2015年10月10日土曜日

松平元康家臣団辞典(四天王+石川数正編)

----------------------------

【あ】

阿佐美清兵衛【あさみせいべい(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

天野又左衛門【あまのまたざえもん(15??~15??)】

石川数正家臣。家老職を務めた。参考文献:『諜将石川数正』by南原幹雄。 

荒川甚太郎【あらかわじんたろう(15??~1573)】

本多忠勝家臣。1573年、「三方ヶ原の戦い」で討死した。

荒川惣右衛門【あらかわそうざえもん(15??~15??)】

石川数正家臣。1585年、石川数正が松平元康から羽柴秀吉のもと落延びる際、中島作左衛門、伴三右衛門らとともに石川数正勢の先導役を務めた。参考文献:『諜将石川数正』by南原幹雄。

荒川甚太郎【あらかわじんたろう(15??~1573)】

本多忠勝家臣。1573年、「三方ヶ原の戦い」で討死した。
 
新屋清左衛門【あらやせいざえもん(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

安城松三郎【あんじょうまつさぶろう(15??~15??)】

石川数正家臣。参考文献:『諜将石川数正』by南原幹雄。

井伊直政【いいなおまさ(1561~1602)】

井伊直親の男(松下清景の養子)。官途は兵部大輔。室は松平康親の娘(花姫)。1562年、父井伊直親が讒言によって今川氏真に謀殺され井伊谷城を追われた。1575年、遠江国侵攻を図る松平元康に仕えた。1576年、「遠江芝原の戦い」では、武田勝頼勢との戦い戦功を挙げた。1582年、「天正壬午の乱」後、松平元康が甲斐国を治めると、山県昌景に仕えた赤備衆を寄騎衆に加えた。1590年、松平元康が関東に転封になると上野国箕輪城120,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康の四男松平忠吉の後見役を務め、福島正則と先陣を争った。石田三成勢が敗北すると、敵中突破を試みた島津義弘勢を追撃し島津豊久を討取る戦功を挙げた。役後、近江国佐和山城180,000石を領したが、受けた鉄砲傷がもとでまもなく病没した。

井伊直勝【いいなおかつ(1590~1662)】

井伊直政の男。官途は兵部少輔。別名井伊直継。室は鳥居忠政の娘。継室は中島新左衛門の娘。1602年、父井伊直政が病没すると、井伊家の家督を相続した。1603年、西国諸侯へ向けての防衛拠点としての彦根城を築城した。若年のため家老衆が政務を代行していたが、新参家臣(旧武田家衆)団と譜代家臣団(井伊谷衆)の対立が起きた。松平元康は、井伊谷以来の家臣と上野国安中城は井伊直継を井伊直勝に、旧武田家衆と彦根城を井伊直孝に配属した。1614年、「大坂冬の役」では、病床井伊直継の陣代として井伊直孝を井伊家勢の大将に据えた。井伊直継は安中城の関所警護を務めた。大坂の役後、井伊直孝は井伊家の家督を相続して、井伊直継は上野国安中城30,000石を領した。1632年、隠居して家督を継嗣の井伊直好に家督を譲った。

井伊直孝【いいなおたか(1590~1559)】

井伊直政の次男。官途は左近衛中将。通称掃部頭。別名「夜叉掃部(やしゃかもん)」。室は蜂須賀家政の娘。1602年、父井伊直政が病没すると、兄井伊直勝が井伊惣領職を相続した。上野国安中城30,000石と譜代衆の家臣は井伊直勝が率い、近江国彦根城150,000石と旧武田家衆は井伊直孝が率いた。1614年、「大坂冬の陣」では、病床にあった兄井伊直勝の陣代として参陣した。松平忠直とともに真田信繁勢の挑発に乗り突撃したところを、反撃を受け500人の討死を出し敗走した。1615年、「大坂夏の陣」では、藤堂高虎とともに先陣を務め、木村重成と長宗我部盛親勢を撃ち破った。1632年、松平忠明とともに松平家光の後見役に任じられ、彦根城350,000石を領した。清に滅ぼされた南明政権の鄭芝龍、鄭成功の救援要請を受けた際は、救援要請を受けるべきとした松平家光や松平頼宣に対し、井伊直孝は反対し、救援要請を受けないことに決まった。1658年、継嗣の井伊直滋を廃嫡にして、次男の井伊直縄に井伊惣領職を相続させた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川数正【いしかわかずまさ(1533~1593)】 

石川康正の次男。官途は伯耆守。室は内藤義清の娘。1560年、「桶狭間の戦い」後、松平元康が今川氏真もとから独立を図る際、人質であった松平信康と築山殿を取り戻す交渉を行った。1561年、「石ヶ瀬の戦い」では、松平元康勢の先陣を務め、織田信長勢を撃退する戦功を挙げた。1562年、「清洲同盟」では、取次役を務め交渉を成立させた。1563年、「三河一向一揆」では、父石川康正が一向一揆勢に属したが、石川数正は浄土宗に改宗して松平元康に属した。1569年、松平元康の意向で、叔父石川家成に代わって西三河の旗頭となった。1579年、織田信長に謀反の疑いをかけられ、松平信康が自刃すると、岡崎城代に任じられた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、羽柴秀吉との取次役を務めた。1584年、「小牧、長久手の戦い」後、羽柴秀吉との和議を提言したため、家中で孤立した。1585年、松平元康のもとから出奔し羽柴秀吉のもとに落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川康長【いしかわやすなが(1554~1643)】

石川数正の男。官途は玄蕃頭。松平元康の次男の松平秀康が羽柴秀吉の人質として差し出された際には、弟石川康勝とともに同行した。1585年、父石川数正とともに松平元康のもとを出奔し羽柴秀吉に仕えた。1592年、父石川数正の病没により石川家の家督を相続した。遺領のうち松本城80,000石を相続し、残りの20,000石を二人の弟に分与した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属したため、所領を安堵された。1613年、「大久保長安事件」に連座し、領地隠匿の咎を受けて弟石川康勝、石川康次とともども改易処分に処され、豊後国佐伯に流罪に処された。

