2015年7月1日水曜日

戦国筑後国人名事典

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【あ】

赤司光正【あかしみつまさ(15??~15??)】

御井郡赤司城主。官途は但馬守。1545年、龍造寺家兼が筑後国に落延びると、親交を結んだ。龍造寺家兼の病没後、龍造寺家の家督争いが起こると、龍造寺隆信勢に属して戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤司資清【あかしすけきよ(15??~1569)】

御井郡赤司城主。大永年間、大友義鑑が筑後国に侵攻すると降伏した。赤司城代には吉岡鑑貞が任じられた。その後、城主に復帰した。1569年、「多々良浜の戦い」で、大友義鎮勢に属して討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

飯田永信【いいだながのぶ(15??~15??)】

御井郡飯田館主。通称六郎。

一条和泉守【いちじょういずみのかみ(15??~15??)】

蒲池鎮連家臣。知徳城主。1584年、龍造寺隆信の家臣横岳頼次が山下城を攻撃した際、知徳城も攻撃を受け討死した。

稲員良維【いなかずようしん(15??~15??)】

御井郡稲員館主。高良山社家。官途は主計頭。1510年、大友義鑑に仕えた。

稲員安忠【いなかずやすただ(15??~15??)】

稲員良維の男。1567年、龍造寺隆信勢と戦い 戦功を挙げた。

稲員安茂【いなかずやすしげ(15??~15??)】

稲員安忠の男。1581年、龍造寺隆信勢の攻撃を受けたが撃退した。1582年、「辺春城の戦い」で討死した。

稲員安守【いなかずやすもり(15??~15??)】

稲員安茂の男。1586年、島津義久勢の攻撃を受け居館は落城、豊後国に落延びた。

稲員安直【いなかずやすなお(15??~15??)】

稲員安守の男。

今村大隅守【いまむらおおすみのかみ(15??~15??)】

蒲池鑑広家臣。宮園城主。1579年、蒲池鑑広に龍造寺隆信勢の攻撃に備えて築城、家臣の今村大隅守を城主に任じた。

牛島金助【うしじまきんすけ(15??~1579)】

河崎鎮堯家臣。1579年、伊駒野城主河崎鎮堯が龍造寺隆信勢の攻撃を受け落城した際、城より落延びる河崎鎮堯の殿を務め、牛島金助、川崎但馬守、忠見紀伊守、藤木土佐守、樋口九郎左衛門らとともに討死した。

牛嶋藤左衛門【うしじまとうざえもん(15??~15??)】

稲員安守家臣。

江島遠江守【えしま とおとうみのかみ(15??~15??)】

三瀦郡江島城主。

応誉【おうよ(15??~15??)】

瀬高の来迎寺の住職。蒲池鎮貞の次男。浄土宗の僧。別名円蓮社応誉上人雲冏和尚。柳川の良清寺の開祖。1578年、「耳川の戦い」では、大友義鎮勢として参陣した祖父蒲池鑑盛と父蒲池統安の討死や柳川城主で伯父蒲池鎮漣が龍造寺隆信に謀殺され蒲池家が滅ぶと、応誉は菩提を弔うため僧籍に入り、後に瀬高上荘の来迎寺の第四世住職となった。その後、柳川城主立花宗茂が室の誾千代の菩提寺を建てる再、応誉を招聘して良清寺を創建した。以後、応誉の子孫は良清寺を預かり代々住職を出すとともに、蒲池家の名跡を再興し、立花家の家老格の家となった。

大石越前守【おおいしえちぜんおかみ(15??~15??)】

御井郡大石館主。

大木鎮堯【おおきしげたか(15??~15??)】

蒲池鑑盛家臣。室は田尻鑑種の妹。

大木統光【おおきむねみつ(15??~15??)】

大木鎮堯の男。1581年、龍造寺隆信は兵20,000余りで柳川城を包囲するが、柳川城を攻略できず、蒲池鎮漣は田尻鑑種の仲介で龍造寺隆信と和議を結んだ。龍造寺隆信が蒲池鎮漣を佐嘉城に招待した際、謀殺の危険を感じ、佐嘉城行きを思いとどまるように蒲池鎮漣を説得するが、聞き入れられず蒲池鎮久とともに佐嘉城に向いに謀殺された。大木統光は鍋島直茂のもとに行き、追い切腹を図る制止しされ浪人となった。

大木統清【おおきむねきよ(15??~15??)】

大木統光の男。

大隈左近将監【おおすみさこんのしょうげん(15??~15??)】

御井郡大隈城主。

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【か】

亀山一竿【かめやまいっ かん(15??~15??)】

安武鎮則家臣。1560年、龍造寺隆信に使者に立った。

蒲池鑑久【かまちあきひさ(1494~1543)】

山門郡柳川城主。蒲池治久の男。官途は武蔵守。筑後国十五城の筆頭で柳川城120,000石を領し山門郡、三潴郡、下妻郡の三郡を勢力下に置いた。大友義鑑に属して、筑後国十五城の旗頭として城持衆を統率した。弟蒲池親広は、山下城を本拠地として分家し、柳川の蒲池本流を下蒲池と呼ぶのに対して、山下の蒲池分流は上蒲池と称された。父蒲池治久の時、柳川城を築城し、蒲池城から本拠を移した。天文年間、大友義鑑のもとで行われた、『八朔太刀馬の儀式』に蒲池鑑久が列席しなかったため、大友義鑑から討伐を受けた。

蒲池鑑盛【かまちあきも(1520~1578)】

蒲池鑑久の男。官途は近江守。別名「宗雪」。室は田尻親種の娘(乙鶴姫)。1550年、「二階崩れの変」後、菊池義武が大友義鎮が謀反を起こすと、筑後国人衆の西牟田親氏、三池親員、溝口鑑資らがこれに同調した。蒲池鑑盛と蒲池鑑広は、田尻鑑種、星野鑑乗らとともに大友義鎮勢に属して西牟田親氏、三池親員、溝口鑑資らと戦った。龍造寺隆信が龍造寺鑑兼を擁する土橋栄益らに佐嘉城を追われると、それを匿い三潴郡一木村300石を与えた。龍造寺隆信が佐賀城を奪還する際には、兵300余りの援軍を派遣した。1578年、「耳川の戦い」では、大友義鎮勢に属して嫡男蒲池鎮漣や三男蒲池統安とともに3,000余りをで参陣した。蒲池鎮漣は病を理由に兵2,000余りとともに柳川城へ帰城した。蒲池鑑盛は、蒲池統安とともに兵1,000余りで島津義久勢に突入、蒲池統安とともに壮烈な最期をとげた。

