀鶴丸(大内義隆遺児)を旗頭にした大内家の旧臣が防州障子岳で挙兵した際、勝間田就盛とともにこれを鎮圧した。

勝間田盛治【かつまたもりはる(15??~15??)】

内藤隆時家臣。豊浦郡櫛崎城主。勝間田矩益の次男。長門国小守護代。官途は備前守。別名勝間田春実。1511年、「丹波船岡山の戦い」で戦功を挙げた。内藤隆世の陣代として「石見吉見正頼討伐」に参陣した。

勝間田盛長【かつまたもりなが(15??~15??)】

内藤隆春家臣。官途は土佐守。

勝間田就盛【かつまたなりもり(15??~1619)】

勝間田盛長の男。官途は右馬頭。1557年、大内遺臣が周防国障子岳で問田亀鶴丸(大内義隆遺児)を旗頭にして挙兵した際、勝間田盛道とともに鎮圧に向かった。

勝間田盛道【かつまたもりみち(15??~1593)】

内藤隆時家臣。1557年、大内遺臣が周防国障子岳で問田亀鶴丸(大内義隆遺児)を旗頭にして挙兵した際、勝間田就盛とともに鎮圧に向かった。後に大内輝弘が山口に侵攻した際、周防国打石でこれと戦って戦功を挙げるなど、主に防長の治安維持に貢献した。

黒井忠朝【くろいだだより(15??~15??)】

大内義隆家臣。豊浦郡茶臼山城主。通称太郎三郎。

黒井藤朝【くろいふじのり(15??~15??)】

黒井忠朝の男。通称左右衛門尉。

小池好安【こうけよしやす(15??~15??)】

美祢郡殿峡山城主。官途は佐渡守。

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【さ】

佐々木筑後守【ささきちくごのかみ(15??~15??)】

大津郡堀川城主。

田代光友【しろたみつとも(15??~15??)】

美祢郡田代山城主。官途は出雲守。

神西信通【じんざいのぶみち(15??~1584)】

大内義長家臣。通称惣左衛門。1556年、大内義長に属して長門国豊浦郡、厚狭郡、阿武郡で計75石を領した。

神代兼固【じんだい(15??~15??)】

大内義隆家臣。官途は蔵人。美禰郡の豪族衆。1551年、陶晴賢に属した。

神代元里【じんだいもとさと(15??~15??)】

神代兼固の養子。

末武朝範【すえたけよりのり(15??~15??)】

美祢郡上領山城。官途は越前守。

末武忠氏【すえたけただうじ(15??~15??)】

大内義隆家臣。末武直氏の男。官途は上総介。阿武郡の豪族衆。大内義長が討死すると吉見正頼に仕え大井郷などを領した、吉見広長の出奔後は毛利秀就に仕えた。

須子若狭守【すこわかさのかみ(15??~15??)】

阿武郡櫛崎城主。吉見正頼家臣。

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【た】

高森内膳之助【たかのもないぜんおすけ(15??~1527)】

大内義隆家臣。青山城主。1527年、且山城主内藤興盛と領地争うを起こした。高森内膳之助は津原膳勝、津田興輝らの援将12,000余りとともに且山城を包囲したが、大内義隆勢が内藤興盛を支援したため、形勢が逆転し青山城は落城、討死した。

刀禰河内守【とうねかわちのかみ(15??~15??)】

大内義興家臣。美祢郡小野城主。官途は河内守。貨幣鋳造に携わった。

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【な】

内藤興盛【ないとうおきもり(1495~1554)】

厚狭郡荒滝山城主。内藤弘春の男。官途は弾正忠。通称彦太郎。室は内藤弘矩の娘。娘は毛利隆元に嫁いだ。伯父内藤弘矩は大内家義興の重臣として権勢をふるったが、讒言により謀反の疑いがかけられ、嫡男内藤弘和とともに大内義興に誅殺された。冤罪と分かり、大内義興は内藤弘矩の弟内藤興盛の父内藤弘春が内藤家の家督を相続した。内藤興盛は内藤弘矩の娘を娶り、内藤家の家督を相続した。大内義興に仕え、家老衆として長門守護代を務めた。大内義興の上洛にも参陣した。1528年、大内義興が病没すると大内義隆に仕えた。大内義隆の代には家中随一の大身となり評定衆を務めた。1540年、「吉田郡山城の戦い」には陶晴賢らとともに援軍として派遣された。1542年、「月山富田城の戦い」にも参陣し、毛利元就とともに菅谷口を攻撃したが、攻略することができなかった。敗北の後、軍事、政治に関心を失った大内義隆との関係は悪化した。文治派と武断派の対立が深まるなか、内藤興盛は大内義隆に嫡男大内義尊に家督を譲り隠居するよう勧めるも拒否された。1551年、「大寧寺の変」の際は、消極的に陶晴賢を支持し、大内義隆からの和議の仲介要請を拒否して隠居した。

内藤隆時【ないとうたかとき(15??~15??)】

内藤興盛の男。1551年、父内藤興盛の死後家督を継ぎ長門守護代となった。

内藤隆世【ないとうたかよ(15??~1557)】

内藤隆時の男。官途は弾正忠。通称彦太郎。大内義隆に仕えて侍大将を務めた。1551年、陶晴賢が謀叛を起こすと、これと協力し大内義長を擁立を支援した。1555年、「厳島の戦い」で陶晴賢が討死すると、大内義長を補佐した。毛利元就が周防国、長門国の侵攻すると、仁保隆慰、飯田興房らの和議勧告を退け、大内義長を守って長門国且山城に籠城した。大内義長の助命を条件に開城し自刃したが、大内義長も毛利元就によって自刃させらた。