石川康勝【いしかわやすかつ(15??~1615)】

石川数正の次男。官途は肥後守。1585年、石川数正とともに松平元康のもとを出奔し羽柴秀吉に仕えた。1592年、石川数正が病没すると、石川家の家督は兄石川康長が相続して、石川康勝は安曇郡15,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、兄石川康長とともに松平元康勢に属して所領を安堵された。1613年、「大久保長安事件」に連座し、領地隠匿の咎を受け、兄石川康長、弟石川康次とともども改易処分に処され、豊後国佐伯に流罪に処された。1614年、「大坂冬の役」では、羽柴秀頼勢に属して大坂城に入城したが。火薬を誤爆させてしまい負傷した。1615年、「大坂夏の陣」では、真田信繁勢に属して討死した。

石川康次【いしかわやすつぐ(15??~15??)】

石川数正の三男。通称半三郎。1585年、父石川数正とともに松平元康のもとを出奔し羽柴秀吉に仕えた。1592年、石川数正の病没により石川家の家督は兄石川康長が相続して、石川康次は5,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、兄石川康長と共に松平元康勢に属して所領を安堵された。1613年、「大久保長安事件」に連座し、領地隠匿の咎を受け、兄石川康長、次兄石川康勝ととともに改易され、豊後国佐伯に流罪に処された。

伊藤忠兵衛【いとうちゅうべい(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」では、榊原康政の馬廻衆を務めた。「岩田村の戦い」で家臣のひとりが羽柴秀頼勢の頸級を上げる戦功を挙げた。

伊藤宮内【いとうくない(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「岩田村の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。「天王寺、岡山の戦い」では、家臣が頸級を上げる戦功を挙げた。

伊奈忠安【いなただやす(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称伊左衛門。

伊奈源左衛門【いなげんざえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」では、上野国館林城留守居役を努めた。

伊奈孫太夫【いなまごだいふ(15??~1612)】

榊原康政家臣。

伊奈三助【いなさんすけ(15??~1627)】

榊原康政家臣。
 
伊奈間之江【いなまのえ(15??~1615)】

榊原康政家臣。
 
伊奈与右衛門【いなよざえもん(15??~1612)】

榊原康政家臣。
 
伊藤数馬之助【いとうかずまのすけ(15??~16??)】

榊原康政家臣。水方普請奉行職を務めた。寄騎衆の石川佐次右衛門、荒瀬彦兵衛らを指揮して利根川の灌漑工事を行った。

井平直種【いひらなおたね(15??~15??)】

井伊直政家臣。官途は河内守。
 
井平弥三郎【いひらよさぶろう(15??~1589)】

井平直種の男。1589年、「小田原の役」に参陣して討死した。

今村正実【いまむらまさざね(15??~1573)】

井伊直親家臣。通称藤七郎。1544年、井伊直親が今川義元に誅殺されかかると、これを匿った。東光院住職能仲は信濃市田郷松源寺に連絡し、直親を匿うよう依頼。今村正実は松源寺に同行し、直親を養育した。

江原市内【えばらいちない(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

大岡清勝【おおかきよかつ(1553~1624)】

大岡助次の男。通称伝蔵。本多忠勝の寄騎衆を務めた。1572年、「三方ヶ原の戦い」に参陣した。1574年、大賀弥四郎が謀反を起こすと、その鎮圧で戦功を挙げた。倉地氏を討つ。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。後に伏見城代を務めた。

大鐘政広【おおがねまさひろ(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称彦市。

大久保与右衛門【おおくぼよえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で先手旗奉行職を務めた。

大原作右衛門【おおはらさくえもん(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

大原惣右衛門【おおはらそうえもん(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

大原与五左衛門【おおはらよざえもん(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

大原直勝【おおはらなおかつ(15??~15??)】

天野繁昌の男(榊原五郎右衛門の養子)。別名榊原直勝。榊原康政に仕えた。

大藪十郎次【おおやぶじゅうろうじ(15??~15??)】 

石川数正家臣。参考文献:『諜将石川数正』by南原幹雄。

岡縫殿右衛門【おかぬいどのうえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」では、馬廻足軽頭を務めた。「岩田村の戦い」では、羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

奥山朝利【おくやまともとし(15??~1544)】

引佐郡奥山城主。奥山親朝の男。官途は因幡守。別名奥山親朝。1544年、井伊直虎の許婚であった井伊直親が信濃国伊那郡松源寺に落延びると、娘が井伊直親の内室となった。

奥山朝宗【おくやまともむね(15??~15??)】

奥山朝利の男。
 
奥山朝忠【おくやまともただ(15??~1629)】

奥山朝宗の男。通称六左衛門。1568年、小野道好の謀反に際し、井伊直虎や幼少の井伊直政は龍潭寺に匿われた。南渓瑞聞和尚は奥山朝忠に命じ、井伊直政を三河鳳来寺に預けた。1580年、井伊直政に仕えて1,500石を領した。

奥山朝重【おくやまともしげ(15??~15??)】

奥山朝利の次男。
 
奥山朝正【おくやまともまさ(15??~15??)】

奥山朝重の男。
 
奥山朝家【おくやまともいえ(15??~15??)】

奥山朝利の三男。
 
奥山朝房【おくやまともふさ(15??~15??)】

奥山朝家の男。

奥山朝次【おくやまともつぐ(15??~15??)】

奥山朝房の男。

小野田与市【おのだよいち(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

----------------------------

【か】

貝塚兵庫助【かいづかひょうえのすけ(15??~15??)】

石川数正家臣。参考文献:『諜将石川数正』by南原幹雄。

影山弥三郎【かげやまよさぶろう(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

梶勝忠【かじかつただ(1549~15??)】

本多忠勝家臣。通称金平。都築家とともに家老職として代々本多家を支えた。1566年、本多忠勝が旗本先手役に任じられると寄騎衆として本多忠勝隊に組み込まれた。本多忠勝隊の中心として多くの戦いに参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、敵兵の放った矢によって愛馬「三国黒」を失いながらも徒歩で奮戦する本多忠勝に自分の馬を差し出し、本多忠勝の窮地を救った。1601年、本多忠勝が桑名城転封した際には、先発隊として桑名城に入城した。

加藤新左衛門【かとうしんざえもん(1559~1591)】

井伊直政家臣。1590年、「九戸政実の乱」に参陣した際、穴牛に住む老夫婦と諍いを起こし、井伊直政に恥をかかせたとして自刃を命じられた。

勝屋利政【かつやとしまさ(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称甚五兵衛。

蟹江惣左衛門【かにえそうざえもん(15??~1609)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」では、母衣衆として参陣した。
 
蟹江惣右衛門【かにえさおうえもん(15??~1622)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」では、母衣衆として参陣した。