蒲池鎮漣【かまちしげなみ(1547~1581)】

蒲池鑑盛の次男。別名蒲池鎮並。室は龍造寺隆信の娘(玉鶴姫)。兄蒲池鎮久は蒲池鑑盛の庶男のため、蒲池家の家督は相続せずに家老職となり、蒲池鎮漣が蒲池家の家督を相続した。1578年、「耳川の戦い」には、父蒲池鑑盛や弟蒲池統安らとともに兵3,000余りを率いて参陣したが、病を理由に兵2,000余りを率いて柳川城へ帰還した。父蒲池鑑盛と弟蒲池統安は討死した。龍造寺隆信と結び大友義鎮に対抗した。龍造寺隆信の筑後国侵攻には協力したが、やがて龍造寺隆信と対立するようになった。1581年、龍造寺隆信は兵20,000余りで柳川城を包囲するが、柳川城を攻略できず、蒲池鎮漣は田尻鑑種の仲介で龍造寺隆信と和議を結んだ。龍造寺隆信は、蒲池鎮漣を佐嘉城に招待した。蒲池鎮漣は蒲池鎮久とともに佐嘉城に向ったが、龍造寺隆信に謀殺された。龍造寺隆信は、鍋島直茂と田尻鑑種に命じ城主不在の柳川城を攻撃して蒲池家枝連衆をことごとく謀殺した。龍造寺隆信の家臣百武賢兼は参陣を拒否した。柳川城を攻略した龍造寺隆信であったが、筑後国人衆の反発を招き筑後国を勢力下に置くことはできなかった。玉鶴姫は父龍造寺隆信が夫蒲池鎮漣を謀殺したことに抗議して塩塚で自刃した。

蒲池鑑続【かまちあきつぐ(15??~15??)】

蒲池鎮漣の男。別名首藤鑑続。父蒲池鎮漣は、蒲池久鎮、蒲池経信、蒲池鑑続、徳姫らのこどもをもうけたが、嫡男蒲池久鎮は、「柳川の戦い」で謀殺されたため、蒲池鑑続が蒲池家の家督を相続した。

蒲池鎮久【かまちしげひさ(15??~1581)】

蒲池鑑盛の男。蒲池家の家督を継がず、家老職を務め蒲池鎮漣を補佐した。1581年、蒲池鎮漣の佐嘉城行きにも同行し、龍造寺隆信勢と戦い討死した。

蒲池貞久【かまちさだひさ(15??~15??)】

蒲池鎮久の男。1578年、蒲池鎮漣が龍造寺隆信に謀殺され、続く「塩塚城の戦い」で多くの枝連衆が討死したが、蒲池貞久は、龍造寺家晴に仕え蒲池家の家名を残した。

蒲池統康【かまちむねやす(15??~1581)】

蒲池鑑盛の四男。1581年、龍造寺隆信が兄蒲池鎮漣を肥前国で謀殺し、柳川城に侵攻した。「塩塚城の戦い」は、龍造寺隆信の意向を受けた田尻鑑種勢2,700余りの攻撃を受けた。蒲池統康は豊饒鎮連ら500余りで籠城するが、衆寡敵せず落城した。

蒲池統安【かまちむねやす(15??~1578)】

蒲池鑑盛の三男。官途は駿河守。別名蒲池鎮安。1578年、「耳川の戦い」に、父蒲池鑑盛、兄蒲池鎮漣とともに兵3,000余りを率いて大友義鎮勢として参陣した。蒲池鎮漣は病を理由に2,000余りを引き連れて柳川に帰城した。戦いは、島津義久勢の「釣り野伏戦法」により大友義鎮勢の大敗北となるが、蒲池鑑盛とともに、島津義久勢の本営への突入を試み、蒲池鑑盛とともに討死した。

上蒲池親広【かまちちかひろ(15??~15??)】

上妻郡山下城主。蒲池治久の次男。官途は和泉守。筑後国十五城のひとつ山下城86,000石を領した。筑後国で勢力を拡大する蒲池鑑久の自立を懸念した大友義鑑が蒲池治久の次男蒲池親広に別家を立てさせ独立させた。

上蒲池鑑広【かまちあきひろ(15??~1580)】

蒲池親広の男。官途は志摩守。室は星野重実の娘。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、龍造寺隆信勢が筑後国に侵攻した。柳川城主蒲池鎮漣、鷹尾城主田尻鑑種、発心城主草野鎮永、猫尾城主黒木家永らは龍造寺隆信勢に属したが、蒲池鑑広は大友義鎮勢に属した。蒲池鑑広は、家臣の矢加部国広ととも籠城態勢を固め、上妻郡の各地に兵を配して山下城で龍造寺隆信勢を迎え撃った。龍造寺隆信勢は山下城を包囲し、激しく攻め立てるが、天然の要害でもある山下城に籠もり頑強に抵抗した。蒲池鑑広は、戸次鑑連に援軍を要請したが、「耳川の戦い」の痛手が大きく、支援を受けることができなかった。蒲池鑑広は秋月種実の仲介で龍造寺隆信と和議を結んだ。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山下蒲池鎮運【かまちあきうん(15??~1592)】

蒲池鑑広の男。官途は兵庫頭。1586年、「九州討伐」では、島津義久に属して所領を没収された。その後、高橋統増次に属して3,000石を領した。1592年、「文禄の役」に参陣するも釜山で病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山下蒲池吉広【かまちよしひろ(15??~15??)】

