2022年4月10日日曜日

戦国若狭国人名辞典

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【あ】


青井将監【あおいしょうげん(15??~15??)】


足利義輝家臣。大飯郡青井館主。幕府奉公衆。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。


青井右京亮【あおいうきょうのすけ(15??~1560)】


武田元光家臣。大飯郡小村館主。室は寺井源左衛門。1538年、「佐柿国吉城の戦い」で粟屋元隆が武田信豊勢と戦い没落したため、小村館を領した。1560年、「小村館の戦い」で寺井源左衛門、松宮清長勢と戦い討死した。参考文献:「丹波霧の里」by多田繁次。


青左近将監【あおさこんのしょうげん(15??~15??)】


遠敷郡青館主。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


粟屋元隆【あわや もとたか(15??~1542)】


三方郡佐柿国吉城主。笑鴎軒悦岑の男。官途は大膳大夫。室は勧修寺尚顕の娘。小浜代官職を務めた。1538年、「粟屋元隆の乱」で武田信豊勢と戦い敗退した。1542年、「河内太平寺の戦い」で武田信豊に従い畠山稙長、木沢長政とともに細川晴元の家臣三好政長、三好長慶、遊佐長教勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。


粟屋勝久【あわやかつひさ(1523~1585)】

 

粟屋元隆の男。官途は越中守。室は丹羽長秀の娘。1542年、「河内太平寺の戦い」で粟屋元隆が細川晴元の家臣三好政長、三好長慶、遊佐長教勢と戦い討死したため、粟屋家の家督を相続した。1556年、「武田義統の乱」で武田義統に従い武田信豊勢と戦い戦功を挙げた。1561年、「第一次粟屋勝久、逸見昌経の乱」で逸見昌経とともに松永長頼の支援を受け武田義統勢と戦い敗退した。1568年、「後瀬山城の戦い」で武田元明に従い朝倉義景勢と戦い武田元明が捕縛され越前国一乗谷に幽閉された。1570年、「越前金ヶ崎の戦い」で織田信長に従い朝倉義景勢と戦い幽閉されていた武田元明を救出した。1575年、「第二次越前侵攻」で織田信長に従い越前一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。


粟屋勝家【あわやかついえ(15??~15??)】


粟屋勝久の男。通称五郎右衛門。1566年、「岩出山砦の戦い」で粟屋勝久に従い火矢を放って小屋を焼き払い朝倉義景勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。


粟屋勝長【あわやかつひさ(15??~16??)】


粟屋勝家の男。稲葉貞通に仕えた。家老職を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。


粟屋助太夫【あわやすけだゆう(15??~1635)】


粟屋勝家の男。羽柴秀頼に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」で羽柴秀頼に従い松平元康勢と戦い敗退したため、藤堂高虎に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


粟屋家長【あわやいえかつ(14??~1527)】


粟屋勝久家臣。遠敷郡山内館主。官途は周防守。1527年、「桂川の戦い」で細川高国に属した武田元光に従い畠山義堯、柳本賢治、三好元長、波多野元清勢と戦い討死した。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


粟屋光若【あわやみつわか(1516~1575)】


粟屋家長の男。官途は式部丞。奉行衆を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。


粟屋弥四郎【あわややしろう(15??~15??)】


粟屋勝久家臣。1575年、「第二次越前侵攻」で若狭海賊衆とともに織田信長に属した粟屋勝久に従い越前国沿岸の湊を襲撃した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が明智光秀勢と戦い討死したため、羽柴秀吉に仕えた。1592年、「文禄の役」で羽柴秀吉に従い肥前名護屋城三の丸の守備した。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


粟屋右衛門大夫【あわやうえもんだいふ(15??~15??)】


粟屋勝久家臣。大飯郡白石山館主。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


粟屋小次郎【あわやこじろう(15??~15??)】


粟屋右衛門大夫の男。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


粟屋右馬允【あわやうまのじょう(15??~15??)】


武田信孝家臣。1552年、「武田信孝の乱」で武田信孝、熊谷勝直とともに武田信方勢と戦い撃退された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


粟屋親栄【あわやちかえい(14??~15??)】


粟屋賢家の三男。官途は左衛門尉。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


粟屋勝春【あわやかつはる(15??~1535】


粟屋親栄の男。武田元光の後見役を務めた。三条西実隆から『源氏物語』の講義を受けた。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


粟屋元勝【あわやもとかつ(14??~15??)】


足利義晴家臣。粟屋賢之の男。官途は左京亮。遠敷郡幕府御領所の代官職を務めた。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


粟屋元行【あわやもとゆき(15??~15??)】


粟屋元勝の男。官途は左京亮。1536年、遠敷郡幕府御領所の代官職を務めた。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


粟屋長景【あわやながかげ(15??~15??)】


粟屋勝久家臣。官途は美作守。1577年、市村八郎右衛門尉とともに日向浦と早瀬浦の網場紛争についての裁決を奉書で伝えた。参考文献:「福井県史」by福井県。


池田弥三郎【いけだよさぶろう(15??~15??)】


遠敷郡宮川館主。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


池田越中守【いけだえっちゅうのかみ(15??~15??)】


池田弥三郎の男。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


池田弥五郎【いけだよごろう(15??~15??)】


武田元明家臣。1568年、「後瀬山城の戦い」で武田元明に従い朝倉義景勢と戦い敗退したため、丹羽長秀に仕えた。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


池田筑前守【いけだちくぜんのかみ(15??~15??)】


池田弥五郎の男。1568年、「後瀬山城の戦い」で父の池田弥五郎とともに武田元明に従い朝倉義景勢と戦い敗退したため、丹羽長秀に仕えた。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


伊崎為堯【いざきよりたか(15??~15??)】


大飯郡稲葉館主。1538年、「稲葉館の戦い」で武藤友賢勢と戦い敗退した。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


伊崎光義【いざきみつよし(15??~15??)】


伊崎為堯の男。1538年、「稲葉館の戦い」で父の伊崎為堯とともに武藤友賢勢と戦い武田信豊のもとに落延びた。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


伊崎義誠【いざきよしのぶ(15??~15??)】


伊崎光義の男。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


伊崎義康【いざきよしやす(15??~1580)】


伊崎義誠の男。1580年、「稲葉館の戦い」で本郷泰茂勢と戦い討死した。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