神谷長兵衛【かみやちょうべい(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で母衣衆を務めた。

河合政光【かわいまさみち(15??~1573)】

本多忠勝家臣。通称又五郎。本多忠勝の寄騎衆50騎のひとり。5,000石(寄騎衆2,500石を含む)を領した。1573年、「三方ヶ原の戦い」で討死した。

河合政一【かわいまさかず(15??~15??)】

河合政光の弟。通称又五郎。1573年、兄河合政光が討死すると、河合家の家督を相続した。

川上又右衛門【かわかみまたえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「天王寺の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

川上五左衛門【かわかみござえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で榊原康政の母衣衆を務めた。

川手良則【かわてよしのり(15??~15??)】

井伊直政家臣。室は井伊直親の娘。筆頭家老職を務めた。はじめ山県昌景に仕えた。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると井伊直政に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、上野国高崎城留守居役を務めた。

河原与右衛門【かわらようえもん(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

木俣守勝【きまたもりかつ(1555~1610)】

井伊直政家臣。官途は土佐守。通称清左衛門尉。松平元康のもとから離れ、明智光秀に仕えた。1582年、「本能寺の変」で、三河国に帰還する松平元康の伊賀越えを警護した。松平元康が甲斐国、信濃国に侵攻すると、旧武田家遺臣の懐柔のために奔走した。北条氏直勢と和議を結ぶ使者となった井伊直政を補佐した。松平元康の意向により、井伊直政の附家老職を務めた。旧武田家遺臣の関口何右衛門、野田新九郎、中村太郎右衛門を中心に赤備えを整備して井伊直政勢の先陣を務めた。

木俣守安【きまたもりやす(1585~1673)】

狩野主膳の男(木俣守勝の養子)。通称清左衛門。1590年、「小田原の役」後、木俣守勝の養子となった。1610年、養父木俣守勝の病没により木俣家4,000石の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して、井伊直勝勢の先陣を務めた。1615年、家老職となった。1643年、朝鮮通信使の供応にあたった。1659年、井伊直澄家督相続の御礼言上の際に、江戸城で将軍松平家綱に拝謁した。

熊井戸半右衛門【くまいどはんざえもん(15??~15??)】

井伊直政家臣。足軽鉄炮隊を率いた。

久我山和平【くがやまわへい(15??~15??)】

石川数正家臣。参考文献:『諜将石川数正』by南原幹雄。

栗田久左衛門【くりたきゅうざえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で榊原康政の母衣衆を務めた。

栗田杢左衛門【くりたもくざえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で陣場奉行職を務めた。

小泉孫八郎【こうずみまごはちろう(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

向坂与五右衛門【こうざかよごうえもん(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

小坂助六【こさかすけろく(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

近藤八左衛門【こんどうはちざえもん(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

----------------------------

【さ】

酒井忠親【さかいただちか(15??~15??)】

額田郡井田城主。松平清康家臣。

酒井忠善【さかいただよし(15??~15??)】

酒井忠親の男。

酒井忠尚【さかいただなお(15??~15??)】

酒井忠善の男。碧海郡上野城主。官途は将監。松平広忠の筆頭家老職を務めた。1560年、「桶狭間の戦い」後、松平元康が今川氏真から離反すると、謀反を起こし松平元康に敵対した。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属したため、上野城が攻撃を受けた。降伏したが、今川氏真に内応した。酒井忠尚の家臣が松平元康に臣従したため、駿河国に落延びた。

酒井忠次【さかいただつぐ(1527~1596)】

酒井忠親の次男。官途は左衛門督。通称左衛門尉。室は松平清康の娘(碓井姫)。1556年、「福谷城の戦い」では、柴田勝家勢2,000余りを撃退した。1560年、「桶狭間の戦い」後、松平元康の家老職に任じられた。1563年、「三河一向一揆」では、酒井惣領家の酒井忠尚は一揆勢に属したが、酒井忠次は松平元康勢に属した。1564年、「吉田城の戦い」では、先陣を務め守将の小原鎮実を撤退させた。1569年、「駿河侵攻」では、取次役を務め武田晴信と今川氏真領の分割協定を結んだ。1570年、「姉川の戦い」では、先陣を努め小笠原信興勢とともに朝倉義景勢と戦った。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、小山田信茂勢と戦ったが敗走した。1575年、「鳶巣山砦の戦い」では、河窪信実らを討取る戦功を挙げた。1579年、松平信康が織田信長から謀反の疑い受けると、大久保忠世とともに弁解の使者になった。1582年、「天正壬午の乱」では、信濃国に侵攻して国人衆の懐柔を図ったが諏訪頼忠や小笠原貞慶らの離反により失敗した。1584年、「羽黒の戦い」で森長可を敗走させる戦功を挙げた。1585年、石川数正が羽柴秀吉のもとに走ると、筆頭家老職となった。1588年、継嗣の酒井家次に家督を譲って隠居した。

酒井恒城【さかいとねしろ(15??~1616)】

酒井忠親の三男。僧籍に入った。還俗して松平元康に仕えた。
 
酒井家次【さかいいえつぐ(1564~1618)】

酒井忠次の男。官途は宮内大輔。通称左衛門尉。室は榊原政吉の娘。1588年、父酒井忠次の隠居に伴って家督を継いだ。1590年、松平元康が関東に転封すると、下総国臼井城37,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平秀忠勢に属した。1604年、上野国高崎城50,000石に転封した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」では、羽柴秀頼勢の猛攻を受け敗走した。1616年、越後国高田城100,000石に転封した。
 
酒井康俊【さかいやすとし(1570~1621)】

酒井忠次の次男(本多忠次の養子)。通称彦八郎。別名本多康俊。室は菅沼定盈の娘。1575年、「長篠の戦い」では、人質として織田信長のもとに赴いた。1590年、松平元康が関東に転封されると、下総国内で5,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、三河国西尾城20,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、近江膳所城を守備した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」に参陣して105の頸級を挙げ、近江国膳所城30,000石を領した。