蒲池鎮運の男。1600年、「関ヶ原の役」では、高橋統増次勢に属して松平元康勢と戦うが、石田三成勢の敗北により所領を失った。その後黒田長政に仕えて500石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

蒲船津蒲池益種【かまちますたね(15??~1581)】

蒲池鎮漣家臣。蒲船津城主。別名黒木益種。1581年、蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉城に赴いた所を謀殺された。蒲船津城は、龍造寺隆信勢の攻撃を受け落城した。

蒲池統春【かまちむねはる(15??~1581)】

佐留垣城主。1581年、蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺されと、龍造寺隆信勢の攻撃を受け佐留垣城も落城した。

河崎鑑実【かわさきいえざね(15??~15??)】

上妻郡犬尾城主。筑後国十五城のひとつ犬尾城10,000石を領した。1519年、大友義鑑に謀反を起こすが鎮圧された。1525年、再び謀反を起こすが鎮圧された。

河崎鎮則【かわさきいえのり(15??~15??)】

河崎鑑実の男。別名河崎鎮堯。1579年、龍造寺隆信勢の攻撃を受け降伏した。その後、島津義久勢が筑後国に侵攻すると、それに属した。1587年、「九州征伐」では、島津義久勢の属して羽柴秀吉勢と戦ったが敗れて没落した。

河崎但馬守【かわさきたじまのかみ(15??~1579)】

河崎鎮堯家臣。1579年、伊駒野城主河崎鎮堯が龍造寺隆信勢の攻撃を受け落城した際、城より落ち延びる河崎鎮堯の殿を務め、牛島金助、忠見紀伊守、藤木土佐守、樋口九郎左衛門、牛島金助らとともに討死した。

草野鑑員【くさのあきかず(15??~15??)】

山本郡発心城主。筑後国十五城のひとつ9,000石を領した。

草野鎮永【くさのいえきよ(15??~1587)】

草野鑑員の男。官途は左衛門督。大友義鎮の支援を受け、龍造寺隆信勢と戦った。1578年、「耳川の戦い」後、大友義鎮勢の勢力を衰えると、龍造寺隆信、秋月種実らと結び大友義鎮勢と対抗した。1585年、大友義鎮勢の高良山衆徒らに攻撃された。1587年、「九州征伐」では、羽柴秀吉勢の攻撃を受け降伏した。羽柴秀吉勢が引き上げると挙兵したが、小早川秀包勢の攻撃を受け討死した。

草野永広【くさのながひろ(15??~15??)】

草野鎮永の男。1587年、父草野鎮永が謀殺されると、鍋島直茂に仕えた。

黒木鑑隆【くろきしげたか(15??~15??)】

上妻郡猫尾城主。筑後国十五城の猫尾城20,000石を領した。

黒木実連【くろきさねつら(15??~15??)】

黒木鑑隆の弟。

黒木家永【くろきいえなが(1524~1584)】

黒木鑑隆の男。官途は兵庫頭。別名黒木実久。1564年、筑後国に侵攻した大友義鎮勢は、麦生城主麦生重種、岡城主草野鑑安を攻撃した。龍造寺隆信からの援軍を得た草野鑑安は頑強に抵抗したが間もなく降伏した。黒木家永は、知謀にすぐれた武将であったが大友義鎮勢に対しては多勢に無勢あり兵糧が尽きたため、叔父黒木実連を使者に立てて和議を結んだ。1578年、「耳川の戦い」では、蒲池鑑盛、五条鎮定、河崎鎮堯、田尻親種らとともに参陣したが、大友義鎮勢の敗退により多大な損害を被った。龍造寺隆信に内応した。1584年、「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信が討死すると、大友義統は、筑後領の奪回を図って、弟大友親盛を大将に、五条鎮定を先導役に頼み生葉郡を経て、黒木家永が籠城する猫尾城を包囲した。龍造寺隆信は、倉町近江守、久布白又右衛門尉らが援軍として派遣した。龍造寺隆信に内応して猫尾城に籠城したが大友義鎮勢の攻撃を受け、十三歳の娘に介錯を命じ、自刃した。娘も敵ひとりを切り伏せた後、黒木家永の頸と刀を敵に投げつけて自害した。

黒木匡実【くろきまさざね(15??~15??)】

黒木家永の男。通称四郎。別名黒木延実。1584年、「沖田畷の戦い」後、父黒木家永が龍造寺隆信と結ぶと人質として佐嘉城に送られた。大友義鎮勢の攻撃を受け黒木家永が討死し、猫尾城が落城すると、龍造寺隆信の支援を受け、城代椿原式部を討取って猫尾城を奪還した。1587年、「九州征伐」後、小早川隆景に仕えた。

栗原伊賀守【くりはらいがのかみ(15??~15??)】

五条鑑量家臣。上妻郡栗原城主。

五条鑑量【ごじょうしげ(15??~15??)】

上妻郡高屋城主。筑後国十五城のひとつ高屋城14,000石を領した。大友義鎮勢に属した。

五条鎮定【ごじょうしげさだ(15??~15??)】

五条鑑量の男。1578年、「耳川の戦い」では、多大な被害者を家中から出したが
、筑後国の諸将が龍造寺隆信、島津義久勢に内応するなか、問註所統景とともに大友義鎮勢に属して戦い続けた。1584年、大友義鎮の意向で龍造寺隆信に内応した猫尾城主黒木家永を攻撃して戦功を挙げた。1587年、筑紫広門勢に属した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

五条統康【ごじょうむねやす(15??~15??)】

五条鎮定の男。

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【さ】

塩塚鎮貞【しおづかいわみのかみ(15??~15??)】

蒲池統安の次男。塩塚城主。官途は石見守。別名蒲池鎮貞。1581年、龍造寺隆信は蒲池統安が守る柳川城を攻め落した際、柳川城から蒲池鎮並の内室玉鶴姫をはじめ、継嗣、侍女ら108人は、塩塚城に落延びた。塩塚城に落延びた蒲池家枝連衆も田尻鑑種勢の攻撃を受け討死した。