内藤隆春【ないとうたかはる(1528~1600)】

内藤興盛の九男。1551年、陶晴賢の謀叛では父内藤興盛ともに静観した。1555年、「厳島の戦い」後、毛利元就に属して甥内藤隆世から内藤家の家督を簒奪した。1557年、毛利元就勢の「防長経略」の際、それに属して中国地方を転戦した。1557年、大内義隆の遺児亀寿丸(問田亀鶴)を擁した大内義長による蜂起が起こると鎮定に赴いた。「妙見崎の戦い」では草場越中守らを討り、亀寿丸を処刑するなどして殲滅した。2,600石を領した。毛利元就の病没後、讒言により毛利輝元からの信頼を失った。晩年は大阪屋敷にあって、上方の情報収集に当たった。

内藤元盛【ないとうもともり(15??~1615)】

宍戸元秀の次男(内藤隆春の養子)。官途は修理大夫。別名佐野道可。室は綾木の大方。長門国内10,000石を領した。1614年、「大阪の冬の陣」の際、毛利輝元の命を受け佐野道可と称して金500枚とともに大坂城に入城した。1615年、「大坂夏の陣」で、羽柴秀頼勢が滅亡すると、京都で捕縛された。内藤元盛は、大目付の柳生宗矩に対し、毛利輝元との関係を否定して、山城国の鷲巣寺で自刃した。後に、内藤元盛の二人の息子内藤元珍、粟屋元豊は、毛利輝元によって自刃させられた。綾木の大方は毛利輝元の振る舞いを非難するが、内藤元珍の嫡男内藤元宣を幽閉して家名存続の約束を反故とした。

内藤隆安【ないとうたかやす(15??~15??)】

大内義興家臣。官途は帯刀。1506年、玖珂郡山代五ヶ郷の検地の竿頭を務めた。

中山備前守【なかやまびぜんのかみ(15??~15??)】

厚狭郡藤ヶ瀬城主。

西村壱岐守【にしむらおきのかみ(15??~15??)】

大津郡小田城主。

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【は】

箱田弥秀【はこだひさひで(15??~15??)】

大内義隆家臣。厚狭郡内郡城主。通称馬允。

波多野滋信【はたのしげのぶ(15??~1554)】

吉見隆頼家臣。阿武郡勝山城主。官途は内蔵介。室は吉見隆頼の娘、1554年、「津和野城の戦い」では、陶晴賢勢の攻撃を受けた。陶晴賢勢の先鋒隊をを弓でなぎ倒し吉見範弘とともに弘中隆兼勢を敗走に追い込んだ。家臣田中次郎兵衛の内応によって形勢が逆転して、城へ火を放って自刃した。

埴生若狭守【はにわわかさのかみ(15??~15??)】

厚狭郡埴生山城主。

美和郷幸【びわさとゆき(15??~1577)】

大内義隆家臣。美禰郡の豪族衆。1557年、毛利元就に属した。

藤田秀政【ふじたひでまさ(15??~15??)】

大内義隆家臣。美祢郡藤ノ丸山城主。官途は丹後守。

保木主計【ほきしゅけい(15??~15??)】

豊浦郡保木城主。

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【ま】

町野隆風【まちのたかかぜ(1528~15??)】

陶晴賢家臣。阿武郡平山星城主。官途は掃部介。室は益田尹兼の娘。1553年、陶晴賢の命で平山星城に謀略を仕掛け和議の使者を送り、その隙に搦め手攻撃して攻略した。1556年、吉見正頼の家臣上領頼兼の攻撃を受け降伏、弟鶴法師を人質として吉見正頼家臣に仕えた。

松倉伊賀守【まつくらいがのかみ(15??~15??)】

阿武郡城腰山城主。吉見正頼家臣。

三井元信【みついもとのぶ(15??~15??)】

豊浦郡三井館主。官途は但馬守。通称善兵衛。1600年、「関ヶ原の役」の敗戦で、毛利輝元が周防国、長門国の二ヶ国に減封されると、財政の安定に大いに貢献した。1607年、周防国、長門国の二2ヶ国の検地を行った。

美和郷幸【みわさとゆき(15??~1577)】

大内義隆家臣。1557年、毛利元就勢の「防長経略」の際に降伏した。長門国美禰郡の知行を安堵された。

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【や】

山田言輔【やまだことすけ(15??~15??)】

大内義隆家臣。大津郡の国人衆。官途は隠岐守。神辺城主山名理興との戦いで戦功を挙げた。1557年、毛利元就勢が山口を攻略すると、それに降り、案内役を務め、本領を安堵された。

湯浅長久【ゆあさながひさ(15??~15??)】

大津郡稲石城主。官途は対馬守。

龍下時秀【りゅうげんときひで(15??~15??)】

美祢郡龍化山城主。官途右馬之允。

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【資料Ⅰ】

長門国(5郡/186,000石)

厚狭郡:荒滝山城。
豊浦郡:且山城、櫛崎城、赤間関。
美祢郡:青景城。
大津郡:深川城、大寧寺。
阿武郡:萩城、須佐湊。
見島郡:見島砦。

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【資料Ⅱ】

大内家三家老【おおうちけさんかろう】

陶晴賢、内藤隆春、杉隆泰。

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【資料Ⅲ】

長門国【ながとこく】

調査中。

須佐湊【すさみなと】

阿武郡須佐湾の天然の良湊。益田藤兼は海賊衆を組織して物資の輸送を行い見島や博多近辺で交易を行った。1557年、周防国が毛利元就の手に落ちると、須佐湊は直轄領となった1564年、山口奉行市川経好は、温科吉左衛門尉の持船三艘のうち一艘について、駄別、船前、帆数などの役を免除することを赤間関、肥中関、通関、須佐関、温泉津関の奉行に告げた。須佐を除く四関は毛利元就の直轄領であった。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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