酒井久恒【さかいひさつね(15??~15??)】

酒井忠次の四男(福釜松平親俊の養子)。後に実家に戻り、家老職を務めた。
 
酒井忠知【さかいただとも(15??~15??)】

酒井忠次の五男。官途は因幡守。1605年、松平秀忠の小姓を務め、蔵米500俵を領した。
 
酒井忠勝【さかいただかつ(1594~1647)】

酒井家次の男。官途は宮内大輔。通称小五郎。初陣は大坂の陣。元和四年四月、家督を相続。五年、信州松代に移封。八年、出羽庄内に移封。最上旧臣を登用する。九年、領内の検地を実施するも反対の直訴があった。寛永七年、弟の酒井直次が嗣子無きまま没し、家系が無嗣断絶すると所領出羽左沢一万二千石を預かる。九年六月、改易された加藤忠広を預かる。後に配所料として忠広に一万石を分与した。その際、かねてより預かっていた弟直次の所領を加増され、石高は十四万石に達した。
 
酒井直次【さかいなおつぐ(1596~1630)】

酒井家次の次男。官途は右近大夫。室は鳥居忠政の娘。1622年、兄酒井忠勝が庄内城主となったため、左沢城12,000石を領した。1630年、継嗣をもうけぬまま病没した。所領は酒井忠勝の預かりとなり、後に酒井忠勝の所領となった。

酒井忠重【さかいただしげ(1598~1666)】

酒井家次の三男(酒井忠次の養子)。官途は長門守。通称九八郎。1622年、出前国村山郡白岩城8,000石を領した。1633年、苛政をしいたため、白岩領の農民が一揆を起こした。1638年、白岩領主を改易処分に処され庄内城主酒井忠勝に預けられた。1642年、酒井忠勝の娘と継嗣の酒井忠広を婚姻させる企てが発覚した。
1665年、娘の婚姻で相手と問題を起こし所領を失った。1666年、刺客に謀殺された。

酒井了次【さかいのりつぐ(1606~1635)】

酒井家次の五男。1622年、兄酒井忠勝が庄内城主となると5,000石を領した。宗家の家督横領を企む兄酒井忠重に讒言され、兄酒井忠勝により高野山に追放された。1635年、庄内領内の黒川に幽閉された。

榊原清長【さかきばらきよなが(15??~1545)】

榊原勝長の男。通称七郎右衛門。伊勢国から三河国上野に移り松平親忠の家臣酒井忠尚に仕え。延徳二年、「吉田城の戦い」に参陣した。娘は遠山康吉に嫁ぐ。

榊原道教【さかきばらみちよし(15??~15??)】

榊原勝長の次男。通称市郎左衛門。
 
榊原長政【さかきばらながまさ(1479~1562)】

榊原清長の男。通称七郎右衛門。室は松平親頼の娘。松平広忠に仕え酒井忠尚勢に属した。1490年、「吉田城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。

榊原五郎右衛門【さかきばらごろうざえもん(15??~15??)】

榊原清長の次男。別名「一徳斎」。1562年、兄榊原長政が病没すると、甥の榊原康政を養子として松平元康に仕えた。大原作三右衛門の娘を養女とし、天野繁昌の内室とした。そして、二人の間に生まれた榊原直勝を養子とした。
 
榊原清政【さかきばらきよまさ(1546~1607)】

榊原長政の男。通称七郎右衛門。室は大原左近右衛門の娘。松平元康の侍大将を務めるが、病弱のため榊原康政が陣代を務めた。平岩親吉とともに松平信康の傅役を努めた。松平信康自刃後、その遺髪を自らの娘に託し、松平元康のもとに届けた。松平信康のために平岩親吉とともに駿河国江浄寺を建立した。1590年、榊原康政とともに上野国館林城に転封した。1603年、駿河国久能城主に任じられ3,000石を領した。

榊原康政【さかきばらやすまさ(15??~15??)】 

榊原長政の次男。官途は式部大輔。通称小平太。室は大須賀康高の娘。松平元康に小姓として仕えた。1562年、「三河一向一揆と戦い」では、今川氏真勢に属する吉田城主小原鎮実を攻撃した。「姉川の戦い」「三方ヶ原の戦い」「長篠の戦い」「高天神城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」の際、松平元康の「伊賀越え」に随従した。1589年、「小田原の役」でも戦功を挙げた。松平元康の関東移封後に上野国館林城100,000石を領した。大谷吉継の依頼で宇喜多秀家の内紛の調停に乗り出すが、松平元康に横やりを入れられた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平秀忠勢の属して参陣したが真田昌幸の知略より遅参した。吏僚派の本多正信、本多正純らと対立して政治の表面から退いた。

榊原忠長【さかきばらただなが(1585~1604)】  

榊原康政の次男。官途は伊予守。兄の榊原忠政が大須賀家の家督を相続したため、次男榊原忠長が榊原家の継嗣となった。1600年、「第二次上田城の戦い」に参戦した。1604年、榊原家の家督を相続する前に子の無いまま夭折した。

榊原康勝【さかきばらやすかつ(1590~1615)】  

榊原康政の三男。官途は遠江守。通称小十郎。室は加藤清正の娘(本浄院)。1606年、父榊原康政の病没により、榊原家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、井伊直孝ととも先陣を務め、藤田信吉、丹羽長重、北条氏重、成田長宗らを率いて奮戦。木村宗明を討ちらを率いて苦戦した佐竹義宣勢の窮地を救った。1615年、「若江の戦い」では、羽柴秀頼勢の木村重成と戦った。「天王寺、岡山の戦い」では、羽柴秀頼勢の抵抗に合い榊原康勝は壊滅的な打撃を受けた。帰途の途中、病没したた。継嗣の榊原勝政がいたがが、大須賀忠政の男榊原忠次が榊原家の家督を相続した。

榊原忠次【さかきばらただつぐ(1605~1665)】

大須賀忠政の男。通称五郎左衛門。別名大須賀忠次。父大須賀忠政の死後、大須賀城主となるが、叔父榊原康勝が没したためにその跡を継ぐ。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康から江戸城留守居役に任じられたが、軍律を破り参陣した。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した。榊原康勝が病没すると、榊原家の家督を相続した。1625年、館林領内を開発して110,000石を領した。1643年、磐城国白河城140,000石に転封した。
 
榊原勝政【さかきばらかつまさ(1613~1667)】

榊原康勝の男。1615年、父榊原康勝が病没すると、養子の榊原忠次が榊原家の家督を相続したため、加藤忠広に仕えた。

榊原清定【さかきばらきよさだ(15??~15??)】

榊原清政の男。通称勘十郎。官途は若狭守。別名榊原政次。多病にて家督を継ぐことはなかった。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で頸級を上げる戦功挙げた。
 