市川定照【いちかわさだてる(15??~15??)】


武田信豊家臣。三方郡能登野館主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


市川信定【いちかわのぶさだ(15??~16??)】


市川定照の男。官途は山城守。火矢の名手。山内一豊に仕えた。1589年、「小田原の役」で山内一豊に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。山内一豊に従い遠江掛川城に転封した。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢のもとから見性院(千代)を救うため、使者として派遣された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


一宮賢成【いちのみやかたなり(15??~15??)】


三方郡気山館主。官途は壱岐守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。


井上下総守【いのうえしもふさのかみ(15??~15??)】


遠敷郡湯岡館主。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


市村八郎右衛門尉【いちむらはちろううえもんのじょう(15??~15??)】


粟屋勝久家臣。1577年、粟屋長景とともに日向浦と早瀬浦の網場紛争についての裁決を奉書で伝えた。参考文献:「福井県史」by福井県。


上野信忠【うえののぶただ(15??~15??)】


武田義統家臣。官途は陸奥守。1571年、神宮寺領から成物を納められた。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


魚住市正【うおずみいちまさ(15??~15??)】


逸見昌経家臣。1576年、「小浜城の戦い」で逸見虎清に従い武田元明、武藤友益勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名越前朝倉氏」by福井商工会議所。


大草公広【おおくさきみひろ(15??~15??)】


足利義晴家臣。大飯郡難波江館主。官途は三河守。奉公衆。1532年、足利義晴に仕えた。1538年、武田元光は足利義晴から大草公広に所領を返却するよう命じられた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


大塩吉次【おおしよよしつぐ(14??~15??)】


山県秀政信家臣。遠敷郡田繩館主。大塩吉信の男。官途は長門守。1504年、大光寺を建立した。1561年、「粟屋勝久、逸見昌経の乱」で山県秀政に従い逸見昌経、粟屋勝久勢と戦い戦功を挙げた。1562年、「難波江館の戦い」で南部久方勢と戦い粟屋勝久のもとに落延びた。参考文献:「淡路守五郎の旅日記」by五郎。


大塩吉忠【おおしおよしただ(15??~15??)】


大塩吉次の男。官途は長門守。通称新左衛門尉。1562年、「難波江館の戦い」で父の大塩吉次が南部久方勢と戦い敗退した。大塩吉次とともに粟屋勝久のもに落延びた。参考文献:「淡路守五郎の旅日記」by五郎。


大塩助秀【おおしおすけひで(15??~15??)】


大塩吉忠の男。官途は長門守。通称八郎左衛門。参考文献:「淡路守五郎の旅日記」by五郎。


太田祐安【おおたすけやす(15??~15??)】


遠敷郡三重館主。参考文献:「戦国大名越前朝倉氏」by福井商工会議所。


大谷丹後守【おおたにたんごのかみ(15??~15??)】


武藤友益家臣。武藤家三家老衆。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


大野右京進【おおのさきょうのしん(15??~15??)】


武田義統家臣。大野党七人衆筆頭職を務めた。1563年、「国吉城の戦い」で粟屋勝久に従い朝倉義景勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名越前朝倉氏」by福井商工会議所。


小原帯刀【おばらたてわき(15??~15??)】


武田義統家臣。1568年、「後瀬山城の戦い」で野田甚太夫とともに武田元明に従い朝倉義景勢と戦い武田元明が捕縛され越前国一乗谷に幽閉された。参考文献:「戦国大名越前朝倉氏」by福井商工会議所。


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【か】


香川右衛門大夫【かがわうえもんのたいふ(15??~15??)】


武田義統家臣。遠敷郡麻生野館主。1570年、武田義統や国衆とともに織田信長に降伏した。1575年、「第二次越前侵攻」で織田信長に属した粟屋勝久に従い若狭海賊衆とともに越前国沿岸の湊を襲撃した。1582年、「本能寺の変」で明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い改易処分に処された。参考文献:「戦国武将列伝」by作者不明。


柿本五郎左衛門【かきもとごろうざえもん(15??~15??)】


武藤友益家臣。大飯郡久保館主。武藤家四天王。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


梶又左衛門【かじまたざえもん(15??~15??)】


武田義統家臣。若狭武田家三十六人衆。1569年、織田家四奉行衆(丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、中川重政)に所領安堵された。参考文献:「戦国武将列伝」by作者不明。


片山新次郎【かたやましんじろう(14??~15??)】


遠敷郡野木館主。1477年、幕府政所代蜷川親元を取次ぎに伊勢貞宗に進納(一貫)した。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


兼田帯刀【かねだたてわき(15??~15??)】


武田義統家臣。1561年、「第一次粟屋勝久、逸見昌経の乱」で武田義統に従い逸見河内守勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「福井県史」by福井県。


川上主水【かわかみもんど(15??~15??)】


武藤友益家臣。武藤家三家老衆。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


韓神庄司介【かんしんしょうじのすけ(15??~15??)】


武田義統家臣。遠敷郡青井館主。別名栖神庄司介。1561年、「粟屋勝久、逸見昌経の乱」で武田義統に従い逸見昌経勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


菊池治郎助【きくちじろうすけ(15??~15??)】


武田義統家臣。若狭武田家三十六人衆。1569年、織田家四奉行衆(丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、中川重政)に所領安堵された。参考文献:「戦国武将列伝」by作者不明。


熊谷勝直【くまがいかつなお(15??~1552)】

  

武田信豊家臣。官途は弾正大夫。幕府料所安賀荘の代官職を務めた。1552年、不義を働き武田信豊の意向を受け自刃した。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


熊谷直之【くまがいなおゆき(15??~1595)】


武田信豊家臣。三方郡大倉見館主。官途は大膳亮。通称伝左衛門。別名熊谷直澄。1568年、「後瀬山城の戦い」で武田元明に従い朝倉義景勢と戦い武田元明が捕縛され越前国一乗谷に幽閉された。1575年、「第二次越前侵攻」で若狭海賊衆とともに織田信長に属した粟屋勝久に従い越前国沿岸の湊を襲撃した。1582年、羽柴秀吉に仕え羽柴秀次の附家老職(950石)を務めた。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次に連座して京都嵯峨ニ尊院で自刃した。辞世の句は「あはれとも 問ふひとならでとふべきか 嵯峨野ふみわけておくの古寺」。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