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【た】

高橋次郎【たかはしじろう(15??~15??)】

西牟田親毎家臣。西古賀館主。

孝道【たかみち(15??~15??)】

良寛家臣。大宮司職を務めた。1587年、「九州征伐」では、保真、孝道、良寛らは、秋月種実勢に属して、羽柴秀吉勢と戦い社領没収された。

田川越前守【たがわえちぜんのかみ(15??~15??)】

田川城主。田川城3,700石を領した。

田川長門守【たがわながとのかみ(15??~15??)】

田川越前守の男。官途は長門守。室は西牟田親毎の娘。1573年、龍造寺隆信が西牟田城を攻撃した際、その救援に向かったが龍造寺隆信勢の伏兵を受け笹原で討死した。

田尻治種【たじりはるたね(15??~15??)】

山門郡鷹尾城主。官途は遠江守。通称又三郎。筑後国十五城のひとつ鷹尾城16,000石を領した。筑後国人衆は筑後国守護職大友親治勢に属した。永正年間、黒木鑑隆、蒲池治久らが大友親治に謀叛を企てた際田尻治種はその誘いに応じず大友親治に忠節を通した。

田尻親種【たじりちかたね(15??~1570)】

田尻治種の男。官途は丹後守。1550年、「二階崩れの変」の後、菊池義武が大友義鎮に反旗を翻すと、筑後国人衆の多くはこれを支援した。田尻親種は大友義鎮に属して、三池親員、溝口鑑資、西牟田鎮豊らと戦った。田尻鑑乗らとともに反大友義鎮の筑後国人衆を討伐した。1559年、筑紫惟門が博多を襲撃し大友義鎮に謀反を起こすと、大友義鎮勢は反撃を行ったが「侍島の戦い」で大敗を喫し、星野鑑泰、問註所鑑晴らが討死した。田尻親種も参陣したが、弟田尻種廉、田尻種増をはじめ多くの兵を失った。その後、筑紫惟門は、田尻親種の仲介で大友義鎮に降伏を申し入れた。1570年、龍造寺隆信との戦いで田尻親種は重傷を負い、その傷がもとで病没した。

田尻鑑乗【たじりあきのり(15??~15??)】

田尻治種の次男。1550年、「二階崩れの変」の後、菊池義武が大友義鎮に反旗を翻すと、筑後国人衆の多くはこれを支援した。田尻鑑乗は兄田尻治種とともに大友義鎮に属して、三池親員、溝口鑑資、西牟田鎮豊らと戦った。

田尻鑑種【たじりあきたね(15??~15??)】

田尻親種の男。飯江城主。官途は伯耆守。1579年、龍造寺隆信に属した。三池鎮実攻めや肥後筒岳城攻めなどで戦功を挙げた。1582年、島津義久と内通しているとして龍造寺隆信から嫌疑をを受けた。1583年、鍋島直茂の仲介により、田尻鑑種の家臣団が龍造寺政家に起請文を出し、
佐嘉郡に転封することを条件にして許された。

田尻鎮直【たじりひろなお(15??~15??)】

田尻親種家臣。津留城代。官途は石見守。1560年、津留城は、鷹尾四支城のひとつとして江浦城、浜田城、堀切城とともに鷹尾城主田尻親種に築城され、田尻鎮直、津留因幡守の二将が守備を行った。1581年、柳河城主蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉城に赴いた所を謀殺されると、田尻親種は龍造寺隆信勢に属して蒲池鎮漣の枝連衆を殲滅した。1582年、田尻親種は龍造寺隆信に反旗を翻し、本城の鷹尾城を中心に江浦城、浜田城、津留城、堀切城の各支城を固めた。田尻鎮直は津留城を守備して龍造寺隆信勢を撃退した。

田尻大蔵【たじりおおくら(15??~15??)】

田尻親種家臣。浜田城主。1581年、柳河城主蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉城に赴いた所を謀殺されると、田尻親種は龍造寺隆信勢に属して蒲池鎮漣の枝連衆を殲滅した。1582年、田尻親種は龍造寺隆信に反旗を翻し、本城の鷹尾城を中心に江浦城、浜田城、津留城、堀切城の各支城を固めた。

忠見紀伊守【ただみきいのかみ(15??~1579)】

河崎鎮尭家臣。1579年、伊駒野城主河崎鎮堯が龍造寺隆信勢の攻撃を受け落城した際、城より落ち延びる河崎鎮堯の殿を務め、牛島金助、川崎但馬守、樋口九郎左衛門、牛島金助らとともに討死した。

田中大膳【たなかだいぜん(15??~15??)】

西牟田親毎家臣。福間館主。

谷川新三郎【たにがわしんざぶろう(15??~15??)】

蒲池鑑広家臣。谷川城主。1584年、大友義鎮勢の攻撃を受け猫尾城とともに落城した。

丹波鎮興【たんばさねおき(15??~15??)】

御井郡高良山城主。筑後国十五城のひとつ高良山城20,000石を領した。高良山の寺社を中心に末寺社や社家人を含め、宗教的、政治的な勢力となった。

丹波良寛【たんばりょうかん(15??~15??)】

丹波鎮興の男。別名高良山良寛。1559年、大友義鎮は、高良山を本陣として筑後国内を平定した。1565年、原田親種勢が高良山に籠城、大友義鎮これを攻撃した。1568年、菊池義武が大友義鎮と戦いでは、大友義鎮勢に属した。1569年、龍造寺隆信と大友義鎮が対立すると、大友義鎮勢に属したが大友義鎮勢は撤退した。1573年、丹波良寛は弟麟圭久留米城主に任じたが、麟圭は兄良寛が座主であることに不満を抱き、良寛との攻防を度々繰り返した。1578年、鱗圭が龍造寺隆信に内応、龍造寺隆信勢の攻撃を受け高良山城が落城した。1587年、「九州征伐」では、島津義久勢に属して、羽柴秀吉勢と戦った。羽柴秀吉は座主良寛に替えて弟麟圭を座主とし、府中、高良内、宗崎、阿志岐の四ヶ村内に所領を与えていた。