榊原重次【さかきばらしげつぐ(1608~1634)】

榊原清定の男。官途は淡路守。別名榊原政次。

榊原照久【さかきばらてるひさ(1585~1646)】

榊原清政の次男。官途は大内記。別名榊原清久。父榊原清政の家督を相続して久能城守将を務めた。1614年、「大坂冬の陣」では、久能城を守備した。1616年、中井正清とともに久能山東照宮の造営奉行に任じられた。

榊原信次【さかきばらのぶつぐ(1521~1600)】

榊原清長の三男。通称六郎右衛門。鳥居元忠に仕えた。次男榊原元信は田中吉政に仕えた。
 
榊原元次【さかきばらもとつぐ(1544~1618)】

榊原信次の男。吉良庄代官を務めた。三河国幡豆郡内に所領を得た。

佐久間左京【さくまさきょう(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「岩田村の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

桜井勝次【さくらいかつつぐ(15??~1581)】 

本多忠勝家臣。通称庄之助。1573年、「三方ヶ原の戦い」などで戦功を挙げた。

桜井勝成【さくらいかつなり(1575~1659)】

桜井勝次の男。父桜井勝次の戦功により、松平元康の書院番、使番を務めた。

佐野金右衛門【さとうきえもん(15??~15??)】

石川数正家臣。家老職を務めた。1585年、石川数正が松平元康から羽柴秀吉のもと落延びる際、渡辺金内、本田七兵衛、村越伝七らとともに石川数正勢の殿を務めた。参考文献:『諜将石川数正』by南原幹雄。

柴田金右衛門【しばたきんえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で榊原康政の母衣衆を務めた。

柴田五郎左衛門【しばたごろうざえもん(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

下里藤八郎【しもざととうはちろう(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

白井作右衛門【しろいさくえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で陣場奉行職を務めた。

白井吉太夫【しらいきちだいふ(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「岩田村の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。「天王寺、岡山の戦い」でも、頸級を上げる挙げた。

杉浦四郎左衛門【すぎうらしろうざえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

鈴木藤九郎【すずきとうころう(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で榊原康政の母衣衆を務めた。

鈴木忠左衛門【すずきちゅうざえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で榊原康政の母衣衆を務めた。

鈴木権右衛門【(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

鈴木長左衛門【すずきちょうざえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。 
 
鈴木監物【すずきけんもつ(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「天王寺の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

----------------------------

【た】

多門重信【たもんしげのぶ(15??~1573)】

額田郡大平西城主。官途は越中守。通称伝十郎。本多忠勝の寄騎衆を務めた。1573年、「三方ヶ原の戦い」で討死した。

多門重正【たもんしげまさ(15??~16??)】

多門重信の男。通称平七郎。1615年、「大坂夏の陣」後、400石を領した。

多田信利【たもんのぶとし(15??~16??)】

多門重正の男。

都築秀綱【つくしひでつな(1533~1600)】

本多忠勝家臣。遠江国引佐郡都築城主。都築秀景の男。通称惣左衛門。1560年、「桶狭間の戦い」で今川義元が討死すると、今川領内が動揺しても変わらずに仕えていた。1566年、今川氏真から所領安堵の判物を拝領した。1568年、松平元康が遠江国に侵攻すると、本多忠勝、戸田忠次らに降伏した。500貫の所領は、改めて安堵された。松平元康の直属軍強化のために新設した馬廻衆先手役の一員に加えられ寄騎衆として本多忠勝に属した。本多忠勝が大喜多城に転封されると、附家老として配された。3,500石に寄子給2,500石を合わせた6,000石を領した。

都築為政【つくしためまさ(1555~1623)】

都築秀綱の男。通称弥左衛門。1589年、「小田原の役」では、北条氏勝の叔父了達和尚を介して松下三郎左衛門とともに北条氏勝への開城勧告の使者を務めた。

土屋重俊【つちやしげとし(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称甚介。

戸田十蔵【とだじゅうぞう(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で榊原康政の母衣衆を務めた。

冨塚久右衛門【とみづかじゅうえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で榊原康政の母衣衆を務めた。

伴三左衛門【ともさんざぶろう(15??~15??)】

石川数正家臣。1585年、石川数正が松平元康から羽柴秀吉のもと落延びる際、中島作左衛門、荒川惣右衛門らとともに石川数正勢の先導役を務めた。参考文献:『諜将石川数正』by南原幹雄。

豊田左馬助【とよたうまのすけ(15??~15??)】

石川数正家臣。参考文献:『諜将石川数正』by南原幹雄。

----------------------------

【な】

内藤平十郎【ないといへいじゅうろう(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

内藤源太左衛門【ないとうげんたざえもん(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

永坂勝重【ながさかかつしげ(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称甚平。

長坂重信【ながさかしげのぶ(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称太郎左衛門。

長坂信宅【ながさかのぶたく(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称彦五郎。別名「血鎗九郎」。松平清康の頃から仕え、頸級93を挙げた。本多忠勝は、本多忠真から武士道の教育を受け、長坂信宅から武道の教育を受けた。1590年、松平元康が関東に移封すると、本多忠勝が大多喜城を拝領すると、中根信元とともに本多忠勝の家老職を務めた。

長坂忠尚【ながさかただなお(15??~15??)】

長坂信宅の次男。通称源吉郎。父長坂信宅の後を継ぎ本多忠勝に仕えた。

長沢五郎兵衛【んがさわごろうべい(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「岩田村の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

中島作左衛門【なかしまさくざえもん(15??~15??)】

石川数正家臣。1585年、石川数正が松平元康から羽柴秀吉のもと落延びる際、伴三右衛門、荒川惣右衛門らとともに石川数正勢の先導役を務めた。

永田覚右衛門【ながたえいざえもん(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

中根正照【なかねまさてる(15??~1573)】

本多忠勝家臣。中根正昭の男。松平信康の附家老を努めた。1568年、松平元康が遠江国に侵攻して二俣城を奪い、中根正照に、青木貞治、松平康安らを寄騎衆として入城させた。1572年、武田晴信勢の攻撃を受け降伏開城した。二俣城には武田勢の芦田信守、芦田信蕃父子が入城した。中根正照は開城後浜松城に帰城した。松平元康は、開城を知らず二俣城に向かい武田晴信勢と激突し惨敗して浜松城に敗走した。1573年、「三方ヶ原の戦い」で討死した。
 