熊谷統直【くまがいむねなお(15??~15??)】


武田義統家臣。1566年、謀反を起こしたが、武田義統と起請文を交わして和議を結んだ。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


熊谷直盛【くまがいなおもり(15??~1600)】


熊谷直之家臣。通称内蔵允。別名熊谷直陳。室は石田正継の娘。1594年、豊後国直入郡(32,989石)の代官職を務めた。1594年、豊後安岐城(15,000石)を領した。1597年、「第一次蔚山城の戦い」で加藤清正とともに李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1599年、太田一吉とともに改易処分に処された。1600年、「山城伏見城の戦い」で垣見一直、相良頼房、秋月種長、高橋元種、木村由信とともに石田三成に従い松平元康の家臣鳥居元忠、松平家忠、内藤家長勢と戦い戦功を挙げた。美濃大垣城で相良頼房、秋月種長、高橋元種に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


熊谷勝兵衛【くまがいしょうべい(15??~1600)】


熊谷直盛の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


桑原九郎左衛門尉【くわはらくろうざえもんのじょう(15??~15??)】


山県秀政家臣。遠敷郡桑原館主。1561年、「第一次粟屋勝久、逸見昌経の乱」で山県秀政に従い逸見昌経、粟屋勝久勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


小嶋方江【こじまかたえ(15??~15??)】


内藤勝高家臣。通称与吉。1571年、神宮寺領から成物を納められた。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。


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【さ】


沢村吉重【さわむらよししげ(1554~1650)】


逸見昌経家臣。官途は大学。通称才八。1576年、「小浜城の戦い」で逸見虎清に従い武田元明、武藤友益勢と戦い敗退した。1582年、逸見昌経が没落したため、細川藤孝に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で細川藤孝に従い松平元康勢と戦い戦功を挙げた。細川忠興に従い肥後熊本城に転封した。細川光尚の傅役を務めた。1637年、「島原の乱」で細川忠利に従い一揆衆と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。


山東民部丞【さんとうみんぶのじょう(15??~15??)】


武田義統家臣。1561年、武田義統から書状を受けた。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


山東中丞【さんとうちゅうじょう(15??~15??)】


山東民部丞の男。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


山東家忠【さんとういえただ(15??~15??)】


武田元信家臣。奉行衆を務めた。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


山東常安【さんとうつねやす(14??~15??)】


三方郡山東郷館主。通称十郎。代官職を抵当に大森吉久から借銭した。1563年、「国吉城の戦い」で田辺半大夫とともに粟屋勝久に従い朝倉義景勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


山東権助【さんとうごんすけ(15??~15??)】


山東常安の男。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


白井光胤【しらいみつたね(15??~15??)】


武田信方家臣。遠敷郡加茂館主。官途は石見守。別名白井清胤。1559年、「逸見昌経の乱」で武田信豊に従い逸見昌経勢と戦い戦功を挙げた。1567年、「武田信賢の乱」で粟屋勝久、内藤勝高、逸見昌経、松宮清長、熊谷直之、寺井源左衛門、白井勝胤、寺川左馬助、香川右衛門大夫とともに武田義統に従い武田信賢勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


白井勝胤【しらいかつたね(15??~15??)】


白井光胤の男。官途は民部丞。1567年、「武田信賢の乱」で父の白井光胤とともに武田義統に従い武田信賢勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


白井政胤【しらいまさたね(15??~15??)】


白井勝胤の男。官途は民部少輔。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死したため、丹羽長秀に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して改易処分に処され、失領した。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


白井長胤【しらいながたね(15??~1639)】


白井勝胤の次男。通称九兵衛。1587年、藤堂高虎に仕えた。1592年、「文禄の役」で藤堂高虎に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1614年、「大坂冬の陣」で藤堂高虎に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。


曾我元助【そがもとすけ(15??~15??)】


足利義晴家臣。遠敷郡三重館主。曾我教助の男。奉公衆。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


曾我乗助【そがのりすけ(15??~15??)】


曾我元助の男。官途は兵庫助。室は沼田常陸介の娘。1569年、「本圀寺の変」で足利義昭に従い三好三人衆(三好長逸、三好政勝、石成友通)と戦い戦功を挙げた。1573年、「山城槇島館の戦い」で足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退した。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


曾我尚助【そがなおすけ(1558~1662)】


曾我乗助の男。官途は兵庫助。通称又左衛門。別名曾我尚祐。室は滝川雄利の娘。1573年、「山城槇島館の戦い」で足利義昭が織田信長勢と戦い備後柄に落延びたため、織田信雄に仕えた。羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次に連座して近江土山に蟄居した。滝川雄利に仕え伊勢飯野郡内で400石を領した。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


曾我尚祐【そがなおすけ(15??~16??)】


曾我尚助の男。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い石田三成勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


曾我古祐【そがふるすけ(15??~16??)】


曾我尚祐の男。1615年、「大坂夏の陣」で松平秀忠に従い羽柴秀頼勢と戦い軍律違反を犯し閉門処分を受けた。使番や目付、長崎奉行職を務めた。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


曾我俊助【そがとしすけ(15??~16??)】


曾我尚祐の次男。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


曾我包助【そがのりすけ(15??~16??)】


曾我尚祐の三男。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


曾根又六郎【そねまたろくろう(15??~1537)】


土屋六郎左衛門家臣。1533年、「西谷館の戦い」で知見出雲守とともに土屋六郎左衛門勢と戦い敗退した。1537年、「西谷館の戦い」で知見出雲守とともに土屋六郎左衛門に従い寺井家忠勢と戦い討死した。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


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【た】


若狭武田信親【たけだのぶちか(1462~1490)】


足利義尚家臣。遠敷郡後瀬山城主。武田国信の男。官途は治部少輔。室町幕府若狭国守護職。通称彦太郎。1480年、足利義尚の御相伴衆を務めた。禅に帰依した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