丹波麟圭【たんばりんけい(15??~1591)】

久留米城主。1573年、兄丹波良寛により久留米城主に任じられたが、兄良寛が座主であることに不満を抱き、良寛との攻防を度々繰り返した。1578年、鱗圭は龍造寺隆信勢に属して、丹波良寛と戦いとなり、龍造寺隆信勢の攻撃を受け高良山城が落城した。1587年、「九州征伐」後、羽柴秀吉は座主良寛に替えて麟圭を座主とし、府中、高良内、宗崎、阿志岐の四ヶ村内に所領を与えていた。1591年、久留米城主小早川秀包は、領内の高良山の勢力を削ぐため、麟圭の内室の妹を家臣林次郎兵衛に娶らせて高良山側を油断させ、麟圭とその継嗣了巴を久留米城に招き、謀殺した。

丹波了巴【たんばりょうは(15??~15??)】

麟圭の男。1591年、父麟圭とともに小早川秀包に謀殺された。

丹波尊能【たんばそんのう(15??~15??)】

麟圭の次男。別名秀虎丸。1596年、小早川秀包は羽柴秀吉の意向を受け、麟圭の次男尊能を座主とし神領の一部として1,000石の寺社領を与えた。

堤貞元【つつみさだもと(15??~1584)】

三潴郡下田城主。官途は筑前守。室は龍造寺隆信の娘。1560年、龍造寺隆信と結び、大友義鎮勢から離反した。大友義鎮は下田城を攻撃したが、龍造寺隆信勢の支援を受け大友義鎮勢を撃退した。1564年、大友義鎮が自ら出陣、他の筑後国人衆も大友義鎮勢に属したため、蒲池鑑盛の仲介により和議を結んだ。1570年、「今山の戦い」では、大友義鎮勢に属して東肥前国佐嘉城主龍造寺隆信を攻撃した。戦いは寡勢の龍造寺隆信勢の鍋島直茂の夜襲によって、大友義鎮勢の大敗に終わった。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が島津義久勢に大敗すると、再び龍造寺隆信勢に属して勢力を拡大した。1584年、「沖田畷の戦い」では、龍造寺隆信勢に属して参陣したが島津義久、有馬晴信勢に敗れ龍造寺隆信ともに討死した。

堤内蔵助【つつみくらのすけ(15??~15??)】

堤貞元の男。1584年、「沖田畷の戦い」で父堤貞元が討死したため、堤家の家督を相続した。1585年、大友義鎮勢の攻撃を受け衆寡敵せず下田城は落城、堤内蔵助は鍋島直茂を頼って落延びた。

堤元茂【つつみもとしげ(15??~15??)】

堤貞正の弟。官途は伊賀守。1582年、兄堤貞正が龍造寺隆信勢の支援を得て上妻郡辺春城を攻略すると、辺春城代に任じられた。

津村秀門【つむらひでかど(15??~1574)】

津村城主。通称大助。大友義鎮勢に属した。1574年、龍造寺隆信の家臣深堀大膳勢の攻撃を受け討死した。

津村秀千代【つむらひでちよ(15??~15??)】

津村秀門の男。1578年、父龍造寺隆信勢の攻撃を受け討死したが、津村秀千代は落延びた。

津留因幡守【つるいなばのかみ(15??~15??)】

田尻親種家臣。津留城代。1560年、津留城は、鷹尾四支城のひとつとして江浦城、浜田城、堀切城とともに鷹尾城主田尻親種に築城され、田尻鎮直、津留因幡守の二将が守備を行った。1582年、龍造寺隆信勢に属していた鷹尾城主田尻鑑種は、鷹尾城、津留城、江浦城、浜田城、堀切城を守りを固め、謀反を起こした。龍造寺隆信は、鍋島直茂、龍造寺政家、後藤家信ら率いる30,000余りの攻撃を受けるが撃退した。龍造寺隆信勢は、秋月種実の仲介で和議を結び撤退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【な】

永江平方【ながえひらかた(15??~15??)】

大友義鑑家臣。三池郡江ノ浦城主。通称勘解由左衛門。1560年、江ノ浦城を築城された。

中野清明【なかのきよあき(15??~15??)】

龍造寺隆信家臣。榎津城主。1584年、大友義鎮勢の受け、辺りを焼き払った。

長松右京【ながまつうきょう(15??~15??)】

西牟田親毎家臣。西牟田館主。家老職を務めた。

中村末吉【なかむらすえよし(15??~15??)】

蒲池盛家臣。大藪城主。

西牟田親毎【にしむろたちか(15??~1534】

三潴郡西牟田城主。官途は播磨守。筑後国十五城のひとつ10,000石を領した。1530年、大内義隆は筑前守護杉興連を肥前国に侵入させたが、少弐、龍造寺家の夜襲を受けて太宰府にひきあげた。1531年、大友義鑑は大内義隆に味方する星野親忠の妙見城を攻め、星野親忠を援ける杉興連の兵が大友義鑑と戦った。1532年、大友義鑑は杉興連の岩屋城を攻撃すると、大内家臣陶興房が渡海して太宰府に入った。1533年、杉興連は御原郡を経て安武、久留米両城を落し、肥前国に攻め込んだ。久留米地方を制圧した陶興房のもとに筑後国武将のほとんどがなびき、大友義鑑に反抗するようになった。1534年、西牟田親毎、西牟田親氏父子が三池親員、溝口丹後守、辺春薩摩守、肥後の小代実忠、大野親祐らとともに反旗をひるがえしたが、大友義鑑勢の討伐を受けた。