中根忠実【なかねただざね(15??~1610)】

織田信秀の九男(中根忠貞の養子)。官途は越中守。通称平右衛門。別名織田信照。1582年、「本能寺の変」後は織田信雄に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」にも参戦したが、羽柴秀吉勢の攻勢に敗れて捕縛された。本多忠勝に仕え家老職を務めた。1573年、「三方ヶ原の戦い」で養父中根忠貞の弟中根正照が討死したため、中根家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の戦い」では、大多喜城の留守居役を継嗣の中根忠晴とともに務めた。伊勢国桑名城への転封後は、城下の再整備に活躍した。1610年、本多忠勝に殉じて自刃した。

中根忠晴【なかねただはる(15??~15??)】 

中根忠実の男。通称源次郎。

中根重定【なかねしげさだ(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称五助。1566年、本多忠勝に仕えた。

中根長重【なかねながしげ(1549~1635)】

榊原康政家臣。通称善右衛門。1563年、榊原康政に仕えた。1578年、「田中城の戦い」で戦功を挙げた。1590年、榊原康政が上野国館林城に転封すると1,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、榊原康政を指揮した。1615年、「岩田村の戦い」で戦功を挙げた。1619年、榊原三家老(中根長重、村上勝重、原田種政)は松平秀忠から新田郡内で1,000石を加増された。

中野直村【なかのなおむら(15??~15??)】

井伊直盛の男。中野直房の男。
 
中野直由【なかのなおよし(15??~1564)】

中野直村の男。官途は越後守。1560年、井伊直盛の遺言によって井伊保を預かった。1564年、今川氏真の意向により井伊直政の義父新野親矩とともに引馬城を攻撃した。新野親矩とともに天間橋で討死した。

中野直之【なかのなおよし(15??~15??)】

中野直由の男。
 
中野三孝【なかのさんこう(15??~15??)】

中野直之の男。家老職を務め1,500石を領した。
 
中野三宜【なかのさんぜん(15??~15??)】

中野三孝の男。

中野清三【なかのきよぞう(15??~15??)】

中野三宜の男。

中村富重【なかむらとみしげ(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称与惣。

中山忠右衛門【なかやまちゅうえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

中山八左衛門【なかやまはちざえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

仁木半左衛門【にきはんざえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「天王寺の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。
 
二橋藤大夫【にはしとうだいふ(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

沼上八兵衛【ぬまがみやへい(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」では、母衣衆として参陣した。

----------------------------

【は】

長谷川内記【はせがわないき(15??~15??)】

榊原康政家臣。1575年、「長篠の戦い」で武田勝頼勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」では母衣衆を務めた。「岩田村の戦い」では、羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

長谷部作左衛門【はせべさくざえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

蜂須賀政刻【はちすかまさこく(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称彦助。

服部万右衛門【はっとりまんえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で先手旗奉行職を務めた。

羽太清蔵【はぶときよぞう(15??~15??)】

石川数正家臣。1572年、「三方ヶ原の戦い」に参陣した。

羽太将監【はぶしょうげん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で榊原康政の母衣衆を務めた。

原田種政【はらだたねまさ(1556~1628)】

榊原康政家臣。原田種高の三男。通称権左衛門。父原田種高の病没後、松平元康に仕えた。1589年、「小田原の役」で戦功を挙げた。1590年、榊原康政が館林城100,000石を領すると、家老職を務め1,300石を領した。1615年、「大坂夏の陣」では老齢ながら戦功を挙げ、松平秀忠から2,300石に加増された。
 
原田重治【はらだしげはる(1590~1634)】

原田種政の男。通称権左衛門。

原田種道【はらだたねみち(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称九郎兵衛。

日置正光【ひおきまさみつ(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称小左衛門。

久代内記【ひさよないき(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

土方角左衛門【ひじかたかくざえもん(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で榊原康政の母衣衆を務めた。

広瀬権兵衛【ひろせごんべい(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で榊原康政の母衣衆を務めた。

福尾淡路守【ふくおあわじのかみ(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

藤波喜太夫【ふじなみきちだいふ(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

本多助時【ほんだすけとき(15??~15??)】

松平長親家臣。額田郡蔵前城主。本多忠勝の曾祖父。

本多忠豊【ほんだただとよ(15??~1544)】

本多助時の男。1544年、織田信秀勢に占領された安祥城を奪還すべく、松平広忠勢を起した。1545年、「安祥城の戦い」で松平広忠を助けるため身代わりとなって敵陣へ突入した。仁王の如く奮戦するも、松平広忠の兜をかぶったまま針鼠のように無数の矢を身体に受けたまま絶命した。

本多忠高【ほんだただたか(1526~1549)】

本多忠豊の男。室は植村氏義の娘。1547年、松平信孝が謀反を起こすと、鎮圧のため出陣した。1548年、「第二次小豆坂の戦い」では、太原雪斎、松平広忠らとともに織田信秀勢と戦い、勝利を収めた。1549年、松平広忠が岡崎城内で岩松八弥に謀殺されると、今川義元は三河国人衆が織田信秀に寝返ることを恐れ、太原雪斎を送って織田信秀の三河国の拠点であった安祥城を攻撃した。守将織田信広は城をよく守ったため、大久保忠俊らとともに夜襲に赴き討死した。

本多忠真【ほんだただまさ(1530~1572)】

本多忠豊の次男。本多忠高の男。本多忠勝が四歳の時から、叔父本多忠真の許に預けられ、武士としての教育を受けた。本多忠真は、読み書きや武士としての作法、松平家臣としての心得等、本多宗家の後継ぎとして必要な知識を、討死した兄本多忠高に成り代わって本多忠勝に教育した。1560年、「桶狭間の戦い」後、松平元康の馬廻衆を務めた。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、甥の本多忠勝勢とともに敗走する松平元康税の殿を務め討死した。

本多忠勝【ほんだただかつ(1548~1610)】

本多忠高の男。官途は中務大輔。通称平八郎。室は阿知和玄鉄の娘(於久の方)。1549年、父本多忠高が討死したため、叔父本多忠真に養育された。1560年、「桶狭間の戦い」では、大高城に兵糧を運搬した。1563年、「三河国一向一揆」では、本多家枝連衆のほとんどが一向一揆勢に属したが、浄土宗に改宗して松平元康勢に属して戦功を挙げた。1566年、榊原康政や本多正重、都築秀綱らとともに馬廻衆を務め、寄騎衆50騎を率いた。1570年、「姉川の戦い」に参陣して朝倉義景勢と戦った。1572年、「一言坂の戦い」で殿を努め、馬場信春勢と戦い松平元康の撤退を援護した。1572年、「三方ヶ原の戦い」に参陣したが、叔父の本多忠真が討死した。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。1582年、「本能寺の変」では、松平元康ら少数の随行とともに上方から撤退した。1584年、「小牧、長久手の戦い」で戦功を挙げた。1590年、松平元康が関東に転封されると上総国夷隅郡大多喜城100,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康とともに、諸侯、諸将に書状を送り内応工作を行った。1601年、伊勢国桑名城100,000石に転封となり、旧領の大多喜城は50,000石に減封のうえ次男本多忠朝が領した。