若狭武田元信【たけだもとのぶ(14??~1521)】


武田国信の次男。官途は大膳大夫。通称彦次郎。別名「透関斎」。室は畠山義統の娘。1485年、兄の武田信親が病没したため、若狭武田家の家督を相続した。1491年、「六角高頼討伐」で足利義稙に従い六角高頼勢と戦い敗退した。1502年、「若狭土一揆」で段銭徴収に反対する土一揆衆と戦い弟の武田元度が討死した。1503年、土一揆衆の要求に屈し段銭を免除した。1505年、「丹後普甲山の戦い」で細川政元の支援を受け一色義有勢と戦い敗退した。1517年、「大飯和田の戦い」で一色九郎、延永春信勢と内応した家臣逸見河内守勢と戦い敗退した。「丹後倉橋館の戦い」で朝倉孝景の支援を受け一色九郎勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


若狭武田元光【たけだもとみつ(1494~1551)】


武田元信の次男。官途は大膳大夫。通称彦二郎。1521年、父の武田元信が病没したため、若狭武田家の家督を相続した。1517年、「安芸有田の戦い」で安芸武田元繁が毛利元就勢と戦い討死したため、安芸武田光和の後見役を務めた。1526年、細川高国の意向を受けて上洛した。1527年、「西七条桂川の戦い」で足利義晴に従い三好勝長、柳本賢治勢と戦い近江国に落延びた。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


若狭武田信豊【たけだのぶとよ(1514~15??)】


武田元光の男。官途は治部少輔。通称彦二郎。室は六角定頼の娘。1532年、父の武田元光が隠居したため、若狭武田家の家督を相続した。1538年、「谷田寺の戦い」で叔父の武田信孝と粟屋元隆勢と戦い戦功を挙げた。1542年、「河内太平寺の戦い」で細川晴元に従い三好長慶勢と戦い敗退した。1554年、「丹波八木城の戦い」で細川晴元の意向を受け逸見昌経とともに内藤長頼勢と戦い敗退した。1556年、「武田義統の乱」で継嗣の武田義統と若狭武田家の家督を争い近江国に落延びた。1561年、武田義統と和議を結び帰国した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


若狭武田義統【たけだよしむね(1526~1580)】


武田信豊の男。官途は大膳大夫。通称彦二郎。室は足利義晴の娘。1556年、「武田義統の乱」で父の武田信豊を隠居に追込み若狭武田家の家督を相続した。1561年、「第一次粟屋勝久、逸見昌経の乱」で朝倉義景の支援を受け粟屋勝久、逸見昌経勢と戦い戦功を挙げた。1566年、「第二次粟屋勝久、逸見昌経の乱」で朝倉義景の支援を受け粟屋勝久、逸見昌経勢と戦い戦功を挙げた。1568年、織田信長に従い所領を安堵された。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


若狭武田元明【たけだもとあき(1552~1582)】


武田義統の男。通称孫八郎。室は京極高吉の娘(於龍)。1567年、父の武田義統が病没したため、若狭武田家の家督を相続した。1568年、「後瀬山城の戦い」で朝倉義景勢と戦い捕縛され越前国一乗谷に幽閉された。1575年、旧領復帰を願い京都相国寺に織田信長を訪問した。1581年、逸見昌経が病没したため、その遺領(3,000石)を領した。神宮寺桜本坊に蟄居させられた。1582年、「山城山崎の戦い」で明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い敗退した。近江国海津で丹羽長秀の謀殺された。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


若狭武田信孝【たけだのぶたか(14??~15??)】


武田元信の三男。官途は中務少輔。1538年、「谷田寺の戦い」で粟屋元隆の擁立され、兄の武田元光と若狭武田家の家督を争い朝倉孝景のもとに落延びた。1552年、粟屋右馬允とともに若狭国の復帰を画策したが朝倉義景の支援を受けられず失敗に終わった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


若狭武田元度【たけだもとつど(14??~1502)】


武田元信の四男。遠敷郡新保山館主。官途は中務少輔。1502年、「若狭土一揆」で段銭徴収に反対する土一揆衆と戦い討死した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


若狭武田元実【たけだもとざね(14??~1502)】


武田元度の男。通称五郎。1502年、「若狭土一揆」で父の武田元度とともに土一揆衆と戦い討死した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


若狭武田輝信【たけだてるのぶ(14??~1565)】


武田元信の五男。官途は左兵衛佐。相伴衆。足利義輝から偏諱を受けた。1565年、「山城本国寺の戦い」で足利義輝に従い三好三人衆、松永久秀勢と戦い討死した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


若狭武田信高【たけだのぶたか(15??~1556)】


武田元光の五男。官途は宮内少輔。通称彦五郎。別名宮川信重。室は三淵晴員の娘(宮川尼)。1538年、「粟屋元隆の乱」で武田信豊に従い粟屋元隆勢と戦い戦功を挙げた。新保山城(宮川保、松永保)を領した。1556年、「武田義統の乱」で武田信豊に従い武田義統勢と戦い敗退した。まもなく病没した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


若狭武田元慶【たけだもとよし(15??~15??)】


武田元光の四男。通称中務。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


若狭武田信由【たけだのぶよし(15??~15??)】


武田信豊の次男。官途は上総介。通称三郎。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


若狭武田信景【たけだのぶかげ(15??~1586)】


武田信豊の三男。三方郡鈴ヶ岳館主。官途は右衛門佐。通称五郎。別名武田元実。1566年、兄の武田義統の意向を受け足利義昭に仕えた。1576年、「槙島城の戦い」で足利義昭が織田信長勢と戦い備後鞆に落延びたため、備後鞆に転封した。1586年、「肥後高森城の戦い」で羽柴秀吉に従い島津義久勢と戦い高森惟直とともに討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 


若狭武田信方【たけだのぶかた(15??~1582)】


武田信豊の四男(武田信高の養子)。別名宮川信方。1552年、「武田信孝の乱」で武田信豊に従い粟屋右馬允勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1556年、「武田義統の乱」で兄の武田義統に従い父の武田信豊勢と戦い戦功を挙げた。叔父の武田信高が病没したため、武田信高家の家督を相続した。1567年、「武田信方の乱」で武田義統勢と戦い敗退した。1570年、「第一次越前討伐」で武田元明の意向を受け織田信長勢と戦い敗退した。1582年、丹羽長秀に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