西牟田親氏【にしむろたちかうじ(15??~1534)】

西牟田親毎の男。

西牟田鎮豊【にしむろたあきとよ(15??~15??)】

西牟田親氏の男。通称弥次郎。1534年、西牟田親毎、西牟田親氏父子の討死後、西牟田家は西牟田鎮豊が家督を相続した。1550年、「二階崩れの変」で大友義鑑が謀殺され、大友義鎮が大友家の家督を相続すると、菊池義武が筑後国で謀反を起こした。筑後国人衆の西牟田鎮豊三池親員、溝口鑑資らはこれに応じたが、大友義鎮勢に鎮圧され菊池義武も謀殺された。1573年、龍造寺隆信勢が筑後国に侵攻すると、娘婿の田川城主田川長門守とともにこれを迎え撃ったが、「笹原の戦い」で田川長門守が討死した。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、龍造寺隆信が兵20,000余りを率いて筑後国に侵攻した。下蒲池鎮並、西牟田鎮豊、草野鑑員、堤貞之らは大友義鎮から離反して龍造寺隆信勢に属した。以後、西牟田鎮豊は龍造寺隆信に属して、肥前国、筑後国を転戦した。1582年、柳河城主蒲池鎮並が龍造寺隆信に離反すると、田尻鑑種、蒲池鑑広らとともに蒲池鎮並勢と戦った。1583年、田尻鑑種が龍造寺隆信に離反、これを肥後国の辺原紹真が支援した。龍造寺隆信勢は鍋島直茂を大将に、西牟田鎮豊、蒲池鎮運らとともに、田尻鑑種勢と戦ったが、辺原紹真の猛攻により大敗した。

西牟田家周【にしむろたいえちか(15??~15??)】

西牟田親氏の次男。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、西牟田家周は大友義鎮勢から離反して龍造寺隆信勢に属した。1585年、戸次鑑連、高橋紹運が率いる大友義鎮勢の攻撃を受けたが撃退した。1586年、島津義久勢の攻撃を受け、西牟田家周は肥前国落延びた。1586年、島津義久勢の攻撃を受け、城島城は落城した。

西牟田統賢【にしむろたむねかた(15??~15??)】

西牟田鎮豊の男。

西牟田家親【にしむろたいえちか(15??~15??)】

西牟田統賢の男。通称新助。

西牟田家和【にしむろたいえかず(15??~15??)】

西牟田統賢の次男。通称新右衛門。1583年、生津城に攻め寄せてきた。西牟田家周、西牟田家和は要害をもって大友義鎮勢の攻撃を受けたが撃退した。1584年、「沖田畷の戦い」では、龍造寺隆信勢に属して島津家久、有馬晴信勢と戦ったが、西牟田統賢、西牟田家和が龍造寺隆信とともに討死した。

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【は】

原野恵俊【はらのけいしゅん(15??~15??)】

蒲池鑑盛家臣。蒲池鑑盛は、龍造寺家兼を保護した後、龍造寺隆信が肥前国を追われた際にも蒲池領内の三潴郡一木村に住まわせ300石を扶持し、原野恵俊に面倒を見させた。また龍造寺隆信が佐嘉城を奪還する際には300余りの援軍を差向けた。

豊饒鎮連【ほうじょうかねつら(15??~1581)】

蒲池鑑盛家臣。三潴郡兼松城主。官途は美作守。1581年、龍造寺隆信勢は、柳川城主蒲池鎮連を謀殺し、柳川城を攻撃した。鷹尾城主田尻鑑種は、柳川城に籠城する蒲池統康、豊饒鎮連らを塩塚城と佐留垣城に退去させた。塩塚城には豊饒鎮連、蒲池鎮連の嫡男蒲池久鎮らとともに男女500余りが入城した。田尻鑑種は2,700余りで攻撃して塩塚城の城兵を殲滅した。龍造寺隆信は、田尻鑑種に佐留垣城に籠城する蒲池統康をも討つように命じたが田尻鑑種はこれを拒否するも認められず佐留垣城を攻撃した。佐留垣城の城兵は婦女子も全て討死した。

樋口九郎左衛門【ひぐちくろうざえもん(15??~1579)】

河崎鎮尭家臣。1579年、伊駒野城主河崎鎮堯が龍造寺隆信勢の攻撃を受け落城した際、城より落ち延びる河崎鎮堯の殿を務め、牛島金助、川崎但馬守、忠見紀伊守、藤木土佐守、牛島金助らとともに討死した。

藤木土佐守【ふじきとさのかみ(15??~1579)】

河崎鎮尭家臣。1579年、伊駒野城主河崎鎮堯が龍造寺隆信勢の攻撃を受け落城した際、城より落ち延びる河崎鎮堯の殿を務め、牛島金助、川崎但馬守、忠見紀伊守、樋口九郎左衛門、牛島金助らとともに討死した。

星野鑑泰【ほしのあきやす(15??~1559)】

生葉郡生葉城主。蒲池鑑広の男(星野重実の養子)。筑後国十五城のひとつ生葉城10,000石を領した。星野重実の討死後、大友義鎮勢として肥後国、筑前国などを転戦した。1559年、「筑前侍島の戦い」で討死した。

星野鎮虎【ほしのかきたね(15??~15??)】

星野鑑泰の男。通称左衛門大夫。

星野鎮胤【ほしのあきたね(15??~1586)】

星野鑑泰の次男。鷹取城主。官途は中務大輔。別名星野吉実。1586年、立花宗茂勢と戦い筑前国粕屋郡高鳥井城で討死した。

星野鎮元【ほしのしげもと(15??~1586)】

星野鑑泰の三男。別名星野吉兼。1586年、立花宗茂勢と戦い筑前国粕屋郡高鳥井城で討死した。

星野鎮之【ほしのしげゆき(15??~15??)】

星野鎮胤の男。1586年、父星野鎮胤が立花宗茂勢と戦い討死すると、家臣の星野右衛門佐が謀反を起こした。鍋島直茂勢の支援を受け、星野右衛門佐勢を鎮圧した。以後鍋島直茂に使えた。

星野右衛門大夫【ほしのさえもんだいふ(15??~1586)】

星野鎮胤家臣。高丸城主。1586年、星野鎮胤が立花宗茂勢と戦い討死すると、星野鎮之に謀反を起こしたが鍋島直茂の支援を受けた星野鎮之に討取られた。

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【ま】

三池親高【みいけちかたか(15??~1566)】

三池郡今山城主。三池親盛の男。官途は上野介。筑後国十五城のひとつ今山城8,000石を領した。1566年、「筑前岩屋城の戦い」では、高橋鑑種が毛利元就に内応して、秋月文種、筑紫広門らと結んで大友義鎮に謀叛を起こした。1566年、「休松の戦い」では、大友義鎮勢に属して、秋月文種勢と戦い討死した。