本多忠政【ほんだただまさ(1575~15??)】

本多忠勝の男。室は松平信康の次女(熊姫)。1589年、「小田原の役」に参陣した。1600年、「第二次上田城の戦い」では、松平秀忠勢に属して真田昌幸勢と戦った。1609年、父本多忠勝が隠居したため、本多家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して戦功を挙げた。休戦和議締結で大坂城の堀を埋め立てた際、松平忠明達とともに作事奉行職を務めた。1617年、播磨国姫路城150,000石を領した。

本多忠朝【ほんだ ただとも(1582~1615)】

本多忠勝の次男。父本多忠勝に劣らぬ勇将。1600年、「関ヶ原の役」に父本多忠勝とともに参陣して戦功を挙げた。父本多忠勝が伊勢桑名藩に移封されると、旧領の上総大多喜50,000石を領した。1610年、父本多忠勝が亡くなると、遺領は兄本多忠政が領した。本多忠朝は異議を唱えることはなかった。1614年、「大坂冬の陣」でも活躍したが、酒を飲んでいたために不覚をとり、敵の猛攻に遭って敗退した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で先陣を務め、毛利勝永勢に突入し奮戦したが討死した。死の間際、「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と無念の言葉を残した。

本多忠刻【ほんだただこく(1596~1626)】

本多忠政の男。官途は中務大輔。通称平八郎。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。1616年、もと羽柴秀頼の内室千姫を娶った。1617年、播磨国内で150,000石を領した。1626年、本多忠刻が病没すると、50,000石は弟本多政朝が相続し、本多忠義が40,000石、小笠原長次が60,000石を領した。
 
本多政朝【ほんだまさより(1599~1638)】

本多忠政の次男。官途は甲斐守。通称鍋之助。1614年「大坂冬の陣」に参陣した。叔父の本多忠朝が討死すると、その娘を娶り遺領を相続した。上総国夷隅郡大多喜城50,000石。1617年、播磨国龍野城に転封された。1626年、兄本多忠刻が没すると遺領のうち50,000石を相続した。父本多忠政の姫路城150,000石に転封。旧領50,000石の内、弟本多忠義が10,000石、養子の本多政勝が40,000石を領した。
 
本多忠義【ほんだただよし(1602~1676)】

本多忠政の三男。1626年、兄本多忠刻の遺領のうち40,000石を相続した。1649年、20,000石を加増されて磐城国白河城主となった。
 
本多政勝【ほんだまさかつ(1614~1671)】

本多忠朝の次男(本多政朝の養子)。官途は内記。剛力のため鬼内記と称された。1615年、父本多忠朝は「大坂冬の陣」で討死したが、本多政勝は幼少のため家督を継ぐことが出来ず、本多政朝の養子となった。1631年、本多政朝から姫路城40,000石を与えられた。1639年、本多政朝が病没すると遺領を相続。大和国郡山城に転封された。

本多小松【ほんだこまつ(1573~1620)】

本多忠勝の娘(長女)。別名稲姫。松平元康の養女として真田信之に嫁いだ。

本田七兵衛【ほんだしちべい(15??~15??)】

石川数正家臣。1585年、石川数正が松平元康から羽柴秀吉のもと落延びる際、渡辺金内、佐野金右衛門、村越伝七らとともに石川数正勢の殿を務めた。参考文献:『諜将石川数正』by南原幹雄。

本多正重【ほんだまさしげ(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称三左衛門。

本多甚六【ほんだかんろく(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

本多平三郎【ほんだへいざぶろう(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

----------------------------

【ま】

前田助十郎【まえだすけじゅうろう(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で榊原康政の母衣衆を務めた。「天王寺、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級をを上げる戦功を挙げた。

松崎九左衛門【まつざきくさえもん(15??~15??)】

石川数正家臣。参考文献:『諜将石川数正』by南原幹雄。

松下乙女【まつしたおとめ(15??~15??)】

本多忠勝の側室。松下弥一の娘。室の阿知和於久より先に嫁いだ。幼くして父松下弥一を亡くし妙源寺に預けられた。1566年、本多忠勝が騎馬隊長として3,600石と岡崎城内に侍屋敷を拝領すると、母松下小夜と共に転入し、実質的な夫婦となった。本多忠勝との間には、真田真之の室となる小松の他に三人の娘をもうけた。

松下源五郎【まつしたげんごろう(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

松下景綱【まつしたかげつな(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称久左衛門。

松下元綱【まつしたもとつな(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称三十郎。

松下七兵衛【まつしたしちべい(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

松下一定【まつしたかずさだ(1574~1641)】

井伊直政家臣。中野直之の次男(松下清景の養子)。官途は志摩守。家老職を務めた。上野国井徳山龍潭寺の建立を許可した。井徳山龍潭寺は中野直由の内室が井伊直勝の菩提寺とするため、松下一定に創建を願い出た。1631年、龍潭寺に鐘楼を寄進した。
 
松下高冬【まつしたたかふゆ(15??~1640)】

松下一定の男。

松平花姫【まつだいらはなひめ(15??~1639)】

井伊直政の室。松平康親の娘。別名「唐梅院」。1582年、松平元康の養女となった。1584年、井伊直政に嫁ぎ、井伊直政との間に井伊直勝らをもうけた。1602年、井伊直政が病没すると出家した。出家後は、幼年の井伊直勝を支えた。

間宮三太夫【まみやさんだいふ(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「岩田村の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