若狭武田義勝【たけだよしかつ(15??~16??)】


武田元明の男。別名津川義勝。1582年、父の武田元明が丹羽長秀の謀殺されため、京極高次に仕えた。1600年、京極高次に従い若狭国に転封して大飯郡高浜城(5,000石)を領した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


竹原源八兵衛【たけはらげんはちべい(15??~15??)】


山県秀政家臣。遠敷郡竹長館主。1561年、「粟屋勝久、逸見昌経の乱」で山県秀政に従い逸見昌経、粟屋勝久勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


多田宗源【ただそうげん(15??~15??)】


山県秀政家臣。遠敷郡多田館主。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


田辺半太夫【たなべはんだいふ(15??~15??)】


粟屋勝久家臣。通称玄蕃。1563年、「国吉城の戦い」で粟屋勝久に従い朝倉義景勢と戦い戦功を挙げた。「関峠の戦い」で山本豊後守とともに粟屋勝久に従い朝倉義景の家臣半田又八勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名越前朝倉氏」by福井商工会議所。


田辺又四郎【たなべまたしろう(15??~15??)】


熊谷直理家臣。三方郡東郷館主。1541年、武田信豊から買地安堵状を受けた。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


田辺安次【たなべやすつぐ(15??~15??)】


粟屋勝長家臣。三方郡佐田館主。通称半太夫。別名「宗徳」。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。


団又兵衛【だんまたべい(15??~15??)】


武藤友益家臣。大飯郡石山館主。武藤家四天王。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


団又左衛門【だんまたざえもん(15??~15??)】


武藤友益家臣。大飯郡薗部館主。武藤家四天王。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


土御門有春【つちみかどありはる(1501~1569)】


大飯郡名田館主。土御門有季の次男(土御門有宣の養子)。官途は治部卿。公卿衆。陰陽師。1543年、治部卿を務めた。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


土御門有脩【つちみかどありなが(1527~1577)】


土御門有春の男。官途は刑部卿。1542年、陰陽頭を辞任して名田庄館に落延びた。勘解由小路在富が陰陽頭の職務を代行するため、北条氏綱のもとから帰郷した。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


土御門久脩【つちみかどひさなが(1560~1625)】


土御門有脩の男。官途は左衛門佐。別名勘解由小路在綱。室は三淵晴員の娘。陰陽頭を務めた。織田信長、羽柴秀吉に仕えた。1595年、羽柴秀吉の怒りを買い京都を追放された。1600年、松平元康から陰陽道宗家と認められた。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


土屋六郎左衛門【つちやろくろうざえもん(15??~15??)】


遠敷郡西谷館主。1537年、「西谷館の戦い」で曾根又六郎、知見出雲守勢と戦い戦功を挙げた。1537年、「西谷館の戦い」で青井右京亮、松宮清長、知見出雲守勢と戦い敗退した。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


包枝備後守【つつみえだびんごのかみ(14??~15??)】


武田元信家臣。遠敷郡兼田館主。1517年、太良荘山王宮に兵糧を寄進した。参考文献:「福井県史」by福井県。


寺井賢仲【てらいかたなか(14??~1516)】


武田信賢家臣。大飯郡谷小屋館主。通称四郎兵衛。谷小屋館(五十谷、窪谷、桂木、飛川、飯盛、藤井、前川)を領した。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


寺井家忠【てらいいえただ(15??~15??)】


寺井賢仲の男。官途は兵部少輔。通称左兵衛尉。1537年、「西谷館の戦い」で青井右京亮、松宮清長とともに知見、曾我を支援して土屋六郎左衛門勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


寺井源左衛門【てらいげんざえもん(15??~15??)】


寺井家忠の男。1570年、織田信長に降伏した。1575年、「第二次越前侵攻」で若狭海賊衆とともに織田信長に属した粟屋勝久に従い越前国沿岸の湊を襲撃した。1582年、「本能寺の変」で明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い改易処分に処された。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


寺川左馬助【てらかわさまのすけ(15??~15??)】


武田義統家臣。1567年、武田信賢との対立した宿老衆(粟屋勝久、内藤勝高、逸見宗全、松宮清長、熊谷直之、寺井源左衛門、白井勝胤、香川右衛門大夫)とともに武田義統のもとを離れ、織田信長に仕えた。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


津川義勝【つがわよしかつ(15??~15??)】


武田元明の男。別名武田義勝。1582年、「近江佐和山城の戦い」で父の武田元明が明智光秀に内応して丹羽長秀勢と戦い戦功を挙げた。武田元明が自刃したため、若狭武田家の家督を相続した。1602年、京極高次に仕え高浜城代職(5,000石)を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


鳥羽右兵衛尉【とばうへいのじょう(15??~15??)】


三方郡鳥羽館主。七ヵ村(鳥羽、黒田、三田、小原、山内、長江、持田)を領した。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


鳥羽賢冬【とばけんと(15??~15??)】


三方郡霧ヶ嶺館主。官途は左衛門尉。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


鳥羽兵衛孫【とばへいご(15??~15??)】


内藤国高家臣。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


知見出雲守【ともみいうものかみ(15??~15??)】


土屋六郎左衛門家臣。遠敷郡小倉館主。1533年、「西谷館の戦い」で曾根又六郎とともに土屋六郎左衛門勢と戦い敗退した。1537年、「西谷館の戦い」で曾根又六郎とともに土屋六郎左衛門に従い寺井家忠勢と戦い敗退した。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


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【な】


内藤元兼【ないとうもとかね(15??~15??)】


武田元光家臣。遠敷郡西津天ヶ館主。官途は筑前守。若狭国守護代職を務め、西津天ヶ館(西津荘、甲崎、阿納尻、羽賀、奈胡、熊野、次吉)を領した。1538年、若狭彦神社の作事奉行職を務めた。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


内藤勝高【ないとうかつたか(15??~15??)】


武田元光の男(内藤元兼の養子)。官途は内蔵助。別名内藤政信。家老職を務めた。和歌を好みて宗祇を師とした。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


内藤勝行【ないとうかつゆき(15??~15??)】


内藤勝高の男。官途は筑前守。別名内藤重政。1570年、織田信長に降伏した。丹羽長秀の寄騎衆を務めた。1575年、「第二次越前侵攻」で若狭海賊衆とともに織田信長に属した粟屋勝久に従い越前国沿岸の湊を襲撃した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


内藤政高【ないとうまさたか(15??~15??)】


内藤勝行の男。官途は筑前守。羽柴秀吉が若狭国を領したため、失領した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


内藤長縄【ないとうながつな(1552~1596)】


内藤政高の次男。通称大蔵。別名梶理兵衛。丹羽長秀に仕えた。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


内藤長教【ないとうながつな(1589~1659)】


内藤長縄の男。通称伝左衛門。1614年、「大坂冬の陣」で松平元康に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。上総国武射郡内で800石を領した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


内藤元是【ないとうもとこれ(15??~15??)】


武田元信の五男。官途は伊豆守。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


内藤重純【ないとうしげずみ(15??~15??)】


内藤元是の男。官途は石見守。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


内藤国高【ないとうくにたか(1455~1527)】


武田元光家臣。遠敷郡箱ヶ岳館主。官途は佐渡守。通称五郎左衛門。箱ヶ岳館(阿賀里、提、杉山、加福禄、玉木、日向、丹生、竹波の八ヶ村)を領した。1527年、「桂川の戦い」で細川高国に属した武田元光に従い波多野元清、柳本賢治勢と戦い討死した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


内藤直兼【ないとうなおかね(15??~15??)】


内藤元兼家臣。官途は兵庫。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


内藤下総守【ないとうしもうさのかみ(15??~1571)】


武田元光家臣。遠敷郡湯谷山館主。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


内藤政信【ないとうまさのぶ(15??~15??)】


武田元光の三男。別名武田信政。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


永井伊賀守【ながいいがのかみ(15??~15??)】


武田義統家臣。1571年、神宮寺領から成物を納められた。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


中津海次兵衛【なかつみじへいじ(15??~15??)】


逸見昌経家臣。大飯郡中津海館主。1561年、「第一次粟屋勝久、逸見昌経の乱」で逸見河内守に従い武田義統勢と戦い敗退した。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。


中津海左京【なかつうみさきょう(15??~15??)】


中津海次兵衛の男。1576年、「小浜城の戦い」で逸見虎清に従い武田元明、武藤友益勢と戦い戦功を挙げた。1583年、細川藤孝に仕えた。参考文献:「戦国大名越前朝倉氏」by福井商工会議所。


仲平太夫【なかへいだいふ(15??~15??)】


武藤友益家臣。大飯郡安川館主。武藤家四天王。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


南部久方【なんぶひさかた(15??~15??)】


武田信豊家臣。遠敷郡湯岡館主。官途は石見守。別名「宮斎」。1562年、「湯岡館の戦い」で大塩吉次勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「丹波霧の里」by多田繁次。


南部孫三郎【なんぶまごさぶろう(15??~15??)】


熊谷直之家臣。遠敷郡西郷館主。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


新田式部守【にったしきぶのかみ(15??~15??)】


内藤国高家臣。三方郡持田館主。内藤家三家老衆。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


温科弥五郎【ぬくしなよごろう(15??~15??)】


内藤勝高家臣。三方郡岩屋館主。別名久村弥五郎。1571年、神宮寺領から成物を納められた。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


沼田光兼【ぬまたみつかね(1496~1560)】


三方郡熊川館主。沼田光延の男。官途は上野介。通称新左衛門。別名沼田統兼。娘(麝香姫)は細川藤孝に嫁ぎ細川忠興をもうけた。1569年、「熊川館の戦い」で松宮清長允勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


沼田光長【ぬまたみつなが(15??~1565)】


沼田光兼の男。官途は上野介。通称三郎左衛門。足利義晴に仕えた。1569年、「本圀寺の変」で足利義輝に従い三好家三人衆と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


沼田清延【ぬまたきよのぶ(15??~1593)】


沼田光兼の四男。通称勘解由左衛門。別名沼田元清。足利義昭に仕えた。1573年、「山城槇島館の戦い」で足利義昭が追放処分に処せられたため、細川藤孝に仕えた。丹後中山館を領した。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


沼田延元【ぬまたのぶもと(15??~15??)】


沼田清延の男。官途は勘解由。通称小兵衛。細川忠興に仕えた。1600年、「美濃岐阜城の戦い」で細川忠興に従い石田三成勢と戦い戦功を挙げた。豊前門司城代職(5,000石)を務めた。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


野瀬日向守【のせひゅうがのかみ(15??~15??)】


武田元明家臣。遠敷郡野木館主。参考文献:「福井県史」by福井県。


野田甚太夫【のだじんだいふ(15??~15??)】


武田義統家臣。1567年、「誓願寺の戦い」で小原帯刀とともに武田元明に従い朝倉義景勢と戦い敗退した。武田元明が捕縛され越前国に幽閉された。参考文献:「丹波霧の里」by多田繁次。


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【は】


畑田加賀守【はただかがのかみ(15??~15??)】


武田義統家臣。三方郡野登野館主。若狭海賊衆。1573年、若狭衆とともに武田元明に従い織田信長に降伏した。1575年、「第二次越前侵攻」で若狭海賊衆とともに織田信長に属した粟屋勝久に従い越前国沿岸の湊を襲撃した。参考文献:「丹波霧の里」by多田繁次。


畑田修理亮【はただしゅりのすけ(15??~15??)】


畑田加賀守の男。参考文献:「丹波霧の里」by多田繁次。


畑田泰清【はただやすきよ(15??~15??)】


内藤元兼家臣。参考文献:「丹波霧の里」by多田繁次。


久村信濃守【ひさむらしなののかみ(14??~15??)】


武田元信家臣。1511年、三条西実に進物(鮭、鱈、山葵)を贈った。参考文献:「福井県文書館」by福井県。


広野孫三郎【ひろのまごさぶろう(15??~15??)】


武田義統家臣。若狭武田家三十六人衆の筆頭職を務めた。1569年、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、中川重政の四奉行に所領安堵された。参考文献:「丹波霧の里」by多田繁次。


藤山右兵衛尉【ふじやまうへいのじょう(14??~15??)】


武田元信家臣。1513年、皇室領遠敷郡上吉田の代官職を務めた。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


逸見国清【へんみくにきよ(14??~15??)】 


武田信賢家臣。大飯郡砕導山城主。1517年、「大飯郡和田の戦い」で延永春信とともに朝倉孝景の支援を受けた武田元信勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


逸見昌経【へんみまさつね(1522~1581)】


逸見国清の男。官途は駿河守。1556年、「武田義統の乱」で武田信豊に従い武田義統勢と戦い敗退した。1561年、「第一次粟屋勝久、逸見昌経の乱」で朝倉義景の支援を受けた武田義統勢と戦い敗退した。1565年、「砕導山城の戦い」で武田義統勢と戦い戦功を挙げた。1566年、「久手崎沖の戦い」で海賊衆を率い武田義統の家臣山県秀政勢と戦い敗退した。1567年、武田義統が病没したため、武田元明が朝倉義景に幽閉された。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長に従い朝倉義景、浅井長政勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


逸見虎清【へんみとらきよ(15??~1576)】


逸見昌経の男。官途は信濃守。通称源太。1576年、「小浜城の戦い」で父の逸見昌経の陣代を務め、武田元明、武藤友益勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名越前朝倉氏」by福井商工会議所。


逸見河内守【へんみかわちのかみ(15??~1566)】


逸見昌経家臣。大飯郡丸山館主。1566年、「久手崎沖の戦い」で逸見昌経に従い武田義統の家臣山県秀政勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


逸見信尹【へんみのぶただ(15??~15??)】


逸見昌経家臣。官途は右馬助。1561年、「第一次粟屋勝久、逸見昌経の乱」で逸見昌経に従い朝倉義景の支援を受けた武田義統勢と戦い敗退した。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


逸見筑後守【へんみちくごのかみ(15??~15??)】


逸見信尹の男。1561年、「第一次粟屋勝久、逸見昌経の乱」で父の逸見信尹とともに逸見昌経に従い武田義統勢と戦い敗退した。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


逸見河内守【へんみかわちのかみ(15??~15??)】


逸見昌経家臣。1561年、「第一次粟屋勝久、逸見昌経の乱」で逸見昌経に従い朝倉義景の支援を受けた武田義統勢と戦い敗退した。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


逸見経貴【へんみつねたか(15??~15??)】


逸見河内守の男。1561年、「第一次粟屋勝久、逸見昌経の乱」で父の逸見河内守とともに逸見昌経に従い武田義統勢と戦い敗退した。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


本郷政泰【ほんごうまさやす(14??~15??)】


大飯郡本郷館主。本郷朝泰の男。官途は美作守。奉公衆。1524年、「本郷館の戦い」で武藤友益勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


本郷泰茂【ほんごうやすしげ(15??~15??)】


本郷政泰の男。官途は治部少輔。1570年、矢部家定の取次ぎで織田信長に仕えた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が明智光秀勢と戦い討死したため、次男の矢部定政とともに羽柴秀吉に仕えた。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


本郷信富【ほんごうのぶとみ(1531~1605)】


本郷泰茂の男。官途は治部少輔。通称左衛門尉。別名本郷泰富。1602年、松平元康に仕えた。山城国綴喜郡内で500石を領した。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


本郷頼泰【ほんごうよりやす(15??~1599)】


本郷信富の男。通称勝三郎。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


本郷勝吉【ほんごうかつよし(15??~16??)】


本郷頼泰の男。1605年、祖父の本郷信富が病没したため、本郷家の家督を相続した。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


本郷国忠【ほんごうくにただ(15??~15??)】


本郷泰茂の三男。官途は主膳正。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


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【ま】


松尾豊後守【まつおぶんごのかみ(15??~15??)】


内藤国高家臣。三方郡松尾館主。内藤家三家老衆。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


松宮清長【まつみやげんばのじょう(15??~15??)】


武田信豊家臣。遠敷郡膳部山館主。官途は玄蕃允。膳部山館(爪生、井ノ口、天徳寺)を領した。1570年、「越前金ヶ崎の戦い」で織田信長に従い朝倉義景勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


松宮左馬亮【まつみやさまのじょう(15??~15??)】


松宮清長の男。1570年、「越前金ヶ崎の戦い」で父の松宮清長とともに織田信長に従い朝倉義景勢と戦い敗退した。1575年、「第二次越前侵攻」で若狭海賊衆とともに織田信長に属した粟屋勝久に従い越前国沿岸の湊を襲撃した。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


松宮右近【まつみやうこん(15??~15??)】


松宮清長の弟。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


松宮宗永【まつみやむねなが(15??~15??)】


武田元信家臣。1524年、武田元光の意向を受け大飯郡本郷の違乱を収束させた。1540年、指嶋の鰒網場を遠敷郡の多烏浦刀祢三郎五郎に売却した。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


松宮新三郎【まつみやしんざぶろう(15??~15??)】


内藤勝高家臣。1571年、神宮寺領から成物を納められた。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


宮川新左衛門【みやかわしんざえもん(15??~15??)】


内藤国高家臣。三方郡宮川館主。内藤家三家老衆。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


武藤友益【むとうともます(15??~15??)】


武田信豊家臣。大飯郡石山館主。官途は上野介。別名武藤景久。武田家四家老衆。佐分利郷17ヶ村(3,000石)を領した。1538年、「稲葉館の戦い」で伊崎為堯勢と戦い伊崎為堯を討取る戦功を挙げた。1570年、「越前金ヶ崎の戦い」で武田元明の意向を受け織田信長の家臣丹羽長秀勢と戦い戦功を挙げた。織田信長から追放処分に処された。1582年、「本能寺の変」で武田元明とともに明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い戦功を挙げた。丹羽長秀に仕えた。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


武藤友賢【むとうともかた(15??~15??)】


武藤友益家臣。大飯郡加斗館主。通称彦左衛門。加斗館(2,000石)。1538年、「稲葉館の戦い」で武藤友益に従い伊崎為堯勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


武藤友慶【むとうよもあつ(15??~15??)】


武藤友賢の男。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。


武藤金吾【みとうきんご(15??~15??)】


武藤友益家臣。武藤家三家老衆。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


村松主水【むらまつもんど(15??~15??)】


武藤友益家臣。1570年、「越前金ヶ崎の戦い」で武藤友益に従い織田信長の家臣丹羽長秀勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


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【や】


安田貞能【やすださだよし(15??~15??)】


武田信豊家臣。官途は大膳。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


矢部定政【やべさだまさ(15??~16??)】


本郷泰茂の次男(矢部家定の養子)。官途は豊後守。実父の矢部家定は、織田家奉行五人衆(矢部家定、菅屋長頼、長谷川秀一、福富秀勝、堀秀政)を務めた。1582年、「本能寺の変」で羽柴秀吉に従い明智光秀勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」で羽柴秀吉に従い肥前名護屋城を守備した。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成に従い松平元康勢と戦い改易処分に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


山県頼冬【やまがたよりふゆ(15??~15??)】


三方郡賀羅岳館主。官途は石見守。室は佐々木高成の娘。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


山県政秀【やまがたまさひで(15??~15??)】


武田元信の四男(山県頼冬の養子)。官途は下野守。通称源孫三郎。別名山県盛信。1556年、「武田義統の乱」で武田義統に従い武田信豊勢と戦い戦功を挙げた。1561年、「第一次粟屋勝久、逸見昌経の乱」で若狭海賊衆とともに武田義統に従い逸見昌経勢と戦い戦功を挙げた。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長勢と戦い敗退した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


山県元盛【やまがたもともり(1533~15??)】


山県政秀の男。官途は式部大夫。室は沼田清延の娘。細川藤孝に仕えた。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


山県元之【やまがたもとゆき(15??~15??)】


山県政秀の次男。通称源七郎。別名山県政信。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


山県政親【やまがたまさちか(1555~15??)】


山県元盛の男。通称源三郎。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。


山県盛信【やまがたもりのぶ(15??~1569)】


武田元光の四男。官途は下野守。通称源内。別名武田盛信。1569年、「本圀寺の変」で三好三人衆の家臣薬師寺九郎左衛門勢と戦い討死した。参考文献:『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版。


山本豊後守【やまもとぶぜんのかみ(15??~15??)】


粟屋勝久家臣。1563年、「国吉城の戦い」で粟屋勝久に従い朝倉義景勢と戦い敗退した。「関峠の戦い」で田辺半太夫とともに粟屋勝久に半田又八勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名越前朝倉氏」by福井商工会議所。


山本重忠【やまもとしげただ(15??~15??)】


武田義統家臣。官途は中務少輔。1573年、「越前一乗谷の戦い」で朝倉義景が織田信長勢と戦い滅亡したため、若狭衆(逸見昌経、内藤越前守、香川右衛門大夫、熊谷直澄、山県下野守、白井光胤、粟屋勝久、松宮玄蕃、寺井源左衛門、武藤景久)とともに丹羽長秀に仕えた。1583年、細川藤孝に仕えた。参考文献:「戦国大名越前朝倉氏」by福井商工会議所。


吉田藤三郎【よしだとうざぶろう(14??~15??)】


武田元信家臣。参考文献:「丹後の地名」byKiichi Saito。 


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【資料Ⅰ】


若狭国(3郡/86,000石)


三方郡(24,000石):国吉城(16,000石)、前河館(4,000石)、西郷館(4,000石)。

遠敷郡(42,000石):後瀬山城(20,000石)、小浜城(10,000石)、高浜城(10,000石)、青井館(2,000石)。

大飯郡(20,000石):高浜城(10,000石)、石山館(6,000石)、本郷館(2,000石)、立石館(2,000石)。


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【資料Ⅱ】


内藤家三家老衆【ないとうけさんかろうしゅう】


新田式部守、松尾豊後守、宮川新左衛門。


武藤家三家老衆【むとうけさんかろうしゅう】


大谷丹後守、川上主水、武藤金吾。


武藤家四天王【むとうけしてんのう】


柿本五郎左衛門、団又兵衛、団又左衛門、仲平太夫。 


若狭武田家四家老衆【たけだけよんかろうしゅう】


武藤友益、粟屋勝久、逸見昌経、内藤勝行。


若狭武田家三十六人衆【たけだけさんじゅうろくんしゅう】


広野孫三郎、梶又左衛門、菊池治郎助他。


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【資料Ⅲ】


若狭国【わかさのくに】


若狭湾に面した北陸道の国。東は野坂山地から立石岬に至る越前国に接し、西は青葉山を中心とした山系を境界に丹後国と接している。南は丹波国、近江国と中国山地に連なる高原性の丹波高地で国境を分け、北は複雑に入り組んだ海岸線で弓なりに若狭湾に臨む。遠敷郡、三方郡、大飯郡からなる小国で、大きな河川や平野に乏しい。農業生産は振るわないが、東西に細長く伸びた海岸線には、小浜湾などに良湊を多く、海産物に恵まれ、製塩業も盛んに行われた。三方を山に囲まれているが高い山はなく交通は容易。


若狭街道【わかさかいどう】


若狭街道は海を持たない京都の人々が鮮魚を得るために不可欠な道であった。若狭から運ばれた物資の中で特に鯖が有名。小浜から京都まで約1日で到着できるため、軍事、物流の中心として整備された。


小浜湊【おばままみなと】


若狭湾の中央に位置する小浜湾に臨み、日本海沿岸地域と畿内市場との結節点、及び京都北側の交易湊として大いに栄えた湊街。日本海に向いた京都の北の外湊の機能を持っていたため、北は蝦夷地、西は九州、対馬、あるいは朝鮮と日本海沿岸全域から来航する船が発着したが、さらに遠く、明や東南アジアとの交易にも利用された。


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戦国人名辞典は、1467年、「応仁の乱」から1637年、「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。


印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。


あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。


名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。


武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、徳川家康は松平元康、木下藤吉郎は羽柴秀吉、豊臣秀頼は羽柴秀頼に名前を統一しました。


城と館の違いは、城は10,000石以上の領主の居城。館、砦は9,999石以下の領主の居城としました。館と砦の違いは平地にある場合は館、山岳地帯、諸島にある場合は砦としてました。


参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家辞典』by森岡浩、『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『若狭武田氏と家臣団』by戒光祥出版、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼、「丹波霧の里」by多田繁次、「戦国大名越前朝倉氏」by福井商工会議所、「丹後の地名」byKiichi Saito、「元くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)、「城郭放浪記」byPEI.、「福井県史」by福井県、「淡路守五郎の旅日記」by五郎、「戦国武将列伝」by作者不明、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。


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