三池鎮実【みいけしげざね(15??~1592)】

三池親高の男。官途は上総介。1566年、「休松の戦い」で父三池親高が討死したため、三池家の家督を相続した。1569年、「多々良浜の戦い」では、三池鎮実は戸次鑑連勢に属して戦功を挙げた。1579年、龍造寺隆信が23,000余りを率いて筑後国に侵攻すると、鷹尾城主田尻鑑種の降伏勧告を拒絶して今山城に籠城して龍造寺隆信勢と戦ったが、敗れ肥後国に落延びた。1587年、「九州征伐」では、羽柴秀吉勢に属して所領を安堵され、立花宗茂の寄騎衆となった。1592年、「文禄の役」に参陣したが討死した。

溝口丹後守【みぞぐちたんごのかみ(15??~15??)】

下妻郡溝口城主。筑後国十五城のひとつ溝口城10,000石を領した。1550年、城主溝口丹後守は三池親員や西牟田弥次郎とともに大友義鎮から離反した。

溝口遠江守【みぞぐちおうみのかみ(15??~15??)】

溝口丹後守の男。溝口薩摩守が田尻鑑乗に攻撃を受けた。豊饒鎮連らに攻撃を受け、落城した。

三原重種【みはらしげたね(15??~15??)】

御原郡三原城主。三原親種の男。官途は和泉守。筑後国十五城のひとつ三原城7,000石を領した。大友義鑑のもとで筑後国守護代を豊饒鎮連とともに努めた。参考文献:『筑後戦国史』by吉永正春。

三原紹心【みはらじょうしん(1548~1586)】

三原重種の男。文武両道の将。1586年、島津義久勢の攻撃を受け、高橋紹運とともに岩屋城へ籠城した。「岩屋城の戦い」では、四尺余りの大太刀を構え奮戦したが、最後は、島津義久勢に突撃し討死した。辞世の句は「打太刀のかねの響は久かたの あまつそらにぞきこえあぐべき」。参考文献:『筑後戦国史』by吉永正春。

宮部武成【みやべたけなり(15??~1540)】

大内義隆家臣。官途は日向守。1540年、大内義隆勢に属して、長門国に参陣して討死した。

宮部賢順【みやべよしじゅん(1533~15??)】

宮部武成の男。

村中久重【むらなかひさしげ(15??~15??)】

三潴郡下田城主。

問註所鑑景【もんぢゅうじょかねかげ(15??~15??)】

生葉郡長岩城主。筑後国十五城のひとつ長岩城10,000石を領した。1564年、「侍島の戦い」で筑紫惟門勢と戦って討死した。娘(仁志姫)は戸次鑑連に嫁いだ。参考文献:『筑後戦国史』by吉永正春。

問註所統景【もんぢゅうじょむねかげ(15??~1593)】

問註所鑑景の男。官途は刑部大輔。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、龍造寺隆信勢が筑後国に侵攻した。諸勢力のほとんどが大友義鎮から龍造寺隆信に次々寝返った後も五条鎮定とともに大友義鎮勢に属した。「長岩城の戦い」では、秋月文種、星野鎮胤勢を撃退した。1584年、秋月文種、星野鎮胤、問註所鑑景らが居城へ押し寄せたが、問註所統景と弟問註所鎮春はこれを撃退して、問註所鑑景らを討取る戦功を挙げた。1586年、「長岩城の戦い」では、長岩城に籠城して島津義久勢と戦った。羽柴秀吉勢が北九州に侵攻すると、日向国侵攻の先導役を務めた。1592年、「文禄の役」に参陣して、数々の戦功を挙げた。1593年、「河東晋州城の戦い」で、小早川秀包勢に属して弟問註所正白とともに明国勢と戦い討死した。参考文献:『筑後戦国史』by吉永正春。

問註所統景【もんぢゅうじょまさつら(15??~15??)】

問註所統景の男。通称三郎兵衛。1593年、父問註所統景、叔父問註所正白とともに小早川秀包に属して明国勢と河東郡晋州城で戦ったが、問註所統景が討死した。問註所統景は、立花宗茂に仕えた。

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【や】

矢加部久盛【やかべひさもり(15??~15??)】

蒲池治久の男。

矢加部鑑典【やかべあきのり(15??~15??)】

矢加部久盛の男。

矢加部国広【やかべくにひろ(15??~15??)】

蒲池治久の三男(矢加部久盛の養子)。官途は大学頭。蒲池鑑広の家老職を務めた。祖父矢加部久盛は、蒲池治久の三男であったため、家臣矢加部鑑典のもとで育てられ、矢加部の家督を相続した。広川で1,000石を領した。

安武鑑政【やすたけあきまさ(154?~15??)】

三潴郡海津城主。官途は安房守。1508年、海津城を築城して居城とした。

安武鎮則【やすたけあきのり(15??~15??)】

安武鑑教の男。官途は山城守。1569年、龍造寺隆信が筑後国まで勢力を拡大すると、亀山一竿を使者に送り龍造寺隆信に属した。1572年、赤司家貞と戦ったが、龍造寺隆信の支援を得た赤司家貞の逆襲を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安武鎮教【やすたけあきのり(15??~15??)】

安武鎮則の男。官途は民部少輔。通称安右衛門尉。別名安武重乗。室は問註所鎮連の娘(仁志姫)。1564年、大友義鎮勢が下田城主堤貞元を攻撃した際、犬塚、西牟田、蒲池らとともに参陣した。1576年、龍造寺隆信の家臣横岳頼次の攻撃を受け落城、叔父安武政乗は討死し安武鎮教は大友義鎮を頼って豊後国へ落延びた。安武鎮則が大友義鎮から離反して、龍造寺隆信に属すると、仁志姫は、安武鎮教と離別後、安武鎮教の子である安武道清、安武方清、安武於予志姫を連れて戸次鑑連と再婚した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安武家教【やすたけいえのり(15??~15??)】

安武鎮教の男。官途は民部大輔。

安武方清【やすたけかたきよ(15??~15??)】

安武鎮政の男(麟清の養子)。筥崎座主。母が戸次鑑連の継室として再嫁したため、その養子となった。1586年、島津家久の筑前国侵攻では、戸次 鑑連の意向により、箱崎党400余りを率いて立花城に籠城した。1591年、小早川隆景の意向により箱崎と多々羅に新たな橋を建てた。1600年、「関ヶ原の役」後、立花宗茂が改易されると、出家して茂庵と称し、家督を嫡男の豪清に譲った。1620年、立花宗茂が陸奥国棚倉から柳川城主となった際に、茂庵は200石を領した。茂庵の嫡男である東蔵人豪清も300石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

八尋式部【やひろしきぶ(15??~1575)】

良寛家臣。御井郡篠原城主。官途は式部太輔。大和国高取城主八尋重友の弟。1532年、九州に下向して、草野氏、高良山社家に推され、吉見嶽を築城し城主となった。高良社領も三潴、瀬高をはじめ、諸豪族に横領され京に送る年貢が滞るようになった。八尋式部は社寺荘園を擁護した。草野、提携した大善寺領、北野社領は、八尋式部の家臣が守備したが高良山も座主、大祝、神管、武管領らが僧兵を擁するようになった。後に、兵馬の権を座主に譲って北谷に隠棲した。

八尋兵庫【やひろひょうご(15??~15??)】

八尋式部の男。高良山座主の権力は、房舎3860房、本領3800町、全社領7300町を擁して、草野鎮永と対立した。宮地邑渡利に館を建て、宮地五郎丸を領有した。1586年、「九州討伐」では、島津義久に属して羽柴秀吉勢と戦った。

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【資料Ⅰ】

筑後国(11郡/331,487石)

生葉郡(12,675石/56ヶ村):浮羽城、吉井城、姫治寺社、江南城、福富城、杷木城、椿子城、星野城。
竹野郡(12,397石/91ヶ村):高丸城、内山城、山中城、新田城。※大友義鎮領。
山本郡(12,804石/30ヶ村):竹ノ城、発心城。
御原郡(20,587石/40ヶ村):本郷城、高橋城、吹上城、山隈城。
御井郡(36,780石/73ヶ村):久留米街、北野城、弓削寺社、大城城、金島城、味坂城、高良内城、櫛原城。
上妻郡(29,616石/17ヶ村):上妻城、下妻城、黒木寺社、広川城、羽犬塚城、光友城、矢部城、木屋城。
下妻郡(21,518石/33ヶ村):
三瀦郡(90,222石/147ヶ村):榎津街、大川城、三又寺社、川口城、大溝城、木佐木城、鳥飼城、城島城。
山門郡(57,371石/91ヶ村):
三池郡(37,528石/64ヶ村):柳川城、蒲池城、大牟田寺社、山川城、三川城、倉永城、銀水城、玉川城。

※生葉郡と竹野郡が合併して浮羽郡。御井郡、御原郡、山本郡が合併して三井郡。上妻郡、下妻郡が合併して八女郡となった。

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【資料Ⅱ】

筑後国十五城【ちくごじゅうごじょう】

筑後国人衆の大身十五家の総称。筑後国には国内を統一する勢力は出現せず、筑後国の守護職を務めた大友義鑑のもと各地域に15家余りの国人領主が統治を行っていた。筆頭は柳川城120,000石を領した主蒲池鑑盛であった。筑後国人衆は大友義鑑勢に属して北九州各地を転戦したが、家臣としてではなく、軍事的に従属していたため、大友義鑑勢に敵対する可能性が高かった。大友義鑑は、筑後国内に「高一揆衆」という大友義鑑の直参豪族衆を配置して国人衆を監視した。

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【資料Ⅲ】

筑後国【ちくごのくに】

有明海に面した西海道の国。東は釈迦ヶ岳で豊後国と国境を隔て、西は筑後川を境として肥前国に接する。北は筑紫平野で筑前国と分かれ、南は筑肥山地の西で肥後国と境を接する。また、西南の有明海を通して肥前国の島原半島、肥後の宇土半島から天草諸島への通交が可能である。国土の東部は北の水縄産地と南の筑肥山地によって形成される山地であり、西部は筑紫平野の広がる平地となっている。従って東部と西部では発展の度合が異なり、筑後川と矢部川に挟まれた平野部が政治、経済、文化の中心となっている。

鷹尾湊【たかおみなと】

有明海にそそぐ矢部川の下流右岸に位置し、中世、河港として荘園、瀬高荘など矢部川流域の物資積出港を担った港街。鎌倉期、鷹尾別符とみえ、筑後国一宮、高良大社の別宮で瀬高下荘の鎮守、鷹尾社を支える一方、瀬高荘の倉敷地として年貢やその他の物資の集散基地となっていた。1548年、国人領主田尻家は鷹尾城を本拠城として鷹尾に拠点を移す。1570年、田尻氏は、竜造寺氏を攻撃する大友氏から兵船を準備して榎津に在陣するよう命じられており、この頃、鷹尾は田尻氏の水軍基地も担うようになったと思われる。1547年、府内を訪れた田尻氏は大友氏に贈り物をしているが、その中には鷹尾周辺地域で栽培されたと思われる木綿のほかに、嶋木綿、絹布の緞子、北絹、北黄円など舶来品が多数含まれていた。鷹尾が大量の高級舶来品の調達が可能な発展した国際貿易湊。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※大友宗麟は大友義鎮の名前で統一します。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『九州戦国合戦記』by海鳥社、『大宰府戦国史』by海鳥社、『筑前戦国史』by葦書房、『筑後戦国史』by葦書房、『九州戦国史』by葦書房。『筑後争乱記(蒲池一族の興亡)』by海鳥社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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