三浦竹蔵【みうらたけぞう(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

水野弥三郎【みずのよさぶろう(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

椋原政直【むくはらまさなお(15??~15??)】

松平元康家臣。1582年、松平元康の意向により木俣守勝、西郷正友らとともに井伊直政の附家老職に任じられた。

村上久兵衛【むらかみきゅうべい(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

村上勝重【むらかみかつしげ(1538~1591)】

榊原康政家臣。村上義勝の男。通称弥右衛門。はじめ織田信長に仕えた。1573年、武田晴信に内通した川井小兵衛、加藤辰之助らを安松宗光が撃ち損じた際、村上勝重が討取る戦功を挙げた。1575年、「長篠の戦い」で戦功を挙げた。1585年、「第一次上田城の戦い」では、真田昌幸との和議の使者を務めた。中根長重、原田種政とともに榊原家三家老として榊原家領の内政にあった。

村上吉春【むらかみよしはる(15??~15??)】

村上勝重の男。通称弥右衛門。1584年、「小牧、長久手の役」では、父村上勝重とともに戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」では、原田種政とともに先陣を務め、戦功を挙げた。

村上弥次郎【むらかみよじろう(15??~15??)】

村上義勝次男。兄村上勝重とともに榊原康政に仕えた。
 
村上四郎兵衛【むらかみしろうびょうえい(15??~15??)】

村上勝重の次男。

村上吉勝【むらかみよしかつ(15??~15??)】

村上勝重の三男。大番頭を務めた。

村上弥治郎【むらかみよじろう(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「岩田村の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

村越伝七【むらこしでんしち(15??~15??)】

石川数正家臣。1585年、石川数正が松平元康から羽柴秀吉のもと落延びる際、渡辺金内、佐野金右衛門、本田七兵衛らとともに石川数正勢の殿を務めた。参考文献:『諜将石川数正』by南原幹雄。

毛利兵庫【もうりひょうご(15??~16??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」では、旗本旗奉行職を務めた。

----------------------------

【や】

八股甚左衛門【やつまたじんざえもん(15??~15??)】

松平元康家臣。1575年、松平元康の意向を受け井伊直政の寄騎衆を務めた。

山口嘉平治【やまぐちかへいじ(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

山崎勘兵衛【やまざきかんべい(15??~15??)】

榊原康政家臣。1615年、「大坂夏の陣」で甲奉行職を務めた。

山内藤七郎【やまのうちとうしちろう(15??~15??)】
 
榊原康政家臣。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

山本唯右衛門【やまもとゆいざえもん(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

渡辺真綱【わたなべさだつな(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称半兵衛。

渡部吉綱【わたべよしつな(15??~15??)】

本多忠勝家臣。通称墨右衛門。

渡辺金内【わたなべきんない(15??~15??)】

石川数正家臣。家老職を務めた。1572年、「三方ヶ原の戦い」に参陣した。1585年、石川数正が松平元康から羽柴秀吉のもと落延びる際、佐野金右衛門、本田七兵衛、村越伝七らとともに石川数正勢の殿を務めた。参考文献:『諜将石川数正』by南原幹雄。

阿知和於久【わちわおひさ(15??~15??)】

本多忠勝の室。阿知和右衛門玄銕の娘。別名「見星院」。1569年、松平元康の媒酌により婚姻した。本多忠政、忠朝の他に娘一人をもうけた。本多忠勝が大多喜城から桑名城に転封になったとき、大多喜城に留った。

依田内蔵介【よだくらのすけ(15??~15??)】

本多忠勝家臣。

----------------------------

【資料Ⅰ】

鹿角脇立兜【かづのわきだてかぶと】

本多忠勝愛用の兜。鉄黒漆塗十二間の筋鉢兜で、四段の錣は鉄板札黒塗皺韋包みの黒糸素懸威。木彫黒漆塗の獅噛前立。最大の特徴である鹿の角をあしらった脇立は、何枚もの和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固めたもの。

黒糸威胴丸具足【くろいとおどしどうまるぐそく】

本多忠勝愛用の具足。肩から袈裟懸けされた大数珠が特徴的で、これは木製金箔押しである。胴は鉄製黒漆塗の切板札黒糸素懸威。草摺は皮製黒漆塗の切付。板札は七間五段下がり。籠手等の金具部分は青漆。動き易さを重視して軽く造られている。

蜻蛉切【とんぼきり】

本多忠勝愛用の槍。柄の長さ一丈三尺(約390cm)、刃の長さ一尺四寸二分(約43cm)。全長4mを越す長槍で藤原正真の作と言われている。鋭い切れ味で止まったトンボが真っ二つに切れてしまった事からこの名前が付いた。

三国黒【みくにぐろ】

本多忠勝の愛馬。戦国時代の馬としては、前田慶次郎の「松風」と並んで有名。1600年、「関ヶ原の戦い」で石田三成勢の放った矢によって倒れた。

【井伊の赤備え】

武田晴信のもとで飯富虎昌、浅利信種、小幡信貞がそれぞれ赤備具足を装備していた。1582年、「武田家討伐」後、武田

えを部下に持った。徳川家は武田家の赤備えを吸収したが、甲冑を揃えるために時間がかかった。天正十二年、小牧長久手合戦で漸く赤備えの甲冑を用意出来たと云われる。後年、大坂夏の陣で家康は若い赤備えを見て落胆した。美しく飾った赤い甲冑など合戦では役に立たないと嘆いたのだ。若者の後ろに飾りの少ない十騎ほどの老武者がいることを見つけた家康は、彼等は物見を心得ていると喜んだ。さらに老武者は武田の遺臣だろうと予想すると、これが当たった。家康は武功の者の体は見て快い。若武者は何も知らないと述べた。
 
【孔雀尾具足陣羽織】

全周に孔雀の尾羽を縫いつけた陣羽織。1582年、「本能寺の変」後、松平元康は、井伊直政が伊賀越えの警護を務めた功に対して「孔雀尾具足陣羽織」を与えた。

----------------------------

【資料Ⅱ】

榊原康政三家老衆【さかきばらけさんころう】

中根長重、村上勝重、原田種政。

松平元康四家老衆【まつだいらもとやすよんかろう(15??~15??)】

酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政。

----------------------------

戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※武田信玄は武田晴信で、上杉謙信は長尾景虎、北条早雲は伊勢盛時、北条秀氏は、長尾三郎景虎で統一しています。

※参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』新人物往来社、『戦国房総人名事典』by崙書房出版、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『武田信玄、上杉謙信、北条氏康(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、『武田信玄(全4巻)』by(新田次郎)文春文庫、『武田勝頼(全3巻)』by(新田次郎)文春文庫、「武田信玄(全3巻)」by(津本陽)講談社、『甲州武田家臣団』by新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

---------------------------- 

0 件のコメント: